天女とお化け

小川未明




 天職てんしょく自覚じかくせず、また、それにたいする責任せきにんかんぜず、うえのものは、したのものに好悪こうお感情かんじょう露骨ろこつにあらわして平気へいきだった、いまよりは、もっとくらかった時代じだいはなしであります。
 あたらしく中学ちゅうがく教師きょうしとなったエスは、おけのむすこの秀吉ひできちを、どういうものかきでありませんでした。特別とくべつにきらった理由りゆうの一つは、ほかの生徒せいとのごとく学科がっかができないからというのではなく、秀吉ひできちがいつも、じっと教師きょうしかおつめて、なにかうらみをもつように、あるいは相手あいてこころうちをさぐるように、ゆだんのできぬ、いらだたしいかんじを、あたえるからでありました。
 秀吉ひできち教場きょうじょうはいると、をたえず教師きょうしかおにとめて、ほかへうごかそうとしませんでした。
「いったい、なんのため、こう自分じぶんばかりているのだろう。」と、教師きょうしは、不快ふかいおもいました。で、ついかれにばかり質問しつもんするになったが、なにをきいても、秀吉ひできちこたえは、ちんぷんかんでありました。それというのも、よくはなしいているのではなく、ほかのことをかんがえているか、また、こころなかで、だれにも想像そうぞうのつかぬようなことを、おもっていたからでした。
 これは、算数さんすうのときでも、作文さくぶんのときでも、おなじでありました。こうした子供こどもは、不思議ふしぎ図画ずがだけは、じょうずにくものだといわれていたが、秀吉ひできちのばあいは、静物せいぶつ写生しゃせいさせても、なにをかいたのか、その外形がいけいすら、まとまっていなかったのでした。
「これは、のつけようのない低能児ていのうじだな。」と、教師きょうしは、くちうちでつぶやきました。
 ついに、秀吉ひできち母親ははおやが、学校がっこうされました。かれのすんでいる部落ぶらくは、まずしい人々ひとびとあつまりでもありました。母親ははおやは、おそるおそる職員室しょくいんしつ出頭しゅっとうして、ひくくあたまをたれて、いかめしい、ひげのあるかおを、まともにようとせず、ただ教師きょうしのいうことを、ひたいあせをにじませながらいていました。
「あのは、みょうなくせがあって、ひとかおばかりていて、勉強べんきょうがすこしもあたまはいっていないが、うちではどんなふうですか。」と、教師きょうしは、たずねました。
先生せんせいのおっしゃることを、よくいて、あたまれなければならぬと、うちではいいきかせているのですが。」と、母親ははおやは、恐縮きょうしゅくしました。
「いや、ひとかおるのが、あののくせであるか、いているのです。」と、教師きょうしは、自分じぶんにだけする行為こういなのか、それをりたかったのです。
「あのだけは、なにをかんがえているか、わたしどもにも、わからないことがあります。ほかのには、そんなこともありませんが、よく、ねことあそんでいて、おかあさん、このねこはどんなことを、おもっているでしょうかねと、くのであります。それは、おかあさんにも、ねこのこころなかはわからないよ、ねこにいてみなければねというと、あのは、ちょっとると、ずるそうだけれど、また、むじゃきだから、ねこは、かわいがられるんだねといって、いつまでも、ねこをているのでございます。」と、母親ははおやこたえました。
 このはなしくと、教師きょうしは、だんだん、秀吉ひできちかおられるのを、気味悪きみわるおもいました。どうかして、あの子供こどもを、学校がっこうへよこさないようにする工夫くふうは、ないものかとかんがえました。
「おかあさんにきますが、あのは、ちいさいとき、脳膜炎のうまくえんをわずらったことがありませんか。」と、教師きょうしはたずねたのです。
 母親ははおやは、自分じぶん子供こどもが、白痴はくちでないかと、いわれているとがついたので、
「そんなおぼえも、ございませんが。」と、さすがに言葉ことばをにごしていました。
「あれで、なかなかひと気持きもちや、はらにかくしているようなことを、よくてるみょうなところがあります。」と、彼女かのじょは、最後さいごに、その特長とくちょうをいって、子供こども弁護べんごしました。
「それで、おかあさんからも、いってください。学校がっこうにきても、勉強べんきょうにまったく興味きょうみがないくらいなら、そして、先生せんせいかおばかりているようでは、なんのえきにもならないことだから、いっそ学校がっこうをやめて、奉公ほうこうにいくなり、家庭かていで、しょくをおぼえるほうが将来しょうらいのためにも役立やくだつだろうと、いいきかせてください。」と教師きょうしは、こういいのこすと、きゅうせきってていきました。
 あわれな母親ははおやは、学校がっこうもんをでると、教師きょうしからけた、ひややかなかんじに、学校がっこうをいやがるのも、子供こどもばかりをめるわけにはいかぬと、ふかくかんがえながら、家路いえじいそいだのでした。
 むらまちあいだに、一けん医院いいんがあります。村人むらびとにいわせると、この医者いしゃくすりたかいから、めったに、かかれない。だから、どこでもぐすりで、まにあわせるといううわさをしました。その医院いいんのむすこのケーと、秀吉ひできち同級どうきゅうだったので、よくおなみちはなしながら、あるいてかえることがありました。
 ある秀吉ひできちは、ケーにいわれるまま、かれいえあそびによったのでした。学校がっこうでもケーは、よくできるという評判ひょうばんでした。教師きょうしケーにたいしては、秀吉ひできちとは反対はんたいで、かれつきは、いつも柔和にゅうわであり、ときには、こびるように、やさしい言葉ことばをかけるとさえおもわれることもありました。秀吉ひできちケーについて、よくふききよめられた玄関げんかんはいると、ひやりとした空気くうきかんじました。
 かたわらには患者かんじゃひかしつがあって、そこをぬけると、薬品やくひんのにおいのする診察室しんさつしつがあり、ならんで座敷ざしきになっていました。秀吉ひできちは、ケーきゃくという資格しかくで、案内あんないされるまま、おくにあるケー書斎しょさいへみちびかれました。そのさい座敷ざしきのうすぐらいとこにおいてあった、うつくしいをひろげたおおきなとりに、をうばわれたのであります。
きみ、あのとりは、なんというのかい。」と、秀吉ひできちは、ともだちのつくえのそばにすわると、すぐたずねました。
「あのとりを、まだらないの。孔雀くじゃく剥製はくせいなんだよ。」と、ケーこたえました。
「ほんとうに、きれいなとりだね。どこにすんでいるのだろうね。」
「なんでも、南洋なんようあつくににいるというよ。」
「どうやって、らえるのだろうね。」と、かれは、それから、それへと、空想くうそうしてききました。
「しかしきみ、あののいちばんきれいなところが、大毒たいどくなんだというよ。」と、ケーは、秀吉ひできちにいいました。
「あの紫色むらさきいろにぴかぴかひかるところなの。」と秀吉ひできちは、おもわずをかがやかしたのです。
「ああ、そういうはなしだよ。」
「なめればぬかしらん。」と、秀吉ひできちは、いいました。
「それは、ぬだろう。しかし、もう置物おきものにされてふるいのだから、あてにならんが、それより、もっとおそろしい毒薬どくやくたことがあるよ。ただただけでは、つまらんしろこなさ。一グラムの、いく百ぶんの一でも、それをなめると、けものでも、人間にんげんでも、ぬのだから。」と、ケーがいいました。
「そんな、おそろしいくすり、ぼくたいものだな。」と、秀吉ひできちは、ためいきをつきました。
うちにあるけれど、おとうさんが、子供こどもなんかの、るものではないと、厳重げんじゅうだなにしまってあるんだよ。」と、ともだちはこたえました。
「このあいだ、学校がっこうへおかあさんがばれて、ぼくちいさいときに、脳膜炎のうまくえんをやったのではないかと、いたそうだよ。」と、かれ正直しょうじきに、ケーにつげると、ケーきなおって、
「あのはげあたまがかい。なんで、敏感びんかんきみが、ばかなもんか。はげあたまこそ、大酒おおざけのみの酒乱しゅらんなんだよ。よくPTAピーティーエー会員かいいんいえで、へべれけになるんだそうだ。」と、いって、ケーわらいました。秀吉ひできちかえるとき、ケー玄関げんかんまでおくってながら、薬室やくしつまえをいきかけて、
きみ、あすこに、どくろのしるしのついただながあるだろう。さっきいった毒薬どくやくのびんが、あのなかに、はいっているのだよ。」と、ゆびさしました。
 秀吉ひできちは、灰色はいいろのどくろのに、なにか特別とくべつむねにせまるするどいものをかんじました。
 ちょうど、そのころのことでした。まちへささやかな教会堂きょうかいどうがたてられました。ちかくの子供こどもたちや、めぐまれない家庭かていおんなたちが、日曜日にちようびごとに、おいのりにあつまって、牧師ぼくしのお説教せっきょうをきいたのであります。
 牧師ぼくしというのは、おんな外国人がいこくじんでありました。そのしたに、日本人にっぽんじん信者しんじゃがいて、いろいろの世話せわをしたり、なにかと教会きょうかいのめんどうをみながらはたらいていました。一人ひとり青年せいねんは、かみのちぢれた、やせ姿すがた芸術家げいじゅつからしく、もう一人ひとりは、うつくしいおじょうさんでありました。平常へいじょうおんなのほうは、子供こどもらとオルガンにあわせて、讃美歌さんびかをうたい、また希望者きぼうしゃ英語えいごおしえたりしました。そして、青年せいねんのほうは、子供こどもらに、手工しゅこうのけいこをしたり、自由画じゆうがをかかせたりしました。
 ある、このわかおとこ先生せんせいは、子供こどもがならんでテーブルにかっているまえへ、クレオンとかみをくばって、
「なんでもたこと、またおもったことを、自由じゆうにして、かいてみたまえ。」といいました。
 秀吉ひできちは、なにをかいたらいいものか、自由じゆうという意味いみが、よくわからなかったのです。いつも学校がっこうでは、教師きょうし問題もんだいして、それにこたえるようにおしえられていました。せんぽんでも、まちがってはならぬのでした。だから、自分じぶんでは熱心ねっしんにかいたつもりでも、めいめいのものとくらべて、よいわるいをきめられるので、いつも、ほめられるのは、ごろ成績せいせきがいいとされているものにかぎっていました。秀吉ひできちなどは、どの科目かもくも、ほめられたことはなかったのです。
 いま、この教会きょうかいからもらったクレオンは、品質ひんしつ上等じょうとうとみえて、あかいろはまったく鮮紅せんこうだったし、むらさきいろも、いつかともだちのいえ孔雀くじゃくはねのようにひかっているし、そしてあおいろは、ステンド=グラスをとおしてあおぐ、あの奥深おくぶか大空おおぞらのようだったので、かれってうまれた創造力そうぞうりょくは、なにをかきあらわしていいか、あたまなかで、出口でぐちをしきりとさがしたのです。
 かれは、まず、まざまざとにのこっていた孔雀くじゃくをかきました。それとならべて、かれには、おけとかんずる、ひげのはえたまるかおをかきました。しかしそれは、人間にんげんかおでありません。からけば、くちからも、ちょろちょろと、へびのように、あかしたしていて、あたまをかしげていました。
「だんだん、ほんとうのきみがでて、おもしろくなるね。」と、わか先生せんせいは、なにをから見取みとったものか、秀吉ひできち勇気ゆうきづけました。
 このとき、とつぜん秀吉ひできちは、
先生せんせいかみさまは人間にんげんをみんな平等びょうどうあいしてくださるんですか。」といってききました。
「そうですとも。正直しょうじきなもの、またまずしいものは、とりわけふかあいしてくださるのです。」と、先生せんせいは、秀吉ひできちながらこたえて、なみだをうかべていました。
 やがて、北国ほっこくむらや、まちに、ちらちらとさむは、ゆきるようになりました。教会きょうかいでは、そのころからストーブをたきはじめました。
 ある秀吉ひできちのかいた自由画じゆうがは、これまでになかった特異とくいのものです。少年しょうねんらしい人間にんげん雪中せっちゅうもれてたおれていました。
 そのそばには、いつものたこ入道にゅうどうが、ひげのはえたくちけて、さもちほこるようにわらいながら、あかしたしている。またからも一筋ひとすじいとのようにいて、少年しょうねん死骸しがい見下みおろしている。そして、このものには、幾本いくほんあしがあって、それがへびのように、電信柱でんしんばしら街灯がいとうはしらに、まきついて、つめからがしたたっている。
 すると、そのとき、あたまうえ孔雀くじゃくのようなうつくしいはねのある天女てんにょが、ぐるぐるとをえがくごとくっていました。あちらのそらは、さおうみいろをし、また片方かたほうそらで、しずみかけていました。
 わか先生せんせいは、このにひどく感動かんどうしたようすでした。
「なんというだいをつけたらいいかね。」と、先生せんせいは、秀吉ひできちにいいました。
天女てんにょとおけです。」と、秀吉ひできちこたえたのです。
「ああ、それがいい。この意味いみは、どうやらわかるようだ。」と、先生せんせいは、いつまでも見入みいっていました。
 教会きょうかいへあつまる子供こどもらのには、それぞれ特色とくしょくがあり、個性こせいがあらわれていたので、教会きょうかいでは、それらの作品さくひんをあつめて、一ぱんにしめす展覧会てんらんかいもよおすことになりました。
 当日とうじつは、学校がっこう教師きょうしや、また家庭かてい父兄ふけいたちが、参観さんかんにやってきました。ちょうどひるごろのことです。参観者さんかんしゃ一人ひとりきゅう卒倒そっとうして、おおさわぎとなりました。さっそく医者いしゃをよんで、関係者かんけいしゃたちは介抱かいほうしましたが、診断しんだん結果けっかは、急性脳溢血きゅうせいのういっけつということがわかって、もはやくだしようがなかったのです。
 このとき、場内係じょうないがかりの、自由画じゆうがわか先生せんせいもやってきて、先生せんせいは二びっくりしました。死人しにんあたまがはげて、ひげのあるまるかおは、秀吉ひできちのいつもかく、おけのかおそっくりだったからでした。





底本:「定本小川未明童話全集 14」講談社
   1977(昭和52)年12月10日第1刷発行
   1983(昭和58)年1月19日第5刷発行
底本の親本:「うずめられた鏡」金の星社
   1954(昭和29)年6月
初出:「キング」
   1953(昭和28)年12月
※表題は底本では、「天女てんにょとおけ」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:酒井裕二
2017年6月25日作成
青空文庫作成ファイル:
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