大正11年3月に、旧土人保護法施設として完備された道立白老病院の院長とし、高橋氏が赴任されてからも37年になる。その間、土人部落の一員として、文字通りアイヌや一般の人達とともに、その生活の労苦をあじわってきたわけである。77歳の高齢をもって、いまなお
白老の名誉町民第一号の氏にたいし、いま老人の人達は、全山紅葉の時期までには氏の胸像を完成させ、その除幕式をかねて高橋氏の功績
私はそこで、なぜ高橋房次氏が、白老の町民一同から銅像をおくられるようになり、どういうわけでこの白老町にとどまっているかということと、氏が白老の医者になった、赴任当時の様子など具体的な例をもならべたてながら、氏のヒューマンな人間性の一面を語って行きたいと思う。
明治15年、栃木県下都賀郡で生れ、その後、36年3月に東京慈恵医学専門学校を卒業し、翌年7月に軍医官として日露戦争に従軍、戦争後、明治40年8月から42年7月までの間を警視庁にあって検疫委員として在職し、42年8月には、青森県町立田部病院の院長として赴任した。大正4年5月まで、そこでの生活は続いている。
その後大正4年6月に渡道して、日高支庁管内の新冠村の村医になり、在郷軍人分会長をかねながら、村民の与望を一身ににない活躍した。
大正11年3月、高橋氏は新冠村にわかれをつげ、庁立白老土人病院長として白老に着任した。村医嘱託もかねたらしい。
昭和12年6月には、旧土人保護法の廃止により、道立白老土人病院は閉鎖されたが、以後その場所で開業し、ずっと村医としての責任も持たれ、今日にいたっているのである。昭和30年9月には、白老町名誉町民に選ばれ、同32年6月には北海道医師会から表彰をうけている。
大正11年3月に、旧土人保護法の一環として完成された白老病院の院長として、貧困と悪習のはびこるなかに、氏はあえて赴任された。
他の土人病院設置候補地であった平取、静内などの町村をしりぞけ、白老に病院をつくりあげた土人協会の人達にとっては、まさに
高橋氏は、最近はもうほとんどのまれないのだろうが、以前は随分酒がいけたように記憶している。白老の土人部落の長老達の話によっても、氏は酒をのむとよく医療と土地は国によって管理され、営まれていかなくてはならないという、マルクスばりの主張をされたそうであるし、医療をつうじて金をとるなどとは、全く馬鹿げたことであるとさえ極言されたそうである。
持論を徹底的におしすすめて、50数年にわたる医師生活の中に、一本筋を通しつづけた情熱に白老の町民が感動し、無条件で高橋氏の人格を受けいれているのではなかろうか、「恵まれないアイヌや白老の人達に、それをするのが私の使命だよ」という言葉の中に、氏の一面を見ることができるのであるし、また今もって自分の病院に、高橋医院なり病院という看板を出さないところに、私は高橋氏の真面目をくみとることができるのである。
白老の町は、むかし白老村といわれていた当時から、平取、近文などの地と同様に、アイヌ部落があることによって知られていた。
明治22年には、コタン旧土人の給与地として、現在の土人部落付近を指定して、ウヨロ、ブウベツの地から70余戸を移住させ、大正11年3月の高橋氏の着任当時には、総勢800人ほどのアイヌによって部落は形成されていた。アイヌにとって、まさに宿命ともいうべき結核をはじめ、眼疾、内臓疾患、その他悪性の病気がおおく、滅びゆく民族としての哀歓を、白老の空いっぱいにただよわせていたのだが、氏は昔ながらの
患者の診察にあたっては、いつでも温かく、例えば、とかく医者を業とする人達の中に、私事にふけって長々と患者をまたせたり、急患往診を場合によっては(相手にもより、時間にもよるが)渋ったり、あげくのはてには断るという、我がままな人がおおいようだが、高橋氏は、ただの一度も患者を落胆させたことはなく、どうせ行かなくてはならないのだし、行くからには一分一秒でも早く出かけて、患者をよろこばしてやろうと、病床に苦吟し、高橋氏の到来を待ちかねる患者の身になって終始した。
真暗闇の山道を、手さぐりで往診にでかけたこともあるし、三里も四里もの山奥に、気軽に自転車で出かけることもあった。汽車に乗って、わざわざ数駅も先に往診に出かけるなど全く普通のことである。高橋氏が、白老に住みついたから[#「住みついたから」はママ]10年後の昭和7年には部落民全員が一堂に会し、時計をおくって氏の篤行に感謝した。
37年間、もくもくとしてつちかってきたこのような功績は、日ましに認められ注目されてきたが、今や高橋氏の存在は、白老のみならず、特殊環境下の病院施療の先達として、ひろく内外にその名を知られてきたのである。
氏に関する挿話は随分沢山あるようだが、いずれも半ば伝承的に物語として次の世代に語りつがれて行く傾向がある。ちなみに部落の長老に、高橋氏についての話をきくと、彼等は、昔ばなしを子供達にきかせる親ででもあるかのように、深く静かに瞑想し、得々として語りだすので語るにふさわしい、いくつかの事実
高橋氏の、考古学に関する
最近はあちこちに分散し、氏の手許に残っているのは数少なくなったとか、本当のことであればこれ以上残念なことはない。その他、高橋氏自身の興味をそそることはというと、沿岸地方の農、漁業に関する知識である。氏は様々な業種を持つ患者を訪れることにより、つねに各層の人達と接し、とりかわされた会話の内容を整理、記憶して、脳中に格納する権威である。知識欲は少しも衰えず、今もたえず勉強を続けている。読書家であることともに、氏のすぐれた一面を語るものである。
色あせたカーテンや、
昭和25年に、国民健康保険病院ができるまで、白老の町なかでは、高橋さん以外の医師を見つけだすことは不可能だった。30数年この方、たった一人の医師として、町中の人の世話をしてきたのである。この長い期間に、二度にわたって白老の市街地で、開業をした医者がいたのだが、いずれも一カ月とはもたないで、閉院のうきめを見ているのである。保健、衛生的な考えからしていくと、決して歓迎すべき事態ではなかったが、これはひとえに、氏の人柄によるものであって、全く仕方のないことであった。多少立場を
大げさな看板で、患者を集めて施療するでもなく、氏は、なんの迷いもなく、部落の人達の中にとけこんだ。当時、社会事情下におけるアイヌの特異性を考えると、これは勇気を要することであった。ためらいもなく、貧苦のどん底にあえいでいたアイヌの生活に、氏は、誰よりも気持良く、あたたかい手を差しのべたのである。
今では、コタン(土人部落)の人や、町の人の結婚式に、氏の存在は無くてはならないものになり、必ず招かれて行くのである。誕生祝や出産のお祝いに、いつでも、どこでも気軽に出かけて行く。
氏にとって、最大の慰めはなにかというと、時折訪れてくる学究の徒や、コタンを出て、一人前になって働いている青年が、休暇に立ち寄った時である。最近は、好きなタバコにも手が出ないと、高橋氏の近況を報せてくれた人がいたのだが、益々自愛専一に、頑張ってもらいたいものである。
白老川をさかのぼること約14粁、本流の左手には、ささやかな部落がある。むかしから、ホロケナシという名でしられた農村である。この付近の土地に、昭和7年、三十五、六戸の移住民が入植した。彼等は、文字通りの無一文で、何年も何年も、雑木林や火山灰地と闘った。この“森野”に住む人で、高橋氏のことをあしざまにいう人は見つからない。
彼等にとって、氏は恩人なのである。夜の夜なかでも、急患が出たとなると先生は、それこそ大いそぎで自転車にまたがって、三里半の道のりを力づよくペダルをふんで行くのである。季節のものを、荷台につんでいって、まち構えている子供達に、分けあたえるということも、決して珍しいことではなかった。医療費の催促などは、先生が白老にきてこのかた、ついぞ耳にしたこともない。
吹雪をついて、雪だるまのようになって
身寄りもない、たった一人の老婆が、コタンの廃屋で病んでいた。わたのはみだした布団にくるまり、ボロボロの着物をまとい、力なく、ただぼんやりと横になっていた。そんな話をききしった先生が、毎日そこに出かけて行き、薬治に万全をつくしたことはいうまでもないことだ。
病床の老婆は、薬をもらう度毎に、「先生さん、お払いできる金がないんです、すまないからもういりません」涙をこぼす老婆に、「早くよくならなくては、この薬をのんで、横になってるんだよ」先生はどんなときでもニコニコと笑っている。老婆が気にかけていたことには一切構わず、息をひきとるまで先生はせっせと治療に通った。老婆は勿論、コタンの人達は先生の話をきいて、感激した。
幌別という駅が、白老から六つほど先にあるのだが、或る時そこの町に急患が出て、町医者を呼びにその家の者が飛んで行ったことがある。日頃、貧しいということで知られていたこの人に、近所の町医者はなんくせをつけ断った。病人の苦しむのを見て、この人は高橋氏のことを思い出し、とにかく頼まなければということで、先生の許に電報を打ったのである。夜汽車に乗って先生はかけつけた。
この人は、それからせっせと仕事に励み、実費以下にしてもらった費用を半年後に、無事送り届けることができたのである。この人の家族は、どんなときでも町医者の世話にならずに、汽車にゆられて、先生のもとに行っている。
昔は、本物のアイヌがおおかったコタンに、和人と化した子供や孫が、無心になって遊んでいる。規則正しく、割りふりをされた敷地の中に、今は普通の家が立ちならんでいるのだが、かつては藁ぶきの家屋が、きまって南向きに小窓を二つあけて、ポツンポツンと立ち並んでいた。
その頃のアイヌの生活はまったく
私は、氏の残された足跡をふり返り、その偉大さに驚くとともに、氏が白老一円にまかれたところの“善意の種子”が、いたるところで成長し、社会生活にとけこんでいるのを見て、改めて白老のシュバイツァー「高橋房次」の名を認識させられるのである。
幸いに、今度高橋氏のために功績顕彰会をもよおすとか、30数年間の間、ただひたすらに部落民の幸福を願い、開拓者、一般の人の別なく、愛情をふりそそいできた氏の心境は、いかばかりかと思うのである。
白老に住んでおられるということは、つまりは北海道の大地に、足をふまえて立っていることである。私は、北海道のためにも、高橋房次氏を誇りとし、長くその名をとどめたい。
〈『日本』第二巻第十二号 昭和34年12月〉