正吉の
記憶に、
残っていることがあります。それは、
小学校を
卒業する、すこし
前のことでした。ある
日、
日ごろから
仲のいい三
人は、つれあって、
受け
持ちの
田川先生をお
訪ねしたのであります。
先生は、まだ
独身でいられました。アパートの
狭いへやに
住んでいられて、三
人がいくと
喜んで、お
茶を
入れたり、お
菓子を
出したりして、もてなしてくださいました。
「
君たちの
卒業も、だんだん
近づいたね。もうこれまでのように、
毎日顔を
合わせることができなくなる。
小原くんは、
入る
学校がきまったかね。」と、
一人の
方を
向いて、おっしゃいました。
「はあ、
兄さんが、
中学校へ
入ったらいいというのですけれど。」と、
小原は、
下を
向きました。
「
君のお
兄さんは、やさしい
方だ。
君は、もっと
体をじょうぶにせんければいけんよ。」
先生は、じっと、
早く
両親に
別れた
小原の
細々とした
体を
見ていられました。
高橋は、
早く
父親に
別れたけれど、
母親があるのでした。
正吉だけは、
両親がそろっていて、いちばん
幸福の
身の
上であったのです。
外には、
寒いから
風が
吹いていました。ときどきガラス
窓をガタガタと
鳴らしました。
先生は、しばらくだまっていられましたが、
「みんなは、
世間に
名を
知られるような、えらい
人になれなくともいいから、
正しい
人間となって、どうか
幸福に
暮らしてもらいたい。」といって、うつむかれたが、そのとき、
目の
中に
涙が
光ったのです。
先生のお
言葉は、
胸にしみて、
思わず
知らず、三
人は、いっしょに
頭を
下げました。
それは、つい、
昨日のことのようなのが、もう四、五
年もたちます。
小学校を
出てから、三
人の
身の
上にも、
変化がありました。
中でも
気の
毒なのは、
小原で、
体が
弱くて、
中学校を
退きました。
正吉も、また
最近母を
失って、
年をとった
父親だけとなりましたが、
工手学校を
出ると、すぐ
勤めています。
高橋は、このほどようやく
工芸学校を
卒業して、
田舎へいくことになったのです。
正吉と
高橋は、
同じ
種類の
学校でありましたので、
平常も
往来をして、
自分たちの
希望を
物語ったり、
身のまわりにあったことなどを
打ち
解けて、
話し
合ったのでした。
「
僕のお
母さんはね、
昔の
芝居が
好きなんだよ。だけど
歌舞伎座なんて、
高いだろう。それに、いく
暇もないのさ。
僕と
妹のために、
盛り
場さえめったに
出られなかったのだものね。
僕は、お
母さんが
達者なうちに、すこしは
楽をさしてあげたいと
思うのだけれど、おぼつかないものだな。」と、ある
日、
高橋は、
正吉に
向かって、いいました。
「しかし、お
母さんは、お
達者なのだろう。」
「ああ、
病気ってしたことがないよ。それも、
二人の
子供を
自分の
手で
養育しなければならぬので、
気が
張っているんだね。」
高橋は、そう
答えました。
正吉は、お
母さんのことを
考えると、すぐ、
涙が
目にあふれてくるのです。
「
僕も、一
度お
母さんを、
湯治にやってあげたいと、
思っているうちになくなられて、もう
永久に
機会がなくなってしまった。」と、
正吉は、
歎息をもらしました。
「しかし、
君には、まだ、お
父さんがあるからいい。せいぜい
孝行をしてあげたまえ。」
なくなった
母親を
思い
出している、さびしそうなお
友だちの
顔を
見ると、
高橋は、こういってなぐさめたのです。
もう、
季節は、
秋の
末でありました。
正吉は、
高橋を
見送るため、
門から
出ました。
短い
日ざしは、
色づいた
木立や、
屋根の
上に、
黄色く
照り
映えていました。
「
高橋くんも、こちらに
勤め
口があるといいんだがな。」
正吉は、ただ、
近く
別れるのが
悲しかったのでした。こちらに、
思わしい
就職口がないので、
高橋が、
地方へいくのを
知っているからです。
「
雪は、
深く
降らないけれど、
僕のいくところは、
冬の
寒い
田舎なんだよ。
大仕掛けの
堤防工事なんだがね、そこへしばらくいくつもりなのだ。ただ
母と
妹を
残していくのが、なんだか
気がかりなんでね。」と、
高橋は、いいました。
「そう
長くは、いっていないのだろう。」
「ああ、しかし、こちらにいい
口があるまでは、どの
途、しかたがないのさ。」
「きっと、そのうちにはあるよ。」
「
僕たち、
若いうちに、いろいろ
経験するのもいいかもしれない。」と、
高橋は、
肩をそびやかして、
答えました。
「そうさ。
僕も、
満洲へいこうかと
思ったんだ。しかしおふくろを
失って、
間もないので、
父がさびしがると
思ったので、
見合わせたのさ。」と、
正吉は、
西の
紅く
夕焼けした、
空をながめていいました。
正吉は、
月給の
入った
翌日のこと、
田舎へいく
高橋のために、
送別会を
開くことにしました。
あるレストランで、
高橋と
小原と
自分の三
人が、
夕飯を
食べながら
親しく
話をしたのです。そのレストランは、
大きなきれいな
店でありました。
煖房装置もあれば、
壁にはオゾン
発生機を
備えてあって、たくさんのテーブルには、それぞれ
客が
対い
合っていました。
南洋産の
緑色の
葉の
長い
植物が、
大きな
鉢に
植えられて、すみの
方と、
中央に
置いてありました。
正吉は、
勤めるようになってから、こんな
場所へは、
先輩につれられたり、また
社員たちときたことがあるけれど、
小原も
高橋も、きわめてまれなことだけに、
話の
合間に、
頭を
上げて、あたりを
物珍しそうにながめていました。
話は、
正吉と
高橋の
間で、いつかまたお
母さんのことになったのです。ここでも、
小原だけは、
母の
顔さえよく
覚えていなかったので、
二人の
話を
笑ってきくうちにも、どことなくさびしそうでありました。
「わがままいわなければ、よかったと
思うよ。お
母さんがいなくなってから、わかった。しかし、もう
遅いのだ。よく
無理をいったり、また
頼んでおいたことを
母が
忘れたといって、
小言をいったりしてすまなかった。」と、
正吉はいっていました。
「
僕も、
悪いところでなければ、
母と
妹をつれていくんだけれどなあ。」と、
高橋がいいました。これを
聞いていた、
小原は、
「いいなあ、
君たちが、うらやましいよ。
僕には、そうした
思い
出もない。
小さいときから、
母も
父も、ないのだからね。」と、
鼻をつまらせたのです。
「そう、もうこんな
話はやめよう。」と、
正吉が、いいました。
三
人は、フライだのマカロニだの、いろいろ
食べたり、サイダーや、コーヒーを
飲んだりして、
時計が九
時を
過ぎてから、そこを
引き
上げました。
会計は、
少女の
持ってきた
伝票を
見て、
正吉が、
払ったのであります。
道順で、
高橋が
先に
二人と
別れました。
「
出発の
日には、
送るからね。」
「
会社が、
忙しいなら、いいよ。」
「なに、どうか
都合するさ。」
あとは、
小原と
正吉の
二人が、
星晴れのした
空を、
公園の
方に
向かって
歩いていたのです。
「
今夜は、ご
馳走になって、すまなかった。」と、
小原がいいました。
「なんでもないよ。
今度の
日曜に、
動物園でもいってみない?」と、
正吉が、いうと、
「お
天気だったらね。」と、
小原は、
喜びました。そして、
赤いネオンサインの
方を
見ながら、
「四
月になったら、また
学校へ
上がるつもりだ。」と、このごろ、
体がよくなったので、
小原は、
元気にいいました。
「
学校なんか、すこしくらいおくれたっていいよ、なるたけ
大事にしたまえ。」
二人は、
四つ
辻のところで、また
別れたのです。
先刻から、
正吉の
頭の
中で、もやもやしていたものがあります。それは、レストランの
計算が、ちがっているような
気がしたのでした。なんだかすこし
安すぎるので、
正直な
彼は、そのままにしておけない
気がして、
公園のベンチのところでポケットから、
手帳と
鉛筆を
取り
出して
計算をはじめました。
頭の
中では、うまくいかなかったのです。
「ああ、やはりサイダー二
本がつけ
落ちになっている。これは、あの
少女の
損になるのだろうか。」
正吉が、
食べ
物や
飲み
物を
運んできた、
目の
星のように
清らかな、
白いエプロンをかけた
少女の
姿を
思い
浮かべました。
彼は
急いで
街へひきかえしました。そして、
時計を
見ると、もう十
時を
過ぎています。
「いつのまに、こんなに
早く
時間がたったろう。」と、つぶやきながら、
例のレストランの
前へくると、もう
店は
閉まっていました。なにか
仕事があって、
一人おくれたのか、
普通の
娘さんのようなふうをした
丸顔の
少女が、
横の
入り
口から、
出たのでありました。
正吉は、その
少女を
呼び
止めた。
「すこし
会計が、ちがっていたのですが。」と、いいました。
「
私にはわかりませんが、なにか
余計にいただいたのでしょうか。」と、
少女が
聞きました。
「いや、サイダー二
本の、つけ
落としがあったと
思うのです。」
こういうと、
彼女は、
正直な
人だと
思ったらしく、
軽やかに
笑いました。
「こちらの
手落ちなんですから、かまいませんよ。」といいました。
「
受け
持ちの
女給さんに、
損をかけまいと
思ってきたのです。」
「まあ、ごしんせつに、けっして、そんなことはないんです。それに、もう、みんなしまった
後ですもの。」といいました。
正吉は、そう
聞くと、いくらか
気持ちが
楽になりました。
急いで、
駅に
入ろうとしたときに、
夜遅く、
寒いのに、
外に
立ちながら、
花を
売っている
少女を
見ました。やはり
家のために
働いているのであろうが、あまり
振り
向いて
見るものすらありません。
「そうだ、あの
金で、この
少女の
花を
買ってやろう。」
正吉は、
白い
百合の
花と、
赤いカーネーションの
花を
求めました。
彼は、
駅の
階段を
上りながら、
「たとい、一
銭でもまちがった
金は
受け
取ってはなりませんよ。」と、
教えられた、お
母さんの
言葉を
思い
出しました。もうそのお
母さんは、この
世界のどこを
探してもいられないが、お
母さんの
教えだけは、かならず
守りますと、
正吉は、お
母さんの
霊に
向かって、
誓ったのであります。