翼の破れたからす
小川未明
西の山のふもとの森の中に、からすが巣を造っていました。そして、毎日、朝はまだ、空の明けきらないうす暗いうちから、みんなのからすは列をなして、東の空を指して高く飛んでゆきました。
その時分、村では、起きた家もあれば、まだ寝ている家もありました。からすは、こうして餌を探しに出るのでした。
一日、町の裏や、圃や、また河の淵や、海浜など、方々で食を求めるのでした。一羽がなにかいいものを見つけましたときは、これをみんなに知らせました。そして、けっして、ひとりでそれをばみんな自分のものにしようとはしませんでした。
みんなは、どこへ飛んでゆくのにも、いっしょでありました。また、ひとりがほかのとびやたかなどにかかって、いじめられるようなときがあれば、そのひとりの友だちを見捨てるようなことは、しませんでした。あくまで、その友だちを助けました。そして、いっしょになって戦うか、また、逃げるかしたのであります。
晩方になると、からすたちは、また、山のふもとをさして、列を造って帰るのでした。
「カア、カア。」と鳴いて、村の上の空を高く飛んで過ぎたのであります。春、夏、秋、冬。毎日、毎日、それに変わりがなかったのでありました。
太郎は、ある日、家の前に立って、頭の上を、カア、カア、と鳴いてゆく、からすの群れをじっと見上げていたのでした。
黒く、さおのように、一列になって、からすの群れは、西の空をさして飛んでゆきました。いちばん先のからすが、疲れると、つぎのからすが先になりました。そのからすが、すこし後れると、後のからすがいちばん先になるというふうに、なんでも、元気のいい敏捷なからすが、いちばん先頭になって、みんなを率いて、ゆくように見えたのです。
からすは、おたがいに、元気をつけあって、そして、みんなが、列から、はずれないようにしてゆきました。また、先頭のからすは、行く手にあった野原や、河や、海浜や、村や、町などにも注意を配らなければなりません。いつ、どんなものが、自分たちを狙うかわからないからです。
太郎は、からすの列がただしいのを見て感心しました。そして、彼は、いくついるだろうかと先になっているのから、一つ、一つ、数えてみていたのでした。
太郎は、このからすの群れの中に、ただ一羽、片方の翼が傷んでいる、哀れなからすを発見しました。そのからすは、敵とけんかをしたものか、また、鉄砲で打たれたものか、また、もち棒にでもかかったものか、右の翼が破れていました。
「あんなに、いたんだ翼で、なんともないものだろうか。」と、太郎は、気遣わしげに感じながら、そのからすを、とくに注意して、見上げていました。
やはり、そのからすは、翼がいたんでいるだけに疲れやすかったのであります。ややもすると、そのからすは後れがちになりました。それを友だちのからすは、いたわるようにして、前になり、後になりして、その哀れなからすを護ってゆくのでした。
翼のいたんだからすは、ちょうど列の中ほどに加わっていました。そして、ひとり、みんなから後れもせずに、あちらへ飛んでいったのであります。
太郎は、その哀れなからすのことを忘れることができませんでした。夜、床の中へはいってからも、
「無事に、みんなといっしょに森の中へ帰ったろうか?」と思いました。
また学校へいっても、からすのことを思ったのです。
「今日の晩方も、あのからすは、空を飛んでゆくだろうか?」と。
学校から、家に帰ると、太郎は、外に出て遊んでいました。道の上には、まだ雪が消えずに残っていました。
やがて、静かに、日は暮れかかりました。からすの群れは、七羽、九羽、五羽というふうに、それぞれ列を造って飛んで帰りました。
「カア、カア。」と鳴いて、西の空をさして、いったのであります。
「昨日のからすは、まだこないだろうか?」と、太郎は、晩方の空を仰いでいました。すると、そのうちに、あちらから、たくさんの群れの一列が飛んできました。よく、それを見ると、昨日のからすの列でありました。
中ほどだった翼のいたんだからすは、今日は、いちばん列の後ろについてきました。けれど、べつに、ひとり後にとり残されもせずに、みんなと歩調を合わせて飛んでゆきました。
「どうして、今日は、いちばん後になったのだろう?」と、太郎は、哀れなからすについて、同情せずにはいられませんでした。
その夜は、昨日より、いっそう、そのからすのことが気になって、床にはいってからも、忘れられませんでした。あくる日、学校にいって、窓から、運動場で鳴いているからすを見ましたときに、あの哀れなからすを思い出したのであります。
彼は、「今日は、どうだろうか?」と、学校から帰ると、はやく晩方になって、いつものごとく、からすの群れの過ぎる時刻になればいいと待っていました。
やがて、日が暮れかかると、からすの群れは、いくつも西の空をさして、帰りました。そして、北の海のある方の、空が、明るかったのであります。
見覚えのあるからすの群れは、頭の上を過ぎたのでした。そして、翼のいたんだ、哀れなからすは今日はみんなから、ずっと後れて、わずかにその列に加わっていたのでありました。
彼は、哀れなからすが、みんなから、まったく、後れてしまいはせぬかと、気遣いながら、いつまでもその群れの遠く、遠く、見えなくなるまで見送っていました。そのうちに、まったく、その群れは見えなくなってしまいました。
「明日は、どうだろう?」
太郎は、このとき、そう思わずには、いられませんでした。
そして、そのあくる日の暮れ方となりました。太郎は、家の前に立って、同情に満ちた瞳を上げて、哀れなからすの加わっている、その列のくるのを待っていました。やがて、その列はやってきました。しかし、哀れな傷ついたからすの姿は、見えなかったのです。彼は、その数を数えてみました。たしかに、哀れなからすの数一つだけが足りなかったのであります。
「あのからすは、どうしたろう?」
太郎の胸は、悲しさにいっぱいになりました。かわいそうでならなかったのでした。
「あのからすは、どうしただろうか?」
そのあくる日も、彼は、外の往来に立って、からすの群れを見送りました。やはり、哀れなからすの姿はその列には、なかったのでした。おそらく、それは、永久に、見られないような気がしたのでした。
一日、太郎は、学校で、幾人かの友だちと鬼ごっこをして騒いでいました。そのとき、一人が、ベンチにつまずいて、片足の骨を砕きました。みんなは、大騒ぎをしました。不幸な友だちは、家へ帰りました。そして、医者にかかりました。
翌日、学校へいってみると、その友だちは、学校を休んだのでした。
「かわいそうだね。」と、太郎は、ほかの友だちどうしと、不幸な友だちの災難を哀れみました。
太郎は、このとき、人間は、こうして傷を受けると医者にかかることができるが、あのからすのように、翼を傷つけたら、からすは、どうしたらいいだろうかと思いました。
冬の終わりごろから、春のはじめにかけては、よく雨風のつづくことがあります。こうして野や山の雪は解けるのでした。
二、三日、はげしい雨が降り、風が吹きすさみました。こんな日には、からすは、いつものように列を造って、飛んで帰ることができませんでした。そして、思い思いに、雨風の中を帰ってゆきました。
太郎は学校へゆくと、足をいためた友だちはもうなおってきていました。そして、うれしそうにみんなといっしょに遊んでいたのでありました。
「からすは、翼をいためても、医者にかかってなおすこともできないだろうし、どうするだろうか? あのように、雨や、風のはげしい日には、どこに、どうしているだろうか?」
太郎は、哀れなからすについて、思わずにいられなかったのです。彼は、哀れなからすを、もう永久に見ることがないと思っていました。
おいおい、春めいてまいりました。吹く風が暖かになりました。ある日の晩方、太郎は外に遊んでいますと、西の方の空は、紅く色づいていました。そして、日は静かに沈み、雲の色も、木立の影も、酒にでも酔うているようでありました。ちょうど、このとき、からすの群れが、頭の上を飛んでゆきました。太郎は、それを見ると、いつかの翼をいためたからすが、みんなといっしょに元気よく飛んでゆくのでありました。
彼は、それを見て、どんなに、意外に、またうれしく思ったでしょう。
「あ、あのからすも、あんなによくなった。」といって、手をたたいて喜びました。
「カア、カア。」と、からすは鳴いて、西の紅い空の中へ、だんだんと小さく、消えてゆきました。
この日から、この地上には、幸福が産まれ出たように思われました。一時に、木々のつぼみはふくらみ、芽さきは、色づきました。もう、冬は、どこかへ逃げていって、春がやってきたのです。
そのころから、晩方になると、からすが東の空から、西へ飛んでゆくのに、また、南の空からは、北へ、白い、白い、かもめの群れが列を造って飛んでくるのを見ました。かもめは、寒い、寒い、ところを恋しがって旅をつづけるのでした。一度、村の上を北に過ぎていったかもめは、二度と帰ってきませんでしたが、からすの群れはやはり、あくる日も、また、太郎の頭の上を通るのでありました。
底本:「定本小川未明童話全集 4」講談社
1977(昭和52)年2月10日第1刷
1977(昭和52)年C第2刷
底本の親本:「未明童話集2」丸善
1927(昭和2)年9月20日発行
初出:「赤い鳥」
1924(大正13)年3月
※表題は底本では、「翼の破れたからす」となっています。
※初出時の表題は「翼の破れた烏」です。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:へくしん
2021年2月26日作成
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