小川未明




 町から少しはなれ家根やね処々ところどころに見える村だ。空は暗く曇っていた。おしまという病婦が織っているはたの音が聞える。その家の前に鮮かな紫陽花あじさいが咲いていて、小さな低い窓が見える。みちの上に、二人の女房かみさんが立って話をしている。
「この頃は悪い風邪が流行はやりますそうですよ。」
「そうだそうですよ、骨の節々が痛むんですって。」
 陰気な、力なげな機の音がギイーシャン、コトン! と聞えて来る。全くこの時風が死んだ。また降り出しそうな空には、雲脚くもあしが乱れていた。
「お島さんの顔色は善くありませんね。」と一人の女房が眉をひそめた。
「産れるのかも知れませんよ。」と一人がいう。
「そうかも知れない、ああ顔色が悪くちゃ……。」
吐瀉もどしっぽいといっていたから……。」
 二人の女が話をしている処へ、頭髪かみのけが沢山で、重々しそうに鍋でもかぶっているように見える、目尻の垂れ下った、なまずの目附に似ている神経質じみた脊の低い、紺ぽい木綿衣物きものを着た女が、横合よこあいから出て来た。二人はこの女を見るとぎょっとして口をつぐんだ。
「まった降りだ。」と鍋を被ったような女が、重たらしい調子でいう。その声がまたとなく陰気だ。
「悪いお天気で困ります。」と一人の女房がいった。
 何の鳥とも知らず黒い小鳥がいて、二三羽頭の上を廻っていた。かたわらの垣根の竹に蛞蝓なめくじが銀色のいとを引いて止まっている。
「お洗濯が出来なくて。」と一人の女房がいって、我家の方へ帰りかけた。
「私もまだすることがあるのですよ。」と一人の女房も下駄の歯をぎしりと砂地に喰い込ませて後を向いた。
 鍋被なべかぶりの女だけ陰気な顔で、何処どこを睨むというでなく立っていた。二人の女房は各自てんでに家へ入って、その場にはただ一人鍋被の女だけ取り残された。この黒衣の女はしばらく石の如く動かなかった。何時いつしかお島の織っていた機の音が止んだ。
 一段空が暗くなった。この時、今年十二歳になるお島の子供が、町から帰って来た。手に薬屋からかって来た、キナエンの薬袋を持ってうちへ入った。――風が少し出て来た。間もなく、お島の家の低い窓から真青なけむりが上り始めた。この時鍋被の女は重たそうな歩み付きできびすを返して、自分の家に入りかけた。門口の柱にはあわびの貝殻がかかっていて、それに「ささらさんばち宿やど」と書いてある。また白紙の札に妙な梵字ぼんじような[#「梵字ような」はママ]字で呪文が書いてはってある。鍋被の女には歯というものがないようだ。いずれも虫が食ってしまったらしい。口中こうちゅうは暗いうつろである。女は立止って、家の前にある一本ひともとのただ白く咲いた柿の木を見上げていた。すると其処そこへお島の男の児が駆けて来た。
「これ、おばさんのでなくて、往来に落ちていたよ。」といって、一枚の黄楊つげの櫛を鍋被の女の手に渡すと、あとも振向かずに一目散に逃げるように駆け出した。
「えッ。」と老女は鯰のような目を見張って、子供の駆けて行く後姿を睨んだ。
「櫛! 櫛!」といって唾を吐くと、暗い口を開けて、眼が異様に光った。手早にその黄櫛を西隣の家の方へ投げ捨てて、
「あくむちゃく……うい、うい。」と同じい呪文を三度唱えて、また唾を西に向けてペッペッと吐いた。
「お島の阿魔あまめ、悪戯いたずらをさせやがって、覚えていろ。」
といって、黒鍋を被ったような頭を振って、戸を閉めて入ってしまった。暗い空に、湿っぽい風が吹いて、彼方あちらでがあがあと烏が啼いた。





底本:「文豪怪談傑作選 小川未明集 幽霊船」ちくま文庫、筑摩書房
   2008(平成20)年8月10日第1刷発行
   2010(平成22)年5月25日第2刷発行
底本の親本:「定本 小川未明小説全集1 小説集※(ローマ数字1、1-13-21)」講談社
   1979(昭和54)年4月6日第1刷発行
初出:「文章世界」
   1908(明治41)年7月号
入力:門田裕志
校正:坂本真一
2015年9月1日作成
2016年4月3日修正
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