人類の生存競争

丘浅次郎




 世には人類の生存競争と他の動物の生存競争とは全く種類の違うたものであると考える人がある。中には高等動物になればなるほど、生存の競争がゆるやかになり、下等動物に見るがごときみ合い殺し合うような残酷なことはなくなってしまう、今日人類に生存競争のなお絶えぬのはいまだ人類が不完全なるゆえであって、人類が今日よりも進歩さえすればついに全く生存競争はなくなるという説を唱える人もある。また世の文明が進めば、今日おのおの独立している国々はすべて連邦となり、全世界を統一した一大合衆国ができて国と国との争いはなしにすむようになると論ずる人もある。われらから見ればこれはいずれもよほど間違うた説で、もしまじめにかような説を信ずる人が多数にあったならば、国としての平素の用意に悪い影響をおよぼすかもしれぬから、ここにいささか他の動物に比して人類の生存競争を論じてみようと思う。
 動物でも植物でもおよそ生きている物は実際生存しうべき数に比して数倍、数百倍もしくは数万倍の子を産み、その上、代の重なるごとに幾何級数的に増加してゆくゆえ、最も少数の子を産む種類といえども、もし、それがことごとく生存し繁殖したならばたちまち非常な数となるわけで、とうてい生存のための競争をまぬがれえない。人間は他の動物に比すると子を産むことのはなはだ少ないものではあるが、それでも女一人が平均四人半以上の子を産む勘定になっているゆえ、生存競争をまぬがれえぬことは全く他の動植物と同じである。しかしながら人間では生存競争のありさまがよほど他の動物の状態とは違うて個人と個人とが咬み合い殺し合うことはいたってまれで、かえって個人と個人とが互いに助け合う場合も少なくないゆえ、その点だけを見ると人類の生存競争は、他に比してすこぶるゆるやかであるごとくに見える。動物は高等なものになるほど生存競争がゆるやかになるなどという説はおそらくこれに基づいたものであろう。
 およそ動物を互いに比較して甲乙いずれのほうの生存競争がはげしいかを論ずる場合には、各動物の生存競争の全部を残りなく観察して、互いにくらべねばならぬ。甲動物の生存競争の一部と乙動物の生存競争の全部とを比較して、甲におけるよりも乙のほうが競争が劇烈なりなどと考えるのはむろん大なる誤りである。動物には各個体が単独に生活するものと、多数の個体が集まって団体を造るものとがあって、単独生活をする動物ならば個体間の生存競争がその動物の生存競争の全部であるが、団体生活をする動物では生存競争は主として団体と団体との間に行なわれ、個体間の競争のごときはわずかにその一小部分に過ぎぬ。もっとも完結した団体を造るものでは団体間の生存競争が、すなわちその動物の生存競争の全部であって、同一団体に属する個体の間には少しも競争はない。されば、単独生活をする野獣の生存競争と、団体生活をする人類の個人間の生存競争とを比較して、あれは猛烈なり、これはゆるやかなりと論ずるのは全く標準の異なったものをくらべているので、実は大間違いなことである。真に人類と他の動物との生存競争を比較しようと思わば、よろしく人間社会に現われる各階段の生存競争を合計し、これを人類の生存競争の総額と見なして論ずべきわけであるが、かくして見ると、われら人類の生存競争のはげしさはごうも野獣類に劣らぬのみならず、むしろはるかにこれを超えていると言わねばならぬ。
 そもそも人類の生存競争はいかなるものの間に行なわれるかというに、個体間にも行なわれ、団体間にも行なわれ、団体という中にももっとも大なるものからもっとも小なるものまで、その間に無数の階級があるが、いずれの階級の団体でも、互いの間にはことごとく生存競争が行なわれているのである。県会議員や市会議員になりたがる候補者間の競争、同じ町内に同じ商売をする店と店との競争、長らくある事業を独占していた旧会社と新たに設けられた同種の会社との競争、なるべく多数を占めて早く勢力を張らんとする政党間の競争などは常に目前に見ることであり、毎日の新聞紙上にも出てくるゆえ、特に例をあげる必要はない。かくのごとく人類の生存競争はいずれの階段にも必ずあるが、そのいちばん上に位する階段は現在のところでは国である。人類が国を成して生存し、国と国とが互いに対立している以上は、国内における個人間の競争でも、小団体間の競争でも、むろん敵国に対して自国を危うくする心配のない程度に限られねばならぬ。道徳や法律はそのためにできたもので、もし国内の者がみな道徳や法律を眼中におかず絶対に相争うたならば、その国はたちまち敵の乗ずるところとなって、一刻も存在することはできぬ。すなわち人類の個人間または小団体間の競争はなおその上に位する国という団体のために常に制限せられているから、単独生活をして思うままに最後の勝負までを争う野獣の生存競争とは全くわけが違う。これに反して、人類の生存競争における最大単位なる国と国との競争になると、もはや少しも制限せられるところがないから、全く猛獣の相戦うのと異ならず、強ければ勝って栄え、弱ければ負けて衰える。これは歴史上の事実を見ても現在の状態を見ても、きわめて明らかに知れることで、人類の生存競争もこの階級まで押し詰めてくると、虎や狼の咬み合い殺し合いと毫末ごうまつも違わぬ。
 団体として敵に当たる場合には内部の一致が何よりも必要であるが、団体生活をする動物には自然にこの性質が備わっている。敵国と戦う際には挙国一致と称して、人民は重い税を払わせられながら一言の苦情も言わぬ。目の前に商売がたきの店があると挙店一致も行なわれやすく、倒すべき相手の会社ができると挙社一致も容易に行なわれる。すべて外に敵がある間は内部は固く団結するが、敵がなくなるととかく内部に争いが起こる。手腕ある政治家はこの辺の消息に通じ巧みに国民の敵愾心てきがいしんを外に向けて国内の紛擾を避けることがある。団体の内部の争いのために費やす力は団体が外に向うて働く力から引き去られるゆえ、かかる団体は充分に敵と戦うことはできぬ。内部にごうも争いのない理想的の団体は全力を敵に向けることができるゆえ、かかる団体間の競争はきわめて劇烈である。これらのことを総合して考えてみると、団体が外に向うて行なう競争と、その内なる各部の間の競争とは、一定の関係を有し、一方が増せば他方が減じて、つねに相反対に増減するものなることが分かる。人類のごときは国と国とで相争うゆえ、国内の各部分の間に無制限の競争は行なわれがたく、また国内の各部分の間に競争があるゆえ、国と国との間にも思い切った殺し合いは容易にできず、いずれも充分な働きができない。人類の国と国との間には絶えず小紛擾がありながら、容易に大戦争の始まらぬのは、全く各国ともにその内部に競争があるためである。さればこの姿を見て、人類の生存競争は他の動物に比してゆるやかなりと思うのは、これまた大なる誤りと言わねばならぬ。
 生存競争なるものはいかなる場合においても、必ず物資の供給と需要との不権衡から生ずるのである。それゆえ、生存競争のはげしさは全く需要と供給との不権衡の程度に比例せざるをえない。二匹の犬に二匹分の肉を分けて与えれば争いは起こらぬが、一匹分の肉を見せるとただちに喧嘩が始まる。十名の新入学を許すべきところへ、二十名の志願者があればとうてい競争は避けられぬが、もし五十名の志願者があればさらに劇烈に競争せねばならぬ。人類の国と国との競争もこれと同じく、アジアやアフリカになお取るべき広い地面のある間は劇烈な競争にもおよばぬが、すみずみまで分割して、経営しつくしたあかつきにはいかに成り行くことか、おそらく今日よりさらに劇烈な競争を避けることはできぬであろう。世界の人口の増加するにしたがい、個人間にも、団体間にも生存競争のますますはげしく成り行くはまぬがれざるところであるが、個人と個人との間には道徳や法律の制裁があるに反し、国と国との間にはかようなものは一切ないから、弱い国は今後ますます逆境におちいり、ついには他に滅ぼされるのほかはない。今日小さくて弱い国が大きく強い国の間にはさまれて独立している例もあるが、これはやはり列国の生存競争の結果で、決して隣の国が内心からその国の独立を尊重しているわけではない。それゆえ、今後ある機会に遇えばおそらくいずれかに併呑へいどんせられるをまぬがれぬであろう。また決して他の国を攻め取らぬという平和主義を看板にしている国もあったが、かかる国は必ず土地が広く人口が少なくて、他国を取る必要のない国柄のもののみである。しかもこれはいつまでも続くわけではなく、人口が稠密ちゅうみつとなって形勢が変わってくると、いつの間にか先の宣言を忘れて、他国を攻撃するにいたるが、実にやむを得ざることである。されば平和主義を唱える国はもちろんほめておくべきであるが、いつまでもこれが続くと考えるのは大間違いで、他日敵国となるの資格は充分あるものと覚悟しなければならぬ。要するに人類の生存競争における最大単位なる国と国との間の競争はとうてい避けがたいことであって、今後人口の増加、土地の開拓とともにますます劇烈になるものとみなすのが適当である。
 しからば国と国とが連合することがあるのはなぜかというに、これは連合しなければ自分の生存が危うくなるごときときに限るのである。狼でさえも一匹で手に合わぬものに対するときは力をあわせる。たとえば大きな牛を取るときなどは四五十匹も狼が団結することさえあるが、国と国との連合同盟などいうものは全くこれと同様である。一匹の兎を見つけたときにはこれを奪い取るために互いにかみ合い殺し合う狼どもが、大きな牛に対するときは多数力をあわせてかかる。ひとり攻撃のときのみならず、防御のときにも同様のことをする。かくのごとくつねに単独の生活をする獣類でも強い敵に向かえば暫時ざんじ同盟するが、人類の国もまたこの例に漏れない。国と国との同盟などは全く生存の必要より起こったもので、必要がなければ決して起こるはずはない。文句には種々立派なことが書いてあるかもしれぬが、その飾りをはぎ去って、正体をあらわせば、その真意義は狼の協力とごうも異なるところはない。必要があればいつでも同盟し、必要がなくなればいつでも同盟をやめる。過去の歴史これを証明し、現在の事実これを明示し、将来の趨勢すうせいもまたそのとおりであろうと思う。国と国とが同盟すれば一国では取ることのできぬ国を取って分割することもできる。また一国では防ぐことのできぬ共同の敵を防ぎとめることもできる。約言すれば国と国とが相争うのは本来の常態であって、同盟は単に一時の便法に過ぎぬのである。
 この間、ある雑誌を見たところが「国と国との間には法律も道徳もないから、いかなる手段をも遠慮なく用いて、ただ勝つことをつとめよという人があるが、これは大間違いである、現に今日日本は正義のために戦い、露国は真偽かまわぬ国であるから、世界はみな日本に同情を表しておるではないか、正義は実に最強の武器である」と書いてあったが、われらから見るとこれこそ大いに間違った議論である。もし同情というものが言葉だけであるならば何の役にも立たず、決して弱国をして勝たしめるごとき効力はない。かりに先年英国とトランスバールと戦うたときに世界中でトランスバールをほめ立てたと想像しても、決してそのためにかの国が英国に勝ちえたろうとは思われぬ。動物でも甲と乙とが争うときにそのために利益を得るところの丙は必ず喜ぶが、国と国との間も全くそのとおりで、甲乙二国の戦うている間に利益を占め得べき位置に立つ第三者の国が大いに喜ぶのはもちろんである。一国の勝利が自国にも利益をおよぼす時でなければ、決して喜ぶべきはずはない。一国が負けて弱ったのを喜ぶのはすなわち自分の敵国たるべき資格のある国が弱ったからこれを喜ぶのである。今度の戦争でも露国の負けたことを喜ぶ国はもちろん多いであろうが、日本の勝利を利害得失に関せずして喜ぶものはおそらく日本一国だけであろう。今日諸外国からわが国に寄せてくれる同情に対しては大いにその厚意を謝せなければならぬが、その同情なるものが真にいかなる価値を有するものであるかは、今後諸外国がわれに対する所行によって漸々ぜんぜん明瞭になるであろう。
 以上は国を人類生存競争の最高単位と見なして述べたのであるが、実は国より上になお一つ生存競争の単位がある。それはすなわち人種であって、人種間の生存競争は今後ますますいちじるしくなるであろうと思われる。もっとも今日は幾つかの異なった人種が相集まって国をなしているところがあるが、これは自ら守る目的のためだけで、かく相集まらなければ、自分らの生存が危ういという場合のみに限られてある。かかる国は外に対しては一国であるが、内では人種と人種との軋轢あつれきが絶えない。もし自分を守るために他人種と合して一国をなす必要がなくなれば、その国は当然数ヵ国に分裂してしまうに違いない。かりにロシアやドイツも弱くなって滅びるようなことがあるとすれば、オーストリアとハンガリーとは結合しておりそうもない。その他ボヘミアとか何とかみな離ればなれになるかもしれぬ。つまり異人種が集まって一国をなすのは周囲の境遇がしからしむるので、敵に周囲から締められて合同しているありさまはあたかも桶に輪がはまっているので木片がばらばらに離れぬのと同じ理である。すなわち人類の生存競争の根本は人種間の競争であって、これはいかなる境遇にあっても決して絶滅せしめうべき望みはない。
 ここに人種と名づける区別にも種々の階段がある。ドイツ人種、ラテン人種、スラブ人種などの区別もあれば、日本人、支那人等の区別もあるが、前者はみな白色人種に属し、後者はいずれも黄色人種に属するというごとくに、大きなわかちもあれば小さな別ちもある。従来は世界の有力な国はすべて白色人種によって造られ、その間で互いに相争うていたのであるが、もし今後黄色人種の中に有力な国ができて、白色人種の国と同等の位置を占めるにいたったならば、国際間の競争の状態に新しい一変化が生ずることがないであろうか。濠洲を占領した白色人種は「血は水よりも濃し」などと唱えて、有色人種の移住を拒んでいるが、この傾向は決して濠洲に限られたことではなく、いかなる人種にも他人種を排斥する性質は根本的に生まれながら備わっていて、とうてい理屈をもってこれを拭い去ることはできぬ。北アメリカにおいて、黒人がいかにきらわれるか、南アフリカにおいて支那人がいかに虐待せられるかを見れば、異なった人種の相接触するところではいかに互いに相排斥し合うものなるかが明瞭に知れる。旅客に対して親切なることは決して同時にその人種を好むという意味ではない。少数の旅客に対して親切をつくす国でも多数の移民に対しては必ず反対する。かようなわけであるゆえ、もし、黄色人種の国が多少勢いを得てきた場合には白色人種の国々は自然これに対し警戒を加えることになって、他の点においては相反目する国々も、この点だけでは一致しやすい。このことはわが国のごとき他の強国とは人種を異にするものの特に気をつけねばならぬ点で、ゆくゆくいかなる境遇に立ちいたるやもしれぬから、今よりこれに対して大いに覚悟を要する。今後外交上の都合で何国と同盟することがあるかは知らぬが、真に頼むべきはただ自国の力のみであるゆえ、つねにこれを考えて、自国の強くなるように充分努力せねばならぬ。
 要するに人類の生存競争も国と国、人種と人種との間の争いとなればただ強いほうが勝ち、弱いほうが負けるだけであって、他の動物の生存競争に比してごうも異なるところはない。文明が進めば戦争がなくなるとか、生存競争がゆるやかになるとかいう説を信じて国の将来を楽観していると、その間にいかなることが始まらんとも限らぬゆえ、つねに大いに戒めて、かかる考えの広がらぬようにたれも注意することが必要であろう。
(明治三十八年八月)





底本:「進化と人生(上)」講談社学術文庫、講談社
   1976(昭和51)年11月10日第1刷発行
初出:「中央公論」
   1905(明治38)年10月
入力:矢野重藤
校正:y-star
2017年7月21日作成
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