六日月

岩本素白




 朝早く一乗寺村を歩いて、それから秋晴の八瀬大原、帰りに鞍馬へ登って山端やまばなの駅まで戻って来ると、折から小春日の夕日を受けた叡山が、ぽか/\と如何にも暖かそうな色をして居るので、つい誘われて再び八瀬へ取って返し、其処から山をえて坂本へ下りてしまった。我れながら余りの愚しき勇猛が悔いられて、その夜は心静かに高台寺の下を歩く。
 秋も漸く深い夜を、東山の影は黒々と眠って居たが、恵比須えびす講の灯に明るい四条通り、殊に新京極の細い小路にはいる辺りは、通り切れぬほどの人出であった。四条大橋を渡って華やかな祇園の通りは、に歩いて居れば何時いつ通っても楽しいところである。八つ橋、豆板、京洛飴、或はかま風呂、おけら餅、土地の名物を売る店に交って、重々しい古代裂こだいぎれを売る家や、矢立やたて水滴みずさしつば、竿など小さな物を硝子棚一杯に列べた骨董屋などが並んで居る。そういう中に、古い由緒をもった原了廓の祇園名物香煎こうせんの店の交って居るのは京なればこそである。久しい以前、やはり秋に来た折のこと、この店に枯木のようなお婆さんが袖無し羽織を着て、うずくまるように坐って居たが、今はもう其の人の姿も見られない。正面の石段を上って祇園の社へはいる。春は人出でいきれ返るというが、私はいつも夏か秋にのみ京都へ来るので、その春の雑沓を知らない円山公園へ、此の社を抜ける。さして狭からぬ境内ではあるが、神寂びた余りの冷たさはなく、秋の今宵の静けさの中にも、何処か一脈の温かさ柔かさをたたえて居るのは、立て連ねた灯籠の灯の色からばかりではなく、下の華やかな町の空気が此処まで延びて居るせいであろう。それでも参詣人の石畳を歩く音、賽銭箱さいせんばこに小銭の当る音までが、遠く離れた辺りへ幽かに聞えて来るのも流石さすがに秋らしい。薄い夜霧のかかった参道の傍に、銭を入れると自然と箱から出るおみくじを、灯籠の灯に読んで居るのはただの女である。然し場所柄だけに、多少の風情がないでもない。春は唯この一ともとに雑沓するという老木の枝垂しだれ桜は葉も落ちて、ただ黒々とさながら宵寝という姿であるのを、まばらな人通りの誰顧みる者もなく、平野屋の栗めしの立て看板が夜目にも白々として、少し前までは時刻がらごった返して居たらしいのが、今は掛けつらねた提灯のみが明るく、少しは静かになった風である。知恩院へはいる横の門は、昼間に引換えて人通りも無く、まるで大きなうつろの口のように暗く開いて居るので、其処から引返して、がらんとしたかどの茶亭の白けた灯を右に見て、高台寺の方へ歩いて行く。
 大雅堂跡の碑のある辺は、木立の蔭で一層暗い。此処まで来て、今までつい気がつかなかった六日の月が、眉をあげた空の辺りに細く冴えた光を懸けて居るのを美しいと思った。あたりは宵闇でもなく、月夜でもないほの明るさである。一寸曲って更にまっすぐの道が高台寺下の静かな通りであるが、その道は帰りのことにして、その一ツ下の通りを南に向いて歩いて行く。上の高台寺そのものをも入れて、すべて此の辺りは下河原町しもかわらまちになって居るのである。煙草屋、荒物屋など暗い寂しい店に交って、仕出し屋、料理屋なども有る様子で、入口は狭いが普通の宿屋とは違った、奥深そうな洒落しゃれた構えの旅館がぽつ/\見える。歩いて行くうちに、何処かで稽古でもして居るらしい三味線の音が聞える。何をいて居るとも分らず、時々快い音が静かな通りに流れて来る。何の三味線であろう、この辺りの空気からすると、無論長唄でも清元でも常盤津でもいけない。といって、ただ一と口に地唄などといっては、当りまえ過ぎて平凡になろう。あの陰気な中に艶のある、薗八そのはちでも弾いてもらいたいところである。こんなことを考えて、まだ宵の口なのを人通りの少い町を歩きながら、薗八の「鳥辺山とりべやま」、その場所も此処からはさして遠くはない、その曲の「九つ心も恋路の闇にくれ羽鳥――」とかいう辺りの面白い三味線の手を思い浮べて居ると、道のほとりの然るべき構えの家から、ピアノの音が漏れて来る。それも此の楽器特有の潮の湧き起るような荘重そうちょうなのではなく、稽古でもして居るらしく、唯たど/\しくぽん/\いうだけの音である。急に夢が醒めたような気になって、なお歩いて行くと俄に道がガランとして、だだっ広くなってしまった。夜目で分らないが、家を取払って道でも広くしたような風に見える。で、左へ曲って、今度は高台寺下の通りを再び祇園の方へ引返す。
 此処から南へ清水へ行く通りは、まことにしずかな趣のある所である。昼ならば蘭の花漬け、芹の味噌漬け、柚味噌ゆずみその看板の出て居る円徳院の門も、夜なので暗く静かにひそまり返って、東側の高台寺は高い石段の奥深く、更に又この静かな町からも遠く離れて眠って居る。この通りの西側に、洒落しゃれた格子の門構えは陶工永楽の住居。門はとざして居るが、塀越しに見える庭に面した障子に、ともし火の影がほの黄色く浮んで懐かしい。塀のそと、溝のほとり、もうすっかりす枯れた虫の声が繁く、唯ひそやかに夜更けのような気配は、無論昭和の今ではなく、といって又其の前の大正でもなく、遠く明治の昔に始めて私がこの都を訪れた頃と、さしたる変りもない静けさである。先刻さっきこの下の通りでは、薗八でも弾いて貰いたいと思ったが、此処ではそれさえ派手に過ぎよう。妙な事をいい出すようであるが、此の京都の町の古い家などによくある、ふちを象牙で飾ったりした重々しい古琴の、その割に一向音の冴えない、何かかたくなな女のような感じのする琴があるものだが、そういう楽器で、名手の割に余り世にも持てはやされない検校けんぎょうさんに、「残月」の緩やかな手のところでも弾いて貰ったら、或は調和するかも知れない。
 そんな詰らぬことを考えながら歩いて行くと、道一杯を挟んで扉の無い古い門が立って居る。ここは今まで度々通りながら、何時も気にして居なかったが、これは一体どこの門なのであろうと、折柄来かかった此の辺りの人らしい年寄に聞いて見る。薄暗い中で余り突然なのに少し驚いた形ではあったが、別にこちらを怪しむ風もなく、高台寺さんの門だと言い棄てて行き過ぎる。此の辺はもと一帯に寺の境内であったのであろう。此の門の辺り、虫の声が殊に激しい。じっと其の声に聞き入りながら、もう大分移った六日月の影を眼で追って、私は始めて今日一日の騒がしい行動のつぐないをなし得たと思った。





底本:「日本の名随筆58 月」作品社
   1987(昭和62)年8月25日第1刷発行
   1999(平成11)年4月30日第10刷発行
底本の親本:「岩本素白全集 第一巻」春秋社
   1974(昭和49)年11月
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2011年11月28日作成
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