改善は頭から

丘浅次郎





 昨年は二十歳の娘で自殺をしたのが幾人もあった。その理由は、丙午ひのえうまの年であるために、縁が遠いのを苦にしてである。まだ年の行かぬ中はさほど気にも止めずにいたのが、そろそろ嫁入りをする年頃になって、こちらで良いと思う縁談を先方から素気なく断られてみると、これではとても善い所へは片付けぬと一途に思い込み、猫入らずを飲むに至ったのであろうが、世の中にこのくらい、不憫なことがまたとあろうか。
 丙午に生れようが、丁未ひのとひつじに生れようが、人間として、少しも変りのなかるべきことは、常識で考えて見てもすこぶる明瞭であるにかかわらず、丙午の女は男を喰うなどという根もない迷信に捕えられている愚人が世間に多いために、かように可愛そうなことが生じたのであるから、これは迷信者が直接に殺したも同様である。夏の日に重い車を挽かされ、牛や馬が苦しみあえぐのを見かねて、そのためにわざわざ所々に水飲み場を設けてやるほどの善人もある文明の時代に、かような惨酷な殺人罪を黙って見ているとは、なんという辻褄つじつまの合わぬことであろう。
 先達せんだっても、ある集会の席で人の談話を聞いていると、丙午の迷信を打玻せねばならぬということには、満場一致で賛成のようであったが、さて自分の息子に嫁を貰うときには如何と問われると、丙午はやはり避けたいという人がすこぶる多数であった。迷信をいつまでも跋扈ばっこさせて置くのはかような人たちである。迷信の害を充分に知りながら、しかも迷信から逃れ得ない人間が多数を占めていては、いつまでたっても迷信の絶える望みはない。丙午のごとき、人を殺すほどの迷信に対してさえ、かような優柔不断な態度を取る人々は、他のやや軽い迷信に対しては、もちろんすこぶる寛大で、人が気にするなら、せぬ方がよかろうとか、人が勧めるなら、やって見るもよかろうというて、許して置くゆえ、馬鹿げた迷信がいつまでも盛んに行なわれる。便所は鬼門きもんを避け、腹帯はいぬの日に結ぶというごときことは、これだけを考えれば、別に他人に迷惑をかけるわけでもないから、めいめいの勝手のようではあるがかようなことを是認すれば、やがて、丙午ひのえうまの娘を殺すという結果を生ずる。
 些細な迷信でも、一つを黙認すれば、他をも黙認せねばならず、次から次へと、負けて行けば、終には、いかなるはなはだしい迷信でも許さねばならぬことになる。されば、恐しいのは、迷信そのものよりも、むしろ迷信を許す頭である。


 今日のわが国の状態を見ると、衣食住にも、その他の風俗習慣にも、改めたらばよろしかろうと思われる点がいくらでもある。昔は他国との競争がなかったゆえ、どんな風俗でも随意であったが、現代のごとくに、交通が盛んになって世界中の国々が皆、密接に関係し、しかも、他国が速かに進歩する世の中にあっては、いかに先祖代々からの習慣であっても、馬鹿げたことや、不便なことはこれを廃して、合理的なものに改めねばならぬ。もしも、躊躇していつまでも改めずにいると、たちまち他の国々より文明が後れて、とうてい同列に加わることができなくなる。このことはすでに大勢の人が心付き、生活の改善ということが盛んに唱えられ、そのための会まで設けられた。今日流行のいわゆる文化生活も、日常の生活を改善しようとする努力から生じたものである。
 まず衣服から考えてみても、長い袖をぶら下げていては、仕事の邪魔であり、幅の広い帯を結んでいては、どんなに窮屈か知れぬ。脱げやすい下駄をはいては、電車の乗り降りに不便であり、縮緬の羽織は雨に遇うと、一度で汚点だらけになる。また、畳の上に座っていては、立つのが面倒になって仕事ができず、火鉢にかじりついていては、なおさら能率が上らぬ。紙で張った障子は何度張り換えても子供に破られ、縁側と雨戸とは拭き掃除と開閉とに大いに手数がかかる。その他、三度の食事や衣服の世話に追われて、主婦の頭は死ぬまで進歩せず、生活を簡単にしたいという考えさえ容易に起らぬ。人の家を訪ねるには、かならず菓子を持って行き、先方から来るときには、ちょうどそれと同じ値段の菓子を持って来て返す。有名な人の旅行には、送迎の人たちで停車場がいっぱいになり、真に用事のある急ぎの客は、出ることも入ることもできぬ。宿屋へ泊ればいくら茶代をやってよいやら分らず、ぐずぐず考えているととんでもない冷遇を受ける。息子が兵隊に行くと、何本も旗を立ててお祭り式に送られるから、止むを得ず、その人々に酒を飲まして思わぬ借金が殖える。まだ、数えたら幾つあるか知れぬが、これらは誰も、皆、気の付くことで、およそ、生活改善が唱えられる場合には、これらの箇条を掲げぬことはない。しかるに、方々で何回も唱えられたにかかわらず、今日もなお依然として風俗が少しも改まらぬのは何故であろう。
 私の考えによると、これはまったく頭が変らぬからである。頭が変らぬ以上は、いかに声を大きくして生活改善を叫んでみたところで、けっして生活改善の実はあがらぬ。改善とは文字のとおり、改めて善くすることであるから、馬鹿げ切った迷信さえも思い切って排斥し得ないような頭では、何の改善もできるはずがない。生活改善に先だつものは、まず頭の改善でなければならぬ。


 頭の改善というと、誰も第一に教育のことを考えるであろうが、明治、大正を通じて五十何年間の教育は、頭の改善に一体どれだけの役に立ったか。「いろは」をも読めぬ人間は確かに減ったであろう、学校の出席率はだんだん殖えたであろう、大学も高等学校も次第に数が多くなった。昇格した学校も少なくない。学士も博士も有り余って困っている。しかし、頭の改善という点からみると、今日の教育は、私などが小学校にいた明治初年の教育に比べて、なんら優ったところがあるとは思えぬ。明治八、九年の頃には、学校でも家庭でも、私は今日盛んに行なわれているような迷信を、話に聞いたことさえもなかった。たまたま、六白ろっぱくだとか九紫きゅうしだとかいい出す老人があると、旧弊人として若い者から大いに笑われた。迷信を思う存分に排斥することのできたその頃の教育は、今日から見ると頭の改善にははるかに有効であったように思われる。しかし、その後に至って、頭があまり改善せられては困るような事情でも生じたものとみえて、明治二十二、三年の頃からは、迷信の攻撃に大いに手加減をするようになり、理科の教授には、迷信の打破ということが唱えつづけられているにかかわらず、迷信は次第に跋扈して、終に今日のごとくに、どの新聞紙にもその日の運勢が掲げられるにいたった。明治八、九年の頃に死んだ人は、大学生が何百人も揃うて、八幡様に総長の病気全快を祈ったり、市の助役が、雨乞いのために水天宮に日参したりするような世の中が半世紀の後に来ようとは夢にも思わなかったであろう。


 私の考えを率直にいえば、生活の改善にはまず頭から改めてかからねばならぬ。文化生活などというても頭が改まらなければ、単に猿の人真似であって、しばらくすれば、また旧のとおりになる。しかして頭を改めるには、まず、思い切って、馬鹿げた迷信を捨ててみせることが必要である。十人十色といろというて、いつの世にも、一人一人で考えが違い、早く開ける人もあり、おそくまで開けぬ人もあるから、他人の思惑を気遣うていては、いつまで待っても、改善の時期は来ない。多少機嫌を損ずる人があっても、それに構わずに断行するので、初めて、改善もできるのである。明治の初年にチョン髷を切り落したときにも、反対した人はあったろう。帯刀を廃したときにも憤慨した人はあったろう。初めて役所で椅子テーブルを用いたときにも、腰が冷えるとか何とか不平をいうた者があったに違いない。かような連中を眼中に置かずに思い切って断行したので、文明を進めることができたのである。馬鹿げた迷信さえも、排斥することを遠慮するような姑息な態度では、およそ「改める」という字の付くことは、何もできないにきまっている。
 そこで私は、生活改善を目的とする会の人々に次のことを勧める。まず、事業を第一期と第二期とに分け、第一期には頭の改善を、第二期には生活の改善をはかることとする。しかして第一期には、頭の改善を行なうための手段として、まず迷信の打破を実行する。およそ物の曲ったのを直すには、反対の側へ曲げる位にせねば効がない。それゆえ、迷信を打破するためには、わざわざ迷信の反対のことをして見せる位の覚悟を要する。生活改善を唱える人々は、もし家を造るならば、はなはだしい差支えのないかぎり、便所を鬼門に造れ。息子の嫁を探すなら、まず丙午の娘を第一の候補者に選べ。棟上げは二、三日延ばしても仏滅の日にせよ。葬式はなるべくは友引きの日に出せ。この位な覚悟で着手しなければ、頭の改善はできず、頭の改善ができねば、いくら生活改善、生活改善と騒いでも、碌な生活改善はできぬ。その代り、もし第一期の事業に成功すれば、第二期の事業は実に容易であって、ほとんど捨て置いても独りでにでき上る。
 以上ははなはだ簡単ながら、私の生活改善案の骨子である。それゆえ、私から見ると、今日、生活改善を唱えて居られる多数の識者の実行方法は、あたかもコンクリートの家を建てるにあたって、一階の方を後に廻し、まず二階から着手しようとしておられるごとくに感ずる。もし私の考えが間違うていれば仕合せである。
(大正十四年十一月)





底本:「現代日本思想大系 26 科学の思想※(ローマ数字2、1-13-22)」筑摩書房
   1964(昭和39)年4月15日発行
初出:「活人」
   1926(大正15)年
入力:川山隆
校正:雪森
2015年9月1日作成
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