芸術と国民性

津田左右吉




 芸術史家、または芸術の批評家が或る個人の作品を観てそこにその作家の属している国民全体の趣味なりまたは物の見かたなり現わし方なりの或る傾向が見えるというのはもっともな話である。しかし芸術家が製作をするに当って「おれは日本人だから日本人の趣味を現わすのだ」というようなことを意識してかかるものがあるならば、それは飛んでもない見当ちがいの話である。芸術家が製作するに臨んでは渾身ただ燃ゆるが如き製作欲があるばかりである。はちきれんばかりに充実している或るものが内にあって、ただそれに形を与えて外に現わそうとすることに向ってのみ全意識が集中せられねばならぬ。出来上がった作品をとおして外部から見ればそこに日本人らしい何物かがあるかも知れぬ。けれどもそれは作家の関知するところではない。作家はただ自己の現わそうとするところを現わすのみである。あるいはまた作家がその国の古芸術を研究してその間から何らかの暗示を得、または一種のインスピレエションを得ることもあろう。そうしてその作家の作品にはおのずからその国の古代芸術の面影が現われ、あるいは一道の霊光が両者の間に相感通するというようなこともあろう。しかし、そんな詮索は批評家のすることである。作家はただ自己の求めて未だ得ざるところ、現わさんとして未だ現わし得ざるところを古芸術において暗示せられたまでである。言を換えていうと自分と古芸術とが偶々たまたま何処かにおいて一つの契合点を得たのである。あるいは古芸術において自分の反映を認めたのである。そうしてこの場合においても一度ひとたび製作に臨んではその古芸術は全然意識の外に消えてしまわねばならぬ。
 製作の材料を撰ぶのも同様である。例えば画家が水彩画を作る。それはその画家のその時に現わそうとすることが油絵よりもパステルよりもその他のものよりも水彩を以て現わすことが最も適切だと感ずるからである。もし日本人の趣味には水彩画が調和するというようなことを智力の上で判断して、それだから水彩を取るのだというようなかんがえがあったならば、それは画家として最も不忠実なものである。もしくは画家たる資格のないものである。水彩画家はそんな外部的事情のために水彩画を作るのではなかろう。水彩画の生命はもっと奥深いところにあるはずである。あるいはまた彫刻家が日本人の趣味には木彫が合うというようなことを決めて置いて、それがために大理石よりも木を撰ぶというようなことがあるならば、それもまた同様の誤謬である。大理石に適せず、青銅に適せず、木によって始めて適切に表現せられるものであればこそ木を選ぶべきである。製作に当っては自分の現わそうと思うものに最も適切な形を与えようとする外、毫末も顧慮するところがあってはならぬということはいうまでもあるまい。
 以上は芸術家の心理からいったのであるが、もし文化史上の事実からいうならば芸術の上にも国民性というものはあろう。しかし、その国民性がどんなものであるかは十分なる歴史的研究を経た上で判断せられるものであって、ちょっとした外観などから軽卒に決めることは出来ない。日本人の趣味が淡泊だとか清楚だとかいうありふれた観察に大なる欠点があるということは僕もかつてこの誌上で述べたことがあると記憶する。茶の湯趣味というものが日本人の国民性に重大な関係があるように説いている人もあるが、これも怪しいものである。普通にいう茶の湯は文化の頽廃期である戦国時代に形を成したもので、その時の頽廃的気分の或る一面に投合したものではあるが、本来趣味というほどのものがあるのではない。そうしてそれが徳川時代に行われたのは趣味の上からではなくして別に社会上の理由がある。日本人は三十一字の歌を作ったり十七字の俳句を作ったりして喜んでいるから、小さな手軽なものが好きだというような観察もあるが、これもまた疑わしいので、歌や俳句の行われる理由は別にあると思う。詳しいことをここでいう余裕はないが、国民性というものをそう簡単に片づけてしまうことの出来ないことだけは明言して置いてよかろう。まして芸術家はそういうあやふやな国民性論を念頭にかける必要があるまい。のみならず、国民性も国民の趣味も決して固定したものではない。要するにそれらは国民の実生活によって養われたものであり、国民生活の反映であるから、国民が生きている限りは生活そのものの変化と共に絶えず変化してゆくものである。それが動かないようになれば国民は死んだのである。ただその国民趣味に新しい形を与え、新らしい生命を注ぎ込んでゆくのは芸術家である。芸術家は意識してそうするのではないが歴史の跡から見るとそうなっている。この点から見ても芸術家は過去の国民趣味に拘泥すべき者ではない。
 もう一つ考えると、芸術家も国民である以上、意識せずとも国民性はその人に宿っているはずであるから、どんな芸術家でもその人の真率な作品は取も直さず国民性の現われたものである。国民性というものが現在生きている国民の心生活の外に別にあるものではなく、そうして趣味の方面ではそれが芸術家によって表わされる。趣味の上に新しい生命を得ようとする国民の要求は絶えず新しい境地を開こうとする内的衝動となって芸術家に権化せられる。だから一心不乱に自己を表出しようとする芸術家は即ち無意識の間に国民の要求を実現させつつあるものである。知識として国民性を云々しないでも、生きた芸術として国民性を形づくってゆくのが芸術家である。





底本:「津田左右吉歴史論集」岩波文庫、岩波書店
   2006(平成18)年8月17日第1刷発行
底本の親本:「みづゑ 一二六」
   1915(大正4)年8月
初出:「みづゑ 一二六」
   1915(大正4)年8月
※初出時の署名は、津田黄昏です。
入力:坂本真一
校正:門田裕志
2011年12月22日作成
2012年4月5日修正
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