東洋文化、東洋思想、東洋史

津田左右吉




 東洋文化とか東洋思想とかいう語が西洋文化または西洋思想と対立する意味において一部の人士に用いられるのは、かなり久しい前からのことであって、日本人の文化、日本人の思想がやはりその東洋のであり、従ってそれが西洋のに対立するものの如く説かれるのである。これには国際関係における西洋の国々の勢力に対抗する意味での東洋主義とか亜細亜主義とかいうものとも或る程度の関聯があるように見うけられるが、その根本は日本人の文化を現代の西洋の文化に対立させ、現代の日本人の生活における西洋文化の要素を外来のものとし、そうして東洋のをその固有のものとする考えかたから出ているらしいので、いわゆる思想問題のかまびすしい近ごろになって特にこういう語を声高く叫ぼうとするもののあるのも、これがためであろう。が、一体、東洋文化とか東洋思想とかいうのは何を指すのであるか。あるいはむしろ、そういうものが存在するのであるか。
 世界の文化を東洋のと西洋のとに大別することは、現代の日本人には常識となっているようであり、世界の歴史を東洋史と西洋史との二つに分けることも、今日では一般の習慣となっているが、西洋についてはともかくも、東洋については、この語の意義すらも甚だ漠然たるものである。東洋と西洋とは、本来、地理的の称呼であり、後世の支那人が海路で南方から交通する地方をその位置によって区別し、概していうとほぼ今の太平洋に属する方面のを東洋、それよりさきの印度洋方面のを西洋としたことにはじまる。ヨオロッパ人が印度洋を経て支那に来るようになってからは、その本国もまた西洋と呼ばれることになったが、これは上代において西北方からの陸路によって交通する地方が西域といわれ、その方面は支那人の知識の及ぶ限りこの称呼のうちに包含せられたと似ている。(西域は支那に接壌する西方の地であるが、西洋は東洋を通過していったそのさきであるから、この点は違う。)東洋は後までも狭い範囲に限られていたが、これはその東洋の東方から支那と交通する国がなかったからであり、ただ近いころになって方角違いの日本が東洋と呼ばれることがあるのみである。西洋は勿論、東洋も支那からいうと諸蕃の地であるから、支那みずからが東洋とせられなかったことは勿論である。ところが、日本では、徳川時代の中ごろからヨオロッパに関する知識が漸次加わって来たにつれて、西洋という名が主としてこの極西の地にある諸国にあてられることになり、従ってまたそれが文化的意義を帯びて来た。いわゆる西洋には特殊の文化があると考えられていたからである。が、こういう称呼が用い慣らされると、それに対して東方の文化圏を呼ぶ名称も欲しくなって来たらしく、そこで東洋という語に新しい意義を附してそれを採用し、支那を中心としてその文化を受入れている地方の総称として、この名をあてようとするくわだてが起ったように推測せられる。佐久間象山の詩に「東洋道徳西洋芸、匡廓相依完圏模、大地一周一万里、還須欠得半隅無、」というのがあるが、それは即ちこのことを語るものではあるまいか。もしそうとすれば、明治以後における東西洋の概念はほぼ之を継承したものであり、日本人の脳裡において生じたものである。さすれば、日本人のいう東洋には初から文化国としての支那が含まれていると共に、日本の文化が支那と同系統のものであり、またそれが西洋の文化に対立するものであるというかんがえがそこに潜在してもいるのである。幕末から明治にかけての日本の知識社会に属するものは、概して儒学の教養をうけていたのであるから、こういう考の生じたのも、怪しむには足りなかろう。ただし西洋文化の圏外に存する文化としては、別に印度のがあるので、世界の文化を東西に二分する場合にはそれをどう取扱うかが問題になって来るが、印度が地理的区劃においていわゆるアジヤに属するものとせられているのと、印度に起った仏教が支那から日本に伝わってその間に文化上の或る連絡があるのと、また西洋において印度をも支那をも東方という称呼のうちに含ませているのと、これらの事情から、それを東洋の中に摂取することになった。これが今日の常識となっている東西洋の語の意義である。が、問題はここに生ずる。日本と支那と印度との文化は果して東洋文化として総称し得られるような一つの文化であるか、少くともそこに何らかの共通のものがあるか、仮にあるとしたところで、それは果していわゆる西洋文化に対立するものであるか。
 第一に印度と支那とは互に懸隔せる地域であって、その間の交通すら極めて不便であり、そうしてその民族は人種をことにし、居るところの風土を異にし、生活を異にし、社会組織を異にし、政治形態を異にし、これらの点において何ら共通のものがなく、またその間に相互の交渉もなく、要するにそれぞれ全く別の世界をなし、従ってまた全く別の歴史をっているものであることを、考えねばならぬ。勿論、その間に交通はないではなく、蛮族などの活動から幾らかの共通の影響を受けるようなこともあったが、これだけの交通や関係ならば、支那といわゆる西洋との間にもあり、そうして印度とペルシャ及びその西方との交渉は、印度と支那との関係よりもはるかに密接である。支那の文化の特色がほとんど大成せられた後になって支那は印度の仏教を受入れたけれども、印度は古往今来支那には何ものをも負うことがなく、それに反して、ペルシャ及びその西方からは断えず種々なる文化上の影響をこうむっていた。印度の文化と支那のそれとが各々特異のものであることは、これだけ考えても明かに知られるのではあるまいか。全く世界を異にし、共同の生活がなく、共同の歴史を有たない印度と支那との文化に、共通のもののないことは、当然であろう。もしあるとすれば、それは人類としての共通のものに過ぎないはずである。単に思想の一面のみを見ても、印度のと支那のとは殆ど対角線的に反対しているのであって、一はすべてが宗教から発達し宗教に従属しているのに、他は政治に発足し政治に帰着する、一は神もしくは宇宙と人との交渉が根本の問題であるのに、他は人と人との関係に始終する、一は人生と万有とを幻影視するのに、他はそれを究竟の存在とする、一は現実の生から離脱せんとするのに、他はそれを無限に延長せんとする、一は人を宇宙に没入せんとするのに、他は天と人とを永久に対立せしめる、一は思索的冥想的であるのに、他は実行的世間的である、一は空想的であり、現実の生活をも空想化するのに、他は現実的であり、想像の世界をも現実化する、一には詩があって年代記がないのに、他には年代記があって詩がない。こういう反対の思想を生みまたそれによって指導せられた二つの民族の文化が、全くその性質を異にするものであることは、いうまでもない。ただ仏教が支那に弘布せられた点において、支那が印度の文化の影響をうけてはいるが、その実、仏教は、思想としては、特殊な僧侶社会の間に存する少数な学匠によって知識として伝承せられ講説せられたのみであって、一般の思想界とは交渉が極めて浅く、極言すれば、支那人の思想は殆ど仏教を除外して考えても理解し得られるほどである。また信仰としては漸次支那の民間信仰に同化せられて来た。寺院や僧侶の存在が経済的社会的もしくは政治的現象として見のがすべからざるものであったにかかわらず、支那人の精神生活は仏教及びそれに伴っている印度文化のために多く動かされてはいない。仏教が何時いつの間にかおのずから衰微して来たのは、即ちそれを証するものであって、支那人の生活において仏教の関与するところが少かったからである。だから、大観すれば、支那人にとっては印度は彼らの生活と交渉のない僻遠の地であり、夷狄いてきの国であった。これは、印度人の思想に支那が存在しなかったことと共に、事実上、両民族が各々別箇の世界に生活していたことを示すものである。
 日本と支那との関係は、これとは違ってはるかに密接であり、政治上の交渉さえも時々は生じたのである。しかし、密接であるというのは、主として日本が支那の文化を知識として取入れた点においてであって、二つの民族はやはり各別の世界をなし各別の歴史を有っていた。人種を異にし生活を異にし、社会組織政治形態を異にするものであることは、印度と支那との関係と大差がない。ただ日本は、支那の文化を受入れることによって、はじめて自己の文化の発達が促進せられ、また後までも知識社会の知識は支那の典籍によって与えられたものに支配せられることが多かったけれども、その実生活は全く支那人のとは違っていた。文字の上で儒教の思想は講説せられたけれども、日本人の道徳生活は儒教の教えるところとも、そういう教を生み出した支那人の道徳生活とも、まるで違っていた。(道徳に関する文字の上の知識は、道徳生活そのものではないことを、知らねばならぬ。)日本人の造り出した文学も芸術も、またその根柢になっている精神生活も、支那人のとはすっかり違っている。日本には、支那とは無関係に、日本だけで独自の歴史が開展せられ、それによって、平安朝の貴族文化も鎌倉以後の武家政治も徳川時代の封建制度も形成せられたが、これらは全然支那には生じなかったものであり、またその開展の径路においても支那の歴史の動きとは何らの縁のないものである。あるいはまた支那化せられた仏教が受入れられ、その思想は、支那とは違って、一般の思想界に重要な地位を占め、その歴史的推移において幾らかの役割を演じた場合もあるが、一面においては、こういう事実そのことが支那とは違っていると共に、他面においては、それはその時々の実生活とそれから生まれた時代の空気とに接触のある点においてのみのことであり、そうしてその生活は独自なる日本の歴史の開展によっておのずから形成せられたものである。少数の学徒の間に行われた煩瑣はんさなる教理の講説や伝習そのことは、生きた国民の思想とは没交渉であった。仏教の弘通が日本人の生活を印度化したのでないことは、いうまでもあるまい。文字の上の知識としては、支那のはもとより、支那の文字を介して印度のが学ばれも説かれもし、相互に齟齬そごし矛盾した種々のものが存在したけれども、日本人の生活は一つの生活として歴史的に発展して来たのである。要するに、日本人の生活、その文化とその精神とは、過去においても、決して支那や印度と一つになっていたのではなく、全く特異のものであった。日本固有の精神が古今を通じて厳として存在しているというようなことを、主張するのではない。日本には独自の歴史が開展せられたため、独自の文化、独自の生活が養成せられて来たというのである。そうしてそれは、日本民族が内にみずから養って来た力にもよるのであるが、それがこういう風に発展して来たのは、地理的事情その他の環境のたまものが大きい。
 こういって来ると、印度の文化、支那の文化、日本の文化はあるが、東洋文化というものはどこにもないことがわかるのではあるまいか。日本の歴史はあり、支那の歴史、印度の歴史はあるが、東洋史というものは成立たないことが知られるのではあるまいか。日本と支那と印度とは、その間に種々の交渉こそあれ、決して一つの世界をなし共同の生活をしていたものではないからである。そうしてこのことは、西洋の歴史とそれによって形成せられた文化とに対照して見れば、明かに知られる。いわゆる西洋もその諸民族にはそれぞれ特異な民族性があり、国家としてはそれぞれの国史もないことはないが、全体から見れば、一つの世界をなし一つの歴史を有っているのである。中世時代からルネサンスを経、宗教改革を経て近代に入り、フランスを中心とした政治上の革命、次いで産業革命となり、そうして現代のヨオロッパを現出したその歴史的発展は、ヨオロッパ全体のものであり、従ってそこにヨオロッパ人としての共同の生活があり、その文化もまた全体としてのヨオロッパの文化である。クラシックの文化は現代文化の中心とは地域を異にするところに源を発し、それと結合せられたキリスト教に至っては、東方の異人種の間から生れたものではあるが、それとてもロオマの大なる世界によって直に中世のヨオロッパに継承せられ、それから後は長く彼らの思想と生活とに浸潤し、あるいはその基調となっている。西洋の文芸も哲学もクラシックの文化とキリスト教となしには全く理解せられない。上に述べたいわゆる東洋の状態とは全く違っているではないか。西洋の文化、西洋の思想に対し、それと同じ意味での東洋の文化、東洋の思想というものが成立たないことは、明かであるといわねばならぬ。ヨオロッパ人も往々東方の文化とか東方の思想とかいうような語を用いるが、それは自分らの文化、自分らの思想でないものを、漠然東方的というのであって、いわゆる東方的なるものに一定の内容があるのではない。エジプトもトルコもペルシャも印度もあるいはまた支那も、彼らにとってはすべて東方なのである。それを東洋文化とか東洋思想とかいう一つのものとして解するならば、大なるあやまりである。
 ところで、西洋の歴史をこう考えると、印度や支那の文化を現代のヨオロッパの文化と対立するものとして見ることにどれだけの意義があるかも、またおのずから知られよう。古代の文化として、地中海の沿岸に発生しギリシャ、ロオマにおいて大成せられたもの、西南アジヤ地方のもの、印度のもの及び支那のものがあったとするならば、それらは同じく古代の文化であるという点において、相対立するものであった。そのうちで、第一の文化はロオマ帝国の分解後、新しい活動を起した新しいヨオロッパの文化の源流となったが、この新しいヨオロッパの歴史は中世から近世、近世から現代へと、順次にそれぞれの特色ある新しい世界を開展して来たので、現代のヨオロッパの文化は古代のそれとは全く違ったものになった。しかるに、印度のも支那のも、古代に一度ひとたびそれが大成せられてから、殆ど変化がない。時間はいたずらに流れても、歴史は開展せられずして今日に及んだ。概していうと、ここには中世も近世もなく、まして現代はなく、ただ古代の延長があるのみである。それから、西南アジヤ地方のものは持続せられずして壊頽し去り、そのあとをうけた回教の世界には力のある文化が発達しなかった。こういう差異の生じたのは、主として地理的事情のためであるが、それはともかくも、印度や支那の文化は西洋におけるクラシックの文化に対立するものではあっても、現代の生活、現代の文化に対立するものではない。
 然らば日本はどうか。日本の文化の発達したのは比較的新しいことであって、年代からいうと、世界の古代文化が既に大成せられた後に、その一つである支那の文化を受入れたことによって促進せられたものであるが、それから後は、上に述べた如く独自なる歴史の進行と共に、新しい世界が逐次に開展せられて来たので、平安朝と鎌倉室町の世と徳川時代とは、それぞれに特異な時代相があり、社会組織も政治形態もその間における生活も、著しく違っている。その文化の複雑さと深さとまた変化の程度とにおいて差異はあるが、ヨオロッパの歴史に比すべき歴史を日本民族は有っていたのである。ところが、最近に至って、そのヨオロッパの現代文化をさかんに取入れた。これは単なる模倣のためではなく、日本民族の存立と発展とのためにそうしなければならなかったからである。そうして、そうするだけの準備がおのずから長い歴史の発展によってなされていたのである。またこれは、昔し支那の文化や支那化した印度のそれを、文字の上の知識として、または宮廷やそれを中心とした貴族が、受入れたのとは違い、国民全体の生活そのものを現代化させようとしたのである。風土ならびにそれに本づく衣食住及び産業の違いやまたは歴史的の因襲や、それらの事情から、その現代化にもおのずから或る制限があり、または民族的特色がそれに与えられはするが、現代文化の特質とその精神とが、日本人によって把握せられ実現せられつつあることは、明かである。この意味において現代日本は、支那や印度とは全く無関係に、日本独自の歴史的開展によって、いわゆる西洋に発達した現代文化の世界に入り込んでいったのである。従って、そこには現代の西洋と共通な思想がおのずから生ずる。これは決して外来思想ではない。さすれば、現代日本人は、明白なる事実として、支那や印度の古代文化の世界とは、別な世界に生活しているのである。日本の文化、日本人の思想がいわゆる東洋のものであり、それが西洋のと対立するものであるというのは、現在の自己の生活を知らぬ妄想に過ぎない。印度人や支那人の人生観世界観や道徳の教によって現代生活が指導し得られるはずがないのみならず、指導せられていないことが現在の明かなる事実ではないか。
 こういえばとて、いわゆる現代の文化が無上なものであるというのではない。現代文化そのものが欠陥の多いものであり、また実際、弊害百出している。それは勿論、超克せらるべきであり、そうして新しい文化をそのうちから創造すべきである。しかし、それを超克しあるいはそこから新しい文化を開展させてゆくのは、日本民族の現実の生活それみずからの力によるべきものであって、いわゆる東洋文化、即ち印度や支那に発生した古代文化の力に依頼すべきではない。それは現代を超克する何らの力を有たないものであるのみならず、日本にとっては、遠い過去から現在に至るまで、どこまでも異国の文化であり、日本人自身のものではないからである。そうして、ヨオロッパとは遥かに違った風土のうちにあり違った生活を発展させてゆかねばならぬ日本人は、ヨオロッパに源を発した現代文化を超克するには、都合のよい地位にあるものである。が、実をいうと、日本人の現在の状態はそこまでいっていないので、むしろおくればせに現代文化の世界に入り込むことに全力を尽している。これは勢の上からむを得ないことでもあるが、それがために、ヨオロッパの諸民族がそれぞれその民族的伝統を維持しているのに対照して見ても、あまりに日本の民族性を失ってゆくようにも見える。が、これにも理由はあるので、ヨオロッパの諸民族においては、現代文化が自己の造り出したものであるため、現代文化そのものにそれぞれの民族的伝統が内在しているに反し、日本では、ヨオロッパの文化を学んだものであるため、過去の伝統がそのうちに存在しない。過去の歴史によって形づくられていた伝統が別にあって、それは消え去っていないにしても、現代文化の趨勢とはあまりに無関係であって、現実の生活を指導する力に乏しい。その上に、他を学ぶに急なることの自然の結果として、与えられた知識、与えられた概念によってすべてを取扱おうとするので、自己の生活そのものを諦視し内観し反省してそこから生活の指導精神を生み出すいとまがないのである。現時における種々の思想運動もやはりその現われであって、与えられた知識から出発しているため、それぞれの固定概念によって生きた生活を取扱おうとするのである。けれども、文化も思想も概念ではなくして生活である。だから、いわゆる現代文化、現代思想が益々深く日本民族の生活の内面に浸潤してゆけば、それにつれておのずから、あるいはむしろそうなってゆくことによって却ってそこから、現代文化現代思想を超克し、日本民族の新しい生活、新しい文化、新しい思想を開展する力が湧き上がって来るにちがいない。そうしてそこから、新しい伝統、新しい民族精神が形成せられてゆくはずである。民族性も民族精神も固定したものではなく、断えず新しくなってゆくものであり、そうしてそれは、どこまでも現実の生活から生み出されるものである。
 談はわき路に入り込んだが、日本の文化、日本の思想を東洋文化、東洋思想として見、それを支那や印度の文化や思想と一つのものとして見ようとするのは、一つは東洋という地理的称呼に文化的意義を有たせようとするところから生じた誤であり、また一つは文字の上の知識のみを見て生活そのものを反省しないところから生じた妄想であると共に、今一つは儒学や仏教の教養をうけたものが知らず知らずの間に馴致じゅんちせられた事大思想の現われでもあるので、この点においては、依頼するところは別であるが、いわゆる西洋文化の崇拝といわれるもの、または現時のやかましく騒がれている思想運動にも、それと同じ心理がはたらいている。またそれと幾らかの関聯があるらしい政治上の東洋主義アジヤ主義というようなものの無意味であることは、いうまでもなかろう。東洋もアジヤも単なる地理的地域の称呼にすぎず、そこに生活している幾多の民族が一つの力としてはたらき得べきものではないからである。日本がいわゆる東洋に拘束せらるべきものでないことは明かであって、日本は日本の日本であると共に、世界の日本である。それにも拘わらず、こういう無意義なことの説かれるのは、日本人は東洋人であるという空疎な概念に支配せられているからであろう。生きた生活を生きた生活として取扱うところに任務のある歴史家は、すべからくこれらの誤謬と妄想とを世間から排除することに勉むべきである。余はかの東洋史という称呼をも棄て去ることの必要を思うものであり、多年そういう意見を懐抱している。民族の動きや文化上政治上の交渉やをまとめて考える便宜のために、土地の接邇せつじしているいわゆる東洋を一つの区域と見なすことができなくはなく、そういう外面的意義において東洋史というものを強いて成立たせようとすれば成立つかも知れぬが、それは歴史の真意義においてではないと共に、そういう外面的意義でいうならば、いわゆる東洋と西洋との間にも昔から不断の関係があり交渉があったのであるから、東洋というものだけを切り離して考えるのは、甚だ不合理である。かかる東洋史を成立たせようとする考からは、同じようにして同じ程度で世界全体の歴史を成立たせることもできるので、その方が寧ろ合理的である。それもまた便宜上のことであって真の世界史ではないが、便宜上からいえば、その方が東洋史というものを強いて作るよりも遥に便宜であり、世界の大勢を明かにするに適切である。支那や印度やその他いわゆるアジヤの諸民族の歴史を研究してその真相を明かにすることは、いうまでもなく必要であり、益々それを奨励してゆかねばならぬことも勿論であるが、東洋史というものは、真実の意義においては、成立たないと思う。東洋史というのは、明治の中ころまで直訳的に用いられていた万国史とか世界史とかいう名を適切でないとしてそれを西洋史と改め、この西洋史に対して新に案出せられた称呼であって、当時の学界の状態からいうと、その中心とせられたものは支那史であったらしいが、支那の歴史が支那のみで知り難く、広く東方諸民族の形勢を相関的に考察することによってそれが明かにせられるという考も、またこの命名の一理由であったろうと推測せられる。東洋史には日本が除外せられているが、これは国史が国史として存在するからであると共に、こういう事情にもよるのであろう。そのころにおいては、これもまた意義のあることであったが、その実、東洋史の成立は困難であるので、普通の場合に東洋の重要なる一国として考えられている日本をそこから除外しなければならぬことだけを見ても、そのことは知られる。今はもはや、歴史的には意義のあるこの称呼とそれによって作られた人為の畛域しんいきとに拘泥すべき時ではない。





底本:「津田左右吉歴史論集」岩波文庫、岩波書店
   2006(平成18)年8月17日第1刷発行
   2006(平成18)年11月15日第2刷発行
底本の親本:「歴史教育 六ノ八」歴史教育研究会
   1931(昭和6)年11月
初出:「歴史教育 六ノ八」歴史教育研究会
   1931(昭和6)年11月
入力:門田裕志
校正:フクポー
2017年6月20日作成
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