民藝四十年

柳宗悦




朝鮮の友に贈る書




 私の知れる、または見知らぬ多くの朝鮮の友に、心からのこの書翰しょかんを贈る。情の日本は今かくするようにと私に命じている。私は進み出て、もだし難いこの心を貴方がたに話し掛けよう。これらの言葉が受け容れられる事を、私はひそかに信じたい。もしこの書を通して二つの心が触れ得るなら、それはどんなにか私にとっての悦びであろう。貴方がたもそのさびしい沈黙を、私の前には破ってほしい。人はいつも心を語る友を求めている。特に貴方がたの間においては、人間の愛が心の底から求められているのだと、私は想う。かく想う時、どうして私はこの訪れを果さずにいられよう。貴方がたもこの書翰を手にして、私に答える事をためらっては下さらぬであろう。私はそれを信じたい。
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 私はこの頃、ほとんど朝鮮の事にのみ心を奪われている。何故かくなったかは私には説き得ない。どこに情を説き得る充分な言葉があろう。貴方がたの心持ちや寂しさを察する時、人知れぬ涙が私の眼ににじんでくる。私は今貴方がたの運命を想い、顧みてまたこの世の不自然な勢いを想う。あり得べからざる出来事が目前に現れている。私の心は平和ではあり得ない。心が貴方がたに向う時、私も共に貴方がたの苦しみを受ける。何ものか見知らぬ力が私を呼ぶように思う。私はその声を聞かないわけにはゆかぬ。それは私の心から人間の愛を目覚ましてくれた。情愛は今私を強く貴方がたに誘う。私は黙してはいられない。どうして貴方がたに近づく事がいけないのであろう。親しさが血にき上る時、心は心に話し掛けたいではないか。出来得るなら、私は温かくこの手をさえさし出したい。かかることはこの世において自然な求めだと、貴方がたも信じて下さるだろう。
 人は生れながらに人を恋している。憎しみや争いが人間の本旨であり得ようはずがない。様々な不純な動機のために国と国とは分れ、心と心とが離れている。不自然さの勢いが醜い支配に※(「りっしんべん+敖」、第4水準2-12-67)おごっている。しかし永続し得る不自然さが何処にあり得よう。凡ての心は自然へと帰りたがっている。凡てが自然に帰るならば、愛はもっと繁く吾々の間を通うはずだと私は思う。何事か不自然な力が、吾々を二つに裂いているのである。
汝曹なんじがともがら互に愛せよ」と教えはいう。しかしかかる教えが現れるよりも先に、人情は生れながらに「互を愛したい」と求めていると私は想う。愛は聖者の教えであるが故に深いのではない。人情に基くが故にその教えが深いのである。人が自然な人情のままに活き得たら、この世はどんなにか温かいであろう。この世に真に貴いものは、権力でもなく知識でもない。それは一片の温かい人情であるといつも想う。しかし何が故か、人情の生活は踏みにじられて、金や武力が世を支える柱だと考えられる。かかる勢いはさながら「互を憎め」とさえいうように見える。国と国とはいつも戦いの用意をおこたらない。しかし人情に背くかかる勢いが、どうして永遠な平和や幸福の贈り手であり得よう。ただかかる不自然さがはびこるばかりに、心が心から本意なくも裂かれているのである。長い間代る代るの武力や威圧のために、どこまでも人情を踏みつけられた朝鮮の歴史を想う時、私は湧き上る涙を抑え得ない。
 朝鮮は今寂しく苦しんでいる。巴紋ともえもんの旗は高くひるがえらず、春は来るとも李華はとこしえにそのつぼみを封じるようである。固有の文化は日に日に遠く、生れ故郷から消え去ってゆく。幾多の卓越した文明の事跡は、ただ過去の巻にのみ読まれている。往く人々の首はうな垂れ、苦しみやうらみがそのまゆに現れている。話しする声さえ、今はその音が低く、民は日光をいとって暗いかげに集るようである。如何なる勢いが貴方がたをかくはさせたのであるか。私は貴方がたの心や身が、どんなに暗い気持ちにおおわれているかを、察しないわけにはゆかない。貴方がたにはさぞ血の涙があるであろう。人は大かたの苦しみは忍ぶ事も出来よう。しかし愛と自由とを欠く処には、どうしても住む事が出来ないのである。ただに貴方がたばかりではない。この世の如何に多くの人々がかかるものを追い求めて、どれだけしばしばその故郷をさえ棄てて、あてどもなくさすらいの旅に出たであろう。凡ての人は自由な空気を求めている。人情の温かさをしたっている。私はこれを想い彼を想い、抑え得ない同情を貴方がたに感じている。かつて何処の国に情に基く政治があったであろう。愛による武力があったであろう。争いは道徳に欠け、戦いはいつの場合にも宗教を持たない。この事は真理を知る民にとっては苦痛である。私は日本がいつも正しく温かい日本である事をねがう。もし無情な行いに※(「りっしんべん+敖」、第4水準2-12-67)おごる事があるなら、その時、日本は宗教の日本ではあり得ない。今日不幸にも国と国との関係は、まだ道徳の域にすら達していない。いわんやその間に宗教的な愛が保たれようはずがない。もろもろの不正や罪悪が時として国家の名によって弁護される。いつも真理に国家が従うのではない。国家に真理が順応し変化されるのである。かくてしばしばこの世には不自然な勢いが白昼を歩くのである。人は多くその罪を疑ってはいない。それは避け難い不完全な世の出来事としていつも看過される。しかしかかる行いのために苦しむ民がここにあるなら、それは一国の恥辱ちじょくであり、また人類への侮辱であろう。正しい日本はかかる行いを改めるのにはばかる事があってはならぬ。吾々はいつも真理にまで国家を高めたいと希うのである。私はそれが私自身の行いでないとはいえ、少くともある場合日本が不正であったと思う時、日本に生れた一人として、ここに私はその罪を貴方がたに謝したく思う。私はひそかに神に向ってその罪の許しを乞わないではいられない。日本が神の国において罪深いものとして見られる事は、私の忍び得る所ではない。私は日本の栄誉のためにも、吾々の故国を宗教によって深めたい。私は目撃者ではないとはいえ、様々なひどい事が貴方がたの間に行われたのを耳にする時、私の心は痛んでくる。それを無言のうちに堪え忍ばねばならぬ貴方がたの運命に対して、私は何というべきかを知らない。私は心ひそかに許しを求めながら、こう心にささやいているのである。「もし日本が不正であるならば、いつか日本の間から貴方がたの味方として起つ者が出るにちがいない。真の日本は決して暴虐を欲してはいないのである。少くとも未来の日本は人道の擁護者でありたいと希っているのである」と。貴方がたはかかる声を信じては下さらぬだろうか。
 この頃日に日に貴方がたと私たちとは離れてゆく。近づきたいと思う人情が、離れたいと思う憎しみに還るとは、如何に不自然な出来事であろう。何ものかの心がここに出て、かかる憎しみを自然な愛に戻さねばならぬ。力の日本がかかる和合をもたらし得ない事を私は知っている。しかし情の日本はそれを成しげ得ないであろうか。力強い威圧ではない。涙もろい人情のみがこの世に平和を齎らすのである。私は人間としての貴方がたが、情には心を柔らげて下さる事を信じている。私は日本が如何なる道によって、吾々の争いをぬぐい去ろうとするかを知らない。しかし私はただひとりの個人に過ぎないとはいえ、私の心に湧き上る情愛において、貴方がたの中に深く活き得ないであろうか。私は多くの日本の人々が未だ発言しないとはいえ、私と共に情の日本人である事を熟知している。吾々は朝鮮の運命に対して、冷やかである事を欲しない。
 この世にはどれだけ多く、許し得ない矛盾が矛盾のままに行われているであろう。私は仮りに日本人が朝鮮人の位置に立ったならばといつも想う。愛国の念を標榜し、忠臣を以て任じるこの国民は、貴方がたよりも、もっと高く反逆の旗を翻すにちがいない。吾々の道徳はかねがね、かかる行為を称揚すべき立場にいる。吾々は貴方がたが自国を想う義憤の行いをとがめる事に、矛盾を覚えないわけにはゆかぬ。真理は普遍の真理であっていいはずであるが、時として一つの行いに二つの名が与えられ、ある時は「忠節」とも、ある時は「不逞ふてい」とも呼ばれるのである。数えればこういう矛盾は、どれだけこの世に多いであろう。多いにつれて、どれだけ無数の人々が暗い陰に悩まねばならぬであろう。その境遇に在る貴方がたを想い、またかくせしめた「暗黒の力」を想う時、私は心に傷を受ける。時としては心が激し、時としては寂しさに沈んでくる。いわんや貴方がたには胸を圧せられる苦しみがあるであろう。貴方がたは今何に慰めを求めているのであろう。その運命を何と感じているであろうか。夢にだに安らかな想いはないであろう。御身おんみらの上に少しでも平和あれかしと私は祈っている。
 しかし私は人間になおも燃える希望を抱いている。いつか自然は人間のうちから正しいものを目覚めざますにちがいない。日本がいつか正当な人倫じんりんに立つ日本となる事を信じたい。これはいずれの処を問わず、凡ての国家が懐抱する理想でなければならぬ。私はいつか真理によって日本が支えられる日の来るのを疑わない。私は今若い日本の人々がこの理想に向って努力している事を知っている。貴方がたは人間としての日本人をもしりぞけて下さってはいけない。私の正しい観察によれば、個人として朝鮮の人々に、憎しみの心を持つ人はほとんどないのである。否、吾々は藝術を通じていつも朝鮮が卓越した国民であった事を想いめぐらしている。かつて露国と戦いを交えたその間においてすら、吾々は露国の偉大な思想や文学を、日に深く学んでいたのである。二つの国が裂かれるのは、個人と個人との憎しみによるのではない。私は情において吾々の同胞が隣邦の友を忘れてはいないのを信じている。少くとも未来の日本を形造る人々は、理にうとく情に冷かでは決してないであろう。
 もし日本が暴力に※(「りっしんべん+敖」、第4水準2-12-67)おごる事があるなら、いち早く日本の中から貴方がたへの味方が現れるであろう。私は人間の本質を信じている。人間としての日本人に希望を抱いている。人間は不正な事に満足し得る人間ではない。悲惨な事やさびしみに冷やかな人間ではない。圧迫や争闘は衷心ちゅうしんからの求めではない。今の世は不純な勢いをかもして、心ならずも醜い生活を続けている。しかし打ち明ければ、愛に悦び人情にうるおう生活が、人間の心からの求めなのだと私は想う。この世に暗黒の時が来ようとも、それは人間の本質をも奪う事は出来ぬ。自然はいつもよみがえる力を固く支えている。今は国と国とが隔てられ、人と人とが背いている。しかし異邦の人と互に心を打ち明け得たら、どんなにか人類は厚い幸福に浸るであろう。見知らぬ人との交情は、わけても親しさの想いが濃いであろう。人間はかかる幸福を求めている。吾々もまた貴方がたも、この求めにおいてはいつも一つであると私は信じている。
 貴方がたと私たちとは歴史的にも地理的にも、または人種的にも言語的にも、真に肉身の兄弟である。私は今の状態を自然なものとは想わない。またこの不幸な関係が永続していいものだとは思わない。不自然なものが淘汰とうたを受けるのは、この世の固い理法である。私は今、二つの国にある不自然な関係が正される日の来ることを、切に希っている。まさに日本にとっての兄弟である朝鮮は、日本の奴隷であってはならぬ。それは朝鮮の不名誉であるよりも、日本にとっての恥辱の恥辱である。私は私の日本が、かかる恥辱をも省みないとは思わない。否、未来の日本を信じている。情の日本を疑わない。精神に動く若い人々は、日本を真理にまで高めねばならぬ任務を感じている。貴方がたも私と共にそれを信じてほしい。人間そのものの本質を信じる事によって、再び希望を私と共に甦えらせてほしい。
 ここにある治政の方針が人間の道に背くとしたら、かかる政治は永続しないであろう。如何なる力も、神意には背くことは出来ぬ。背くなら、いつかその宿命として内部から瓦壊されるにちがいない。人間は神意によるその本質において、凡てのものの捷利者しょうりしゃとならねばならぬ。それが出来ないなら、それは個人としての、または国民としてのぬぐい得ない恥辱である。ここに不正な力にしいたげられる国があるなら、必ずや人間の正義は起って、その虐げられる国の味方となるであろう。人間の誠心にはかかる勇気が断じて消えない事を私は信じている。私は虐げられる人々よりも、虐げる人々の方が、より死の終りに近いと思う。前者に対しては人間の味方が起ち上るだろうが、後者には必ずや自然の刑罰が加えられる。「剣をとる者は剣にて亡ぶべし」とイエスは告げた。この世に永らえ得る悪の栄えはないのである。
 ここに反省を乞いたい一事がある。吾々が剣によって貴方がたの皮膚を少しでも傷ける事が、絶対の罪悪であるように、貴方がたも血を流す道によって革命を起して下さってはいけない。殺し合うとは何事であるか。それが天命にさからい人倫にもとることを明確に知る必要がある。それはただにむごいのみならず、最も不自然な行いである。それは決して決して和合に至る賢明な道とはならぬ。殺戮さつりくがどうして平和を齎らし得よう。吾々はいつも自然な人情の声にこそ耳を傾けねばならぬ。愛し合いたいとそれは言っているではないか。どうして吾々は人情のままに活きる事が出来ないのであろうか。自然に逆ってまで争うとは如何なる心であるか。自然の深さを知りぬいていた老子は「不争の徳」を鋭く説いた。
 私は再び反省を貴方がたに希いたい。争いの武力や憎しみの政治が不純なものであるなら、朝鮮もまたその存在をかかる力の上に建設してはいけない。私は武力や政治には少しだに信仰を持たない。それは国と国とを結びはしない。人と人とを近づけはしない。古往今来これらの道を通して内から愛し合った国と国とがどこにあろう。政治や軍力の平和は利害の平和に過ぎない。さもなくば強制の平和に過ぎない。私は真に朝鮮とわが故国との間がかかる関係に終る事を欲しない。貴方がたも貴方がた自身の武力や政治に信頼をおいてはいけない。かかる力はどの国であろうとも人間の心を温めはしない。一国の名誉を悠久ゆうきゅうならしめるものは、武力でもなく政治でもない。その宗教や藝術や哲学のみである。もし信任し得る政治があるなら、それはプラトーンや孔子が説いた如き政治であらねばならぬ。しかし不幸にも現代はかかる聖賢の声を用いる事を恐れている。しかし吾々はかかる偉大な古人の教えが吾々をあざむかない事を信じねばならぬ。私は貴方がたが朝鮮の存在を精神の上に安泰せしめられん事を切に望むのである。これは実に吾々においてもまた固く保持せねばならぬ理想であると私は信じている。
 貴方がたは今の政治者に絶望を感じられたにちがいない。しかし人間そのものにも絶望して下さってはいけない。真の愛や平和を求める心は、その中になおも温かく包まれている。それは自然の意志によって甦えらねば止まぬであろう。如何に世は寒いにしても、草はいつか地の懐からえ出るであろう。よし刃の勢いに攻められる事があっても人間そのものが朝鮮の運命を固く保護すると私は確信する。否、私はいつか朝鮮が人情に最も温められる国の一つであるのを切に感じている。世は如何に殺伐になろうとも、人情はこの世から消えないであろう。貴方がたは過去の苦しい歴史にてらして、何処の人間をも、もう信じ得ないといわれるだろうか。しかしその淋しい声の中から、もう一度人間を呼んでみてほしい。おお、その時私は貴方がたの中に進み出よう。ここに貴方がたの手を握りたい一人の人間がいると言い出よう。しかし私を見るや、またも偽りの日本人かと言って私をしりぞけるだろうか。しかし私は私の誠心が、今までの日本人でない何ものかを私の顔に現すまで、貴方がたの前から退くまい。私は貴方がたが真に人間を恋している方だという事を信じている。私にさえ誠心があるならば、それは吾々の距離を近づけるにちがいない。もし近づき得ないなら、それは貴方がたの罪ではなく、なおも私の誠心が足りないからだ。私は再び私をきよめて出直そう。
 日本は未だ人間の心に活ききってはいない。しかし若い精神的な日本がここに現れて、いつか刃や力の日本を征御し尽す事を信じている。私はかかる日が現れて、朝鮮と日本との間に心からの友情が交される時の来るのを疑わない。少くとも私はこの悦びに向って不断の努力をささげよう。私は悪が善にちおおせるとは思わない。私は人間の深さを信じ、真理の力を信じている。必ずや正しい道が最後の捷利者である事を信じている。また自然の美しい意志がいつか満される事を疑わない。また刃よりも愛が絶大な力の所有者である事を疑わない。または柔かい人情が、平和の固い守護者である事をも信じている。よし様々な汚濁おじょくの勢いがはびころうとも、私は宗教が真にこの宇宙を支配する力だと信じている。また藝術がこの世を浄め、美しくする力だと信じている。争いは本流を作りはしない。愛に飢える人情がこの世の家庭を作るのである。人間の心の底には、どうしても奪い得ない情愛の求めがあると私は信じている。
 私は重ねて貴方がたに私の心を伝えたく思う。決して今の武力や政治を通してのみ、人間を判じて下さってはいけない。人間のうちに潜む深い性質はかかるものを越えて、真に平和や愛情をしたっているのである。悲しくもまだ今の日本は、自ら正義の日本であると言い切る事は出来ない。(何処の国がかかる大胆な発言をなし得るであろう)しかしこの国に住む人々は、その本性において悲しい事や罪な事に冷やかではないと知ってほしい。また愛や人間の道について、その心を注ぐ事を忘れはしないと知ってほしい。また不正な事に関しては、不正であるという明かな反省が、吾々の間にある事をも知ってほしい。人間の正しい運命を保持しようとて、今吾々は努力しているのである。それらの人々は、真に貴方がたの淋しさや苦しさに対しての味方である。これは私一人の推量ではない。私の多くの知友が私と同じ感を抱いている事を私は知りぬいている。
 私が先年『読売』紙上に「朝鮮人を想う」と題する一文を寄せた時、日本の見知らない多くの人々から、どんなに厚い共鳴の手紙を受けたであろう。もし貴方がたの心に交る時が来るなら、吾々はどんなにか深い自然な友情を、貴方がたに感じることであろう。朝鮮が日本を愛し、日本が朝鮮を愛するとは、如何に自然な感情であろう。私は吾々の血が、いつか互に肉身の兄弟だという愛の本能を、吾々の心に甦えらす事を厚く信じている。貴方がたはそれを疑うだろうか。そう信じては下さらぬだろうか。私はそう信じて下さる事を切に望んでいる。


 私は朝鮮に関してはほとんど何らの学識を持たない。また朝鮮の事情について、豊かな経験を所有する一人では決してない。しかし私にこれらの躊躇ちゅうちょがあるとはいえ、ここに私をして発言せしめる資格を全く欠いているのではない。私は久しい間、朝鮮の藝術に対して心からの敬念と親密の情とを抱いているのである。私は貴方がたの祖先の藝術ほど、私に心を打ち明けてくれた藝術を、他に持たないのである。またそこにおいてほど、人情にこまやかな藝術を持つ場合を他に知らないのである。私はそれをながめてどれだけしばしば貴方がたを、まともに見る想いがあったであろう。それは歴史以上に、心の物語りを私に話してくれた。私はいつもそこに貴方がたの自然や、人生に対する観念を読む事が出来る。貴方がたの心の美しさや温かさや、または悲しさや訴えがいつもそこに包まれている。想えば私が朝鮮とその民族とに、抑え得ない愛情を感じたのは、その藝術からの衝動に因るのであった。藝術の美はいつも国境を越える。そこは常に心と心とがう場所である。そこには人間の幸福な交りがある。いつも心おきなく話し掛ける声が聞えている。藝術は二つの心を結ぶのである。そこは愛の会堂である。藝術において人は争いを知らないのである。互いにわれを忘れるのである。他の心に活きるわれのみがあるのである。美は愛である。わけても朝鮮の民族藝術はかかる情の藝術ではないか。それは私の心を招くのである。どれだけしばしば私はその傍らに座って、それと尽きない話をかわしたであろう。
 私は朝鮮の藝術ほど、愛の訪れを待つ藝術はないと思う。それは人情にあこがれ、愛に活きたい心の藝術であった。永い間の酷い痛ましい朝鮮の歴史は、その藝術に人知れない淋しさや悲しみを含めたのである。そこにはいつも悲しさの美しさがある。涙にあふれる淋しさがある。私はそれを眺める時、胸にむせぶ感情を抑え得ない。かくも悲哀な美がどこにあろう。それは人の近づきを招いている。温かい心を待ちわびている。
 貴方がたの過去の運命やまた思想は如何なるものであったろうか。その地理や隣邦との関係から来る避け得ない環境のために、温かく平和な歴史は永く保ち難かったであろう。まして東洋の静かな血が通い、仏陀ぶつだの教えによって育てられた心には他の生活が如何に無常に思えたであろう。貴方がたは静かな森の中や、人里のまれな山深くに心の寺院を建てた。それは真に修道にふさわしい場所であった。淋しさのみが淋しさを慰めるのである。声なくして静かにたたずむ悲母の観音は貴方がたの愛した姿であった。高麗の陶磁器は日々人の心に親しみたいための器であった。それは古代においてのみではない。李朝の代に及んでも日常の凡ての用品にさえその心を深くにじませた。為すこと行うことに、見るもの触れるものに、貴方がたはその静かな淋しい心を反映させた。日々眼に触れるそれらの器具の淋しい姿は、必ずや貴方がたの心の友であったであろう。互いに慰められつ慰めつ日々を送ったにちがいない。それは情に柔らかな作品であった。私は今それらの作をありありと心に想い浮べている。流れるように長く長く引くその曲線は、連々として無限に訴える心の象徴である。言い難いもろもろの怨みや悲しみや、憧れが、どれだけ密かにその線を伝って流れてくるであろう。その民族はふさわしくも線の密意に心の表現を托したのである。形でもなく色でもなく、線こそはその情を訴えるに足りる最も適した道であった。人はこの線の秘事を解き得ない間、朝鮮の心に入る事は出来ぬ。線にはまざまざと人生に対する悲哀の想いや、苦悶の歴史が記されている。その静かな内に含むかくれた美には、朝鮮の心が今なお伝わっている。私は私の机の上に在る磁器を眺めるごとに、寂しい涙がその静かな釉薬ゆうやくの中に漂っているように想う。
 しばしばこれらの作品は私にこう話し掛ける。「人生はいつも淋しくしめやかに見える。長い間私たちの民族は苦しい歴史を続けてきた。しかし誰もそのもだえる心を察してはくれない。また何処にも私たちの心を打ち明け得る友を持たない。私たちはせめてもの想いに、これらの器具にその情をらしたのである。それらのもののみは、私たちを欺かない日々の友であった。後に生れてくる人々よ、ねがわくはこれらのものをかたわら近くに置かれよ。それは声なくともいつも人情を恋している。これらのものを愛し用いて、われらの心を温め給えよ、温められようとて私たちはこれらの作を造ったのである。」おお、私はかかる声が器の底からしぼり出る時、どうして私の手をそれに触れずにいられよう。
 ある時その淋しい姿は亡霊の如く浮び出て、私にこうも告げた。「他国の人々よ、どうしてそう酷い事を吾々の民族にしむけるのであるか。私たちの虐げられた運命が貴方がたの歓楽になるのであるか」。私はかかる叫びを聴く時、真に断腸の想いがある。「なぜなぜ私たちに愛を贈らないのであるか」、あるものはかく私に尋ねている。「これほど人情に飢える吾々に答える人情はないのであろうか」と咏嘆の声が聞えてくる。「わけても血に近い日本の人たちよ。兄弟の愛に吾々を結ぼうとなぜしないのであるか。吾々は同じ母のふところに眠り、同じ伝説に生い立った昔を想い廻らすことがあるではないか。かつて私たちの僧は経巻を携え、仏躰ぶったいを贈り、寺院の礎を飛鳥あすかの都に置いたのである。宗教に栄え藝術に飾られた推古すいこの文明は、私たちの心からの贈物であった。それらのものは今もなお昔ながらの姿を残している。それにどうしても再度ならずも、吾々の文化を馬蹄ばてい蹂躙じゅうりんして、厚い友情を裏切ろうとするのであるか。かかる事が日本の名誉であると誰が言い得るのであるか」。私はかかる直接な訴えになじられる時、答え得る言葉を持たない。
 私がその器を淋しく見つめる時、その姿はいつも黙祷もくとうするかのようである。「神よ、われらが心を遠く遠く御身の御座にまで結びつける事を許されよ。見知らぬ空にいます御身のみは、われらを慰めることを忘れ給わぬであろう。御胸にのみわれらがいこいの枕はあるのである」。たわやかな細く長く引く線は、そう祈るが如く私には思える。これらの声が聞える時、どうして私はそれらの作品を、私の傍から離し得よう。おお、私はそれを温めようとて、思わずも手をそれに触れるのである。
 四年前〔大正五年・一九一六年〕私が朝鮮を訪ねて以来、ただの一時でもそれらの作品のいずれかを私の室から離した事がない。それはいつも私に話し掛けたいように見える。私はそれを冷たい暗い場所に長くしまうに忍び得ない。私がそれを机の上に置く時、それは悦んでくれるかのように思う。それはいつも私を待っていてくれる。私はそれに近づかないわけにはゆかぬ。ましてその美しい姿は、私の心を引きつけている。それを眺めそれに手をく時、私には心と心とが触れ合う想いがある。それはいつも私の情愛の友だ。私もまた彼らの親しい友だ。それが淋しく悲しい姿に見える時、私も淋しく悲しい想いにおそわれてくる。それが私の傍に在って悦ぶように思える時、私も心に嬉しく思う。かくして二人はいつも共に悲しみや悦びの世界に歩む。
 それは親しさの作品である。愛に憧れる作品である。それは人の心をいつも招いている。人の情を待ちわびている。どうして私はそれを音ずれずにいられよう。ここに私がいると私はいつも心にささやくのである。その作者よ、心安かれよと私は念じている。かくしてそれが私の室にある限り、私たちはいつも二人で暮している。私は孤独ではない。その作品も孤独ではないように思う。孤独の寂しみに堪えないで、それらのものは作られたのではないか。私はそれを孤独にしてはならない。私は朝鮮の藝術よりも、より親しげな美しさを持つ作品を、他に知る場合がない。それは情の美しさが産んだ藝術である。「親しさ」Intimacy そのものが、その美の本質だと私は想う。いつもかく想う時、どうして私は、その作者と同じ血を受けた今の朝鮮の人々に、親しさを感ぜずにいられよう。私は早く貴方がたから離れている関係を破らなければならぬ。
 しかしかかる「親しさ」においてのみ、私は朝鮮の藝術を解しているのではない。私はその内に潜む驚くべき美に対して、全き敬念をささげないわけにはゆかぬ。それは親しさであると共に、真に驚くべき美の示現である。悲惨な運命に虐げられた朝鮮は、その藝術の美においては君皇の位に列している。何人なんぴともその悠久な美を犯す事は出来ぬ。生命は短く、藝術は長いと詩人は歌う。しかし藝術に現れた朝鮮の生命こそは、無限でありまた絶対である。そこには深い美がある。美そのものの深さがある。静かな内へ内へと入る神秘な心がある。それは神殿を飾るに足りる藝術である。朝鮮は、よし外に弱くとも、その藝術において内に強い朝鮮である。厳然として自律する朝鮮である。
 ある者は支那の影響を除いては、朝鮮の藝術はあり得ないかのようにいう。あるいはまた支那の偉大に比べては、認め得る美の特色がないかのように考えている。実に専門の教養ある人々すら、時としてかかる見解を抱くようである。しかし私は、かかる考えが真に独断に過ぎなく、理解なき謬見びゅうけんに過ぎぬのを感じている。私はそこに日本においてと同じく、支那の影響を否みはしない。しかしどうして支那の感情が、そのままに朝鮮の感情であり得よう。特に著しい内面の経験と美の直観とを持つ朝鮮が、どうして支那の作品をそのままに模倣もほうし得よう。よしその外面において歴史において関係があったにせよ、その心とその表現とにおいて、まごう事ない差違があると私は解している。
 朝鮮の内なる感情がその民族において固有であり、内なる歴史がその経験において独特であるに従って、その藝術もまた真に独歩である。批評的歴史家はその国是こくぜを事大主義であるという。しかし少くとも藝術においてはそうではない。朝鮮の藝術そのものが、それ自身の美において偉大である。どこにつかえるべき他の大があったであろう。今日法隆寺や夢殿に残された百済くだらの観音は、支那のどの作品に劣るであろう。またどの作品の模倣であり得よう。それらは日本の国宝と呼ばれるが、真に朝鮮の国宝とこそ呼ばれねばならぬ。またはここに慶州石仏寺の彫刻をえらんだとする。それはもとより唐代の作と関係があるにちがいない。しかし他にならい他につかえた痕跡のみであろうか。そこには真に動かし得ない朝鮮固有の美があるではないか。私はその窟院を訪ねた日を忘れる事は出来ぬ。そこは朝鮮がいつも保有する深さと神秘との絶える事のない蔵庫である。人々はまた高麗の陶磁器を宋窯の模倣であるという。しかし試みにその器に流れる線を一分でもいずれへかめてみよう。吾々はたちどころに高麗の美を見失うのである。藝術は真に心の微妙な発現である。それはそれ自身であって如何なる他の性質にも還元し得ない作である。高麗の美は決して宋の美ではあり得ない。両者にはその成分において技巧において近い素質もあろう。しかし現された美には、まがいもない差異が厳存する。高麗の器に流れる微妙な線の美しさは、少しでも宋窯に求める事は出来ぬ。それは真にそれ自身の線であって、一分だにそれを変えるなら、それは既に朝鮮の心から離れるのである。李朝の作においてもそうである。みんの磁器と李朝のそれとのどこに類似があろう。どこに明の「大につかえた」李朝の美があろう。そこにはそれ自らの心があり生活がある。朝鮮の美は固有であり独特であって、決してそれを犯す事は出来ぬ。疑いもなく何人の模倣をもまたは追随をも許さぬ自律の美である。ただ朝鮮の内なる心を経由してのみあり得る美である。私は朝鮮の名誉のためにもこれらの事を明晰めいせきにしたい。その藝術が偉大であるとは、直ちにその民族が美への驚くべき直観の所有者であるという意味である。しかもそれは粗野な美にあるのでもなく、強大な特質にあるのでもない。それは実に繊細な感覚の作品である。私は朝鮮民族の、美に対する敏鋭な神経に対しては、実に疑い得るいささかの余地をも持たぬ。私はその藝術を通して厚い敬念を朝鮮に捧げる心を禁じ得ない。それは如何なる人たるを問わずまさに抱かねばならぬ驚歎である。この名誉こそは永く厚く尊重されねばならぬ。しかるに何事であるか、その藝術的素質に豊かな民が、今醜い勢いのためにその固有の性質を放棄する事を強いられているのである。私はこの世界の損失に対して傍観するに忍び得ない。藝術への尊敬こそ国と国とを近づけるのである。世界を美にまで揚げるのである。日本はかつて朝鮮の藝術や宗教によって、その最初の文明を産んだのである。今日この事は感謝を以て記憶されねばならぬ。私は悠久な朝鮮の藝術的使命を畏敬いけいする事が、日本の執らねばならぬ正当な態度であるべきを想う。世界の藝術に独特な位置を保有する朝鮮の名誉は、今後もなお永続されねばならぬ。その民族が絶えない限り、かかる藝術は再度ならずよみがえるであろう。一国の藝術、または藝術を産むその心を破壊し抑圧するとは、そもそも罪悪中の罪悪である。
 吾々の間に朝鮮の作品が賞美せられてから、長い年月は過ぎた。しかも今日それははなはだしい市価をさえ呼んでいる。しかし専門にそれを研究する学徒においてすら、その美の内面の意味を捕えて、その民族固有の価値を認得しようとする者は絶えてないようである。何故朝鮮の藝術を讃える事によって、その作者である民族をも讃えないのであるか。昔の時代は去ったとしても、民族の血の質にまで変りがあろうはずがない。よし事情の変移はあろうとも、素質をまで否む事は到底出来ぬ。今日朝鮮に藝術が現れないのは、単に製作の余裕が与えられないからである。それはむしろ吾々にこそ責任があるであろう。私は朝鮮が真に美しい藝術を再び産む事を信じたい。私は近来二、三の友と知るに及んでますますその希望を強めている。もしも美術館にその古藝術を保護する事が、邦人のよい仕事の一つであったなら、それらのものの未来の作者を畏敬する事を、どうして吾々の任務から取り去ったのであるか。過去の朝鮮を愛して未来の朝鮮を敬わないのは、過去の朝鮮に対する侮辱に過ぎない。過去への全き尊敬は未来への信頼に活きねばならぬ。私はいにしえの朝鮮が驚くべき藝術を私に示す事によって、現代の朝鮮にも深い希望を持つ事を学ばしめたのを感謝している。為政者が朝鮮を内から理解し得ないのは、一つには全く宗教や藝術の教養を持たないからである、ただ武力や政治を通して、内から結び得る国と国とはないはずである。真の理解や平和をこの世に齎らすものは、信を現す宗教である、美に活きる藝術である。かかるもののみ第一義である。第一義なものにのみ、人は真の故郷を見出すのである。信や美の世界には、憎悪がなく反逆がない。とこしえに吾々の間から争いの不幸を断とうとするなら、吾々は吾々の間を宗教や藝術によって結ばねばならぬ。かかる力のみが吾々に真の情愛と理解との道を示すのである。人はそれを理想に止まるというであろうか。しかしこれが唯一な、しかも最も直接な交りの道であるという事を真に悟らねばならぬ。まさに為さねばならぬ規範の命は、躊躇ちゅうちょなく為されねばならぬ。
 私は朝鮮に住む日本人の、いわゆる親しい経験に対しては多くの信頼を持たない。内なる朝鮮に入り得ない限り、それはただ外面の経験に過ぎぬ。かかる経験は、少しだに理解の裏書とはならぬ。人々には宗教的信念も薄く、藝術的洞察も乏しいのである。不幸にも人々は貴方がたを朋友として信じる事を忘れている。彼らはただ征服者の誇りで貴方がたをいやしんでいる。もし彼らに豊かな信仰や感情があるなら、必ずや貴方がたに敬念を払う事に躊躇しなかったであろう。もしも朝鮮代々の民族が、その藝術において何を求めているかを知り得たなら、おそらく今日の態度は一変されるにちがいない。多くの外国の宣教師は、みずからを卓越した民だと妄想している。しかし同じ醜さが、優秀だと信じる吾々の態度にもある事を私は感ぜずにはいられない。しかし敬念や謙譲の徳がない処に、どうして友情が保たれよう。真の愛が交されよう。私は日本に対する朝鮮の反感を、極めて自然な結果に過ぎぬと考えている。日本が自らかもした擾乱じょうらんに対しては、日本自らがその責を負わねばならぬ。為政者は貴方がたを同化しようとする。しかし不完全な吾々にどうしてかかる権威があり得よう。これほど不自然な態度はなく、またこれほど力を欠く主張はない。同化の主張がこの世にあがない得るものは、反抗の結果のみであろう。日本のある者が基教化を笑い去るように、貴方がたも日本化を笑い去るにちがいない。朝鮮固有の美や心の自由は、他のものによって犯されてはならぬ。否、永遠に犯され得るものでないのは自明である。真の一致は同化から来るのではない。個性と個性との相互の尊敬においてのみ結ばれる一があるのみである。
 私は今度朝鮮に対する私の情を披瀝ひれきするために、一つの音楽会を貴方がたにささげたく思う。会は五月初旬京城において開かれるはずである。私はこれが貴方がたへの情愛と敬念とのしるしである事を希う。また藝術的天賦てんぷに豊かな朝鮮民族への信頼のしるしでありたく思う。その民族がことに音楽に対して敏鋭な愛情を持つ事を、私はしばしば耳にしている。貴方がたは私のこの企てを受けて下さるであろうか。私と私の妻はこの会を通じて貴方がたにえる時の来るのを、どれだけ心待ちしているであろう。もし心が心に交り得るなら、それは如何ばかり深いこの世での幸いであろう。新聞紙上に伝える所によれば、私たちの渡鮮は藝術を通じて朝鮮を教化するためだと書かれている。しかしこれは全くの誤伝に過ぎない。それは皮浅な眼で私たちの企てを解釈した報道に過ぎない。私には教化とか同化とかいう考えが如何に醜く、如何に愚かな態度に見えるであろう。私はかかる言葉を日鮮の辞書からけずり去りたい。朝鮮の友よ、見知らぬ多くの友よ、私の如き者を例外だと思って下さってはいけない。希くば精神に活きる私の多くの知友が、正義や情愛をしたう心に忠実である事を信じてほしい。若い日本の人々は、真理の王国を守護する事を決して忘れはしない。それらの人々は既に貴方がたの味方である。私たちは貴方がたを、近い友として理解する用意を欠かないであろう。貴方がたと私たちとの結合は真に自然そのものの意志であると私は想う。未来の文化は、結合された東洋に負う所が多いにちがいない。東洋の真理を西洋に寄与するためにも、また東西の結合を全くする上にも、東洋の諸国は親密な間柄であらねばならぬ。わけても血に近い朝鮮と日本とには、もっと親しさや情愛が濃いはずであらねばならぬ。吾々はかかる友愛を、いつかまた支那や印度との間にも結ばねばならぬ。かかる結合が未来の文明に対して、深大な意義を持つ事を貴方がたも信じて下さるであろう。それはただの夢想ではない。深く要求せられた自然の声そのものであると思う。私は海を越えて厚い心を貴方がたに寄せる。私は貴方がたがこの心を受けて下さる事を疑わない。共に吾々は自然の心に帰らねばならぬ。人情の自然さに互を活かさねばならぬ。情愛にこそ真の平和があり、幸福がある。真理はそこに固く保たれ、美はそこに温かく活きるのである。
 私は貴方がたを想う。その運命を想い、その衷情ちゅうじょうを想う。私はこの書翰しょかんを貴方がたの手にゆだねたい。これを通じて私の心が貴方がたの心に触れ得るなら、この世の悦びが一つ私の上に加わるのである。更にまた私の心を貴方がたが訪ねて下さるなら、二重の幸いが私にくだるのである。この世においては、かかる事が真に深い幸福を意味するのである。見知らぬ力がかく為させ給う事を私は心に念じたい。
 私は貴方がたの上に祝福を祈りつつ、ここに筆をこうと思う。
(一九二〇年)
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失われんとする一朝鮮建築のために




 この一篇を公開すべき時期が私に熟してきたように思う。まさに行われようとしている東洋古建築の無益な破壊に対して、私は今胸を絞られる想いを感じている。朝鮮の主府京城に景福宮を訪ねられた事のない方々には、その王宮の正門であるあの壮大な光化門が取りこわされる事について、おそらく何らの神経をも動かす事がないかもしれぬ。しかし私は凡ての読者が東洋を愛し、藝術を愛する心の所有者である事を信じたい。たとえ朝鮮という事が直接の注意を読者に促さないとしても、漸次湮滅いんめつしてゆく東洋の古藝術のために、この一篇を読まれる事を希うのである。これは失われてならぬ一つの藝術の、失われんとする運命に対する追惜ついせきの文字である。そうして特にその作者である民族が、目前にその破壊を余儀なくされている事に対する私の淋しい感情の披瀝ひれきである。
 しかしなおこの題目が活々いきいきと読者に形ある姿を思い浮ばす事が出来ないなら、どうか次のように想像して頂こう。仮りに今朝鮮が勃興し日本が衰頽し、ついに朝鮮に併合せられ、宮城が廃墟となり、代ってその位置に厖大な洋風な日本総督府の建築が建てられ、あのみどりの堀を越えてはるかに仰がれた白壁の江戸城が毀されるその光景を想像して下さい。否、もうのみの音を聞く日が迫ってきたと強く想像してみて下さい。私はあの江戸を記念すべき日本固有の建築の死をいたまずにはおられない。それをもう無用なものだと思って下さるな。実際美においてより優れたものを今日の人は建てる事が出来ないではないか。(ああ、私は亡びてゆく国の苦痛についてここに新しく語る必要はないであろう)必ずや日本の凡ての者はこの無謀な所置に憤りを感じるにちがいない。しかし同じ事が現に今京城において、強いられている沈黙の中に起ろうとしているのである。

 光化門よ、光化門よ、お前の命がもう旦夕たんせきに迫ろうとしている。お前がかつてこの世にいたという記憶が、冷たい忘却の中に葬り去られようとしている。どうしたらいいのであるか。私は想い惑っている。酷い鑿や無情なつちがお前の体を少しずつ破壊し始める日はもう遠くはないのだ。この事を考えて胸を痛めている人は多いにちがいない。だけれども誰もお前を救ける事は出来ないのだ。不幸にも救け得る人はお前の事を悲しんでいる人ではないのだ。
 まだ世は矛盾時代だ。門の前にたたずんで仰ぎ見る時、誰もその威力ある美を否み得るものはないのだ。しかし今お前を死から救おうとする者は反逆の罪に問われるのだ。お前を熟知している者は発言の自由を得ないのだ。しかしお前を産んだ民族の間においては、不幸を伴わぬ発言はないと言ってもよいのだ。この事で今そこにいる凡ての者が暗い月日を送っている。人々は必ずやお前を愛しているのだ。今後年月が経ると共にその愛慕がいや募ってゆくのを私は知っている。しかしかかる愛すらも自由には現し得ないこの世だ。否、かかる愛を殺せよと強いられているのだ。苦しさが胸に迫ってくる。しかしどうする事も出来ないのだ。
 誰もが言葉を躊躇している。しかし沈黙の中にお前を埋めてしまうのは私には余りに悲惨だ。それ故言い得ない人々に代って、お前の死に際しもう一度お前の存在をこの世に意識させるために、私はこの一篇を書きつらねるのだ。
 しかしお前のいる場所から、遠く遠く千マイル以上も離れている私が、ただ独り沈黙を破って声を挙げたとても、暗い力強い勢いから、お前を救い起すという事はおそらくは不可能であろう。しかしそうだからと言って、私のこれらの言葉を意味のないものだと思ってくれるな。これを書く事それ自身が私には一つの使命だと思えるのだ。誰もお前の運命を今取り戻す事を保証し得るものはない。だがお前に対する尊敬や情愛がこの世にもうないのだと思ってくれるな。お前の美や力や運命を理解している者は少くはないのだ。よしわずかだとしてもお前はそれらの人の情愛を受けてくれるであろう。少くとも一人お前の死を想って涙ぐんでいる者があるのを知ってくれ。
 私はこのうつにおいて落ちかかるお前の短い運命を、持ち直させるだけの力を許されてはいない。だけれども霊の世界において私はお前を不滅にさせねばおかない。実際お前を死から救い起す自由は私に与えられていない。しかしこの文字の中にお前を不滅にする自由は私に与えられているのだ。おお、私はここにお前の名と姿と霊とを決して消える事のない深さで鏤刻るこくしよう。丁度お前を産んだ民族が、好んであの固い花崗岩かこうがんに深くのみをあてて、記念すべき永遠の彫刻を刻んだように。
 光化門よ、お前の存在はまもなく奪われるのだ。しかし奪われてはならぬ存在のために私はこれを書いているのだ。そうして私は特に濃い鮮やかな墨を以てそれを書く事をおこたるまい。地上における視野からお前の姿が見失われても、私のこの文字は少くとも地上の何処かに伝播でんぱされるであろう。私は根強くお前を記念するために、この追悼の文を公衆の前に送り出すのだ。光化門よ、愛する友よ、道ならぬ死に迫られてさぞ無念に思うであろう。おれはお前のめねばならぬ苦しみや寂しさを考えている。おお汝が霊よ、行く処がなかったらおれの所に来てくれ。おれが死んだらこの文字の中に住んでくれ。誰かきっとこれを読んでくれる者があるであろう。そうしてお前の存在がもう一度それらの読者の、温かい意識の中にしたわしく記憶される日が来るであろう。おお、多くの者はお前に対して沈黙を守る事を余儀なくされているのだ。それ故私がそれらの人々に代って、発言の自由を今撰ぼうとするのだ。

 おお、光化門よ、光化門よ、雄大なるかな汝の姿。今から凡そ五十有余年の昔、汝が王国の力強い摂政大院君が、彼の躊躇を許さぬ意志によって、王宮を守れよとて、南面する素敵な場所に汝の礎を動くなと固めたのである。此処ここに朝鮮があるとばかりに、ものいう諸々の建築が前面に左右に連ねられ、広大な都大路を直線に、漢城を守る崇礼門と遥かに呼応し、北は白岳に飾られ南は南山に対し、皇門はその威厳ある位置を泰然と占めているのである。かくて三個からなる闕門けつもんを中に穿うがち、巨大な堅固な花崗岩を高く築造し、その上によく伝統を守った広大な重層の建物をそびえさせた。いうまでもなく門は左右に均等の高壁を延ばして、尽きる所に角楼かくろうが美しい姿勢を保っている。仰ぎ見る者は誰でもその自若じじゃくとした威厳の美に打たれない者はないであろう。それは一国の最大な王宮を守るに足りる正門の姿勢である。読者よ、それを李朝末期の作に過ぎぬと言って卑んではならぬ。またはそこに婉麗えんれいな優雅な精緻せいちな美を認め得ないと言って、冷やかに見てはならぬ。否、末期においてすらこれほどのものを造り得たという事を感歎せねばならぬ。単純な端麗なその姿には、実に意志の美が表現せられているではないか。仏教の高麗朝は遠く去って、今は儒教の李朝である。地の教えに育つものは地に横たわる安泰な鞏固きょうこな美を持たねばならぬ。光化門において人は李朝の美の権化を目前に仰ぐのである。如何に単純に泰然としてそれが地に横たわっているであろう。門を過ぎるものは皆その権威に打たれるのである。実に一つの王朝の威厳を示そうとして建てられた好乎こうこの記念碑である。
 人々はかつてあの門前の広場に処せまく積み上げられた無数の巨大な材料が火災に包まれて、景福宮再建の企図が空しくなろうとした事を覚えているであろう。非常な労苦と莫大な費用とが空しく灰燼かいじんに帰して、民がわざわいに志を弱めた時、それらの出来事をほとんど一顧にだにせず、たちどころにその遂行を迫った大院君の意志を覚えているであろう。実に今日の光化門は、その不撓ふとうな精神の大胆な披瀝であった。
 彼は彼の歿後わずか二十数年余りで、彼の意志が造り上げたこの強固な門が、早くも瓦壊せられようとはゆめゆめ想わなかったであろう。私もまた藝術的意識ある吾々の同胞によって、この事が白昼なされようとは想いたくないのである。幸いにこれは私の誤聞であろうか。しかし時間はまもなく私に恐るべき光景を示そうとしている。この暗い勢いを止める力はもう何処にもないのであろうか。同胞よ、東洋の純粋な建築を敬愛せよ。それらに匹敵し得るものを今の吾々は建て得ないではないか。今日の生活に不用であると言って惜しみなく棄ててはならぬ。藝術は功利の関係を超えるのである。美があるものは厚く保存せよ。特に純東洋のものを吾々の栄誉のために熱愛せよ。あらゆる事情においてそれらのものを守護する事は、祖先への追慕であり藝術への理解であると信じ切れよ。あの光化門の如きは近代の作であるとは言っても、東洋中にそう沢山はない建築である。朝鮮において五個の優秀な門を撰ぶなら、必ずやその中に入るべき作である。作品の量に乏しく数に少い朝鮮においては、特に貴重な建築の一つではないか。いわんやあの門が主都の美を飾っている無くてはならぬ一要素であるのを誰も知りぬいているであろう。その正門が奪われる時、景福宮に何の力が出てこよう。しかも景福宮を失う時、人は漢城の中心を失うのと同じなのである。あの王宮より、より正確な形式と、より偉大な規模とを持つものを朝鮮の何処にも見出す事は出来ぬ。それは李朝建築の代表であり模範であり精神ではないか。
 政治は藝術に対してまで無遠慮であってはならぬ。藝術を侵害するが如き力をつつしめよ。進んで藝術を擁護するのが偉大な政治の為すべき行いではないか。友邦のために、藝術のために、歴史のために、都市のために、就中なかんずくその民族のためにあの景福宮を救い起せよ。それが吾々の友誼が為すべき正当な行為ではないであろうか。

 特に朝鮮を想わせる諸官衙かんがを左右にひかえ、そびえる北漢山を背景として遥か大通を向うに光化門を仰ぐその光景は、忘れ難いものではないか。自然との配置を深く考察して計劃せられたその建築には二重の美しさがある。自然は建築を守り、建築は自然を飾っているではないか。人はみだりにその間にある有機的関係を破ってはならぬ。しかるに何事であろう、今や天然と人工とのよき調和が、理解なき者のために破れようとしている。夢に過ぎないならば幸いである。だけれどもそれが恐るべき現実であるのを如何にしよう。
 試みに十余年の昔を想えよ、偉大な光景に心を引かれて門に近づく時、人は思わずもその荘厳な美を仰いで心を奪われるのである。かくて中門を入り錦川橋を渡れば、前には壮大な勤政殿が聳え、背後には康寧殿や慶会楼の瓦が波うつ如くかさなっている。禁苑奥深く入ればあるいは緑にあるいは赤に身を飾った幾十個の建物、あるものは蓮花を下にうかべあるものは松のこずえを高くかざして各々が美しき場所をと選んでいる。東には建春門、西には迎秋門、北には神武門、そうして南面の正門をこそ、人は名づけて光化門と題したのである。
 しかしこの整然とした組織ある光景は、もう二度とこの世では見得ないのである。李朝の代表的建築である康寧殿と交泰殿とは既に他に移転せられ変形せられ、今はただ温突オンドルの煙出しのみが小山に沿うて淋しくたたずんでいる。主要にして最大な建築である勤政殿を、門を通して仰ぎ見る日はもう二度と帰ってこないのである。そのすぐ前にそれら東洋の建築と何らの関わりもあらぬ厖大な洋風の建築、即ち来るべき総督府の建物がその竣成しゅんせいを今や急いでいる。ああかつては自然の背景を考察し、建物と建物との配置を熟慮し、凡ては均等の美を含ましめ、純東洋の藝術を保留しようとした努力は、今や全然破壊せられ、放棄せられ、無視せられ、これに代るのに何らの創造的美を含まぬ洋風の建築が突如としてこの神聖な地を犯したのである。これがために光化門に続く興礼門は既にあとかたもあらぬ。あの美しい錦川橋と、流れを下に睥睨へいげいしていたあの驚くべき石彫の怪物とは、今や無残にも取り払われてただくさむらの中に散らばっているばかりである。あの偉大な慶会楼は今後も残るであろうが、それは遊宴の用に供し得るからに過ぎぬ。かくして残る光化門がその位置に立つべき意義はむごくも奪われてきたのである。かつて門はなくてはならぬ位置に建設せられた。しかし今は住む者が異なったために、在ってはならぬものとして考えられる。誰かよくあの洋風の建築が光化門の存在を無視して設計せられたのである事を否定する事が出来るであろう。
 現代の東洋、特に走馬燈のように凡てが激変してゆく現代の朝鮮において、あの光化門こそは貴重な遺作品ではないか。その破壊は無益であるのみならず、吾々の無知のかくし得ぬ証拠とさえなるであろう。しかもなお現れようとしている事実は、一層奇怪ではないか。あの門が取り去られて、その代り何が建てられるであろう。吾々は偉大なものを無益な労力によって破壊し、矮小わいしょうな門をそれに代えしめる日を待ちつつあるのである。人は狂っているのであろうか。如何なる技術が光化門より、より荘厳なより巨大なより美しい門を代って建て得るであろう。二つの門を心に想い並べよ。いずれが優れているかを選択するのに一瞬の時間も必要とならないであろう。しかしながら今はあり得べからざる事が恐れなくして行われようとしているのだ。
 人々から決して消えぬ一つの記憶が、消えよと強いられている日が刻々に近づいているのだ。しかし更になお消えない記憶がこれによって強まると気付かないのであろうか。どうしてあの光化門を破壊するような考えにまで吾々を導かなければならないのであるか。おお、どうしてそれを取り除く事を余儀なくするようなはめに自らをおとしいれたのであるか。吾々にはこの処置を弁護すべき弁護らしい弁証があり得るであろうか。かかる事は吾々の為していい友誼ゆうぎであろうか。またはこれが建築に対する正しい理解であろうか。吾々はその破壊を是認すべき積極的理由をどこに見出したらよいのであるか。おお、吾々は答え能わぬ答えを望んではならぬ。しかし世は答える事を必要とすらせずして行わんとする所を行うのである。時間は躊躇ちゅうちょする事なく光化門の死期を吾々に近づけている。
 門は再興せられてからまだ五十余年の星霜せいそうを経たばかりである。それがどうして造られ、誰が造り、如何にして完成せられたかは、今なお新しい追憶ではないか。それらの事を親しく目撃している人々の目前で、もう一つ誰がこれをこわすかの記憶を追加するのは、余りに無謀な余りに無情な行為ではないであろうか。
 私はかつてこれらの事を気付いている者が、破壊を避けて移転を試みようとしている事を伝聞した。ああ、しかしこの慈悲らしい処置によって、如何なる運命を門が受けるであろう。幸いに死はこれによって免れるとしても、門が持つ存在の意義は半ば殺されてしまうのである。光化門は景福宮の門であって何処の門でもあらぬ。あの位置とあの背景と、あの左右の壁とを除いて、門にどれだけの生命があるであろう。形体は残っても、それは抽象せられた生命なき形骸けいがいではないか。特に自然と建築との調和をおもんぱかった古人の注意を無視して、それが如何なる意義を保つであろう。もう彼を死から救う事は出来ないであろうか。彼の存在の価値を是認し保護しようとする人はないであろうか。彼はまだ若いのだ。肉体は完全に健康であり、精神は依然として鞏固きょうこではないか。時ならぬ死を彼に迫る罪は、誰が負うべきものであろう。

 おお、光化門よ、如何にお前は寂しく思うであろう。お前の友達の多くはお前よりも先に殺されてしまった。都の西方を飾っていた敦義(西大)昭義(西小)の両門はもう市民の目には入らないのである。先年私は恵化門(東小)を訪ねたが保護する者がないために、その可憐かれんな姿はもう風雨に堪えないように見えた。お前の尊ぶべき兄弟である崇礼門(南大)は城壁から孤立され、縁のない柵によってわずかに守られている。愛してくれる主人のないお前たちは、如何にその短い運命を淋しく想うであろう。死なずにすむはずのお前たちが死なねばならぬこの世を、如何に不自然に私は感じるであろう。
 ああ、門前に安置せられた二個の大なる石獅いしじしよ、よくお前たちは永い間王宮の正門を守ってくれた。寒い時も暑い時も少しもその姿を乱さずに、近づく者の心に権威を以て臨んだ。そうして門に応わしい威厳と確実とを以て宮殿にいや強い美を添えてくれた。お前たちは今も黙々として前面をにらんでいるが、お前たちの主人の身の上に降りかかっている運命を気づいているか。知らないだろうが、もうそれは臨終の床に横たわっているのだ。おお、お前たちすらも動かじと思うその場所から動かされる日が近いのを知っているか。お前たちはどこに取り去られてゆくであろう。私もそれを知らないのだ。否、取り去る人すらもどこに持ってゆくかをその日まで知らないであろう。許してくれ、おれは罪ある者の凡てに代ってあやまりたい。おれはそのしるしにもと思って今筆を取っているのだ。
 あるいは真夏の暑い時に、または空が吹きくる雪に泣いている時、また夕ぐれ半月の鎌が青白く楼上にかかっている時、幾度か私は様々な想いにかられて門を仰ぎ見た事であろう。今もその巨大な姿がありありと目前に浮んでいる。それがこの地上から奪われる日が近いとどうして想い得よう。しかしそれは苦しい現実の出来事なのだ。誰もそれを取り毀す方がいいと言ってはいないはずだ。しかるに如何なる事情がかかる破綻はたんにまでお前を導いたのであろう。
 私は耶蘇ヤソが十字架につけられた時、言った言葉を想い起している。人々は「何をなしているかを知らないのだ」。もし何を為しているかを知っていたら、為すべからざる事を為す、その愚かな罪に陥らずにすんだであろう。
 光化門よ、長命なるべきお前の運命が短命に終ろうとしている。お前は苦しくさぞ淋しいであろう。私はお前がまだ健全である間、もう一度海を渡ってお前にいに行こう。お前も私を待っていてくれ。しかしその前に私は時間を見出してこの一篇を書いておきたい。お前を産んだお前の親しい民族は、今言葉をつつしむ事を命ぜられているのだ。それ故にそれらの人々に代って、お前を愛し惜しんでいる者がこの世にあるという事を、生前のお前に知らせたいのだ。そうしたいばかりに、私はこれらの言葉を記して公衆の前に送り出すのだ。これによってお前の存在がもう一度意識深く人々に反省せられるならどんなに私は喜ぶであろう。そうして私が記す文字によってその意識を永続さす事が出来るならば、お前もそれを喜んでくれるであろう。その事がまた私の悦びでなくして何であろう。
(一九二二年)
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木喰上人発見の縁起




 繰返される質問に対して、簡単にお答えしようと思います。どうして私が上人を研究するようになったか、またどういうふうに調査して来たか、またどうして今日の結果を得るに至ったか。これらくさぐさのことについて。
 不思議な因縁に導かれてここまで来たのです。私とても昨日まで上人について全く無知であったことにおいて、他の方々と何の異なる所もありません。ただ時が満ちたのだと言い得るでしょう。当然現るべきものが現るるに至ったのです。私がこの研究を選んだのではなく、この研究に※(二の字点、1-2-22)たまたま私が招かれたに過ぎないのです。
 しかし私自からを顧みていえば、上人に心をかれるまでに、三つの準備があったと言い得るかも知れません。(これとても私にのみ用意があったのではないのです。それはおそらく程度の問題に過ぎないでしょう)ここに三つの準備というのは次のことを指すのです。私は長い間の教養によって、真の美を認識する力を得ようと努めてきました。私はようやく私の直覚を信じていいようになったのです。(直観が美の認識の本質的な要素だという見解は、もはや私にとっては動かすことの出来ない事実となって来ました)それに私は美の世界から一日でも生活を離したことがないのです。幸にも美に対して私の心は早く速かに動くようになりました。かくしてこれまでこの世に隠れた幾つかの美を、多少なりとも発見して来ました。(十年前私が『ブレーク伝』を書いたのも、またこの数年来、朝鮮李朝藝術の美を擁護しようと努力して来たのも、私の心を動かして止まないものがあったからです)驚くべき上人の作が、私の眼に触れた刹那せつな、私の心は既にその中に捕えられていました。私には躊躇はなかったのです。その日友人にて、「上人は幕末における最大の彫刻家だ」と書かないわけにはゆきませんでした。それほど上人は私の眼を覚まさせました。私が上人を見出したというより、上人に私が見出されたのだといわねばなりません。
 第二に私は民衆的な作品に、近頃いたく心を惹かれていました。日常の実用品として製作されたもの、何らの美の理論なくして無心に作られたもの、貧しい農家や片田舎の仕事場から生れたもの、一言でいえば極めて地方的な郷土的な民間的なもの、自然の中からき上る作為なき製品に、真の美があり法則があるということに留意して来ました。(目下私は余暇を見ては焼物中の「民窯」とも称すべきいわゆる「下手物げてもの」を蒐集しゅうしゅうし、不日ふじつその展覧会と研究とを発表する計画でおります。これによって隠れた驚くべき美の世界を提供し得ると信じているのです)かかる私にとって、彫刻において民衆的特色の著しい上人の作が、異常な魅力を以て迫ったのはいうまでもありません。
 第三に私の専攻する学問は宗教の領域に関するものです。私の注意は究竟きゅうきょうの世界に最も強く惹かれているのです。(貧しいながらも私の二、三の宗教著書は、この世界を追い求めてきたこれまでの生活を語ってくれるでしょう)そうして私が求めた宗教的本質が、上人の作に活々いきいきと具体化されているのを目前に見たのです。私の心は動かないわけにゆきませんでした。特に藝術と宗教とが深く編みなされている世界に、強く心をひかれている私は、それらの要素の完全な結合である上人の作に、自ら近づくべき歩を進めていたのです。宗教藝術の衰えきった近代で、上人に逢うたことは真にオアシスを見出した悦びにもたとえ得るでしょう。
 これらは私に許された準備でした。しかし準備が働きを受けるのは、全く与えらるる因縁によるといわねばなりません。それは私自身が支配し得ることではないのです。人は受け得る位置に置かれてはいるでしょうが、与える位にいてはいないのです。与うる者は常に見えざる無上な力のみなのです。上人と私とに深きゆかりを結ばせたものは、私自身の力ではないのです。何者かが私に贈る命数によるのです。


 それは去年の正月九日のことでした。私は思いついたまま甲州への旅に出ました。一つは小宮山清三氏の所に朝鮮の陶磁器を見に行くためでした。一つは八ヶ岳や駒ヶ岳の冬の自然が見たく日野春あたりを散策したいのが望みでした。また甲州で何か郷土的作品を購いたいと欲していたのです。この旅に私を誘ってくれたのは私の畏友浅川巧君でした。立ったのは前日の八日であって、途中私たちは甲府に降りました。一里近く歩んで池田村に入りましたが、生憎あいにく小宮山氏は不在でした。止むなく近き湯村に一夜を送り、九日の朝早く私たちは再び同氏を訪れたのです。
 小宮山氏とは初対面でした。しかるにその日偶然にも二たいの上人の作が私の目に映ったのです。目に映ったという方が応わしいでしょう。私の求めによって主人が私に示そうとされたのも焼物であって、それらの彫刻ではなかったのです。二躰の仏像は暗い庫の前に置かれてありました。(それは地蔵菩薩と無量寿如来とでした)そうしてその前を通った時、私の視線は思わずそれらのものに触れたのです。(その折もし仏躰に薄い一枚の布が掛っていたとしたら、一生上人は私からかくされていたかもしれないのです!)私は即座に心を奪われました。その口許くちもとに漂う微笑は私を限りなく惹きつけました。尋常な作者ではない。異数な宗教的体験がなくば、かかるものは刻み得ない――私の直覚はそう断定せざるを得ませんでした。座敷に通された時さらに一躰、南無大師の像が安置してありました。その折私は始めて小宮山氏から「木喰もくじき上人」という名を聞かされました。そうして峡南きょうなんの人だということが付け加えられました。
 思いがけない私の驚きに対して、小宮山氏も心を惹かれたと見えます。一躰をお贈りしましょうと申し出られました。私はこの好誼こうぎをどれだけ嬉しく感じましたことか。越えて十六日「地蔵菩薩」はこもに包まれて私の手許てもとに届きました。私は冬の旅から帰った後、風邪を引き床に就いていたのです。私は枕辺にそれを置いてもらいました。眺め入るや私は病苦をも忘れて、またも微笑ほほえみに誘われたのです。(誰がその微笑みに逆らうことが出来るでしょう!)再びその不可思議な仏は私の心を全く捕えました。私はそれに見入り見入り見入りました。(もしこの一像が私に贈られなかったら、あるいは今日の研究に入る機縁を得なかったかもしれませぬ。なぜなら煮えかかっていた私の情を、その贈物が沸騰させてくれたからです。この奇縁に対し私は生涯小宮山氏の志を忘れることがないでしょう)その日私は発願ほつがんし上人の研究に入ることを決心しました。
 それから毎日毎晩、私はその仏と一緒に暮しました。何度その顔を眺め入ったことか。私の室に入る凡ての人も、それを眺めずに帰ることは許されませんでした。見る者は誰も微笑ほほえみに誘われてくるのです。不思議な世界が、漸次ぜんじ濃く私の前に現れてきました。私は小宮山氏と書翰の往復を開始し、種々な質問に答えを求めました。同氏も処々に伝手つてたぐっては出来る限りの知らせを送られました。その結果、上人の故郷が峡南の丸畑という村であること、幾十の仏躰を一緒に刻んで堂に納めたこと、その堂がなお丸畑に残るらしきこと、寛政頃にいた人であったこと、断片的にそれらの予備知識が与えられました。かつ市川大門町の村松志孝氏から、同地に「木喰観正」の碑があり書が残る、との通知を得ました。そうして必ずや観正と五行とは同一人であろうとの考えが付してありました。
 私は何より文献を求めたのです。しかし凡ての仏教辞典にも、あらゆる人名辞彙じいにも上人の名はありませんでした。私は甲州の郷土史にも名をさがしたのです。しかし一行一字の収穫もありませんでした。あの厖大な詳細な松平定能の著『甲斐国志』の中にすら上人の名を発見することが出来ませんでした。『西八代郡誌』にも注意したのですが、最近の発行になったものにも、上人について一字も言及していないのです。なべて郷土史は些細ささいなことを大事そうに書くものですが、上人については全く無言でいるのです。どうしても自身で直接の資料を見出さねばならない。もとより何が得らるるかは分らない。しかし自身で故郷をおとなうより他に道はない。私はこの願望を棄てず、時の熟するのを待ちました。その間私は幸にも、東京において上人の作を二十躰余り目撃することが出来たのです。
 研究に入る時期は知らずして私に近づいて来ました。その年の四月、私が四、五年の間ひそかに浅川君兄弟の援助を得て努力してきた「朝鮮民族美術館」の建設がほぼ成就じょうじゅしました。そうして京城景福宮内緝敬堂しゅうけいどうに一切の蒐集品を陳列するようになり、その開館を終えて仕事に一段落がついたのです。(この仕事に終結の時期はないのです!)それで私は新しい私の努力を、上人研究に注ぐよい機会を捕えたのです。
 それに震災で兄を失った私は家事の都合上、東京を引き払って京都に移住しました。その結果東京で持っていた一切の講義を中止し凡ての時間は自由になりました。経済的には無謀でしたが、私は京都での新しい仕事をも全く放棄して、上人の研究にかかることに決心したのです。それほど私の心は上人のことに惹かれていました。全くこの一年は毎日毎日を上人のことのみで暮しました。(ある人は私に向って、金と暇とがあるから研究が出来たのだと批評します。しかしこの批評は真理への探究が何を意味するかを少しも知らない処から来るのです。金と暇とは上人への熱情を起させないでしょう。まして努力を産まないでしょう。私は不幸にして金銭において全く自由な人が、精神的仕事に没頭した例を多く知らないのです。私は余裕ある仕事をしたのではなく、余裕なき仕事にとりかかったのです。他の一切の仕事を私は放棄しました)かくして私が上人の調査に就くゆかりは、漸次固く結ばれました。


 越えて丁度半歳の後、大正十三年六月九日、願は満たされ私は再び甲州に入ったのです。その日は池田村に過ごし、翌十日は五、六人の一行で市川大門町に木喰観正の碑を点検しました。しかし私の疑いはつのり、求めつつある木喰上人と観正とは関係なきことをほとんど確実にしました。最初の失敗に気を沈めましたが、上人の故郷といわれる丸畑は富士川の下七、八里の所にあるのです。鰍沢かじかざわにおいて私は一行と別れ、ただ一人夕ぐれの流れに沿うて道を下りました。その夜は飯富に宿ったのです。六月十一日、運命はついに私の足を上人の故郷丸畑へ入らせました。波高島で舟を棄て下部に入りそこで幸に案内を得、二里余り常葉川をさかのぼりました。暑い午後の光に山路を縫うて歩む私たちは汗にひたりました。
 私はその日まで丸畑が何村に属するかをも熟知していなかったのです。もとより血縁の一族が今なおその地に住むかどうか、また何がそこに残されているか、それらのことについてほとんど凡てのことは知られていませんでした。長塩という村から左に折れ急坂をじ尽した時、南沢なみさわという一部落へ出ました。そこは富里分の丸畑であって、そこに上人作の内仏があると教えられました。突如私の目前に取り出されたものは馬頭観世音ばとうかんぜおんの一躰でした。それを眺めた時、私の呼吸はしばし奪われました。私は再び上人の異数な表現に逢着ほうちゃくしたのです。くすぶる仏壇から更に取り出されたもの数躯すうく、別に一枚の奉納額。今や封じられた秘密は私の前に展開して来たのです。私は導かれるままに小径こみちを縫うて上人の生家へと案内されました。私の心は種々なる期待に満たされていました。奇異な眼で私を取り囲む人々の中に立って私は繰返し繰返し種々な問いを発しました。土地の人も見慣れぬ一旅客のために、答える言葉に忙しいのです。伝えらるる口碑こうひを聞きらさじと私は書き取りました。上人は漸次その姿を私の前に現してきました。かつてうわさに聞いた堂の有無が気がかりでした。私はそれが建てられていた場所を訪うたのです。しかしそれはもはやこの村からなくなっていたのです。私がその跡をとむらった時、ただ一基の石塔が昔を語ってくさむらの中に捨ててあるばかりでした。私は戻ってまた血縁の一族を訪ね、残る問いを試みたのです。何よりも求めた文献について人々の知識は明かでありませんでした。もう夕ぐれは近づいて来ました。私は文書を得る望みを棄てて山を降りようとしたのです。しかしもう一度と思って上人の筆になる書類がないかを繰返して尋ねました。その時一人の若い農夫が手に古びた紙片をもたらして、これに書いてあるはずだがといって私に手渡ししました。私は薄あかりの中に紙を近よせて文字を辿たどったのです。「クハンライコノ木喰五行菩薩事ハ」と書き起された文句、それに奥書おくがきの自署花押かおう、それが上人自筆の稿本であり、かつ自叙伝であるということは疑う余地がないのです。その折の私の嬉しさは、今も忘れることが出来ませぬ。どうしてもこれのみは筆写して帰らねばならない。幾度かの懇望の後、ついに私の求めはれられて、その夜のうちにこれを写しとることになったのです。里人の好意によって一夜をその村にあかすことになりました。私は飢える想いで読みふけったのです。紙数にしたらわずかなものでしたが、慣れぬ字体と仮名の多い文と異なる文体とは、その閲読えつどくに長い時を要しました。ほぼ通読し得て後、私は字を追って書きとったのです。筆を終えた時、既に空は白んでいました。
 その間に私には忘れ得ぬことが起りました。稿本の中に上人が当村寺の本尊五智如来を刻んだということが書いてあったのです。尋ねた結果今なお残ると聞いて、私は明日を待てず、真夜中燈火をつけて寺へと指したのです。無住むじゅうの廃寺にきしる戸の響きは、音なき山里に時ならぬ木霊こだまを送りました。荒れはてた床を踏んで内に入り、燈火を高く掲げた時、仏壇の前方、並ぶずしの中央に世尊の顔が幻の如く浮び出ました。「おお」――思わず声がれた時、居並ぶ左右の四躰がなおも私の前に現れて来ました。
 朝の六時頃、私は約束を守って稿本を返しに農家を訪ねました。その時はからずも、上人が背負いしという貧しい箱が更に私の前に取り出されたのです。これが実に上人研究の出発を与えたといわねばなりません。誰も開く者なく顧みる者なく、放置せられたその箱の中に、実に一切の秘密はかくれていました。あるいは『納経帳』あるいは『御宿帳』あるいは『和歌集』など、貴重な幾多の稿本が次ぎ次ぎにそれから現れてきたのです。それは百余年の間封じられたまま、ちりと煤煙とに被われて、訪う人もない山間の一農家の中に埋もれていたのです。その箱を開いて現れてくる稿本を一々点検した時の私の驚きや悦びを察して下さるでしょう。私の訪問は十二分のむくいを以て迎えられたのです。
 調査は到底一日や二日では出来ない。私はそれを知って凡てを準備するために山を降り一度帰洛きらくしました。しかし時を移さず三週の後、私は再び京都を発って丸畑へと入ったのです。それは七月の三日でした。この訪問は一切の史料を借り受けて、上人研究の確実な第一歩を踏み出したいがためでした。しかし交渉は幾多の困難に逢遇ほうぐうしました。繰返さるる説明と、実に私自身並びに三人の捺印なついんを要した証文によって、ついに望をぐるに至ったのです。私たち五、六人の一行は朝早く発ったのですが、凡ての交渉を終った時は既に日は西に没していました。(私たちは史料をかかえて再び下部へと降りました。私は特にこの借用について石部惟三氏と小宮山氏との斡旋あっせんを忘れ難く思います)
 この両度の訪問によって幸にも上人研究の基礎的準備が用意せられました。私は上人の自筆にかかる諸稿本にもとづいて、一切を発足させることが出来たのです。かくして私の発願は幸福な環境のうちに生い立ってゆきました。なぜなら発見せられた稿本の中には、自叙伝とも見るべきものや、旅行記ともいうべきものや、また教理を説いたものや、また折にふれつづった和歌等が含まれていたのです。廻国の折日々携えていた『納経帳』も、ごくわずかな欠損のみでほとんど完全に残されていました。それがため昨日までは全く埋没されていた上人の一生は、確実な資料のもとに誤りなき存在を歴史に刻むようになったのです。運命の車輪は不思議にも廻転しました。俄然がぜん事情は変り、ほとんど日々の上人が私たちの前に明晰めいせきな姿を現してきました。


 私とてもこの研究がかく拡大されようと予期してはいませんでした。またかく速かに展開しようとも予測していませんでした。始めは甲州の上人としてのみ考えていたのです。それに遺作は丸畑にのみ残したのだと思っていました。他にあってもそれを見出し得ると期待してはいませんでした。しかし凡てのことは予期を越えて限りなく展開しました。どうして私が上人の遺作を諸国に発見するに至ったかを簡単に言い添えておこうと思います。
 上人の稿本の中に、「本願として仏を作り因縁ある所にこれをほどこす」ということや、仏躰裏に「千躰のうち」と記した言葉等によって、彼の遺作がその量において多く、分布において広いことを察することは出来ますが、何が何処に刻まれているか、それらのことに言い及んでいる個所は少いのです。ある場合は「薬師納」とかまた単に「奉納」とか記してはありますが、あれほどの遺作に対してほとんど何らの記事も残していないのです。しかし私は次の判断において、将来上人の遺作を発見し得べき土地を予想することが出来たのです。
 残してある二冊の『御宿帳』を見ますと、それには日々の日付と地名と宿りし家とをくまなく記してはありますが、その中に日付のとんでいる個所があり、また「何日より何日まで」と滞在の日を数えている場合があり、また「何日立つ」と短く記してある個所があるのです。私はこれによって日付のない期間を滞留期と見做みなし、その期間の長い場所には、必ずや遺作がなければならぬと判断したのです。私はまず主な個所を選び、次々にそれらの地に調査を企てたのです。私が佐渡に渡ったのも、遠州の寒村狩宿を訪ねたのも、または日向ひゅうがの国や長州の村々を調査したのも、皆この予想のもとに試みたのです。調査はしばしば困難でした。なぜならそれは多く名も知れぬ片田舎にあるからです。かつほとんど、どの土地でも上人の名を覚えていないからです。まして上人の作を大切に保存している寺はごくまれにしかないからです。尋ねど訪ねど見当らず、佐渡の奥に入って茫然ぼうぜんとした日を今も想い起します。または四国に渡って異なる九個所を一週日の間かかって調べ、その中わずか一カ所に二躰を見出したに過ぎなかったこともあるのです。しかし凡ての調査はあり余るむくいを以て迎えられました。むしろ行くところ見当らざるなき有様でした。私は鼓舞せられ、東へまたは西へ足跡を追って発見に努めました。私はそれらの仏のほとんど凡てを、うず高きちりの下から取り出しました。
 わずか数個の字に過ぎなくとも、記録の有難さをしみじみ感じました。もし『御宿帳』が残っていなかったら、上人の遺作は忘れられたまま、ついに朽ち果てたものが多いでしょう。なぜなら、誰もその広汎な分布区域について知ることは出来ないからです。まして僻陬へきすうの地にあるそれらのものを見出すことはほとんど望み難いからです。それに大部分はつまらない作として物置のような所に放置せられ、守る僧もなく虫のむに任せてあるからです。もう五年十年の後であったら、如何に多くその数は減じているでしょう。私ならびに私の友は、実によい時期に上人の招きを受けたのです。貴重な文字は次ぎ次ぎにかくれた謎を解いてくれました。
 佐渡や日向のような留錫りゅうしゃく期間の長い個所に、幾多の遺作があることは当然ですが、今日までの調査では滞留わずか三日間の所にすら形見かたみが残るのです。それ故如何に調査せねばならぬ個所が多いか。また如何に区域が広いか、また如何にその数が多量であるか。研究は多大な時間と精力と費用とを要求しているのです。『納経帳』および『御宿帳』に現れる日付は安永二年に始まり寛政十二年に終るのですから、その間二十八カ年が過ぎています。これは上人が日本廻国の期間を語るのであって、北は松前庄熊石に上り、中央は本州の凡てを通じ、南は四国、九州にわたるのです。その足跡は扶桑ふそう全土に及んでいます。そうしてそれらの国々に多かれ少かれ彼の製作が残るのです。私はこの調査が尋常なものでないことを知るに至りました。またよく一個人において完全になし得るものでないことをも知るに至りました。
 私は調査の基礎を築くために、一切の稿本を整理しました。そうして廻国の遍歴が始まる時からそれが終るまでと、終りし以後更に十カ年をも合せ、日表を編纂へんさんし、その足跡と滞留の個所と期日とを明瞭にしようと試みました。都に留まるよりも好んで片田舎に杖を止めた上人のこと故、その足跡の調査はしばしば困難を加えました。町や村ではなく、名も知れぬ小字こあざを地図の上に見出すのに多くの時を要しました。その地方の人でなくば知り得ない地名が沢山現れてきます。私は一つの場所に数時間かかっても地図の上に見出すことが出来なかった場合があるのです。(私は「二十万分の一図」で日本全土の地図を買い求め、なお不明の所は「五万分の一図」に依りました)しかも上人の『御宿帳』はほとんど全部仮名書であるため、その地名を本字に当てめるのが容易ではありませんでした。まして字体が読みにくかったり仮名遣いが誤っていたり、地方的な特別の読み方があったり、または郡村の名が昔と今日と異なったりしている場合、私はことのほか多くの難儀をめたのです。(私はあの苦心より成った大著、吉田東伍氏の『大日本地名辞書』にしばしば啓発せられたことをここに書き添えたく思います)私はともかくこの整理によって、上人の驚くべき足跡線を、ほぼ地図の上に現すことが出来るようになりました。


 私は去年の夏以来間断なく旅行を企てました。この半歳の間家にいる日はわずかでした。帰れば調査の整理に忙殺され、他を顧みる暇なく、原稿はしばしば汽車の中で記しました。それらの結果は貧しいながら、去年の九月から今年の三月まで七回にわたって雑誌『女性』に連載した「研究」に語られているわけです。月々の調査に加えて、それをまとめ月々起稿することは、私に少しの休養をも許しませんでした。締切の督促は心をせかせます。しかも研究は細密な注意を要するのです。しかし幸にも凡ての困難を打ち切りました。私の健康は私に味方をしました。隠れたる力は常に私を守護しました。恵みなくしては何事をも成し遂げ得なかったでしょう。私が上人を見出すのではなく、上人が彼自身を示しつつあったのです。私は上人に招かれるままに仕事を進めて行ったに過ぎません。
 去年の旅は甲州に始まり、佐渡を訪ね野州に入り、参州や駿州すんしゅうを廻って後、越後に深く入りました。今年になってからは豊後ぶんご、日向を調査し、帰って四国に旅立ち、信州に行き、また最近には周防すおう、長門を経て石見いわみに入りました。丹波たんばを訪うたのはわずか旬日前のことです。そうしてこれらの旅によって私が目撃し得、調査し得た仏躯およそ三百五十躰、別に集め得た和歌凡そ五百首、撮影した写真は六百枚に達するでしょう。
(しかしこの旅は上人の足跡のまだ何分の一に過ぎないでしょう! そうして見出した仏躯も千躰を越ゆる上人の作のまだ四分の一に過ぎないのです。私の企てた間断なき努力も、上人の残した仕事の前に立って、幾許いくばくの量を示し、幾何いかほどの深さを告げ得るでしょう!)
 もし今日までの調査に、見るべき成績があるなら、それは私を助けてこの調査を進めた諸友の好誼こうぎに帰すべきものといわねばなりません。何といっても「研究会」の成立は、この研究の完成を助ける大きな力となりました。今では一切の経済と事務とは研究会員の寄進と努力とに依るのです。特に上人を産んだ郷土である関係上、甲州においてこの会は育くまれ生い立ってきました。私は小宮山清三、若尾金造、雨宮栄次郎、野々垣邦富、山本節、村松志孝、石部惟三、小泉源、中島為次郎、野口二郎、大森禅戒の諸氏を始め、感謝すべき多くの方々を記憶します。
 しかし私が受けた好意は甲州においてのみではないのです。越後において吉田正太郎、勝田加一、桑山太市、広井吉之助らの諸氏が、私の研究を援助せられたことを特筆したく思います。一つの文献的根拠を持たない享和三亥以後二カ年余りの遺跡が、ほとんど全部明らかにせられたのは、それらの諸氏の努力に負う所が多いといわねばなりません。
 また佐渡における上人の遺跡調査は最近ますます微細に入りました。それは主として若林甫舟、中川雀子、川上喚濤の三氏を始め、その他多くの方々のまざる努力に依るのです。この半歳の間佐渡さどで見出された仏躰凡そ三十個、書軸六十余本の多きに達しました。
 私はまた上人に関する一切の史料を私の手に委ねられた伊藤瓶太郎氏にはもとより、多くの寺々の住持に対して尽きぬ感謝の意を述べたく思います。そうして各地の未知の友から受ける懇切な通信によって、如何に私の仕事が鼓舞せられ、かつ進捗しんちょくされたかを表明せねばなりません。
 終りに研究雑誌の発刊が、今や上人の遺業を世に伝える機関となったことを言い添えたく思います。そうしてこの仕事のみならず出版に関する煩雑はんざつな仕事の一切を担任する式場隆三郎君の理解と努力とに深き感謝を送りたいと思います。
 かくして世から忘れられた上人は、忘れ得ぬ記憶を歴史に彫刻しつつあるのです。昨日を追懐し今日を考え、不可思議な因縁の働きを想う時、心の激するのを抑えることが出来ませぬ。既に帝都においては三度、また郷土において旧都において、上人の遺作展覧会は開催せられ、それは幾千の人々の脳裡に深き印象を鏤刻るこくしました。今や讃仰さんぎょうの声は凡ての国から起ってきました。そうして理解ある凡ての人々の新たな驚愕きょうがくとなっています。私たち志を同じくする者は、更に力を集めて上人の徳を永く世に讃えようとするのです。事ここに至った縁起えんぎを述べ、その悦びを仏天に感謝し、かつは上人彼みずからの徳に帰すことをねがい、ここに短き筆をきたく思います。
(一九二五年)
[#改ページ]

雑器の美




 無学ではあり貧しくはあるけれども、彼は篤信な平信徒だ。なぜ信じ、何を信ずるかをさえ、充分に言い現せない。しかしその素朴な言葉の中に、驚くべき彼の体験がひらめいている。手にはこれとて持物はない。だが信仰の真髄だけは握り得ているのだ。彼が捕えずとも神が彼に握らせている。それ故彼には動かない力がある。
 私は同じようなことを、今ながめている一枚の皿についてもいうことが出来る。それは貧しい「下手げて」とさげすまれる品物に過ぎない。おご風情ふぜいもなく、華やかな化粧もない。作る者も何を作るか、どうして出来るか、詳しくは知らないのだ。信徒が名号みょうごうを口ぐせに何度も唱えるように、彼は何度も何度も同じ轆轤ろくろの上で同じ形を廻しているのだ。そうして同じ模様を描き、同じくすり掛けを繰返している。美が何であるか、窯藝とは何か。どうして彼にそんなことを知る智慧ちえがあろう。だが凡てを知らずとも、彼の手は速やかに動いている。名号は既に人の声ではなく仏の声だといわれているが、陶工の手も既に彼の手ではなく、自然の手だといい得るであろう。彼が美を工夫せずとも、自然が美を守ってくれる。彼は何も打ち忘れているのだ。無心な帰依きえから信仰が出てくるように、おのずからうつわには美がいてくるのだ。私はかずその皿を眺め眺める。


 雑器の美などいえば、如何にも奇をてらう者のようにとられるかも知れぬ。または何か反動としてそんなことを称えるようにも取られよう。だが思い誤られやすい聯想を除くために、私は最初幾つかの注意を添えておかねばならない。ここに雑器とはもとより一般の民衆が用いる雑具のいいである。誰もが使う日常の器具であるからあるいはこれを民具と呼んでもよい。ごく普通なもの、誰も買い誰も手に触れる日々の用具である。払う金子きんすとてもわずかである。それも何時何処においても、たやすく求め得る品々である。「手廻りのもの」とか「不断遣ふだんづかい」とか、「勝手道具」とか呼ばれるものを指すのである。ゆかに飾られ室をいろどるためのものではなく、台所に置かれ居間に散らばる諸道具である。あるいは皿、あるいは盆、あるいは箪笥たんす、あるいは衣類、それも多くは家内うちづかいのもの。ことごとくが日々の生活に必要なものばかりである。何も珍しいものではない。誰とてもそれらのものを知りぬいている。


 しかし不思議である。一生のうち一番多く眼に触れるものでありながら、その存在は注視されることなくして過ぎた。誰も粗末なものとのみ思うからであろう。さながら美しきものが彼らの中に何一つないかのようにさえ見える。語るべき歴史家でさえ、それを歴史に語ろうとは試みない。しかし人々の足許から彼らの知りぬいているものを改めて取上げよう。私は新しい美の一章が今日から歴史に増補せられることを疑わない。人々は不思議がるであろうが、その光はいぶかりの雲をいち早く消すであろう。
 しかしなぜかくも長くその美が見捨てられたか。花園に居慣れる者はその香りを知らないといわれる。余りに見慣れているが故に、とりわけ見ようとはしないのである。習性に沈む時反省は失せる。まして感激は消えるであろう。それらのものにひそむ美が認識されるまでに、今日までの長い月日がかかった。私たちはあながちそれをとがめることは出来ぬ。なぜなら、今までは離れてそれらのものを省みる時期ではなく、まだそれらのものを産み、その中に生きつつあったからである。認識はいつも時代の間隔を求める。歴史は追憶であり、批判は回顧である。
 今や時代は急激にその方向を転じた。凡てのものが今日ほど忙しく流れ去ることはまたとないかもしれぬ。時も心もまたは物も、過去へと速かに流れた。因襲の重荷は下ろされたのである。私たちの前には凡てが新しく廻転する。未来も新しくまた過去も新しい。慣れた世界も今は不思議な世界である。吾々の眼には、改めて凡てのものが印象深く吟味される。それはぬぐわれた鏡にも等しい。一切が新しく鮮かに映る。善きものも悪しきものも、その前には姿をいつわることが出来ぬ。いずれのものが美しいか。それを見分くべきよき時期は来たのである。今は批判の時代であり意識の時代である。よき審判者たる幸が吾々に許されてある。私たちは時代の恵みとしてそれをむなしくしてはならない。
 ちりに埋もれた暗い場所から、ここに一つの新しい美の世界が展開せられた。それは誰も知る世界でありながら、誰も見なかった世界である。私は雑器の美について語らねばならない。またその美から何を学び得るかを語ろうとするのである。


 毎日触れる器具であるから、それは実際にえねばならない。弱きもの華やかなもの、み入りしもの、それらの性質はここに許されていない。分厚ぶあつなもの、頑丈がんじょうなもの、健全なもの、それが日常の生活に即する器である。手荒き取扱いやはげしい暑さや寒さや、それらのことを悦んで忍ぶほどのものでなければならぬ。病弱ではならない。華美ではならない。強く正しき質をたねばならぬ。それは誰にでも、また如何なる風にも使われる準備をせねばならぬ。装うてはいられない。偽ることは許されない。いつも試煉を受けるからである。正直の徳を守らぬものは、よきうつわとなることが出来ぬ。工藝は雑器において凡ての仮面を脱ぐのである。それは用の世界である。実際を離れる場合はない。どこまでも人々に奉仕しようとて作られた器である。しかし実用のものであるからといって、それを物的なものとのみ思うなら誤りである。物ではあろうが心がないと誰がいい得よう。忍耐とか健全とか誠実とか、それらの徳は既に器の有つ心ではないか。それはどこまでも地の生活に交わる器である。しかし正しく地に活くる者に、天は祝福を降すであろう。よき用とよき美とは、そむく世界ではない。物心一如であるといい得ないであろうか。
 彼らは勤め働く身であるから、貧しく着、慎ましく暮している。しかしそこには満足が見える。彼らはいつもすこやかに朝な夕なを迎えるではないか。顧みられない個所で、無造作に扱われながら、なおも無心に素朴に暮している。動じない美があるではないか。わずかの接触でおののくほどの繊細さにも、心を誘う美しさがある。しかし強き打撃に、なおも動ぜぬ姿には、それにも増して驚くべき美しさが見える。しかもその美しさは日毎ひごとに加わるではないか。用いずば器は美しくならない。器は用いられて美しく、美しくなるが故に人は更にそれを用いる。人と器と、そこには主従のちぎりがある。器は仕えることによって美を増し、主は使うことによって愛を増すのである。
 人はそれらのものなくして毎日を過ごすことが出来ぬ。器具とはいうも日々の伴侶はんりょである。私たちの生活を補佐する忠実な友達である。誰もそれらに便たよりつつ一日を送る。その姿には誠実な美があるではないか。謙譲の徳が現れているではないか。凡てが病弱に流れがちな今日、彼らのうちに健康の美を見ることは、恵みであり悦びである。


 そこにはとりわけて彩りもなく飾りもない。至純な形、二、三の模様、それも素朴な手法。彼らは知を誇らず、風におごらない。奇異とか威嚇いかくとか、少しだにそれらのたくらみが含まれない。いどむこともあらわなさまもなく、いつも穏かであり静かである。時としては初心な朴訥ぼくとつな、控目がちなおももちさえ見える。その美は一つとして私たちを強いようとはしない。美をてらう今日であるから、わけてもそれらの慎ましい作がしたわしく思える。
 それらの多くは片田舎の名も知れぬ故郷で育つのである。または裏町の塵にまみれた暗い工房の中から生れてくる。たずさわるものは貧しき人の荒れたる手。つたなき器具やあらき素材。売らるる場所とても狭き店舗てんぽ、または路上のむしろ。用いらるる個所も散り荒さるる室々。だが摂理は不思議である。これらのことが美しさを器のために保障する。それは信仰と同じである。宗教は貧の徳を求め、智におごる者をいましめるではないか。素朴な器にこそ驚くべき美が宿る。
 作は無慾むよくである。仕えるためであって名を成すためではない。丁度労働者が彼らの作る美しき道路に名を記さないのと同じである。作者はどこにも彼の名を書こうとは試みない。ことごとくが名なき人々の作である。慾なきこの心が如何に器の美をきよめているであろう。ほとんど凡ての職工は学もなき人々であった。なぜ出来、何が美を産むか、これらのことについては知るところがない。伝わりし手法をそのままにけ、惑うこともなく作りまた作る。何の理論があり得よう。まして何の感傷が入り得よう。雑器の美は無心の美である。
 名も無き作であるから、私たちは作者の歴史をつづることは出来ぬ。作る者は優れた少数の個人ではなく、あの凡夫と呼ばれる衆生しゅじょうである。あの驚くべき器の美が民衆より生れたとは何を語るであろう。かつて美は凡ての共有であって、個人の所有ではなかった。私たちは民族の名において、時代の名において、その労作を記念せねばならぬ。知に劣る民衆も、作においてはひいでた民衆である。今は個人のみ活きて時代は沈む。しかしかつては時代が活き、個人は自からをかくした。わずかな作者から美が出るのではなく、美の中に多くの作者が活きた。雑器は民藝である。


 注意さるべきは素材である。よき工藝はよき天然の上に宿る。豊かな質は自然が守るのである。器が材料を選ぶというよりも、材料が器を招くとこそいうべきである。民藝には必ずその郷土があるではないか。その地に原料があって、その民藝が発足する。自然から恵まれた物資が産みの母である。風土と素材と製作と、これらのものは離れてはならぬ。一体である時、作物は素直である。自然が味方するからである。
 原料が失われたら、むしろその工房は閉じられねばならぬ。材料に無理がある時、器は自然のとがめを受ける。また手近くその地から材料を得ることなくば、どうして多くを産み、やすきを得、すこやかなものを作ることが出来よう。一つの器の背後には、特殊な気温や地質やまたは物質が秘められてある。郷土的かおり、地方的彩り、このことこそは工藝に幾多の種を加え、味わいを添える、天然に従順なるものは、天然の愛をける。この必然性を欠く時、器に力は失せ美はせる。雑器に見られる豊かな質は、自然からの贈物である。その美を見る時、人は自然、自からを見るのである。
 これのみではない、凡ての形も、模様も、原料に招かれるのだというべきであろう。その間にはいつも必然なゆかりが結ばれてくる。よき化粧とは身に施すものではなく、身に従うものであろう。原料をただの物資とのみ思ってはならぬ。そこには自然の意志の現れがある。その意志は、如何なる形を如何なる模様を有つべきかを吾々に命じる。誰もこの自然の意志にそむいて、よき器を作ることは出来ぬ。よき工人は自然の欲する以外のことを欲せぬであろう。
 このことはよき教えではないか。神の子たるを味わう時、信のほのおは燃えるであろう。同じように自然の子となる時、美に彼は彩られるであろう。せんずるに自然に保障せられての美しさである。母のその懐に帰れば帰るほど、美はいよいよ温められる。私はこの教えのよき場合を雑器の中に見出さないわけにゆかぬ。


 日々の用具であるから、稀有けうのものではなく、いつも巷間こうかんに準備される。こぼたれるとも更に同じものがそれに代る。それ故生産は多量でありまた廉価である。これは数量のことに過ぎぬと思うであろうが、この事実こそは工藝の美に不思議な働きを投げる。時として多産は粗雑に流れる恐れもあろう。しかしこのことなくして雑器の美は生れてこない。
 反復は熟達の母である。多くの需要は多くの供給を招き、多くの製作は限りなき反復を求める。反復はついに技術を完了の域に誘う。特に分業に転ずる時、一技において特にえる。同じ形、同じ絵、この単調な循環じゅんかんがほとんど生涯の仕事である。技術にまったき者は技術の意識を越える。人はここに虚心となり無に帰り、工夫を離れ努力を忘れる。彼は語らいまた笑いつつその仕事を運ぶ。驚くべきはその速度。否、速かならざれば、彼は一日のかてを得ることが出来ぬ。幾千幾万。この反復において彼の手は全き自由をかち得る。その自由さから生れ出づる凡ての創造。私は胸を躍らせつつ、その不思議な業を眺める。彼は彼の手に信じ入っているではないか。そこには少しの狐疑こぎだにない。あの驚くべき筆の走り、形の勢い、あの自然な奔放ほんぽうな味わい。既に彼が手を用いているのではなく、何者かがそれを動かしているのである。だから自然の美が生れないわけにはゆかぬ。多量な製作は必然、美しき器たる運命を受ける。
 それは驚くべき円熟の作である。あの雑器と呼ばれる器の背後には、長き年月と多くの汗と、限りなき繰返しとがもたらす技術の完成があり、自由の獲得がある。それは人が作るというよりも、むしろ自然が産むとこそいうべきであろう。「うま」と呼ばれる皿を見よ、如何なる画家も、あの簡単な渦巻うずまきを、かくも易々やすやすと自由に画くことは出来ないであろう。それは真に驚異である。凡てが機械に帰る近き未来においては、かつて人の手が如何なる奇蹟をなし得たかを信じ難くさえなるであろう。


 民藝は必然に手工藝である。神を除いて、手よりも驚くべき創造者があろうか。自在な運動から、全ての不可思議な美が生れてくる。如何なる機械の力も、手工の前には自由を有たぬ。手こそは自然が与えた最良の器具である。この与えられた恵みにそむいて、何の美を産み得るであろう。
 不幸にも経済的事情に強いられて、今はほとんど凡てが機械の業にゆだねられる。そこからもある種の美は生れてこよう。あながちそれをみ嫌ってはならぬ。しかしその美には限りがある。人は無制限に無遠慮にその力を用いてはならぬ。それはいつも規定の美に止まるであろう。単なる定則は美の閉塞へいそくに過ぎない。機械が人を支配する時、作られるものは冷たくまた浅い。味わいとか潤おいとか、それは人の手に托されてある。その雅致を生み、器の生命を産む面の変化、けずりの跡、筆の走り、刀のえ、かかるものをまで、どうして機械が作り得よう。機械には決定のみあって創造はない。今のままなら、ついに人の労働から自由を奪い、喜びを奪うであろう。かつては人が器具を支配し得たのである。この主従の二が正しい位置を保つ時、美は温められ高められた。
 手工藝の終りが近づいて来た今日、祖先が作った雑器こそは、貴重な遺品である。民藝が手工である時期は、今や過去に流れようとしている。苦しい事情はかかるものの復興を阻止している。今日の不合理な勢いのもとでは、一度すたれると、民藝として栄える日は二度とは戻り難いであろう。ただ伝統を守り続ける地方のみが、今も正しい手工藝の道を歩む。そうしてわずかばかりの個人がそれを助けようと努力している。しかし「手工に帰れよ」という叫びは、いつも繰返されるであろう。なぜならそこにこそ最も豊かに、正しき労働の自由があり、正しき工藝の美が許されているからである。かくて手工のしるしである今日までの民器が、愛を以て顧みられる日は来るにちがいない。歴史は傾くとも、その美に傾きはない。時と共にその光はいや増すであろう。


 この世界に来る時、作る心も作られる物も、または用いる手法も凡てが至純である。この単純さこそは要求せられた器の性質である。人はこの言葉を粗野という字に置き換えてはならぬ。この性質にこそ美の保障がある。よき藝術で単純さを欠いたものがあろうか。または錯雑が美を産んだ例が沢山あろうか。単純を離れて正しき美はない。物は雑器と呼ばれてはいるが、純一なその姿にこそかえって美の本質が宿る。人は藝術の法則を学ぶために、むしろ普通な誰も知るこれらの世界に来ねばならぬ。
 悟得ごとくするものは無碍むげである。自然に任ずるこれらの作も自由の境に活きる。よき手工の前に、単なるおきては存在を有たない。物に応じ心に従って、凡てが流れるままに委ねられる。如何なる形も色も模様も彼らの前に開放される。どれを選ぶべきか、定められた掟はない。それが何の美を産むか、かかることにこだわる心さえ有たぬ。しかし誤りはない。彼が気儘きままに選ぶのではなく、自然が選ぶ自由に、彼を托しているからである。
 この自由こそは、創造の母であった。雑器に見られる極めて豊かな種類と変化とは、このことを如実に語る。変化は作為が産むのではない。作為こそは拘束である。凡てが天然に托される時、驚くべき創造が始まる。技巧の作為が、どうしてあの奔放ほんぽうな味わいを産み得よう。またはかくまで豊かな変化を発し得よう。ここにはいたずらな循環がなく、単なる模造がない。常に新たな鮮かな世界への開発がある。
 あの「猪口ちょこ」と呼ばれる器を見よ。その小さな表面に、画き出された模様の変化は、実に数百種にさえ及ぶであろう。しかもその筆致の妙を、誰か否むことが出来よう。ありふれたしまものの如きでさえ、同一のものはかえって見出し難いのを知るであろう。民藝は驚くべき自由の世界であり創造の境地である。


 不断遣いのものであるから粗略にされて、遠い過去のものはわずかより残らぬ。残るともその種類は乏しいであろう。日本において工藝が特に多様になったのは、ここ二、三世紀の間である。漆器、木工はもとより、あるいは金工、あるいは染織、下っては陶磁器。それらは多種な調度に適応せられた。雑器のよき歴史がようやく傾き始めて、正しい手工が終りに近づいたのは明治の半頃である。だがかくれた地方には、まだ手法や様式の伝統が支持されて、古格を保つものが少くない。今日残る雑器は、江戸時代のものが多いのであるから、種類もあり数も乏しくはない。
 徳川の文化は平民の所有であった。文学においてそうであり、絵画においてそうである。残された雑器も、民衆によって保持された文化のよき一部を占める。ただそれは浮世絵の如き、みやこびた繊細な文化を語るのではない。素朴な確実な郷土の風格を保有する。優美な姿はなくとも、ことごとくが便りになる篤実な伴侶はんりょである。もし共に暮すなら、日に日に親しみは増すであろう。それらのものが傍にある時、真に家に在るくつろぎを覚えるであろう。
 概して見るならば、美の歴史は下り坂であった。昔に競い得る新たなものはまれであろう。時代が下降するにつれて技巧は無益な煩雑を重ねた。手工はその重荷に悩んで、生気は次第に失せた。丹念とか精巧とか、それらの特質はあるかもしれぬ。だが単純に包まれる美の本質は殺されてしまった。自然への信頼は人為的作法にしいたげられて、美には凋落ちょうらくの傾きが見える。だがこの悲しい歴史に交わって、ひとりこの流れに犯されなかったのは、実に雑器の類である。ここには病原が少い。美術の圏外に放置せられたためか、作る者は美の意識にわずらわされずしてすんだ。末期においても健全な美を求めようとするなら、私たちはこの領域に来ねばならぬ。姿は貧しくはあろう。しかし何ものの間に伍しても、その確かな存在が破れる場合はない。試みに一個の焼物を選んで、その裏を見られよ。よく支那や朝鮮のあの高台こうだいの強さに比べ得るものは、かかる雑器においてのみである。この世界に弱さはない。否、弱きものは日々の器たるに堪えることが出来ぬ。

一〇


 しかし力はこれに止まらない。固有な日本の存在がそれによって代表される。もとより絵画において彫刻において、日本自からの栄誉を語る幾多のものがあろう。しかし概していうならば、唐土の遺風を脱し得たものは少く、韓土の影響を離れ得たものも乏しい。ましてそれらに拮抗きっこうし得る力と深さとにちるものはまれだといわねばならぬ。偉大である支那の前に、優雅である朝鮮の前に、私たちは私たちの藝術を無遠慮に出すことが出来ぬ。
 しかし雑器の領域に来る時、その稀な例外の一つの場合に来るのである。そこには独自の日本がある。充分な確実さと、充分な自由と、充分な独創とがここに発見される。それは模倣もほうではない、追従ではない。世界の作に伍して、ここに日本があると言い切ることが出来る。故国の自然と風土と、感情と理解との、まちがいもない発露である。真に一格の創造である。人は雑器と呼びなすものに、独自な日本を語ることを、遠慮がちに感ずるであろうか。ゆめそう思ってはならぬ。広く日本の民衆から、かかる作が生れたことをこそ誇ってよい。ましてそれらの器を日々の友としていたことを喜び合わねばならぬ。その栄誉は個人の所有ではなく、民族の共有である。民藝において日本の美が見出されることほど、力強い事実はないではないか。もし民衆の生活にかかる美の基礎がなかったなら、如何に心もとなく思えるであろう。私は日本民族の栄誉のためにも、積る塵の下から雑器を取上げねばならぬ。

一一


 無学な職人から作られたもの、遠い片田舎から運ばれたもの、当時の民衆の誰もが用いしもの、下物と呼ばれて日々の雑具に用いられるもの、裏手の暗き室々で使われるもの、彩りもなく貧しき素朴なもの、数も多く価もやすきもの、この低い器の中に高い美が宿るとは、何の摂理であろうか。あの無心な嬰児みどりごの心に、一物をも有たざる心に、知を誇らざる者に、言葉を慎しむ者に、清貧を悦ぶ者たちの中に、神が宿るとは如何に不可思議な真理であろう。同じその教えが、それらの器にも活々いきいきと読まれるではないか。
 しかも奉仕に一生を委ねるもの、みずからをささげて日々の用を務むるもの、むことなく現実の世に働くもの、健康と満足とのうちにその日を暮すもの、誰もの生活に幸福を贈ろうと志すもの、それらの慎ましい器の一生に、美が包まれるとは、驚くべき事柄ではないか。しかもよく用いられて手ずれを受ける時、その美がいや増すとは何の天意であろうか。信仰の生活も、犠牲の生活であり奉仕の一生ではないか。神に仕え人に仕え自からを忘れる敬虔けいけんな者のその姿が、主に仕える器にも見られるではないか。現実に即するものに、現実を越えた美が最も鮮かに示されるとは、如何に微妙な備えであろう。
 自からは美を知らざるもの、我に無心なるもの、名におごらないもの、自然のままに凡てを委ねるもの、必然に生れしもの、それらのものから異常な美が出るとは、如何に深き教えであろう。凡てを神の御名においてのみ行う信徒の深さと、同じものがそこに潜むではないか。「心の貧しきもの」、「自からへり下るもの」、「雑具」と呼びなされたそれらの器こそは、「幸あるもの」、「光あるもの」と呼ばるべきであろう。天は、美は、既にそれらのものの所有である。


 過去の時代においてかかる雑器の美を認めたのは、初代の茶人たちであった。彼らには並ならぬ眼があった。人々は忘れ去ったのであろうが、今日万金を投ずるあの茶器は、「大名物おおめいぶつ」は、その多くが全くの雑器に過ぎない。かくも自然な、かくも奔放な彼らの雅致は、雑器なるが故だといい得よう。もし彼らが雑器でなかったら、決して「大名物」とはなり得なかったであろう。人はあの「井戸」の茶碗を省みて、七個の見処みどころがあるという。後にはついにそれが美の約束とまで考えられた。だがもとの作者にそれを聞かせたら、如何ばかり困却するであろう。その約束で作られる後代の模作品に、たえて優れた作がないのも無理はない。既に雑器の意を離れて、美術品として工夫されたに過ぎないからである。人々はあの深く渋き茶器が、無造作な雑器であったことをゆめ忘れてはならない。
 今は茶室を造るにも数寄すきをこらすが、その風格はしずに因るものであろう。今も田舎家は美しい。茶室は清貧の徳を味わうのである。今は茶室において富貴を誇るが、末世の誤りを語るに過ぎぬ。今や茶道の真意は忘れられて来たのである。「茶」の美は「下手げて」の美である。貧の美である。
 史家もあの「大名物」を讃美する。だが少しも他の雑器については語らない。さながら他には何もないかのように考えている。だが茶碗や茶入はおびただしい雑器の中のわずか一、二種に過ぎない。美の王座についているそれらのものの姉妹が、まだ限りなくちりの下に埋もれている。かかる雑器に美を認めないのは、彼らが茶器の美についても既に知るところがないからであろう。
 許されるならば、私は片田舎の忘れられた民家において、塵につつまれる雑器を取上げ、新しく茶をたてよう。この時こそ道の本に返って、初代の茶人たちと心ゆくばかり交わることが出来よう。
(一九二六年)
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工藝の美




 心は浄土に誘われながら、身は現世につながれている。私たちはこの宿命をどう考えたらよいか。異なる三個の道が目前に開けてくる。現世を断ち切って浄土に行くか、浄土を見棄てて現世に走るか。一つは夢幻におぼれやすく、一つは煩悩ぼんのうに流されるであろう。いずれもが心に満たない時に、第三の道が現れてくる。
 与えられた現世である。そこには何か意味がなければならぬ。よもうつろなる世ではないであろう。この世を心の浄土と想い得ないであろうか。この地を天への扉といい得ないであろうか。低き谿たになくば高き峯も失せるであろう。正しく地に活きずば、天の愛をも受けないであろう。「身は精霊の宮」と記されている。地をこそ天なる神の住家といい得ないであろうか。冬枯れのこの世も、春の色に飾られる場所である。地上に咲くきよ蓮華れんげを浄土の花とは呼ぶのである。地に咲けよと天から贈られたその花一つを、今し工藝と私は呼ぼう。
 美が厚くこの世に交わるもの、それが工藝の姿ではないか。味気なき日々の生活も、その美しさに彩られるのである。現実のこの世が、離れじとする工藝の住家である。それは貴賤の別なく、貧富の差なく、凡ての衆生しゅじょう伴侶はんりょである。これに守られずば日々を送ることが出来ぬ。あしたも夕べも品々に囲まれて暮れる。それは私たちの心を柔らげようとの贈物ではないか。見られよ、私たちのために形を整え、姿を飾り、模様に身を彩るではないか。私たちの間に伍して悩む時もすさむ時も、生活をわかとうとて交わるのである。それは現世の園生そのうに咲く神から贈られた草花である。この世の凡ての旅人は、色様々なその間を歩む。さもなくば道は沙漠さばくに化したであろう。彼らの美に守られずしては、温かくこの世を旅することが出来ぬ。工藝にうるおうこの世を、幸あるこの世といえないであろうか。


 されば地とへだたうつわはなく、人と離るるうつわはない。それも吾々に役立とうとてこの世に生れた品々である。それ故用途を離れては、器の生命は失せる。また用に堪え得ずば、その意味はないであろう。そこには忠順な現世への奉仕がある。奉仕の心なき器は、器と呼ばるべきではない。用途なき世界に、工藝の世界はない。それは吾々を助け、吾々に仕えようとて働く身である。人々も彼らに便たよらずしてこの日を送ることが出来ない。用途への奉仕、これが工藝の心である。
 それ故工藝の美は奉仕の美である。凡ての美しさは奉仕の心から生れる。働く身であるから、健康でなければならぬ。日々の用具であるから、暗き場所や、荒き取扱いにも堪えねばならぬ。彼らの姿を見られよ、丈夫な危げのない健康な美が見えるではないか。いつも正しき質を、また安定なる形をと選ぶ。か弱き身であるならば用を果すことが出来ぬ。この世界にはやまいは許されておらぬ。病いは働く者に近づかない。奉仕する者は多忙である。感傷にふけってはいられない。忙しい蜂は悲しむ暇がないといわれる。廃頽はいたいおぼれてもいられない。用いるかぎびないではないか。今の器が美に病むのは、用を忘れたからである。奉仕せよとて器を作らないからである。奉仕の心は器に健全の美を添える。健全でなくば器は器たり得ないであろう。工藝の美は健康の美である。
 仕うる身であるから、自から忠順の徳が呼ばれる。そこには逆らう感情や、てらう心や、主我の念は許されておらぬ。よき器物には謙遜けんそんの美があるではないか。誠実の徳が現れるではないか。高ぶる風情やいらだつ姿は器には相応ふさわしくない。著実の性や堅固な質が、工藝の美を守るのである。不確さや粗悪は慎しまねばならぬ。それは用に逆らうが故に美にもそむくのである。
 正しく仕える身であるから、彼らはみだらなりを慎しむ。相応わしき体を整え、慎ましく衣を染める。おごる風情は器らしき姿ではない。華かに過ぎるなら、仕える心にもとるではないか。主より派手に着飾ろうとするしもべがあろうか。いつも身支度は簡素である。着過ごすなら働きにくい。その生活は素朴の風を求める。よき器を見られよ、かつて華美に過ぎたものがあろうか。俗に流れたものがあろうか。強き質、確かなる形、静かなる彩、美を保障するこれらの性質は、用に堪えんとする性質ではないか。器が用を去る時、美をもまた去ると知らねばならぬ。


 かくて器の務めは休みなき仕事である。それも主として日常の雑事である。怠惰たいだは許されない。閑居は与えられない。一日のうち多く暮すのは家族の住まえる室々へやべや、忘れられず用いらるる食卓の上、忙しき台所の棚。彼らの多くは不断遣いや、勝手道具。従って生活は質素であり多忙である。懶惰らんだいとまはない。ひまならば器には遠い。あのゆかに休む飾物は概して弱いではないか、もろいではないか。働き手ではないからである。用に遠いが故に美にもまた遠い。丹念とか精緻せいちとかの趣きはあろう。だがそれは畢竟ひっきょう技巧の遊戯に落ちる。美の病は多く技巧より入ると知らねばならぬ。そこに健康がないのは質素な暮しに適しないからである。貧しさや働きに堪えないものは、また美にも耐えぬ。益なきものを作るのは、美を乱す所以と知らねばならぬ。かつてあの「大名物おおめいぶつ」は貧しい日常の用器に過ぎなかったではないか。あの茶人たちがしずを切って、簡素な器で茶をてた時、聖貧の徳に宇宙の美を味わっていたのである。茶器への讃美は働く器への讃美である。それはもともと雑器であったではないか。貧しき器、あの「下手げて」とさげすまれる器は、不思議にも美しい器たる運命を受ける。
 務めを果す時、人に正しいおこないがある如く、器にも正しい美しさが伴うのである。美は用の現れである。用と美と結ばれるもの、これが工藝である。工藝において用の法則は、直ちに美の法則である。用を離れる限り、美は約束されておらぬ。正しく仕える器のみが、正しき美の持主である。帰依きえなくば宗教に生活がないのと同じである。奉仕に活きる志、これが心霊を救う道であるが如く、工藝をも救う道である。実用を離れるならば、それは工藝ではなく美術である。用途への離別は工藝への訣別けつべつである。その距離が隔るほど、工藝の意義は死んでくる。あの美術品を作ろうとする今の工藝家の驚くべき錯誤さくごを許し得ようや。哀れむべき凡ての失敗は、この顛倒てんとうから来るのである。作るものは用のためではないが故に、美からも離れて来るのである。美術化された工藝よりも、本来の工藝の方が一段と美しいことを熟知しないのである。偉大な古作品は一つとして鑑賞品ではなく、実用品であったということを胸に明記する必要がある。いたずらに器を美のために作るなら、用にも堪えず、美にも堪えぬ。用に即さずば工藝の美はあり得ない。これが工藝にひそむ不動の法則である。美と用と、その間に包まれる秘義について、深くさとる所がなければならぬ。


 美術は理想に迫れば迫るほど美しく、工藝は現実に交われば交わるほど美しい。美術は偉大であればあるほど、高く遠く仰ぐべきものであろう。近づき難い尊厳さがそこにあるではないか。人々はそれらのものを壁に掲げて、高きくらいに置く。だが工藝の世界はそうではない。吾々に近づけば近づくほどその美は温かい。日々共に暮す身であるから、離れ難いのが性情である。高く位するのではなく、近く親しむのである。かくて親しさが工藝の美の心情である。器を識る者は、必ずそれに手を触れるではないか。両手にそれを抱き上げるではないか。親しめば親しむほど、そばを離さないではないか。あの茶人たちは如何に温かさと親しさとを以て、それをくちびるに当てたであろう。器にもまたかかる主を離さじとする風情が見える。その美が深ければ、深いほど、私たちとの隔りは少い。よき器は愛を誘う。この現実の世界に、この不浄の身に、美がかくも親しむとは、如何なる神の巧みであろうか。
 深き美術は師とも父とも思えるであろう。だが工藝は伴侶であり、兄弟や姉妹である。共に一家の中で朝な夕なを送るのである。そうして吾々の労を助け、用を悦び、生活を温めてくれる。それらの者に取り囲まれて、この世の一日が暮れる。器に親しむ時、真にわが家に在る思いがするであろう。何処にも温かい家庭を作ろうと器は求めている。ここはくつろぎの世界である。安らかさの世界である。器は一家の者たちである。否、器なき所にわが家はない。器を愛する者は家に帰ることを好む。器はよき家庭を結ぶ。
 ここは峻厳しゅんげんとか崇高とか、遠きに仰ぐ世界ではない。ここは密な親しげな領域である。されば工藝は情趣の世界、滋潤じじゅんとか、親和とかがその心である。味わいとか、趣きとか、潤おいとか、円味とか、温味とか、柔かさとか、これらが器の美につれて繰返される言葉である。器は人を情趣の境に誘う。風韻とか、雅致とか、これは工藝がもたらす美徳である。人々は如何にこれらの境に入って、心を沈め行いを洗い得たであろう。しばしば人はその美に遊ぶ。かかる境をこそ遊戯ゆげとはいうのであろう。よき器は周囲を醇化じゅんかする。人々は気付かずとも、如何に工藝の花に、生活の園生そのうが彩られているであろう。そうして如何にすさみがちな人々の心が、それらによって柔らげられているであろう。もし器の美がなかったら、世は早くも蕪雑ぶざつな世に化したであろう。心は殺伐さつばつに流れたであろう。器の美なき世は住みにくき世である。今の世がいらだつのは、器が醜くなったからではないであろうか。温かさなくば、心は枯れる。潤おいなき家を見よ、寒そうではないか。情なき人を見よ、冷たいではないか。


 親しさがその風情であるから、誰が愛著を感ぜずにおられよう。器を有つことと器を愛することとは同じ意味である。愛なくば有たないのだともいえるであろう。工藝は自から愛玩せらるべき性質を帯び、賞味せらるべき性情をかねる。あの美術のように、時としておそれを以て迫る場合はない。いつも器は愛を招く。どこまでも吾々に交わりたい希いが見える。不思議ではないか、仕えたいのが志であるため、よく用うる主に向っては、更にその姿を美しくする。実際用いていずば美しくならないではないか。用いるにつれて器の美は日増しに育ってくる。用いられずば器はその意味を失い、また美をも失う。その美は愛用する者への感謝のしるしである。「手づれ」とか、「使いこみ」とか、「れ」とか、これが如何に器を美しくしたであろう。作りたての器は、まだ人の愛を受けておらぬ。また務めをも果しておらぬ。それ故その姿はまだ充分に美しくはない。だが日々用いられる時、器は活々とよみがえってくるではないか。その悦びの情を器にことよせて人に贈る。品物の真の美は、用いられた美である。器の助けなくば人が活き得ない如く、人の愛なくば器もまた活き得ない。人は器を育てる母である。器はその愛の懐に活きる。用いられて美しく、美しくして愛せられ、愛せられて更に用いられる。人と器と、そこには終りなき交わりがある。温められつ愛されつつ、共々にこの日を送る。用は主へのささげ物、愛は器への贈物、この二つの交わりの中で、工藝の美が育てられる。器の美は人への奉仕に種かれ、人からの情愛に実を結ぶ。器と人との相愛の中に、工藝の美が生れるのである。


 所詮しょせんは地を離れ得ない生活である。だが罪に流れがちな、苦しみに沈みがちなこの世を、少しでも温めようと訪れる者たちがある。そうして自からを捧げ、務めに悦び、健気けなげに働き、少しでも人の労をわかとうと近づく者たちがある。鼓舞や、慰安や、平和や、情愛の世界に、吾々を迎えようとする者たちがある。もし彼らを失ったら、永きこの世の旅に、誰か堪え得るであろう。遍路へんろの杖には「同行二人どうぎょうににん」と記してあるが、工藝をかかる旅の同行といい得ないであろうか。日々苦楽を共にしてくれる者があればこそ、この世の旅は安らかに進む。
 かかるこの世の伴侶が、私のいう工藝である。


 誰も知る器の中に、私は数々の見慣れない真理を読んだ。転じてかかる器が誰の手で作られ、どうして出来るかを顧みる時、新しき多くの秘義が更に私の視野に映る。
 救いはくまなく渡るであろうか。衆生の済度はどうして果されるであろうか。もし知を有たずば神を信じ得ないなら、多くの衆生はとこしえの迷路に彷徨さまようであろう。知の持主は、わずかな選ばれた者に限るからである。だが神は凡ての者に神学を許さずとも、信仰のみは許すであろう。この許しがあればこそ、宗教は衆生の所有である。月はうてなに輝くであろうが、しずをも照らすであろう。貧しき者も無学な者も、共に神の光を浴びる。イエスは学者を友とするより、好んで漁夫たちに交わったではないか。救いは知者の手にのみあるのではない。凡夫も浄土への旅人である。
 同じような不思議が、美の世界にも起ってはいまいか。美と衆生と、その間に秘められた約束がありはしまいか。美を握る道が万民にも許されてはいないであろうか。もし美術のみが美の道であるなら、この望みは薄いであろう。それはわずかばかりの稀なる天才にのみ委ねられた仕事だからである。だがここにも神の準備は不可思議である。異なる一条ひとすじの道を通して衆生にも美の現しが許されている。凡夫さえも美にたずさわり得る道、それが工藝の一路である。丁度無学な者にも神との邂逅かいこうが許されているのと同じである。


 この密意を解き得たら、工藝の意義の残りのなかばを知り得たともいえよう。ここは凡夫衆生の道であるから、選ばれた天才に委ねられた世界ではない。吾々に仕えるあの数多くの器は、名も知れぬ民衆の労作である。あの立派な古作品を見て、ゆめ天才の所業とのみ思ってはならぬ。多くはある時代のある片田舎の、ほとんど眼に一丁字いっちょうじもなき人々の製作であった。村の老いた者も若き者も、または男も女も子供さえも、共に携わった仕事である。それも家族の糊口ここうしのぐ汗多き働きである。一人の作ではなく、一家の者たちは挙げて皆この仕事に当る。あしたゆうべも、暑き折も寒き折も、忙しい仕事に日は暮れる。それはしばしば農事の合間に、一村を挙げて成されたであろう。どうしてあの個人の、あの天才の自由な時間の所産であり得よう。
 時としてその仕事は、好まないものでさえあったであろう。止めたいと思いながらも手を下したであろう。子供は泣く泣く手伝ったこともあるであろう。否、彼らは無学であったのみではない。中にはよこしまな者もあったであろう。盗みせる者さえもあったであろう。怒れる者、悲しめる者、苦しむ者、愚かなる者、笑える者、ことごとくの衆生がこの世界に集る。だがそれらの者にさえも工藝の一路は許されてある。それは民藝である。民衆から出る工藝である。
 だがその作には美しさがある。彼らはらずとも、驚くべき美しさがある。凡ての作は救われている。作る者はこの世の凡夫であろうとも、作る器においては既に彼岸ひがんの世に活きる。自からでは識らずとも、凡てが美の浄土に受けとられている。凡夫の身にさえも、よき作が許されるとは何たる冥加みょうがであろう。そうしてそれがことごとく浄土の作であるとは、何たる恩寵おんちょうであろう。一つの器にも弥陀みだの誓いが潜むといい得ないであろうか。悪人必ず往生おうじょうぐとの、あの驚くべき福音が、ここにも読まれるではないか。工藝において、衆生は救いの世界に入る。工藝の道を、美の宗教における他力道といい得ないであろうか。


 この摂理から次ぎ次ぎに驚くべき性質が起る。よき作を集めるならば、そのほとんど凡てに作者の名が見えないではないか。いつも自我への固執が消されているのではないか。あの名品を誰が作ったのであろうか。その地方のその時代の、誰でもが作り得たのである。そこには大勢が活きて個人はかくれた。どこに個性を言い張る者があったであろう。工藝は無銘に活きる。よき作を見られよ。そこには特殊な性格の特殊な表示はない。威力の強制もなく、圧倒もなく、挑戦もない。どこに個人の変態な奇癖があり得よう。凡ての我執がしゅうはここに放棄せられ、凡ての主張は沈黙せられ、ただ言葉なき器のみが残る。「この沈黙にまさる言葉があろうか」とある僧は問うた。「沈黙は神の言葉である」ともまた書いた。
 無学な多くの工人たちは、幸にも執著しゅうじゃくすべき個性を有たなかったであろう。無名な作者は、自からの名において、示さねばならぬ何物をも持ち合せなかったであろう。このことが、如何に彼らを救いの道に運んだであろう。そこにはしばしば鮮かな地方性や国民性が見える。だがそれらは廻る自然や流れる血液によって定められる。彼ら自からの力で左右したものではない。そこには黙せる必然のみあって、言葉多き主張はない。
 個性の沈黙、我執の放棄、このことこそ器にとって如何に相応わしい心であろう。器は仕えようとする身ではないか。親しもうとする器ではないか。もし器に個性の色が鮮かなら、それは誰もの友達とはなり得ないであろう。奉仕に活くる者は、自からに執著があってはならぬ。それに器は日々共に暮す一家の仲間である。もしも我を張る者が中に出るなら、平和は乱れるであろう。静かなる器のみがよき器である。そこにはいつも謙遜と従順との徳が見られるではないか。この徳に守られずば、器は器となり得ないであろう。またこの性質を失うなら、どうして人の愛を受けることが出来よう。個性の器であるならば、奉仕の器となることは出来ぬ。そこにはよき卑下ひげがなければならぬ。「心の貧しき者は幸である」と聖書は記した。そうして天国は彼らのものであると約束してある。同じ福音が工藝の書にも書いてある。謙虚な心の彼らを、美の国における大なる者と言い得ないであろうか。
 我への執念著しく、自己への煩悩ぼんのうに沈む今日、かかる器を見て救われる思いがあるではないか。「我空」は仏説であった。忘我の境こそは浄土である。器に見らるる没我は救われているしるしである。救われたる器、それをこそ美しき作と呼ぶのである。浄土によみがえれる者を、清き魂と呼んでいるではないか。

一〇


 イエスはパリサイの人々を好まなかった。知に高ぶるからである。知の眼には神の姿が見えにくいからである。明るき智慧も、神の前にはなお暗いであろう。かしこさもその前には愚かなるに過ぎぬ。「それ智慧多ければ憂い多し」と『伝道の書』には嘆じてある。
 同じように知は美を見る眼とはならぬ。もし知の道を歩まねばならぬなら、衆生は永えに美の都に入ることは出来なかったであろう。だが彼らの無学は、彼らを殺すことなくして活かした。彼らは智慧の持主であることは出来ない。だが無心の持主であることは許されてある。「嬰児は天国においていとも大なる者なり」とイエスは説いた。智慧に小さい彼らも、彼らの無心において、大なる者となり得たのである。よき作の美しさには、嬰児の如き心が宿る。
 器に見られる美は無心の美である。美とは何か、何が美を産むか。どうして無学な工人たちに、かかる思索があったであろう。それがどうして出来るか、それに如何なる性質があるか、問われるとも、何一つ答えの持ち合せがなかったであろう。ただそこには堆積せられた遠い伝統と、繰返された長い経験との、沈黙せる事実のみが残る。だが彼らは識らずとも作った。否、識ることを得ずして作った。識る力も許されずして作った。作る物が美しいか、果して作る資格があるか、どうしてそんなことへの疑いがあり得よう。私が今書いているこの一文を示したら、彼らの顔には困惑の色のみが浮ぶであろう。あの「大名物」と称えて、それに万金を投ずる者があると知らせたら、彼らの呼吸は止まるであろう。何一つ美意識から作られたものはない。今日彼らの作が高い位置を歴史に占めるとは、夢にだに思い得なかったであろう。彼らはその作るものがごく普通のものであるから、粗末に費されて、別に顧みられもしないことを知っていたのみであろう。そうして彼らが熟知している唯一のことは、如何に彼らの作が廉価れんかであるかということのみであろう。だが摂理せつりはいつも不思議である。美を識らず、そこに滞らない彼らにこそ、易々やすやすと自由な美が与えられた。そこに見られる多種多様な変化、または自由自在な創造は、無心であった彼らの美徳から、所産せられたのだということを知らねばならぬ。知の道は彼らに課せられた道ではなかった。だが彼らに許された無造作な自然な心が、彼らを大きな世界へと誘ってくれた。そうしてそれをすら識らなかったことが、ついに彼らを救いに導いた。知もなき者であったから、彼らは自然を素直に受けた。それ故自然も自然の叡智えいちを以て、彼らを終りまで守護した。彼らからでは救う力がないからこそ、自然は彼らを救おうとする意志をいや強めた。
 だがかかる時代は過ぎて、今は意識の世に変った。知識の超過が、如何に工藝の美を殺しているであろう。知る者はしばしば信仰を見失ったではないか。高ぶる知は、美の世界においても一つの罪である。知を養うことに悪はない。だが最も高き知は、如何にその知が自然の大智の前に力なきかを知るその知であろう。高ぶる智慧は幼き智慧だといえないであろうか。多くの者は救いを自然の御手みてに委ねようとはしない。そうして自からの力において、自然の御業を奪おうとしている。作られたものに美が薄いのは、心が自然にそむいた報いである。意識の作為や、智慧の加工が、美の敵であることをさとらねばならぬ。自らを言い張り、知におごる間、神の前には小さき者、愚かなる者と呼ばれるであろう。同じように知にさばかれたる美は、自然の前には醜きものと呼ばれるであろう。

一一


 かく見れば、美は彼らの力が産むのではない。誰にも許さるる美、個性に依らざる美、心なくして生るる美、このことは何を語るであろうか、無学なる者、無知なる者も救われるとは、何を示すのであろうか。工藝においては美も救いも、他より恵まるる恩寵おんちょうである。自からのみでは何一つ出来ぬ。器には自然の加護があるのである。器の美は自然さの美である。何人もこの恵みを受けずして、一つだに美しき作を産むことは出来ぬ。ある僧がいいしように、たすかる者一人だになく、助けられる者のみがあるのである。工藝の美は恩寵の美である。
 よき古作品を見られよ、如何に自然であり素直であるかを。どこにも作り物という感じがないではないか。美には生れる美のみあって、作らるる美はないであろう。よしあろうとも、永く保つことは出来ぬ。よき美には自然への忠実な従順がある。自然に従うものは、自然の愛を受ける。小さな自我を棄てる時、自然の大我に活きるのである。

一二


 工藝は自然が与うる資材に発する。資材なくばその地に工藝はない。工藝にはそれぞれの故郷があるではないか。異なる種類や変化やその味わいは、異なる故郷が産むのである。工藝の美はわけても地方色に活きる。それはある特殊な地方の、特殊な物資の所産である。ことごとくが天然の賜物たまものである。
 よき形、よき模様、よき色彩を熟視されよ。そこに天然の加護がないものがあろうか。人の力が作るとはいうも、そこに加わる自然の力に比べては、いとど小さなものに過ぎぬではないか。よき作は天然よりの施物ほどこしものに活きる。工藝美は材料美である。材料への無視は美への無視である。
 人為的に精製された材料が、自然のそれより更に美しさを示した場合があろうか。どこか力弱く美に乏しいのは、人智への過剰な信頼による。そうして今日、美が痛ましくも沈んで来たのは、自然への無益な反抗による。だが自然に反逆の矢を向ける者は、やがてその矢で自殺する時が来るであろう。正しき美は自然への信頼のしるしである。丁度一切を神に委ねる時、心の平和がちぎられるのと同じである。真に何事かを為し得るのは、ただ自然のみである。自然への服従、これのみが自由の獲得である。
 なぜ手工が優れるのであろうか。それは自然がじかに働くからである。とかく機械が美をそこなうのは、自然の力をぐからである。あの複雑な機械も、手工に比べては如何ばかり簡単であろう。そうしてあの単純な手技は、機械に比ぶれば、如何ばかり複雑であろう。機械の作が見劣るのは、自然の前にその力がなおも小さいしるしである。よき工藝は自然の御栄の讃歌である。
 かく想えば工藝の美は、伝統の美である。伝統に守られずして民衆に工藝の方向があり得たろうか。そこに見られる凡ての美は堆積せられた伝統の、驚くべき業だといわねばならぬ。試みに一つの漆器を想い浮べよ。その背後に打ち続く伝統がなかったらあの驚歎すべき技術があり得るであろうか。その存在を支えるものは一つに伝統の力である。人には自由があると言い張るかも知れぬ。だが私たちに伝統を破壊する自由が与えられているのではなく、伝統を活かす自由のみが許されているのである。自由を反抗と解するのはあさはかな経験に過ぎない。それがかえって拘束に終らなかった場合がどれだけあろうか。個性よりも伝統が更に自由な奇蹟を示すのである。私たちは自己より更に偉大なもののあることを信じてよい。そうしてかかるものへの帰依に、始めて真の自己を見出すことを悟らねばならぬ。工藝の美はまざまざとこのことを教えてくれる。

一三


 彼らはかかる恵みに支えられて、働きまた働く。多くは貧しい人々であるから、安息すべき日さえも与えられておらぬ。多くまた早く作らずば、一家を支えることが出来ぬ。働きは衆生に課せられた宿命である。だがそこには、何かまた温かき意味がかくされてはいまいか。正しき者は運命に甘んじて忙しく日を送る。働きを怠る者は、いつか天然の怒りを受ける。課せられた日々の働き、このことがまたどんなに彼らの作を、美しきものにさせたであろう。否、彼らの作に美を約束することなくして、神は彼らに労働を命じはしないのである。彼らの一生に仕組まれた摂理は、終りまで不思議である。
 彼らは多く作らねばならぬ。このことは仕事の限りなき繰返しを求める。同じ形、同じ模様、果しもないその反復。だがこの単調な仕事が、むくいとしてそれらの作をいや美しくする。かかる反復はつたなき者にも、技術の完成を与える。長い労力の後には、どの職人とてもそれぞれに名工である。その味なき繰返しにおいて、彼らは彼の技術すら越えた高い域に進む。彼らは何事をも忘れつつ作る。笑いつつ語らいつつ安らかに作る。何を作るかを忘れつつ作る。そこに見られる美は、驚くべき熟練の所産である。それを一日でかもされた美と思ってはならぬ。あの粗末な色々な用具にも、その背後には多くの歳月と、飽くことなき労働と、味けなき反復とがひそんでいる。粗末に扱われる雑具にも、技術への全き支配と離脱とがある。よき作が生れないわけにゆかぬ。彼らの長い労働が美を確実に保障しているのである。見よ、如何ばかり自由に、なだらかに作られているであろう。手に信頼しきっているではないか。既に彼らの手が作るというよりも、自然が彼らの手に働きつつあるのである。
 反復が自由に転じ、単調が創造に移るとは、運命に秘められた備えであろう。働きこそ救いへのよき準備である。正しき工藝はよき労働の賜物である。働きが報いなき苦痛に沈んだのは、近代での出来事に過ぎない。

一四


 多く作る者はまた早く作る。だがその早さは熟達より来る最もたしかな早さである。そうしてこのことが二重に作物を美しくする。多き量と早き速度と、このことがなかったら、器の美ははるかに曇ったであろう。そこに見られるえたる美、躊躇なき勢い、走れる筆、悉くが狐疑なき仕事の現れではないか。懐疑に強い者は、信仰に弱い。もし作りえ、作り直し、迷い躊躇ためらって作るなら、美はいつか生命を失うであろう。あの奔放な味わいや、豊かな雅致は、よどみなきえた心の現れである。そこには活々した自然の勢いが見える。あの入念な錯雑な作は、工程にかかる早さを許さぬ。そこには既に病源が宿る。よき作には至純な、延び延びした生命の悦びが見られるではないか。
 模様を見よ、多く描き早く画く時、それはいやが上にも単純に帰る。終りには描くものが何なるかをさえ忘れている。自然なこの「くずれ」は模様を決して殺していない。かかるものに、か弱き例があるであろうか。勢いに欠けた場合があるであろうか。よき省略は、結晶せられた美を現してくる。ある者はそれを粗野と呼ぶであろう。だがそれは畸形きけいではない、粗悪ではない。自然さがあり健康がある。疲れた粗野があろうか。ある者はこれを稚拙とも呼ぶであろう。だが稚拙は病いではない。それは新に純一な美を添える。素朴なものはいつも愛を受ける。ある時は不器用ともいわれるであろう。だが器用さにこそ多くの罪が宿る。単なる整頓は美になくてはならぬ要素ではない。むしろ不規則でなくば、美は停止するであろう。
 多量な迅速な作、そこに見られる自然の勢いは、労力に相応わしい酬いではないか。地によく働く者は、神の守護から離れないであろう。多くの者は美は余暇の所産であると考えている。しかし工藝においてはそうではない。労働なくして工藝の美はあり得ない。器の美は人の汗のあがないである。働きと美と、これが分離せられたのは近代のことに属する。

一五


 よき作を、ゆめ一人の作と思ってはならぬ。そこには真に協力の世界が見える。ある者は形を、ある者は絵付を、ある者は色を、ある者は仕上げをと幾つかに分れて仕事を負うた。優れたほとんど凡ての作は、一人の作ではなく合作である。あの力もなき民衆が、凡てを一人で担わねばならないなら、何の実をか結び得ようや。よき作の背後にはよき結合が見える。まして貧しき工人である。相寄り相助けずば、彼らの生活に安定はない。安定を保障するものは相愛である。一致である。彼らはおのずから協団の生活を結ぶ。それは共通の目的を支持する相互補助の生活である。正しき工藝は、かかる社会の産物であった。
 されば一人の作が優れたのではなく、協団に属する凡ての者の作が優れたのである。協団は民衆への救いであった。良き工藝史は良き協団史である。工藝美は社会美である。一個の作が美しいのではなく、多くの作が同時に美しいのである。あの協団の時代であったゴシックの作を見よ、かつて醜い作があったであろうか。工藝の美は「多」の美である。「共に救わるる美」である。個人作家が現れたのは、協団が破れ個性が主張せられた近代での出来事である。だがあの合作である古作品の美を越え得たものがあったであろうか。そうして彼らよりも創造的な作を産み得た場合があったであろうか。工藝の美は共に活きる心から生れる。
 そこは集団の世界であるから、自から秩序が要求される。乱れた社会の組織からは、正しい工藝を予期することが出来ぬ。よき器には常に秩序の美が映る。秩序は道徳である。徳を守る世界において、粗悪なる品質や粗雑なる仕事が許されようや。工人たちは正しき組織に住んで誠実の徳を支えた。よき品とは信じ得る品との義ではないか。便り得る器とのいいではないか。器の美は信用の美である。材料の選択や仕事の工程に対し、正直の徳を守らずして、どこによき工藝があろうか。工藝の美が善と結合しなかった場合はない。美が善でないなら、美たることも出来ぬ。
 あの凡庸な民衆個々に、善の力があったのではない。だが結合と秩序とは彼らから悪を駆逐くちくした。このことなくして、民衆に何の徳が保たれようや。今日ほとんど見るべき作がなくとも、罪を工人たちに帰すわけにゆかぬ。何が美しい作たるかを識らない彼らは、何が醜い作であるかをも識らないであろう。凡ての罪は秩序の乱れた制度による。もし社会に上下の反目や、貧富の懸隔けんかくが生じるなら、どこによき労働があり、どこによき協力があり得よう。そこにはただ誠実への放棄と仕事への忌避きひと、そうして私益への情熱のほか、何もなくなるであろう。相愛の社会がくずれる時、美もまたくずれてくる。醜い工藝は醜い社会の反映である。善きも悪しきも、社会は工藝の鏡に自からの姿を匿すことが出来ぬ。私は工藝の美を想い、ついに秩序の美を想う。正しき社会に守られずば、工藝の美はあり得ない。美の消長と社会の消長と、二つの歴史はいつも並ぶ。工藝への救いは社会への救いである。現実と美とが結ばれる時、大衆と美とが結ばれる時、その時こそ美にちる地上の王国が目前に現れるであろう。この大なる幸福へ私たちを導くもの、それは工藝をおいて他にはあり得ない。

一六


 かく想えば工藝にも数々の福音が読まれるではないか。その美が教えるところは、宗教の言葉と同じである。美は信であると言い得ないであろうか。正しき作を見る時、そこにも説くなき説法が説かれてある。一個の器も文字なき聖書である。そこにも帰依や奉仕の道が説かれてある。救いの教えも読まれるではないか。この蕪雑ぶざつうつも、美の訪れの場所である。そうして下根の凡夫も、救いの御手に渡さるる身である。何人にも許さるる作、誰もが用いる器、汗なくしては出来ない仕事、それが美の浄土に受取られるとは、驚くべきこの世の神秘ではないか。それは美によって義とせらるる神の王国を、地上に示現しようとの密意である。
 工藝は私にかく教える。
(一九二七年)
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工藝の協団に関する一提案




 この小篇が取扱おうとする主題は次の如くである。

○何故工藝のギルド Craft Guild が必要たるか。
○またギルドを作る以上、何故工藝の村を建てる事が必然に感ぜられるか。
○また何故協団 Communion の生活が工藝家にとって、最良の生活様式と考えられるか。それらの理由。
○そうしてまたかかるギルドが吾々によって組織されねばならぬという自覚について。

(注意)私がここに工藝というのは手工藝 Handi-craft の意であって、機械工藝の意ではない。

吾々が今当面せるディレンマについて


 私たちはもう知慧ちえの実を喰べたのである。昔の人のように無心でいるわけにゆかない。また時代も認識の時期に達した。
 私たちは知る事によって多くの新たな悦びを得ている。美を鑑賞し得るという事は恵みである。昔の人は今私たちが企てているような美術館を建てることは出来なかったであろう。またそこに蒐集しゅうしゅうされた作品に、私たちほど驚きと愛とを感ずる事は出来ないであろう。「美を味う悦び」、これは今の時代に特に与えられ、許された恩寵おんちょうであるといっていい。
 だが私たちは古作品を味うと同時に、新しく作るという任務をおびている。この問題に入る時、知識ある私たちは、明かなディレンマに当面する。
 (一) 私たちは美を知って後作り、
 (二) また個人的作家として作る。
だがこの二つのまがいもない事実は、正しき古作品の性質と矛盾する。
 (一) 彼らは美を知って後作られたものではない。
 (二) 彼らは個人の作ではなく、民衆的作品である。
それなら私たちは、私たちの知識をどう処置したらよいか、また個人的位置をどう考えたらよいか。中世の宗教書『テオロギア・ゲルマニカ』は次のように教えた。
「信ずる前に、知ろうとする意志を働かす者は、神に関するまったき知慧を得る事は出来ぬ」と。
 この言葉の中には、動かす事の出来ない精神上の法則がある。しかるにこれに反して私たちは、多かれ少かれ主理主義 Rationalism におちいっている。知るという働きが凡てのものの先に立つ。だが古作品は無心に生れた。実際過去の優れた工藝品は、かえって雑器として取扱われているものの中に発見される。それらは粗末な実用品であって、美術的意識から作為せられたものではない。あの茶人に認められた茶入も茶碗も、かつては雑器であって、下手げてものに過ぎない。今日もてはやされる宋窯とてもそうである。青磁もそうであり、李朝物もそうである。皆多量製産のものであって、勝手道具であり、普段づかいである。また一地方の一時代の民衆的作品であった。
 しかるに古作品中、個人の少量製作に成るものはどうか。大概在名のものは上手じょうてに属し、弱くなり、かつ作為が甚だ著しくなる。あの偉大な光悦こうえつの、偉大な「鷹が峰」の茶碗は、個人的作品中最もいいものの一つであろうが、朝鮮の「井戸」の茶碗等に比べると、どうしても勝ちみがない。あの一へらの削りや、手作りの高台には、強さはあるがなお作為が残る。個人的作者で、美意識を多量に有つ代表者は木米もくべいである。しかし木米の賢明も下手げての前には愚に見える。かりに世界の工藝品中から、最も卓越したものを百個選ぶとする。そうしたらその凡てが、無名の作であるのに気付くであろう。個人的作品は知識と少量製産とのわざわいから、はなはだしい制限をうける。丁度今の神学者の知識が、その信仰に禍いを及ぼしているのと同じである。
 さて、もしこの事実が否定出来ないとすると、個人的作家である吾々は、どうこの事を考えたらよいか。この矛盾むじゅんを切りぬける事が出来るかどうか。
 昔のような意味の無心な民藝は、今日の社会制度が一変しない限り、もう二度とは起らないであろう。それに目覚めざめたものは皆知識の実を喰べてしまったのである。それならどうしたら意識的な吾々が、正しい工藝を産む事が出来るか。この難問題に解答を与えようとするのが、今度のギルド Guild(組合)の生活である。

試みんとするギルドについて


 さて、以上の問題をもう一度次のように約言しよう。
「如何にして知識的な個人的な作者たる吾々が、あの作品に見らるるような、自然な無心な美を産む事が出来るか」。
 どうしても出来ないといい切ってしまっていいか。そこには救の声がもう聞えないであろうか。私は希望を棄てない一人である。もし希望がないとすると、将来における工藝の意義を、消極的価値に止めねばならぬという、自殺すべき結論に達するであろう。
 私は希望ある解答を次の三つの道に見出そうとするのである。あるいは三つの段階という方がよいかも知れない。そうしてこれらの三段を経由する事によって、始めて真の工藝道に達する事が出来ると信ずるのである。
 一、修業 Discipline 自力道
 二、帰依 Surrender 他力道
 三、協団 Communion 相愛道
あるいはこれを内省と信仰と生活とに数える事も出来よう。私はそれぞれの意味を簡明に解説せねばならぬ。
 修行。修行というのは「我れ」の訓練である。自覚であり内省である。知るとは何か、何を知るべきか、知る我れとは何か、そこに熟慮と洞察とがなければならぬ。私たちは知識を否定して進むべきではない。認識の時代であるから、この認識力を活かす道をとらねばならぬ。従って吾々に課せられた修行の荷は古人のよりも重い。美とは何か、正しき美は何を示すか、またどうして正しき美が生れたか、美を見る眼をどう養ったらよいか、吾々は何を作り如何に作るべきであるか、吾々の使命は何か、それを果す準備が出来ているかどうか、どれだけ工藝の意義を捕えているか。私たちは当然これらの事を反省し、それを深めるように修行を怠ってはならぬ。理解と自覚、これが吾々の第一歩である。これは思想的苦行精進である。そうしてあの幾多の偉大な東洋の思索者が説いたように、吾々の内省はあの「玄」の世界、「無」の世界まで深められねばならぬ。これを自力的な修行とも呼び得よう。
 帰依。しかし自力だけでは駄目である。転じて他力に至る必要がある。自覚にはまだ「我れ」が残る。進んで自我を放棄することは、自己への否定ではなく、開放である。この捨身が帰依の意である。丁度宗教の思索が神への奉仕に転ずるのと同じである。吾々は自分の力だけで、正しいものを築き上げる事は出来ない。どうしてもそこには自然の加護がなければならない。この加護は自然に仕える事によってのみ与えられる。出家の心は一切を仏に委ねる意である。同じように私たちは自然に身を任せるべきではないか。自己に執着すれば、それだけ作為が残る。美しい古作品は、自然に忠順であった。どこにも自己への執着がない。現れている国民性や地方性は血液から来たので、個性の主張から来たのではない。従ってそこには必然さがある。「自然さ」と「美しさ」とは同意義だといえる。工藝の美は、自然が与えるよき材料からくる。そうしてその材料から、必然にある形や模様が要求される。美しい作には無理な所がない。自然への帰依が美の保証である。帰依は自我の主張ではないから、凡夫にも許された道である。易行道である。他力道である。もしこの道が許されていなかったら、救いは遠いであろう。
 協団。協団というのは協力の団結、相互補助の生活である。組織よりいえば団体 Corporation であり、組合 Guild である。何故かかる協団が必要であるか。この点が重大である。私たちは自己修行や、自然への帰依だけでは足りない。それは生活にまで進まねばならぬ。その生活様式の中で、一番必然であり鞏固きょうこでありかつ深いものは協団である。再び宗教にこれを例えるのが、一番明瞭であろう。昔、求道者は、世捨人となり、隠者となり、社会を離れて独り道を修めた。しかし個人的努力は、難多く弊多く力足らず、目的に達する事が甚だ少ない。
 隠者はついに集って協力的修行に移った。かかる団体的修道者の集りを修道院 Monastery と名づけた。また凡ての信徒が寺院を要求し教会を要求し、そこに信仰の結合を見るのも同じである。人々はこれによって個人的生活が陥る独断から逃れ、意識の超過にわざわわされず、宗教の雰囲気に入った。そうして力をあわせる事によって信念を強め、生活を浄めた。私はこれに類する生活様式が、将来の工藝を救う道であるという事を疑う事が出来ない。
 この真理をまた別の一角から眺めよう。
 実際よき工藝が生れし時代は、皆ギルドの組織に現われている。外国でいえば中世、日本でいえば明治初年の頃まで、いずれもそうである。美しさが衰えたのは、ギルドの組織が破れて、資本製作に移ってからである。最も健全な工藝は、民衆のかかる団体的製作であった。私は工藝そのものの性質が、この協団を本質的に要求していると信じる。美も民衆的であり、作の分業的過程も協力を要し、作らるる物も民衆の用品であり、数もまた多量である。工藝はこれを民主的藝術 Democratic Art とも協団的藝術 Communal Art とも呼び得よう。過去の歴史にかんがみても、個人的生活から出た個人的作は疾病しっぺいが甚だ多い。主我におぼれ作為に傾く。真の工藝は個人的藝術 Individual Art ではない。それ故現代のように、数人の目覚めた個性によって、工藝が起ってくる場合、それらの作者が一団となり、協団に移って進むなら、個人的弊害から離脱する道が開けはしまいか。人は自己を主張すればするほど、かえって拘束を受ける。自己の離脱のみが、自由な自己の獲得である。従って協団は個性への否定ではない。ギルドは互の敬念によってのみ成立する。中世時代の協団は相愛が原則であって、個人の自由と平等とをこれによって守護した。
 私は更にまた別の一面から、この協団の必然なるを説く事が出来よう。過去において、諸※(二の字点、1-2-22)の工藝はよき歩調を以て並行して進んだ。その瓦壊は近代の事に属する。今の工藝を見れば、何ら美の方向に統一がなく連絡がない。この放縦と分離とは工藝にとって一大障害である。よき器物には、それに似合う机や、敷物や建物がなければならぬ。一言でいえば、工藝には美術と異り、綜合的発展がなければならぬ。それはギルドを組織し、互に結合し統一するより他に、よりよき道はない。私たちは互に補佐し、敬愛し鼓舞して進もうではないか。奉仕の生活は協団によってのみ全くされる。
 さて、もしこの雰囲気が出来るならば、かつて美を意識した私たちは、美を生活にまでとり入れ、美に交りついに美を忘れる域にまで達するであろう。その時は雑念にわずらわされることもなく、批評に迷う事もないであろう。私たちが互に信じ互に結ばれ、そうして自然に一切を任せている限り、あつい信仰と不動な安心とをもって、仕事に専念精進しょうじんする事が出来る。そうして個人的作者が常に陥るあの焦慮と作為とから、全く脱し得るであろう。
 そうしてこの協団が私たちに素朴な生活と、正しき経済的発展とを保証するという事を、一言書き添えたい。私はこの組合組織と工藝との不可分離な関係を、美の問題から近づいて行ったのであるが、この道が経済的生活の最も健全な様式となるという事は、ギルド社会主義者の強く主張する所である。彼らがいうように、これは現代の資本主義と機械主義との大なる魔手から安全に脱れしめ、人類に幸福を将来する所以ゆえんとなるであろう。
 まして協団は全き奉仕の生活である。自己を投げ出し、大なる世界に一致せんとする生活である。そこには謙譲の徳が叫ばれ、質素の生活が要求される。それは正しさへの奉仕であり、同時に美への奉仕であり、仕事への奉仕であり、隣人への奉仕であり、社会への奉仕である。これを健康な生活と呼び得ないであろうか。
 協団であるからには、一つの村に形づくられるのが一層必然であろう。これによって更に深く相愛の実を挙げる事が出来る。それは理解と相愛とによって、結合せられた一個の自治体になる。(もとより事情により性格により、一村に共同して生活する事に困難を感じる人もあろう。その場合は固き信念の結合によって、組合の一人としてその精神と規定とを遵奉じゅんぽうしてもらえばよいと思う)
 正しき作は正しき生活様式からのみ来るというのが、私の信念である。

○このギルドが何故私たちによって始められねばならぬか。その理由。
○また私たちをおいてこのギルドに必然な出発を与えるものは他にないという自覚について。
 ギルドは一つの組合であるから、もとより団体生活である。しかし単なる集合は真の協団とはならない、また如何なる協団も工藝に適するという事は出来ない。そこには互を結合させる共通の信仰がなければならない。また次にかかる共通のものがあっても、かりにその信仰の標準が誤っていたら、何の役にも立たない。それ故この団体は正しき工藝の美への、共通の信仰を持ったものでなければならない。この点は昔のギルドとは異る。昔のは美への共通な信仰において結合したのではなく、時代がかかる経済的結合を要求したのである。中世紀でいうならば、これにキリスト教の信仰が、結合を一層堅固ならしめた事はいうまでもない。それ故昔のは信仰的ならびに経済的結合である。しかるに既に美を意識してしまった私たちには、正しき美への共通の信仰が、本質的な結合の要素とならねばならない、のみならず社会の経済的安定の確立だけでは、美を保証する事は出来ない。何故なら既に美意識を有つ現代人は、誤った意識によって美を殺すに至る恐れが充分にあるからである。今のギルド社会主義者は、経済的ならびに道徳的結合のみを説くが、それだけでは不充分である。彼らの製産から、すぐに美しき作を期待する事は出来ない。機械工業より転じて手工藝に入るといっても、凡ての手工藝が美しいわけではない。手工藝だから皆美しいとはいえない。昔のように美意識に禍わされない時代には、経済的ならびに道徳的結合のみで、美しき作は出来たであろう。しかし先にも書いたように、工藝の美を殺す原因は、工業主義のほかに、主理主義が主要な禍いとなっているのである。私の考えでは美に対する正しい理解の結合がなければ、いくら手工藝が栄えても美の堕落は直らない。否醜い手工藝も同時に激増するであろう。
 私たちは長らくの教養により、互の思想の交りにより、また久しき経験により、ついに私たちの美に対する直観を信じてよい時が来たのである。孔子は四十にして「不惑」といったが、お互にこの年令に近づいている私たちは、今直観においても、「惑わざる域」に達したのである。そうして正しき工藝の美は、雑器のうちに最も顕著に見られるという事において、全く見解が共通である。かえって下手げてさげすまれるそれらのものに、何故美が最もゆたかに宿るか、またその美が何を私たちに語っているか、それらの事に対して私たちの理解は皆一致する。これによって工藝の美の標準を規定する事が出来た。私たちのこの見方が単に独断的なものでないという事は、幸にも初代の茶人たちが加担してくれている。雑器の美、下手ものの美を最初に認めたのは、それらの人々であった。かかる意味で別に歴史的関係はないが、それらの人々を私たちの先駆者と呼ぶ悦びを有ちたい。(私はこの事実を後で気付いたのであって、見方を初代の茶人に負うたわけではない。否、へたに茶人に負うたら、今の茶人のように、何一つ正しい美が分らなくなったであろう)
 私たちの今試みつつある「日本民藝美術館」、またかつて京城に設けた「朝鮮民族美術館」の二つは、私たちの理解せる正しき美の標準の具体的提示となるであろう。
 かつてモリスは同じような運動を起した。実際彼の意志に共通な幾多のものを私たちは感じている。だがどうして彼は失敗したか。その原因は幾多あるであろうが、本質的な致命的な原因は、彼が正しき工藝の美を知らなかったのだという事に帰着する。彼自らが試み、彼が他人にも勧めたのは工藝ではなく美術であった。いわば美意識に禍わされた工藝である。私たちが脱脚せねばならぬと思うそのものを、彼は試みようとしたのである。「ラファエル前派」とは称しているが、まだ充分にゴシックに帰ってはいない。これはその派に属する人々が、主に美術家であって、工藝家ではなかったからであろう。残された彼の作を見れば、彼が工藝の本質的な美を見失っていたという事を看過する事が出来ない。これが彼のギルドの失敗の主因である。
 さて、正しき美への理解を共通に持つ幾人かの個人が、同一時代に、同一の国に、ほぼ同一の年輩に、しかも親しき友人として群出するという事は、誰も歴史上に予期する事は出来ない。しかるにこの驚くべき幸が、今吾々の間に与えられているという事に対して、盲目であっていいであろうか。
 私はかかる恩寵は歴史に二度と繰り返えらないものだとさえ考えている。工藝の美に対する最も深い理解者は、歴史上日本人であったという誇りを忘れる事が出来ない。我国においてほどうつわがその美において尊ばれた例は他にないであろう。私たちは伝統的血液を受けているのである。私たちは、私たちのつ、共通な美の理解に潜む驚くべき使命に対して、今遠慮すべきであろうか。もし私たちが結合して進まずば、誰かこの大業を成し得るであろう。
 今民藝美術館を企てるに至って、またその仕事が進捗しんちょくするにつれて、私は一層工藝のギルドが実現せらるべきだという信念を強めている。ギルドがかかる工藝の美術館と結合する事は理想的ではないか。美術館を建設するなら、そこを中心に協団の場所を計画すべきである。古作品は、私たちに、取るべき方向、踏むべき道を、日々示してくれるであろう。そうしてこの伝統は、過去への反逆でもなく絶縁でもない。よき伝統のよき継承とよき発展とが真の創作である。何故なら、伝統とは「過去のもの」という意味ではなく、そこには人間が長い歴史中に築き上げた本質的な美の、客観的表現があるからである。そうして私たちはその本質的な美のみは継承して行かなければならないからである。
 のみならず私たちの一群が、ただ作家ばかりでなく、種々な人々を含むという事は、このギルドの組織を一層徹底せしめ、完全ならしめる所以となるであろう。作家のほかにこれを思想として大成する人があっていい。また研究の道より工藝の歴史を探究する者があっていい。今や史料はかさなり、技術家は揃い、思索者は集る。この団体から何か力が出ないであろうか。今日までの学者は直観の体験にうとく、今日までの作者は思想の内省に乏しい。しかるに吾々の間においては、これらの二相よく補い、互に互を助けて、更に深い世界に入る事が出来る。この恩寵を空しくしていいであろうか。天が与うるものを受けずして、何を受けようとするのであるか。
 私たちのギルドが畢竟小さな協団に過ぎぬと評するであろうか、そうして国家的ギルドの理想からは遠いというであろうか。しかし波紋は一点の中心から起る。私たちの企てようとするのは、本質的な出発そのものである。如何なる人がギルドの世界的結合を即時になし得よう。歪められた工藝の道を、本道に導き、そこに目標を建て得るなら、続く人々は道を見失わずにすむであろう。大成は来るべき人々への贈物である。発端のみが吾々の現世において成し得る悦ばしい重大な任務である。
 凡ては吾々のために準備せられた。ただ残るものは為さんとする意志のみである。
(一九二七年)

付記
 この理念はある程度実現されて、京都市上加茂町の古い社家の建物を一軒借りて、青田五良(織物)および鈴木実(染織)青田七良(金工)黒田辰秋(木工)が同居して、仕事にいそしんだ。約一年後、作品展観をなし得るほどに仕事はすすんだが、生活の道徳面に欠陥が現れて、二年後私が外遊中に解散を余儀なくされた。しかしこれはかえって非常に有難い経験となり、また教訓ともなった。
(昭和卅三年三月付記す。柳)
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大津絵の美とその性質




 道中記等を開けば、大津絵をひさぐ店の有様が目に入る。過ぎゆく人々を相手に幾種かの絵を店先に並べ、軒下には看板、よく鬼の念仏を描き、名物大津絵などの文字も読める。壁を見れば表具せられた幾本かの図がかかる。室の中には粗末な机を置き、大津絵を描きつつある様が写してある。傍らにまばらに置かれてある絵具皿やすずりや筆を思えば、それが糊口ここうをしのぐ貧しい業であったことが分る。丁度私たちの町々に、今も傘屋かさや提灯屋ちょうちんやが店先で売りつつ仕事を急いでいるのと同じである。土間には糸車さえ描いたのがあるから、皆半農、半工で絵筆をとっていたのであろう。そうして三文絵として旅人の懐を相手に備えた土産物である。
 それが今日のような異常な市価を呼ぶとは、夢にだに思わなかったであろう。むしろそれらの画工は、かかるものを描かねばならぬ身をなげかわしく感じたであろう。ある折は好まないですら描いたであろう。彼らには誇るべき何ものも考えられなかったにちがいない。なぜならそれが彼一人のみの技であるなら、高ぶりもしよう。だが追分、大谷一里の道にかけて、かかる絵を描く者は少くはなかったのである。それに大方は土着の者ばかりである。皆同じように学問もない職人の仕業しわざである。時としては若い者も、また老いた者もあったであろう。しばしば家内が下地を、夫が仕上げをと、仕事をともにしたであろう。彼らは平凡な絵を平凡に描いているというまでである。どこにとりわけ誇る因縁いんねんがあったであろう。
 それに数多く描かねばならない絵である。彼らは感興を待っているわけにゆかない。否、かかる必要は少しだにない絵である。何枚も何枚も描くのであるから、それは限りない繰返しである。繰返しなるが故に、それは一つの定まった構図である。どこにどの線を入れるか、どこは何の色でどんな形であるか。顔はどちらを向くか、手足はどこに位するか。もうそれらの事は暗記している。それは長い間の代々の記憶の堆積たいせきだともいえよう。みだりに図柄を工夫することは許されていない。否、その自由があったならむしろ筆は運ばなかったであろう。図が定められているからこそ、筆が自由に運べるのである。何を描いてもよいのではない。何を描くかは決まっている。それが民画の性質である。それ故大津絵は「多量」に描かれた絵である。「反復」せられた絵である。「決定」された絵である。
 これらの性質は早く描くことを強いてくる。早く描かずして、どうして多くを描くことが出来よう。また多く描かずば、どうして安く売ることが出来よう。そうして安く売らずば、どうして多くの客を得ることが出来よう。大津絵は迅速に描かれた絵である。この迅速と多量とは、描く意識の苦労を取り去ったであろう。おそらく画工たちは何を描くかを思うことなくして、描き得たのであろう。否、何を思うとも、彼の筆の運びに躊躇ためらいはなかったであろう。それまでに彼の筆は定まっていたにちがいない。私は同一筆者の筆になる、ほとんど同一の絵をしばしば見かけたことがある。かくまでに定まっていたが故に、心にも手にも乱れはなかったであろう。ある時は笑いつつ描き、ある時は怒りつつ描いたのであろう。だが如何に気分が左右されるとも、彼の手を左右するものはなかったのである。彼はなだらかに、いつもの如き順序と、いつもの如き色彩とを以て、いつもの如き図を描いたのである。美しく描こうとする意識が、彼の作を守護しているのではない。彼の反復と伝統への帰依きえとが、美を保証しているのである。彼が描くというよりも、描かされているに過ぎぬ。
 大津絵は民画である。どこまでも民衆的絵画である。実用をむねとし、同じものを数多くあたい安く描いたのである。描く者も民衆の一人であり、あがなう者もまた民衆である。かかる意味で、それは美術というよりも、むしろ工藝である。工藝としてのみ解き得る絵画である。なぜならそこには個性がないからである。在銘の作ではないからである。あの大津絵に何の名を出すべき機縁があろうか。誰でもが覚える画ではないか。もう定まった図柄である。伝えられた筆法である。約束された色合いである。それも早く沢山描く土産絵である。どこに個性を言い張る余地があろう。それは個人の名において現れる絵ではない。かかる意味で大津絵は「小絵馬」や「泥絵」等と同じ性質を受ける民画である。


 どこに大津絵の美しさがあるかを問う人があるなら、進んでこう答えよう。またなぜ大津絵が美しくなるかを尋ねる者があるなら、明らかにこう説こう。それはどこまでも民衆から出る美しさだと。否、民衆ならでは産み得ない美しさなのだと。大津絵がもし在銘のものであるなら、もともと大津絵ではあり得ない。その美は無銘な世界からのみ来るのである。それは画家の作ではなく、画工の作なのである。藝術家の作ではなく、職人の作なのである。卑下ひげせられるこの性質こそ、大津絵の美を保証するのである。如何なる個人的画家が、大津絵をかくまでに描き得るであろう。如何に試みるとも勝ち味はない。民衆のみがなし得る仕事の前に、個人は何の力をも示すことが出来ぬ。
大津絵に負なん老の流れ足
 英一蝶はなぶさいっちょうはかく嘆じたという。大津絵の「相撲」図に書き記した賛である。戯画家であった彼は、大津絵と相撲をとっては勝ち味がないのを知ったのである。この謙遜けんそんな承認は全く正しい。
 そこには個性がない。習えばその地の誰でもが描き得た絵だからである。個性の美も一つの美ではある。だがそれは美術の美ではあり得ても、民画の美とはならぬ。民画が私たちの心をくのは、そこに個性を越えた世界が示されているからである。それは親しさの美を贈ってくれる。うるおいとか、味わいとかの美を示してくれる。それは誰でもの友である。誰にも備えた土産物ではないか。もしそれが個人の作であったなら、大津絵とはならなかったであろう。名物とはならなかったであろう。何も大谷、追分の地に限られる土俗の絵となるいわれがない。あの大津絵師が「又平末流」と名乗り出た時、もう絵に生気はなかったのである。どの優れた古い大津絵に銘を入れたものがあろう。個性を言い張る世界に、大津絵はなく、大津絵の美はないからである。
 私はまたこう答えよう。大津絵の美しさは伝統の美しさだと。それは一人が描いた絵ではなく、また一人が工夫した作ではない。あの単純な構図には、その背後に打ち続く伝統の跡が遠く見える。あの一つの型に、ほとんど模様にも等しい定まった形に落ちつくまでに、如何に長い年月と、その継承とがあるであろう。それは相伝の美である。もしこの事がなかったら、無学な職人たちに何の美を産み得る力があろう。そこには堆積せられ、協力せられた民衆の叡智えいちが潜んでいる。大津絵の美は類型美である。法則美である。何一つ我儘わがままに描いたのではない。一線一画も祖先より伝わる法を踏んでいる。この法を離れて大津絵の美は成立たない。かくして大津絵の図柄はおのずから決定してくる。否、凡ての民画はこの性質を受ける。ある人はこれを不自由と評するであろうか。そうではない。法なき所に自由はない。もし職人たちが伝統を無視して勝手に描くとするなら、彼らはたちどころに一つの絵すら描けない不自由さに陥るであろう。見られよ、よき大津絵の筆の跡に、かつて躊躇ためらいがあったろうか。自由さが欠けた場合があったろうか。伝統への帰依のみが、民衆の心と手とを自由の域に高めたのである。この秩序なくして大津絵の美しさはあり得ない。
 更にこうも言い添えよう。それは多く描く所から来る美しさだと。その驚くべき作の背後には、くことなき反復の労が潜んでいるのだ。そうして生活と戦う汗が乾いたことはないのだ。どうしてそれが藝術家たちのあの感興の賜物たまものであり得よう。どうして彼らのまれによりしか出来ない作と同じであり得よう。朝から夕べまで暇を見出しては描き続けた絵なのである。多く描かずば既に民画たることが出来ぬ。大津絵の美は多く描かれた美である。それも同一のものが繰返された美である。この味なき労力の世界から、大津絵の美が出るのである。
 または言葉を換えてこうもいえよう。それは早く描く所から来た美しさだと。その筆にかつてよどみがあったろうか、逡巡しゅんじゅんが見えるであろうか。それも筆の走りに美しさを認めたからではない。多く描かねばならない故、早さが伴うたに過ぎない。そうして定まった図柄を、定まった工程で描くが故に早いのである。その早さは意図によるのではない。凡てから導かれる必然な結果である。この事がその早さに素直さを与える。筆の早さは冒険ではない、技巧ではない。そこには常に安らかさと確かさとがあるのである。確かでない早さはない。確かなる故に早く描けたのである。この事が大津絵に限りない美しさを産むのである。どの線にも胡麻化ごまかしはない。
 この性質を更にこうも、かいつまんでいうことが出来よう。大津絵の美しさは、安さから来るのであると。もしもあの大谷、追分の画工たちが金持ちであったなら「三銭五銭の商い」のために、苦しい筆は執らなかったであろう。早く多く描く機縁は有たなかったであろう。もしまたそれが豪奢ごうしゃな高価な絵なら、かかる反復と単調とを許さなかったであろう。それは貧しい職人たちにのみ与えられた美なのである。摂理は不可思議に廻ってゆく。安価なやくざな品であったからこそ、意識のわざわいに犯されていないのである。かかる絵を描かねばならぬ彼らの運命に、何の誇りをか感じたであろう。しかし少しも誇らない仕事であったからこそ、自然はその作物に、正直なよき性質を与えたのである。謙遜なものは愛を受ける。かつて安い大津絵は、当然価高くなるべき運命を招いている。かくなる美しさが充分にあるからである。(安いものを悪いものにしたのは、ごく近代での不幸な現象に過ぎない)


 凡てのこれらの性質は、大津絵を画策かくさくや作為や技巧の病いから救ったのである。凡てが自然さの上に生い立っている。画工たちはそれらの驚くべき絵において、極めて無心であり得たのである。否、その価値について無邪気であったからこそ、あの驚くべき美しさを産み得たのである。絵画とは何か、その絵が何流であるか、筆法とは何か、何がよき色調であるか、それらのことを聞かれたとて、画工たちには何一つ答えの持ち合せがなかったであろう。しかし自然と伝統とへの、私なき信頼は、彼らのために一切を準備したのである。この無心より異常な働きをなす力はない。何故なら無心においてより、自然の叡智が残りなく働く場合はないからである。大津絵の美は天然の美である。生れた美である。作られた美ではない。
 民画は常に一つの略画である。この省略はわざと試みられたものではなく、早く多く描く処から来た必然の結果である。そうして大津絵の美しさが、この省略から発していることを誰も気付くであろう。私たちは構図とその画線と色彩とが、ここまで省略されるのに、幾歳月かの洗煉せんれんを経ていることを見逃すことは出来ぬ。そうして同一の画題の単調な反復が、凡ての無用なものを取去り、無くてはならぬもののみを残してきたのである。省略は粗略ではなく、精華のみの示現である。無益な外形の写実ではなく、内なる実在の提示である。末期の大津絵が醜いのは、ただ粗雑のみ残って、生命がないからである。生命が省略をもたらすのではなく、省略が形式に沈んで、生命を傷つけて来たからである。古作品を見よ。その簡素な描写は、粗雑な現しではなく、あらゆる無駄を省いた肝腎かんじんなもののみの姿である。それを結晶された絵とも呼び得よう。または濾過ろかされた絵とも名づけ得よう。または煮つめられた絵とも言い得よう。大津絵が私たちの眼に心に働きかける美しさは、この省略が演じる不思議さである。もう一線も一画も無駄ではない。否、無くてならないもののみである。ここに「弁慶」の図がある。それは甲冑かっちゅうまとい七つの道具を背負う弁慶の図である。狭い画面の中に、画工は驚歎すべき簡略さを以てこの場面を現出している。ひげ濃きその顔、身につけたる甲冑、七個の武器、そうして手の指から、衣のひだに至るまで、一切を簡潔な単純な数少き線において示し去った。そうしてどこにも、弱い無くてよい余分はない。隅々まで一点の胡麻化しもない描写である。誰もおそらくこれ以上に省略することは出来ないであろう。煮つめられた美しさである。また一羽の「鷲」の図がある。図は誰も知る一羽の鷲に過ぎない。だが私はこの結晶せられた一枚の絵以上に、この猛禽もうきんが有つ壮厳さと権威との美を示し得たものが他にあるかを疑う。民画が現す驚くべき境地である。単純の美を越える美しさはない。単純には一切の複雑が含蓄されているからである。それは一切を含む無である。七色を包む白光である。
 かく思えば大津絵に伴う凡ての美は、平凡な世界からの発生である。あの土産物とか実用とか、そうして忙しい仕事とか、その労力とかまたは多とか廉とか迅速とか、そうして伝統への帰依とか、その単調な反復とか、そうして無学とか凡庸とか、そうしてそれらを余儀なくされている民衆とか、その貧しさとか、これら卑下される諸※(二の字点、1-2-22)の性質こそ、大津絵をして限りなく美しくせしめているのである。平凡それ自身に何の非凡な力があろう。しかし平凡を支える摂理の非凡さを誰も否むことは出来ぬ。あの凡人すら、かかる美を生み得るとは、如何に絶妙なこの世の神秘であろう。否、凡人ならずば、大津絵の美を産み得ないとは、如何に不思議な聖旨であろう。大津絵は浄土に摂取されてゆく平凡の美である。それは他力の美である。下根の凡夫であり、下賤げせんの絵であるから、自分で高き位につく力とてはない。だがかかる事情にあればこそ、救いが誓われているのである。あの古き大津絵がくまなく美しいのは、救いが果されているしるしではないか。美しい大津絵の凡ては、自然の力の恵みを受けているのである。


 だがいうまでもなく、大津絵が他の民画と区別される特色は、そこに含まれる諧謔かいぎゃくである。それはあの「泥絵」のような、名所名所の描写ではない。また「小絵馬」のような特殊な符牒ふちょうの表示ではない。それは物の姿を写すためではなく、世事への見方を現すための絵であった。描かれた姿は、一つの手段に用いるに過ぎない。ただ借りてくるまでであって、それが主要な題材ではない。そこには浮世への観察が宿る。哀楽様々な人間社会への批判が見える。それもことごとくが民衆の心に映る世態への省察である。言葉では封じられた様々な真理の表示である。それもまともに示そうとするのではない。諧謔の世界に導いて、いいたい心を現そうとするのである。これこそは当時の町民たちが、公に世間に向ってなし得た批評の、こよなき方法であったであろう。大津絵には浮世絵の影響も認められ、また時として浮世絵とも呼ばれたことがあるようである。だが、一般の浮世絵とは異なって遊蕩ゆうとうの美ではない。そこには町民たちの機智や皮肉がある。大津絵は民画ではあるが、かかる意味で原始的な絵画ではない。一つの進んだ文化が、民衆の手に托された時の産物である。私たちはそこに時代の智慧を思い、民衆の余裕を感じる。この事なくしてかかる洒落しゃれ諷刺ふうしの美があり得ようや。同じ民画ではあるが、かくまでに進んだものは世に類例がまれであろう。
 大津絵はどこまでも民衆の絵画である。絵画が平民の手に移された時の産物である。かかる意味でどこまでも徳川期のものだといわねばならぬ。この平民の文化を背景とせずして、大津絵の存在はない。それは時代の産物である。時代を離れてその誕生はない。それは平民が、絵画の歴史に加え得た卓越した遺産である。そうして平凡の世界が真に何をなし得るかの、忘れ難い記念である。凡ての吾々は日本の絵画史に大津絵を持つことを悦んでよい。これこそは真に日本のみが果し得た比類なき民画だからである。否、大津絵に見出せる日本をこそ誇ってよい。それは民衆の叡智えいちと情緒とのまがいもない披瀝ひれきだからである。
(一九二九年)
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雑誌『工藝』発足




 この計画の発端は古い。雑誌『白樺』が西洋の美術を広く紹介し、その十四年の歴史を閉じるまで、同人の一部の人々の眼は東洋の藝術に、そうして一部の人々の眼は工藝の領域に拡げられた。前者の傾向は『白樺』に次いで刊行された『不二』や『大調和』のような、吾々の友達の手から生れた雑誌の挿絵さしえがよく物語っていると思う。工藝の方面でも、早くから雑誌を有ちたがっていたが、度々たびたび話題に上りながら、経済的に自信がつかなかったので断ち消えになった。それにその頃は工藝の領域に興味を有つ人が至って少なかったのである。この方面では、作家として立っていた富本憲吉とバーナード・リーチとの存在を忘れてはならないと思う。私の工藝に対する興味もこれら二人の友達に負う処が大きい。小著『朝鮮の美術』、『陶磁器の美』等はその交友の記念だともいえる。私が浅川巧と協力し朝鮮民族美術館を建てたのもその間である。その頃から河井や浜田との交わりも深くなり、お互に工藝問題について語りあって、得る所が些少でなかった。昭和二年雑誌『大調和』創刊号から連載した私の「工藝の道」と題した論文は、近頃の私の仕事の出発である。その間に私たちは京都市外上加茂かみがもに民藝協団を計画し、また日本民藝美術館の設立を計り、度々蒐集の旅に上った。
 四囲の事情は、段々独立した工藝の雑誌を要求するようになった。なぜなら私たちの心が引かれている工藝の領域が、余りにも世間のそれと違っているのに気付いたからである。だが、売れそうもない雑誌を試みるのは経済的に冒険である。それで、皆で金をもち寄り、少部数の定期刊行物を出そうとしたのである。河井、浜田、青山二郎、石丸重治らとこの事を話しあった。私の在外中、一度まさに発刊しようとし、青山が主に担当する事になっていたというが、そのままになった。私が帰ってきて、また熱が上った。青山は随分綿密な計画を立てた。そうして、※(二の字点、1-2-22)たまたま聚楽社の秋葉君に逢い、ついに発行を決めるに至った。雑誌は初め『民藝』と題したが、青山等の意見で『工藝』に変った。
 もっとも吾々の友達の中でも、いわば長老連中は一斉にこの仕事に反対した。続くものか、というのである。一、二号でつぶれるから止せ、というのである。一理はある。経済面に凡そ幼稚な私に、先の見通しがあるわけがない。それに本文は十二ポの活字、表紙は布に手染、(第一巻十二冊は芹沢※(「金+圭」、第3水準1-93-14)せりざわけいすけ君の作)または和紙にうるし(これは鈴木繁男の作)それに挿絵が多いから金がかかる。だが金で駄目でも、熱があれば仕事を成り立たせる事が出来よう。それに仕事としては、ひそかに自信があった。それで反対はあったが、ともかくやり始めたのである。
 事務的な事は最初、青山と石丸とが主にやってくれた。しかし二人が編輯へんしゅうを止めたので、第三号から純粋に私が引き受けねばならなくなった。私はもう一つ『ブレイクとホヰットマン』と題した月刊雑誌を京都の寿岳文章君とやっていたので、同時に毎月二つの雑誌を出すのは無理である。私は思案した。しかしこういう時、平常一番用心屋の河井が一番積極的に継続を主張した。それで自分も鼓舞され、凡てを背負う決心をした。いろいろ不充分な点もあろうが、この仕事はやってやり甲斐がある。止めるより続ける方が本当である。そう考えたのである。その時浜田からもいい手紙を貰ったので、なお心を強くした。そうして前進する事に決めた。やってみるとすらすらと何時の間にか月がかさなっていった。時には休養したいと思う時があったが、試みたいと思う事の方が多いので、停滞する暇がなかった。それにこの雑誌を悦んでくれる人が案外多く、やり甲斐があるように感じた。また執筆者の撰択が肝心なので、挿絵の場合でも、どんな挿絵でもいいというわけにゆかないのと同じく、この雑誌には執筆者も誰でもいいというわけにゆかない。いろいろの方面でしっかりした人が欲しい。将来は工藝の美学的研究に加えて、「工藝と社会」、「工藝と経済」、「工藝と組織」こういった方面のたしかな論文をも載せたいと思っている。何にしても人が先決問題故、そういう人たちにめぐいたいと熱望している。
 もっとも私たちの求めている人は、簡単にいえば美の見える人である。いくら理論的に秀れていても、美が見えぬ人では、肝心の処でくい違いが出来ていて面白くない。しかし「知る人」の方が多く、「見える人」の方が案外少ないのは残念である。だがどこかにいい人がかくれているような気がしてならない。美学者たちの中にも誰かいそうに思う。そういう人にうんと働いて貰わないと世の中の方向が妙な風に進んでしまう。この『工藝』自身の使命が、将来「見える人」を養う事にあるともいえる。

追記
 この雑誌は幸い編輯事務に佐藤佐和子、荒木道子の如き有能な人を得たので順調に育ち、また水谷良一氏の如き元気な人が幾号かを助けてくれたので、三号でつぶれるといわれた本誌もついに百二十号まで出すに至った。その間大戦争があって難儀して、発行のおくれる事がしばしばあった。そうしてついに用意した紙や、銅版等悉皆しっかい戦災をうけて灰燼かいじんに帰したのでついに昭和二十六年に一旦中止するに至った。しかし一、二年のうちに再起したい念願である。この雑誌は古本の値が非常に高いのを見ても、今なお熱心な読者がある事が分る。外国の図書館ですら備えつける所がふえてきた。
(昭和三十三年追記)
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民藝の趣旨



一 民藝の語義


 民藝とは新しい言葉です。それがためあるいはこれが民俗藝術の略字とも解され、時折農民美術とも混同されました。また民衆藝術という華美な言葉にもとられました。しかし吾々はもっと質素な意味で、民衆のと工藝のとを取って、この字句をこしらえたのです。それ故、字義的には民衆的工藝のいいなのです。いわば貴族的な工藝美術と相対するものです。一般の民衆が日常使う用器が民藝品なのです。これをつづめて民器とも呼び得るでしょう。何人の生活にも必要な調度、即ち衣服、家具、食器、文房具等、皆この中に入ります。俗語で下手物げてものとか粗物そぶつとか雑具とか呼ばれる雑器の類は、凡て民藝品に属するわけです。
 それ故民藝には二つの性質が数えられます。第一は実用品である事、第二は普通品である事。裏からいえば、贅沢ぜいたくな高価なわずかより出来ないものは民藝品とはならないわけです。作者も著名な個人ではなく、無名の職人たちです。見るためより用いるために作られる日常の器物、言い換えれば、民衆の生活になくてならぬもの、普段使いの品、沢山出来る器、買いやすい値段のもの。即ち工藝品の中で、民衆の生活に即したものが広義における民藝品なのです。
 ですが私たちはこの意味を、もう少し狭義に厳格に解して、民藝品が当然つべき特質を規定したいのです。ただ民衆的な実用品といってしまえば、現に店頭に並ぶあらゆる安ものもこの部類に入るわけです。ですが私たちはそれらのものの中から、ある素質を有ったものを民藝品と呼びたいのです。即ち用の目的に誠実である事を、その本質に数えたいのです。近頃機械工場で濫造らんぞうされる製品は、全く商業主義の犠牲であって、利が眼目であるため、用がしいたげられているのです。同じく用器とはいいますが、一時まに合せの誤魔化ごまかし物であって、用には極めて不忠実な粗悪なものとなっています。これと共にあの風流をねらったいわゆる雅物は、趣味の犠牲に堕したものが多く、無用な飾りや単なる思いつきのためにゆがめられているのです。ここでも用は二の次になって、とかく軟弱な病的なものに流れがちです。ですが実用品であるからには、これらの事を深くつつしんでいいのです。かかる性質は凡て生活への奉仕に背くからです。
 従って民藝品と呼ばれるためには、用途を誠実に考えた健全なものでなければなりません。それには質への吟味や、無理のない手法や、親切な仕事が要求されます。かかる事のみが生活に役立つ誠実な用器を産むからです。近頃のものをかえりみると、質よりも見かけに重きを置き、親切に作るよりも出来るだけ手をぬき、繊弱な醜悪なものとなっています。色が俗であったり、姿がせたり、じきにこわれたり、げたりするのも、用途に対する不誠実から来るのです。私はそれらを不道徳な工藝品と呼びたいのです。
 それ故民藝とは、生活に忠実な健康な工藝品を指すわけです。吾々の日常の最もいい伴侶はんりょたらんとするものです。使いよく便宜なもの、使ってみて頼りになる真実なもの、共に暮してみて落ち着くもの、使えば使うほど親しさの出るもの、それが民藝品の有つ徳性です。それ故質素であっても粗悪ではいけないのです。安くても弱ければ駄目なのです。不正直なものや、変態的なものや、贅沢ぜいたくなものや、それらは民藝品として最も避くべき事柄です。自然なもの、素直なもの、簡素なもの、丈夫なもの、安全なもの、それが民藝の特色なのです。一言でいえば誠実な民衆的工藝、これがその面目です。その美は用途への誠からいて来るのです。吾々はそれを健康の美、無事の美と呼んでいいでしょう。

二 民藝の必要


 工藝品の大部分を占めるものは、生活に必要な器物の類です。もし工藝の世界を健全に発達させようとするなら、量において最も多いそれらの用器を、質において高めねばならないでしょう。丁度少数の人間が優れても、大衆の素質が低いなら、立派な社会を形造る事が出来ないのと同じです。今まで日用品は、普段使いだからという気持ちで、どんなものでもかまわないように考えられて来ました。しかしそれらのものが粗悪な限り、工藝による美の王国は成就じょうじゅされる事がないでしょう。特殊なごく少量のものが美しくなったとて、世界に救いは来ないからです。わずかの坊さんたちにだけ信心が残るなら、宗教の時代は去ったといってもいいでしょう。神の王国を来らすためには、信仰がひろく衆生に行き渡らねばならないのです。私は同じように工藝時代をこの地上に来らすために、日常品の救いを極めて重要視する者の一人です。民藝品は用器中の用器です。その堕落は直ちに工藝の頽廃たいはいを意味するのです。民藝の興隆がなくば、工藝は変則な歩き方を続けねばならないでしょう。私はここに日常品が美しかった時代が、いずれの国にせよ、最もさかんな工藝時代であった事に言及する要はないでしょう。私はまた卓越した過去の工藝品が民器の中に最も多く見出せるという明確な事実を、繰り返し述べる要はないと思います。
 近頃は人間の美意識に曇りが来ました。原因は色々あるでしょうが、日々の用器が醜くなって来たのも、たしかにその一因です。なぜなら私たちが四六時中一番多く眼に見、手に触れるものは日常の器物です。私たちは衣を着、食器を手にし、家具を用いる生活を毎日繰り返して行くのです。それらの品々が、識らずして吾々に及ぼす影響は甚大なものだと考えます。
 近頃の粗悪な品は、人々に物を粗末にさせる習慣を与えてしまいました。昔の人は品物を大切にし、勿体もったいない気持ちで使いました。当時物が少なかったからともいえましょうが、それより品物が有つ正しい質が、かかる心を起させたのだと私は思うのです。なぜなら使う事によってますます器物の美しさを増す事が出来たのです。それらは生活のよき伴侶として、親しみや愛着を呼び起させました。昔は人間と品物との交りが今よりも濃かったのです。これは祖父が着たものだといって用いる事は、孫にとって一つの自慢でさえあったのです。ですが現代のものは、人間の心から、勿体ないという感謝の気持ちや、物への情愛を奪い取ってしまいました。物が不親切に出来ているからです。これは社会の道徳から見て、大きな損失といわねばなりません。
 それに趣味は低下して、色調も俗になり、形態も貧弱となり、模様も醜悪になって来ました。これに囲繞いじょうされる生活が、人間の美意識を濁らせる事は当然です。天才が作るわずかなものが美しいとも、それによってこの世は美しくならないのです。それより遥かに大きな力で、醜いものがえて行くからです。美の王国の到来が人類の理念の一つであるなら、普段使いの品々をこそ、高上させねばならないのです。工藝を栄えさすためその努力を、使うものより見るものに注ぐのは、間違ったやり方です。宗教家は救世の念願を果すために衆生に呼びかけました。工藝に志す者はどうして民藝に呼びかけないのですか。その救いを果さずば世界はうるおわないのです。
 私は如何に用器に留意する事が必要であるかを更に言い添えましょう。私たちは今まで美しさへの見方を、見る側から養ってきました。それ故絵画とか彫刻とか、いわゆる美術と呼ばれるものがその主な対象でした。同じ工藝でも用途からむしろ遠い工藝美術、即ち見る工藝を尊んできました。そのため用いる工藝は下級なものとされ、さげすまれてきたのです。ですがその結果、吾々の美意識に著しい堕落が来ました。なぜなら美しさと生活とがこれで隔離されてしまったからです。美を生活に即して味う事はなくなってしまったのです。美しさを、見る世界に限り、用いる世界に求めなくなったのは、近代の人が犯した大きな誤謬ごびゅうでした。美の教養は用いる工藝を等閑にしては正しく育たないのです。なぜなら用いる時ほど、生活で美をあじわう場合はなく、従ってその時以上に、美に親しむ場合はないからです。今までこの事が一番よく分っていたのは茶人たちでした。彼らに美への深い体験があったのは用いる器物で美を味ったからです。茶道は見る事より用いる事へ、道を一歩深めたものです。茶人の世界は美術よりも工藝でした。美しさを用器に求め、生活に即させる事によって、彼らは美を深く捕えました。ただ茶人の美は後代になって茶室内に限られて来ました。ですが器物を用いる日々の生活に茶境を味う事こそ、茶祖の真意だったと信じます。
 私は何よりも普段使いの品が健全にならずば、この世は美しくならないと思う者です。美と生活とが離れるならば、人間の美意識は低下してしまうでしょう。この世に美を栄えさすために、また美しさへの心を深めるために、用器を美しくする事の必要を切に思う者です。工藝が衰えては美の王国は決して成就されないでしょう。そうして民藝がすたれるなら、工藝もまた凋落ちょうらくするに至るでしょう。なぜなら民藝こそ工藝の中で最も生活に即したものだからです。

三 民藝の実現


 それなら、どうしたら民藝を実際に出発させ生長させ成熟さす事が出来るか。それにはどんな道を選んだらいいか。
 私たちは機械生産が商業主義の犠牲になって、粗悪なものを産みつつある事を熟知しています。生産に対する動機の不純や、その無理な制度や、機械の未熟や、様々な原因のために、作品がゆがめられているのです。それに労働は工場において虐げられ、仕事は無味なものに陥っています。加うるに機械の使用には統制がないため、物は濫造らんぞうされますます粗悪になってゆきます。生産の過剰は失業者を激増させました。作らせる者も、作る者も、作られる物も、いずれも責任を負いはしないのです。その結果、病的な現象が作物に現れるのは当然な成り行きです。それに都会文明の誘引は強く、地方の文化は日に崩されて、作る物は一様になり、単調になって来ました。かかる冷たい今日の工場が、民藝の正当な発育に不向きな事は自明なのです。現在の組織と機械と労働とは、誠実な器物を産むには適しないのです。今の趨勢すうせいを見ると、誠実な品は、愚鈍な品であるとあざけられるようにさえ見えます。
 ひるがえって地方を見ると、職人たちの手は空いているのです。それに伝統はまだ保たれているのです。特殊な技術はつたわっているのです。それに人間はまだ実直なのです。それらのものを無視して、民藝を都会の工場に托す事は意味がないでしょう。私は地方的な手工藝が、民藝の運動を発足させる最も自然な安全な順序であるのを考えないわけにゆきません。特に副業として確実な経済的効果を現わすでしょう。疲弊した農村は今仕事に飢えているのです。両手を差し出しているのです。手工藝を過去の道だといって棄て去る人もいますが、私にとって最も問題となるのは、方法の新しさ古さよりも、品物の正しさ悪さにあるのです。私は民藝に正しい出発を与えるために、手工藝を地方産業として選ぶ事が、最も妥当だとうであると考える者です。なぜならその道は工藝を侵す多くの罪悪から遠いからです。まして日本のように各地に今なお健全な民藝が残っている国においては、その力を有効に活かす事が最も賢明な道であるのを信じます。
 それ故民藝の生長にとって望ましい事は、地方色をよみがえらす事です。仕事を家庭に結ぶ事です。手工の伝統を活かす事です。その地の材料に立場を据える事です。それらの条件は仕事を健実なものに導くでしょう。なぜならそれは自然の上に安全な基礎を置くからです。
 ですが作る物は、単に過去の反復ではいけないのです。最近における生活様式の変化は新しい器物を要求します。実用品を作る事が民藝の趣意である限り、現代の器物へと進展せねばならないのです。多くの人は地方色の出た物といえば、すぐ玩具や人形の類を聯想するようです。しかしかかるものは軽い趣味に堕しやすく、健全な発達のためには、用途をむねとした器物を作る方が遥かに望ましいのです。民藝を生活から離れた趣味の上に築く事は避ける方が至当なのです。大勢の人に届ける実用品でありますから、民藝は当然産業として発展されねばなりません。仕事を個人に留めるなら、民藝の性質にもとるでしょう。それは個性の表現を目的とした作でもなく、わずかより出来ない事に満足すべきものでもないからです。生活に奉仕する器物は、かえって個性の角を慎んでいいのです。平穏な無事な作の方が更に望ましいのです。この事は美の理想にもかなうでしょう。
 民藝は職人たちの領域です。ここは一人の世界ではなく、協力の世界なのです。仕事はすべからくその団結の上に安全な保証を置くべきなのです。協力は一人よりも、もっと大きな結果をもたらすでしょう。それは将来の人類の理想にも適う事なのです。最も優れた過去の民藝品も協力を記念する作物でした。
 職人たちの才能は今も昔とさしたる違いはありません。ですが一般の美意識が低下してきたため、何が正しい作物であるかの目標が見失われているのです。悪作を作るとも、罪を彼らに着せる事は無理なのです。時代が悪いのです。何か彼らに方向を与え、彼らを結合する力が働くなら、作物は甦るでしょう。それ故今のままで職人たちに凡てを一任する事は冒険なのです。民藝の運動には指導者が必要なのです。何が作物の正しい標準なのかを指示する者が要るのです。さもなくばあてどなく道を彷徨さまようでしょう。
 ここで私は個人作家と民藝との交渉を考えないわけにゆきません。理解あり創意ある作家たちは、民藝に方向を与える手本を産んでいいのです。今まで作家たちの仕事は個人的なものに留っていました。むしろ誰をも近づけないほど独自である事を誇りとしました。しかし将来の作家たちは、どれだけ他人の作に自分を活かすかを心掛けるでしょう。始創者である彼らは民藝に種を下ろし、そこに彼らの仕事を大成させていいのです。作家は僧侶であり、職人は平信徒であっていいのです。これらのものの結合こそ、工藝の王国を早く来らすでしょう。作家たちは当然民藝の意義を最も深く省みる人々でなければならないはずです。
 かく考えると、民藝の運動を持続させ生長させるためには、一つの組織があっていいのです。それが個人の仕事でない限り、多くの職人たちが共に働く限り、そこには秩序がなければなりません。彼らを守るものは彼ら自身の力ではなく、彼らを統制する合法的な秩序の力なのです。彼らを結合する組織のみが、彼らの弱い存在を強固なものになすでしょう。その結合は今までのように権力の支配によってはいけないのです。ただ利得の関係によってもいけないのです。在来の問屋制度が如何に民藝を破壊したかを熟慮せねばなりません。相愛による団結のみ、仕事を堅く守護するでしょう。個人を越えた法のみが彼らを安全に支持する力なのです。

四 民藝の目標


 私たちが民藝に関心を有つようになったのは、二つの理由に因るのです。一つは民藝品の美しさに打たれたからです。第二にはなぜそれらのものが美しいかの理由を考え及ぶに至ったからです。私たちはこれらの直観と理性との二つにもとづいて、民藝の振興が工藝界にとって最も重大な事であるのを確信するに至りました。しかも民藝の命脈が著しく衰頽してきた今日、吾々はこれに対する正しい判断と計画との必要をますます感じるのです。過去の作物に何が在ったか、それがどうして出来、どんな性質を有つか、なぜそれらは美しい作物になったか。これらの事に関する注意深い観察が、吾々には肝要なのです。それは真理問題として大きな内容を吾々に提出します。民藝の運動はこの真理への意識から発足されるのです。
 ですがそれは出発に、かかる意識が必要だというまでであって、民藝を意識的作物に止めてはならないのです。意識は批評家や作家の道ではあっても、職人たちの道ではありません。職人たちはむしろ無意識にいい製作を産むようにする方が自然なのです。それを守護するのが、吾々の意識の任務なのです。凡ての職人をして意識的作家にさせようとするなら、仕事はたちまち不可能に陥るでしょう。それは凡ての人間に善人たる事を強要するのと等しいからです。あの他力宗では悪人をもそのまま浄土に導く事を契っています。それは民衆への福音として最も正しいものです。民藝の目途は凡ての職人をして、彼らがどんなに貧しい知識の持主であろうとも、そのままに自ら正しい作を産めるようにする事にあるのです。彼らをして当り前に作り、当り前なものを作り、当り前な美しさを産むようにする事なのです。いわば易行道に導く事です。それは誰でもたずさわり得る平易な領域でなければなりません。ですがかかる道に入ってこそ、作物が安定になって来るのです。美に様々あろうとも、平易な美は最後の愛を受けるでしょう。職人たちの無意識は、かえってかかる境地へ彼らを導く特権なのです。ものの良さを意識する必要もなく、良いものを自然に産める道、いわば平凡に立派なものを作る道、民藝の帰趣はこの境地に到る事です。
 私はたとえでこの真理をなおも明らかにしましょう。人間が歩むという事は平凡な事柄です。愚なものでさえ上手に歩きます。ですが如何に上手に歩くとも、人はそれを讃美せず、また歩く者もそれを誇りには考えていません。私は民藝をそのような境地に高めたいのです。如何によくとも、平凡な当り前なものと成ってこそ、正しい民藝なのです。あの驚くべき数々の古民藝は、当時平凡極まるものでした。それ故にあの歩行の如く自由に作れたのです。平凡な事にまで高まったからこそ、あのように健全な品物になれたのです。
 かりに吾々が足を痛めるとしましょう。または闇夜やみよに灯火もなく歩くとしましょう。歩行はたちまち平凡ではなくなるのです。一歩一歩意識して歩かねばならぬ不自由と困難とをめるでしょう。そうして今まで平凡だった歩けるという事の、異常なしあわせを今更感じるでしょう。工藝における吾々の現状は丁度それなのです。工藝界が傷を受けたので、今は用心しつつ歩かねばならないのです。歩行は難行です。一々意識して足を進めねばならないからです。民藝が意識の圏内に在る間、仕事に多大の困難が伴うのは必然です。凡てものの発足が、多くの努力や注意や奮闘を必要とするのはその故です。
 ですがかかる状態は、民藝の止るべき場所でもなく、帰りゆくべき境地でもないのは自明なのです。民藝は異常なものであってはならないのです。それは平凡にまで高まらねばならないのです。読者よ、この世には異常なものより通常なものの方が、遥かに意味深い場合があるのを知って下さい。もしも吾々が健康な体に帰るなら、あの巧みな歩行を無意識に平易に行うではありませんか。それは実に平凡極まる事にまでなっているのです。否、平凡となればこそ、かくも巧みに歩けるのです。民藝もこの平易さにおいてのみ成就するのです。それが健康に発達するなら、平凡な民藝とこそなるでしょう。その時ほど民藝が非凡になる時はないのです。
 職人たちは個人作家ではありません。しかしそれだからこそ民藝を背負えるのです。作家たちが果し得ない仕事が果せるのです。平気で健全なものが作れるのは職人たちの特権なのです。そうして誰もこの特権を有ち得るとは、如何に大きな祝福でしょう。そうして如何に良いものを作っても、当り前により感じていないのは、職人たちの優越を示すものです。この微妙な摂理が今の人々には分らなくなっているのです。ですが考えて下さい。昔からの卓越した工藝品の多くが民藝品である事を。そうしてそれらのものの作者は大勢の平凡な職人たちであった事を。そうして吾々には異常に見えるそれらの作物を、事もなげに通常なものとして作った事を。そうしてその事に対し、とりわけ誇りを感じていなかった事を。彼らはその秀でた作物に名を刻んだ事があるでしょうか。民藝は無銘なのです。それは丁度真の善人が、平凡に当り前に善い行いをするのと同じ境地なのです。それは文法も知らない日本人が、困難な日本語を平気で使いこなすのとも同じです。ぎごちなく一々文法を意識して話す外国語の場合と如何に異るでしょう。言葉が驚くべき自由に達した時、人はそれを最も平凡に使うでしょう。平凡に使えばこそ、自由に使いこなせるのだといっていいのです。民藝はかかる意味で誰にも平易に出来る民藝でなければならないのです。天才の非凡な意識の道は民藝の道ではないのです。
 無学な者は学僧にはなれないでしょう。ですが純朴な信心の持主となる事は出来るのです。そうして学問よりも信心が、宗教の極みである事を誰が否定し得るでしょう。民藝は意識的作物ではありません。否、それに止ってはならないのです。ですが自然に生れる無心なそれらのものが、美の国において小さな者とさげすまれるでしょうか。否、世界の工藝品のうち、最も美しい品の数々が民藝品の中に見出せる事を吾々は目前に観ているのです。あの貧しい篤信な信者たちは、天国においては必ずや大いなる者と呼ばれているでしょう。民藝もまた同じ栄誉を受ける事を、私は信じて疑わぬ者です。
(一九三三年)
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日本民藝館案内



一 生立


 大正十五年正月十日のことであった。吾々は紀伊の各地を伝って、旅を高野こうやの山寺で結ぼうとした。実にその夜のことであった。私たちは民藝館の設立をはかり、おそくまで心を躍らせてそのことを語り合った。
 ここに来るまでには既に幾歳月かが流れている。我々は互に物の美しさに眼をかれた。それに幸なことに、物への見方においても互に心が通った。だが振り返ると私たちの取捨が、如何にこの世の多くの人たちのと異るかに気付かないわけにはゆかなかった。私たちはむしろ見捨てられた数々の品に、この上ない美しさをしばしば見つめた。そうして讃えられ通して来たものに、しばしば美しさの乏しいのを感じた。如何なるわけか、生活に忙しい日々の用具が、かえって吾々の強い愛を誘った。私たちは何も理論においてそうであると、先に定めたわけではない。私たちは物をまともにじかに見る他は何の工夫もなかった。知るよりも先に見たことが、吾々にこの不思議な場面を示した。この悦びを誰にも伝えたいではないか。そう私たちには思えた。私たちは物を介して、忘れられている美を語りたいのである。私たちはこの新しい領域で、今までに類のない仕事を為し得るのを感じた。そうしてついにはそれを果すべき任務を自覚するに至った。美術館を建てよう。これが私たちの心にいた必然の要求であった。
 それに、近い志からかつて私たちは朝鮮に同じ性質のものを建てた。ささやかな企てではあったが、これが私たちに尊い経験を恵んだ。これに鼓舞せられて、日本にも一つの美術館が創作されるべき必要を感じた。
 私たちはここに何を集めようとするのか、そこには著しい一つの特色が見られるであろう。私たちはその性質を語るために、「民藝」なる字句を創作する必要に迫られていた。「民藝」とは、一般民衆の生活に厚く交る工藝品を指していうのである。何もかかる民藝にのみ美があると言い張るのではない。ただ顧みられなかったそれらの領域に、かえって驚くべき美のあることを見届けたのである。しかも生活に即するそれらのものこそ、むしろ工藝の本流であることを感じたのである。かくして「民藝館」の名において為すべき仕事が、吾々に課せられるに至った。かかる美術館は吾々でなくば試みる者が当分出ないことを感じた。そうしてその存在は、工藝史に対して美学に対してまた将来の製作に対して、意義の極めて深いことを確信するに至った。僧侶が信の世界において発心ほっしんするが如く、私たちは美の境地において不断の精進を契ったのである。
 この仕事がどういう方法で実現されるか、それが何ほどの費用を要するものか、どう経営し、どう維持するか。それらのことを思い惑うにしては、余りにも仕事そのものに熱情を抱いた。今から思えば用意の足りない計画であったともいえるが、同時にその純な若々しい気持が燃えていなくば、この仕事は端緒たんちょを得なかったであろう。私たちは幸にも信念で事を始めた。進もうとする吾々には周囲への躊躇ためらいがなかった。行く末に少しでも危惧きぐを抱いたなら、勇気はいつか砕かれていたであろう。
 蒐集の旅が初められた。吾々は三々五々、折を見出しては各地に品物をあさった。やがて廿年近くも前の事であるから、今とは事情が違っていた。「下手物げてもの」という俗語すら、多くの道具屋が知らなかった頃である。まして今のように「民藝」なる言葉は誰の口にも登らなかった。そういう民器の価値は、てんで問題にならなかった頃である。
 それ故凡ての個所が処女地であった。そうして私たちも何が見出せるかについてあらかじめ知るところがなかった。それだけに蒐集の面白味は倍加されたと思える。見出された品物は多くは下積みにされて、塵の積るに任せてあった。だから私たちは驚くべき安さで悦びをもって集めることが出来た。
 かくして集めたものを一度世間に問いたい希望を強めた。昭和二年六月廿二日から五日間、東京銀座鳩居堂きゅうきょどうの楼上で最初の民藝展が開催された。
 この会で私たちは私たちの見る正しい工藝を、物を通して世に語ろうと欲した。幾多の性質において、今までとは全く違った会であったと思える。ここではどこにも在銘のものが見当らない。無銘の工人たちがその仕事を果したのである。平凡であった職人たちが、非凡な美しさを示すのである。品物はそれまでろくな価すらつけられていない。その安物が美しさを語ろうというのである。私たちは何も反動的にこのことを企てようとしたのではない。見届けた美しさの悦びを率直に語ろうとしたのである。
 結果から見れば認められない世界への弁護であり、またその開発であったと思える。そこには在来の見方への補足修正が多分に含まれている。望む所は新たな美の標準の提示である。私たちが見る健康な美について、多くの人たちと親しく語りたかったのである。
 定見を欠く今日の工藝界にとって美学界にとって、これこそ為すべき値打のある仕事だと感じられた。ある人々には奇を好む偏頗へんぱな見方だと受取られてしまったが、私たちは本質的な美をそこに見出したのであって、それを守護し宣揚することに私たちの任務を感じた。

 どうしても志を果したい。私たちは「民藝館」の建設が深い意義と価値とを有つことに、もはや迷いを有たなかった。しかし様々な考案も形をとることなくして空しく時が流れた。
 その頃東京帝室博物館の再建築が大規模な計画で進められた。今日では著名な博物館は世界のどこでも郷土的民藝の数室を備えている。わが国においてもこのことは当然成されてよい。まして豊富な材料に恵まれた日本である。その必要が切実に感じられる日は早晩来るに違いない。それなら吾々の蒐集を、むしろ新設される博物館に全部寄贈し、それを二、三の室にまとめてならべて貰ってはどうか。一つの案として誰の頭にも浮んだ。この提案は急に定まり館長に面談を求めた。しかし吾々の意志が十分通じなかったためか、余分の室がないためか、あるいは経費が出ないためか、それとも品物がつまらぬものと考えられたためか、ともかく私たちのこの申込は受容れられず、話はそのままに流れてしまった。しかしこの交渉の断絶は、一層品物に対する吾々の情熱を燃やした。吾々の手でよい仕事を遺そう。みのる日を待って、おこたらず前に進もう。私たちは乏しい財布の中から少しずつ品物を加えていった。

 昭和四年夏のこと、私たちはスカンセンの丘に坐って心を湧かす話を交した。ストックホルムの「北方美術館」はまさに世界一の農民美術館である。厖大ぼうだいな幾層かの建築の中に何万という蒐集品がぎっしりとつまっている。木工、金工、染織、陶器の類、凡てにわたって北方の民族が有つ美への官能の優れたしるしである。室々は昔のままに整えられ、生活しつつある有様まで示してある。この至れり尽せりの施設は、ハゼリウスという一人の開拓者が生涯を捧げた仕事に基く。彼は地から湧き出た民族の作物を熱愛し、保存し守護しようと企てたのである。仕事は多くの苦難と闘わねばならなかったが、彼はついに報いられた。今は国を挙げて彼の遺業を守り、その仕事に尽きぬ感謝を捧げている。北方の一隅に雪に埋まる一小国が、誰の前にも誇るのはその手工藝である。その驚くべき蒐集である。北国の瑞典スウェーデンはこの仕事のために今は世界の瑞典である。私たちが欧洲をおとのうたのも、一つにはそこに足を運びたかったからである。
 しかし吾々はこの美術館を模すべきであろうか、否々、そうであってはならない。吾々には吾々に課せられた道があるのだ。この驚くべき美術館を見て、私たちは新しい興奮を覚えた。
 私たちはまず物を量において完全さすよりも、質において洗練しよう。どこまでも美的価値を中心に、厳格な取捨を加えよう。この事をなすのは日本人に与えられた使命なのだ。誰が集めても、どこで何を集めても、吾々が選ぶ場合ほど物の美が光る場合がないまでにしよう。吾々は吾々の仕事で美の規範を語ろう。この自覚なくして吾々の仕事はない。吾々は希望に燃えた。「民藝館」の日本を創ろうではないか。

 再度の民藝展とささやかな幾冊かの著書とは、人知れず何かの動きを世に与えたと見える。吾々の集めた品物に注意する人々は、此処ここ彼処かしこにふえた。安物買いとわらわれたり、金がないからつまらぬものを美しいといい出したのだと評されはしたが、利にさとい道具商たちはその安物に未来を見て、急速に各所に動き出した。特に昭和五年東京と大阪とで開かれた山中商会主催の民藝展は、この勢いに油を注いだ。それ以後大百貨店も競って類似の会を催すに至り、早くも「民藝」という目新しい言葉は、誰の口にも上るに至り、辞書にさえ載るに至った。機は熟しかけた。
 志を立ててからかくして十年の歳月は流れる如く過ぎた。顧みて努力に幾多の落度があったにせよ、私たちはさいわいにも、ゆらぐことのない信仰を維持した。建設に対する必要はようやく人々からも認知されるに至り、吾々は責任のいや重いことを感じた。

 だが何たるしあわせなことであろうか。それは昭和十年五月十二日のことであった、大原孫三郎翁の訪れを受け、同氏から民藝館の建設に要すべき費用の寄贈を申し出られたのである。吾々はその折の大原氏の尽きない厚誼こうぎに対して十分な謝辞さえなかった。私たちが永らく希望してやまなかった一つの仕事が、これで実現せられるに至ったではないか。大原氏が今日まで、幾多の大きな社会的事業に貢献せられたことはあまねく知られた事実である。今また吾々を信じられて新しい仕事を提案せられたのである。
 かくして吾々志を同じくする者は度々集って、将来の方針を計った。
 第一は敷地を定めた。場所は東京都目黒区駒場町八六一番地であって、凡そ五百五拾坪の土地が契約せられた。次には建築の様式を定め、日本の伝統を活かし、また大谷石おおやいしを材料に多く取り入れることを計った。かくして工を起し基礎が置かれたのは昭和十年十月である。第一期工事として延坪のべつぼ約二百の建物が起工された。この本館の外に、既にそれに先んじて特色ある石屋根の長屋門が野州から運ばれ、館と相対して再建せられた。後にこれは西館と呼ばれた。将来は陳列室の増設や、また図書館、事務所、講堂、工房などの設計が進められるであろう。建築と共に私たちは徐々に各分野にわたる品物および図書の蒐集に意を注ぎ、幸にも幾多の佳品を入手することが出来た。
 かくして建物が竣成しゅんせいし、品物が整理せられ、陳列を終って開館の運びに至ったのは、昭和十一年十月二十四日のことであった。本館は階下六室、二階五室、これに西館の三室を加えしめて十四室から成る。建物の様式は和風であって、光線はすべて紙障子を通してある。牀も八個を数える。洋風にしなかったことは、かかる美術館の性質上賢明であったと思う。

 爾来じらい早くも十年の歳月が過ぎ、吾々は毎年四回乃至ないし五回の陳列替をなし、その間に幾つかの特殊展覧会を開催した。中でも全国民藝展、朝鮮工藝展、沖縄工藝展、支那赤絵展、アイヌ作品展の如きは、再び繰返し難いほどの大きなまた見事な展観として人々の眼を惹いた。また毎春開催した新作品展の如きも著しい特色を示した。
 またこの間、調査研究に努力し、ほぼ日本全土の旅行が終り、伝統的民藝品の現状は大略明らかにされ、それを地図の上に記載し得るまでに至った。特に沖縄への数度の旅行は、この孤島が日本文化の上に如何に重要な役割を持っているかを明らかにさせた。そこで蒐集された品物も、今や館の蔵品の貴重な一部をなすに至った。
 館は典型的な小美術館である。しかし館自身の所有する蔵品が多いこと、かかる品の大部分がかつて如何なる他の美術館にも陳列されたことがないこと、蒐集品がよく取捨選択してあること等は、民藝館の特色として誰からも認知されるところであろう。

二 仕事


 さて、私たちはこの民藝館で何を為そうとするのか。これが他の美術館とどんな性質において異っているのか。何を理想にどんな信念で、この仕事を試みようとするのか。述べたい多くの事柄をここにかいつまんで語ろう。
 私たちは永い間一つの美の観点から、統一せられた美術館の存在を求めていたのである。この理想に近いものとしては、個人的な美術館の幾つかの例を挙げ得るであろう。しかし大きな美術館においては、このことはほとんど不可能だといってよい。何故なら違った色々の人々が、長い間に集めた雑多な品物が陳列されるからである。ある物は美しいがために、ある物は珍しいがために、ある物は有名であるがために、ある物は在銘なるが故に、ある物は歴史的な観点から、ある物は考古学的な立場から、それぞれに選ばれるから、それが有機的に統一されることは困難なのである。かかる美術館も、材料が豊富ならば、存在の理由が充分にあろう。だがそこには美的価値の標準は消え、品物は常に玉石同座する。美術館は単に陳列場となって、館そのものに指導的な力は現れない。もし高い直観や美意識から、統一され整理された美術館があるとするなら、館それ自身が一つの創作となるであろう。かかる場合は、陳列に一つの権威が伴ってくる。見る者はこれに依って、美の本質を知ることが出来る。だが惜しいかなこの種の美術館は極めてまれで、しかも質において優れたものがほとんど見当らない。私たちは小規模であろうが、この要求に応えようとするのである。

 さて、このことをなすに当って、まず古作品の蒐集とその陳列とが重要な意義をもたらすのは当然である。もとより古きが故によいのではなく、よきものが古い時代には必然に多かったのである。そこには今も範とすべきものが甚だ多い。だが私たちは、ただ古作品を陳列することに仕事を止めようとするのではない。否、それはむしろ二次的な仕事ともいえる。何故なら古作品によって美を語ることは、それによって法則を知り、法則によって新しい作品への基礎を定めるためだといってよいからである。もし美の問題を過去の歴史に止めるなら、それはただ愛玩あいがん的な鑑賞に止ってしまう。私たちにとって大切なのは、むしろ新作品への準備である。進んではその生産であり発展である。それ故私たちは、未来を約束する新作品への展観にも、意を注がねばならぬ。過去とのつながりよりも、未来との繋りが一層重要であろう。この民藝館は今日の生活、明日の生活と深い関係をもたねばならない。私たちはここで私たちの信ずる個人作家の製作、および今なお健在する地方民藝への紹介に大きな使命を感じるものである。

 陳列される品物は工藝品が主体である。いわゆる美術品を取り入れる場合にも、工藝的な美しさを持つものに重きを置く。ここで工藝というのは、生活に即した実用品を指すのである。私たちの見解では、ものの美しさと工藝性とには緊密な関係が潜んでいるからである。今まではとかく美術のみが重んぜられ、工藝の領域は等閑にされているが、私どもはむしろ工藝の意義が、美的にも社会的にも深く大きいのを切に感ずるものである。必然工藝的に見て美しい品を主に扱うことが、この民藝館の特別な仕事である。日本では、かかる種類の美術館はまだ一つも存在していない。
 工藝といっても多種多様ではあるが、私たちはその中で特に民藝品に重きを置く。さきにも述べた通り民藝とは民衆的工藝のいいであるが、私たちは無名の職人たちが民衆生活のために作ったそれらの実用品の中に、最も正当な工藝の発達を見たのである。種々な美の相の中で、私たちは健康な美、尋常な美の価値を重く見たいのであって、かかる美が最も豊かに民藝品に示されていることを指摘したのである。元来美と生活、美と民衆とには深い血縁が結ばれて居りながら、今までこのことは充分に理解されていなかった。それ故美術館が民藝館であることに特別の意義を感ずるものである。

 美術館であるからには、どこまでも品物の美しさを主にした立場をとるのが当然である。物の存在価値は美的本質によるのであって、他の要素はこれに比べて二次的のものと思われる。丁度人間の存在価値が「善」とか「聖」とかの本質に依るのと同じである。これに比べるなら「富」や「力」の如き二次的なものであろう。それ故私たちは美しいものだけを列べる。品物の取捨選択は当然きびしい。これはおそらく民藝館の持つ最も大きな特色の一つとなるであろう。不思議だがまだどこでもこれを充分に試みたことがない。
 民藝館の使命は美の標準の提示にある。その価値標準が「健康の美」「正常の美」にあることは前にも述べた。美の理念としてこれを越えるものはない。かかる一貫した美の目標の下に、個々の品物をまた全体を整理することは、極めて重要な仕事と思われる。いうまでもなく、かかる標準を最初から理論で組立てるべきではなく、深く直観に根差ねざすべきなのはもとよりである。ここで民俗博物館との差異が起る。後者は直観に基く美的価値を中心とする美術館ではない。民藝館は単なる陳列場ではない。
 従って列べ方も事情の許す限り物の美しさを活かすように意を注いである。品物は置き方や、列べる棚や、背景の色合や、光線の取り方によって少なからぬ影響を受ける。陳列はそれ自身一つの技藝であり創作であって、出来得るなら民藝館全体が一つの作物となるように育てたいと思う。とかく美術館は冷たい静止的な陳列場に陥りやすいのであるから、もっと親しく温い場所にしたいといつも念じている。

 国家は少数の異常な人々を挙げて、その名誉を誇るかも知れない。しかし一国の文化程度の現実は、普通の民衆がどれだけの生活を持っているかで判断すべきであろう。その著しい反映は、彼らの日々の用いる器物に現れる。民藝館は故国の栄誉のために、この問いに明確な答を与えようとするのである。訪われる方は他のどの美術館においてよりも、ここで日本の生活をまともに見られるであろう。
(一九四七年)
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琉球の富




 地図を案ずれば、琉球は九州と台湾との間の広い大洋の中に、点々と散在する小さな島の群です。その中の一番大きな島を沖縄と呼びました。幅が狭く南北に長いので沖から見ると縄がよこたわっているように見えるので、その名を得たといいます。琉球という名称は、支那から長い間そう呼ばれていたのに由るのです。本島を中心に随分沢山な島々から成っていますが、北の方にあるもう一つの大きな島、奄美大島も、もとは琉球の一部でしたが、途中で薩摩の藩に属しました。南には宮古、八重山の群島があり台湾を真近くに臨みます。
 沖縄本島の中央はほぼ北緯二十六度半、東経百二十八度に当ります。それ故、亜熱帯地方で、冬でも東京の春ぐらい温かく、真夏になると日の光や熱はなかなか烈しく、温度は摂氏三十余度に達します。これらの地方は有名な颱風たいふうの中心地となることがしばしばで、年に幾回かは烈しい嵐に襲われます。湿度が強いので植物の繁茂に適し、四時花を見ない時はありません。大木がなかなか多く、梯梧でいご赤木あかぎ榕樹ようじゅ福木ふくぎ蕃瓜樹ばんかじゅ阿檀あだんの如く、多くの珍らしい樹々を見かけます。山には蘇鉄そてつ芭蕉ばしょうが密生し、松の大木や竹の林も少くはありません。それに昆虫類や、魚類や、貝類等はその種類はなはだ多く、色彩は美麗を極め、博物学者の心をそそる所です。島の多くは珊瑚礁さんごしょうで、岸辺の浅い所は碧緑へきりょくの美しさを呈します。
 沖縄本島は、南北三十里に及び、国頭くにがみ中頭なかがみ島尻しまじりと三郡に分れますが、ほぼ中央を境に上下全く異なる地質から成るのです。山は北に多く南へと下ってゆきます。なだらかな丘陵が起伏して、水際近くに水田を控えます。丘と海との風光は絵のように美しいのです。それに那覇なはの港から遠くない首里しゅりの都は王城のあった所で、歴史は古く人文の跡が豊かに残されているのです。特に尚王統の時代になって、建築や彫刻や文学や音楽や舞踊や工藝や、見るべき固有の文化が種々栄えました。ともかく大洋に浮ぶ一小嶋嶼とうしょで、一千年の文化史を有つものは世界にも例がないでありましょう。
 沖縄は地理的にはむしろ大和の本土よりも、支那の福州に近いので、さぞ支那の影響が大きいだろうと想像されるかも知れませんが、事実は逆で、その言語も風俗も建築もほとんど凡てが大和の風を止めているのです。それ所ではなく、日本の何処へ旅するとも、沖縄においてほど古い日本をよく保存している地方を見出すことは出来ません。粗忽そこつにも沖縄を台湾の蕃地ばんちの続きの如く思ってはなりません。
 ですがこの島のことは既に種々なる文献があるにかかわらず、一般にはよく知られていない恨みがあります。しかも知られている事柄が浅く解されている場合が少くないのです。それは文化に対して理解の少い人たちの粗笨そほんな旅日記等にもりますが、一つには沖縄の人たちの不必要な卑下から起る場合も少くはないのです。ですからもう一度新しくまた正しく沖縄を見直すことは大切なことのように思われます。それに私たちが親しくその地を踏み、眼に耳に口に様々なものを味わうことが出来てから、沖縄を語ることに特別な意義や使命を感じ出しました。なぜなら私たちには予期だにしなかった驚きが次々に現れて来たからです。私たちは如何に感謝を以てそれらのことを迎えたでしょう。私たちは沖縄で学ばねばならぬことが如何に多いかを知ったのです。そうしてこんな土地がこんな状態で今なお地上に残されていることを奇蹟の如くに感じました。ですがそれらのことについては、今まで誰も充分に語ってくれてはいないのです。
 不幸にも私たちは余りに長い間、沖縄の貧しさについてのみ聞かされて来ました。こんな小さな貧乏な島はなく、島民は文化に立ちおくれて、逼迫ひっぱくした生活に悩んでいることを聞かされていました。そうして当事者の努力はどうしたらこの島々を貧窮ひんきゅうから救うことが出来るかということに注がれて来ました。なるほど地域は狭く物資は乏しく、大きな産業が起り難い所といえましょう。それに中央から遠く隔離された孤島のこと故、凡ての施設に後れている状態にあるのです。経済的な計数の上から考えるなら、かかる断定も成り立つでしょう。ですが私たちからすれば、まず以て沖縄が有つ富について考えないわけにゆかないのです。人文的に見るならば驚くべき財産を有つ国とより思えないのです。なぜこれらの富を守り栄えしめることによって、沖縄の運命を切りひらこうとしないのでしょうか。貧しい一面よりも富める一面をよくよく理解することが、真に沖縄を救う道ではないでしょうか。
 人々は今まで余りにも暗い沖縄を語り過ぎていたのです。私たちは優れた沖縄を語りたいのです。それは私たちを明るくし、島の人々を明るくさせるでしょう。私たちは実に多くの富について語り合いたいのです。沖縄について嘆く人々のために、またこの島について誤った考えを抱く人々のために、また自国を余りにも卑下して考える土地の人々のために、そうして真理を愛する凡ての人々のために、この一文が役立つことを望んで止まないのです。

墳墓


 日本の御陵にもうでられるならば、誰も神域の清浄なることに心を打たれるでしょう。人々は心の澄み渡るのを感じるのです。清らかさこそ一国の信仰の集るところなのです。私たちはかつて明廟みんびょうを訪れたことがありました。何事よりもその廟域の厖大なるに驚かされました。門より陵に至るまで、馬にむち打って数マイルも進んだことを思い起します。強大なる力こそは大陸の支那が記念しようとしたところなのです。私たちは、西欧に在った時、中世紀の大伽藍だいがらんを訪れました。そこには横わる影像が大理石で刻まれているのです。墓は人間を象徴する碑石なのです。亡き人への親しい追憶こそは墓が吾々に示そうとする心なのです。西洋の墓地を訪ねるなら、その明るさに驚くことがあるでしょう。そこはしばしば明るい散策の場所でさえあるのです。これに比べるならば日本のはどこまでも静寂を心として建てられています。永遠の静けさこそは、亡き霊に対して願う心なのです。それがまた仏道のむねでもあったと思います。かつてまた私たちは平壌に近い江西に朝鮮の古墳を訪うたことがあります。高勾麗こうくり時代にさかのぼりますから、まだ仏教が充分に伝わった時ではありませぬ。外の形はしきたりのものに過ぎないのですが、たび内に入れば四面の壁に幽冥ゆうめいの世界が、まざまざと丹青たんせいの筆に描かれているのです。それは既にこの世の絵ではありませぬ。私たちはおののきを身に覚えました。もはや今の画家には近づくことさえ出来ぬ画境なのを感じます。墳墓の霊の住所なのです。
 省みると一国の性情や希願や信仰のすべては、王皇を始め、祖先や、同胞をまつる墳墓に最もよく象徴せられると思われます。死は吾々に最後の態度を求めるのです。死によって各々の国民は彼が抱く人生への哲理が如何なるものであるかを告白してしまうのです。凡ての墳墓は一国の信仰の切実な表現なのです。あるものは清浄であり、あるものは巨大であり、あるものは華麗であり、あるものは静寂であり、あるものは悽愴せいそうでさえあるのです。
 ですが地上にどんな墳墓があろうとも、私たちは琉球の玉陵においてより、鬼気迫るものすごいばかりの墳墓を見たことがありませぬ。または沖縄の累代るいだいの祖先を納める霊墓より立派な形相のを見たことがありませぬ。それは精霊の実在に対する、まざまざとした信仰の直接の現れなのです。どんな人といえどもあの玉陵の前にたたずむならば、幽冥の国が目前に漂うのを否むことが出来ないでしょう。ここでは死者がものいう如く活きているのです。霊と霊との触れ合いを心にひしひしと味わうのです。私たちはここに沖縄の凡ての生活の不思議な泉を見ないわけにゆきませんでした。その信仰は、遠くして深い人間の心霊そのものの根柢から湧き上っているのです。驚くべきことは、それが清濁を分つ宗教の教え以前の泉にまで溯ることです。善悪の道徳がまだ吾々に介在して来ない以前の境地から生れてくることです。こんなにも遼遠りょうえんな出発に、信仰を根差ねざしたものが活々と残っている場合が、どの文化の国に見出せるでしょうか。
 吾々がいう宗教や道徳の如きは、まだ歴史の浅い、人為のものだという感さえ受けるのです。来世に思い惑う吾々の知識の如きは、想像の力の乏しさを懺悔ざんげするに過ぎないのです。実在しない精霊があるならば、この世もなくこの生活もなく、凡ての事物さえあり得ないのです。精霊よりも鮮かなまざまざと活きたものが他にあろうはずはないのです。その精霊が日夜を送る住居にこそ墳墓を築くのです。己が住む地はあがなわずとも、精霊が住むべき場所だけは整えねばならないのです。それは幽遠なるものの住家なのです。あたう限り墳墓を見事にすることに何の不思議があるでしょう。玉陵を呼んで玉御殿たまうどうんというのは、無上なるものの住み給う宮殿に外ならないからです。それはただ死者を祀る所ではないのです。または死者を記念する碑石でもないのです。または祖先の権威を誇る標でもないのです。または亡きがらを安置するただの場所でもないのです。死によって真の生に入る霊魂の住家なのです。そこには死んだ何者も祀られてはいないのです。現世の者よりも更にありありと活きている魂魄こんぱくが、その明け暮れを送る住居なのです。
 これに比べるならば、あの天下に名をなした日光の霊廟の如き、如何に俗に堕したものでありましょう。その豪華な姿は、現世の威権を示すために外ならないのです。死者になお俗生を希わんとする企てに過ぎないのです。あの度を過した扮飾から、如何なる霊感を受けることが出来るでしょう。
 琉球の霊墓は段位が違うのです。人間が築造した墓所として、かくも神秘なものがどこにあるでしょう。民間のものといえども、無類に立派な形相を現しているのです。あるものは家の型を示し、あるものは亀甲きっこうの形を示し驚くべき量感が迫ってくるのです。精霊への限りない信仰がなくして、どうしてこんなにも堂々たる相を捕えることが出来るでしょう。もとは南方支那に発したものではありますが、沖縄においていやが上にも壮厳なものにせられたのです。沖縄の墳墓こそは沖縄の至宝なのです。それは驚くべき藝術品でさえあるのです。そのあるものは国宝に列せしめてもよいのです。必ずやその日が来るでしょう。その美しさは無類のものだといわねばなりません。あの那覇にある辻原つじばるの如き天下の景観と呼んでよいでしょう。
 しかしそれは独り墳墓の問題ばかりではないのです。精霊への信仰こそ沖縄人の凡ての生活を支配している原理なのです。このことへの理解なくして沖縄の美を解することは出来ないでしょう。そうしてこのことへの理解こそは美の問題について、大きな示唆を与えてくれるのです。この世の美しい作物を見ると、それを支配している原理が、常に何らかの意味で信仰の力に依っていることを見出さないわけにゆかないのです。その信仰を原始的なものであるとか、土俗的なものであるとか評して、見過してはならないのです。進んだ文化に育ったと自負する近代人が、どれだけ深く美を捕えているでしょうか。無数の醜いものがあるのは、信仰の力を有ち得なくなったからと説いてよいのです。
 道を探る者にとって沖縄は限りない問題を投げかけて来るのです。

首里


 日本にあるほとんど凡ての城下町を訪ね歩いた吾々に、どの町が最も美しいかを問われる方があるなら、私たちは躊躇ためらわず直ぐ答えるでしょう。沖縄の首里が第一であると。
 江戸城の壕端ほりばた、京洛の郊外、寧楽ならの寺々、姫路の古城等、数えれば忘れ難い風景が様々眼に浮びます。しかし惜しいかな、それらのものは都の一部に過ぎなく、すぐその下には、縁のない洋風の建物、それも統一のない様々な様式、汚れた裏町、安価な店構え、俗悪な喧騒けんそう、ほとんど凡ての町が雑然たる様態を示しているのです。時勢の流れが激しかった近代において、人々は祖先から伝わるものには冷淡でした。そのため古格を保つ町はほとんど失われ、今はただわずかの建物に昔を語るに過ぎません。それらのものを保護し始めたのも近年のことで、明治初年の余裕のない時代に、大半のものは失われました。京都のような都は比較的よく旧態を保存していますが、しかし新しいものがその間に遠慮なく介在し、もはや昔ながらの大路小路を見出すことは出来ません。新しいものが昔のに優る美しさを示すならよいのですが、それはほとんど望みのない夢なのです。残念ですが、日本の都市で世界に誇り得る美しいものは非常に少くなりました。その間に在って沖縄の都、首里は特筆されてよい状態において現存しているのです。
 もとより昔をよく知る首里の人々は、半世紀この方、如何にその都が変り衰えたかを嘆くでしょう。多くの建物はこぼたれ、大木は切られ、がけは落ち、幾多の人々がここを去って帰らないのを悲しむでしょう。変りゆく都に愛惜あいせきの念を有たない多くの市民さえあることを悔むでしょう。首里は明らかに衰えつつある首里なのです。それにこの都の財力は貧しいのです。
 ですが、それらの事実にもかかわらず、首里はどんな他の都市よりも古格を止め統一を有っているのです。感謝すべきことには、あの拙悪な洋館が、ここにはまだ非常に少いのです。大きな学校や教会堂は憎むべき、しかしわずかな例外なのです。そうしてあの安っぽい亜鉛板の屋根は、まだ無遠慮に介在してはいないのです。建物のほとんど凡てはあの豊かな昔ながらの赤瓦を用いているのです。全体としてかくも統一ある都市の例はもはや内地では見ることが出来ませぬ。見慣れている土地の人々には驚きでなくとも、吾々の眼には夢の如き場面なのです。見る人が見たら首里ほどまじり気の少い、存在の明らかな都市はないでしょう。
 那覇の町から、漸く半道ほど街道を進めば、城壁を抱く首里の丘が早くも視野に入るのです。王城は美しい丘の上に礎を置いているのです。なだらかな斜面を下に控え、ゆるやかに起伏する丘を左右にはべらし、遠く白波の立つ那覇の港を望みながら、都は静かに今も立っているのです。小高い城壁にたたずんで眺めるなら、その景観の美にして大なることたとえようもないのです。ただの自然景であるならば、更に壮大なものがあるでしょう。ただの城址じょうしであるならば、もっと雄健なものがあるでしょう。ですが自然と人文とがかくも美しく組み合わさった光景を、日本のどの土地に見出すことが出来るでしょう。そうしてどの都市が首里ほど美しい山水を四囲に控え、夢に満ちた城郭を内に備え、歴史を語る宮殿や寺院や民屋や、人文の凡てを、かくもよく保有しているでしょう。
 今も守礼しゅれいの門は心を正せよと告げているのです。歓会かんかいの石彫は神域を犯すなと守っているのです。円覚えんかくの山門は修行せよといましめているのです。鬱々うつうつたる城下の森は千歳をことほいでいるのです。竜潭りゅうたんの静寂は歴史の深みを漂わせているのです。王家の正門は一国の威権を背負うているのです。玉御殿たまうどうんに至っては怖るべき精霊の実在を、吾々の胸に指し示しているのです。樹陰のゆらぐ城内の道を辿たどれば、誰も詩境に誘われ画境に招かれるでしょう。終りない夢が次ぎ次ぎに呼ばれて来るのです。
 一度道を横に折れて町々を縫えば、小石に敷きつめられた、昔ながらの道が吾々の足を終りなく誘うのです。右にも左にもこけむした石垣が連なり、それに被いかぶさる「がじまる」や、濃い福木の緑が続き、その間に見事な赤瓦の屋根が、あの怪物を戴いて現れてくるのです。それは真に活きた庭園の都市なのです。これ以上に人文の華を織りなした名園があるでしょうか。一度その懐に入るならば、佇徊ちょかい時を久しくして去り難い想いを禁ずることが出来ないでしょう。自然と歴史と人文との調和が、かくもよく保存せられている都市は、稀有けうな存在だといわねばなりません。
 衰えたというも、首里はまだ純然たる沖縄の王都なのです。これに比べるならば、他の国の都市は如何に外来の雑多な文化に影響されて不純なものに陥っているでしょう。それらのものは既に半ば独自の相を失っているのです。ですが首里ばかりは彼自身の首里なのです。それは日本における貴重な観光の都市だといわねばなりません。沖縄の人はその城都の美を熱愛すべきなのです。県の人はその都市美に対してあらゆる保護を講ずべきなのです。首里さえその姿を乱さないならば、今後那覇の港はあらゆる旅人を引きつけて多忙を極めるでしょう。

本葺瓦


 東洋の建物の魅力の一つはたしかに屋根にあるのです。切妻きりづま入母屋いりもや寄棟よせむね等形は様々に分れますが、いずれも深く軒を張るのがその特色です。一つには木造の構成から生れた形でありましょうが、特に風や雨の激しい日本では、深い軒やひさしが必要なのです。そうしてこれらの屋根を形作る二つの大きな要素は、屋根そのものの骨格と、屋根をく瓦や板や草等の材料です。中で草屋根の形は最も温かく柔らかで、また静かであるのは申すまでもありません。ですが屋根が本格的な形をとるのは一段と進んだ瓦葺かわらぶきです。
 瓦の形や大きさにも種々ありましょうが、その瓦葺の中で最も正しい伝統を有つのはいわゆる本葺です。平瓦と丸瓦とを互に組合わせたものです。屋根に奥行が出て、力があり重みがあり、見て一番立派なのは申すまでもありません。屋根は本葺の瓦屋根にくものはないのです。
 この疑い得ない事実から推すと、今の日本の至る所で見られる瓦屋根は、全く味気ないものになり果てました。本葺が残っているのはわずかに神社や仏閣や、またたまに旧家に見られるだけで、他のことごとくの建物は、波型の平瓦一式に変りました。この方が葺くに便でありまた値が安いからに外なりません。しかしこのことはどんなに屋根から力を奪い、重みを弱めてしまったでしょう。それは奥行を欠くために、立体の深みがなく、平たい冷たいものに変りました。そうして特に近代の屋根が美しさを失った原因の一つは棟の両端にりがなく、上が直線になってしまったことです。鬼瓦で多少留めをきかせてはいますが、その鬼瓦さえ形のよいのがほとんどなく、全く美しさの乏しいものに陥りました。そうして色さえも汚いねずみ色に成り果てました。同じ黒瓦でも朝鮮のものなどは、あんなにも味わいが深いのですから不思議です。三州瓦等名が聞えていますが、しかし磨きをかけて銀光りにした上等じょうとうなものは、むしろ瓦味を殺して金属に近づき、冷たい感じを受けます。それに神経質に仕上りを綺麗きれいにするために、ますます味を失ってしまいます。同じ平瓦でも石州の赤瓦は、土地の気風が残ってずっと強い感じを与えますが、同時に柔味やわらかみが乏しくなります。ともかく今の瓦は面白味の全くないものです。こんな質と形との瓦でどんなに屋根を葺いても、もう美しい構造は現れては来ないのです。これは日本の建築にとって由々ゆゆしき損失だと思われます。
 ですが何たる幸いなことか、日本本土の凡ての瓦屋根が冷たいものに化した今日、実に琉球ばかりは、残らず本葺の瓦屋根を現に用いているのです。船が那覇の港に入る時、吾々の眼を見張らしめるものは、実にその美しい瓦屋根です。建築の美を愛するほどの人は、この眼福がんぷくを生涯忘れることが出来ないでしょう。私たちはもう見ることが出来ないと考えた本葺の家のみが並ぶ町を、思いがけなくも眼のあたりに眺めるのです。夢のようにさえ想えるのです。
 しかもそれはただ本葺であるというに止りません。鼠色の冷たい吾々の瓦に比べて、それは温かく美しい赤瓦なのです。その赤がまた非常に落著おちついた色合なのです。しかもその赤の間を、太々と豊かに白の漆喰しっくいを盛り上げるのです。私たちにとってはいたく贅沢ぜいたくなこの白漆喰は、珊瑚礁の沖縄では手許に横わる材料なのです。この恵みを十二分に受けて沖縄の本葺が屋根の美しさを生んでいるのです。そうしてここでは、私たちが失ったあの棟瓦むねがわらの曲線がいとも豊かに現れているのです。その両端の留めの形は単純であってしかも要を得、またとない美しさです。そうして時折その軒先には花紋の飾瓦かざりがわらを用います。しかも屋根の中央にあの驚くべき怪物が吾々を睥睨へいげいするのがしばしば見られるでしょう。こんなにも立派な量感を伴う瓦屋根は、他の土地では見ることが出来ませぬ。緑の濃い木々の間に、この赤と白との諧調からなる本葺の屋根が連なる様は、真に忘れ難い印象を贈ります。
 しかもその瓦作りを見るならば、如何に沖縄の瓦が瓦として立派なものであるかを首肯うなずかれるでしょう。仕事は素晴らしいのです。如何に簡素極りない自然な道筋で、これらのものが作られるかに驚かれるでしょう。吾々の平瓦の如きは如何に造作に過ぎた、自然を殺す道で作られているかを気付かないわけにゆきませぬ。沖縄のものはその形や厚みや肌や色において、申し分のないものなのです。おそらく朝鮮をおいて、この瓦に匹敵するものは他にないでしょう。近時東京や大阪等の郊外に建てられる洋館に、好んで西班牙スペイン風の赤の丸瓦を用いることが流行して来ました。黒瓦にき平瓦に厭きた人たちのがたい求めだと思われます。しかしそんな模造品よりも、遥かに見事な赤瓦が琉球の至る所で焼かれていることを知らないのです。もしそれが知れ渡ったら、琉球の瓦窯にはもっとけむりが黒々と燃え上るでしょう。そうして荷船は必ずや港を忙しくさせるに違いありません。
 大和の国を訪ねる人たちは、あの三月堂や唐招提寺とうしょうだいじの屋根の美しさに見入るでしょう。天平てんぴょうの国宝として誰も忘れることが出来ないものです。ですが同じ血脈を継ぐ者が、沖縄には軒並のきなみに連なるのです。わずかに遠い天平の文化にその美を追う吾々は、沖縄に来て今もそれが作られ建てられているのを驚きを以て見張らないわけにゆきません。天平の古都はもう過ぎ去りました。わずかばかりの余韻が寺々に残るばかりなのです。ですが那覇や首里の小高い丘に立って、町々のいらかを見下ろして下さい。天平の古都はかくはあったろうと想い見ることが出来るのです。
 沖縄の都市の美観はその本葺赤瓦の屋根に集るのです。もしこの屋根が無くなったとしたら、沖縄はその美しさの大半を失うでしょう。

琉語


 国民の自覚と共に、国語の純粋化が称えられる時が来ました。反省もなく外来語をおびただしく交えた今の和語は、国民にとって名誉あるものとは思われません。私たちはもう一度母国の言葉を正しく整理する必要に迫られているのです。しかし日本語の正しい系統を知るためには、古典への注意はもとよりですが、現に古語が最もよく保存されている地方の土語を顧みることが必要になって来ました。そうして今日までの探索の結果、吾々に多くの示唆を与える個所は、北端の東北と南端の沖縄であることが知られているのです。わけても沖縄には鎌倉から足利にかけての和語が随分数多く保留されているのです。遠く「万葉」の歌詞等の不明であった語義が、あの「おもろ双紙」等の研究によって漸次闡明せんめいせられて来たことは学者の知るところです。ともかく邦語の研究に志を立てる人々にとっては、沖縄は真に貴重な宝庫であるといわねばなりません。
 候文そうろうぶんの如きものを遠い過去に描いている吾々も、沖縄に来てみれば、それが現に、活々と用いられている日常の言葉だということを知るのです。実に和語においては、沖縄はどんな地方よりも古格を保っている個所なのです。変移の激しい現在において、かかる土地が今なおあることは、日本の凡ての国民にとって有り難い事実だといわねばなりません。
 ある人々は沖縄の言葉の如きは既に過去のものであって、新しい日本にとって無用であるかの如く述べているのです。しかし和語を純粋なものに整理するためには、如何に沖縄の言葉が吾々に多くの暗示を与えるかを知らないのです。和語への自覚が澎湃ほうはいとして興って来た今日、その存在は幾多の感謝を以て顧みられねばならないのです。なぜ沖縄の人たちは自分たちの言葉が最も古格ある大和言葉を保有しているということを誇りにしないのでしょうか。たとえそれが長い歴史の間に形を変えた日本語となっているとしても、むやみに外来語をとり入れて純粋な姿を失った近代語よりも、もっと本格的なものを多く含んでいることを考えてよいのです。いわんや方言で沖縄の如く見事な古典的文学を所有する地方が日本のどこにあるでしょう。その研究は邦語の研究にとってなくてはならないものなのです。
 近時不思議にも琉語を棄てて、凡てを標準語に換えようとする運動が起ってきました。琉球の人々ですらこのことを主張する人が少くないのです。標準語を知ることが是非とも必要であるということに異論のあるはずはないのです。しかしどうしてそれを学ぶことが琉語を棄てねばならぬ根拠になるのでしょうか。なぜ双方を大事にしてはいけないのでしょうか。さきにもいったように琉語の知識こそ、和語をしてますます和語に深めしめる所以になるのです。琉語から学ぶべきものは沢山あるのです。今の標準語といえども正しく整理されたものではありません。かえって琉語から訂正を受くべき点が多々あるでしょう。琉語の放棄を企てるのは、地方語に対する不必要な卑下ひげと、思慮なき侮蔑ぶべつとによるのです。
 いわんや日本から地方語を絶滅せしめたなら、どこに純粋な日本が残るでしょう。地方性は日本的なるものを築く重要な基礎なのです。もしこれを失うなら、和語はおそらく外来語との不秩序なる混乱に終るでしょう。そうして日本性を遠慮なく喪失してしまうに至るでしょう。おそらく地方語を有たないような国民は、特色を欠いた国民であるといってよいのです。言葉においても地方性は重要な役割を有っているのです。
 まして沖縄の言葉の如く、どこよりも日本の古語を所有するものは、むしろ積極的に保護されるべきものでありましょう。第一に言語は民情の直接な表現であって、もし沖縄が彼自らの言葉を棄てるなら、沖縄自身の特色は失われ、個性なき沖縄に陥ってしまうでしょう。今は世界の各地において、地方語の重要性が称えられ、その保護と奨励とが主張されて来ました。なぜならこれらのことこそは国民性を守護する大切な基礎になるからです。標準語は共有の国語なのです。地方語は特殊の国語なのです。各々のものには各々の職務があるのです。両方を共に活かすことこそ大切なのです。沖縄人は共通語をよく会得せねばなりません。同時に沖縄語を熱愛せねばなりません。これより必然なことはないのです。仮りに世界の各国が自国の言葉を棄てて共通語のエスペラントを選ぶとしたら、世界は果して幸福でしょうか。一国の言語は自然や歴史や性情や風習の有機的な結合から成るのです。言語はそれらの固有性の直接な表現なのです。仮に琉球の人がその美しい歌を琉語ではなしに標準語に訳してうたったとしましょう。どこに味わいがあり余韻が残るでしょう。言葉を棄てることは独自の文学を失い、音楽を失うことなのです。一地方が特色あるしかも正系の言語を所有することは、その地方の大きな名誉であるといわねばなりません。

和歌


 日本には忘れ難い歌集が数々あります。長い歴史の間には優れた歌人が沢山輩出しました。ですが歌道にいそしむ者が、結局その帰趨きすうと仰ぐものは、和歌の中でも一番古い『万葉集』だということは誰も一致する見方なのです。随分色々と著名な選集が現れましたが、誰も万葉の古歌にまず指を屈せぬものはないでしょう。それは日本の歌道にとっては既に犯し難い神聖な存在にすらなっているのです。しかしそれは古いが故によいのであるとか、著名であるから仰ぐべきだとかいう意味ではありませぬ。そこには時間を越えたものがあるのです。流派によらない美しさがあるのです。何か本質的なものがあって、かかる歌を作らせたのです。何も偉大な歌人があって作られたと見るより、時代の生活全体が、かかる歌を支えていたと見る方が妥当だと思います。
 近代の評論は、功績を何でも個人に帰する習性がありますが、万葉歌の如き境地は個人よりももっと奥の要素から生れたものと見てよいのです。おそらくその当時、歌を読む人であったら、決していやな歌は作り得なかったでしょう。たとえ作に上下はあっても、誤ったもの、醜きもの、偽りのものは一つとしてないでしょう。何も柿本人麿かきのもとのひとまろ山部赤人やまべのあかひとだけが大歌聖ではなく、読み人知らずの歌に、どんなに優れたものがあるでしょう。万葉を生み出した背後の雰囲気は、驚くべきものだと思います。個人よりもむしろ時代の世相全体がそれらの作を産ませたのです。
 私の考えでは万葉の歌人の中には文字の読めぬ人すらあったと考えられます。その本質においては文字以前の歌であったともいえるでしょう。歌が本能にまでなっていたとも思えるのです。いずれにしても万葉調が驚くべきものだという点では誰も異論はないはずです。
 しかるにその歌調は年のうつると共に変りました。変るのは当然ですが、更によく変ったとは誰もいい得ないでしょう。色々細かな点では優れている場合があるとしても、全体として、万葉の歌調に及ぶものはついに出ては来なかったのです。
 それならもしその正しい格調を示している歌が他にあるとしたら、等しく敬仰けいぎょうされてよいのではないでしょうか。私たちは古い沖縄の和歌にその風韻を見ないわけにはゆきませぬ。もとよりここでは七五調が八六調に変ります。しかし形式はどうでもよく、歌う心において、その心の住む雰囲気において互に近いものがあるのです。歌道に志す人はもっと沖縄の和歌を顧みてよいのです。歴史家も評論家もそれを忘れてはならないのです。
 あの恩納おんななべや遊女ゆしやの歌のことなど思うと、文字を知らない者たちの、驚くべき歌境を知ることが出来るのです。文盲は一つの欠如ではありましょうが、反面にそれだけ読み人と歌とが純な関係にあるともいえるでしょう。音と歌詞とが、ずっと密接な間柄になるのです。文字を仲介に有たないだけ歌が更に生れたものとなるのです。万葉の美にもそういう点がしばしばあると思われます。
 しかも琉球は古い文学においてのみこのような特色を示しているのではありません。今もこの島では万葉の時代が現に活きているのです。驚くべきことではありませんか。私たちは文字を読めない人から、数々の素晴らしい作を聞いたのです。今の吾々は万葉が深いからといって、その格調に近づこうとします。しかし沖縄の多くの人はそういう格調以外の世界に住んではいないのです。私たちの歌には巧みな所があっても不純なものが多いのです。沖縄固有の和歌には仮令たといつたない所があっても純粋なのです。それにつづる歌と唱う歌とが一つなのです。このことは驚くべきことでしょう。吾々には既に早くから分れてしまったことが、沖縄ではまだ一つなのです。唱わずして生れる歌はないのです。文字の便宜を吾々は知りますが、これがために失ったものもあることは認めねばなりません。
 それにこの国では優れた歌が何も名だたる歌人からのみ出るのではないのです。普通の人が歌人たることが出来るのです。歌人とゆめ名のらぬ人から歌がほとばしるのです。こんな境地が現にあるということについて、歌道に志すほどの人は意を留めなくてよいでしょうか。歌が個人からではなく、何かもっと広い深いものから生れてくるのです。職業としての、専門としての、和歌ではなく、生活としての人間としての和歌なのです。こんな境地が現に沖縄には、あの万葉の時代における如く、今も漂っているのです。私たちは明らかにこの大切な事実を告げたいのです。万葉時代が今も琉球には現存しているのです。万葉の格調にじかに触れようとする人は、沖縄を訪うにしくはありません。遠い時代のこととして考えないでもすむのです。それは詩歌に対する新しい見直しを吾々に求めるでしょう。

音楽


 多くの国で、音楽は音楽会の音楽に変りました。ですが音楽会に行かなければよい音楽が聞けないということは、それだけ平常の生活から音楽が去ってしまったことを意味するでしょう。それは決して幸福なことではありません。それに生活から離れた特別な音楽を、自然な音楽といえるでしょうか。異常な音楽より尋常な音楽の方が、もっと大切なものではないでしょうか。
 音楽会の雰囲気は好ましいものではないのです。聞きにゆく者は何か心構えをしてかかるのです。聞くのには批判が勝ち過ぎているのです。曲には理論が多過ぎるのです。先立つ概念がなければ、充分に鑑賞することすら出来ないように、強いられているのです。
 それに作曲したり、演奏したりするほどの人は、才能に恵まれた人たちです。よい音楽とは畢竟ひっきょう天才の音楽なのです。ですがこのことは、音楽を狭い一部にいやってしまいました。天才と天才ならざる者とは区別されてしまったのです。そうしてごく少数の選ばれた人にのみ、その所有が帰してしまったのです。かくして優れた音楽は一般民衆の生活から切り離されてしまいました。彼らの手に残ったものは俗悪な音楽より他にないのです。しかしこういうような状態を正しい社会現象といえるでしょうか。末世の止み難い出来事というまでではないでしょうか。音楽会が必要になったのはむしろ変態な現象なのだといえるのです。
 私たちの考えでは、音楽が真に盛な時代は、演奏会等を別に必要としない時代だと思われます。音楽会という特別な時間だけによい音楽があるのではなく、日々の生活に音楽が活きている場合を指すのです。ほんとうの音楽は生活と一つに結ばれた時、始めて聞けるのではないでしょうか。
 私たちが沖縄に来て、心をかれるのは、まだ生活に活々と交っている音楽があるということです。音楽会以前の音楽が今も活きているということです。音楽会等を必要としないほど、音楽が生活に入っている国を、更に音楽的だといい得るでしょう。そういう意味で琉球は真の音楽の国なのです。沖縄本島のみならず、周囲にある小さな孤島にも美しい音楽があるといいますが、中で最も素晴らしい島は八重山なのです。想うにこの島は音楽の側から見れば黄金の国と呼んでよいでしょう。音楽と暮しとは、離れたことがないのです。誰もがうたい手なのです。一人が唱えば、他は和するのです。その時々に凡ての言葉を唱によみがえらす力があるのです。別に天才などを数えません。大勢が上手だからです。別に音楽会等を設けません。家庭の生活に、野良の生活に、何よりの音楽会があるからです。だからこの民謡は素晴らしいのです。これ以上のよい状態で音楽が活きている場合はないからです。上手とか下手とか、そんな区別以前の音楽なのです。天才とか凡人とか、そんな差別以前の音楽なのです。批判で音楽の価値が保たれているのではないのです。生活でその存在が活きているのです。
 私たちのように都に育った者は、一つの民謡もない境遇にいるのです。省みて民謡を有たない生活に一抹のさびしさを思わないわけにはゆきませぬ。ですから沖縄の民謡を顧みると、遠い吾々の故郷もかくはあったろうと思います。都にいる私たちは音楽についてやかましい理論なり鑑賞なりをしますけれど、それは音楽が生活から切り離された時に起る現象だというまでではないでしょうか。強いて音楽を特別な問題に取り上げないほど、それが生活の中に入っている状態こそ、最も望ましいのではないでしょうか。
 人々は天才を讃えますが、しかし天才が一々意識されるほど事情が悪くなったと解する方がよいでしょう。そんなことを一々取り立てない世界では、おそらく大概の人が天才なみに音楽の力を有っているのです。特別な人だけに与えられる才能ではなく、多くの人が共有する本能にまで深まっているのです。
 それに不思議なことに、都会で流行する歌が俗におちいらない場合がないのに、田舎の本来の民謡は俗であった場合がないのです。甘く唄うような節廻しがあれば、気の毒にも都会からの影響に過ぎません。沖縄の歌を聴けば感傷的な唄い方等は知らないのです。それはもっと自然で直接で真実なのです。こういう境地にこそ「渋い」という言葉を当てめてよいでしょう。琉球は民謡の天国なのです。とりわけ八重山には音楽が純粋の相で残っているのです。音楽会の音楽等をこれに比べると、如何に不純な性質が多いでしょう。真の音楽に飢える人は、琉球に来て最大の歓喜を覚えるでしょう。
「うた」または「うたう」という言葉は歌、謳、唄、謡、唱等、様々に書きます。元来言葉に節をつけてうたうことです。そうしてそれはいつも踊を伴うものです。しかるに今はこれが三つに分れ、言葉に書かれる歌と、声に節をつけて唄うことと、四肢の動作で踊ることに差別が出来ました。つまり詩歌と音楽と舞踊とが相対しているのです。しかし元来これらの三つは一つに結ばれていたのです。唄えぬ詩、あるいは詩にならぬ唄、踊を伴わぬ唄等ということは常態ではありませぬ。進んでいえば凡ての言葉は詩であり、兼ねてまた唄であり踊である時に、最も正しい表現になるのだといえるでしょう。都では詩人と作曲家と舞踊家とは別なのです。しかし真に民謡が活きている国に行けば、これらのものに区別はありませぬ。詩は唄う時に生れるのです。詩は生れれば唄が生れているのです。そうしてそれが必ず踊を呼ぶのです。こんな事情をこそ讃歎してよいでしょう。私たちが沖縄に心をかれる一つの理由は、私たちが失った人間としての本然の性質を、未だに唄の世界で有っているからです。

舞踊


 日本の舞楽の中で、最高なものは、能楽であることを誰も知っています。それが舞楽として世界にも類例のまれなほど発達し尽した藝であることを感じます。東洋の美の帰趨でもあり、兼ねてまた禅意にもかなうものであって、静中の動を示した最後の藝能であるともいえるでしょう。あらゆる讃辞をうけてよい伝統的な日本の舞楽なのです。それは型にまで高まったものであり、法の藝だと呼んでもよいでしょう。その歌詞、音曲、舞踊、衣裳、舞台、凡てのものが一定の式にまで達しているのです。私たちはこういう藝能を有つ日本を誇りに想うものです。
 しかし私たちにとって一つ残念なことは、それが余りにも古典であって、私たちの現在の生活に直接交りを有つことが薄いことです。それはむしろ現代を超越した境地に価値があるともいえるでしょう。私たちはそれらのものを見て、しばらく遠い世界に遊ぶことが出来るのです。このことは一つの恵みではありますが、もし能楽がもっと吾々の生活に近く迫るものであるなら、なお価値が大きいとはいえないでしょうか。それは余りにも古典だという感じから逃れることが出来ません。実際能楽は特殊な階級の人々、または特別にこの世界に心を惹かれる人々だけの所有であって、一般の庶民からは切り離されているのです。普通の大衆は既に豪華なものになった能会になかなか近寄ることが出来ませぬ。
 しかし何たる幸いなことか、沖縄に来ると能楽は足利時代の古典ではなくして、現在も活きている舞楽なのです。島の人たちは漸くこの幸福を忘れかけて来たうらみはありますが、それでもまだ民衆の間に交っているのです。その様式は全く能に由来するものであって、しかも生活にもっと即したものなのです。それだけに見ていて何か迫るものを感じます。大体組踊と名づけるものは、題目においても能楽と共通したものが多いのです。能と吾々との距離よりも、もっと吾々に近い感じを与えます。動きは静かですが更に鋭いのです。私は沖縄の至宝玉城盛重たまぐすくせいじゅう氏の踊を見て、能よりも一段と深い感銘を受けました。能楽は吾々に遠慮することなく、時代を離れた遠い世界において行われます。しかし沖縄の舞楽は、かかるへだたりを破って吾々に近づきます。足利時代の人が能楽を見た時の感じは、沖縄で受ける私たちの感激と、甚だ近い性質のものであったと思います。美しさがもっと生活に近く迫ってくるのです。それは等しく型の藝能ではありますが、型と実とがもっと切実に結ばれているのです。沖縄では古典が遠い距離にあるのではなくして、近い時間の上にあるのです。足利時代が今も活きている時代なのです。そこには時間の経過が行われていないのです。ですから丁度能楽をもっとじかに触れ合って見ている感じなのです。私はかかる状態が今なお残る沖縄を、瞠目どうもくして見つめないわけにゆかないのです。能を知るほどの凡ての人は、沖縄において、能の本来の姿を更に目撃せられるでしょう。どんな地方に旅したとて、沖縄ほど盛に固有の芝居、踊、唄を夜毎よごと夜毎に見せてくれる所はないのです。
 それに沖縄では踊そのものが、遥かに深く民衆の生活に入っているのです。誰でも歌を知り踊を楽しむのです。踊は生活になくてならないものなのです。沖縄の舞踊はかかる環境を背景として栄えているのです。本土の盆踊の歌や踊にも忘れ難いものがあります。しかし沖縄のは凡てにも増して美しいのです。そうしてもっと日々の生活と深い交りがあり、人と踊との間に必然なつながりが見られるのです。
 私たちは読者が一日も早く沖縄の舞踊に接せられんことを望みます。上古典的なものから下土俗的なものに至るまで、それが沖縄本来のものである限り、決して活々した美しさを欠いている場合がないのです。就中なかんずく、玉城盛重翁の藝は天下の至宝ともいうべくかかるものに接する時、人間は己がこの世に生れたことに感謝の念を禁じ得ないでしょう。

琉装


 京の町々を歩くと、珍らしくも紺絣こんがすりの着物に前垂掛まえだれがけ、頭には手拭てぬぐい、手には手甲てっこう、足には脚絆きゃはん草鞋わらじ出立いでたちで、花や柴木を頭に山と載せ、または車に積んで売り歩く女たちの姿を見られるでしょう。この大原女おはらめの名は、京の名と共に人々に聞え、この旧都の風情ふぜいをいや増さしめていることは誰も知るところです。大原村の女たちは今も決してこの風俗を変えませぬ。村では法度はっとまで出してこのしきたりを厳しく守り続けているといいます。地方に見られる日本の風俗として、美しいものの一つです。村でも誇り、京でも誇り、誰でも快い情を抱かぬものとてはないのです。詩にも絵にも幾度それが題材となったことでしょう。
 日本で地方の特色ある風俗が残っているのは北の国々です。中央はいわゆる文化に早く接して、何の特色も残してはおりません。それは驚くべき雑多な混合物で、国民の服装としての特色や統一を見ることは出来ません。そこへ行くと北方は中央の都からは遠い僻陬へきすうの地であるため、影響が薄いのです。しかしそんな消極的理由からばかりではなく、その特異な風俗は北方の気候、風土、材料等から必然に要求されて来るのです。ですから四囲の自然によく調和した美しさを示すのは当然なことだといわねばなりません。いわば暮しと服装とが歴史的に結合され、統一されているのです。そういう風俗は明らかに地方的な特異性を有つものであり、またその風俗に充分な存在理由を与えるものです。そうしてこの理由はやがて美しさを服装に約束するものです。どんな身形みなりでも地方的に特色のあるものは、どこか美しいものです。そうしてこういう特色あるものが地方から凡て消えてしまったら、その国民の風俗は眠い醜い凡庸なものに沈むでしょう。地方の風俗は国民服の単位なのです。それらのものを有たない国はやがて独自の文化をも失う国となるでありましょう。服装の著しい所にはそれだけ生活が活々しているともいえるのです。
 しかし日本が有つ地方的風俗の中で、最も特色ある土地は北方よりむしろ南方の沖縄であるといわねばなりません。沖縄はいわゆる「琉装」において、特色ある独自の文化を示しているのです。これは沖縄が有つ一つの特権だといわねばなりません。想うに琉装は二つの起源から発したものです。一つは言語と同じく日本の鎌倉、足利時代の風俗を受けぐものです。そうして一つにはその土地の温度や湿度から必然に喚起せられたものなのです。いわば歴史的伝統と自然的要求との結合であって、地方風俗としての充分な根拠を有するものです。
 私たちはあの能衣裳が如何に立派なものであるかを知っています。それならなぜその形態を引き承ぐ琉装に美を認めないのでしょうか。能衣裳は既に古典に属するものですが、琉球ではそれが現在にも活きているのです。那覇や首里を訪われるなら、そのゆかしいなりを何処にも見られるでしょう。何も貴族のみがまとうのではありません。それは庶民の風俗なのです。想うに形は遠く被衣かずきや打掛けに起源を有つものでしょう。断ち方はほとんど能衣裳と変る所がありません。帯を用いはしないのです。今の和装に用いる幅広い帯の流行は起源がもっと新しく、琉装の方がずっと古格を示しているわけです。のみならず幅広い帯を着物の上に用いないということは、全く沖縄の気候が要求することなのです。涼をとる上にそれは極めて自然な服装だといわねばなりません。保健の上から見ても理に適ったところでありましょう。琉装は日本の風俗の正系であり、しかも地方的特色の最も鮮かなものです。これこそ琉球が有つ真に正しい有ち物の一つといわねばなりません。
 しかるに何事でしょうか、近時琉装を絶滅しようとする主張が、沖縄の人々の間にも起って来ていることです。再びここにも不必要な卑下や、理解のない批判が加わっているのです。沖縄の人たちは如何に内地を真似まねる服装よりも、自らが有っている服装の方が美しいかの自覚がないのです。私たちは、和装を着るそのことを咎めようとは思いません。また他国に旅する時までも、琉装をまとうことを勧めるものではありません。しかし少くとも琉球に在る限りは、またその土地に日々住む限りは、琉球を語りその歴史を語る琉装を纏う悦びを有つことが、如何に必然であるかを想わないわけにゆきません。いわんや亜熱帯の気候を想う時、如何に琉装が生活に適う合理的なものであるかを信じないわけにゆかないのです。いわんや日本の一要素として、地方固有の文化を育てるべき任務を有つ琉球は、その風俗においていたずらに他を模す愚を犯してはならないのです。むしろ誇りを以てその美を語るべきなのです。それに沖縄の服装に見られるような形態の中には真に合理的なものも多く、かつ労働着の如きにも優れたものがあるのです。
 もし琉装がいけないというなら、同じ理論で、凡ての和装を棄て、洋装を纏うことを正しいといわなければならないでしょう。しかし沖縄の人だとてそれを愚かな処置だというでしょう。それは一国の自然や歴史や習慣や美意識を否定するに外ならないからです。
 珍らしい特別な服装であるから、それを保存せよというのではないのです。同じように見慣れない奇異な服装であるから、それを棄てよというべきではないのです。それは日本の正系の服装であるが故に保存せよというのです。それは美しいが故に讃えよというのです。それは自然と調和ある故に用いよというのです。それは地方固有のものである故、大切にせよというのです。そこには合理的なものがあるから持続せよというのです。それを奇異と見る者がいるなら、教養のない外来の者たるに過ぎません。それをみっともないと考える沖縄人がいるなら、自覚のない島民といわなければなりません。私は入墨いれずみの如き風俗をまで奨励しようとは思いません。しかしいわゆる文化の人が、眉毛まゆげを細く描き、口紅を濃くつけ、つめを赤く彩る新しさと、入墨の習慣とに何の本質的けじめがあるかを知るに苦しむ者です。私たちは琉球に来て土地の人が内地から渡った安ものの着物を着、慣れぬ帯をわざわざしめ、あかぬけのしない和装の姿をしているのを、いたく醜く思う者の一人です。東京の女たちはそんな野暮やぼな和装を纏ってはいないのですのに。それに比べあの紺絣こんがすりの琉装を見ると如何に品位があるかに打たれざるを得ません。
 私たちは沖縄の人たちがもう一度みずからの優れた衣裳を見直し、熱情を以てそれを愛されんことを望んで止みませぬ。私たちは決して私たちの単なる趣味からこれをいうのではないのです。日本のために、沖縄のために、正しい風俗への自覚が如何に大切であるかを、想いみないわけにゆかないからです。

染物


 日本の染物といえば、誰も友禅ゆうぜんを第一に推すでしょう。友禅が誰であったか、未だ神秘に属するとしても、ともかく友禅と総称される染物が、優れたものであることは誰も認めるでしょう。特に初期の頃の仕事を見ると世にまれ出来栄できばえであるといわねばなりません。その模様において色合いにおいて、未だどの国も産まなかった独自の美しさを開きました。日本の染物に色々の種類はありますが、何といっても友禅はその随一なるものでありましょう。染物らしい染物は友禅で始まり友禅でまったくせられたといっても過言ではないのです。日本の女は美しい着物を着るのを以て世界に名があります。その美しさは友禅の典雅な技に負うているところが大きいといわねばなりません。
 ですがこの友禅はその名を独りほしいままにするわけにゆかないのです。別の世界で美しい花を開いた「びん型」があるからです。染のことを知るほどの人は沖縄の型付けを忘れることは出来ません。おそらくこの染物は遠く南海から渡った更紗サラサや、また北方から伝わった友禅とも縁があるでしょう。しかしそれらのものを取入れ、更にそれを越えて、素晴らしい紋様や色彩や技術を生み出しました。どんな国の女たちも沖縄の「びん型」より華麗な衣裳を身につけたことはないでしょう。とりわけ沖縄のような南国ではそれが非常に相応ふさわしかったと思います。鮮かな赤や黄や緑の自然に和して、花の如くに咲き乱れたのです。
「びん型」が友禅にも増して讃えられてよいと思うのは、それが染物としての道をどこまでもつきつめたことにあるのです。誰も知る通り友禅は染物ではありますが、手描きの筆彩色がこれに加わりまたしばしば刺繍ししゅうがそれを飾りました。ですが「びん型」はかかる添えものをほとんど許しませんでした。全く型染かたぞめの一路で進みました。ですから染物として見れば、友禅より一段と純なまた進んだものだといってよいのです。これほどまでに型付を十分に活かした染物は他にないのです。ですから、これを染物の染物と讃えてよいでしょう。※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)ろうけつ等の法による更紗の類は、この型染に比べるなら、まだ染物として初期の段階にあるものといってよいでしょう。よく素人が更紗に手を染めるのは仕事がやさしいからともいえるのです。型染の方は容易なことではありませぬ。しかもこの道を徹した点で「びん型」は代表的な仕事を遺したのです。
 それに友禅はほとんど絹で、これにやや麻布が加わりますが、「びん型」は絹が少く、麻と木綿とが主なのです。風土、気候のせいもありますが、このことは沖縄において如何に型染が上御殿うどうんから下町家に至るまで愛好されたかを告げています。昔は首里の当蔵とうのくら儀保ぎほ等には軒を並べて型染の家が栄えました。そうして知念ちねん城間ぐすくまの二派があって技を競ったといいます。顔料と染料とを巧みに合わせ用いたその技法に至っては、古今独歩のものでした。あの世にも美しい色彩は、決して偶然のものではないのです。しかもその模様に至っては、十二分に驚くべき本能を発揮しました。私たちはその自由さに驚くほかないのです。沖縄の人たちはその模様において、自然の鳥を更に鳥らしくさせ、花を更に花にし、山や川や波や建物を世にも美しいものにしました。吾々はその模様や色彩で更に自然の美しさを教わるのです。もしも沖縄で美しい自然を見たら、それは「びん型」の如く美しいとそう呼んでよいのです。
 しかし、この島が世に最も誇ってよいこの型付の仕事は、二、三十年この方急に衰えて、今は一人の老人が仕事の名残りを継いでいるに過ぎないのです。なぜこうなったかの理由に二つの大きなものがあると思います。第一には内地からの安ものが無遠慮にこの島に闖入ちんにゅうしてきたからです。外来ものは新しさがあって、とかく美しく思えるのです。加うるに自国のものに対する不必要な卑下が、惜しげもなく伝統を見棄ててしまったのです。もっと型付に誇りと確信とがあったら、決して消えることはなかったでしょう。何も昔風な着尺きじゃくばかりに頼らずに、帯地とか、窓掛とか、新しい様々な用途に進んで行ったら、広々とした世界が開けたでしょうに、この仕事を棄て去ったことは、沖縄のために取り返しのつかない損失でした。今は土地の人よりも他県の人がその技を熱心に追っているのは、不思議な趨勢すうせいだといわねばなりません。沖縄の人たちはいつ自分たちが生んだ世界最上の染物を振り返って熱情を再び燃やしてくれるでしょう。私たちはその日の早く来ることを熱望して止みません。

織物


 沖縄の将来をおもんぱかる人たちは、一日でも早く旧来の風習を棄てて、内地の文化に追いつこうと、あせっているように思えます。それはよい意志に基いているに違いありません。ですけれどいわゆる文化の中心にいる私たちから見るならば、如何にそれが思慮の足りない所置であるかを思わないわけにゆきません。私たちはその悲しむべき例を織物の場合にも見るのです。遠い孤島に住んでみれば都のものが何でも立派に見えるのは無理もありません。新しい文化は千金の重みがあるように思えるものです。これに比べるなら、伝統の文化はもうふるい世界に属するもので、過ぎ去るべき運命にあるものと思い込むようです。ですが、よくよく顧みなければならない問題なのです。文化の価値を規定するには、「新しさ古さ」よりも「正しさか偽りか」の標準をもっと尊ぶべきだと思います。いわゆる新しい文化を顧みると日々それに触れる私たちは、恥辱を感じなければならないものに非常に沢山出会うのです。織物の如き適切な例でありましょう。今都の人が着ているほとんど凡てのものは、いわゆる新しい文化の圏内で生れたものです。染料に関する化学、織に関する機械学、材料に関する繊維学、そうしてそれらの知識を実現する厖大な工場の組織と資本。凡てはかかる力の結合から現れて来るのです。知識的に見るならば、手工時代に比べて機械時代が段違いの発達であるに違いありません。しかし結果から見るならばどうでしょうか。一口にいえば、機械製のものにはまがいものが多いのです。偽りものが多いのです。想うにそれは二つの大きな原因にわざわいされているからです。
 一つは発達したと自負する人間の知識が、実は未だ初歩の段階に止っていることによるのです。真の科学者は誰よりも正直にこのことを告白するでしょう。一見複雑に思えても、実は極めて単純なことより出来はしないのです。人智は自然の叡知の前にはなお愚かなものに過ぎないのです。質において人絹が天然絹より更に優れているとは誰も断言しないでしょう。扇風器は便宜でしょう。しかし自然の微風に優るとは誰もいい得ないでしょう。それはたかだか代用品に過ぎないのです。
 第二には工場の組織にいつも欺瞞ぎまんが潜むのです。それは結局商業主義であって、何よりも利が眼目です。質はこれに比べるなら二次にのつぎのことに過ぎません。この組織のもとでは作品の道徳を守るわけに行かないのです。ですから質の落ちたものを、よく見せかける手段が講じられているのです。都の大通りを歩いている人々の服装は、もうほとんど正直なものはないのです。それは結局誤魔化ごまかしものなのです。多くは「新しさ」という仮面を着た不誠実なものに過ぎないのです。いわゆる文化人は決して昔の人のような誠実な織物を身に着けてはいないのです。
 なぜこのような欺瞞の世界に、強いて沖縄の運命を托そうとするのでしょうか。一方に正しいものを求める人間の要求は地上から絶えはしないでしょう。なぜその求めに応じて沖縄の立派な織物の位置を確保しようとしないのでしょうか。沖縄に何も織物の伝統がないなら止むを得ません。しかし私どもの見る所では、日本中何処の国へ行くとも沖縄ほど現に正しいものを作り得る力を有っている所はないのです。織物における沖縄の位置は羨望せんぼうに堪えぬほど素晴らしいものです。どうしてその自覚と自信とを有って立たれないのか、不思議な感を抱かざるを得ません。沖縄の人が如何に新しい文化を追うとも、追い着いた時は、既に都会は数歩を先に進んでいるでしょう。沖縄のような島は中央の真似をすべきではなく、どこまでも地方の特質に活くべきものです。時間の推移に左右されない誠実な仕事にその運命を托すべきなのです。特に織物の領域においては、もし自己の伝統をどこまでも尊重するなら、天下にその名を成すでしょう。それほど沖縄の今までのものは素晴らしい要素を含んでいるのです。沖縄の織物は多少高くなろうとも、それに恐れずに正しい品を作るべきです。質の落ちたものを安く沢山作る道は沖縄の織物を亡すでしょう。かかる道では強力な敵が左右前後に現れるからです。
 沖縄の織物で最も驚歎すべきものはかすりの類です。続いては浮織うきおりの類なのです。絣は西洋で全く発達しなかった手法であって、東洋独自の織物として、世界にその名が響く時は来るでしょう。そうして絣は特に日本がよく、その日本の絣の中で最も見事なのは琉球のものです。特にあの色絣に至っては天下無類だと呼んでよいのです。絣の歴史は遠く印度にまでさかのぼるでしょう。点々と大洋に散らばる島々を伝わって沖縄に入ったものと思います。しかしこの国に来て全く自分のものに消化され、しかも素晴らしい独自の発展をげました。絵絣の仕事は日本の本土において更に別個の世界を開きましたが、絣本来の手法に立って一路その道を深めたのは沖縄なのです。どんな絣も沖縄のより美しくはあり得ないでしょう。それは「手結ていゆい」と呼ぶ手法からの必然の賜物でした。絣は沖縄において最も純化されました。それにただ白と紺との色調に止らず、世にも美しい多彩なものを生みました。しかもそれは美しいしまものとも結合しました。この領域で成し遂げた発達は匹敵するものが他にないのです。
 首里を中心に沖縄本島はもとより、久米、宮古、八重山の諸島で、それぞれに技を比べ美を競いました。絣において沖縄は吾々の師でした。今日名のある大島紬おおしまつむぎとか薩摩上布さつまじょうふ等呼ぶ微細な模様の絣はずっと後のもので、むしろ技巧にしたものに外なりません。沖縄自身のものは遥かに健全で確実で本格的な仕事です。しかも絣のみならず、あの読谷山よんたんざ地方に残る花織の如き真に特色あるものを生んでいるのです。しかもそれらの仕事が、今も続き、まだ数多くの織手が昔ながらの力を保っているのです。織物はまさに沖縄の貴重な財産であるといわねばなりません。なぜこのような持物を反省もなく棄てようとするのでしょうか。
 いわんや山に山藍やまあいあり、野に福木ふくぎあり、丘に「てかち」あり、求めれば紅花べにばなも庭に咲かしめることが出来るのです。要すべき染料は自然が人々のために充分に備えているのです。そうして材料としては芭蕉の如き好個のものがあるのです。この天与の恵みを受けずして、如何なる道に沖縄の織物を栄えしめようとするのでしょうか。
 正しい歴史と伝統と手法と、材料と染料と織手と今も具備しているのは、もう沖縄をおいて他に見ることが出来ないのです。

陶器


 日本は陶磁の国だといっても過言ではありません。無数の窯場かまばが今も各地に散在して、けむりを絶やしたことがないのです。そうしてこんなにも多く手工による窯場が現存している国は他にないでしょう。工人はまだ数えきれないほどいるのです。年々産出される品物の数はおびただしい量にのぼります。
 ですが残念なことに質が急に低下して来ました。技は昔通りにあるのです。材料とても未だよいものがあるのです。人手もまた揃っているのです。それにもかかわらず美しい品はようやく乏しくなってきました。形は失われました。絵付は下りました。もう昔のような見事な民器を生むことは難しくなっているのです。ただわずかに土焼の方で伝統を守る品物が、あちらこちらに続けられているのです。そのあるものは今でも真によい品を産み出しているのです。例えば薩摩の苗代川なえしろがわや豊後の小鹿田おんた等は忘れてはならない窯なのです。しかし多くはその狭い地方の需用に充てるためですから、めったに都までは運ばれて来ません。それに生活様式の推移につれて需用が漸次減じて来たのですから、どれだけそれらの窯が烟を続け得るかは疑わしいのです。しかも大部分の窯は恥ずべき品物を無遠慮に送り出しているのです。万古ばんこの如きは名があっても醜い品のさきがけなのです。
 想うにここ半世紀の間に、産業の激しい動揺につれて、人間は美への本能をいたく喪失そうしつしてしまいました。伝統に頼る間は救われていますが、一度自らに立てば、もう方向は見失われてしまうのです。日本の窯業は近年においてほど堕落したことはありません。ろくなものが出て来ないのです。藝術家を以て任ずる個人的作家でも、わずかの人を除いては、決してよき仕事をしてはいないのです。
 しかし私たちをしてとりわけ希望を抱かしめる窯がないわけではありません。中で琉球の壺屋つぼやは忘れられない窯場の一つです。おそらくは日本中で伝統的な窯場としては第一に推すべきものでありましょう。大体壺屋の仕事は今日まで研究家の間にも蒐集家の間にもよく知られていませんでした。遠隔の地ではありますし、小さな窯場と考えられてか、注意する人がなかったのです。しかし歴史は苗代川等と共に古く、この三百年の間に様々な変遷を経て、種々な品物を送り出しました。手法の変化が多い点では、窯の数に比しちょっと類例が他にないほどなのです。南からも北からも西からも色々な要素が入って互に交ったせいか、焼物の主な手法はほとんど何でもあるのです。染付はもとより、象嵌ぞうがん流釉ながしぐすり、陰刻、黒釉、飴釉、白釉、緑釉等々、多過ぎるほどの変化です。中で一番特筆されてよいものは赤絵と線描の二種類です。陶器の赤絵としては日本一と呼んでよく、犬山等の比ではありません。味わいは宋赤絵に最も近く、非常に温かい感じです。これというのも白絵と釉薬ゆうやくとに特質があって、その交りから特別柔かい温味のある調子が出てくるのです。この赤絵は、将来壺屋の大きな希望であるといわねばなりません。次に他の窯では発達しなかった線描の手法が見られるのです。白絵の上に絵を線で描き、それに呉州ごすや飴を差すのです。これも材料から必然に生れた手法で壺屋の仕事に最も適し、他に見られない特色を出します。これも将来ますます活かしたい手法の一つです。
 日本の現在の窯を顧みると、大体昔の作に比べて最も大きな弱味は絵がつたなくなったことです。昔の民器にはあれほど溌剌はつらつとした所が見えるのに、今の絵は全く駄目になりました。もっとも絵ばかりではなく形においてもそのことがいえましょう。しかるに琉球の壺屋ではその力がまだ衰えていないのです。これは壺屋の大きな財産の一つといわねばなりません。ですから前述の赤絵や線描きの手法でも、充分将来を期待することが出来るのです。しかしどこでもそうですが、伝統的な仕事の価値は充分に認められず、この貴重な財産が無益に放棄される傾きのあるのは遺憾の極みです。
 ここの窯場には釉薬を施したものの他に、いわゆる「南蛮」を焼く大きな窯が幾つもあって、仕事は今も盛なものです。南蛮は無釉のもので主として泡盛あわもりかめを作ります。形が立派で仕事に申し分がありません。「茶」の方から南蛮の雅致がやかましくいわれるため、色々と試みる人もありますが、ほとんど皆趣味の過剰で、あの実用にこしらえる甕や壺のような健全なものは見掛けません。南蛮は元来性格の強いものであって、甘い趣味等を寄せつけるような品ではないのです。
 これらのものを作る壺屋の生活を見れば、如何に内地の場合とは違って凡てが自然であり、純粋であり、誠実なものであるかを見ないわけにゆきません。吾々は壺屋の生活や仕事から尽きぬ真理を貰うのです。その仕事を後れている等という言葉で片付けてはならないのです。そこは、進歩した機械が動いている大きな窯業地ではないのです。ですが機械がよく生み得ない力を備えているのです。そこには時間に左右されない本質的なものが豊かにかくれているのです。壺屋が有つこの富を傷つけることなく育てて行くならば、健全な仕事が生れてくることは火を見るよりも明かなのです。
 窯場としても、村全体が美しい一風景をなしている点で他では見られない所です。ここでも古い土塀どべいが連なり、その間を道が縫う如く進みます。さながら朝鮮の村々を歩く想いです。緑の深い樹々や、色を競う様々な花の間に、赤い本葺の窯屋根を臨む風景はいつも好個の画題なのです。

彫刻


 彫刻の歴史を知っている人は誰も気付いているでしょう。偉大な彫刻の時代には、いつも卓越した怪異の作があったことを。怪異とはグロテスクの字に当るのですが、近次日本において、美学上におけるこの大切な言葉が、卑俗的な意味に陥ったことは、返す返すも残念です。なぜなら真の美の表現には、怪異すなわちグロテスクの要素が常に内在しているからです。あるいは解りやすくいうために、それを真実なものの強調されたすがたといい直してもいいのです。美が切迫してくる時、あるいは美が迫力を以て躍動する時、それは自から怪異の相を示してくるのです。ですから何も彫刻に限りませんが、美が繊弱になったり甘くなったりする時代には、偉大な怪異の美を示す力がなくなってくるのです。逆にいえば怪異の美を生み得る時代のみが、真に力のあった時代だともいえるのです。漢や六朝りくちょうはそういう偉大な力を彫刻で示しました。西洋ではロマネスクからゴシックの時代にかけ幾多の作物を残しました。ノートルダムの怪物は広く知られた存在です。それを想うと今の日本が如何に表現の道において貧弱な力よりたないかを省みないわけにゆきません。特に彫刻においてそうなのです。
 ですが何たる幸いなことか、孤島の沖縄に来るとその力がまだ決して亡びていないのをのあたりに見得るのです。今後どれだけその力が続くか危い時期に達してはいますが、しかし驚嘆すべき作物を今も作っているのです。それも名だたる彫刻家の業なら別ですが、実に平凡な漆喰しっくい屋が、いとも平易に作り上げてしまうのですから一層の驚異です。私は琉球の見事な赤屋根の上からいつも吾々を睥睨へいげいしている「しいさあ」(獅子)を指しているのです。那覇の町々やまた遠く久米島等へ行っても見られるのですが、実に千変万化の相を以て、家を守り、魔物を払いのけているのです。
 新しいものの中には、出来不出来はやむを得ないのですが、やや古いのになると、ほとんどすべて素晴らしい表情です。あるいは立ちあるいは座す、あるいはい、あるいは降り、いつも往来の方向に面して、口を開き歯を出し、邪悪に対して怒り憤る風情です。その表現はあらゆる意表に出で時として思わず噴飯せしむるほどです。どこからこの独創的な表現を捕えてくるのか、真新しい作り立てのものにも、しばしば素敵な傑作を見出すのです。これだけ怪異の美を今も持続して把握出来るということは並々のことではありません。美術史の経過を知っている者には、奇蹟にも近い事実に思えるのです。それも前述のように屋根屋左官屋の業の跡に過ぎないのですから尚更の驚きです。琉球ほどの彫刻力を現に有っている国は内地には見当らないのです。
 いわんや歴史を三百年四百年とさかのぼると、琉球の存在は、その彫刻において、素晴らしい光を放っているのです。石は幸いにもその歴史を保障して、今日残存するもの少なくありません。丸彫の彫刻と、浮彫と二つながらの領域において、琉球の消えない栄誉を今も吾々の前に語っているのです。前者は多く獅子像において、後者は多く石橋の欄干において示されています。その内の最も代表的なものは玉御殿の巌上に立つ怪物や、世持橋や円覚寺の小矼しょうこう等に見られる浮彫です。
 就中なかんずく、玉御殿の怪物は、世界における屈指の石彫の中に数えらるべき傑作です。如何なる怪物にや、巻きつく蛇を両手に握りしめ、口を開き舌を出し、眼を見張ってあざけり笑う風情です。高い巌の上にたたずんで近づく凡ての者を見下ろしているのです。この霊域に不浄な何ものをも近づけない勢いを示しているのです。世にも神聖なこの玉陵の雰囲気が、この一彫刻のためになおも深々と迫る想いです。琉球は実にこの一個の作においてすら、彫刻の琉球を充分に誇ることが出来るのです。尚真しょうしん王代のものですが、如何にその時代がみなぎる力を内に宿していたかを想い見ないわけにゆきません。
 竜潭りゅうたんの水がはける所に一基の橋がかかり、呼んで世持橋といいます。激しい往来のため、車輪のちりを容赦もなくあびせるままにしてありますが、琉球の彫刻を想う者には、涙を誘う無情な措置なのです。その勾欄こうらんの浮彫は当然国宝に列すべき一雄作です。おそらく現存する琉球最古の代表的彫刻で第一尚王代のものと思われます。水禽みずどりや魚貝の類を浮彫にしてあって、紋様の技、表現の真、世にもまれなる作と讃えねばなりません。悠々迫らざる巾があり奥行があり、雅韻汲めども尽きない趣きがあって、美への本能の如何に奥深いものがあったかを語ります。
 これに比べ女性的な繊細な婉麗えんれいな美を示しているのは円覚寺の放生池に架せられた石矼せっこうの浮彫です。紋様への卓越した力量をここでも充分に味うことが出来るのです。玉御殿の欄干と共に忘れ難い浮彫であって、この島の彫刻を語る者はこれらのものを除外することは出来ないのです。ここでも花や鳥や、獣が好まれた題材でした。
 彫刻につれて忘れ難いのは琉球の石燈です。石燈は朝鮮を随一と称えていいのですが、しかし巨大なもの多く、庭園の燈籠として適するもの多くはありません。日本では造庭の術がつとに進み、特に「茶」の栄えるにつれて、石燈籠はなくてならないものになったのですが、日本のもので真に優れているのは慶長以前のものですから、稀に神社仏閣に残るのみで数多くはありません。
 あれほどやかましい茶庭のものは大概時代が降りしかも茶趣味に傷ついたもの多く、取るに足るものはほとんどないといっても過言ではありません。しかるに琉球に来た私たちの驚きは、その石燈籠において更に深められてしまったのです。多くの人はまだ気付いていないようですが、もしこれが夙に日本に渡っていたとするなら、茶人の間に大きな衝動を起していたでしょう。私はこんなにも美しい石燈の数々を見たことがないのです。しかもその形の変化多く独創的なことにおいて類を見ないのです。庭園の石燈としてはけだし琉球の作を以て随一とせねばなりません。私は易々やすやすと驚くべき図録を編輯へんしゅうすることが出来るでしょう。琉球の人々は如何に石を刻むべきかを識らずして識っていたのです。石門や拝所等も石への技術を語る好箇の例証となるでしょう。
 琉球は彫刻においても稀に富んだ琉球なのです。奈良や京都以外のどの地方に旅したら、これほど多様なしかも卓越した彫刻を見出すことが出来るでしょうか。


 私たちはここに琉球の驚くべき富の幾つかを数えました。ですがまだ述べねばならない幾多のものがあるのを顧みています。例えば漆器の如き調度を始め、行事や伝説や食物等、いずれもこの島の歴史を語り生活を語るのですから、これらについても当然記すべきでありましょう。もしまた私どもが生物学者であったら、おそらく琉球について数冊の書物を書かないではいられないでしょう。しかしそれらのことは或ものを他日に譲り、或ものを他の人に任せたく思います。ここにわずかばかり述べた事柄だけでも、もし琉球の文化的な富について、読者の心をくことが出来るなら感謝の至りです。そうしてその数々の富の上に、沖縄の未来を建設することは、お互の任務だと思います。
 琉球よ、栄あれ。
(一九三九年)
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「喜左衛門井戸」を見る




「喜左衛門井戸」は天下随一の茶碗だといわれる。
 茶の湯の茶碗は三通りに分れる。支那より将来せるもの、朝鮮より伝来せるもの、日本にて作られしもの。中で最も美しいのは朝鮮の茶碗である。「茶碗は高麗」と茶人たちはいつもいう。
 その朝鮮ものにまた様々な種類がある。「井戸」「雲鶴うんかく」「熊川こもがい」「呉器ごき」「魚屋ととや」「金海」等々々。その名は甚だ多い。だが中で味わいの最も深いのは「井戸」である。
「井戸」もまた様々である。「大井戸」あり、「古井戸」あり、「青井戸」あり、「井戸脇」がある。茶人の分析はしかく細かい。だがその中で最もよろしいのが名物手の「大井戸」である。
 この名物手の「井戸」は今日登録せられたもの総じて廿六個である。だがその中で、大名物おおめいぶつ中の大名物は「喜左衛門井戸」である。まさに「井戸」の王と称えられ、これに優る茶碗はない。名器多しといえども「喜左衛門井戸」こそは天下第一の器物である。茶碗の極致はこの一個に尽きる。茶美の絶頂がそこに示され、「和敬清寂」の茶境がそこに含蓄される。かかる美の泉から、茶道の長い流れが発したのである。


「井戸」という言葉が何から出たか、区々として定説はない。おそらく朝鮮の地名の音をそのまま字に当てがったものと思える。その地名が果して何処かは未来の研究に興味深い題材を投げる。
「喜左衛門」とはいうまでもなく人名である。姓は竹田、大阪の町人であった。彼が所持していた品だから「喜左衛門井戸」と呼ばれるのである。
 名物は戸籍が明らかである。慶長の頃この茶碗は本多能登守忠義に献ぜられた。そのため「本多井戸」ともいわれる。越えて寛永十一年、封を大和国郡山に移した時、泉州堺の数奇者すきもの中村宗雪にこれを授けられた。寛延四辛未の年転じて塘氏家茂の所有に帰した。かくして安永の頃ついに茶碗蒐集に焦慮した雲州不昧ふまい公の手に入った。当時支払われた金子きんす五百五十両である。直ちに「大名物」の部に列し、文化八年嗣子月潭げったんに遺訓され、「天下の名物なり、永く大切に致すべきものなり」といわれた。不昧公熱愛の品であり、彼の行く処、影の身に随う如く、傍を離れなかった。


 だがこの茶碗には不幸な口碑が伝えられた。これを所持する者は腫物はれものたたられるというのである。かつてこの茶碗を所持していた一人の数奇者があった。零落して京島原しまばらに通う遊客の馬子にまでなったが、この茶碗だけは手離さなかったという。だが、不幸にも腫物を病んでたおれてしまった。祟りがあるという伝説はここから発したのである。事実不昧公自身もこの茶碗を手にされて以来二度の腫物に悩んだ。だが祟りを怖れて売り払うようにとの夫人のいさめも公の熱愛を曲げる力がなかった。公の歿後嗣子月潭が再び腫物を病むに当って、いよいよ菩提寺たる京都紫野むらさきの大徳寺孤篷庵こほうあんに寄贈せられた。それが文政元年六月十三日である。今も道中この茶碗を入れて担ったという駕籠かごが庵の戸口に掛る。維新前までは松平家の許可なくしては、何人もこれを拝観することは出来なかった。真に秘蔵すべき品だからである。不昧公去って壱百年、人はくが今も茶碗は昔のままである。


 昭和六年三月八日、浜谷由太郎氏の好誼こうぎによって孤篷庵現住小堀月洲師の快諾を得、この茶碗を見ることが出来た。同行者は河井寛次郎。親しく手にとって眺めるに及び誠に感慨無量である。天下随一の茶碗、大名物「喜左衛門井戸」が如何なるものであるかを知りたいのは、私の宿願であったからである。これを見ることは「茶」を見る所以ゆえんであり、兼ねてまた茶人の眼を知る所以であり、ひいては自分の眼を省みる所以になるからである。ともかくそこには美と、美への鑑賞と、美への愛慕あいぼと、美への哲学と、美への生活との縮図があるからである。(そうしておそらく一器物の美に向って、人間が払う最高の経済がそこに含まれているからである)茶碗は今五重の箱に入れられ、更に綿温かき紫の衣に包まれている。禅師は極めて静かにそれを取出して吾々の目前に置かれた。天下の大名物を見るのである。


「いい茶碗だ――だが何という平凡極まりないものだ。」私は即座にそう心に叫んだ。平凡というのは「あたり前なもの」という意味である。「世にも簡単な茶碗」、そういうより仕方がない。どこを捜すもおそらくこれ以上平易な器物はない。平々坦々たる姿である。何一つ飾りがあるわけではない。何一つたくらみがあるわけではない。尋常これに過ぎたものとてはない。凡々たる品物である。
 それは朝鮮の飯茶碗である。それも貧乏人が不断ざらに使う茶碗である。全くの下手物げてものである。典型的な雑器である。一番値の安い並物なみものである。作る者は卑下して作ったのである。個性等誇るどころではない。使う者は無造作に使ったのである。自慢などして買った品ではない。誰でも作れるもの、誰にだって出来たもの、誰にも買えたもの、その地方のどこででも得られたもの、いつでも買えたもの、それがこの茶碗の有つありのままな性質である。
 それは平凡極まりないものである。土は裏手の山から掘り出したのである。釉は炉からとってきた灰である。轆轤ろくろしんがゆるんでいるのである。形に面倒は要らないのである。数が沢山出来た品である。仕事は早いのである。削りは荒っぽいのである。手はよごれたままである。釉をこぼして高台にたらしてしまったのである。室は暗いのである。職人は文盲なのである。窯はみすぼらしいのである。焼き方は乱暴なのである。引っ付きがあるのである。だがそんなことにこだわってはいないのである。またいられないのである。安ものである。誰だってそれに夢なんか見ていないのである。こんな仕事をして食うのは止めたいのである。焼物は下賤な人間のすることにきまっていたのである。ほとんど消費物である。台所で使われたのである。相手は土百姓である。盛られるのは色の白い米ではない。使った後ろくそっぽ洗われもしないのである。朝鮮の田舎を旅したら、誰だってこの光景に出逢うのである。これほどざらにある当り前な品物はない。これがまがいもない天下の名器「大名物」の正体である。


 だがそれでよいのである。それだからよいのである。それでこそよいのである。そう私は読者に言い直そう。坦々とした波瀾のないもの、企らみのないもの、邪気のないもの、素直なもの、自然なもの、無心なもの、おごらないもの、誇らないもの、それが美しくなくして何であろうか。へりくだるもの、質素なもの、飾らないもの、それは当然人間の敬愛を受けてよいのである。
 それに何にも増して健全である。用途のため、働くために造られたのである。それも不断遣いにとて売られる品である。病弱では用にかなわない。おのずから丈夫な体が必要とされる。そこに見られる健康さは用から生れた賜物である。平凡な実用こそ、作物に健全な美を保障する。
「そこには病いにかかる機縁がない」と、そう言う方が正しい。なぜなら貧乏人が毎日使う平凡な飯茶碗である。一々っては作らない、それ故技巧の病いが入る時間がないのである。それは美を論じつつ作られた品ではない。それ故意識の毒に罹る場合がないのである。それは銘を入れるほどの品ではない、それ故自我の罪に染まる機会がないのである。それは甘い夢が産み出す品ではない、それ故感傷の遊戯に陥ることがないのである。それは神経の興奮から出てくるのではない。それ故変態に傾く素因を有たないのである。それは単純な目的のもとに出来るのである。それ故華美な世界からは遠のくのである。なぜこの平易な茶碗がかくも美しいか。それは実に平易たるそのことから生れてくる必然の結果である。
 非凡を好む人々は、「平易」から生れてくる美を承認しない。それは消極的に生れた美に過ぎないという。美を積極的に作ることこそ吾々の務めであると考える。だが事実は不思議である。如何なる人為から出来た茶碗でも、この「井戸」を越え得たものがないではないか。そうして凡ての美しき茶碗は自然に従順だったもののみである。作為よりも自然が一層驚くべき結果を産む。詳しい人智も自然の叡智の前にはなお愚かだと見える。「平易」の世界から何故美が生れるか、それは畢竟ひっきょう「自然さ」があるからである。
 自然なものは健康である。美に色々あろうとも、健康にまさる美はあり得ない。なぜなら健康は常態だからである。最も自然な姿だからである。人々はかかる場合を「無事」といい、「無難」といい、「平安」といい、また「息災」という。禅語にも「至道無難」というが、難なき状態より讃うべきものはない。そこには波瀾がないからである。静穏の美こそ最後の美である。『臨済録』にいう、「無事はこれ貴人、だ造作することなかれ」と。
 何故「喜左衛門井戸」が美しいか、それは「無事」だからである。「造作したところがない」からである。孤篷禅庵にこそ、あの「井戸」の茶碗はふさわしい。見る者に向って常にこの一公案を投げるからである。


 難なきもの平安なものから、茶器を取出した茶人の眼はこの上なくしたわしい。そうして「び」「渋み」というが如き美の規範を、そこに定めた彼らの心には、驚くべき正しさがあり深さがある。かくも深く見得た人々を私は海外に知らない。彼らは彼らの鑑賞において驚くべき創作をなした。平凡な飯茶碗はそのままにしてついに非凡な茶器に変ったのである。それは汚れた台所から美の玉座についたのである。数銭のものが万金に換えられたのである。省みだにされなかったものが、美の亀鑑きかんとして仰がれるのである。朝鮮人たちが「天下第一」の言葉をあざけり笑ったのも無理はない。あり得べからざる現象がこの世に起りつつあったからである。
 だが笑う者も讃うる者も共に正しい。この嘲りなくして、飯茶碗は平気には作られなかったからである。もし職人たちが安ものの雑器を「名物」であると誇ったなら、たちまち「雑器」ではなくなるからである。そうして「雑器」でなかったら、茶人たちは「大名物」をそこに認めはしなかったであろう。
 茶人の眼は甚だ正しい。もし彼らの讃美がなかったら、世は「名物」を見失ったにちがいない。あの平々凡たる飯茶碗がどうして美しいなどと人々に分り得ようや。それは茶人たちの驚くべき創作なのである。飯茶碗は朝鮮人たちの作であろうとも、「大名物」は茶人たちの作なのである。
 茶人たちはあの細かな慣乳かんにゅうに潤おいを感じた。そうしてあの釉剥くすりはげに風情をすら見た。しかもつくろいによってそれに景色をさえ増させた。彼らは何よりもその無造作な削りを悦んだ。それを茶碗になくてはならない箇条だとさえ感じた。彼らは高台に愛を強めた。その釉垂れに奔放な自然の味をんだ。彼らは見込みの形に眼を留めた。如何にそこに茶がたまるかを眺めた。彼らは形を抱きその厚みにくちづけをした。そうして如何にゆるやかなゆがみが、心にくつろぎを贈るかを知っていた。彼らは一つの器物にも様々な夢を抱いた。ついには一つの茶碗が美しい茶碗たるための条件をさえ数えた。美は法則を離れてはないからである。一個の茶碗は既に見る者の心の中で美しさを作りつつある。「茶器」は茶人たちを母として生れてきたのである。
「井戸」は日本に渡らずしては朝鮮に存在してはいなかったのである。日本こそ、その故郷である。『福音書』の記者マタイが、イエスの生れの地をナザレよりもベツレヘムだと書いたことには、真理がある。


 だが私は見る者の側を去って、作る者の側からこの茶碗を見よう。茶人たちの知的直観がこの茶碗の中に見ぬいてくれた驚くべき美は、そもそも誰の手で作られたのであるか、何の力が働いてそれを可能ならしめたのであるか。あの無学な朝鮮の陶工たちに知的意識があったと考えることは出来ない。否、かかる意識にわずらわされなかったからこそ、そのような自然な器が産めたのである。それなら「井戸」に見られる諸※(二の字点、1-2-22)の「見処」は、自力の所業ではないのである。かくれた無辺の他力が彼らに美しいものを作らせたのである。「井戸」は生れた器であって、作られた器ではない。その美は賜物なのである。恵みなのである。授けられたのである。自然への従順な態度がこの恩寵おんちょうを受けるのである。もし作者たちにみずからをたの傲慢ごうまんがあったなら、恩愛を受ける機縁は来なかったであろう。美の法則は彼らの所有ではない。法則は「我れ」とか「わがもの」とかを越えた世界に在るのである。法則は自然の作業であって、人智の工夫ではない。
 法則を働かす者は自然である。その法則を見る者は鑑賞である。いずれも作者の工夫にあるのではない。一つの茶碗が有つ美的箇条はその所産において自然に属し、認識においては直観に属する。あの「井戸」に「七つの見処」を思うのはよい。だがあの「井戸」が、その見処によって作られたと思い誤ってはならぬ。またそれらの箇条さえ整えれば一つの美しい器を作れると思ってもならぬ。「見処」は自然からの贈物で、作為の所産ではないからである。だがその明確な錯誤が、如何にしばしば日本の茶器に繰返されたことであろう。
「茶碗は高麗」と茶人たちはいう。正直な懺悔ざんげである。日本ものの茶碗は、朝鮮ものに及ばないことをいうのである。なぜ及ばないか。美の見処を自分で作為しようとしたからである。自然を犯そうとしたその愚かさによるのである。彼らには鑑賞と製作との混雑があったのである。そうして鑑賞が製作を掣肘せいちゅうしたのである。製作は鑑賞に毒されたのである。日本の茶器は意識の傷に痛んでいる。
 上長次郎、光悦から、下諸※(二の字点、1-2-22)の茶器作者に至るまで、多かれ少かれこの病いに悩んでいる。鑑賞が「井戸」の歪みに美しさを見る。それはよい。だがわざと歪めて製作する時、もう歪みの味わいは破れる。誤って窯の中で釉剥げが出来る。それは自然な風情である。だがその茶趣味からわざと傷をつける。もう不自然な器に過ぎない。
 高台の削りは「井戸」において特に美しい。だが美しいからといって無理にその真似まねをする。もとの自然さが残ろうはずがない。あの強いて加えたいびつや、でこぼこや、かかる畸形きけいは日本独特の醜悪な形であって、世界にも類例がない。そうして美を最も深く味わっている茶人たちが、この弊をかつてかもし今も酵しつつあるのである。「楽」と銘ある茶碗の如き、ほとんど醜くなかった場合はない。「井戸」と「楽」とは、出発において、過程において、結果において、性質が違うのである。同じ茶碗とはいうが、全然類型を異にし、美を異にする。「喜左衛門井戸」はまさに「楽」への反律である。挑戦である。


「井戸」を見得た初代茶人たちの眼が、如何に鋭いものであったかを私は述べた。「井戸」を語ることは、当然「井戸」への鑑賞を語ることであってよい。
 だが、どうして彼らの鑑賞が優れていたか。どこが時代のそれと異なるのであるか。それは全くものをじかに見、ものがじかに見えたことによる。じかに見るとは、曇りなき直観の働きをいうのである。彼らは箱書はこがきに頼ったのではない。銘に依ったのではない、誰の作なるかを尋ねたのではない。人々の評に習ったのではない。また古いが故に愛したのでもない。ものをじかに見たのである。ものと眼との間をさえぎるものはなかったのである。直ちに観たのである。鮮かに映じたのである。眼に曇りがなかったのである。だから迷いなき判断があったのである。ものが彼らの中に入り、彼らがものの中に入り得たのである。その間によき交わりがあったのである。愛が通ったのである。
 彼らの眼なくして茶器はない。茶器の有無は一つにかかる直観に依るのである。否、茶道が美の宗教たり得るのは、美への直観がその基礎をなしているからである。丁度神への直観が宗教を産むのと同じである。ものがじかに見えないなら茶器はなく、茶道はないはずである。だがこのことは何を私たちに語ってくれるか。もしものをじかに見得るなら、美しい茶器を今も見出すことが出来るはずである。幾多のかくれたる「大名物」が私たちの目前に現れて来るわけである。何故ならあの大名物「喜左衛門井戸」と、同じ環境や同じ所産心や同じ過程で作られた工藝品が無数にあるからである。「井戸」は雑器である。最も数多く作られる「下手物」である。かかる無数の雑器が私たちの直観の前にその選択を待ちつつあるといえないであろうか。
 今の人が「大名物」だからあがめ、「大名物」のみを崇め、他の民器を見捨てるのは、既に眼に曇りが来たからである。直観を働かす機縁さえ来るならば、吾々はかくも遅鈍ではいられないはずである。あの「井戸」と同じ美を有つ無数の雑器が、吾々の周囲を取り囲んでいるからである。如何なる人といえども、ものをじかに見ることによって、「大名物」をこの世に無数に加える特権を有つはずである。そうして吾々の周囲はかかる悦びを有つのに、茶祖の場合より遥かに好状態に在るのである。なぜなら器物の種と数とは昔より遥かに多いからである。そうして交通はそれらのものへの接触を遥かに容易ならしめているからである。そうして未踏の処女地は至る所に在るからである。もし茶祖が今よみがえるなら随喜ずいきの涙を流すであろう。そうして如何にこの世に美しい器が多いかに感謝の声を放つであろう。そうして幾多の新しい茶器を新たに取入れるであろう。「名物帳」は品目にあふれるであろう。そうして新たな形において茶室を更に加え拡げるであろう。そうして現代の生活に適し、民衆に適する「茶道」へと進むであろう。美しい器物はかつて見たそれよりも、更に更に豊富だからである。
 じかにものを見る時、私たちの眼も心も多忙でないわけにゆかない。

一〇


 私は天下の大名物を親しく手に抱いてもろもろの想いにふける。そうしてこの一個と私が今日まで集めさがしてきたものとを思い比べる。
「進め、進め、お前の道を進め。」そう大名物は私にささやいてくれる。私は私の歩いた道が、そうして歩こうとする道が、間違っていないということを省みる。私は「井戸」の幾多の兄弟や姉妹が今もこの世にあることを示してゆこう。そうしてこの地上を少しでも美しくしてゆこう。そうしてどんな美が最も正しいのかを語ってゆこう。そうしてどうしたらかかる美しさが今後も続いて産めるかを考えよう。そうして出来得るなら、それが実際に作られるように準備をととのえよう。それらの凡てのことは、何が美であるか、どうしたら美が分るか、如何にして美が産めるか、美の意義と認識と製作との三つの問題へのかぎとなろう。
 見終って「大名物」は再び幾重の箱に納められた。私も答うべき公案の幾つかを胸に納めて庵を辞した。門を出づれば禅林にうそぶく風が、「え」と言うが如く聞える。
(一九三一年)
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手仕事の国




 貴方がたはとくと考えられたことがあるでしょうか、今も日本が素晴らしい手仕事の国であるということを。確に見届けたその事実を広くおらせするのが、この本の目的であります。西洋では機械の働きが余りに盛んで、手仕事の方は衰えてしまいました。しかしそれに片寄り過ぎては色々の害が現れます。それで各国とも手の技を盛返そうと努めております。なぜ機械仕事と共に手仕事が必要なのでありましょうか。機械に依らなければ出来ない品物があると共に、機械では生れないものが数々あるわけであります。凡てを機械に任せてしまうと、第一に国民的な特色あるものが乏しくなってきます。機械は世界のものを共通にしてしまう傾きがあります。それに残念なことに、機械はとかく利得のために用いられるので、出来る品物が粗末になりがちであります。それに人間が機械に使われてしまうためか、働く人からとかく悦びを奪ってしまいます。こういうことが禍いして、機械製品には良いものが少くなってきました。これらの欠点を補うためには、どうしても手仕事が守られねばなりません。その優れた点は多くの場合民族的な特色が濃く現れてくることと、品物が手堅く親切に作られることとであります。そこには自由と責任とが保たれます。そのため仕事に悦びが伴ったり、また新しいものを創る力が現れたりします。それ故手仕事を最も人間的な仕事と見てよいでありましょう。ここにその最も大きな特性があると思われます。仮りにこういう人間的な働きがなくなったら、この世に美しいものは、どんなに少くなって来るでありましょう。各国で機械の発達を計ると共に、手仕事を大切にするのは、当然な理由があるといわねばなりません。西洋では「手で作ったもの」というと、直ちに「良い品」を意味するようにさえなってきました。人間の手には信頼すべき性質が宿ります。
 欧米の事情に比べますと、日本は遥かにまだ手仕事に恵まれた国なのに気付きます。各地方にはそれぞれ特色のある品物が今も手で作られつつあります。例えば手漉てすきの紙や、手轆轤てろくろの焼物などが、日本ほど今も盛に作り続けられている国は、他にはまれではないかと思われます。
 しかし残念なことに日本では、かえってそういう手の技が大切なものだという反省が行き渡っておりません。それどころか、手仕事などは時代にとり残されたものだという考えが強まってきました。そのため多くは投げやりにしてあります。このままですと手仕事は段々衰えて、機械生産のみ盛になる時が来るでありましょう。しかし私どもは西洋でなした過失を繰返したくはありません。日本の固有な美しさを守るために、手仕事の歴史を更に育てるべきだと思います。その優れた点をよく省み、それを更に高めることこそ吾々の務めだと思います。
 それにはまずどんな種類の優れた仕事が現にあるのか、またそういうものがどの地方に見出せるのか。あらかじめそれらのことを知っておかねばなりません。この本は皆さんにそれをお報らせしようとするのであります。地方に旅をなさる時があったら、この本をかばんの一隅に入れて下さい。貴方がたの旅の良い友達となるでありましょう。

 元来我国を「手の国」と呼んでもよいくらいだと思います。国民の手の器用さは誰も気付くところであります。手という文字をどんなに沢山用いているかを見てもよく分ります。「上手じょうず」とか「下手へた」とかいう言葉は、直ちに手の技を語ります。「手がたい」とか「手なみがよい」とか、「手柄を立てる」とか、「手本にする」とか皆手にちなんだ言い方であります。「手腕しゅわん」があるといえば力量のある意味であります。それ故「腕利うできき」とか「腕揃うでぞろい」などという言葉も現れてきます。それに日本語では、「読み手」、「書き手」、「聞き手」、「り手」などの如く、ほとんど凡ての動詞に「手」の字を添えて、人の働きを示しますから、手にちなむ文字は大変な数に上ります。
 そもそも手が機械と異る点は、それがいつも直接に心とつながれていることであります。機械には心がありません。これが手仕事に不思議な働きを起させる所以だと思います。手はただ動くのではなく、いつも奥に心が控えていて、これがものを創らせたり、働きに悦びを与えたり、また道徳を守らせたりするのであります。そうしてこれこそは品物に美しい性質を与える原因であると思われます。それ故手仕事は一面に心の仕事だと申してもよいでありましょう。手より更に神秘な機械があるでありましょうか。一国にとってなぜ手に依る仕事が大切な意味を持ち来すかの理由を、誰もよく省みねばなりません。
 それでは自然が人間にさずけてくれたこの両手が、今日本でどんな働きをなしつつあるのでしょうか。それを見届けたく思います。
(一九四六年)
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美の法門




「大無量寿経」、六八ろくはちの大願、第四にう、
 設我得仏   たとわれほとけを得んに
 国中人天   国の中の人天にんでん
 形色不同   形色不同ぎょうしきふどうにして
 有好醜者   好醜こうしゅ有らば
 不取正覚   正覚しょうがくを取らじ
 この一言があるからには、これによって美の一宗が建てられてよい。意味は「もし私が仏になる時、私の国の人たちの形や色が同じでなく、みよき者とみにくき者とがあるなら、私は仏にはなりませぬ」というのである。このことは更に次のことを意味する。「仏の国においては美としゅうとの二がないのである」と。
 記されてある如く既にその正覚しょうがくを取ったというからには、右の事実はもはや動かすことが出来ぬ。至極のさがには相対する質がない。一切のものはその仏性ぶっしょうにおいては、美醜の二も絶えた無垢むくのものなのである。この本有の性においては、あらゆる対立するものは消えてしまう。「生死なき本分」ともいわれ、「本来清浄」とも呼ばれる所以である。清浄であるから、何ものにも汚染されておらぬ。それ故「寂静」とも「無」とも「空」とも呼ばれるのである。「本来無一物」とも説かれた。もとよりこの「無」は無にとどこおる無ではない。有無の二を超えた「無」である。この境に入らずば何ものも真実ではない。
 仏の国は無上な国なのである。何処に美醜の二があり得ようか。その無上なものに支えられているのが、吾々の本性である。この本分には二相がない。一相即ち無相に居るのが吾々の実相なのである。美醜の二相は仮相に過ぎぬ。
 ここで美の法門は何を説き何を知らせようとするのか。美醜を超えたその本性に居れば、誰であろうと何ものであろうと、救いの中に在るのだと教えるのである。救いはちかわれているのであるから、いたずらに美と醜との争いに身を投げるなというのである。それも救われるべき資格を持てと求めているのではない。不完全な人間に何の完全な資格があり得よう。だが仏がその資格をととのえて人間を迎えようとするのである。かくて救いが既に備えられているから、それを無益にしては相すまぬと教えているのである。美醜を超えたその仏性に帰れ、この本然の性を離れて真実の美はない。かく教えるのが美の宗教である。


 私は再び美醜の二字に戻らねばならぬ。美醜というのは対辞である。美があれば醜があり、醜があれば美がある。醜を考えずして美はなく、また美と同一な醜もない。上下、左右、高低、遠近、善悪、浄穢じょうえ、凡て同じ対辞の性を出ることがない。だがどうして美醜の二があるのか。それを二つに分け、そうしてその一つを選ぼうとするのか。なぜ醜を捨てて美を取らねばならないのか。なぜ美が讃えられ醜が呪われるのであろうか。それなのにどうしてあるものだけより美しくなれなくて、多くのものが醜くなるのか。醜くなることを余義なくされるのか。不幸にもこの世での「形色は不同」なのである。人の姿も美醜に分れ、物の形も色も美醜に分れる。分れてしまうことをどうすることも出来ない。それ故能う限り醜さを棄てて美しさを選ぼうとする。誰も美しくなろうと様々に苦しむ。だがどうしてこんな重荷が吾々の上に課せられてくるのであろうか。
 それは凡て現世での避け難い出来事なのである。仏の国でのことではないからである。ここは二元の国である。二つの間の矛盾の中に彷徨さまようのがこの世の有様である。対辞が用いられるのは、まったからざる国での止むない因果である。対辞は反律であるから、断えざる闘争がその間に行われ、絶えざる矛盾がその中に起ってくる。人間のこの世における一生は苦しみであり悲しみである。生死の二と自他の別とはその悲痛の最たるものである。だがこのままでよいのであろうか。それを超えることは出来ないものであろうか。二に在って一に達する道はないであろうか。


「出来る」と経文は答えているのである。不思議なことには、その一に達することがこれから出来るといっているのではなく、もう達しているといっているのである。それは久遠くおんの昔に果されてしまったことなのである。既に早く仏が正覚しょうがくを取ってしまったというからには、美醜の二を超えることが成就じょうじゅされてしまっているのである。もっとも「既に」という言葉を使うと、過去を聯想するが、しかし真意は時間を越えた久遠の出来事を指しているのである。それ故正覚は過去に終ったことではなく、今も活きつつある正覚なのである。吾々はこの久遠の働きを知らず、勝手にものを美醜善悪に分けて悩んでいるのである。これが迷いである。
 それ故実は救われているのに、苦しんでいるのである。苦しむから救われるのではなく、救いが果されている中で悩んでいるに過ぎないことになる。だから救いのないところに苦しみはあり得ないのである。苦しみのさ中にもう救いがあるのである。聞かれているので祈るのである。これが不思議なのである。不思議な摂理なのである。しかし不思議というのは吾々の立場からの嘆きに過ぎまい。仏智としてみれば明々白々のことであるに違いない。
 さて、感嘆すべき仏の第四願、即ち「無有好醜むうこうしゅ」の願から、私たちはこういうことを知ることが出来る。この世の凡てのものは、れることなく、美醜の二のない世界に受取られているのであると。既に受取られる誓約のもとで、凡てのものが生れて来ているのであると。現世では美醜の争いに苦しむが、仏の国ではそんな争いがもともとない。これが美しい彼が醜いとさばかれるものがない。讃嘆すべきことには、仏は審判者ではなかったのである。あるものをよみしあるものを罰するのではない。彼は大悲なのである。何ものをも彼の慈悲で迎え取ってしまうのである。本来凡てがそう仕組まれているのである。
 ただそれらのものが現世のきずなしばられると、たちまちに美と醜との反目の中に置かれてしまう。二元以外に出られないのが、現世における万物の命数である。此岸しがんにいる限りはどんなものといえども生滅しょうめつの二からのがれ得ないのである。かくして矛盾や反目や闘争が果しなく続いてくる。何ものも永遠ではない。一切が限界のうちに沈んでしまう。だからこの世は無常である。無常から脱れられないのが二元に住むものの宿命である。だが凡てのそれらの無常なもの有限なものは、虚仮なのである。仮初かりそめなのである。本来の実相ではないのである。本原ほんげんのものではあり得ないのである。それはいたずらの迷いに過ぎない。これを悟ることが宗教であるとさえいえる。


 考えると美醜というのは人間の造作ぞうさに過ぎない。分別がこの対辞を作ったのである。分別する限り美と醜とは向い合ってしまう。そうして美は醜でないと論理は教える。それはどうしても矛盾する二つのものだという。だから美が即ち醜であるとか、醜のない美だけの美とか、醜でもなく美でもないとかいう言い方は、許されなくなってしまう。論理の法則に抵触ていしょくするからである。この世に止まる限り、この法則に間違いはない。だがこの世が世の凡てであろうか。一元の世界はないものであろうか。論理さえも力がなくなる境地はないものであろうか。
 ここで想い起されるのは禅家の言葉である。「空手くうしゅにして鋤頭じょとうれ」とか、「隻手せきしゅの声を聞け」とか、「無絃の琴を弾ぜよ」などという。論理の判断では到底解決がつかぬ。なぜこういう不思議な問いを出すのか、出さねばならないのか。甚大じんだいな意味があろう。分別に止まっている間は、これに向い何の答えをも送ることが出来ぬ。それのみではなく、「達摩だるま未だ西来せざる時如何」とか「蓮華れんげ未だ水を出でざる時如何」とか尋ねる。美醜が現れて已後いごのことを問うのではなくして、その二つが未だ分れぬ已前いぜんの境地を追求しようとするのである。「好醜あらば正覚を取らじ」といった言葉がここでまた想い出されるではないか。求めるところは美醜已前の世界なのである。そういう境地があるのみならず、元来は何ものもそれを本性としていることが説かれているのである。已前とは未生の意である。本性はその未生にある。盤珪ばんけい禅師は「不生」の一語で万機に接したというが、「不生」は本来のもの、生れるにつれて備わっているもの、その元に居れと教えるのである。不生の域に達すれば、もとより美と醜とは争いを失ってしまう。いつも巡礼の編笠あみがさには十字型にこう記す、
本来無東西   本来東西なし、
何処有南北   何処いずこにか南北あらん。
迷故三界城   迷うが故に三界は城、
悟故十方空   悟るが故に十方は空なり。
 ここではこの東西南北を美醜善悪の言葉に置き換えればよい。


 ではどうしたらよいのか、その東西の別もない本来のままであればよいのである。あるがままの本然の性に帰ることである。天授の質に活きることである。法がしからしむる所にいればよいのである。これが「自然法爾じねんほうに」の教えである。そういう境地を仏徒は「にょ」といったのである。この「如」のみが不動不変なのである。それで真に美しいものはどういうものかということが分る。それは「如」を離れてはない。それは「如」の姿なのだともいえる。
「如」はまた「一」である。「一」はまた「不二」ともいう。それ故美にも醜にも属しないものであるし、また醜を棄てることで選ばれる美でもないのである。いわば醜に向い合わぬ不二の美、美それ自らとでもいうべきものである。かかる美が美醜の範疇はんちゅうに属していないことは自明である。醜でない美というが如きものは高が知れている。そんなものが真に美しいものであるはずはない。美しさもまた迷いに過ぎない、それが醜さに対する限りは。拙もまた救いから離れない、それが巧に向い合わぬ限りは。普通に常識がいう美しさは、美醜が二つに分れて已後のものである。だが二つに未だ分れない已前の美をこそ訪わねばならない。もっともこの已前とか已後とかここでいうのは、時間の前後を指してのことではない。已前とは時間のない世界、過去も未来もない世界のことを語っているのである。それ故不生不滅の意味である。
 畢竟ひっきょう真に美しいもの、無上に美しいものは、美とか醜とかいう二元から解放されたものである。それ故自由の美しさとでもいおうか。自由になることなくして真の美しさはない。弥陀みだ無礙光如来むげこうにょらいと呼ぶが、無礙たることが如来たることである。醜さを恐れ美しさにとらえられているようなものは、真に美しくはあり得ない。自由が欠けるからである。否、言葉を強めていえば、自由たることのみが美しさなのである。ただこの美しさは前にも述べた通り、自律する美しさで、反律としての美しさではない。美醜に分れることは人間を不自由にする。自由とは二律からの解放である。印度の詩人カビールが「未だ打たざる太鼓の音」の美しさを歌い、真の踊は「手なく足なくして舞われる」などいうのは、この消息を伝えようとするのである。


 例えばここに一枚の絵を想い浮べるとしよう。巧に描かなければ美しくならないというような絵は、充分に美しくないはずである。たかだかまずくないというまでに過ぎまい。美しくしなければ美しくならないのは不自由な証拠である。たとえ拙くとも拙いままに美しくなるような作であってこそよい。不完全を厭う美しさよりも、不完全をもれる美しさの方が深い。つまり美しいとか醜いとかいうことに頓著とんちゃくなく、自由に美しくなる道があるはずなのである。美しさとは無礙である時に極まる。美しくしようということに滞るのは二次である。しかるに多くの人は無礙の道を取らないしまた省みない。
 かつて盤珪禅師は人々に教えて「仏に成ろうとするより、仏でいる方が造作がなくてよい」といったというが、美しさの道も、これ以上には説けぬ。美しく作ろうとするより、美しさと醜さとが未だない所に在ればよい。その時より深くは美しく作れぬ。本来美醜もない性が備っているのであるから、美しく成ろうとあせるより、本来の性に居れば、何ものも醜さに落ちはしないはずなのである。それ故まずくとも拙いままに皆美しくなるように仕組まれているのである。それなのに多くの人々は、自分を偉くして、その力量でものを左右しようとする、充分に力量のある人なら二元の争いを克服することも出来ようが、大概の人はその力を持たない。それなのに小さな自我を立てて、美醜を分けてものをさばこうとする。強いて難行を試みるようなものである。それ故港に着く者がほとんどいないのである。多くの者は迷ったままたおれてしまう。
 しかし経は説くのである。仏が仏になったということは、凡てのものを美しさで迎えるという契いなのである。救うことが仏たることなのである。仏がいて救うのではなく、救いが仏である。それ故凡てを仏の力に任せれば、迷いも敗れもないはずである。そういう道が既に用意せられているのである。それが仏の大悲である。小さな自分を打ち捨てて仏に便たよれと、凡ての念仏宗は教えている。他力門の有難さはここにある。誰でも安らかに港に着ける道を教えているのである。だが多くの人々はこの道を省みないで、あたら二元界に止まってしまう。


 凡ての人間は現世にいる限りは誤謬ごびゅうだらけなのである。完全であることは出来ないし、また矛盾から逃れることも出来ない。しかしそれは本来の面目ではないはずである。元来は無謬なのである。ここで無謬というのは完全であるという意味ではなく、不完全なままにあやまりのない世界に受取られることをいうのである。だから誤謬のままで無謬になるのである。誤謬を取り去って無謬になるというようなことは人間には出来ない。だが有難くも誰が何をいつどう作ろうと、本来は凡て美しくなるように出来ているのである。ひいでた者は秀でたままに、劣る者は劣るままに、何を描きどう刻もうと、凡ては美しさに受取られるように仕組まれているのである。仏が正覚を取ったということは、この真理の確認なのである。「大無量寿経」は仏のこの驚くべき行いを説くために書かれてある。それ故、人の善悪を選ばず、信不信を待たず、一切の人間の一切の作は、少しの例外をも許さず、仏の済度さいどを受けているのである。ただこの秘約が通じないために、またこれに逆らうために、迷いが人々に残っているに過ぎない。醜さとは、即ち本然の様から離れた姿を指すのである。宗教ではこれを罪という。
 それだからねがわくは美醜の分別を越えることである。それらが二に分れる已前に自らを戻すことである。与えられたありのままの「本分」に帰ることである。美醜の作為から去ることである。「平常」に居ることである。美醜の別は病いであるから、本来の「無事」に立ち戻ることである。それには第一に小さな自我を棄てるがよい。これに執著しゅうじゃくが残ると、迷いが去らない。第二には分別に滞らないことである。この判断にのみ便ると、ついには二相の世界から脱れることが出来ない。
 それ故素直であり無垢むくでありたい。多くの聖者たちが嬰児みどりごを讃えるのは、一理も二理もある。明禅みょうぜん法印の常の仰せに、「赤子念仏がよきなり」と。それはいずれも分別のもろさを知らせようとする親切な教えである。決して分別に意味がないというのではなく、分別に終れば二相を出ないというのである。だから赤子の無心に無量の示唆しさがある。これは何も赤子そのものに戻れというのではなく、滞らない無心な自在な境地に入れという意味である。一旦ここに入ると、何ものにも誤りが起らない。誤っても誤りのままで、誤りがなくなるのである。これを無心の徳とでもいおうか。しかし一旦その境地から離れると、誤りのないものまでが、とかく誤りに落ちるのである。誤っていないと言い張ることが、誤りの証拠になってしまう。この世で美しいと誇るものが、どんなにしばしば醜いであろう。
 それ故美の問題も、美醜のことにその問題を止めてはならない。もう一つ溯って美醜の未だ分れない境地から、この世界を見なければいけない。美か醜かで判じるような物指ものさしに、どれだけの力があろう。そんなもので計り得るものを、ゆめ美しいと呼んではならない。真の美しさとは「畢竟浄ひっきょうじょう」なのである。仏教ではこの境地を「無」というのである。無にまで深まっていないものを讃えるべきではない。美醜は有相のことに過ぎない。有難いことに人間は、元来有相にいるものではない。それ故本分においては無垢なのである。穢濁えだくは吾々が造作した罪の跡に過ぎない。臨済りんざいは「但造作すること莫れ」と教えた。美も醜も共に醜に染まる、造作に止まる限りは。だが思い過ごしてはならない。無造作に執するなら、新な造作である。らく茶碗の如き、好個の例といえよう。強いて美しく作ってあるが故に醜さがどうしても残る。造作に滞れば醜さが現れないわけがない。


 もし凡ての人々が本来清浄なものであって、美醜未生のものであるとするなら、人間の差違の如き何のつまずきになろうか。常識はこういう、美の世界は天才を求めているのだと。また天才のみが大業を果せるのだと。一理あるように思われるが、半面の真理を伝えているに過ぎぬ。才不才の如き、実は浅い根に過ぎまい。賢愚の差はわずかこの世での出来事に止まる。凡てが相対なこの世では、上根下根じょうこんげこんの別が生じるというまでである。善を尊び悪を憎むというのは、この世での法に過ぎない。二元のちまた彷徨さまよう限りは、その法は守られねばならない。だから天才が仰がれ善人が尊ばれることに何の不都合があろう。だがそれは二元界での道だということを忘れてはならない。一旦次元を異にした世界に出ると、賢愚善悪の別の如きは多くの意味を持たない。禅では「不思善不思悪」の深さを説く。また「慎んで善をすことなかれ」とも教える。いわんやどこに悪を作す所以があろう。すべて二相に止まらぬ境地からの声である。
 それ故たとえ善悪美醜の差があっても、差のままにその差が消えてゆく世界がある。矛盾が矛盾のままで溶け合ってしまうのである。念仏の行者たちはかかる国を浄土といったのである。これを神の国と呼んでもよい。この国は平等の国、自由の国、安心の国、平和の国なのである。何処にも争う二がないのである。対辞を持たない国なのである。それ故分けようとしても美醜の別がない。凡ての者、凡ての物が、救われている状態に在るのである。誰が何を作ろうと、仏の大悲を破るわけにはゆかない。天才もここに引接いんじょうせられ、凡夫もまた摂取せられてしまう。浄土には位階はない。浄土の座は円輪なのである。上座下座はない。位階を想うのは、この世の立場で眺めるからに過ぎない。仏の眼と吾々の眼とは違う。
 だから天才だけが優れた仕事を成し得るのだとするのは、いたく狭い見方に過ぎない。凡夫だとて凡夫のままに、見事なものが出来るはずである。法然ほうねん上人は念仏についていったではないか、「ひじりで申されずば、在家にて申すべし」云々、また「悪人は悪人ながらに」とも述べた。もとより自らの力で往生おうじょうが出来るのではない。凡夫自らに何の誇る力量があろうか。だが救いへの道は自力の道のみではない。有難いことに他力の一門があって、凡夫のために用意されてある。これがあるばかりに、この道に便たよれば、どんな凡夫も易々やすやすと港に着けるのである。しばしばたとえられた通りに、自らの力で舟を漕ぐからではない。帆に風をはらませてゆくからである。固く凡夫の往生を説いた法然上人の「一枚起請文いちまいきしょうもん」は、とても有難い文字である。
 力量あって自力門をくぐる者は、絶対自主の道を体得するであろう。ただ惜しい哉、終りを完うする者がいたく少い。道がけわしいからである。これに対し他力門を進む者は、絶対他主の境に活きるのである、救いを誓われている道に身を任すのである。それ故下凡げぼんの者といえども、救いから離れることはない。易行の道といわれる所以である。


 力ある者は自らで自らを救うであろう。救いおおせるであろう。これは仏の大智にのっとる者である。古来幾許いくばくかの僧侶はかかる修行に徹した。だが力なき者が無数に残る。これをまのあたりに見て仏の大悲は動く。彼の悲願なくしては衆生の済度は覚束おぼつかないのである。それ故仏はどうしても救おうと誓いを立てたのである。正覚を果したその慈悲は、ひとえに凡夫のためであったともいえる。だから親鸞しんらん上人は進んで「悪人正因」の教えを述べた。大胆極まる考えである。「善人なおもちて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」と。一旦は不思議に思われるとも、この言葉はどこまでも信じられてよい。仏の大悲を想えば、この教えに疑いを差挟さしはさむ余地は残らぬ。
 才不才に惑うなどは二次的である。才なくとも才なきままに救われる道が確約されているのである。この世の多くの優れた作品が、一文不知の名もなき工人たちによって作られている事実を、どうすることも出来ぬ。あの大茶人たちが讃えぬいた「井戸茶碗」は何よりの例証ではないか。誰が作ったかも分らぬ。一人や二人ではない。それも貧乏な陶工に過ぎなかったのである。各※(二の字点、1-2-22)が天才だったなどと、どうして判じ得よう。平凡極まる工人たちだったのである。それも安ものを作るのである。一々美しさなどを意識してはいられない。むしろ荒々しく無造作に作ったのである。雅致があるというが、それは何も劃策かくさくされたものではない。無造作に必然のなりゆきに任せてある。それだから雅致が豊に出るのだとそういってよい。いわば美や醜のわずらいがない作なのである。かかるものにこだわってはいないのである。迷いの病いが現れるより前に出来てしまうのである。かえって安ものであるおかげで、この自由を得たのだともいえる。力があってこれを作り得たのではない。四囲の境遇や、受け承ぐ伝統や、私のない仕事や、素朴な暮しや、自然な材料や、簡単な技法や、それらのものが寄り合ってこの作を育てたのである。彼らは淡々として当り前なものを作ったに過ぎない。だから救われたのだといってよくはないか。ここで「平常心」を説く自力門と自から相会うのを感じる。他力の作である「井戸」が、禅意に適う所以である。つまりは自他両門一如なのを感じないわけにゆかぬ。
 だがここでもう一つ注意を喚起しよう。どんな後代の天才が、凡人の作った「井戸」以上の茶碗を易々と作り得たか。至難だと見える。再びここに『歎異抄たんにしょう』の言葉が想い出されるではないか。天才には秀でた作が出来るのである。だが凡人にはなおもそれが出来るのである。仏の加護のもとで。

一〇


 ある人はなおもこうなじるであろう。凡ての者が救われるとちかわれていたとて、この世には幾多の凡庸な者があって、世を醜くしつつあるではないか。どうして彼らが救われないままで残っているのか。仏の誓いなど夢に過ぎなくはないか。いつまで私たちは凡人に悩まされねばならないのか。いつまでそれを呪わなければならないのかと。
 答えは簡明なのである。凡庸な人間が小さな自我を言い張るからである。自らで何事かが出来ると思うからである。だが畢竟ひっきょうは迷いに過ぎない。そのため本来清浄なさがに濁りが来るのである。醜さとはこの濁りの色である。しかしこのために救いの誓いが弱められたことはない。否、いやまして準備されているのである。おろかな者、罪深い者の救いにこそ、悲願がふり注がれているのである。我が罪を想うのはよいが、それを必ず救おうとする仏の大悲をつゆ疑ってはならぬ。『唯信抄』にいう、「仏いかばかりの力ましますと知りてか、罪悪の身なれば救われ難しと思うべき」と。仏の悲願は私たちの罪の多寡たかには左右されない。かかる恵みの風が贈られているのに、帆を棄てて自らで漕ごうとする。それ故途中で疲れてしまう。醜さは貧しい自己に便る時に起る。「捨てよ」と仏者が教えるのはその故である。
 信心深い時代には、人間はもっと素直であり、謙虚であった。容易に自己を忘れた。これがどんなに彼らを幸にしたか分らぬ。今は疑い深い時代である。それ故才ある者もない者も、自らで判こうとする。これがために美醜が分れる。ここで才に乏しい者がいち早く敗れるのは当然である。醜さは小さな自力のしるしである。だがなぜ愚な者だと切に感じないのか。それが感じられないほど愚なのだというべきなのか。美と醜との争いに身を投げるなら、仕事は容易ではないのである。自ら穴を穿うがって自らを埋めるにも等しい。
 今後も無数の醜いものが作られるであろう、小さな自我や慾や分別が蔓延はびこる限りは。しかし私たちは望みを抱いてよい。仏が正覚を果したということを信じてよい。彼の大きな弘誓ぐせいを信じ切ってよい。それ故何人も何物も本来美醜の二を超えた国に迎えられるのである。この誓いがなくしてこの世に何の希望があろうか。それはただに救いの可能なことを示唆しさするだけではない。可能だというなら不可能な場合もあろう。しかし可能不可能は私たちの言葉であって、仏にはないのである。大悲は一遍いっぺん上人の言った如く「欠けたることもなく、余れることもない」のである。どんな者といえども、その誓いに洩れてはいないのである。ただ吾々の愚かさの故に、この秘義をらず、いたずらにその恵みを無益にしているに過ぎない。
 それ故信を得た者は、不信な者が不信のままにでも成仏するように、介添かいぞえの役を果さねばならぬ。識らなくともおのずから仏の国に居るように導くことである。仮りに仏の国に帰れとでも求めるなら無理であろうが、環境をして帰る資格のないままに、いつしか故郷の人たるようにしてしまうことである。かく考えると伝統というようなことが、下根げこんの者にはどんなに有難いことか。伝統は一人立ちが出来ない者を助けてくれる。それは大きな安全な船にも等しい。そのお蔭で小さな人間も大きな海原うなばらを乗り切ることが出来る。伝統は個人のもろさを救ってくれる。実にこの世の多くの美しいものが、美しくなる力なくして成ったことを想い起さねばならない。かかる場合、救いは人々自らの資格に依ったのではない。彼ら以上のものが仕事をしているのである。そこにかくれた仏の計らいがあるのである。
 これを想うと、人が美しいものを作るというが、そうではなく仏自らが美しく作っているのである。否、美しくすることが仏たることなのである。美しさとは仏が仏に成ることである。それは仏が仏に向ってなす行いである。それ故仏と仏との仕事なのである。念仏は、人が仏を念ずるとか、仏が人を念ずるとかいうが、真実には仏が仏を念じているのである。一遍上人の言葉を借りれば、「念仏が念仏する」のである。「名号が名号を聞く」のである。凡て正しきものは、仏の行いの中の出来事に過ぎない。美しきものは、仏が仏に廻向えこうしているその姿なのである。

一一


 このことを想うと、同じ念仏門の教えでも、余りに信に重きを置くのは、下々の者には酷ではないか。信も力であるから、力なき者はそれすらも得難えがたい。もとより信を取り得れば不退転の人とはなろう。信に活き切る法味の深さは言葉に余る。「信心為本」を説くのは、信仰の者の声なのである。それが如何に光に満ち満ちたものであるかを知りぬいているからである。
 だが悲しい哉、その信をすらも取り得ない者が無数に残る。信を取れというのは、それを取り得る力を求めるにも等しい。だがその力のない者にまで道を用意するのが、念仏門の志ではなかったのか。善と悪とに依らないのと同じく、また賢と愚とに係わらないのと同じく、真の他力門は、信と不信とにも便るべきではあるまい。このことを想うと、一遍上人は念仏門最後の教えを説いた人といえよう。彼はついに信心を本と為す立場を越えた。「信不信を言わず、有罪無罪を論ぜず、南無阿弥陀仏が往生するぞ」と説いた。人が往生するのではなくて、南無阿弥陀仏自身の往生だと指すところ、意味深遠である。何ぞ下々の者に信による往生が出来ようか。だが信不信すらも南無阿弥陀仏の往生を左右する力ではないのである。往生は人間の如何にもさまたげを受けない。人間の生れるに先だち、はや往生が決定されているのである。もはや美と醜とに煩わされない王土が厳然と在るのである。これをこそ美の浄土と呼んでよい。ここ以外の、また以上の美の故郷はない。
 有難くもその故郷は遠い所にあるのではない。「観無量寿経」には「阿弥陀仏、去此不遠」と記してある。無上の国といえば何か遥かな彼岸ひがんに在るとも思われるが、実は彼岸が此岸しがんに在るのである。此岸を離れて彼岸はないのである。彼岸こそは此岸の本体なのである。此岸はわずか仮現に過ぎない。それ故教えは本体に居れというのである。此岸に宿れば美と醜とは終ることなく争ってしまう。本有の性に在れば、争う何ものもないのである。それ故この境地には罪や醜さが入る余地はない。それが本来の姿なのである。それを「本分の美」と名づけるのである。本来あるがままのものが美なのである。本有の性にあることが、美にあることなのである。それが浄土の美である。
 禅は「見性けんしょう」というが、それは本有の性を直ちに見よとの意である。これを見ることが「成仏じょうぶつ」なのである。美の世界にもこの成仏がなければならない。浄土門では極楽往生を説くが、本分にその極楽が在るのであって、何も特別な個所を指して、しか呼ぶのではない。往生はその本分を離れてはない。阿弥陀仏はその本分の体なのである。それ故往生は阿弥陀仏に帰入きにゅうすることなのである。かくて南無阿弥陀仏が往生するのである。美の往生もこの往生を離れてはない。

一二


 聖道門においては、「煩悩即菩提ぼんのうそくぼだい」とか、「生死即涅槃ねはん」とか教え、これらの言葉に究竟きゅうきょうの理法を托した。その前後に置く対辞は何なりとも、中に差挟まれた「即」の一字に凡ての密意がかかる。「即」に成仏があるのである。「即」を離れては往生はないのである。「即」が往生するのである。浄土門でいう六字の名号も、ひとえに「即」を凡夫に握らせたいためである。名号が衆生と仏とを不二ならしめ、娑婆しゃばを寂光に即せしめるのである。だが「即」と「同」とをゆめゆめ同じだと受取ってはならない。どうして人と仏とが同じであり得よう。だが同じであり得ない不幸のままに、人が仏に結ばれる幸を説くのが「即」の教えである。名号は人の善悪などを選びはしない。悪人は悪人のままに名号に結ばれるのである。この場合、悪人でよいといっているのではない。名号のみがよいといっているのである。悪人などどうしてよいはずがあろう。だがその悪から離れ得ない人間も、離れ得ないままに名号を称え名号を聞き、かくて名号に即すると、往生は決定し不退転の座を占める。だから人に往生があるのではなく、名号に往生があるのである。それ故名号あっての人間である。
 かく考えると美もまた「即」の法界にあることが分る。それは個人の如何に左右されない。才なき者も愚な者も、ことごとくその法界のさ中に活きているのである。それ故この法性に在らば何人も美に居る人以外ではない。拙な者も拙なままで美に結縁けちえんされているのである。洩れなく誰にもそう仕組まれているのである。これが「無有好醜」の悲願である。
 かかる美の法界を説き、この法界への往生を説くことが美の法門である。
(一九四九年)
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利休と私




 考えると利休があまり有名なので、こういう題は少しいやみにも思われるし、それに自分を引き合いに出すので、どうかと思うが、実は必要が起って、一筆書いておくことにしたのである。
 先年、東京で民藝協会の全国大会があった時、谷川徹三君が来賓として挨拶あいさつをしてくれた。その言葉の中に、「柳さんの名は後年利休や遠州と比べられるものだ」という意味のことを述べてくれた。人のうわさでは過日国立博物館で脇本楽之軒の講演があった時、その中でも「柳さんは昭和の利休とでもいうべき人だ」と話されたそうである。実はこれまでも時折そういう讃辞をうけたことがある。ところが、近時また北川桃雄君が『古美術』の再刊初号に、私の仕事を利休のそれに並べてめてくれた。
 利休とか遠州とかいうような歴史に著名な人たちと肩を比べて賞められて見ると、有難くもあり冥加みょうがに余るとも思われ、これに過ぎた名誉はないともいえようが、実は正直にいって、どうも有難迷惑なのである。多くの美術批評家がそう評してくれたのは、全く私に好意あってのことで、その点では重々感謝したいのである。また自分で省みても、利休や遠州のした仕事と縁の近いことをして来たのであるから、比較されても致し方ないが、実はそれが私には困るのである。
 あるいはこういうと、私が謙遜けんそんしたり卑下したりして、そんな偉い人たちと比べて貰っては、恥かしいとでもいうように取られるかも知れぬが、実はそんな気持からではない。普通なら恐縮して、かくまでいって貰っては分に余るとでもいうべきところだが、実は逆で、それを嬉しく思わないのみか、内心大いに不服なのである。私の仕事を価値付けようとして、全くの好意からそう評してくれたのではあるが、実は引き合いに出された利休や遠州を、常々そんなにも有難い仲間だとは思っていないのである。何か不遜ふそんの言い方をするようですまぬが、彼らぐらいの程度の仕事に止まってはならぬというのが、私の予々かねがねねがいなのである。
 私は、何もそれらの茶人たちがつまらぬ人間だとか、文化に貢献するところが薄かったとかいっているのではない。おそらく私のようにいつも平の民間人として仕事をしている者は、彼らのような高い貴族的勢力を得ることは出来ないし、また彼らの才能のある面には到底及びもつかぬ私である。彼らが高い評判を得てきたのももっともな次第で、何かにつけ美的文化に影響力のあった人たちである。特に「茶」の方では、神様に近いまでの位置を得て、彼らに随喜の涙を流す人たちさえ少くない。「利休型」、「遠州好み」などいって、美の標的にさえされている。
 だが、問題は彼らの業蹟が、私の満足すべきまた傾倒すべきものであるかどうか。また彼らの人格、彼らの鑑賞力が、そんなにも追慕ついぼされるべきものであるかどうか。これらのことに対し私は大いに懐疑的なのである。だからこそ私には為すべき違った仕事、したい仕事が他に沢山あるのである。
 率直にいって、遠州の如きは歯牙しがにかけるほどのものでさえないと思われてならぬ。今日遠州流と呼ばれるものは茶道にも華道にもあるし、遠州好みといわれる品々が数々残る。だが、それらのものはいずれも趣味の過剰が目立って、美の本道からは遠いものだといってよい。下品なところはないまでも、早くも堕落を想わせるものが多い。茶道は功罪相なかばしていると考えられるが、その罪過の方はいわゆる遠州好みに由来するものがどんなに多いことか。中にはいやみで、きざで、わざとらしく、鼻持ちのならぬものさえある。彼は趣味の人であったとしても、また美の愛好者であったとしても、正しく深い美の理解者であったとは到底思われぬ。その遠州程度に私が成ったとて何の名誉になろう。私を賞めて遠州を引き合いに出すのは、私を正しく見てのことであろうか。遠州程度では全くこまるというのが、私のかねての気持なのである。だから遠州のようだ等といわれると全く閉口せざるを得ないのである。彼のやったような仕事を打破して、もう一度美を本道に戻したいというのが、私の念願なのである。至らぬ私といえども、遠州に目標を置くようなけちな仕事をしておらぬつもりなのである。
 利休というと「茶」では神様のようにいう人が多い。近頃学術的な研究も盛んになったが、初めから鵜呑うのみに無批判的に有難がっている人々が多い。茶人はさておき、学者にさえ未だにそういう人が多いのは誠にこまる。桑田忠親氏の『千利休』は客観的に利休を語ろうとする最初の好著だといえる。しかしそれでも見方は結局先入主を出ておらぬのはどうしたことか。今後はもっと多くの正当な批判が加えられてよくはないか。
 利休は大した才気のある人であったと思われる。性格も強くて傲慢ごうまんなほど自信があった人であろう。それだからこそ諸大名や武将を向うに廻して、彼らを手玉に取ったほどのであった。何しろ一代の人気を得たのは、鮮かな力量の人であったことを語ろう。だからその影響はなかなかに大きく、今日「茶」の存在が良くも悪しくも彼に負う所があるのは言うをたぬ。
 だが、どういう道を通って、利休はその位置を得たか、利休の生涯を見ると彼は転々として当時の権門に仕えた。始めは信長に仕え、次には秀吉に侍り、その他の諸大名、諸武将、さては豪商と歩き廻った。その時代としてはそうするより仕方なかったのかも知れぬが、しかし権門を利用することを怠らなかった彼の生活に、既に不純なものがあったともいえる。純粋に茶の道が立てられたというより、権門を利用して「茶」を栄えしめ、また「茶」を利して権門をあやつったともいえる。かくて「茶」は政治的にまた経済的に活用された。「茶」を一世にかくおどらしめたのは、利休の如き才気がなくば不可能であった。だが、そこに濁った様々なものがまつわっていたのも見逃すことは出来ぬ。
 かかる「茶」は「民衆の茶」では決してなかった。常に権力とか金力とかの背景を求めた。大名とか武将とか豪商とか、それらの人々を忘れずにかついだ。またそうすることで「茶」を拡めた。「わび茶」とはいうが、一種の贅沢ぜいたくな派手な「茶」で、主として富や力にものをいわせた。だが、かかる権勢と結びつく因縁を持った「茶」は、本質的な「わび茶」になれるであろうか。ともかく仏道が説く「貧」の茶とは遠いものであった。利休は真剣に道を求めて、そんな金力や権力を決然とったであろうか。決してそうではない。彼は好んで力に仕える「茶」をえらんだ。あるいは進んで「茶」でその力を奪ったともいえるが、権門や金力のために彼の「茶」が浄まったとか深まったとかいうことは全くない。力や富と結びつく時、「茶」はいつも危機にあるといってよい。今でも同じだが、金持が大茶人を以て任じるほどおかしなことはない。何も金持が茶人になれぬとはいえぬが、金持であるということは宗教生活の場合と同じように、大変な引け目のはずである。まして茶禅一味など説かれる場合、「茶」と金権との関係は困難になる。高価な茶器を所持するから、茶人になる資格が出てくるのではない。今も「茶」はとかく金持の「茶」になりがちであるが、正しい傾向とはいえぬ。太閤は一面たしかに風流を好んだ人であろうが、どれだけ本当に美しさの分った人なのか、黄金づくめの茶室や茶器を誇ったほどの幼稚さがあった。十年ほど前、米国で日本の美術展が催された時、愚かなことに日本から純銀製の茶道具一式を送ったことがある。向うでこればかりは馬鹿にされ、さすが日本贔屓びいきのワーナーもこれには困ったというが、誠にそうだったに違いない。どうも太閤を禅味に徹した大茶人などとは義理にもいえぬ。彼を相手にして、社会的または政治的位置を得たことは利休を得意にしたかも知れぬが、同時に彼の「茶」を不純なものにしたことは否めぬ。もしも権勢にびず、もっと民間に「貧の茶」、「平常の茶」を建てたら、茶道はずっと違ったものになったと思われてならぬ。「わび茶」は貧を離れては、よもや徹したものとはなるまい。力や金を利用したことで、「茶」が普及したともいえるが、そこに早くも「茶」の堕落がきざしたともいえる。今も「茶」は貴族的な「茶」に落ちがちであるが、一度は金力を茶から追放すべきである。金力があってもかまわぬとしても、金力に敗れるような「茶」は、「茶」たる資格を持たぬ。
 茶人としての利休の生活を見ると、どうもその態度に幇間ほうかんくさいものがあるのには閉口する。「茶」は権門を利してもよいが、同時に利さなくとも差支えない「茶」でなければならぬ。思うに、利休は腕の人であったが、人格的に浄いまたは高い人であったとは思われぬ。むしろ俗なことが平気で出来た人であろう。それも無邪気からでなく、ずうずうしく行ったであろう。遣り手であるから一面には太閤などを腹で馬鹿にしていたこともあろう。残る手紙の文面にもそういう様子がはっきり見える。しかし同時にその権力を利用することを決して忘れなかった。利休が太閤から死を命ぜられたのも、その横著おうちゃくと傲慢とがたたったのであろう。世間でもそれが感づかれていたのか、彼が自刃した時、彼に同情する者はいたく少く、自業自得だと評する者が多かったのである。近時発見された当時の人の日記を見たが、利休の死因を二つ挙げている。一つは大徳寺の山門に自分の肖像を掲げて、太閤の激怒をかったこと、他の一つは「まいす」のためだと書いてある。この日記は利休が自刃したその日に書かれているので、当時の人の考えをじかに知る上に貴重な文献である。「まいす」とは「売僧」の意で、商売する僧侶をののしっていう言葉である。つまり、利休を「まいす」と呼んだのは、彼が自己の位置を利してしばしば賄賂わいろをとったり、道具の売買の上前うわまえをはねたりしたことを指すのである。利休には平気でそういうことをやりかねない性質があった。こういうことが世間に反感を抱かせた原因であろう。利休の死については色々その理由を述べる人があるが、私は当時の人のこの日記にある二理由が一番自然なものと思われてならぬ。殺され憎まれる種が利休に沢山あったといってよい。結局、権門に媚びることを怠らなかった幇間的な彼の暮し方を私は好かない。彼は人格の浄かった人、深かった人とは到底いえぬ。ちょっと今でいえば魯山人に輪をかけたような人間であったろう。なかなかの遣り手ではあるが、結局は、俗気の人で、禅の心境などからは随分かけ離れた人間であろう。
 利休の遺偈ゆいげなるものはなかなかやかましく、今まで随分それをあがめた文書も多い。如何にも禅僧の遺偈を想わせるもので、死に臨み徹した悟入ごにゅうがあったようにも受取れるが、近時歴史的考証が進むにつれ、何とそれが他人の遺偈からの剽窃ひょうせつである事がわかりがっかりする。利休自身の作としては余りにも近似性が濃いので剽窃はもはや疑う余地がない。おまけにおかしな事には、利休という号それ自身まで同一なので偶然とは思われぬ。この号は何か勅旨によって賜ったように書いてある伝記もあるが、そんな勿体もったいぶったものではなく、平凡な借りもののようである。以下証拠を挙げよう。
 支那のしょくの成都に幹利休という人があってこの人の遺偈が左の如くである。
人生七十力囲希人生七十力囲希
提王宝剣
露呈仏祖共殺機咄吾這宝剣仏祖共殺
 上段が原作で下段が茶人利休の遺偈、両者が別々に偶然に似て出来たとは、どうしてもいえぬ。「力囲希」などという言葉は、今でもなかなか分らぬ表現で、一般の人は用いぬ。「仏祖共殺」まで同句なので興ざめである。こんな事実を想うと誠に幻滅を感じ、仮りにも茶聖などとはいえぬ。聖者の行いにしては、ひど過ぎるではないか。
 右は近重物安博士や現南禅寺師家柴山全慶師らの研究によるから、誤伝とはいいかねる、どうも他の行状を見ても、こんな剽窃ひょうせつはやりかねない人間であったと思える。清浄な人為からはおよそ遠い。
 道元禅師はその『正法眼蔵しょうぼうげんぞう』に強くこういった。「道心ありて名利をなげすてん人いるべし」と。つまり名利に仕える如き人間は山内さんないには入れぬというのである。利休は禅を習ったというが、名利を求めることを決して忘れなかった。洗ってみれば結局野狐禅やこぜんに過ぎなくはなかったか。そういう利休のような人間に、なりたくないというのが、私の考えである。だから、利休に比べられても、私には名誉にならぬ。有難迷惑だというのはその意味である。
 だが、好意ある私への評言は、美のよい見手だという点で、私を利休に比ぶべき人間だといってくれているのかも知れぬ。利休は果してどれだけ本当の美の分った人であったか。遠い昔の人のこととて何もはっきりはいえぬ。利休の言行を録した『南坊録』なるものが残るが、これは学者の説だと偽書だという。読んでみると、なるほどあやしい所が眼につき、どこまでが信頼してよい本なのか分らぬ。ところがこの本の長い解説を書いた西堀一三氏は、これをまるきり真書だと考えてか、利休の言葉に一々意味をつけ勿体もったいをつけ、無上に有難がっているが、果してどんなものか。彼をじかに判断する道があれば、彼が愛したという茶器、彼が作らせたという茶室、彼が試みたという器物、それらを通して彼の眼を見るに如くはない。今の茶人たちの大部分は、無条件に彼を大した美の理解者だと思い込んでいるのである。私は何も彼を鈍い眼の人だとか、くだらぬ美より分らなかった人だなどとは決して思わぬ。相当鋭い眼の持主であり、また遠慮なく、よいと思うものを活かして用いることの出来た人であったと思う。しかし彼のみが開拓した美の世界がどれだけあったのか。彼の愛した器物に、どれほど独創的なものがあったか。誠に「大名物」などに美しいものが数々あるが、彼以前の茶人たち、例えば紹鴎じょうおうなどにも既に重々認められていたものではないか。初期のそれらの茶器の美を、利休の眼力にのみ帰してよいのか。彼のほかにも眼利めききが決して少くはなかったのである。結局、造作にほかならぬ楽茶碗などを彼が熱心に作らせたことを思うと、どれだけ無造作の高麗茶碗が見えていたのか。彼が用い愛したという器物を通して考えると、彼はたしかによい見手の一人であったろうが、しかし彼のみが見手であるとか、彼以上の見手はないとか、彼に見誤りがなかったとかは断定が出来ぬ。彼が為したぐらいの選択を、私はそう恐ろしいとは思わぬ。
 多くの人々は、例えば北野の大茶会の記事などを読んで、大した名器が出揃ったように考える傾きがある。なるほど三百年の前は今からすれば醜いもの、俗なものの少かった時代であるから、当時の茶器が、いずれも相当にい品であったろうと推察することは出来る。しかし彼らの愛した品の数も種もそんなに豊富なものではない。昔は交通が今のように便宜ではなく、従って品物の交流も今のように活溌ではなかった。彼らの得た眼福は、今の私たちからすると随分限られたものであった。現在の吾々の方が、どんなに沢山佳い品物を見る機会に恵まれているか分らぬ。もとより今は醜い品も同時に多くなってはいるが、考えるとこれで一段とはっきり良い品が眼につくともいえる。私たちは遥かに容易にまた多量に、支那や朝鮮や日本のものを見ることが出来、加うるに、西洋のものですらしばしば手にすることが出来る。まして書物や雑誌などの挿絵や記事は、真に比較出来ないほど多くの智慧を私たちに与えてくれる。かかる意味で、私たちの方が利休などより、どんなに多く美しい品々を見ているか分らぬ。そういう恵まれた境遇にいる私たちが、利休の眼の働きぐらいに止まっていては相すまぬではないか。今の多くの茶人たちがひとえに利休を追って、あがきがとれなくなっているのは、誠になさけない。北野の茶会で用いられた器物と、例えば民藝館に列んでいる品物とを比べると、実は後者の方がずっと美しさの質において種において豊富なのは当然だといえる。なぜなら、北野の茶会に現れた品は当時の「茶」に直接関係するものだけに限られていたから、その範囲は知れたものである。だが、私たちはもっと沢山、もっと広く、美しいものを容易に選ぶことが出来る。しかるに今の茶人たちはこういう平明な事実をすら認めない。実に不思議であるが、民藝館の蒐集の価値を見得ている人はわずかよりいないのである。目前に利休時代より恵まれた環境で、「茶」という狭い限界からも開放されて、自由に選ばれた見事な品物が沢山列べられていても、その値打ちを見ることを知らないのである。
 こういうと甚だ不遜のようにも取られようが、利休の愛したものと、私の愛したものとを比べてもらうと、私の品の方が色々な点で遥かに豊富だと思われてならぬ。これは決して自慢ではなく、時代の恵みによって当然そうなるはずなのである。利休だって今いるとしたら、決して昔愛していたものなどに局限されてはいないであろう。もし彼が本当の眼力の人なら、そこに止まるはずがない。民藝館の品を見たら、心を踊らせて沢山そこに新しい茶器を見出すであろう。否、更に形の違った「茶」を考え出したかと思われる。
 私は何も利休をただのつまらぬ人だなどと決してけなしているのではない。利休は利休として認めてよいが、利休程度の仕事に自分の仕事を止めるわけにはゆかぬ。三百年も後に生れた私は、当然利休が果し得なかった仕事、利休以上の仕事を果すように努めるべきである。まして彼の疑わしい人格を手本などにすることは、平に御免である。至り尽す峰はまだ遠いとしても、利休に比べられて有難がるようでは誠になさけない。
 それで私の仕事を利休や遠州に比べてくれるのは全く好意あってのことではあるが、そういう茶人たちのやった仕事ぶりに止まりたくないと予々かねがね念願している私にとっては、決して名誉ある比較ではないのである。誰か出て柳の仕事は大いに違うのだと解明してくれないものか。その時こそ私は本当に恐縮するであろう。
(一九五〇年)
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蒐集の弁




 本当は「弁」即ち弁明、弁解などということは望ましいことではない。ホヰットマンの詩にもあったが、太陽は自分の光を放つのに一々弁解などしておらぬ。光る時が来ればいつか光るので、雲や雨のことなど一々咎めはしない。
 しかし方便としてみると、「弁」もそれなりに一つの存在価値であろう。特に真理がおおわれて、なかなか世間が認めぬような場合は、解明は有益な一役を演じる。プラトンの編に「アポロギア」というのがあるが、法廷でなしたソクラテスの弁明を記録したものである。今からみるとやはり記しておいてもらってよかったと思う。そこから尊い色々な真理を今も貰える。
 私は過日ある人から、「君は余り物を持ち過ぎるではないか」といわれた。数が既に多いのに、なおも欲を出し過ぎるという意味なのか。それともよい品をそんなに多く独占する必要はあるまいというのか。金もないくせにこれ以上買うのは愚かだという意見なのか。それとも蒐集は数の蒐集たるべきではないと警告してくれているのか。また一層ここらで蒐集を打ち切って、もっと他のよい仕事をしろといってくれているのか。どういう理由だったか、惜しいことに聞きらしてしまった。
 考えると私も随分物を買った方である。世の中には私の場合などより、けた違いに多い人もあろうが、ともかく私の蒐集も少い方とはいえぬ。ほとんど手離す場合がなかったから、たまる一方で、もし民藝館のような陳列所がなかったら、物の中でうずくまって暮さなければならぬかも知れぬ。家庭で使う食器でさえもう種類や数が多過ぎて、既に買う必要がなく、しまう場所にさえこまっている始末なのである。お客でもしたら毎日食器を変えても、一カ月分ぐらいはあるかも知れぬ。だから「物を持ち過ぎる」といわれても、当っていないわけでない。実際身分不相応に物を持っている方だから、弁解のしようがないようにも思われる。時々自身でもよくこんなに集めたものだと思うことがある。
 もっとも私は蒐集品の全部を民藝館に寄贈したし、今家庭で使っているものも、値打のあるものは凡て、将来館に寄贈するつもりだから、実際には私が持主なわけではなく、自分のものはむしろわずかよりないのである。しかしそういう意味で「少しより持っていないのだ」と弁明しようとするのではない。更に大いに買いたいのだし、持ちたいのだし、物さえ出れば今も折を逃さぬたちだから、「まだ買うのか」といわれても、「持ち過ぎる」といわれても、あながち不当な評言だとは思われぬ。しかし一面では大いに不服なのである。充分私の買い方を知っての批評だとは思われぬ。それで、「蒐集の弁」を一応は書き残すこととしたい。これで私の蒐集の意味や、終りなく買う意味を理解して貰えるかと思う。またこれで蒐集そのものの本義には触れて貰えるかと思う。
 なるほど私は折さえあれば今も買うから、結果として、沢山持ち、必要以上に持ち、従って更にやせば当然持ち過ぎるともいえるが、私としてみれば買うのは沢山数を殖やす興味からではないのである。もっとも民藝館のことを考えると、一つでもよけいに殖やしておけば、後に来る人にはきっと役に立つに違いないから、数が殖えることにも大いに意味はあるのである。また民藝館としては数多く持つことが、館の内容や価値をますます増さしめる所以ともなろう。だから持ち過ぎるという制止は、館に対しては成立つまい。しかし私がここで弁じようとするのは、そんなこととは全く違う点であって、私の買い方、持ち方そのものについてである。
 少し言葉は変だが、私が物を買うのは、一生に「今この一個」をのみ買っているという行為の連続に過ぎないのである。だから横に買っているのではなく、いつもたてに買っているのだとでもいおうか。買うということの単なる繰返しではなく、禅語を借りれば「前後截断」で、過去からも未来からも解放されている「現在」でのみ買っている行為なのである。禅僧がよく「這裏しゃり」とか「箇裏こり」とか「箇中」とかいうが、面白い表現で「現下のこのもの」という意である。買うとか持つとかいうことは私には、いつも「今」「この一つ」という境地での出来事に過ぎない。数多くを買うというような意味での買い方ではない。事実物の数が多くなっているのだから、それは詭弁きべんだという人があるかも知れぬが、そうではない。実は物を持つとは、全一に持つという意味がなければならぬ。その全一とは数多い物の中の一つではなく、一つそれ自身の一つなのだ。このことは、ちょっと分りにくいかも知れぬが、真に美しいものは、ただ色々あるものの一つではなく、左右のない現下の一つなのだ。それは数の世界にあるよりも、数なき一つなのだ。仮りにそれを多数の中の一個としてより持たないなら、美しさを見届けての持ち方とはいえぬ。私は量の世界で買っているのではないのである。
 先日新聞を見ていたら、蒐集家話が出ていて、一人は徳利ばかり集め、一人は制札ばかり集めている例が挙げてあった。そういう蒐集こそ何より数がものをいうが、私はそういう性質の蒐集には、てんで興味がないのである。それは蒐集としても畢竟ひっきょう二義的な性質を出ないものである。なぜなら数量が大きな目的で、つまらぬものでも徳利とか制札とかなら何でも集めるということになってくる。いわば横に広く買っているに過ぎなく、質の方は二次的になってくる。「多」に値打を置いて「質」の方を主に置かぬ。ところが美しさを主体に推すと、そんな見方では近づくことが出来ぬ。縦に見るというのはこの機微に触れることである。だから仮りに幾度美しいものを買うとしても、それは幾度も買うのではなく、「その一つ」を「一度きり」より買っていない意味がある。ここで一度とはただの一回ではなく、「永遠の今」の中に起る一回である。そういう買い方でなくば、買い得たとはいえぬ。たとえ金では買ったとしても。
 もっとも民藝館の陳列をした経験からすると、同じような種類のものが幾個かあると、陳列を一層美しくさせる場合が起る。そういうために、私とて数で物を買う場合がないことはない。しかしそういう時でも、質をたすものでない限り、量だけでは買わぬ。ただ、数多く集めるとなると量が表に出て、質は裏に廻されてしまう。その結果は、つまらぬものまで集めるという悲喜劇に落ちる。私はそういう蒐集に興味がないから、ただ「持ち過ぎる」といわれると、そんなはずはないがと考えざるを得ぬ。数など考えて買ったことはないからである。よく世間には「※(「怨」の「心」に代えて「皿」、第3水準1-88-72)ちゃわんを百個集める」などと力んでいる蒐集家があるが、私には愚かに見えてならぬ。数で集めて何になるのかと思う。百個に興味があって、一個なら興味がないのである。「この一個こそ」という持方が基礎にならぬと、たとえ百個持っても、実は一物も持たないのと等しかろう。私はそういう買い方、持ち方をしたくない。私が物を買うのは、いつも始めての想いで買うのである。一々が初恋なのだとでもいおうか。反復でもなく重複でもないのである。新鮮なのであるから、一つ一つが始めての買物だという意味がある。いわば一つ一つを眼一ぱい心一ぱいで見ているので、それは昨日見たとか、幾度か見たとかいう見方ではない。即今より以外には見ていないのである。初恋は一度ぎりのもので、幾度もあれば初恋ではないというであろうが、本当の初恋ならそんな簡単な物指では決められない。
 こういう例を引いたらどうであろうか。念仏というものを考えると、多念仏といって、念仏を数多くとなえる行がある。あるいは「常念仏」などともいう。昔から「常行三昧堂」というのがあって念仏行者が日々念仏する御堂である。京都に百万遍ひゃくまんべんという名刹めいさつがあるが、念仏百万遍から来た名である。ともかく度数多く称える念仏のことである。実際そういう多念仏に大なる功徳くどくを感じた者は多勢いた。しかし果してここに念仏の本義があろうか。これに対し一念義ということを称え出した者もいて、本当の念仏なら一念に結晶すればよく、多念は要らぬと主張したが、これは念仏宗では邪義として退けられた。もっともな話で、一度ぎりで念仏の必要がなくなるからである。品物でも本当によいものなら一個でもう沢山だというに等しい。他にいくら美しいものが現れても心を動かさぬことになろう。
 しかし求める心、慕う心は、そんなに局限されるものではない。限りない求めであってこそ始めて本当の求めだともいえる。それ故念仏の例に帰ると「念々の一念」という考えに高まるのは当然である。その意味は、一念が念々に相続するので、単なる多念とは違う。後者は横の念仏であるが、前者はこれを縦の念仏と呼んでよい。もとよりこれは一回で終る一念とも違う。いわば「不断の一念」なのである。それは一念を否定する多念でもなく、多念を否定する一念でもない。一念が日に新たに連続するのである。だから不断の一念、一念の不断である。念々が新鮮な一念なのである。私の考えでは蒐集もまた一物の不断、不断の一物でなければならぬ。つまり物々が新鮮な一物として現れる時、不断の蒐集となるのである。これは多数な蒐集と混同されてはならない。だから私は絶えず買いはするが、数沢山買っているのとは違うと主張するのである。このことを分って貰えないであろうか。
 お茶の方に「一期一会いちごいちえ」という言葉がある。始め禅宗の言葉かと思ったが、どうも禅籍には見当らぬ。しかし茶人の言葉としてはよほど、禅経験のある人がいい始めたことに違いない。あるいは紹鴎じょうおうの言葉だともいう。「和敬静寂」の四字も有名だが、私はこの「一期一会」の方が一段と特色ある言葉のように思われてならぬ。「一期」は一生涯のことで、「一会」は一度出会うという意味であるが、茶を「一生一度の茶」としててるというように平たく言い直してもよい。もっともここにいう「一」は多に対する一とか、二になる一とかいう意味の一ではない。ここがちょっとむずかしい所であるが、繰返る一ではなく、一それ自らの一なのである。吉兵衛という妙好人の言葉を借りると、「始めで為納め」、つまり「為直しのない」ことなのである。茶を点てるのは、そういう行いでなければならぬというのである。そうなると何度茶を点てようが、いつどこで茶を点てようが、まっさらな想いの茶になる。反復などということは消えてしまう。一度一度で完了している。だから倦怠けんたいということがない。前に出した言葉を用いると、茶を縦に点てるということになる。私は蒐集もまたそうでありたいと考えるのである。浜田は先日も「柳が物を持つと、どんな骨董こっとうでも、たちどころに骨董でなくなり、まっさらなものになる。これが不思議だ」といってくれたが、実は不思議なのではなく、「このもの」を「即今」に持つと、自然にそうなってしまうのである。誰にだってそうならねばならぬはずである。だからどんな古い物でも、新しい受取り方に接すれば、新しい物によみがえってくるのである。この受取り方を「即今の受取り方」と呼んでもよい。物に新旧はあろうが、新旧のない受取り方に接すれば、「いつも今」の品に成り変るのである。
 ではどう受取れば、そうなるのか。多くの蒐集家が物を買うのを見ていると、概念で判じて物を買っている場合が多い。自分の智慧を持ち出したり、世間の評判に依存したり、銘や箱書に頼ったり、いつもある物指で計り、これで割り切れると安心して買うのである。この心理を心得ているから、骨董商は雄弁に故事来歴を述べたり、何々図録に載っているなどと安心させる。逆に買手の方で知識が出来て巧者になると、物を買う時その知識をいつも振廻すことになる。このほか「古い」とか「珍らしい」とか「きずがない」とか、色々の価値標準を持ち出して、それに適合すれば「これはよい」と安心する。しかし本当に美しい物は、そんな物指で割切れるものではあるまい。知ることが直ちに、見ることだと思うのはおかしい。見る前に知を働かすと、見る眼が知に妨げられると気付かないのであろうか。
 私とてある知識を持っているから、必然に幾許かの知慧が、潜在的にも働くだろうが、そういう知識の闖入ちんにゅうが目立つと、物を見る眼はどうしても濁ってくる。一般の人は知識でもないと、物が正しく見えぬように考えるが、それは反対なのだ。知識で計ると知識で計れる以内のことより見えないものだ。つまり色眼鏡のようなもので、その色以外の色は見届けるすべがない。知識を持つことそれ自身は一向に差支えないが、それの奴隷になると、物は見えなくなる。見て後に知る習慣をつけるのが肝心で、それが前後すると、美しさはかくされてしまう。
 物を見るのは無手に限る。心を裸にするとよい。知慧の着物を着たり、七つ道具を持ち出したりする必要はない。昔、道元禅師が支那から帰って来た時、「空手にして郷に還る。ゆえに一毫いちごうも仏法なし」といったというが、大した説法をしたものである。この「空手還郷」「無仏法」が、真に仏法への体得であり、把握であるのだ。こちらが素裸だと、物の方でもかくすものがなくなる。仏法でよく「捨てよ」というが、これのみが「得る」所以である。つまり物を見る時、物と自分との間に介在物を置かないことである。じかに見届けることが肝要なのだ。それでないと物の中には入りこめぬ。禅宗では、「直下じきげ」という言葉をよく使うが、全く直下に見さえすればよい。知慧や評判を持ち出すなら直下ではない。知識は物を離れて見るという働きに過ぎぬ。
 私はある名門の人で立派な品を沢山所持している人を知っているが、その人は有名になっているものでなくば買わないのだ。だからその蒐集にはい品があるのは必定ひつじょうだが、しかし自身で見届けての上ではない。むしろ評判の高くないようなものは買えないのだ。買う眼がないのだ。だから買い方には創作はないし開拓もない。持ち方にも自主的なところがないせいか、物も輝いては来ぬ。その人の蔵品が陳列してある室に入ったことがあるが、さむざむしていた。見方に活き活きしたところがないので、物の方も生命を示そうとしない。物の良し悪しもさることながら、買い方、持ち方で、物は生きたり死んだりする。蒐集には自主的な自由な活きた眼が何よりほしい。ここで活きた眼とは、じかに物そのものを見る眼力を指すのである。評判や市価や、そんなものに頼らぬ自由さが欲しい。
 あるいはこういおうか。かえりみると私が物を求めるのは、そこに私の故郷を見出しているからではないか。それを持つとは、郷土に居る想いなのである。人間は実は誰にでも郷愁の念がある。徳を求めたり光を慕ったりするのは、本来の性に戻りたい心の現れだともいえよう。ノヴァリスは哲学を定義して「懐郷の病い」だといったが、美しさを人間が飽かず求めるのは、人間本来の故郷に帰りたい心に外なるまい。美しい品物を求めるのは、そこに心の故郷があるからである。それと一緒に居たいのは、常に故郷に居たい希いの現れである。「帰去来いざいなん」の三句は、人間の口から絶えることはあるまい。それ故本来とか本具とか本有とか自性とか本性とかいう字を仏教はたえず使う。
 私はこの頃、箱の裏に品物への(短い詩句)を書きつけることを始めた。永く別れていた品物にこう記した。「ヤスラフヤ、フルサトニ」と。自分のために現れたかと思うものに会って「彼レモマチ、吾レモマチ」と。先日所望の行器ほかいが手に入った。丸々した豊かな形なのだ。私は自身にも器にもいってきかせるつもりで「まどカナル、ナ外居ほかいセソ」と書きつけておいた。私には器であって器でないのだ。器に私の古里を見ているのだ。あるいは器が私の中に居場所を探しあてたといってもよい。私が求める時はどんな器にも、こういう関係が見られるのだ。だから沢山持っていても、それは私に結ばれて私と一つなのだ。私とは別々なものを色々持っているのではない。だからここでも数のことではなく一つに結ばれた世界の現れなのである。故郷が幾つもあるというのではなく、求めるところに故郷が現れるのである。
 あるいはこういってもよいかも知れぬ。私は蒐集で何をしてきたのか。考えるとせっせと一生かかって殿堂を築きそれを荘厳しょうごんしているのである。いわば美のお寺を建てているのである。なぜそんなことをするのか。穢土のままではいたたまれぬからである。寺はせんずるに彼岸の浄土が此岸に映るすがたなのである。そこにはそれぞれに美しい物が集ってくる。品物はみな仏菩薩なのである。私が壇を設け棚をしつらえ、置くべき所に物を置いて、これと日夜を送るのは、丁度真言しんごんの坊さんたちが、曼荼羅まんだらを構えて、諸仏を念じるようなものである。曼荼羅には八百万やおよろずの仏がいるから、ここにも数を想うかも知れぬが、それは多仏なのではなく、一仏の無量な顕現で、丁度一つの太陽が十方に光を放つが如きものである。あるいは万徳が互をしたって一堂に相会する姿と見てもよい。そこには美の浄土相が見えるのである。本来人間が住むべき幸福な平和な場所なのである。私が物を求めたり集めたりするのは、この浄土相を自分でも見、人にも見て貰う幸福を得たいためである。物を持つのは仰ぐべき仏を迎えることで、日々の暮しはその仏を讃美し景仰し供養し礼拝することなのである。こういう意味では私の暮しは日々仏を仰ぐ坊さんの暮しに近く、念々称名する信徒の心に通じるともいえる。私には物(ぶつ)と仏(ぶつ)、文字は変るが、同じ意味合があるのである。その物が美しい限りは。
 今まで物を讃えると、唯物主義とそしられたり、物を仰ぐと偶像だとへんせられたりしたが、しかしそれは唯心主義の行き過ぎで、「心」と「物」とをそんなに裂いて考えるのはおかしい。心は物の裏付けがあってますます確かな心となり、物も心の裏付けがあって、いよいよ物たるのであって、これを厳しく二つに分けて考えるのは自然だとはいえぬ。物の中にも心を見ぬのは、物を見る眼の衰えを語るに過ぎない。唯物主義に陥ると、とかくそうなる。同じように心のみ認めて、物をさげすむのは心への見方の病いに由ろう。私はむしろ心の具像としての物を大切に見たい。物に心が現れぬようなら、弱い心、片よった心の所為に過ぎぬ。それ故、「仏」というような心の言葉を、形のある「物」に即して見つめたい。物に仏の現れを見ないとか、仏に物のいのちを見ないとかいうのはおかしい。美しい物は仏に活きていることの証拠ではないか。
 私の考えでは、美しい物とは、成仏じょうぶつした物という意味がある。成仏は救われたもの、目覚めたものを意味し、道元禅師の言葉を借りれば、美しいものは「仏が行ぜられた図」だといってよい。成仏はまた「作仏」とか「行仏」とかいわれる。仏が仏自らを作る行いが、物に現れる時美しい物と呼ばれるのである。それで美しい仏を見るということは、正覚しょうがくの相、成仏の姿を仰ぐことである。人間が美しい物を求めるのは、そういう姿を追う人間本来の求めにきざすのである。だから品物を購うのは、数を殖やすということが目的にはならぬ。まして財産を殖やすような目当を持たぬ。蒐集家の多くが物をただ財物と考え、それで利潤を見ようとするが如きは、物を唯物に落す仕業に過ぎぬ。物を愛し敬うのは心と離れぬ物を見るからでなくてはならぬ。財として物を持つ人は、真の持手とはいえぬ。むしろ物への冒涜ぼうとくといってよい。悲しい哉、そういう蒐集家がこの世には絶えぬ。
 物を集めるのは一つの慾とはいえるが、しかし慾には己れを忘れぬ慾と、己れを忘れたい慾とがあろう。美を愛し慕う心には己れを忘れたいねがいがなければならぬ。もし蒐集が私慾に終れば、持ち方は暗くなり、きたなくなり、従って生活は陰性になる。私慾の影が濃いために起る悲劇である。そういう人々の持ち物は、どんなによくとも光は出ぬ。蒐集は物の受取り方、持ち方で、その内容が左右される。否、持主その人が左右される。なぜ分りきったこういう真理に、多くの蒐集家は気付いてくれぬのであろうか。蒐集はおのずから自己を清め社会を浄めるものとならなければならぬ。
(一九五四年)
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日本の眼




 東京にある国立近代美術館は『現代の眼』と題する月刊紙を出し、また同じ題目で展観を催したことがある。
 しかるに不思議でならないのは、よくよく見るとそれが凡て「西洋の眼」なのである。さながら「西洋の眼」が「現代の眼」だとか、あるいは「現代の眼」は「西洋の眼」だといっている如くで、私はそれに大いに反撥を感じた。何故日本に在る美術館が「日本の眼」を標榜しないのか。進んでは「日本の眼」をこそ輝かせて「西洋の眼」の足りぬ所を補足し、また補導しないのか。同館でしばしば試みる陳列法も近頃の西洋の流行を追っているに過ぎない。日本としての創意は乏しい。
 それで私は今なお病床にある身だが、衰弱を押してもあえて「日本の眼」と題する一文をそうして世に訴えたい志を起すに至った。日本はもう「日本の眼」に確信を持ち、それを世界に輝かすべきだと思われてならぬ。いたずらに大言壮語するなら愚かだが、日本はもう自信を抱いて、自らの見方を進めるべき時期に来ていると思える。「日本の眼」を「西洋の眼」より鈍いと思っているのか。また「現代の眼」とならぬ遅れたものと卑下しているのか。私の考えでは、西洋で充分発達していない鋭く深い見方が、「日本の眼」に豊かにあると思われてならぬ。それも間に合せの、急ごしらえの見方ではない。
 日本は西洋から明治以来、色々のものを受取って来た。まだまだ学ぶべきものは沢山あろう。特に東洋で立ち遅れた科学の面では、今なお教わるものが多々あろう。もっとも科学万能の弊に落ちてはかえって損失の方が大きくなろう。同じく機械文明で人間の幸福が確約されない事も充分反省されてよい。米国は典型的な機械文化の進んだ国だが、多くの米国人の今の不安や苦悶でもよく分る。近時米国でますますトランクィライザー(鎮静剤)の生産と需要とが盛なのは病的な社会現象の反映である。米国の如く富有な国になっても礼節を知るわけではなく、そこほど俗悪さの目立つ国もまた少い。犯罪数も世界一なのはどういうわけか。
 外国に学ぶのはよいが、それが崇拝となり追従となっては、文化の独立はない。「現代の眼」といって新しさを誇るかも知れぬが、それが「西洋の眼」であったり、その借りものであったりしてはなさけない。何故西洋風な「現代の眼」で凡てを見ねばならぬのか。こんな事をしていたら、何所どこにまた何時、東洋の存在理由が見出されようか。日本人はいつも模倣の暮しをせねばならぬのか。そんな必要はごうもあるまい。明治この方もう一世紀近い。そろそろ西洋崇拝を脱却して、逆に東洋から西洋へ贈物を届けてよい。私の考えでは二ツの面で充分それが果せる。第一は大乗だいじょう仏教の宗教思想において、第二は東洋藝術の特質において。いずれにも西欧で充分発達の跡のないものが沢山ある。近時「禅」が欧米の哲学者から大いに尊敬され出したのは、顕著な事実である。先日私は次の話を読んだ。当今第一流の哲学者といわれるハイデッカーがいうには「もし私がもう少し早く鈴木大拙博士の禅に関する本を読んでいたら、今日の結論に到達するのにかくも手間取らずにすんだであろう」と。禅のほかに華厳けごん哲学や日本で特に発達した他力思想の如きも、キリスト教文化に斬新ざんしんな贈物となるであろう。藝術の面では南画の空白美の如き、書道の自在美、抽象美の如き、欧米において既に著しい影響が見られるのである。漢、六朝りくちょうの彫刻の如き、今後ますますそこに東洋美の深さが見直されるであろう。宋窯は欧米のどの美術館でもその蒐集や研究に熱を込めている。
 東洋藝術のはらむ未来の文化財は大きくまた拡い。欧米と対蹠たいしょ的なものが沢山あるからである。例えばロダンの「考える人」と、中宮寺ちゅうぐうじや広隆寺の弥勒菩薩みろくぼさつ像とを比べると東西の対比がよく分る。近似した姿勢でも、苦悶と寂静との対比である。いずれにも深い意味はあるが、前者はついに人間の帰趣を示さぬ。「寂」の仏教的理念こそ欧米人に大いに内省せられてよい内容があろう。


 さて、東洋の一角を占める日本は、何を世界に寄与出来るか。色々の面があろうが、私の考えでは遠慮なく大いに輝かせてよいものに「日本の眼」がある。背後に充分な伝統をもった鋭利な眼力がある。これによって見抜く美への見方は大いに注目されてよい。
 大体「西洋の眼」は「ギリシヤの眼」を源にする。指向する所は長い間「完全の美」であった。ギリシヤ彫刻はよくそれを語る。これは欧米の科学的理智にも合致するものであって、正確に割り切れる合理的な美である。西洋で写実性や遠近法が進んだのも合理性による。マンテニアの如き画家は東洋には見られぬ。かかる正確美を私は「偶数美」と総称したいのである。これに対し「日本の眼」が深く追ったものは「不完全の美」なのである。これを私は、「奇数の美」と名付けたい。この美の認識を日本人ほど深く追求した国民はない。
 私はかつてカンヂンスキーの美論を読んだ事があるが、その中で日本語の「絵そらごと」という言葉をいたく賞めていた。実はこの「絵そらごと」こそ真実にまさる真実を意味する。ここで「そらごと」とは「不完全さ」であり「奇数」を指すといってもよい。
 もっとも自覚的にこの「日本の眼」が働き出したのは、足利時代特に能楽や茶道の発展に由来するものである。「茶」は色々批評する人もあるし、これを過去の陰気な「美観念」だとののしる人もあるが、「美鑑賞の道」としては極めて独創的なものであって、鋭利なもの、深遠なものが内に在るのである。これが世界にもまれな見方を育成し、しかも国民全体の生活に厚く影響をもたらし、今日の人の美生活の基礎をなしているのである。吾々の美的教養は多かれ少かれこれに負うているといってよい。
 文藝復興期の藝術がメディチ王侯の庇護ひごに依った如く、「茶」も「能」も足利義政の守護によるところが大きい。彼は政治家としてはつまらぬ人であったかも知れぬが、藝術を熱愛して、いわゆる「東山文化」を生んだ阿弥一門と共に茶祖珠光の名が彼のもとに光る。続いては紹鴎じょうおう引拙いんせつの名が残る。またこの背後に一休禅師の如き禅僧がこの動きに加わった事は「茶」を仏教的に深めた。「茶禅一味」というが美鑑賞と宗教思索とが固く一つに結ばれた事は他の国にも見られぬ歴史的事実といえよう。


 さて、その「茶美」は何を理念としたか。幸にも抽象的な理知を以てせず、茶室、露地、茶道具という具体的なものを常に媒介として美の奥底を見つめた。「さび」、「わび」などはそれ以前の時代の文学においても味われたが、「茶」が栄えるにつれて、物に即してその深さが具象的に味得された。「さび」とはただ淋しみという事ではなく、仏法の言葉であって、本来はあらゆる執著を去る様をいうのである。私を棄て慾を去り二元を越えた究竟の境地を「涅槃ねはん寂静」と呼び、これに帰る事が悲願となった。「茶美」は詮ずるに「寂の美」である。これをやさしく「貧の美」といってもよい。今なら分りやすく「簡素の美」とでもいうかも知れぬ。かかる美を味わう茶人を数奇者といったが、「奇」とは、足らざる様を指すので、足らざるに足るを知る心の悦びを味ったのである。
 それ故、「寂」の理念は完全な正確を追う心ではない。岡倉天心は「茶美」を「不完全の美」と呼び、久松教授は更に「完全への否定美」と呼んだ。しかし完全とか不完全とかの二元からむしろ離脱した様の美こそ「茶美」であって、私はむしろ「茶美」を禅語を借りて、「無事の美」と呼びたい。即ち「平常底の美」、「無碍むげの美」と解すべきで、完全にも不完全にも執せぬ「自在美」こそ「茶美」なのである。
 茶器の形にはよく「ゆがみ」が見られるが、これは何物にも限定されない自由形への愛であって、強いてゆがめたのではない。必然さを離れてのゆがみではない。それ故後年わざわざゆがめて茶器を作るに至った時、即ち造作的に完全を否定しようとした時、「茶美」はその本来の面目を失い始めたと評してよい。私の考えでは「茶美」の正格は紹鴎頃で終り、利休に至って茶がいよいよ幾つかの定式に限定されるに及び、その堕落の歴史が始ったのである。「茶」に執すればかえって自在の茶を失う。真の茶には「茶未生」の面目がなければならぬ。矛盾する表現だが、真の茶は「茶以前」にあるともいえる。「茶以後」わざわざ奇形を追うに至った時尋常の美は消え、無事を離れ造作に落ちた。これでは「茶」の生命は終る。近時西洋の陶工たちは「自由形」(フリーフォーム)を追うに急だが、これは「茶」以後の弊をいたずらに繰返しているに過ぎまい。そんなものに真の自由はあるまい。「日本の眼」が見つめたのは、何所どこまでも「無事の美」である。かかる美鑑賞は海外にその例を見ぬ。近代の西洋藝術はとかく「有事」に執し異常に走る傾きが見えるのではないか。それ故心に決定が乏しく、何か苦しく痛ましいのである。とかく美が健全でなく病的にまた変態に流れる所以ゆえんである。


 ここで一言茶器の性格に触れたい。茶器は前述の如く、ゆがみやきずを嫌うどころか、進んでそこに美を見つめ、ここにかえって美の自由を感じた。近世西洋で破形(デフォメーション)の美が意識的に考えられ、近代美術はほとんど凡て何らかの破形を求めるが、実に「茶美」は四百年も前にこの破形の美を求めていたのである。疵にも進んで美を見つめた「日本の眼」は類例がそれ以前の歴史にない。
 人も知る通り、これが度を過しては常態を去って、かえって本来の意味にもとる。茶人はある場合、わざわざ器物をこわして、これを継いで楽しんだというが、それは過ぎた行いであろう。もっともこの見方の裏には並々ならぬ眼が働いてはいるが、一面「茶」の見方の弊害は著しく、大いに警戒されてよい。しかし破形美を最も早く、また深く鑑賞したのも茶人たちであって、その創見や洞察は尊敬されてよい。この伝統が「日本の眼」には潜んでいるのである。長い歳月の訓練で日本人の心の中にみ込んでいるのである。それは「自在美」への鋭い鑑賞を意味する。破形は限定を打破しようとする自由への求めである。
 私は多くの知友を持つが、大体日本人ほど眼の早く働く国民はないと思われる。随分若い人たちにも、適確な眼の持主を見出す事がある。かつてリーチは私にこういった。「日本の道具屋でよい品物を見付けたら、即座に買う必要がある。明日行けばもうないから」。これは日本人の「見る眼」が、とても早く鋭いのに驚いている言葉なのである。成程なるほど、英国人だったら、よくよく吟味して何度か通った上で買入れる。これにもよい所があるが、「日本の眼」の早さは世界の人が認める所である。合理に欠ける日本人は、直観で暮しを補っているのかも知れぬ。
 ここで一応眼力とは何かを語っておこう。誰だとて物を見ているが、見方がいろいろなので、眼に映るものも同じではない。何がそのうちの正しい見方か。結局は純に見るという事に尽きるが、多くの人は見方に純度が乏しい。即ち見るのではなく、考えに支配されて見る場合が多い。「見る」ほかに「知る」力が加わって見るのである。
 有名だからよいと思って見たり、評判に引きずられて見たり、主義主張から見たり、自分の小さな経験を基にして見たり、なかなか純には見ぬ。純に見る事を「直観する」というが、直観はその文字が示す通り、見る眼と見られる物との間に仲介場を置かず、じかに見る事、直ちに見る事であるが、この簡単なことがなかなか出来ぬ。多くは色眼鏡をかけて見てしまう。あるいは概念の物指を出して計ったりする。ただ見ればよいのに、いろいろの考えを持出して見る。そうなるとじかには見ぬから、ものそのものは見えぬ。色眼鏡を通すから本来の色が見えぬ。眼と物との間に介在するものが在る。これでは直観にならぬ。直観は即今に見ることである。昨日見たなどというものは、もう直接でなく、間接なものに去ってしまう。今直ちに見る以外に直観はない。何ものも介在させず直下に見るのだから、これを簡単に「ただ見る」といってもよい。ただ見るのが直観の働きである。禅的にいえば、「空手にして受取る」といってもよい。
 この消息を形として眺めれば、見る眼と見られる物とが一つになる事だといってもよい。見る眼が見られる物に即するといってもよい。だから見るより前に知を働かす人は、決して見ているとはいえぬ。それは知の範囲だけより見えず、これでは全き認識とはならぬ。知的理解と直観とは大いに異る。
 また直観には時間がない。「直ちに」であるから、ためらいがない。速刻なのである。直観に躊躇ちゅうちょはないから疑惑が起らぬ。だから信念を伴う。見る事と信ずる事とは甚だ近い。
 かくの如く物を直下に見る事において、日本人は特に優れた素質があろう。これは先に述べたように、主として茶道による国民の教養ともいえる。国民は各々歴史的地理的環境によって、その特質を持つものである。印度の「智」、支那の「行」、日本の「眼」は東洋の三大輝きである。だから印度人は思索にたけ、支那人は実行に優れ、日本人は鑑賞にたける。西洋では、日本に近いのはフランス、支那に近いのはユダヤ、印度に近いのは独乙ドイツであろうか。ただ独乙の智はむしろ哲学の面であって、宗教の面ではない。
 もとより色々内に矛盾はあるとしても、日本人の日常生活ほど選ばれた器物で暮している国民は他にないかと思える。何かの趣味が裏にあるのである。もとより浅いもの、間違ったものもあるわけだが、ともかくある標準を立てて選択する。それが「渋い」というような平易な言葉で、国民に行き渡っているのである。この簡単な言葉がどんなに日本人を安全にある高さ深さの美に導いているか分らぬ。ともかく選択に標準語を国民全体が持つとは如何に驚くべき事か。これは茶道の大なる功績と讃えてよい。どんな派手好みの人でも、渋好みの方が一段上だという反省はあるのである。そうして歳を取ったら、やがて自分も渋好みに落着くだろうと予想している。近頃の新しがり屋の人たちは渋さなど古くさい美だとして、新時代にはそぐわぬというかも知れぬが、それは渋さに自分たちがそぐわぬためで、渋さそのものの浅さではない。
 渋さは新旧の二元の中に迷っているのではない。そこには時間を越えた、常に新鮮な「まこと」が潜んでいるのである。深く禅意を内に宿すものといってよい。臨済禅師の理念であった「無事」の美があるのである。それは本来造作された美ではないから、うつり変りの流行には流されぬ。実に「日本の眼」はかかる伝統を深く背後に持つものであって、西洋にかかる伝統は見られぬ。「無事の美」こそ、将来の文化に新しいものを寄与する内容があろう。西洋で欠けているものを、充分充たす力があるからである。日本人は自主的にこの「眼」を大いに輝かすべきではないか。ちなみにいう。渋いという如き、美への標準語を持っている国民は東洋にも他にはない。この点で、支那も朝鮮も美の鑑賞には立ち遅れている。二つの先輩国の真の美を味識するのは、かえって日本人だと思えてならぬ。朝鮮藝術を熱心に勉強し、これを尊敬したのは不思議にも朝鮮人ではなく、実に日本人であった。これは「日本の眼」の働きなのである。その意味で、美術館の如きはもっと自主的に「日本の眼」を輝かせてよい。「西洋の眼」を借りずとも充分独自の仕事が果せる。すべからく「日本の眼」でその内容を整理すべきである。これを成せば「世界の眼」が瞠目どうもくしてこれを眺めるであろう。
 小さいながら民藝館はこの使命を感じて、遠慮なく「日本の眼」を働かせているのである。西洋の追従などはせぬ。「現代の眼」などには迷わされぬ。そのせいか民藝館に外人の客は絶えぬ。かえって「永却の眼」に「日本の眼」を高め深めたい。それは不可能ではない。「日本の眼」は思いつきや流行を追う要はない。深く仏法に根ざして、「まこと」への直観を示していると信じる。私は事情が許せばいつか「日本の眼」で整理した美術館を欧米に建ててみたい。「日本の眼」を輝かす事は、日本の文化史的使命の一つだという自覚を持たないわけにゆかぬ。


 私は「奇数の美」への理解に「日本の眼」の洞察を見たが、更に一つの「無地の美」に関する見方をここに書き添えておきたい。西洋では「無地の美」を味い尊ぶ習慣が少い。例えば焼物を例にとると、西洋のは大部分が模様入りで、しかも多彩で、その模様がかえって主役を勤める。しかるに「日本の眼」が追ったものは多くの場合無地であり、また無地に美の帰趨を感じた。
 これは遠く仏教の空観や「無」の思想に由来する。無地への鑑賞は最も単純なものであるが、同時に最も高度の鑑賞だといえよう。この無地への関心は、茶道が進むにつれて広く行き渡った。「わび」、「さび」、「渋み」は畢竟ひっきょう無地への追求ともいえる。誰でも気付くように無地ものの焼物を最も多く焼いたのは朝鮮であるが、これは日本のように茶禅の教養に依ったのではなく、その歴史や自然に由来する。ただ一色の白磁や黒釉の品が大変に多い。朝鮮では赤絵の発達は全くない。命数的に色彩の世界からは離れた。だから染物がない。国民は誰も白衣をまとう。活花を楽しむ事もなく玩具さえ甚だ乏しい。しかし無地を単なる色彩の否定と受取るのは浅い。それは「有」を否定する「無」ではなく、かえって無限の「有」を包含する「無」と見ねばならない。能楽に見られる「静中の動」「動中の静」と同じである。これ以上の「富」のない「清貧」とも同じである。「空即是色」の教えの具象的の現れといってもよい。焼物を日本人はいたく愛するが、無釉またはこれに近い焼物を熱愛する習慣は西洋には見られぬ。※(「怨」の「心」に代えて「皿」、第3水準1-88-72)ちゃわんを愛する人は習慣的にすぐ裏返して高台を見るが、そこは多く無釉で地肌があらわれている荒々しい部分である。ここに無量の味を追った。「かいらぎ」など鑑賞するのはそのためである。こんな見方は、西洋では見られぬ。「茶」の方では美の理念として「麁相そそう」を説き、「閑味」を云々する。「麁」は粗で、荒々しいすがたである。ある意味では味もつやもないその個所に、あふれる味わいを見つめた。ここに「日本の眼」の鋭さがあり、深さがあろう。「備前」、「伊賀」等を茶人がことほか高く評価するのは、そこに「麁相の美」を見つめるからである。それは素裸の焼物である。釉味や釉艶も何もない外来の「南蛮」を尊んだのも「日本の眼」の働きである。西洋の焼物ではベラミンにこの美しさがある。面白い事にこのベラミンは既に二百年も前から日本で大に賞美せられた。
 かかる無地裸地の焼物を深く見詰めるのは「日本の眼」の一つの特徴といえる。これは決して特殊の見方ではなく、其処に本質的な見方が宿る。いつかこの事は西欧の美学者も納得するであろう。「無味即真味」とでもいおうか。禅語に「非風流是也風流」という言葉がある。無地にかえって無限のあやを見るのである。無地にはただ何もないというのではない。ここに無地ものに対する私の物偈ぶつげ三句を添える
文ナキ     文ヱガケ   文アリテ
 文ゾ      文ナキ    文ナキ
  之ゾ文ナル。  マデニ。   之ナン文。
 文は「あや」と読む。紋様である。模様を描く場合「無地の心」を忘れてはならぬ。文であって文がないまでに徹せねばならない。文があって文がなくなる時に本当の文が生れる。「無」を忘れて「有」に滞っては「有」を深いものにせぬ。
 茶器に「唐津」などが尊ばれるのは、模様の簡素にかれるのである。そこに無地の心を読むからである。この意味で「仁清にんせい」の色もの、模様入の茶※(「怨」の「心」に代えて「皿」、第3水準1-88-72)の如きは、「茶」から一歩も二歩も後退したものといってよい。茶人は「刷毛目はけめ」を愛し、そこに無量の味いを見た。「刷毛目」はいわば「無地模様」とでも名付けようか。白土一色を刷毛で無造作に引くが、その刷毛跡が何よりおのずからの模様で、模様ならざる模様なのである。また「耀変ようへん」なるものを尊んだが、これまた「無地紋」とでもいおうか。無地のままで、無限のあやなのである。「楽焼」の如きはこの美しさを意識的に追った茶器である。「※(「怨」の「心」に代えて「皿」、第3水準1-88-72)らくわん」は誰も知る通り、大部分が無地※(「怨」の「心」に代えて「皿」、第3水準1-88-72)であるが、釉薬でこれに限りない文を与えた。茶※(「怨」の「心」に代えて「皿」、第3水準1-88-72)の王者「井戸」に紋様はない。しかし、ただないのではなく、くすりむらや、轆轤ろくろや、地肌にあふれる文があった。
「日本の眼」が深く見つめた茶器類が、原則として皆無地ものなのは注意されてよい。かかる「無」の美を東洋は大いに輝かすべきである。将来西洋はここから多大のものを受取るであろう。「無」の一字を嫌うなら、平凡にこれを「簡素」といいかえてもよい。これを宗教的に清貧の徳になぞらえてもよい。この貧にもまさる富はない。「無地の美」とはかかる「貧の美」を指すのである。「麁相」とか「閑味」とか凡て貧の美を形容した言葉であった。
 何も西洋の焼物の模様性をけなすのではない。それはそれで素晴らしいものがあるが、しかし「日本の眼」が見ればその模様の中で際立って美しいものは、やはりその奥に簡素の性質があるのである。「無」の要素が奥にひそむ時、更に美しさが深まるのである。ただにぎやかな模様では浅い。それでどれだけ「無」の要素を内に宿すかで模様の上下はきまろう。無地は常に美の最も奥深い理念なのである。「日本の眼」は西洋に「無の美」を贈物にすべきである。無地の美学が背負う使命は大きい。奇数の美学と共に「日本の眼」が見届けている美の奥底である。何時か西洋人も無量の、また新鮮な真理をここに見出すであろう。私は「日本の眼」を輝かす事に日本人としての誇りと使命とを感じる。お互に日本人としての仕事にいそしもうではないか。
(一九五七年)
[#改訂]

後記


 出版者から『民藝四十年』という本を編んでくれといわれた。いわれてみると、なるほど半世紀近くになる。振り返って、「はるけくも来つる哉」という想いがないでもない。また一方、「民藝」という言葉を使い初めたのは、つい先日の事のようにも思われる。最初は方々で、馬鹿にもされ、非難もされたものである。どうせじきに亡びる見方だといわれていた。しかし信念の仕事であったから、それらの批評に動じる事はなかったが、どんな仕事でも開拓的なものに風当りは強い。しかしいつしか動きは広まり、ついに「民藝」という文字は辞書にも現れるに至った。今では民藝協会も日本全国で二十カ所に支部が設けられ、民藝館も合せて四カ所に建設せられた。いずれその数は増すであろう。海外での名声も高くなってきたが、どの道どこの国でもこの動きは起るに違いない。国民の保有する固有の美を示すものであるから。それに民族の生活から生れ出たものであるから。
 ただ、私どもが困ったのは、外の敵ではなくしてむしろ内の敵で、下手げてもの趣味などという臭いが現れたり、安価な物指で民藝を形から追う者が出たりする事であった。今ではそれを正道に引き戻す事がなかなかの一仕事でさえある。
 今まで世界にもいろいろの工藝運動はあるが、民藝運動の一つの特色は、ある意味で精神運動でもあって、この事はやがて一つの著しい旗色ともなるであろう。また有難い事に吾々のこの動きは、友愛の賜物で、考えると吾々ほどよい僚友を持っている仲間はあるまい。別にギルドの如き形をとっているわけではないが、そういう形式以上のつながりが、お互の心にあるのは何とも感謝すべき事のように思う。
 もともとこの運動は、単純な直観に発足しているのであるが、この基礎こそ吾々に不動の信念を与えているのであって、理論的主張の動きではない。吾々はむしろ民藝論に囚われる事を誡めているのである。直観の自由に立つ限り、動きは生命を失わぬであろう。
 この本は、私が過去四十年の間に書いた一聯の論編を、時代順に発展の跡を追って編輯されたものである。凡ては民藝館の浅川園絵さんの注意深い編輯によった。同姉はかつて私の年譜を編纂した経験があり、おそらく誰よりも私の著述に詳しい。私はこの出版の申込みを受けて間もなく中風ちゅうぶに倒れて入院し、年余の横臥生活を送っている。そのため本文の取捨や順次、のみならず挿絵の世話、校正その他凡ての事務一切を浅川さんの配慮にゆだねた。それ故同姉がいなかったら、決して上梓じょうしの運びには至らなかったであろう。心から謝する次第である。かつ、僚友の田中豊太郎君から序文を得、芹沢※(「金+圭」、第3水準1-93-14)介君から装幀の創案を受けた。また製版はいつもの如く西鳥羽恭治君の技によった。重々の感謝である。
昭和卅三年六月
病床にて
柳宗悦





底本:「民藝四十年」岩波文庫、岩波書店
   1984(昭和59)年11月16日第1刷発行
   2011(平成23)年3月4日第29刷発行
底本の親本:「民藝四十年」宝文館
   1958(昭和33)年7月10日
初出:朝鮮の友に贈る書「改造」
   1920(大正9)年6月号
   失われんとする一朝鮮建築のために「改造」
   1922(大正11)年9月号
   木喰上人発見の縁起「山梨日日新聞」
   1925(大正14)年5月31日
   雑器の美「越後タイムス」
   1926(大正15)年9月19日
   工藝の美「大調和」
   1927(昭和2)年4月号
   工藝の協団に関する一提案
   1927(昭和2)年2月3日刊
   大津絵の美とその性質「初期大津絵」工政会
   1929(昭和4)年4月1日刊
   民藝の趣旨
   1933(昭和8)年1月15日刊
   日本民藝館案内
   1947(昭和22)年刊
   琉球の富「工藝 第百号」
   1939(昭和14)年10月
   「喜左衛門井戸」を見る「工藝 第五号」
   1931(昭和6)年5月
   手仕事の国「手仕事の日本」靖文社
   1948(昭和23)年6月5日刊
   美の法門
   1949(昭和24)年3月21日刊
   利休と私「心」
   1950(昭和25)年11月号
   蒐集の弁「世界」
   1954(昭和29)年5月号
   日本の眼「心」
   1957(昭和32)年12月号
   後記「民藝四十年」宝文館
   1958(昭和33)年7月10日刊
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「諸々」と「諸※(二の字点、1-2-22)」の混在は、底本通りです。
※「木喰上人発見の縁起」初出時の表題は「不可思議の因縁上人研究の経路に就て」です。
※「雑器の美」初出時の表題は「下手ものゝ美」です。
※「工藝の協団に関する一提案」底本のテキストは、私版本によります。
※「民藝の趣旨」底本のテキストは、私版本によります。
※「日本民藝館案内」底本のテキストは、私版本によります。
※「美の法門」底本のテキストは、私版本によります。
※田中豊太郎(1895-1977)による「序に代えて」は省きました。
入力:Nana ohbe
校正:仙酔ゑびす
2014年2月14日作成
青空文庫作成ファイル:
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