私の履歴書

浅沼稲次郎

日本経済新聞社




一、生まれ故郷は三宅島


 わが生まれ故郷三宅島は大島、八丈島などとともに近世の流罪人の島として有名である。わたくしは先祖をたずねられると『大方流罪人の子孫だろう』と答えているが、事実、三宅島の歴史をみると遠くは天武天皇三年(皇紀一三三六年)三位麻積王の子を伊豆七島に流すと古書にある。島には有名流罪人の史跡が多い。三宅島という名の由来も養老三年(皇紀一三七九年)に、多治見三宅麿がこの島に流されてから三宅島と名づけられたといわれている。わたくしが子供のころ、三宅島の伊ヶ谷にはこれらの流罪人を入れた牢屋がまだ残っていた。三宅島の流罪人名士をあげると竹内式部、山県大弐の勤王学者、絵師英一蝶、「絵島生島」の生島新五郎、侠客小金井小次郎など多士多彩だ。しかしこれらの流罪名士の中の英雄はなんといっても源為朝であろう。わたくしの友人で郷土史研究家の浅沼悦太郎君が『キミが国会で力闘しているのは為朝の血を引いているからだ』といっていたが、現代の為朝にみられてちょっとくすぐったかった。島の文化は流罪人から非常な影響を受けたことは事実で、父も流人の漢学の素養のある人から日本外史、十八史略などを教えられたそうだ。私は母とともに十三歳までこの三宅島で暮した。三宅島時代で最も印象に残っているのは、小学校の五、六年ごろと思うが、断崖にかけてあるといを渡って母にしかられた思い出だ。三宅島は火山島で水に不便だ。清水を部落までひく樋がよく谷間にかかっている。私の渡った樋は高さ数十丈、長さ十丈ぐらいの谷間にかけられたもので、学校友だちと泳ぎに行った帰りに、『あの樋を渡れるかい』とけしかけられて渡った。一緒にいた従兄の井口知一君が最初に渡ったものだから、私も負けん気になって渡り、ご愛敬にも途中でしゃがんで樋の中にあった小石を拾って谷間に投げ込んでみせた。なんとも乱暴なことをしたもので、今でも故郷に帰るとこれが昔話にされる。私は知れると母にしかられるので黙っていたが、母はどこかで聞いたとみえ畑仕事から帰ると目から火の出るほどしかられた。母として丹精して育てたわが子の無謀が許せなかったのだろうが、私は恐れをなして外に逃げ、後で家に帰っても俵の中にかくれていた。
 小学校六年の終りに上京、砂町にいた父の膝もとから砂町小学校に通い、ついで府立三中(今の両国高校)に入学した。このとき砂町小学校から七人三中を受け、私一人しか合格しなかったのをおぼえている。
 府立三中は本所江東橋にあって、いわゆる下町の子弟が多く、そのため庶民精神が横溢していて、名校長八田三喜先生の存在と相まって進歩的な空気が強かった。この学校の先輩には北沢新次郎、河合栄治郎の両教授のような進歩的学者、作家では芥川龍之介、久保田万太郎の両氏、あるいは現京都府知事の蜷川虎三氏などがいる。
 三中に入学した年の秋、学芸会があり、雄弁大会が催された。私はおだてられて出たが、三宅島から上京したばかりの田舎者であるから、すっかり上がってしまった。会場は化学実験の階段教室であるから聴衆が高い所に居ならんでいる。原稿を持って出たが、これを読むだけの気持の余裕がなく、無我夢中、やたらにカン高い声でしゃべってしまったが、わが生涯最初の演説はさんざんの失敗であった。これで演説はむずかしいものとキモに銘じた。
 その後、三年のころだったか、八田校長が当時チョッキというアダ名で有名な蔵原惟郭代議士(現共産党中央指導部にいる蔵原惟人氏の父君)を連れてきて講演させたことがあった。内容はおぼえていないが、この講演には当時、非常な感銘を受けた。また学校の学芸会の際、河合栄治郎氏がしばしば白線入りの一高帽で来たり、帝大入学後は角帽姿で後輩を指導したことは忘れられず、私が政治に生きたいと考えるようになったさまざまの刺激の一つとなったものである。

二、早大生のころ


 大正五年、府立三中を出た私は『早稲田大学に入って政治家になりたい』と父にいったところ、えらくしかられた。父は『政治家というものは財産をスリ減らして家をつぶすのがオチだ、実業家か、慶応の医科に入って医者になれ』という。その反動からどうせ一度は兵隊に行くのだから、いっそのこと軍人を少しやり、しかる後に早大に入ろうと思い、陸軍士官学校を二回、海軍兵学校を一回受けたが、いずれも落第してしまった。早大志望は募るばかりで、同年九月第二学期から編入試験を受けて、早稲田大学に入った。もちろん父の了解を得ず入学したものだから、家を飛び出して馬喰町の友人が経営する文房具店で働きながら勉強した。そのころは第一次大戦は終り、ロシア革命などの影響もあってデモクラシーが思想界を風靡ふうびした時代で、大正七年暮には東大に“新人会”が生まれた。早稲田でも東大に負けてなるものかと、同八年高橋清吾、北沢新次郎の両教授に、校外の大山郁夫教授が中心になって“民人同盟会”を作った。
 しかしこの“民人同盟会”も、当時の思想界の変動とともに急進派と合理派に分れる羽目になり、急進派の学生は高津正道氏らを中心に暁民会を作り、暁民共産党に発展した。一方、私たちは北沢新次郎教授を中心に和田厳、稲村隆一、三宅正一、平野力三、中村高一らが集まって建設者同盟を結成した。建設者同盟は「本同盟は最も合理的な新生活の建設を期す」という文句を綱領として、池袋の北沢教授宅の隣りに本部を置き、雑誌“建設者”を発行、盛んに活動した。
 池袋の本部合宿所は“大正の梁山泊”ともいうべきもので、同人が集まっては口角泡をとばして盛んに天下国家を論じたものだった。
 建設者同盟での最大の思い出は反軍事研究団事件である。大正十二年、早稲田大学の乗馬学生団を中心に右翼学生の手で軍事研究団が組織され、五月十日その発会式が行われた。『学園を軍閥の手に渡すな』と憤激した学生は続々と会場につめかけ、来賓として出席した軍人や右翼教授たちを徹底的にヤジリ倒した。青柳団長が『わたくしは……』といえば『軍国主義者であります』とくる。ついで『私は……』というと『軍閥の犬であります』といった調子である。
 私はその日、用事があって、現場には居合わせなかったが、仲間から発会式の模様をきき、翌日、さっそく学校の許可を受け、十二日正午から軍研反対の学生大会を開くことにした。
 ところが相撲部など運動部を中心とする右翼学生が『売国奴を膺懲ようちょうし、軍事研究団を応援しろ』というビラをはり、大会をつぶしにかかった。私は相撲部員であり、かつボートも漕いだから、稲村隆一君とともに相撲部に手を引くように頼みに行った。ところが議論をつくし説得しているうちに、稲村君の持っている鉄棒が問題になり乱闘に発展した。
 やがて不気味なふん囲気の中に大隈侯銅像前で学生大会が開かれ、私が「自由の学府早稲田大学が軍閥官僚に利用されてはいけない」との決議文を朗読したまではよかったが、雄弁会幹事戸叶武君が演説を始めようとすると、突如、相撲部、柔道部の部員が襲いかかってきたので、会場は一大修羅場と化した。また校外より「縦横クラブ」一派の壮士も侵入し、打つ、ける、なぐるの乱暴の限りをつくした。この間、暴力学生側では糞尿を入れたビンを投げ、会場は徹底的に蹂躙じゅうりんされた。われらは悲憤の涙にくれ、五月十二日を忘れるなと叫び、この日を“流血の金曜日”と名づけたものである。
 この暴力の背後にひそむものは軍閥であり、その糸を引く警視庁、またそれを背景とする「縦横クラブ」であった。私は事件後も縦横クラブ員につかまって、その合宿所に一晩中監禁され、打つ、ける、なぐる、ほとんど人事不省になるリンチを受けた。こうした学生運動をやる一面、私はボートを漕ぎ、相撲をとり、運動部員としても活躍して、各科対抗のボート・レースには政経科の選手として出場、勝利をおさめ、ボート・レースを漕ぐ姿のまま大隈侯にお目にかかった。大隈侯はその時私の体をたたいて『いい身体だなあ』といわれたことが今でも印象に残っている。

三、震災→監獄→島流し


 反軍事研究団事件のあと、わたくしは卒業をまたずに早稲田を飛び出し、社会運動の戦列に加わった。この年の九月一日、あの関東大震災は私にとって初めての大試練であった。この日私は群馬県大間々町で麻生久、松岡駒吉氏らとともに八百名の聴衆を前に社会問題演説会を行っている。会場がゆれる、聴衆がざわめく、初めて地震と気がついたが大したことはあるまいと思った。
 無事演説会が終ってからも、せっかくここまで来たんだからというわけで、わたくしだけ足尾銅山に足を伸ばした。ところが足尾についてみると、東京が大変だというのであわてて帰京した。二、三日池袋の建設者同盟本部に身を寄せていたが、たまたま一年志願で入営していた田原春次君(現社会党代議士)が見舞にやってきて『お前らねらわれてるぞ、気をつけろ』と注意して帰った。社会主義者と朝鮮人に対する弾圧のことである。
 そこで池袋の同志は一応思い思いの所に分散した。私はその夜早稲田大学裏にあった農民運動社に泊まったが、夜中の一時すぎ、窓や台所から乱入した二十五、六名の兵隊によってゆり起された。そして銃剣で、抵抗すれば撃つとおどかされながら、同宿の者数名とともに戸山ヶ原騎兵連隊の営倉にぶちこまれた。真暗で妙なにおいだけが鼻につく営倉の中で落付けるわけがない。翌日の夜練兵場に引張り出されたときはもうだめかと思った。しかし係官が住所、姓名を聞いただけで、また営倉にもどされた。いのちだけは助かったかと思っていると、こんどは市ヶ谷監獄へぶち込まれた。監獄に入ったものの何の理由で、いつまでおかれるのかとんと分らない。いまから考えると全く無茶な話だ。当時市ヶ谷には堺利彦、徳田球一、小岩井浄、田所輝明など第一次共産党事件関係者などもいて警戒は厳重、看守の態度もきわめて非人間的であった。
 私はトコトンまで追い詰められて、かえって反抗気分が高まったようだ。巡回で通りかかった看守に『退屈だから本を読ませてくれ』と申入れた。看守は『忙しい』と簡単に断わったが、こちらはなおもしつこく要求した。それが悪かったらしい。夜九時ごろ看守の詰所に引張り出され『さっき何といったか、もう一度いってみろ』という。『本を貸せといったまでだ』というと『この口で悪たれをついたろう』と言いながら指を二本私の口に突込んで引張り上げ、床の上に転がして寄ってたかって打つ、ける、なぐるという始末。おまけに監房に帰された時は革手錠で後手にくくりあげられていた。革手錠は一週間ぐらいだったが、苦しくてろくろく寝ることも食うこともできなかった。
 しかしこれでもまだ軽い方だったというから、いかに震災下とはいいながらむごたらしかったかがわかる。革手錠をはずされてから手錠磨きを命ぜられた。自分の手にかける手錠を自分で磨くのだからこれ以上の皮肉はない。約一ヵ月のち釈放されたが、出迎人は身寄りや友人ではなく早稲田警察の特高であった。仕方なく早稲田警察に行くと『田舎へ帰っておとなしくしてなきゃ検束する』と言い渡された。こうして私はしょんぼり故郷三宅島へ帰った。三宅島は昔流罪人の流された島、まさに「大正の遠島」というところだ。
 平和な故郷に要注意人物として帰った私をみる島民の目は冷たかった。また私も離れ島でじっとしていることに耐えられなくなり、滞在わずか数ヵ月で東京に舞いもどった。翌年徴兵検査でまた三宅島へ帰ったが、この時はわざわざ東京から憲兵が一人私を尾行してきた。皮肉なことに村長をしていた父が徴兵検査の執行責任者だった。先の島流しといいこんどの監視つきといい、父もよほど困ったらしい。村長をやめようとまで言い出したが、私は子供の思想の責任を親が負う必要はないといって思いとどまらせた。陸士、海兵まで受けた私が憲兵の監視つきで徴兵検査を受ける身となったのも、皮肉といえば皮肉である。

四、三時間天下の書記長


 新人会でも建設者同盟でも、当時の学生運動をやっていたものは民衆の中へということをよく言い、学生時代から実践運動に入っている者が多かった。建設者同盟の同志も和田巌が早くから友愛会に関係していたし、三宅、平野、稲村、私らは日本農民組合に参加していた。それで学窓を離れるや仲間はタモトを連ねて農民運動にとびこんだ。日農から平野力三は山梨県、三宅正一は新潟県、川俣清音は秋田県というように、それぞれ分担地区を割当てられ活躍したものである。これらの諸君が後年、故郷でもないそれらの分担地区から代議士に打って出たのも、若き日の活躍ぶりを示すに十分であろう。私は千葉県、新潟県、秋田県と各地を転戦した。
 そのうち大正十四年、普選が成立した。この普選の実施は労働運動を政治運動に発展せしめる一転機をなしたもので、日本労働総同盟は政治運動への方向転換の宣言を行い、私の属する日農は単一無産政党の結成を提唱した。私たちはこの準備にかけ回ったが、その中途において労働組合戦線が分裂するとともに、右の労働総同盟が脱退、左の労働評議会も相ついで脱退した。結局、日農を中心として中立的な労働組合と農民組合が集まり、大正十四年十二月一日、東京神田のキリスト教青年会館で農民労働党の結党式をあげ、中央執行委員長欠員のもとに私が書記長、細野三千雄が会計に選ばれた。
 この時の私は数え年二十九歳、負けん気と責任感から書記長を引受け、臨席する多数の警官を前にして「無産階級解放のために闘う」と勇ましい就任演説をやった。
 ところが結党式を終えて間もなく、警視庁から新幹部へ呼出しがかかった。『なんだろう』と私たちが警視庁に出向くと、治安警察法により結社禁止、解散が言渡されたのである。これがなんと結党して三時間後のことだった。
 半歳にわたる苦労は一片の禁止令によってふっとんだ。私は横暴な弾圧に心からの憤激を覚え、いうべき言葉はなかった。責任者として命令受領書に署名を強要され、やむなく浅沼稲次郎と書き拇印を押したが、怒りにふるえた悪筆の署名文字がいまだに印象に残っている。昔から三日天下という言葉があるが農民労働党は三時間天下であり、したがって私の第一回書記長もたった三時間であった。
 しかし私は書記長となったとき今後党をどう運営してゆくか、離れ去った同志をどう農民労働党に結びつけるか、党の運営資金をどう調達するかの不安でいっぱいになっており、同志には済まないが個人としてはホッとした気持になったことは事実だ。われわれはこの弾圧に屈することなく、同十五年三月労働農民党を作った。日本最初の単一無産政党である。しかしこの労働農民党もただちに、左翼の残留派、中間の日本労農党、右翼の社会民衆党、極右の日本農民党の四つに分解し、以来無産政党は分裂と結合の長い歴史をたどった。
 私は労働農民党解体後日本労農党に参加し、以来日労系主流のおもむくところに従い、日本大衆党、全国労農大衆党、社会大衆党と、戦争中政党解消がなされるまで数々の政党を巡礼した。労働農民党分裂のさいできた労農派、日労系、社民系は現在でも社会運動史上の戸籍とされているが、私は日労系とされている。
 この戦前無産政党時代、私はずっと組織部長をやったが、これが政党人としての私の成長に非常なプラスになった。実際活動としては演説百姓の異名で全国をぶち歩き、またデモとなれば先頭に飛び出したので“デモの沼さん”ともいわれた。昭和五年のころと思うが、メーデーがあり、私は関東木材労働組合の一員として芝浦から上野までデモったことがある。そのときジグザグ行進で熱をあげたため検束された。当時の私は二十四貫ぐらいで非常に元気であった。私は無抵抗ではあるが、倒れるクセがあるので、検束するのに警官五、六人がかからねば始末におえない。このとき、暴れたあげく、荷物のように警察のトラックにほうりこまれた。若き日の思い出はつきない。

五、検束回数のレコードホルダー


 私は戦前、無産政党に籍をおくと同時に日本農民組合、日本労働総同盟、日本鉱夫組合にも参加して労働運動もやってきた。その間数々の小作争議、鉱山争議、工場ストを経験したが、いまのストライキにくらべて感慨無量なものがある。
 早大在学中、ふと足尾銅山のメーデーに参加したことが、私を鉱山労働運動に結びつけた。当時の足尾銅山には石山寅吉、高梨二夫、高橋長太郎、可児義雄など優秀な労働運動家がおり、日本鉱夫組合本部にも麻生久、加藤勘十、佐野学などの人がいて、私は鉱山労働運動に強くひきつけられた。以来、足尾銅山、小坂鉱山、花岡鉱山、阿仁銅山、別子銅山等の労働争議に参加した。そのうちで特に印象が深いのは大正十二年の秋田の阿仁銅山の争議である。
 阿仁銅山の現地から鉱山労働組合本部へ首切りがあった旨の通知があったので、私は高梨君とともに現地に行った。阿仁銅山に到着し、鉱夫長屋の一室で作戦をねっていると、夜中の一時ごろと思うが、突然会社側のやとった暴力団が鉱夫長屋に押しかけてきた。暴力団はワイワイわめきながら、長屋を取巻き、石を投げたり、竹槍で無茶苦茶についてまわる。私はこれはヤラレたと覚悟したが、その時、私服の警官が入ってきて『君たちの生命は保障できないから、警察まできてくれ』という。私たちは負けてなるものかとがんばっていたが、騒ぎはますます激しくなるばかりなので、裏口から山の中へ逃込んだ。そして多少ホトボリもさめたろうと町へ出てくると警察に検挙され、阿仁合警察署に留置された。ところが今度は鉱夫たちが警察署に大挙押しかけてきて、警察が私たちの生命を保障できないなら自分たちがあずかると私たちを警察から出してくれ、三日三晩、カンテラとツルハシで守ってくれた。しかし事態は二転し、私たちはまた検束され後から応援にきた可児義雄君の三人、ともども警官五人に守られて再び阿仁合川を下り、そのまま秋田県から追放された。
 その翌年足尾銅山の精練工場の首切りがあり、ストライキとなった。私は応援に行き、デモに加わったが、警官隊と衝突、治安警察法違反と公務執行妨害罪で検束され、栃木の女囚監獄の未決に入れられた。この私の事件で裁判の弁護をやってくれたのが、若き日の片山哲、麻生久、三輪寿壮の諸氏であった。裁判の最後になって『被告になにかいうことはないか』と裁判長がいったので『デモの妨害をしたのは警官である。その妨害した警官が罪にならず、なんの抵抗もしない私たちが罪になるのは了解に苦しむ。無罪だ』と述べたが懲役五ヵ月をくった。
 獄中でゲタの鼻緒のしんをない、封筒はりをしたが、獄房の中へもシャバのタヨリが伝わってくる。ある房から新潟県の木崎村で大小作争議が起っていることを知らされた。私は友人の三宅正一、稲村隆一の両君が活躍していることを思い、いても立ってもおられず出獄したら、すぐその足で新潟に行き応援しようと心に決め、獄房の中で小さな声でアジ演説の練習をしていた。獄中の決心の通りに出獄後新潟にとんで行ったら、三宅君はすでに騒じょうの罪で新潟監獄につかまっていた。その後、昭和五年、日本農民組合(労農党系)と全日本農民組合(日労系)が合同して全国農民組合ができたが、私は争議部長に選ばれ、全国の小作争議をかけ回らされた。
 昭和四年、日本大衆党の公認をうけ東京市深川区から市会議員に立候補した関係で、深川のアパートに住むようになり、それ以来、江東地区の労働運動に関係するようになった。関東木材産業労働組合、東京地方自由労働者組合、東京製糖労働組合の組合長をやり、日本労働総同盟に参加して、深川木場の労働者のために多くの争議を指導した。たしか昭和十年ごろと思うが、ある深川の製材工場が釘で厳重にロック・アウトをしたことがあった。われわれはこれをぶちこわして強引に工場へ入ったところ、会社側も負けじとお雇い人夫を動員、トビ口やコン棒を振上げ襲いかかってきた。あわや血の雨の降る大乱闘になろうという時、救いの神ともいうべき警官が現われ平野警察署長青木重臣君(のちの平沼内閣書記官長、愛媛県知事)の命令で、労使ともに検束されてしまった。留置場はまさに呉越同舟、敵も味方も一しょくたにされていたが、そのおかげで留置場内で話がまとまり、争議が解決したのだからケッ作だ。青木署長もなかなか思い切ったことをしたものである。
 演説をやれば「注意、中止、検束」、デモでは先頭にいて「検束」という具合で、この当時の社会運動家の中ではわたくしが検束の回数では筆頭だったようだ。

六、鍛え上げたガラガラ声


沼は演説百姓よ
汚れた服にボロカバン
きょうは本所の公会堂
あすは京都の辻の寺
 これは大正末年の日労党結党当時、友人の田所輝明君が、なりふり構わず全国をブチ歩く私の姿をうたったものだ。以来演説百姓は私の異名となり、今では演説書記長で通っている。私は演説百姓の異名をムシロ歓迎した。無産階級解放のため、黙々と働く社会主義者を、勤勉そのもののごとく大地に取組む農民の姿にナゾらえたもので、私はかくあらねばならぬと念じた。
 まことに演説こそは大衆運動三十余年間の私の唯一の闘争武器であった。私は数年前「わが言論闘争録」という演説集を本にして出したが、その自序の中で「演説の数と地方遊説の多いことは現代政治家中第一」とあえて広言した。私は全国をブチ歩き、ラジオにもよく出るので私のガラガラ声が大衆の周知のものとなった。ラジオや寄席の声帯模写にもしばしば私の声の声色が登場して苦笑している。徳川夢声氏と対談したとき『あれは沼さんの声だと誰でも分るようになれば大したものだ』とほめられたことがある。
 しかし私の声ははじめからこんなガラガラ声ではなかった。学生時代から江戸川の土手や三宅島の海岸で怒濤を相手にし、あるいは寒中、深夜、野原に出て寒げいこを行い、また謡曲がよいというので観世流を習ったりして声を練った結果、現在の声となった。これらの鍛練は大きな声と持続性の研究であり、おかげで私は水も飲まずに二、三時間の演説をやるのはいまでも平気だ。演説の思い出は多いが、その中でアジ演説で印象に残ったものを、自慢話めくが二、三披露してみよう。
 その一つは昭和初年山形県の酒田公会堂で行われた日本農民組合の地主糾弾演説会である。二千人の聴衆を前にして、私は当時酒田に君臨していた本間一族など地主の横暴を非難し、小作民解放を説く大熱弁? をふるった。ところが二階から突然『そうだ』と叫び一壮漢が立上がったかとみるや、下にとび降りた。とび降りた当人はなんでもなかったが、天井から人が降ったのだから、その下敷になった人はたまらない。一人が打ちどころが悪くて死んだということである。私の演説が間接的にしろ殺人を行ったのである。
 その二は昭和六年冬、全国労農党秋田県大会が行われたときである。私は細野三千雄、川俣清音、黒田寿男らの諸氏とともに、雪の降りしきる秋田県についた。駅には多数の出迎えの人があり、地元では駅前でブッて気勢をあげ、会場までデモる計画だったらしい。私たちはつぎつぎと演説したが、私が激越な口調でブッたところ、立会の警官から『弁士中止』の声がかかった。それにも構わず続けていると『検束!』という声がかかり、聴衆と警官との間に大乱闘が始まったのである。
 私のところにも警官が押寄せたが、その時、私の前に立ちふさがり、私をかばってくれたのが五尺八寸、二十数貫という巨漢佐藤清吉君であった。佐藤君は相撲取りをしたことがあり、力があるので指揮者の警部補を殴りつけて傷を負わしてしまった。そのため私はすぐ釈放されたが、佐藤君は公務執行妨害で八ヵ月の刑を受けた。当時私は佐藤君にすまないと思い、しばらく寝ざめが悪かった。
 その三は昭和二十四年の第一次吉田内閣当時、定員法をめぐって与野党が衝突したときのことである。社会党など革新派は首切り法案(定員法案)を葬るため頑張ったのだが、ついに審議引延しのタネが切れてしまった。ところへ田中織之進君が『国税庁設置の大蔵省設置法一部改正案の提案理由の中に“最高司令官の要求にもとづき……”とあるのを問題にしたらどうか』と提案、私がこれをタネにして本会議で一席弁じ審議引延しをすることになった。私は同法案が『政府の責任で出したものか、マ司令部の責任で出したものか、日本の国会の審議権を守れ』と迫った。ところが『修正した』と答弁があったので『それは削除か、誤字修正か』と手続きを問題にし、また当時の池田蔵相の前日の失言をとらえて食い下がった。私は四たび登壇してねばり、とうとう演壇から強制的におろされたがその途中、私の演説を聞いて共産党議員がいきり立って、民自党議員と乱闘を演じ、共産党の立花君が民自党の小西寅松親分の頭をポカポカなぐる騒ぎとなった。このため本会議は休憩となり、私はしてやったりとほくそ笑んだが、私のアジ演説は共産党員を走らせたのだから共産党以上だといわれた。

七、戦前の選挙戦


 私の衆議院議員当選回数は昭和十一年に初めて当選して以来八回になった。社会党では西尾末広、水谷長三郎の両氏の十回に続き、私と片山氏が八回で古い方に数えられる。衆議院は十回立候補して二回落選、東京市会議員は四回立候補して二回当選、都会議員当選一回というわけで、立候補十五回の当選十回は必ずしも悪い率ではないと思っている。とくに戦後の選挙は安定性があったが、かけ出し時代の選挙はらくではなかった。
 普選第一回の総選挙(昭和三年一月二十一日)は私は年が足りないので立候補できないので、群馬県第一区から立った須永好君の応援に出かけた。当時の無産党候補者の演説会には必ず警官が臨席して候補者が政府を攻撃し、社会主義を説くと「弁士中止」を命じ、聞かなければ検束となり、ついで大乱闘となったものだった。また一般の人も無産党候補の演説会とあれば、乱闘みたさに押寄せたもので「押すな押すなの三十八票」といわれ、実際の票にはならなかった。
 昭和四年、日本大衆党から公認をうけて深川区から東京市会議員選挙に出て、初めての選挙をやったが得票数千二百票ばかりで敗れた。
 その後昭和五年、当時の東京第四区(本所、深川)からはじめて衆議院議員選挙に打って出たが、これも三千二百票ばかりで惨敗した。ついで満州事変直後の昭和七年一月、総選挙が実施されたが、分裂した無産政党の大同団結がなり、全国労農大衆党が結成された直後でもあるので、私も大いに張切った。そのとき私ども全国大衆党の立候補者は“帝国主義戦争絶対反対”をスローガンとしてかかげた。ところが投票前夜に社会民衆党の公認候補馬島※(「にんべん+燗のつくり」、第4水準2-1-93)氏側が「満州を支那に返せという大衆党(浅沼)は国賊である」とのビラを全選挙区にばらまいた。
 私も運動員たちもこの選挙は必勝を期していたところであり、投票前夜の意識的な中傷のビラには全く怒ってしまった。そこで演説会を終ると私の選挙運動員は大挙して馬島※(「にんべん+燗のつくり」、第4水準2-1-93)事務所を襲撃、大乱闘となり、私の運動員は全員検挙された。残ったのは私と事務長の山花秀雄君(現社会党代議士)の二人であり、この乱闘の結果、私はまた落選してしまった。
 ついで昭和八年、東京市会議員選挙に立候補したが、このときは最高点で当選した。友人が酒の四斗樽を一本寄付してくれたので、選挙事務所に千余名が集まり、大祝杯をあげたが、あまりの雑踏でデモのような状態となり、数十名の警官が出て取締りに当った。
 この東京市会議員の選挙からは芽が出て、昭和十一年の衆院議員選挙に当選し、トントン拍子に運ぶようになった。そうなってくると時の社会大衆党本部では、君はどこで選挙をやっても当選しそうだからと、昭和十二年の林内閣食逃げ解散後の選挙には、第四区(本所、深川)から第三区(京橋、日本橋、浅草)に移れという。私にとって第三区ははじめての選挙区ではあり、相手には頼母木桂吉、安藤正純、田川大吉郎、伊藤痴遊というそうそうたる人がひかえている。京橋、日本橋、浅草はまさに東京のヘソであり、日本の中心である。私はこれこそ男子の本懐と考え、本気になって闘い抜いた。その結果、安藤、田川の両強豪をおさえて、頼母木氏についで第二位で当選した。この時ばかりは本当に勝ったという感じがした。
 その後、昭和十七年の翼賛選挙には立候補したが、直ちに辞退した。またその年、東京市会議員の改選に立候補したが、弾圧が激しく落選した。ついで都制施行とともに都会議員に当選し副議長になったが、終戦は都会議員で迎えた。
 いま弾圧と迫害の中に闘われた戦前の選挙を思い、戦後の選挙とくらべると、その変り方に驚くばかりである。昭和十二年の選挙のときだったか、ある人が路に倒れた私の選挙の立看板を立て直したため検挙されたことがあった。バカげた話であるが、戦後はそんなこともなく明るくなったのが喜ばしい。

八、社会党誕生す


 私は終戦の勅語を深川の焼け残ったアパートの一室で聞いたが、このときの気持を終生忘れることができない。二、三日前飛んできたB29のまいたビラを読んで、薄々は感づいていたものの、まるで全身が空洞になったような虚脱感に襲われた。私はこれまで何度か死線をさまよった。早大反軍研事件後の右翼のリンチ、東京大震災のときの社会主義者狩りと市ヶ谷監獄、秋田の阿仁銅山争議など――。しかしこれらのものは社会主義者としての当然の受難とも思えたのである。しかし戦争はもっと残酷なものだった。戦闘員たると否とにかかわらずすべてを滅亡させる。私の住んでいた深川の清砂アパートは二十年三月十日の空襲で全焼し、私はからくも生き残ったが、一時は死んだとのウワサがとんで、友人の川俣代議士が安否をたずねに来たことがある。無謀な戦争をやり、われわれ社会主義者の正当な声を弾圧した結果は、かかるみじめな敗戦となった。私は戦争の死線をこえて、つくづく生きてよかったと思い、これからはいわば余禄の命だと心に決めた。そしてこの余禄の命を今後の日本のために投げださねばならぬと感じた。
 やがて敗戦の現実の中に、各政党の再建が進められ、保守陣営の進歩党、自由党の結党と呼応して、われわれ無産陣営でも新党を結成することになった。二十年九月五日、戦後初の国会が開かれたのを機会に、当時の代議士を中心として戦前の社会主義運動者、河上丈太郎、松本治一郎、河野密、西尾末広、水谷長三郎氏が集まり第一回の準備会を開いた。そこで戦前の一切の行きがかりを捨て、大同団結する方針が決まり、全国の生き残った同志に招待状を出すことになった。当時私は衆議院議員を一回休み、都会議員をしていたが、河上丈太郎氏から『君は戦前の無産党時代ずっと組織部長をしていたから全国の同志を知っているだろう。新党発起人の選考をやってくれ』と頼まれ、焼け残った書類を探しだして名簿を作成した。その名簿によって当時の社会主義運動家の長老、安部磯雄、賀川豊彦、高野岩三郎の三氏の名で招待状を出し同年九月二十二日、新橋蔵前工業会館で結党準備会を開いた。
 ついで十一月二日、全国三千の同志を集め、東京の日比谷公会堂で結党大会を開いた。私はこのとき司会者をつとめたが、会場を見渡すといずれも軍服、軍靴のみすぼらしい格好ながら同じ理想と目的のため、これほど多くの人々が全国からはせ参じてくれたかと思うとうれしくてたまらなかった。同大会は松岡駒吉氏が大会議長をつとめ、水谷長三郎氏が経過報告をやり、党名を「日本社会党」と決め、委員長欠員のまま初代書記長に片山哲氏を選んだ。またこの大会での思い出として残っているのは、党名が日本社会党か、日本社会民主党かでもめたことである。結局国内的には日本社会党でゆき、国外向けには日本社会民主党ということに落ちついた。
 結党当時、私は戦前同様組織部長をやったが、当時の社会党は西尾末広、水谷長三郎、平野力三の三氏のいわゆる「社会党三人男」で運営されていた。西尾氏が中心になり、水谷氏がスポークスマン、平野氏が選挙対策の責任者というわけだったが、現在、西尾氏が長老になり、水谷氏また病み、平野氏も違った陣営にあることを思うと、十年の歳月を感じて感無量である。
 ついで社会党は二十一年の総選挙で九十八名、二十二年の総選挙で百四十三名を獲得、第一党となって、当時の民主党、国民協同党と協力して片山内閣を作った。そのときの特別国会では、衆院議長も第一党たる社会党がとることに話合いがつき、松岡駒吉氏が議長に選ばれ、ついで首班指名では松岡議長から『片山哲君が内閣総理大臣に指名されました』と宣告した。「松岡議長に片山首相」私はいまこそ社会運動三十年の夢が実現したのだと思い、涙がぽろぽろこぼれてくるのをどうしようもなかった。

九、野人で通す“マア・マア”居士


 私の社会党書記長は二十三年以来であるからもう九年になる。なか一回、一年だけ書記長を休み、片山、河上、鈴木の三委員長のもとにずっと書記長をつとめてきたのであるから長いものである。おかげで今日では万年書記長の異名をとっている。この間、社会党は天下を取ったことがあり、また党自体が分裂、統一といったお家騒動の悲劇を演じてきた。私はその間ずっと書記長を通し、この歴史の渦中に動いたのであるから思い出は多い。
 二十二年片山社会党内閣が成立し、当時の西尾書記長が国務大臣兼官房長官として入閣した。私はこのとき、西尾書記長の後を引受けて書記長代理を八ヵ月つとめたのが、現在の書記長商売の手始めで、翌二十三年一月の大会では正式に書記長に就任した。この当時の社会党はいわゆる与党であり、私は党務の責任者だ。野党慣れした私が当時の野党であった自由党に対抗、法案通過や、不信任案の否決に努力したり、とかく勝手の違った感じで苦労した。西尾官房長官に不信任案が出たときも、党内の左派が同調の動きをみせたので、これをまとめて否決するのに苦労した。
 やがて与党の書記長にも別れる時がきた。二十四年春社会党は第一党の百四十三名から一挙に四十八名に転落、委員長の片山前首相も落選する大事件が起きた。私はこの敗戦の責任を問われ、続く大会では鈴木現社会党委員長と書記長を争って大敗を喫し、組織局長に格下げになった。組織局長は一年で辞め、鈴木委員長実現とともにまた書記長にもどったが、社会党はこれから分裂、統一をくり返し、書記長として党内をとりまとめるのに非常に苦労をした。
 書記長の仕事は中央執行委員会の取りまとめの主任務のほかに、演説の要請があれば出ていく、国会対策にも足もふみ込むなど非常に忙しい。党務がいつも主であるから、家庭のことは二の次にされる。
 二十五年の一月、早稲田大学講堂で党大会が開かれたが、その会場に父の死が知らされた。このときは私が書記長に再就任した大会ではあり、その大会で父の死を発表するのはエンギをかつぐのではないが、党に悪いと思ってこれを秘しかくした。その翌日、故米窪満亮氏の党葬があったが、私は葬儀委員長となっていたので、その葬式を終えてやっと三宅島に向かった。そのときは船便がないため、百トンばかりの小舟で三宅島に帰ったが、あわてたために、途中のタクシーの中にモーニングを置き忘れた。父にさからって政治家になった天罰か、親の死に目にも会えないのみか、かかる失敗もやった。
 こういう私ごとは別として書記長の最大の仕事は党内とりまとめである。私は“マア・マア居士”といわれている。ある座談会でマア・マアという言葉をやたらに連発したので、つけられたのが初めだが、その後は党内をマア・マアとまとめるからということになった。事実私は中央執行委員会などの会議では採決をしない。たった一度、二十六年秋に、講和、安保両条約の賛否で党内が分れたとき採決をやったが、これが原因で党内左右派が大分裂した。
 といっても書記長をしていれば、時におもしろいことにもぶつかる。二十四年の選挙で大敗した後、国会で首班選挙が行われた。片山委員長がいないときは書記長が代理で出ろといわれ、首班指名に七十八票もらったことがある。私は松岡前議長を推したのだが、私に決まり、共産党も社会党に同調したので思わぬ票になった。当時は家にふろがなく、銭湯に出かけていたが、湯ぶねの中で、近所の者に『あんなアパートから総理大臣候補が出るのはおかしい』とからかわれた。
 最後に私は書記長としての自分を批判してみよう。私は昔から党会計に関係しない。社会主義政党は昔から党会計が委員長、書記長とならんで党三役と呼ばれ、重要な職務となっている。この会計がいるため、私の書記長は続いているともいえよう。また私は党のオモシとなって鎮座しているのは苦手である。“雀百まで踊りを忘れず”というべきか、書記長兼アジ・プロ部長心得で動いているのがすきだ。理論家でない私にとって行動こそが、私の唯一の武器であり、党につくす道であると思っている。私は学校を出て以来三十余年、議員以外の一切の勤めをしたことがない。自分でもよく今まで食ってこられたと不思議に思うが、野人はよくよく私の性にあっているのだろう。





底本:「浅沼稲次郎 私の履歴書ほか」日本図書センター
   1998(平成10)年8月25日第1刷発行
底本の親本:「私の履歴書 第2集」日本経済新聞社
   1957(昭和32)年
初出:「日本経済新聞」日本経済新聞社
   1956(昭和31)年
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2010年11月26日作成
2013年12月2日修正
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