四十年の回想

『民藝四十年』を読んで

柳宗悦




『民藝四十年』というのは私の著書なので、自分の本を読んでその感想なり、当時の事情なりを書くのはおかしな事だとも思える。病床生活でもしていなければ、こんな閑文を想い立つ機縁はなかったかもしれぬ。しかし今度の私の場合は次の二つの事情のため、さながら他人の著書を読むのと余り変りがなかった。
 この本の出版の交渉を受けてからまもなく私は中風で倒れ、一時は生死の程も分らぬ事情にあった。ところが出版社からは督促を受ける。しかし私自身ではどうする事も出来ない病状にあった。それでこの本は私の書いたものの幾つかを年代を追ってあつめたものだが、それは全く私の著作に詳しい浅川園絵さんの注意深い配慮によって編輯へんしゅうされたものである。それで私の著述ではあっても、一面そうでない所がある。こうして配列されて見ると、なる程こんな順序で自分の仕事や思想が発展したのかと、他人事のように初めて想い返すような次第であった。
 次に、私は滅多めったに自分の旧稿を読まない。それで今度珍しく読み直す機会に恵まれ、自分の踏んできた経路を鳥瞰図ちょうかんず的に見る事が出来て、自分ながらちょっと面白かった。「ああこんな事も書いた事があるか」と今更考えたりした。何しろ三、四十年も前に執筆したものは忘れている部分が多い。この本で見ると私と物との縁もなかなか過去が深く、朝鮮工藝(明治末から大正にかけ)―木喰仏(大正末から昭和初めにかけ)―諸国民藝品(昭和初め頃から今日に及ぶ)―美術館の建設―沖縄訪問―茶の湯の問題―美の問題、こういう順序になった。それにつれ種々の想い出がいてくる。
 朝鮮と縁が出来たのは、私と親しかった妹が嫁いで朝鮮に渡ったので、妹を訪ねがてら旅をした(大正五年)のがもとで、その頃浅川伯教、巧君兄弟がいた事も、朝鮮の品物に私を一層近づける縁になった。その頃から李朝の品々に心をかれて私は度々渡鮮して、なけなしの財布をはたいては種々の品を買い集めた。今でこそ病的なまでに大変な市価を呼んでいる「李朝」ではあるが、その頃は「李朝」などを振り向く人はろくになく、私はつまらぬものを買うとて馬鹿にされたりした。しかし、美しいものは美しく、そんなあざけりとはおかまいなく好きなものを買い集めた。今民藝館にある貴重な李朝の焼物はその初期の蒐集品がかなり多い。物に惹かれて度々渡鮮するうちに二つの事が気になり出した。第一には、当の朝鮮人は私どもの興味を持つ作品にてんで注意を向けないのである。この頃でこそ朝鮮人に蒐集家も現れてきたが、その頃(大正初め頃)は全く皆無であった。しかし半世紀も過ぎたら朝鮮の人たちの中にも目覚める人が出て来よう。それまでのつなぎに朝鮮人に代って美術館を京城に設置しよう。私がこの望みを抱いたのはまだ二十才代のことで、随分無鉄砲な事を企てたものである。しかし熱意はこれを少しずつ準備させ、ついにこの趣旨を大正十年頃公表し、故浅川巧君と力をあわせ、実際に開設したのは大正十三年で、斎藤総督の時代であった。最初に渡鮮してから八年の後であった。館は景福宮内の緝敬堂しゅうけいどうであった。
 しかしこの時朝鮮側から思いもかけぬ反対に出会った。下賤の民が作った品々で朝鮮の美など語られるのは、誠に以て迷惑だというのである。これには全く驚かされた。なるほど、陶工でも何でも朝鮮ではその社会的位置が低く、大概は教養も何もない人たちであった。だから、それらの職人の作に、高い美があろうはずはないとの見解なのである。私からすると、無学文盲の人々ですら、こんな素晴らしく美しい品を生めるのだという点をこそ強調したかったので、「ものは考えようもあるものだ」と不思議に感じたのを、今も忘れる事が出来ぬ。しかし朝鮮人からすれば、同じく私のこの考えこそ「考えようもあるものだ」とおかしく感じたかも知れぬ。しかし美しさをこの眼でじかに見届けての上での仕事であったから、迷う事なく少しずつ蒐集をふやして行った。何しろ当時収入の何もない大学出の若い人間が集めるのであるから、高価なものなど手に入れる望みはない。しかし有難い事に、安い品の中に充分美しいものがまだ種々あって、有難い時代であった。
 さて、第二に気になった事は、朝鮮在住の日本人の中には、朝鮮人と違って蒐集家がなかなか多かった。大いに自慢の蒐集もあって、中には名実とも立派な蔵品があった。ただしその多くは私の心を惹いた品々とは性質が大変違っていた。しかしよく見ていると、それらの蒐集家は朝鮮の品々が好きではあるのだが、それを通して朝鮮の心を理解しようとするのでもなく、まして朝鮮人のために尽そうとするのでもなく、ただ自分の蒐集欲や知識欲を満足させているのに過ぎない事が判り、これが私を憤慨させた。結局それらの人々のはただ利己的蒐集で、朝鮮に対しては何も尽さず、少しも報恩の志がないのである。その頃は万歳事件のあとで、朝鮮人は極度に弾圧され、全体からすれば朝鮮文化の破壊が遠慮なく行われていた時期であった。それで私は義憤を感じて、朝鮮人の味方として立とうと意を決した。それがまた朝鮮の品物から受ける恩義にむくいる所以とも考えられた。品物だけを愛し、その生みの親たる民族を尊敬しないのは不合理だと思えた。それで折があるごとに、文書によって、私は朝鮮への敬念や同情を披瀝ひれきした。本書に載っている「朝鮮の友に贈る書」および「失われんとする一朝鮮建築のために」はその頃の執筆なのである。しかし私はそのおかげで渡鮮する毎に警察から尾行される危険人物にされてしまった。しかし雑誌『改造』に寄せた「光化門」(本書所載)に関する一文は、意外にもたちまちに反響を呼び、東京の英字新聞には直ちに英訳が掲載され、京城の『東亜日報』(朝鮮語新聞)には諺文おんもんに依る翻訳が出た。もっとも原文は大変な伏字であって、雑誌社も公表をはばかったらしい。しかし総督府もついに黙殺出来なくなったのか、後年役人が私に次のように述懐した。「君の一文のおかげで総督府は二十万円の出費をさせられた」というのである。取壊しを止めて他に移したので、その移転費の事であった。私の文章が公的に役立ったのは一生涯のうちに二度あるが、これが最初であった。今考えると若い時の情熱を尊いものに思える。今だに私は時々朝鮮の人たちから感謝の手紙をもらう。過日北鮮から放送で、私を朝鮮人として、在京(東京)朝鮮文化人の一人に挙げていたそうである。もっともこれは「柳宗悦」という私の名前が、全く朝鮮名とより想われない所からも来ている。ついでだからちょっと面白い話を書き添えて置こう。かつて私は京城で、講演を頼まれて話をした事がある。私は朝鮮語が出来ないから、もとより日本語で話をした。ところが聴衆の一人が「何て日本語のうまい朝鮮人だろう」といったそうである。私の名前は支那でもそのまま通り、朝鮮でも純朝鮮名で通用する。「柳宗元」などは知れ渡った古い名である。
 さて、余談になったが、右の二つの理由に基づいて私は前述の如く「朝鮮民族美術館」を京城の緝敬堂内に設けたり、文筆を通して朝鮮の味方になろうとしたりした。当時は私の二十代から三十代にかけての事ゆえまだ若く、今から見ると文章も考えも未熟な点が目につき恥かしく思う点がないでもないが、大いに熱意を込めて仕事をした事は、今省みても感心だったと思える。かく朝鮮の器物を好きになったのは、私にとっては種々生涯の方向を定める事にもなり、うたた感慨が深い。もっとも朝鮮の品を初めて買ったのは明治の末頃で、私が未だ学生の頃であった。神田の通りを歩いていて、硝子ガラス越しに一個の壺を内に見つけた。当時は何ものともよく判らなかったが、何か心を惹かれ、大枚三円で買い入れた。学生にとって当時の三円は決して安い額ではなかった。それは牡丹紋の壺で、半面は紋様が流れてしまってほとんど消えているが、半面の染付味がとてもよく、これを手にして悦んで抱えて帰ったのを今も覚えている。この記念すべき最初の一個は後年浜田庄司に贈った。きっと今も益子ましこの浜田の家に残っている事と思う。
 明治四十四年ロダンの彫刻が『白樺』に届き、その一個を私があずかっていたのを見に来たのが浅川伯教君(当時彫刻家を志していた)で、その時六面取りの秋草手の壺を土産にくれた。今も民藝館に大切に保存している。それから大正五年初めて渡鮮し、釜山に上陸するなり、いきなり見つけたのが『民藝四十年』の挿絵第四の鉄絵壺で、これらがきっかけで朝鮮李朝の陶磁に近づいたのである。その当時の京城の道具屋のことを書くと面白いが、他日に譲ろう。神田流逸荘で、日本で最初の李朝陶磁展を催したのは大正十年である。当時バーナード・リーチや富本憲吉との交友も、私をして焼物に一層親しさを増さしめたのである。後で聞いたが、河井寛次郎もその会を観に来たそうである。『白樺』で李朝号を出したのは、翌大正十一年で、おそらく李朝陶磁に関する世界最初の出版物であったろう。
 さて、朝鮮の事が一段落ついた時、大正十三年正月、これも朝鮮の器物を見たい一心で、甲府に小宮山清三氏を浅川巧君と二人で訪ねた。その時偶然に見たのが木喰仏で私は考えた事もない表現の彫刻に出会ったのである。(これは地蔵菩薩で後に小宮山氏より贈られ今は民藝館に保管されている)これが縁で急に木喰上人研究に熱情を傾け、その足跡を追って日本全国を旅する身になった。この顛末てんまつは「木喰仏発見の縁起」に記してある。私は先人の研究が何もないため、この大仕事に丸三年の歳月を費した。この研究を読んだある人から「君は博士論文の準備をしているのか」等といわれた。
 しかしこれも縁といおうか、日本全国を調査した事は、同時に各地の手仕事を目撃するきっかけにもなった。つまり各地への旅行は、現状の日本の手仕事を知るよい機会を恵んでくれたのである。もっともこれに専ら注意を向けて、本格的に調べ出したのは昭和六年以降なのである。その厖大ぼうだいな蒐集や展観は松坂屋の服部氏や高島屋の川勝氏等の経済的応援があったためで、今も想い出して感謝している。また山形県新庄にあった積雪地方経済研究所長の山口弘道氏の協力は私たちと東北とを接近させた。
 しかしその頃から、工藝の美に関する事柄が絶えず脳裡を往来し、工藝問題の重要性を考え、漸次工藝美論を組立てるに至った。その考えは今までの世間の美論とは大いに異る所があるので一度世に問いたいとの考えを心に持ち始めた。この本(民藝四十年)に序文を書いてくれた田中豊太郎君とはその頃からの知り合いである。関東大震災に被害を受けて京都に移ったのは大正十三年であった。たまたま浜田が英国から帰朝し、河井とも初めて識った。ところが河井から京都の朝市の事を聞き、早朝の市日を熱心にあさった。商人がの目たかの目であさった後に吾々のような素人が行くのである。良い品はないはずなのだが、見処が違うおかげで、その目こぼしの中から種々の佳品が現れ始めた。その市場の婆さんたちに「檀那だんなたちは『下手げてもの』が好きだねえ」等といわれて、初めて「下手もの」という俗語を教わり、その語感が面白く、「お婆さん今日は『下手もの』はないかい」等とこちらから聞くようになった。私が『越後タイムス』に吉田正太郎君の仲介で「下手ものゝ美」(後に「雑器の美」と改題し本書にも掲載)と題しこれを発表したのが大正十五年の秋であった。しかし「下手もの」なる言葉は俗語だし、語音の調子が面白いせいか、この言葉は忽ち伝播でんぱし「下手もの好き」とか、「下手趣味」とかいう表現まで生れ、ついには公に「下手もの展」などを開く骨董商こっとうしょうが現れ始めた。これに伴って見当はずれの見方も漸次多くなり、誤解を招きやすいこの言葉を避ける方がよいと思われ、大正十五年正月のこと※(二の字点、1-2-22)たまたま河井や浜田と高野山に旅した時、一夜宿房(西禅院)で何か適当な言葉はないものかと話し合いついに「民藝」という言葉を生み出した。元来は「民衆的工藝品」の意味であった。民衆品は貴族品に対し、工藝品は美術品に対する言葉なので、心持は「民間で用いられる日常品」、つまり広義の雑器の意なのである。
 ところがこの言葉を用い初めると、すぐ反対も起った。当時は「雑器」に美があるなどという事は気違い沙汰にも思われたし「実用」と美とを関連させる事さえ美への冒涜ぼうとくだと思われた時期であった。そうして世間では、職人に何の美が生めるのだといった調子であった。それ故「亡びゆく民藝派」等と小山冨士夫君から揶揄やゆされたものである。吾々が企てた民藝展の最初は昭和二年東京の鳩居堂で開いた会であるが、しかし時代を見る事の早くさとい山中定次郎翁は民藝品の骨董としての将来性を見てとってか、日本第一の骨董商たる山中商会が「民藝展」と銘打って厖大な会を早くも昭和五年東京および大阪で開催するに至り、「民藝」という新語は大いに世に紹介された。私は山中翁から請われてこの会の目録の序文を寄せた。この新語を最初に辞書に載せたのは新村出しんむらいずる博士の『辞苑』であった。
 さて、民藝の美の本性に関する私の探求は、漸次まとまって、これを「工藝の道」と題して雑誌『大調和』に昭和二年四月号より連載し、翌年これを一冊にまとめ、単行本として「ぐろりあそさえて」から出版された。特にこの本の第一章は本書にも転載されているが、私自身にとっては一時期を画する論篇で、そのある節は河井の家で幾晩か読んで聞いて貰った想い出がある。この『工藝の道』は河井、浜田等との親交に負う所が大きいが、またこの本を通し、幾人かの親友をも新しく得た。外村吉之介君はそれを当時キリスト教青年会での集会のテキストにしたそうだし、また芹沢※(「金+圭」、第3水準1-93-14)介君もこの本に依っていよいよ工藝の一道を歩く事を決意したと友人に話していたそうである。安川慶一君との交友もこの本が媒介であったのを後に知った。またその頃初めて外村、芹沢両君から訪問を受けた。今度久々にこの論稿を読み返してみて、この『工藝の道』に私の現在の考えの基礎があるのを感じた。今から想えば多少改めるべき個所がないでもないが、大体の構想は今も正しいと信じる。その后工藝問題について多少よく整理されていると思われる三つの著書を試みた。一つは『工藝文化』でこれは推薦図書になった。次は、『手仕事の日本』でこれは一般の人々に今も役立っているかと思う。もっともこの本を書く前に『現代日本民藝』と題した厖大な著述を五カ年かかって書き上げたが、不幸戦災に会って灰燼に帰してしまった。これは自分としてははなはだ残念であった。最も努力した本だったのと、日本の手仕事の各部門の学問的記述もおこたらなかったので。小さな本としては『日本の民藝』と題したものと『工藝』と題した創元叢書が自分では気に入っている。
 昭和二年私はただに理論ばかりでなく、実際に仕事を始めようと志し「工藝の協団に関する一提案」という一文をつづり謄写印刷に付し、十部ほどを知友に配った。(これを公に印刷に付したのは本書が初めてである)そうして京都上加茂の社家の家を一軒借りて仕事を始めた。青田五良兄弟(織と金工)や黒田辰秋(木工)鈴木実等が集って寝食を共にし仕事にいそしんだ。有難い事に夢は着々と実現し、一、二年のうちには展示会を催すまでに成果を挙げた。仕事は順風に帆をあげたが、しかしこういう協団に必要な道徳的基礎に疾患が現れ始め、昭和四年私の外遊中についに崩壊してしまった。今でも惜しい気がするが、協団に対するよい教訓を受けた。
 もっともこの工藝協団は消えたが、しかし私は工藝作家の友達にはいたく恵まれ、今の民藝協会のように一流の作家の多数を擁する団体は他に決してないまでに至った。そうして相互の理解と尊敬と協力とが一切の仕事を護持しているのを感じる。こういうことは個人意識の強い今の西洋では到底不可能な事だといわれている。作家同志の嫉妬しっと心が強くて折合いがうまくゆかぬという。考えると民藝館の成立も、雑誌『工藝』の実現も、一切私なき友情の賜物たまものでないものはなく、報酬を求める行為からは決して生れて来ない出来事で、私はいつも友達に恵まれている私の幸福な経歴に感謝しない時はない。
 さて、吾々の心を惹く工藝品が世間のそれと著しく異る事が気づかれるにつれ、雑誌を単独に出そうという気運がおのずから起り、これが実現されて雑誌『工藝』となったのである。この『工藝』は昭和六年正月から出発した。どうせ二、三号でつぶれるだろうという評判であったが、爾来無事に育ち、類のない月刊誌に熟し、ついに百二十号まで出すに至った。その間戦争の影響で困難になり、月刊の歩調がくずれたりしたが、ともかく終戦後昭和廿六年まで続けることが出来た。この雑誌は幸いよい助手を得た事にもよるが、思う存分のことをした。雑誌でありながら、毎号布表装にしたり、本文の用紙を純和紙にしたり、活字を十二ポイントにしたり、挿絵を豊富に入れたり、全く他の追従を許さぬ雑誌に育て上げた。今でも古本として雑誌では最高値を呼んでいる由で、近頃外国の図書館でもこの価値を知って、全巻揃いを蔵置する所が多くなった。揃いで古本屋の今の相場は八万円ほどの由、先日耳にした。
 この『工藝』の表紙中特筆すべきは鈴木繁男の手描きによる漆絵で、その例を本書に掲げてある。何しろ雑誌の表紙を一枚一枚手描きした例は余り多くはあるまい。当時の発行部数は約八百で、会員にけ市販はほとんどしなかった。私はこの仕事に約二十年間従事した事になるが、編輯者としての収入は一文もなかった。私が金をとったら成り立たなかったからである。凡ては友人の協力的好意の賜物であった。この事も珍しい出来事であろう。芹沢君は布装幀のほかに一カ年分を入れるちつをも作ってくれた。
 さて、私の生涯での次の出来事は沖縄への渡島であった。出発前に既に経験のある浜田に種々事情を聞いたが、蒐集にはもう時期が遅れ余り期待は出来まいとの話であった。私もそうに違いないと思っていたのである。(この渡島は当時教育部長の山口泉氏の招きによる)これは昭和十三年の暮であった。ところが見るもの聞くもの何もかも新しく、特に驚いたのは夕方から那覇で必ず立つ古着市で、実にすばらしく、大したものばかり並んでいるではないか。私は夢中になって古着を買い漁った。多くは一着三円前後で、五円を出るものは稀であった。今から思うとよくもこの「黄金時代」に廻り会ったものである。しかし更に二、三十年も前だったらそれこそ「金剛時代」であったであろう。私は財布の空になるのも忘れて買い漁った。そうしてついに、山口氏に頼んで三百円を借金して更に買い続けた。今民藝館に所蔵のものの大半はこの第一回沖縄訪問の収穫である。
 私は沖縄への驚きは止まず、次には同志を集めて大挙して出かけた。外村も浜田も河井も芹沢も棟方むなかたも鈴木も、皆一緒であった。これは織物、染物、焼物、漆器等の事情を知るのに大いに役立った。一軒共同して家を借りて滞在し、沖縄に熱を挙げた。田中俊雄君もこの時初めて吾々の仲間に加わり、後年『沖縄織物裂地の研究』という本を出版した。渡島の折はいつも特に喜久山添采きくやまてんさい氏一家のお世話になった。また当時島の王様のような尚順しょうじゅん男爵の存命中で、その知遇をも受けた。
 さて、民藝協会員一同が滞島中突発した出来事は「方言問題」であって、吾々は当局が沖縄方言を弾圧する事に公然と反対したのである。県当局としてみれば、標準語奨励の最中に方言の価値等を云々されては迷惑したのも無理はない。しかし私どもは沖縄語の価値(日本の古語を多く保有している点、および方言使用の自由や必然さについて)への信念をげるわけにゆかず、公開状を出すに及んで、波紋は拡がり、ついに県当局と対立するに至った。この事は当時『月刊民藝』に沖縄方言問題特輯号を出したので凡てそれに譲るが、その結果吾々の渡島は県当局から歓迎されなくなった。不思議なことに沖縄人自身の中からも方言反対者が出たのには驚いたが、これは県の教育方針で、方言を卑下する風潮がみ込んでいる証拠でもあり、かかる卑下が如何に無用であるかを、私どもは力説したのである。しかし味方も同時に方々から現れ始めた。しかしこの方言論争が因をなして、私は拘引され、検事局で訊問を受けた。その時の知事は淵上氏であり、警察部長は山内隆一氏であった。いずれも私を敵の如く扱った。不愉快でもあったがしかし面白い事もあった。私を担当した最初の検事は野村という方で、私の沖縄に関する論稿に感心して、私に感謝しているといわれたので、不思議な好意のある訊問であった。それでも反対論もあったと見えて、東京の留守宅まで刑事が来て調べられる始末であった。そうして罪条は高い丘から首里郊外の写真を撮った事に集中し、坂本万七君は気の毒にも写真機を没収され、私は起訴猶予とかでけりがついたが、この方言問題は内地に飛火して中央の問題となり、これには県当局も大いに困った由である。そうして私個人を非難する県当局の公開状まで出るさわぎになったが、その頃私どもが企画し撮画した映画『沖縄の風物』二種は、当時東京で推薦映画としてベストテンの内に入ったのは皮肉な事であった。それも文部省の推薦であった。
 しかしこの事件は私どもと沖縄人との結びを深め、当時どんなに多くの人々から感謝されたか分らぬ。私の文筆が公的意義を持つに至ったのはこれが実に第二回目となった。(第一回目は前述の如く「光化門について」)そうして昭和卅二年(即ち沖縄に渡島してから約二十カ年の後)沖縄タイムス社から往時を追懐してか、公に沖縄文化への貢献者として感謝状を贈られるに至った。ともかく私事は別として、今民藝館に所蔵してある沖縄の品々は、永く島民の名誉を護持するであろう。もっともこの蒐集も一部の沖縄人から非難された。島の宝を島外に持ち出すというのである。しかし私が集めるより以前に、目前に身近に山ほどもあったこれらの品々を、島民は誰も省みず、保存し保護しなかったので、私どもが代って集めたに過ぎない。しかし何時か感謝される日のある事を信じて、私どもはその後も蒐集の折を逃さなかった。そうして今日ではようやく理解され、多くの沖縄の人から感謝されるに至った。特に戦禍が激しく、多くの富を失った沖縄の人々には、館の蔵品は何かにつけて今後役に立つであろう。私どもはこれらの品々を通して沖縄の文化を説く事を怠らなかった。「琉球の富」と題した本書所載の一文は『工藝』第百号沖縄記念号のために書いたのである。
 さて、次に話は少しく前に戻り、日本民藝館の設立について語らねばならない。私の蒐集は漸次その数を増し、その内容が在来の蒐集家のものとは大いに違うので、自分の蒐集品の存在価値を感じ出し、私蔵するより公開したい考えをつよめ、私は永い間これらの品々を展示する美術館の設立を夢みた。朝鮮でささやかながら小美術館を実現したが、私は第二のものの実現を夢に描いた。
 しかし美術館となると実際はそう簡単には行かない。建物も要るし地所も要る。備品什器じゅうきその他運営上の費用一切等々。一個人の学究には負い切れぬ多額の費用と煩瑣はんさな事務、考えると躊躇ちゅうちょすべき事のみ多く、なかなか実現されそうになかった。それで私の著書『日本民藝館』にも記しておいたが、当時新築中の帝国博物館に、吾々の蒐集品の一切を無償で寄付する考えを立て、時の館長に申入れたが、当時は民藝品などに理解があるどころか、むしろ専門家から馬鹿にされていた時期とて、結局私どもの申入れは価値のないものとして受入れられなかった。今だったら大変欲しいのではないかと想われるが。
 しかしこの事があって以来吾々は在野で独立して美術館を建てる使命を強く反省するに至って、機の熟するのを待った。それは昭和十年の事、山本為三郎氏等の口添えもあって大原孫三郎翁から民藝館建設のため金十万円の寄付を受け、ついに起工し、翌昭和十一年十月に開館するに至り、今日では廿余年の歳月が過ぎた。往時を追懐して大原翁に感謝の念を新たにする。この民藝館の設立は、私の一生のささやかな仕事のうち一番社会への具体的な寄与として、いつか国家もその値打ちを認める日が来よう。しかし今まで何ら国家から保護を受けず、全くの在野の仕事として発展してきたのである。
 私は文字通り日夜美しいものと共に暮し、必然に美とは何か、どういう泉から美が生れるかの問題を、更につきつめて考えるに至った。私は若い頃から宗教に心を傾け、幾冊かの本が未熟なものながら心の遍歴の跡を語っているが、たまたま浄土系の仏教の教義に触れるにつれ、この民衆仏教の教えによって、民藝美の秘密が解けるのを感じ始めた。
 どういう仏縁か、私はたまたま越中城端じょうはなの別院で一夏を送り、一日「無量寿経」をひもといて、そこに記された四十八大願を読み返していた時、はたと第四願に目を留めた。「好醜」の二字があったためである。「好醜」とは「美醜」の事である。この時何か啓示的感激を受けて、急に美思想の扉が開かれた感じであった。その時、一文を認めたのが『美の法門』と題した一篇で、この考えを最初に公開したのは第二回民藝協会全国協議会が京都の相国寺で催された時の講演で、この時話し終るや棟方志功がつかつかと私の所に歩み寄って「先生有難いです」といって涙を流し私に抱きついた事があった。その年私はたまたま還暦に際したので、三百部ほど私版本として小冊子に上梓して知友に届けた(本書所載)。そうして実に十年後に、この考えに徹する事に意を注ぎ、更に『無有好醜の願』と題して、更に別冊の私版本を病中ではあったが上梓した。いわば『美の法門』の姉妹篇ともいえる。
 私は民藝館の仕事をするにつれ、何かにつけて茶事と交渉があり、在野の立場から茶器を改めて眺め、また茶の湯そのものにも注意を払った。しかし顧みると茶の湯ほど功罪相半ばしているものはなく、この茶の道を正しく進めるために、この病いを正す必要を痛感し、「茶の病い」と題した一文を草した。これは私の選集『茶と美』の中にも納めてある。この一文は案外方々から喝采かっさいを博した。しかし家元の封建性の弊を指摘してあるので、家元には都合の悪いものであったに違いない。この一文の掲載された春秋社発行『茶、私の見方』は家元で買〆かいしめたという噂を聞いた。しかしそのためか皮肉にもすぐ再版になった。もっとも私は茶人として立つ考えがなく、自由な在野人でありたいといつも希っているのである。私の「茶」への見方の一部は本書に載った「『喜左衛門井戸』を見る」と「利休と私」の二文でほぼ見当がつくのではないかと思う。考えると名碗「井戸」が元来は雑器だった事を公に明らかにしたのは私が初めてなのかもしれぬ。またその美の他力性を説いたのもおそらく私が初めてであったろうか。しかしこれらの事実は在来の見方からすると大いに分りにくいと見えて、「井戸」は初めから名器として画策された「抹茶碗」に違いないと主張する反対者も今以て絶えぬ。しかしそういう反論は直接物を見ての上ではなく、先入観が邪魔しているので、なかなか真実相が見えないのである。飲茶の習慣のほとんど絶えた李朝期に「抹茶碗」が作られるわけがない。いわんや批評家は朝鮮の窯場の事、作り方の事、作った人たちの事等をまるで知らない所から来る反論なのである。
 ともかく、無銘品の美に関し美の他力道を説いたのは、吾々の独創的な仕事だったかも知れぬ。個人崇拝の強い西洋美学では、この他力的真理は今まで充分述べられていないのである。
 こういう種々の経験を経て、私は「日本の眼」に確信を持つに至り、これを輝かす事が日本人の使命の一つだとはっきり省みるようになった。本書の最後の一文はそれを示しているのである。近頃は日本の美術館ですら「西洋の眼」に追従ばかりしているので、在野の吾々は自由に「日本の眼」を輝かす事に使命を感ずべきだと思われてならぬ。今日まで、未だ「西洋の眼」が充分見ていないものを「日本の眼」で見届ける事が出来る分野は決して少くないと思われる。民藝館は詮ずるにその「日本の眼」を遠慮なく具体的に働かせたものに他ならないのである。
 かくして「民藝」という言葉はいつの間にか広く用いられ、一般用語にすらなったが、言葉はいつも魔物のようなもので、この言葉に囚われてつまずき、本来の意味を誤って、民藝趣味にちたり、民藝嗅味に沈んだりしたものが漸次多くなり、おかしな事だがかかる内敵と闘う必要さえ生じているのが現状である。かくしてお互に警告し合う意味で「改めて民藝について」の一文を草せざるを得なくなった。これは昭和卅三年八月第十一回民藝協会全国大会が青森県で開催されるに際し、その記念号たる『民藝』八月号に寄稿したのである。この一文は多くの人々から悦ばれたが、特に吉田小五郎君は是非この一文を『民藝四十年』の巻末に挿入すべきであったといってくれた。幸い再版の時が来たら、この意見に従いたいと思っている。





底本:「民藝四十年」岩波文庫、岩波書店
   1984(昭和59)年11月16日第1刷発行
   2011(平成23)年3月4日第29刷発行
底本の親本:「柳宗悦全集 第十巻」筑摩書房
   1984(昭和57)年
初出:「民藝」
   1959(昭和34)年5月号
入力:Nana ohbe
校正:仙酔ゑびす
2014年2月14日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




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