固形の論理

丘浅次郎





 我らは先年ベルグソン(Henri Bergson)の「創造的進化」(L'※(アキュートアクセント付きE小文字)volution cr※(アキュートアクセント付きE小文字)atrice)と云ふ書物を読んだ時に一つ気に入つた言葉を見付けた。それは序文の第一頁にある「固形の論理」(la logique des solides)と云ふ言葉である。ベルグソンは之に就いて次の如くに云うて居る。我等人間の論理は固形を基とした論理である故、幾何学に於ては成功するが、生物界に持つて行くと忽ち差支へる。幾何学では、論理を唯一の道具として考へれば、何所までも間違ひでなく、之を応用した器械は必ず理論の通りに動くが、絶えず進化し変じつゝある生物の方に当て嵌めやうとすると直に頓挫する。一とか多とか、原因、結果とか云ふ如き、総べての考への源となるべきことさへ、中々、生物には、うまく適せぬ。即ち生物には個体の境が判然せず、一疋とも数疋とも断言し難いものが幾らも有る。また、生物の身体が多くの細胞から成り立つて居ることは目の前に見えて居ても、細胞が集まつて身体を成したのやら、身体が分れて細胞と成つたのやら、何れが何れか明言は出来ぬ。以上はベルグソンの書いた文句を忠実に翻訳した訳ではないが、大体の意味は先づ斯くの如くである。
 凡そ書物を読んで愉快を感じるのは色々の場合があるが、自分が漠然と脳中に考へながら未だ明な文句に形造らずに居たことが、巧な言葉で面白く云ひ現はされて居るのを読んだときは特に愉快である。書物を読んで楽しむと云ふ中には、書物を通じて自分の考へを楽しむ場合が誰にも多からうと推察する。我らが「固形の論理」と云ふ言葉を見て頗る気に入つたのは、此の種類の愉快を感じたからであつた。流石は常に短かくて適切な言葉を案出するフランス人だけあつて、実に気の利いた名称を考へ当てたものであると感服した。それ故今、進化論より見たる人類の論理の批判を述べるに当つて、此の言葉を借りて題目としたが、借りて来たのは単に題目だけであつて、内容は悉く我ら一人の考へであることは勿論である。


 比較解剖学、比較発生学、動物化石学、動物分布学等の事実に基づいて考へれば、人類は決して初めより今日の通りの人類として、存在して居た訳ではなく、或る時代まで溯れば、猿類と共同の先祖に達することは、最早疑ふことの出来ぬ確な事実である。而して、其の先祖は、又それよりも更に下等な動物より進化し来つたものと考へねばならぬ。斯くの如く人間は下等な動物から次第々々に進化して、終に今日の有様までに達したものとすれば、今日の人間の有する性質や能力は、身体に関するものでも、精神に関するものでも、悉く長い間の発達の歴史を有することは明である。此の方面から考へて見ると、今日の人間が理窟を考へるときに用ひる論理の如きも、脳髄の他の働きと同じく、初め簡単なものから、一定の径路を経て、一歩々々今日の程度までに進み来つたものと見做さねばならぬ。
 さて、広く動物界を見渡すに、如何なる器官を取つて見ても、絶対に完全と名づくべきものは決して無い。驚くべきほど巧妙に出来た器官でもよく調べて見ると何れも、生存競争の相手に負けぬと云ふ程度以上には進んで居ない。人間の眼の如きも、随分巧妙な器械ではあるが、精密に調査して見ると、不完全な点が幾らでも見出される。嘗てヘルムホルツが眼球の構造を研究して、「この眼の細工は甚だ拙し、宜しく之を製造者に返すべし」と云うたことは有名な話しであるが、光学の理論に照らせば、人間の眼球は欠点だらけである。併しながら日常の生活には、此の眼球で充分に間に合ひ、決して何の不自由をも感ぜぬ。鳩の翼でも、鹿の足でも、鷹の眼でも兎の耳でも、一つとして巧妙な構造を持たぬものは無いが、其の程度は、何時も、此所まで進めば、容易に敵に負ける虞はないと云ふ点に止まつて、決して、それ以上に出ない。されば、人間の脳髄の如きも、生存に必要な程度以上には余り進んで居ないものと見做すのが当然であらうが、脳髄が絶対に完全でないとすれば、其の働きの一部なる論理的思考力も無論絶対に完全なものではあり得ない理窟である。仮に人間よりも尚一層完全な脳を持つて居る者が、今日の人間の脳を精密に調査したならば、恐らくヘルムホルツが眼に対して云ふた如くに、「この脳の細工は甚だ拙し、宜しく製造者に返すべし」と云ふであらうと想像する。進化論の上に立つて、今日の人間の論理なるものを見れば、論理を絶対に信頼して、論理の法則に従うて、論を進めれば、何所まで行つても、其の結論は常に正しいと思ふのは、生物の進化と云ふことを忘れた人々の誤つた考へであると断言せざるを得ない。
 然らば人間の論理なるものは如何なる程度まで役に立つものかと云ふに、我らの考へによれば、日常の生活から余り遠く離れぬ所までならば、先づ充分に間に合ふが、其の先は何とも受け合はれぬ。何事でも人間の為すことは、先づ手近な所から始めて、各方面に遠心的に拡がつて行く。例へば、物の大きさにしても最初は肉眼で見える物だけであつたのが、顕微鏡や望遠鏡が出来てから、小さい方と、大きい方へ段々見える範囲が拡がつた。また数にしても、最初は両手の指で数へられる位の小さな整数だけを用ひて居たのが、後には無限大とか無限小とかまで考へ、割つたり、掛けたり、数をオモチヤにして、終には有り得べからざる理外の数に就いて論ずるに至つた。原因結果の関係の如きも、其の通りで、初めは単に日々の生活に直接に触れるものだけに就いて考へたのが、後には、次第に遠い所まで考へを進め、人間は何のために存在するか、宇宙には如何なる目的が有るかなどと、論ずる様になつた。斯くの如く何事も進歩するに随うて、手近な所から段々と遠ざかつて行くが、遠ざかるに随うて、人間の論理の効力は次第々々に怪しく成つて行く如くに思はれる。


 然るに人間の論理を何所まで進めても常に正しくて決して誤らぬ如くに感ぜられる方面が一つある。それは数学であるが、元来数学なるものは、土台から屋根まで全部悉く人間の論理で成り立つて居る。一言で云へば、数学は人間の論理が造つた純粋の産物である。夫故、其所へ人間の論理を持つて行けば、よく当て嵌まるのは素より当然のことであつて、何の不思議も無い。また物理学の如きは、殆ど全部数学の応用と見做すべきものであつて、実験によつて知り得たことを数学的に計算し、如何なる現象にも一々定まつた法則の有ることを見出して、今日の程度までに進み来つた。而して、器械を造るに当つて、此等の法則を当て嵌めれば、何時も必ず予期した通りの結果が現はれて、決して誤ることは無い。それ故、数学、物理学、乃至は器械製作の方面ばかりを見て居ると、人間の論理は不完全なものでは無からうかとの疑ひを起すべき機会に一度も出遇はず、随つて、斯かる疑ひを全く起さずに済む。今日多くの人々が、数学を以て総べての科学の基礎なりと考へ、一々の科学の価値は、其の数学を応用し得る程度によつて判定せらる可きものであるなどと唱へるほどの数学万能論者までが出来たのは恐らく其の為であらう。


 之に反して人間の論理なるものは、自然物の方に当て嵌めて見ると忽ち差支へが生ずる。何故かと云ふに、自然物は絶えず変化し続けて一刻も止まることがない。自然界に見えるのは総べて変化の連続であつて、固定とか静止とか云ふことは、何所を探しても決して見出されぬ。固定せる如く、静止せる如くに見えるのは、たゞ変化が稍遅いためであつて、恰も大きな円周の一部が直線に見えるのに均しい。然るに人間の論理は、物を暫時固定して居る如くに見做し、それを基礎として、其の上に築き上げたもの故、明らかに固形の性質を帯びて居る。我らが、ベルグソンの「固形の論理」と云ふ言葉を見て大に気に入つたのは、此の意味を最も短かく、而も最も適切に云ひ現はして居るからである。固定した尺度を以て、固定せぬものを測らうとすれば差支への起るべきは云ふまでもない。之に就いて我らが、実に不思議の感に堪へぬのは、日頃自然物を研究しながら、此事に心附かぬ学者の甚だ多いことである。昔から用ひ来つた具眼の士と云ふ言葉は、他の者を悉く眼の無い盲人に見立てた頗る痛快な言葉であるが、自然物を扱ひながら、此の極めて重要な点に気の附かぬ様な人は、果して眼を具へて居ると云へるであらうか。
 自然物は昔から今まで絶えず変化して来た。それ故、昔の物と今の物とは大に違ふが、而も其の途中に切れた所は無い。また自然物は同時に存在して居る同種の物でも一つ/\に変異が有つて、二つが絶対に相同じと云ふことは決してない。一つの自然物が分れて二つに成るときには、次第々々に分れる故、明らかに一つである時と明らかに二つである時との間に自然の移り行きが有る。海の底に住む或る種の動物には、実物を目の前に見ながら、それが一疋であるやら、十疋であるやら、何とも断定の出来ぬものが稀でない。一言で云へば自然界は縦に見渡しても、横に見渡しても、たゞ変化と連続とがあるだけ故、物に譬へれば、恰も無量の液体が流れて居る如くである。其所へ静止と云ふ考へと、境界と云ふ考へとを出発点とした人間の論理を持つて来て、之によつて、万物を律しやうとすれば、其の当て嵌まらぬのは素より当然と考へられる。我らは大正五年八月の「心理研究」に「境界なき差別」と題する文を掲げて「差別は有り境界は無し」と云ふのが宇宙の真相であらうとの考へを発表したが、斯く考へねばならぬ論拠として、差別あつて境界の無い物の例を各方面から幾つも掲げて置いた。それ故同じ様な例を繰り返すことは省いて、此所にはたゞ概括した所を述べるに止める。


 以上の如くに論ずると、人間の論理は自然物には徹頭徹尾当て嵌まらぬと云ふ説の如くに聞えるかも知れぬが、決して左様な訳ではない。此の文の初めに述べて置いた通り、人間の普通の生活に於ては、之を自然物に当てゝ用ひても充分に間に合ふ。人間が総べて、他の動物に打ち勝つたのも、文明人が野蛮人を征服したのも、畢竟は論理で勝ちを制したのである。されば、論理は人間に取つては実に他に換へ難い貴重な武器であるが、其の貴重なる所以は無論、之を自然界に当てゝ決して誤らぬ点にある。此の程度までならば、人間の論理は何の差支へも生ぜぬのみならず、之なしには一日も生存することが出来ぬ。我らが前に、自然物に当て嵌めると忽ち差支へると云うたのは、此の程度を超えて、それ以上の研究をする場合に限ることである。
 日常の生活に於て、人間の論理を自然物に当てゝ、よく当て嵌まるのは何故かと云ふに、之は人間が先づ頭の内で、自然物を論理の当て嵌まる様な形の模型に造り改め、然る後に、之に論理を当て嵌める故である。而も大概の人は此事を自身には少しも感ぜず、全く無意識に行うて居る。其の有様は恰も人が物を見るときに、其の物体の像が、我が眼の網膜に小さく倒に写つて居ることを知らずに居るのに異ならぬ。我らが斯く云ふのは、決して Ding an sich とか Phenomena に対する Noumena とか云ふ様な六かしいことではない。誰の目にも見えて居る明白な事実である。一例を挙げて見るに、果物屋の店で、一個七銭の林檎を五つ買うて、三十五銭払うて行く人は、既に林檎を模型化して居る。何故と云ふに、林檎の実物は、大さでも、色でも、成熟の程度でも腐敗の多少でも一個一個に幾分づゝか違うて、二個が全く相等しいと云ふことは決して無い。即ち実物は、たゞ相異なつた物が沢山に列んで居るだけで、標準となるべき一と云ふものも無ければ、一の五倍の五と云ふものも無い。一の五倍は五であると勘定して、代価を払うて居る人は、頭の中で林檎を皆絶対に相同じ模型に改造して、それに数学を当て嵌めて勘定して居るのである。而も成るべく大きなのをと、慾深く選り探して居る所を見ると、実物の差が全く見えぬ訳でも無い様であるが、勘定するときに自分の脳中で造つた模型が皆絶対に同じことゝ、今目前に見て居る実物が一つ/\相異なることゝの矛盾に就いては少しも気に止めずに居る。また果物屋の店には七銭六銭五銭と一々札を立てゝ林檎を組分けにして積んであるが、之は大概荷が着いたときには何の組分けも無かつたのを亭主が、色や大きさなどによつて、適宜に分類したものに過ぎぬ。それ故、七銭の方の一番小さなものと、六銭の方の一番大きなものとの間には、殆ど何の相違も無い。然るに七銭のを五つと六銭のを五つと買うた人が、六十五銭を払うて、何の不思議をも感ぜずに立ち去るのは何故かと云ふに、それは脳の中で七銭のものは互に皆同じく六銭のものも互に皆同じく、七銭のと、六銭のとの間には判然と一定量の差が有る如くに模型化して居るからである。此の場合には自然には境界の無い所に勝手に境界を定め、一の境界と、隣りの境界との間は絶対に同じであると見做して掛かるのである故、恰も斜面を階段に直しただけの細工を加へて居る。万事が此の通りである故、数学が自然物にも当て嵌まる如くに見えるのは、実は、自然物その物に当て嵌まる訳ではなく、たゞ脳中に造つた自然物の模型に当て嵌まると云ふに過ぎぬ。されば、数学が自然物に当て嵌まる程度は、自然物を模型化する細かさの程度に比例するもので、粗い模型では実物との差が甚だしい故少しく丁寧に吟味すると忽ち勘定が合はなく成るが、微細な所まで実物に似た模型ならば大概の所までは勘定に間違ひが出ない。例へば斜面を階段に直すにしても、階段を出来るだけ細かくすれば、それだけ実物と模型とが似て来る故、勘定の狂ひが、それだけ減ずる。人の造る器械は、初め模型を考へ、出来るだけ之に近く製作したもの故、数学的の計算がよく当て嵌まるのは当然である。斯く考へて見ると、数学なるものゝ存在する所は、たゞ人間及び人間と同じく物を数へ得る動物の脳の中だけであつて、それ以外の宇宙には影だにも無い。此の点に於ては、数学は夢と同じ仲間に属する。


 以上は主として固形論理の代表者なる数学に就いて論じたが、他の方面に於ても理窟は之と同じく、人間の論理なるものは、運用に当つて、先づ対象物を模型化して掛かる。而して、模型化すれば其物は已に模型であつて、実物自身ではない。哲学者などには、往々、人間の論理を信頼するの余り、宇宙を自分の論理に当て嵌まる様な形に模型化し、それが模型であることには心附かず、却つて、之を実相であると信じて、現に目の前に見えて居る実物の方を仮の姿である如くに考へる者もあるが、我らから見れば、之は全く物の本末を取り違へて居るのである。数学も論理も人生に欠くべからざるもので、今まで極めて有効であつた通り、今も尚極めて有効であることは云ふまでもないが、其の絶対に完全なものでないことに気が附いた以上は、之を用ひ誤らぬ様に注意せねばならぬ。前にも述べた如く、普通一般の日常の生活には別段その必要もないが、純理学や哲学などの如くに俗世界から稍々離れた方面に思考力を働かせる人等は、此の点に就いて、特に警誡を要する。而して論理が適当な範囲を超えて其の先まで出過ぎたときに、之を矯め直すものは、実物に触れて獲た経験より外には無い。
 小学校用の算術書には次の様な問題がよく出て居る。大工四人で三ヶ月掛かつて建てる家を、大工六人で建てたならば何ヶ月掛かるかと云ふ類であるが、計算の結果二ヶ月と云ふ答を得て誰も満足して居る。同じ論法で進めば、十二人でならば一ヶ月に、三百六十人でならば一日に、八千六百四十人でならば一時間に、三千百十万四千人でならば一秒に一軒の家が建つ勘定になる。論法に変りは無い故、初めの答が正しければ、終りの答も同じく正しい筈であるに、一秒で家が建つと云ふ計算は誰も笑うて、真面目に取り上げぬ。其の理由は、既往の経験に基づいて、斯かることは決して出来ぬと確信して居るからである。家を建てると云ふ様な、日常生活の範囲内の問題であると、間違ひが直に知れるが、経験で誤りを正す便宜の無い方面の問題であると、固形の論理に捕はれた学者等は、之と全く同様な誤りに陥りながら、少しも心附かず、論理の導く所には決して誤り無しと飽くまでも信じて、臆面なく誤つた学説を唱へる。数学の書物を開いて見ると、立体とは長さと幅と厚さとの有るもの、面とは長さと幅とが有るだけで、厚さの無いもの、線とは長さが有るだけで、幅も厚さも無いもの、点とは長さも幅も厚さも何も無いものと云ふ意味に書いてあるが、実物から獲た経験によると、立体の最も薄つぺらなのが面、面の最も幅の狭いのが線、線の最も短かいのが点である、即ち点を引き延ばせば線に成り、線を打ち広げれば面と成り、面を膨らせば立体となつて点から立体までの間に何処にも境界は無い。模型と実物との間には何時も斯様な相違が有る。
 前にも云うた通り、固形の論理は模型には当て嵌まるが、自然の実物には当て嵌まらぬ。普通の場合には模型に当て嵌まりさへすれば、それで充分に間に合うて行くが、先から先へと遠く考へを進める際には、一段毎に経験に照らし合せて検査せぬと頗る危い。今日遺伝を論ずる学者達が生物の身体を遺伝単位なるものの集合であると見做し、各遺伝単位は永久不変の物であると考へて居る如きは、我らから見ると、全く固形の論理に囚はれた誤りであつて、其の当て嵌まるのは、たゞ論者等の脳中に画いて居る模型だけである。脳の中で考へる論理と、実物に触れて獲た経験とが、互に釣り合ふ様にするのが、今日の所、最も安全な脳髄の使ひ方かと推察するが此の方面から見ると、自然物その物を研究の対象とする生物学などは、若しも此の点に心附いたならば固形論理の狂奔を止めるための手綱として最も適当なものでは無からうか。
(大正八年十一月)





底本:「近代日本思想大系 9 丘浅次郎集」筑摩書房
   1974(昭和49)年9月20日初版第1刷発行
初出:「教育学術界」
   1920(大正9)年
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:矢野重藤
校正:hitsuji
2021年4月27日作成
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