「紙漉重宝記」の絵語りの終りに、忘れ難い一図が差し入れてある。一枚の紙が風にひら/\と遙かに飛んで行くのを、人が追ひかけて拾はうとする図である。貴い紙を一枚でもおろそかにしてはすまないと云ふ意を込めたのである。絵にとり立てゝ美しさはないが、この一図を忘れずに加へたその心には美しさが濃い。物体ないと云ふ気持が溢れてゐるからである。どの本であつたか、紙に就いて神明を
石州の黄ばんだ半紙を胸に描くとしよう。
優れた紙になると、それ自身で既に美しさに溢れる。どこか犯し難い気品が見える。愚かに用ゐてはすまない。たとへ使ひ古した半紙や巻紙の
支那に「鶏肋」と云ふ言葉がある。後漢書の楊修伝に出たと云ふ。意味は鶏の肋骨は棄てゝもいいやうなものゝ、さて棄てるには惜しいと云ふのである。だが私だつたら「片楮」とでも云ひ直したいところである。一片の楮紙でも無駄にするには忍びない。何かそこに紙恩と呼んでいゝものを感じないわけにゆかぬ。
なぜ和紙がそんなにも貴いのか。数々の理由を挙げ得るであらうが、何としても紙として無類の美しさがあるからである。さうしてその美しさが、材質の正しさから来てゐるからである。誠に柔剛の二面を兼ね備へた紙として、是ほどのものは天下にない。それが純和紙である限り、美しくないものは一枚だにない。
古語に「にぎて」と云ふ言葉がある。神に献る幣帛の義である。「にぎ」は「
何が和紙をかくは健全なものにさせるのであらうか。私達はこゝでも自然が何よりの母であり、伝統が何よりの父であることを想はないわけにゆかぬ。あの王妃のやうに気高い「雁皮」も、武士のやうに強壮な「楮」も、官女のやうに典雅な「三椏」も、自然からの賜物でないものはない。この恩寵に浴めばこそ、和紙に強さや美しさや温かさが出るのである。何も是等の素材ばかりではない。あの
だがそれ等の資材を紙に甦らすものは、いつに歴史であり伝統である。紙がこゝまで達するには、長い歳月が来ては去つた。さうして吾々の祖先は如何に漉くべきかの智慧を漸次に会得するに至つた。かくして多くの人達の経験は更に智慧を鍛へ、智慧は更に経験を深めた。さうして之が伝統として祖先から子孫へと受け継がれて行つた。簡単に見える操作だとて、一日にして成つたものではない。伝統にはどんなに深い叡智が含まれてゐるであらう。さうして各地に栄えた和紙には、各々にまぎれもない性情が読める。美濃の「書院」、土佐の「仙貨」、武蔵の「細川」、常陸の「程村」、似てゐるやうで似てはゐない。凡ては土地の誇りなのである。よき紙は自然への帰依と祖先への信頼とに活きる。この敬念がなかつたら、和紙は和紙たるの美を
わけても和紙には日本の姿が見える。清くて温くて強くて、而も味ひに溢れる風情が見える。もとより和紙と云つても一様ではない。だがどんな和紙も、まじり気のないものである限りは、どこまでも日本の姿である。見渡すともこんな紙は周囲にない。朝鮮の紙は身近くはあるが、誰も見間違へはしないであらう。それほど和紙は「和紙」と呼んでいゝほどに固有な紙だと云へる。而も昔と今と、それが正系のものである限り際立つた相違はない。或人は進歩がないと詰るかも知れぬが、一方にそれだけ昔の良さを崩さないのだとも云へよう。驚くことには日本人の手は、千年余りも固有の紙を漉き続けてきたのである。私達はこの独自な固有の至宝を、凡ての国民が熱愛することを望むで止まない。之も日本的な生活を形作つてくれる一つの確かな要素なのである。この反省さへあれば、漸く傾きかけてきた手漉紙の崩潰を未然に防ぐことも出来よう。どんなに洋紙を沢山使ふともいゝ。併しどんな洋紙よりも、和紙の方が、もつと美しくて日本的なものだと云ふことを忘れてはならない。「故国を愛せよ」と、さう和紙は教へる。