川へふなをにがす

　少年（しょうねん）は、去年（きょねん）のいまごろ、川（かわ）からすくいあみで、ふなの子（こ）を四、五ひきばかりとってきました。そして、庭（にわ）においてあった、水盤（すいばん）の中（なか）に入（い）れました。ほかにも水盤（すいばん）には、めだかや、金魚（きんぎょ）がはいっていました。
「けんかを、しないだろうかね。」と、少年（しょうねん）は、心配（しんぱい）しました。
「入（い）れ物（もの）が、大（おお）きいから、だいじょうぶだろう。」と、友（とも）だちがいいました。
　赤（あか）い金魚（きんぎょ）、黄色（きいろ）なめだか、うすずみ色（いろ）をした、ふなの子（こ）は、思（おも）い思（おも）いに泳（およ）ぎまわっていました。まだ小（ちい）さいから、こんな中（なか）でも広（ひろ）い世界（せかい）と思（おも）うのか、満足（まんぞく）するように、べつに魚（さかな）どうしで、けんかをするようすも見（み）えませんでした。
　その後（ご）、雨（あめ）のふる日（ひ）もあったし、また、月（つき）の照（て）らす晩（ばん）もありました。そのうち、秋（あき）になり、冬（ふゆ）となって、だんだん水（みず）が冷（つめ）たくなると、しぜん魚（さかな）たちは、元気（げんき）がなくなって、下（した）の方（ほう）へ沈（しず）んでいました。
「兄（にい）さん、ずいぶん魚（さかな）が、すくなくなったね。」と、弟（おとうと）が、庭（にわ）へ出（で）ると、いいました。
　ともかく、寒（さむ）い、水（みず）の凍（こお）る冬（ふゆ）をこし、あたたかな春（はる）になるまでに、生（い）きのこったのは、わずか五、六ぴきしかありません。その中（なか）に、ふなが二ひきいました。
「強（つよ）いやつばかり、のこったのだな。」
　弟（おとうと）は、水盤（すいばん）をのぞきながら、
「ごらん、兄（にい）さん、ふなが、あんなに大（おお）きくなった。」と、いって、びっくりしました。
「よく生（い）きてたね、川魚（かわざかな）は、じきに死（し）ぬんだがなあ。」と、遊（あそ）びにきた、友（とも）だちも、ふなを見（み）て、いまさらのように、めずらしがりました。
　それより、少年（しょうねん）は、ふつう、飼（か）い魚（ざかな）でもない、ふなのうろこが、水（みず）のぬるんだため、紫（むらさき）ばんで、なんとなく野性（やせい）のにおいがする、すがたをたまらなく、美（うつく）しく感（かん）じたのです。
「小（ちい）さいうちから、この入（い）れ物（もの）の中（なか）で、そだったので、生（い）きていたんだね。」と、友（とも）だちはいいました。
　これは、子（こ）どもらにとって、うれしいことだったけれど、また、ふなの身（み）になって考（かんが）えれば、かわいそうなことでもありました。川（かわ）を知（し）らないふなは、おそらくここをすみかと信（しん）じ、安心（あんしん）しているのだろうけれど、だれがふなに川（かわ）を知（し）らせなかったのかと、子（こ）どもらは思（おも）わずにいられませんでした。
　ある日（ひ）、金魚屋（きんぎょや）が、家（いえ）の前（まえ）を通（とお）りました。その声（こえ）をきくと、少年（しょうねん）は、あの目（め）にしみるような、赤（あか）いいきいきとした色（いろ）がちらつき、じっとしておれずに、弟（おとうと）といっしょに外（そと）へとび出（だ）しました。今年（ことし）も、金魚（きんぎょ）を買（か）って水盤（すいばん）へ入（い）れると、新（あたら）しく仲間入（なかまい）りをした金魚（きんぎょ）は、さすがに飼（か）い魚（ざかな）だけあって、あわてずゆうゆうと、長（なが）い尾（お）をふりながら、花（はな）の咲（さ）くすいれんのかげを、いったり、きたりしました。ふなはいつものように、かくれていて、すがたを見（み）せませんでした。
　午後（ごご）から、急（きゅう）に空（そら）が暗（くら）くなって夕立（ゆうだち）がきそうになりました。兄弟（きょうだい）が、縁側（えんがわ）で話（はなし）をしていると、ぽつりぽつり雨（あめ）がふりだしました。
「いい雨（あめ）だね。」
「ああ、これで野菜（やさい）が生（い）きかえるよ。」
　見（み）ると、水盤（すいばん）の面（おもて）にも、さざなみが立（た）っていました。このとき、
　パチン！　と、水音（みずおと）がして、ふなが、二、三寸（ずん）も高（たか）くはねあがりました。
「川（かわ）だと思（おも）って、喜（よろこ）んだのだね。」と、弟（おとうと）が、目（め）を輝（かがや）かせました。
　その夜（よ）は、たくさん星（ほし）が出（で）て、空（そら）が洗（あら）われたようにきれいでした。少年（しょうねん）は、いまごろ川（かわ）では、魚（さかな）たちが、流（なが）れを、自由（じゆう）に上（のぼ）ったり下（くだ）ったり、するであろうと、その姿（すがた）を想像（そうぞう）したのです。もし、人間（にんげん）でやさしい心（こころ）をもっていたら、こんなせまい入（い）れ物（もの）の中（なか）へ、魚（さかな）を入（い）れておくのを、わるいと思（おも）わぬものはなかろうと、考（かんが）えたのです。
　あくる日（ひ）、少年（しょうねん）は、弟（おとうと）をつれて、ふなを川（かわ）へにがしにいきました。