青春回顧

吉井勇




 銀座裏日吉町の民友社の傍、日勝亭と云ふ撞球屋の隣りにカフエ・プランタンが出来たのは、たしか明治四十三四年頃のことだつたと思ふが、その時分この銀座界隈には、まだカフエと云ふものが一軒もなく、それらしいものとしては、台湾喫茶店とパウリスタとがあるだけだつた。主人が洋画家の松山省三君だつたし、プランタンと云ふ命名者が小山内薫氏だつたので、客は多く文士、画家、俳優、その他新聞雑誌関係の人か、或ひはさう云つた方面に趣味を持つた人達ばかりで、まださう云つたカフエなどと云ふものが珍らしい時代だつたので、築地木挽町あたりからの帰りがけに、夜更けてから芸者連れで来るやうな客も少くはなかつた。
 このプランタンの客種が、今云つたやうな人達が主となつてゐたので、ここで会つた文壇関係の人々もかなり多かつたが、その中でも最も私に深い印象を残してゐるのは、中沢臨川、押川春浪の両氏である。中沢氏とは小山内氏の紹介で、たしかここで会つたのが最初だと思ふが、直ぐに杯盤狼藉の中で相見るやうな仲になつてしまつて、ずゐぶん一緒に各方面へ、酒修業に伴れて往かれたものであつた。臨川と云ふ名前は、以前から武林無想庵、川田順、小山内薫などの諸氏と一緒にやつてゐた「七人」と云ふ雑誌の上で知つてゐたし、その発行所から出た「鬢華集」と云ふ文集は、私の最愛読した書物であつて、渇仰久しきものがあつたから、中沢氏にかうして伴れて歩かれることは、私にはまるで夢のやうな気がされて、唯もう嬉しくつて堪らなかつた。
 中沢氏には芸者達までが「神様」と云ふあだ名を附けて、崇敬の念を以て遇してゐたらしいが、この「神様」は酒は好きだが強い方でなく、三四本飲むともう忽ちに酔態淋漓、杯の酒は殆んどみんなこぼしてしまひ、誰彼の差別なく、そこらにゐるものをつかまへては、「馬鹿野郎。貴公は馬鹿だぞ」などと云つて痛罵を始める。が、そのうち崩れるやうに横倒しになると、大広間の真ん中であらうが何処であらうが関はずに、そのままぐつすりと寝込んでしまふ。兎に角中沢氏の友達の中で、「馬鹿野郎」と云はれなかつたものは、一人もいなかつたと云つてもいい位であらう。私などはこの好意ある「馬鹿野郎」と云ふ言葉を、幾度浴せ懸けられたか知れない。
 中沢氏と最後に会つたのは、たしか私が越後の妙高山の中腹にある、赤倉温泉に滞在してゐた時のことだつたと思ふ。私はわざわざ信州の松本から訪ねて来た中沢氏と、一晩山上で痛飲した揚句、これから新潟へ往かうと云ふことになつて山を下り、そこでも鍋茶屋その他を飲み廻つてから、更にその当時宝田石油に勤めてゐた、みんなが越後南州と称してゐた大村一蔵君を長岡に訪ね、その翌日二人は篠の井の駅で別れたのだつたが、それが遂に私と中沢氏との永遠のわかれになつてしまつたのだつた。
 押川春浪君と知り合つたのは、私がまだ中学の一年か二年の時分のことで、当時私は南洲学者として聴こえた勝田孫弥氏の塾に入つてゐたが、押川君も以前そこにゐた縁故から、よく私のところへも遊びに来て、「ちよつと君の机を貸して呉れたまへ」と云つては、懐から原稿用紙を出して、その頃勝田氏の出してゐた「海国少年」と云ふ雑誌に連載してゐた、「塔中の怪」と云ふ冒険小説を書いたりしてゐた。挿絵も自分で描いてゐたが、これも素人ばなれしてゐて上手だつた。
 その後打ち絶えて十年ばかり会はなかつたのが、偶然プランタンで顔を会はせるやうになり、二人とも中沢氏を中心にしてゐた飲み仲間だつたので、忽ちのうちに打ち解けた酒間の交りをするやうになつた。父君の方義翁は基督教界の志士的熱血児だつたから、春浪君もまた一見貴公子然とした体躯の中に烈々たる気魄を蔵してゐて、国技館で学校相撲が催された時、何ごとに憤慨したのか知らないが、土俵の上でその当時飛ぶ鳥を落すやうな勢ひの出羽の海を、あはや殴らうとしたと云ふのだから、向ふつ気の強さが思ひやられる。
 プランタンによく来てゐた時代は、春浪君の身辺には、いろいろ懊悩の種があつたらしく、二日二晩殆んど眠らずに、同じ卓子の前、同じ椅子に腰を懸けたまま、絶えずウヰスキイを飲みつづけながら、ぽろぽろ涙を澪してゐたこともあつた。兎に角、春浪君の酒は、体で飲むのではなく気で飲むのであつて、何か思ふことがあつたりすると、徹底的に飲みまくつて倦むところを知らない。そしてまた酔つて来ると、結局日頃の鬱屈が胸に込み上げて来ると見えて、御多分に洩れない憤り酒、慷概又慷概、それもまた尽きるところを知らないのである。
 春浪君去つて後、「武侠世界」の主幹となつてゐた阿武天風君も、後年西比利亜で新聞を出した時なぞは、軍服を着て押し廻つてゐたと云ふ豪傑なのにも関はらず、さすがに春浪君の憤り酒には、かなり手古摺つてゐるやうに見えた。あんまりその憤り酒に辟易しなかつたのは、或ひは私一人位のものだつたかも知れない。臨川、春浪、薫、天風、悉くもうこの世の人ではないと思ふと、うたた落莫の感に堪へないものがある。
 プランタンに来た定連には、まだこの外に文壇の士では、永井荷風、正宗白鳥、生田葵などの諸氏があつた。
 何しろ天井にも壁にも、一面にめちやめちやに落書がしてあつて、莨の煙の濛々と立ちこめた間から、山上草人描くところの、まるで雲竜のやうな自画像が見えたり、誰が書いたか分らないが、酔墨淋漓として「花柳元是共有物」などと云ふ乱暴な文句が読まれたりする、異色のあるカフエのことだつたから、夜が更けるにつれてだんだんそこには、今ではもう味ふことの出来ないやうな、妖しくも美しい神秘的な空気が、おのづから醸し出されて来るのだつた。そしてまたそこにはひとりでに、臨川、春浪氏等のやうな酒ばかり飲んでゐる爛酔派と、荷風、薫氏等のやうな珈琲を啜つてゐる静観派と、客にも二つの流派が出来て、不思議な対照を見せてゐた。しかしそれも終ひには、春浪君が泥酔して大に暴れ廻つて以来、荷風氏が先づ姿を見せなくなり、結局だんだん静観派の連中は、足が遠のくやうになつてしまつた。
 その頃荷風氏はいつも一人でなく、きつと生田葵君か、亡くなつた井上唖々君を伴れて来てゐたが、兎に角長年、敲き込んだ度胸骨と云ふものは不思議なもので、にこやかに笑つてゐる時でも、何処かに人に迫つて来るものがあつた。先代左団次の十三回忌かの追善の会が上野の常盤華壇であつて、伊井蓉峰氏等の空也念仏があつたり、岡鬼太郎氏と鳥居清忠氏の二人仁木で先代萩の床下があつたりした後で、荷風氏と小山内氏と私との三人は、そつとそこを抜け出して銀座へ往き、プランタンにも寄つた揚句、その晩、小山内氏と私とは、荷風氏を或るところに残して引き上げたのだが、それが「矢筈草」の発端になるとは誰が知らう。
 生田葵君もプランタンには、毎晩のやうに顔を見せてゐたが、私が生田君と知つたのはかなり古く、新詩社に入社早々のことだから、まだ二十そこそこの時分のことだらうと思ふ。生田君はその頃新詩社の近くの千駄ヶ谷に家を持つてゐて、新進小説家としての売り出し盛り、「阿蘭陀皿」「鳥の腸」「しら浪」などと云ふものは、かなり評判になつた作品だつた。背広の下に赤シヤツを着て、よく与謝野先生の家へ遊びに来てゐたが、晶子さんから面と向つて、「生田さん、この間あなたのお宅へ伺つたら、海老茶の袴が脱いでありましたね」などと云つて冷やかされてゐたところを見ると、生田君もその頃は盛んに艶名を立てられてゐたものと見える。私は生田君とは不思議な縁で、鎌倉にも同じ時代に住んでゐて、同君が借りてゐた停車場前の時計屋の二階にも遊びに往き、後に細君になつた或る女を迎へるために、汽車が着くと周章てて下駄を片ちんばに穿いて、駅に駆け付ける姿などを見せられたものだが、プランタン時代も中々元気で、何とか云ふ露西亜人の姉妹などを、意気揚々と引つ張り歩いてゐた。
 もう一人荷風氏がよくプランタンに伴れて来た井上唖々氏は、昔は帝大独文科の秀才だつたさうであるが、その頃はもうすつかり世の中を諦めてしまつて、深川あたりの裏長屋に、芸者上りの恋女房と、うき世を棄てた侘住居、のらりくらりと日を送つてゐるやうな男なのだつた。酒が好きで私も三四度一緒に飲んだことがあるが、その隠逸ぶりは徹底したものであつて、何もかも棄ててしまつた境涯は、むしろ私には羨ましい位のものであつた。たしか荷風氏が数年前に発表された「残冬雑記」の中にも、この唖々氏の日記の一節が引いてあつたやうに思ふ。
 かうして「われ若かりし頃」を回顧して見ると、私の目には青春時代の自分の姿が、まざまざと思ひ浮べられて、そぞろにその時分が懐かしくなる。
 谷崎君は「陰翳礼讃」の中で、「人間は年を取るに従ひ、何事に依らず今よりも昔の方がよかつたと思ひ込むものらしい」と云つてゐるが、私も自分の身に引きくらべて、その言葉には同感である。
 しかし衣食住などと云ふものは、それぞれ身を置く境涯に依つて如何にでもなるものだと見えて、諦めてしまへばいいも悪いも、うまいもまづいもありはしない。炉辺に半跏を組んで一杯の渋茶を啜るといつたやうな生活も、また棄てがたい味ひがある。
 それに私は昔から一種の運命論者であつて、もう今からは廿数年前、守田勘弥と林千歳とが演つた、アンドレエフの「人の一生」を有楽座で観た以来、あの幕切れに影のやうに現はれて、暗示的な独白を述べる「灰色の人」が、時々私の身近にも彳んでゐるやうに感じることがあるが、私も鬢髪漸く白んで来るとともに、私の残生に対してこの「灰色の人」が何と云ふか、それが聴きたくてならなくなつて来た。
 既にもう「われ若かりし頃」は、遠く過ぎ去つてしまつたけれども、私の一生はまだ中々終りはしない。今は私に取つて幕切れではあるかも知れないけれども、まだ中々大詰ではない。





底本:「日本の名随筆 別巻3 珈琲」作品社
   1991(平成3)年5月25日第1刷発行
   1995(平成7)年8月20日第5刷発行
底本の親本:「吉井勇全集 第七巻」番町書房
   1964(昭和39)年3月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2010年12月3日作成
2016年1月19日修正
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