アイヌ宗教成立の史的背景

知里真志保




 座長(小林高四郎)では知里さんにお願いします。
 知里(真志保)私ははじめ、言語から見たいわゆる貞操帯の起源、というような演題でお話しようかと思い、いささか資料も準備して来たのでありますが、はからずも先刻に河野広道氏がその問題にふれられ、ご親切にも私の持参した新資料―樺太アイヌのチャハチャンキ(chax-chanki)までも自発的に紹介の労をとって下さったので、その問題は一応ひっこめることにいたします。貞操帯に関する論議はなかなかデリケートな点にもふれなければなりませんし、かたがた病床から起きだして来たばかりの私にとってはそのようなよけいな神経を使うのはいささか重荷でもありますので、ここではアイヌに存在した呪術的仮装舞踊劇のことをお話して、神話の起源にふれ、神の観念の形成される史的背景を明らかにし、さいきん問題になっているイオルやパセオンカミの問題にもふれてみたいと存じます。

一 アイヌ社会に於ける呪術的演劇の存在


 アイヌの社会に於ては、他の未開社会の場合と同様に、呪術というものが非常に大きな働きを演じているのであります。たとえば、彼等が山でマイタケを見つけたといたします。マイタケのことを樺太では“イソ・カルシ”(iso-karus)と云い、北海道では“ユク・カルシ”(yuk-karus)と云い、いずれも“熊きのこ”の意味でありますが、樺太の白浦しらうらでは、この“きのこ”の生いかけを見たら、棒切れでその廻りの地面に大きな輪を描いたと云います。それほど大きくなれといったような意味でありましょう。秋になってこの“きのこ”を取る時は、必ず、まず槍を構えて、掛声もろとも突き出すまねをしてから取ったと言います。あいにく槍を持ちあわさぬ時は、手頃の木を切って槍のようなものを作り、それで突くまねをしてから取ったと云います。つまり熊を取る時と同じような気持ちだったと見られるのであります。北見の美幌びほろでは、この“きのこ”を見つけると、熊を取った時のように、男は「フォー、フォー」と高らかにときの声をあげながらその廻りを踏舞し、女は「オノンノ、オノンノ」と歌いながら踊ったということであります。釧路の塘路とおろでは、この“きのこ”を見つけると、男なら陣羽織、女なら楡皮製の厚司あつしの着物を着て、そのまわりを踊り、それを脱いで、「取っかえよう、取っかえよう」と言って、おじぎしながら取ったと言います。もう一つ例をあげますと、胆振の幌別では、山へ薪を取りに行って、二本の木が両方から寄ってからみ合っているのを見つけると、男女が取っ組み合ったまま、そのまわりを六回まわってから、それを切り倒したということであります。
 これらは単純な呪術の例のように見えるのでありますが、実はアイヌの社会に古く存在した呪術的仮装舞踊劇の零落した姿なのであります。そのような呪術的仮装舞踊劇の一つの例として、ここに難産の際に演じられた呪術的演劇を挙げることができます。

二 難産の際に行われた呪術的演劇


 樺太では、難産の際、一人の男が犬の食器の先に“イナウ”(inaw 木の幣)をつけたものを手に持って産婦の家の外に立ち、戸を細目に開けて、次のように言うのであります。
「私の孫が難産で苦しんでいるのに、なぜ早く私に知らせてくれなかったの? 私が来たからには、すぐ産みますよ!」
すると、炉ばたから一人の男が立って行って、
「ほんとに俺が悪かったよ、近所にお前が居るのに、それをすっかり忘れて、早く知らせもしなかった、ほんとに俺が悪かった」
そう言いながら、戸をがらりといっぱいに開けて戸外に飛びだします。すると、まもなく、赤ん坊は安らかに呱々の声をあげて生れるものだったということであります。
 ところで、最初の男が手に持った犬の食器というのは、幅約26センチ、長さ約2メートル60センチの、丸太を二つ割にして手彫した舟型の木器であります。最初の男がこれを手にしたのは、もちろん犬に扮するためであり、犬に扮するのは、犬は産の軽い動物であるから、それにあやかるためであります。つまり、犬の孫娘とあれば、お産も軽くてすむ筈だからであります。
 また、第二の男が、細めに開けてあった戸をいっぱいに開いて戸外に飛出したのは、アイヌ語で子宮を“ポ・アパ(po-apa 子の・戸口)と呼んでいることでも知れる通り、お産とは、赤ん坊がそのいわゆる“子の戸口”の戸を押し開けて出て来ることだと考えていたからに他ならないのであります。
 このような、いわゆる模倣呪術にもとづく原始的な演劇が、古く風鎮めの呪法としても行われていたことは、江戸時代の文献が、明らかにそれを伝えているのであります。

三 風鎮めの呪法としての演劇


『津軽紀聞』という本があって、高倉新一郎氏によればそれは今からおよそ二百年近くも前の、宝暦8年(西紀1758)の著述と推定されるものでありますが、その本の上巻に、松前蝦夷地の風俗の聞書として、“日和ひよりもふし”という行事の記事が見えております。“日和申し”とは、天気願いの意味でありますが、それには次のように書いてあります。
「彼地風雨しげく、海上波荒れて、久しく漁猟なりがたく、舟の渡海もなりかたき時は、所の者を雇いて、日和申しをする。まづ、人数四五十人も雇いて、一方へ四五十人づつ、両方へ立ち分れ、さて合図を以て、双方より、相互に銘々鞭をもつて、眼鼻もわかたず、はげしく打ちあうこと、しばらくあつて、後、東風を祈る時は、西方の者ども負けて引しりぞくを、東の方から追いくずす。北風を祈る時は、南北に立ち分れ、南の方の者ども、負けて引退くを、北に立ちたる者ども、これを追いまわる。晴天ばかりを祈りて、風を望むことなれば、惣勢一所に集まりて、天を拝して去る。予が知りたる人、彼地へ渡りし事ありて、久しく日和悪しく難儀せしに、この時すすめし事ありて、執行せしに、忽ちに、よき追風を得て、古郷へ帰りしと聞く。この時、自然と追風を得て然るにや、但し又、件の事をとり行いし故にや、計りがたし」
と、いうのであります。
 文献には、風鎮めの呪法として記録されているにすぎない、このような呪術的演劇が、本来は、古く、お祭の際に演じられている習いであった、原始的な仮装舞踊劇と密接な関係に立つものなのであります。そのことは、現実の祭儀が、それを示しているのであります。即ち、北海道の西南部、胆振国山越郡八雲地方では、明治になってからでも、鮭漁に関する風鎮めのお祭に於て、そのような仮装舞踊劇が演じられていたことを、土地の故老は記憶しているのであります。

四 風鎮めの祭儀と仮装舞踊劇


 胆振国山越郡八雲地方では、秋になって毎日東風が吹き荒れ、そのためにユーラップ川に鮭が入って来ない時には、コタンの人々が川口の浜辺に集って、そこに“ヌサ・サン”(nusa-san 幣棚=祭壇)を設け、盛大なお祭を行って、風が早く凪いで鮭が川に入って来ることが出来るようにと、神々に祈願をこめました。それを“ペウレチェプ・エカノク・イノミ”(pewrechep-ekanok-inomi 走りの鮭を・迎える・祭)と申しました。その際、祈願が終ると、コタンの若者の中から、四人の者を選び、東、西、南、北の風の神に扮装させます。その際、西風、南風、北風の三神は、善神であるから、よい着物とよい礼帽をつけさせます。また、東風は、悪い神なので、やぶれた着物を着せ、髪をおどろにふり乱させて、やぶれた古い礼帽をつけさせます。最初にこのぼろの着物を身につけた東風の神が、舞いながら祭場に出て来ます。やがて、美しい衣裳をつけた、他の風の神達も、それぞれの方角から、舞いながら出てきます。東風の神は人々の間をはねまわり、砂をかけ、水をかけ、あらゆる乱暴狼藉をはたらきます。それを見ると、他の風の神達は東風の神を追いかけ、とりかこみ、水際に追いつめて、遂には、海中に追いこみます。彼は着物をびしょぬれにしながら海中を逃げまわり、最後に岸に這い上って、他の風の神達や会衆の前にひれ伏して、「もう決して乱暴はいたしませんから許して下さい」と陳謝いたします。それで、このお祭は終るのであります。
 漁撈に関して行われたこのような風鎮めの祭は、古くは酋長たるシャーマンが祭主となってとり行われたものであり、その際に演じられる習いであった風の神退治の演劇は、さらに古くは祭主たるシャーマンの妹と称せられる女のシャーマン(巫女)が、風の神の役割を演じ、祭主たるシャーマンがそれを退治する趣向の仮装舞踊劇であったらしく、風の神退治の神話がそれを示しております。そのような神話は各地に数多く伝えられているのであります。が、ここには日高国沙流郡新平賀村しんびらかむらで“ペネクマカ、ヘ※(半濁点付き片仮名ツ、1-5-93)※(半濁点付き片仮名ツ、1-5-93)イ”という折返しを以て歌われていたものを紹介しておこうと思います。歌う主人公は北風の女神であります。
「ペネクマカ、ヘ※(半濁点付き片仮名ツ、1-5-93)※(半濁点付き片仮名ツ、1-5-93)イ(この折返しは以下各節の冒頭にくりかえされるのであるが今は省く) 柔かい絹の冠りもの、柔かい絹の手ぶくろ、一揃わが身につけて、わが領有する高嶺、高嶺の東、われそこへ立ち廻って、幾十となく、幾百となく、踏舞の足跡を、われは次から次とつけていった。それと共に美しい凪が眼前に打ひらけて、オキクルミ・サマイウンクル一人乗で沖漁に出て来た。ぼろの冠りもの、ぼろの手ぶくろ一揃、われは身につけてわが領有する高嶺高嶺の西、われそこへ立ち廻って、幾十となく幾百となく踏舞の足跡を次から次へとわれはつけて行った。海面一帯はたはたと騒ぎ立ち底の海、上になり、上の海、底へ落ちこむかのように見えた。それからオキクルミは、大浪の谷底へ追い落され漕ぎつづけて行くうちに、手のおもてから手のうらから、夥しい血まめが見る見るぶらさがっていく。サマイウンクルは力尽きて死んだ。オキクルミは、ただ一人になって漕ぎつづけて行ったあげく、手廻の品々を入れてある袋の中を手さぐり手さぐりして、イケマの小弓、イケマの小矢を前にとりだし、大空のおもてをにらみにらみ、ひょうと射はなった。よもやそんなことがあろうとは思い設けなかったのに、全く突然わが手さっとしびれわたり、わが片手ぽっきりと折れた。けれども、わが片手をわれ振りあげ振りあげ、幾千幾百となく、踏舞の足跡をわれは重ねて踊った。すると、やがてまたもやオキクルミは、大空のおもてをにらみにらみ、イケマの小矢を射はなった。またもやわが片手ぽきりと折れた。それでも、わが胴体だけで踊りつづけ跳ねつづけていた。またもや大空をオキクルミは、にらみにらみ、ひょうと射はなった。わが片目を、イケマの小矢が射ぬいた。またもや射はなった。わが片目へずぶりと立った。そのためにわれは死んだのだから、今いる風の魔神たちよ決してそのような振舞はせぬがよいぞや!」
 この神謡は、北風の女神が悪い風を吹かせて、人間を苦しめ、そのために人間の祖神オキクルミに罰せられるいきさつを、北風の女風が、“自らの体験を語った”という形式で述べた物語であります。神謡は多く何某神が“自らの体験を語った”という文句で結ばれていますが、その原語は“ヤイェユカル”(yay-e-yukar)で、“自分・について・まねる”“自分の体験を演技する”“自分の体験を所作で表わす”ということであります。神謡は、もと祭儀の際に現実に演じられた演劇の詞章であったことは、その点からも明らかであります。しかも、オキクルミというのは、古い社会に於けるシャーマンたる酋長だったと考えられますので、この神様は、もともと、そのようなシャーマン酋長の司祭する風鎮めの祭儀に於て演じられた仮装舞踊劇の詞章であり、そのような仮装舞踊劇に於ては、前にも述べたように、祭主たるシャーマンの妹と称せられる巫女が、風の神の役を演じ、祭主たるシャーマンがそれを退治する役割を演じる趣向のものであったことが、想像されるのであります。“ペネクマカ、ペ※(半濁点付き片仮名ツ、1-5-93)※(半濁点付き片仮名ツ、1-5-93)イ”(penekuma-ka-pe-tuytuy)というこの神話の折返しは、「びっしょり濡れた魚乾し竿の上から水が垂れ落ちる、垂れ落ちる」という意味に解せられ、ぼろぼろの服装を身につけて風の神に扮した者の、水をまいて盛んに暴れ廻っている光景を、さながらに示しているものと考えられるものであります。

五 熊祭と仮装舞踊劇


 アイヌ民族の最大の祭典である熊祭に於ても、古くはそのような仮装舞踊劇が行われたことについては、その際の詞章であったと考えられる神謡の形式や内容の検討からも、その神謡から発達したと考えられる「ウエペケレ」と呼ぶ散文の物語の内容からも、またそういう神謡や物語に示されている神々の生活に関するアイヌの観念の分析からも、現実の熊祭の周到な観察や、その際に歌われる踊り歌の意味の探求からも、或は子供の間に行われる遊戯の観察からも、たやすく察することが出来るのであります。ところで、それを述べる前に、熊祭とは一体、何であったか、ということについて、ちよっと[#「ちよっと」はママ]触れておきたいと思います。
 アイヌは、古くから、漁撈と狩猟とで暮してきた民族であります。彼等は、春から秋までは、水辺にいわゆる夏の家を建てて魚を取って暮し、秋の末に山の手のいわゆる冬の家に引き移って、山狩を行います。冬は彼等にとって山狩の季節なのであります。それでその季節の初めに、盛大な祭を行って、山の神に山の幸を授けてくれるように祈るのが、この熊祭の本来の意義だったのであります。すなわち、冬になって山入りの時が近づくと、あらかじめ猟運を確保するためにいわゆる幸先を祝って、熊祭なるものを行ったのでありますが、その際、前に述べたような仮装舞踊劇が演じられたのであります。即ち、シャーマンの一人が狩の獲物である熊、つまりそれが山の神なのでありますが、それに扮して人間に殺されるような演技をするのであります。神謡の述べるところによれば、彼は屋内の壁際にかけてあった熊の皮を頭からかぶると、彼は忽ち熊になり、熊の鳴声をして、“フウェー、フウェー”とか或は“オウェー、ウェー”とかいいながら、場内に現われて舞を舞います。その舞の中で、彼は、冬ごもりの穴から出て来た熊が山を彷徨しているうちに人間の狩人に会ってその手に討取られるに至る経緯――それを神が天国なる自分の家を出て肉を手土産に人間の里を訪れ、気に入った者を見付けてその者の許へ“お客さんとなる”というふうに所作で表わすと同時に、その所作の一つ一つを言葉に表わして歌うのであります。それが山の神が、“自らの体験を語った”という形式で歌われる神謡となり、“ウェー、ウェー”とか、“オウェー、ウェー、フム フム”とか言う折返しをもって各地に歌われているのであります。或はそのような神謡から発達した散文の物語も数多く伝えられているのであります。それらの神謡や散文の物語に数多く接していると、熊祭の行事の一つ一つがどのような観念のもとに行われるか、ということを内側からまざまざと見ることが出来るのであります。
 また、それらの神謡や散文の物語の中では、山の神は壁際の衣桁から熊の毛皮をとりおろして、それを身につけると忽ち熊になるとか、熊の肉は山の神が人間へ持って来てくれるお土産の食料であるとか、熊の皮を脱いで本来の姿に返った山の神は、熊の死体の耳と耳との間に坐って、人間の酋長の家にお客さんとなって歓待され、お土産をもらって、又山へ帰って行くとか、古代の祭の片鱗がそこにうかがわれて、まことに興味の深いものがあるのでありますが、ここでは申述べる余裕がありませんので、実例の紹介を割愛させていただきます。

六 訪れる神の観念とその史的背景


 神話は人間の村を訪れる神々の物語なのであります。ここでは、そのような物語の中に示されている神々の生活に対するアイヌの考え方を吟味して、そのような考え方が、どのような歴史的背景に於て形成されてきたものであるか、というようなことを明らかにしてみようと思います。
 神々の生活に対するアイヌの考え方は、次のように要約することができます。(一)神々は、ふだん、その本国では、人間と全く同じ姿で、人間とちっとも変らない生活を営んでいます。(二)神々は時を定めて人間の村を訪れます。(三)その際、神々は特別の服装を身につけます。たとえば、山の神ならば家の壁際の衣桁から熊の皮を取り下して身につけるのであります。(四)それから、神々は人間の村を訪れる時は決して手ぶらでくるなどということはない。山の神ならば、みやげに熊の肉を背負って来るのであります。熊の肉はアイヌのいう“カムイ・ハル”(kamuy-haru 神の持って来る食糧)であり、“カムイ・ムヤンケ”(kamuy-muyanke 神の持ってくるみやげ)なのであります。それで肥えた大きな神をアイヌは“シケカムイ”(sike-kamuy[#「sike-kamuy」は底本では「sike-kanuy」] 荷物を背負った神様)などと名づけて大いに尊敬するのであります。(五)山の神はこのように熊の皮を着て、熊の肉を背負って、――いわば、おみやげの食糧である熊の肉を熊の皮の風呂敷に包んで背負って――人間の村の背後の山の上に降り立ち、そこで人間の酋長の出迎えを受けて、みやげの荷物である熊の肉の風呂敷包みを与え、その本来の霊的な姿に返るのであります。熊が人間に狩り殺されることを、“マラ※(半濁点付き小書き片仮名フ、1-6-88)ト・ネ”(marapto-ne)“賓客・となる”というのでありますが、それは山の神が、はるばる背負って来たみやげの食糧である熊の肉をそっくりそのまま人間に与えることによって、――すなわち、熊が死ぬことによって、――山の神は熊の肉体から解放され、その本来の霊的な姿に立ち返って、人間の酋長の家に“お客さんとなる”という考え方なのであります。(六)人間の酋長の家にお客さんとなった山の神は、そこに数日間滞在して飲めや歌えの大歓待を受けます。(七)そして人間の酋長からみやげの酒だの米だの粢(しとぎ)だの或は幣だのをどっさり頂戴に及んで、はるばる山の上にある自分の本国へ帰って行きます。(八)本国へ帰ると部下の神々を集めて、盛大な宴会を開いて人間の村での珍しい見聞談を語り聞かせ、人間の村からおみやげにもらって来た品々を部下一同にすそ分けして、神々の世界での顔を一層よくするのであります。
 以上が神々の生活に対するアイヌの観念なのでありますが、このような特異な神の観念は、はたして彼等の空想が産み出したものにすぎないのでありましょうか。否、そこには古い過去の社会に於ける経験的な事実の反映が見られるのであります。先ず考えられるのは、いわゆる“ウイマム”(uymam)すなわち異民族との交易であります。
 古くアイヌが日本人或はその他の異民族と盛んに交易を行ったことは、歴史上かくれもない事実であります。アイヌの説話の中には、そのような交易について述べた物語がたくさんあるのであります。それによりますと、(一)アイヌの酋長は、ふだんはアイヌ部落にいて、狩猟なり漁撈なりを営んでおります。(二)彼は時を定めて和人の村へ交易に出かけて行きます。(三)その際、彼は壁際の衣桁から晴着をとり下して身につけます。(四)彼はその際、かねて稼ぎ貯めてあった毛皮その他を背負って行きます。(五)和人の村へ着いたら、背負って行った毛皮その他を“ムヤンケ”(muyanke みやげ)として差し出し、和人の家に“お客さんとなる”のであります。(六)そしてそこで数日滞在し、飲めや歌えの大歓待を受けます。(七)そして和人から米だの粢だの酒だの煙草だの、その他いろいろな品物をみやげにもらって、はるばる故郷の村へ帰って来ます。(八)村へ帰ると、彼は部下の人々を集めて盛大な宴会を開き、和人の村で見聞した珍しいことどもを語り聞かせ、和人の村からおみやげにもらって来た品々を一同におすそ分けして、人間の村での酋長としての権威を一層強めるのであります。
 さきに述べた神々の訪れの観念と、今述べた日本人との交易の事実とを仔細に比較してみるならば、まるで符節を合わせるようにぴたりと一致するのを発見して驚くのであります。これは神々の観念の一部が、異民族との交易(特に和人)という社会経済史的な事実の定期的な繰返しの上に形成されたものであることを如実に物語るものと考えられるのであります。
 それから、もう一つ、さらに古くアイヌの神の観念の形成に参与した社会史的な事実として、シャーマンの生活を取りあげることができましょう。シャーマンは、(一)ふだんは部落生活に於て、俗人と全く同様の姿で、俗人と変らぬ生活を営んでいます。(二)しかし彼は祭の際には神として行動します。(三)例えば、熊祭の際には、彼は壁際の衣桁から熊の皮を取り下して身につけます。そして人間の村の背後の山の上に昔はあったと考えられる祭場に、熊の姿で現われ、そこで熊が人間の手に扼殺されるまでの様を演じます。(四)殺された後は、当然熊の皮を脱いでシャーマン本来の姿に返り、いわゆる直会(なおらい)の席に列席します。(五)そしてそこで数日滞在して、祭が終れば再び俗人の生活に戻っていくのであります。
 おそらく、今のアイヌの神の観念は、その形成の過程に於て、さきに述べた和人交易と、それからのシャーマンの生活が、その基盤をなしたと考えられるのであります。なお、日高の静内しずない地方の熊祭に於て、“ヘペレ・アイヌ”(heper-aynu 熊の子である人間)という奇異な行事が行われておりました。檻の中から縄をつけて引出された子熊が、しばし場内で花矢などにたわむれた後、締め木にかけて殺され、皮を剥がれた後、その生々しい血のしたたる生皮を一人の男――これには少しばかり頭の鈍い男が選ばれる――が身に纏うて、あらためて熊の檻に入り、子熊が引出されて殺されるまでの経過を、そっくりそのまま人間が熊になって演じるのであります。日高の沙流さる地方でも昔はそれがあり、それを“アイヌ・ペウレ※(半濁点付き小書き片仮名フ、1-6-88)”(aynu-pewrep 人間である熊の子)と言ったといいます。
 樺太の太泊に、“イソ・ヘチリ”(iso-hechiri 熊踊り)と名づける子供の遊びがありました。
 一人の少年が四つん這いになって熊になります。その帯に長い綱をつけて左右に振り分け、二人の少年が各々その一端を持って立ちます。熊になった少年は、四つん這になったまま大暴れに暴れます。二人の少年は、そうさせまいとして一生懸命綱を引っぱります。熊になった少年は、ますます猛りたち、見物人はそれを見てワハハと笑い興じるのであります。
 これらの行事や遊戯は、前に述べたマイタケをとる際の呪術的演劇と共に、かつて熊祭の際にシャーマンによって演じられた仮装舞踊劇の名残りと見られるものなのであります。

七 古代の祭場(その一)


 今のアイヌは家ごとに戸外に“ヌササン”と呼ぶ祭壇を持ち、そこでお祭を行うのですが、古くは部落共同の祭壇があって、そこで部落の人々が共同でお祭りを行いました。ところが、さらに古くは、神によってそれぞれ祭壇を異にし、山の神の祭壇は山の上に、沖の神の祭壇は海に臨んだ岬の上にあった時代もあったようであります。そのことは山に関する伝説や、地名や、現実の祭の際に祈願の中に折込んで行われる“パセ・オンカミ”(pase-onkami 重要な礼拝)と称せられる山の神の遙拝や、祭の際にシャーマンによって演じられた仮装舞踊劇の詞章であったところの神謡や、“ウポポ”と称する踊りの歌詞などを仔細に観察することによって、察することができるのであります。
 先ず、伝説や地名について観察して見ましょう。北海道の各地に、アイヌの崇拝の対象となっている神聖な山があり、それにはいろいろ神秘な伝説や信仰が附いているのであります。第一に、そのような山や丘には、その頂に、“カムイ・ミンタ※(小書き片仮名ル、1-6-92)”(kamuy-mintar 神々の舞い遊ぶ庭)があると伝えられているものがあります。例えば、日高と十勝の国境に聳えているポロシリ岳がそれで、沙流さるアイヌの信仰によれば、この山の頂には神々の降りて舞い遊ぶ庭があり、またその庭の傍には、“カイカイ・ウン・ト”(kaykay-un-to 白波の立つ沼)という神秘な沼があって、そこには海の鳥や魚や貝が住み、コンブやワカメなどもどっさり生えていて、殊にコンブなどは、水の中にあるときはコンブなのでありますが、岸に寄り上るとたちまち蛇になってのたうちまわると言われています。この山の神は竜だといわれておりますが、山の神秘をけがされるのを嫌って、人が近づくと晴れた空でも忽ちかき曇り、物凄い暴風雨になり、それを冒して登った者は二度と再び村へ帰ることができず、稀に帰る者があっても、物に憑かれたようにぼうっとなっていて、まもなく死ぬか、再び山へ入って行方知れずになってしまうといいます。この山の隣にカムイ・ヌプリ(kamuy-nupuri“神山”の義)という山があって、浦河アイヌの伝えるところによれば、この山の頂には石の殿堂があり、その後に海獣や海草の沼があって、その沼のみえる谷一つ手前までは誰でも登れるけれども、それ以上近づくことは禁じられていたといいます。また、この山に登ったときは海の物の名を呼ぶことは禁制になっていて、例えば塩を“灰”と呼び、コンブを“葡萄蔓の皮”と呼ぶのであります。また外人や外来のものを嫌い、日本人を“小父さん”、酒を“水”と呼ばなければならないのであります。
 樺太の東海岸のトッソ山の頂にも、やはり神々が舞い遊ぶ庭があったらしく、そこにも一つ沼があって、中には海草が茂り、海獣や海魚が住み、そこの岸辺には、この世で人間の使い捨てた器具の類や木幣などが山と寄り上っていたということであります。ある時、頭の少し狂っている男が、そこへ登ってから帰って来ての物語りで、はじめてそこが神々に送った木幣や、人間の使い捨てた器具の霊、それから死者と一緒に墓穴に納めた副葬品の霊などの帰って行く所――“カムイ・イワキ”(kamuy-iwak-i 霊の帰り住む所)――だったということが分ったというのであります。この男はそれを話してから、まもなく死んだということです。
 鵡川の支流、穂別川の水源に“タ※(半濁点付き小書き片仮名フ、1-6-88)※(半濁点付き小書き片仮名フ、1-6-88)”(tapkop 丸山)と言って、切り立った一つの小山があり、その頂は、“シノッ・ミンタ※(小書き片仮名ル、1-6-92)”(sinot-mintar 舞い遊ぶ庭)と言って、昔からそこには神々が集って踊ったり歌ったりする場所だと伝えられておりました。
 昔、ある男が、この“シノッ・ミンタ※(小書き片仮名ル、1-6-92)”に上って見ると、そこは木もないきれいな広場でありました。そこへ寝そべっていると、やがて夜になり、どろどろと恐しい音がして、神々が天から降りて来て賑やかに歌ったり踊ったりしました。男は神々に気づかれぬように、くら闇の中にじっと寝ながらそれを聞いていると、蛇や蛙がもそもそと懐の中へ這い込んで来ました。それでもじっとしていると、夜明近くになって、頭の上で神様の声がして、「シー、ピリカ、ヘー、エコン、ルスイ?」「シー、ウェン、ヘー、エコン、ルスイ?」「シー、パエトク、ヘー、エコン、ルスイ?」と聞いてきました。つまり、「本当の美しい顔が欲しいか」「本当の醜い顔が欲しいか」「本当の雄弁が欲しいか」ということなのです。この男は「シー、ピリカ、クコン、ルスイ」、すなわち“美しい顔が欲しい”というつもりなのが、つい、うっかりして、「シー、ユカル、クコン、ルスイ」“本当のユーカルが欲しい”と答えてしまいました。やがて夜が明けて、男が起き上って見ると、自分の前に神々がユーカルをする時に手に持って拍子を取っていた“レ※(半濁点付き小書き片仮名フ、1-6-88)ニ(rep-ni 拍子をとる木)と呼ぶ棒がおいてありました。男はその棒を拾って部落へ帰ってきましたが、元来ユーカルなぞ出来ない人だったのに、それから後は急にユーカルができるようになり、“シー・ユカル・コル・クル”(si-yukar-kor-kur 本当のユカルの上手)という名誉の名を取るようになったということであります。
 ところで、これら山上の神々の舞い遊ぶ庭をこれらの伝説では“カムイ・ミンタル”とか、“シノッ・ミンタル”とか、或は“カムイ・オ・シノッ・ミンタル”(kamuy-o-sinot-mintar 神が・そこで・舞う・庭)とか言っているのですが、それらはもともと祭場の意味にほかならなかったのであります。そこに石の殿堂があったなどという伝説が生れたのも、それが古代の祭場だったからだと考えて差支えありますまい。また、そこで神々のユーカルが演じられたというのも、ユーカルというものが、もとはシャーマンが神に扮して祭の際に演じた仮装舞踊劇であったことから見て、うなずけることなのであります。神々がユーカルを演じる際に手に持って拍子を取ったという“レ※(半濁点付き小書き片仮名フ、1-6-88)ニ(rep-ni)は、もともとシャーマンが神懸りになるために打ち鳴らす太鼓のを意味する語であったことを思えば、このような山の上の祭場にシャーマンが関係していたことも、察するに難くないのであります。

八 古代の祭場(その二)


 ポロシリ岳へ禁制を犯して登ったものは二度と再び村へ帰ることができず、稀に帰る者があっても、物に憑かれたようにぼうっとなっている。と申しましたが[#「申しましたが」は底本では「申しまましたが」]、それはシャーマンの神懸りの状態を思わせるものであります。トッソ山へ登った男についても、頭の少し狂った男のように述べてありましたが、それも同じことを示したものと考えられるのであります。北海道の各地の、山や丘の地名に、“舞い遊んだ所”とか“踊った所”とかという意味のものが他にたくさん見出されるのでありますが、そういうものは一応、古代の祭場があったのではなかろうかと、疑ってみる必要があるのであります。
 旭川市の郊外にある神楽かぐら村は、もと“ヘッチェウシ”と言った所で、“ヘッチェウシ”は“皆で集っていつもヘッチェをする所”という意味であります。“ヘッチェ”というのは、ユーカルを演じている際に、会衆が演者を励ますために、例の“レ※(半濁点付き小書き片仮名フ、1-6-88)ニ”と称する棒を打ち振り打ち振り、力強く“ヘーイッ!ヘーイッ!”と掛声をかけることであります。つまり、この丘は、昔その上に祭揚があり、お祭の際は部落の人がそこへ集って、シャーマンを中心にして原始的な舞踊劇を演じた場所だったと考えられるのであります。そこは別に“イナウ・サン”すなわち“祭壇”とも呼ばれていたといいますから、いよいよもって、そうと考えて間違いないのであります。
“タプカンニ”“ウポポウシ”という地名が北見の美幌びほろから藻琴もことへ抜けて行く山路の途中にあるのですが、いずれも“舞い踊った所”“舞い歌った所”の意味で、昔そこで疱瘡の神々が輪舞した所だったという伝説があり、そこには土俵のような形の畝が三重になっていたということであります。これなども古く祭壇だったと考えられるものであります。
 山中によく、“チ・ルラ・トイ”(運んだ土)という地名が見出されるのですが、それなども或はこういうものだったのかもしれません。
 日高の様似さまに地方では、タンポポの花の咲いている茎のことを、“ホノイノエ※(半濁点付き小書き片仮名フ、1-6-88)”(honoynoyep)というのですが、これは雨乞の呪術の場合にだけ使う特別の語だということであります。この地方では旱魃の時、テレケウシという所へ行って、人目に触れぬようにして、このタンポポを石の上にのせ、「ホノイノエ※(半濁点付き小書き片仮名フ、1-6-88)よ、ホノイノエ※(半濁点付き小書き片仮名フ、1-6-88)よ、天気を直せ、天気を直せ!雨降れ、雨降れ!」と唱えながら叩き漬した[#「叩き漬した」はママ]ということであります。“ホノイノエ※(半濁点付き小書き片仮名フ、1-6-88)”とは、“尻をよじりよじり舞う者”という意味で、雨乞祭の際のシャーマンの踊の所作をさしたものでしょう。古く、旱魃の際には、山の上の一定の祭場で、雨乞祭が催され、その際シャーマンを中心に、雨乞踊が舞われたものと思われます。“テレケウシ”(Terke-us-i)という地名も、語源は“いつもそこで皆が踊る場所”という意味であり、これも古代の祭場だったと見て差支えないのであります。
 さて、次に、そのような山の上には特定の神が住み、特定の部落の人々を守ると伝えられております。例えば勇払郡穂別村の、昔カイクマと言った部落の傍に、コムシ※(半濁点付き片仮名ツ、1-5-93)という丘があり、その丘の麓に大昔コムシコル、カンハウェ、ラコッという三人の兄弟が一人の妹と一緒に住んでいました。そこへ或年疱瘡が流行してきました。コムシ※(半濁点付き片仮名ツ、1-5-93)の丘の上に、宙に弁財船が浮んでいて、それは雲の綱で遠くコムシ※(半濁点付き片仮名ツ、1-5-93)の奥のウラ※(小書き片仮名ル、1-6-92)コッペという山の頂に繋がれて波にゆられるようにゆらゆらとゆれておりました。その弁財船から部落の上空へ針金のように細い雲の橋が懸っていて、その上を丹前姿の者が、下駄をはいて、人間の手を噛りながら、行ったり来たりしていて、人間のいる頭の上に来ると「そら雄鹿だ、早く射ろ!」「こんどは雌鹿だ、早く射ろ!」という声が聞えたかと思うと、不気味な弦音がして、村人がばたばたと倒れて行きました。その時、その部落の酋長であるコムシコルだけは、コムシ※(半濁点付き片仮名ツ、1-5-93)というこの山の神の名と同じ名であったために助かり、妹の老婆は、ぼろの[#「ぼろの」は底本では「ばろの」]帽子をかぶり、ぼろの手袋をはめ、ぼろを詰めた煙草をのんでいたために、疱瘡神たちも、「くさい、くさい」といって、顔をそむけて相手にしなかったので助ったということであります。それぞれの子孫の人々は、お祭の際には、必ずこのコムシ※(半濁点付き片仮名ツ、1-5-93)の山の神に酒を捧げて感謝するのだということです。なお、この山の神は黒狐の神で、今でもこの山に狐が出てきて啼くと、何か部落に変事の起る予告だと信じられております。ところで、この話の中で、部落の先祖の酋長が、妹と二人連れで助かったと語られているのは、意味のあることであります。詞曲に出て来る古代の酋長はシャーマンであり、それは必ず“※(半濁点付き片仮名ツ、1-5-93)レシ”(turesi 妹)と称する女性のシャーマンを伴って現れ、事ある場合にはその女性のシャーマンに神懸りさせて、その託宣によって神意を判断したのであります。この話で、妹の老婆が、ぼろ帽子をかぶり、ぼろの手袋をはめ、ぼろを詰めた煙草をのんでいたので助かったと語られているのも、それが古代の祭に於けるシャーマンの仮装の一つであって、以前に述べた風鎮めの祭に演じられた仮装舞踊劇の詞章の中で、風の魔女に扮した者が、自ら「ぼろの礼冠、ぼろの手套、われ身につけて」と歌っていることなどを思い合わせるならば、この妹の老婆というのも、やはり古代のシャーマンに他ならなかったことが知れるのであります。また、キツネはシャーマンの憑神だったと考えられるものであり、シャーマンはその頭の骨を削り花に包んで秘蔵し、お祭の際などには、それを取出して卜占に用いたものであります。従って、この神が災害の予告をするというのもうなずけるわけであります。
 アイヌの崇拝する山の中には、大昔洪水の時、その山の頂上にだけは、お膳を据えるだけの、或いは綱を張るだけの、狭いながらも乾いた場所があって、それで先祖の人が助かったので、それを拝むのだという山が方々にありますが、そういう場所の神様は、たいてい、このキツネの神様であります。お膳を据えると云い、綱を張るというのも、すべて祭に関係したことであり、それが古代の祭場であったことは、その点からも明らかなのであります。

九 山上の遺跡


 キツネがシャーマンの憑神だったように、竜もまた、シャーマンの有力な憑神でありました。有名な英雄詞曲、「虎杖丸の曲」の中でも、主人公“ポイヤウンペ”の憑神として、狼や狐と並んで、雌雄の竜神が、事あるごとに、主人公の危難を救っております。それは大蛇に羽の生えた姿に考えられていて、神様としての名を“ラプシ・ヌプル・クル”(rap-us-nupur-kur 羽の生えている巫力のある神)とも呼ばれ、蛇体の常として、暑い時はしごく元気で恐しいので、“サク・ソモ・アイェプ”(sak-somo-aye-p 夏・言われぬ・者)ともあだ名されております。そのかわり、蛇体の常として、寒さには弱いので、アイヌの始祖神オキクルミが、この神に追いかけられた時、霙の神に頼んで霙を降らせてもらって助かった、という神謡があります。これはまた、“カント・コル・カムイ”(kanto-kor-kamuy 天上を支配する神)、或いは“カンナ・カムイ”(kanna-kamuy 上方の神)ともいい、雷の神様でもあります。それで、古代の祭場だと思われる山の上に神々が天降る時は恐しい雷鳴が鳴るといい、或いは部落に災害がある時は、雷を鳴らして予告してくれるというわけであります。アイヌは沼の主を、普通に竜神として考えております。それで、その竜神の棲家として、山や丘の上に神秘な沼を考えているのも、また当然であります。
 十勝の足寄あしょろに、“カムイ・エロキ”と言って、現在でも土地のアイヌが、何かあると酒を捧げて祈る山があります。昔一人の男が山狩に行って道に迷い、この山の上で野宿しました。すると夜中に神々が集って来て、歌ったり踊ったりするので、やかましくて眠られず、朝になって逃げてくると、途中で大きな熊に出会ったので、それを捕って部落へ帰って来て、その話をすると人々は自分たちも神々の歌を聞こうと云って、そこへ出かけて行きました。しかし、わざわざ聞きに出かけて行った時は、神々はやって来ず、狩に出て、偶然そこへ迷いこんで野宿した人だけが、それを聞いたということであります。この山の名、“カムイ・エロキ”というのは、“神様が住んでいる所”という意味で、“カムイ・コタン”というのと同じであります。この山の上にやはり、神々の舞い遊ぶ庭、すなわち、“カムイ・ミンタル”があるので、雷の鳴る時はこの山で一番物すごい音がするのだと土地の人は云っております。
 このカムイ・エロキの麓に、昔“カムイ・トー(kamuy-to 神様の沼)という神秘な沼があり、そこの沼の主が、やはり竜神であったと伝えられております。昔、この沼のほとりに部落があり、そこの酋長が山狩りに行ったり、旅に出たりして、その出先で、酋長の身の上に何か異変が起ると、この沼の水面に白く波が立つということであります。酋長が遠い旅に出て、明日はいよいよ帰るという前の日にも、やはり沼に白く波立ったということであり、これは酋長の憑神であった竜神のお告げであったことは申すまでもありません。
 アイヌには、昔は波占なみうらとでもいうべき卜占の方法もあったらしく、沼や泉の上にまき起こる波紋などによって物の吉凶を判断したと思われる例が幾らもあるのであります。それはともかくとして、ポロシリ岳の神がやはり竜神で、山の頂にある神秘な沼の主であり、しかも、その神秘な沼の名が、“カイカイ・ウン・トー”すなわち“白い波の立つ沼”であったことを思い合わせるならば、これもまた、それらの山が古代のシャーマンの司祭する祭の祭場であったことを思わせる一つの証拠なのであります。
 殊に、アイヌが崇拝している、これらの山や丘には、アイヌの始祖と称せられるオキクルミやサマイクルに関係した伝説が多く、例えば日高の平取びらとりの、現在義経神社のあるハヨピラの丘は、もと天上から下界に派遣されて人間界の主宰者になったオキクルミの居城であったというし、また北見の本別ほんべつ町に、俗に義経山と呼ばれている小山があり、もと“サマイクル・サンケ”という名の山で、アイヌの始祖サマイクルが物を乾した棚の意味に解されているものであります。昔この附近まで海であった時代に、サマイクルが鯨をとって、ここで料理した所であるといい、山の上には今でもその時の鯨が岩になって残っていると伝えられております。山の名の、サマイクルの“サン”つまりサマイクルの“棚”というのは、サマイクルの“ヌササン”すなわちサマイクルの“幣棚ぬさだな”の意味だったと思われます。つまり、サマイクルの物乾棚でなく、“ぬさ・だな”すなわち祭壇だったのであります。この伝説の内容から見ても、またその山の名から見ても、ここは古く祭場であったことは明らかなのであります。しかも、サマイクルといい、オキクルミといい、いずれも古代のシャーマンであったことは、すでに明らかにされているのでありますから、そういう山や丘の上の祭場が、古くアイヌの社会に栄えたシャーマニズムの祭の遺跡であることは、もう断言しても差支えあるまいと思うのであります。尚、このような山の頂は、神様の住む世界であるという思想の他に、死んだ者の霊の行く世界であるという思想もあるのであります。先に述べたトッソ山の伝説では、山の上に神秘な沼があり、そこの岸辺には、人間の使い捨てた器具や木幣や、死人と一緒に墓穴に納めた副葬品が、山と寄りあがっていたとありましたが、胆振の幌別郡カルルス温泉の奥にある“たちばなの池”は、もとの名を“パスイ・ヤン・ト”すなわち“箸のよりあがる沼”というので、そこにはやはり同じような信仰があったのであります。従って、このような丘や山の上の遺跡のあるものは、或いは古代の墳墓であったかもしれません。そのような山や丘の中腹、又は麓には、必ずと云っていい位に、神秘な洞窟の存在が伝えられ、そこからあの世に行った人の話が伝説に語られていることなども、そのような山の上の遺跡の或るものが古代の墳墓であっただろうという想像を裏書するように思うのであります。北海道の先史時代に於ける山上の遺跡としては、(1)祭場、(2)墓場(ストーンサークルなど)、(3)いわゆる“チャシ”(chasi 山砦)、などが考えられ、それらが今はいずれも“チャシ・コッ”(chasi-kot 砦趾)の名で呼ばれているようであります。

十 山の神の遙拝及び狩の縄張り


 以上述べてきたように、古くアイヌは山上に祭場をもち、そこで種々の祭を行ったのであります。今“ポリ・シリ”(親の・山)とか、“カムイ・シリ”(神・山)とか“カムイ・ヌプリ”(神・山)とか、“カムイ・エロキ”(神・そこに住む所)とか“カムイ・イワキ”(神・そこに住む所)とか云っているのは、古く頂上にそういう祭場のあった山で、それが後にアイヌのいう“チノミシリ”になるのであります。“チ・ノミ・シリ”(我ら・祭る・山)というのは、それぞれの家系に於て祭の際に必ずその山の神の名を呼んで酒を捧げて遙拝する山のことで、そのような遙拝を“パセ・オンカミ”(重要な礼拝)というのであります。“パセ・オンカミ”は今こそ遙拝の形で行われているけれども、古くは直接その山へ登ってそこにあった祭壇の前で行われたと考えられます。すなわち、古くは各所の山の麓に一定の神と特別な繋りをもつ血縁的な小集団が住んでいて、それぞれ山上に自己の奉仕する神の祭場をもっていたらしく、その時代に於ては直接山の祭場に行って祭を行う習いだったのが、後にはそれらの血縁的な集団が幾つか集って、地縁的により大きな部落を作るようになると、部落の中に共同の祭場をもつようになり、祭はすべてそこで行われるようになったのでありますが、それでもそれぞれの家系に於て、祖先の祭場であった山の山の神に対する祈願を、他の神々に対する祈願の中に折込んで、遙拝の形で丁重にそれを行うようになったものと考えられるのであります。
 なお、“カムイ・イワキ”から“イワ”という語が出ております。イワというのは、今はただ山の意に用いておりますが、もとは祖先の祭場のある神聖な山を意味したようであります。今のアイヌ語で狩猟或いは漁撈に於ける部落世襲の縄張りを意味する。“イオル”という語も、もとは“イワ・オロ”(iwa-oro イワの所)で、それぞれの家系の祖先の祭場のあった神聖な山のある所、すなわち彼等の祖先と特別の関係にあった神の支配する区域をさして云ったものと思われるのであります。
〈昭和28年8月於札幌『日本人類学会・日本民族学協会連合大会第8回記事』昭和30年7月発行〉





底本:「和人は舟を食う」北海道出版企画センター
   2000(平成12)年6月9日発行
初出:「日本人類学会・日本民族学協会連合大会第8回記事」
   1955(昭和30)年7月発行
※底本は横組みです。
入力:川山隆
校正:雪森
2013年5月7日作成
2013年7月2日修正
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