茶の改革

柳宗悦




 私は今までの「茶」に、どうもあき足りぬ。宗匠と言われる人々の「茶」でも、その眼力や識見や精神に何か便りなさを感じる。著しい弊害をも是正しようとはしないし、用いる器物でさえ、玉石の見分けがあやしい。「わび」、「さび」などの境地から凡そ離れた茶会の有様を見ると、いつも落胆せざるを得ぬ。
 それに、私のような自由な立場の者からすると、千家に無上の権威を認めるなどは、とてもおかしい。家元であれば、皆大茶人であるとは義理にも云えぬ。それを有難がる本当の理由はどこにあるのか。凡て封建制のかもす不思議さなのである。
「地獄の沙汰も金次第」というが、免許状も金次第では、茶の道が乱れる。中世時代にカトリックの法王庁で「免罪符」を売ったのを、笑うわけにゆかぬ。
「茶」を金銭の濁りから洗う必要があるとすると、今の家元制度に「茶」を任せておくわけにゆかぬ。随分、堕落するところまで堕落したものである。
 只、「茶」そのものには、大した内容があるし、将来世界の文化に寄与する面があると考えられるので、之を何とか正道に戻したい気がしてならぬ。併し、私は嘗って自ら茶人になろうと志したことがなく、従って所謂茶の湯には一向に不慣れな者であるから、陣頭に立って新しい「茶」を指揮するような意向はない。そういうことは、目覚めた茶人自らが為すべきである。
 併し、考えると、今日まで三、四十年も携わってきた私の仕事は、陰に陽に、「茶」と関係が深い。『茶と美』と題した著書をしたくらいであるから、茶の道にはいつも関心が濃い。それで「茶」が堕落してゆくのを見ると、黙してはいられないような気持になる。余りひどい点が多くなってきたので、訂正してよい点は遠慮なく訂正する人が出てこねばならぬ。併し茶世界に浸っている茶人たちには、それがやりにくいと見える。一向に旗色を鮮かに掲げる者が現われぬ。中には不満を抱く茶人も必ずやいるのだろうが、何かに縛られて自由がないのである。それで、真の茶人が出るきっかけを作るために、私の如き者が、何かの試みをするのも意味があろう。只の理論では不十分であるから、之を実行するために茶会を開くに至ったのである。前述の如く、私は茶人でないから、十分な資格が備わっているとは思わないのだが、茶人だと却って出来にくい事情もあろうから、在野の私が幾許かの仕事をするのも無意味ではあるまい。
 それに私は、長年民芸館のために、いろいろの品を集めて来たのである。尤も茶器を目当にしたことは一度もなく、まして在来の型の品を特に重んじて集めた場合はない。併し、考えると、真に美しい品なら、何等かの意味で皆茶器だとも云えるし、将来茶室の構造でも変ったら、茶器の性格や寸法も変るから、集めた中から「茶」に用い得る器物がいろいろと現われよう。それに在来の名器に匹敵し得るものが、決して少くはあるまい。今までの茶人たちは、そんな品は「茶」に使えぬと云い張るかも知れぬが、それは在来の「茶」のみが「茶」だと考える見方に囚えられているに過ぎない。使えないのではなくして、使う力がないのだと評してよい。それに民芸館が集めた品々を、一度自由に使いこなして見たい念願を持つに至った。
 昔の人の考えた標準だと、茶人の一資格として、「唐もの」を所持することが挙げられているが、之をもっと広く名器を持つ意味に取ってよい。併し、珠光、紹鴎、利休、下っては不昧公などは、数々の名器の所有者として讃えられているが、考えると民芸館ほど美しい道具類の多くを集めてはいなかったと思われてならぬ。限りある昔の事情と、便宜の多い今とを比べれば、之は当然で、何も不思議はない。
 尤も、多くの人々は、歴史的な名器を所持しなければ、茶道具を持つとは言えぬと言い張るかも知れぬ。併し、それ等の名器も、始めから歴史的名器であったわけではなく、而もその数は知れたものであるから、むしろ未来の名器をさえ十分持っているなら、その方がさらに重味があろう。どうも公平に見て館の蔵品の方が、内容も種類も数量も、ずっと豊富だと思われてならぬ。今はこのことを認めぬ茶人の方が多いに違いないが、何時か、いとも平凡な真理として迎えられる日が来よう。だから遠慮なく、それ等の新しい材料を使いこなすことで、「茶」の歴史に新しい頁を加え度い。
 私は何も名だたる名器の値打ちを蔑んでいるのではなく、それはそれとして、館所持のあるものは、優にそれ等と肩を比ぶべきものであるのを疑わぬ。また昔の茶人たちの全く知らぬ品々も沢山あることであるから、名器を歴史的古器にのみ限るのは考えが狭い。茶祖たちが今生れ変って来たら、さぞや、吾々の集めたものの中から、茶器に選ぶべき品々が夥しいのに驚くことであろう。遠い昔、彼等が選んだものだけに名器があるのではない。こんな易しい事実を、なぜ今の茶人たちは理解しないのであろうか。
 それに、もう一つ新しい茶会を試み度い理由は、現に今、茶会で有難がって用いている品々に、とてもつまらぬものが多いからである。今は総じて眼力が低下した時代なのを、うたた感じる。時には眼の覚めるほど見事なものに会えるのだが、同時に二た目と見られぬ品も現われるのでがっかりする。否、実は後者の方が多いのが現状である。それに殆ど、どの茶会でも共通して使う品で、困るものがいろいろあるので、是等を悉皆改めて了いたい考えを起すに至った。要は用いる茶器に、凡て一貫した筋を通すことである。私は会を重ねつつ、順次に之を訂正してゆきたい。
 それに本当の意味の「貧の茶」というものは建てられぬのか。金持が幅をきかせたり、道具屋が巧者ぶったり、待合のかみさんが出入したり、女共が派手な着物を競ったり、若宗匠などとたてまつったりするような茶会をどうも好かぬ。権力とか、金力とかに媚びぬ茶人は出ないものか。そういう濁りと関係のない「茶」を建てたいというのも、私の考えの一つなのである。幸い私はそういう世界の人々と因果関係がなく、何もこだわらずに、まっすぐに自分の好む茶会が開けるのである。こういう有難い事情を十分活用してみたい。これこそ、「茶」の正脈を伝える所以だと私には思われる。
「正伝ではなくして異逆だ」と反対する茶人たちも出ることと思うが、それはいつの世でもある泣きごと、別に関わる必要もあるまい。
 何も器物のみならず、茶礼の法、茶室の構造などにも、幾多改造すべき点があろう。四百年も歴史の過ぎた今日、生活様式も異なり、知識も進み、経験も重ってきた時、「茶」の伝統にも、おのずからの発展があってよい。「茶」は伝統の道であるが、伝統は停滞や退歩であってはならない。真の伝統は創造の精神と結ばれることで、愈々その真価を輝かすであろう。
 例えば、今までの茶礼は、殆ど畳の室に限られているが、将来は椅子や卓を伴う作法へと、益々進むに違いない。利休に及んで、室は三畳、二畳と益々小さくなっているが、将来は再び、八畳、十畳、否、更に大きな室へと拡げられる要が起ろう。そうなると、室の結構、器物の寸法など、当然新たな様式を招かざるを得ぬ。更に進んでは、抹茶と共に洋茶の式をも生んでよい。これは恐らく、「茶」の道を遠く海外に拡める所以ともなろう。新しく企てるべき仕事は多い。
 要するに、今の「茶」には、長いしきたりのため、いろいろの滓がたまっているし、又、道を取り違えたり、濁りに沈んだりしたものが多く、それ等を拭い去る任務が、茶人たちに課せられていよう。生活の内容も、外形も違って来た今日、在来の形式にのみ便るべきではあるまい。今こそ、「茶」の歴史に新しい一章が加わってよい。私の意向は、この要請に応じるためであるが、前にも述べた通り、こういう仕事は私の本業ではなく、余業であるから、誰か起ってこの革新に専念する者が現われねばならぬ。私の仕事は、かかる人の輩出を早めるための支度なのである。





底本:「日本の名随筆24 茶」作品社
   1984(昭和59)年10月25日第1刷発行
   1988(昭和63)年1月20日第8刷発行
底本の親本:「茶の改革」春秋社
   1978(昭和53)年9月
入力:浦山敦子
校正:木下聡
2023年3月20日作成
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