赤絵鉢

柳宗悦




 上野の美術倶楽部で、又々山中商会による大展観があつた。昭和八年のことである。どんな骨董商も之ほどの大きな企ては敢てしない。今度の主なものは焼物であつた。玉石入り乱れてはゐるが、幾つかの見事なものが列んだ。だがどれよりも私を惹きつけた一つの赤絵鉢があつた。この一個は歪みがあつて、殆ど楕円形をなし而も一端にくびれがある。始めは窯の中で自然に歪んだ傷ものかと思へたが、実は茶人達が支那へ注文して、態々歪んだ形に作らせたことが分つた。紋様も日本好みである。茶人達は之を水差として用ゐた。平たい黒塗の蓋が添へてあるので分る。歪みはひどいが、姿には堂々たる趣きがあつた。色には眼の覚めるやうなところがあつた。
 私の心は大いに動いた。価格の札を見ると、それは他の品に比べ決して不当に高い値ではなかつた。併しその折の私の事情には尚も高過ぎたのである。私は迷つたが、結局自らを抑へるより仕方がなかつた。私はそれに見入り、幾度かその飾棚の前に戻つた。かういふものが日本に残るといふことだけでも有難い。又こんな美しいものを見る眼を与へられたことも嬉しい。之に廻り会へて悦びを得たその幸に感謝するだけでも充分な酬いであらう。私は自らをさう慰めた。
 私が出かけたのは初日の朝であつたが、客は既に込みあつてゐた。多くの品が躊躇なく買はれて行くので、こんな見事な赤絵は、その日の午前中に売れて了ふに違ひなかつた。帰る道すがら色々な想ひにふけつた。品物の運命のことなどが心に浮んだ。あの一個は誰の手に渡るのであらうか。何れ富豪の手に入れば、もう二度と見ることはむづかしい。だが買手は私ほどにあの鉢を敬つてくれるであらうか。あの美しさを本当に見つめてくれるであらうか。いい買手であればよいが、鉢よ、幸運であれ。是等の想ひが私の胸を往き来した。
 会は三日間であつたか続いた。私は終りの日にもう一度行きたくはあつたが、あの鉢が売れて了つたのは必定だし、もう棚の中には置いてないであらう。仮りにあつても赤札が附いてゐるのを見たら心残りがするであらう。さう思へて遂に出かけるのを見合せて了つた。かくして会は終つたのである。私はもう記憶の中に、その鉢を想ひ返すより致し方なかつた。
 併しその運命がまだ気にかゝつた。誰が買つたのであらうか。今頃はどこに運ばれてゐることか。いや、若しかしたら売れ残つたかも知れぬ。さういふことがないとも限らぬ。いや、そんな馬鹿なことはない。目が覚めるほど輝いてゐたのである。誰もあれを見過ごしはしまい。だが気になつて仕方がない。一応売れたかどうかを尋ねてもよくはないか。万が一といふこともあらう。問ひ合せないのも亦心残りである。それに買手が誰だつたかを知つておくのもいい。さう思ふほど私はその赤絵鉢に執心したのである。私は遂に葉書を出した。出したあとで迷ふ愚かな自分の姿を眺めた。
 返事は来なかつた。失望を感じた。併し寧ろ来ない方がいいとも思へた。来れば万事お了ひだとも考へた。だが四、五日たつた時、突然「山中」の人が見えたと云ふ女中の知らせである。玄関へ出てみると態々同店の宮氏が来られた。而も手にはそれらしいものを入れた包みを持つてゐるではないか。「きつとさうだ。」私の心は躍つた。
 結局売れなかつたのである。どうして場中一番の名作とも思はれる品に買手が出なかつたのか。何千人と云ふ見手が、何故それを見過ごして了つたのか。何百人と云ふ骨董屋が、どうして誰もそれを買取つておかなかつたのか。而も赤絵の類はいつも人気の中心である。値段は私にとつては高かつたとしても、他の品に比べては寧ろ安いくらゐだつたのである。だがどういふわけか買手が一人もつかなかつたのである。考へ得る唯一の理由は、それが目録の挿絵に載せてなかつたからに依らう。あんなにも焼物好きの人が多いのに、誰も手を出さないのである。心もとない人々である。どうしてその美しさを見得ないのであらうか。
「貴方が若しお望みなれば、代はいつでも結構ですから、置いて参ります」と宮氏は云ふ。私は思ひがけなくもこの名作に再び会へたのである。私は暫く牀にそれを置いて、私に与へられた眼福を感謝した。何か私とゆかりがあるのであらうか。
 だが私に恵まれたのは機会であつて、経済ではなかつた。私は又しても私の心を抑へることを余儀なくされた。仕方がない。あきらめて返さう。私には背負へないのである。併し何か道はないものであらうか。せめて時々でも見られるやうな工夫はないものか。誰か私と近い知合ひの人で、買へる人に買つておいてもらはう。さうすれば時折会ふ悦びもあらう。事情は私にとつてさうするより仕方がなかつたのである。財物的に力の薄い者は、時々かういふ不自由さを嘗める。併し美しいものを愛する自由は、充分に恵まれてゐるのである。だから不幸ではない。私はさう思つた。それにしても誰に買つておいて貰つたらいいか。
 この話がいつ外に伝はつたものか、「私に買はせて貰へまいか」と便りを寄こされたのは雲州安来の素封家原本虎一郎翁であつた。翁は中々の目きゝで、浜田、河井、リーチのものなど、優れたものを沢山所持されてゐた。何かにつけ吾々一同が恩を受けた方なのである。特に浜田はその愛顧に浴することが深かつた。(因に、同氏は中々の達筆家で、かれた美しい文字を書かれた。)私はこの申出を迎へた。この鉢が今は同氏の所有になる以上に、いいことはないやうに思へた。同氏のもとに在るなら、いつだとて借用も出来よう。かくしてこの鉢は、はるばる安来まで送られたのである。昭和九年正月のこと、「工藝」第三十七号が赤絵号を出す時、私は挿絵の第一にこの鉢を選んだ。解説にはかう記した。
「見事な赤絵である。今まで世に出た赤絵鉢の中で最も見事なものの一つに数へたい。名器の仲間に入れても引け目はない。玉取獅子や魁鉢があれほど著名なら、この鉢も天下に名が聞えていい。先日「山中」の展観に出て輝いてゐたのである。だが目録の挿絵に載せてないせゐか、美しさを見てやる人がなかつたせゐか、買手が出ず、遂に売れ残つたのである。余り美しいので別れ難く、私が預り、何とかして知友の間に止めて置きたく、遂に原本虎一郎氏の望みに委ねた。名器は来歴が明らかであつて然るべきと思ふので一言書き添へる。
 この鉢は形がいたく歪んでゐる。誰かが縁を錫でとり、水指として使つた。支那のものか古九谷か一寸見分けがつきにくい。箱書には「南京古赤絵丸紋」とあり、展観の折は「古九谷」としてあつた。素地は支那風で紋様は和風である。併し河井の説では明らかに支那のもので、明末又は清初のものではないかと云ふ。(後で分つたのだが、明末に日本の茶人が、支那に注文した品なのである。歪みは、茶趣味で態々さうさせたのである。)
 大体支那の古赤絵は、特に天啓あたりのものになると、筆が極めて冴え、一寸寄り附けないほどの感じがする。出来栄え凄く、うたゝ支那といふ国あつての作だと云へよう。だがかゝる鋭いものの他に、よく万暦の赤絵などに見られるやうな、筆跡の却つて鈍いものがある。描写の手ぎはでは劣つてゐても、妙に重みがあつて別種の力を感じる。一々の筆よりも全体としての調子で絵が活きてゐる。この鉢は明らかに後者の系統に属する。筆の冴えは別にない。至つて当り前である。それに山水や人物や花鳥ではなく、もつと静的な丸紋である。それも大まかで小味な所はない。だがそのために今度は量の方がふくらみ、幅があり重みが出て、ゆとりが生じ、穏かさがある。そのせゐか安心して眺めることが出来る。之だけの幅で見る者を迎へてくれる作物はめつたにない。堂々とした風情であり乍ら、丸みがあり余力があつて親しみ易い。こんな世界にこの頃とりわけ心が惹かれる。この鉢は別に歪んだことや、慣れぬ模様のことなどに、こだはつてゐない。何かもつと大きなものがあるので、ものに動じる様子がない。誰が来ても受容れるたつぷりした量がある。かういふ作物の価値はもつと認められていいやうに思へる。こんな作物を眺めて私は自分を振返りたい。
 この味は色の美しさで二重に濃く出てゐる。とりわけ赤の色は見事である。今はもう得にくい色だと云ふことを思ふと、考へないわけにゆかない。それを作り出す物憂げな長々とした方法を既に過去の道だと云ひ切るなら、新しい今の方法でもつと美しい色が生れねばならない。若し劣るなら、吾々の考へをもう一度建て直す必要があらう。何としても赤と緑と黄との諧調が又となく立派である。赤絵の赤絵とさう呼びたい。幅は七寸八分、丈は四寸二分。」
 原本氏はどちらかと云ふと小柄で蒲柳の質であつた。ごく内気で余り外出もされず、言葉数の少い方であつた。そのせゐか、生活が殆ど自分の部屋の中で過ごされ、必然身の廻りに親しい品物を置くことを悦ばれたのだと思ふ。その後病気がちな日を送られたこともあつたが、昭和十一年正月遽かに果無はかなくなられた。私達にはもつと活きてゐて頂きたい方であつた。愛蔵の品々はよき主人を失つて了つたのである。私は故人とあの赤絵鉢に就いて親しく語り合ふ折を得なかつたことを、心残りに感じた。
 それから幾月経つてのことであつたらうか。同氏の嗣子から、遺愛品のうち何か一つ記念に民芸館に寄贈したいから、遠慮なく選んでくれまいかとの便りであつた。私の胸には即座に例の赤絵鉢のことが浮んだ。浜田とも計り、遂にそれを所望するに及んだのである。かくして私がその鉢を見てより凡そ四ヶ年の後、品物は再び東京に運ばれ、館にまで届けられた。こゝで吾々との全き縁が結ばれるに至つたのである。私はそれを棚の中に飾り、しみ/″\と眺めた。さうして結縁の不思議さを想うた。その鉢は私達に長く原本氏を想ひ起させるであらう。感謝の至りである。鉢も私達の傍に来たことを悦んでくれてゐるのではあるまいか。
(因に云ふ。殆ど同じ形で、同じ紋様で、歪みまで似てゐるものが更に一個、後年の展観に出た。ひゞが入つてはゐたが、之も味ひが中々よかつた。之で見るとこの種の鉢は幾つか作られて日本に送られたに違ひない。歪みまでそつくりなのは、不思議であるが、恐らく同じ品を茶人の注文で数個作つたのではあるまいか。右の一個は今は誰の手に入つてゐるのであらうか。ともかくまがひもない兄弟であつた)。

 追記
 前述の如くこの鉢は、日本の茶人達の求めに応じて、わざ/\形を歪めて作つてある。若し之が日本で作られたら作為の傷が残るのに、この一個はそんな不自然さを感じさせぬ。なぜであらうか。想ふに当の支那人達は、何故態と歪めるかを識らないままに作るから、罪が消えるのである。それに仕事ぶりも大きく、こせ/\した鑑賞などを、寄せつけないのである。結果から見ると、茶人達が支那に注文して茶器を作らせたことは、歴史に記念されてよい。明末に染附や赤絵類が沢山日本からの注文に応じて作られたことは、特筆されてよい。この種のものを集めたら、見事な展観が出来るであらう。





底本:「日本の名随筆 別巻9 骨董」作品社
   1991(平成3)年11月25日第1刷発行
   1999(平成11)年8月25日第6刷発行
底本の親本:「蒐集物語」中公文庫、中央公論社
   1989(平成元)年11月発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:Juki
2014年8月7日作成
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