さかずきの輪廻

小川未明




(この童話どうわはとくに大人おとなのものとしてきました。)


 むかし京都きょうとに、利助りすけという陶器とうきつく名人めいじんがありましたが、このひとは、あまりつたわらなかったのであります。一だいつうじて寡作かさくでありましたうえに、名利みょうりというようなことは、すこしもかんがえなかったひとでしたから、べつに交際こうさいをしたひとすくなく、いい作品さくひんができたときは、ただ自分じぶんひとりで満足まんぞくしているというふうでありました。
 しかし、世間せけんというものは、評判ひょうばんたかくなければ、そのひとつくったものをおもんずるものでありません。一人ひとりや、二人ふたりは、まれに、をとめてることはあっても、問題もんだいにしなければ、永久えいきゅうに、それだけでわすれられてしまうのです。
 にうずもれた、きのこのように、利助りすけ作品さくひんは、あらわれませんでした。そしてうすあおい、遠山えんざんほどの印象いんしょうすらもその時代じだいひとたちにはのこさずに、さびしく利助りすけってしまいました。
 それから、いくねんものあいだしげもなく、かれつくった陶器とうきは、こころないひとたちのあつかわれたのでありましょう。がらくたのあいだじっていました。
 利助りすけ陶器とうき特徴とくちょうは、その繊細せんさい美妙びみょうかんじにありました。かれ薄手うすでな、純白じゅんぱく陶器とうきあい金粉きんぷんとで、花鳥かちょうや、動物どうぶつ精細せいさいえがくのにちょうじていたのであります。
 かわらのようなあつい、不細工ぶさいくものあいだに、このかみのようにうすい、しかも高貴こうき陶器とうきがいっしょになっているということは、なんというこころないことでありましょう?
 しかもこころないひとたちは、それをいっしょにして、あらくあつかったのであります。こうして作数さくすうすくなかった利助りすけ作品さくひんは、時代じだいをへるとともに、いつしかなくなってゆきました。
 そらかがやほしが、一つ、一つ、せるように、それはさびしいことでした。そしてくだけた作品さくひんは、砂礫されきといっしょに、みぞや、つちうえてられて、からってゆくのでした。
 しかし、また、人間にんげんのほんとうの努力どりょくというものが、けっしてむなしくはならないように、しん芸術げいじゅつというものが、永久えいきゅうに、そのひかりみとめられないはずがないのであります。
 ひとたび土中どちゅうにうずもれた金塊きんかいは、かならず、いつかつちしたからひかりはなつときがあるように、利助りすけ作品さくひんが、また、芸術げいじゅつ愛好あいこうするひとたちからさわがれるときがきたのでした。
 けれど、その時分じぶんには、すくない品数しなかずは、ますますすくなくなって、完全かんぜんなものとては、だれか、利助りすけ作品さくひんあいしていたごく少数しょうすうひと家庭かていのこされたものか、また、偶然ぐうぜんのことでだなのすみにほかの陶器とうきかさなりって、不思議ふしぎに、やぶれずにいたものだけであったのです。
利助りすけというような名人めいじんがあったのに、どうしていままでられなかったろう。」と、陶器とうき愛好家あいこうか一人ひとりがいいますと、
「ほんとうの名人めいじんというものは、みんなあとになってからわかるのだ、見識けんしきたかかったとでもいうのだろう。」と、そのはなし相手あいてはさながら、名人めいじんが、その時代じだいでは、不遇ふぐうであったのをあやしまぬようにこたえました。
わたしは、利助りすけさくがたまらなくきだ。まあ、この藍色あいいろえていてみごとなこと。金粉きんぷんいろもその時分じぶんとすこしもわらない。上等じょうとうのものを使つかっていたとみえる。」
貧乏びんぼうらしをしたということだが、芸術げいじゅつのうえでは、なかなかの貴族主義きぞくしゅぎだった。」
わたしは、利助りすけつくった完全かんぜんなさらがあるなら、どれほどのかねしても、一まいほしいものだ。」
「そのかんがえは、ぜいたくだろう。なにしろ、あの薄手うすででは、大事だいじにして、しまっておいても保存ほぞんは、容易よういではない。」
「なぜ、あんなに、薄手うすでいたものだろうか。」
「あの薄手うすでがいいのだ。あれでなければあの純白じゅんぱくいろせないのだ。」
「もっとも、利助りすけほどの天才てんさいは、自分じぶんのものがなが保存ほぞんされるためとか、どうとかいうようなぞくかんがえはもたなかったろう。ただ、気品きひんたかいものをつくげたいとおもっていたにちがいない。」
「そのとおりだ。」
 陶器とうき愛好家あいこうかによって、こんなはなしがかわされたのは、すでに、利助りすけんでから、百年近ねんちかくたってからのちのことであった。
 ここに、一人ひとり陶器とうききなおとこがありました。ちょうど江戸末期えどまっきのころで、ある日本橋辺にほんばしへんあるいていまして、ふとかたわらにあった骨董店こっとうてんって、いろいろなものをているうちに、だいうえいてあったさかずきにがとまりました。
 おとこは、それをってみますと、おもいがけない、利助りすけつくったさかずきでした。しかも無傷むきずあいいろもよく、またいてあるおもむきもうぶんのないものでありました。
「ほう、めずらしいさかずきだな。」
と、かれは、こころおもいました。
 さだめし高価こうかのものであろうとおもいながらいてみますと、はたして相当そうとうあたいでした。しかし、ほしいとおもったものは、無理むりをしてもにいれなければ、のすまないのが、こうした好事家こうずかつねであります。おとこは、それをもとめて、うちかえりました。
 かれは、どんなに、その一つのさかずきをれたことを、うれしくおもったでしょう。
「どうして、このうすいさかずきが、こわれずに、今日きょうまでのこっていてくれたろう。そして、ほかのひとにとまらずに、おれにとまってくれたろう? 不思議ふしぎにも、また、ありがたいことだ。きっと、世間せけんひとは、利助りすけという名人めいじんをまだらないからだろう。これにいてあるねずみのはどうだ? このあいえていて、いまにもにおいそうなこと、金色きんいろの――ちょうのはねいろどった、ただ一てんではあるが、――けそうに、あかみのあるひかりふくんでいること、ほんとうに、おどろくばかりだ。」
 かれは、さかずきをったまま、ぼんやりとしていました。まちがたとなりました。さまざまの物売ものうりのごえがきこえてきたり、また人々ひとびと往来おうらい足音あしおとがしげくなって、あたりは一はざわめいてきました。こうして、やがては、しっとりとした、しずかなよるにうつるのでした。
 かれは、この黄昏方たそがれがたに、じっとさかずきをって、見入みいりながら、利助りすけというような名人めいじんが百年前ねんまえむかし、このなか存在そんざいしていたことについて、とりとめのない空想くうそうから、ゆめるような気持きもちがしたのです。
 かれは、うれしさをとおりこして、あるさびしさをすらかんじました。そして、よる燈火あかりしたぜんえて、毎晩まいばんのように徳利とくりさけを、そのは、利助りすけのさかずきに、うつしてみたのです。
「まあ、これをい。ねずみがいて、いまにもしそうだ。」
 かれは、家内かないのものをんで、利助りすけつくったさかずきのなかをのぞかせました。
 みんなは、陶器とうきについて、見分みわけるだけの鑑識かんしきはなかったけれど、そういわれてのぞきますと、さすがに名人めいじんさくだというこりました。
「ねずみのしたにある、のなっていますくさは、なんでございましょうか?」と、女房にょうぼうはきいた。
「これは、やぶこうじだ。なんといいではないか。」と、かれは、こうこたえてとれました。
「ようございますこと。」
「ここが、名人めいじんじゃ、自然しぜんおもむきが、こんなちいさなさかずきのなかにあふれているかんじがする。」
「しかし、よく、こんなさかずきが、つかりましたものでございますこと。」
なかには、ほんとうのあきというものはすくないのだ。」
「いくら、名人めいじんましても、ほんとうにわかるひとがなければ、られずにしまうのでございましょうね。」
「そうだ。」
 かれは、こんなはなしをして、当座とうざは、名人めいじんつくったさかずきが、にはいったことをよろこんでいました。
「このさかずきだけは、わらないようにしてくれ。」と、かれは、家内かないのものに、よくいいきかせました。
 女房にょうぼうをはじめ、家内かないのものは、そのさかずきをあつかうことがおそろしいようながしました。
「どうか、このさかずきは、はこにいれて、しまっておいてくださいませんか。わるとたいへんでございますから。」と、女房にょうぼうは、あるとき、かれかっていったのでした。
 かれは、しばらく、だまってかんがえていました。そして、あたまげて、おだやかなかおつきをして女房にょうぼうました。
注意ちゅういをして、それでわったときはしかたがない。なるほど、このさかずきもたいせつなしなには相違そういないが、人間にんげんは、もっとたいせつなものをどうすることもできないのだ。こうして、このさかずきを愛撫あいぶするわたしどもも、いつまでもこのなかきてはいられるのでない。さかずきも大事だいじだが、だれのちからでもそれより大事だいじ自分じぶんいのちをどうすることもできないのだ。そのことをおもえば、なにものにも万全ばんぜんすることはかなわないだろう。」と、かれはいいました。
 ながあいだ江戸時代えどじだい泰平たいへいゆめやぶれるときがきました。江戸えど街々まちまち戦乱せんらんちまたとなりましたときに、この一人々ひとびとも、ずっととおい、田舎いなかほうのがれてきました。そして、そこで、余生よせいおくったのであります。
 江戸えどから、田舎いなかへのがれてくる時分じぶんに、みんないろいろなものをてて、のままでげなければなりませんでした。おんなは、平常ふだんたいせつにしていた、くしとか、こうがいとか、荷物にもつにならぬものだけをち、おとこは、羽織はおり、はかまというように、ほかのものをっては、なが道中どうちゅうはできなかったのです。
 しかし、かれは、利助りすけのさかずきをってゆくことをわすれませんでした。田舎いなかひととなりましてからも、かれは、利助りすけのさかずきをしてながめることによって、さびしさをなぐさめられたのであります。
 こうして、かれは、晩年ばんねんおくりました。そして、高齢こうれいでこのなかからったのであります。かれが、なくなっても、そのさかずきだけは、完全かんぜん姿すがたのちまでのこりました。
 かれ女房にょうぼうは、いまおばあさんとなりました。そして、彼女かのじょが、きながらえているあいだは、毎晩まいばんのように、利助りすけのさかずきにさけをついで、これを亡父ぼうふ御霊みたままつってある仏壇ぶつだんまえそなえました。
「おとうさんは、このさかずきがおきで、毎晩まいばんこのさかずきでおさけをめしあがられたのだ。」と、彼女かのじょは、いいながら、線香せんこうてて、かねをたたきました。
 そのそばで、老母ろうぼのするのをていた子供こどもらは、
「そのさかずきは、いいさかずきなんですか。」と、ききました。
「ああ、なんでもいいさかずきだと、おとうさんはいっていられた。これをわらないように大事だいじになさいよ。これだけが、このうちたからだと、いってもいいんだから。」と、老母ろうぼはいいました。
 子供こどもらは、うなずきました。そして、そのさかずきを大事だいじにしました。
 やがて女房にょうぼうも、このからるときがきました。子供こどもらは、はは御霊みたまをも亡父ぼうふのそれといっしょに仏壇ぶつだんなかまつったのであります。そして、はは生前せいぜん毎晩まいばんのように、さけをさかずきについであげたのをていて、ははのちも、やはり仏壇ぶつだんさけをさかずきについであげました。
 あるときは、仏壇ぶつだんに、あかくなった南天なんてん徳利とくりにさされてがっていることもありました。そして、そのあおあかのささったした利助りすけのさかずきは、なみなみとこはくいろさけをたたえてそなえられていました。
 あるときは、きよらかな、ひびきのんだ、かねおとが、ちょうどさかずきのさけうえわたって、そのさけいけがひじょうにひろいもののようにかんじられることもありました。そして、ろうそくの火影ほかげがちらちらとさかずきのふちや、さけうえうつるのをて、そこには、この現実げんじつとはちがった世界せかいがあり、いまその世界せかいが、夕焼ゆうやけのなかにまどろむごとくおもわれたこともありました。
 子供こどもらは「ほとけさまのさかずき」だといって、そのさかずきをたいせつにしていました。そのさかずきをみだりにってみることも、けがれるからといってはばかりました。
 さかずきは、仏壇ぶつだんのひきだしのなかに、いつもていねいにしまわれてありました。そして、晩方ばんがたになるとされてさけをついでげられました。やがて、ろうそくのがともりつくした時分じぶんに、かねをたたいて、さかずきのさけは、べつのさかずきのなかうつされました。
「おじいさんのめしあがったあとさけは、あじがうすくなった。」といって、息子むすこは、そのさけ自分じぶんめみました。
 大事だいじなさかずきだからというので、息子むすこが、そのさかずきにさけをついでげたり、また、ろさなかったときは、かれ女房にょうぼうがいたしました。女房にょうぼうは、しんちちはは子供こどもではなかったけれど、もっともよく息子むすこ心持こころもちを理解りかいしていたからです。そして、いつしか、かれおなじように、先祖せんぞれいたいして、それをなぐさむることをおこたらなかったからです。
 しかし、たとえ、いかように、こころづくしをしても、もう、んでしまったひとは、永久えいきゅうにものをいわなければ、こたえもしない。仏壇ぶつだんに、ささげられたさかずきのさけは、ほんとうに一てきげんじはしなかったのです。
きなさけげても、おとうさんは、めしあがらなければ、お菓子かしげても、おかあさんは、おきだったのに、めしあがりはなさらない。」と、息子むすこは、あるときは、仏壇ぶつだんまえって、なみだぐんでしみじみといったことがありました。
 田舎いなかは、変化へんかとぼしいうちに月日つきひはたちました。ふゆさむあさ仏壇ぶつだんに、燈火あかりがついているときに、そとほうでは、子供こどもらが、ゆきうえたこげている、とうのうなりごえがきこえてくることがありました。ゆきこおって、子供こどもらは、自由じゆうに、あちらこちらんであるきました。
 それと、仏壇ぶつだん燈火あかりとは、なんのえんがないようなものの、やはり燈火あかりはかすかなかがやきをはなって、そのかがやきの一筋ひとすじに、たこのうなっている、あお大空おおぞらてと、相通あいつうずるところがあることをおもわせたのです。よるは、くらそとに、木枯こがらしがすさまじくさけんでいました。そんなとき、たたく仏壇ぶつだんかねは、このいえからはなれて、いつまでもたよりなく、荒野こうやなかをさまよっていました。
 いつしか、まご時代じだいとなりました。
 かれは、ふるびた、朱塗しゅぬりの仏壇ぶつだんまえっても、なんのこともかんじなくなりました。
 ある仏壇ぶつだんのひきだしをけてみますと、ちいさなはこなか利助りすけのさかずきがはいっていました。かれは、これをしてみましたけれど、それがいいさかずきであるか、そうでないかということは、かれにはわかりませんでした。
 けれど、まごは、先祖せんぞから大事だいじにしていたさかずきであるということだけはっていましたので、これをだれかに、鑑定かんていしてもらいたいとおもいました。
 近所きんじょに、一人ひとりのおじいさんがありました。このひとは、なんでも、いまどきのものより、むかしのものがいいときめていました。書物しょもついてあることも、むかしのほうのが、かたくていいといっていました。こよみも、新暦しんれきよりは、旧暦きゅうれきのほうが季節きせつうつわりによくっているといっていました。それで、時計とけいすら、数字すうじきざんであるものよりは、日時計ひどけいのほうが、正確せいかくだといって、ふねかたちをした、日時計ひどけい日当ひあたりにして、帆柱ほばしらのような、まっすぐなぼうからちるくろかげによって時刻じこくをはかるのでした。
 まごは、そのおじいさんのところへ、さかずきをってまいりました。
「おじいさん。どうか、このさかずきをてくださいまし。」と、かれたのみました。
 きれいきな、おとこやもめのおじいさんは、いえうちをちりひとつないようにきよめていました。おじいさんは、なにをたずねられても、らぬといったことはありません。で、むらでの物知ものしりでありました。さっそく、おおきな眼鏡めがねをかけて、
「どれ、そのさかずきかい。」といって、って子細しさいにながめました。
「たぬきかな? いや、ねずみかな、そうだ、ねずみらしい。は、あまりうまくないな。けれどこのあいいろがなかなかいい。いまどきのものに、こうした、あいえたいろられないな。まあ、いいしなだろう。」といいました。
「だれが、つくったのでしょうか。」と、まごはたずねました。
 おじいさんは、また、さかずきをりあげて、ながめました。
「そうだ、利助りすけいてある。いたことのないだな。」
 結局けっきょく、たいしたしなではないが、まあふるいさかずきだから、いまどきのものとくらべるとわるいことはないというのでした。まごは、いえかえりました。かれは、さかずきをまたかみつつんで、仏壇ぶつだんのひきだしにいれておきました。
 さむい、ゆきくにに、まごはいたくはありませんでした。かれは、いつからともなくにぎやかな東京とうきょうまちあこがれていました。そして、いつかは、東京とうきょうて、なにか仕事しごとをして、かたわら、勉強べんきょうでもしようというのぞみをいだいていました。
 とうとう、かれは、いえのことをあねや、おとうととにたのんで、自分じぶん東京とうきょうることになりました。そのとき、かれは、むかしからいえにあったものや、金銀きんぎんちいさな細工物さいくものや、また、ながほとけさまにさけげるさかずきになっていた、ひきだしのなかにしまってあった利助りすけのさかずきなどをひとまとめにして、それを荷物にもつなかにいれました。かれは、東京とうきょうてから、なにかたしになるであろうと、おもったのでした。
 かれは、東京とうきょうへきてから、ある素人家しろうとやの二かい間借まがりをしました。そして、昼間ひるま役所やくしょへつとめて、よるは、夜学やがくかよったのであります。あるとき、かれは、書物しょもつうのに、すこし余分よぶんかね入用にゅうようでありました。そのとき、ふと、くに時分じぶんに、荷物にもつなかれてってきた金銀きんぎん細工物さいくものとさかずきのまだ、らずにあったことをおもいつきました。
「どうせ、あのたばこれのかざりや、帯止おびどめのぎん金具かなぐは、たいしたにもならないだろうが、もしあのさかずきが、いいさかずきであったなら、になるかもしれない。しかし、いつかおじいさんにせたら、あまりほめていなかった。それでも、みんなひとまとめにしてったら、いくらかのかねになるだろう。」と、かれおもいました。
 まごは、東京とうきょうると、じきにものってしまったのです。
「いくら、本物ほんものでも、さくのできがよくなければ、になるものではありません。これは、さくのできがよくありません。このほうは、よごれていますからだめです。これですか、こいつは、わたしに、鑑定かんていがつきません……。」
 そんなふうに、骨董屋こっとうやから、まことしやかにいわれて、ものは、やす手放てばなしてしまいました。
 それで、かれは、こんどは、正直しょうじき人間にんげんらなければならぬとおもいました。
「りっぱなみせっている骨董屋こっとうやのほうが、かえって、人柄ひとがらがよくないかもしれない。だれか正直しょうじきそうな古道具屋ふるどうぐやんできてせよう。」
 かれは、そうおもいました。
 かれは、かけてゆきました。そして、みみのすこしとおい、こえのすこしはなにかかる、がったおとこれてきました。おとこは、無造作むぞうさに、毎日まいにち、ぼろくずや、古鉄ふるてつなどをいじっているあらくれたで、かれした、金銀細工きんぎんざいくかざりとさかずきとを、かわるがわるってながめていました。
「こちらのかざりだけを×××××でいただきましょう。このさかずきは、どうでもよろしゅうございます。」と、古道具屋ふるどうぐやはいいました。
 かれには、このとき、ふたたび田舎いなかにいる時分じぶん近所きんじょ物知ものしりのおじいさんが、「これは、たいしたものではない、ただふるいからいいのだ。」といった、その言葉ことばおもされたのです。
 文明ぶんめいのこの社会しゃかいまれながら、むかしのものなぞをありがたがるのは、じつにくだらないことだと、かれ簡単かんたんかんがえたのであります。
「このさかずきも、つけてやろう。」と、かれはいってしまいました。
 古道具屋ふるどうぐやは、それを格別かくべつ、ありがたいともおもわぬようすで、金銀細工きんぎんざいくかざりといっしょにってゆきました。
 このさかずきのことがわすれられた時分じぶんかれは、あるなにかの書物しょもつで、利助りすけという、あまりひとられなかった陶工とうこう名人めいじんが、むかし京都きょうとにあったということをみました。そして、つよむねかれました。なぜなら、かれいえむかしからあった、あのさかずきには、たしかに利助りすけというがはいっていたからです。
「そうだ、あのさかずきには、利助りすけがしるしてあった。また、ほんには、ねずみや、はなや、とりなどをよくいたとあるが、たしかに、あのさかずきのはねずみであった。」と、かれおもったのでした。
 かれは、ほんとうに、とりかえしのつかないことをしたとったのです。それにつけて、近所きんじょ物知ものしりのおじいさんが、そのじつ、なにもっていないのを、るもののごとくしんじていたのをうらめしく、おろかしくおもいました。
「なぜ、むらひとたちは、あのおじいさんのいったことをしんじたろう。そうでなかったら、自分じぶんしんずるのでなかったのだ。」と、後悔こうかいをしました。
 また、「なぜ、自分じぶんは、さかずきを、あんなもののよくわからない、古道具屋ふるどうぐやなどにせたろう? もっといい骨董屋こっとうやにいってせたら、あるいは、利助りすけという名工めいこうっていたかもしれない。」と、かれはそのときとは、まったく反対はんたいのことをかんがえました。
 かれは、こうなっては、だれをにくむこともできなく、みずからをにくみました。
 かれは、また、「自分じぶん祖父そふは、よほど、趣味しゅみふかい、ききであった。」とおもいました。そして、かれは、そうおもうと、いままでかんじなかった、なつかしさを、祖父そふたいしてかんずるようになったのです。
 にも、そのかずすくない利助りすけさくを、祖父そふにいれて、それをあいしたこと、そのさかずきはながあいだふるびた仏壇ぶつだんのひきだしのなかれてあったのを、自分じぶんが、むざむざしててるように、この東京とうきょうのつまらない古道具屋ふるどうぐやにやってしまったとかんがえると、かれはなんとなくすまないような、またとりかえしのつかないようなくやしさをかんじたのです。そして、どうかして、それをさがさなければならないとおもいました。
 まごは、さっそく、いつか自分じぶん宿やどんできた古道具屋ふるどうぐやへたずねてゆきました。そして、二、三か月前げつまえにやった、さかずきは、まだみせいてないかと、あたりに古道具ふるどうぐがならべてあるのをまわしてからききました。
「あれは、すぐれてしまいました。」と、みみとおい、がったおとこは、とがったかおつきをしてこたえました。
「だれが、っていったか、わからないでしょうか?」と、かれは、なんとなく、あきらめかねるのできました。
「あなた、このひろ東京とうきょうですもの……。」といって、おとこは、きつねのようなかおつきをして、皮肉ひにくわらかたをしたのです。
 かれは、それにたいして、このときだけは、おこ勇気ゆうきすらありませんでした。
「なるほどそうだ。」とおもいました。
 東京とうきょうまちは、ひろいのでした。大海たいかいに、いしげたようなものです。ちいさな、一つのさかずきはこの繁華はんかな、わくがように、どよめきのこる都会とかいのどこにいったかしれたものではありません。
 そうかんがえると、かれは、絶望ぜつぼうかんずるより、ほかにはないのでした。
 しかし、また、それは、どこかに存在そんざいしなければならぬものでした。
 そのさかずきを、ったひとは、日本橋にほんばし裏通うらどおりにんでいる骨董屋こっとうやでありました。そのひとは、まことにおもいがけないものをしたとよろこびました。そして、みせかえってから、そのさかずきをこまかな美術品びじゅつひんといっしょに、ガラスりのたなのなかおさめて陳列ちんれつしました。
 江戸時代えどじだいのあの時分じぶんから、東京とうきょうのこの時代じだいいたるまで、また、いくねんをたちましたでしょう。
 さかずきは、それでも、無事ぶじに、ふたたび江戸時代えどじだいわらない、東京湾とうきょうわんちかい、そらいろを、まちなかからながめたのであります。そして、またここで、日影ひかげのうすい、一にちをまどろむのでした。
 さかずきにとって、田舎いなかへいったこと、仏壇ぶつだんさけをついでげられたこと、毎日まいにち毎日まいにち女房にょうぼうかねをたたいたこと、はこおさめられてから、くらい、ひきだしのなかにあったこと、それらは、ただいっぺんのゆめにしかぎませんでした。
 さかずきには、いえまえをかごがとおったことも、いま人力車じんりきしゃとおり、自動車じどうしゃとおることも、たいした相違そういがないのだから、無関心むかんしんでした。
 ただ、あるのこと、太鼓たいこおとと、ふえと、御輿みこしをかつぐ若衆わかしゅうごえをききましたので、しばらくとおかなかった、なつかしいこえをふたたびくものだとおもいました。
 そして、自分じぶんは、またどうして、おなところかえってきたろうかとうたがいました。
 はかない、薄手うすでのさかずきが、こんなに完全かんぜん保存ほぞんされたのに、そのあいだに、このまちでも、このなかでも、いくたびか時代じだい変遷へんせんがありました。あるものは、まれました。またあるものは、んではかにゆきました。
 それが、さかずきにとって、芸術げいじゅつちからでなくて、偶然ぐうぜん存在そんざいだと、なんでいうことができましょう。
 このまちでは、ちょうどむかしからの氏神うじがみさまの祭日さいじつたるのでした。そして、いつも、むかしわらないもよおしをするのでした。
 おりも、おり、れいまごは、このこのまちとおりかかりました。そして、はなやかな、まつりの光景こうけいて、自分じぶんいえ祖父そふまでは、この東京とうきょうんでいたのだなとおもいました。
 御輿みこしとお前後ぜんごに、いろいろなかざものとおりました。そのうちに、この土地とちわか芸妓連げいぎれんかれて、山車だしとおりました。山車だしうえには、かおにしたおじいさんが、ひと人物じんぶつあいだって、このまちなか見下みおろしていました。
 かれは、この山車だしうえの、かおあかくした、ひとのよさそうなおじいさんをているうちに、自分じぶんのお祖父じいさんのことなどをおもいました。自分じぶんは、そのお祖父じいさんのかおらなかったけれど、たいへんにさけきなひとで、いつもあかかおをしていたということをいていました。また趣味しゅみふかかったひとでもありました。利助りすけのさかずきは、そのお祖父じいさんの愛用あいようしたものだとおもすにつけて、かれは、なんとなくお祖父じいさんをかぎりなくなつかしくおもいました。
「きっと、お祖父じいさんも、あの山車だしうえっているようなおじいさんであったろう。」と、かれおもいながら、まちぎる山車だしをながめていました。
 わかい、派手はでやかなよそおいをしたおんなたちが、なまめかしいはやしごえ山車だしくと、山車だしうえ自分じぶんのおじいさんは、ゆらゆらとあかかおをしてられました。
 おじいさんは、にこやかに、まちなかのようすをわらいながらながめていました。そして、山車だししたとおくるまや、仰向あおむいてゆく人々ひとびとに、いちいち会釈えしゃくをするように、くびをっていました。
 山車だしうえのおじいさんは、両側りょうがわみせをのぞくように、そして、その繁昌はんじょういわうように、にこにこして見下みおろしました。やがて、山車だしは一けん骨董店こっとうてんまえとおりました。そのみせにはガラスだなのなかに、利助りすけのさかずきが、めずらしい物品ぶっぴんといっしょに陳列ちんれつされているのでした。
 山車だしうえのおじいさんは、そのまえにくると、一だん、くびを前後ぜんごりましたが、やがて、わかおんなのはやしごえとともに、そのまえをもむなしくとおしてしまいました。
 あとには、ただ、永久えいきゅうに、あおそらいろんでいました。そして、たなのなかには、ねずみをいた、金粉きんぷんひかりあわ利助りすけのさかずきが、どんよりとした光線こうせんなかにまどろんでいるのでした。
 こうして、たがいにうたものは、また永久えいきゅうわかれてしまいました。いつまた、おじいさんと利助りすけのさかずきとまごとが、相見あいみるときがあるでありましょうか。





底本:「定本小川未明童話全集 4」講談社
   1977(昭和52)年2月10日第1刷
   1977(昭和52)年C第2刷
底本の親本:「小川未明童話全集 3」講談社
   1950(昭和25)年
初出:「婦人公論 9巻1号」
   1924(大正13)年1月
※表題は底本では、「さかずきの輪廻りんね」となっています。
※初出時の表題は「盃の輪廻」です。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:館野浩美
2017年12月30日作成
青空文庫作成ファイル:
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