北の冬

小川未明




 私が六ツか七ツの頃であった。
 外の雪は止んだと見えて、四境あたりが静かであった――炬燵こたつに当っていて、母からいろんな怖しい話を聞いた。その中にはこんな話もあったのである。
 毎晩のように隣の大貫おおぬき村に日が暮ると赤提燈あかちょうちんが三つ歩いて来る。赤い提燈は世間に幾らもある。けれどもの提燈でも火を点すと後光が射すのが普通だ。然るにその提燈に限って後光が射さない。その赤い提燈は十けんばかりたがいへだたりを置いて三つ、東南の村口から入って来て何処どこへか消えてしまうのである。最初それを見付みつけたのが村のはずれに住んでいた百姓じじいであった。夜遅くまで仕事をやって、もう寝ようと思って戸の口を出るとその気味の悪い赤い提燈が三つ、彼方あちらの野原を歩いているのが見えたという。
 その村の西には大きな池がある。やはり雪がふったので水の上には雪が溜っていた。きっとこの池の周囲まわりに住んでいる狐か狸が大雪で、食物に困って種々いろん真似まねをやるのだろうと思って、その夜は寝た。あくる日爺はその事を村の者に話した。するとおれも今晩は見届てやると村の若者は爺の家に集って、寝ずにその頃となるのを待っていた。
 その夜は非常に吹雪ふぶきのした晩であった。普通の者はとても、この広い野原を歩けない。勿論むろん道の付いている筈がなし、北西の風を真面まともに受けて、雪が目口めくちに入って一足も踏み出せるものでない。
 やはり三つの提燈は東南の村の口から入って来て、野原を通って何処へか消えてしまった。
「や、厭な提燈だぞよ。」と一人がいった。
「物凄い赤い燈火あかりだな。」といった者もある。
「あれは人魂ひとだまだ。」といった者もあった。
 けれどその夜は、それで寝てしまった。明る日村の某々等ぼうぼうらは互に語り合った。
「あの、提燈は何処へ消えるだろう。」と一人がいった。
「さあ、何処へ消えるか……。」
「池ではないか。」
「一つ今夜は見届けようじゃねえか。」
と相談がまとまった。某々等は例の爺さんの小舎こやに集って、その時刻の来るのを待っていた。その夜は珍らしく雪が晴れて、雲間から淋しい冬の月が洩れている……一望いちぼう漠々ばくばくたる広野の積雪は、寒い冴えた月の光りをんで薄青く輝いていた。
「非常に寒い晩だな。」と一人がいう。
 やがて、身を切るような木枯こがらしが野を横切って、暫時ざんじその音が止むと、一人は、
「見えた見えた。」と村の端の入口を指した。
 三つの赤い、後光のない燈火が、村の中へ入って来た。其処そこで一同は、互にいましめ合って、家を出てその提燈の行衛ゆくえを追うて行った。皓々こうこうとして、白雪に月の冴え渡った広野は、二里も三里も一目いちもくに見えるように薄青く明るかった。夜が更けるに従って、雪がこごって堅かったが、各自がいましめ合って雪の上を踏んで行くと、すねを切るように抜け落ちるのである。折々おりおり木枯が激しく吹き荒んだ。けれど彼方に見える三つの提燈の燈火はまたたきもしなければ、揺れもしない。独りでにあゆんでいる。やっと二三十けんばかりの処に近づいて、月の光りにすかして見ると、提燈ばかりが歩いているのでなく、どうやら人が持っているのだ。その人が――うすらりとして見えるのには、真白の装束しょうぞくを着た、全く常の人間でない。
「あっ、幽霊だ!」と一人は覚えず叫んで、其処に腰をぬかした。同じくこれを見た一同は満身に水を浴せられたようにぶるぶると手足がふるえてすくんでしまった。で、野原の雪の中に蹲踞うずくまってじっと白装束の三つの影を見送っていると、最初に立ったのは、老人のようで頭に何か白いものをかぶっている。十間ばかりへだてて、その次のはそれより少し脊が低くて、子供のような歩き方だ。また十間ばかり隔て最後の一人は長く黒髪をあとたれていて女のように思われた。その三人は、始終俯向うつむいていた。各自の手に一つずつ持った提燈は、宙に吊下ぶらさがっているように動くともなく動いた。一同は怖しいながらに息の音をらして見送っていると池の方向へは行かずに、広い野原を横切って、隣村の方へ過ぎて行った。冴えた月の光りは一面に原を照していたが、ひとり三人の白い衣の上には月の光りが落ちないと見えて透して見ると雪よりも更に白い影は消えるように見えなくなった。しばらくして赤い提燈の姿も見えなくなった……一同は赤い提燈が見えなくなると、急に寒さが身に浸み込むのを覚えて、その後は互に口も聞かず、凍え死ぬばかりで家に逃げ戻って寝たということだ。やがてにわとりいて、夜が明けはなれると、あたりは昨日に変らず、彼方には、枯れた並木があって、遠くに森が見える。しや、昨夜ゆうべの幽霊の足跡はついていないかと行って見ると、ほんのそれらしい跡形あとかたもなかったという。
 ここまで母は真面目で語ってきかせた。
 私は子供心ながらにその幽霊は何物であるか知りたかったから、
「鉄砲で撃ってしまえばいいんだね。」と聞き返えした。
「アア、そうだよ。」といって母は、もはや大分薄暗くなったからへやの内で眼を細くして針仕事を忙しそうにやっている。
「周蔵にいったら、きっと撃ってしまうだろうね。」と私は炬燵こたつの中に身体を半分もぐり込んでいう。周蔵とは私の村での、年若い猟師である。よくこの男は私の家へ遊びに来た。どもりの、頭髪かみのけほうきのように延びた、人の好い男である。
「そんなものに、かまうときっとたたりがあるよ。」と母がいった。
「祟りてや、何?」と聞き返す。
「死んでしまうのだよ。」と母がいう。
 私は怖しくなって来た。もう日が暮れるのに間がない。それでなくても家の周囲は雪がこいで壁板したみや、葦簾よしずなどが立てかけてあって、高い窓から入る明りばかりだから少し暮方くれがたに近くなると表はそうでなくても家の内は真暗だ。
 耳を傾げるとかすかに烏が啼いている。多分正善寺のもりで啼いているのだろう。母は仕事を取り片附にかかった。私は炬燵に当っていながら、先刻の話の筋を幾たびも思い返している。脊にしている柱にかかった六角時計が、ガタン、ガタンとやっている。すすけた神棚には大黒様がある。古い私の家は何処を見ても黒光くろびかりのする気持がした。
「雪は止んでいるか知らん。」と母はいって起上たちあがった。
「さあお湯へ行って来よう。久しく入らなかったから。」といって私は無理に引き立てられた。私は温かな炬燵から出るのが辛かったが、遂に仕度に取りかかった。
 私は、藁靴わらぐつ穿はいて、合羽かっぱを着た。両脚りょうあしは急に太くなって、頭から三角帽子を被ったので、まるで転がるように身体がまるくなった。母は、頭に庄内帽子を被って、同じく合羽を着て、藁の深靴を穿いて戸を開けて表へ出た。身を刺すように冷たな西風が吹いている。一面に灰色がかった雪の原野で、彼方に徳兵衛じじの家の頭ばかりが見えた。また彼方に正善寺の杉林が黒くなって見える。二人はとぼとぼと雪道を歩いて町の方へ出かけた。五ちょうばかりの野原を横切らなければ町まで行けない。その野原には一筋ひとすじの河が流れて橋がかかっている。
 愈々いよいよ原にかかると風が強い。雪の上はもう堅くこごっていた。道といっても、誰もわざわざ踏んで付けた道でなく、自然に人が歩いてかすかに付いている飛び飛びの足跡を捜して歩くのだ。ちょうど牛の脊を渉るよう、抜足ぬきあしをして歩いた。私が先に立って、母が後から来る。この頃は、昼前にそりが通るが、通った跡でまた吹雪がしてその跡を掻き消してしまうのである。今少し前に一つ橇が通ったと見えて踏み落ちた足跡やら、処々ところどころ光った橇の跡が付いていた寒い日であった。
明日あすは天気だよ。」と母が後からいいなさる。私は頭をあげて、目深まぶかに被っていた、三角帽子を除けて野原の景色を眺めた。灰色の雪が光りをんで、西の山々は黒くなって、日が入りかかっている。東を見ても、南を見ても尚更なおさら北を見ても暗くて、鬱陶うっとうしい空には飛ぶ烏の影も見えなかった。私はじっと空を見ているとおのずからまぶたが閉じて、心の曇りを感じた。ただ何の気なしに西の空を見る。山又山に山は迫って重っている。日はその又山と西の奈落ならくの底に沈むのであろう。厭らしい黄色な幅広い一筋の雲が、くっきりと灰色の空に浮き出ていた。――ただその黄色な雲の帯が長くよこたわっているのを見たばかりで、後は日の落つる処も見えない。――もう私は、日が沈んでしまった後でないかと思ったが、これを母に聞いて見る気にもならぬ程、心がふさいでいる。
「あの、雲ご覧、帯のようだこと。」と母はいって指さす。
 全く灰色の、暗い空の幅広の一筋の雲が一直線を引いたようになっているのは気味のよいものでない。
 私はただ、滅多めった斯様こんな景色は見られないと思った。……ただ、とぼとぼと母と二人で雪道を歩いていると、遠くの遠くで、ど、ど、ど――という物凄い音が聞える。耳をすますとたしかに日本海の波音である。二人はやっと橋の上を渡った。……岸に雪が積っていて、河の流れは細くなって、ほとんど見えなかった。二人は橋を渡って、またあるかなきかの道をたどった。漠々ばくばくとして四辺あたりには一人の影も認めなかった。
 私は今でも、その当時の光景ありさまを覚えている。遥か彼方に二本の杉の木が見えて、右手に藁屋わらやが見える……その向うの方から一人の白装束をした男が来た。長い棒を突いて、胸にきらきらと光る鏡をかけて、頭髪は黒くよもぎのようにもつれて、何か腰の周囲まわりにじゃらんじゃらんと曲玉まがたまのようなものが幾つも吊下っていた。……私は不意ふいに先刻母が語って聞かせた大貫村の幽霊話を思い出して、急いで母の後に隠れて、しかとしがみついた。
「怖くないよ……。」
と母はいった。
 北方の灰色の空は眠っている。その雲の中からでも降りてきたように長髪白衣びゃくえの鏡を胸にかけた男は、雪道の上を此方こちらにざくざくと歩いて来た。彼方にはの杉の木と、藁屋が、それも遠方に見えるばかりである。……やがて男は、もう五六けんに近づいた。私はこの時怖る怖る顔を出して覗くと、頭には笠も被らず、口もあごも真黒に髭が延びている。青褪あおざめた顔には額まで髪が掩被おっかぶさって眉毛は太く眼の光は異様に輝いていた。私と母はどうやって、の男を避けようと細い雪道の上でまごまごやっていると、男の方で止って、一足雪の中に埋って、私共の通るのを待ってくれた。母は、
「有難うご座います。」
といってその前を急いだ。私も急ぎ足で母についてその前を通った。この時ぎらぎらと眼がくらむように鏡が光った。曲玉がじゃらじゃらと鳴る。男は口の中に籠りちな、力の入った声で、
六根清浄ろっこんしょうじょう々々」といった。
 私はその沈鬱ちんうつな声がいつまでも忘れられない。晩方ばんがたの寒い天気に、男の鼻息が白く凍って見えた。私も母の真似をして頭を下げてその前を通ったのである。男は大様おおように会釈したが、そのまま私共が歩いて来た道の方へ行ってしまった。私はまた急いで母の先になって、幾たびも幾たびも振向いて見た。母も少しばかり歩いてから振向いた。その男の白装束のうしろには脊一ぱいに何やら太い文字が書かれてあった。見送っているとその姿はだんだん遠くなってしまった。
「おっかさん、あれは何だろうかね。」と聞いた。
「あれかえ、行者だよ。」と、母はいった。
「行者って何?……」
「旅をして歩く信者だよ。」と母がいわれた。
 メランコリーな空は暗い。雪の上は灰色に凍って、見渡すかぎり、寂莫じゃくまくとしている。その時私の母は四十幾つであった。脊の低いやせた人柄であった。私はいまだに当時のあたりのいたましい景色が身に浸みていて忘れられない。
 んでも暮方の天気が非常に寒かった。西の空の、黄色い雲はいつしか消えて、のこぎりの歯のようにぎくぎくした形をした山々は地球の上にしがみついて黒くなって見えた。――二人は吹雪の来ない間に湯に入って帰ろうと急いだ。帰りには暗くなると、道が分らないからというので、母が小さな提燈を吊下げて来たが、それさえ吹雪がおこれば、あの橋のあたりは、全く道が消えて方角が分らない。それに雪に隠れた深い河もあるので、早く行って帰ろうと急いだ。この時もお、ど、ど、ど――という波の音が遥かに微かに聞えたのである。先刻の行者は、あの波の音の聞える、浜辺の村の方から来たようだ。あの男の足跡らしい、草鞋わらじの痕が処々についていた。まれには深く落ち込んでいた処がある。……私は、ああ、あの暗い、波の音の聞える今町の方からあの行者は歩いて来て、今晩何処の村へ泊る考えであろうかと母に聞いて見た。
「さ、新井か関山の辺り(我村から三里四里先)へ泊るのだろう。」と答えた。
 それから、暫くは二人は黙って道を歩いた。やっと彼方に五六十軒かたまった小さな町の頭が見え出した。暗い暗い空にとろとろと真白なけむりの、上っているのは湯屋である。私は立止って、きっとその方を見遣みやった。……
 私は北欧某詩人の北光を讃美した詩を読んで、偶然ふとした北の故郷にあった幼児おさなごの昔を懐想して、黄色な雲――灰色の空――白衣の行者――波の音――眼に尚お残っている其等それらの幻が私の心からぬぐい去られないで、いかにも神秘に感ぜられる。――多年都会生活に疲れた私の魂は北幾百里奇蹟ミラクルの多い故郷にさ迷った。





底本:「文豪怪談傑作選 小川未明集 幽霊船」ちくま文庫、筑摩書房
   2008(平成20)年8月10日第1刷発行
   2010(平成22)年5月25日第2刷発行
底本の親本:「定本 小川未明小説全集1 小説集※(ローマ数字1、1-13-21)」講談社
   1979(昭和54)年4月6日第1刷発行
初出:「新小説」
   1908(明治41)年10月号
入力:門田裕志
校正:坂本真一
2017年11月24日作成
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