夏と少年の短篇

片岡義男




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私とキャッチ・ボールをしてください




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 金曜日の午後、高等学校からの帰り道、いつも乗る私鉄の十二両連結の電車のなかほどの車両から、三年生の伊藤洋介はプラットフォームに降りた。どの車両からも、何人かの乗客が、それぞれになぜか疲労した様子で外へ出てきた。線路をむこうへまたぐ木造の建物が、プラットフォームの端にあった。誰もがそこにむけて歩いた。
 歩きながら伊藤洋介は空を仰いだ。梅雨のあいまの曇った日だった。空は均一に灰色だった。空を見渡したあと、彼はふとふりかえった。おなじクラスの女性が歩いて来るのを、洋介は見た。遠山恵理子という名の女性だった。
 洋介の視線が彼女の目と合った。恵理子は淡く微笑した。いつ見ても静かに落ち着いた雰囲気を保っている、聡明そうな美少女だ。洋介は立ちどまった。恵理子を待った。そしてふたりは肩をならべて歩いた。恵理子と洋介はおなじ背丈だった。
 発車した電車は駅を出ていき、すぐむこうにある一級河川にかかる鉄橋にむけて、走り去った。
「いつもここで降りるの?」
 洋介がきいた。
「そうよ」
「知らなかった」
「私は知ってたわ」
「どうして?」
「何度も見かけたから」
 木造の建物の階段を、ふたりは上がっていった。線路を越え、反対側の階段を降りた。駅の北口からふたりは外へ出た。
 洋介が母親とふたりで住んでいる部屋のある建物まで、駅から歩いて十分かからなかった。部屋のある位置を洋介は恵理子に説明した。恵理子も家の場所を教えた。ふたりが住んでいる場所は、歩いて五分ほどの距離だけ離れていることが、おたがいにわかった。
 駅前から続いている商店街を、ふたりは抜けていった。やがて正面にT字交差が見えた。
「あそこを僕は右へいく」
 と洋介は言った。
「私は左です」
 恵理子が答えた。そして、
「川へいってみましょうよ」
 と、彼女は言った。
 ふたりはT字交差を右へ曲がった。住宅地のなかを道なりにまっすぐいくと、やがて川の土手が正面に見えた。その高い土手に造ってある階段を上がった。
 土手の道に立つと、川幅が広いところで三百メートルはある川のぜんたいを、左右へ視界いっぱいに見渡すことができた。都市部を流れる川の平凡な光景が、その視界のなかに続いていた。
 土手の上の道をふたりは川下にむけて歩いた。このあたりの川原は国が管理する公園施設となっていた。粗末なバックネットの立つ野球のグラウンドがふたつ、土手に沿ってならんでいた。手前のグラウンドでは、会社勤めに見える人たちが、試合をおこなっていた。隣りのグラウンドに人はいなかった。
 恵理子と洋介は立ちどまって試合を見た。
「練習試合だね」
 洋介が言った。
 恵理子は洋介に顔をむけた。彼の横顔を見てひと呼吸だけ置き、
「野球の選手だったのですって?」
 と彼女はきいた。
 洋介は苦笑した。
「ずっと以前だよ。リトル・リーグ。僕はキャッチャーだった」
 洋介の返答に、恵理子はうれしそうに微笑を深めた。洋介は子供の頃もいまとおなじく、細身の優しそうな少年だった。しかし、外見が人にあたえる印象とは大きくちがって、彼は頼りになる優秀なキャッチャーだった。
「なぜ知ってるの?」
 洋介はきいてみた。
「クラスの人が言ってました」
 土手の道をさらにしばらく川下へ歩き、やがてふたりはおなじ道を引き返した。練習試合がおこなわれているグラウンドの上まで戻って、ふたりはしばらく試合を見た。
「もう野球はしないの?」
 恵理子がきいた。
 洋介は首を振った。
「ゲームは楽しいけれど、最後は勝ち負けになってしまうから」
「明日の土曜日は、なにをしているの?」
「なにもしてない」
「私とキャッチ・ボールをしてください」
「キャッチ・ボールを?」
「ええ」
「きみが?」
「そう。私が」
「キャッチ・ボールを」
「してください」
「雨は降らないかな」
「だいじょうぶよ」
「グラヴは?」
「持ってます」
「野球のボールなんか、僕はもうずいぶん投げてないよ」
「ひさしぶりに」
「そうだね。よし、明日はキャッチ・ボールをしよう」
「午後、このあたりで」
 きれいに澄んだ熱意が、彼女の口調のなかをまっすぐにとおっていた。
「二時くらいかな」
「そうね」
「ここで会おう」
 という約束をした日の夜、洋介はグラヴを捜してみた。子供用のキャッチャーズ・ミットが、かちかちになって現れた。大人用のグラヴもひとつ見つかった。遊撃手が使うグラヴだった。人にもらったものであることを、洋介は思い出した。みすぼらしく古びていた。ボールはどこにも見あたらなかった。
 次の日は晴れた。午前中、十時前に、洋介は部屋を出た。電車で都心へ出て、スポーツ用品のディスカウント・ストアへいった。野球用品の売り場で、キャッチャーズ・ミットの本格的なものをひとつ、彼は選んだ。ボールも買おう、と彼は思った。硬式と軟式とのあいだで、彼は少しだけ迷った。それぞれを手に取った彼は、どちらをも遠山恵理子のイメージに重ねてみた。恵理子は軟式のボールではなかった。だから洋介は、「プロの試合にも使用されています」と能書きの添えてある硬球をひとつ、ミットとともに買った。
 お昼過ぎに彼は部屋に戻った。母親の小夜子が昼食を作っていた。彼はそれを途中から手伝った。
「野球のグローブを買いにいったの?」
 小夜子がきいた。
「グラヴ」
 洋介が答えた。
「なんですって?」
「グローブではなくて、グラヴ」
「そうですか、ではグラヴ」
「素晴らしいのを買ってきた」
「野球をするの?」
「キャッチ・ボールだよ」
 小夜子は洋介が中学一年のときに離婚した。ひとりだけいた子供である洋介を彼女が引き取り、現在に至るまでふたりだけの生活が続いていた。小夜子は成人教室で書道の講師をしていた。実家は書道教室のチェーンを持ち、彼女の父親は、そして祖父も、名を知られた書家だった。
 小夜子はほっそりした体つきの、姿のいい女性だ。美人、と誰もが言っていた。美人であることは確かだが、彼女はほとんどいつも静かで目立たなかった。人にあたえる印象が常にきっちりとしていて、崩れたところがまったくなかった。しかしそれは彼女に対して人が感じてくれる、安心感や信頼感でもあった。縁なしの眼鏡をかけることがあり、そのようなときには、端正な印象がよりいっそう強くなる、四十歳の女性だった。
 昼食を終って食器をすべて洗ったあと、洋介はミットとボールを持って川原へいった。靴はいつものバスケット・シューズのままだった。恵理子はすでに来ていた。ハイキング用のカーキー色のショート・パンツに、黒いTシャツを着ていた。帆布製の小さなトート・バッグを彼女は持っていた。
「こんなにいいお天気なのに、誰も人がいないのよ」
「みんな仕事なんだ」
「そうなのね」
「僕はミットを買ったよ」
 ミットとボールを洋介は恵理子に見せた。土手の道から下の川原へ、ふたりは階段を降りていった。
「今日は湿気があるね」
 洋介が言った。
「暑いわ」
「動くと汗をかくよ」
「タオルを持って来ました」
 洋介はテニスに使うタオル地のリスト・バンドをポケットから取り出し、右の手首にはめた。恵理子はトート・バッグからグラヴとボールを取り出した。ボールは硬球だった。グラヴには使いこんだ貫禄があった。彼女のグラヴを洋介は自分の手にはめてみた。いい使い方をしている人のグラヴであることが、すぐにわかった。ボールは洋介が持って来た新品を使うことにした。恵理子は自分のボールをトート・バッグに落とした。
 野球のグラウンドへ出ていき、洋介はピッチャーズ・プレートを恵理子に示した。
「あそこから投げて、僕が受けるよ。プレートからだと、遠すぎるかな」
 プレートへ歩きながら、恵理子はふりかえった。洋介に首を振ってみせた。彼女はいつのまにか髪をうなじで束ねていた。束ねた黒い髪が、陽ざしのなかで左右に動いた。
 プレートのすぐむこうに立った恵理子にむけて、洋介は山なりの球を投げた。グラヴにそれをおさめ、さりげなくセット・ポジションを取った恵理子は、第一球を洋介に投げた。まっすぐの速い球だった。自分の体から出し得る力というものを、恵理子はきわめて無理のない形でひとつにまとめ、投げる球にそれを乗せていた。
 相当に緊張して、洋介は彼女の第一球をミットに入れた。いい音がした。彼は満足感を覚えた。彼女の投げた球の力と、見た目の恵理子の印象とのあいだにある大きな落差に、洋介はとまどいも覚えた。
 ふたりのキャッチ・ボールは、ピッチャーとキャッチャーとに、最初から役目が決まっていた。自分はキャッチャーのつもりで川原へ来た洋介は、恵理子をピッチャーズ・プレートへいかせ、自分はホーム・ベースのうしろの捕手の定位置に立ったから、自動的にそうなった。そしてそれは正解だったのだと、ひとしきり球を投げ合ったあと、洋介は自覚した。
 恵理子は完全にピッチャーとして球を投げていた。癖のついていない、きれいなフォームで、のびのある速球を彼女は常にまっすぐに投げた。ほっそりした体の恵理子は、じつは確かな骨格と筋肉とを持っていることに、やがて洋介は気づいた。上体と腕の動きに、無理のない一体感があった。窮屈さをまったく感じさせない肘の使いかたと胸の張りに、洋介は感心した。そして、このピッチャーは上半身の力で投げるタイプだと、彼は判断した。
「野球をやってたことがあるの?」
 小休止したとき、洋介は恵理子にきいてみた。恵理子は首を振った。
「女の子だけのチームで、じつはエース・ピッチャーだったとか」
「まったくそんなことはないのよ」
「でも、相当に練習しないと、あんなふうには投げられない」
「前に住んでた町にバッティング・センターがあって、もとプロ野球の選手が経営してるの。打つのではなくて、投げるのを教えてくださいと頼んだら、面白がって教えてくださったの。このグラヴも、そのかたが私の誕生日にプレゼントしてくれたの」
 恵理子とのキャッチ・ボールは、飽きなかった。彼女の体の使いかたはとてもいいから、相手をしている洋介の気持ちが、弛緩したり疲労したりすることがなかった。彼女のテンポに合わせて球を受けていると、どこまでもついていくことができそうだった。だから彼はついていった。
 力の入れかたを誤ると、しかし、投手・恵理子の投げかたは、めりはりを欠いたものになった。背中のうしろへ腕を無理に引きこみ、そこから力まかせに腕を抜き出して振りまわす、という投げかたになった。投球フォームのいちばん最初のところで、早くも力んだりもした。テイク・バックで左肩に力が入りすぎたり、球の直進を意識するあまり、フィニッシュのときに体の力が前脚に乗らずに終ることも目についた。キャッチ・ボールの後半、彼はキャッチャーとしてきちんとしゃがんで、恵理子の球を受けた。
 次の週の土曜日、午後のおなじ時間に、彼らは二度めのキャッチ・ボールをした。キャッチ・ボールに関する彼女の熱意の出発点がどこにあるのか知りたい、と洋介は思った。だが、その質問は次の機会にしよう、と彼は思いなおした。
 教室では、ふたりはほとんど話をしなかった。どのクラスでも、なぜか男性と女性はふたつに別々の世界に分かれたまま、固定していた。恵理子が自分だけに見せる笑顔や微笑があることに、洋介は気づいていた。教室では、だから、それで充分だった。話はキャッチ・ボールの前後に、いくらでもすることができた。
 それからさらに二週間続いて、週末には雨が降らなかった。だから彼らはキャッチ・ボールをした。四度めのとき、キャッチ・ボールを終えたあと、土手のスロープの階段にすわって、なぜキャッチ・ボールにこれほどに熱心なのか、洋介は恵理子にきいてみた。
「好きなのよ」
 と恵理子は答えた。
「と言うよりも、好きになったの。いまでは、大好き。でも、そうなるまでは、じつは長い話なのよ」
 長い話、というところで、恵理子はふと大人びた口調と表情になった。長い話を聞きたいと言った洋介に、恵理子は語りはじめた。
「私は長女でひとり娘で、父親は男のこが生まれるのを望んでいたのね。望む、というような生やさしい気持ちではなくて、ほんとに心の底から、男のこを切望してたのですって。ところが、女のこが生まれて、それはそれでいいのだけど、がっかりする部分も大きくあったのね。父親は子供の頃はまるっきりの野球少年で、自分の子供にも野球を教えて野球をさせてたくて、だから子供はどうしても男のこでなければいけなかったみたい」
「そういう人って、多いかもしれないね」
「多いと思うわ。私が覚えているかぎりでは、父親は最初から野球のことばかり話題にしてたわ。おまえが男のこならとか、男のこだったらとか。でも、なにも教えてはくれないのよ。男のこだったら、と言ってるだけで、女の子でも野球はできるはずなのに、キャッチ・ボールも教えてくれないの」
「わかった。きみは父親に反抗して、よその人にキャッチ・ボールを教えてもらったんだ」
「男のこでなくてごめんなさい、という気持ちがずっとあって、でもそれだけだといつまでたっても私としてはつらいだけなのね。ごめんなさい、という気持ちがそのまま続くだけだから。父親は仕事が忙しいし、顔を合わせることすら珍しい状態がいつもあったりするから、自分でまずキャッチ・ボールができるようになろうと、私は思ったの」
「だからバッティング・センターへいった」
「打つのも面白そうだけど、球がちゃんと投げられないと、つまらないわね。基本中の基本だから」
「正解だよ」
「だから、教えてもらったの。男のこではなくてごめんなさい、という気持ちを、男のこでなくておあいにくさま、というふうに変えたいと思ったわ。男のこでなくておあいにくさま、でもそのへんにいくらでもいる男のこより、私のほうがずっとうまいのよ、と誰にでも言えるようになりたかったの」
「すでにたいへんうまいよ。僕たちの高校の野球チームで投げたら、打てない奴はいっぱいいると思う」
「ピッチャーは面白いわね」
「キャッチャーもいいよ。どのポジションも、みんな面白い」
「試合をしてみたいわ。でも、打ったり走ったりは、ぜんぜんしてないから、選手としては使いものにならないわね」
「ピッチャーとしてなら、基本は出来てる」
「まっすぐな球しか投げられないのよ」
「ときどき大きく曲がるよ。内角ぎみに入って来て、ストライク・ゾーンから外へ逃げていく球がある」
「偶然にそうなってるのね」
「ゴロを捕る練習をしようか」
「楽しそう」
「走りかたはきれいだよ」
「フライを捕るとか」
「投げるのがとてもうまいことは、お父さんは知ってるの?」
 と、洋介はきいてみた。恵理子は首を振った。
「なにも知らないわ」
「教えてないわけだ」
「まだなにも言ってないわ。ふっと教えてしまうのが、なんとなく口惜しいという気持ちもあるの」
「わかるよ」
「それに、父親とはあまり話をしないし。母がいないから、父親とふたりだけなのだけど」
「そうなのか」
 思いがけないところにちょっとした新鮮な発見をした気持ちで、洋介はそう言った。
「私が小学校五年のときに、両親は離婚したの」
「僕のとこは、僕が中学一年のときだよ。父親はほかの女性と再婚してまったく別の生活をしていて、僕は母親とふたり」
 洋介の説明に恵理子は小さくうなずいていた。彼が母親とふたりで生活していることを、彼女はすでに知っていた。
「小学生のときだと大変だよね」
 と洋介は言った。
「いまでも大変よ」
「どんなふうに?」
「人の奥さんになるとこうなのかなあ、と思うわ。奥さんが専業でいつも部屋にいると、家の用事をみんなひとりでしていても、自分のことは相手の男性になにも知ってもらえないのね。そのことの練習をしてるような気持ち」
「高校を出たら、どこかにひとりで住めばいいんだ」
 洋介の言葉に恵理子は空を見てうなずいた。
 次の週は日曜日の午後に彼らはキャッチ・ボールをした。
 午後遅く、汗だくになった洋介がミットとボールを持って部屋に帰ると、母親の小夜子が趣味のいい和服をきっちりと着て、玄関にいた。自分もいま仕事から帰ってきたところだと、小夜子は言った。
「最近のあなたは、野球をしてるの?」
 彼女は洋介に言った。
「キャッチ・ボールだよ」
「誰と?」
「クラスの人と」
「どこで?」
「川原のグラウンドで」
「陽に焼けましたね」
 やや珍しい観察の対象を見るような視線で、小夜子は洋介を見た。母親である小夜子から、少しだけ顔見知りの他人のような感触を受けることが、洋介にはしばしばあった。いまのように小夜子が和服を完璧に着こなしているときには、特にそうだった。
 小夜子は人に対して冷たいのではなかった。自分の息子も含めて、すべての人に対する距離の取りかたに、彼女独特のものがあるだけだ。粘ったところのまったくない、あくまでもさらっとした距離感であり、なにごとにせよ相手に無理に引受させることをいっさいしないかわりに、相手に対する過剰な期待もなにひとつ持たないという、わかりやすいと言えばたいへんにわかりやすい距離の取りかただ。
 小夜子という母親とふたりで生活していて、洋介にはふと驚くときがかなり頻繁にあった。小夜子を、母親としてよりもひとりの女性としてとらえることが、彼には多いからだ。この年上のきれいな女性と、なぜ自分はここに親しくふたりでいるのだろうかと思うと、その思いは、軽いけれどそのつど新鮮な響きにつながった。そうだ、この女性は自分の母親なのだ、と頭のなかで訂正するとき、洋介は小夜子に対してもっとも親近感を覚えた。そしてその親近感の土台は、小夜子から消えることのない優しさや丁寧さ、そして誠実な気持ちのありかただった。
 一週間、雨が続いた。そして梅雨は明けた。湿気を充分にはらんだ強い真夏の陽ざしが、日常のぜんたいをくまなく押さえつけるように、あらゆるものの上に注いだ。伊藤洋介と遠山恵理子がかよう私立の高等学校は、夏休みとなった。
 次のキャッチ・ボールの約束をしないままでいた洋介のところへ、恵理子から二日後に電話があった。小夜子が取りついだ。
「川原へいきましょう」
 と恵理子は言っていた。
 次の日の午後、ふたりはキャッチ・ボールをした。二時間続けてから、川原から土手を越えて商店街のほうへ、ふたりは歩いていった。書店に寄りたい、と恵理子は言った。洋介は彼女といっしょにいくことにした。商店街のはずれから駅へむかっていると、むこうから小夜子が歩いて来た。小夜子が先に気づいて笑顔になり、その笑顔に洋介も気づいた。洋介は右手を上げて小夜子を示し、
「僕のお母さんを見て」
 と、恵理子に言った。
 薬局の角に立って三人は話をした。恵理子がきれいに初対面の挨拶をし、小夜子は心から感心している表情で恵理子を見つめた。
「さきほどは電話を取りついでいただきました」
 と言う恵理子に、
「あなただったの? 声と喋りかただけですけど、なんて素敵な人だろうと、あのとき私は思ったのよ。こんな素敵な人だったのね」
 我がことのように、小夜子はうれしそうに恵理子を見た。そして、
「よかったわ」
 と言った。
「なにをしてたの?」
 小夜子は洋介にきいた。
「キャッチ・ボール」
「恵理子さんと?」
「そうだよ」
「あなたのキャッチ・ボールの相手は、恵理子さんだったの?」
 純粋に驚いて、小夜子はふたりを見くらべた。
「いい球を投げるよ」
 ボールを持った手で洋介は恵理子を示した。
「あらまあ、ほんとに、お世話になります」
 真剣に心からそう言って、小夜子は恵理子に頭を下げた。思わず恵理子は笑い、洋介は苦笑してみせた。
 私は部屋へ帰るところです、と小夜子は言った。書店へ寄ってから僕も帰る、と洋介は答えた。三人はそこで別れた。恵理子とふたりで書店を経由してから、洋介は部屋へ戻った。シャワーを浴びたあと、小夜子がおこなっている夕食のしたくを彼は手伝った。恵理子について小夜子からきかれるままに、知っているすべてを洋介は説明した。聞き終ってから、
「いい女のこよ」
 と小夜子は言った。
「女のこ、と言ってはもう失礼ね。たいへんいい女性です」
 高校三年の夏休みに、洋介はなにも予定がなかった。大学へはいかないことにきめていた。小夜子も賛成だった。
「しかし、その若さで、いまの日本の世の中にまきこまれるのも、哀れだわ。どうしたらいいかしら」
 と小夜子は言っていた。夏のあいだふたりで考える、という課題がふたりにはあった。小夜子の実家で何日かを過ごす予定だけが、きまっていた。その帰りに、夏の旅行としてどこかへ寄ってみましょうか、と小夜子は言っていた。
 ふたりで住んでいる4LDKの、あちこちの補修や掃除、整理、手入れなどの作業を、洋介は小夜子から命じられていた。どこをどうしたいのか小夜子からよく聞いた彼は、すべてをノートに書き取っていた。段取りを自分で考え、材料や道具をそろえて実行に移せばそれでよかった。
 強い陽ざしが連続する夏の日々のなかで、恵理子がピッチャーとして投げる球を洋介はキャッチャーとして受けるというキャッチ・ボールを、ふたりは続けた。洋介は濃く陽焼けした。
「よく飽きないわね」
 と小夜子は言った。
「僕ではなく、彼女が飽きないんだよ」
「あなたは飽きてるの?」
「飽きてない」
「ほらごらんなさい」
「今日はこのくらいにしよう、と言うのはいつも僕だよ」
「それは愉快だわ」
「言わないでいると、いつまでも続ける」
「いいことよ」
「だから僕も続ける」
「ますますいいことです」
 小夜子の実家へ行く予定になっている週の、ひとつ手前の週のはじめに、恵理子とのキャッチ・ボールのあと、洋介は恵理子に次のような提案をしてみた。二、三日まえ、我ながらいいアイディアとして、ふと思いついたことだった。
「お父さんは野球ができるんだよね」
 と洋介は言った。
「会社のチームでは、ピッチャー。まだエースかしら」
「子供の頃から野球をしてたのだったね」
「高校生のとき、甲子園に出てるのよ」
「それなら心強い。三人でキャッチ・ボールをしよう」
 しばらく恵理子は考えた。そして、じつにすっきりと華やいだ笑顔で、
「それはいい提案だわ」
 と答えた。
「ぜひ」
「父に言ってみます」
「今週の、たとえば土曜日にでも」
「面白いわ」
「グラヴは持ってるよね」
「会社のロッカーに置いてあるはず」
 そしてその土曜日、恵理子の父親が参加してもしなくても、恵理子と洋介は約束のとおりキャッチ・ボールをすることになっていた。
 洋介が川原へむかう一時間まえに、恵理子から電話があった。
「いっしょにいきます」
 と恵理子は言った。
「グラヴは?」
「会社から持って帰ったのですって」
「約束の時間のとおりでいいかな」
「いきます。いっしょに」
 川原には洋介が先に到着した。待っていると恵理子が父親とともに土手の上に現れた。かなり距離があるところから、恵理子の父親は洋介におじぎをしてみせた。
 恵理子とその父親は、まったく似ていなかった。やせ型、と誰もがいう体型の、背の高い、おとなしくて気の弱そうな印象の人だった。運動神経はありそうに見えた。
「僕はリトル・リーグでキャッチャーをやってました」
 と洋介は彼に言ってみた。
 強くはにかんだまま途方にくれたような表情で、恵理子の父親はつらそうに微笑を浮かべた。しかし洋介の目をまっすぐに見て、
「高校の野球部で三年間、ピッチャーをやってました」
 と彼は言った。高校の名をつけ加えた。野球に関してしばしば聞く名だった。
 それぞれにグラヴを持ち、三人は三角形に散った。ボールは恵理子が持っていた。その恵理子は洋介へ球を投げた。洋介から恵理子の父親へ、そして彼から恵理子へ、ボールは返った。いつまでも、父親だけがぎこちなかった。本当に困ったような顔をして、ぎくしゃくと球を投げ、そして受けた。
 しばらくそれを続けてから、洋介は恵理子に合図した。高いフライをあの方向へ、という意味の合図だ。合図のとおりに、恵理子は高くボールを投げた。落下地点へ洋介は斜めに走った。落ちて来るボールをミットにおさめると同時に、素早く恵理子の父親に体をむけ、そのときはすでに力いっぱい、彼にむけて洋介はボールを投げていた。
 恵理子が鋭く声を上げた。洋介から飛んでくるボールにむけて父親は精悍に走り、ボールを正確に捕り、ほぼおなじ瞬間、ふりむきざま恵理子にむけてそのボールを投げた。さきほどまでの自分の位置へ駆け戻りながら、今度は洋介が声を上げた。父親からのボールを捕って間髪を入れず、恵理子はそれを洋介に投げた。本塁を想定した洋介は、滑りこんでくる架空の走者に対して、絵に描いたようなブロックの姿勢を取った。恵理子からのボールをミットにおさめると同時に、彼は模範的なタッチをした。
「アウト!」
 恵理子の父親が言った。
 ただ単なるひとつのアウトではなかった。洋介にとっては、これでゲーム・セット、そして自分たちの勝ちだった。だから彼は、
「ゲーム・セットで勝ちです」
 と恵理子の父親に言った。
 恵理子の父親は笑った。その笑いのなかに、ほんの一瞬、実際に野球の試合に勝ったときの、少年の笑顔があった。
 それからひとしきり、三人はキャッチ・ボールを続けた。恵理子の父親はぎくしゃくしなくなった。ボールを投げる方向を逆にすることを、彼らは何度かくりかえした。恵理子からのボールを受けるとき、父親は二度、いい球だなあ、と言った。
 洋介の母親が土手の上に立って見ていることに、恵理子が気づいた。父親からのボールをグラヴにおさめ、小夜子にむきなおって恵理子は礼をした。小夜子は笑顔で土手の内側の階段を降りてきた。彼女の細身な長身の魅力を、くすんだ淡いブルーの、シャツ・ドレスのような木綿の夏服が、もの静かに増幅していた。階段を降りる動きにつれて、ゆったりした長めのスカートがきれいに動いた。幅の広い水平な肩に、ゆとりのある袖とドロップ・ショルダーは正解だった。恵理子が、そして洋介と恵理子の父親が、土手の階段へ歩み寄った。
 恵理子は父親を小夜子に紹介した。ふたりの大人がごく普通に挨拶し合うのを、恵理子と洋介はかたわらで見ていた。
「邪魔をするつもりではなかったのよ」
 小夜子は恵理子に言った。そして洋介に顔をむけ、
「見物に来たの」
 と笑顔のまま言った。
「恵理子さんはいい球を投げるとあなたが言うから、いい球とはなにかと思って、見に来たのよ」
「見ましたか」
 洋介がきいた。
「見ました。まっすぐに速く投げるのね」
「いつもは僕がキャッチャーになって、受けている」
「そうですか」
 というような話を、四人はおたがいの間でまわしていった。すぐに区切りが来た。その区切りと同時に、小夜子は彼らに体を斜めにむけ、階段を上がりはじめた。
「私は買い物にいきます」
 と彼女は洋介に言った。
 恵理子とその父親に会釈し、さらに階段を上がっていこうとする小夜子を、ふと思いついたままに洋介は呼びとめた。
「僕が手伝うから、夕食は四人分作って」
 と洋介は言った。
 小夜子は洋介を見た。恵理子は小夜子の反応を観察していた。恵理子の父親は、三人を見くらべて柔和に微笑していた。
「ここにいる、この四人」
 と洋介はつけ加えた。四人で夕食をしようという思いつきは、洋介にとっては、キャッチ・ボールに恵理子の父親も加えようという提案の、ごく自然な延長だった。
「自分ひとりで勝手にきめてはいけないわ」
 小夜子は言った。言葉はひどくまともだが、彼女の顔は緊張を解いた笑顔だった。
「私も手伝います」
 恵理子が言った。
「四人分で足りるかしら」
 小夜子が洋介にきいた。
「食後は私が皿を洗います」
 恵理子の父親が言った。
 その場の雰囲気に合わせて、彼はごく率直にそう言った。だが、結果としては、ものすごく型にはまった展開だけのあるTVドラマの、パターン演技と台詞の模範のように、はからずもなっていた。タイミングが絶妙だった。そのおかしさに、三人は純粋に笑った。恵理子の父親も笑っていた。
「お口に合わなかったら、手伝ってくれた人たちがいけなかったことにします」
 あっさりと、小夜子は結論を出した。そして階段を上がっていった。彼女のうしろ姿の、誰が見てもたいへんに姿のいい様子に、ほっとする安心感とうれしさを、洋介は同時に覚えた。
 小夜子が土手の向こうへ見えなくなって、三人はふたたびキャッチ・ボールを続けた。ひとしきり続けてから、
「僕がキャッチャーをやります」
 と、洋介は恵理子の父親を示していった。キャッチャーの指示として、父親はそれを受けとめた。洋介が示すピッチャーズ・マウンドへ恵理子の父親は歩き、洋介はキャッチャーの位置に立った。ミットの中を右手の拳で叩き、
「思いっきり」
 と言った。そして定位置にしゃがんだ。
 恵理子の父親は足もとをならした。早くも気持ちが上ずっているのを、その様子に洋介は感じた。真剣に困ったような表情を無理に引き締めて、彼はセット・ポジションを取った。そして見事なまでにばらばらなフォームで、第一球を投げた。その投球フォームの途中で、洋介は腰を浮かす動作を素早く起こした。斜め一メートル以上前にワン・バウンドする球にむけて、立ち上がりつつ洋介は横飛びに飛びついた。限度いっぱいにのばしている彼の左腕の先を、ボールは地面にむけて浅い角度で入っていき、土くれをひとつ蹴り上げ、バウンドして飛び去った。
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夏はすぐに終る




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 県道にも真夏が始まっていた。東西にのびる二車線の道路の両側には、夏草がたけたかく密生していた。路面のアスファルトの色と、土ぼこりにくすんだ夏草の緑色とが、強い太陽の光を重そうに受けとめていた。晴れた空はくっきりと青かった。その青い空のところどころに、まるで絵に描いたかのように、白い雲が浮かんでいた。
 運転席の両方の窓ガラスをいっぱいに降ろして、中尾晴彦はひとりでステーション・ワゴンを運転していた。さきほど、道路の左側に、彼は県立病院の看板を見た。まっすぐにのびている県道の前方、右側に、県道からかなり離れて、病院の建物が見えてきた。おもむきもなにもないコンクリートの四角な箱をいくつか、どれも白く塗って無造作に配置しただけのように、晴彦には見えた。
 彼はミラーで後方を見た。うしろから来る車はなかった。対向車が一台、見えていた。彼はステーション・ワゴンの速度を落とした。対向車をやりすごして、彼は道路を右にむけて直角に横切った。病院の敷地に入った。駐車場、と赤く大きく書いて矢印を添えた看板のそばに、守衛のブースがあった。そのまえを徐行してとおりかかる晴彦のステーション・ワゴンを、ブースのなかから制服を着た中年の女性が見た。
 どちらへ何の用かしら、とその女性は表情だけでブースのなかから晴彦にきいた。窓から顔を出した彼は、
「面会です」
 と言った。
 制服の女性はうなずき、看板の矢印とおなじ方向を、ブースのなかから晴彦に示した。そして、
「いちばん奥に停めてね」
 と、彼に言った。
 広い駐車場に入った晴彦は、そのまま駐車場のいちばん奥まで徐行していった。面会来訪者用、と標識に書いてある一角に、駐車スペースはたくさん空いていた。そのひとつに彼はステーション・ワゴンを車首から入れた。エンジンを停止させ、すぐにドアを開いて外に出た。軽く突き放すように、彼はドアを閉じた。
 外も暑かった。ちょうど頭上にある陽ざしを受けとめながら、彼はあたりを歩いてみた。車へ戻り、ダッシュボードの時計を見た。木村真理子との約束の時間まで、あと五分だった。彼は車を離れた。縦に長い駐車場を歩くともなく歩いて、彼は時間をやりすごした。
 彼は淡いブルーの半袖のシャツを着ていた。袖が大きく、両方の胸にポケットがあった。よれよれになったチーノのようなスラックスの外に、シャツの裾を出していた。頑丈そうに見える皮のサンダルをはいていた。スナップで止めるストラップが、くるぶしにまわっていた。
 十八歳になってまだ五か月たっていない、身長百七十センチの男性だ。軽く当惑したような、なにか考えごとをしているような、あるいは質問に対する回答を出しあぐねているような表情を、よくまとまったもの静かな色白の顔に、いまの彼は浮かべていた。すこしだけ癖のある髪を長くのばし、うなじで束ねていた。白いビー玉に、オレンジ色と黒で鮮やかに色をつけたような玉を両端につけた細いゴム紐によって、長い髪は束ねてあった。長くして束ねた髪、そして髪止めが、彼にはよく似合っていた。
 中年の男女がひと組、駐車場を奥まで歩いて来た。車のなかに入るまで、女性は大きなハンドバッグを額の上にかざし、陽ざしをさえぎろうとしていた。ふたりの乗ったセダンがリヴァースでスペースを出ていき、切り返して駐車場の出入り口へむかうのを、晴彦は観察した。
 そのセダンが走り去ってすぐに、真理子の姿が見えた。白いデッキ・シューズに膝までのカーキー色のスカート、そして黒い半袖のポロ・シャツを、彼女は着ていた。晴彦とほとんどおなじ背丈の真理子は、バランス良く力をこめてきれいに歩いた。真夏の陽ざしのなかに、彼女の姿の良さがくっきりと浮き出て見えた。
 晴彦に彼女は笑顔で手を振った。歩いて来る真理子を、晴彦は右手をまっすぐに差し出して迎えた。晴彦の右手を真理子が叩いた。すかさず彼は左手を出し、それをもう一方の手で真理子は叩き返した。笑顔のふたりは、陽ざしのなかでむき合って立った。
 上体を右へ傾けた真理子は、晴彦のうなじを見た。彼の髪が髪止めで束ねてあるのを、彼女は確認した。
「使ってくれてるのね」
 快活な声で真理子が言った。いま彼が使っている髪止めは、長くした髪を彼がうしろで束ねはじめたとき、真理子が彼にあげたものだ。
「久しぶり」
 真理子が言った。
「そうだね」
「元気?」
「僕は普通だよ」
「どう?」
「なにが?」
「ぜんたいの状況」
「どうでもないね」
「どうやってここまで来たの?」
「車で」
「車?」
「高校の卒業式の明くる日が、僕の十八歳の誕生日だ。すぐに運転免許を取った」
「自分の車なの?」
「そうだよ」
「買ったの?」
「もらった」
「誰に?」
「姉」
 という晴彦のひと言に、真理子は形のいい目を丸くした。
「あなたにお姉さんがいたの!」
 と彼女は叫んだ。
「いつもいるよ」
「そんなこと、すこしも知らなかったわ。あなたはひとりっ子だと思ってた」
「真理子にはお兄さんがいるよね」
「いるわよ。ひとりだけ。ふたり兄妹」
「僕も姉がひとりだけ。四歳年上で、六月に結婚したよ」
「あら、そうなの」
 単純な質問におなじく単純に答えていくやりとりが、真夏の正午の強い陽ざしのなかで続いた。
「早い結婚なのかしら」
「そうだろうね」
「でも良かったわ」
「五月には母親が結婚したんだ」
「再婚ね」
 晴彦はうなずいた。彼はまだ幼い頃に父親を亡くしていた。父親の記憶はほとんど持っていなかった。
「以前から話はきまっていたらしいんだ」
「お母さんの再婚のこと?」
「そう」
「再婚したほうがいいわよ。お母さんはいまおいくつだったかしら」
「三十代」
「あら、まあ」
「と言っても、三十九歳」
「若いわ」
「再婚の話が以前からきまっていたことを、姉が教えてくれた」
 晴彦の説明に真理子はうなずいた。
「晴彦が二十歳になるまではと、母親は再婚の話を抑えたままにしている、と姉が教えてくれた」
「それを聞いて、あなたはどうしたの?」
「二十歳まで待つ必要はない、と言ったよ。もう十八だし、高校を卒業するのだから、結婚していい、と僕は母親に言った」
「そしてお母さんは、三十代の女性として、再婚できたわけね」
「年齢はいくつでもいいよ」
「そのとおりね」
「ごめんね、と言われてしまった。それに、有り難う、とも言われた」
「いまはまだ新婚ね」
「そうだね」
「お姉さんは、どこにいるの?」
「広島へ移った」
「お母さんは?」
「神戸。と言うよりも明石の近く」
「あなたはひとりなの?」
「そうさ」
「家にひとりでいるの?」
「姉と母親が結婚したあと、土地と家は売ってしまった」
「あなたが住むとこは?」
 真理子の質問に晴彦は首を振った。
「ないんだよ」
「ないと言っても、毎日どこかで寝なくてはいけないでしょう」
「母親の短大の頃からの友人が近くに住んでいて、その女性には息子がひとりいるのだけど、高校を出て働いていて、いまは漁船に乗り組んで烏賊いかを採ってるんだって。フォークランドのほうまで採りにいくんだと言っていた。ずっと以前に離婚して、いまでもひとりで暮らしをしている。おなじ敷地のなかに家が二軒あって、そのうちの一軒を僕が使わせてもらってる。小さな箱みたいな家なんだけど、六畳と四畳半と台所と風呂、そして便所さ。そこに荷物を置いて、寝泊まりをしている。食事も自分で作ってるよ」
「三月に私たちはおなじ高校を出て、いまは梅雨が明けたばかりだけど、あなたの身辺は相当に変化したのね。十八歳の夏にそれだけあったら、かなりの変化だわ」
「僕は狙われている」
 と、晴彦は真面目な顔で言った。
「なんですって?」
「僕は狙われている」
「あなたが」
「そう」
「誰に?」
「おなじ敷地のなかの、隣りの二階建ての家にひとりで住んでいる、母親の友人の女性に」
 晴彦の説明を受けとめて、真理子は考えた。考えているあいだ、彼女は晴彦の顔を見つめていた。考え終った真理子は、
「ははあ、なるほど」
 と言った。
「彼女は夕食を作ってくれるんだよ。夕食が出来ると、なぜだか知らないけれど、秘密っぽくそっと、僕を呼びに来る。髪を女らしく作って、化粧して、ことさらに女ものめいた服を着て、香水をつけて。食べはじめたときはさしむかいにすわっていても、いつのまにか僕の横にいたりする。お風呂にもこっちでお入りなさいと言うし、食後の食器を僕が洗っていると、僕のすぐそばに立って話をして、腕や腰が何度も触れる」
「その女性は、いまいくつなの?」
「母親とおなじだから、三十九歳」
「誘惑なんかされたら駄目よ。もし誘惑されてしまうのなら、中尾晴彦には私が先に手をつけるわ」
 そう言って、真理子は明るく声を上げて笑った。そしてなにごとかを点検するように晴彦の顔を見ていた真理子は、
「あなたは確かにそういうタイプかもしれないわね」
 とつけ加えた。
「そろそろ危ないと思って、僕は旅に出た。それとは関係なく、この夏は旅をする計画だったし。梅雨の雨降りの夜なんか、彼女の魔の手がのびて来ようとしてるのが、ひしひしとわかるんだ」
 晴彦が言い、真理子は笑った。右腕を彼にむけて蛇のような動きでのばし、
「こんなふうにのびて来るの?」
 と笑いながら真理子は言った。
「旅に出てから、もうひと月になるよ」
「ずっと車なの?」
「そうだよ」
「車のなかで寝るの?」
「ときどき。いつもは安い旅館や、JRの駅の裏にあるビジネス・ホテル。洗濯はコイン・ランドリー。食堂はいたるところにあるし」
「生活資金は?」
「土地を売って得たおかねを、母親は僕と姉とに半分ずつくれた。それが銀行の僕の口座に入ってる。このまま働かなくても、何年かは食えるよ」
「大学は?」
「いかない」
「あの高校を、あなたはやっと出たのですものね」
 晴彦と同級生の真理子は、高校を卒業すると看護婦になるための学校に入った。生まれ育った町を離れて、この近くにひとりで下宿し、学校にかよっていた。いまはこの病院で実習を受けていた。
「夏のあいだは車で旅ですって?」
 真理子が言った。
「そうだね」
「小説みたいね。気楽と言えばとても気楽な毎日だわ。旅のついでに私に電話をかけて、訪ねてくれたのね」
「夏のあいだに会う約束だったじゃないか」
「そうよ。でも、こんなに早く会えるとは、思ってなかったわ。実習が終って、お盆が過ぎてからかなあ、と思ってたの」
「勉強は進んでる?」
 晴彦の質問に真理子はうなずいた。そして、
「気合を入れてるわ」
 と言った。
 晴彦は足もとに視線を落とした。そしてゆっくりとコンクリートの上にしゃがみ、ごろんと倒れ、体の右側を下にして丸く横たわった。目を閉じ、脚や腕から力を抜いた。その晴彦を真理子は見下ろした。
「なにをしてるの?」
「病気になった。看護してくれ」
 晴彦の言葉に真理子は笑った。
 彼のかたわらにしゃがんだ真理子は、
「どこがお悪いのかしら」
 ときいた。
「激しく痛みます」
「どこが?」
「あちこち」
「鈍痛ですか、それとも突き刺すような痛みですか」
「両方です」
「食欲は?」
「ありません」
「便通は?」
「このところ止まっています」
「お脈を拝見」
 真理子は晴彦の右腕を持ち上げ、自分の膝の上に横たえた。そしてかたちどおりに手首で脈を見た。
「あなたは病気ではありません。もう死んでます。脈がありませんから」
「看護が充分ではなかったので、かわいそうにも若いうちに死にました」
 真理子は彼の右腕をもとの位置に戻した。
「私、お腹が空いたわ。あなたは? お昼を食べにいきましょう」
「僕は死にました」
「早く起きて。暑いでしょう。私も暑いわ」
「看護してください」
 真理子はふたたび彼の右腕を取った。両膝の上に横たえ、手首から肩まで、何度か掌を往復させてでた。そしてその腕をもとに戻し、
「はい、治りました」
 と言った。
 晴彦はゆっくり起き上がった。真理子も立ち上がった。彼はステーション・ワゴンにむけて歩いた。彼のかたわらを歩きながら、真理子は晴彦の尻や背中をはたいた。
 ステーション・ワゴンの運転席の側に、晴彦は立った。
「これなのね」
 真理子が言った。
「これなんだよ」
 真理子は左側へまわった。カーゴ・スペースをのぞきこみ、
「すこし荷物が積んであるわね」
 と、安心したように言った。
「冷房は嫌いだからかけないよ」
 ステーション・ワゴンを示しながら、晴彦が言った。
「いいわよ」
 彼はドアを開いて運転席に入った。左側のドアへ上体をのばし、ロックを解放した。真理子は車体の左側へまわり、ドアを開いて、なかへ入った。ふたりはそれぞれにドアを閉じた。
 ステーション・ワゴンを晴彦はスペースから出した。リヴァースで出ていきながら方向を変えた。そして、縦に長い駐車場を徐行して出ていった。病院の門を出て県道にむかいながら、
「どっち?」
 と晴彦はきいた。
「左。バス停の数で三つ先に、和食の店があるの。煮た魚も焼いた魚もあって、私は魚が好きだから、煮魚と焼き魚を一日おきに交互に食べてるわ」
「僕はこっちの方向から来たのだけど、そんな店があったかなあ」
「県道からすこし引っこんでるのよ。いつもはバスに乗っていくの。病院前というバス停から。昼休みは五十分しかなくて、その店でお昼を食べてバスで帰ってくると、ちょうど五十分なの」
 ステーション・ワゴンは県道に出た。左に曲がり、夏の陽に照らされているアスファルト舗装の道路で、晴彦はステーション・ワゴンをおだやかに加速させた。
「この車で旅に出て、もうひと月になると言ってたわね」
「今日で三十八日目くらいかな」
「毎日なにをしてるの」
「なにもしてない」
「いつもひとりなの?」
「ひとりだよ」
「あてもなく?」
「あてもなく」
「呑気だわ。東京から出るとき、とりあえずどこかへむかったでしょう。いろんな方向があるのだから、こっちへむかおう、という決定をしなければならなかったはずよ」
「決定はしたよ」
「最初にどこへむかったの?」
「野田市」
 野田市がどこにあるのかわからない表情を、真理子は正直に浮かべた。
「なぜ?」
「父親が生まれて育った町だから。大学に入るまで、野田市だったそうだ」
「どこにある町なの?」
「千葉県。茨城県に近いところ」
「お父さんはもういなかったわよね」
「早くに死んだ。父親のことは、僕はなんにも覚えていない」
「だからその町へいってみたのね」
「どんなところなのか、一度見てみたいなと、以前から思っていた」
「いってみたのね」
「東京から湾岸道路を走って、房総半島の内側を下っていき、半島をぐるっとひとまわりして、銚子へ出た。そこから、野田市へ」
「ほら、いまひとつめのバス停があったわ」
「ここはほんとに田舎だね」
「東京よりこっちのほうがいいみたい。東京には住みたくなくなったわ」
「野田市には、一週間いたよ。安い旅館に泊まって、毎日のように父親の実家へいってみたりしてた」
「実家はいまでもあるのね」
「あるよ。昔の大きな家だった。番地を頼りに捜したら、すぐに見つかった」
「家の人に会ったの?」
「会わない。訪ねていったのではないから。そっと見にいっただけだよ。僕のことなんか、誰も知らないよ」
「知ってるわよ。挨拶くらいすればよかったのに」
「しなかった。そのかわり、観察した」
「実家を?」
「実家も。そして、その周辺。町の様子も、雰囲気も」
「観察して、なにがわかったの?」
 真理子の質問に晴彦はあっさりと首を振った。
「なにもわからなかった」
「お父さんは、もし生きていれば、いま何歳かしら」
「五十二歳」
「若いわよねえ。でも、野田市にいた頃は、かなり昔だわ。十八までいたとして、十八歳のときはいまから三十四年まえになるから」
「野田市には一週間いたよ」
「気持ちはよくわかるわ」
「おなじ旅館に、旅のストリッパーがひとり、泊まっていた。僕たちは仲良しになった」
「年上の人?」
「ひとつだけ年上。彼女は十九歳だった。旅館から劇場まで、ちょっと離れてるんだよ。だからこの車で送って、帰りは迎えにいってた」
「そして、どうしたの?」
「どうもしないよ。五日めに、どこかほかの町へいってしまった。駅まで送っていって、それっきり。まっ赤な色の、ものすごいミニ・スカートをはいてたから、待合室の人たちがみんな見てた」
「野田市のあと、どこへいったの?」
「日本海を見たことがなかったので、日本海を見ることにして、あてずっぽうに走った。あてずっぽうとは言っても、知ってる地名が標識に出るとそっちへむかってしまうから、本当はあてずっぽうでもないんだね」
「どこへいったの?」
「軽井沢」
「そして」
「松本」
「ええ」
「高山。41号線を下っていくんだよ。美濃加茂とか大垣、そして関ヶ原」
「琵琶湖に出たでしょう」
「そうなんだよ。琵琶湖の北の端で、はじめて琵琶湖を見た。日本海だと思ったけれど、湖だった」
「そこから日本海はもうすぐだわ」
「8号線を上って、敦賀に出た」
「そして、ここへ来たのね」
「そうだよ。どうしてここの学校にしたんだい」
「ずっと東京だったから、どこかまったく知らないところがいいな、と思ったの。ひとりで暮らしたいとも思ったし。それに、関西を知りたかったから。だからここにしたのよ。正解だったわ。東京にいるよりずっといい」
「さっき、三つめのバス停があったよ」
「もうじき左へ入るの。看板が出てるわ」
 ほどなくステーション・ワゴンは店のまえに着いた。固定観念としての和風そのものに作った建物のてまえに、コンクリートの駐車場が広くあった。建物の近くに車を停め、真理子と晴彦は店に入った。店のなかは冷房がきいていた。和食の店の匂いが、冷えた空気のなかに強くあった。
 昼食時のため店は満員に近い状態だった。いちばん奥の隅に、ふたり用のテーブルが空いていた。ふたりはそこへ案内された。丈の短い白い上っぱりにミニ・スカート、そして金色のサンダルをはいた若い女性が、ふたりの注文を取った。
 今日は焼き魚の日だと、真理子は言った。彼女は焼き魚を注文し、晴彦は煮た魚にした。魚のほかに、ほうれん草の胡麻あえとひじき、そしてもずくを、真理子は注文に加えた。晴彦は魚に天丼だった。それだけではいけないと真理子は言い、野菜の煮つけともずくを彼の注文につけ加えた。
「いつもちゃんと食べなきゃ駄目よ」
「食べてる」
「いつもなら天丼だけでしょう」
「そうでもない」
「きちんとしたものを調和良く食べないと、まずどこより先に、脳が衰弱するのよ」
「食べます」
「これから、どうするの?」
「僕の予定かい」
「そうよ」
「南へ降りていく」
「なんだか呑気だわ。気ままみたいだし」
「母親に会う約束がある」
「お母さんは神戸ね」
「だから神戸までいく。一度来てくれと、しきりに誘ってくれてるから」
「会って来るといいわ。そしてそのあと、どうするの? 夏はまだ始まったばかりよ」
「山陽道を広島までいく」
「広島はお姉さんね」
「姉にも会う。姉も、ぜひ来てくれと言ってるから」
「お母さんとお姉さんに会って、それから?」
「どうしようか」
「予定はきまってないの?」
「なんにもきまってない」
 ほうれん草の胡麻あえとひじき、そしてもずくが、ふたりのテーブルに届いた。真理子は御飯をもらい、ふたりは食べはじめた。
「九州までいってみようかな」
「いいわね」
「うろうろしているうちに、八月が来てお盆になって」
「そのあと、残暑だわ」
「残暑の頃、またここをとおるかもしれない」
「連絡して。また会いましょう。私もどこかへいきたくなってきたなあ」
「いこうよ」
「気楽にそう言われても、私は困るのよ。八月の第一週いっぱい、実習があるのだから」
「だったら、それが終る頃に、僕はここへ戻って来てもいい」
「それもいいわね」
「海へいこう」
「日本海の海がいいわ」
「人のたくさん来ない、いい海岸がいくつもあるはずだよ」
「いきましょう。八月の第二週に、ここへ戻って来るようにして」
「そのあと東京へいくなら、あのステーション・ワゴンで連れていってあげてもいい」
「残暑の東京なんて、嫌だわ。正月には帰るから、夏はいいわよ。あ、正月も駄目なんだ。瀬戸内海の小さな島から来てる友達がいて、正月は彼女の島の自宅に招待されてるの」
 ひじきを口いっぱいに入れて噛みながら、晴彦は真理子が喋るのを受けとめた。そして、
「正月には会えるかもしれない」
 と自分自身に確認するように言った。
「正月に?」
「僕は秋から働くと思う」
「なにをするの?」
「大工」
「あなたは大工さんになるの?」
「いろいろ考えたけれど、それがいちばん好きだ。性格にも合ってるみたいだし。母親の実家が須磨にあって、そこのコネクションで僕はきっと大工になる。大工になるための学校にかようことになると思う」
「須磨に住むの?」
「明石、須磨、神戸。あのあたり。おそらく」
「だったら、正月には瀬戸内海へ来ることはできるわね。どこにいても、来ようと思えば来れるけど」
 晴彦の天丼と野菜の煮つけが出来て来た。そしてそのあとすぐに、ふたりの魚がテーブルに届いた。
 焼き魚に醤油をかけながら、
「あなたは大工が似合うわ」
 と真理子は言った。
「そう思う?」
「思う。確信を持って、私はそう思う」
「楽しみながら、いろいろと挑戦しつつ、自分のペースでやっていけそうな気がする」
「応援するわ」
「家を作ってあげる」
「あら、うれしい。でも、私が家を持つのは、まだずっとあとよ」
「僕だって、家が作れるようになるのは、ずっとあとだよ」
「とりあえず、なにか作って」
「本棚」
 ふたりは笑った。
「ぐらぐらする本棚は嫌よ」
「これから勉強するのだから、本棚は必要だよ」
「作って、作って」
「組み立て式がいい」
「そうね」
 話をしながらふたりは昼食を食べていった。もずくを気にいった晴彦は、小さな容器に入っているのをもうひとつ、注文した。白い上っぱりにミニ・スカート、そして金色のサンダルの女性が、もずくの入った容器を退屈そうにふたりのテーブルに置いた。彼女が配膳カウンターまで戻ってから、
「彼女は僕たちとおなじくらいの歳だよ」
 と晴彦が言った。
「そうね。学校を出て働いてるのかしら」
「僕たちの同級生たちは、どうしてるだろうか」
「ほとんどが大学へいったはずよ」
「いまは夏休みかな」
「アルバイトね、きっと」
「もずくがおいしい」
「ひょっとして、いまはじめて食べるのではないかしら」
「そうかもしれない。食べた記憶がないから」
「海草よ」
「それは知ってる」
「あなたが好きな食べ物を、ひとつ知ったわ」
「天丼が好きだ」
「それでふたつ」
「この魚もいい」
「三つ」
「ひじきもいいね」
「四つ。このほうれん草を食べてみて」
 真理子に勧められて、ほうれん草の胡麻あえをひとかたまり、晴彦は割り箸でつまみ上げた。
「病院の実習の先生が、三十歳なのよ。いろんな話をしてくれるのだけど、昨年の夏休みに実家へ帰ったときのことを、語ってくれたわ。二十歳のときからもう十年たったのだなあと思って感慨にふけって、子供の頃からそのままある二階の自分の部屋で写真のアルバムを見たのですって。時間順に貼ってある写真のなかに、二十歳の誕生日のスナップがあったのですって。その写真の下に、確かに自分の字で、『二十歳!』と書いてあるのを見て、涙が出そうになったと言ってたわ。二十歳の夏に自分はなにをしてたのか、思い出そうとして必死になっても、なにも思い出せないのですって。その先生は絵を描く人で、いまも水彩を描いているの。二十歳のときに描いた絵が保管してあって、それを取り出して観察しても、二十歳のときの自分の感触は戻って来なかったと、先生は言うのよ。実家の近くの、現実に存在する景色を描いた絵なのね。だから先生は、去年の夏、おなじ場所へ出かけていき、おなじ風景をおなじ角度からおなじ画角で、絵に描いてみたのですって。描いているうちに、ほんのちょっと、二十歳のときの自分が自分のなかに甦ったけれど、それっきりそれは消えてしまい、ついに二十歳のときの自分はつかめなかったという、そんな話」
「わからなくもない」
 と晴彦は言った。
「そうなのよね。まざまざと甦るよりは、甦らないほうが本当みたい」
「十年後にいまとおなじ食事をして、今日の自分を思い出すかどうか、やってみるといい」
「日記に書いておくわ。このメニューを」
 やがてふたりは昼食を終えて店を出た。真夏のかんかん照りの、湿気の充分にある暑い空気のなかに、ふたりは包みこまれた。ステーション・ワゴンまで歩いた。
 県道を病院までひき返した。駐車場に入り、さきほどとおなじスペースに晴彦はステーション・ワゴンを停めた。左右のドアからふたりはそれぞれに車の外に出た。そして車のうしろへ歩いていき、陽ざしのなかでむき合って立った。
 真理子は半袖シャツのいちばん上のボタンをはずした。シャツのなかに右手を入れた。鎖骨から胸のふくらみがはじまるあたりにかけて、彼女は掌ででた。掌で汗をき取り、シャツの外に手を出した。そしてその手を、スカートの腰で拭いた。シャツのボタンははずしたままにしておいた。
 晴彦は胸に両腕を組んだ。その腕を真理子は見た。
「陽に焼けてるわね」
 右手を彼にむけてのばした真理子は、人さし指一本だけの指先を、彼の腕に触れさせた。手首から肘をへてシャツの半袖のなかまで、真理子は指先で彼の腕の肌をたどった。そして指先を離した。
「なにか困ったことがあったら、まずこの私に相談するのよ。困ったこととか、ひとりではわからないこと」
 自分にむけられた真理子の言葉に、晴彦はうなずいた。
「また来て」
「八月の第二週に」
「待ってるわ」
「海へいこう」
「どこの海岸がいいのか、地元の人にきいておくわ」
 そう言って真理子は空を見上げた。まぶしい陽ざしに目を細くした。片手で髪をかき上げた。
「ほんとに夏なのねえ」
 感銘のような気持ちをこめて、真理子は言った。
「すぐに終るよ」
 晴彦が言った。
「ある日の朝、きみが目を覚ましたら、今年の夏はそのときすでに終ってる」
「だからまた来て」
「この町まで戻って来たら、下宿に電話する」
 晴彦はステーション・ワゴンの運転席へ歩いた。車の反対側を、真理子も前部のドアまで歩いた。陽ざしを反射させている屋根ごしに、ふたりは顔を見合わせて微笑した。晴彦はドアを開いた。運転席に入り、ドアを閉じた。エンジンを始動させた。リヴァースで駐車スペースから出ていきながら、車の方向を変えた。そこでいったん停止したステーション・ワゴンを、車の出ていったあとの駐車スペースのなかから、真理子は見た。
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あの雲を追跡する




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 八月二日の午後二時過ぎ、十八歳の坂本裕一は、自転車で町のなかをゆっくり走っていた。
 町と言っても、たいしたことはなかった。町の南側に広がる畑のなかを、国道がまっすぐにのびていた。その国道は事実上のバイパスであり、町のなかを蛇行して抜けていく県道には、いまだに歩道すらなかった。西端から東の端まで、その道路は五百メートルほどの長さだ。そしてその道の両側に、この町の商店のほとんどが、いかにも田舎町らしくならんでいた。
 太陽は頭上にあった。よく晴れた空は、あまりに晴れて陽ざしが強いため、午後のこの時間には、青さの上にうっすらと白い色が重なって見えていた。県道ぜんたいが、照りつける黄色い陽ざしのなかだった。どちら側にならぶ商店にも、陽が当たっていた。圧倒的な強さで降り注いでくる陽ざしを、裕一は頭や肩、そして両腕に受けとめていた。道路からの照りかえしは、ハイキング用のショート・パンツにビーチ・サンダルの下半身を暑く包みこんでいた。
 黒い袖なしのTシャツを、今日の裕一は着ていた。ひとりで住んでいる家をでるとき、裕一は、そのTシャツの喉もとからまっすぐ下へむけて、十センチほどナイフで切り裂いた。ヘンリー・ネックのようになった部分を左右に開くと胸もとに風がとおり、気持ちがよく楽だった。
 ゆっくり、彼は自転車のペダルをこいだ。ごく普通の自転車だ。この町の主婦たちのあいだに、二、三年まえ、このようななんの変哲もない自転車が流行した。いま彼女たちが好んで乗っているのは、スクーターだった。
 町のなかでは、何台ものスクーターが、主婦を乗せて走りまわっていた。だが今日は、スクーターはどこにも見当たらなかった。主婦たちは、そしてそれ以外の人たちも、今日は家のなかで畳の部屋に体を横たえていた。日中の暑さが頂点に達するいま、町の外に出ている人はひとりもいなかった。
 坂本裕一だけが、自転車で町のなかを走っていた。ゆっくりとペダルをこいでいるのは、暑さに自分の体の動きを同調させているからだ。これ以上でもこれ以下でも正解ではないという、自分の気持ちにとって最適の速度で、裕一は自転車を走らせた。
 袖なしのTシャツの下には、びっしょりと汗をかいていた。ショート・パンツの下には、彼は競泳用の黒いショーツをはいていた。ショーツは汗で濡れていた。外に出ている肌には、汗はなかった。すぐに蒸発してしまうからだ。幼い頃から、裕一はそのような体質だった。
 商店がつらなる県道の西の端まで、彼は走ってきた。四つ角があった。そこを裕一は左へ大きく曲がっていった。道幅は急に倍以上に広くなった。直線で三百メートルほど続いている道路だった。どちらの端も、細い裏道と直角に交差していた。この道の両側にも商店がならんでいた。
 南へむけて、裕一はおなじ速度で、自転車を走らせた。この道にも人の姿はなかった。裕一のほかには、歩いている人がひとりいるだけだった。若い女性がひとり、むこうからこちらにむけて、歩いていた。つばの広い麦わら帽子を、その女性はかぶっていた。つばのかたちのつけかた、そしてかぶりかたを、裕一は遠目に見てひどく洒落ていると思った。
 白い半袖のシャツに、こまかな花模様のある薄い生地の夏のスカートを、その女性ははいていた。脚をきれいにのばし、軽そうにゆったりと、彼女は歩いていた。すんなりと背丈のある、若い細身の体は、目立たないけれどもきれいにバランスがとれていた。
 彼女の顔は、麦わら帽子のつばで影になっていた。その濃い影のなかに彼女の顔立ちは消えていた。
 この町にこんな女性がいただろうかと思いながら、裕一は、ひとりで歩く彼女に視線をとどめたままにした。彼女はこちらに向けて歩いてきた。そして裕一は、むこうへむけて自転車で走っていった。ふたりのあいだにある距離は、すこしずつ短くなった。
 ふと、彼女が右手を上げた。その手を、彼女は大きく左右に振った。裕一は反射的にふりかえった。うしろへまっすぐにのびていく道に、人の姿はなかった。
 視線をまえに戻した裕一は、ふたたび彼女を見た。彼女はまだ手を振っていた。自分に対して合図をしているのだと、裕一は思った。彼女とのあいだの距離がさらにつまり、裕一は彼女が笑顔であるのを知った。帽子のつばがつくる影のなかで、その笑顔はすっきりと涼しげだった。きれいな人だ、と裕一は思った。
「こんにちは」
 彼女が言った。
 声に聞き覚えはない、と裕一は思った。軽くブレーキをかけた裕一は、自転車を止めた。ゆっくり、左足を路面に降ろした。
 自転車の斜めまえに、彼女は立ちどまった。
「坂本くん」
 と、彼女が言った。
 裕一はやっと気づいた。高等学校でおなじクラスの、西野亜紀子だった。七月になってから、どこからか転校してきた女性だ。
「よう」
 裕一は答えた。そして、
「町にいるの?」
 と、つけ加えた。
「いるわよ」
「そうか」
「あなたも、ここにいるわ」
 歩いてくるのを離れたところから見ているときには、彼女は自分よりも四つ五つ年上の女性だと、裕一は思った。おなじ年齢である同級生の亜紀子の、白いシャツの胸もとを裕一は見た。
「仲間は、みんな出払ってるよ」
 彼は言った。
「どこかへいってるのね」
「東京へ遊びにいったり、泊まりがけで海へいったり、外国へいってるやつも、何人かいるし」
 サドルにまたがったままの腰、そして背中を、裕一はまっすぐにのばした。強い陽ざしのまぶしさを、彼は全身で受けとめた。
「僕はプールへいくんだよ」
 と、彼は言った。
「学校の?」
「そうだよ」
「泳ぐの?」
「すこしだけ。今日は、誰もいないんだ。子供たちに公開するのは、来週からだよ。今日は、見回って管理するだけ。ついでに、すこし泳ぐ」
 腰に両手を当てた西野亜紀子は、上体をきれいにひねって、ふりかえった。いま自分が歩いてきたほうを、彼女は見渡した。見るからに暑そうな夏の日の午後が、彼女の視界いっぱいにあった。
 自分にむきなおった亜紀子に、
「よかったら、来いよ」
 と裕一は言った。
「泳ぎたいわ」
「来いよ」
「いってもいいの?」
「いいよ」
「管理するのではなかったかしら」
「ただ見にいけばいいだけさ。僕は夕方まで泳ぐ。今日は暑いよ」
「これから学校へいくのね」
「そうだよ」
「私は水着を持ってきます」
「更衣室の鍵も、みんな、僕が持っている」
「先にいってて。あとから、すぐにいくわ」
 亜紀子といったん別れた裕一は、ふたたび自転車で走りはじめた。畑の広がりのむこうに台地のようにつながっている丘の、いちばんてまえの頂上にある高等学校まで、裕一はおなじ速度で自転車を走らせた。
 十二、三分で、彼は学校に到着した。正門を入り、管理人室へいって見回りにきたことを報告し、自転車で校庭を斜めに横切った。広い校庭の端にある体育館のさらにむこうに、プールとそれに付属する建物があった。
 プールに人はいなかった。満たしてある澄んだ水が、陽ざしをなかば吸収し、なかば反射させていた。プールはいつもより小さく見えた。
 預かっている鍵で、裕一は更衣室のドアを開いた。暑い空気が内部いっぱいにこもっていた。その空気のなかを、裕一は点検してまわった。どこにも異常はなく、点検する必要などなにひとつなかった。奥にあるポンプ室も、ドアを開いてのぞいてみた。
 男子生徒用の更衣室でTシャツとショート・パンツを脱いだ裕一は、通路を歩き建物の外に出た。そして、プールへの階段をあがった。八コースの五十メートル・プールだった。スタート台のあるほうへまわった裕一は、五コースの台に立った。
 まっすぐに立ち、斜めまえの水面を見つめ、夏の日の空気を肺活量いっぱいに吸いこんだ。そしてそれを吐き出しながら、彼は台を蹴った。基本的なフォームそのままに、彼の体はきれいに空中を飛び、水面に突きささった。飛沫が小さくあがり、彼の体は水にもぐりこんだ。そのあとへ、空中から飛沫が落ちてきた。
 坂本裕一はこの高等学校の水泳部に所属していた。主将がひとりいて、その下に副主将がふたりいた。裕一は、副主将にそれぞれ何人かずつついている、アシスタントのうちのひとりだった。
 今日と明日、彼はプールの見回り役をつとめなければならなかった。一日に三回、きめられた時間に学校へきて、プールとその周囲を見回る。時間と見回った結果とを、日誌に記入する。あとは自由だ。泳ぎたければ、好きなだけ泳いでもいい。来週から二週間、学校のプールは一般に公開される。
 ひとしきり泳いだ彼は、体の内部に蓄積されていた暑さを、水のなかへ逃がした。プールの縁へ上がり、見回り役のきまりに従って底を見ながらプールを一周していると、校庭のむこうから自転車で走ってくる人がいた。西野亜紀子だった。彼女は片手を上げ、裕一にむけて振ってみせた。裕一も片手を上げてそれに応えた。
 更衣室のまえに自転車を止めた亜紀子は、更衣室へ入っていった。そしてすぐに、プールの階段を上がってきた。コーヒーをやや薄くしたような色の、すっきりとしたワンピースの水着を、亜紀子は身につけていた。
「あなたは、水泳部の人なの?」
 プールのむこうから、亜紀子がきいた。若くて無駄がどこにもない、したがっていっさいの無理をすることなくひきしまった彼女の体を、裕一は見た。そして、うなずいた。彼女の膝のかたちが、戦闘的でとてもいい、と裕一は思った。
「水泳部の人」
 と、亜紀子が笑顔で裕一を呼んだ。
「いきなり飛びこんでも、いいかしら」
「いいよ」
 スタート台のあるほうへ亜紀子は歩いた。彼女の肩幅の広さと腕の長さに注目しつつ、太腿ふとももの筋肉の動きと尻の優しさをも、裕一は見た。
 亜紀子は5コースの台に上がった。両腕を横へ水平にのばしつつ、膝をそろえて胸を反らせた亜紀子は、水の上へナイフのように身を躍らせた。
 髪が空中になびき、肩や両腕に陽が反射し、太腿の裏側がきらめいた。踵と足の裏が白い、と裕一が思った次の瞬間、飛沫を水面に残して、亜紀子の体は水のなかに消えた。
 水のなかにある彼女の体の動きを、裕一は見守った。彼女は、よく水となじんでいた。自分がいま水のなかにいることを、彼女が存分に楽しんでいることが、裕一にはわかった。水の感触を全身で賞味しつつ、亜紀子は水面に浮かんできた。
 空を仰ぎ、頭を鋭くひと振りした。濡れた髪をうしろにむけてはね飛ばし、声を上げて笑いながら、彼女は裕一に顔をむけた。濡れた髪が頭のかたちどおりに貼りついているいま、亜紀子の表情はさきほどまでとは別人のように精悍だった。
「気持ちいい!」
 と、亜紀子は叫んだ。
「この水は、気持ちいい」
「地下水だよ」
「なんですって?」
「地下水を汲み上げているんだ」
 すこしだけ声を大きくして、裕一はそう答えた。
「もうすこし冷たくてもいい」
 亜紀子の意見に裕一は賛成だった。
 プールの縁を、裕一は歩きはじめた。水面にあおむけに浮かんでいる亜紀子に、自分の体を低い位置から見られてしまうのが、裕一にはかすかにきまり悪かった。
「入ってらっしゃいよ」
 亜紀子が促した。その亜紀子をふりかえり、小さくうなずいた裕一は、縁を歩いていく歩調を変化させないまま水にむけて一歩だけ踏みだし、そのまま足先から垂直に、水にむけて体を落とした。
 水のなかへもぐりこみ、しゃがみ、しばらくそのままでいたあと、裕一は水面へ斜めに浮かび上がった。亜紀子のすぐそばに、彼は顔を出した。
「いい気持ち」
 亜紀子がふたたび言った。
「今日のような日に、どうして誰もここへ来ないの?」
「プールはまだ公開してないし。みんな忙しいんだよ。予備校へいって勉強してる連中が、いまはいちばん多い」
「あなたは、予備校へはいかないの?」
「いかない」
 あっさり、裕一は答えた。
 しばらく、ふたりは水のなかで過ごした。泳ぐとも遊ぶともつかない、自由な時間だった。水のなかで亜紀子の動きに自分を無意識に合わせているうちに、裕一は気づいた。亜紀子の体の動きには、無駄がまったくなかった。水の抵抗を体の内部へいったん取りこみ、それを自分自身の推力に変えてしまうような能力が、亜紀子にはごく自然にそなわっていた。
 自分とはまるで反対だ、と裕一は思った。自分の体の動きはスポーツをするとき特にぎこちなく、それをあからさまに見られてしまう機会が水のなかなら少ないだろうと思って、彼は水泳部に入った。水のなかでも自分の動きはぎくしゃくしたままであり、それがいっこうに改善されていかないのを、裕一は残念に思っていた。残念に思いつつも、それが自分なのだという思いも、すこしずつではあるが、固まりつつあった。動きだけではなく、自分の体ぜんたいのかたちも、裕一は好きではなかった。
 平泳ぎで縦に何往復かしてみることを、裕一は亜紀子に提案した。
「正しい泳ぎかたを、私に教えて」
 そう言いながら、亜紀子は、体ののびきるきれいなストロークで、プールのまんなかのコースを縦に泳ぎはじめた。その右側を、2ストロークだけ遅れて、裕一がおなじように泳いだ。彼にとってもっとも得意な泳ぎかたは、ブレスト・ストロークだった。
 一往復して百メートルを泳ぎ、さらに五十メートルをいっしょに泳いで、裕一は亜紀子を制した。
「ものすごく、きれいだよ」
 縁の壁に片手をかけて、裕一は亜紀子に言った。
「私が?」
「そう」
「私はたいして美人ではないのよ」
「そうではなくて」
 裕一は首を振った。
「美人だけど、泳ぎかたが、きれいだ。こんなにきれいに泳ぐ人を、僕ははじめて見た」
 亜紀子は自分の勘ちがいに素直に笑った。
「泳ぐのは、好きよ」
「ちょっと待ってくれ。いったん、上がろう」
 手すりのある角にむけて、裕一は泳いだ。そして、プールの縁に上がった。亜紀子も、全身から水をしたたらせて、上がってきた。水のしたたる様子ですら、彼女は自分にくらべるとはるかに優美だ、と裕一は思った。女性は体の曲面の出来かたが男とはちがうから、水の流れ落ちる様子もまるで異なるのだという説を、裕一は水泳部の先輩からいつだったか聞いたことがあった。
 プールの縁にふたりはむかい合って立った。亜紀子は自分とちょうどおなじくらいの背丈なのだということが、裕一にはじめてわかった。ただ立っているだけでもぎこちない自分にくらべ、水着の亜紀子の立ち姿は、力を秘めてすんなりとしなやかで、どこにも無理がなかった。
「水泳は、以前からやってたのかい」
 陽ざしに片手をかざして、裕一がきいた。
「子供の頃から、すぐに泳げたわ。でも、水泳部に入って練習するようなことは、一度もしてないの」
「完全な素人かい」
「そうよ。でも、泳ぐのは、とても好きよ。前の学校では、いつも泳いでたわ。小学生の頃から、何度も転校したの。どの学校にもプールがあって、生徒なら自由に使えたわ」
「教わったことは、ないのかい」
「いいえ」
「あの泳ぎっぷりで?」
「自分では普通に泳いでるだけよ」
「ものすごくきれいだ」
「水泳部の人がそう言ってくれると、私はうれしいです」
「ちょっと待ってくれ。すぐに戻ってくる」
 そう言って、裕一は、プールの対角線にダイヴした。
 絵に描いたような2ビートのクロールで、あっというまに彼はむこうの角まで泳ぎきった。その動きの連続としてプールの縁へ体を引き上げ、階段にむけて歩いた。
 更衣室に入った彼は、奥の壁にある大型のロッカーを開いた。なかには、水泳部のこまごました備品や日誌などが、いくつもの棚につまっていた。もっとも正確な、そして操作しやすい計測用のストップ・ウオッチを、裕一はケースから出した。作動することを確認し、それを持って彼は更衣室を出た。
 プールに戻り、縁の二辺を歩いて、亜紀子のかたわらへ彼は戻った。亜紀子は腰に両手を当て、陽ざしのなかに立っていた。
「タイムを計らせてくれ」
 裕一が言った。
「タイム?」
「きみの」
「私のタイムを、計るの?」
「そうだよ」
「なぜ?」
「ぜひ計ってみたいから」
「計って面白いようなタイムなんて、出るわけないわ」
「ちょっと、やってみよう」
 亜紀子を促した裕一は、スタート台のある縁にむけて、先に歩いた。そのあとに、亜紀子がしたがった。歩きながら亜紀子は、両腕を水車のように振りまわした。
 五コースのスタート台のかたわらに、裕一は立ちどまった。彼が手に持っているストップ・ウオッチを、亜紀子がのぞきこんだ。
「それで計るの?」
「僕はタイムの計測がうまいんだ。僕の計測は信頼されている」
「思いっきり泳げばいいのね」
「百メートル自由形。ヨーイ、ドンで台からスタートして、むこうまで泳いでターンをする。ここまで帰ってきてこの壁にタッチをすれば、それでいい」
「なんだか、どきどきするわ」
 そう言いながら亜紀子はスタート台に上がった。コンクリートの台の縁に、彼女は両足の指をかけた。彼女の両足の長い指が、コンクリートの直角の縁をつかむのを、裕一は見た。
「いいかい」
「どうぞ」
 ひと呼吸おいて、裕一は、
「用意」
 と鋭く言った。
 台の上で亜紀子は身構えた。
「ドン!」
 裕一が叫ぶのと亜紀子が身を空中へ躍らせるのと、完璧におなじ瞬間だった。見事な一致に、裕一はうれしくなった。気持ちのなかでは笑顔で、しかし強い陽ざしに顔をしかめて、彼は水面を全身で叩き割る亜紀子を観察した。
 彼女がターンするまで、裕一は子細に彼女の泳ぎを点検した。自分の点検能力の範囲では、亜紀子の泳ぎかたに欠点はまったくない、と裕一は思った。そう思った瞬間、亜紀子の体の動きの滑らかさが、裕一はこの上なくうらやましかった。亜紀子はターンをした。これまでに裕一が見たターンのうち、もっともきれいなタンブル・ターンを、亜紀子はきめた。水のなかで体の方向がひっくり返ったかと思うと、その次の瞬間の彼女は、すでにプールの縦幅のなかばにさしかかっていた。
 スタート台のかたわらで、裕一は水にむかって体を構えた。ストップ・ウオッチを持った右手を伸ばし、亜紀子の両腕の動きに神経を集中させた。亜紀子の左腕がのびきり、指先が壁に触れた瞬間、裕一はストップ・ウオッチのボタンを押した。
 ストップ・ウオッチが表示する数字を裕一は見た。そして、
「あーっ!」
 と声を上げた。
 その声を、彼は心のなかで取り消した。自分は数字を読みまちがえた、と彼は思ったからだ。しかし、読みまちがいではなかった。亜紀子がたったいま出してみせた百メートル・フリー・スタイルのタイムは、少なくとも裕一の驚嘆には値していた。水泳部の監督がこの数字を知ったなら、ただちに亜紀子を水泳部に入れ、つきっきりで特訓を始めるのではないか、と裕一は思った。
「これはすごいや」
 自分に対して確認する口調で、裕一は言った。彼は亜紀子を見た。プールの縁からすこし離れたところで、彼女はあおむけに水に浮いて漂っていた。その姿勢のまま、彼女は裕一に顔をむけた。
「すごいタイムだよ」
 ストップ・ウオッチを持った手を、彼は肩の高さにかかげてみせた。
「どうしたの?」
 亜紀子がきいた。
「才能があるよ。監督が聞いたら大喜びする」
「そんなにいいタイムだったの?」
「中学から本格的に始めて、泣きたくなるようなトレーニングを重ねて高校生になって、そのままトレーニングを続けた人と競争して、ほんのちょっとの差で負けるだけだと思う」
「でも、勝てないのね」
「もちろん、勝てない。負けるよ。しかし差は少しだ。そしてその差は、トレーニングで縮めることができる。水泳部に入ったら」
 裕一の言葉に、もう一度、亜紀子は首を振った。顔に水がかかった。その水を彼女は吹き飛ばした。
「タイムを計るなんて、初めてよ」
「それにしては、たいへんなタイムだ」
「誰にも言わないで」
 そう言って亜紀子は姿勢を変えた。プールの底につま先で立ち、両手の指で濡れた髪をかき上げ、うなじにむけてときつけた。
「誰にも言わないで」
 と、亜紀子はくりかえした。
「水泳部に入れよ。女子水泳部。優勝して、スターになれる」
「いまのは、まぐれでしょう」
「水泳には、まぐれはないんだよ」
「水の温度がいいのかしら。いつもよりずっと、軽く浮くのよ」
 裕一は手のなかのストップ・ウオッチをもう一度見た。表示されている数値を彼は確認した。亜紀子のタイムは正しいものだった。
「驚いたなあ」
 正直に、心から、裕一はそう言った。
「もう一度、計ってみようか」
 裕一の言葉に亜紀子は笑った。
「もう駄目よ。二度とできないわ」
 納得した裕一は、ストップ・ウオッチをスタート台の上に置いた。
「それより、ふたりで泳ぎましょう」
 亜紀子が言った。
「どんどん暑くなるみたい」
 裕一は空を仰いだ。めまいのするような、真夏の快晴の空だった。水の表面がきらきらと輝きながら、小さく揺れていた。風が吹いた。裕一にとって、その風は、今日初めて体験する風だった。こんな日でも風はあるのだと、裕一は思った。
「入ってきて」
 そう言った亜紀子は、両腕で自分の周囲の水をかきまわした。
「よく確認してから、水に入るんだ」
 それから小一時間、ふたりは水を相手にして遊んだ。ふたりならんで水の上にあおむけに浮かび、とりとめのない話をした。飛びこみの練習を、何度もくりかえした。バタフライで五十メートルだけ、競争をしてみた。これは裕一のほうが有利だった。潜水で百メートルを泳いでみた。水の底を平泳ぎで進みながら、ふたりは手をつないでみた。
 プールの縁に上がって休憩すると、濡れた体は陽ざしによってたちまち乾いた。あとは陽ざしに照らされ続けるだけだったが、ひとしきり水を相手にしたあとだから、それはそれで快適だった。肌が刻々と陽焼けしていくのを実感できた。
「ひとりで住んでいるのですって?」
 と、亜紀子がきいた。
 裕一はうなずいた。
「ひとりだよ」
「この町で生まれたの?」
「そう。ここで生まれて、ここで育った。本物の田舎の少年」
 裕一の言いかたに亜紀子は微笑した。亜紀子の髪は乾いていきつつあり、乾いた先端の部分から、風にあおられてなびいた。
「風が気持ちいい」
「吹いてるね」
「時間のせいでしょう。午後になって、あるときふと、吹きはじめたりするのよ」
「母親のお姉さんが、この町に住んでいる。結婚していて、子供がふたりいる。ふたりとも女のこなんだよ。だからその伯母さんが、僕の面倒を見てくれていることになっている」
「ひとりで一軒の家に住んでいるの?」
「小さな家。箱みたいな」
「食事は自分で作るの?」
「そうだよ」
「どうして、ひとりなの?」
「高校二年のとき、両親が離婚したから。父親は別なところへ移っていき、母親は実家のある町へ帰った。そこで、実家の商売を手伝っている。僕の名は、最初は海野といったのだけど、いまは母親のほうの姓に変わって、坂本なのさ」
「兄弟は?」
「姉がひとりいる。もう働いてるよ」
「どんな仕事をしてる人なの?」
「競艇の選手」
「うわあ」
 亜紀子は感嘆した。そして、
「面白そう!」
 と、心から言った。
「一度だけ、僕はレースを見たことがある。びっくりした。何台ものスピード・ボートが、ものすごい音を立てて、海の上をふっ飛んでいくんだよ。姉にあんなことができるとは、思ってもみなかった」
「私も見たいわ」
「裕子というんだよ。僕の裕一とおなじ字さ。母親はユウ子といって、子供の頃から片仮名が嫌いで、なんとか漢字の名前になりたかったのだって。はじめて生まれたのが女の子だったから、待ってましたとばかり裕子と名づけて、その次に生まれた僕も、ついでに裕一になった」
 彼の朴訥ぼくとつな語り口のなかには、飄然とした感触があった。立てた両膝を抱いた亜紀子は、かたわらにいる裕一をのぞきこむようにして、質問を続けた。
「お母さんといっしょに引っ越すことは、しなかったのね」
 裕一は首を振った。
「僕だけ、ここに住み続けることになった」
「学校があるから?」
「転校したくなかった」
 と裕一は答えた。
 裕一は成績のいい生徒ではなかった。数学と英語という両極が、それぞれの担当教師ですら思わず笑ってしまうほどに、まったく駄目だった。一年生のときから現在まで、ずっとそうだった。水泳部の監督は専門の体育教師がつとめていたが、その監督の上に位置する責任者は、裕一たちのクラスのホームルーム担任だった。卒業だけは保証してやるから、模範的な生徒と呼べるような状態のままでいてくれと、担任は裕一に言っていた。ほかの高校へ転校したら、それだけで卒業の見込みは消えてしまうことを、裕一は痛いほどに自覚していた。
「私は、よく転校したわ」
 亜紀子が言った。
「なぜ?」
「父親の仕事の関係で」
 と亜紀子は答えた。そしてそれがどのような仕事なのかは、亜紀子は語らなかった。だから裕一も、それ以上は質問しなかった。
「小学生の頃から数えると、もう何度転校したか、自分でもわからないわ。これで何度めかしら。いま三年の夏だけれど、卒業する頃にはきっとどこか別の高校にいるわ」
「水泳部に入れよ」
「私が?」
「本格的に練習してみないか」
「私は、競争は駄目だわ。競争する人ではないのよ」
「競争ではなく、自分のために」
「さっき、タイムを計ったでしょう。あれで、私には充分だわ。あのタイムは正しいのだと、私は思うの。私は、本気で泳ぐと、昔からかなり速いのよ」
「本格的にやってごらん」
「自己流だからいいのかもしれないのよ」
 裕一はうなずいた。
「指導されると駄目になる人は、確かにいるみたいだね」
「私も、きっとそうよ。ほったらかしておいてもらえると、自分なりになんとかまとまるの」
「残念だなあ」
「さっきのタイムのことは、誰にも言わないで」
「言いたい」
「駄目よ。お願い。誰にも、絶対に、言わないで」
「みんなに知られると、嫌かい」
「知られたくないわ。秘密にしておいて。いまこうして、せっかくふたりしかいないのですもの。私とあなたの、秘密。ふたりだけの秘密」
「もったいない」
「誰にも言わないで。私たちだけのことに、しておいて」
「その気持ちも、わかるけど」
「わかるのだったら、そうして」
 亜紀子の真剣な視線に、裕一は気づいた。
「そうしよう」
「うれしいわ」
「もったいないけれど」
「誰にも言わないで」
「言わない」
「さっきあなたが、プールの対角線を泳いだでしょう。あなたも速かったわ。水を乗りこなす、という感じ。素敵だったのよ」
 亜紀子の言葉に裕一は首を振った。顔を上げ、プールごしに遠くを見て、
「僕はてんで駄目だ」
 と言った。
「あれだけ泳げるのに」
「一年のときから部に入って練習してれば、誰だって僕くらいには泳げるようになるんだ」
「でも、速かったわ」
「動きに無駄が多くて、とても駄目だよ」
「滑らかに動くから、速いのよ」
「力まかせさ。きみには、かなわない。僕の体質は、すこし変わってるんだ。いまみたいに肌を出してると汗はかかないけれど、これでシャツでも着ると、そのシャツの下だけは、びっしりと汗をかいてしまう。バランスが悪いんだよ。だから体の動きもぎくしゃくしているし、かたちも好きではない」
 そこで言葉を切った裕一は、亜紀子を見た。そして笑顔になり、
「顔もまずいし」
 とつけ加えた。
「そんなこと、あるわけないでしょう」
 亜紀子は裕一の言葉を涼しく否定した。
 空を仰いだ彼女に、プールを越えて風が吹いた。乾いた髪が肩からあおられ、うしろへなびいた。彼女の喉や顎に当たった風が、そこでふたつの方向に分かれていくのが、裕一には見えるようだった。
「暑くなってきたわ。水に入りましょう」
 亜紀子は立ち上がった。すわっている裕一を見下ろして微笑し、スタート台のある縁にむけて彼女は歩いた。
 5コースのスタート台に亜紀子は立った。彼女の全身を、裕一は見た。陽ざしを受けとめている水面にむけて、亜紀子は、レーシング・ダイヴで優美に飛んだ。飛沫が上がり、それがひとつ残らず空中できらめくのを、裕一は見た。プールのまんなかあたりで、亜紀子は水面に出てきた。裕一をふりかえり、
「入ってきて」
 と、彼女は言った。
 裕一は立ち上がりスタート台へ歩いた。5コースの台に上がり、いま見たばかりの亜紀子のダイヴを真似して飛び、水面を叩き割った。そのまま、裕一は潜水していった。プールのなかばを越えると、水のなかに亜紀子の脚が見えた。重力のほとんどない不思議な世界のなかで、亜紀子の両脚そして腰は、おだやかに踊っているような動きを見せていた。
 それから一時間後に、亜紀子は帰っていった。最後のひと泳ぎは、裕一とならんで百メートルの競争だった。裕一は今度も負けた。
 いっしょにプールの縁に上がり、更衣室へ降りていく階段にむけて歩いた。
「私はもう帰るわ」
「僕は、ついでだから、五時までここにいる」
「今日は、どうもありがとう」
 階段を下まで降りた亜紀子は、階段の上に立ちどまっている裕一を見上げた。
「明日は私の誕生日なの。だから、今日のタイムは、いい記念になるわ」
「誕生日なのか」
「そうよ」
「おめでとう」
 反射的に、きまり文句を裕一は言った。
 亜紀子は微笑していた。
「明日も会おうか」
「明日も、プールの見回りでしょう」
「そうだよ。今日とおなじで、午後には僕はここに来ている」
「海へいきましょうよ。明後日は、どうかしら」
「僕は、いいよ」
「明後日」
「うん」
「私は海へいきたいの」
「いこう」
「だいじょうぶ?」
「特急で二時間かかる。でも、いい海岸を僕は知っている。そこへいこう」
「案内して」
「朝、十時頃の特急に乗ろう」
 と裕一は言った。
「お昼過ぎには、海岸へ到着する」
「それがいいわ」
「十時八分、という特急があったはずだ。それでいこう」
「十時まえに、駅で待ち合わせましょうか」
「そうしよう」
「明後日」
「うん」
「天気は、いいはずよ」
「高気圧は、しばらくこのままだね」
「約束」
「うん」
「うれしいわ」
 更衣室へ入っていく亜紀子を、裕一は見送った。
 そしてほどなく、亜紀子は更衣室を出てきた。薄いスカートが風になびき、つばの大きな麦わら帽子を片手で押さえていた。プールの縁にすわっている裕一に、亜紀子は手を振った。裕一も、手を上げてそれに応えた。
「明後日」
 と、亜紀子が言った。
「十時まえ。駅で」
 裕一の返事に、亜紀子はうなずいた。そして、自転車に乗って校庭を斜めに横切っていった。その姿を、しばらく、裕一はひとりで見ていた。


 二日後も、まったく変化のない、すさまじい照りかたの真夏の日だった。待ち合わせの時間どおりに、裕一は駅へいった。特急の時間を確認した。彼が記憶していたとおり、次の特急は十時八分だった。
 五分まえに、西野亜紀子があらわれた。切符を買い、むこう側のホームへ渡り、定刻に駅へ入ってきた特急に、ふたりは乗った。
 特急は空いていた。自由席の車輛ですら、がら空きだった。
「どうしてかしら」
 亜紀子が不思議がっていた。
「お盆のまえの静けさだよ」
 裕一が答えた。
「きっとね」
 いろんな話をしていると、一時間はすぐに過ぎ去った。残りの一時間は学校の話をして過ごした。小学校の頃からはじまって、これまでにいったい何度転校したか、自分でも数えきれないという亜紀子は、その間に体験した面白い話を、いくつも持っていた。
 特急を降り、海岸まで駅前からバスに乗った。まっすぐいけば駅から十分とかからないのだが、ショッピング・センターを経由するため、二十分近くかかった。
 砂丘の土手のむこう側に、長く続く白い砂の海岸があった。土手には海の家がびっしりとならんでいた。建物のあいだの細い通路を抜けてはじめて、海岸を見渡すことができた。海の家はどれもみな盛業中であり、海岸の人出は亜紀子や裕一の気持ちを浮き立たすのにちょうどよかった。
 海岸の店で昼食を食べ、海のなかで遊び、砂の上でも遊んだ。濡れた砂で子供のように城を作ったし、トラックのタイヤ・チューブを利用した太い浮き輪も、ふたりは楽しんだ。ゴム・ボートも借りて乗った。沖にある飛びこみ台までいき、そこで飛びこみも楽しんだ。ビーチ・ボールでも遊んだ。
 午後の時間がゆったりと経過していき、海の家のござの上で、ふたりは昼寝までした。目覚めて西瓜を食べ、ひと泳ぎし、そのあと長い海岸を端から端まで、波のなかを歩いた。太腿のなかばから腰のあたりまで海につかり、膝を高く上げ、両手で水をかきわけながら、歩いていった。
 午後が、ようやく終わった。パラソルや人の影が、砂の上に長くなった。深い角度で射してくる陽ざしは、西から届いてくる色の濃い陽ざしだった。その西陽をうしろから受けながら、ふたりは波打ちぎわを海岸の中央あたりにむけて歩いた。ふたりの影が前方へ長くのびていた。
 人の数が少なくなりはじめていた。海を渡って、風が吹いて来た。一日じゅう強い陽に照らされ、ふたりは心地よいほてりを体の内部に自覚していた。そのほてりに、海からの風は快適だった。
「夜になると、人はいなくなるでしょうね」
 腰まで波につかって、亜紀子は砂丘を見渡してそう言った。
「みんな帰っていくよ」
「ずっと、ここにいたいわ。海の家の人たちは、どうするのかしら」
「店を閉じて引き上げるだろう」
「そうね」
「誰もいなくなるよ」
「それが私の夢だったの」
 気持ちをこめてそう言い、亜紀子は裕一にむきなおった。
「一日ずっと海岸にいて、夕方になって人が少なくなり、夜が来てほとんど人がいなくなって、海の家は閉じて明かりが消え、ついには自分だけになった海岸に、自分だけはまだいるの」
「夢?」
「そうよ。一度でいいから、それをしてみたかったの。一日ずっと海岸にいて、夜になって人がいなくなってもまだそこにいて、海岸で眠って夜を明かすの。そして朝、誰もいない海岸で、目を覚ますの」
「やってみようか」
「ほんと?」
 と、亜紀子はきいた。
「やってみよう」
「ほんとに?」
「ほんとだよ」
「つきあってくれるの?」
「僕がいると、ふたりになるけど」
「これで、夢がかなうわ」
 明日までここにいることにきまると、気持ちに余裕が生まれた。そのせいだろう、時間の経過は、すくなくともふたりにとっては、倍以上にゆるやかとなった。
 夕食を食べる店を、ふたりは海岸で物色して歩いた。もっともこぎれいな店のテラスのテーブルで、西陽と海からの風を受けとめつつ、ふたりは早めの夕食をとった。
 ロッカーを借りた海の家へ引きかえし、熱いシャワーを浴びて体と髪を洗った。服を着て、ふたりはふたたび海岸へ出てきた。砂丘に寝そべって時間を過ごし、海にむけて細く突き出ている半島のむこうへ陽が沈むのを、ふたりは見守った。
 ゆっくりと、万全を期すかのように、夕方がやってきた。そして、何度か蚊に刺されているうちに、夜になった。星がいくつも見えはじめた。ほどなく、月も出てきた。
 海岸を、ふたりは歩いた。遅くまで開いている海の家が何軒かあり、そのうちのひとつで、亜紀子は熱い紅茶を飲んだ。そしてその店の洗面室で、歯をみがいた。
 夜の十時を過ぎると、海岸には人がいなくなった。海の家の明かりがすべて消えた。海からの風には、潮の香りが濃くなっていた。夜の空が海の上いっぱいに広がり、星がどれもみなくっきりと鮮明だった。波の音が重く聞こえた。
 砂丘の頂上の平らな部分に体を横たえていると、ふたりはすぐに眠くなった。増えていく星の数を知覚しつつ、どの星も夜の深まりによって洗われ、輝きがいっそう鋭くなっていくのを見守るうちに、ふたりとも眠りへのゆるやかな坂を、滑らかに滑り落ちていった。そしてそれっきり、朝まで目を覚まさなかった。
 朝、八時まえに、裕一は目を覚ました。海岸にはまだ陽が当たっていなかった。海のむこうには、陽が降り注いでいた。空はまっ青だった。今日も暑くなる、と裕一は思った。
 砂の上に体を起こすと、砂丘のスロープの途中に立っている亜紀子が、彼の視線のなかに入った。裕一に気づいて、亜紀子は笑顔になった。うしろからの風に髪があおられ、前へまわってきた髪で彼女の顔がかくれた。
 空を仰いでその髪をやり過ごした亜紀子は、
「おはよう」
 と、すっきりした声で言った。
「よく寝てたわ。足にいくら砂をかけても、あなたは目を覚まさないのよ」
 砂のスロープを、亜紀子は上がってきた。すわっている裕一のまえに膝をつき、亜紀子は片手で砂をすくった。その砂を、少しずつ、彼女は落とした。
 蚊に刺されたあとを、裕一はかいた。頭を両手で撫でまわし、裕一は短い髪についた砂を落した。立ち上がり、胸を反らせて深く呼吸した。
「気持ちいいわ」
「最高よ」
「夜は寒いかと思ったけれど、なんともなかった」
「私も」
「顔を洗ってくる」
 裕一は、砂丘のスロープを降りていった。波打ちぎわでビーチ・サンダルを脱ぎ、波のなかへ入っていった。ショート・パンツの裾を濡らしながら、彼は両手に海の水をすくい、顔を洗った。口に含み、すすいだ。海の水の塩からさはこの程度だったかと、裕一は思った。
 亜紀子のいる砂丘へ彼は戻った。スロープを上がり、頂上にすわった。亜紀子も、かたわらに腰を降ろした。裕一はあおむけに寝そべった。亜紀子も体を横たえた。
 完璧だ、と裕一は思った。一昨日のプールも完璧だった。そして、昨日から現在にかけての一日もまた、おなじように完璧だった。これ以上を望んではいけないのだ、と裕一は思った。
 これほどに完璧な日が二日も続いたなら、あとはどうなっても不思議ではない、と裕一は思った。いまこの瞬間で、その完璧さはみごとに完結したのだと、裕一は自分に言い聞かせた。この先、なにを自分が望んでも、それはまちがいなのだ。裕一は、頭のなかでそう確認した。
 たとえば夏が終って新学期がはじまったとき、自分に対して亜紀子がさほど興味を示さなかったりしても、それはそれでいいのであり、いまこの瞬間に完結した完璧さのみで自分は満足すべきだと、彼は自分で自分に命じた。
 これ以上なにもいらないと思いつつ、裕一は大きくのけぞり、後方の空を仰ぎ見た。ちぎれた白い雲がひとつ、かなりの速度で海岸と平行に流れていた。いまの自分がさらになにか望むとするなら、あの雲を追いかけることくらいだと、裕一は思った。
 空は、ふたつあった。いま彼が見ている空と、裕一の頭のなかにある空のふたつだ。どちらの空も、夏の朝の真っ青な広がりだった。その空を、白くちぎれた雲が、追う人にとって快適な速度で、どこかにむかって流れていた。
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 夏休みがはじまった次の日の午後六時に、佐々木祐一はひとりで自宅に帰って来た。玄関から板の間に上がった。まっすぐ奥へ、そして左右に、三つの方向へ廊下はのびていた。客間のほうから声が聞こえた。姉の声だった。
 玄関から廊下を左へいくと、客間が三つならんでいた。そのいちばん奥、家の側面にある庭に面した部屋の障子が、おだやかに開いた。姉の友人、風祭百合絵が、廊下に出て来た。祐一を見て、
「あら」
 と、彼女はきれいな声で言った。単純なひと言のなかにも、もの静かな優しさが完璧に宿るのを、祐一は快感として受けとめた。百合絵は彼にむけて歩いて来た。ごく普通の夏のスカートに、半袖のシャツを着ていた。百合絵は素足だった。
「学校へいってたの?」
 立ちどまって、百合絵は彼にきいた。祐一はうなずいた。
「練習?」
「そうです」
「たいへんね」
 佐々木祐一は県立高校の水泳部に所属するリレーの選手だった。まだ濡れている髪を、彼は頭の頂上からうなじへかけて、両手の長い指で押さえていった。彼のやや長めの髪は、すべてうしろにむけてときつけてあった。精悍せいかんでいて同時に優しい印象のある彼の顔に、うしろへときつけた長めの髪は、よく似合っていた。
「たいへんね」
 百合絵がくりかえした。
「今日でひとまず終りです」
「秋の大会には出場するの?」
 百合絵の質問に彼はうなずいた。
「おそらく」
 風祭百合絵は祐一がかよっている県立高校の英語の先生だ。百合絵を見るたびに、祐一は、なぜ、と心の深い部分で真剣に思う。彼女が英語の先生であるのはいいとして、なぜこんな田舎の県立高校にいるのか。なぜ、風祭という不思議な名前なのか。なぜ、これほどまでに美しい人なのか。なぜ、彼女はいまここにいるのか。
 十七歳の少年として、祐一はごく普通の背丈だ。百合絵は、その彼とほぼおなじ背の高さだった。細身に見える彼女の体は、端麗すぎるほどの出来ばえだった。顔立ちはあきらかに整いすぎだ。おだやかで優しく、なにをするにしても、彼女は静かで滑らかだ。整いすぎの美人の常として、百合絵は沈んで見えたり冷たく見えたりもしたが、一定した温かさを持続させた華やぎが、なんの無理もなく常に彼女の雰囲気のなかにあることに裕一は気づいていた。
 この素晴らしい女性を、学校のほとんどの男の生徒たちが嫌っていることも、祐一にとっては大きな謎だった。もっとも嫌われる科目である英語を教えているから、ということだけがその理由ではないようだった。女性たちの多くも、百合絵を好いていなかった。私たちとは距離がありすぎるのよと、おなじ水泳部の選手、山形多恵子がかつて祐一に言った。
「祐一なの?」
 客間から姉の祐子が言った。
「ただいま」
「ここへ来て英語を教えてもらいなさい」
 百合絵は廊下を歩いて客間へ戻った。肩ごしに彼女は祐一をふりかえった。祐一も姉のいる客間にむけて廊下を歩いた。
「入ってらっしゃい」
 六歳年上の姉の言葉に、祐一は障子を開いた。テーブルのむこうで、祐子は畳にすわって床の間の柱に背をもたせかけていた。百合絵も部屋に入り、うしろ手に静かに障子をしめた。テーブルのわきへ歩きながら、祐一は百合絵をふりかえって見た。
 クーラーで冷やされた客間の空気のなかに、美しくすっきりと、百合絵は立っていた。天井にある見るからにつまらない形の蛍光灯が放つ、なんの趣もない光のなかでも、風祭百合絵は、見る人の呼吸のテンポを乱すほどの美しさだった。
「すわりなさい」
 祐子が言った。どんなことでも命令口調で言う姉に完全になれている祐一は、テーブルのからわらにすわった。そして百合絵を見上げた。見上げる百合絵はまたちがった美しさを獲得していた。
 微笑しながら、百合絵は夏の座蒲団の上に正座した。彼女の身のこなしすべてをつかさどる、女性としての反射神経の総体の見事さに、祐一は何度目とも知れない感銘を覚えた。
 祐一の姉である祐子は、風祭百合絵とおなじ大学を卒業していた。ふたりは大学生のときからの親友どうしだ。だから百合絵が、いまここで自分の目のまえにいることは、簡単に説明がつく。現実の因果関係はたやすく説明できるが、百合絵のような女性がなぜ存在するのか、そしてなぜここにいるのかという、もっと大きくて基本的な疑問には説明のつけようがないはずだ、と祐一は思った。
「英語を教えてもらいなさい」
 祐子が言った。祐一は姉を見た。顔も姿もけっして悪くはない祐子なのだが、百合絵のまえではきわめて平凡な女性にしか見えなかった。
「わからないところがたくさんあると言ってたでしょう」
 祐子が祐一に言った。
「教えてもらいなさい」
「いまはいいよ」
 苦笑して祐一は首を振った。そして百合絵を見た。端正に正座した百合絵は、両手を膝の上で重ね、きれいに背をのばし、優しい笑顔でいた。このような女性をなぜみんなは嫌うのか、祐一にはわからなかった。
「せっかくだから」
 姉が言った。
「あとでいいよ。九月になったら。学校で」
「どこがどうわからないのか、それがわからないのでしょう」
 祐子は自分の言葉に自分で笑った。そして、
「私たちはもうじき出かけるわ」
 と言った。
「僕は夕食のしたくを手伝う」
「でもお母さんは、今夜は踊りの会よ。もう出かけたわ」
「そうか。親父は?」
「会社の旅行」
「僕ひとりか」
「そうよ」
「自分でなにか作って食べる」
 祐一が言った。
「なにを作るの?」
 信じられないほどに優しく、百合絵がきいた。胸腔の内部で宙吊りになっている自分の心臓を、百合絵のてのひらでそっと支えてもらったような戦慄を、祐一は覚えた。
 なにか料理の名を言わなくてはいけない、と彼は思った。なにか言おうとしてあせると、あせりに比例してなにも思い浮かばなかった。アイウエオ順に考えていくことを思いついた彼は、ア、イ、ウ、エ、と心のなかでたどっていき、
「オムライス!」
 と叫ぶように言った。
 姉が声を上げて笑った。百合絵は静かな笑顔のままだった。彼女のかたちの良い唇に塗った口紅の赤い色を、祐一は見た。
 風祭百合絵はいま自分のすぐ目のまえにいるけれど、自分からは遥かに遠い存在であり、距離はありすぎるほどにあるのだと、祐一は自覚した。私たちとは距離がありすぎるのよ、という山形多恵子の言葉が、部分的にはよくわかる気がした。


 特急で二時間かかった。東京の都心の東側へ東北の方向から入った終点で、彼ら四人は特急を降りた。佐々木祐一と山形多恵子、そしておなじクラスの男女ひとりずつ、合計四人だ。
 駅の構内から彼らは外の道路へ出た。交差点を渡りながら、
「東京は臭くてむっとするわね」
 と山形多恵子が言った。湿度の高い、重く曇った日だった。
 今日の彼らは、買い物と東京見物をしに来た。祐一と多恵子が以前から約束をしていて、それにほかのふたりが加わった。祐一が島村という男性を、そして多恵子が荒木という女性を、それぞれ連れてきた。
 買い物のための場所は駅からすぐのところにあった。高架になった鉄道の環状線に沿って、そしてその下に、彼らが乗ってきた特急の終着駅から環状線の次の駅までのあいだ、店がびっしりと密集してならんでいた。
 高架に沿った表通りには、海産物の店と衣料品店が軒をつらねていた。高架の下には中心となる一本の通路がまっすぐにのび、それに対して何本ものわき道が内部で交差していた。通路に面して、化粧品や衣料品の店が連続していた。裏通りにも、高架に沿って店がつながっていた。
 化粧品に強い興味を示す女性たちに、まず男性ふたりがつきあった。そのあと、四人はともにアロハ・シャツやTシャツ、そしてショート・パンツなどを買った。祐一が連れて来た島村は、ナイフを二本も買った。
 姉から頼まれた化粧品の買い物を、渡されて来たメモどおりにすませたあと、祐一はシャツを二枚にTシャツを一枚だけ買った。そして、予定していなかったスタント・カイトをひとつ、衝動買いした。
 一枚だけのTシャツは、多恵子が選んだ。
「これっ」
 熱意をこめて、多恵子は選んだTシャツを祐一に見せた。たたんであるのを広げ、彼の胸に当てがった。
「ほら、可愛いでしょう。素敵」
 メジャー・リーグの野球チームのマークとチーム名をプリントした、アメリカ製のTシャツだった。
「いいね」
「この鳥が可愛い。祐一に似合うよ」
 多恵子は熱心に勧めた。自分でも気にいったから、祐一はそのTシャツを買った。
 昼食をあいだにはさんで、合計四時間を彼らはそこで過ごした。そのあと、湾岸の埋め立て地へいき、水族館と植物園に入った。水族館では巨大な水槽の下を歩くガラスのトンネルが圧巻だった。植物園では、熱帯植物の庭園に現実のスコールをそっくりに模した熱帯の雨が降る様子を、四人で見物した。
 都心で早めの夕食を食べ、駅へ戻った。そして座席指定の特急に乗り、二時間かけていつもの自分たちの町へ帰った。


 午前中の指定時間どおりに、佐々木祐一は学校のプールへいった。プールはいまは水泳部だけが利用していた。三年生のトレーニングのかたわら、OBたちの監督のもとに、二年生の自主トレーニングがおこなわれる期間だった。お盆の週はプールは休みになる。その前後の週は、それぞれ午前中は水泳部のトレーニングに使用され、午後から夕方までは一般に公開されることになっていた。
 灰色に曇った、空気の重い日、午前十時に、祐一は部室にひとりであらわれた。タオルや水泳着の入ったバッグを下げていた。先日買ったTシャツも、そのなかにあった。店の紙袋におさめてあった。
 祐一はこのTシャツを風祭百合絵に進呈することを思いついた。自分よりも百合絵に似合いそうだ、と彼は思った。容姿の端麗すぎる、そして顔立ちの美しすぎる百合絵が、このTシャツを着たらどうなるだろうかと、彼は興味を持った。
 部室で裸になり、薄いナイロンのスイミング・ショーツを身につけた祐一は、半地下のようなコンクリートの通路を歩いて、プールへ出た。五十メートル八コースの、本格的な競泳プールだった。そのむこうには、高飛びこみのためのプールがあった。
 祐一は泳ぐのが好きだった。だから高校に入学したとき、水泳部に入った。好きなときだけのんびり泳ぐつもりでいたのだが、何人かのコーチに見こまれた。水への乗りが良く、無駄な動きのない祐一の泳ぎかたは、トレーニング次第では高校生の選手として立派に通用する、とコーチたちは言った。
 祐一は選手にされてしまった。短い距離の自由形の泳者としてトレーニングを受けはじめたが、途中でリレーの泳者に希望して転向した。ひとりで全責任を負って競泳するのは、祐一の性格に合っていなかった。泳いでいる途中から、緊張感と心理的な負担とで、心臓が張り裂けそうになった。リレーに転向して彼のタイムは向上した。すくなくとも彼にとっては、リレーは心理的に楽だった。ぜんたいのなかの一部分だけを、あとさき考えずに全力で飛ばす、というふうに祐一はリレーをとらえ、そのとおりに全力で泳いだ。
 お昼まえに祐一は練習を終った。シャワー・ルームで冷たい地下水のシャワーを浴び、石鹸を使って体をくまなく洗った。水で石鹸を流し去り、持ってきた大きなタオルで体をふいた。髪からも水をタオルに吸い取らせた。
 バッグにすべてのものを入れた祐一は、白いショート・パンツにスニーカーをはき、部室へ戻った。上半身は裸だった。体育系の部室は、コンクリート製の横に長い二階建ての建物だった。プールのすぐ背後にせまる丘の斜面に、なかば埋めこんだようになっていた。真夏のもっとも暑い頃でも、この建物のなかに入るとひんやりとしていた。
 おなじ部員の中沢という二年生が部室にいた。
「風祭先生を見かけなかったか」
 祐一は中沢にきいてみた。
「見ないよ」
 中沢が答えた。そして次のようにつけ加えた。
「学校なんかとっくに忘れて、どこかで遊んでるよ。外国だな、きっと」
 中沢の言いかたに、百合絵に対する否定的な感情を、祐一ははっきりと感じた。
「あの先生は嫌いか」
 と祐一はきいてみた。
「嫌いだよ」
「なぜ」
「なんと言ったって、冷たいよ。それに、俺たちのことを馬鹿だと思ってるし」
 中沢が答えた。
「馬鹿だと言われたのか」
「言われてはいないけど、態度でわかるよ。それに、視線にも出てる」
「すごい美人じゃないか」
「受けは悪いんだよ。外見は良くても、気持ちは冷たいから」
「勝手にそう思うだけだろう」
「みんなに聞いてみろよ」
 口をとがらせてそう言い、中沢はスイミング・ショーツ一枚で部室を出ていった。紙袋に入ったTシャツを、祐一はバッグから出してみた。今日、風祭百合絵にもし会えたら、進呈するつもりで持ってきた。紙袋のなかから祐一はTシャツを出した。
 広げて顔のまえにかかげてみた。店の香りがした。着心地を試してみよう、と祐一は思った。いまはプールから上がったばかりだ。それにシャワーで石鹸を使って洗ったから、肌はすべすべだった。汗は出ていなかった。髪もほぼ乾いていた。
 祐一はそのTシャツを着てみた。頭からかぶって裾を引き下げ、両袖を引っぱって腕になじませた。ほどよく薄い木綿の生地が肌に触れる感触は、柔らかくて気持ち良かった。サイズはぴったりで、裾の長さや体とのあいだに出来るゆとりが絶妙だった。
 祐一は胸を見下ろした。セントルイス・カーディナルズのチーム名のロゴを、彼は観察した。そして彼はTシャツを脱いだ。丁寧にたたみ、紙袋におさめなおした。シャツをはおった彼は、バッグを下げて部室を出た。校庭を横切り、校舎の中央にある職員室のすぐ外まで歩いた。ガラス窓ごしになかを見た。職員室のなかには誰もいなかった。


 夕食のテーブルに、祐子と祐一がさしむかいで椅子にすわっていた。両親はそれぞれに用事があり、出かけて留守だった。ふたりで作った夕食を、彼らはふたりだけで食べていた。
「風祭先生のことを嫌ってる人が多いんだ」
 祐一が言った。
「生徒たちが?」
「そう」
「うーむ」
 と祐子は言った。
「なぜだろう」
「一般受けは良くないのね。本当はとてもいい女性なのに、ぱっと見たときの主観的な印象ですべてをきめてしまう人が多いから」
「ぱっと見た印象は、嫌な女なのかな」
「積極的に反感を買うわけではないけれど、冷たいとか気どってるとか、あるいは、すましてるなどと思われてしまうみたいよ。学生の頃からそうだったわね」
「美人すぎるからかな」
「と言うよりも、優しく見えても芯はものすごく強烈だから、それがどこかに出るのね。最初から強い女というものを、日本の人たちは好きではないのよ」
「素敵な人だと思うけど」
「祐一はそう思うのね」
「そう思う」
「そう思う祐一は、すこし変わってるのよ」
「あの女性を根拠もなく嫌うほうが、よっぽど変わってる」
「彼女は損なタイプなのかなあ。私も心配は心配なんだけど」
「冷たくなんか見えないのに」
「そうね。言葉だって、ちっともきつくはないし」
「私たちとは距離がありすぎる、と言った女のこがいた」
 祐一の言葉に祐子は笑った。
「距離があるのはあたりまえでしょう。田舎の高校生がなにを言うの」
「言ったのは僕ではないよ」
「誰にしろ」
「僕がこんな話をしたことを、風祭先生に言わないで」
「言わないわよ」
「でも、お姉さんと友だちで良かった」
「なぜ?」
「たとえば廊下ですれちがうとき、生徒と先生ではなく、親友の弟として、にこっとしてくれる。ものすごく素敵な笑顔だよ」
「きれいすぎる女性に、一般の多くの人たちは、意味もなく威嚇を感じたりするのよ」
「お姉さんに伝言を頼まれるときなんか、うれしい」
「祐一は百合絵のどこが好きなの?」
 姉の質問に、祐一は、
「全部が素晴らしい」
 と即答した。
「私は?」
 要求する口調で、祐子が言った。
「みんな素晴らしい」
「無理しないで」
「無理してない。ごく自然」
「自然という言葉で思い出した。ああ、嫌だ、海なのよ」
 顔をしかめて、祐子は壁に掛けてあるカレンダーを見た。
「もうじきだ。嫌だ、嫌だ」
 目を閉じた顔を、祐子は片手で覆った。
「なにが嫌なの?」
 祐一がきいた。
「海」
 祐子が答えた。
「海がどうにかしたの?」
「臨海学校の引率」
 吐き出すように、祐子が言った。祐子は中学校の先生をしている。いまは夏休みだが、まもなく臨海学校の引率をしにいかなくてはならなかった。
「十日間も。でも、いいんだ、そのうちの一週間は、百合が来てくれるから」
「風祭先生?」
 祐子はうなずいた。
「私たちが泊まる旅館からすこし離れたところに、もうちょっとましな旅館があって、そこに百合は泊まるのよ」
「臨海学校を引率するの?」
「ちがう。私と過ごすため。こんなときではないと、ふたりともろくに時間が取れなくなったのよ。積もる話がたくさんあるわ」
「どこの海岸?」
 祐一の質問に、祐子は壁のカレンダーを示した。
「みんなあそこに書いてあるわよ。旅館の名前からなにから」
 カレンダーにむけて上体をのばし、祐一は書きこみを見た。体をもとに戻し、
「ぶらっと遊びにいくかもしれない」
 と彼は言った。
「来なさい。私の先生ぶりを、ちらっとだけなら、見せてあげる」
 そこであのTシャツを風祭百合絵に進呈すればいいのだ、と祐一は思った。


 夏休みは終った。学校が始まった。学校は退屈だった。水泳の練習はいつものパターンのとおりだった。姉も先生の仕事が始まった。おなじ県のなかの中学校なのだが、自宅からの通勤は無理だった。だから彼女は学校の近くに下宿していた。
 九月第四週、火曜日の午後一時限目は、風祭百合絵の英語のクラスだった。始業のベルが鳴り終るのといれちがいに、彼女は祐一たちのクラスにあらわれた。
 色の落ちたスリムなブルージーンズ。白いテニス・シューズ。胴をしぼりぎみにした、薄い生地の黒いジャケット。そしてそのジャケットの下に、風祭百合絵は、祐一が真夏の海岸で進呈したTシャツを着ていた。
 彼女は出欠を取った。デスクの上に出欠簿を開き、最初から順に名前を呼んでいった。自分の名前に接近していくにしたがって、祐一の心臓の鼓動が早くなった。椅子にじっとすわっているのが苦痛に感じられるほどに鼓動が早くなったとき、百合絵は祐一の名を呼んだ。
「はい」
 と祐一は答えた。
 それまで出欠簿に目を伏せたままでいた百合絵は、顔を上げた。そして祐一を見た。表情はいっさいなしに、ただ見ただけだった。そしてふたたび視線を伏せ、次の人から名前を呼んでいった。
 その百合絵を祐一は見守った。近よりがたいと言うなら、この女性には確かにそんな雰囲気がなくもない、と祐一は思った。授業が始まり、彼の心臓の鼓動はやがておさまった。そのかわりに、頭がぼうっとしてきた。顔が妙にほてったようでもあり、喉も乾いた。彼女が黒板に書くことを放心したように見ながら、祐一は百合絵の声を聞いていた。
 百合絵の授業は大学の受験対策を中心にしていた。大学入試でもっとも点をとりやすいのは英語だと百合絵は断言し、なぜ点がとりやすいかを、実際にいろんな大学で出題された問題をパターン別にとりあげながら、点のとりかたを説明した。多くの場合、その説明は、受験参考書に書いてあることの、具体的でわかりやすい解明だった。
 たまにノートを取りながら、祐一は百合絵を見つめ、彼女の声を体のなかへ受けとめていた。Tシャツは風祭百合絵によく似合っていた。サイズはちょうどよかった。黒いジャケットの下で、彼女の体とシャツのあいだに、きわめて魅力的な空間が生まれていた。
 彼女を見つめ続けていた祐一は、あるとき突然に気づいた。心臓の中心を、いきなり鋭く突きさされたように、彼は感じた。Tシャツの下には百合絵の素肌だけがある、ということに祐一は気づいた。百合絵はTシャツの下に下着を身につけていなかった。確実な事実として、彼はそのことに気づいた。
 百合絵の胸のふくらみは、明らかに小ぶりだった。しかし、女性にしか出すことのできないそのふくらみのカーヴは、確実にそこにあった。黒板になかば背をむけた姿勢で、生徒たちを見ながら黒板に字を書くとき、そのカーヴおよび小さな丸い乳首が、ほんの一瞬、Tシャツの下から浮き彫りになるのを、祐一は見た。
 祐一は百合絵の声を聞いた。「カンマのある which は『そしてそれは』と訳する」という参考書の記述について、百合絵は説明していた。「カンマのない which の場合は、which 以下のすべてを下から訳す」という記述についても、彼女は丁寧な解説を加えた。ノートのなにも書いてないページのいちばん上の行に、which 以下のすべて、と祐一は鉛筆で書いた。
 プールから上がったあとの、汗の完全に引いた体に一度だけ着てみたあのTシャツの感触を、祐一は自分の肌の上に思い出していた。裸の上に着てみたTシャツは、たいへんに心地良かった。そしていま、風祭百合絵も、裸の上におなじTシャツを着ていた。Tシャツの生地が彼女の胸のふくらみに触れるときの心地良さ、乳首にかすかに触れるときの感触を、きわめて短い一瞬、祐一は自分の胸でも感じた。
 放課後、祐一たちを含めてリレーの泳者全員が、いつものようにプールで練習をした。自由練習の日だった。男性と女性が四コースずつ、プールを分け合って使用した。練習の途中で、プールの縦の縁にすわっている祐一にむけて、山形多恵子が泳いで来た。縦に泳いでいる何人もの泳者のあいだを、むこうの縁から彼女は泳いで来た。そして祐一のすぐかたわらで、プールの縁に上がった。
 彼女の大柄な体のぜんたいから、盛大に水が落ちた。祐一の肩に脚が触れるほどに接近して多恵子は立っていたから、したたる水は彼女の体から直接に、祐一にかかった。プールの縁に落ちた水は、跳ねかえって祐一のわき腹や腕を濡らした。彼は彼女をふりあおいだ。多恵子はプールのむこうを見ていた。
 体から水が落ちなくなってから、多恵子は祐一のすぐそばにしゃがんだ。彼女の量感のある濡れた太腿や、分厚い肩、太い腕などから、自分にむけてエネルギーが発散されて来るのを、祐一は感じた。はじめのうちそれをただ受けとめていた彼は、彼女のエネルギーに対抗しなくてはいけないと、なんの理由もなしに思った。だから彼はすわっていた腰を上げ、多恵子とおなじようにしゃがんだ姿勢を取った。肩や目の位置がおなじになった。祐一は多恵子を見た。彼女はまだプールのむこうに視線をむけていた。祐一もおなじ方向を見た。
 多恵子は立ち上がった。その動きにしたがうようなかたちで、祐一は多恵子をふり仰いだ。彼の目をまっすぐに見下ろして、
「あのTシャツを英語の先生にあげたでしょう」
 と多恵子は言った。
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おなじ緯度の下で




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 広い台所の東側に、おなじほどの広さの食事のためのスペースが、隣接していた。そのスペースには長い楕円形のテーブルがあり、いくつもの椅子がテーブルを囲んでいた。片方の壁には食器棚があり、その反対側の壁にはなにもなく、日めくりのカレンダーだけがひとつ、壁につけたフックにひもで掛けてあった。
 台所でのかたづけをすべて終って、十七歳の西野哲也は、台所から食事のためのスペースへ出てきた。日めくりのカレンダーが、彼の視線にとまった。カレンダーは八月一日を示していた。そうか、今日から八月なのか、と彼は思った。テーブルごしに彼はその日めくりを眺めた。一月一日から七月三十一日まで、すでに切り離された部分のほうが、残っている十二月三十一日までよりも、はっきりと分厚かった。
 三十分ほどまえに、ここで昼食が終った。七人がテーブルを囲んだ。いまは哲也だけがここにいた。彼の母親の三枝子はすでに外出していた。食器その他、すべてのものを台所に下げたあと、哲也はこのテーブルをきれいに拭いた。そして位置を直した。テーブルの上にはなにもなく、汚れた部分もなしにすっきりとしていた。その様子にごく軽く満足して、哲也は台所へ戻った。
 台所のなかも、きれいにかたづいていた。洗うべきものはすべて洗い、所定の場所に納めた。この家は彼の母親の実家だ。母親の三枝子とともに、ひとり息子の哲也は、二週間の予定でここへ来ていた。食後のあとかたづけのすべてが、哲也の役目になっていた。彼の作業は丁寧で早く、きちんとしていた。
 哲也はウオーター・クーラーの水をグラスに半分ほど注ぎ、ゆっくりとそれを飲んだ。台所も食事のためのスペースも、そして大きな家ぜんたいが、いまは静かだった。冷房のスイッチをオフにして、哲也は台所を出た。食事のためのスペースを抜け、隣りにある板貼りのフロアの部屋に入ってみた。そこの空気も、いまはまだ心地良く冷えていた。なにのためでもない、漠然とした板の間だった。一方の壁には何枚かの地図がならべて貼ってあった。そのうちの一枚のまえに、哲也は立った。
 一メートル四方ほどの大きさの、きわめて詳細にディテールの描きこまれた地図だった。いま哲也がいる町が、上下のほぼ中央、右端の近くにあった。その町の真上を、緯度を示す細い線が、まっすぐに横切っていた。
 その線を西へたどっていくと、地図の左端の近くに、もうひとつ町があった。緯度を示す線は、その町の上をも横切っていた。その町には、哲也よりも四歳年上の異母姉、愛子が住んでいた。姉のいる町でも今日は八月一日であり、おなじように暑いにちがいない、と哲也は思った。
 哲也の父親である西野哲郎の最初の妻、美代子とのあいだに、愛子は生まれた。離婚した美代子はいまは松原という姓に戻り、引き取った娘の愛子も、松原愛子だった。愛子が四歳になる寸前に、美代子は西野哲郎をほうり出すようにして離婚した。
 その離婚が進行していく上に、哲也の母となった後藤三枝子と西野との関係が重なっていた。西野は美代子と離婚し、三枝子はその彼と結婚した。すぐに哲也が生まれた。
 まだごく幼い頃から、愛子はしばしば父親に会いにきた。愛子と会うときには、西野はほとんどいつも、自宅で会っていた。だから妻の三枝子とも、そして哲也とも、愛子は結果として親しくなった。そして三枝子は愛子を好いた。愛子も三枝子に好感を持っていた。幼い哲也の遊び相手を、愛子はしばしばつとめた。やがて哲也は物心つき、ふたりは仲のいい姉と弟になった。
 愛子をとおして、三枝子は西野の最初の妻、松原美代子とも親しくなった。最初に会ったとき、ふたりの女性はおたがいに対して共感のようなものを抱き合い、それを土台に、時間をかけていい関係を作っていった。どこかにめた距離を常に一定に保ちながらも、哲也が中学生になった頃には、ふたりの女性たちは親友どうしと言っていい間柄になっていた。
 西野哲郎というおなじ男性を相手に、松原美代子は愛子という娘を持ち、後藤三枝子は哲也という息子を持つにいたった。美代子と三枝子は親友になった。愛子と哲也は事実としてなかば姉弟であり、その事実関係を越えてさらに、仲のいい幼なじみどうしとなっていった。
 時間の経過とともに、その四人を結ぶ関係は少しずつ確実に、緊密さの度を増した。四人の誰にとっても、その関係はいい関係だった。ふたりの大人の女性たちは、余計なのは西野だということに、やがて気づいた。美代子はすでに西野から離れて久しく、三枝子もやがて美代子とおなじ過程を選ぶことになった。美代子がそうしたのとおなじように、三枝子も西野をほうり出すようにして、昨年の秋に離婚した。
 西野哲郎は、優しくておだやかな、ユーモアのある気さくな男性だった。背の高い二枚目でもあった。女性に強くあとを押されたり押し切られたりして行動を起こしていくタイプであり、押し切られていく過程で相手の女性の力をうまく自分の都合のために利用していくことを、彼は良くない習性として身につけていた。
 自分たちがまったくおなじパターンをたどって西野哲郎と結婚し、そして離婚したことを、美代子と三枝子は確認し合った。なんの正当性もない過重な負担を、いつのまにか西野から自分だけが引き受けさせられていることに、あるとき突然に気づいてびっくりするというようなところまでおなじてつを踏んだ事実を、彼女たちはおたがいに語り合って知った。たとえば三枝子は、哲也が生まれても仕事を続け、西野とおなじほどの稼ぎを上げていた。そしてその稼ぎは、美代子への慰謝料および愛子の養育費に、西野によって巧みにまわされたりしていた。
 三枝子から離婚されてまだ一年たっていないが、西野哲郎はすでに別の女性との生活に移っていた。とある門前町でみやげ物店、和食の店、そして甘いものの店を営む家の、離婚歴のある次女が今度の相手だった。和食の店の支配人になった西野について、美代子と三枝子は語り合って笑った。
 母親の実家がある町へ哲也が来てからずっと、ことのほか暑い日が続いていた。今日も暑い日だった。冷房を止めたあとの、急速に温度と湿度が上昇していく空気の感触を、哲也は壁の地図のまえで全身に受けとめていた。ここへ来て二日目にいってみたプールの光景を、彼は思い出した。食事のあとかたづけのほかには一日じゅうなにもすることのない哲也は、市営プールがあることを知ってそこへいってみた。スーパー・マーケットの二階にスポーツ用品の店をみつけ、そこで競泳用のショーツを買った。
 バスで二十分ほどいくと、市営プール前、という停留所があった。そこで彼はバスを降りた。低い丘のつらなりを削って整えなおした広い敷地のなかに、日本画の美術館、多目的市民ホール、文化会館、遊園地、運動場などがそろっていた。
 プールは独立したひとつの建物のなかにまとまっていた。地下にはスポーツ・ジムの一部分として、長距離を泳ぐ人たちや水中エアロビクスのためのプールがあった。定員制をとっていて、いまは満員で入ることはできないと、西野哲也は受付のカウンターで言われた。
 屋外にはプールが四つあった。子供用の浅いプール。五十メートル八コースの普通のプール。飛びこみのためのプール。そして楕円形の環状に作った水路のようななかを、水がおなじ方向にむけて流れている長い楕円形のプール。どれも超満員だった。
 あきらめた哲也は、美術館に入った。なかに人は少なく、四角くて天井の高いどの部屋のなかでも、冷房された空気は静止していた。彼は展示してある日本画を見てまわった。型にはまった退屈な作品ばかりだ、という印象を彼は持った。
 バスに乗って町へ戻り、町のなかを見物して歩いた。神社が多かった。小高い丘の上まで上がっていくと、そのたびに神社があるように思えた。神社をとりまく木立のなかは、空気がすこしだけひんやりとしていた。その木立のなかから、母親が生まれ育った町を、いろんな角度から見下ろして彼は時間を過ごした。
 三日めに、彼は海へいってみた。バスで隣りの町までいくと、そこにはJRの駅があった。特急に一時間三十分、彼は乗った。途中から線路は単線になった。海岸があるという小さな港町で、彼は特急を降りた。
 駅から町なみへと続く道路を直角に離れていくと、海沿いの国道につきあたった。その国道のすぐ下に海岸があった。黒と言っていいほどに濃い色をした、魅力のない砂の、狭い海岸だった。海岸は汚れていた。人はいなかった。
 灯台までバスに乗ってみた。灯台のある丘の下に、子供の国レジャーランド、と看板にうたった施設が、暑い陽ざしのなかに横たわっていた。テニス・コートやプールがあった。プールはここも満員だった。駅までひきかえした哲也は、急行に乗って帰った。
 四日めには、隣りの町までバスでいってみた。昨日とおなじ路線のバスだった。午後一時を過ぎたばかりの時刻のそのバスには、哲也が乗ったとき、ほかに乗客はひとりもいなかった。
 JRの駅のあるその町は、街道に沿った古くからある町だった。新と旧とが、町のなかほぼぜんたいにわたって、奇妙な取り合わせを見せていた。昔の木造の家や建物が、現代の急ごしらえの白っぽい建物へと、急速に変わりつつある途中だった。
 古い町なみを哲也は面白く思った。曲がりくねる細い道の両側に商店が建てこむ様子と雰囲気が、彼には楽しかった。何軒もある田舎ふうの一軒家が珍しかった。生まれてからずっと、彼は集合住宅の部屋にしか住んだことがなかった。
 もっとも古くからある商店街は、いまはパチンコ店や酒の店が軒を接してならぶ歓楽街となっていた。歩道のない道が交差しているところがその中心で、そこからすこしはずれると、道には歩道が造ってあった。
 商店がまばらになりはじめるあたりに、歩道からすこし引っこんで、映画館が一軒あることに哲也は気づいた。かろうじて取り残され、いまもまだそのまま残っているという風情をたたえて、その映画館はわき道の奥でこちらに入口をむけていた。近よってはいけない場所ないしは建物のような妙な雰囲気に、哲也の気持ちは少しだけ動いた。
 彼はそのわき道を入っていった。映画館のまえに立った。入口とその周辺ぜんたいを、彼は眺めた。自分など生まれてすらいなかった時代に建築され、そこからの時間が充分に経過したあと、いまは補修もあきらめられたままに、こうして残骸に近い形で残っているのだと、彼は感じた。
 正面入口のドアが、左へ開ききってコンクリート・ブロックで押さえてあった。その汚れた赤いドアに、上映中の三本の日本映画のポスターが、縦にならべて貼ってあった。三本とも、哲也は聞いたこともない作品だった。ことさら文芸的で重く暗い印象が、三枚のポスターに共通していた。製作されてからかなり年数をへているのではないかと、哲也は感じた。
 面白くなさそうだ、と彼は思った。しかし、映画館というものは、彼には珍しかった。都心でこれまでに三度か四度、母親とともに映画館に入ったのが、彼にとっては映画館の体験のすべてだった。暗いなかに大きなスクリーンがあり、音が必要以上の大音量で聞こえてくるところという印象を、いまでも彼は映画館に対して持っていた。
 いま哲也がその正面に立っている映画館には、不思議な雰囲気があった。時間の経過のなかですこしずつ古びながら、汚れや傷をひとつ残らず蓄積させて、現在に至り、残骸同然にとり残されていた。その姿から、自分にむけて発散されてくる妙な力に、哲也は気づいた。自分を追い払うような力だ。ここはおまえのいる場所ではないから、早くどこかへいってしまえ、と映画館ぜんたいに言われているように、彼は感じた。
 場ちがいな自分にとまどいながら、この映画を見てみようか、と哲也は思った。どのような世界がスクリーンの上に映写されるのか、彼は淡く気になった。
「いま入ると、ちょうどいいわよ」
 彼の斜めうしろから、女性の声が言った。彼はふりかえった。正面入口の右側に、入場券を売る小さな窓口があった。ガラスのはまったのぞき穴のむこうで、中年の女性が顔を横に倒して、ガラスごしに彼を見ていた。
「いまのがもうじき終るから、きりのいいところなのよ。次のをはじめから見られるのよ。なかは涼しいのよ」
 彼女の三つのセンテンスの語尾に、「よ」が三つ重なった。それを受けとめて、哲也は優しい笑顔になった。父親と母親の両方に似た、ハンサムな少年だ。彼は窓口へ歩み寄った。入場券を買った。なかの女性は小さな半券を窓口のガラスの穴から彼に渡した。
 彼は映画館に入った。右わきへ入りこむと、下り坂の通路があった。その通路の途中のドアから、彼はなかに入った。冷房されて冷えた空気のなかに、すえてよどんだ複雑な臭いが充満していた。臭いは暗さによって増幅されているように、哲也は感じた。
 空いた席はたくさんあった。そのひとつにすわって、哲也はスクリーンを見た。スクリーンには雪国の景色が映し出されていた。深く積もった白い雪の上に、さらに雪が降っていた。景色のなかにあるほとんどのものが、雪に埋もれつつあった。
 唐突に室内の場面になった。古い日本家屋の内部だった。画面の外から、男の怒声が飛んできた。女性の悲鳴がそれに重なった。男女ともに画面にあらわれ、喧嘩が盛大にはじまった。
 映画の終りに近い部分をいま自分は見ているのだと、やがて哲也は感じた。冬のはじめから春おそくまで、深い雪のなかに閉じこめられる北国での、祖母と母親そしてその娘の三代にわたる愛憎の物語なのだと、哲也は見当をつけた。
 哲也が感じたとおり、その映画はそれからすぐに終った。あらゆるものを埋めつくす雪の白い厚みのなかから、終り、という文字が陰気ににじみ出るように、あらわれた。
 次の作品を、哲也は最初から最後まで見た。ひとつが二十分ほどの短編が六つ集まって、オムニバスとなっていた。どれも具象と抽象の中間をいくような、不思議な映像および物語の世界だった。この作品も、ぜんたいが白黒のフィルムだった。ひとつひとつが短いので、哲也はその作品を最後まで見ることができた。
 三本目の作品のタイトルが映写されるなかを、哲也は席を立った。ドアを押して開き、通路に出た。そして正面の出入り口から、映画館の外へ彼は出た。暑くて明るい真夏の午後は、まだ続いていた。
 映画館に入るまえとなんら変わっていない強い陽ざしのなかで、ウインドーのなかに貼ってあるポスターとスティル写真とを、哲也は観察してみた。
 六つの短編でぜんたいが構成されている二本目の作品の、三番目の短編に強く惹かれている自分を、哲也は意識していた。六つの短編はどれも独特だったが、彼が気にいった三番目は、もっとも叙情的でわかりやすかった。ストーリーはなにもなく、細心の注意を払って丁寧ていねいに撮影された断片が、滑らかにきれいに、ひとつにつながっていた。登場するのは、二十五歳くらいの、姿のいい美しい女性ひとりだけだった。
 その彼女が、主として夏の季節のなかで、日本のさまざまなところを、ひとりでただ歩いている様子が、景色として撮影されていた。道の両側に古い民家がつらなり、夏の陽ざしのなかで道は下り坂になっている。その坂道を下りきると、別な道と直角に交差する。その道は海に沿った道だ。その光景ぜんたいが、静かに画面に写し出される。そこへ、ふと、彼女が登場する。彼女は海にむけて坂道を歩いていく。そのうしろ姿を、カメラは静かにとらえる。というような断片が、いくつも連続した。
 彼女が歩いていく場面では、背後に一台のピアノによる無調の音楽がもの静かに流れた。彼女の顔が、なんらかのかたちで画面にアップになると、音楽は消えた。そのかわりに、おそらく彼女自身の声によるものだろう、台詞せりふが入った。台詞と言ってもやりとりではなく、かと言ってモノローグでもない、不思議な台詞だった。
「そんな、ほんとにそうなのね」「あら、私もそう思うのよ」「まあ、なんて素敵なんでしょう」「いいのよ、私はいいのよ。だったら、そうしましょう」「そうね、きっと、そうよ」「それはいいわ、ぜひともそうしましょうよ」というような優しい肯定の言葉が、画面のなかの彼女が喋る言葉としてではなく、画面にかぶせて録音した音声として、奥行き深く柔らかく、画面から聞こえてくるのだった。
 物語はないけれども、製作者が伝えようとしたことは、自分にも伝わったのではないかと、哲也は思った。そのような作りの短い映画作品も気にいったが、ひとりだけの主演女優に、哲也の気持ちはかなり大きく動かされた。自分はこのような女性にかれて好きになるのかと、生まれてはじめて、彼はくっきりと自覚した。
 そのオムニバス作品のポスターを、彼はウインドーのなかに見た。ポスターを見るかぎりにおいては、その作品は長編であるように思えた。オムニバスであることは、どこにも明記されていなかった。それぞれの短編に主演した女優の名が、縦一列に列挙してあった。どの女優の名も、哲也にはなじみがなかった。上から三番目の名が、自分の好きになった女優の名だろうかと、彼は思った。
 その女優は、きれいに整った、癖のない優しい顔をしていた。涼しげでさらっとしていて、なにをしていても常にどことなく品があった。そしてふと視線を伏せるときの横顔に、ほんのすこしだけ悲しそうな影が宿って、すぐに消えた。体のどの線にも、すんなりとした無理のない清楚さがあった。笑顔は静かに華やぎ、声は低い部分での落ち着いた艶が、彼女ぜんたいの雰囲気を決定づけていた。身のこなしはおだやかに優美で、立ち姿にも歩く様子にも、それを見る人をどのようにでも受けとめて許容するだけの幅のある、端正な柔和さが、美しさの基本として存在していた。
 哲也は映画館から表の歩道まで出ていった。そこに立ちどまり、映画館をふりかえった。自分が強く魅力を感じて好きになる女性というものが、スクリーンの上とは言え、生まれてはじめて具体像として目のまえに現れた場所だった。好きになった女性がはじめて出来た、と彼は思った。そしてその思いを、彼は次のように少しだけ訂正した。自分がどのような女性を好きになるのか、十七歳の夏のいま、はじめてわかった。
 次の日、昨日とおなじ時刻のバスに乗って、西野哲也は隣りの町へいった。前日とそっくりおなじ感触の、夏の日だった。日付が一日変わっただけで、あとはすべて同一であるように思えた。陽ざしの強さも明るさも、そしてそれが哲也の気持ちのなかに引き起こす反応も、完全に前日のくりかえしだった。真夏に一度か二度ある、時間が停止したような日なのだと、彼は思った。
 古い町なみを歩いて時間をやり過ごしたあと、彼はあの映画館へいってみた。昨日の映画をもう一度見るためだ。自分が魅力を感じて好きになった女性がどのような女性なのか、そして彼女を本当に自分が好きであるのかどうか、確認してみたいと彼は思った。
 入場券を買って彼は映画館のなかに入った。冷房で冷えた空気の粒子のなかに完全に組みこまれているすえた臭いも、そして空席がいくつも散らばっている様子も、昨日とおなじだった。スクリーンの上には雪国を舞台にした暗い映画が、写し出されていた。
 好きになった女優が登場する、昨日とおなじ作品を、哲也は最後まで見た。そして映画館を出た。午後の陽ざしの下に押さえつけられているような商店街を、彼は歩いた。歩きながら、確認はできた、と彼は自分で自分に言った。あの女優はまちがいなく素敵だ。素晴らしい。自分の好みにぴったりだ。自分は彼女が好きだ。
 そしてそのように確認した結果に、彼は驚きを覚えた。自分がこのような感情を抱くことのできる女性が、すくなくともひとり、具体的にこの世のなかのどこかに存在していた、という事実の発見にともなう驚きだ。
 好きだという気持ちは、恋愛感情にきわめて近いものであることを、哲也は自覚した。そしてその感情の中心には、あの女性を自分だけのものとして所有したいという気持ちが横たわっていることも、彼は自分で自分に確認した。
 不思議な気持ちだった。このような状態になるのは、はじめてのことだった。恋愛という言葉は知っていたが、その実体はたとえばこういうことなのかと、彼は芽生えたばかりの実体と、心のなかで正面からむき合ってみた。
 高等学校の同級の女性たちに対しては、これまで一度も持ったことのない恋愛の感情を、西野哲也は汗をかきながら歩いている自分の内部に、はっきりと見た。あの女優は自分よりも年上だ、と彼は思った。大人に見えるけれど、そして確かに年上ではあるけれど、それほど大きくはちがわないのではないか、とも彼は思った。
 ほかに出演していた何人かの女優たちは、誰もが二十代なかばのように見えた。すでに崩れつつある部分をその誰もがいろんな部分に持っていたが、あの女優にはそれがいっさいなかった、と彼は思った。あの映画が製作されたとき、彼女は二十二歳あるいはせいぜい二十三歳だったのではないだろうか。
 この町のはずれにとり残されたようにいまも営業しているあのような映画館で見た、あのような映画のなかの、名前すらはっきりは知らないひとりの女優について、彼はさらに思いをめぐらせてみた。
 出演した作品がほかにもあるはずだ。それを見たいと思うなら、どうしたらいいのだろうか。制作会社に電話して、まず彼女の芸名を知らなければならない。そしてほかの出演作を教えてもらう。
 うれしいような困ったような、そして重いのか軽いのか、あるいは楽しいのかつらいのか、にわかには判定しがたい妙な気持ちを心のなかにかかえて、彼は夏の日の午後のなかを歩いた。ひと言では説明のしようのない気持ちだった。あの映画をもういちど見たい、とも彼は思った。しかし、彼女が登場する短編はいいとして、ほかの部分が退屈で暗すぎた。
 泳ぎたい、と彼は思った。満員のプールを思い浮かべた。朝早く、開場と同時にプールに入ることを、彼は思いついた。混んできたら出るとして、それはちょうどお昼頃になるのではないだろうか。明日、さっそくそうしてみよう、と彼は思った。
 明くる日も朝食は七時三十分だった。全員がそろって朝食を食べた。いつものとおり、哲也が洗いものとあとかたづけをした。八時三十分を過ぎた頃には、誰もが仕事に出ていた。家のなかに残っているのは哲也だけになった。
 彼の母親の実家は、建築業、材木商、不動産業、増改築専門の工務店、上下水道工事店、電気工事店、設計事務所などを、両親に協力して妹弟たちが人を使って営んでいた。全員が多忙だった。
 彼はバスに乗って市営プールへいってみた。開場は十時からだった。適当に時間をやり過ごし、開場と同時に彼はプールに入場した。
 暑い日だった。陽ざしはこの数日続いた照りかたと、まったくおなじだった。東京にくらべると空が青く、おなじ夏の空の下でも空間の奥行きは快適に深いように、哲也は感じた。十一時までは人は少なく、彼は存分に泳いだ。正午が近くなるにつれて、時間はおもむろに速度を落としていった。と同時に、プールには人が増えはじめた。
 正午まえに彼はプールを出た。バスに乗って母親の実家のある町へ帰った。家には母親がいた。昼食がすぐに始まった。
「毎日、なにをしているの?」
 母親は哲也にきいた。
「隣りの町へいってる」
 と彼は答えた。
「隣りの町には、なにがあるの?」
「プールがある」
「私も泳ぎたいわ」
「いこうよ」
 後藤三枝子は二十六歳のときに哲也を生んだ。だからいまは四十三歳だ。
「この二十年間、私の体型は変化してないのよ」
「変化しててもいいよ」
「ほんとなんだから」
「大きい体だから、水着は似合うよ」
「私は水着を持ってないわ」
「買えばいい」
「選んで」
 食事はいつもにぎやかだった。終ると誰もがどこかへいってしまい、急に静かになった。哲也の母親も外出した。
 洗いものを済ませ、台所と食事のためのスペースのかたづけを完全に終えて、哲也はふたたび外出した。バスに乗って隣りの町へいき、少しだけ見慣れたものになってきた町なみのなかを歩いてみた。暑かった。汗が流れた。見慣れてきた町ではあるが、自分はほかの場所から一時的にここへ来ているだけなのだという、多少とも浮いた感触を、彼は感じ続けた。そしてその感触のなかには、なにか少しだけ嫌なことがやがてありそうな、ごく軽く胸さわぎのするような、妙な予感があった。
 アイスキャンディーを売っている店があった。アイスキャンディー、と染め抜いた旗が出ていて、プラスティックで作った見本が何本か、窓の奥にならんでいた。食べたい、と哲也は思った。店には中年の女性がひとりいた。立ちどまってなかを見ている哲也に気づいた彼女は、ガラス窓を開いた。
「キャンディー?」
 と、彼女はきいた。
 哲也はうなずいた。葡萄の味と香りがするという、濃い紫色のグレープというのを、彼は一本買った。彼は代金を払い、店の女性はアイスキャンディーを彼に手渡した。そして窓を閉じた。アイスキャンディーを一本持って、彼は歩きはじめた。
 うしろから自分を呼びとめる声に、彼は立ちどまってふりむいた。店の女性が外に出ていた。
「なかで食べてもいいのよ」
 彼女が哲也に言った。
「暑いでしょう。でも、なかは冷房よ」
 おだやかな笑顔になった哲也は、店までひきかえした。
 中年の女性に促されるままに、彼は店のなかに入った。奥のスペースに簡素なテーブルと椅子がいくつか置いてあった。かき氷、アイスクリーム、ところてん、氷白玉などの品書きの短冊が、壁に貼ってあった。客はいなかった。椅子にすわった哲也に、店の女性は冷たいおしぼりを持ってきてくれた。
 哲也はアイスキャンディーを食べた。品書きのほかに、店の壁にはポスターがたくさん貼ってあった。ひとつずつ、彼は観察した。下駄のポスターがあった。水が白い糸の束のように流れている清流のなかに手ごろな岩がひとつあり、その岩の上に赤い鼻緒の女性用の下駄が一足、置いてあった。夏には下駄を、と毛筆体でコピーが添えてあった。
 痴漢防止、青少年の非行防止、火の用心、信用金庫、浴衣などのポスターを、哲也は順に見ていった。むこうの端には、塩数の子のポスターもあった。青い海を背景に写真合成した数の子は、まっ黄色だった。
 ほどなく彼はアイスキャンディーを食べ終った。ばしのような細い棒が一本、彼の手のなかに残った。紫色の滴がいくつか、テーブルに落ちていた。おしぼりで彼はそれを拭い、おしぼりをたたんだ。彼は椅子を立った。
 入口のわきにごみ箱があった。アイスキャンディーの棒を、彼はその箱のなかに落とした。ドアを開いて狭い売り場へ出た。誰もいなかった。薄い板壁のむこうから、店の女性の声が聞こえた。電話で話をしている声だった。哲也は外へ出た。汗の引いた彼の体を、暑い空気がふたたび包みこんだ。
 町なみの中心部にむけて歩きはじめて、彼はいきなり気づいた。事態ぜんたいがそのすべてをくっきりと明らかにして、ある瞬間、突然に彼の目のまえに姿を現した、という気づきかただった。気づいた彼は、その内容に驚いた。そして、すでに三日めになるいままで気づかずにいた事実にも、重ねて驚いた。
 歩調を変えることなく歩いていきながら、彼は肩ごしにふりかえった。歩いて来た町なみが、影を濃くして陽ざしのなかに横たわっていた。気づいてからまだ一分も経過していないが、気づく以前がすでにものすごく遠い世界のように、彼には思えた。彼は空を仰いでみた。人工的な葡萄の香りが、口のなかにかすかに残っていた。彼は歩いていった。
 あの映画館で二日にわたって二度見たあの映画に登場する女優に、彼は強く惹かれて好きになり、恋愛の感情を覚え、自分だけの人として所有したい気持ちがわき上がっていた。そのようないまの自分を心のなかで直視した上で、彼はたったいま気づいたことを受けとめなおした。あの女優は異母姉の松原愛子によく似ている、という事実だ。
 外見はどことは言いがたく、ぜんたいがよく似ていた。そしてその外見の内側にあるものとして彼がスクリーンから受けとめた彼女の質は、愛子にそっくりだった。これまで心の底のどこかにかくされたまま気づかずにいたことが、ついさきほどいきなり表面に出て来たのを、彼は自覚した。
 自分は確かにあの女優が好きだが、そのことはもっと大事なことの一歩手前に位置するきっかけにすぎず、じつは自分は異母姉の愛子が好きなのだと、彼は自分で自分に認めさせた。偶然にスクリーンの上に見たあの女優を好きになることにより、いったんすこしだけまわり道をしたあと、愛子への強い感情の存在に、はじめて彼は気づいた。そしてそのことに気づくと、スクリーンの上で見たあの女優は、彼の心のなかで急速に小さくなり、淡く薄れ、点のように小さくなってフェイド・アウトしてしまった。あとには松原愛子が残った。あらゆるものがどうでもいいほどに遠くなったあとに、愛子だけが至近距離にあった。
 愛子に会いたい、と彼は思った。いきなり会いにいくよりも、まず手紙を書くべきだと考えなおした彼は、文房具店、そしてスーパー・マーケットの文房具売場へいってみた。レター・ペーパーと封筒を買おうとした。ろくなものがなかった。だから彼はそのままJRの駅へいき、タイミング良く数分後に来た東京行きの特急に乗った。
 二時間で都心の終着駅に到着した。彼は地下鉄に乗り換え、銀座で降りた。輸入品の雑貨を売る店で、彼は愛子に手紙を書くにふさわしいレター・ペーパーと、それと対になっている封筒のセットを、見つけて買った。ついでに文具店に寄り、ボールペンを慎重に選んで買った。これから自分は愛子に何度も手紙を書くはずだ、という予感を彼は持っていた。その予感に忠実に、彼は愛子への手紙専用にするためのボールペンを買った。
 地下鉄で始発駅までいき、急行に乗った。愛子に宛てて、今夜書くはずの手紙の文面を考えながら、彼は降りる駅までの時間を過ごした。
 愛子に対する恋愛感情は、高まって彼の心の内部に定着していた。二度くりかえして見た映画のなかの女優は、遠く懐かしい、すでに充分に小さな出来事でしかなかった。その女優をスクリーンに見て好きになったのが、昨日そして一昨日であるとは、とうてい思えなかった。
 急行を降りた西野哲也は、あの映画館までいってみることを、ふと思いついた。思いつきに忠実に、彼は映画館まで歩いた。上映されている作品は、三本ともほかのものに変わっていた。似たような印象の、しかしまったく別な三本の映画のポスターが、入口のわきの掲示板に縦にならべて貼ってあった。映画館だけはおなじだった。あの女優は、哲也のなかから消えた。
 バスに乗って母親の実家のある町へ彼は帰った。母屋のもっとも古い部分の二階に、彼と三枝子が自分たちのものとして使っている部屋が、それぞれあった。二階へ上がって彼女の部屋のまえをとおると、なかから三枝子が呼んだ。
「哲也くん」
「ただいま」
「いままで泳いでいたの?」
 廊下に面した障子は閉じてあった。その障子のむこうから、母親の三枝子がきいた。
「泳いだのは午前中だけ」
「いままでどこにいたの?」
「隣りの町でアイスキャンディーを食べて、それから東京へいってきた」
「なにしに?」
「買い物」
 なにを買ったのか、と重ねてきいてもおかしくはないのだが、それ以上はきかないのが三枝子の特徴のひとつだった。
「もうじき夕食よ」
「お腹が空いた」
 哲也は自分の部屋に入った。机にレター・ペーパーと封筒、そしてボールペンを置き、椅子にすわった。目のまえにある窓ごしに、真夏の日の夕方をぼんやりと眺めた。しばらくして、
「哲也くん」
 と母親が外の廊下から呼んだ。哲也は廊下に出てみた。
 水着姿で母親が廊下に立っていた。
「どう?」
 母親の質問に、哲也は、
「いい。とてもいい」
 と、思ったままを答えた。
「今日、買ったのよ。スーパー・マーケットの二階で。この町で水着を買うなら、これが限界だわ」
「いいよ。よく似合う。体型はほんとに変わってないんだね」
 ブラック・コーヒー色の、すっきりとした水着だった。競泳用と言っていいほどに余計なデザインのされていないその水着は、白くきれいな肌をした大柄な美人である三枝子に、哲也の言うとおりよく似合っていた。
「髪はそのまま」
 哲也が言った。
「そう?」
「短く切らないで。絶対に」
「私もそう思うわ」
「明日も晴れるかな」
「晴れるわ」
「泳ぎにいこう」
「愛ちゃんも誘ってみましょうか」
 と三枝子は言った。
 突然に出てきた愛子に、哲也はどう反応していいかわからなかった。
「愛子さんも誘いましょうか」
 三枝子は言いかえした。
「僕が誘う」
 と哲也は言った。
「手紙を書くつもりだった。暑中見舞い。その手紙に書いてみる」
 夕食はいつものとおり、にぎやかなものだった。洗いものとかたづけをすべて終えて、哲也は二階へ上がって自分の部屋に入った。机にむかって椅子にすわり、頭のなかに文面の出来ている手紙を、彼は書きはじめた。
 愛子お姉さん、と彼は呼びかけの言葉を書いた。愛子様、とかつて書いた彼は、愛子からの返信で、お姉さんと呼んでちょうだい、と訂正された経験があった。文面は次のようになった。

 お元気ですか。僕の好きな暑い日が続いています。僕はいま三枝子さんの実家に来ています。しらない町でなにもすることがなく、暇でいい気分です。僕は食事のあとの洗いものとかたづけをします。プールで泳いだり映画を見たりしています。三枝子さんも水着を買いました。いっしょに泳ぎにいこう、と言っています。市営プールに開場と同時に入ると、お昼頃までは空いていて、たいへんに快適です。泳ぎにいきましょう。
 僕は大学受験をしませんから、夏休みは本当に夏休みです。呑気に過ごしていますが、来年の春には卒業ですから、卒業したあとのことについて、少しずつ考えています。
 僕が卒業したなら、三枝子さんはここへ引っ越して来る予定でいるようです。この実家か、あるいは、どこか近くにです。そして、実家の商売のどれかを、手伝うことになるのではないかと、僕は思っています。東京は引き払うでしょう。
 僕も仕事をしなければなりません。しかし、いまの僕には、なにをしたらいいのか、見当もつかないのです。毎日の仕事をとおして、すこしずつでも勉強してなにかが身についていくような仕事がいいのですが、三枝子さんの実家のいろんな仕事のなかのどれかを手伝うことになると、なんだか母親を頼っているようになるので、僕としては自分ひとりでなにか見つけたいのです。
 相談に乗ってください。お姉さんに会いたいのです。僕と三枝子さんはお盆が過ぎるまで、ここにいます。お盆のあと、どこかへ旅行しましょうかと、三枝子さんは言っています。電話でも手紙でもいいですから、ここへ連絡してくださると、僕はたいへんうれしいです。

 いま自分の心を満たしている、愛子に対する恋愛の感情が文面にでていないことを、読みかえして彼は確認した。つけ加えることはほかになにもなかった。だから文面は以上とし、台所の隣りの部屋の壁に貼ってある地図を思い出した彼は、最後の文章から二行あけて、おなじ緯度の下にて、と書いた。
 にて、という書きかたは変だと思った彼は、「に」のひと文字を何本もの斜めの線で消し、残った「て」に濁音をつけた。そしてさらに二行あけて、西野哲也、と自分の名を添えた。
 手紙はそれで出来上がりだった。いつも持ち歩く手帳の住所録を見て、封筒の宛名を書いた。手帳には透明なヴィニールのポケットがあり、そのなかに切手が入れてあった。彼は封筒に切手を貼った。フラップをのりづけして、愛子に宛てる手紙は完成した。彼はそれを投函しにいった。家からおもての道路まで出ていき、ほんの二、三分歩くと郵便局があった。入口のわきにある郵便ポストに、哲也は手紙を投函した。
 それから三日後、間もなく昼食がはじまる時間に、母屋の外側にある建築事務所から中年の女性社員が母屋に入ってきた。台所をのぞきこみ、
「哲也さんという人。います?」
 と、もっとも近くにいた三枝子にきいた。三枝子は台所の奥にいる哲也を指さした。そして、
「哲也くん」
 と呼んだ。
 ふりかえった哲也を、三枝子は女性社員に指さして示した。
「お電話」
 女性社員は哲也に言った。
「おもての事務所なの」
 哲也は裏口から母屋を出た。建築事務所へまわっていき、さきほどの女性が示してくれた電話機の受話器を取った。緑色が点滅している外線のボタンを押し、
「もしもし」
 と彼は言った。
「哲也さん?」
 と愛子が言っていた。
「僕です」
「手紙は届いたのよ」
「はい」
「私も会いたいわ。会いましょう。私はいつでもいいのよ」
 愛子の声が哲也の耳から体の内部へ入っていった。それを受けとめた最初の一瞬、姉以外のすべてのものが自分から遠ざかり、消えかかるのを、彼は感じた。
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永遠に失われた




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 昨日の土曜日は福島邦子の誕生日だった。彼女は十七歳になった。学校の友人たちがパーティを開いてくれた。誕生日のパーティを、彼女たちはもちまわりでおこなっていた。邦子のパーティは、明美という友人の家でおこなわれた。
 六、七人も来れば盛況だろう、と邦子は思っていた。もっとも多く集まった時間には、参加者は十八人にもなった。邦子は、すくなからず驚いた。「邦子ちゃんは、やっぱり、人に好かれるのよ」と、明美の母親は感心したように言っていた。自分では、邦子は、目立つところのまるでない、おとなしくて地味な、しかも十七歳という現実の年齢よりもはるかに大人に見えてしまう、ごく普通の女性だと、自分のことをとらえていた。
 パーティは夜の十時まで続いた。邦子は最後までいた。パーティがたけなわの頃、明美の父親がワインを持って、席へ割りこんできた。すでに晩酌を終えたその父親はご機嫌であり、邦子たちにワインを勧めた。邦子は、ワイン・グラスに二杯、飲んだ。
 酔うかな、と思ったのだが、すこし心臓の鼓動が早くなっただけであり、それ以外にはなんともなかった。「いける口だね」と、明美の父親はよろこんでいた。「ほんのりと赤くなったところなんか、色っぽいだろうなあ。みんなのまえで言ってしまうけど、邦子さん、美人だねえ」と明美の父親が言うのを、邦子は真剣な顔で手を振って否定した。自分のことを、邦子は、美人だとは絶対に思っていなかった。
 そして、今日は日曜日だ。いつもより一時間遅く、邦子は目を覚ました。母親といっしょに朝食を食べた。「急に寒くなったわねえ」と、母親の寿美子は言っていた。彼女の言うとおりだった。まだ寒さを感じるほどの季節ではないのだが、秋は急速に深まりつつあった。いつもより一時間だけの朝寝坊で邦子が目を覚ましたのは、Tシャツで眠っていて寒さを覚えたからでもあった。
 部屋のかたづけをしようと思い、邦子は午前中ずっと、二階の自分の部屋にいた。本棚をととのえ終り、いらない本を一階の納戸のなかにとりあえず移し、次にデスクの引き出しのなかの整理にとりかかった。
 いろんなものがたくさん、無秩序に入っていた。ひとつずつ見ては、捨てるか取っておくか判断していくと、時間がかかった。それに、捨てるか取っておくか判断するための基準を、小さなものでもひとつずつそのたびに考えなければならなかった。やがて邦子は、妙に疲れた。
 デスクにむかって椅子にすわり、邦子はぼうっとしてしばらく過ごした。思ったとおりやはり今日は不調だ、と彼女は判断した。十七歳の誕生日をむかえてしまうと、しばらくのあいだ気持ちは沈んだままになるのではないか、と邦子は思っていた。そのとおりになりそうな気配が、確実にあった。
 昨日が十七歳の誕生日だった。自分が十七歳でいる期間が、すでに一日、経過してしまった。その一日はどこかへ消えて、もはや取りもどすことは絶対に不可能だった。今日は十七歳になって二日めだ。その二日めも、半分が過ぎ去った。
 十七歳になるということは、自分が十七歳でいる期間が一日ずつ確実に減っていくことであった。福島邦子は、十七歳になりたくなかった。いつまでも十七歳でいられるなら、十七歳になるのはいっこうにかまわないのだが、いったんなってしまうと、一日ずつ確実に十七歳の期間は減っていく。そして、来年の昨日、自分は十八歳となる。
 十七歳までなら、自分はこれまでどおりの自分だ。しかし、十七歳を終ってしまうと、自分はなにかまったく別の存在になってしまうのではないかと、邦子は理由なく不安な気持ちでいた。これまでの自分がどこかへいってしまい、そのかわりに、十八歳、十九歳といった、得体の知れない自分が出現してくるのだ。
 窓の外は曇っていた。もう何日も、晴れた日を邦子は見ていなかった。雨が降るか、あるいは、朝から夜までずっと、いまのように灰色に曇っているかのどちらかである日が、八月の下旬から続いていた。
 邦子の気持ちは確実に沈み、憂鬱ゆううつになった。自分が十七歳になったことから、そのような気持ちは発生していた。だから、十七歳になったことを取り消さないかぎり、そのような気持ちは、たとえ心の内部で後方へ後退したとしても、これからずっと続いていくのではないかと、邦子は思った。そのことに対処するための覚悟を、彼女はきめようとした。
 昼食を、ごく簡単に、邦子は食べた。食卓のかたづけをして、ふたたび自分の部屋にあがった。整理すべき引き出しは、大きいのがふたつ、そして小さいのが三つもあった。整理しなければならないのだが、このままにしておくのも一種の快感だった。捨てるか取っておくか、ひとつずつ判断したりせず、すべて一挙に捨ててしまえる時まで待ち、その時にみんな捨ててしまえばもっとも気持ちがいいのではないか、と邦子は思った。
 邦子は散歩に出ることにした。歩いてこよう、と彼女は思った。海岸までいき、海を眺め、潮の香りのする風を胸に入れてこよう。
 歩くと自分の体や気持ちが整うのを、邦子はこれまでの体験で知っていた。どこを歩いてもそれなりの効果はあるのだが、もっともいいのは海を見ながら海岸あるいは海沿いの道を歩くことだった。
 下着のほかすべてを、邦子は着替えた。白いTシャツの上に長袖のシャツを着て、ブルージーンズをはいた。新品のときすでに、ごく淡いブルーにまで色が落としてあり、生地ははき心地良く柔らかになった状態だった。腰から足首まで、自分の体のかたちに沿ってほどよく包みこんでくれるスリムなこのジーンズを、邦子は気にいっていた。
 黒いナイロンのウインド・ブレーカーを、邦子はシャツの上にはおった。このウインド・ブレーカーも、邦子は気にいっていた。黒を着ると、自分の顔の雰囲気、さらには体ぜんたいがひきしまって見えるのを、邦子は知っていた。
 十七歳になったばかりの邦子は、ほとんどいつも、二十をいくつか過ぎた年齢に見えていた。黒を着ると、いっそう確実にそう見えた。しかし彼女は、黒によって自分のぜんたいがひきしまって見えることのほうを、大事に思っていた。
 コイン・パースとバンダナだけをジーンズのポケットに入れて、彼女は部屋を出た。一階へ降りていき、近所の客と話をしている母親に、午後いっぱい外出することを伝えた。
「早い時間に帰ってきてね。お客さんだから。夕食を作る手伝いが、今日はどうしても必要なのよ」
 玄関まで出てきて、母親の寿美子は邦子にそう言った。鼻や目、そして顔の輪郭が、邦子は母親にそっくりだった。
 玄関を出て前庭の飛び石を歩いていき、邦子は生垣の門を外に出た。しばらくのあいだ、彼女は、住宅地のなかを歩いた。そして、やがて県道に出た。
 風情があるとは思えない、そして歩道すらない県道を、邦子はひとりで歩いていった。白いテニス・シューズのはき心地が、とてもよかった。ひもが淡いピンクだった。ウインド・ブレーカーの落ち着いた黒、ブルージーンズの淡いブルー、そしてテニス・シューズの白と紐の淡いピンクが、ぜんたいとしてよく調和していた。
 邦子は、早くも軽い気持ちとなった。外に出て歩くのは、やはり自分に適しているのだと、邦子はひとりで納得した。ウインド・ブレーカーのポケットに両手を入れ、ややうつむきかげんに、邦子は歩いた。自宅から海岸まで、最短距離をいくなら、十分とかからなかった。しかし、今日の邦子は、いきなり海岸に出ることを控えたい気持ちだった。
 いつでも海へ出ていくことができるのをよく承知した上で、海へ出て行くまでの時間を引きのばしつつ、風情のない県道を歩いていくのは、奇妙に面白かった。どのあたりで海へ出るといいか、もうすこし歩いてから真剣に検討しよう、と邦子は思った。
 すこしでもあらたまった雰囲気のある服を着ていると、邦子は、どんな場合でも十七歳には見てもらえなかった。見た感じは、誰にとっても、二十歳を過ぎた落ち着いた大人の女性だった。顔がいけないのだ、と邦子は思っていた。だから邦子は、自分の顔が好きではなかった。美人だ、と多くの人が言うけれど、邦子は信じていなかった。
 顔は、どちらかと言えば、面長だろう。落ち着いた雰囲気のある、静かに優しい、女性としてこの上ないと言っていい、よく出来た輪郭だ。そのなかで、目鼻立ちがきれいに整っていた。高く通った鼻は、途中でごく軽く、段になっていた。この淡い段差が、邦子の顔を大人びてみせている、最高の特徴だった。
 肌は白く滑らかであり、眉のかたちが良く、目は涼しい切れ長だ。ほどよく豊かな唇は左右への長さが充分にあり、やや受け口だった。あごの造形と雰囲気が決定的に優しく、笑うと歯ならびがきれいだった。
 誰が見ても美人なのだ。ただし、華やかさは、薄かった。ぱっと人の目を引きとめる、明るく陽気な人の印象は、邦子にはなかった。あくまでも静かであり、優しく控えめで、身のこなしとしゃべりかたも、そのような雰囲気にふさわしいものだった。
 邦子には、人の気持ちを安定させ、信頼感を抱かせるものが、確実にあった。静かに冷静に、そして誠実に優しくものごとを受けとめ、配慮し処理してくれそうな人としての印象を、邦子に対して誰もが強く抱いた。そして、おおむねそのとおりの性格を、邦子は持っていた。
 自分はおちびさんだと、邦子は思っていた。長身だとは誰も思わないにしても、ごく普通の小柄な女性であり、体のバランスはとれていた。平凡で特徴はないかもしれないが、よく見るときれいに整った体つきだ。
 私は肥っていて脚が太い、とも邦子は思っていた。肥っているというのは邦子の思いすごしであり、脚はすこしも太くはなかった。よく観察するなら、脚の線の流れかたのなかには、得がたい良さがあった。ただし、気をつけないと、母親とおなじように、中年で肥るかもしれないという危惧はあった。
 県道を歩き続けた邦子は、ふとうしろをふりかえった。バスが走ってくるのが見えた。この県道は大部分が路線バスのルートであり、日曜日のこの時間は、一時間に二本、バスが走っていた。終点まで乗るとかなり遠くまでいくことができた。
 バスに乗ってみよう、と邦子は思った。前方に停留所の標識が見えていた。このまま歩いていたらバスに追いこされるが、走ればバスとほぼ同時に停留所に着くだろう、と邦子は判断した。
 ウインド・ブレーカーのポケットから両手を出した邦子は、走りはじめた。重心を落とした、思いのほか長いストライドで、邦子はきれいに走った。停留所にはバスより先に到達した。自分ひとりだけのために左へ寄ってきて停止するバスを、邦子は見守った。ドアが開き、彼女はステップを上がった。
 邦子は通路をうしろへ歩いた。中央に通路があり、その両側にふたりがけの座席が前をむいてならんでいた。客は少なかった。左側の、つまり海側にあたる座席の窓ぎわに、邦子はひとりですわった。
 ウインド・ブレーカーのポケットにふたたび両手を入れ、窓枠にもたれて邦子は外に視線をのばした。前の席の窓がすこしだけ開いていた。吹きこんでくる風が邦子の顔に当たり、髪を軽くあおり続けた。邦子の髪の作りは、顔立ちや雰囲気によく合っていた。おとなしい、平凡な、しかし女性らしさを好ましくたたえた、あきらかに大人びた髪型だった。
 どこで降りるといいか、そのことだけを考えながら、邦子は停留所を三つ、やり過ごした。観光用の有料道路が前方に見えてきた。長い海岸線と平行にのびるその有料道路のさらに内側を、バスの走る県道がおなじく平行にのびていた。
 平坦な県道に対して、六車線の有料道路は、おだやかな起伏をくりかえしていた。高く高架のように持ち上がっている部分では、草の生えたスロープだけを、バスの窓から邦子は見ることが出来た。低く下がってきて県道とおなじ高さになると、バスの座席から有料道路が斜めに見下ろせた。そのむこうの広い海岸と海とを、彼女は同時に視界にとらえた。今日の海は空よりも重い灰色だった。海岸には人の姿はまったくなかった。
 五つめの停留所で邦子はバスを降りた。四つめで降りようとして席を立ちかけたのだが、なんの理由もなしに思いとどまり、次の五つめで彼女は降りた。
 県道と直角に交差する道を海へむかうと、その道は有料道路の下で短いコンクリートのトンネルをくぐった。くぐり抜けると広い駐車場だった。むこうまで長く続いているそのスペースの海側には、今年の営業をとっくに終えた海の家が、窓を板でふさぎ、軒を接して何軒もならんでいた。真夏にはどの海の家も満員となり、駐車場は自動車で身動きがとれなくなる。
 人のいないそのスペースを斜めに歩き、海の家のあいだをとおり、邦子は海岸に出た。普通の土が砂に変わるあたりから、ゆるやかな上り坂となった。横につらなってのびる砂の土手の頂上に出ると、海岸と海とが目のまえに横たわっていた。
 海の風に邦子は安堵感を覚えた。砂の上に立ち、邦子は深い呼吸を何度もくりかえした。夏が終ったその日から秋をへて冬のあいだずっと、そして春さきまで、この海岸ではいまのように人がひとりもいない状態が続く。自宅から海岸へきて、砂の上をひとりで歩きながら、海にむかって深呼吸をするのが邦子は好きだった。
 砂の土手の頂上に立ち、ウインド・ブレーカーのポケットに両手を深く入れて、邦子は海岸と海とを見渡した。いつ見ても飽きることのない景色が自宅のすぐそばにあることを、邦子はうれしく思った。
 これで陽が照っていれば、と思って邦子は空を見上げた。空は灰色に曇ったままだった。海の上に広がっている空の灰色に濃淡がなく、どこまでも均一に灰色だった。
 風が吹いた。邦子は歩きはじめた。土手の頂上から砂のスロープを降りていった。波打ちぎわまで降りていき、寄せてくる波が薄く広がって到達する頂点まで、邦子は接近した。そこに沿ってしばらく歩き、やがて再び砂浜を浅く斜めに横切り、砂の土手に上がった。
 そのような歩きかたをくりかえしつつ、邦子は三十分ほど歩いた。連なっている無人の海の家の前を、ひとりで歩いた。窓のガラスに映る自分の姿を、思いがけない瞬間に見ることができた。テイク・アウトの窓の軒下に、コカ・コーラの垂れ幕がちぎれて下がり、すっかり色あせて風になびいていた。印刷してある若い女性の笑顔を、邦子は見た。
 さらにしばらく歩くと、砂の土手は化粧煉瓦を敷きつめた遊歩道に変わっていた。ところどころにベンチがあり、落ち着きのない造形と色の建物がいくつかならんでいた。丸い花壇のなかには日時計があり、いまは止まっていた。芝生で囲まれたスペースのなかに、たいして意味があるとも思えない彫刻が立っていた。彼女の足もとの煉瓦には白く矢印が埋めてあり、その矢印の示す方向にむけて、ホノルル、と英文字で記してあった。
 海岸の全長にわたって、砂の土手はこのような化粧煉瓦で敷きつめられる予定だ。かなりの部分がすでに完成していた。煉瓦敷きの遊歩道を歩きながら、邦子は、海とは反対の、駐車スペースのほうに視線をむけた。海の家の列を前にして、自動車がいまは一台も停まっていない広い駐車場のなかを、海にむけて斜めに歩いていく少年をひとり、邦子は見た。
 ブルージーンズをはいたその少年は、四角いたこをひとつ持っていた。凧には長い尾ひれが二本ついていて、それぞれが風になびいていた。自分とおなじ年齢の少年ではないかと、邦子は思った。そしてその少年のことを、彼女はすぐに忘れた。
 さらに海岸を歩いた邦子は、砂丘の連続する一帯の端に出た。低いもので二、三メートル、大きいものだと三階建ての家ほどの高さのある砂丘が、海岸いっぱいに、長い距離にわたって連続していた。
 砂丘をひとつずつ越えて、邦子は歩いた。頂上から砂のスロープを下にむけて降りていくとき、テニス・シューズのなかに砂が入っていった。その感覚が邦子は好きだった。砂の上に腰を降ろしてテニス・シューズを脱ぎ、なかの砂を出し、靴下から砂をはたき落としてシューズをはいて紐をしめなおす手順を、邦子は好んでいた。
 ひときわ大きな砂丘の下まできて、邦子は立ちどまった。砂丘を見上げ、海をふりかえり、空を仰いだ。風にあおられてうしろから前へまわってくる髪を顔を傾けてやりすごし、邦子は砂丘にむきなおった。そしてその砂丘のスロープを登っていった。
 足が砂のなかに深くめりこみ、テニス・シューズのなかに砂が自由に入りこんだ。一歩ずつ足を踏んばり、上体を斜めに倒しぎみに、邦子は砂丘を登った。スロープの途中で彼女は立ちどまった。海をふりかえり、砂のスロープにむきなおったとき、頂上に人の気配を感じた。邦子は砂丘の頂上を見上げた。
 ブルージーンズをはき、なんの特徴もないジャンパーを着た少年がひとり、砂丘の頂上に立っていた。ふたりの目が合った。少年は笑顔で目礼し、邦子もそれにこたえた。
 さきほど、ひとりで駐車場のスペースを横切って歩いてくるのを邦子が見た、あの少年だった。少年は凧を持っていた。二本の尾ひれが砂の上で風に舞っていた。新聞を細く切って作った尾ひれだった。
「お暇ですか」
 と少年は邦子にきいた。人好きのする、屈託のない声だった。邦子は、うなずいた。
「お願いしていいですか。僕は、凧を揚げようとしているのです。凧を持っていていただけませんか」
 少年の言葉に、ふたたび邦子はうなずいた。
 少年は、肩ごしにふりかえった。そして空を仰ぎ、風の方向を確認した。
「もっとむこうのほうが、いいかな」
 そう言って、彼は頂上から砂のスロープを降りてきた。邦子のかたわらに立ちどまり、「お願いしていいですか」と、重ねてきいた。
「どうぞ」
 邦子は答えた。
「もうすこしむこうへ、いきましょう」
 と少年は言った。
 ふたりは砂のスロープを降りた。大きな砂丘の下へ降り、裾をまわりこむようにして、その隣りの砂丘へ歩いた。少年と邦子とのあいだで、凧の尾ひれが盛んに風に舞った。自分の脚に絡みつくといけないと思った邦子は、少年から距離を取った。邦子は少年を見た。
 自分と同じような年齢であることを、邦子は確認した。夏の陽焼けがまだ残っている丸顔の、明るい表情の少年だった。どこといって特徴のない顔だが、凧上げに気持ちが集中しているいま、その集中のしかたに子供の雰囲気が残っていた。自分より頭半分ほどだけ高い背丈であり、脚が太く腰がすわり、胸や肩のがっしりした体格であることを、邦子は観察した。
「自分で作った凧ですか」
 邦子はきいてみた。顔を上げた少年は、邦子をまっすぐに見た。柔和な笑顔になり、
「いいえ」と彼は答えた。凧を顔の位置にかかげ、尾ひれをうしろへなびかせ、彼は邦子に近づいた。
玩具店おもちゃやさんにあったので、昨日、買ったのです」
 そう言って、彼は凧を高くかかげた。彼らの肩の高さのあたりを、二本の尾ひれがうしろへなびいた。
 凧を持った少年とならんで、彼とおなじ歩調で砂の上を歩いていくうちに、あるときから突然、邦子は、不思議な気分になった。ついさっきまで自分がいた世界から自分は急速に抜け出し、別の世界へ入りこんだような気持ちになった。よく知っている海岸ではなく、どこだかわからない、はじめてくる海岸を、まるで夢のなかにいるように、地面から数センチほど浮き上がった感触で自分が歩いているのを、邦子は自覚した。
 さきほどまでの世界をいつのまにか抜け出し、いまは自分の知らない海岸を歩いている。しかし、いっしょに歩いている少年は、ずっと昔から自分がよく知っていた、そして、自分にとってもっとも大切な男性であり続けた人だという感覚が、強く心のなかに宿りはじめたことに対して、邦子は動揺した。
 いきなり、どうして、自分はそんな気持ちになるのだろうかと、邦子は思った。いまの自分の状況のぜんたいを、あらためて冷静にとらえなおそうと、邦子はこころみた。しかし、そのようなこころみとはまったく反対に、邦子は、低いところからいきなり高いところへ舞い上がったような、そしてそこにほうり出されたまま浮かび続けているような、宙吊りの心理状態になった。
「なにかほかに用事があったのではないでしょうか」
 顔を自分にむけてそう言っている少年を、邦子は見た。そのとたん、彼女は、少年に会う前の自分に戻った。彼女は、平静になった。
「いいえ。散歩をしていただけです」
 と邦子は答えた。
「ひとりで?」
「はい」
「このへんでいいかな」
 少年は立ちどまり、左右にある砂丘を見くらべた。高いところへ舞い上がって宙にほうり出されたような心の状態に、邦子はふたたびなった。

「こっちにしましょう」
 凧を持った手で示して、少年は右側の砂丘を登っていった。
「上まで来ていただけますか」
 ふりかえって笑顔で自分にそう言う少年に、邦子は、
「はい」
 とだけ答えるのがやっとだった。
 ふたりはその砂丘の頂上へ登った。いろんな方向に顔をむけて、少年は風の吹きかたを確認した。そして、
「よし、ここでいい」
 と自分に言い聞かせるように言い、凧を邦子に差し出した。
「これを持ってください」
 邦子は凧を受けとった。凧を表にむけ、下の端を持ち、尾ひれがどこにもからまず風に流れるよう、邦子は自分の腕の位置を変えた。
「僕は下へ降りますから、ここにいてください。凧を高く上げてください」
 少年の言うとおり、邦子は凧を胸の横に構えた。少年は首を振った。
「もっと上です。頭の上に」
 邦子は凧を頭の上にかかげた。二本の尾ひれが彼女の後方へなびいた。風は彼女の正面から吹いていた。糸をのばしながら、少年は砂のスロープを降りていった。彼の両足が一歩ごとに砂に埋まるのを、邦子は見た。彼女のテニス・シューズのなかにも、砂はすでにたくさん入っていた。
 スロープの途中で少年は立ちどまった。頂上にいる邦子をふりかえり、
「いいですか」ときいた。
「どうぞ」邦子が答えた。
「放して、と僕が言ったら、凧を放してください」
 少年は糸を引いた。彼の手と凧とのあいだに、糸のたるみが少なくなった。糸を持った手を高くかかげ、風の吹くタイミングをはかり、
「放して!」
 と、少年は叫んだ。
 砂の上でつま先いっぱいにのび上がるようにして、邦子は凧を空にむけて押し上げ、放した。タイミングを合わせて、少年は糸を引く手に力をこめた。糸を引き寄せてはたるませ、すぐにまた引き寄せつつ、彼は砂のスロープを駆け降りた。その速度に合わせて彼は糸をくり出した。
 凧は風をつかまえた。少年が砂のスロープの下まで降りたときには、頂上にいる邦子が顔を真上にむけて仰がなければならないほどに、凧は高く揚がっていた。糸をさらに急速にのばしつつ、少年は真剣な表情で凧を見守った。尾ひれのはためく音を、邦子は空の高いところに聞いた。
 後方へ流れつつ、凧は見るまに小さくなった。左右に揺れることなく、空中にぴたりと位置をきめて、凧は長い糸で少年とつながっていた。
 スロープの下で少年は邦子におじぎをした。
「どうもありがとうございます」
 彼は大きな声で言った。邦子は微笑した。少年の注意力が自分を離れ、凧にむけてすべて注ぎこまれていくのを、邦子は感じた。そしてスロープを降りていった。少年にむけてではなく、彼から横へそれていくように、邦子は砂丘を降りた。
 そしてそのまま、邦子は砂丘のあいだを歩いた。夢のなかにいるような、高く舞い上がった気持ちが、ふたたび戻ってきた。頭はぼうっとなり、体はまるで自分の体ではなかった。彼のために凧を高くかかげ持っていたときの、息がつまるような胸のときめきや高まりが、急激によみがえった。
 これはいったい何なのだろう、と邦子は思った。頭がぼうっとしてなにも考えられない状態は、風邪の引きはじめとすこしだけ似ていた。しかし、風邪の引きはじめのような不愉快な気分はどこにもなく、邦子はこの上なく楽しかった。ふと不安にすらなるほどに、心は高まっていた。これはいったい、何だろう。それだけを考えながら、邦子は砂の上を歩いた。
 自分の心のときめきがあの少年を中心に起こっていることを、やがて邦子は自覚した。
 彼の顔立ちや体つき、そしてぜんたいの雰囲気は、やがて自分がどこかで知り合うはずの好ましい異性として邦子が心のなかに描いてきた少年と、ぴったり重なっていることに彼女は気づいた。
 自分の気持ちのなかですこしずつ形をとりつつあった、理想的な相手というものが、一瞬のうちに具体的なひとりの少年となり、目のまえにあらわれた。そうにちがいない、と邦子は思った。彼の体つきや雰囲気が、自分の思い描いていたのとそっくりだった。やせてひょろっと背の高い少年が、邦子は好きではなかった。小柄な自分と無理なく調和した、どちらかといえば小柄の、しかししっかりした骨格の少年が、邦子は好きだった。
 あの少年がどこの誰なのか、自分は名前すら知らないし、その他いっさいなにも知らない。しかし、不思議なことに、あの少年は自分が理想として思い描く相手と、完全に重なっていた。その証拠に、いまの自分はこんなに胸を強くときめかせ、空中へ高く舞い上がったような夢見心地でいるではないか。
 一時間近く、邦子は歩いた。一度もふりかえらず、海岸のまんなかをまっすぐに歩いた。これはひと目惚れの初恋なのだ、と邦子は結論した。理想の人の、ロマンティックでドラマティックな登場だ。自分はあの少年と、これから恋人どうしになるのだ。あの少年は、理想の人なのだ。ついにあらわれた。出現した、出会ったのだ。そんなふうに結論しないことには、あの少年をめぐって自分の心がこれほどまでに強くつき動かされることの説明が、つかなかった。
 自分が理想として思い描いていた人が、今日、ついさっき、いきなり、目の前に出現した。そして偶然に、自分はその人に会った。出逢いはすでに体験した。これは理想的な初恋だ。ひと目惚れだ。こういうことが、世のなかにはあるのだ。
 そう思いながら、十七歳になったばかりの福島邦子は、海岸に立ちどまった。そして、ふりかえった。少年が凧を揚げていた場所から一時間も歩いてしまったことを、ひょっとしたらとりかえしのつかない重大な失敗として、邦子は認識した。ウインド・ブレーカーのポケットから彼女は両手を出した。両手の指さきは温かい汗で濡れていた。
 邦子は走りはじめた。歩いてきた方向にむけて、走ってひきかえした。一時間かけて歩いた距離を、走ると何分でひきかえせるだろうかと、走りながら彼女は考えた。
 走っていく邦子の視界のなかに、少年は、いつまでたってもあらわれなかった。彼が凧を揚げた砂丘を邦子がはっきりと選びだせる距離まで戻っても、少年の姿はどこにもなかった。灰色の空に凧は揚がっていなかった。いくつかの砂丘に邦子は登ってみた。人のいない海岸を、あらゆる方向にわたって、遠くまで見渡した。少年はどこにもいなかった。
 彼が凧を揚げた場所に一時間、そしてその周辺にさらに一時間、邦子はとどまった。少年の姿は、ついに見えなかった。夕方が早くに来た。海も海岸も、薄暗くなりはじめた。
 はじめに彼の姿を見かけた、化粧煉瓦敷きの遊歩道へも、邦子はいってみた。何度も遊歩道を往復し、駐車場のスペースを高みから見渡し、そこへ降りて歩きまわってもみた。
 あの少年は、どこにもいなかった。少年から故意に遠ざかるように、一時間もかけて自分がひとりで歩いていたあいだに、少年は凧を降ろしてどこかへいってしまった。暗くなった海岸をあとにして、邦子は県道へ出た。そしてバスに乗り、自宅のすぐ近くまで帰った。
 次の週、日曜日のほぼおなじ時間に、海岸のおなじ場所へ、邦子はいってみた。暗くなるまで、あの砂丘を中心にさまざまに歩きまわり、ひとりで過ごした。少年の姿はなかった。
 次の日曜日にも、そしてさらにその次の日曜日にも、邦子はおなじことをくりかえした。くりかえすたびに、あの少年への思いがつのった。凧揚げをほんのすこし手伝っただけで彼と別れた自分は、なんという馬鹿なことをしたのだろうかと、邦子は自分のうかつさを口惜しく思った。
 三週間が経過すると、海岸でははっきりと寒さを感じた。縁起をかついだ邦子は、日曜日ごとにおなじ服装で、海岸へ出ていった。しかし四週間めには、テニス・シューズの紐の色に合わせて、コットンのシャツの上に、ごく淡いピンクのシェトランド・セーターを邦子は着た。
 あの少年は出現しなかった。この海岸の近辺に住んでいるとしても、学校は自分とおなじ学校ではないことは確実だと、邦子は思っていた。おなじ学校にかよっている少年のなかに、あの少年は絶対にいなかった。
 長い海岸に沿って、高等学校はいくつもあった。すこし内陸へ入ると、さらに何校も高等学校があった。どこの学校だろうか、と邦子は思った。思うたびに、絶望的な気持ちとなった。この近所に住んでいるのではなく、どこか遠い場所から遊びにきていたのかもしれないのだから。
 五週間めの日曜日に、邦子は、学校の女友だち数人といっしょに、すこし離れたところにある別の高等学校の体育祭にでかけた。学年別に男子生徒が全員参加する運動種目を、観客席の有利な位置から、邦子は双眼鏡で見た。
 そして、さらに絶望した。双眼鏡で見ていくと、あの少年にすこしだけ似た少年は、たくさんいた。そしてどの少年を視界のなかにとらえても、確信は持てなかった。あの少年の顔つきも体格も、具体的にはぼんやりとしか覚えていず、いまも強く自分の心にとどまっているのは、あの少年が自分にあたえた印象の総体だけであることを、邦子は悟った。それは具体的な形にして自分の外へ取り出せるものではなく、ましてや、数多くの似た少年のひとりひとりとつきあわせ、正確に確認できるような性質のものではなかった。
 六週めには、雨が降った。冬のはじまりの、冷たい雨だった。その雨を部屋の窓から見ながら、邦子は、すべてをほぼあきらめた。そして、あきらめると同時に、ひとつ思い出した。
「玩具屋さんにあったのを、買ってきたのです」
 と、あの少年は凧について言っていた。思い出してそれがどうなるわけでもないのだが、なぜいままで思い出さずにいたのだろうかと、邦子は不思議に思った。
 近くに玩具屋さんがあるかどうか、邦子は母親にきいてみた。
「駅前にあるでしょう」
 母親は言った。
「駅前?」
「あなたがまだ小さい頃、夏のプールで使う浮輪を、駅前の玩具屋さんで買ったわよ。あの店はまだあるでしょう、きっと」
「駅前の、どこなの? 浮輪は覚えてるわ。赤いビニールの」
「そう。駅を出て、広場を抜けて、まっすぐ道路があるでしょう。その道路に、商店街のある道が交差する、その交差点の角」
「どちら側?」
「駅からいって、右側」
「あの角は信用金庫よ」
「ちょっと待って。そうだ、交差点を渡った、そこの角」
「あそこに玩具屋さんがあったかしら」
「あるわよ」
 その店へ、邦子はいってみた。
 凧はありますかと、店番をしていたおばさんにきいてみた。天井の近くの棚のなかに、いくつかほこりをかぶっていた。あの少年が持っていたのとよく似た四角の凧をひとつ、邦子は買った。
 新聞を細く切って尾ひれを二本作り、凧についていた短い尾ひれに貼りつけた。そして、秋深い日曜日の午後、おなじ高等学校にかよっている少年をひとり誘い、邦子は凧を持って海岸へいった。
 あの少年が自分に手伝わせて凧を揚げた砂丘へいき、あのときとおなじように自分が砂丘の頂上で凧を持ち、邦子は自分が誘った少年にその凧を揚げさせた。十月の薄曇りの空へ、凧は高く舞い上がっていった。おとなしいだけが取り柄の、したがってほんのいっときの、ただ単なる代役でしかないその少年から糸を受け取り、邦子は糸をどんどんのばしてみた。凧はさらに高く揚がり、空に吸いこまれそうに小さくなった。
 あの少年があのときここでこうして凧を揚げていたあいだに、馬鹿な自分はずっとむこうへむけて、一時間も歩いた。その一時間のあいだに、あの理想の少年はどこかへ消えた。どこへ消えたのだろうかと、凧をとおして手に風の重みを感じつつ、邦子は思った。
 代役を相手に、あのときの凧揚げをいまこうして再現している自分にとって、すさまじいまでの胸のときめきをともなった、ひと目惚れによるほんの数分間の初恋は、もはや永遠に失われたのだと、邦子は結論していた。
 十月の第三週、日曜日の午後、邦子は自宅を出て海岸へいった。曇った日だった。灰色の空が頭上に重く、気温は低かった。
 テニス・シューズにチノをはいた邦子は、長袖のポロ・シャツの上に黒いナイロンのウインド・ブレーカーを着ていた。ウインド・ブレーカーのポケットには、小さなカメラを入れていた。
 七週間まえ、自分がひと目惚れしたあの少年が凧を揚げた砂丘まで、邦子はいってみた。人はいなかった。夏をまたひとつ終った海岸が、早くも冬の気配のある巨大な海をまえにして、なかばあきらめたかのように、ただ重そうに横たわっていた。海は荒れていた。風が強く吹いた。
 ポケットからカメラを出した邦子は、その砂丘を中心に、あたりをファインダーごしに見た。ファインダーをとおして見る光景は、すべてのものが存分に小さく凝縮されていた。長方形に切りとられたその光景は、小さく見えるがゆえに、あらゆる部分が端正にまとまっていた。どこにも修正を加える必要のない、完結した光景だった。砂の上をうしろむきに二、三歩下がり、邦子は構図をきめた。邦子はシャッター・ボタンを押した。合焦を含め、すべての機能が自動になっていた。フィルムの巻き上げられていく音が、小さなカメラのなかから聞こえてきた。
 これで完全に終ったのだ、と邦子は思った。あの少年とのきわめて短い初恋をきっかけにして、自分が体験したありとあらゆる感情を、やがて自分はひとつずつ忘れていくかもしれない、と彼女は昨日の夜、思った。時間は充分にかかるにせよ、いつかは忘れるだろう。完全には忘れないまでも、さっくりと鋭く心を切り裂くような鮮明さとともにすべてを思い出すことは、やがて不可能になるかもしれない、と邦子は覚悟した。
 忘れるのは、嫌だった。すべてのことを、いまの自分の心の内部のとおりに、鋭く悲しいせつなさのままに、記憶しておきたいと邦子は願った。だから彼女は、この砂丘の写真を撮っておくことを思いついた。
 写真に撮っておけば、何年あとになっても、その写真を見るたびに、あの初恋のスタートの瞬間から終点までを、現在のままに、すこしも薄めず淡くもせずに、いつでも思い起こすことが可能なのではないかと、邦子は考えた。
 そしてその写真を撮った瞬間、つまりたったいまは、あの初恋が完全に終った瞬間でもあった。すべての記録であると同時に、すべてが終った瞬間でもあるような、一枚の写真。それを撮っておこうと邦子は思い、一枚だけいま撮った。
 邦子は砂丘を上がっていった。テニス・シューズが砂にめりこんだ。砂丘の頂上までいき、ふりかえって彼女は海を見た。砂のスロープに残ったほうの足に、重心が移った。その足は砂にもぐりこみ、荒れている海を肩ごしに見渡した邦子は、海にむけて大きく傾いた。
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エスプレッソを二杯に固ゆで卵をいくつ?




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 大人びた雰囲気の、と誰もが言う美少女、十四歳の神崎里里葉りりはは、四階でエレヴェーターを降りた。ホテルのような、と言えば言えなくもない廊下を歩き、自分たちの部屋のドアのまえに立った。チャイムのボタンを一度だけ押した。母親が部屋のなかにいることを、里里葉は期待していなかった。
 ヒールの低い皮のサンダルをはいた里里葉は、魚の模様の軽い夏のスラックスに、おなじ模様で対になった袖なしのシャツを着ていた。二、三泊用の旅行鞄を彼女は足もとに置いた。そしてそのかたわらにしゃがみ、鞄のアウトサイド・ポケットからパウチを取り出した。あらゆるものが入っているそのパウチから、彼女は部屋の鍵を探し出した。
 立ち上がってドア・ロックにキーを差し込み、ロックを解放した。パウチをわきの下にはさみ、鞄を持ち上げ、彼女はドアを押し開いた。そしてなかに入った。鞄を玄関に置き、サンダルを脱ぎ、彼女は廊下に上がった。部屋のなかの空気は冷房されていた。人の気配はなかった。玄関のフォイアから、左右に廊下がのびていた。その廊下に対して垂直に、奥にむけてもう一本、廊下がまっすぐにあった。その廊下を彼女はパウチだけを持って歩いた。
 突き当たりにあるドアの手前、左側のドアを彼女は開いた。彼女が自分のスペースとして使っている、二十畳の広さの部屋だった。隣接して東側に和室があり、この和室が里里葉の寝室だった。奥の壁に寄せて、大小さまざまなクッションがいくつも、すべてを同時に投げ出したように、置いてあった。まっすぐにそこへ歩いた彼女は、フロアにあぐらをかいてすわった。膝のすぐまえに電話機があった。受話器を取った里里葉は、おなじクラスの親友、加藤帆奈美の番号を記憶させてあるボタンを押した。帆奈美はいつもはホミと呼ばれ、里里葉はリリと呼ばれていた。
 電話はすぐにつながった。
「ホミ」
 と里里葉は言った。そして喋りはじめた。
「帰って来たんだよ。神戸から新幹線で。そして東京の部屋には寄らずに、そのまま電車を乗り換えて、ここへ。いま帰って来たばっかり。恵子さんはいないよ。プール・サイドじゃないかな。今日も晴れてて、暑いから。お昼は新幹線のなかで食べた。メニューを持って来てくれるんだけど、カラーの写真が出てて、どれもみんな茶色なんだよね。だから茶色の昼ごはん。あはははは。恵子さんはプール・サイドで新聞を読んでるよ。いまはもうじき四時でしょう。ふつうなら新聞を読んでる時間だね。新聞を読むのが大好きで、三種類も取ってて、ここにも宅配してもらってるんだよ。それに英字新聞も。なぜだか英語ができるんだよ、恵子さんは。日本の新聞社の英字新聞ではなくて、外国のなんとかという新聞の、インタナショナル・エディションとか言うやつ。隅から隅まで、じっくり読むんだよね。最後に見るのが将棋のとこ。将棋が強いんだよ。三十分くらいじーっと見てて、そうか、といきなり言って、六、八の銀か、なんて言うの。すこしだけ気味悪いよ。どこで見つけたのか知らないけれど、ものすごく良く似合う水着を着て、水着のまま一日じゅういるんだよ。上品で可愛いくて、落ち着いていて華やかで、色気もほどよくあって、大人っぽくてなおかつ、若い雰囲気の水着。絶対にそのへんで買った水着ではないんだろうけど、どこで買ったのか娘の私にも教えてくれないんだよ。体が大きいし、恵子さんは世のなかのいろんなことに関して、私そんなこと知りません、というような態度だから、水着はよく似合ってるよ。恵子さんの身長? 一七〇センチ。体がでかいと、いいよ。身のこなしに余裕があって。なんでも構わないわよ、どんと来なさい、という雰囲気で。和服を着るとすごいよ。着やせして、すっごく美人で、こりゃ何者じゃ、と娘の私だって思うからね」
 帆奈美を相手に喋りながら、里里葉は背後の壁に寄せて大きなクッションを積み重ねた。そしてそれにむけて、あぐらをかいた体を後退させていった。彼女はゆったりとクッションに上体を預けた。受話器を左手に持ちかえた。
「会って来たんだよお。来い、来いってうるさいから、とにかく行って来た。ひきのばしてると、つらくなるだけだから。一気に終らせてしまおうと思って。最初は十日の予定だったのよ。でも、十日もいっしょにいるのかと思うと、気持ちは沈みに沈むのね。だから学校で夏期特別教室があってそれに出席しますからとか言って、十日を一週間にしてもらって、それをさらに五日に縮めて、もうひと頑張りして、三日にしたの。それでも三泊だよ、参った、へとへと。馬鹿馬鹿しくて。こういうのって、気持ちが疲れるね。そう、まさにストレス。はじめて体験したよ。ストレスって、ほんとにあるんだよ。病気になるよ。それはよくわかる。ストレスはかならず病気になる。去年いっぱいで離婚が成立して、正月にはもうお父さんは出ていっていなくて、年が明けて荷物なんか運び出して、法律的な手続きなんかをぜんぶ済ませたのね。そして私は恵子さんに引き取られて、ほかに部屋を見つけて、そこへ移ったの。それが三月。去年の暮からお父さんには会ってないから、半年ぶり以上ね。元気だよ。元気でやってた。新しい奥さんは、早苗って言うの。三十五歳。恵子さんのほうがずっと美人だけど、なんて言うのかなあ、いわゆるよく気のつく人っていうのかなあ、こまごまと世話を焼いたり気を使ったりして、なんにもしないでへっちゃらでいる恵子さんにくらべると、疲れるよ、うるさくて。私よりずっと背が低くて、一五五とか六とか、そんな感じ。お父さんは四十歳。五歳ちがいの、新しい夫婦。愛してるんだって。参っちゃうよ、馬鹿馬鹿しい。いま頃になってもまだ、愛だの恋だのと。うーん、私がこんなことを言うのは、恵子さんの影響だね。それは強いよ。でも、私自身、そう思うよ。だって、おかしいよ、恰好悪いよ、恥ずかしいよ、愛し合ってるふたりだなんて。うちのお父さんは、昔から恥ずかしい人だね。一七五センチの身長で、大学ではアイスホッケーをやってたのだけど、いまはもう完全に会社の人で、休みの日にジャンパーなんか着て町を歩いていると、いつもは会社の奥深くでデスクに張り付いてる人が、一日だけ現場要員になってるみたいで、恰好悪いの。恵子さんとは、ぜんぜん釣り合わない。まるっきりミスマッチ。あのお父さんのうしろからついていく恵子さんなんて、本来の恵子さんじゃないんだよ。だから離婚したのね。離婚の話をはじめて聞いたとき、私はほっとしたから。ふたりだけでも恰好悪いのに、そのふたりに私が加えられて、私はいい迷惑だったのよ。だから私は、両親の離婚で助かった。恵子さんは素敵。恰好いい。自分の本当の姿をいつも出して、しかも自分ひとりだから。恵子さんは、ひょっとしたら、離婚のチャンスを狙ってたのかもしれない。ほかに女性が出来た、というよくある話を、強引に離婚へ持ちこんだのかな、と私は感じてるんだ。恵子さんが、ちらっと、そんなような意味のことを言ってたから。私はぜんぜん寂しくないよ。ホミだって、両親が離婚しても、寂しくなんかないはずだよ、きっと。お母さんといたほうがいいよ、離婚になったら。お母さんはお手本になるから。いいお母さんならね。ホミのお母さんは、いいお母さんだから。久しぶりに神戸でお父さんに会ったけど、なんだか気の毒だった。まず私が、お父さんに会っても、ぜんぜんうれしくないんだよね、わかる? きまり悪いとか、恥ずかしいとか、早く帰りたいとか、そんなことばかり思うの。だって、恥ずかしいんだもの、ほんとに。新しい夫婦は愛し合ってると言ってたけど、てんでミスマッチなのね。恵子さんよりもっとミスマッチで、長くは続かないと思うよ。でも、基本的に共通するものがあれば、続くよね。どっちもいっしょにいるのが恥ずかしいタイプの人だから、ミスマッチだというのは私がそう思ってるだけで、本当はいい組み合わせなのかもしれない。でも、どうでもいいや、そんなこと。ねえ、そうでしょう。そうだよね。指折り数えて、やっと三日たって、私は飛ぶように帰って来た。早苗さんの料理に、まず参った。ちまちまと手がこんでて、うるさくて、たまんない。いじりまわしてあって、おいしくもなんともないの。でも、めなきゃいけないし、手がこんでるから褒めるべきポイントがたくさんあって、疲れた。ああ、もう会いたくない。だいじょうぶかい、元気でやってるかい、学校は楽しいかいとか、つまんないことばかり言うんだよ、お父さんが。いちいち恥ずかしいんだよね。会った瞬間、ああ、こういう人が私の父親なんだなあと思って、そう思ったらよけいに、私は父親から離れようと思った。早苗さんなんか他人もいいとこよ。だからいまはここで、私は恵子さんとふたり。ここは海に近いところにあるマンションなんだよ。別荘マンション。離婚して慰謝料のかわりにもらったのですって。遊びにおいでよ。いちおうは広いよ。海は一度しかいってないけど、海はすごいや。海岸からいきなり太平洋で、波の力がすごいの。海はでっかくて、とてもかなわない。私は海が好きとか、いつも海を感じていたい、なんて言ってる人は、あれはインチキだね。海にかなうわけないもの。秋になってから海岸を散歩するといいかもしれない。それから、真冬。温かく着込んで、冷たい風の吹く海岸を歩くの。恵子さんには似合いそう。私もいっしょに歩いたとして、恵子さんに似合う娘になりたい。それが目標。いまはそれだけ。一年じゅう焼き蛤を売ってる店があるよ。おいしいんだよ、これが。おいで、食べにいこう。恵子さんと私だけだから、いつ来ても、いつまでいても、いいんだよ。来て、来て。プールがあって、いちおうは洒落てるよ。静かだし。どの部屋の人も、いつもみんな来てるわけではないから。早苗さんがおみやげに腕時計をくれたんだよ。妙ちきりんで恥ずかしい時計。学校の秋のバザーに出しちゃう。売れるよ。馬鹿な男のこがかならず買うから。恵子さんとふたりだけって、ほんとにいいよ。そう、恵子さんが働いて、それで食べてるわけだけど、恵子さんの実家から援助があるみたいね。恵子さんは仕事をしてるよ。空手を教えてる。えー、私、言ったよ。ホミには言ってあるよ、うちの恵子さんは空手のインストラクターなんだよ。何段だか忘れたけど、段位は高いんだよ。教えてる。女性の護身術教室とか、空手でシェイプとか、そういうの。ヴィデオが出てるんだよ。スポーツ用品店とか、妙な書店のヴィデオのコーナーへいくと、置いてある。一巻から三巻まであって、戦う女の空手、炸裂する実力篇とか言って、パッケージに恵子さんの写真が出てる。ちらっと見ると、なんだかアダルト・ヴィデオみたい。東京の部屋にあるから、こんど見せてあげるよ。収入としては、空手の稼ぎだけだよ、きっと。いつもセックスばかりしてる人みたいな雰囲気があるけど、実際はそうではなくて、なにもしてないみたい、その方面は。男なんかいらないと言ってるし、ひとりでいるのがいちばんいいみたい。私は娘と言うよりも、なんだろう、いちばん若い仲間という感じ。私がいっしょにいて当然なのに、廊下で会ったりすると、あら、いたの、ですもんね。気が楽だよ。とってもいい。ひとり娘が欲しくて、そのとおりになったから、あとはとにかく元気なら、どうでもいいんだって、私は。教えなくてはいけないことは教えるけど、自分に教えられないことは教えられないのだから、あとは好きにしなさいと言ってるわ。一七〇センチになるのが私の目標なんだよ。いまは一六四センチだよ。それで年齢は十四歳。女は一七歳くらいで止まるということだから、あと三年で六センチ。そうだよ、一年に二センチだよ、だいじょうぶかなあ。私、恵子さんとそっくりになってやる。それが大目標。料理はもう私、ぜんぶできるんだよ。恵子さんが作るものは、私もみんな作れる。教えてくれたの。さあ教えます、という感じではないし、しっかり覚えなさい、ということでもなくて、いつのまにか。朝食が面白いよ、恵子さんは。エスプレッソと固ゆで卵なのよ、いっつも。毎日、毎日、おんなじ。朝食だけはね。もうずっとそうなんだって。エスプレッソ・マシーンというのがあって、小さなカップにエスプレッソが二杯、同時に出来るの。カップは三十個くらいあって、おなじものはないの。みんなちがうの。どれとどれの組み合わせにするか、というところから恵子さんの朝食は始まるのね。卵は固ゆで。ひとつだけの日もあれば、ふたつのときも、そして三つのときもあるの。日によってちがうのよ。固ゆで卵にタイミングを合わせてエスプレッソを二杯作って、食べるわけ。ふたつのカップを左右に置いて、両手に交互に持って飲むのよ。そして卵。スプーンの縁で叩いて切れめを入れて、ふたつに割るの。そしてスプーンですくって食べる。塩を少しずつつけて。最高なんだって。高校生になったら、私も始めるから。ほかにも野菜やトーストを食べるんだけど、まず最初は、ほかのものは邪魔くさいからどかしておいて、エスプレッソと固ゆで卵を恵子さんは楽しむのよ。ほかのものをいっしょに食べると、余計な味が混じって嫌なんだって。エスプレッソと固ゆで卵を食べ終ってしばらくしてから、野菜とパンを食べてる。パンは固めのを二枚、かりかりにトーストして、なんにもつけずに」
 電話で喋りながら、里里葉は小ぶりなクッションをいくつか、あぐらをかいている自分のまえに集めた。脚をのばして引き寄せ、腕をのばして引っぱって来たいくつかを、彼女は自分のまえに積み上げた。壁に寄せて積んだクッションによりかかって上体をあずけたまま、里里葉は両脚をそろえ、いま積んだクッションの上に両方のふくらはぎを乗せた。両脚はそのようにしてクッションによって支えられ、うしろにいくつも重ねたクッションに背中ぜんたいでもたれかかって、彼女の体はさきほどまでよりもさらに楽になった。フロアに降ろした尻にとってもっとも快適な位置を、彼女は探し当てた。
「それからねえ、ホミ、聞いて、聞いて。わたしの名前は恵子さんがつけたんだよ。私の名前はハワイなんだよ、これはまだ、ホミにも喋ってなかったことだよ。恵子さんが独身の頃、何度もハワイに旅行したのだって。普通の観光旅行なんだけど、ひとりで町を歩いてると、路線バスがとおるの。そのバスのおでこのところに行先の表示が出てて、ふと見るとそれがかならず、リリハなんだって、そう、エル・アイ・エル・アイ・エッチ・エー。これがずっと印象に残っていて、結婚して私を妊娠して、いよいよ産院で陣痛が始まったとき、看護婦さんたちに励まされて力をこめてたら、いきなり、このリリハというのを思い出したのだって。ひとり娘を生む、ということに恵子さんは決めてて、お腹のなかの子供は女のこだとわかってたから、名前はリリハにしようと決心しながら、うんうんうなって私を生んだのよ。生まれてからよく考えたら、片仮名よりも漢字のほうがいいかなということになって、字を考えたの。みんな当て字。里里葉なんて、音だけで意味はないもんね。意味は別にないわよと、恵子さんも言ってる。見た目には、なんとなく意味がありそうだけど。私は里の葉っぱ。念を押して里が二度くりかえしてある。帆奈美っていうのも、ちょっとすごいよね。まるっきり当て字ばっかり。漢字が三つあるけど、どれもばらばらで、ひとつにつながってないよね。統一されてない。ひとつひとつ、適当に当て字したみたい。でも、見た目には美しいよ。すっきりした美人というイメージ。どこか日本的で。音は日本の女の音だね。そうだよ、しばらくここにいるよ。私はさっき神戸から帰って来て、私がいないあいだ恵子さんはここにひとりでいたんだよ。ひとりが本当に似合う。自分でもそれがいちばんいいみたい。私は付録だね。今日からまたいっしょで、いまは八月になったばかりでしょう。学校の行事はなんにもないから、新学期が始まるまで暇だよ。ホミ、遊ぼうよ、おいでよ、ここへ。私はずっとここにいる。お盆が過ぎてから、どこかへ旅行しましょうって、恵子さんは言ってる。外国ではなくて、国内。でも新幹線に乗ると、つまんなくなるんだよね。わ、楽しい、旅行だ、という気持ちにならなくて、その反対。会社みたい。背広を着て、きたないネクタイしめたおじさんばかりで、シートを倒して靴を脱いで新聞を読んでる。旅行はどこへいくのかなあ、まだなにも聞いてないよ。でも、露天風呂とかそんな話を、ちらっとしてたかなあ。露天風呂には入ってみたい。海のすぐそばに露天のお風呂があって、お湯に入ってむこうを見ると海しか見えなくて、吹いてくる風は海の風で、ときどき波のしぶきが飛んで来て、日没になって空がオレンジ色になるとか、そんなお風呂。それから、旅館の離れに泊まると、その離れの庭に専用の露天風呂があって、夜中でも入ることができるんだって。夜中にお風呂に入ってると、月が昇ってきて星がきれいで、雲が出てさあっと雨が降ったり、そういうのならいいなあ。恵子さんは夏休みだよ。かなり自由に休めるみたい。将棋を覚えなさいと言って、駒のセットと将棋盤が買ってあるんだよ。駒の持ちかたを恵子さんは教えてくれた。水着のままフロアにあぐらをかいて。私は人さし指と親指で駒をつまんで、ちょこんと置くのだけど、それではさまにならないからちゃんと持ちなさいと、恵子さんは言うのよ。盤に置くときに、パチンと音をさせるの。私がやると駒が飛んで、盤の上はめちゃめちゃになる。テレビにあるんだよね、将棋の番組が。すっごく静かなの。故障かと思っちゃった。じーっと将棋が写ってるよ。恵子さんはここが気にいってるから、これからはここへいっしょに来ることが多いと思うよ。冬はプールサイドへいけないから、私がいま使ってる二十畳の部屋に、玉突きの台を入れるんだと恵子さんは言ってる。玉突きがうまいんだって。私に教えると言ってる。教えるのではなくて、仕込む、と言ったのかな。やると言ったらやるから、今年の正月はいつもここにこもって玉突きだよ。そう、それと将棋とね。今日は恵子さんの友達が来るんだって。用事があって近くまで来るから、寄るんですって。寄る時間がちょうど夕食の時間なので、今日はその人がお客様。私が料理を作るのかなあ。手伝うことは確かだね。でも、冷蔵庫になにがあるか、不安だ。買い物にいくのかな。買い物にいくときも、恵子さんは水着なんだよ。花柄の大きなスカーフを巻きスカートみたいに腰に巻きつけて。ぶすなら誰も見ないけど、ああいう彫りの深い、黙ってると頭の良さそうな、ちょっと秘密っぽい美人で背が高いから、田舎の人はみんな見るよ、決まり悪い。高校生になったら、ホミといっしょにハワイへ旅行しようよ。リリハ行きのバスを見てみたいし、リリハというところへ行ってみたいと思ってるから。自分の名前の由来の場所があるって、面白いよね。いまの私? フロアの上だよ。クッションがたくさんあって、そのなかに私は埋まってる。でも、楽な姿勢でも長く続けてると、つらくなってくるよね。すこし飽きて来た」
 重ね合わせたクッションの上から、里里葉は両脚を持ち上げた。そして両足のつま先で、重なっているクッションの下のほうを、軽く蹴った。クッションはむこうにむけて倒れた。彼女は両脚をフロアに横たえた。そして体を反転させながら、うしろにあるそれまでもたれていたいくつもの大きなクッションを、右腕を使って倒した。クッションはフロアの上へ散らばっていった。彼女はあおむけに横たわった。電話機を持ち上げて体の反対側へ移し、受話器を持ちかえた彼女は、天井を見ながら帆奈美との会話を続けた。
「ここの私の部屋は、フロアにいろんなものが落ちてる。恵子さんは入って来ないよ。うっかり入って来ると、なにか踏むから。隣りに畳の部屋があって、私が寝るのはそこ。布団だよ。目が覚めるといつも、布団の外にいる。ベッドなら落ちてるはずだけど、東京の部屋のベッドからは落ちないよ。布団だと寝相が悪くなるのかな。クッションを全部倒して、いまはフロアに寝てる。でも、寝てるのもつらくなってくると、起きるほかないよ。すわってるのも立ってるのも飽きたら、歩くんだよ。私はよく散歩するよ。磁石と地図を持って、ひとりでどんどん歩く。畑のなかの道だけ歩くとか。二時間ぐらい歩いて、ぐるっとひとまわりして、汗だくになって帰って来る。あ、帰って来た。私ではなくて、恵子さん。私はさっきからここにいるよ、ホミ。恵子さんが戻って来たみたい。あ、呼んでる。リリーハ、とのばして言うんだよね。ちょっと行ってみるね。ごめん、またあとで電話する。夜がいいな。夕食が終ったあと。ホミ、ホミ、電話するよ、そこにいてね、かならずだよ」
 里里葉は起き上がった。受話器を戻し、立ち上がり、ドアにむけて歩いた。ドアを開き廊下に出た。廊下に母親の姿はなかった。
「ただいま」
 と里里葉は大きな声で言ってみた。返事はなかった。彼女は玄関にむけて歩いた。玄関のまえで直角に交差する廊下まで出て来ると、恵子が歩いて来た。かつては三浦恵子だったのだが、離婚してもとに戻り、現在は神崎恵子だった。彼女はいつもの水着を着ていた。
「おかえり」
 恵子が言った。里里葉のぜんたいを観察しながら、微笑を浮かべて恵子は里里葉に歩み寄った。立ちどまり、十四歳の娘の肩に腕をまわし、恵子は里里葉を抱き寄せた。里里葉の存在を確認するかのように、両腕で強く抱きしめた。里里葉は顔を恵子の肩に横たえた。恵子の肌は夏の陽ざしの匂いがした。恵子は腕のなかから里里葉を解放した。
「さっき帰ったばかり」
 と里里葉は言った。
「はい」
「電話してたの」
「ホミでしょう」
「そう」
「ミホという人もいるのよね」
「いるよ」
「昨日、電話があったわよ。昨日の夜」
「あとで電話する」
「キチンへ来て」
 と恵子は言った。
「今日の夕食は三人でしょう?」
 里里葉が聞いた。
「そう。冷蔵庫にあるものでなにができるか、相談しましょう」
「私がいないあいだに、買い物をしたの?」
 里里葉がきいた。
 先を歩きながら恵子は首を振った。
「してない」
「だったら、なにもないはずよ」
 恵子はふりかえった。会話の内容には興味なさそうに、しかし里里葉そのものに対しては奥行きの深い許容力を優しく見せながら、
「そう?」
 と恵子はきいた。
 ふたりはキチンで冷蔵庫のなかを点検した。材料はほとんどなく、これではなにも作れない、という結論に達した。だからふたりは買い物に出た。陽が高いうちはこれでいいのだと言って、恵子は水着姿の腰にスカーフを巻き、夏のハイヒール・サンダルを履いた。里里葉は神戸から帰って来たままの服装だった。
 買い物から帰って、ふたりはプールで泳いだ。西陽がプールに届かなくなるまでプールにいて、部屋に戻った。それぞれの専用の浴室でシャワーを浴び、夕食の準備にとりかかった。
 恵子の友人は時間どおりに訪ねて来た。体育大学で同級だった以来の友人だというその女性は、どことなく恵子と似ていた。しかし恵子よりはるかによく喋り、恵子のやや重みをともなった静かさに対して、友人はきわめてさらっとして軽かった。男性との同居と別れを、何年にもわたって何度もくりかえしたあと、いまはひとり暮らしなのだと、恵子は友人が帰っていったあと、里里葉に説明した。
 その夜、里里葉は十一時に寝た。明くる朝は八時に目を覚ました。すぐに起きて隣りの二十畳の部屋に出た彼女は、下着の上に半袖の白衣を着た。その白衣を、夏の朝のホワイト・ドレス、と里里葉は呼んでいた。
 廊下に出た彼女は、玄関のまえまでいった。そしてそこに立ちどまり、耳をすましてみた。玄関からまっすぐ奥へのびている廊下の西側は、恵子が自分のスペースとして使っている部分だった。キチンと食事のためのスペースがないだけで、里里葉が使っている反対側とよく似た間取りになっていた。耳をすましている里里葉に、恵子の浴室あたりから物音が聞こえてきた。里里葉はキチンへ歩いた。
 キチンに入った里里葉は、流し台をうしろにして立った。腕を組み、キチンぜんたい、そしてそのむこうにある食事のためのスペースを、彼女は見渡した。キチンも食卓も、昨夜彼女がかたづけたままだった。整頓されている様子に軽い満足感を覚えながら、里里葉は恵子がキチンへ来るのを待った。
 ほどなく外の廊下に足音が聞こえた。
「里里葉」
 と恵子が外から呼んだ。
「おはよう」
 里里葉が答えた。恵子がキチンに入ってきた。淡いカーキー色のショート・パンツに、鮮やかなブルーの半袖シャツを彼女は着ていた。
「おはよう」
 と恵子も言った。
「これから?」
 奥の食卓へ歩きながら、恵子は里里葉をふりかえってきいた。ふりかえりながら相手になにか言うのは、恵子の癖のひとつだった。
「そうよ」
 里里葉は答えた。
 ゆで卵を作るミルク・パンに彼女は水を満たした。レンジの電熱コイルに置き、スイッチをオンにした。
「今日も暑そう」
 里里葉が言った。
「だから私はうれしい」
 恵子が答えた。
 里里葉は冷蔵庫へ歩いた。ドアの把手に手をかけ、恵子に視線をむけた。
「今朝は私も恵子さんとおなじものを食べる」
 と里里葉は言った。
 食卓の椅子にすわって、恵子はうなずいた。
「毎日はまだ駄目よ。ときどき」
「はい」
 里里葉は冷蔵庫のドアを開いた。
「卵はいくつ?」
 里里葉がきいた。自分はふたつ食べるつもりだから、右手に卵をふたつ持った。
「二個」
 恵子が答えた。
 左手でさらに二個、里里葉は卵を取った。そして一歩下がり、足の先で冷蔵庫のドアを閉じた。
 ミルク・パンのなかに四つの卵を里里葉は静かに入れた。ふりかえって食器棚を彼女は見た。エスプレッソは二杯ずつだから、カップは四つ必要だなと、里里葉は思った。
「神戸はどうだったの?」
 恵子が食卓からきいた。
 里里葉は恵子に顔をむけた。そして、まったくどうしようもなかった、という意味をこめ、そのような表情を作り、里里葉は目を閉じて首を振った。深い魅力的な微笑が、ゆっくりと恵子の顔に広がった。





底本:「夏と少年の短篇」東京書籍
   1992(平成4)年10月7日第1刷発行
初出:私とキャッチ・ボールをしてください「野性時代 第19巻第6号」角川書店
   1992(平成4)年6月号
   あの雲を追跡する「野性時代 第18巻第10号」角川書店
   1991(平成3)年10月号
   which 以下のすべて「野性時代 第18巻第5号」角川書店
   1991(平成3)年5月号
   永遠に失われた「野性時代 第15巻第12号」角川書店
   1988(昭和63)年12月号
   エスプレッソを二杯に固ゆで卵をいくつ?「野性時代 第19巻第5号」角川書店
   1992(平成4)年5月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※扉は、底本では横組みです。
入力:高橋雅康
校正:関戸詳子
2013年6月5日作成
2015年4月15日修正
青空文庫収録ファイル:
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夏と少年の短編 by 片岡義男 is licensed under a Creative Commons 表示 - 非営利 - 改変禁止 2.1 日本 License.



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