私の家をたづねてくる客の中の和服の人は、どうも黒足袋をはいたものの方が多い。それといふのが和服の客は、多く東京からやつてくる、落語家、講釈師といつた種類の人達だからなのである。京都で和服を着てゐるのは、茶道、能楽、骨董などに関係のある人達が多いので、みんな白足袋ばかりはいてゐるが、東京からやつて来る、それらの市井の芸人達は、まず大抵は黒足袋であつて、それも
もう五十年来寄席通ひをつづけ、今でも京都では唯一の寄席である新京極の富貴亭の定連株になつてゐる私は、いまだにさういつた芸人付き合ひが止められないので、義理にも黒足袋よりほかはく気にならない。結局黒足袋の持つてゐる庶民的な市井趣味が、私自身の好みや柄に合つてゐるのであつて、白足袋から感じられる貴族的な茶人趣味からは、かなり縁遠い存在らしい。
それにまた黒足袋といふと私には、ちよつと忘れられない思ひ出がある。といふのは今から十数年前、たしか昭和十三年の十一月も末ごろのことだつたと思ふが、当時大阪の萩の茶屋に住んでゐた落語家の三遊亭円馬が、そのころ花月に出てゐた桂文楽を伴れて、土佐から移つて来たばかりの、私の京都のわび住居をたづねてきてくれたことがあつた。円馬はもう中風を病んで、暫く高座を休んでゐる時だつたので、舌も大分もつれ気味で足元も危なかつたが、それをもうその時分大真打だつた文楽が、心からいたはつて世話をしてゐる様子は、かういふ市井の芸人にだけしか見られない人情の美しさを、久しぶりに見せられたやうな気がして、覚えず涙がこぼれさうになつた。その時の二人の姿は、いまだに私の目に残つてゐるが、殊に今猶忘れられないのは、帰り際に文楽から下駄をはかせてもらつてゐる、円馬の足の黒足袋である。
かうして私はある種類の人達からは、下品だとか、俗悪だとか、嗤笑されるかも知れないけれど、おそらく一生黒足袋をはきつづけてゆくことであらう。