空手道の起原と其の沿革

島袋源一郎




拙著沖縄案内、風俗の章に「唐手」の一項を掲げて置いたが、之はカラ手に関する文献や資料に乏しき為め、首里に於て発表せられた一部人士の研究を参考にして書いたので妥当を欠くが故に此に之を訂正して置く。

 空手からての起源については未だ定論はないやうであるが、諸家の説を綜合して見ると、当地では昔から只単に「手」と称し「空手拳頭」を以て敵を倒す武術があったが[#「あったが」はママ]、何時の時代にか「指頭掌力」を極度に練磨して偉大なる武力を発揮する支那拳法が伝来して所謂今日の「空手」に合流し四百年前尚真王の武具撤廃後一段の発達を見たであらう。といふことに大体意見の一致を見たやうである。
 若し正史の上に「空手」の文字を求むるなら、球陽尚真王の条に

人、京阿波根実基の名望高きを嫉み、王に讒言したので、王彼を茶席に招き、童子に命じ匕首を以て刺させた、実基手に寸鉄なく只空手を以て童子の両股を折破り、走りて城門を出で中山坊門外に至りて斃る。

といふ記事である。或は是れ単に素手と云ふ意味であるかも知れないが、しかし徒手空拳の偉大なる力を発揮してゐることは事実である。其外史を按ずるに、

之より古く、凡そ五百年前文安五年(皇紀[#「皇紀」は底本では「皇妃」]二一〇八)尚金福王の使者が北京に方物を貢し、後其従人が会同館の門外に於て四川省長河西番の人と相殴ち有司此事を皇帝に上奏したので英宗命じて人を殴つて死に至らしめし者を死刑に処した。といふ記事や、其後文明四年(皇紀二一三二)尚円王の使者武実等マラツカ国よりの帰途福州に於て船を修する時其の従人等人を殺し、此事憲宗に聞え遂に毎年入貢(貿易)を自今二年一貢に制限せられた。

といふことなど尠なくない。
 由来支那人の喧嘩は文字通り喧躁するを[#「喧躁するを」はママ]普通とするが、日本人は二言三言の次にはすぐに手を出す癖があるので、当時の勇敢な琉球人は持合せの「空手」を発揮したのであらうと想像せられる。しかし、武の古代文字は戈止の合字でほこを止める意味から起って[#「起って」はママ]居り、すべて空手道はナイハンチでもピンアンでも敵を防ぐといふ立前から始まつてゐるのは注目すべきことで日本の武士道精神と一致してゐる。
 偖て空手を昔から単に「手」と称へて来たことは前述の通りであるが、俗に「棒唐手ぼうとうでー」とか、「佐久川の唐手」とかいふ別の言葉があるのは此の古来のカラ手即ち単に「手」と区別しての名称らしい。沖縄近代の武術家糸洲安通翁は、唐手は明人陳元贇(凡三百年前の人)の伝へたものであると話してゐたといふ。
 曩の佐久川は首里赤田の人で二百年前支那より唐手たうでを稽古して来て一般に広めたと伝へて居り又首里の人潮平某の談に公相君コウシヤンクワといふ支那人が渡来して一種の拳法を伝へたといふ話もある。いづれにしても今日行はれてゐる

ナイハンチ三段・平安ぴんあん五段・パッサイ大小・公相君大小・五十四歩・チンティー・チントウ・ジッティ・ジーン・ジオン・ジューム・ワンシユウ・ワンダウ・ローハイ・ソーチン・十三せーさん三戦さんちん三十六さんせーるー一百零八すーぱーりんぱい

などといふ名称から見れば此等は支那より伝来して或は其侭、或は従来のカラ手拳法と合流したものであらう。ワンシユウなどは二百五十年前尚貞王の冊封正使汪楫わんしゆうの伝へしものではないだらうか? 兎角冊封使の一行は数百人凡そ半ヶ年も長滞在してゐたのだから其の随員などが伝へたものもあるに違ひあるまい。
 此の空手道の名人に明治の末頃迄健在であつた人には首里に糸洲先生(仝四十年頃八十歳位の人)があり、那覇に東恩納先生があつた。空手も首里流と那覇流とは、多少趣きが違つてゐたといはれてゐるが、此の東恩納先生の高弟が今本県に於ける権成者たる剛柔流の宮城長順氏であり糸洲先生の流を承けた人々も首里に多い。
 抑も此の空手道が学校体育に取入れられたのは、明治三十八年当時陸軍少尉で首里の人屋部憲通先生が沖縄県師範学校に、又仝年沖縄県立中学校(一中)の体操教官たりし首里の人花城長茂先生が仝校に於て課外に教授せられたのを以て嚆矢とする。実に空手史上の二大恩人といふべきである。筆者は当時屋部先生の弟子として空手を学び亦高齢の糸洲翁も師範学校の嘱託であったので[#「あったので」はママ]親しく先生の教へを受けたことがある。
 其後空手は一進一退して今日に及んでゐるが、中央に進出して各大学の武道に取入れて貰ひ、而して今日の盛況を見るに至つたことに就いては松濤富名腰ふなこし義珍先生を始とし、本部朝基、摩文仁賢和等諸先生の功労を讃ふると共に、県内に於ける宮城長順其他諸氏の功績を記して置く。
 今や空手道は薙刀の採用と同様体操要目に取入れらるべく考慮中であり、不日其の実施を見た暁は愈々学校体育の正課として全国否海外にも普及されるであらう。





底本:「日本随筆紀行第二四巻 宮崎|鹿児島|沖縄 光り溢れる南の海よ」作品社
   1988(昭和63)年6月10日第1刷発行
底本の親本:「琉球百話」琉球史料研究会
   1941(昭和16)年12月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:向山きよみ
校正:sogo
2017年1月12日作成
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