人類の誇大狂

丘浅次郎




 精神病患者の中には一種自分が非常に有力な神聖なものである如くに思ひ込んで、万事その積りで行ふ者がある。例へば自分が実際人力車夫であるにも拘らず、総理大臣に成つた積りで、伊藤を外務大臣にしやうか、井上を内務大臣にしやうかなどと、其様なことばかりを考へ、医者が来れば之を秘書官の如くに取扱ひ、時々筆を取つて、某を何県知事に任ずるとか、某を従何位に叙するとかいふ辞令書を書いて居る患者がある。また自分が実際、天秤棒を担ぐ八百屋であるにも拘らず、神か仏に成つた積りで、総べて極めて尊大に構へる病人がある。斯様な病症を医者の方では誇大狂と名づける。
 扨この誇大狂と云ふ病気は瘋癲病院に入つて居る金箔附の狂気に限ることであらうか。自分は健全な積りで病院などには入らずに居る我々は、決して此病に罹つては居らぬか。我々は自分が実際あるよりは、遙に高尚な神聖な有力なものである如くに思ひ込んで居る様なことは決して無いであらうか。此等の問題に答へるには、先づ我々の今日有する実験上の知識を基として虚心平気に宇宙に於ける人類の位置を考へ、其の結果に照らして判断しなければならぬが、斯くして見ると、我々普通一般の人間も多少この病気に罹つて居らぬ者は無い様である。
 抑々そもそも宇宙とはどの位の広さの有るものかと考へるに、晴天の夜に当つて天を仰げば、一面に星が見えるが、我が太陽系に属する若干の遊星を除けば、他は総べて太陽と同じ様な恒星で、肉眼で見えるものだけを算へても四五千はある。天文学者は地球に達する光の強弱に依つて星を数等に分けるが、肉眼で見えるのは、其の中の一等星から六等星位までに過ぎぬ故、極めて小部分のみである。今日の望遠鏡を用ひて見れば十九等星、二十等星などと称する微な星までも見える故、その数を総計すると、少なく見積つても二千万以上は有らう。然して此等の星は地球からどの位の距離にあるかと云ふに、其の最も近いものでも、地球まで光線が達するには殆ど四年位を要する。其の次に最も近いものからは凡そ六年半を要する。遠いものに至つては、光線が地球まで達するには数千年も掛かる程である。光線は一秒間に七万五千里も走る極めて速力の速いもので、三千七百万里も距つてある太陽から僅に八分余で地球に達することが出来るが、此の非常な速力を以て数千年も掛からねば届かぬと云ふ様な距離は到底我々には明に想像することも出来ぬ。
 仮に或る人が地球から最も近いアルファ、ケンタウリと云ふ恒星まで移住して、其所から太陽系の方を眺めたならば如何に見えるであらうかと云ふに、たゞ太陽だけが一点の輝く星と見えるのみで、其の周囲を廻転する水星、金星、地球、火星等の如きものは素より少しも見えぬに違ひない。宇宙の広さに比べては、我が太陽系の如きは殆ど何の大さもない一の点に過ぎぬ。宇宙には望遠鏡で見えるだけでも、我が太陽系と同等なものが二千万以上もあること故、この地球の如きは、宇宙を公平に見渡す際には到底勘定に入る程のものではない。然るに我々は此の微細な地球の表面に住んで居ながら、天地人を三才などと名づけて、天も人も同じ等級のものの如くに信じて居たのである。
 次に此の宇宙の歴史はどの位の長さの有るものかと考へるに、之には殆ど手掛かりも無い故、計算の仕様もないが、我が地球のみに就て論じても、到底百億年とか千億年とか云ふ様な短かいことではない。海の底へ泥が溜つて生じた所謂水成岩の厚さだけを測つても、日本の里数にして十里以上もあるが、年々少し宛溜つた泥が厚さ十里以上もある堅牢な岩石になる迄には、凡そどの位の年数を要するものであるか、我々には到底想像も出来ぬ。然して水成岩の出来ぬ前の地球の歴史がどの位あつたか知れず、また地球の出来ぬ前の宇宙の歴史がどの位あつたか知れぬ。されば我我から見れば宇宙は其の広さに於て際限が無い如くに、其の古さに於ても際限の無いものと見做さねばならぬ。地質学者は水成岩の出来た時期を原始代、太古代、中古代、近古代等に分ち、更に之を多くの期に分けるが、人骨や石器などが出て、慥に人類が生存して居たと思はれるのは其の中の最後の一期だけで、其の間に出来た地層の厚さは全水成岩の厚さに比べると僅に数百分の一よりない故、極めて短かいものである。宇宙の歴史に対しては一個人の命の長さなどが勘定に入らぬは勿論、人類なるものの歴史も殆ど何の長さもない一点の如くである。然して口碑や文字で今日まで伝はつてある歴史は、又この短い人類の歴史の中の最後の一小部分に過ぎぬが、我々は之に「宇宙の歴史」(Universal History)などと云ふ大層な名前を附けて居たのである。
 地球の表面には人間の外に尚数十万種の生物が住んで居るが、此等と人間との関係は如何と云ふに、之は進化論の書物を読めば直に解かることである。即ち人間も他の動物と共同な先祖から分れ降つたもので、犬でも猫でも、豚でも人間でも、遠く溯れば先祖は同一である、特に猿類とは比較的近い頃までは全く区別は無かつた。今日の動物分類学に依れば、人類は動物中の脊椎動物門の哺乳類の中なる猿類の中の狭鼻類と称する一亜目に属するもので、猩々、狒々等と同じ亜目の中に編入せられてあるが、之は以上の関係を現はしたものである。この進化論なるものは今日の所では、学問上已に確定した事実で、最早彼此その当否を議論すべき性質のものではない、現今なほ之を疑ふ人のあるのは唯生物学上の知識の不足に基くことである。人間も他の獣類と共同な先祖から分れ降つたことは最早疑ふべからざる事実で、其の所業に至つても、一は天真の儘に行ひ、一は表を飾り裏を隠して行ふと云ふ相違を除けば、両方ともに殆ど相同じく、孰れも食慾と色慾との為に働いて、知らず識らず自己の種属の維持に務めて居るに過ぎぬが、我我は今日まで親類縁者なる他の動物等を特に畜生と名づけ、自分だけは、万物の霊と称して、彼等とは全く相離れた一種の霊妙不可思議なものの如くに思ひ込んで居たのである。
 自分は人間を止めて、虚心平気で宇宙を横から眺めて居る心持に成つて見ると、宇宙に於ける人間の価値は略々ほぼ次の如くである。先づ際限も無い広い空間に幾千万かの大きな火の玉が転がつて、各々輝いて居る。其の中の一つに近づいて丁寧に調べて見ると、其時まで見えなかつた光を放たぬ小さな玉が幾つか其の周囲を廻転して居ることを発見する、此の小さな玉の中の一個が地球である。更に近よつて此の地球の表面を検査すると、象の身体に虱が附いたよりも遙に微細な生物が無数に住んで居ることを見出すが、其の若干を摘み取つて、之を廓大して見ると、其の中に人類と云ふ一種が混じて居るのである。次に稍々やや昔の頃から今日まで宇宙の変遷を見物して居た積りに成つて見ると、人類の過去は略々次の如くである。宇宙全体から見れば、殆ど勘定にも入らぬ此の地球の歴史の中の或る時期に至つて、地球の表面に無機物から漸々変化して極めて簡単な生物が生じ、之が先祖となつて、其の子孫が発達進化し、時と共に種類の数が増加して、終に今日見る如き数十万種の動植物が出来たが、人間はたゞ其の中の一種で、他の動物と全く同一の自然の法則に従ひ、全く同一の進化の原理に基いて発達し来つたもので、今日もなほ変遷の途中に居るのである。
 以上述べた所は決して勝手に想像したことではなく、単に星学上、地質学上、生物学上の研究によつて、已に確定した事実だけを列べたに過ぎぬ。星を覗き、地殻を調べ、生物を検査しさへすれば、誰でも自分の眼で見ることの出来る実際の事実ばかりを述べたのであるから、誰が何と議論しても上述の事項は決して動かすことの出来ぬ性質のものである。されば今日の所では之を以て真実と見做し、之と矛盾することを誤と見做すの外に致し方はない。して見ると、一刻でも以上説いた如き宇宙に於ける人類の価値を忘れて、実際あるよりは遙に高尚な有力な神聖なものである如くに思ひ込むことは、総べて誇大狂の範囲に属するものと見做すべきであらう。
 さて斯様に考へて、今日の哲学、倫理、教育、宗教などの書物を見ると、殆ど一冊として誇大狂の徴候を現はして居ぬものはない。特に哲学などと云ふものは、僅に三斤ばかりの、然も尚進化の途中にある所の自己の脳髄の働きのみに依つて宇宙万物を解釈し尽さうと務めるのであるから、誇大狂の中でも随分甚しい方である。先年或る少年が宇宙の解すべからざることを苦に病んで華厳の滝へ飛び込んだとて世間大評判であつたが、若しそれが真の原因であつたとしたならば、此等は誇大狂の極端に達したものであらう。其の当人及び親族等に対しては実に気の毒の情に堪えぬが、冷に其の所行を観察すれば、子守の脊に負はれて居る幼児が僅に一尺にも足らぬ短かい腕を延ばして十万里も先にある月を取らうとして、手が届かぬとて泣き出したのと理窟は少しも違はぬ。幼児は自分の腕が一尺にも足らぬことも、月が十万里距つてあることも考へず、たゞ腕さへ延ばせば手が届く筈であると思ひ込んで掛かる故、幾ら腕を延ばしても手が届かぬとて泣き出すのであるが、哲学者の方も之と同様で、宇宙の大なることも、自分の小なることも、また自分の脳髄が尚進歩の中段にあることも皆忘れて、たゞ考へさへすれば宇宙は解釈し尽せる筈であると思ひ込んで掛かる故、幾ら考へても解らぬとて苦に病むのである。今日の実験学上の知識を基として虚心平気に考へて見ると、脳髄なるものも、胃、腸、肺、肝等の如き他の臓腑と同様に、たゞ生存競争に必要な程度までにより発達しては居らぬ故、俗人的の普通の生活には僅に間に合うて行くが、それより遙に高尚な目的のために用ひては其の効力は頗る覚束ないものと認めねばならぬ。我々が宇宙を解釈し尽し得ぬは素より当然のことで、幼児の腕が月に届かぬのと少しも違うたことはない。誤解を防ぐために此所に一言して置くが、我等は斯く云へばとて、決して総べての哲学を無用視する訳ではない。物の原因を探り理由を求めると云ふ哲学的精神は何れの学問にも必要で、此の精神なしには殆ど学問なるものは成り立たぬ。また各科に分れた専門学の研究の結果を此の精神を以て綜合し統一するために、特に哲学の必要なることをも確に認める。我等はたゞ経験を度外視した如き従来の哲学系統では役に立たぬと思ふのみである。
 世の中にはまた厭世主義などと称へて、実際の此世の成り行きを罵つて自ら高しとする人々があるが、之も誇大狂の増進した結果である。厭世論者の云ふ所を約言すれば、たゞ此世の中が自分の理想通りには成つて居ない、此様な世の中ならば寧ろ無い方が遙に優つて居ると云ふに過ぎぬ。成る程実際の世の中を見れば、決して芝居でする如くに、最後の幕に至つて善人は必ず栄え、悪人は必ず亡びるとは限らぬ。寧ろ正が倒れ邪が蔓るのが今の世の常態で、正直で一生懸命に※(「てへん+裃のつくり」、第3水準1-84-76)かせいでも其日其日を喰ひ兼ねて居る者が更に思はぬ災難に遇ふこともあれば、横着至極不届千万なことをして、大金を儲けた者が、一生涯は素より、子や孫の代まで栄華に暮して居ることもある。然しながら之は明に今日までの社会の制度に不条理な点があつたにも基くこと故、之を見て自己の属する社会の改良に志すならば人間の分相当のこととして敢へて不思議はないが、単に懐手をしながら憤つて見たり、世を厭うたりするのは、確に人類の真価を見誤り自分の小なることをも打忘れた結果である。凡そ世の中を進歩せしめるには、理想と云ふことも素より大切であるが、理想には出来る理想と出来ぬ理想とがある。単に理想としてはユートピアに書いてある様に、小便壺や罪人の鎖を黄金で造つて、世人に黄金を卑む癖を生ぜしめやうと考へるのも勝手であるが、実際に行はれぬ様な理想ならば何の役にも立たぬ。自分で勝手に人間なるものを高く買ひ被り、実際の人間には到底適せぬ様な高尚な理想の世界を想像し、現在の世の中が其通りに成つて居らぬと云うて憤るのは、憤る方の無理であらう。石が下へ落ちるとか、水が低い方へ流れるとか、強い者が勝つて弱い者が敗けるとか、適する者が栄え適せぬ者が亡びるとか云ふ様な経験に基いた結論は、何時でも何所でも先づ間違ひはないが、人間が自分の脳中で勝手に考へたことは、素より人間の脳中だけに限られてあつて、少しも宇宙の知つたことではない。それ故、人間が如何に論じやうとも柳は緑、花は紅で一向頓着はせぬ。宇宙に於ける人類の真価を打ち忘れ、宇宙が自分の注文通りに成つて居ないとて、肝癪を起して居るのが所謂厭世家の態度である。
 他の例を挙げることは一切略するが、以上述べた如き考へを持つて、今日世に行はれて居る倫理、教育、哲学、宗教等の書物を開いて見れば、誇大狂的妄想の例は幾らでも選み出すことが出来る。或る一種の方面に於ては特に近来に至つて著しい適例が殖えた様である。元来誇大狂も他の狂気と同じく実際と違うたことを真実と思ひ込んで居るのである故、その儘に捨て置いては病的妄想を基礎として其の上へ種々の間違うた議論を積み上げ、之を実際に行はうとするから、結局世の進歩の妨げをなすに極つて居る。それ故、社会の進歩発達を計るには先づ之を治療することが必要である。然るに此の誇大狂と云ふ病気は他の精神病と同様に著しい遺伝性を有するもので、之を治することは中中一朝一夕には出来ぬ。今より三百何十年か前にコペルニクスが地動説を唱へ出し、後ニュートンが引力の説を公にしたので地球は太陽系に属する一遊星に過ぎぬことが明になり、地球を中心とする妄想は打ち破られ、また今より五十二年前にダーウィンが生物進化論を確め、自然淘汰の説を出したので、人間も哺乳獣の一種で、猿と共同の先祖から分れ降つたことが明になり、人類だけを特別霊妙なものとする妄想は打ち破られて、此の病気の治療の道も漸々備はつて来た。然し此等に関する学科が未だ世間一般に十分に普及せぬ故、今日の所では、斯くの如くして治療せられた者は尚僅に星学、地質学、生物学等の如き理科の全体を広く覗うた少数の人々に限られてあつて、其他に至つては、未だ先祖代々からの遺伝で此の病気に罹つて居る。
 昔から盲千人、目明三人と云ふ通り、理窟の解る人が何時も世間に少ないのは素より免れぬが、せめて学問でもして世に先んじて進まうと云ふ人々だけなりとも、一刻も速く誇大狂の範囲を脱して、実験科学上確定した事実に基き、公平な眼を以て人類を観察し、其の結果を利用して世を益する方法を工夫して貰ひたいものである。社会は何時も少数の導く者と、多数の導かれる者とから成り立つて居るが、書物や論説などを書いて世人を導く側に立つ人々だけなりとも、常に実験科学上確定した事実を眼から離さぬ様にして、何事を考へるに当つても、宇宙に於ける人間の真の価値を忘れず、之を標準として打算する様に致したいものである。星学、地質学、生物学は誇大狂治療学科とも称すべき性質の学科で、此等の大要を合せ心得て居れば誇大狂を防ぐことも出来る故、如何なる学問を修めやうとする人々に対しても、其の専門の学科の傍ら常に上述の三学科の大要だけを学ぶことを切に希望せざるを得ぬ。其の中でも特に生物学科は人間をも含む生物界を研究して自然に於ける人類の位置を明にする特殊の学科であるから凡そ人間に関する学問を修める人々には、是非とも其の大体を学んで置く必要があらう。斯くして世人が皆自然に於ける人類の位置を知り人間の脳力の真価を悟るやうに成つたならば、今日世上に流行して居る如き空理空論は全く顧る者が無くなり、所謂精神科学に於ても誇大狂のために議論の出発点から、已に間違ふ如き虞れがなく研究の方法も追々改まつて、終には実際と一致する様な理論に達することが出来るであらう。
(明治三十七年三月)





底本:「近代日本思想大系 9 丘浅次郎集」筑摩書房
   1974(昭和49)年9月20日初版第1刷発行
初出:「教育学術界」
   1904(明治37)年5月
入力:矢野重藤
校正:y_toku
2015年9月1日作成
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