善とは何か、悪とは何か、善はなにゆえになすべきか、悪はなにゆえになすべからざるか等の問題は、すでに二千何百年も前のギリシア時代から今日にいたるまで、大勢の人々の論じたところであるが、昔の賢人の説いたところも、今の学者の論ずるところも、みな万物の霊たる人間についてのことばかりで、他の動物一般に関したことはほとんど皆無のようであるから、この点について日ごろ心に浮かんだことを試みに短くここに述べてみよう。
動物には単独の生活をなすものと、団体を造って生活するものとあるが、全く単独の生活をなす動物の行為は、善悪の二字をもって批評すべき限りでない。世人は狼が羊を捕えて
また団体生活の充分完結している動物、たとえば
動物の中には、蟻、蜂ほどに完結した団体は造らぬが、しかしやはり一生涯多数相集まって暮らすものがある。猿類のごときはその一例であるが、この類の動物にいたって、初めて行為に善悪の区別をつけて論ずることができる。
そもそも動物の各個体が生活し得るためには、相当の食物が入用であるゆえ、同一の食物を要する動物が多数同じ場所に
かく互いに仇敵たるべき資格を充分に備えている動物個体が、なぜ相集まり団体をなして生活するかというに、これは全く敵に対して身をまもるためである。種属の維持、すなわち生殖作用を行なうために一時団体をなすものもあるが、これは全くそのとき限りで、目的を達した後はたちまち散じてしまう。俗に螢の合戦、蛙の合戦と称するものはかかる団体である。また力をあわせて餌を捕えるために、狼などが団体を造ることがあるが、これも全く一時的で、首尾よく餌を捕えた後には、直ちに利益の分配について争いが起こり、たちまちにして互いにはげしい仇敵となってしまう。されば一生涯団体をなして暮らすものは、みな力をあわせて共同の敵に当たり、もって身を全うすることを目的とするもの、すなわち合すれば立ち、離るれば倒れる(United we stand, divided we fall)という理由に基づいたものばかりであるというてよろしい。
猿などの団体はここに述べたごとき理由で成立しているのであるゆえ、その中の各個体はいずれも他はどうなっても自分だけ利益を得たいという欲情を盛んに持っている。しかし各個体がこの欲情をたくましくして互いに戦うならば、その団体はたちまち破壊して、とうてい敵なる団体に対して生存することができなくなり、したがって各個体も身を全うすることができぬ。それゆえ猿の団体においては個体の欲情と、団体の要求とはとうてい一致すべきようなく、各個体は強いても欲情の一部を制して全団体の維持繁栄を計らなければ、各自の生存もおぼつかない。すなわち強者は勝ちたいという欲を制して弱者を助け、賢者はだましたいという情を忍んで愚者を教えるようにせねば、全団体が滅亡する。かかる団体中の各個体はつねに自己の欲情すなわち利己心(Egoismus)と団体の要求すなわち利他心(Altruismus)との間にはさまれ、ある時は奮って団体の要求に従い、全団体に利益を与えることもあり、ある時は心弱くも自己の欲情に負けて全団体に迷惑をおよぼすこともあるが、これがすなわち善悪のわかれるところで、一個体の行為の結果が全団体に利益を与える時は、利益の分配にあずかる同僚はこれをほめて善(Bonum)と称し、一個体の行為の結果が全団体に損害を与える時は、頭割りに損害をこうむる同僚はこれを責めて悪(Malum)というのはむろんのことである。
以上述べたるところは、団体がやや少数の個体より成る場合について想像したことであるが、一団体をなす個体の数が多くなると善悪の関係がかように明瞭でなくなる。そのゆえは、個体の数がふえるにしたがい、一個体が団体全部におよぼす利害を頭数に割りつけると、実に僅少となり、ついにはありがたいとか迷惑とか感ずる最低限(Schwellenwert)以下となって、他の個体は全くこれを感じなくなるからである。しかしながら、いかに団体が大きくなっても、各個体が欲情の一部を制して団体の要求に応じなければ、団体の生存が保てぬことは依然として変わらぬから、各個体には無意識的に多少全団体の利益となる行為をなすの習性が本能として残り、なにゆえという理由を知らずに、ただ善を善として行なっているごとき外観を呈するにいたる。熱帯地方を旅行して猿の習性を調べた学者の報告などを読んでみるに、戦うて傷を受けた猿があると、他の猿等はこれを助け保護し、食物を与えたり、水を飲ましたりして、非常にこれを介抱し慰める。また子を遺して親が死ねば他の猿が直ちにその子を養い取り、実子同様にこれを慈しみ育てることなどが、ていねいに記載してあるが、単にこの所行だけを考えると、あたかも猿には猿道(Simianitas)とでもいうものがあり、博愛(Philopithecia)の精神に基づいてしているごとくに見える。
少数の個体より成れる団体のありさまに比較して猿のかかる行為の原因を考えてみるに、団体の要求に応ずるのは敵に対してわが団体を維持し、したごうてわが身を全うするためであるという観念は個体の数のふえるにしたごうて漸次個体の意識の範囲より脱し去り、個体はただ漠然とこれを義務のごとくに感じて実行しているのであろう。そのありさまを形容して言えば、あたかも別にすべての個体に共通の団体意志(Volitio cormi)とでも名づくべきものが、意識の範囲以外の精神的作用として各個体に存し、これが各個体にかかる行為をなさしめているので、
また各個体が自己の欲情をたくましくしては団体が保てぬから、団体の要求にそむいた個体がある場合には、他の個体等が集まって必ずこれに制裁を加えるが、これも一団体内の個体の数がふえるにしたがい、あたかも単に悪を悪として罰するごとき観を呈するにいたる。
前にも述べたとおり、行為に善悪の区別のあるのは団体生活を営む動物のみに限られてあるが、猿などはただ共同の敵に対して身を護るの方便として団体を造っているものゆえ、その団体は決して永久不変のものではない。数個の団体が相対立し相敵視しているためにようやく各団体内の個体が結合しているのであるから、敵がなくなったら、団体はあたかも桶の輪がはずれたのと同じく、たちまち破れて数個の小団体に分裂してしまう。敵国
共同の敵にあたるためには団体は同盟し、同盟すれば強くなって敵を倒すこともできる。敵が倒れれば同盟は破れ、同盟が破れればみな互いに敵である。動物の団体はこの順序に従うてつねに変遷するものゆえ、善悪の標準ももとよりこれとともに変ぜざるを得ない。かくのごとくであるゆえ、団体生活から離して単にある行為のみを取って、善とか悪とか評することはとうてい無意味のことで、団体生活と関連してある行為を評する場合にも、評者自身がその団体内の一員としての資格で論ずるときにのみ善悪の批評ができるのである。また個体の集まって成れる団体と団体との間の行為について言えば、これはあたかも単独生活をなす動物個体の行為と同様で、まさった者が勝ち、劣った者が負け、強ければ栄え弱ければ亡びること、あたかも水が流れ火が燃えると同然で、善とも悪とも名づくべき限りではない。動物界において、個体の行為を善悪に分けて批評することのできるのは、団体生活をなす動物の中で、団体の意志と個体の欲情との相矛盾する場合だけであるが、かかる場合は猿などのごとくに、個体はおのおの自分の欲情を遂げんと欲しながら、敵に対して身を護る方便として、欲情の一部を制して、ようやく社会を組み立てている動物において見いだすを得るものである。
生物学の一分科として動物の習性を研究する学科を生態学(Ethologia)と名づけるが、その語原は倫理学(Ethica)と同じく、ともにギリシア語の「習慣」という字からきている。かくのごとくこの二学科は元来同様の性質のもので、その間にはきわめて深い関係のあるべきはずなることは名前の上に現われているにかかわらず、倫理学者は今日まで動物生態学を度外してもっぱら抽象的の議論のみをたたかわしていたのであるが、われらの考えるところによれば、倫理学の
(明治三十五年十月)