日本上代史の研究に関する二、三の傾向について

津田左右吉




 近ごろ、いろいろな意味で世間の注意が国史の上に向けられ、上代史についても種々の方面において種々の考察が行われている。種々の立場からの種々の見解が提出せられることは、全体として学問の進歩を助けるものであるのみならず、ともすれば凝滞の弊に陥り易い学界を刺戟し、あるいはそれに新問題を与え、新しい観点からの研究を誘発する意味においても、喜ぶべきである。そうしてまた実際、それらの考察には傾聴すべきものが少なくない。しかし一方からいうと、そういう見解のうちには、往々、確かな方法と論理とを欠いている思いつきや感じから成立つもの、或る一面のみを見てそれによって全体を解釈せんとするもの、または特殊の主張なり学説なりを強いて我が国の上代にあてはめようとするものなど、学問的の研究としてはかなりに不用意なものがあるのではなかろうか。思いつきや感じも学問の研究に大切であり、自己の目に映ずる一面のみに過大の価値を置くのも、免れ難き人情の常ではあるが、学者の用意としては、方法論的省察と、論理的の整理と、ならびに視野の広いまた多方面からの観察とが、要求せられるであろう。特殊の主張を以て臨むものに至っては、そういう主張が如何いかにして作り上げられたかを先ず検討してかからねばならぬのではあるまいか。ここに述べようとすることは、二、三のこういう見解に対する余の感想である。というよりも、学界の風潮に対する余の観察とでもいった方が妥当である。余は本来、他人の学説を批評するを好まず、学問上の論争すらもむしろ避けているので、これもまた或る学者の或る学説に対する批評というのではなく、学者に対する論難ではなおさらない。
 第一に気がつくのは、歴史的変化を軽視することであって、民俗学の方面からの上代研究には、ややもすればこの傾向があるのではないかと思う。民俗学の目的や方法について我が国の民俗学者に如何なる主張があるのか、余はそれをつまびらかにしないが、少くともその主として取扱う材料が現存する民間伝承や民俗であることは、推測し得られよう。古来の文献に現われている、即ち過去において知られていた、そういうものも、また同じくこの学の材料であるには違ないが、文献の常としてこの種の記載が乏しく、従ってそれに多くを望み得ないのである。ところで、現存の民俗や民間伝承から何が知り得られるかというに、既に民俗であり民間伝承である以上、それは過去から継承せられたものであることに疑いはないから、それによって過去の民族生活を考察することができるはずである。けれども、その知り得られる過去がどの程度のであるか、それが問題である。過去から継承せられたということは、過去と全く同一であるということではなく、人間生活の本質として、それには変化が伴っていることを許さねばならないのであるから、時間が隔たるに従ってその変化も多いはずであり、従って現存の民俗などから直に遠い上代の生活を推測することは、むつかしいとしなければならぬ。もっともこれには、民俗や民間伝承は上流社会知識社会の文化とは違って保守性に富んでいるということ、また特に孤島や山間僻地のそれは都会とは違って変化が少いということが、考えられるではあろう。これは、勿論、一面の、しかも重要な事実であるから、民俗、特に僻陬へきすうの地のそれが、上代人の生活を知る上について参考となるものであることには、異議がない。しかし、民間にも僻陬の地にも、上流の文化、都会の文化の影響が及ばないではなく、それと共に、土地に根ざすことの深かるべき民俗には、特殊な地方的風土とその間における特殊な生活とから特殊の変異の生ずる可能性が他の一面に存在すること、従って地理的に特殊性の多い孤島や僻地には、却ってこういう変異が甚しかるべき理由があるということも、また考慮せられねばなるまい。だから、民俗や民間伝承は遠い過去のと大なる変化がないということを一般的の仮定として立てることは、かなりの危険を含むものである。それで、幾らかなりとも変化を経たはずの民俗や民間伝承によって遠い過去の民族生活を考えようとするには、そこに何らかの学問的方法がなくてはならぬ。民俗学とても民族生活が問題とせられる限り、少くともその一半の使命としては、民俗や民間伝承の変化を推究することによって、民族生活の発展の過程を考えねばなるまいから、如何にしてこの変化を推究するかの方法を明かにすることが、の学にとっては極めて重要であろうと思う。これは事新しくいうまでもないことであり、既に民俗学上の研究が行われている以上、何らかの方法が取られているはずでもあるが、これについては、当然生起しなければならぬ問題として文献の取扱がある。民俗学の材料が文献から得られる場合は多くはないにしても、全然ないではなく、従ってそれを取扱う必要があり、特に歴史的変化を考えるに当っては、それが重要視せられねばならぬからである。が、文献上の記載は多くは断片的であり、あるいは民俗を民俗として叙述することが少いため、それに対しては何らかの解釈を要する。この場合、民俗学に携わる人々は、その免れがたき自然の傾向として、文献そのものを検討しそれによって、解釈することをつとめず、民俗に関する自己の知識によってそれを解釈しようとする。ところが、現存の民俗とても、その意義なり精神なりはやはり解釈を要するのであるから、こういう知識はおおむね自己の特殊の解釈によって成立っているのである。その結果、文献上の記載は民俗学を研究する材料とはならずして、却って民俗学者の或る解釈によって説明せられることになるのである。けれども、一面においては、それがやはり材料でもあるから、こういう文献の取扱い方は、畢竟ひっきょう、自己の解釈によってその解釈そのものを証明しようとするような形になりがちである。のみならず、現存の民俗が過去から継承せられたものとせられているために、こういう文献の解釈から組立てられた知識によって、逆に現存の民俗を解釈するようにもなり、歴史的変化の径路は明かにせられずして、古今本末が却って混雑するのである。あるいはむしろ初から古今の区別が没却せられているように見えることすらもないではない。ここに解釈という語を用いたが、それには自己の感じから出ている場合が少なくなく、そうしてその場合には、ともすれば現代人の感じが上代人のそれであるが如く、あるいは現代人の上代生活に対する感じが上代人みずからの感じであるが如く、思いなされているらしいのである。もとより文献の解釈が文献そのものの検討のみによってなし得られるというのではないが、少くともそれを先にすべきものであり、そうしてそれによって明かに考え得られることと齟齬そごしない解釈をすることが必要なのである。古典にのみ現われている称呼を解釈するような場合に、何よりもまず古典について誠実にその意義を討尋するのが、当然の順序でもあり方法でもあることは、いうまでもあるまい。民族生活の発展のあとを明かにすることは、いうまでもなく、史学の任務であるが、主としてその材料を文献に求める史学は、その研究におのずから限界がある。そこに民俗学の存在の意義があるのであるが、民俗学もまた文献を取扱うに当っては、文献を尊重するところがなければならぬ。或る文献の全体性を考えずして、その局部の記載に思い思いの解釈を加えたり、またはその構造や如何なる素材を如何に組立ててあるかを吟味せずして、異なった素材に強いて統一的解釈を下したり、要するに、文献そのものの検討、その本文研究を行わずして文献を取扱い、従ってまた表面的記載のままに文献を受取る傾向のあるのも、実は文献を尊重しないからのことである。
 次には琉球の民俗や民間伝承によって我が上代を推測しようとすることである。僻陬の地の民俗が必しも常に上代の民俗として見るべきものでないとすれば、こういう考えかたにもまた大なる危険があるといわねばならぬ。琉球人は、よし幾らかの異人種の混合があると考えられるにせよ、概していうと、日本人の一分派であることに疑いはなかろうから、その民俗などが日本の上代を研究する参考になるということは是認せられる。ただどの程度で参考になるかが問題なのである。いうまでもなく、琉球人は特異な地理的事情の下に、長い間、本土の日本人とは離れており、歴史をことにし生活を異にしていたのであるから、人種は同じであっても、別の民族を形成していたといった方がむしろ妥当なほどである。両者の間に断えず交通があり、従ってまた琉球人が日本人の文化の影響をうけていたことはいうまでもないが、それは一つの民族として生活していたということではない。従って、その民俗には民族的感情にも、特異な発達があったとすべきである。特にその遠い昔の状態は知り難く、かの『おもろさうし』も伊波いは氏によれば十二世紀から十七世紀にかけて作られた神歌を集めたものであるという。それに現われている信仰や伝説には歌の作られた前から伝承せられたものがあるであろうが、それが何時いつからのことであるかは知り難い。ともかくも、そういう時代のものによって記紀時代の日本の民俗や信仰を推測することには、かなりの無理があるといわねばならぬ。それより後の民俗においては猶さらである。『おもろさうし』の言語は、全体から見て、記紀のそれと甚しく違っているのであるが、言語があれほど違っているということは、その民俗生活に特殊の歴史があったことを示すものであり、従ってそれに現われている思想や信仰や習俗にも、また特殊の生活、特殊の歴史から生まれた特殊のものがあるべきである。その遠い起源が一つであるとすれば、特殊の変化を経た後にもおのずから共通のものがその中に潜在することは当然であるが、そういう意味において共通のものであるといい得られるのは、両方を別々に考えた上で、それがいずれも極めて遠い昔から伝承せられたものであることが知られた場合のことである。従って或る民俗なり思想なりを比較対照するには、何よりも前にそれが両方それぞれの特殊な民族生活によって養われたものであるかどうかを考えることが必要である。一によって他を推測し、そうしてその推測の上に立って両者が起源を同じうすることを証すべきではない。外観上、記紀などに見えるものと類似した思想が琉球にあるとしても、それが琉球特殊の民族生活から生れたものとして説明し得られるならば、そう説明する方が合理的である。例えばニライ・カナイというような空想国土の観念についても、それは琉球の地理的事情とそれに制約せられている民族生活、伊波氏のいわゆる「孤島苦」の生活、の特殊の所産として説明ができようではないか。もしそうならば、それは日本の上代における空想国土の観念とは由来を異にするものとすべきであろう。(あるいはそこに人類共通の思想があると考うべきでもあろうが、それは琉球と日本との関係についての問題とは違う。)また民俗としては、巫女みこが強大な勢力をっていることについても、同じようにして解釈ができることと思われるが、もしそうならばこの琉球の民俗から、日本の上代の巫女の状態を類推すべきではあるまい。実際、今日から推測し得られる程度の日本の上代においては、巫女の勢力がさまで強大でなかったことが、文献の上から明かに知られる。巫女などをはたらかせないだけに、政治的権力や社会的統制の力が発達していたのである。要するに、琉球によって日本の上代を推測することには無理があるが、それはあたかも日本の上代によって琉球を推測し難いのと同じである。強いて日本人と琉球人との一致を考えるよりも、同じ人種に属しながら、如何にして、如何なる民族生活の差異から、それぞれ特殊な歴史が開展せられ特殊な民俗が養成せられるようになったかを明かにする方が、むしろ大切なことであろう。
 琉球とは人種上の関係が違うが、アイヌに英雄の行為を叙した叙事詩のあることから、『古事記』の記載をそれと同じ方法で伝承せられたものとするかんがえもある。これはアイヌに叙事詩のあることから日本民族の上代にもそれと同じ性質のものがあったはずであると推測し、この推測の上に立って、現に存在する『古事記』がそれであると考えるのか、ただしは『古事記』の記載が古くから口誦によって伝承せられたものであるということを根拠として、それからその伝承の状態はアイヌの叙事詩の如きものであると推測するのか、明かでないが、もし前者ならば、それは、叙事詩の作られ伝承せられた時代のアイヌの生活と上代日本民族のそれとを同一視すべき特殊の理由があるとするか、またはアイヌに叙事詩のあることがすべての民族に叙事詩のあったことの証明になるとするか、何れかを仮定した上でなくては、いい得られないことであろう。ところが、アイヌと上代の日本民族とは、全く生活を異にし歴史を異にし、根本的には人種を異にしているのであるから、第一の仮定は到底成立つまい。また第二の仮定は、すべての民族を通じて文化の発展に一定の段階があり、その或る段階においては、必ず叙事詩が作られるはずであるとでも考えなければ成立たないであろうが、そういうことが果して考え得られるかどうか。かかる考えかたをするならば、それは単に叙事詩のみについてのことではなくなり、問題はずっと大きくなって来るし、歴史的事実として、すべての民族が果して叙事詩を有っていたか、またそれを有っていたことの明かな民族だけを見ても、その作られたのが、果して同じ程度の文化の段階においてであったか、大なる疑問であるが、それはともかくも、こう考える以上、日本民族の上代を推測するには、アイヌには、もはや特殊の意味がなくなる。次にもし後者であるならば、『古事記』の記載が古くから口誦によって伝承せられたものであるということが、先ず論証せられねばなるまい。『古事記』の記載の内容を検討すれば勿論のこと、そうするまでもなく、序文を誠実に読んだだけでも、稗田阿礼ひえだのあれは直接に書物を取扱ったものであることが明白に知られるはずである。あるいはまた『古事記』と大同小異の内容を有しその文体までもほぼ同様であったと推測せられる幾つもの書物が『書紀』に採録せられていることからも、それがわかろうではないか。しかし、余は今ここに余自身の見解を根拠としていおうとは思わぬ。ただこの口誦伝承説は世間で漠然信ぜられているらしいにかかわらず、それが如何なる理由によって主張せられたものか、明かでないから、その論証が必要だというのである。なお、『古事記』の記載の伝承の状態をアイヌの叙事詩のそれによって類推しようとするならば、両者の内容と外形とのどの点に一致もしくは類似するところがあるかを明かにしてかからなければならぬことは、いうまでもあるまい。が、疑問は疑問として置いて、アイヌには英雄を歌った叙事詩があるのに、日本民族の昔にはそれがなかったとして、それが不合理であろうか。余はむしろ、それが当然であろう、少くともそれは解釈し得られることであろうと思う。金田一きんだいち氏が最近公にせられた尊敬すべき業績によって私に考えると、アイヌの英雄を歌った叙事詩はアイヌ人の狩猟本位の生活、部族割拠の生活から生まれた戦闘を主題としたものの如く解せられ、それに現われているように、アイヌが神の力、呪術じゅじゅつの力を頼むことの強いのも、そういう生活によって特に刺戟せられたところもあろうと思われるが、農業本位であり、早くから政治的統制の存在した日本人の生活は、上代においてもそれとは全く違ったものであり、叙事詩の主題となり民衆の血を湧立せるような民衆自身の戦闘が少かった。小国家間の戦争がよしないではなかったにしても、それは君主の戦争であって民衆のではなく、そうしてそういう戦争すらも稀であって、上代の日本人は概して平和の生活を送っていたらしい。神の力や呪術の力を頼むことは日本人でも同様であったが、平和の生活、日常の生活におけるそれは、叙事詩の主題とはならないのである。アイヌのに限らず、一般の例として叙事詩の主題は何らかの異常の事件であり、上代のにおいてはそれは概ね戦闘であるが、これは叙事詩というものの本質から来ることであろう。叙事詩は行為を叙するものであるが、それが民衆の間に伝誦せられるものである以上、その行為は民衆の感情を昂奮させるものでなくてはならず、従って民衆の精神の具体化せられた英雄の行為であるのが、当然であり、異常の人物によって行われた異常の事件たることを要するのである。さてこの解釈の当否はともかくも、アイヌによって日本の上代が聯想せられるならば、アイヌが何故にああいう叙事詩を有つようになったかをアイヌの生活から考え、そうしてそれと同じ事情が日本の上代にもあったかどうかを討究しなければならぬことは、明かであろう。また『古事記』を民衆の間に伝承せられて来た叙事詩と解し得られるかどうかに至っては、その詞章が吟誦せらるべく何らかの律格を具えたもの、一定の方式によって伝承せらるべきようにつづられたものであるか、全体の組み立てや叙述の体裁が叙事詩としてふさわしいものであるか、またそこに民族的英雄がはたらいているか、民衆の精神や感情が現われているか、叙述の態度が詩人的であるか、などの諸点を十分に考えてかからねばなるまい。あるいは『古事記』の全体が叙事詩でないにしても『古事記』の材料として叙事詩がられているのではなかろうかという疑問も起ろうが、それにしても上記の問題の討究が必要である。なお『古事記』の物語には宗教的感情の稀薄であることをも、注意しなければならぬ。神代の物語とても宗教的に信仰せられている神のはたらきが、ほとんど語られていないし、いわゆる人代の部分においても人間の葛藤に神の関与する説話がない。神功皇后の物語において神の威力は示されているが、神みずから戦闘に際してはたらくのではない。これらもまた行為を叙する叙事詩としてふさわしいことであるかどうか、考うべき問題であろう。物語の上で神がはたらかないことについては、当時の宗教的信仰において神が人格を有せざる精霊であったことをも知らねばならぬが、もし叙事詩が作られるようになったならば、神に人格を附与する一契機がそこにも生じたであろうに、そうならなかったのである。これは『古事記』についてのことであるが、もし『古事記』もしくはその主なる材料となったものの外に、広く民衆の間に行われていた叙事詩があったならば、文字が一般に用いられるようになってから、それが書き写されたであろうと思われるのに、そういう形迹けいせきが少しもないことをも考えねばなるまい。
 神代の物語に宗教上の神が殆どはたらいていないという上記の言は、一見奇怪のようであり、実際、一般にはそう考えられていないように思われる。神代の物語の主要なる人物であるスサノオの命を暴風雨の神とする説は、かなり久しい前から世に行われているし、またイサナギ・イサナミの神を天と地との神とするような解釈もあるのであるが、それは、これらの人物を宗教上の神として考えるからであろう。神代の物語に現われている人物であるためにそれらを神と考えるのは、一応は当然のことといわれようし、特にイサナギ・イサナミは『古事記』には明かに神と呼んであるから、猶さらそう見るに理由がありそうである。が、果してそう考うべきものであろうか。余は、わずかに一、二を除く外は、神代の物語において活動している人物は宗教的の神ではなく、稀に宗教的の神があってもその宗教的資質においてではないと思うのであるが、これについても、今ここにそれを論拠としていおうとは思わぬ。ただ上記のような見解で神代史の記載が自然に説明し得られるかどうかが疑わしいとだけは、いってもよかろう。が、こういう考えかたは、神代史の記載をいわゆる「神話」として見ようとする態度からも来ているのではあるまいか。神話と訳せられている語の意義、またはこの訳語の適否には、議すべき点があるが、それはともかくも、宗教的意味における神の物語がいわゆる神話の主要なものであるとすれば、多くの民族のそういう物語、またそれを取扱う神話学の知識を有する今日の学者が、その知識によって神代史を解釈しようとするところから上記のごとき考えかたの生ずるのは、自然の傾向であろう。一般の世間では、あるいは神話という訳語に累せられている気味さえもないではないかも知れぬ。が、日本の神代史を、無条件に、そういう意味の神話として取扱うことが果して正しいか否か、それが問題ではなかろうか。そうしてそれを解決するには、まず白紙となって記紀の神代史そのものを文字のままに誠実に読み取り、同時に神代史を作り出した日本の民族生活もしくは政治形態との関聯においてそれを考察することが、必要であろう。神代の物語の人物が宗教上の神と見なさるべきものであるかどうかも、その上で知り得られることであろう。神代史の組織分子となっている種々の説話のうちには、他の民族に存在する説話と共通のもの、もしくは対照すべきものも含まれているにちがいなく、そういうものの比較研究によってその意義の知られることのあるのも、一面の事実であるが、すべての説話がそうではなく、よしまたそういうものにしても、それが如何なる意味で神代史に採入とりいれてあるかは、一つの組織体をなす神代史の全体の意義を明かにしなければ、正当に理解することができないのであり、そうしてその全体の意義は、日本の神代史に特異なものではなかろうか。神代史特有の説話については猶さらである。よくその意義のあるところを明かにしたならば、日本の神代の物語の多くは普通にいう神話として解釈すべきものでないことが知られはすまいか。現代の学問が西洋の学者の研究によって指導せられているため、彼らの考察の未だ及ばざる我が国の事物を解釈するにも、おのずから彼らの考え方の型にあてはめる傾向のあるのが一般の状態であるが、もはやそれを改めてもよい時期であろう。
 方面は全く違うが、近時行われはじめた社会史的考察においても、また日本の上代の社会を西人の研究なり学説なりの型にあてはめて説こうとする傾向があるらしい。その最も甚しいのは、記紀、特に『書紀』の記載をそのまま歴史的事実と見なし、あるいはそれを民族の由来や建国の事情を語るものと解し、そうしてそれを原始的な社会組織や国家の起源に関する或る学説によって解釈することである。そのよるところの学説や考えかたの如何いかんしばらく問題外として、単にこれだけのことを見ても、そこに二つの大なるあやまりのあることが知られよう。一つは記紀の記載の見かたであるが、しかし、これはむしろ従来の国史を説くものに普通な解釈に従っているのであるから、深くとがめるには及ぶまい。ただこういう解釈はかなり曖昧あいまいでもあり無理でもあり、少しく注意して見れば、常識からでも多くの疑問をれ得るものであるに拘わらず、それに対して批判を加えようとせず、無造作にそれを受け入れているのは、不思議なほどであって、そこから種々の誤謬が生ずる。例えば、国家の起源を説こうとするには、日本民族が一つの国家に統一せられない前に存在していた多くの小国家が如何にして形成せられたかを第一に考察しなければならぬのに、それを思慮せず、初から今日の統一的国家が作られたように見る類がそれである。さて、記紀の記載を日本民族の原始的な状態もしくは最初の国家建設を語るものとするにしても、それを上記の如く或る学説にあてはめて解釈しようとするのが第二の誤である。本来、余は現在の未開民族によって文化民族の上代を推測する方法については、種々の疑義を抱いているのであり、それに一面の理由のあることは承認せられるけれども、無条件に許さるべきものではなかろうと思われるので、従ってそういう方法によって導き出された仮説にも十分の信用を置きかねるのである。が、それはともかくもとして、従来西人によってなされたこの種の研究には、日本の民族が材料として取扱われていないのであるから、この点から見ても、こういう仮説がそのまま日本民族の上代を解釈するために適用せられ得るものかどうかは、大なる疑問であろう。たとえば、牧畜生活ということを社会組織の発達の径路において重要視するような考えかたは、そういう生活を経過した形迹のない日本民族には、初からあてはまらないものではあるまいか。社会組織もその発達の状態も、風土や、その上における生活の様相や、土地に対する人口の多寡たかや、または移住の径路や四隣の民族との関係などによって、民族的特異性の多いものであることが、推測せられねばなるまい。ここでもまた、社会及び文化の発達に一定の順序があり段階があると考え得られるかどうかの問題に逢著しなければならず、従ってまたおのずから、そういうことを取扱う科学が如何なる意味において成立するか、如何なる方法によってそれを成立させるかの問題にも考え及ばねばならぬが、それもここでは論外に置く。ただ従来の西人の研究に成る仮説を、漫然、日本の上代に適用するのが危険であるということだけは、断言して置かねばならぬ。或る程度の参考にはなるに違ないが、参考にするにしても、それに対して十分の検討を行い、如何にしてそれが成立ったか、また如何なる点が如何なる意味において参考となるかを明かにした上でのことである。或る学説にあてはめて上代の文献を解釈し、その解釈によって却ってその学説を証明しようとするような態度を取るべきではない。これは記紀の記載を上記の如き見かたで見た場合についてもいわるべきことであるが、もし記紀の研究によってその記載が日本民族の由来をも歴史的事実としての国家の起源をも語るものでなく、まして原始的な社会状態を知る材料などにはならないものであることが知られたならば、こういう学説をそれにあてはめることは、全然、見当違いであることがわかるであろう。なお、個々の問題を考える場合にも、西人の学説もしくはその主たる材料となった西方の民族に関する知識によって臆測せられがちであって、かの奴隷の問題の如きも、上代には一般に奴隷制度があったという仮説と、日本の上代を考えるにも、すぐにギリシャやロオマが想起せられるのと、この二つから誘発せられた点があるらしい。もっともこれには用語による誤解もあるように見えるので、奴隷の訳語が今日一般に行われているのと、奴の字のあてられたヤッコが上代にあったのとのため、ヤッコの語義をもその状態をも深くきわめずして、奴隷の訳語によって知られている如きものが我が上代にもあったように漠然思いなされた気味があるのではあるまいか。近ごろの国史家によって用いられている氏族制度という語と、家族、氏族、部族などと訳せられている西方民族の上代もしくは未開民族の間における種々の社会形態とを不用意に結びつけ、あるいはむしろこれらの訳語によって示されるようなものが我が上代の氏族制度であった如く考えようとするのも、同じことである。訳語を介して考えるというのではない。国語の意義を明かにしないため、それと同じ語が訳語として用いられる場合、その訳語のあてられた原語の意義によって却って国語を解釈しようとすることをいうのである。こういう例は他にもあるので、封建という語によって支那の上代の政治形態、むしろ社会形態を、ヨオロッパの中世時代のようなものと思う類がそれである。
 之を要するに、近ごろ目にふれる上代史に関する考察のうちには、ともすれば、歴史的変化を軽視し、民族生活の特異性を重んぜず、あるいは思想や信仰やその他の文化上の現象を全体の民族生活から遊離させて考えること、文献の誠実なる研究をつとめないこと、また西人の学説を無批判に適用すること、などから来る欠陥の認められるものがあるように、余は考える。すべてがそうであるというのでないことは勿論である。が、世に喧伝けんでんせられる考説のうちに却ってこういうものが少なくないように見うけるのである。そうしてそれは、約言すると、史学的方法を顧慮しないために生じたものである。歴史は特異なる民族生活の発展を、そのままに、具体的に、取扱うものであり、従ってその特異性を明かにするのが任務であること、歴史的研究の第一歩は史料たる文献の誠実なる検討であるべきことを思えば、このことはおのずから知られるであろう。民俗、社会、文化に関する一般的科学の成立を疑うものではないが、そういう科学の的確な材料は、特異なる民族生活の特異なる事実であり、科学者に向ってそれを供給するものは、主として史学者であるべきはずだと思う。特に従来殆ど顧慮せられていない日本の民族生活の真相を明かにして世界の学者に新材料を提供し、彼らをして旧来の学説を修正せしめるのは、日本の史学者の責任である。が、史学者の仕事がそこまで進んでいない。日本だけについていっても、上に述べたような欠陥の認められる考説が概ね史学者ならぬ方面から出ているのは、故なきことではないが、諸方面の志ある研究者をしてなおかつかかる欠陥を免れ難からしめるのは、寧ろ史学者がその任務を怠っているからであるといってもよかろう。





底本:「津田左右吉歴史論集」岩波文庫、岩波書店
   2006(平成18)年8月17日第1刷発行
   2006(平成18)年11月15日第2刷発行
底本の親本:「思想 一一〇」
   1931(昭和6)年7月
初出:「思想 一一〇」
   1931(昭和6)年7月
入力:門田裕志
校正:フクポー
2017年8月25日作成
青空文庫作成ファイル:
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