雪くる前の高原の話
小川未明
それは、険しい山のふもとの荒野のできごとであります。
山からは、石炭が掘られました。それをトロッコに載せて、日に幾たびということなく高い山から、ふもとの方へ運んできたのであります。ゴロッ、ゴロッ、ゴーという音をたてて石炭を載せた車は、レールの上をすべりながら走ってゆきました。そのたびに、箱の中にはいっている石炭は、美しい歯を光らしておもしろそうに笑っていました。
「私たちは、あの暗い、寒い、穴の中から出されて、この明るい世界へきた。目にうつるものは、なにひとつとして珍しくないものはない。これから、どこへ送られるだろう?」と、同じような姿をした石炭は語り合っていました。
だんまり箱は、これに対してなんとも答えません。むしろ、それについて知らないといったほうがいいでありましょう。しかし、レールは、そのことをよく知っていました。なぜなら、自分の造られた工場の中には、たくさんの石炭を見て知っているからであります。いま、石炭がゆく先をみんなで話し合っているのを聞くと、ひとつ喜ばしてやろうとレールは思いました。
「あなたがたは、これから、にぎやかな街へゆくのですよ。そして、働くのです……。」といいました。
石炭は、ふいにレールがそういったので、輝く目をみはりました。
「私たちは、工場へゆくんですか? そんなようなことは山にいる時分から聞いていました。それにしても、なるたけ、遠いところへ送られてゆきたいものですね。いろいろな珍しいものを、できるだけ多く見たいと思います。それから私たちは、どうなるでしょうか……。知ってはいられませんか?」と、石炭は、たずねました。
レールは、考えていたが、
「あなたがたが、真っ赤な顔をして働いていなされたのを見ました。そのうちに、見えなくなりました。なんでも、つぎから、つぎへと、空へ昇ってゆかれたということです。考えると、あなたがたの一生ほどいろいろと経験なさるものはありますまい。私たちは、永久に、このままで動くことさえできないのであります。」と、レールはいいました。
石炭は、トロッコに揺られながら考え顔をしていました。なんとなく、すべてをほんとうに信ずることができないからでした。
そのとき、かたわらの赤く色づいた、つたの葉の上に、一ぴきのはちが休もうとして止まっていましたが、トロッコの音がして眠れなかったので、不平をいっていました。
「なんというやかましい音だろう。びっくりするじゃないか。」と、はちはいいました。
「安心して止まっていらっしゃい。天気がこう悪くては、どこへもいかれないでありましょう。野原はさびしいにちがいない。遅咲きのりんどうの花も、もう枯れた時分です。そして、あの空の雲ゆきの早いことをごらんなさい。天気のよくなるまでここに止まっていて、太陽が出てあたたかになったら、里の方をさして飛んでいらっしゃい。」と、つたの葉は、しんせつにいってくれました。
若い、一本のすぎが、つたとはちの話をしているのを冷笑しました。
「トロッコの音にたまげたり、これしきの天気におびえているようで、この山の中の生活ができるものか。もっとも、もう一度嵐がきたなら、つたなどは、どこへか吹き飛ばされてしまうであろうし、あんな小ばちなどは、凍え死んでしまうことだろう。この俺は、嵐と吹雪に戦わなければならない。そして、もうおそらく、過ぎ去った夏の日のように、銀色に輝く空の下で、まどろむというようなことは、また来年まではできないであろう……。」と、すぎの木は、いっていました。
赤くなったつたは、勇敢な若いすぎの木のいっていることを聞いて、なんとなく年とってしまった、自分の身の上を恥ずかしく感じたのであります。なにもこれに対して、いうことができなかったのでした。そして、すぎの木のいうように、今夜にも、すさまじい嵐が吹きはしないかと身震いしながら、空を仰いでいました。
赤い葉の面に止まっていた小ばちは、飛び上がって、つい近くを走っていった石炭の上に止まりました。この黒い、ぴかぴか光るものはなんだろうと思ったからです。
石炭は、にこにことして、だまって、この小さな生き物の動くようすを見守っていました。はちは石炭の臭いをかいだり、また小さな口でなめてみたり、どこからきたかを自分の小さな感覚で知ろうとしました。しかし、それはわかるはずがなかったのです。
レールは、また、このはちをよく見知っていました。なぜなら、この小さい、敏捷な、すきとおるように美しい翅を持ったはちが、つねに、この近傍の花から、花を飛びまわっていたからです。
夏のはじめのころに、はちは他のはちたちと共同をして、一つの巣を花の間に造っていました。そして、みつを求めに彼らは毎日遠くまで出かけたのでありました。朝日の細い、鋭い、光の箭が、花と花の影の間から射し込む時分になると、彼らは、レールの上を、それについて南へ、北へと飛んでいったのを、レールは見たのでありました。はちたちがいたるところの花にとまって、倦まずにみつを集めている間に、太陽は高く上がりました。そして、トロッコの音がしてレールの上が熱くなり、銀のように白く光る風が、高原を渡ったのであります。毎日彼らは同じように働きました。このうちに、巣の中に産み落とされた卵は孵化して、一ぴきのはちとなり、めいめいは、いずこへとなく飛んでゆきました。また、わずかに残ったはちは夏の終わりまで、同じところを去らなかったのであります。
花は、季節の移りとともに、だんだん少なくなり、散ってゆきました。はちはレールの上にとまって、日の光を浴びて、じっとしていることもありました。
「もう、じきにトロッコがきますよ。」と、レールは、眠っているはちを揺り起こしてやったこともあります。はちは、飛び去りました。空の色は青々として晴れていました。はちは、どこへいっても自由であったのだけれど、やはり、このあたりから去りませんでした。
高い山には、秋がきて、はやくも冷気のたつのが、ずっと里のほうよりは早うございました。いろいろの虫が、自分たちの身の上を悲しんで泣いています。けれど、はちは、その地面をはっている虫のようには悲しみませんでした。どこへなりと飛んでゆこうと思えばいけたからです。けれど、やはり、彼は、古巣のかかっているところを恋しがっていました。
夏のはじめの時分には、どんなに、自分たちは楽しかったろう。このあたりは、自分たちの朗らかに歌う唄の声でいっぱいであった。そして、紫や、赤や、青や、黄や、白の美しい花たちは、いずれも自分たちの姿をほめはやしたものだ。そして、すこしでも長く、自分のところにいてもらいたいと願ったものだ。しかし、もう、自分たちの仲間は散ってしまった。美しい花は、とっくの昔に、なくなってしまった。けれど、なんで、もう一度ああいうことがこないといえよう……。はちには、こんなことも空想されたのでした。
太陽が、だんだん方向を変えて、レールの上がかげり、地の上が冷たくなって、下の枝には終日、日の当たらないことがあるようになってから、彼は、高い枝にからんだ、つたの葉に止まっていたのでした。いつしか、そのつたの葉もまた赤く色づいてきたのであります。しかしやさしいつたの葉は、自分のやがて散ることも忘れて、つねに、はちを慰めていました。
「もう、じきに太陽が上がりますよ。そうすると暖かになります……。」と、つたの葉はいいました。
であるのに、たえず、すぎの若木は、周囲の草や、木や、虫などを冷笑っていたのです。
「俺は、ひとり戦わなければならない。みんなが、いくじなく枯れたり、散ったり、死んだりしてしまったとき、吹雪と嵐に向かって叫び、戦わなければならない。」と、誇り顔にいっていました。
しかし、だれも、それに対して反抗するものはなかったのです。すべて、すぎの若木のいうとおりだったからです。
石炭に止まって、はちがじっとしていると、
「私たちといっしょに町へゆきませんか。私たちはどうせ工場へつれてゆかれるだろうけれど、あなたは、町へいったら、自由にどこへでも飛んでゆきなさるがいい。町は、にぎやかで暖かだということを聞いています。私たちもまた町へはじめてだが、そこは明るくていろいろな美しいものがあるということです……。私たちといっしょにゆきませんか。」と、石炭は、はちに向かっていいました。
はちは考えました。自分は、あまり寒くならないうちに、隠れ場所を見いださなければならないが、この野原の中にしようか、それとも石炭がゆこうとしている町にしようか、もっと考えてみなければならない。年とった仲間は、冬の雪のある間を、寺のひさしの下に隠れ場を造ってはいっていたというから……このあたりは、雪が深く積もって、適当な場所が見いだされないかもしれない。なるほど、石炭のいうように、このまま町へゆくとしようかと、美しい翅を震わしてはちは考えていました。
このとき、トロッコの上に乗っていた労働者は、はちに目をとめると、
「この辺に巣があるとみえて、いつか俺の足を刺しやがった……。殺してくれようかな。」といって、足を揚げて、はちを踏みつぶそうとしました。しかし、はちは危ないところを脱れて飛び立ちました。その後で、石炭がとばっちりを食って大騒ぎをしていました。
はちは、レールについて、もとの場所へ帰ろうと思いました。そこにはやさしい、つたの葉が待っていたからです。
はちは、レールについて飛んでくるうちに、レールが苦しそうに、身を曲げて地面をはっているのに、はじめて気がついて、
「なんで、あなたは、そんなようすをしているのですか。」と、はちは、レールにたずねました。レールは、ものすごい目つきで、はちを見上げて、
「私が、こうして、苦しんでいる姿は、いまはじめて気がついたのですか。もう、長い間ここにうめいている。それも、老いぼれたくぎめがしっかりと私の体を押さえていて放さないからだ……。」と、うらみがましく答えました。
はちは、こんな強そうに見えるレールにも、こうした悩みと苦しみとがあることを、はじめて知ったので、なおも子細に、そのようすを見とどけようと思って、くぎが押さえているところへいってみました。
なるほど、赤くさびた、老いぼれたくぎが、いっしょうけんめいにレールを押さえつけているのでした。はちはそこへ飛んできてとまると、
「なぜ、そんなにあなたはレールを押さえつけているのですか。」と、たずねたのであります。
「俺は人間からいいつかったことをしているのさ。」
「しかし、あなたとレールとは、もと同じ一家ではありませんか。兄弟といってもいいでしょう。」と、はちは、同じ鋼鉄でできていたから、そういったのです。
「しかし、俺が人間からいいつかったことを忘れて、手を放したら、なにか悪い結果になりはしないかと心配するのだ。」と、赤くさびたくぎがいいました。
「だが、あなたは、だいぶ年をとっていられますから、すこしぐらい休まれたって、だれも不思議とは思いますまい。」と、はちは答えたのであります。
さびたくぎは、なるほどというような顔つきをして、はちのいうことを聞いていました。
はちが、やがて、赤いつたの葉の上にもどってきました。つたの葉は、空を見上げながら、
「また、あらしになりそうですね。」と、心配そうな顔つきをしていました。
ひとり、すぎの若木は、傲慢に、強そうなことをいっていばっていたのであります。
赤さびのしたくぎは、はちのいったことから、つい気がゆるんでレールを押さえつけていた手を放しました。すると、レールは、すかさずに、曲げていた体を伸ばしたのです。このとき、トロッコが、ほかの石炭を積んで山から下ってきました。つたの葉の上にとまっていたはちは、先刻の石炭は、いまごろどこへいったろう……。町の工場へは、まだ着くまいと思っていた瞬間に、トロッコが脱線して、異様な音をたてたかと思うと、こちらへすべってきてすぎの若木のかたわらにひっくり返ったので、すぎの若木は石炭に押されて曲がってしまいました。ふいのできごとに驚いて、はちは前後を忘れて、かなたの大きな、はんのきのところまで逃げてしまいました。
その晩、真っ白に、この高原には、雪が降ったのであります。
底本:「定本小川未明童話全集 6」講談社
1977(昭和52)年4月10日第1刷
底本の親本:「未明童話集4」丸善
1930(昭和5)年7月20日
初出:「童話」コドモ社
1926(大正15)年1月
※「工場」に対するルビの「こうば」と「こうじょう」の混在は、底本通りです。
※表題は底本では、「雪くる前の高原の話」となっています。
※初出時の表題は「雪來る前の高原の話」です。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:へくしん
2022年5月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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