牛女

小川未明




 あるむらに、たかい、おおきなおんながありました。あまりおおきいので、くびをれてあるきました。そのおんなは、おしでありました。性質せいしつは、いたってやさしく、なみだもろくて、よく、一人ひとり子供こどもをかわいがりました。
 おんなは、いつもくろいような着物きものをきていました。ただ子供こども二人ふたりぎりでありました。まだとしのいかない子供こどもいて、みちあるいているのを、むらひとはよくたのであります。そして、大女おおおんなでやさしいところから、だれがいったものか「牛女うしおんな」とづけたのであります。
 むら子供こどもらは、このおんなとおると、「牛女うしおんな」がとおったといって、めずらしいものでもるように、みんなして、うしろについていって、いろいろのことをいいはやしましたけれど、おんなはおしで、みみこえませんから、だまって、いつものようにしたいて、のそりのそりとあるいてゆくようすが、いかにもかわいそうであったのであります。
 牛女うしおんなは、自分じぶん子供こどもをかわいがることは、一通ひととおりでありませんでした。自分じぶん不具者ふぐしゃだということも、子供こどもが、不具者ふぐしゃだから、みんなにばかにされるのだろうということも、父親ちちおやがないから、ほかにだれも子供こどもそだててくれるものがないということも、よくっていました。
 それですから、いっそう子供こどもたいする不憫ふびんがましたとみえて、子供こどもをかわいがったのであります。
 子供こどもおとこで、母親ははおやしたいました。そして、母親ははおやのゆくところへは、どこへでもついてゆきました。
 牛女うしおんなは、大女おおおんなで、ちからも、またほかのひとたちよりは、幾倍いくばいもありましたうえに、性質せいしつが、やさしくあったから、人々ひとびとは、牛女うしおんな力仕事ちからしごとたのみました。たきぎをしょったり、いしはこんだり、また、荷物にもつをかつがしたり、いろいろのことをたのみました。牛女うしおんなは、よくはたらきました。そして、そのかね二人ふたりは、その、そのらしていました。
 こんなにおおきくて、ちからつよ牛女うしおんなも、病気びょうきになりました。どんなものでも、病気びょうきにかからないものはないでありましょう。しかも、牛女うしおんな病気びょうきは、なかなかおもかったのであります。そしてはたらくこともできなくなりました。
 牛女うしおんなは、自分じぶんぬのでないかとおもいました。もし、自分じぶんぬようなことがあったなら、子供こどもをだれがてくれようとおもいました。そうおもうと、たとえんでもにきれない。自分じぶん霊魂たましいは、なにかにけてきても、きっと子供こどもすえ見守みまもろうとおもいました。牛女うしおんなおおきなやさしいなかから、大粒おおつぶなみだが、ぽとりぽとりとながれたのであります。
 しかし、運命うんめいには牛女うしおんなも、しかたがなかったとみえます。病気びょうきおもくなって、とうとう牛女うしおんなんでしまいました。
 むら人々ひとびとは、牛女うしおんなをかわいそうにおもいました。どんなにいていった子供こどものことにこころらたろうと、だれしもふかさっして、牛女うしおんなをあわれまぬものはなかったのであります。
 人々ひとびとあつまって、牛女うしおんな葬式そうしきして、墓地ぼちにうずめてやりました。そして、あとのこった子供こどもを、みんながめんどうをそだててやることになりました。
 子供こどもは、ここのうちから、かしこのうちへというふうにうつわって、だんだん月日つきひとともにおおきくなっていったのであります。しかし、うれしいこと、また、かなしいことがあるにつけて、子供こどもんだ母親ははおやこいしくおもいました。
 むらには、はるがき、なつがき、あきとなり、ふゆとなりました。子供こどもは、だんだんんだ母親ははおやをなつかしくおもい、こいしくおもうばかりでありました。
 あるふゆのこと、子供こどもは、むらはずれにって、かなたの国境こっきょう山々やまやまをながめていますと、おおきなやま半腹はんぷくに、はは姿すがたがはっきりと、しろゆきうえくろしてえたのであります。これをると、子供こどもはびっくりしました。けれど、このことをくちしてだれにもいいませんでした。
 子供こどもは、母親ははおやこいしくなると、むらはずれにって、かなたのやまました。すると、天気てんきのいいれたには、いつでも母親ははおやくろ姿すがたをありありとることができたのです。ちょうど母親ははおやは、だまって、じっとこちらをつめて、うえ見守みまもっているようにおもわれたのでありました。
 子供こどもは、くちして、そのことをいいませんでしたけれど、いつか村人むらびとは、ついにこれをつけました。
西にしやまに、牛女うしおんなあらわれた。」と、いいふらしました。そして、みんなそとて、西にしやまをながめたのであります。
「きっと、子供こどものことをおもって、あのやまあらわれたのだろう。」と、みんなは口々くちぐちにいいました。子供こどもらは、天気てんきのいい晩方ばんがたには、西にし国境こっきょうやまほうて、
牛女うしおんな! 牛女うしおんな!」と、口々くちぐちにいって、そのはなしでもちきったのです。
 ところが、いつしかはるがきて、ゆきえかかると、牛女うしおんな姿すがたもだんだんうすくなっていって、まったくゆきえてしまうはるなかばごろになると、牛女うしおんな姿すがたられなくなってしまったのです。
 しかし、ゆふとなって、ゆきやまもりさとるころになると、西にしやまに、またしても、ありありと牛女うしおんなくろ姿すがたあらわれました。むら人々ひとびと子供こどもらはふゆあいだ牛女うしおんなのうわさでもちきりました。そして、牛女うしおんなのこしていった子供こどもは、こいしい母親ははおや姿すがたを、毎日まいにちのようにむらはずれにってながめたのであります。
牛女うしおんなが、また西にしやまあらわれた。あんなに子供こどもうえ心配しんぱいしている。かわいそうなものだ。」と、村人むらびとはいって、その子供こどものめんどうをよくてやったのす。
 やがてはるがきて、あたたかになると、牛女うしおんな姿すがたは、そのゆきとともにえてしまったのでありました。
 こうして、くるとしも、くるとしも、西にしやま牛女うしおんなくろ姿すがたあらわれました。そのうちに、子供こどもおおきくなったものですから、このむらから程近ほどちかい、まちのある商家しょうかへ、奉公ほうこうさせられることになったのであります。
 子供こどもは、まちにいってからも、西にしやまこいしい母親ははおや姿すがたをながめました。むら人々ひとびとは、その子供こどもがいなくなってからも、ゆきって、西にしやま牛女うしおんな姿すがたあらわれると、母親ははおやと、子供こども情合じょうあいについて、かたったのでありました。
「ああ、牛女うしおんな姿すがたがあんなにうすくなったもの、あたたかになったはずだ。」と、しまいには、季節きせつうつわりを、牛女うしおんなについて人々ひとびとはいうようになったのでした。
 牛女うしおんな子供こどもは、あるとしはる西にしやまあらわれた母親ははおやゆるしもけずに、かってにその商家しょうかからして、汽車きしゃって、故郷ふるさと見捨みすてて、みなみほうくにへいってしまったのであります。
 むらひとも、まちひとも、もうだれも、その子供こどものことについて、そののちのことをることができませんでした。そのうちに、なつぎ、あきって、ふゆとなりました。
 やがて、やまにも、むらにも、まちにも、ゆきってもりました。ただ不思議ふしぎなのは、どうしたことか、今年ことしにかぎって、西にしやま牛女うしおんな姿すがたえないことでありました。
 人々ひとびとは、牛女うしおんな姿すがたえないのをいぶかしがって、
子供こどもが、もうまちにいなくなったから、牛女うしおんな見守みまも必要ひつようがなくなったのだろう。」と、かたいました。
 そのふゆも、いつしかぎてはるがきたころであります。まちなかには、まだところどころにゆきえずにのこっていました。あるよるのことであります。まちなかおおきなおんなが、のそりのそりとあるいていました。それを人々ひとびとは、びっくりしました。まさしく、それは牛女うしおんなであったからであります。
 どうして牛女うしおんなが、どこからきたものかと、みんなはかたいました。人々ひとびとはそののちもたびたび真夜中まよなかに、牛女うしおんながさびしそうにまちなかあるいている姿すがたたのでありました。
「きっと牛女うしおんなは、子供こども故郷こきょうからていってしまったのをらないのだろう。それで、このまちなかあるいて、子供こどもさがしているのにちがいない。」と、人々ひとびとはいいました。
 ゆきがまったくえて、まちなかにはあとをもめなくなりました。木々きぎは、みんな銀色ぎんいろをふいて、よるもうすあかるくていい季節きせつとなりました。
 あるひと牛女うしおんなまちくら路次ろじって、さめざめといているのをたといいます。しかしそののち、だれひとり、また牛女うしおんな姿すがたたものがありません。牛女うしおんなはどうしたことか、もはやこのまちにはおらなかったのです。
 そのとし以来いらいふゆになっても、ふたたびやまには牛女うしおんなくろ姿すがたえなかったのであります。
 牛女うしおんな子供こどもは、みなみほうゆきらないくにへいって、そこでいっしょうけんめいにはたらきました。そして、かなりの金持かねもちとなりました。そうすると、自分じぶんまれたくにがなつかしくなったのであります。くにかえっても、母親ははおやもなければ、兄弟きょうだいもありませんけれど、子供こども時分じぶん自分じぶんそだててくれたしんせつな人々ひとびとがありました。かれは、そのひとたちや、むらのことをおもしました。そのひとたちにたいして、おれいをいわなければならぬとおもいました。
 子供こどもは、たくさんの土産物みやげものと、おかねとをって、はるばると故郷こきょうかえってきたのであります。そして、むら人々ひとびとあつくおれいもうしました。むらひとたちは、牛女うしおんな子供こども出世しゅっせをしたのをよろこび、いわいました。
 牛女うしおんな子供こどもは、なにか、自分じぶん事業じぎょうをしなければならぬとかんがえました。そこでむらひろ地面じめんって、たくさんのりんごのえました。おおきないいりんごのむすばして、それを諸国しょこくそうとしたのであります。
 かれは、おおくのひとやとって、肥料ひりょうをやったり、ふゆになるとかこいをして、ゆきのためにれないようにをかけたりしました。そのうちにはだんだんおおきくびて、あるとしはるには、ひろはたけめんに、さながらゆきったように、りんごのはなきました。太陽たいよう終日しゅうじつはなうえあかるくらして、みつばちは、あさかられるまで、はななかをうなりつづけていました。
 初夏しょかのころには、あおい、ちいさな鈴生すずなりになりました。そして、そのがだんだんおおきくなりかけた時分じぶんに、一むしがついて、畑全体はたぜんたいにりんごのちてしまいました。
 くるとしも、そのくるとしも、おなじように、りんごのちてしまいました。それはなんとなく、子細しさいのあるらしいことでありました。むらのもののわかったじいさんは、牛女うしおんな子供こどもかって、
「なにかのたたりかもしれない。おまえさんには、こころあたりになるようなことはないかな。」と、あるとき、きました。牛女うしおんな子供こどもは、そのときは、なにもそれについておもすことはありませんでした。
 しかし、かれひとりとなって、しずかにかんがえたとき、自分じぶんまちからて、遠方えんぽうへいった時分じぶんにも、母親ははおや霊魂たましい無断むだんであったことをおもいました。また、故郷こきょうかえってきてからも、母親ははおやのおはかにおまいりをしたばかりで、まだ法事ほうじいとなまなかったことをおもしました。
 あれほど、母親ははおやは、自分じぶんをかわいがってくれたのに、そして、んでからもああして自分じぶんうえまもってくれたのに、自分じぶんはそれにたいして、あまり冷淡れいたんであったことに、こころづきました。きっと、これはははいかりであろうとおもいましたから、子供こどもは、ねんごろに母親ははおや霊魂たましいとむらって、ぼうさんをび、むら人々ひとびとび、真心まごころをこめて母親ははおや法事ほうじいとなんだのでありました。
 くるとしはる、またりんごのはなしろゆきのごとくきました。そして、なつには、青々あおあおみのりました。毎年まいとしこのころになると、わるむしがつくのでありましたから、今年ことしは、どうか満足まんぞくむすばせたいとおもいました。
 すると、そのとしなつ日暮ひぐがたのことであります。どこからとなく、たくさんのこうもりがんできて、毎晩まいばんのようにりんごばたけうえびまわって、わるむしをみんなべたのであります。そのなかに、一ぴきおおきなこうもりがありました。そのおおきなこうもりは、ちょうど女王じょおうのように、ほかのこうもりをひきいているごとく、えました。つきまるく、ひがしそらからのぼばんも、また、黒雲くろくもそとくらばんも、こうもりは、りんごばたけうえびまわりました。そのとしは、りんごにむしがつかずよくみのって、予想よそうしたよりも、おおくの収穫しゅうかくがあったのであります。むら人々ひとびとは、たがいにかたらいました。
牛女うしおんなが、こうもりになってきて、子供こどもうえまもるんだ。」と、そのやさしい、じょうふかい、心根こころねあわれにおもったのであります。
 また、つぎの、つぎのとしも、なつになると、一ぴきのおおきなこうもりが、おおくのこうもりをひきいてきて、りんごばたけうえ毎晩まいばんのようにびまわりました。そして、りんごには、おかげでわるむしがつかずによくみのりました。
 こうして、それから四、五ねんのちには、牛女うしおんな子供こどもは、この地方ちほうでの幸福こうふくうえの百しょうとなったのであります。





底本:「定本小川未明童話全集 1」講談社
   1976(昭和51)年11月10日第1刷発行
   1982(昭和57)年9月10日第7刷発行
初出:「おとぎの世界」
   1919(大正8)年5月
※表題は底本では、「牛女うしおんな」となっています。
入力:ぷろぼの青空工作員チーム入力班
校正:ぷろぼの青空工作員チーム校正班
2011年11月2日作成
2012年1月10日修正
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