理想的団体生活

丘浅次郎




 われわれのつねに見慣れている陸上の動物は、犬でも猫でも、鳥でも、雀でもみな一匹ずつ相離れて、おのおの独立の生活をしているゆえ、動物とさえいえば、すべて単独の生活をなすものであるごとき感じが起こるが、広く動物界を調べて見ると、多数相集まって団体を造って生活している種類も決して少なくはない。特に海中にむ動物には団体生活を営むものがすこぶる多い、また池沼などの淡水中にむ動物にもいくらかかような例がある。かような動物の生活状態を詳かに観察してみると、普通の単独生活をなす動物とは全く相異なり、多数が力をあわせて誠実に全団体の維持繁栄のために働いているありさまは、実に理想的と称すべきほどで、われわれ人間のごとき不完全な団体生活をなす者から真にうらやましく思われるものがあるゆえ、ここにその生活状態の一斑を紹介してみよう。
 淡水中に産する団体動物の例としては苔虫こけむしの類が最も適当であろう。この虫は古い池、大きな湖などに産するもので、霞が浦の土浦近傍にもたくさんにいる。東京市内でも、小石川の植物園内の池、大塚の高等師範学校構内の池などでも採れる。数年前までは本郷の帝国大学の構内の古池にも盛んに繁殖していたが、惜しいことにはこのごろは全く断絶してしもうたようである。この虫は一匹ずつはまことに小さなもので、長さがわずかに一分ばかりに過ぎぬくらいの円筒形をなし、一端は水草の葉の表面などに固着し、他の端の中央には口があり、口の周囲には数十本の糸のごとき細い指があって、これを用いて水中を流れてくる微細な食物を取って食うのである。一匹ずつはかような形のものであるが、あたかも両側の脇腹とでもいうべきところから芽を生じて繁殖し、芽はたちまち成長しておのおの一匹の虫となり、またその脇腹から芽を出して繁殖するゆえ、初め一匹のものもしばらくの間に増加してついには数百匹、もしくは数千匹の塊となってしまう。かく多数となっても芽生がせいしたままで、親子、兄弟の身体が互いに連絡しているゆえ、同一の血液が全団体を通じて循環している。また神経のごときも一匹ごとに備わってある神経系が細い糸で互いに相つながっているゆえ、感覚も一匹から全団体に伝わって、喜怒哀楽をともにするようにできている。今この虫を例にとって、団体動物の生活状態を述べるにあたって、身体の構造、各器官の作用等はすべて省略し、ただ多数相集まって、力をあわせて生活しているありさまのみを述べ、なおなるべくわかりやすくするために、これを人間社会のありさまに比較して論ずる。また団体という文字は画の多い面倒な字でしばしばこれを用いることはいかにもわずらわしいから、国という字をそのかわりに用いることにする。
「苔虫の国の一部」のキャプション付きの図
苔虫の国の一部   い 一個体

 まず苔虫類の国を見て第一に気の付くことは、国内に一匹として無職業の者、働かぬ者のないことである。数百匹ないし数千匹もある虫は一匹ごとにその指を延ばし、指の表面に密生している細毛を動かして水の流れを起こし、水中に浮かべる微細な藻類そうるいをおのれの口のほうへ送ろうとつとめていて、決して一匹として働かずに、安閑あんかんとして他の厄介となっている者はない。しかしてこれに対して各自の得る報酬が、またきわめて公平であって、決して少なく働いて多くの報酬を得る者もなければ、多く働いて少ししか報酬をもらわぬこともない。すべてが同様に働き、これに対してすべてが公平な割合に報酬を得ているのであるから、不平の生ずる原因が全くないのである。働かぬ者もやはり一匹分の滋養分を消費するゆえ、働かぬ者の多い国ではそれらの分まで働く者の頭へかかってくるにきまってある。また一国の治安を妨害する大原因は不平党の多いことである。されば働かぬ者もなく、不平もないという状態は実にうらやましいことと言わねばならぬ。
 また苔虫類の国では滋養分に剰余の生じた場合にはすべてこれを一国全体の所有として適宜に利用するのみで、決してこれをわけて一匹ずつの所有を定めるごときことはない。すなわち財産は全国共有であって、私有の財産というものは少しもない。それゆえ、貧富の区別もなく、資本家と労働者との区別もなく、富の圧制もなければ、貧の苦しみもない。したがって不正な手段で富を増そうという悪い心も生ぜず、抽籤に当たって大金をようという卑しい根性も起こらぬ。もしかかる社会にあって一匹の虫が財産の一部を私したならば、その所業はとりもなおさず盗むことにあたるゆえ「財産は盗品なり」と言うたプルドンの言葉は苔虫の国には実際そのままにあてはまるのである。また苔虫のある種類では一国内の個体の間に分業が行なわれて食物を集める者、これを消化する者など、もっぱら国の富を増すことをつとめる側の者と、敵の攻撃を防いで国を護る側の者とが明らかに分かれているが、かような場合にも、単に生活に必要な各種の作用を個体間に分担して、各自その専門の職務が異なっているというまでで、少しもその間に貴賤尊卑の区別がない。直接に敵に向こうて国を護る者は、あたかも他の者が資料を供給してくれるによって自分らの働きができるのであることを十分に感じているごとく、決して分外に威張ることを欲せず、また国の富を増す方面に従事している者は、自分は直接には敵にあたらぬが、国を護る仕事に対しては充分に一匹だけの任務をつくしているとの自覚があるために、決して心にもない世辞せじ追従ついしょうをいうて他を傲慢ごうまんならしめる必要を感ぜぬごとく、両方が一致して対等の位地を保ちながら、ともに国のために力をつくしているように見受ける。かくのごとく苔虫類の国では現在従事している職業によってさえ貴賤上下の区別がないくらいであるゆえ、彼は生まれながらにして貴族である、これは生まれながらにして平民であるというような不公平な階級別が全くない。多数集まっている個体の中には神経筋肉ともに多少の優劣のあるはまぬがれぬが、優者は優者だけに劣者は劣者だけにそれぞれその分に応じて国のために働くのみで、決して世襲の爵位や財産によって、神経筋肉ともに劣等の者が上流の位置を占め、神経筋肉ともに優等の者が、そのためにかえって下に押し詰められて生活に苦しむというごとき、各個体にとっては不公平な、国全体にとっては不利益な制度がないのはいささかうらやましい次第である。
 以上のごときことはしばらくおくとして、われらが苔虫の国を見て真にうらやましさにたえぬのは国内の各個体の間に少しも争いのないことである。何故なにゆえに少しも争いがないかというに、苔虫類では国内の各個体は私有財産がないくらいであるゆえ、隣の者と相争う理由が少しもなく、相互におのれの欲するところはこれを他に施し、おのれの欲せざるところはこれを他に施さぬによるのである。われらは二十年あまりも苔虫類の生活のありさまを観察し、ガラスの細管に微細な藻類を吸い入れて二匹の苔虫の間にこれを吹き出し、その相争うや否やを試験したこともしばしばあるが、二匹ともにただ自分の指を広げている範囲内にきた食物を取るだけで、その中間に流れきた食物のごときは早く触れたほうの個体が静かにこれを取り収め、二匹相争うごときことは決してない。もっとも同一の血液が全国内を循環しているのであるゆえ、いずれが食物を取っても、その滋養分は平等に分配せられるから、同一物を相争うて取る必要は少しもないのである。
 かくのごとく苔虫の国では各自がおのれの欲するところはすべてこれを他に施し、おのれの欲せざるところは決してこれを他に施さぬから、罪悪ということが全くない。それゆえ、罪悪を防ぐための設備はごうも入要がない。修身、道徳というようなことは彼らの国民には何の必要もないのである。東洋でも西洋でも道徳の教えの終局の目的は各個人をしておのれの欲するところを他に施さしめるにあるが、苔虫類では生まれながらこの性質が備わっているから、道徳を教える余地がさらにない。たいていの人間社会の道徳個条は苔虫のほうへ行ったならばかえって赤面しなければならぬくらいである。近ごろ流行の武士道のごときももとよりよい部分もあるには相違なかろうが、元来封建時代の産物であって、主人の子供の身代わりにわが子を殺して忠義と心得るような奴隷的服従を奨励するごとき部分もあるゆえ、今日の人間の向上の目標としては決して最も適当なものとは思われぬ。これに比すれば一国内の人民がことごとく公平の待遇を受け、互いに相輔あいたすけ相親しみ、協力一致して、自国の繁栄をはかるという苔虫道のほうがはるかに高尚なものと言わねばならぬ。また苔虫の国には罪悪が全くないから、宗教というものの必要もない。ひっきょう宗教なるものも道徳と同じくその終局の目的とするところは各個人がおのれの欲するところを他に施すような浄土楽園を地上に造るにあるので、克己こっき復礼ふくれいを主眼とする孔子の教えも転迷てんめい開悟かいごを唱道する仏の教えも、神者愛也かみはあいなりと説くキリストの教えもみなこの目的に達するための種々の方便に過ぎぬ。それゆえ、苔虫類のような罪悪のないところへ行っては、伝道の手掛かりさえもない。現今の宗教はいずれも異なった方面から麓の道を分け登ろうと試みているところであるが、苔虫類はすでに頂上に達して静かに高嶺たかねの月を眺めているのである。されば釈迦に説法という諺はあるが、苔虫に説法はさらにそれよりもいっそう不必要である。
 宗教も道徳もともに罪悪を未然に防ごうとつとめるもので、その理想とするところは罪悪のない世の中であるが、苔虫類はすなわちすでにこのありさまにあるのである。苔虫類の社会は宗教や道徳の理想とするところを実現しているのであるゆえ、この点から論ずるときわめて尊いもので、われわれ人間の向上の目標物とすべき価値が充分にある。各学校で毎週一時間や二時間ずつ修身倫理の陳腐ちんぷな講釈をして聞かすよりは、苔虫類の群体を顕微鏡で見せ、その団体生活の状態を詳しく説き聞かせたほうが、はるかに有益ではなかろうかと思われる。また人間は「去る者日にうとし」というて、つねに目の前にその物を見ないと、とかく忘れやすい傾きがあるゆえ、仏教などでは種々の仏像を建立して、人々をして日夜これを忘れしめぬ計画をしているが、祖師がただ理想としたのみで、ついに達し得なかったところを苔虫類は現実に示しているのであるから、祖師の像や仏の像を建てるよりは苔虫の拡大像を建立したほうがはるかに理にかなっている。特に近ごろのようにくだらぬ人間の銅像をここにもかしこにも建てるのにくらべれば、苔虫の銅像を建てて、この虫のごとくにおのれの欲するところを他に施せよ、この虫のごとくに早く小我の境を脱して大我の域に進めよ、という訓戒をつねに眼の前に示しておいたほうが、世道人心を益するに幾倍の効があるかわからぬ。
 苔虫の国には罪悪がないゆえ、罪悪を未然に防ぐべき宗教道徳がいらぬと同じく罪悪を未然に制すべき法律も全く必要がない。したがって法律に関係したものは一つもいらぬ。明白な事件を二年も三年もかかって調べる裁判所もなければ、疑いもない大悪人の無罪を主張する弁護士もない。これを思うと、今日の人間の団体生活は実に不完全きわまるもので、苔虫などとはとうてい比較すべき価値はないのである。われらは長く苔虫類の生活状態を見なれた結果として往々自身を苔虫の地位において、人間界のできごとを観察する習慣が生じ、何事を見るにあたっても苔虫的見地から批評を下すを禁じえない場合があるが、帝都の中央に大審院や司法省の大廈たいか高楼が巍然ぎぜんとして立っているのを見、またこれを写真にとり絵端書などに造って誇っている世上のありさまを見て、かかる立派な建築物を要するほどに司法事業の繁昌するのは誇ってよいことか、恥じてよいことかなどと考え、たまたまその近傍を通行する際には「虫の思わんことも恥ずかし」など、思わず独語することがある。また罪悪のない世の中には警察は全く無用であり、政府なるものもほとんど用はない。苔虫の国には政府と人民との区別がないから、政府が圧制して人民が塗炭とたんに苦しむというごときことは決してない。人間社会では無政府、無警察といえば、乱暴、狼藉、惨酷、悲惨なありさまを指すのであるが、苔虫社会では国民こぞって利害得失を共にし、各自がおのれの欲せざるところを決して他に施さぬから、かかる制度は初めから必要がないのである。なお人間社会にはあって、苔虫社会にはない罪悪の種類を数え立てたら、ほとんど際限がないゆえ、これを略するが、帰するところは一方では各自がおのれの欲するところを他に施して決して相争わぬに反し、一方では各自がおのれの欲せざるところをすべて他に施して日夜相闘うているという一事に存するのである。
 一言で言えば苔虫の社会では、一国内が絶対に平和である。一国内の個体はすべて相助け協力一致して国力を増進せしめることに力をつくしているのであるが、国力が増せばその力はことごとく外に向こうて発展するゆえ、列国間の競争のはげしいことにいたっては苔虫類は人間社会に一歩も譲らない。およそ生物が増加し繁殖している間は、ある形における戦争はとうてい避くべからざるもので、全生物界の平和なることは決して望むべからざることである。されば苔虫類で国内が絶対に平和であるのは、ただ競争の単位が一段昇って、個体間の競争がなくなり、列国間の競争となったまでのことで、戦争なるものが全然跡を絶ったわけではない。国内が平和であるだけ、国力はすべて外に向こうて働くから、もし一国の増進発展の妨げとなる物に出遇うた場合には、全力をつくして、これに打ち勝とうと劇烈に戦う。狭い面積のところに多数の苔虫の国がならんでいるところを見ると、各国互いに国境のところではげしく相圧し合い、少しでも弱いほうはたちまち圧し滅ぼされてしまうありさまは、あたかも政治地理図を見るのと同様な感じが起こる。しかして戦うにあたっては、決して国境の戦線に立つもののみがこれにあずかるのではなく、真に挙国一致で、すべてが同様に働くのである。苔虫類は芽生がせいで繁殖してつねに周囲に向こうてふえてゆくゆえ、戦線に立つものはいずれも屈強な壮年者ばかりであるが、国の内部に留まっている老年者の中にはむろん漸々ぜんぜん衰弱して死ぬ者もある。その死んだ者の身体はいかになるかというに、だんだん脂肪などに変質して国内を循環する血液に輸送せられ、国境の戦線に達して壮年者の兵糧となってしまう。すなわち戦争にあたっては親は戦線に立っているわが子に兵糧を供給するために、自分の肉を罐詰めにして送付するのである。戦争を機として不正の金儲けを企てる不忠不義の者の多い人間社会では一人やや忠義な者があると非常に目に立って後の世までも名をのこすが、苔虫の国ではすべての者が絶対に義勇公に奉ずるのであるから、いずれをとっても人間社会の最忠義者よりはるかに以上の忠義者であって、その間に等差を付けて功を論ずることはできぬ。
 さてかように苔虫類では一国内は実に絶対の平和で、不平もなく争いもなく、真に挙国一致で国のために働いているありさまはわれわれ人間から見るとまことにうらやましさに堪えぬ次第であるが、さようにうらやましければ人間もその真似を試みてはいかが、人間社会においても財産を共有にして貧富の別をなくし、階級制度を廃して人民の位地を平等とし、互いに相輔け相親しみ私情を去ってもっぱら国のために力をつくすようにするがよろしいではないかという議論が起こるかもしれぬが、これは今日とうていできぬことである。今日の社会の制度に改革を要する点の多くあるはもちろんであるが、現在の制度はいずれも初め必要があって起こり、社会の変遷とともに一定の経歴を過ぎて今日のありさまに達したものゆえ、たとい改良を要するものがあるとしても、突然これを廃することは決して得策でない。今日の制度はみな人間の本来の性質に基因することで、人間がおのれの欲せざるところを他に施すという我欲を生まれながらに持っている以上は、法律も警察も必要であり、宗教も道徳も廃するわけにはゆかぬ。されば今日の人間が一足飛びに苔虫社会の真似をして財産を共有にしようと思うごときはすこぶる無理である。かかるありさまを実現しようと企てるには、まずその前に人間の生まれつきの性質を鋳直し、その我欲を去って苔虫同様なものとなす必要があるが、これは人間に対して人間ならざるものとなれと注文することにあたるゆえ、むろん不可能である。
 すべて理想的と名のつくものは一としてただちに実現せられ得べきものはない。現在の世の中に理想的のものの決してないことはいずれの方面を見ても明らかに知れることで、理想的の学者も、理想的の教育家も実際の世の中には一人もない、理想的の政治家、理想的の代議士はさらに少ない。若い人等の間には理想的の夫とか理想的の妻とかいう言葉が盛んに行なわれるが、これらも結婚せぬ間の夢であって、実際結婚したのちまで理想的な男女は決してない。われらが本文の表題に理想的という文字をかむらせたのも、全くこの意味であって、苔虫類に見るごとき完全なる団体生活は、現在の人間にとってはとうてい不可能である。もし今日ただちに苔虫類のごとき理想的の社会を造ろうと思う者があったならば、これは人間生来の欠点を忘れた僣上せんじょうの沙汰と言わねばならぬ。しかしながら理想的なるものは向上の目標としては必要なもので、これによって日々の進歩の方向を定めることのできるものゆえ、動物の中にはかかる理想的の団体生活をなしている種類があることを承知しておくことは、一身を修めてゆくにあたっても、社会の制度を改良するにあたっても一つの参考ともなり、また目標ともなるであろうとの考えから以上のとおりその大略を記述した次第である。
(明治四十年六月)





底本:「進化と人生(上)」講談社学術文庫、講談社
   1976(昭和51)年11月10日第1刷発行
初出:「時事新報」
   1907(明治40)年7月
※図は、「進化と人生」東京開成館、1921(大正10)年からとりました。
入力:矢野重藤
校正:y-star
2017年3月11日作成
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