流れ行く歴史の動力

津田左右吉




 諸君、私は二ツの道と題して置きましたが、二ツの道とは何であるか、それはこの社会、世の中の進歩に就て確かに二ツの道があるというのであります。社会の種々なる現象は絶えず動いており、その流転し動揺し行くのが即ち歴史であるが、この流転動揺は如何いかにして起るものであるか、歴史進展の動力如何という事に就いて一面の観察を為して見たい。私のこれより述べようとする事は決して歴史発達の道程における全観察ではないのであります。故に述べんとする一面観を以て、歴史の全道程が説明し得るというのではありませぬ。一個人に就いて考えてもその人格には色々な特色がある。一個の人格の生成は決して一方面のみより見る事は出来ない。幼時あるいは幼稚な社会においてはその観察は比較的容易であるが、人が成長し歴史が進展するに従って、その観察方法は次第に困難を呈して来る。一個の事業でも見様みようによっては、なかなか複雑なものとなる。昔しの人はこれらの事に対するかんがえすこぶる呑気であってあの人は良い人であるとか、忠良であるとか、すべて簡単な様式で片附けてしまったのでありますが、これは社会の組織があまり複雑ならざる時代においても偏頗へんぱなる観察であります。いわんや今日をやである。
 すべて社会あるいは国家の――個人でも同じであるが――成立しておる所以ゆえんのものは一の組織があって、それに固定した力と秩序とがあるからであります。この組織は必ずしも政府あるいは法律と限られた訳ではないが何らかの秩序、何らかの道徳的規準がなければならぬ。犬猫の如きですら細胞が一の組織を為し秩序ある生理的作用が行われずには彼らは生を保つ事が出来ない。一ツの秩序乃至ないし組織は国家、社会に取って甚だ大切なるものであります。
 しかしながら単にこれあるのみでは未だ充分なる個人、国家、社会ではありません。これをその内部より動かして行く力がなければならぬ。組織の中より旧分子を去り新分子を加えて行かねば国家社会の進歩はない。秩序が固まれば死んでしまう。ある存在がその存在と同時に成長し発展し進化して行くには必ず以上二個の力を要するのであります。しかるにこの二個の力は時によって良く調和することと然らざる事とがあります。もし良く調和結合する時は永くその存在を持続し、かつ発展進歩向上することが出来るのでありますが、これに反してもしその調和を欠くにおいては、煙山君の言葉を借りていえば隠居型ともなりまた夭折型ともなるのである。
 或る社会では組織の鞏固きょうこのみに重きを置かれる時代があります。既成の組織を以て絶対のものとなし、個性の自由発展は著しく束縛される。如此かくのごとき社会においては年々歳々人相異るも年々歳々事相同じであって、個人の批評性と創造力とはほとんど萎縮し、人は制度の奴隷となって、民衆は元気なく空気は沈滞し、社会の進歩発達は遂に望むべからざるに至るのであります。反之これにはんして或る場合にはあたかも革命時代の如く組織の如何は比較的閑却せられ、社会の内部における個人のみがさかんに活躍する時代があります。如此き時代において、世に動揺紛乱の絶ゆる時なく、信仰も道徳も一切の権威を失うのであって、よしんばそれが進化の一過程、過渡時代であるとするも決して健全なる社会状態という事は出来ない。
 国家社会の内容を為すものは個人であるが、国家社会の成立には或る意味において或る程度まで個人の自由を制限せなければなりません。此処ここにおいて一方においては社会生成の為に能う限り個人の自由を制限するものと、反之出来るだけ個人の自由発展を認むる社会との二ツの場合が生じます。これは個人においても同様であって、なるべく自己を抑えて社会に順応せんとするいわゆる順応型の人と、一方には自己の意慾、衝動のみに重きを置いて、社会の組織何かあらんというようないわゆる反抗型の人とが出来る。何故にかく二種の社会、二種の人物が出来るかというに、これには勿論種々なる事情があるに相違ない。色々な理由があるに相違ないがしかし私は今それを論じようとするのではない。これが歴史上にう働くかを考えて見たいのであります。
 私は先日来徳川時代の書物を読んでおりますが、其処そこには右二ツのタイプがあって、学者や詩人にもこの二方面が見えるようであります。先ず学者に就ていって見るに、徳川時代の社会は組織制度にのみ偏った時代でありました。文化頃でありましたか、日本に来たオランダ人が長崎より江戸に旅行せる紀行文を書いておりますが、その中に、もし百年前の日本人が今生れ変って来るならば自分らのかつて生活したりし時代と現代とが、少しの変化もなく全く同一なのを見て定めて驚愕の声を発するであろうと書いてあるが、如何にもその通りであってこの時代の特色は平和と固定であったのであります。然もそれに慣れたる日本人は世に変化あり、社会に変動あるを想像することが出来なかった。今日の人々は社会の変化にのみ心付き、世の中の固定ということは何うしても考えられない。然るに当時の人は全く之に反しておったのでありますから、徳川時代の思想家、学者、指導者らは、要するに世の中は動かぬものである。故に人は社会に順応し適合せねばならぬという風に説く事に一致しておりました。く申しますとあるいは不思議に思う方があるかも知れない。何となれば明治維新、即ち徳川三百年の夢漸く醒めて、王政復古の新時代が生れたのは正に世が動いたのであって、しかしてそれは尊王論の勃興が原因であり、その尊王論は当時の制度を不可なりとせる国学者が之を主張したのではないか、即ち幕府の倒れたるは源にさかのぼれば実に国学者の力ではないかと考える人が多いからであります。
 しかしながら事実は決して左様ではないのであります。これに就ては世間に誤解が多いと考えますから特に申添えて置きますが、当時尊王論を唱え、幕府反抗を説けるが如く思わるる人々は実は当時の社会に順応することのみを説いた人々であります。賀茂真淵の如きは江戸にいたし、殊に幕府の一門たる林家に仕えたのであるから、之によっても幕府に反抗心なかりしを知るに足るのである。彼には東照宮の功績を賞め讃えたる和歌なぞもある位である。彼の高弟たる本居宣長また然りで彼は幕府が倒壊し、もしくは動揺するなぞとは思いやしない。彼は一種の哲学、世界観を持っておって、社会は神の造れるものである。故に人々は之に順応せなければならぬ。人の力は極めて小なるものであるから決して神に逆ってはならぬと考えておったのであります。如此き世界観を有するものが何うして現状打破の叫を挙げましょう。下って平田に至りましてもその考は少しも宣長と違っておりません。世の中に不満な事があり、社会に悪事が行われてもこれ何らか神の深い思召しであろうと考えた。もっとも時代は徐々に変化し、平田の時代に至っては外国との交渉漸くその端を開いたのであります。然るに平田は之を以て甚だ結構なる事としたのであってこれ当時の漢学者と著しく面目をことにする所であります。幕末日本においては攘夷開国の論が甚だ盛であって紛々擾々、両々相対して共に降るを欲しなかったのであるが、国学者はむしろ開国を以て良い事であると考えたのであります。而して彼らは之を日本の国体に適合するように説明した。即ち日本は本の国、上等の国飛び切りの国であるから坤輿の上、日本王にまさる帝王はない。天皇は万国諸王に冠絶する。此処において外国は神国の威風を慕うて渡来するのだ。彼らに接するに天皇自ら出で給わず、将軍代って之を為すは、正に諸国の王侯が我天皇の下位にあるを立証するものではないかと説明したのであります。故に国学者が徳川時代の組織に不平を抱き之に反抗するような事は全然なかったのであります。
 また漢学者は多少異った意味において組織制度は不変なものと思っておりました。由来秩序を保ち地位を定め、世の中を確定不動のものとするのが儒教であります。何事につけても礼礼、というのが即ちそれである。もっとも之には然るべき理由がある。支那は昔より専制政治であって、最近代に至るまで立憲政治あるを知らなかった。かの国民の眼に映ずるものは単に君主政体のみであって、共和政体の如きは彼らの夢想だもせざりし所であります。孔孟の時代はいずれも封建の時代であって、随って彼らはその他の政体を知らなかったのである。故に孔孟は封建制度を以て唯一最高の組織なりと考え、その中におって是非善悪の論を立てたのであります。然るに我国の江戸時代は、また正に封建制度であったのであるから甚だ孔孟の時代に似ておる。されば何事も孔孟でなければならなかった漢学者流が、当時の制度を以て最高のものなりと考え、之を脚色し、之を弁護し、以てその維持に努めたのは元より当然の事理であります。由来日本の学者は、多く順応型の人間であって頗る融通がきくのである。近来の論壇を見たならばけだし思半ばに過ぐるものがあろうと思う。
 さて如此く、徳川時代はとかく組織の維持に重きを置かれた時代でありますが、しかしながら世間は広く人は多い。徳川時代といえども広い社会、多くの人の中には組織の如何に頓着なく、自己で勝手な事をしようとする、自由奔放な気質の人も決して少くはなかったのである。組織制度が余りに堅固で殊にそれが固定するが如き場合においては反って反抗心を刺戟する事情もあります。人は游んでおる程苦痛な事はない。ゲーテの書いたものの中に、太陽は東天より出でて西に沈む、日々夜々同じ事であって誠につまらない、平凡な事を繰返しておるなら寧ろ死するに如かずというので自殺するという物語があるが、現状打破は実に此処より起る。抑えんとして抑え能わざる生の躍動は勢い因習と常規とを打ち破って、遂にそれ自らの天地を切り開くのであります。
 何事も制度と型にはまった徳川時代は、生命の躍動を感ずる人々に取っては、実に無聊ぶりょうに苦しめられた。無聊に苦しむ人は何をしなければならぬという一定の目的はない。ただ何か変った事を仕出かしたいのである。後に燎原の火の如く盛になった尊王論も実はこんな事情から起ったのではあるまいか。すべて動機は色々ある。随って尊王論の起れる動機に付ても単に一面よりのみ論ずることは出来ないが、少くとも無聊に苦しむ心、何かしたいという衝動がその大なる動機ではなかったかと思う。如何なんとなれば尊王論の本尊といわるるの高山彦九郎、蒲生君平の如きは、『太平記』を読んで感奮したというのでありますが、『太平記』は戦乱時代、乱離動揺常なき時代の記事であるから、その群雄競い起る活動的な記事に刺激せられてただ何事か仕事をしたくてならなかったのではあるまいか。然らずんば彼らに何らかの計劃、目的を達成する手段方策がなければならぬはずである。然るに彼らには何らの計劃も方策もなく、ただあるものはローマンチックなる奇言奇行のみであります。
 竹内式部の如きは公卿に尊王の大義を説き聴かせて、以て天下の改革を行わんとしたといいますが、しかし彼にもまた正確なる実行的計劃はないのであります。彼らは世の太平無事に苦しみ、平凡無為、いたずらに静止する事が出来なかった人々ではあるまいか。これは私の一面観でありますがあるいはこんな事でないかと思う。
 今日、世に知られんとするには、労働問題を説くを便宜とするが如く、当時は尊王論を主張するが対社会の関係において大なるプロパガンダになったのではあるまいか。維新当時尊王論者であった人々が、一転して自由民権論者となりしは如何、これその間の消息を説明するものではありますまいか。
 元来歴史上の現象は単に或る一ツの思想があり、之が社会に具体化されて初めて歴史の進動があるように考えられておりますが、これは如何にももっともであります。さりながら歴史を進展せしむる動力は断じてこれのみではないのであります。述べきたった二ツの力も確かに歴史を動かす動力である。徳川三百年の太平を保ったのは、全く組織の力であってそれが明治維新となって新局面を展開したのは反抗型の人の力である。社会の堅実なる秩序の為には順応型の人も必要であって、その進歩発展の為には物騒なる反抗型の人といえどもまた大いに大切なのであります。





底本:「津田左右吉歴史論集」岩波文庫、岩波書店
   2006(平成18)年8月17日第1刷発行
   2006(平成18)年11月15日第2刷発行
底本の親本:「青年雄辯 五ノ二」
   1920(大正9)年2月
初出:「青年雄辯 五ノ二」
   1920(大正9)年2月
入力:門田裕志
校正:フクポー
2017年3月29日作成
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