芸術と社会

津田左右吉




 芸術のための芸術と一口にいってしまえば、社会との関係などは初から論にならないかも知れぬ。けれども芸術を人生の表現だとすれば、そうして、人が到底社会的動物であるとすれば、少くとも芸術の内部におのずから社会の反映が現われることは争われまい。芸術の時代的、または国民的特色というのも畢竟ひっきょうここから生ずるのである。まして、芸術の行われる行われない、発達する発達しないというような点となると一般社会の風俗や思潮やに支配せられないはずはない。
 日本のような、何時いつでも外国の文化を学んでいる国民では新来の芸術が国民と同化するまでには相応な時間がかかる。そうして、その同化しない間は、芸術品は単に芸術品として製作せられ、享受せられるのみで、国民の日常生活から遊離している。従って、作家も享受者も、その人の全体としての心的生活、全体としての気分を以てこれに対するよりも、智識の力、頭脳の力でそれを取り扱うという傾がある。例えばピヤノを弾く人も聴く人も、あるいは上野あたりの楽堂で管絃楽を奏する楽家も満堂の聴衆も、胸にみなぎる情の波が指頭にほとばしって絃に触れるのでもなければ、空に漂う楽のねに心上の琴線が共鳴するのでもない。欧洲人の思想や感情の行き方を領解しているものが、頭の上で、その興味を領解するのか、さもなくば、純粋に技巧として之に対するのである。要するに西洋楽は西洋楽であって、まだ日本の楽にはなっていない。音楽は世界共通だとはいうものの感情の動き方にもその表現法にも国民的特性があるから、欧洲楽が我々の情生活にピタリと合わないのは当然である。しかし、一方からいうと、我々の情生活そのものが、欧洲の文芸や学術の影響を受けまた欧洲と同じような社会状態が生ずるために、随分激しく変化してゆくから、この間の溝渠は段々狭くなるには違いない。
 Ruskin であったか、智識ある社会になればなるほど国民的特性が失われてゆくというようなことをいっていたと記憶するが、今の我が国ではその傾向が時に著しい。けれども情生活の方で国民的特色がまるでなくなることは決してない。だから外来の芸術でも智識で領解する部分の多いものはその興味を解することも容易である。翻訳劇の盛行するのは一つはこの故であろう。絵画になると、西洋画でもその題材が多くは何人も目で見ることのできるものであり、景色画にしても風俗画にしても初から日本の特色を現わすことの出来るものであるから、技巧と材料とが在来のいわゆる日本画と違ってはいるものの、それをて欧洲楽を聴くほどに疎遠な感じはしない。自然に対する見方がまるで違っているとか、光線や空気の取り扱い方が思いもかけぬものであるとかいう点になると、例えば Monet の作がはじめて世に現われた時驚きの目と嘲笑の声とを以って時のフランス人に迎えられたほど、西洋画が日本人に不思議がられなかったかも知れない。絵画はそれだけに世界的、普遍的分子が多い。西洋画というものが、単に技巧上の或る性質を示す語としての外は、まるで無意味の称呼となっているほど世に行われるようになったのは当然である。
 しかし、ここに一つの障害がある。その障害は、ほんの外部的のものであって、純芸術としての絵画から見れば、どうでもよいことではあろう。が、絵画の社会的方面においては看過すべからざることである。そうして、それは極めて平凡なことであるにかかわらず、芸術家の方では一向念頭に置いていないらしい。何かというと日本の家屋建築が今のような状態である間は、絵画は大体において展覧会芸術としてのみ取り扱われるだろうということである。
 絵画は装飾品ではない。けれども社会的需要の点からいえば、少くともその半面に、装飾としての意味が存することを否むことはできまい。また、絵画を純粋な芸術品として見れば、置かれた場所や、かけられた位置によってその芸術的価値が増減せられたるものでもない。けれども、作品とその置かれた室の全体の空気と、シックリ調子が合った時、はじめて看る者の美意識が満足することも事実である。野外に立てる銅像の類ですら、その位置とか台石の高さとかいうことが像そのものの感じを動かすではないか。ところで従来の日本風の室では、その広さや構造やまたは光線の取り方などが、どうしても西洋画の額面をかけるに適しない。趣味の相異とか、調子の合わないとかいう点を考えるまでもなく、第一、適当に画面を看ることのできる位置にそれをかける場所がないのである。よし、どこかの壁にかけて見たところが、調子はずれになって折角落ちついている室の空気が掻き乱される。だから、今日、日本間に西洋画をかけているものがあれば、それは、まるっきり趣味性の欠けているものか、さもなくば、画を画としてのみ見ようとする専門家、アマチュア、もしくは特殊の嗜好をそれにっているもののみであろう。全く趣味のないものは初から話にならないから、それは芸術の進歩や発達には何の力もない。
 周囲の空気にかまわず、日常生活の調子にも無頓着で、芸術の天地にのみ身を置く芸術家は芸術家としては立派であるが、その代りその芸術を国民生活の一要素として発達させてゆくという点については甚だ不十分のものであり、国民の芸術趣味を訓練し誘導してゆく点にも力の足らないうらみがあろう。芸術の発達はどうしても国民全般の趣味、国民の日常生活の内部にその基礎がなくてはならないからである。
 極めて平凡な問題に仰山らしい言葉づかいをしたので、カラ理窟をもっているように聞こえるが、平たくいうと、西洋画を真に発達させるには、もっと、それを我々の日常生活に接近させるようにしなくてはならぬということである。勿論我々の思想は旧時代のいわゆる日本画とはあまりに懸隔している。また近頃の、日本画を土台にした新しい試みにも、あまり、感服しない。我々の情生活の絵画的表現にはいわゆる西洋画を要する。しかし種々の事情から在来の日本式家屋で生活している我々は日常生活の一要素として西洋画を取り扱うことが出来ない。ここに大なる矛盾があるのではなかろうか。そうしてこの矛盾は何とかして融和させねばならぬものではなかろうか。僕はそれについて芸術家の意見を聴きたいと思う。





底本:「津田左右吉歴史論集」岩波文庫、岩波書店
   2006(平成18)年8月17日第1刷発行
底本の親本:「みづゑ 一〇四」
   1913(大正2)年10月
初出:「みづゑ 一〇四」
   1913(大正2)年10月
※初出時の署名は、津田黄昏です。
入力:坂本真一
校正:門田裕志
2011年12月22日作成
2012年4月5日修正
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