古川ロッパ昭和日記

昭和十五年

古川緑波




世の中が中々むづかしいのは、
悧巧者が居過ぎるからなら有がたいが、
実は馬鹿が多く居過ぎるためだからやりきれない。
八月二十日ふと思ふ。
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昭和十五年一月



一月一日(月曜)

 有楽座初日。
 明治神宮から靖国神社へ廻り、参詣する。帰宅したのが午前二時、眼がさめたのは九時半。紋附を着、屠蘇・雑煮。清も元気。それから雑司ヶ谷の墓参、祖母上のところへ年始に寄る、今年九十五歳。一時すぎに有楽座へ。一座と有楽座の合同年始式で、舞台へ集まり、宮城遙拝、君ヶ代、神酒の乾杯、万歳三唱から愛国行進曲を合唱、散会。初日三時開演である。大入満員、補助椅子も、出切ってゐる。序が終って「新婚太閤記」これは思った通り、歌の使ひ方も古いし、川口松太郎にはユーモアといふものが、まるで無い、藤吉郎が書けてゐないので、やりにくい、アチャラカでやって、漸く笑はせる。さて次は「ロッパと兵隊」こいつが案外にいゝ、やってゐても気持がいゝし、泣けて来る。菊田の才には感心する、座附としては一寸他に求められまい。京極が、三浦環嬢を連れて来り、「大放送」の五景の時出て、挨拶をした、六十歳の嬢は十何歳の声を出し、愛嬌たっぷりで、「ロッパさんを尚今後とも可愛がって下さいまし、私も何卒」なんて言ひ、大喝采。「初春大放送」は、大成功、腹話術も先づよからう。誤算は団福郎のチムパンジー、これは本物と思ふのか、シーンとしちまって、一つも手が来ない。ミス・コロ夫妻の特別出演も案外受けなかった。ハネ九時五分。帰って夜食。やれ/\つかれた。


一月二日(火曜)

 十時起き、屠蘇・雑煮。座へ出る。すぐ支度して、「新婚太閤記」だ、どうも気乗りせず、それにあばれ廻るので息が切れる。「ロッパと兵隊」は、近頃の傑作と定った。感激まだ新たで、涙が出る。「初春大放送」は、チムパンジーの景をカットした、これもよく受けてゐる。昼の終り四時半頃、外出する暇なし、ふた葉のそぼろ親子と汁。飯がびしょ/\でまづし。夜の部、はち切れる満員。「新婚」クサリだ。「ロッパと兵隊」よく泣かせ笑はせる、幕切れは大芝居である。「大放送」終りによく手が来る。ハネ十時五分。女房見物、一緒に帰宅。久保田万太郎の「八重一重」を、初読みする。


一月三日(水曜)

 雑煮を食って十一時に出かける。大入満員、プレミアム附きで二円八十銭席が四円とのこと。昼の終りは四時十分。折柄来た京極を誘ってホテ・グリへ。オニ・グラ(まづし)、フィレ・ソール・ボンファムとシャリアピン、コーヒー、ペストリ。夜も、むろん大満員。
「新婚太閤記」ってもの、全くつまらず、槍を持って戦ったりするので、くたびれる。「兵隊」はます/\強く受け出した。「大放送」も、腹話術、段々よくなる。ハネ九時四十五分。この分なら、もっと早くなる。帰宅、夜食。


一月四日(木曜)

 十一時に出る。昼の部大満員。大西が病気だと言って休み、矢島といふ少し馴れたのが又休み、何も分らぬ研究生ばかりなので、ドマつき通し、人使ひが荒く、僕のとこへは居つかないとは定評だが、然し、こんなことで自分をおさへたりしては芸が縮む、「奴隷を使へる男」と上森が言ったことがあるが、さうであってもいゝのだ。昼の終り、演舞場へ曽我廼家五郎氏の楽屋へ年始に行く。大いに喜んで呉れた。西銀座の三直へ寄り、天ぷらを食ふ、油がいゝのでよろし、値段もよろしく、四円九十何銭。夜の部も大満員、「新婚」が、嫌でたまらない、「兵隊」が楽しみになった。ハネて、ハイデルベルヒへ行き、ウイ。汐見洋・丸山定夫と会ひ、飲む。


一月五日(金曜)

 十一時に家を出る。昼の部大入満員、二円八十銭に値上げしたのでアガリは一回三千八百円程度になるさうだ、随分今月は儲かるな。昼の「兵隊」の暗転中、道具が倒れ、悦ちゃんが顔を怪我した、大したことでなく、悦ちゃん曰く、「鼻が低かったから助かった。」昼の終り、又天ぷら食ひたくなり、三直へ行く。一人、六円ばかり食った。夜も大入満員、「新婚」辛し。「兵隊」絶対なり。ハネ九時四十分頃、国際の支配人となりし岩田至弘と会見のため、神田講武所といふ土地へ行き、幇間の獅子を見て新年気分となり、ウイを大分飲みたり。


一月六日(土曜)

 今日もマチネー、意外にも昼の部は補助椅子が出てゐない。楽屋のカレンダーに大入・大入と続いてたが、今日の昼の所へは、曰く「小入」。「新婚」は全く憂鬱、おはやしの傍で出を待ってゝ、おはやしの音がシャクにさはる位。昼の終り、菊田・上山と那波支配人のとこへ年始に行き、又、天ぷらが食ひたくなって、名物食堂のハゲ天、しこたま食って、三人で五円足らず、此処は安い。その代り後で少々胸やけ。夜の部大満員、古賀政男氏来楽、ちもとの豪華菓子届く。「兵隊」は、男が皆泣く。渡辺・ロクロー調子やり、セリフが通らぬ。杉寛、又例の病らしく、明日より休む、大庭が代る。「大放送」腹話術、声が苦しくて困る。ハネ九時三十何分、まっすぐ帰宅。


一月七日(日曜)

 今日までマチネーだ。米が、七分搗きになってから快便でない。昼は、大入満員、七草の日曜だから、当りまへだが。「新婚」やってゝ情けなくなる。「兵隊」は、昼でも気が入る。プロマイド封入、年賀状を書く。昼の終りに、滝村来る。一緒に出かけ、又もや天ぷら、銀座西の清月といふ店へ行った、あまりうまくない。コロムバンへ寄り、コーヒーを飲む、うまくない。三昧堂へ寄り、新刊を求め、座へ帰る。「新婚」又もやクサリ。「兵隊」ハリキって大きな声を出したので、又咽喉がいけない。吉田信夫夫妻、芦原英了来訪。「大放送」小勝のところ少々長くする。ハネ九時四十分頃、まっすぐ帰宅。葦原邦子の「葦笛」を読み出す。


一月八日(月曜)

 今日からマチネー無し。アンマとりながら、「葦笛」を読み終る。今年の分からスクラップを、自分で整理することゝし、正月公演に関する新聞切抜きを、切っては貼る、中々くたびれる。夕食パンにした。座へ出る。大入満員である。東日の朝刊に批評が出て、川上三太郎が「兵隊」を賞めてゐる。皆元気づく。岡庄五氏来る、ビクターをやめ(させられて)日活副社長となった。イタにつかず、元気なし。名古屋の小尾悦太郎老も来た。ハネ九時四十分。滝村来り、神田講武所の大和へ行き、二月映画の打合せから、飲みとなる。
 今年の冬は寒い。暑がりの寒がりの僕ではあるが、冬を寒いと思ふのは、此の頃だ。年齢、それもあるか。


一月九日(火曜)

 十一時迄寝る。寒い。二階で清と遊ぶ。一時半に有楽座へ。今日は大道具の研究会、いつぞやの荒れ事以来、此の連中と親しくなったので気分よくなった。それから、中泉眼科へ寄り、洗眼し、本社の那波氏のところへ平野と共に行き、座員撮影手当の件、その他二三片付け、日劇地下の蛇の目ずしで夕食、日劇のエノケン実演「大陸の花聟」を見る。三分の二位で出る、文芸部貧困、成ってゐない。座へ出る、入りはよろし、大満員。「新婚」終るとホッとする。あとの二つは、たのしめるから。吉岡社長来り、話す。「兵隊」は、今日の国民夕刊でも賞めてあった。森岩雄氏見物ときいてハリキる。ハネ九時三十何分。まっすぐ帰宅、寒さに参りつゝ淡路円治郎の「落書帖」読む。


一月十日(水曜)

 十時半起き、寒いことなり。十二時頃家を出て、女房と新宿東宝へ「ロッパの新婚旅行」を見に行く。何としても笑ひが少いが、品のいゝのが、後口をよくする。中村屋でボルシチを食ひ、日劇楽屋へ、エノケンを訪問、五郎氏との親子三人会の打ち合せ、エノケンは盛に映画の演出家の貧困を嘆いてゐた。それから演舞場の五郎氏に、会合のこと言ひに行く。「わざ/″\御老体を煩はしまして」と仰言る。三直へ寄り、野菜本位で食べ、座へ出る。大満員である。報知の批評、兵隊又よろし。里見藍子来る。ハネて、服部良一と銀座へ泳ぎ出る。ブラック・ホワイトにめぐり合ひ、よろこぶ。


一月十一日(木曜)

 十一時迄ぐっすり眠る。日暮里の高橋へ年始に行く、女房・清同行。三時頃、偕楽園が食ひたくなり、出かける。味のこまやかなる、軟かき、上品なる点に於て偕楽園ほどの支那料理は他にあるまい。座へ出る。大満員。藤山一郎・鈴木桂介・原田耕造など来る。志村道夫、応召だとて挨拶に来る。京極と松平直富伯(帰還)・三上孝子親子も来り賑か。「兵隊」熱演、調子外れの「年の始」を歌ふので、すぐ又調子をやる。ハネ九時三十何分。赤坂まへ川へ。古賀政男と藤山一郎を、仲直りさせる会を僕が開いた。古賀・藤山話し合ひの末握手する。折から、停電、帰る迄、ローソクで遊び、島原の炭屋をホーフツたらしむ。帰宅二時半。
 舞台で演ってゝ泣ける芝居も、大てい三四日たつと涙の出なくなるのが常だが、「ロッパと兵隊」三景で、年の始めを歌ふあたりは、十一日目の今日になっても、涙が出るのだ。これは、何ういふことか。


一月十二日(金曜)

 十一時迄寝る。淡路円治郎の随筆を読み終り、四時に家を出て、眼科医へ寄り、清月で天ぷらを食ひ、漫談屋へ寄って、ぜんざいを食ひ、座へ出る。立派な姿見が贈られて来た、今寄った清月からである。これは又無理されちまったもの。今夜も大満員。声がよくないが、胡麻化すのも馴れて、ボロは出さない。「兵隊」十二日目でも涙が出る。いゝ脚本であることゝリアリズムのためである。客も泣いてゐるが、女は、そのわりに泣かない、その証拠に、鼻をすゝり上げる音がきこへない。見物の木村千依男・東坊城恭長とで、珍しや銀座裏の小料理お寿美てので白魚なべなど食べる。木村千依男は、演出家に転向の志望、大いに賛成。


一月十三日(土曜)

 よく眠り高見順の「爪髪集」を読む。十二時半に家を出て、東宝本社へ行く。それから東宝劇場の少女歌劇見物、エスキーモでカツランチを食って、帝劇のアトラクションだけ見た。音楽の服部良一を連れ出し、ニットーで茶をのみ、座へ出る。三益愛子、流産したさうで、今日だけつとめさせることゝして、代役手配する。楽屋へ来訪多し、八田清信一行・藤堂夫妻・伊藤松雄・京極そして中野英治迄おまけに来た。大満員、「兵隊」大ハリキリ、ハネて、服部のオゴリにて築地の秀仲へ。京極の声色なども出て、夜は更けたり。今朝の「都」に、青々園が「緑波を見直す」の題下に大いに賞めてゐた。
 劇評も大てい出尽した。若い人たちは、賞めたくないのに、今回は賞めずばなるまいと言った賞め方、大家の方は、賞めるのが嬉しくって、賞めてゐる感じ。


一月十四日(日曜)

 十一時に迎へ来り出かける、母上、見物で同乗。座は大入満員なり。「新婚」三益休演、藤田房子代役、綺麗だし、三益よりサラッとしてゝよかった。「兵隊」やっぱり気が入る。「大放送」は三益のとこを高杉と藤田に分けてやらせる、共にいゝ出来。昼の終り、母上と古川家叔母達四人と、清月へ天ぷら食ひに案内する、うまくはないが安い、そして後で胸やける。夜も、むろん大満員なり。
「大放送」の時、腹話術やってるワリドン裏で喋られ大怒り、それがミス・コロ夫妻だった。何と心がけの悪い奴等だ、もう二度と出したくない。ハネてまっすぐ帰宅。山川弥千枝の「薔薇は生きてる」を読み出す。


一月十五日(月曜)

 今日もマチネー、やぶ入りだといふので。座へ行ってみると、入り七分弱か、とても気が入らない、三益愛子元気なものでもう出て来た。昼の部早目に終り、本社へ寄り、那波氏に昇給者のことを頼み、折柄来た大阪の寺本支配人を相手に大いに怒る。三月僕の行く前、二月を宝塚ショウで開け、而も特別出演に江戸川・藤山・エンタツ・アチャコと揃へた他、何と悦ちゃんを定めたといふのだから、もう三月は行かぬと断言した、おかげで食事の暇なく、座へ帰り、すしをつまみ、あと胸やける。夜は大満員。「兵隊」で、陸軍省の人々見物とあってハリキリ。斎藤寅次郎・滝村来る。ハネて、すぐ帰宅。「薔薇は生きてる」を読み上げて二時寝る。
 本日静岡大火。夕方迄のニュースで、六千戸焼失の由。(ついに一万戸焼失の由)


一月十六日(火曜)

 今日、又やぶいりとあって、マチネー。座へ出ると、昨昼よりはいゝが、補助は出ない。小笠原明峰、二千六百年の脚本の案を持って来た、うまいものであればいゝが。少々風邪気味。川口がホテ・グリへ来いと言ふので行く。悦ちゃんを御馳走してゐた、ポタアジュ、スクラムブルドエグ・ベーコン、ムサカと飯。「新婚」の時、若年部数名トチる、大声でカス食はせたので調子がいかん、それに夜の「兵隊」大ハリキリで又とても声いかん。夜は大満員、男客ばかりで受け方が凄い。ハネ後、京極と岡庄五に招かれて築地房田中へ。すきやきで、ブラック・ホワイト。


一月十七日(水曜)

 本社と電話で打合せ、文藝春秋とタイアップで白衣の招待マチネーと、静岡大火の義捐マチネーを相談する。大庭六郎が、小さい犬を持って来た、可愛いが手がかゝりさうなので持て余す。犬は伊藤氏に預けることゝ定め、大庭と伊藤松雄氏宅へ。四時に辞し、眼科へ寄る。大分いゝらしいので安心。その足で文藝春秋社へ行き、菊池氏に会って、白衣のマチネーを申し出ると大賛成して呉れた。食事出来ず座へ。双葉の親子丼。入り満員なり。調子まだいけない。「兵隊」幕切れ、緞帳引っかゝって下りず、くさった/\。ハネ後、見物の宇野浩二氏を、伊馬・斎藤もろ共、牛込へ案内し、ウイのみつゝ、論じ/″\て二時すぎ迄。
 調子をやると、いつも思ひ出すことがある。名古屋新聞の社長だったと思ふ、たしかもう故人だ。そこへ徳山と一緒に挨拶に行った時だ、調子をやってゝ苦しいと言ふ話をしたら、「ナアニ舞台へ出れば、芸の虫が出るから声も出ますよ。」と言った。芸の虫、全く! (右故人の名は興良さんだったと徳山※(「王+二点しんにょうの連」、第3水準1-88-24)にきいた。)


一月十八日(木曜)

 十一時すぎに出かける。今日は、一座と有楽座が合同での、小祝賀会、座員と座の裏表皆で三百何十名、酒なしの園遊会なので一向パッとしない。十二時半頃から日比谷映画劇場へ、「格子なき牢獄」を見る、中々いゝ。「ブルグ劇場」に次ぐものだ。本社へ寄り、二十七日昼を白衣招待、二十九日は静岡大火同情マチネーと決定。三直で天ぷら食ひ、ビーコンでコーヒー飲み、三昧堂で新刊を求めて座へ。大入満員、咽喉気にするほどではなかったが、「兵隊」ハリキれず、受け方も不足。腹話術全く手に入った。ハネるとまっすぐ帰宅。
 酒を飲むのもムダをしたくないと思ひ、必ず有意義な会合にしてゐるが、さて此うなると、肩を凝らして飲んでゐるので、気が晴れない。やっぱり、ムダは、ムダほど、気は休まり、命の洗濯となるのか。


一月十九日(金曜)

 十時半起き、二階で日向ぼっこ、何となく元気なし、芝居が重いので、労れるところへ、遊び気分の飲みが無いためと思ふ。鏑木清一、満洲からは休暇だとて来る。二時半鏑木を連れて出、三直へ行き、天ぷら。それから帝劇の「ジャングルの恋」がテクニカラーで綺麗だときいたので行く。何ともつまらないもので、呆れるばかり。座へ。鼻がつまり弱ってると、上森がエフェドリンといふ薬を飲めばすぐ治ると言ふので取り寄せて飲む。早速快くなり驚く。入り大満員。火野葦平見物で一同ハリキる。ところが僕堅くなり、ウハづって出来悪し。が、火野大いに泣いてた由。ハネ後火野葦平と久米正雄を赤坂まへ川へ招待、ウイ大いに飲み、久米氏帰りの汽車を逸して弱ってゐた。火野、満悦と見えた。
 今日読売夕刊の浜村米蔵は「兵隊」を絶賛し、
「ロッパ万歳、日本の喜劇の前途に栄光あれ!」
「讃へんかなロッパ、祝はんかなロッパ一座!」
と大童になってゐる。


一月二十日(土曜)

 十二時に、日比谷の陶々亭へ、滝村・斎藤・菊田・上山・平野を、二月作品打合せのため呼んだのだ。菊田が作ったストーリーをきく、ハデさが無く、老けなので気のり薄。陶々亭の三円の定食が、中々食へる。そこから日劇へ行き、島津の「光と影」を見る、やっぱり馬鹿に出来ぬものがある。小松へ行き理髪して座へ戻る。大満員である。声はまあ/\いゝ方。ハネると、服部良一・京極と共に、築地秀仲へ。近衛文麿の道楽息子文隆といふのがシャムパンをやたら抜くやら、僕は服部良一をつかまへて議論するやら大さわぎ。
 沢正のセリフは、ナマリだらけだったが、ほんとは、ちっともナマリの無い人だったさうだ。してみると、あのナマリは、やっぱり僕の東北弁のやうなもので、一つの模写芸だったらしいのである。然し、あの声を出しつゞけてゐては、成程死ぬわけだと、「兵隊」をやりながら、思ったことだった。


一月二十一日(日曜)

 十一時迎へ来り、出かける。大満員だ。昼の終り、屋井が来て、風月へ食事に行く。コンソメ、ブフ・アラ・モドみなお軽少で腹が張らない。座へ帰り、新年会の打ち合せ、時節柄、夜おそく迄やる食べ物屋が無くて困る。夜の部、大満員、「新婚」やってる気持は、エノケンに近いやうだ。「兵隊」は、声出ず苦しかった。腹話術では、人形との小さい会話を多くする程、受けることを会得した。BKの奥屋能一郎「兵隊」に感激してた。ハネると、まっすぐ帰宅。


一月二十二日(月曜)

 鼻風邪が何うも治らない、雨ってものが全然此の月に入ってから降らないのだ、カサ/\に乾いてゐるので、風邪ひきが多い。三時半から内幸町高千穂ビルのユニヴァーサル試写室で、腹話術のチャーリー・マッカシイの映画「あきれたサーカス」、まことにつまらない。たゞ腹話術の人形がよく出来てゐることだけ感心した。近くの有喜村天ぷら屋へ堀井と行く。座へ。大入満員、補助出切り。「新婚」の第一声で、すっかり鼻声なのでクサった。徳山※(「王+二点しんにょうの連」、第3水準1-88-24)来る。ハネると車へ乗せ、送り、まっすぐ帰宅。今夜エノケン夫妻が見物してゐた由。(井上正夫も見物してたと。)


一月二十三日(火曜)

 十二時に日本橋の偕楽園へ、川口・上森・菊田と僕の、例会。川口・上森は一時間もおくれて来る。偕楽園の料理が、今日のはパッとしなかった。座へ出る。大満員。鼻声だが昨日より楽だ。三月東宝劇場へ出ないかと本社から言って来る。一考も二考も要するので保留する。ハネると赤坂まへ川へ。今夜は、曽我廼家五郎・エノケンと僕三人の親子会。榎本と僕、五郎氏の来る迄飲まずに待つ、十一時近く迄おあづけ。その長かったこと。都から写真班来り撮る。五郎の話、僕の話の間に酔ったエノケンは対抗上体術を見せてたが、しまひに泣き出してしまった。(後記エノケン近頃泣き上戸の由)
 エノケンは、酔った揚句に、僕は映画専門にやる、もうじきに舞台はやめる、と言って泣き出した。五郎氏がヅバリと、「脚本が無いからだろ」と言ふと、うなづいてゐた。昨夜僕の芝居を見て、「兵隊では泣いたよ」と言った後で、此うなったのだから、何だか偶然でないやうな気がして、可哀さうな姿に見えた。エノケン、中々苦しんでゐる。


一月二十四日(水曜)

 十一時起き、三時に出て、下二番町へ寄る、成之兄が拓務参与官になったので、祝に商品切手持参する。それから東宝映画本社へ。森岩雄氏を訪れ、富士屋ホテル行きをすゝめる。三月東宝進出のことは、那波支配人も積極説ではないので止してスケジュール通りに運ぶことゝする。清月で天ぷら、胸やける、油がいけないのだ。座へ出る、大満員である。長尾克大尉元気な顔で来楽、佐藤邦夫も来た。小林一三氏見物で、「兵隊」熱演、げっそりくたびれる、ハネるとまっすぐ帰宅。美川きよの「女流作家」を読み上げて、不愉快。佐藤八郎の「公園三人衆」読みつゝ寝る。
 二月の映画は、もう間に合はないが、その次作品からは、今迄のやうにアチラ任せでなく、大いにこっちも註文を出し、映画のロッパも、一俳優に甘んずることなく、プロデューサーとしても、責任を持ちたいと思ふのである。


一月二十五日(木曜)

 十二時半に女房と武蔵野館へ行き、ロナルド・コールマンの「放浪の王者」を見る、西洋阪妻剣劇。暖房が無いから寒いこと/\。出ると、中村屋へ寄りコーヒーを飲む。それからもとB・Rの紅白亭の家庭料理てのを試みに行く。不味くはないが、二円半とるのは如何だらう。座へ出る、大満員である。吉屋信子女史見物来訪。「兵隊」陸軍省へ頼み、推薦して貰ふやう、小笠原章二郎が骨を折って呉れてゐる。ハネ後、吉屋・門馬両女史に、築地金楽へ招かれ、御馳走になる。キング・オブ・キングあり、快し。どうも酔っても近頃理屈ばかり言ってゝいけない。
 エノケンの酒が泣上戸、近頃の僕は、理屈上戸になり、肩のはる思ひで飲んでゐる傾向だ。これでは、ます/\労れるばかりだ。もっと、朗かな、ノンセンスな飲みが必要だ。


一月二十六日(金曜)

 ちっとも雨が降らないから乾燥してしようがない、まだ鼻声が治らない。十二時すぎ、女房と橘の家へ行く。友田純一郎が来り、久々の麻雀。労れるし、面白いと思へず。田原屋のハヤシライスとオムライスとって貰って食ひ、座へ出る。大満員。然し妙な客で、笑ひが変だった。「新婚」は又辛くなった。「兵隊」は、気持よくやる。吉田実の使ひで、珍しいウイスキ一本届く。不愉快なるアダ者中村某タカリに来る。大西、漸く健康になったとて出勤。今月から上山に二十円宛やることゝする。今月は、わりに酒席の払ひもありさうである。まっすぐ帰宅。


一月二十七日(土曜)

 傷病将士招待マチネー。
 文藝春秋社後援の白衣招待マチネーだ。一寸おくれて行ったら、菊池氏の挨拶が、もう済んでゐた、残念した。白衣盲人のバンドの演奏があった、そのしめっぽさには参った。「ロッパと兵隊」大変な受け方だったが、あんまり切実過ぎるといふ気がした。愛国行進曲を歌って散会。文藝春秋の西川光と風月堂へ行き、食事。夜の部、大満員である。喜多村緑郎・久保田万太郎の見物のとこへ、梅島昇が加はったので一同大緊張である。「兵隊」が終ると、梅島が、楽屋へ来て大いに賞めて呉れた。ハネると、屋井の斡旋で牛込お千代へ、久保田万太郎・大江良太郎と、色々評談をきゝつゝ、飲む。喜多村氏は、絶讃して呉れた由。


一月二十八日(日曜)

 昨夜あんなにオールドパアを飲んだのに、今朝は声がとてもいゝので驚いた。ウイのおかげで声が治ることもあるらしい。昼、大満員である。曽我廼家五郎夫妻が見物、これで又ハリキる。「兵隊」の終りに、部屋へ来て、大した賞められ方で恐縮する。大いに菊田を買ってゐた。一人で出て、三直で天ぷらを食ひ、フランコでコーヒーと菓子を食べて座へ帰る。夜亦大満員である。明日演技賞を出すので、文芸部投票させる。ロッパ賞は菊田に出すことに定めた。ハネて、映画の打合せがあったが、ごめんかうむり、馬鹿飲みしたくて、如月敏と石田守衛を連れ、銀座のバア二三軒、意味なく酔って面白し。


一月二十九日(月曜)

 有楽座千秋楽 静岡大火同情マチネー。
 千秋楽。昼は、静岡大火同情マチネー。二千三百何円アガった由。日日を通じて静岡へ送る。三浦環女史挨拶に出て呉れ、つひに歌ひ、僕と組みて踊るといふ大珍景あり。昼終ると、本社へ招ばれて、特賞を貰ふ。ホテ・グリで屋井と食事。座へ帰ると日日の永戸氏、チャップリン行きの原稿翻訳出来持参、サインして、いよ/\アメリカ送りとなる。夜の部亦大満員。ハネて、特賞と演技賞の授与をして、公会堂へプレイガイドに頼まれたオザで行く。それから築地の瓢亭へ、座の新年会で行く、ジョニ・オカの黒をとっといて呉れた。五十円になったとは驚く。菊田にロッパ賞(百円)やったので大恐悦なり。
 正月公演演技賞
京極子爵賞
 高杉妙子
 梶原三平
 須藤 健
 菅富士男
親波賞
 高杉妙子
 梶原三平
 悦ちゃん
 白川道太郎
川口賞
 小山田班兵隊十一名
ロッパ賞
 異例デスガ俳優デナク「兵隊」脚色者ニ 菊田一夫
 三浦環女史が楽屋へ見え、母が静岡県出身なので、舞台からお客に礼を言ってもいゝといふので、先づ僕が出て紹介すると、上手から女史が、大変な恰好で出て来る。十六歳位のキイ/\声で挨拶をし、「私に歌へって仰言いますけど」と言ひ出したので、それッと僕が舞台上で拍手すると、客も盛に拍手した。「では、窓辺に寄ればといふ歌」と、伴奏無しで、歌ひ出した。下手寄りにつくねんと立ってゐると、歌ひ乍ら女史はこっちへ寄り、芝居をしかけて来るのだ。よし、そんなら――と、女史の手をとり声だけ出さないオペラを演じた。大受け大拍手。見た者曰く、「三浦さんと並んだ君の姿のスマートだったこと。」


一月三十日(火曜)

 ゆっくり寝た。一時に三益・高杉・平野とで日日新聞へ昨日のアガリ全額二千三百何円を静岡大火の義捐金として持参した。二時に海上ビルの試写室へ。「最後の一兵まで」を見せて貰ふ。前半とてもいけない、居眠り数刻、後半稍々よろし。が、戦争物ってのは何うも困る。夕刻、築地の蜂竜へ、近衛文隆の入営送別会で行く。服部良一・原田・京極といふ顔ぶれ。近衛が、ディムプルを一壜封を切って呉れ、飲む。うまし。市丸があらはれたりして、たゞめちゃな賑かさであった。


一月三十一日(水曜)

 箱根へ。
 十時頃眼がさめる。昨夜はディムプルを痛飲したが、流石に一流の酒である、今朝の気分快適である。二時半に迎へ来り、家を出る。行き当りバッタリの汽車に乗るつもり。丸ビルの伊東屋で原稿用紙をしこたま買ひ込む。四時二十五分の熱海行きに乗ると、増田叔母上が熱海行きで同車、小田原迄退屈しないで済む。小田原よりハイヤで、宮ノ下富士屋ホテルへ。七時を待ちかねて食堂へ。オルドヴルからとてもうまし。白葡萄酒小壜一本とり飲む。ビフテキプディングてものがうまかった。
 箱根と来れば、先づじっくりと湯に浸るのが当然だが、ホテルと来ては、そのたのしみは、まるで無い、部屋のバスか、パノラマみたいな馬鹿気た風呂か。それに、畳の無いかなしさ、ハランバヒになれない、此の辛さ。たゞ、ひとへに食ひものゝいゝことだけに、すがりついてゐるわけ。いや全く、二ついゝことは無い/\。

 箱根富士屋ホテルにて。
 富士屋ホテル――部屋の感じよろし。食事は満点。だがさて、ホテルのバスくらい悲しいものはあるまい、シャボンを使って濁った湯へドブリと浸る気持の悪さ。西洋人に迎合して、日本特有の温泉浴場を設備しない富士屋ホテルも嘲はれてあれ。(西洋行水と書いてルビ、バス)アンマが来た。ギシ/″\、ギチン/″\、寝台は鳴り通し、圧せばヘコむスプリングのおかげで、アンマの快感はゼロ。ユカの上へ蒲団をおろし、その上で揉ませる。アンマ曰く、「安いお方じゃありませんな、金がかゝってる。」そのうち揉まれてる鼻先へプーンとアンマの屁だ。心の中で僕、「これは辛い。」
[#改段]

昭和十五年二月



二月一日(木曜)

 箱根富士屋ホテル。
 朝食の時間を逸しては大変と、八時半に起きる。食堂へ、オレンヂ・ジュース、オートミール、スクラムブルエグ、コーヒー。美味い。部屋へ帰って、窓をあけると、もう閉め方が分らない。女中呼んで閉めて貰ふ、ホテル生活は格子なき牢獄であるといふユーモア小説が書ける。又、アンマを一時間やらせ、金魚の湯てのへ入った、バスよりましだ。内田百間の「冥途」を読んでると、コン/\カーンと食事を報せる音が響いた、オルドヴル、ポタジュ、車海老フライ、鶏とヌードル、うまい、たゞこれだけで来てゐるのだからな。二時間ほど昼寝、人魚の湯へ入り、「冥途」を読み上げ、「あさくさの子供」にかゝる。夜食八時近く。ローストビーフうまし。「あさくさの子供」とてもいゝ、大感激。
 一日中、しゃべることから脱け切れない生活をしてゐる僕である。それが今日一日中に何言喋ったらうか。のど休めだ、全く。あんまり喋らないと、ひとり言を言ひたくなる気持が分った。


二月二日(金曜)

 箱根富士屋ホテル。
 寝台に入ると、何うしても眠れない。アダリンを飲む、そして漸っと眠る。これでは保養にならん。八時すぎ起きる。入浴、食堂へ、スクラムブルエグとコンビーフハッシュ。又ベッドに入り、眠った。一時迄。すぐ又食堂へ。マカロニ・メキシカン、プローンのライスカレー。理髪店に行く。剃って、シャンプーして、ついでに前のビューティパーラーでマニキュアをしてみる。やすりでゴシ/\、湯に手を浸けたり、アマ皮をこさいで除って、一円。馬鹿々々しい。窓外は雪になった。谷川徹三の「私は思ふ」にかゝり、八時近く食堂へ、トマトクリームとプラム・プディングうまし。又、ソータン小壜を三分の二ほど飲み、ほろ酔ふ。眼に悪いと思ひつゝ、「私は思ふ」をアゲると「実業人の気持」を読み始め、一時すぎた。
 どうもホテル生活はやりきれない、くゝり枕一つを畳の上へ置いて、アゴをのせて腹ん這ふ心地は、あゝ何とよきかな。洋食はうまし。されど、オミヨツケも食ひたし。


二月三日(土曜)

 箱根。
 九時に起きた、もっと寝てゐようか、いや/\食ひたい。食堂へ、オートミールとスクラムブルエグ。又ベッドへ入り、眠った。滝村から電話、森岩雄都合悪く滝村だけ来る由。金魚の湯へ入り、読書。雪、時々降る。昼食、ポタアジュうまし、ボイル・ディナーとポークソーセージ。午後は、手紙数本と葉書数枚書いた。昼寝一二時間、これじゃあ夜寝られないわけ。四時半、滝村未だ来ず、もうホテル生活は嫌だ/″\。八時近く、滝村来る。食堂へ、ソータン小壜、一本あけ、色々食べる。うまいが、もう日本食恋し。喋り喋って、夜を更かす、一時すぎ、アダリンをのむ。滝村お先へグーグー。
 葉書の一つに曰く、ひとり居て、しゃべるすべがない、腹話術の人形を持って来ればよかった。


二月四日(日曜)

 箱根――熱海。
 九時半眼がさめる。食堂へ。味噌汁と卵で飯を食ひたいなアと思ふ。とか何とか言ひつゝコンフレークス、オムレツ、チキン等平げる。「浪曲忠臣蔵」といふ企画を話す。勘定、百二十七円何銭、チップ帳場へ二十円。腹は空らないし、もう/\洋食はイヤだが、午食二時十五分頃ホテルを去り、ハイヤ。小田原で滝村と別れ、三時半頃熱海着。海岸のつるや旅館へ。待望の畳の上へ。つるや旅館すべて安っぽいが、新しいので我慢出来さう。温泉行火の設備もあり、先づ落ちついた。久々、清の顔見る。女房・おばあさん・乳母も先着、何だか嬉しい。夕食、白い刺身と玉子やきでうんと食ひ、待望のアンマ、榎本といふのがゐて、それの荒療治、清と一緒に入浴、浪の音、すべてよろし。「都」に、浜村米蔵が「五郎とロッパの名文」と題し、僕が「東宝」正月号に書いた「楽屋用いろはかるた」に及んで賞めてゐる。浜村米蔵、よほどのファンとなったらしい。


二月五日(月曜)

 熱海。
 よく寝て、十時半迄何も知らず、すぐ入湯、朝食――サービスはスロウで昼食になってしまったが、待望の味噌汁、カマボコ、肉が一皿、うまい/\。食後、宿のコーヒーをとる、わりに美味い。あゝこれこそ保養じゃ哩。アンマ榎本来り揉む、痛いがうまい、皮膚がピリ/\するよと言へば、「そいつはすみません、皮むきアンマは下の下です」と言ふ。読書「奇・珍・怪」、中々面白し。女房と海岸に出来た竹葉で食事、川口・三益が聚楽へ来てることを、小沢陸蔵にきく。小沢の経営、しるこやぼたんでしるこを食ひ、宿へ帰ってみると、東久雄が来てた、隣の隣り、そこで話し込み、ねたのは一時半。


二月六日(火曜)

 熱海。
 九時半に起きる、入浴して食事、生卵と味噌汁がうまい。脚本のことは気になるが、まだ今日はよからう。聚楽へ来てゐる川口・三益が子供―男四ツ―を連れて遊びに来た。東久雄の浅草ピン行き話から、ドサ廻りの話などきゝ皆で大笑ひする。川口、清を見て「これあ出来がいゝ/\」。緑風閣へ皆で出かける、ビール飲みながら天ぷらをウンと食ふ。美味くないが空腹なのでよろし。こっちは清を抱き、川口は男の子を抱き、二人とも平凡極まるパパの姿だった。川口が帰って、さて、床へ腹ん這って煙草、いゝ心持、あゝ休まるわいと思ふ。又清と遊ぶ、何と子供はよく親を遊ばせて呉れるものかな。
 何を好んで、富士屋ホテルなどで、不自由を忍んで何日間か居たものであらうか、成程食ひものは美味かった、が、あとは何一ついゝことは無かった、「人間食ふがためのみに生くるものにあらず」である。


二月七日(水曜)

 熱海。
 九時迄ぐっすりと寝た。入浴し、朝食。ハムの罐を開ける。美味し。清と遊ぶ――結局終日清にかまけて今日といふ日も過ぎたのだが――何と子といふものゝ有がたさ、此うして一日一緒にゐると馴染んで来て一しほである。昼すぎ、女房・清と東も共に、川口・三益と子供を誘ひ、一休庵で久々普茶料理を食ったが、味が落ちて、たんのうせず。曇り、はら/\と時々雨。川口等は帰京し、我々は宿へ帰る。夜食は牛鍋。東が、夜の九時で帰京。アンマ榎本来り揉まれる。脚本を書かねば――と思ふが、何うも緒につかない。大川周明著「日本二千六百年史」を、参考にと読み始める、が、堅くて辛い。
 黄バク普茶料理の一休庵では、酒を磐若湯といふ、そこでビールは、磐若サイダーとでも言ふかね、とからかふと給仕女の曰く、「泡磐若」と申しますと来たので大笑ひ。川口は早速随筆の題にしようと言ってゐた。


二月八日(木曜)

 熱海。
 十一時近く迄よく眠る。入浴。朝食し、日劇へ電話する、昨日がロッパ青春部隊のアトラクション初日、大入満員の由。清と遊ぶこと数刻、アンマ榎本来り揉む。十日から撮影とあれば明日帰らねばならぬか――もっとのんびりのびてゐたい。気になるのは脚本、二千六百年、はて何としようぞ、案未だ無し。又入浴して、女房と散歩、熱海養鰐園を見物、竹葉で食事、小沢のチャラ陸さん来り、無理に御馳走されちまふ。熱海宝塚劇場へ行き、大満員で一ばん前へ座らされ、首の痛くなるのを我慢しつゝ「松下村塾」「白蘭の歌」の続編とを見た。

二月九日(金曜)

 熱海。
 十時半頃迄熟睡した。入浴、朝食、生卵かけた飯は美味い。当分洋食がいやだ――白いクロースにナイフ・フォークの置かれたテーブルが、思っても憂欝だ。洋行出来ないな、こんなことでは。アンマ榎本、二時から揉ませる。電話日劇へかける、堀井が出たので、すぐこっちへ来いと言ふ。又入浴、脚本は、あきらめて広津和郎の「青麦」読み出す。夜の九時すぎ堀井来り、鳥鍋を食ふ。滝村より電報、明日帰京と定める。清と入浴、泳がせる。十一時すぎ、花井が来る。皆で又入浴。東京電話申し込んだが此の宿感じ悪く、取次がず、通じず、怒る。


二月十日(土曜)

 熱海――帰京。
 八時起き、すぐ入浴、食事する。堀井と帰京十二時の汽車。清と別れを惜しむ。車中混雑。「オール読物」を読む、読切りが皆うまくなったな。ユーモア物は下手。品川二時十分。高槻の迎へ、砧村へ向ふ。滝村・斎藤と、三時から「駄々ッ子父ちゃん」の本読み、自分で読む。面白く、涙が出さうなところ多し。菊田の本が駄目で、伏見晃が書いたもの。撮影は、明後日ロケから始まる。日が少いので心配。上山と平野で紅白亭へ寄り夕食。日劇へ入り、ロッパ青春部隊の実演を見る。甚だ寒い気持になる。何たるパースナリティの貧弱さだ。山野と石田を誘ひ、久々で銀座バアを歩く、マクニッシュからハープ、ボルドまで行く。二時頃帰宅、寒々とひとり寝る。


二月十一日(日曜)

 十時半起き、母上と久々うちの朝食、味噌汁うまし。二時頃迎へ来り、三浦環のとこへ礼に京極と行くと、紀元節を祝ふ子供らの集りのところ、小さな女の子の歌をきく、ロッパの小父さん/\と大モテ。それから日劇へ行き、撮影所との連絡、滝村が約束で来り、一緒に銀座へ出て風月へ寄りコーヒーを飲む。今夜、いつも服部良一に御馳走になるから返すことにし、滝村と一応別れて、銀座裏の延寿春へ、京極の家来筋に当る三上孝子の父親の御馳走。大してうまいとも思はぬが、一と通り食へる。三上氏がよく喋り面白かった、蜂蜜と蜜柑の効能をきく。九時、秀仲へ。服部・滝村・京極をよぶ。


二月十二日(月曜)

 又熱海――議会傍聴。
 京極に誘はれて、貴族院の議会を傍聴しに行く。軽く食事して、十時、議事堂へ。議会――大臣の顔も見た、二時間以上ジッとしてるのには参った。色々然し面白かった。新聞社の写真班に大分撮られた。衆議院の食堂で、牛鍋を食って、こゝを出ると何だかホッとした。銀座へ出て小松理髪店で理髪。それから日劇へ寄る。撮影所から電話、ロケは明日出発、行先は伊東とのこと。それではと、清の顔が見たくなり、ハゲ天で食事し、罐詰と清の玩具(おゝ何と父性愛)を買ひ、熱海へ、車中獅子文六の「信子」一冊読む。九時二十何分熱海着、つるやへ、清の顔見て喜ぶ。議会傍聴のことが夕刊に出た。
 日本人といふ人種は、たしかに遠慮ばかりしてゐるし、何事にもシャイではあるまいか。僕の如く、我がまゝで通ってゐる人間でも、例へば、床屋に対して、アンマに対して、いろ/\遠慮と我まんをしてゐるのだ。それについて研究してみたいと思ふ。


二月十三日(火曜)

 熱海。
 朝七時東京電話、東劇の切符が届いて来たが、明日のださうで、何うにも仕方がない。すっかり不機嫌となる。又寝て、十時半起き、清を風呂へ入れる。雨、かなり降ってゐる、ロケは何うなるのか。食事して、大庭と喫茶部へ行き、紅茶、蜜柑の効能をきいたので盛に食ふ。二時すぎアンマを呼ぶ。上山より電話、多分明日伊東へ行って貰ふが、又連絡するとのこと。映画はこれだからやりきれん。夕刻、本田一平と大庭の旦那の服部君来り、雀となる。夕食は、外出せず、宿で食った。雀久々なればいともたのし。暁に至り、雨サッとあがり、まばゆきばかりの快晴なり。


二月十四日(水曜)

 伊東。
 夜明しの麻雀、八時すぎにきりあげ、皆で入浴。腰の痛いこと、アイタゝゝゝと言ひつゝ座る。海が今日は蒼く、立ったやうに、つまり平面が横になってゐず立ってるやうに見えた。揃って朝食。上山から電話、一時十分の熱海発で伊東へ向へとのこと。清と別れを惜しみて、熱海駅へ。伊東行、三等に乗る。ところが、着いたものゝ、ピーカンなるにもかゝはらず、撮影は無しださうで、何だアといふ感じ。宿は大東館、部屋もまあ/\で、階下を見おろすと川、斎藤寅次郎としばし話す。六時に、昨日の服部哲雄が、こっちへ来り、暖香園から皆で来いとの招き、如何にも田舎々々した座敷で、これ亦相当なる料理、相当なる芸妓、僕ビールを飲み、日本酒を飲み、少々酔ふ。十時に宿へ帰りて、すぐ眠る。


二月十五日(木曜)

 伊東――ロケ、撮影第一日。
 七時、快晴なので、すぐ入浴――此の宿の湯は、ゼロだ。急いで朝食、わりにうまい味噌汁。ロケは伊東のステーションだ、「お父ちゃん」の時と同じ赤帽の姿。昼食、駅前の浅田屋といふのゝ二階。此んな所で、ニヨキのグラタンがあったのには驚いた。わりにいゝ。午後、曇って中々捗らず、もうこの商売にも馴れたから、あせらない。三時半迄、例の現場待機を続け、中止。食料品屋に、ブラック・ホワイトあり、きくと四十二円也。ウワー、中止。その代りに、トミー・モルトといふ明治屋製のウイを買ひ、ハインズのピーナツバターを発見、買って宿へ帰る。部屋で皆寄って飲み、とても悪いウイで、がっかりする。夜、街を歩く。新地といふ遊廓を通り、大庭・本田を置いて宿へ帰る。


二月十六日(金曜)

 伊東――帰京。
 八時近くに起きて入浴、急いで食事し、伊東駅へ。今日は快晴で、どん/″\進む。十二時半頃に終った。駅前の浅田屋で食事、蜜柑・生椎茸等土産を買ふ。宿へ帰り入浴、ごろりとなり、書生に揉ませる。四時に迎へが来て、伊東駅、熱海で沼津からの上り、二等の混雑相当。野上豊一郎「翻訳論」にかゝる、面白い。東京着六時四十何分。高槻の迎へ車で帰宅。玄関に女房、清を抱いて出てる、清、元気よし。食事して、入浴アンマをとる。馴れてゐるから、家のアンマが一ばんいゝ。女房より、有楽座の切符係りの無礼な話をきゝ癪にさはる。


二月十七日(土曜)

 セット第一日。
 今日からセット入り、八時前に起き、九時開始の筈だから、東発撮影所へ急ぐ。スタッフは集ってゐるが、子役の小高まさるがゐない、通知洩れとあって、あはてゝ迎へを出し、小学校で授業中のを連れて来ちまふ。昼食を早めにして、始める。古岡の家のセット、子役五人、壮観である。今日は明治座へ行くので早く切り上げて貰ふ。花柳等の新生新派である。菊田に会ったので、二千六百年の脚本は、とてももう駄目だから書いて貰ふことにした、これでのう/\した気持になり、九時すぎ迄見物し、屋井と大庭・堀井で銀座へ出て、ハイデルベルヒでジョニ赤を飲む。


二月十八日(日曜)

 八時に起きる、眠い。東発の撮影所。今日は、古岡の家、専ら子供五人とからみ合ふ。中村メイコ中々よろし、愛嬌ありいゝ子役だ。小高まさるは「お父ちゃん」以来のなじみだから馴れてる、姉はヒナちゃんといふ子、中の二人が隠田組のエキストラ元締の小母さんの子で、これが少々お寒い。午前中に数カット片付く。東発食堂の昼食、悲しきライスカレー。午後ドン/″\能率があがり、夕食迄には二十カット以上進んだらしい。夜に入りて又いゝ調子、最後の一カットは、子役四人が、誰かセリフをトチるので、僕も手伝って、漸くO・Kになった。九時近くチョン。渋谷の石川亭といふ洋食店へ行く、うまいがお上品で小さい。ビフシチュウ、コロッケ。正月の有楽座の切符の件で、高槻を叱る。然し、有楽座の係も怪しからん。
 ロケーションですっかり陽にやけた、鏡に向ふと不愉快である。陽にやけては、恰好のつかない顔である。


二月十九日(月曜)

 今日も八時起き、東発へ行く。三国周三、沢村貞子、渡辺篤とからむ、古岡の家のセット、昼食になる、ポークチャップを食ふ。午後は、子役とからむこと二三あって、セット代り。その間、牛島通貴が、福岡の神保栄と一緒に来た、五月に九州へ来て呉れといふ話、平野に任せることゝし、夜又会ふことにして帰って貰ふ。藤田房子の父親来る、藤田が軍慰問がてらの旅をする件、許可する。赤帽の溜りのセット、九時近く迄。でも、仕事は早い、もう僕の出るとこの半分位も進んだやうな気がする。終ると銀座の新世界てふカフェーへ。平野を連れて行って、牛島・神保に紹介する。スペ・ロヤルってウイスキを持って来て呉れた。


二月二十日(火曜)

 夜中に歯痛、サリドンのんで寝る。今日は近郊ロケのところ、幸にも雨なので、夕刻迄用が無い。橘の家へ電話して、一時に行く。女房とも/″\。此処で七時すぎ迄、雀で遊ぶ。日劇のロッパ青春部隊の千秋楽なので、オマケに出演すべく行く。中々よく入ってゐる。小鳥のダンスのとこへ出て、カウモリ傘をひろげて、バレーを踊った、胸がドキ/″\くたびれた。フィナレにも出て、終ると座員一同に大入りを渡してやる。伊東章が、吉本に呼ばれて関西へ行くことになったので、その送別会として、山野・石田も共にルパンで飲み、それから又牛島に招かれ、富士見町へ寄り、クタ/\となり帰宅。(伊東章は、柳の東京カジノへ抜かれたものなりし。)
 久々で、舞台へ立ったが、何かコツを失ってゐる自分を感じた。舞台は、一日でも休むと、コツと言ふか、何かしらその要領を掴むことを忘れてしまふものだと思ふ。


二月二十一日(水曜)

 昨夜の飲みが、今朝の八時起きに辛い。砧の撮影所近くのバスの宇山停留所前の理髪店でロケ、雲待ち多し、メイコちゃんが泣き出すことなどあり、昼となる。筵を敷いてその上で、弁当を食ふ、オコモさんの如し。然し冷たい弁当のブリの煮付けの美味かったこと。此処を終り、成城の街道でテスト数回やったが、陽が落ちゝまって中止。撮影所へ帰り、入浴、東宝の風呂だけは実にいゝ、東宝温泉である。それからコロムビアの武藤氏の招待、赤坂の三島へ。武藤氏がブラック・ホワイト一壜、用意しといて呉れ、チビ/″\やる。コロの松村氏・営業部長それに加藤兄や服部良一も来た頃には、ノビちまった。コロ入りの話なども出てたらしいが、目がさめたら誰もゐず、二時だった。
「ロッパの駄々ッ子父ちゃん」ラッシュを見た。可笑しいし、泣けるし、これは大丈夫なものと定った。中村メイコと僕のとり合せが、いともよろしい、もう二三本此のコムビで「お父ちゃん」物を押すべきだと思ふ。


二月二十二日(木曜)

 寝たのが三時だ、八時起きは、づんと辛い。ロケ先、成城の田圃道へ行く。寒風吹きすさび、鼻の冷たいこと、そこで数カット撮ると昼になる。すぐ近処の英百合子の家へ、清川虹子と寄り、親子丼をとって貰って食べる、映画人の生活の一面、この家にあらはれてゐる。しばらく雑談して、撮影所へ行く。又、ラッシュを見せて貰ふ。やっぱり面白いし、泣ける。セットは、昨日迄「妻の場合」で使ってたセットを流用するのだから、演出の寅さんクサってゐる。二三カット撮ると、夕めし。砧の食堂は、ひどい、ボーイに「定食は何だい」ときくと、「支那料理の出来損ひです」と言ふ、洗濯石鹸を溶かしたやうな支那料理の出来損ひを食って、撮影所の前の俗称綴方食堂で、鮭の切身で飯を食ひ、十一時迄セットをやる。東宝温泉に浴して帰宅、十二時である。
 映画人、スタヂオ生活者は、芝居人にくらべて活気が無い、ハリキってゐないとは、常々僕の思ってゐることだが、実際、つきあってみればみる程、夢が無いのでおどろく。野心が無さすぎる。あきらめを一ばん経験してゐるのが、映画人だと言ったら、反語のやうにきこへるだらう。


二月二十三日(金曜)

 九時起き、出かける。砧の方。オープンが、撮影所の隅に出来てる、古岡の家の縁側と庭、渡辺篤とのカットが終ると、もう昼。代食といふんで、玉子丼といふ奴。夕方から昨日のセット入り。綴方食堂へ行って、ブリの焼いたのに、イクラで二杯飯を食ひ、おしるこ屋へ寄り田舎を食ふ。菊田来り、脚本のプラン立ったとて話をきく。二千六百年にはあまり関係無いが、まあ面白さう。セット七時すぎからかゝり、ワンカットでチョン。入浴して帰宅。床へ入り、「サンデー毎日」に頼まれた、「僕の映画月旦」十枚を書き、くたびれて寝る。


二月二十四日(土曜)

 八時に砧出発の近郊ロケ、と言ふんだが、なアにサバだと思ひ、九時頃に砧へ行くと果して丁度よかった。ロケ先は多摩川で、メイコちゃんと釣りをしてるところ、川っぷちで寒いが陽当りよく風もないのでわりにいゝ。冷たい折詰のちらし食って午後又数カット。水の中へ飛び込む三国周三の役を、大部屋の青年が代りに飛び込む。飛び込み代十円の由。多摩川が済むと、東発近くの街道で追っかけを一カット撮り、今日はチョン。大急ぎで東宝グリルへ、前川昂応召の壮行会あり出席。有楽座の新国劇見物、女房と橘夫妻を招待、飯は東宝グリル、帰りにホテルで茶。


二月二十五日(日曜)

 これだから映画は嫌ひだ、といふ日が撮影中に一日か二日は、あるものだ。今日がそれだった。九時すぎに砧へ着いたが、メイコちゃんが来てゐない、準備もまだらしい。そろ/\支度にかゝると、曇って来て、ポツ/\と雨。で、オープンはやめて、東発のセットへ入ることゝなった、その移動で手間どる。東発の部屋で、スチーム無くとても寒い中、無為に待ち、待ち、待つ。結局、七時頃から一時間半ばかりでアガリ。九時から十時間待たされてこれだけ。馬鹿々々しくて話にならん。東発は風呂も無し、クサリつゝ顔を落し、服部良一と銀座へ出て、ルパンからハイデルベルヒへ廻り、コロムビア入りの具体的な話をする。


二月二十六日(月曜)

 午前八時開始といふんだが、さうは行かない。九時過ぎに出かける。オープンの古岡の庭を押して行く。炭焼きの場面、子供たちに芋を食はせるところ等。昼は弁当屋にさう言って、弁当を届けさせて食ふ。午後も陽一杯古岡の庭と門の前、まだ二三カット残ってゐるが、明日一杯で、こゝもあと二三個所もアゲちまふつもり、随分無理押しだ。綴方食堂へ行って蒟蒻の煮たのなど食ふ。夜に入りて、八時から古岡の庭、乳首を拾ふ芝居を撮り、九時すぎアガリ。まっすぐ帰宅。服部老人が来てたので、ウイを飲む。戸棚から古い到来ものゝブラック・ホワイト二本出る、大喜び。
 むかしから小便は近い方だが、糖尿の気が出てから又随分チョク/\小便に行く。今日ふと数へてみたら、砧にゐる十一時間半、十五度小便をした。


二月二十七日(火曜)

「ロッパの駄々ッ子父ちゃん」撮影終了。
 今日で僕の出るとこはオールチョンの筈、いゝ塩梅にピーカンの好晴だ。オープンの古岡の庭の三カット、食堂で、うどんのカレー南蛮てのを食べる、熱くてうまい。入江プロの部屋へ行き、コーヒーと風月の菓子を馳走になる。永年の映画生活、此の連中はちゃーんとスタヂオの中で楽しめるやうに色々用意してゐる。四時すぎ砧はアガリ。俳優部の星野を誘って渋谷迄出て、北京亭といふ支那料理屋を教はり、夕食する。すぐ又引返して東発へ。七時半セット入り、森林をさまよふ。雨の中、コードを身体につけて提灯の電気入りを持たされビク/″\ものである、感電しさうで恐い。大難行苦行と相成り、十一時近く迄かゝって、帰宅、旅の支度とゝのへて寝る。
 とてもアガるまいと思ってた映画だったが案外や、アガっちまった。してみると、じっくり組むものは別として、此ういふ気軽なものは、十五日あれば大丈夫アガると定った。


二月二十八日(水曜)

 静岡慰問ショウ 大阪へ。
 八時に家を出る。東京駅へ。静岡行きのメムバー一同揃って出発、九時の特急。静宝の高井、その他の出迎へで、公会堂へ。中々立派な公会堂、一時に市長の挨拶があり、一時から二時半と三時から四時半の二回、市民無料招待の慰問ショウをやる。むろん大受けである。終って市中の焼跡を自動車で一巡し、五時四十何分静岡発大阪へ向ふ。食堂で夜食。北村小松の「髯の松つあん」を読む。十一時半、大阪着。南の葉村家といふ宿へ落ちつく。六畳一間でおさむいが、さほどひどくもなさゝうだ。入浴して、仕方ない、すぐ床へ入る。
 焦土静岡の光景は全く震災の東京の姿を思はせる、鉄もコンクリートも火の前には弱いものだ、恐ろしいパノラマを見る感じだった。


二月二十九日(木曜)

 北野劇場舞台稽古。
 大阪葉村家旅館の第一朝、十時に起きる、朝風呂は困るといふのを漸く宿賃を増すなどの交渉の結果、朝も入れることゝなり、入浴。節電日とあって昼は電燈無し。朝食、これはまあ食へるものばかりだったので安心。座へ一時半に行く。舞台けい古、「ロッパと兵隊」を、キチンと立ち、終ると「フォリース 春の大放送」此の方は、堀井・上山任せ。寺本が打ち日を二十七日迄にして呉れとガンバリ、いくら話しても分らないので、クサった。夜に入り、稽古あとは任せて、何しろ宵から遊べる日は今日だけだから、サムボアへ。ウイのいゝところを飲み、南へ出て、カフェー二軒寄り、南ずしへ寄り食べる。
[#改段]

昭和十五年三月



三月一日(金曜)

 北野劇場初日。
 十時にきちんと眼がさめる、食事、まことにアッサリしてゝいゝが、もう果ない気がする、早すぎるが。興亜奉公日で、コーヒーも休み、宿の紅茶を飲む。那波氏宛、大阪の打ち日を二十五日迄として貰ひたき旨書き送る。十二時から検閲あり、座へ出る。ヴァライエティー式のものに限り、検閲官出張し、一と通り本式にやらせて検閲するのだ、馬鹿にしてる。歌や踊はいゝが、腹話術なんか馬鹿々々しくて出来やしない。今日は三時開演、序の「春風吹いて」はこゝの封切、二の「新婚」は、よく笑ふ。「兵隊」大阪でも大丈夫と定った、又新に涙を流して演った。幕切の手は東京より盛大。入り大満員。ハネが何と八時。早いから有がたいが一日のことゝて手は無し、竹川へ行き、あひ鴨のすきで食事して、雀を始めた。これが徹宵です。
 道頓堀の近くの文具屋で、カーターを二本買った。大分万年筆は、いゝのが揃ったが、此の日記をつけてゐるウォターマンは、実に得がたいもの、随分永年使ってゐるが、まだよく書ける、お代りが手に入らないと思ふと、ます/\大切だ。


三月二日(土曜)

 七時、宿へ帰る、とんだ朝帰りだ。服部哲雄から電話、二時半に心斉橋の不二家に行くと、土屋伍一と稲葉などが偶然来て、つまらない。カフェー何とかへ、昼間といふに入ってみる、いやハヤひどいもの、サーカスの楽屋裏みたい。土屋などをマイちまって、服部の案内で多古喜といふ千日前のうまいものやと称する店へ。材料頗るよく、えび造りなど絶品。座へ――円タク拾ふのが中々大変、今日より五時半開演。大満員。「大放送」の腹話術、高瀬のレコードを買ってきゝ、それをすぐやる、大した受け方。ハネ十時二十五分、何とか短縮したい。サムボアから、大雅へ、相変らずうまいものを食はせる。


三月三日(日曜)

 日曜マチネー。十時起き、はかなく朝食食ひ出かける。座は、むろん大入満員、よくも此う笑ふといふ客、「新婚」も此ういふ客にはいゝ。「兵隊」が笑ひすぎて具合悪い。腹話術、高瀬は相変らずよく受けるが、小勝やらないと気分が出ない。二十七日迄やって呉れといふタイプ刷の手紙が寺本より来る、その他三日のマチネーを頼む、その代り辛労に報ひるといふ文面。廊下にハリ出し、「右、特賞めざしてハリキれ! アノネわしゃカナハンヨ」と書いて置く。昼めしは弁当とスエヒロのビフテキですませる。夜大満員、「新婚」もよく笑ひ、「兵隊」もよく笑ふ。ハネ十時十分。渡辺篤を誘ひ、大雅で専ら食ふ。マッシュポテトがうまし。


三月四日(月曜)

 昨朝の飯に、コロを出されてクサったので今日は注文で、かまぼこ屋の天ぷら(実はサツマ揚げ)を出させる、うまい、が何ともはかなき朝飯なり。堀井と果物籠を持って、御影へ、嘉納氏病気ときいたので見舞に行く。もう治ったからとて応接間で会ふ、いつも程元気なし。二時頃辞して、神戸へ行く。春めいて来て暑い。元町の朝鮮銀行へ寄り、勝津吉朗に会ふ、南京町の大東酒楼てので支那料理を馳走になり、大阪へ阪急で。座へ出ると、大満員と迄は行かない中満員。楽屋へ、清発熱の手紙女房よりのが届いてた、心配。牛島より不愉快な手紙来りクサる。ハネ十時十分。伊知地といふジャズ青年来訪、サムボアへ連れて行く。
 嘉納氏の奥さん曰く、「節電々々で夜の暗いこと、まあ防空演習のお姉さんみたいですわ。」防空演習のお姉さんは、よかった。


三月五日(火曜)

 咽喉がいさゝかいけない。十一時迄寝る。大庭迎へに来り、服部の馳走で千日前の多古喜へ朝飯を食ひに行く。鴨とネギと豆腐――この豆腐が絹漉しなのは欠点、早速木綿を買はせる。中村メイコへの贈り物、おもちゃみたいなメキシコ帽を買って送らせ、タキシ拾って北浜クニエダ理髪店へ行き、理髪する。四時藤山と約束で新大阪ホテルのグリルへ。ポタージュとゼフエスカロップ。座へ出る。満員である。藤山・松平晃が並んで一ばん前で見てる。声、いかん、クサる。川口来阪、明日四月狂言決定会をすることゝした。ハネて、今夜はグッと気をかへて、酒ものまず、南ずしへ行って、やたらにすしを食って宿へ十二時前に帰る。清、よくなったとの手紙、安心する。
 川口にきいたのだが、所得税が、四割位になるさうだ、やれ大変なことになったものだと青くなる。


三月六日(水曜)

 十時起き、女房から小包、味噌類と納豆、早速それで食事、久々うまい。白川と心斉橋へ出る。大丸へ入り、「駄々ッ子父ちゃん」の五人の子供たちに約束したので、メイコのは昨日送ったから、あと四人の子供に玩具や文具を買ひ、送らせる。あきれたぼういずの喜頓と芝利英に逢ひ、浪花座の彼等のショウを見物、中々いゝ。三時に新大阪へ、川口・菊田・上山とで四月狂言の決定。トリは「ロッパと将軍」。グリルで食事、ポタアジュ、ポーチエッグ・ノルマンディ、ポークソーセージ。座へ出る。九分の入り。二十七日迄日延べを、川口が寺本とかけ合って二十五日迄にして呉れた。声とてもいかん、苦しい。ハネ十時。大雅へ。昨夜のすしが咽喉にいけなかったらしいから、今夜は脂こいものにした。
 北野の寺本って奴にもつく/″\アイソがつきる。川口をつかまへて、此んなことを言ったさうだ、「何しろロッパの方もアガリが、大したことはおまへんのでな。一昨日も、北野が千九百円で、梅田会館(コーヒーの店だ。)が二千何百円ですから、梅田の方がえゝのや。」梅田会館が、北野の客を大半としてゐることに気がつかないのかといふ問題ではない、コーヒー屋のアガリと同一視する彼は、許しがたき存在だ。


三月七日(木曜)

 十時起き、咽喉少しいゝやうだ。納豆と東京よりの味噌による味噌汁で食事。BKの奥屋氏のたのみで布施市へ行く。迎へ二時すぎ。三十分近く車に揺られて布施市小学校の講堂で、金集中運動の会の余興に漫談一席、よく受ける。終ると車で大阪へ引返し、堀江の広重へ平野・上山と天ぷら食ひに行く。小さい海老を三十八も食った。座へ、タクシー待ちで大てい気がもめる。九分の入り。寺本が閉演が早すぎるから延せと言ったさうで、腹を立てる。もう大阪へは来ないと言ってやるつもりだ。声がまだ辛い。ハネて、又大雅で夜食し、ウイ少々飲み、早目に帰宿。
 大毎大朝その他に劇評出た、みな「兵隊」を賞めてゐる。


三月八日(金曜)

 今日は臨時マチネー。例年のニッサン石鹸の貸切で、石鹸一箱呉れた、それだけの礼でマチネーをやるつまらなさ。凡そつまらん客、女を二階へ男を階下に詰めたから笑ひがハデない、考へるべきことだ。腹話術のオッサン人形で「アノネニッサン」とやって世辞る。昼終り、新大阪へ、グリルで、ポタアジュ、ベーコンエグス、チキン何とか、うまかった。座へ帰る。補助椅子の出る大満員。昼と違ってバリ/\受ける客で嬉しい。ハネ十時。北の多幸平へ。大阪市の社会課の連中と会食、オサムイサービスで腹もろく/\張らず、帰りの車は無し、雨の中を地下鉄で宿へ帰る。つく/″\はかなき心地となる。


三月九日(土曜)

 十時起き、納豆が今朝でおしまひ。又タクシ探しで時間を無駄にし――全く此の時間浪費はたまらない――阪急迄。佐藤社長に敬意を表すべく寄ったが土曜で早帰りらしく留守。阪急百貨店へ入り、ネクタイと、郵便物入れのいゝのがあったので買ひ、家へ送る。十二時半、石田・大庭と待ち合せ、神戸へ。元町ブラ。堀井夫妻とバッタリ逢ひ、大東酒楼で食事、掛炉焼鴨のみいけた。東宝朝日館で藤山アトラクション見る、熱ありといふによくやる。終って三宮から阪急、これが途中故障、きち/\間に合って楽屋入。びっしり大満員。声、段々いゝ。ハネ後、宿の主人、斉藤亮輔氏の招待で、新町の吉田屋へ行く。ウイあり、食物もうまく、中々のサーヴィス。


三月十日(日曜)

 眼が充血してゝ、時々眼窩が痛いやうな感じで気になる。入浴して、眼を冷す。マネチーである。座は大入大満員。日曜の昼の客は種が悪い。重の家へ食事しに、堀井と行く。大阪は洋食食ふべからずだ。まながつをのうまいこと。夜も大満員、まん中の通路に迄補助が出てゐる。「新婚」やればやるほど馬鹿々々しい。「兵隊」も、東京ほど、やってゝたのしめない。腹話術はオッサンだけ。ハネ十時五分。もと一座にゐた西田が、今里新地てふところへ案内したいと言ふので、大庭と一緒に南のトミヤサロン(此処はサムボアに次ぐよさだ)でブラック・ホワイト五杯ひっかけて行く。今里といふ三流地のお寒さ。一時には宿へ帰ってゐた。
 バー、即ち洋酒の店も、在るものを売り切ってしまへば、もうおしまひなのだ、さう思って並び居る洋酒の壜どもを眺めてゐると、何とセンチメンタルにさへなるのである。永年の友、小松五郎義兼ではない、BLACK&WHITEよ、さらば、である。サントリーの十二年は、稍々飲めるものなることを発見した。


三月十一日(月曜)

 十時に起きる、国光映画の小笠原が来訪、つまらん奴だ。一時近くガスビル裏の丸治へ行く。小笠原章二郎の招待、まなかつをと白いさしみ、かぶらむし等々ウンと食って、若竹で鯛めし。倫敦屋てふ店でツータルタイを発見、三本買った。東宝支社試写室大満員、三時から「ロッパの駄々ッ子父ちゃん」の試写。子役の声のたんびに皆シュン/\泣いてゐる。先づ、ウケることは受け合ひだが、やっつけなのと、ナマなのがいけない。東京から二戸儚秋来り、二戸の友近藤、ブラック・ホワイト一本持参。大満員補助沢山。劇評家高谷伸来訪。ハネると、二戸・国光・小笠原等も一緒に大雅へ、小笠原専ら感じ悪し。


三月十二日(火曜)

 午前中、青年部の佐々木と岩井が来た。もう古株である自分たちをもっと役をつけてほしいといふ話、等きく。昼、二戸と東宝支社宣伝部の浅野秀治とを、つる市へ招待する。つる市の料理、うまいより何より高くとれるやうに出来てゐるといふ点を認めていゝ。たっぷり食った。彼等と別れ、南へ出る。浪花座のミス・ワカナをきく。ドンバルで軽く食事して座へ出る。大満員だ。声大変よくなり快演する。京都の今井泰蔵ドクトル夫妻来訪。眼は洗った方がいゝときゝ、洗眼器を買って洗ふ。ハネて、竹川で水たきを食ふ。


三月十三日(水曜)

 九時起き、滝村と鈴木静一が宿へ着いたので。滝村とは「兵隊」撮影について、色々と相談。それから滝村・鈴木も共々阪急で神戸へ。海岸通りのトムソンへ行く。革の弗入れだの、レターセットだのを買っちまふ。それからレーンクロフォルドへ寄り、ネクタイ挾みと、又弗入れなど買ひ込む。物資を愛することしきり。支那街の博愛で食事、名物のお粥がうまかった。元町のサノヘで又革の手提げ一つ買ふ。阪急で大阪へ帰る。座は大満員である。眼の疲れを防ぐ色ガラスを眼鏡にはめてゐたので大変楽だった。「婦人毎日」とかの婦人記者来り、談話をとらせる。ハネ十時すぎ。滝村とトミヤサロンでB・Wを飲み、大雅へのす。
 物といふものが、ちっとも欲しくないたちだったのが、物資欠乏の世の中となったら、やたらに色々物にこだはって来たのは可笑しい。無くなったから、ほしくなったと見るべきであらう。
 竹柴燕二、一座の狂言方、今朝死んだ。名物男を失った。


三月十四日(木曜)

 昨夜から滝村同宿、平野・柚木来り、物資ばなしに花が咲く。近頃はもう世帯ばなしを平気になった。滝村とは、今年中にもう三本、「兵隊」と、メイコとのコムビをもう一つ、正月物に長谷川一夫と組んで「大久保」続篇といふ打合せがついた。心斉橋へ出て、丸治で夕食。子持はぜ、鯛つくり、まなかつを、あら焚、かぶらむしと食べる。タクシー拾ひに気を揉んで、座へ。ます/\入りよろし。ハネると、ダッシー八田氏京都より出張、大阪中いゝとこが無いからとて、何と天六の八田氏の親類の家、磯辺セメント店の奥座敷へ、北から芸妓をよんでの饗宴、時節柄の大珍景。一時宿へ帰る。
 夜を早くするばかりが能でもあるまいと思ふが、これも時世時節とあきらめねばなるまい。東京も四月から十一時制になるらしい、何ともあきれた。短時間に、時計見い見いじゃ、全く休まらない。


三月十五日(金曜)

 十二時に、川口町の支那料理天華倶楽部へ。菊田・高杉他を招待して、二十五円のテーブルを食ったが、うまくなかった。阪急デパートで、又々ツータル・タイの新着品と、上等のタイを買ふ。藤山一郎の結婚祝ひにボストン・バツグ一つ買った。清に、犬の玩具一個送らせる。梅田映画へ入り、夢声の「彦六なぐらる」を見た。中々いゝ、夢声の進境大いに認む。梅田地下のみどりで食事、高くてまづい。座へ出る、大満員。「兵隊」は十七日中継のテスト短縮版でやる。そのため十時にハネる。勝津吉朗と共に神戸へ、花隈・加納町のバアを二軒、飲み歩き、待合らしき旅館の一室に、寒々と寝た。
 阪急デパートで買ものしてると中学生らしいのが、「ロッパや/\」「あれ、本物か。ニセものと違ふか。」「アハゝゝ化けよった」(眼鏡にガラスをはめたので)などゝうるさくつきまとふので大喝一声、「早く帰って勉強しろ!」と叫んだら、あわてゝ一人が「ハイッ」。


三月十六日(土曜)

 掻巻なしで寝たので、寝心地頼りなく、海岸で漁師と酒盛りする夢など見る。朝九時に起させる、風呂は無し、顔洗ふ湯もなし、でも食事だけは注文通り卵を食はせた。阪急で北野劇場へ行く。十一時半から、東亜商事の「旅する人々」の試写。ジャック・フェデが独乙で撮したもの、大メロドラマだが、中々よかった。済むと、文芸部連七名で、ガスビルの食堂へ、さゝやかに食事し、いろ/\意見をきく、舞台進行といふ名を変へて貰ひたいと提議される。座へ早目に出て、楽屋でヒゲ剃り、洗髪。序幕の「春風吹いて」を見る。斎藤豊吉は小老成で、いかん。ハネて、堂ビル裏のバアフロントでブラックホワイト飲みて又大雅へ寄り、ビシャ/″\な飯のライスカレーを食ひ、宿へ帰る。


三月十七日(日曜)

 マチネーだ。大満員、よく笑ふので驚くほどだ。昼の終りに、川口・三益と重の家迄食ひに行く。此処も二度目は前ほどうまいと思へない。味が癖があるからだ。川口とお互に伜のことを話しつゝ楽屋へ帰ると、女房から手紙が届いてゐて、清元気の由、顔が見たくなる。東京へ帰りたい/\。夜の部は、中継の時間の都合で、「春の大放送」を半分に割り、「兵隊」がまん中にはさまる。中継と思ふので大緊張し、熱演。よく笑ひ、かけ声などもあり。ハネて、小笠原を、新町の吉田屋へ招待した、夕霧の部屋といふので、夕霧の文や衣裳を見せられる。グリンウッド・ウイスキーといふのを試みる、いかん。十二時半引きあげ。


三月十八日(月曜)

 十一時半に出て、北の可どのへ。小林房雄さんの招待である。料理がお軽少で、食ひ足りないの何のって。三時に慰問なので、天王寺陸軍病院へ出かける。一座の選抜軍。僕は三益と漫才をやる。大した受け方なので、つひ/\三十分やってしまって、あとで驚いた。五時ガスビルの食堂で、天中軒雲月と対談。「主婦之友」の仕事、雲月が速製ママ記者となり僕に訊くといふ型式。雲月といふ人は実に確りしてゐる、男まさりの気魄がある。座へ六時に入る。花井腹痛で倒れ、「太閤記」の侍女久米が代る。ハネてから、奈良の黒松氏といふのが夫妻で来り、河合へ招かれ、ウイを飲み、さわぐ。


三月十九日(火曜)

 十時起き、今日が又ツンマチ即ち、昼の部貸切り。まるで笑ひが少い、クサリつゝふざけてやる。昼の終り、三益を連れて、重の家迄歩く。魚ばかりで何うもうまくない。東京から「都」の人が来り、四月二十六日に奉納演芸のこと頼まれる。神戸のオザの話言ふ通り出すといふのでOKする。夜の部大満員、ワッサ/\。特賞は如何だらうと噂が出る。伊川みどり、急性盲腸炎で入院、他女の子三人ばかり倒れ、踊りが人数減って困る。ハネ十時。元松竹の福井福三郎に招かれ、新町の北松へ。ジョニ赤あり喜ぶ。のんで盛に喋り、愉快なり。


三月二十日(水曜)

 今日も亦貸切マチネーで、せいが無い。座へ出る。貸切ショップガイドの客、又々皆クサる。瀬良営業係長来り、千秋楽に又貸切マチネーをたのまれる、特賞を出すことを約束させて、承認する。くたびれることだわい。昼の終りに、地下のスエヒロでビフカツとライスカレー食って、阪急百貨店へ。女房の土産ハンドバックを買ふ。特選売場で又オーストリア物のタイ一本。今日から「駄々ッ子父ちゃん」梅田映画で封切なので入ってみる、よく入ってゐた。夜の部、大満員。今夜はもう飲むのも面倒、フロントクラブへ行き、食事して、十二時に宿へ帰り、すぐねる。


三月二十一日(木曜)

 七時頃小便に起き、又床へ入ると、それから夢ばかり見る。コント風ないゝ夢十位も見た。又今日はマチネー、今昼は、貸切ではないから客種よく、よく笑ふ。が、どうもこっちに元気が無い。昼の部の終り、堀井・三益と梅田新道のとんかつろうじで飯。座へ帰り、一座からの出征者に慰問文を書く。ガスビルの永田氏、ガスビルまんじゅう持参で来訪。福島利通、薬品持参来訪。夜の部大満員、よく笑ひよく受ける。ハネて、石田と二人、ヘソで牛鍋とオムレツで食事し、十二時帰宿。
 コント風な夢といふのは例へば、支度して、燕尾を着て、白手袋を持って、エレベーターへ乗り、下りて見ると、手袋だと思ったのが、白い兵隊靴下だったので、カン/\に怒るところ。


三月二十二日(金曜)

 昨夜から又冬だ、寒さ甚し。十二時に、今橋の伊勢やへ行く。小笠原の妹の亭主佐々木氏の招待で、すっぽん。豆腐の料理うまし、すっぽんも随分お代りした。石田守衛酔って味を出し、面白し。心斉ブラから又阪急へ。特選売場の瓜生のすゝめ上手に乗せられて又ネクタイ二本買った。ネクタイばかり此の旅で十何本。早目に座へ出る。独身生活約一ヶ月、細かいことに気が廻り、腹立ちっぽくていけない。座は大満員、轟美津子の母死去の由、又物要り。斎藤寅次郎来訪、渡辺篤を誘ひ、四十二番街でウイをのみ、大雅でウンと食ひ、今夜も早い、十二時前。
「エスエス」の記事中、僕の書生が、先生はチェリーの箱を渡すと、キッチリ十本入ってゐるサラのでないと機嫌がよくない――と言ったと書いてある。成程、僕には、さういふわがまゝなとこがたしかにある。改める必要はないが。


三月二十三日(土曜)

 朝便所へ行くとシャーッと下痢した、昨夜の大雅の洋食がいけなかったか。でもいつもの通り朝飯を食ふ。金が無くなり、何しろ物を買ってばかりゐるから――宿から百円借りて、神戸へ、靴とカバンを買ひに、一人で出かける。又下痢が始まり、デパートへ入ってしゃがむ。大丸で三十九円六十銭也のカバン、その前の店で四十五円の靴。阪急会館へ寄って、「駄々ッ子父ちゃん」を半分ほど見る。座へ五時に入って、四月の配役。入りは大満員なり。平野、帰阪、月給持参、皆々大喜びなり。腹具合悪いからハネて、サムボアで、上等ウイのキャメオを少々のみ、トースト、オムレツといふところで、帰宿。
 買ひものばかりしてゐる、ふしぎな状態である、靴下、靴などまで買ふのだから呆れる、曰く、多情物資、カヒモノスケベエとルビを振るなり。


三月二十四日(日曜)

 荷造りをしようと思ってるのでキチンと起きる。昨日神戸で買った靴の中へ[#「靴の中へ」はママ]土産物をつめ込む。昨夜、サムボア他でマッチを何百個と貰って来た、これは受けるであらう。座へ出る。昼、大満員。李香蘭が見物してる。千恵蔵が「兵隊」を見たいと来る。昼終り、四月の宣伝写真撮影があり、「ロッパと将軍」の二役を、数枚撮る。親爺の方支那将軍の姿、如何にもグロで嫌だった。夜も大満員、「大統領!」「ロッパ」等のかけ声あり、それが間のびしてるのでクサる。ハネて、今夜は特別出演連の小笠原・稲葉と、悦ちゃんのお父さんをよぶ、新町吉田屋。あひ鴨のすきは、うまかったが、芸妓ひどいウンスヰばかりなのでクサリ、一時前帰る。


三月二十五日(月曜)

 大阪千秋楽。
 今日千秋楽だが、貸切マチネーである。吹田市が出来た祝ひに遺族招待だといふのだが、「新婚」は未だしも、「兵隊」が、てんで通じないんだからひどい遺族だ。手を抜いて四時前に終る。ガスビルの永田氏に招かれてゐるので、三益と高杉を連れてガスビルへ。グリルすしやで相当食ったが、三益のよく食ふには一驚した。夜の部大満員。つひに千秋楽迄大盛況。寺本支配人、しぶ/″\鼻くそほどの特賞を出した。ハネ九時十五分。さあ今夜は早いから飲まうわいと思ってたら、シャツを荷物ん中へ入れちまったんで、新しく買ひに行く始末、さんざカスを食はせ、結局いつもよりおそくなり、トミヤサロンからマルタマへ廻り、くたびれて帰宿。やれ明後日は東京!
 旅で技芸賞を出したことはないが、今回は文芸部賞として、
 庭野千草 「兵隊」の群衆中、目立たぬよき演技あり。
 原秀子 小鳥のダンス。
 二人に出した。


三月二十六日(火曜)

 大阪――神戸――帰京。
 清が太い声で大人みたいなので弱ったと思ってたら夢、でよかった。大阪を去る朝、九時半起き、阪急で神戸へ。アルプス・グリルといふのへ行く、安くてうまい定食。トア・ロードへ出て、清の玩具と小さなベレエを買ひ、元町のサノヘで又ネクタイを一つ買っちまった。時間があるので阪急会館で「駄々ッ子父ちゃん」を一と通り見た、受けてはゐるが、入りは大したことはなかった。五時半に、海岸通りのオリエンタル・ホテルへ。オリエンタルクラブの家庭会の余興である。漫談と腹話術と二度出て、間に久米等のダンス。ひどい客、子供ばかりでビー/″\言はれ、大クサリ。終って九時五分、三ノ宮発の一・二等特急で帰京の途につく。吉岡社長、隣の寝台。


三月二十七日(水曜)

 寝台、寝られず、便所へ何度も行く。食物のせいか、ウルチカリヤの如く、腹など痒くて困る。七時半寝台を出て、吉岡社長と話してるうち東京着。自動車の中で、女房と清が待ってゐたので、びっくり喜び。帰宅。久々の味噌汁のうまいこと。高槻、十五日に結婚し、ハリキってゐる。文ビルへ十一時着、本読み一と通り。五時、東映本社森氏のところで話、森といふ人の頭のいゝこと、会ふ度に感じる。三昧堂へ寄り新刊二冊。帰宅夕食。清、元気よくレロ/\プー/\言ふ。風呂へ一緒に入り、眼鏡除ってたのでワー/\泣く、眼鏡かけたら安心してニコ/\。床へ入り、セリフ少しやりかけてすぐ眠くなる。


三月二十八日(木曜)

 快適な朝。朝食のうまさ、宿屋ぐらしの淋しさに比べて、清の顔も見え、快し。十二時迎へ来り、塩瀬ビル東宝本社へ、那波氏留守、秦豊吉のみ。四・五と二タ月打続けて呉れとの意向である。一時に文ビル稽古場へ。短日間の稽古なので一つ宛アゲることゝし、今日は「将軍」のみ、づーっとやる。終ると、出雲ビルの小松へ理髪しに行く。そこへ川田義雄来り話し込む。それから、清月へ。久々で東京の天ぷら、あまり上等じゃないが、まあ食へる。銀座の人通りの中を歩き、有楽座の金語楼劇団旗挙をのぞく、エンタツ・アチャコの「国定忠治」が笑はせる。帰宅、丁度清の入浴に間に合ひ、一緒に入る。床へ入って、セリフをやり始め、二時半迄に「芝浜」を一と通り。


三月二十九日(金曜)

 十二時に迎へ来り、下二母上のとこへ寄り、下二父上の命日故写真にお辞儀した。一時に稽古場文ビルへ。今日は「東京温泉」を一日で片付ける。何しろ長いので、五時半迄かゝる。四月のには、これってものもないが、なべて面白いやうに思はれる。六時に、僕の車へ、川口・三益も乗って、小石川伝通院の三井邸へ招ばれて行く。食事のうまかったこと。メロンが出て、ポタアジュ、お代りをして、次スッポンのクリームソース、こいつを三つも食ったので、こたへた、鴨のジェリー、トルネードはお代りの元気なし。九時近く辞して、日暮里の高橋へ、女房と清が行ってるので迎へに寄り、一緒に車で帰宅十時半。床へ入り、「ロッパと将軍」を覚える。
 三井家の料理番は一流である。ポタアジュの温度がよかった。スッポンは、あまり洋食として食ったことがないが、少々脂が強すぎて魚代りには何うかと思ふ、むしろ肉のあとではあるまいか。ゼリー寄せの鴨も、満腹でお代りしなかったが、うまかった。トルネードも充分凝ったもので、うまかった。おみやげに、ワイシャツ生地とネクタイを貰った。


三月三十日(土曜)

 十時起き、文ビルへ一時に出る。「芝浜」の立ち稽古、セリフが入ってゐるからスラ/\と行く、皆びっくりしてる。山野と大庭を連れて、土橋のぶつ切牛、うつぼへ行く。ぶつ切の鍋で大いに食った。これは時勢なのか、此の店が因業なのか、お酒のまぬ客おことはり、一人の客、子供連れの客おことはり、実に変だ。東宝名人会をのぞく、此んなところも一杯だ。川口・三益とで徳川夢声を楽屋へ訪れたが来てない、柳好が来てゝ「芝浜」をやって貰ふ、もうけものだった。八時半に、一橋の光明学校の夕てのへ共立講堂。こゝで腹話術を一席やる。ミス・ワカナ・一郎の夫婦と赤坂まへ川へ。ワカナ肩のはる女なり。


三月三十一日(日曜)

 有楽座舞台稽古。
 十二時にそろ/\といふ電話で出かける。「東京温泉」からやる。半分ほどセリフが入ってゐるので、らくだ。これの終りが六時頃か、堀井と山野を誘って、今朝へ、牛肉を食ひ、座へ帰る。今度は「芝浜」で、こいつはやってゐて大丈夫受けは取れるもの、と定った感じ。十二時に終ると思ったのに、一時半を廻った。「将軍」にかゝる前、かなり長し。夜も白々明けに、皆半分グロッキーになって、やる。九時半頃に漸く終った。車の中で、コクリ/\やりながら帰宅。
[#改段]

昭和十五年四月



四月一日(月曜)

 有楽座初日。
 初日、興亜奉公日の三時開き。座へ着くと、満員で客止め。序の「春風百貨店」は三十分でアガり、次「東京温泉」何せ長い、二時間以上かゝった。プロムプターが不馴れなので、随分穴も明いた。菊田が荒れ出して、どなるやら高杉を一つ喰はすやら。でも、これはよく受けた。「芝浜」は、相手の三益のセリフが、まるで入ってゐないので、やりにくゝ、幕切れに緞帳が下りないで暗転といふ醜態を演じたり、山野が脱線して、馬鹿なこと言ったりしたが、これも先ず受けてはゐる。こゝ迄はよかったが、稽古不足の欠点を完全にバクロしたのは「ロッパと将軍」だ、エラー続出で、すっかりしょげてしまった。十時に終らせるため、ラストのヴァラは抜き。明日二時に稽古のやり直しといふことに定めて帰宅。
 エイプリルフールなんてものが、まるでピンと来ない時世になった。そんなことしても可笑しくもない、中々此ういふ時世の喜劇は、むづかしい。


四月二日(火曜)

 十一時迄、よくぞ眠れり。一時半、迎へ来り家を出る。有楽座へ、稽古のやり直し、四時迄。菊田・堀井とで銀座へ出る。エスキーモで、カツライスとコーヒー。座へ引返す。大満員の補助も出っ切り。「東京温泉」は、カット/\で芝居は纏まったが、二日目のダレでいけなかった。「芝浜」未だ三益がセリフを入れてゐないので腹が立つ。幕間に李香蘭が来た。「ロッパと将軍」又これでクサった。十時十分まではいゝが、それよりおくれてはならぬとあり、ハンパなとこで幕、今日より子供の役は堀井に代らせ、後半は将軍だけやる。大クサリで、元気なく帰宅。雨となり漸く暖し。


四月三日(水曜)

 大事件。女中つるが、猩紅熱となり、伝染病院へ入院。清は、乳母をつけて日暮里の高橋へ逃した。家は消毒することになった。僕は座へ。昼の部、補助椅子が欠伸してゐる。花時は郊外へ客をとられる。「ロッパと将軍」のクサリ方一と通りでなし。外出の暇なし、ふた葉のひき肉親子。夜の部、補助は出てるが、大満員とは行かない。何としても今回は弱い。「東京温泉」は、陰気だし、「芝浜」は、三益が江戸っ子にならないし、「将軍」は話の外だ。ハネ十時一寸前。ホテ・グリへ。女房・堀井夫妻と食事、女房の曰く、今回は全部ツンだと。今夜は日暮里の高橋へ行く。高橋夫妻旅行で留守、のび/″\と、座敷へ寝る。


四月四日(木曜)

 日暮里の高橋に泊り、何となく旅の気分で食が進む。十二時すぎに、高槻来り、女房と清も共々、橘の家へ行く。友田純一郎ヒョッコリあらはれ、一寸雀をやり、たちまち満槓を振り込みてクサる。五時近く辞して、座へ出る。ふた葉の親子丼をかき込む。客席ざっと満員だが、補助出ッ切りとは行かず。「東京温泉」を、初めに出すために、陰にこもるのではないかといふ山野の説、或ひは然らん。「芝浜」と順を置きかへようか。「芝浜」の時、三益がセリフを忘れてるのでダメを出すと、逆って来る、思ひ上ってゝ仕方ない奴。ハネて、ロンシャンで飲み、まへ川へ十一時上り込む。


四月五日(金曜)

 十時半起き。大阪以来、股のあたりに吹出ものして痒かったのが、まだ治らず、弱る。十二時半、高槻来り、出かける。東宝本社へ、那波・秦と、五月以後の話いろ/\。二時に文ビルの、女子研究生募集の試験へ。いゝ子ゐず、集りも悪く八九名の中、一人二人OKする。三時から「ロッパと将軍」改訂版の稽古、今夜から改訂版をやる。東映本社へ森氏を訪ふ、税のこと、それから新企画ロッパ五人娘を相談。高杉妙子他を五人娘として売り出す計画。末娘にメイコを入れることにする。五時座へ、食事サンドウィッチのみ。入り、九分弱か。「東京温泉」よく出来、「芝浜」もよかった、本日記者招待だから、よかった。「ロッパと将軍」プロムプター数名つきで改訂版をやる、この方がいゝ、菊田流石器用なり。


四月六日(土曜)

 一時半に家を出て、渋谷栄通の甲賀三郎邸へ、甲賀氏の長男が山で不慮の死をとげ、その葬式。折柄の雨で、ビショ濡れとなる。座へ三時に出る。「春風百貨店」の演出し直し、四時半迄かゝって、どうやら纏まる。ホテ・グリで一人で大急行の食事、ポタアジュとミニツステーキのみ。座へ帰る。大満員。今日から順序変更、二に「芝浜」三に「東京温泉」。稽古不足は恐ろしいもの未だに台本を離せない。「将軍」の改訂版は受ける、気は楽になった。その代りハネ十時こぼれさう。ルパンへ行く、田中三郎、文三郎等に会ふ、十一時に牛込へ辷り込み、ダレたカレー丼など食ひて帰る。
 からだに吹出ものゝやうなものが出来たり、傷あとが中々くっつかなかったり、何うも糖のおそれあり、近々上沼氏へ行き、診て貰はうと思ふ。


四月七日(日曜)

 十時起き、マチネーだ。清、元気プープーレロ/\言ふ。座は大満員である。順序は昨日通り「芝浜」から。やっぱり此の方がいゝやうである。ダンシング・チームの竹田かつみといふ新しい子が、発狂したらしいといふので、早速、前川等を附添はして帰させる。役がつかぬからと怒ったりしてゐた由。可哀さうでもある。「東京温泉」は、獅子文六見物といふのでハリキる、文六氏も気に入ったらしいとのこと。昼の終り、銀座裏の支那グリル一番で、シウマイ、やき飯等食ひ、近藤書店で新刊買って座へ帰る。銀座の人出の凄さ、歩けない程なりし。夜も大満員、よく笑ふ。「芝浜」が二になったのでしっくり来ない感じになったが、「東京温泉」は逆にうんと受け出した。十時ハネ。藤山一郎来る。まっすぐ帰宅、まだ痒いとこ治らず。


四月八日(月曜)

 十時半まで眠る。どうもちと寝過ぎる。それに、ウルチカリヤをこぢらせた下股の痒いもの、まだ治らず、気になるから、医者へ行かうと思ふ。「映画ファン」へ五枚書き、文藝春秋社の迎への車で、渋谷の連隊へ、兵隊さんの慰問。各社スター、レコード連の中へはさまり一席やり、銀座へ出て東映本社、森氏と会談。森氏の頭のよさを快く思ひつゝ話し込み、つひに食事の機なく、座へ入る。やはり満員と行かず空席少々見ゆ。三益、「芝浜」の芸、川口が示唆すると見え、色々変り、やりにくし。「東京温泉」受ける。高杉うまくなった。ハネ十時十五分前。ロンシャンへ、植村東宝社長と会ひ、又赤坂へ。シウマイを食ふ。
 昨日発狂した、竹田といふ女の子は、一旦帰宅して又やって来り、入口の着到板の名札を皆外し、古川緑波の次に自分のを置いて、帰った由。芸から狂気したところは、いぢらしい。


四月九日(火曜)

 十時半迄よく眠る。股間の吹出もの以外に、左の頬とアゴにかけて、又出きものが出来、不快だ、いよ/\明日は上沼医院へ行くことにした。邦楽座のプロにたのまれた映画昔ばなしの稿六枚書く。古プロ探しに、洋館の二階へ上ったり、金にならぬことで苦労する。二時に迎へ来り、女房・清とも/″\、小石川の俵家へ。それから九日なので雑司ヶ谷祖母上のところへ行く。清大人気。宝亭の洋食三品とパンを食って、座へ。入り、やはり九分といふところ。ハネは十時十五分前。赤坂まへ川へ。那波氏・平野・菊田と集まる。五月「蛇姫様」と定る。顔の出来もの気になり、飲む気がしない。


四月十日(水曜)

 十時半起き、顔の出きもの不快、ヒゲ剃りに苦労する。浜松町の上沼医院へ行く、出来ものは糖から出来る吹出ものではない、とのこと、糖尿検査して貰ふと、これは良くもなし悪くもない。血圧は百三十で、これは理想的。種痘をして貰ふ。それからすぐ有楽町の徳永医院へ電話で紹介して貰ひ、行く。診察の結果、トビヒの一種ださうで、早速股間に塗布、顔へは夜ねる時につけろと薬を貰って帰る。まだ時間たっぷりあり、全線座へ、「海の魂」といふのを見て、樋口とエスキーモで挽茶アイスクリームをのみ、金太郎で清の玩具を買って、ホテ・グリで食事し、座へ。入り九分弱か。「東京温泉」のみ、やりよし。ハネ九時四十分。母上見物、一緒に帰る。


四月十一日(木曜)

 昨夜寝る前、股間と顔に薬をつけ、股間は丁字帯をして、顔には手拭で面のやうなものを造って、確り縛った。九時半まで寝る。顔の方は少しよくなったと思はれる、股間のも、乾燥して来たやうである。杉寛来訪、病気もよくなり五月から又出たいとのこと、結局百円がとこ借りられる。夕刻、ハムライスを食って座へ。車中、憂欝、此の汚い顔を他人に見られるのが嫌だ。座へ行くと、大入りとは行かず、八分強位。何せ、かほするのに痛くて一苦労、芝居何うも身が入らない。ハネ十時、今夜古賀・藤山と約束してたが、顔がこれではやりきれず断はって、まっすぐ帰宅、顔に薬をつけ、マスクのやうにすっかり覆面して寝る。


四月十二日(金曜)

 十時起き、顔のトビヒはよくならない、ザラッと撫ぜると嫌な触感、たまらない。股間の方は大分よくなりかゝった。十二時頃、大庭と白川が来り、紙競馬をしたり、雀をしたり、すしなど食って、四時に家を出る。徳永医院へ寄る、顔の方はまだ治らないので変った薬を呉れた。座へ出る、づっと機嫌が悪い。新聞の人など来るが皆断はる。銀座のマコなんてタカリも、ついでに追っ払っちまった。中村メイコが、お菓子を土産にたづねて来た。徳山が又お菓子持参。川口来り、「蛇姫様」のこと決定。入りは、やはり八分強位。ハネ九時三十五分頃。まっすぐ帰宅。さて又薬を塗る。
 国民と報知に評が出た、あまり好評ではないが、思った程でもない。


四月十三日(土曜)

 覆面して、股間にはふんどしを二つ、一つ股に一つ宛締めて、薬をつけて寝る。一時に寝て、十時迄。鏡を見るとがっかりする、まだよくならない。気持が悪いが、ヒゲ剃もやめる。皮がつっぱって痛いので食事も美味くない。左の眼蓋にトビゝして、これが痛むので気が重い。病気てものをしたことのない僕、とても参ってしまふ。四時すぎ、すしなど食って、出かける。入りは、今夜は土曜のことゝて大満員なり。人に顔見られるのが嫌だ、顔を撫でゝザラ/″\する触感は、ゾッとする。芝居が何うしても身が入らない。「東京温泉」のみ、いくらかよし。ハネると今夜もまっすぐ帰宅、元気なし、又、女房に薬を塗って貰ひ、覆面して寝る。


四月十四日(日曜)

 九時半起き、顔のトビゝは頑強だ、今日はマチネーだから、六度も顔をしなければいかんわいと、ます/\元気なし。女房見物で一緒に出かける。座は、日曜故大満員だ。昼終っても、外出の元気なし、ふた葉の親子丼。三浦環や平井房人来訪、「座長微痣につき面会謝絶」と貼紙したので皆帰った。山野一郎、九度以上の熱で、日劇の高橋医師が来たついでに、トビゝを診せると、皮膚病ではなく、アルバジール連用のため副作用として、湿疹が出来たのであらうとの診断、これはとんだことだ! 兎に角明日京極に順天堂へ連れて行って貰ふことにした。夜も大満員、ハネ九時半より早し、まっすぐ帰宅、徳永医師の命じる方法は、やめた。
 新聞広告が、帝劇の新国劇、東宝劇場の少女歌劇ばかり出て、有楽座のが出ないので、新聞係りへ何故出さぬのか理由をすぐきかせろと、言ってやった。
(右は清宮東宝主任が予算をケチ/\するためと分った。)


四月十五日(月曜)

 十時起、「東宝」へ「竹柴燕二を悼む」七枚書いた。鏡を出しては、噴火口のやうな顔を見てクサる。醜い。やりきれない。手紙書いたり、宇野浩二の「高天ヶ原」を読んだり、脚本「明日は晴れ」を書いたりして三時に家を出る。京極へ寄り、順天堂医院へ連れて行って貰ふ。顔面及び股間を診て貰ふと、やっぱりトビゝだとのこと、化粧したりしてたら治りっこないとおどかされ、本社へ行き、秦専務と相談、明日より「東京温泉」一本だけ、素顔でつとめ、あと二本は代役でやらせることゝした。代役は、渡辺、サトウにふり分ける。入り、七分強。化粧する度、ヒリ/\痛む。ハネると、順天堂へ寄り、包帯で顔を包みて帰宅、パン食、食いにくゝて弱る。


四月十六日(火曜)

 トビゝのため、三本の狂言中二本休演。
 むかしダンロップタイヤの広告絵に、タイヤを積み上げて造った人間があった、その顔みたいに包帯して眼だけ出して、寝た。朝、顔も洗へない、大好きな朝湯も入れない。朝食も味気ない。順天堂へ行く。薬を塗りかへて貰ひ、包帯ですっかりくるんで、東宝本社へ。那波・樋口等と相談し、今月は僕「東京温泉」一本だけ出て、二十九日迄通す。五月も大切をとり十日初日にする段取り。透明人間の姿で、日劇の「蛇姫様」を見る、大満員、中々面白い。「踊る益田隆」といふアトラクションが、とてもよかった。座へ行く。「東京温泉」だけ演り、(素顔でとても感じ悪し)八時半には順天堂へ寄り、又包帯し直して、帰宅。清、呆れて見て、笑はない。床へ入って読書。


四月十七日(水曜)

 十時すぎ迄、よく眠る。起きても顔も洗へず、包帯の中から口だけ洗ふ。食事、モゴ/″\これも包帯が邪魔。十二時に順天堂へ行く。透明人間みたいになって、東宝グリルへ。宣伝その他の打ち合せ。三時に終る。日比谷映画へ行き、「ゴールデンボーイ」を見る、いゝ方だ。座へ出る、食事する気もなく、コーヒー一杯。古賀政男より苺一籠届く。浅草あたりではロッパがノサれて怪我したとのデマが飛んでる由、僕ってもの、如何に憎まれてるか、が分る。入りは今夜も八分位。包帯とって「東京温泉」のみやる。ヒゲ生へ、赤くたゞれ、感じ悪し。八時半に順天堂へ寄る、薬が変った。九時半に帰宅、床へ入り、「明日は晴れ」を十枚ばかり書き、読書して寝る、二時。
 包帯だらけの顔を見た、東宝の一事務員曰く、「ロッパとホウタイ」僕曰く、「ロッパのトビヒメサマ」


四月十八日(木曜)

 今朝も、口を洗ひ、眼を拭いたゞけだ、気色悪し。十二時に順天堂へ行く。股間のは殆んど乾いた由、顔面もいゝ方。包帯して女房も一緒で橘のとこへ行く。雀を六時迄やる。今日出来よし。この位のたのしみがなくっちゃやりきれん。座へ出る、鈴木静一・滝村等来てる。入りは、八分弱位の由、あまり落ちはしない。たゞ二十日以後の前売りが売れなくなった由。「東京温泉」素顔でやる。演後すぐ又順天堂へ、水気がなくなりカサ/\して来たからよほどいゝのだらう。薬を塗りかへて帰宅。「明日は晴れ」を一時半迄かゝり、三十枚書き上げた。
 この頃の交通不便は大したものらしく、夜などバスや電車の停留所は黒山の人だかりである。自動車も段々ガソリンをとりあげられるらしい、アンタンたる気持である。
 明日は晴れ 三十枚(脚本)但し伴田春夫の名で発表。


四月十九日(金曜)

 十時すぎ起き、順天堂病院へ。包帯をとり、白い薬をオレーフで落して、無色のと塗りかへて又包帯。これで済む。東宝本社へ。有楽座の五月は、十日初日と確定。前の十日は古いサイレント映画をやることになったらしい。銀座の全線座へ、「コンドル」が始まるところ、樋口のプライヴェート室で、一人ゆう/\と見物。煙草のみ乍ら見られるので助かる。もう一本の「彼氏と女秘書」も見た。五時、楽屋入り。入りはいゝ塩梅にあまり落ちない。顔、かなりよくなり、水気もなくなった、有がたい。「東京温泉」相つとめ、又順天堂へ。夜は白い、カユといふ薬をつける、包帯して帰宅。山本勝太郎「劇評と随筆」と宇野浩二「高天ヶ原」と交互に読みつゝねる。


四月二十日(土曜)

 十時半起き、十二時に順天堂へ。大分乾いてよくなった由。神田の南明座で「ターザンの猛襲」を見る。も一つの「海国魂」といふのもわりに面白かった。三時、東映本社へ。森氏と会ひ、チャプリンの手紙のことを話す、東日の手では、チャプリンの手迄、僕の脚本が届かないので、今度は高野氏を通じて、手をかへて行くことゝする。何うしてもこれは完成したい。それから座へ。大満員――と迄は行かぬが、とてもいゝ入りで安心。「東京温泉」をやるだけで帰宅とは全く気が抜けちまふ。顔、又昨日より少しいゝと思へる。帰りに、順天堂へ寄り、包帯し替へて帰宅。床へ入って、宇野浩二「高天ヶ原」読了。


四月二十一日(日曜)

 今日はマチネーだから医者へは寄らぬことにした、朝、包帯を除り、オレーフで白い薬を除り、顔を軽く洗ひ、久々で頭を洗ふ。十二時半に家を出て座へ。日曜で、花時の雨と来たから入りはいゝ。「東京温泉」をつとめると、此のヒゲ顔じゃあ外出の元気もなし、部屋で、山水楼の五目めしと鶏スープを平げ、「東京温泉」の演技を花井を呼び改めさせることなど。昼、藤山一郎(十六日結婚)新婦と見物、花を見舞に呉れた、中々の豪華版。夜の部、やはり大満員なり。又順天堂へ寄り、包帯されて帰宅、九時半。清、散髪し、クリ/\坊主が可愛い。山本勝太郎「劇評と随筆」を読み了り、山田多賀市「耕土」を読み始め、二時すぎ寝る。


四月二十二日(月曜)

 十時起き、入浴せざること何日、早くズブリと湯に浸りたい。清も女房共々順天堂へ。清のお尻にデキものあり診て貰ふ、何でもないらしい。包帯し代へて、十二時半頃、橘の家へ行く。友田来り、夕刻迄雀遊す。ひたすら悪運と戦ひ、つたなくも敗る。六時半に座へ。服部良一来る、コロムビアとの調印は、京極が旅行から帰ってからしようと定める。渋沢会長より、ホワイトホース一本お見舞として貰ふ。大切に抱いて帰る。「東京温泉」のみやり、順天堂へ寄り、大分いゝので喜びつゝ帰宅。「耕土」を読み、今夜は一時前に眠る。


四月二十三日(火曜)

 十時迄、よく眠る。包帯をとってみるとすっかり赤味とれて跡も薄い、ヒゲが生えてるだけの感じ、此の分なら大丈夫。順天堂へ。包帯し代へて貰ひ、丸の内へ出る。銀座文洋堂で書類入れ、その他買ひものする。邦楽座へ入ってみる。「翼の人々」といふの、凡そつまらない。アトラクションのS・S・Kもつまらず、クサった。まだ四時すぎで早いが座へ。「東京温泉」のみ演る。山野一郎も今日より出た。入り一寸薄い。順天堂へ寄り明日入浴してもよからう、ヒゲも剃っていゝと言はれ嬉しい。中野実今朝帰還の由、早稲田の家へ寄る。中野大分心境変化したらしい。又来ることゝして辞し、十時半帰宅。床へ入って「耕土」を二時すぎ迄かゝって読了。


四月二十四日(水曜)

 起きると十時、すぐ入浴、久々の入浴の嬉しさ、待望のヒゲ剃り、ジョリ/″\と剃っちまふ。さっぱりとして、食事。順天堂へ行く。包帯する。そして又家へ引返した。堀井夫妻が、清の初節句にと、カブトを持って来る。雀を一荘、三時半頃揃って出かける。座へ、早いけど行っちまふ。木村千疋男来る。入りは、あんまり落ちてもゐない様子。「東京温泉」熱演して帰る。順天堂へ寄ると、眼も赤いから明日は眼科へも行けと言はれる。トビゝの方、どん/″\快方。帰宅、吉井勇の「洛北随筆」を半分ほど読む。今日月給出た。


四月二十五日(木曜)

 十時起き、左眼は眼蓋が重い。入浴は今日はやめた。順天堂へ。先へ眼科へ行く、左の眼蓋の裏が腫れてるといふので、電気で二十分間温める。それから皮膚科へ。包帯して、出る。神保町へ出る、招魂社のお祭りで大変な人出である。橘のとこへ行く。雀を夕刻迄。今日も不首尾。橘が、清への贈りものとして、古いオルゴールを買って来て呉れた。座へ行く、入り七分強位に見えたが。「東京温泉」今夜は出来悪し。女房同車、順天堂へ寄り、包帯して帰宅。東宝本社事務所連から初節句の祝ひに、金太郎の大人形来る。寺本熊俊から「お見舞」として、ジョニオーカーの黒二本来る、珍しいこと。左眼重し、されどやっぱり読まないわけには行かず、吉井勇「洛北随筆」を読み上げる。


四月二十六日(金曜)

 九時すぎ起き、左眼ものもらひ腫れ上り、弱った顔なり。入浴し、ヒゲを剃る、顔の方は殆んど全快。軍人会館へ、都新聞の奉納演芸。僕は三益と漫才をやる。これが終ると、順天堂へ行き、眼科へ寄る、二十分間電気で温め、アルバジールの注射をされる。それから、麹町の垣見八郎右衛門氏の家へ寄り、一寸上り込み話し、今度は青山の青年館で、これは東宝の奉納演芸で、又三益と漫才をやり、本社へ寄り、清の祝の礼を言ひ、平野とホテ・グリへ久々寄り、ガランティンとムサヤと飯。座へ出る。入り八分弱位か。「東京温泉」熱演。斎藤寅さん来訪。帰りに順天堂へ寄る、今度は皮膚科。応接でレコードきいて、床へ入り「閑話休題」読みつゝ寝る。


四月二十七日(土曜)

 十時起き、今日も入浴せず。もう顔は殆んどいゝ、左眼のものもらひ、まだ眼の上皮がたるんだやうになってゐる。順天堂へ。先に眼科、又、アルバジールの注射をして、二十分電熱し、皮膚科へ寄る。丸善へ寄り、レターペーパーや封筒など買はうと思ったが、もういゝ品は少しもない。一時に芝の増上寺前、花岳院てとこの二階広間で、五月の本読みをやる。菊田が「蛇姫様」の出来たゞけ半分ばかり読み、つゞいて斎藤が「支那の夜」僕が「明日は晴れ」を読む。三時すぎに銀座へ出て、山野と支那グリル一番でシウマイ、中華丼を食ひ、早く座へ出て、五月の絵看板の下絵や、歌ひ文句を書く。入り七分強か。順天堂へ寄って帰宅。宇野浩二「閑話休題」を読了。


四月二十八日(日曜)

 マチネーだが、一本しか出てゐないの故、ゆっくり出だ。入浴、ヒゲ剃り、今日は順天堂へは寄らない。座へ出ると、入りは八分強ぐらゐ。昼が終ると、雨だが、外出しようとすると又、高槻が不在、おくれてやって来た、思ひきり怒鳴りつける。浩養軒へ行き、服部良一と会って、食事して座へ帰る。夜も入り、わりによし。渡辺とサトウに代役の礼として、五十円宛やる、又代りの石田・大庭に十円宛やる。中野実、「東京温泉」を見物、済むと一緒に出て、ルパン。久々で中野と乾杯する。中野は、人情家だ、しみ/″\する。心境変化し、再演物一切止めると言ってゐる。服部良一来り、長谷川へ行ったが、どうもダレて、十一時すぎに出る。


四月二十九日(月曜)

 有楽座千秋楽。
 九時頃眼がさめる、入浴、顔はすっかりいゝ。十二時家を出て座へ。小笠原兄弟・悦ちゃん・稲葉に林寛・斉藤紫香等今日は色々な人の来る日。エノケンに脚本書いてやる話をしたのが、実現しさうになって来た、此の休み中に書いてやらうか。屋井が、喜多村緑郎筆の「ロッパと兵隊を見てうまいと思ひながらあるく冬の夜の街」といふのを表装させて呉れて持参。夜の「東京温泉」終ると、照明室から「ロッパと将軍」を見物、渡辺篤の大熱演面白し。ハネて、服部哲雄、ジョン・ヘイグ一本持参、九段へ行く。
四月興行技芸賞
○屋井賞
杉山彪(四の兵卒)
○H賞
原秀子(二の小女)
吉岡勇(四の番兵)
○ロッパ賞
高杉妙子(二の春子) 技芸進境著し
竹村千左子(二の仕出し) 此ウイフ役ヲ生カシタコトハ賞メラレテイゝ
藤リエ子(二の夕刊売) 毎度変ラヌ努力ヲ


四月三十日(火曜)

 熱海へ。
 十一時に出ると、順天堂へ。眼科へ寄る、「ホースヰ蒸気を」と言ふので何かと思ったら眼へ吸入をかけるのだった。皮膚科へ寄り、いろ/\薬を貰って、こゝで京極と会ひ、東拓ビルのコロムビア本社へ、入社の話を定める、五月八日に正式調印することにした。それからプレイガイドへ行って、七日の切符三枚買ふ。風月堂迄戻り、食事して、四時四十分の豊橋行で熱海へ向った。二等は空いてたが三等の客があふれ込んでクサった。田中栄三著「映画俳優読本」読みつゝ。七時頃熱海着。つるやへ。女房・清・荒井と、橘弘一路夫妻が先着。いゝ塩梅に別館三階のいゝ室あり。夜食牛鍋。それから二夫婦で一荘、珍しく大三元を荘家でやる。
[#改段]

昭和十五年五月



五月一日(水曜)

 熱海。
 朝陽が明るいので早く眼がさめる、八時半頃。入浴して食事する。食進み、たっぷり三杯。それから一日何といふこともなく過す、ほんとにこれで気も身体も休まる。「毎日たゞ此うやって風呂へ入って飯を食って寝るんだったらノンキでいゝだらうな」と話す、が、此んなことが何日もつゞいては又たまらない。帰京すれば、嫌でもガチャ/\働かねばなるまい、それもよし。床へ入ると、蚊が出て、早速刺される。弱ったことだ、中々寝られない。
 サーヴィスといふものが地に陥ちた。宿屋でも料理屋でも客は、辛抱・我慢のしつゞけだ、これは恐ろしいことではあるまいか。


五月二日(木曜)

 熱海。
 明るいのと蠅がたかってうるさいのと、清がレロ/\言ふのとで、八時に眼がさめてしまふ。入浴、今朝の飯は抜きにして、一休庵へ行くことにし、朝から一荘。十二時に宿を出て、一休庵へ。例によって僕は二人前食べる。此の前の時味が落ちたと思ったが、今日は又美味かった。熱海銀座を歩いて、宿へ帰り、又入浴して、雀台に座る。昨夜からヘンに声が嗄れてしまった。夜食八時頃、食堂へ下りて、オムレツ・ハヤシライス。蜜柑を今日は十以上食べた。部屋へ戻ると又雀。一時頃寝る。もう明日は帰京、僕だけ残る気だったが、淋しいから一緒に帰ることにした。「蛇姫様」台本送って来た。
 蚊に好かれるたちで、昨夜など一寸の間に、僕だけ五六ヶ所刺されてしまふ、蚊でもアブでも蠅でも、さういふものに人気のあるのは、つまらん。


五月三日(金曜)

 熱海――帰京。
 十時頃起きる。今日はもう帰京する。かなり暑いので弱る。宿の勘定をする、前よりづっと高くなってゐるやうだ、チップなど入れると、かなりの払ひだ。車、漸っと来て、駅へ。二時二十五分、熱海発、「蛇姫様」のセリフ覚えたり、半分は清にかまける。四時半東京着。銀座のいんごうやへ橘夫妻も共に行き、いつものビフテキと気の抜けたライスカレーを食べる。橘夫妻と別れ、帰宅。もう暑い、二階開け放して風を入れる。清、段々表情に富んで来たやうである。床へ入って十一時、「蛇姫様」おぼえにかゝる。
 こんなことでいゝのかと思ふほど、物価は高くなるわ、物は無いわ、商人――客相手の者どもます/\サーヴィスが悪くなる一方、いやな世相である。この世相を逆に、一つサービスをやかましく取り締ってみようか。


五月四日(土曜)

 十時入浴、今日は一日何も纏まった用は無い。十一時に出かける。小松へ寄って理髪、バッタリ坂本に逢ひ、珍しや八洲亭でポタアジュ、ハムエグス、タンシチュウ、コロッケ。此ういふ味は銀座の表通りになし。ビーマンへ寄り、コーヒーを飲む。こゝだけほんものゝコーヒー。有楽座へ寄り、無声映画の興行をのぞく。今さら此ういふものもイヤだ。アトラクションに二代目天勝が出てる。初代と芝居したいことを伝へて呉れと言っとく。東久雄来り、雨の中を浅草へのして、久々生駒等と安いとこ豪遊して、十一時半帰宅。
 日本のそれは、西洋料理と言ふより洋食だ、と谷崎潤一郎が言ってゐるが、その洋食って味で、うまいのが、八洲亭、渋谷の石川亭、一寸変ったところで煉瓦亭といふわけだ、パンよりもごはんのおかずによろしいといふ味、これも亦たのしい。


五月五日(日曜)

 清 初節句。
 九時に眼がさめる。入浴、菖蒲湯。清の初節句で親類集まる。座敷の床の間に、五月人形、諸方から貰ったのを飾ったのが賑か。十二時、雑司ヶ谷祖母上・近藤・榊叔母、金子姉等来り、おこわ等食ふ。主人公清、とても元気でダア/″\チャッチャッと言ふ。一時半に出て、今日から稽古、帝劇の裏の稽古場である。文ビルのよりづっといゝ。「蛇姫様」の読み合せ。それから「明日は晴れ」を立たせる、セリフを皆入れさせてあるので、すら/\行く。夕方終る。それから、清の顔見たくなり、約束を断はってまっすぐ帰宅。


五月六日(月曜)

 十時に家を出て、海上ビルの東和商事へ、「フロウ氏の犯罪」といふフランス物を座員のために試写して貰ふ。まあ見てゝ倦きさせない。終って、東京会館でポタアジュと二皿食って、一時に稽古場へ入る、帝劇三階。「蛇姫様」を立つ。義太夫の人も来て、劇中劇野崎村、こいつ中々の難物、団福郎が師匠役で、一々立って演って貰ふ。五時半頃出て、明治座へかけつけたら、何とお目当の湯島が終るところだ、クサった。今回は「婦系図」の通しだが、中幕に「団欒」なんてヘンなのをやるので大走りらしいのだ。その中幕の間は、楽屋へ、喜多村氏のとこと、梅島のとこへ行ってた。同行の橘夫妻を送って帰宅。


五月七日(火曜)

 十一時に出る。帝劇稽古場へ。十二時から「明日は晴れ」を立たせ、時間を計ってみると、二十分位しかかゝらない。三十枚あるのだが二十分とは驚いた。それから「蛇姫」。音楽入りで通した。これが六時近く迄かゝる。三時開演の歌舞伎座へ行くのだから、気が気じゃない。漸く終って、かけつけると、「ういらう」の終るとこ。昨日が母上のお誕生日なので、下二母上を招待、母上と三人の見物。「ういらう」が、よかったのに惜しい/\と言はれる。食事は、天ぷら定食。十円八十銭といふ高い入場料が反っていゝのか大満員、補助も出てゐる。下二母上を送って帰宅。


五月八日(水曜)

 コロムビアと契約――有楽座舞台稽古。
 十一時に東拓ビルのコロムビア本社へ行く。武藤・松村立会ひの上、契約調印する。五月一日より二年間の約束だ。それから東映本社へ行き、森氏と五月末からの撮影につき相談し、「ロッパ五人娘」といふことになる。有楽座へ行く。「明日は晴れ」の演出。一々ダメを出し、四時すぎになる。藤山一郎夫妻とホテ・グリで食事、又有楽座へ引返す、「支那の夜」の舞台稽古、これは関係ないから気楽に客席の見物、半分ばかり見て、銀座へ出る。屋井・服部・山野・大庭で、牛込迄のして、大分酔って帰宅、大声で清を起してしまった。


五月九日(木曜)

 服部良一の家迄迎へに車をやり、応接で、ビクター時代のレコードを数枚きいて貰ふ。服部の曰く、演歌調を狙ひ過ぎてゐる、又、テンポの早いのが多すぎる、と蓋し名評と思ふ。十二時半頃出る。服部同道有楽座へ。二時すぎから「兵隊」を通す。来合せた樋口大祐・山野と陶々亭で食事、今日のは美味かった。屋井が喜多村緑郎よりの薬品持参、オゾノールとかいふ水薬。「蛇姫」のかゝり六時がらみ、これがその長きこと蛇の如く、午前三時半頃迄かゝる。顔が白粉落すと又荒れる、喜多村の水薬つける、いゝやうだ。菊田の娘が死亡。いろ/\と物要りなり。稽古済んで、帰宅。


五月十日(金曜)

 有楽座初日。
 十二時起き。喜多村氏の薬はよく利くらしく顔の具合いゝ。今日初日、三時開演。序幕を客席へ廻って見物、わりに手際よく行った。ハンパな日が初日な為か、今日は満員と行かない。それに女客の団体か何かあるらしく、「兵隊」が、ピッタリ来ないので面喰った。それが済み、「支那の夜」の間白塗りコテ/\と始める。「蛇姫様」七時頃に開いて、九時四十分迄かゝる。長いの何のって。然し、劇中劇など馬鹿々々しいがよく笑ふ。白ぬり故、芝居はしにくい。ハネて、部屋でカット相談。水飢饉のため、風呂沸かず、据風呂で沸かして運ぶ始末、心地悪し。


五月十一日(土曜)

 よみうり遊園キャメラの会。
 今日は一日大働きだった。十一時に迎へが来て、多摩川べりの、よみうり遊園へ行く。明朗ロッパを写す会といふ、読売主体の催し。うちの役者たち此ういふことに不熱心で困る、三益・渡辺・サトウ皆来ない、僕・悦ちゃんと二人で豆汽車に乗り、豆自動車に乗り、モーターボートに乗る、その間キャメラ、千何人に包囲され、大したさわぎ。二時迄ゐて、神田共立講堂へ飛ばす、鎌倉保育園の会で三時頃一席。終ると四時開演の座へ、表を廻って、「明日は晴れ」を見る、白川キッカケトチって幕切めちゃとなる。「ロッパと兵隊」は、昨日より稍々ハマった。「蛇姫」は、受けてゐるらしいが、出突張りでないので、気が抜ける。ハネ九時四十分、又カット相談で十時半頃迄かゝる。帰宅。


五月十二日(日曜)

 九時すぎ起き、オゾノールがいゝらしく顔が段々きれいになるので有がたい。十一時に家を出る。女房見物で同車。座へ行くと、入りは、まだ本イキでない、マチネーに補助が出てゐない。昼終ると、ふた葉のソボロ親子一つ。すぐもう夜の部、補助椅子が大分出た、が、まだ活気が充分ではない。コロムビアの武藤・松村来訪コロよりは大きな花環が来てる、万事ビクターより、することがハデである。入浴、水飢饉のため、階上迄水が揚がらず、据風呂を持ち込み、狭苦しいの何のって。京極より電話、赤坂の金仲に、武藤とゐるとのことで行く。酒は飲まず、もみぢの支那料理を専らワニ/\と食って、十二時半頃解散。


五月十三日(月曜)

 十時起き、清・女房を市ヶ谷の室橋医院迄送り、東映本社へ、平尾・坂本と話し、坂本と八洲亭へ食事しに行く。二度目の今日は美味いと思へなかった。ゾンネに寄ってコーヒーを飲む、これがひどく不味し。眼科中泉へ寄り、洗眼、血膜炎らしい。銀座を歩いて、文洋堂でレターペーパーや原稿紙を買ふ、此んなものも、どん/″\無くなるらしい。東宝本社へ行き、秦専務と、名古屋の出しものについて色々相談、「蛇姫」を引込めて「愛染かつら」にする。五時、座へ出る。入り漸く本イキとなり、補助満員なり。「ロッパと兵隊」も、今夜は確り受けたし、「蛇姫」もいゝ。ハネ十時二分前。喜多村氏推薦の薬タップリ買はせた。まっすぐ帰宅し、高見順の「如何なる星の下に」を読みつゝ寝る。


五月十四日(火曜)

 十時起き、食事せず、十時半に車来り、日本橋偕楽園へ行く。「日の出」の座談会で、五郎・エノケンと三人の筈、ところが行ってみると二人共都合悪く不参、馬鹿な話、一人で支那料理食べ乍ら、喋らされる。料理もこれじゃうまくなし。それから邦楽座へ入り、「貿易風」ってのを見る、つまらない。眼科へ寄り、洗眼。ホテ・グリで一人、フィレソールとシャムピニオンのオムレツでバタライス。座へ出る、補助出切りの大満員である。「蛇姫」長いのでカットしたい。古賀政男・滝村等来楽。滝の本城、築地秀仲へ。古賀と、いろ/\メロディー話。酔って帰り、又、清を起しちまった。


五月十五日(水曜)

 十一時迄べったり熟睡した。二階で、「如何なる星の下に」を読み上げ、清を相手にうだ/″\してる間に四時近く。中泉眼科へ行く。大勢人が待ってるのに、「古川さん」と、すぐに呼んで呉れるので大助かり。座へ。入りよろし、補助も出てゐる。相撲が人気で大分そっちへ取られるらしいが、先づ今月は大丈夫と思ふ。「兵隊」受けはするが、フレッシュな感じが失せて、演ってゝ気がのらず弱る。夕刊二三批評出た、「蛇姫」は、さん/″\だ。ハネは十時十分前。滝村と、コロムビアの高山とで、牛込へ。エビスの肉を食ふ、うまし。ロッパといふ妓が出たので呼ぶ、プク/\ふくれてゝ面白いが秋田のズー/″\であった。一時帰宅。


五月十六日(木曜)

 十時眼がさめる。顔の方は、きれいになったが、股間まだいかん、クサる。二階でアルバムやスクラップを三時頃迄かゝって整理する。四時近く家を出ると、眼科へ寄る、洗眼。座へ出る。入りはよろし、補助も出てゐる。「兵隊」ピンと来ないのは客のせいではなく、こっちが悪いのかも知れない。調子が、きれい過ぎるのも確かに逆効果なのだ。「蛇姫様」に至っては、白塗りのモタレ役、つく/″\うまくない役者になっちまふ。「野崎村」もう少し念入りにギャグを練るんだったと後悔する。ハネ十時十分前、まっすぐ帰宅。


五月十七日(金曜)

 十時起き、朝食せずに家を出る、清・女房も同車。橘の家、昼頃に、友田純一郎来り、雀といふことになる、いきなり友田に打ち込み、四千プとられたのが、つひにしまひ迄取り返しがつかなかった。座へ出る。いよ/\本調子で入りよろしく、補助満である。「兵隊」は、やっぱりしっくり来ない。「蛇姫」は、ハリあひなく、今回は舞台のたのしみといふものが、ない。上森来り、久々で飲まうと言ふところへ、田中三郎が中野英治とやって来る、上森は此の連中とは嫌だと言ふので、十一時迄に新橋登喜本へ辷り込む約束にして、ロンシャンへ三郎・中野とつきあひ、ウイ。十一時に新橋へ。
 今朝「都」に、青々園の劇評が出た。実に親切なので嬉しい。


五月十八日(土曜)

 十時起き、食事せず、日比谷の陶々亭へ。渡辺はま子と藤田紀が昼食をさし上げたいと言ふので。ところが十二時に行っても、招いた方の二人とも来てゐない。はま子など小一時間もおくれて来る。食事、大してうまくもないが、山水楼あたりよりはいゝ。それから銀ブラして、三時半に眼科へ行く。座、早く出て、里見※(「弓+享」、第3水準1-84-22)の「文学」を読む、久々でたんのうする。岡庄五久々来訪。入り益々よく、補助出切りの大満員なり。楽屋にゐると、歌声や口笛になやまされ、黒板に「楽屋の名歌手達に」と注意書する。「蛇姫」は、つまらずたゞダラ/″\と長い。まっすぐ帰宅。


五月十九日(日曜)

 マチネーである、母上と同車座へ出る。入りよろし、大入補助沢山。何としても昼は気がのらない。母上観後の評がいゝ、「蛇姫は笑ってはゐるが、ふざけ過ぎるよ。」と、全く。ホテ・グリへ一人で行き、大急ぎで、サリズベリ・ステーキとバタライスに、スチュウ・コーン。冷コーヒーに、ロイヤル・プディング。急がしい思ひをして外へ出るのは辛いが、気が変るので、これが必要なのだ。夜の部、ぎっちり大満員。「蛇」の芝居中、後の板ツキが、しゃべり通しなのに業を煮やし、青年部一同集めて誰が喋ったと言っても白状せず、青年部と絶交を宣して帰る。ロンシャンに、中野実と会ひ、談じつ飲みつして一時すぎ帰宅。


五月二十日(月曜)

 十時起き、清と女房共に、麻布竜土町の脇田医院へ行く。喜多村氏の紹介、例の薬(オーソミン――オゾノールは誤り)の医者、清のお尻のコブ、女房の手のハレモノ、僕のトビゝの残りと一家順に診て貰ひ、近くなので喜多村緑郎氏の家へ寄る、二階洋館で、清も連れて行ったが、子供は嫌ひと見え、相手にせず、一人で色々話される。そこから橘のとこへ行く。又雀二荘五時迄。宿命のやうに負ける。座へ出る。青年部連中謝罪に来る。ハッキリしろと言って許す。入り、月曜デパート休みの為か大入補助出切る。「蛇」は、ダレつゝふざけつゝ汗みどろ。白ぬりはきらひさ。藤山一郎七月に先約ありと今になって言って来る。三益、旅へ行かぬ話など色々急しい。まっすぐ帰宅。
 三益が、名古屋の旅へ、子供が病気故行かれぬと言ふ、川口も度々のことで、もうわがまゝも言ひにくい、何なら契約も変へ、或ひは女優をやめさせてもいゝとの話、さうなら話は分る。然し今更名古屋へ不参とあっては困るので、平野に交渉させる。


五月二十一日(火曜)

 十時起き、暑い。二時、迎へ来り青山の斎場へ、南莞爾氏の告別式に行く。大変な参列者で、入口から押されて六七分かゝる。銀座の風月二階で、冷コーヒー飲みつゝ藤山を待つ。藤山一郎、七月は何うしてもダメだと言ふ。なら、徳山にしよう、腹ん中でそのプランを練る。眼科へ行く。風月へ戻り、女房も来て食事、ポタージュにチーズオムレツ、ステュウビーフに鶏の飯。十二円ばかり、ものゝ高くなったこと驚く。座へ出る、大満員。ハネ後、演舞場の曽我廼家・大磯と連絡とり、赤坂まへ川へ大磯と勢蝶とを招く、俳優協会のこと、実行委員として働いて呉れとのこと、ウイ飲み、支那料理を食ふ。


五月二十二日(水曜)

 十時に起きて、入浴、頭髪を洗ひ、いゝ気持。だが今日の暑さは何事であらう、ムン/\と真夏の如し。中野実夫妻、清へ玩具の犬を持って来る。中野は、帰還兵らしく、ことごとく戦争の影響を受け、日本の女は戦争が分らなすぎると怒ってゐる。三時半に出て、銀座へ、エスキーモでカツ飯を食って、座へ。中野は見物。入り大満員。中野見物が利いて「兵隊」久々の快演。三益、旅へ行かぬことハッキリ申し出る。川口と将来のことは打合せることにする。ハネて、フロリダへ行き中野と落合ひ、神楽坂松ヶ枝へ上り込み、ウイ(ジョニ赤)を飲み、中野盛に又帰還兵を発揮する。
 暑さ突然来り、日中の温度実に八十八度あった、まるで真夏なり。


五月二十三日(木曜)

 十時起き。今日は本所の寿座へ、珍しい古い歌舞伎を見に行かうと、山野と市川光男を誘ったのだが、東宝本社へ三時に来てくれとの電話で予定変更。松竹座へ、新興演芸部の漫才きゝに行く。ハットボンボンスといふのをきゝたかったが、見損ふ、ワカナ・一郎その他の漫才貧弱。二時に出て来々軒へ行き、中華丼とシュマイを食ひ、三時に本社へ。六月の名古屋のこと、三益の始末から、七月東宝のこと、いろ/\と話がはづむ。座へ出ると、補助は出てるが、二階空席あり、暑さのせいもあらう。三亀松と二戸儚秋来楽。ハネ十時十五分前。まっすぐ帰宅。


五月二十四日(金曜)

 東和商事の試写室で「オリムピア」の試写があり、九時半に家を出て行く。日本国旗が掲げられるところは涙が出た。試写を見てた古賀政男と東京会館へ寄り食事、それから青山なる古賀邸へ行く。古賀作曲の「柄じゃないけど」を稽古して貰ふ、何とも息の要る珍しく歌ひ辛い歌。それから中泉眼科へ行く。右眼、ハヤリ目といふのでこれは数日かゝると言はれる。座へ出る、大満員である。待望の雨が少しだが降り出した、水飢饉が救はれる。もっと降れ/\である。ハネ十時十五分前、又山野の身の上相談で、牛込へ。ウイ、眼を気にしつゝ飲む。
 古賀政男曰く、マイクを馬鹿の耳だと思って、かんでふくめるやうに、此のいゝメロディーが分らないのか、これでもか/\といふ心持で歌へ、と。


五月二十五日(土曜)

 起きると、右眼まっ赤、充血してゐる。十二時半に家を出て、母上同道、赤坂加藤伯父上の家へ、伯母上の一周忌なので顔を出す。東映本社へ、森氏を訪れる。六月初旬の映画は、山本薩夫の演出の由。眼科へ寄り新橋演舞場へ、五郎氏を訪れる。俳優協会の喜劇部の部長が五郎、副部長が僕といふことを警視庁で定めて来た由。三直へ寄り、天ぷら夕食。座へ出る、大満員。「兵隊」が始まる、出ると眼が辛くて、涙が出る。中泉眼科氏に来て貰ひ、いくらか楽になった。帰宅、千両の雨じと/″\と降ってゐる。読書してもいかんといふわけで、仕方なく寝てしまふ。本日月給出る、税を前以て引かれてるので面喰った。
 読売に菊岡久利といふ男の評出る、粗雑な頭の奴らしく、言ふこと一々成っとらん。


五月二十六日(日曜)

 九時過ぎ起き、雨やんで晴れ。右眼まだ真ッ赤だ。眼科へ寄る。まだ快いとは言はれない。座へ出る、昼の部、大満員。「兵隊」よく笑ふ、「蛇姫」つまらず。昼の終り、ホテ・グリへ、女房待ってゝ二人で食事。スクラムルエッグ・ウィズ・ハムとチキンソティー・ライスにシユガーコーン。六月初旬の撮影をやめたき心しきりに起る。その間に眼を治すことだ、明日断らうと思ふ。ハネ十時四十分頃、まっすぐ帰宅。眼をホーサンでたでママゝ、何も読むことなく寝る。


五月二十七日(月曜)

 十時起き、右眼まっ赤、ヌル/\涙出て、まことに憂鬱である。中泉眼科へ。点薬して、洗眼薬と洗ふ器具を貰って、東宝本社へ。充血した眼を見せ、撮影は止めることにすると森さんに伝へて貰ふやうに話す、これで気が楽になった。七月の狂言決定、三本立とし、適当なものが定った。七月昼夜稼いで八月を休みたいと思ってゐる。それから古賀政男氏宅へ。ピアノで稽古「柄じゃないけど」中々古賀氏の稽古は厳格である。飯を無心し、カツレツの出来そこなひみたいなのを食ふ。五時座へ出る。白井鉄造来訪。ハネ九時四十分。ホテ・グリへ、白井鉄造と話す。帰宅。洗眼、無理せず、寝る。
 七月東宝進出の予定狂言
一、北村小松原作 斎藤豊吉脚色 渡洋爆撃隊
二、古川緑波作 歌ふ弥次喜多 金比羅道中
三、菊田一夫作 曲芸団のロッパ


五月二十八日(火曜)

 有楽座千秋楽。
 十一時半に出ると、中泉眼科へ、洗滌。山水楼へ、コロムビアに頼まれた、マイクを囲む座談会といふのへ出席する。小梅・渡辺はま子、藤山・白光に八百蔵・村岡花子・何とかアナウンサー等。まづい支那料理、それも量が足らん。此ういふ座談会で僕はあまり喋りたがらなくなったな、と自分で思ふ。銀座へ出て、エスキーモで一皿食ひ、眼科へ又寄ると、座へ。社長から本社へ一寸といふ電話、特賞かと勇んで行く、「君には出さぬが座員に少々やる」と各自の包になったのを呉れる。九時半ハネ。トチリし者十何人にのみは、大入袋をやらず、技芸賞も今回は無し。ハネて、屋井英太郎・生駒等と牛込で、えびす亭の肉をうんと食ふ。


五月二十九日(水曜)

 十一時迄寝る、此の位眠ったら眼もいくらかよくなりさうなものだが、右眼は、まっ赤だし、左も少し赤くなってゐる。映画は断はってよかった、とても出来ることではない。四時近く家を出る、交番のとこを通る度気がひけるので、(ガソリンのため)高槻と相談する。眼科中泉へ。左の方も悪い故、氷で冷せと言はれる。ニューグランドへ行き那波氏の馳走になる、グリンピー・スープ、肉とスパゲティ、チキン・トリビルうまし。それから那波氏も共に、新橋演舞場の川奈楽劇団を見物に行く、ターキーの人気すばらし。九時前に出て、車を家の近くで捨て、歩いて帰る。
 ニュウグランドあたりでも、もうクサイバタを使ってゐる。帝国ホテルはまだ純良バタなり。


五月三十日(木曜)

 右左両眼共、まっ赤である、やりきれない。そのため肩が凝り、歯が痛い、さん/″\だ。機嫌頗る悪い。夕刻四時に出て、眼科へ。まだ二三日は治るまいといふ。さて、それから、ニットーコーナハウスでお茶をのみつゝ、寄席へでも行かうか、それとも浪花節でもあればと、眼を使はないことを考へてみるが、何うにもいゝ知恵が無い。結局浅草へ。関時男・生駒・泉を誘って、みや古でいろ/\食ふ、ビールなども入って、十円四十何銭安いな。ふら/\歩いて、もうくたびれ、帰宅。読めず書けずじゃ何うにもならん。
 人間、自分と共通なことを喜ぶ傾向が実にある、例えば、皮膚病でホータイしてる時、道で同じやうなホータイの人を見ると、同情もし、話しかけたくさへなり、眼の病ひとなると、同じ病の人を見ると、やはりさういふ気が起る。眼の健全なのを不しぎにさへ思ふ。


五月三十一日(金曜)

 十一時すぎ迄寝る、よく眠ることなり。十二時半に迎へ来り、駒込の木下医院へ、清のお尻の腫物診て貰ふ。山田伸吉の紹介、彼も来て呉れて。院長木下氏芝居スケッチの道楽あり、僕の舞台姿もイヤって程見せられる。そのうち歯が痛くなり、土橋の寺木歯科へ寄り、薬つけると、やっぱりえらいもので、すぐ治る。眼科へ寄る、峠は越したと言はれホッとする。一旦家へ帰る。夕刻又出かけ、新宿中村屋でボルシチと炒飯を食べ、丸の内へ出て東宝名人会へ行く。眼をつむって、きいてみる、左楽がボケた、文楽ひとりいゝ。山田と別れ帰宅。
[#改段]

昭和十五年六月



六月一日(土曜)

 十時起き、十一時、中泉眼科へ行く。それから寺木歯科。内幸町のコロムビアへ寄ると、山田耕筰氏がゐて、食事しようと、丸の内のアメリカン・クラブ迄行く。ベヂテブル・ディッシュを食べる。二時放送会館へ、明日と明後日放送の「ロッパ欧洲へ行く」を読合せ。海野十三作、菊田脚色、つまらないもの、くさりつゝ読む。夜八時半テスト迄の時間、銀座へ出る。奉公日だから、何といふ手もなし。レコードのケース上等一個、川口の坊やへ土産の玩具買ひ、支那グリル一番で食事、女房に逢ふ。大徳でストロー・ハット一円五十銭を買ひ、放送会館へ戻り、九時から十二時近く迄テスト二回やり、帰宅。
 コロムビア入りと同時にレコードの場合は、古川緑波とせずに、たゞロッパと三字書くことにした。この方が売りよからうと思ふ。コロ側も賛成してた。


六月二日(日曜)

 十時起き、中泉眼科へ。教文館のフジアイスへ入りハムエグスを食ってると、ひどく糞意を催して来たので出る。外米ガイマイのせいで時々此ういふことあり。小松理髪店のビルの便所へ入る。それから理髪して、二時帝劇の稽古場へ。今夜やる「六月十日のガラマサどん」を、一と通り立つ。あやふやだが、一回の仕事故いゝ加減にして、風月へ行って食事、ポタアジュ、鮃、マカロニ、肉、チキンライスそして冷コーヒーに菓子。六時半に公会堂へ。読売主催選挙と府民の夕。「六月十日のガラマサどん」一幕、セリフがロクに入ってないので大混乱、済んだあとの気持、一場の悪夢の後のやう。すぐ放送会館へかけつけて、「ロッパ欧洲へ行く」を放送、ひどくつまらないもの。明日の分のテストで十二時すぎ迄かゝる。


六月三日(月曜)

 十時起き、女房・清同車、中泉眼科へ寄り、自由ヶ丘の三益・川口の家迄行く。川口松太郎と標札の家、待合みたいな造りで感心しないが、きれいには出来てゐる。浅草から東久雄、近くの菊田・高杉夫妻(?)も来る。川口が象潟署の給仕をしてゝ、ドサの手伝ひで場銭を貰ふ話、東が北海道の親分に囲まれて腕を切ってみせる話が面白かった。三益の造った料理が出る、うまくないが空腹なので大いに食った。六時に辞して、放送会館へ。川口家へカバンを忘れ、台本が無し、新しい台本でやったので印しがついてゐず大苦しみ、汗かきつゝ八時より四十分やり、下加茂の箕浦が来たので、ホテ・グリで、アイスクリームを飲みつゝ話し、十時半頃帰宅。


六月四日(火曜)

 十時起き、女房・清同車、駒込の木下医院へ下ろして、中泉眼科へ寄り、それから寺木歯科へ。コロムビアへ。一時から吹込みが、古賀氏遅刻で、大分待つ。二時頃から渡辺はま子と「柄じゃないけど」を吹込み。馴れないせいかアガリ気味だ。漸くOKを造り、ホッとした、何うも然しうまくなかった。それから、古賀氏の曲、西条詞の「ネクタイ屋の娘」といふのを練習する。八日に吹込みと定まる。古賀氏の招待で、築地の藍亭で食事、豪華な料理、うまかった。菊田・清水・瀬川同席。藤山一郎の評判悪し。ジョニ赤あり、大いに飲む。もう眼もよからうてんで。大分酔って一時帰宅。


六月五日(水曜)

 十時半に家を出て、中泉眼科へ。大分快いと言はれる。それから東宝本社へ。八月を僕、休めさうなので勢ひ込んでゐたが、那波氏は何うしても働いて貰はないと困ると云ふ、がっかりする。銀座へ出て、三昧堂で新刊二三。橘の家へ行く。友田来り、例によって雀、支那グリル一番へ使をやり、シュウマイその他とらせ食べる。暑い、ムン/\する、裸でガメる。五荘やり、少々勝ち。


六月六日(木曜)

 十一時半家を出る。中泉眼科へ。大変よろしいと。東宝本社へ。那波氏、八月は何うしても撮影がよからう、セットを少くして、北海道ロケといふのは如何と。一時、東宝グリルへ、七月の宣伝会議、僕の作ったプレスブックを披露する。寺木歯科へ、少々痛い思ひをする。銀座へ出て、風月で一人で食事、ポタアジュ、フィレソール・ノルマンド、マカロニ、チキンパイ。益戸の勝と、加藤好夫選挙事務所の人迎へに来り、小松川の二つの小学校で、歴史的につまらん思ひをしつゝ、まづい応援演説をやり、大クサリ。飲まずに居られない自己嫌悪を感じる。即ち用意のジョニ黒を飲む。銀座から九段へ。
 選挙の演説って奴は、ふる/\イヤだから、断乎として断はりつゞけてゐたのだが、今日引っぱり出され、加藤といふ見も知らない人を、「彼は僕の友人である。実に熱血漢で」などゝやらされ、悉くクサった。もういやだ。


六月七日(金曜)

 十一時半に出て、女房・清を駒込の木下医院へ送り、十二時半、晩翠軒へ。鈴木静一・徳山・山田伸吉・上山と堀井も来り、食事しつゝ「歌ふ弥次喜多」の相談。一向いゝ知恵も出ない。晩翠軒の料理、いやに甘くて不可。三時近く解散し、寺木歯科へ寄る。十何日間痛まぬといふことで、うめて貰ふ。それから眼科へ寄り、橘の家へ行ったが、人数が揃はず、今日は催し無し。七時、ホテ・グリで上森と会ふ。新橋の登喜本へ。滝村来り、服部富子のことたのみ、飲みとなる。上森のウイ、ダビッドスンを飲む。


六月八日(土曜)

 十時起き、十二時に眼科へ。それから東映本社へ森氏を訪れ、一寸立話。帝劇へ、「愛染かつら」名古屋行の立稽古、藤田房子が三益のアナを行く、反ってよさゝうである。三時少しすぎに、コロムビアへ。古賀曲の「ネクタイ屋の娘」吹込み。ビクターより、倍以上速いのがいゝ。京極・古賀と揃って、山田耕筰家の稲荷祭といふのへ顔を出す、おそいので、すしもやきとりも無し、サインをさせられたゞけで五時に引き揚げ、有楽座のエノケン見物。母上と二人。「らくだの馬さん」大変面白し。「電撃社長」てのを見て、母上とホテ・グリで食事して帰宅。清、八度九分の熱、心配。


六月九日(日曜)

 十時に起きる、九時間も寝たわけ。清、女房と病院へ行って帰って来る、心配はないとのこと。十一時半に出る。眼科へ。女房も同車。旅へ出るので十何日分の眼薬を貰ふ。三昧堂・紀国屋と本屋をを[#「本屋をを」はママ]探すが一向欲しい本が無い、チョコレートショップで菓子を買ふ、「二円九十銭也呉れ」、三円から税がつくので。帰宅。今日は色々片付けものをする。夕食六時半、一片付きしてホッとした。アンマをよび揉ませる。床へ入って、「映画とレヴュー」誌のために、「歌ふ弥次喜多と徳さん」七枚書いた。


六月十日(月曜)

 名古屋へ。
 清の発熱は、一日きりで全快。十一時半迄、よく寝るものなり。裸のまゝ、庭へ出て清を乳母車に乗せて遊んだりしてると、もう時間になり、二時に家を出る。東京駅へ。三時の特急、一等の十二号車。林房雄の「獄中記」を読む。いゝ本なので助かった。食堂で定食、まことにお軽少。午後八時半名古屋着、三藤旅館てのへ着く。新しいので感じよし、先づ我慢出来さうなり。一風呂浴びると、上山・大西に名宝の萩原を誘ひ、入江町のラッキー酒場へ、ウイあり、飲む。帰りに、屋台のどて焼とチャーハンを食って、宿へ帰る。
 キセンを制された話。汽車食堂の定食が、とてもお軽少なので、コースの他にライスカレーでも注文しようと思ってゐたら、すぐ傍のテーブルのお相撲らしい四人組が、チャンとライスカレーを命じて、パク/\とやり出したので、何となく言ひそびれてしまひ、定食だけで我慢してしまった。


六月十一日(火曜)

 此の旅館、雨戸無し。早くから明るくなっちまふのは困る。入浴、風呂の感じその他すべていゝが二階全部、前の住友ビルから見下ろされてるが欠点。朝食、乙の上。小尾悦太郎老より電話、今夜だけしか暇が無いからと、御馳走をせびる、六時半から御納屋で、と定まる。十二時半かゝりで、「明日は晴れ」を一と通り通し、「愛染かつら」となる。三益と比べると藤田ヴォリュームで負ける。終ったのが七時近し。渡辺・サトウと三人で御納屋へ。小尾老他敷島パンの森田氏、朝日の佐々木氏等、僕は持参のジョニ黒をやり、いゝ心持になって、久しぶり声色なんぞをやってしまった。


六月十二日(水曜)

 名宝初日。
 明るくなっちまって眼がさめる、午前五時、何とか寝ようとしてると、此の宿か、隣家であらうか、男の子が朗々と読本を読み始めた。こいつはやり切れん。強ひて又寝る、十時近く起き入浴。十二時から舞台稽古、「初夏の大放送」の半分から、フィナーレ迄。夕刻、豚の角煮が食ひたくなり、加茂めへ行く。長崎料理のコース、中々うまし。名宝初日、団体をとったので大満員、ところが団体だけに笑ひがだらしなく、「兵隊」ピント外れの受け方。結局「愛染かつら」の客で、ワッと大受け。ハネ十時十分。何せ十一時で何店もしまふので、訪れて来たあきれたぼういず四人連れて、ラッキー酒場へ、三十分のみ、宿へ連れ帰り、鳥のすき焼で、ジョニ黒を空けてしまった。


六月十三日(木曜)

 昨夜から階下の部屋へ移転した、此っちの方が、朝も明るくならず、涼しくもあり、よろしい。ゆっくり寝て十時起き、平野同宿で、色々打合せする。平野と出かけ、広小路敷島パンへ、そこの主人森田氏の招待で、女優連と杉・石田とで食事、敷島パンの顔を立てゝパン三人前食った。それから石田を連れて御園座へ新興漫才をきゝに行く。ワカナ・一郎のみ頗るよし。朝日ビル地下の天ぷら屋へ行き、食事。注文もしないのにドン/″\揚げて、怪しからん。座へ出る。入りは一寸悪く、七分位なり。「兵隊」昨日よりキチッと受ける。ハネ十時十五分。ラッキーへ行き、カツレツ、オムレツなど食ふ。つまらん。女房明夕着の由。


六月十四日(金曜)

 九時、明るくなるので何うしても眼がさめる。十二時近くに宿を出て、メーンストリートを歩き、丸善でスキメールの封筒を買ひ、三ツ星デパートで珍しい洋酒を求め、ぶらり/″\と大須の方へ。名劇へ入って中根龍太郎が「一本刀土俵入」をやってるのをのぞき、大須の宝生座で、盲人俳優林長之助の「三十三間堂」を見る、盲優の名技にすっかりたんのうした。そこへヒゲ武者がヒョッコリ来り、往年の日本太郎だと名乗り、五円の喜捨をさせられた。タキシを漸と拾ひ、朝日ビル迄。アラスカで夕食、ブレゼー・ブーフとコロッケ満腹。座へ出る、入り八九分。暑さ驚くべし、げんなりしちまふ。ハネ十時十分。女房と清、宿へ着いてた。


六月十五日(土曜)

 九時に起きる。久々で清と風呂へ入る。食事、はかなし。今日はマチネーあり。キネマ旬報へ三枚書いた。座へ出る。(タクシー難だが、ロッパさんならと来て呉れるとは、田舎は有がたい。)十二時開演、八分位の入りである。昼の暑さ、汗汗。昼が終ると、山田伸吉と、朝日ビル地下の天ぷらへ行く。先日のと違ふオヤヂで、大きなカキアゲを造るのが嬉しかった。座へ帰る。エノケンの有楽座は、エノケンの舌禍(日の出の座談会記事)で、嘉納健治氏の怒りを買ひ、昨夜開演が二時間延びるといふさわぎありし由。日の出の座談会といふのが、ネツ造した記事なのだからエノケン可哀さうだ。夜の入り、あふれるばかり。一々よく受ける。ハネ十時一寸前となる。


六月十六日(日曜)

 十時迄眠る、今日はマチネーだ。十二時に座へ出る。昼の部、いゝ入り。冷房がきいて来て、苦しくなかった。滝村と鈴木静一来る。昼が終ると、朝日ビル地下の天ぷら屋へ皆で行く。大きなかき揚げを平げ、すしの方へ行き、喫茶で冷コーヒーとみつ豆と菓子。夜の部は、「兵隊」七時四十五分より中継なので大ハリキリ。手もよく来たし、掛声(これはサクラらしい)多し。ハネ十時十分頃。滝村と鈴木宿へ来り、中央亭の洋食を食ひ、一時近く迄「弥次喜多」相談。雨なり。梅田娯楽新聞に、七枚書く。


六月十七日(月曜)

 雨は朝に至ってもひどく降ってゐる、水飢饉の折柄、いゝおしめりである。九時半頃起き、滝村・鈴木・堀井夫妻も来て、敷島パンへ食事しに行く。ハムエグス・マカロニなど皆わりに食へる。食事後、映画でも見に行くつもりだったが、まるでタクシー無し。帰宿。白川をよんで一荘やる。雨、盛である。夕刻出て、朝日ビル地下へ、天ぷらはモタれて舞台で辛いので、季節外れだが、おでんで茶めし一杯。喫茶で冷コーヒー二杯。座へ出る。雨だし、此う足が不便では、とてもと思ってゐたのに、大満員。放送が利いたのであらう。九時四十五分ハネ。榎並礼三君来り、ラッキーへ行く、ジョニ赤をたっぷり飲む。
 名宝は客席広く、実によくアガる、昨十六日の成績

  ヒル 3,766.51
  ヨル 3,788.51
 ――――――――
     7,555.02

 という物凄さだ。


六月十八日(火曜)

 雨は昨夜アガって、快晴だ。朝食――如何にも果かない味。十一時過ぎに堀井・白川・それに「弥次喜多」打ち合せに来た山田伸吉とで雀を始める。五時近く打ち止めて、又朝日地下の天ぷらへ行き、大きなかき揚げと飯を一杯。冷コーヒーをのみて座へ。今日も大満員補助出し切り。涼しいので「兵隊」もらくなり。先日よりの高杉、下加茂へ借りたいといふ話で、箕浦がこっちへ乗り込みのっ引きならず責めるので高杉泣き、面倒。ハネ九時五十分、宿へ帰る。山田伸吉の部屋で、景数と絵を定める。二時近く迄、読書――参考書――する。


六月十九日(水曜)

 白衣招待特別マチネー。
 十時に起きる。宿の飯は止しにして、女房と敷島パンへ行き、食事する。ロールキャベツ美味し。明治屋でオールドオークネイを二本(各三十円)買った。座へ行く。今日は白衣招待の特別マチネー、客席まっ白。「兵隊」は大した受け方、久しぶりで涙が出た。名古屋の客は、「兵隊」がピンと来なくてつまらなかったが、今日はたんのうした。愛国行進曲を歌って終り。渡辺篤を誘って、アラスカで夕食、トマトのポタアジュと、チキンクリーム煮にコーン・フリッター。座へ帰る、夜は大満員だが、「兵隊」とんと壷外れでクサリ。その代り「愛染」が大受け。ハネてすぐ帰宿、又中央亭を食べる。


六月二十日(木曜)

 昨夜床に腹ん這って、「膝栗毛」の金比羅並に宮島詣を読み終り、二時迄かゝって十枚ばかり書き上げた。入浴のみ。榎並商店へ、礼三氏の弟戦死の霊にお参りのため、女房と行く。すぐ辞し、鶴舞公園で一座と吉本ショウとの野球試合あり、一寸行く。負けてるのですぐ引返して、赤門の不二アイスでトマトスープとハンバーク、オムレツ等食ひ、又盲役者林長之助を宝生座で見物し、広小路へ出て買もの、テク/\と歩いて朝日ビル、暑い/\。地下のすしとおでん食って座へ。今夜も大満員、「兵隊」暑し、受け方パッとせず。ハネ九時四十五分。帰宿。食事して、腹ん這ひになり、「弥次喜多」四時迄かゝって四十枚迄書く。


六月二十一日(金曜)

 名宝千秋楽。
 十時起き。「弥次喜多」又五枚ばかり書いた。二時に三ツ星デパートの常務井上氏に会ひ、ウイスキーを安く分けて呉れるといふので三本ブラック・ホワイトとジョニ赤を四十円宛で買ふ。三時に得月へ、榎並夫妻に招かれてゐるので行く、女房も来り、馳走になる。とてもおかったるくて満腹迄には何十里といふ感じだが、美味いことは美味かった。朝日ビルで新刊二冊とコーヒー。座へ出ると、千秋楽といふのに大満員である。ハネが九時二十分。シャン/\/\おめでたう。皆は大抵今夜帰京、僕は今夜徹夜して脚本を書き上げ、明日から二日のんびりする気。宿の払ひ、皆で百三十何円は安し。
 今回の名宝十日間の総アガリ、合計十二回で、三万六千円だとのこと、前回十回で二万六千円に比べれば大した成績だ。これで純益は、七八千円といふところらしい。


六月二十二日(土曜)

 名古屋より下呂温泉へ。
「歌ふ弥次喜多」金比羅道中記、昨夜十一時頃から、つひに床の上へ腹這ったまゝ徹宵、手首が痛くて眠くって、此う骨の折れたのは珍しい。六十七枚書くのに午前八時迄、一休みもせず書き上げてしまった。今日午前十時四十八分で下呂へ立つので、眠ることもならず、十時すぎ宿を出る。女房・清・乳母荒井の四人で、岐阜乗りかへ下呂へ向ふ。岐阜からのガタ汽車の窓から見る渓流の美しさ。二時七分下呂着、湯の島館へ、こゝは先年母上と来たことあり。春慶の間といふのへおさまる。風呂も専用のいゝのがついてるし、夕飯は日本食だが中々よかった。まだ九時といふのに、床へ入る。


六月二十三日(日曜)

 下呂。
 今朝九時半まで、ぐっすり寝通した。入浴して、いゝ心持、清が元気でボチャ/\やる、朝食、味噌汁は薄くてまづいが、上の部。食後、枕を出して一寸眠る、昼食はトースト。さて、何の用もなし、さしあたり、読みたい本のないのも反って助かる。たゞ涼しいと思ってたのに一向涼しくなく、名古屋あたりと同然なのが、がっかりさせる。夕刻迄、絵葉書を書き、野沢富美子の「煉瓦女工」を読んでしまふ。又入浴、夕飯はこってりとしたものうんとゝ言っといたので、豚の角煮のくどい奴を山程持って来た、たっぷり三杯食ひ、又入浴して十二時頃寝る。


六月二十四日(月曜)

 下呂――帰京。
 八時起き、宿の勘定二日間で九十六円、茶代は廃止、女中のも入ってゐる、十時前に宿を出る、下呂駅十時三十分発、名古屋へ二時着、つばめ発車迄間があるので、タクシーで敷島パン迄行き、昼食する。三時四十五分発、つばめ。一等だが、中々の満員。同室の前席に柳原伯がゐて、その隣に画家園部香峰がゐる、隣のコムパートメントに、小笠原長生子と、娘の佐々木夫人がゐて、大声で座談会になり退屈することなく過せた。藤沢桓夫の「淡雪日記」を読み了る。静岡で弁当買って食べ、九時東京駅着、高槻迎へで帰宅。入浴食事、あゝ我が家なり、一ばんよろし。


六月二十五日(火曜)

 十時起き、わが家の寝心地が一ばん。食事、当分パンにするつもり、でも味噌汁は食べる、あこがれの味噌汁、うまい。ウイスキー戸棚に、買って来た奴を詰める、上物だけで一ダースあり、ニヤ/\する。一時半に出て、文ビルへ。鈴木静一と音楽打合せ、山伸と装置の打合せ、それから配役。三時に本社へ、秦と会ひ、日劇の子をこっちも使ひ、こっちの子をあっちのショウへも出すこと打合せ、八月の件、那波氏と相談する、結局京都十日間といふことになった、やれ/\暑いぞ。月給貰ったら、何と病気休みを手当から引いてあるのはくさった。銀座へ出て、小松理髪店へ、水飢饉で洗ふ水が無いさわぎ。スコットで食事、ルパンへ久々で行く。川田義雄をよび、上野勝教来り、大いに飲み、十一時追ひ出されて、帰宅。


六月二十六日(水曜)

 八時に眼がさめちまった、ちと飲み過ぎたせいで、のどかはく。冷カルピスがぶ/″\。入浴、パン食。十一時半に迎へ来り、眼医者へ行く。右眼が又いけない。一時、東宝小劇場集合、日劇チームと一座だ、かなりの人数。怪しからんことには渡辺・三益等不参。秦専務より一言挨拶、つゞいて僕一言、本読みに入る。菊田の脚本全部アガらず、一・二景だけ読む。僕自身「歌ふ弥次喜多」を読む。今日はこれで終り。橘の家へ行く。雀を始める。夕食はアメリカンベーカリーのサンドウィッチと、支那グリル一番の支那もの。夜に入りて雨、十時半帰宅。明日より前売り、気にかゝる。
 満洲国皇帝御来訪。


六月二十七日(木曜)

 十時起き、パン食、十一時半眼医者へ。右眼まだ赤いが、段々いゝ。本社へ寄る、今日より前売だが、何うも活気が無く、午前中二千円台の由。一時半に帝劇四階稽古場へ。「曲芸団」のプリント未だ出来ず、「弥次喜多」のみ。平野・須藤等青年部の有望なのが脱退したらしい。去る者は追はぬが惜しい。一景から読み合せをし、セリフを直したりして五時に終る。六時赤坂まへ川へ行く。コロムビアの武藤・松村と取締役清水信夫・経理部長隈本静雄・参事須子信一と京極といふ顔ぶれ、僕入社の披露で招待した。十一時半頃迄居て、帰宅。レコード宣伝につき色々話したが、何しろ材料不足で、売りたくも売れないといふ状態らしい。


六月二十八日(金曜)

 八時すぎ、清が眼をさまして足をバタン/\やるのが面白く、眺めてたが、ついでに起きちまひ、「弥次喜多」一景だけ皆に覚えて来いと言った手前、覚える。十一時半、中泉眼科へ。大分快い。帝劇稽古場へ。一時から「弥次喜多」、一景を本なしで立ち、二・三景と立ち、こゝでやめて、徳山とリッツへ寄る、スープのみやり、歯科寺木へ寄る、上歯の手入れ。コロムビアへ寄り、テスト盤が出来たので聴く。「ネクタイ屋の娘」よりB面の「柄じゃないけど」がいゝ。五時半、晩翠軒へ、母上・女房と会食し、東宝名人会をのぞいて九時帰宅、雨である。里見※(「弓+享」、第3水準1-84-22)「若き日の旅」を読みつゝ寝る。


六月二十九日(土曜)

 昨夜一寸読みすぎたか眼が赤い、眼には読書が一ばん悪いらしい、困ったものだ。十時半すぎ徳山来る。一緒に出て眼科へ寄り、ニュウグランドへ久々で行く。キャビヤがあり、オルドヴルとスープに肉と飯の一皿、物が高くなった、そんなことで十円以上になる。一時、稽古場へ。中村メイコ今日より稽古に入る、三益又遅刻する、どうも始末が悪い。夕刻、ハゲ天で食事し、ニットコーナハウスでライスカレーを食った、飯てものを稀に食ふと実にうまし。ルパンで、上森と会ふ。東宝進出について大いに心配してゐる。新橋とき本へ行く、何ともハヤつまらん。


六月三十日(日曜)

 九時に眼がさめる、清昨日理髪し、田舎の赤ん坊の如し。眼医者へ向ふ途中、満洲国皇帝のお通りで四谷見附で十五分待たされた。稽古場、帝劇四階。三階では吉右衛門一座の稽古、冴えた柝の音ひゞく。一時から三時迄「弥次喜多」、三時半頃、漸く出来た「曲芸団」のプリントで、読み合せ。歌の稽古もして夕方になる。鈴木静一と東京会館へ行って食事、ポタアジュ、レタス、ミニツステーキとマカロニ。それから銀座へ出て、金太郎で清の汽船と花火を買って帰宅。庭へ出て花火をする、いゝのが無くてつまらん。池に浮べたクヰンメリー号はよかった。
[#改段]

昭和十五年七月



七月一日(月曜)

 十時近く迄寝た、食事、パンで味噌汁は如何にも可笑しいが、味噌汁がうまいからしようがない。十一時に車が来て、眼科へ行く。プレイガイドへ寄って、明日の明治座を二枚買ふ。帝劇稽古場へ。「弥次喜多」を立ち、歌もまとめる。「曲芸団」三時がゝり、何せ台本の厚さが三寸か四寸位あるので六時になってしまふ。それから歌をやり、七時近くに済み、堀井・山野と松喜へ食事しに行く。ロースがうまく、ヒレはつまらず。飛行会館の文学座をのぞく。「野鴨」つまらず、三十分で出て帰宅。今日より蚊帳を吊る。セリフ「弥次喜多」からかゝり、十二時半頃迄かゝって、「曲芸団」の三分の一ほど覚え込む。
 丸の内のビル街を水屋が水を売って歩いてゐた、荷車――撒水車のやうなものをひいて。
 夏服なんて六七十円のものだった、それが二百円以上の由、馬鹿々々しい。


七月二日(火曜)

 十一時半に家を出て、中泉眼科へ。それから寺木歯科、上歯仮りに埋める、これで二三ヶ月は大丈夫といふこと、やれ/\。一時から「弥次喜多」音楽入りで通す、徳山味があって中々面白さうだ。一々演出でくたびれ、四時半に終ると、徳山と石田で、リッツへ食事に行く。ポタアジュ、フィレソール、羊肉のピラフ。徳山のオゴリ也。稽古場へ引返す、蒸し暑くて体がネト/\する、ハンケチ、何枚も鼠色になる、六時半頃から「曲芸団」に入る。長きこと大したもの、十時半迄かゝる。明治座へ女房に迎へをやらうと思ったが高槻が不在、十時半頃帰って来たので大カス、結局迎への方は役に立たず。


七月三日(水曜)

 東宝劇場舞台稽古第一日。
 暑し、九時起き、今日は舞台稽古だ、十時かゝりといふことだが、十一時近くに家を出る。東宝劇場へ行ってみるとまだ道具が揃はない。二時近くから稽古を始める。楽屋が遠いせいか、役者どもの集りがバラ/″\なので屡々怒鳴りつける。冷房が無いからムッとする暑さ。うわーッともうやめたくなっちまふ位、汗ダク。此の稽古七時間近くかゝったが、狂言の正味は一時間二十何分の由、宿屋以後が受けさうな気がする。終ると、ホテ・グリへ。上森・京極・徳山・コロの高山・吉本明光とで食事し、十二時近く帰宅。


七月四日(木曜)

 東宝舞台稽古第二日。
 東宝劇場の舞台稽古第二日、十二時よりといふ約束、眼科へ寄って手当てしてから劇場へ行ってみると、十二時といふのは、とても無理。楽屋でセリフを入れる。色々してる間に、「曲芸団のロッパ」プロローグ、これだけで何時間とかゝる、秦専務ハリキリの演出ぶり、踊子の帽子の一つ/\に迄注意するのに皆驚く。演出の責任がないから気は楽だ。眼が又赤くなった、黒眼鏡かけて、やる。五景迄終る、菊田吉例の荒れ事も一寸あり。徳山とスコット迄食事しに行く。ポタアジュ、舌平目グラタン、スコットライス。引返して十二時迄に七景迄済み、あとは明日の午前九時半からといふことで帰宅。一時頃床へ入りアダリンのむ。


七月五日(金曜)

 東宝劇場初日。
 九時に家を出て、眼科へ寄る、昨夜よりよほど楽になってゐる。劇場へ行くと、ショウ場面をやってゐる、それから芝居のとこをやり、二時に終る。風月迄出かけ徳山と食事し、三時に東宝劇場へ引返す。どうも初日のやうな気がしない、うすら眠くて困る。五時すぎから「弥次喜多」、劇場が馬鹿デカいので、客が掴めない、久しぶりでしろとに返った感じ、ワッといふ笑が中々とれず。今日のところでは分らないが、「弥次喜多」は、何か誤算があったやうだ。「曲芸団のロッパ」は、三時間半かゝって、十一時二十分頃閉演。客の入り八分位。これは然し、先づ受けるもので、菊田には任して置けるといふ気がした。帰宅十二時すぎ、眠い/\、パン食して床へ入る、又暑い。
 客席の活気なし、五日初日になってしまったせいもあり、こっちも大きな劇場に馴れないから、客をつかめないせいもあるのだ。兎に角久しぶりで、しろとのやうな気分、九年前の、大阪松竹座の「悲しきジンタ」をふと思ひ出した。


七月六日(土曜)

 暑さに、二度も眼がさめた。が、十一時迄ぐっすりと――労れてゐるのだ。眼は大分快いが、読書が心配、でも宇野浩二の「文芸三昧」を読み出す。三時に出て眼科へ寄り座へ。日劇軍が舞台を使って稽古をしたゝめに、開演五時半近くなる、さなきだに時間の無いところなのであはてる。「弥次喜多」は、チャンと受けるやうになった。九時近くに「曲芸団」開く、カット大量にしたが、やっぱり二時間近くかゝり、ハネは十一時となった。秦は日劇の方を、菊田はこっちの方をカットしたがらず、つひに衝突があった。ハネてから、残って大会議する。すっかり労れて帰宅。
 フィナーレの舞台で、第一列に並ばせなかったといふので、すっかり腹を立てゝ月野宮子が、辞表を出した。今日のところ代役を轟にやらせた。


七月七日(日曜)

 マチネーあり、十一時に出て眼科へ寄り座へ出る。昼は「弥次喜多」も「曲芸団」もめちゃにカットしたので芝居してゝも嘘みたいになり、受け方も半滅で、すっかりクサる。二と三の間に、支那事変紀念日の挨拶をした、宮城遙拝、皇軍戦没将士への黙祷、万歳三唱と。カットのおかげで四時十分にハネたので、ホテ・グリへ菊田と上山で行き食事、コール・コンソメにポークビーンズ、スチュウ・コーンといふ変り方。座へ戻る。昼は九分の入り、夜は満員だ。夜の部は「弥次喜多」も、腹話術復活、「曲芸団」も大分復活したので、受け方もグツとよくなって来た。今夜あたりから芸といふものも考へて演るやうに少しは余裕が出来た。ハネ十時きっちり、やれ/\と安心した。帰宅、パン食。
 あんまり広い劇場だ、これは演劇工場といふ感じだ。


七月八日(月曜)

 十時起き、裸で清を乳母車に乗せて庭で遊ぶ。入浴食事、宇野浩二の「文芸三昧」を読み、「東宝」へ盲優のことを書き出したが、二時迎へが来たので出かける。本社へ、那波のとこへ、八月の京都の出し物相談、七月分よりの昇給者についても話した。平野と出て中泉眼科へ寄り、三直で天ぷらを食って座へ出る。小笠原一家見物で、子爵よりと毛抜ずし沢山。入りは頗るよく、殆んど満員の由。中村メイコ発熱し、出られぬとの報せに面喰ひ、急拠「弥次喜多」五景をカット。頭痛がして、やってゝ気分悪し。ハネ十時十分前。帰宅パン食。夜に入って雨、心地よろし。曽我廼家五九郎死去、団福郎を使者に香典三十円持たせてやる。


七月九日(火曜)

 九時半、清がダア/″\マンマアと一人で喋り出したので起こされる、今日は涼しい。「東宝」への原稿を纏め、「映画ファン」に十枚ばかり書いた。午後雨、汗が出なくて助かる。簡単にオムライスを食べて、中泉眼科へ寄り、座へ出る。雨にもめげずに大入満員だ。此の分ならと皆喜ぶ。中村メイコ無理して出て来た、「弥次喜多」だけ出す。「弥次喜多」よく受けた。「曲芸団」も一と通り。ハネ十時十分前。古賀氏と飲む約束のとこへ八田一党も来たので合流赤坂へ。もみぢシュウマイが変色イヤな色になった。二時近く帰宅。


七月十日(水曜)

 十一時に家を出て、中泉眼科へ、母上・道子・清同道。母上と別れて、橘の家へ行く。暑いところで雀を始める。耕一路のコーヒーをとらせ、ジャマンベーカリーのサンドウィッチを食べる。尚又、親子丼一つ食った。五時に辞し、座へ。驚くべし補助椅子を売り切る大満員。これが成功なら、毎年の年中行事にしたい、大劇場芝居も興味が出て来た。「弥次喜多」今夜あたりは壺へ入り、ちゃんと受けて来たので嬉しい。メイコも全快らしく二つ共出演。「曲芸団」も、ハコに入って来て、十時一寸前にハネる。まっすぐ帰宅。


七月十一日(木曜)

 十二時半に家を出て、東宝本社へ。会議室で、菊田・斎藤・平野・上山と揃って、八月の京都の出しもの決定、どうもうまい具合に行かない、結局「雛妓」を菊田が脚色封切し、「蛇姫」をトリに使ふことゝなる。滝村より申出の、エノケンの映画に渡辺篤を貸すことOK。その代り藤原釜足改め鶏太を借りることゝなる。川口松太郎来り、三益問題を話す、川口も仕方がないから三益はやめさせると言ふ、それもよからん。四時半、中泉眼科へ寄り、東宝グリルでロールキャベツを食って座へ出ると、今日亦補助椅子を売切る大満員。三益病気休演、やめると定ったらすぐ休むでは仕方ない。ハネ十時十分前。中野実・西川光にスッポカされ、銀座ロンシャンで飲み。
 文洋堂で原稿用紙四千枚買った、何と四十円也。


七月十二日(金曜)

 十時起き、「主婦之友」から写真班が来り、清を抱いてるところ数枚撮る。宇井無愁の「きつね馬」を読み出す、わりにいゝ。三時に道子同道、中泉眼科へ寄り、いんごう家へ行く。ビフテキはいゝが、ライスカレーは、米も悪いし、食へたものではない。座へ。京都の小田進康来り、三日を初日と定める。三益今日も休み。入りは又驚異的、補助出し切り。他座皆悪いといふのに、恵まれたるかな。「弥次喜多」先づ/″\。「曲芸団」段々要領が分り、此の大劇場をマスターしかゝる。ハネ十時十五分前、女房見物でホテ・グリへ。十一時半帰宅。


七月十三日(土曜)

 午前十一時に家を出る、清と道子を室橋医院へ送り届け、中泉眼科へ寄り、橘の家へ行く。片岡千恵蔵と友田と来り、雀。本日快調子で快し。五時で打ち切り。座へ行く。大満員。「弥次喜多」も、まあ/\見っともなくないだけのものにはなった。「曲芸団」は、大舞台の芝居に馴れて来て、面白くなって来た。九月の有楽座のトリに、オペレッタを書く、一寸こいつは本腰入れるつもりである。ハネは十時十分前。まっすぐ帰宅。まだ眼が快くならず、本が読めないのが辛い。九月のオペレッタ、題「歌は何々」とするつもり、例へば「歌は花束」「歌は春風」の如く。


七月十四日(日曜)

 十一時に出て、京極の家へ寄る、三浦環門下の栗山道子といふ歌手を紹介された、一座へ入れるつもり、小柄でパッとしないが歌は京極が保証する由。十二時に辞して楽屋入り。昼も大満員。楽屋来訪、樋口大祐・吉田信・コロの高山・志村等。昼の終り、ホテ・グリへ行き、樋口と食事する。夜の部、大満員。「歌ふ弥次喜多」の七・八日に録音したのゝ放送をきく、気味が悪い。「曲芸団」の一景で、ダンスチームの子らが、つまらぬことで吹き出したので怒る。ハネ十時十分前。ホテ・グリで武藤・古賀・京極で食事、古賀が全然藤山を容れず、九月藤山特出なら作曲しないと言ふ、武藤もこれには弱って、何とか仲直りさせたいと話しつゝ帰る。


七月十五日(月曜)

 十一時に家を出て、中泉眼科へ寄り、銀座三丁目銀二ビル三階の大日本俳優協会事務所へ、俳優協会へわれ/\も皆入ることの協議会、市村羽左衛門・英太郎・柳・三升・三津五郎、後から幸四郎・河合・花柳も新国劇の小川・野村も来、警視庁から寺沢他一名来り、今日のところは何のこともなしに、時間なので辞した。此の日、羽左衛門のよきこと。座へ出る。お盆の特別マチネーで、「渡洋」と「爆笑名人会」「弥次喜多」の三本を一円均一で見せた、大変な入り。「名人会」で久々歌の声帯模写をやる。終ると、三直で天ぷらを食ひ、すぐ又引返す。夜亦大満員。先っきやったばかりの「弥次喜多」又やるのが気の抜けること。こゝの大道具は口笛を吹いたりするので主任に大いに文句言った。ハネ十時十分前。まっすぐ帰宅。藤山より電話、昨夜の古賀の件、明日昼ホテ・グリで会ふ約束す。


七月十六日(火曜)

 十一時半に出て、中泉眼科へ寄り、十二時ホテ・グリへ、藤山一郎と会ふ、古賀氏は誤解してゐるのだ、何うしてもそれを解いて、九月の仕事は一緒にさせて呉れといふ意向。座は今日もお盆のマチネー、徳山のピアノ弾き語りがうまい。松平晃来り、ホテ・グリへ。魚のゼリー寄せと、ムサッカ。松平も九月にはやりたい希望。座へ帰る、昼も大満員だったが、夜も補助椅子出し切り、「弥次喜多」は、此の四五日ずっと受けるやうになった。ラジオのせいもあると思ふ。昨夜大分手ひどくやったので、大道具静かである。ハネ十時五分前。古賀氏と神楽坂へ、ウイ持参、大いに飲み、語る。


七月十七日(水曜)

 九時起き、朝から大変な風。部屋で「きつね馬」を読んでしまふ。まだ眼が本当でないから読書は、よくないのだらうが、読まずには居られない。花柳章太郎随筆集「菜種河豚」にかゝる。四時近く出て、中泉眼科へ寄り、本社へ。七月分よりの昇給者の願ひを出す、三益の善後策について話す。座へ出る、今日も大満員、補助が少々残ってる程度、何しろ五百もあるのだから。「曲芸団」長し。よく受けるが。ハネて(十時十分前)ルパンへ、中野実と会ふ、牛込松ヶ枝へ行く。中野の思想荒れてゐて、すっかり軍人なのは困る。


七月十八日(木曜)

 十一時半に出て、中野実宅へ寄る、どうも話が悲憤になるので困る。ニットーコーナハウスで京極と会ひ、コロムビアへ行く。松村と会ひ、九月は藤山・松平と古賀氏を借りるからと、二十四日に古賀・藤山の仲直りがある由だが、面倒なことなり。それから眼科へ寄り、銀座の松島でクルックスの光線除けの眼鏡を明日迄との約束で誂へる。文藝春秋社へ、久々菊池氏を訪れる。レインボーで軽く食事、座へ出る。今日、今年第一の暑さの由。入りは今夜も頗る良く補助が大分出てゐる。ハネ十時十分前。まっすぐ帰宅。


七月十九日(金曜)

 扇島海水浴場行。
 十時すぎに出ると中泉眼科へ寄り、松島眼鏡屋で光線除けのグラスを買って、十一時東宝前集合。ハイヤで川崎迄、鉄工場の傍から蒸汽に乗り、日日新聞の海水浴場扇島へ。一方は成程海だが一方は鉄工場が並んでゐるのだから殺風景、葭簀張りの屋台で挨拶、まとまらぬことを言ひ、写真など撮り、二時半に辞す。同行の渋沢会長と銀座へ出て冷たいものを飲み、麹町の三浦環さんの家のお茶の会。瀬戸口藤吉氏がゐて、僕のためにロッパ節を作曲して呉れる由、これは有がたい。座へ。入りは補助売切とは行かぬが沢山出てゐる。ハネ十時なり。服部良一・古賀政男・京極と築地秀仲へ。


七月二十日(土曜)

 一時に迎へ来り柏木の西条八十氏の家へ行く。古賀政男も来る、九月のオペレッタ「歌は××」の××を考へて貰ふこと、並に歌を三つ四つ頼む、要件済むと快談猥談数刻。三時半に古賀氏と共に辞し、銀座へ。中泉眼科から、三直へ、天ぷら食ふ。古賀氏共々。松島眼鏡屋へ寄り、クルックスを受取って座へ。土曜のこと故大満員なり。暑さも亦レコードを作り今日は九十何度とか。「弥次喜多」で一寸調子やってるのに気がつく。今日の舞台はづーっとそればかり気にした。ハネ十時五分前。母上見物、同車で帰宅。楽屋来訪、石黒敬七。帰宅、夜食パン。
 国民と読売、いろ/\批評が出たが、一体に若い批評家がうまくなって来たのを感じる。


七月二十一日(日曜)

 今日はマチネー。十一時に出かけ、中泉眼科へ寄り、耕一路でアイスコーヒーを飲み、座へ行く。昼は補助少々残る程度、満員なり。気にしてた咽喉は、さほど悪くもないが、ってることはやってる。汗をかくことしきり。昼の終り、徳山とグリルへ行く。座へ帰る、夜の部大満員・補助残りなし。「弥次喜多」の海底、太郎冠者みたいな衣裳の熱いの何の、耳の裏から汗タラ/\。「曲芸団」で楽屋及びカーテン裏がやかましいので二度どなる。日劇の連中は、音楽物ばかり故、静かにすることを知らなくて困る。まっすぐ帰宅。
 米内内閣解散、近衛内閣組閣中、商工大臣に小林一三の呼声が高いが、何うなるであらう。


七月二十二日(月曜)

 九時半起き、食事してゐると、藤山の母親来る、古賀との経緯でいろ/\相談に来たもの。梅島と花柳の例などひき、芸人の我まゝはいけないと話す。青年部の岩井・佐々木が来る、菅富士男がいけない奴故、今休んでるが、このまゝ止めさして呉れとの話。三時に出て、中泉眼科へ寄り、小松理髪店へ、理髪。女房と風月で待ち合せて食事、座へ、今日も大満員。気分よく「弥次喜多」一景へ出ると、法螺貝がトチり、宿屋の場でボーダーが消えて、芝居ぶちこはれ、不機嫌のところへ、冷房がウン/\唸り出し、「曲芸団」も芝居こはされ、ことごとく不愉快なる日。ハネてまっすぐ帰宅、支那グリル一番の支那もの食べる。(大満員と見たはヒガ目、今日あたりより空席大分ありたる由。)
 冷房の機械故障と見え、ムーン/\と耳鳴りのやうな音を立てる。中々止らないので「曲芸団」の解散の泣かせ場の芝居めちゃ/\になり、一人で間を持って芝居してるところで、三階から「ロッパ長いぞ」とどなられちまった、尤もだ。大いにクサった。


七月二十三日(火曜)

 十二時に俳優協会の集りあり、十一時に出る。小林一三邸へ寄り、商工大臣のお祝ひに名刺を置いて来る。歌舞伎座別館四階で又俳優協会の会、羽左・幸四郎・河合その他に、生駒も来り、卓を囲み、一向ハヤわけも分らぬことを言ひ合ってる。又三十日の午前十時から集るんだと、やれ/\。コロムビア本社へ寄る。時間がないので東宝グリルでロールキャベツとカレーライス。座へ出る、今日も大満員なり。斉田愛子、楽屋へ、カミン・スロ・ザ・ライの正しい歌詞を教へに来て呉れた。わざ/″\暑いのにと感謝する。ハネ九時四十五分。上森と田川(勝太郎の待合)へ行く。


七月二十四日(水曜)

 中野実の家へ、午後一時近く、出かける。たゞ暑いとしか言葉が無いやうな日。中野と出て、神楽坂の盛文堂で原稿用紙を買ひ、中野を東宝本社へ落して、中泉眼科へ。四時に築地の蘭亭。古賀・藤山の手打ち、へんな会合だ。武藤・松村に僕、結局古賀も折れ、藤山も謝まったので、九月の仕事は共に出来ることゝなった。五時すぎに出て座へ。今日あたりは暑さのせいもあらう、八分弱の入り? ハネると、独人リマー・ヘニッヒが迎へに来り、小石川のティルマンさんの家へ、ジョン・ヘイグを飲み、大いに語る。


七月二十五日(木曜)

 十二時半に出て、麹町の京極へ見舞に寄る。もう元気だが、足が腫れて熱が四十度にもなった由。一時間程ゐて帝劇三階の稽古場へ行く。「雛妓」の読み合せ、又ヘンな芸妓ばかり出るらしい、困りもの。四時迄かゝり、それからリッツで食事、フィレソールのグラタンとチキン。中泉眼科へ寄って座へ。眼も段々に快い方。入りは今夜も八九分ってとこ。宇野浩二見物。「曲芸団」ハリキる。ハネて、ホテ・グリへ古賀氏と行き、オペレッタの相談しつゝ食事、コーンをかぢる。帰宅、「歌は××」のプロローグを書き出す。


七月二十六日(金曜)

 十一時半迎へ来り、女房同車、中泉眼科へ。耕一路へ寄り冷コーヒーを飲み、帝劇三階稽古場へ。「雛妓」を通して立った、うちの女優に芸妓ものはとんと無理なところへ菊田のセリフがひどいので、弱った。済むと「蛇姫」を、新しい役のとこだけ抜いて立つ。四時すぎ迄、かなり労れた。風月へ寄り食事する、チキンのブランスウィック・スチュウが美味かった。座へ出る。もう二十六日にもなること故無理もないが、入りが頗る悪く、それも三円席は八分の入り、二円以下が悪く、一円席の如き三分の一の入りである。ハネると、まっすぐ帰宅。蚊帳へ入ってから又「歌は××」のプロローグを書き、六枚上げた。
 莨の味など、たゞもう辛いものになり果てた、バットの箱には、恐らくむかしの、スウィト・エンド・マイルドとは書いてあるまい。米不足から、近いうちに、米を食はせるのが時間制になり、代用食なんぞが幅を利かすことになるらしい。


七月二十七日(土曜)

 下二母上・成之夫妻来訪、参与官の自動車も政変で、今日限りとなり、その使ひおさめに来られたとのこと。折角だが時間なので出かけ、中泉眼科へ寄り、東宝本社へ。三階の重役室へ入るや、秦豊吉の曰く、「今月は特賞無しだぜ」と、クサらされた。座へ。昼は、荒鷲の母の会の貸切で、「弥次喜多」と、声帯模写のみ。徳山とホテ・グリ。スクラムルエグ・ベーコンとソルズベリ。バゞロアが美味いので二つ食った。夜の部、入り七分強か、どうも俄然悪くなっちまったので面喰ふ。ハネるとまっすぐ帰宅。又もや「歌は××」にこだはる。
 秦といふ人もひどい人だ、今度の「曲芸団」でカットのため使用しなかった大道具が八千円だから、特賞など出せないと言ふが、彼が勝手に注文し、カットとなった道具だし、その上、日劇で使ってゐるんだから、考へようでは、そんな大道具をわざと造らせておいて、日劇の方の費用を助けたやうなもの、一杯食ったかたち。(日劇の衣裳費三万円といふ。これも大した一杯食ひ方だ。八月記)


七月二十八日(日曜)

 十一時に出かけ、四谷の綱島眼鏡屋へ寄る、京極の紹介でクルックスA2といふ前掛の眼鏡を注文。中泉眼科へ寄り十二時すぎ座へ出る。今日はマチネー、ところが惨タンたる光景、入り六分強位で、空席沢山、がっかりする。昼終り、古賀氏に誘はれ、京橋近くの花家てふうちへ、白米を食はせるといふので行ったが、時間がなく、ろくに食へず、座へ帰る、夜も七分弱位の入り、クサる。滝村より電報で、渡辺篤を借りること断念す、藤原釜足はロケ延引して駄目とのこと、京都は、すっかり藤原で宣伝してゐるので、これ又クサリ。ハネて、古賀政男と赤坂へ。西条氏の詩未着。


七月二十九日(月曜)

 東宝劇場千秋楽。
 十時に起きる、右足のかゝとの上横のあたり、毒虫にでも刺されたか、ヘンに痛痒いのが気になる。十一時に出て、綱島眼鏡店に寄り、クルックスの光線除けを受取り、早速掛ける、よさゝうだ。中泉眼科から一時に、銀座西の鳥屋なごやへ。航空本部の西原少佐と山崎唯男に呼ばれて、こっちは上山と僕。航空物について語るうち、よきストーリーを思ひつき、ハリキる。鳥のバタ焼が中々美味かった。二時半東宝本社で九月狂言決定の会議、「歌は××」を「歌へば天国」としてトリに据える、他三狂言共仮定めする。座へ出る、「弥次」も「曲芸」も面白可笑しくやり、ハネてシャン/\としめる。古賀とホテ・グリへ寄りて帰宅。右足どうも痛くて困る。
 九月の有楽座はロッパ本城凱旋公演
 一、煉瓦女工
 二、ロッパの飛行機親爺
 三、幡随院長兵衛
 四、歌へば天国
   二、を、ロッパの空中時代と改題する。


七月三十日(火曜)

 朝、今日からは、芝居が無いと思ふとホッとする。十一時に出て、京極へ寄り、十二時にエスキーモで藤山と会ふ、今日西条の詞と古賀の曲が出来て、吹込出来るつもりで、大阪にゐるのを呼び寄せたのに、間に合はずフイにさせちまったわけ。新田洋服屋へオーヴァのいゝ地があると言ふので藤山と寄る、百幾らといふ奴を「プレゼントします」と藤山が呉れた。二時半帝劇稽古場へ行く。「雛妓」の立ち、皆のセリフを直したりして、五時半。滝村来り、家へ連れて帰る。庭の芝生にテーブル出して、ウイを飲み語る、涼しい、避暑の要なし。滝村十時頃帰る。すぐ床に入り、眠る。


七月三十一日(水曜)

 足の痛みは薄らいだが、むくんでゐる、やっぱり医者に診せよう。咽喉は痛くなくなったが、熱っぽい。眼はライトに当らないせいだらう、とても快く、ハッキリ白眼が白い。三時に出て、駒込の木下皮膚科へ寄り、右足を診せると、膿を出した方がいゝと、軽くきられたのだが、あとの痛いこと、びっこ引き/\になっちまった。五時、鳥なごやへ。母上・道子と落ち合ひ、鳥のベタすきをやる、うまい沢山食ふ。何処かへ行きたかったが、足痛むので、まっすぐ帰宅、すぐ床をしいて、足は氷で冷す、熱七度四分位となる、こいつは出発を前にして弱ったことだ、すっかりクサる。
 昨夜も滝村と話したことだが、映画法とか演劇法とかで、興行はます/\やりにくゝなる、一方客の方は又、此の秋位から段々セッパつまって、大景気は当分来ないと思はれる。先づ九月の有楽座は自信があるが、十一月から正月が、中々むづかしいと思ふ。これは僕のカンだが、来年四・五月から、それが大分らくになって来ると思ふ。
[#改段]

昭和十五年八月



八月一日(木曜)

 京都へ。
 八時すぎに起きてしまった。小林さんから欧州のおみやげ届く。細かく気のつく人だと感心。食事して、二階で床をしいて足を氷で冷す、朝から熱っぽく、痛みも除れない。旅立つといふに弱ったものである。床の上で清と遊ぶ。出がけに京極から電話があったので、一寸寄ると、瀬戸口藤吉夫妻が来てゐて、「ロッパ節」といふのを作曲したからと譜を呉れた。正月に「ロッパ行進曲」をやることを頼み、東京駅へ。三時の特急、一等展望車の次の談話室みたいなとこへ陣取る。「若き日の小山内薫」を一冊読み終る。六時すぎに食堂へ行き、ひどい定食とカレーライス(惨たり)を食ふ。今日より駅売の弁当も食事時間外は無く(京都では七月二十何日とかゝら実施されたさうだが、東京でも今日から節米令が出て、時間を区切り、その時間外は一切米を出さず代用食のみ許すことゝなった。夜は五時から八時迄だから、われ/\は不自由此の上なし)サイダーも売ってゐないので、のど乾く。十時四十何分京都着。おなじみの炭屋旅館へ落ちついて、飯を食ひ入浴する。前売の景気香ばしくない様子。


八月二日(金曜)

 京宝舞台稽古。
 炭屋旅館の朝、庭の塀一つ向ふで長屋のかみさん連の井戸端会議が早朝からきこへるのが此の宿の欠点、今朝も五時頃からこれに悩まされた、が、十時近く迄寝る。入浴。足は大分快くなり、殆んど痛みは除れた。有楽座の金語楼劇団といふのが狂言四本のうち三つ迄、何とかかとか言はれ、改訂したり引込めたりさせられたさうだが、今日の新聞を見ると、ジャズを禁止すると言ふのだ。物皆統制、弾圧の世の中に、娯楽だけは、娯楽であらしめねばならぬと思ふ。何とか叫びたい。舞台稽古。宿へ来た南部僑一郎と出かける。此の男、何となく色々用をするので時々金をやる。三十円今日もやった。京宝前の伴淳三郎の店VANで冷コーヒーをのみ、座へ出る。一時頃から「雛妓」にかゝる。皆の芝居を一々立って直したり、手数かけて五時半に終る。朝日ビル地下で、まづい食事をして、VANでコーヒー。座へ戻って「蛇姫」。平野と、遊びに来た松平晃とを連れて、ギルビイへ寄り、ウイを買ひ(B&Wを半分ほど)祇園の大住へ。一時すぎ帰る。


八月三日(土曜)

 京宝初日。
 今朝はラヂオ攻めで八時に起されてしまった、国民歌謡であらうか、愚劣な歌が聞え、寝てゐられない。入浴。宿の朝食の情なさ、ボソ/″\の外米を口に含む味、あゝこれでは芸が落ちてしまふと泣きたい心持。鍋井克之の「富貴の人」を読み、小一時間昼寝する。ダッシー八田氏来訪。三時座へ出る。結局、六分強の入り。「雛妓」は大いに受ける。「夏の大放送」ネクタイ屋の娘を歌ひ、腹話術をやる、これもよく受ける。「蛇姫」で尻つぼまりの感じ。ハネは、十時近し。白粉落して、ギルビイへ行く、南僑・山伸・山野。


八月四日(日曜)

 今朝は少々暑くなり、汗が出て眼が覚めた、九時起き。入浴、そして悲しき朝食。手紙、家へ書く。今日はマチネーだ、大したことはないと分ってるので元気がない。VANに寄り冷コーヒーのみて出る。昼の入り七分強位か。然しよく受け、「雛妓」は泣いてゐる、こっちも身が入る。腹話術などといふものは京の土地柄気に入るらしい。昼「蛇姫」大カット、時間急ぎで眼の廻るやう。昼終ると、南僑と近くの四海楼といふチャチ支那料理へ入ったら、玉木潤一郎がビールのんでた。一緒になりリプトンでコーヒー。京都にはまだコーヒーが方々にあるのは嬉しい。夜は、八分強位、「雛妓」大いに泣かす。池永浩久楽屋来訪。ハネ十時二分前、京宝の小田を誘ってギルビイへ。滝村にひょっこり逢ふ、明夜を約して別れ、小田の先斗町末の家といふのへ一寸寄り、一時頃帰宿。


八月五日(月曜)

 八時に国民歌謡のラヂオで、それが終る迄起こされたが又寝て、十時に起きて、入浴。鳥政の筑前煮きといふのを食ったが、まあいける。足はすっかりいゝし、眼もいゝ方だが、今回は又右の歯が腫れた、先月の「弥次喜多」で、歯抜きの金比羅様などゝ言った罰かと思ふ。昼すぎに京極へ出かける。一座のものやその他に逢ふ。菊田夫妻(?)に逢ひ、八百文で冷たいもの飲み、漫歩して、三時アラスカへ。菊田・斎藤・上山・平野・久我と集り、九月の狂言決定。劇団新体制について語り、幹部もどん/″\仕出しをつとめることその他を決定した。座へ出ると、七分弱の入り。楽屋へ吉岡社長・滝村・服部良一・松平晃等大賑か。ハネて、又ギルビイ。滝村・服部・松平。歯が腫れてる故飲まず、宿へ帰って冷して寝る。


八月六日(火曜)

 白衣招待マチネー。
 よく寝られて十時起き、食事少し馴れて来たか、よくなって来た。「富貴の人」を読んでゐると、堀井が来訪、菊田と堀井が結局うまく行かない、此の仲のとりもちは又上森にでも頼まねばなるまい。堀井と出て、VANでコーヒーを飲み、座へ行く。今日は白衣のマチネー。「雛妓」がワッワと受ける。「蛇姫」だけやらず、四時半にハネる。一人でブラリと出て、五時の米の時間に牛肉の三島亭へ行き、ヘット焼で食事。夜の部、七分弱か、六分ってとこ。「雛妓」は、手順をつけすぎて失敗した。ハネて又々ギルビイ、山野と。ホワイトホースを飲み、オムレツとマカロニを食ふ。つく/″\旅もつまらん。清の顔が見たい。宿へ帰ると、母上・女房よりたよりあり、何となくあと六日あると思ふとうんざりする。


八月七日(水曜)

 九時半起き、涼しい。山田伸吉「歌へば天国」の装置打合せに来る。今日より此の宿へ泊る松平晃、南僑と四人で、先日池永浩久氏に紹介された、水青楼へ出かける。白米を食はせるといふのである。三階の河添ひの室、風が吹き通して涼しい。鶏のすき焼をする。白米の飯――久しぶりに見れば、彼奴め肥って艶々としてゐた。町へ出ようと思ったら、夕立――VANへ入りコーヒーのむ、夕立長く一時間半もとぢ込められた。座へ出る、八田氏よりニッカ・ウイスキー二本贈られる、芝居は入り七分弱、どうも困ったもの。「雛妓」気持よくやる。ハネて、松平・南僑で鳴瀬へ、鶏の足とみやまあげを肴に、ニッカウイを試飲する、これはうまし。


八月八日(木曜)

 今日は清の誕生日なり、何か買ひものしよう、と思ひながら九時に起きる、涼しい、立秋とあるが一寸涼しすぎる。洗眼薬が眼に冷たい。新聞で見ると、劇場街や花柳地へ自家用車乗りつけることまかりならぬといふお達しの由。同宿の松平が故郷から持参した白米を焚かせ、一緒に食ふ、うまいので三杯。ちと眠くなる。山野を呼び、宿を出て、東洞院の今井ドクトル訪問、一旦辞して、山野と、大丸へ入り清のオモチャを探すが、面白いものなし、平凡なるセルロイド物数個買ふ。京極の方へ歩く。大西と逢ひ、美松の喫茶ホールへ入ったら、マネージャーが女給を集めて訓辞をやってゐた、これが三時間もやるのだとは、何たる間違ひぞや。新興ショウを見にもとの夷谷座へ。四時近く出て今井氏へ。鶏のロースで白米。五時に座へ入る。入り昨日より少々よし。ハネて、祇園大住へ。坂東好太郎を招く、今日は伜の誕生だ、乾杯々々と、ニッカを飲む。


八月九日(金曜)

 九時起き、十二時半に大阪で藤山一郎と会ふ約束なので十一時に出て、京都駅から省線で大阪へ。北野の重役室へ寺本支配人を訪れる、感じ悪い奴だが今日は頗る機嫌よく、色々話す、ロッパ映画が内務省あたりで評判よき話をきゝ嬉しい。話は専ら娯楽の統制のこと。それから阪急デパートへ買ものに行く。女房のヘヤネットを買ひ、特選売場を見たがいゝものなし。省線で帰る。座へ。入り七分弱か。那波氏より手紙、先月赤字の由、クサる。ハネて、石田とギルビイ、少々のウイ、宿へ早く帰ってニギリ飯を食ひ、十二時半に寝る。


八月十日(土曜)

 九時起きだ、癖になってしまった。馬鹿な涼しさだ。石田守衛来り、西陣織物の安いのありと言ふ、十二日持って来させることゝする。今日はマチネー、十二時近く宿を出て、さくらゐ屋で大人の玩具類を求め、こっちでガールスの会をやってやる約束がフイになったから、さくらゐ屋の人形その他で三十個くぢを造ってやることゝした。扇屋で扇子求め、座へ出る。昼の入りムザン六分弱程度。「雛妓」はいくらか気が入るが、あとは全くダレる。昼終りに、ガールスその他にくぢ引きさせた。藤山大阪から来たので、三島へ行き、オイル焚きのジャガ芋をうんさと食ひ、牛肉の味噌漬で飯を食った。座へ帰る、夜の部七分か。あと二日なり、早く大仁へ落ち着きたい。ハネて、京宝の小田・渡辺篤を連れてギルビイ。


八月十一日(日曜)

 ロッパの時事解説又はニュース早わかりといふ式の映画といふ企画を思ひついて九時半頃眼がさめた。南僑来り、松平も来て食事をすませたところへ、新京極花月へ来てる柳が訪れて来た、どうも此ういふ得体の知れぬ、頭の悪いのにかゝっては話が困る。ニットーで冷コーヒーを飲み、座へ。マチネー、又々入り悪く惨たるもの。森赫子等がカブリツキで見てるといふので「雛妓」気を入れたが、乗せ損った。白井鉄造夫妻が、富永文次といふ医博を連れて見物、その人の招待でアラスカへ。ポタアジュなどグンと味が落ちた。又足の腫物がいけないので此の医者に処方箋を貰ふ。夜の部、七分弱位。ハネて約束だ、先斗町で豪遊ときめこむ、松平晃・藤山一郎・杉狂児・山一・石田と大一座で、ウイを飲み、大いに遊ぶ。これぞ当分の遊びおさめ、それ飲めよさわげよとばかり。


八月十二日(月曜)

 京宝千秋楽。
 十時起き、いさゝか宿酔の気味。入浴、山野迎へに来り、十一時に今井泰蔵家へ行く。お名残に白米をタップリ食べていたゞきたいといふので。今日は、すき焼、いゝ肉たっぷり、うまい/\でげんなりする程食べた、腹が張って/\眠くなり、ソファでえらい恰好になる。一時に西陣織物屋が来る約束なので宿へ帰る。七・七禁令で禁じられた金ピカの縫ひの衣物など捨て価のものを二三買ふ。楽屋へ今井氏より白米の炊いたの差し入れあり。芝居は急行、「雛妓」はまともにやったが、「蛇姫」の千太郎は、アホでやり、言ひたいこと言って皆を困らせる。JOAKより、十八日より三日間国民歌謡を頼まれた、やりたいが休養日なので断はる。ハネてシャン/\。小田・渡辺に玉木潤を誘ひてギルビイから先斗町へ。


八月十三日(火曜)

 京都――大仁。
 今日わが三十八回目の誕生日なり。九時三十六分のかもめで京都を立つ。駅迄、宿のお清さん、京宝の小田等送り。小出楢重の「大切な雰囲気」を読む。十二時半に食堂へ、二等に堀井夫妻と藤田房子、東宝の音羽久米子がゐて食事一緒。沼津着、清ヘルメットのやうな帽子を被って出迎へ、水ボーソーで身体中ブツ/″\が出来てるが、わりに元気で安心。堀井夫妻も一緒に下車、駅前で冷コーヒーを飲み、女房・清・荒井と堀井夫妻で、ハイヤー、大仁へ向ふ。約一時間で大仁温泉ホテルへ着。離れの一軒建てゞ静かだし、見晴しもよし、涼しくてよさゝうだ。本館の大浴場へ、清も共に入る、ガラの悪い客が大声を出すので出る。夜突然橘弘一路夫妻来る、三組夫婦で俄然賑かになり、清大喜び。此の宿に東宝の山根寿子、小田基義も同宿、ます/\賑か。


八月十四日(水曜)

 大仁。
 昨夜十二時頃床についた、雨戸を閉め切ったら暑くて眠られず、窓をあけたら今度は寒くて又閉めたり、一寸寝られなかった。夢をしきりに見た、仕事のことだ。八時半に、ロケに来てる大船の清水宏が来り、起されてしまふ。入浴、皆(堀井夫妻・橘夫妻)と朝食、白米と麦のヘンテコ飯だが、うまい/\と三杯食った。昼食はヌキ、午後皆散歩に出た、一人残って「歌へば天国」を書き始めたが二景の装置が考へつかず、一休み。夕刻迄に三十分程トロ/\する。夜食を一同で食ふ、うまい/\と四杯食ふ。三夫婦に小田ちゃんと山根寿子親子も来り、チラカシで遊ぶ、久しぶりでやってみると中々面白い。麻雀ほどではないが。十時半頃寝る。明日平野こちらへ来る旨電報あり。


八月十五日(木曜)

 大仁――三島。
 昨夜は一時に、たっぷり眠らうとアダリンのんで寝た、清が時々泣くので眼を覚ますこと二三度。九時に起きた。入浴、食事がたのしみ。味噌汁をたっぷり。原稿用紙出して書き出したところへ、東京から平野来る。コロムビアは積極的にタイアップの実を挙げることがないらしいので、こっちも二葉などは断はってしまふつもりである。その他色々話してゐるうち、セッパ詰った感じなり、新体制の秋! 本館の風呂へ入ったり、皆で紙競馬をして遊んだり、仕事又出来ずに夕暮となる。三島の町へ。三島大社のお祭り、橘・堀井夫妻・平野と揃ってお参り、昔のお祭り気分、満喫。三島カフェーでビフカツ・ライスカレーを食ふ、堀井夫妻と平野は帰京。橘夫妻と町で買ひものして、ハイヤーで帰る。清、淋しかったと見え、床へ入ってからも大ハシャギ。明日こそ仕事。


八月十六日(金曜)

 大仁。
 九時起き、橘夫妻とこっちだけになった。朝食、三島から買って来た鑵詰など開ける。仕事にかゝり、昼すぎ迄に二景をあげてしまふ。午食は皆でパンをママる。橘夫妻も午後三時すぎに帰京。東宝の小田も帰京の挨拶に来た。皆帰ってしまふと大分淋しくなる。そこで夕刻迄に、三十三枚迄書いた。清バア/″\ダア/″\大した元気。夕食は珍しく女房と二人きりだ。入浴してると、山根寿子親子が遊びに来た。ダイヤモンドゲームで遊び、とうもろこしを焼いて食ひ、色々と芸術話に夜も十時半となり、親子帰る。蚊帳に入りて、清絵本を眺めつゝ寝る。明日一杯で「歌へば天国」あと六十枚ばかりを書いてしまふつもり。


八月十七日(土曜)

 大仁。
 十時迄寝た。朝食するとすぐ書きにかゝる。三十三枚から、四十枚位迄書くと、もう昼だ、と言って何もあはてることはないのだが。何もかも追っぽって脚本に専心してる、此の気持も一寸いゝ。午後も書く。西陽がさすので、机を持ってあっちへ行きこっちへ行き、六十枚を越えると元気が出て来た。三時頃パンを食ったので、夜になっても腹が減らない、一寸こゝのところ糞詰りで、屁ばかりプー/\出る。夕方、ゲヂ/″\に刺された。清、這ひ廻るうち、ストンと縁側から落ちた、ヒヤッとしたが怪我なし。夜食後、馬力をかけて、つひに八十二枚「歌へば天国」を書き上げた。十一時。ほっとして入浴、やれ/\約束通り出来てよかった。一仕事済んだ気分は又別。月冴ゆ、裸で山々を眺め、腰を下せば、ベンチの夜露でびっしょり猿股を濡らした。


八月十八日(日曜)

 大仁。
 書き上った「歌へば天国」に目を通してゐると、昼近く上山雅輔・山田伸吉両人。一緒に本館の大風呂へ入り、昼食、僕はパン。それから、「歌へば天国」を両人に読む、一と通り読み、装置の打ち合せ、音楽の註文。それから宣伝文句、作者の言葉その他事務一切を片付けてしまふ。女房はその間に、山の下迄行き、煙草・鑵詰・唐もろこしなんぞを買って来た、汗だくの姿に驚く。夜は、花火をして遊ぶ。名月皎々、煙火の邪魔をする。


八月十九日(月曜)

 大仁。
 小さなオムレツとヘンな味噌汁とで朝食。暑い、下界は何んなに暑からう。藤沢桓夫訳「紐育物語」その他二三の本、読みかけるが、つまらない。十二時、熱海から母上が来られ、清におみやげ。昼食はパン、暑くて食ひ気もない。カルピス、コンク、コーヒーシロップいろ/\飲む。暇だ、しょがない。ホールでソーダ水のんでたら、武者小路実篤氏に会ふ、初対面だがすぐ分り挨拶、お嬢さんもゐて話す。夕食迄、東郷青児の「手袋」。宿の飯ます/\麦が多くなり、モソ/\して情なき舌ざはり。夜に入りて、煙火、虫退治。明後日箱根へ移動することに相談まとまる。


八月二十日(火曜)

 大仁。
 八時に起きる、食事はパン。麦で黄色の飯は食ふ気がしない。贅沢は言はない、東宝グリルのロールキャベツでいゝから食べたいと思ふ。暑い、裸の毎日だ、蚊か蚤か、ボツ/″\と清も僕も、刺された跡だらけ。「歌へば天国」の曲がうまくつくといゝと考へる。ノートに、次の脚本のテーマを記す、国策の芝居を書いてみたい、理窟っぽくない、お説教にならない芝居を。世情が此うなって来ると、娯楽の問題でも、又自分の娯楽の問題でも、あきらめもし、又積極的にぶつかる覚悟も出来たが、あきらめ切れないのは毎日のめしだ、せめてうまいものだけは、生きてゐる限り食ひたい。昼食もパン。明日強羅へ移転、少しはうまいものが食へよう。清は元気、パーペー、チャーイと言ってる。夕方、武者さんのお嬢さんへ寄せ集めのお菓子を届けると、お返しに「笑門福来」と書いた下に草花を描いたのが届いた。夜食味気なし。八時頃ホールで武者さんと小一時間話す。


八月二十一日(水曜)

 大仁――強羅。
 九時すぎに迎への車、大仁から電車、三島。そこから汽車、小田原。海を見る快し。小田原から強羅ホテル迄ハイヤ。玄関ワキのパーラーで、植村東宝社長一家に逢ふ。この分では、まだ他に誰かゐさうなので、カウンターで調べてみると、羽左衛門が一昨日迄ゐた由、残念なり。他、目下滞在は、森田たま女史ぐらゐの由。去年も来た二三五号室、涼しい。昼食はグリルで。食後、理髪室へ。京都から、後頭部モヂャ/″\生えたのを刈り、洗ひいゝ心持。大浴室へ入る、清大喜び。夕立、陽が当ってゝ雨。電車で、小涌谷まで。三井さんの別荘へ。三井さん、駅迄迎へに来て呉れて、山道をあへぎ/″\行く。テラスで一家と色々話し、ジョニオーカーの黒が出たので久しぶりガボリ/″\とやる。洋食だと思ってたのに和食でがっかり。大分酔っぱらって言ひたいことを言ひ、コーヒーを飲ませて貰ひ、白米のお握りを重箱につめてお土産、ハイヤで送って貰ふ。


八月二十二日(木曜)

 強羅。
 蠅が一匹さんざ此奴に悩まされて七時頃から起きちまふ。入浴――浴場が遠いので、部屋へ帰ると又汗だ。食堂で朝食、日本食と洋食と両方食ってやった、雷鳴とゞろき雨盛なり。部屋へ帰ってアンマをよぶ、これが当りで約一時間いゝ心持。昼食は、一人で食堂へ。どうもうまくないのでつまらん顔をして食べた。岸田国士の「現代風俗」を読み、小一時間寝る。夕方、バスで宮ノ下へ行く。富士屋ホテル。喜多村緑郎氏滞在中とあって、呼びかける、すぐ出て来り、カクテルなど飲み、母上・道子も共々話す。八時半食堂へ、流石此処のはうまい、オルドヴルからアントレー二皿その他色々コーヒー迄一と通りコースを辿ったが何となく堪能しなかった。喜多村氏と語る数刻。十一時近く強羅迄ハイヤ。清もうとっくに寝てた。


八月二十三日(金曜)

 強羅。
 ケーブルで早雲山へ登らうと、一家揃って、十時半頃から出る。ケーブルで山頂へ、山の茶屋に氷が無い、生ぬるきサイダー、これも時世。帰りは強羅公園を通って歩き帰る。やれくたびれた。一時昼食、どうも此処の洋食は具合悪い。フロントに電話して滞在中の森田たまさんに会ひたいからと言ったら、三時にロビーへ来てますからとのこと。森田たま女史、その主人、坊ちゃん嬢さん集り話し込む。一家とても感じよろし。夜、部屋へ遊びに行くことを約して帰る。八時、食堂へ、和食を試みる、いくらかまし。それから森田氏の部屋へ、ホテルのボーイ長、バーテンなども集り、チラカシを教へると、面白い/\と何度もやり、明日早いといふのに二時迄遊んでしまふ。


八月二十四日(土曜)

 強羅――帰京。
 七時起き、相当辛い。入浴、食堂へ、コーヒーが大いに飲めるのが嬉しい。それから支度して、電車で小田原へ、僕一人先へ東京へ。小田原あたりから、ムーッと暑くなる。列車中、芹沢光治良の「命ある日」を読む、又眼が少し赤い。一時五分東京駅着。直ぐ帝劇稽古場へ。一同集合、劇団の新体制について談じる。特別出演の松平・山根を紹介、山野の改めて専属となりしを発表、文芸部に久我通、竹柴昇作の新加入を紹介。「歌へば天国」の本読みにかゝる。かなり長いのでくたびれる。古賀政男氏来り、音楽の打ち合せ。白川道太郎応召、市川光男退座、花井淳子病休と、いろ/\のところへ、藤山から松平との一日交替をかんべんして呉れとの伝言、大てい参っちまふ。五時半、コロムビアへ行き、今回のコロの態度甚だ不満なる旨言って置く。京極もゐて、二人を三直へよび、天ぷらしこたま食べる(二十五円也)、銀座へ出て別れ、八時十分東京駅へ、女房・清を迎へに行き、帰宅。母上は熱海へ廻られた。


八月二十五日(日曜)

 久々わが家の床に寝て快眠、八時に起きる、入浴。食事、味噌汁・納豆うまいこと、十一時に出るので、それ迄に、旅中の新聞雑誌の切抜きをスクラップブックに貼り込む。迎へ来り、四谷の眼鏡屋へ寄り、光線除眼鏡を直させ、中泉眼科へ寄り、手当して貰ふ。耕一路へ寄り、コーヒーを飲む、公定価格になり、上等な飲物一切なし。帝劇稽古場へ。五時にニットーで滝村と会ふ、要件いろ/\。平野をして、花井の代役を三益に当らせる、二十七日に確答するとのこと。滝村に言って、清川虹子にも足止めさして貰ふ。有楽座の金語楼劇団を千秋楽なので見る、客が笑ひに飢え切ってるのを感じ、自信つく。滝村・服部良一と銀座へ出て飲み、つく/″\つまらず、家へ帰った方がよかった/\と言ひつゝクサる。十二時半帰宅。


八月二十六日(月曜)

 九時起き、入浴、食事パン、家の畑に出来た唐もろこしを食ふ。十時に家を出て、警視庁へ。俳優証を授与される日なので。行くと何百人の人が並んでゐるので、保安課興行課の寺沢氏のとこへ寄り、俳優協会のことなど話してお茶を濁し、代人でいゝことにして貰ひ、東宝本社へ。那波・渋沢氏といろ/\話す。東宝系は三円五十銭以上の芝居をやらないことにした由。一時半、帝劇けい古場へ。藤山一郎帰京、権八を一日代りのこと何うしてもOKせず、勝手にしろと思ふ。古賀氏の曲どん/″\出来て来る、愉快。平野と三直で天ぷら、汗かき乍らうんと食った。耕一路へ寄り、コーヒー飲み、橘の家へ、女房・清も行ってた、さて時節柄雀をすることも出来ず、闘球盤など一寸やってみたが、つく/″\つまらん。つまらん/\と言って、九時頃、嵐の中を帰る。今日より九月の前売開始、まだ成績きかないが、心配。
 コロの宣伝部が昨日のことで、平野にひたすら謝った由。


八月二十七日(火曜)

 東京会館へ。俳優協会の集り、今日は幸四郎を筆頭に、猿之助も出て来た、彼テキパキしてゝ此んなことにはいゝ、会長副会長等、受諾は別として決定、僕も常務理事となる。一時半稽古場へ。藤山つひに権八を承知せず、金もマネージャーを通じてフッかけた由、松平は初めから分ってるのに、二十八日から四日間花月を稼ぐし、今時の若いものには敵はん。花井の代り、「歌へば天国」の小母さん役は、三益断はって来た由、これもチャッカリしてやがる、もう若し出たがっても出してやらん。結局、清川虹子も映画の方で駄目なので、新進抜テキ、久米夏子大役をやることゝなる。心配なり。五時に終り、リッツで女房と待合せ、食事して、東京劇場家庭劇見物。


八月二十八日(水曜)

 十一時から稽古、中泉眼科へ寄り、帝劇稽古場へ。久米夏子起用、小母さんの役、これが意外にうまいので大安心。松平、今日から花月へ出てるので間々に来る、仕方ない。「歌へば」の歌稽古する、グランドオペラのとこ、山根中々よく歌ふ。それから「幡随院」と「おしゃく」とずっと立ち、五時半に終ったので、今日は白川の出征送別会を家でやるのを、帰れないと思ったが、時間が出来たので、円タクで帰宅。清の顔を見る。白川と、岩井・大西をよび、高橋の姉も来り、赤飯を食ひ、ビールを飲み、七時半に放送会館へ。読み合せをやり、十時すぎからスタヂオへ入る、第一夜分を二度くり返す、「当世三人兄弟」浪六ものだが、何うも面白くないのでクサる。


八月二十九日(木曜)

 十時起き、入浴食事。十二時半に家を出る、一時帝劇稽古場へ。帝劇が突如内閣情報部となることになったので、今日で名残りだ。四時迄やる。古賀政男氏来観、一緒にニュウグランドへ。ポタアジュとスパゲティ・ミートボール、冷チキン。稽古場へ帰り、「幡随院」に入らんとしたが、菊田が荒れかゝり、実に無礼な態度。彼奴つけ上ってるな、此ういふインテリ男でも芝居者には白い歯は見せられないと思ふ。八時近く迄ゐて、放送会館へ。「当世三人兄弟」の第一夜、どうもパッとしないもので、はりあひなし。終って、第二夜の読み合せ。菊田の態度甚だ無礼、何とかする考へ。放送局提供のおいなりさんを食べて、十二時すぎ迄、第二夜の分を二度テストした。


八月三十日(金曜)

 十時起床。十二時過ぎに出て、有楽座へ。「雛妓」の舞台稽古。京都でやったもの故、楽である。終って、天ぷら食ひに南部僑一郎を連れて三直へ行く、飯なし時間だから、天ぷらオンリー。大分食ったが、やっぱり飯を一杯でも食はないと、デンと落ち着かない。有楽座へ引返す、楽屋で、小佐川鶴之丞指導で、鈴ヶ森を、稽古する。小石川後楽園の東宝主催南進の夕といふのへ、迎への車で出かける、あの広っぱのこと故、例によってクサること受け合ひだ、果して今日も後口いと悪し。放送会館へ。「当世三人兄弟」第二夜。済むとすぐ車で京極へ寄り、乗せて牛込松ヶ枝へ、古賀と三人で飲む。待合へ車つけるべからずとあって、テク/\遠くから歩いた、馬鹿々々しい。


八月三十一日(土曜)

 眼科へ寄り、座へ出る。十一時頃から、「歌へば天国」の稽古、藤山がまるでセリフ覚えてゐないので「シャレに書いてるんじゃない、チャンと覚えて呉れ」と度々怒鳴った。古賀政男も来て、終り迄つきあって呉れた。何遍もやり返し、かなり丁寧にやった。松平晃が今日迄、浅草と掛持ち、その待ちや、米食時間でないと食事が出来ないので、大分無駄があったが、僕はふた葉のそぼろ丼ですませ、夜の九時頃には終ると思ったのが、十二時迄かゝってしまった。次の「幡随院」迄休み、部屋でセリフをやり、一時すぎから「幡随院」にかゝる。夜も更けて、眠りこけてる青年部の奴を菊田がなぐることなどあって、午前七時頃漸く終った。僕は元気だ、皆、そっと寝込んじまふ中に、二十時間を殆んど立ったまゝゐるのに、ちっとも労れず、声もいゝ。七時、帰宅。
[#改段]

昭和十五年九月



九月一日(日曜)

 有楽座初日。
 一時二十分前に起せと言っといたが、ちゃんと自然に眼がさめた。元気なものだ。一時すぎに家を出て、東宝グリルへ、白川の壮行会。二時半ホテ・グリへ行ったら、肉が無いと言ふので、又東宝グリルへ引返してロールキャベツなど食べて座へ。超満員。今日は日曜、この成績はアテになるまいが、大入りは嬉しい。三時開演、序幕終り、次は順序を変更して「幡随院」これは、ナベ・ロク大あばれ、松平もまあ/\で大受け。長兵衛の気持のいゝのには驚いた。役者とはこれかなと思ふ位。次が「雛妓」だ。京都でテスト済みだから安心、よく受けた。幕切に、又幕をあげて、白川道太郎出征の挨拶をし、客に万歳を三唱して貰った。壮観。幕間四十分、いよ/\「歌へば天国」。流石に古賀政男は偉いと思った。歌の一々に手が来るのだ。きく歌でない歌、歌ふ歌を作る人だ。稽古を随分やったのに、井田一郎の指揮ぶりといふものは全く、いやんなっちまった。サグリ/\で行くので殆んど歌へない、センスの悪いこと無類。その悪条件の下に、これだけ受けるのだから、結局古賀が偉いと言ひたいのだ。ハネ九時半、女房見物で、感想「歌へば」は上出来とのことだ。今日より料理屋はすべて昼二円五十銭夜五円以上の食事まかりならぬことゝなる。


九月二日(月曜)

 暑いので四時頃眼が覚めたが又寝て、十時迄。入浴、秋の抜毛だ、生へ際が少し薄くなったやうで心細い。高橋の姉とおばあさん来る。一時半に家を出て、東宝グリルへ。「歌へば天国」のスタッフ集まり、ダメ出しの会。丁寧にやってたので開演の四時が迫り、ロールキャベツを食べて座へ。二日目で四時開演。入りは、防空演習の影響もあるだらうが、七分弱といふところ、がっかりする。「幡随院」は一寸二日目ダレ。「雛妓」は、幕切れ、よく手が来る。「歌へば天国」は纏まったし、ダメが利いたからよくなったが、セリフが入ってないのでトン/\行かなくて困る。ハネて、中野実来り、一緒にホテ・グリでウイを飲み、辷り込みで赤坂へ、中野の考へ方が益々堅く頑なのでクサった。


九月三日(火曜)

 十時迄寝た。食事。部屋で、宇野浩二へ「器用貧乏」寄贈の礼書く。残暑、じっとしてゝも汗である。「歌へば天国」のカットを考へ、注意をノートする。三時半に出て、眼科へ寄り、節米時間中でもすしは食へるとのことなので、栄ずしへ寄り、数個つまむ、外米のボソ/\ずし、食へたものではない。四時半に座へ出る。入りは昨日よりいくらかいゝ。「幡随院」は、松平がセリフをとばしちまったので、僕の歌も何も飛ばされちまひ、散々だった。「歌へば」は大分カットしたので短くもなりトン/\運ぶのだが、盛り上りが足りない、コーラスを明日稽古し直させることゝした。
 菊田がゾーチョウして、評判がよくない。これは又僕が、白い歯を見せすぎ、何とか改めなくてはならぬことゝ思ふ。


九月四日(水曜)

 九時起き、食事パン。暑い、残暑きびし。アルバムに写真を貼ったり、机辺の整理。いろ/\毎日感じること多し、旅をしてると、此ういふ風に、毎日感じることが少い、いろ/\な意味で此ういふ時世には、東京を離れないことだ、東京はしみる。昼すぎ、昨日速達出して呼んだ如月敏来る。何年ぶりかで家へ来たわけ。要件は、敏の東宝入りについて。森氏に話し、十二月撮影の予定の「歌へば天国」を脚色させたいと思ふ。冷いもの飲みつゝ雑談。紙競馬などで遊ぶ。三時食事、昨日松平より贈られた白米を炊き食べる、うまし。敏と一緒に出て、眼科へ寄り、ニットコーナハウスで紅茶を飲み、座へ出る。入り、七分強か。今日はお社の日。「長兵衛」まあまともに行けた。「雛妓」大分突込み、くさくやる。「歌へば天国」は、どうもダレる、トン/\行かない、初日が一ばんよかったやうだ、腹が立つので、明日の出来を見て稽古し直すと発表する。十時ハネ。古賀政男と赤坂へ行き、持参のブラック・アンド・ホワイトを飲み、食べ、喋る。一時すぎ帰宅。


九月五日(木曜)

 九時すぎに起きる。十時に生駒雷遊が来る筈なので。食事してると生駒来る、浅草も今月から平日は午前中開演しないことゝなったので助かったと言ってゐる。生駒と共に永田町の曽我廼家五郎邸。俳優協会の話、十二人の評議員を定めることなど、五郎中々憂国の心に燃え、話はづむ。一時半に辞し、空腹なので一人、東日会館でランチを食べる。本社へ行く、渋沢氏と話し、日劇の耕一路へ行ってコーヒー。東映本社へ森氏を訪れ、撮影のこと、三益の件、如月敏の件等片付け、新体制の話いろ/\、何となく、反って力を感じて来る。座へ。入り悪し、六分か。「幡随院」で、渡辺とサトウの二人やり過ぎ、寺沢氏に呼ばれ明日警視庁出頭の由。「雛妓」よく受ける。「歌へば天国」今日漸くトン/\行き、受ける。「歌へば天国」のヴァライエティーで、女の子が踊ったり、タップをやったりしてるのが、如何にも時代錯誤といふ感じがし出した。大体が今迄、此ういふものであったのは、日本人の本当の好みだったのではなく、全く西洋の真似だったのだと思ふ。


九月六日(金曜)

 十時半迄寝た。今日から防空演習も激しくなり、まっ暗になるといふ、やり切れないなと、朝食からもう憂鬱である。どうせ客は殆んど来ないだらうと思ふと、いやんなる。が、芝居でも無かったら何うしていゝか分らないかも知れない。部屋で、「猿の腰掛」読み終って、エミール・マゾオの「休みの日」を、宇野浩二その他がすゝめるので読む。つまらない。此んなものを演るより、此んなものを書いてみたいと思ふ。汗、絞り出されるやうに出る。風呂を浴びること三四度。四時に、家を出て、中泉眼科へ。銀座へ廻り三昧堂で新刊三冊買って座へ。防空演習を見越して招待券も大分出てるのだらう、まあ/\見た目七分入ってる。日日に川上三太郎の劇評出る、とても感じ悪く、一同クサる。「歌へば天国」藤山がまだセリフでたらめ、癪にさはる。ヴァラをカット。九時四十分ハネ。まっくらの中を帰宅、しきりに絵が描きたい。


九月七日(土曜)

 昨夜一時すぎ迄読書して寝たので、夢を多く見た。白米のことが頭に在ると見え、白米を夢に見た、食ひ気の強いことだ。雨で涼しい、昨日とは国が違ふやうだ。入浴、食事――鈴木さんから貰った白米。昨夕刊の「ロッパ本を読め」と書いた川上三太郎に、「仰せの通り本を読むが、何んな本を読めばいゝか御示教下さい」と四銭切手封入、日日気附で手紙出した。芹沢光治良の「命ある日」西條八十の「若き日の夢」交互に読む。四時に出て、眼科へ寄り、ホテ・グリへコーヒー飲みに入ったが、味無し、その代り十五銭也。座へ出る、招待沢山出てるらしいが、兎も角頭は満員なり。報知に劇評「ロッパ上出来」これで気をよくする。少女歌劇生徒見物――招待だが。まっくらな中を、而も雨盛な中を帰る。
 今度の防空演習は空襲警報の時間表を、そっと貰ったので大変便利。安心して夜の街を帰れる。


九月八日(日曜)

 今日はマチネー、女房見物同道。客殺到してゐる、満員。防空演習のことで昼となるとワッと押し寄せるのだ。「雛妓」客大いに泣く、ます/\やることクサクなる。客のせいで仕方がない。「歌へば天国」も、まあ/\。昼の終り、外出して、空襲にぶつかってはと、ふた葉の親子丼をとりて食べる。洋服屋が国防服の仮縫ひに来た。夜の部、大分招待も出てゐるだらうが、大体満員である。稲葉実が遊びに来た、昨日も上野勝教にタップやダンスの仕事がやりにくゝはないかときいたが、彼等自身は一向感じてゐないらしい。ハネて、まっ暗な中を帰宅。今夜、友田純一郎楽屋へ金二十円借りに来た、旬報が不安な気がする。


九月九日(月曜)

 十時起き、よく寝た。雨で涼しいので一時半頃から昼寝、いゝ心持に三時半迄眠った。軽く食事して出る。久々ビーコンへコーヒー飲みに入る、此処も十五銭になった、「あゝ此処も駄目か」とつぶやきつゝ出る。座へ「幡随院」すっかり幸四郎でやってるのに、「高麗屋ッ」と一声ぐらゐかゝりさうなものだが、もう此ういふシャレは一切通じなくなった。「雛妓」客の泣き方も段々激しい。「歌へば天国」も、トン/\行く。何か一つ力強いものが不足してる脚本だ。スマートなことでは成功。ハネ九時三十五分、今夜は家の方は夜中に避難のさわぎがあるとのことで、岩井を連れて帰り、オールドオークニーを飲み、いゝ心持になり、二階で寝ちまふ。


九月十日(火曜)

 夜中に女中たちは避難訓練で近くの小学校迄逃げさせられたり、女房も朝迄起きてゐた、そのさわぎの中をオールドオークニーの酔心地、朝一度、便所に起きたが、又ねて、十二時半迄ねてしまった。高橋の姉遊びに来り、紙競馬などして遊ぶ、清元気よし。四時に出かけ、眼科へ寄り、ニットウコーナハウスで紅茶を飲み、座へ。今夜防空の最後の夜。明日から市中は明るくなる、元気一杯の客がワッと押し寄せるだらう、明夜の活気がたのしみ。「歌へば天国」も明日から終りのヴァラを一部復活することゝした。帰ると、東日に劇評書いた川上三太郎から返事が来て、これが大ファンで妥協的手紙、一寸気抜け。


九月十一日(水曜)

 今日もよく寝た。十一時半に迎へが来り、眼科へ行き、日本橋の三越本店へ行く。闘球盤を買ふつもりが、小さいのしかないので、止めて、四階の新を呼んで食堂で冷コーヒー、伊東屋へ寄って、カルムを買って、本社へ行く。十月の大阪を決定の筈で文芸部が集まった、葦原邦子が母親の反対で出演出来なくなり、古賀政男のみ出演、さて、その出しもの今日は決定出来ず、平野・菊田・斎藤を連れて三直で天ぷら、飯が出ないから栄ずしへ寄って、すしをつまんで座へ。防空明けでワーッと来ると思ってたが、七分強位の入りであらうか。何うにもしめってゝカラ/\ッと笑はない客である。防空などでいぢめ抜かれて活気を失ったのか。


九月十二日(木曜)

 十一時頃山野、子供の土産持って来り、一緒に出かける。アラスカへ、屋井が座員二十名ばかりよんで呉れたのだ、料理も二円半の定食で、実にうまくないところへ皆愚痴ばかり言ってるのだから此んな集りも仕方がない。新聞に自家用車全廃――ガソリン配給停止の記事、十月一日からだといふので、がっかり。二時頃辞して、キネマ旬報社へ。レニン鈴木・木村千疋男等ゐて、こゝも旬報が廃刊されさうな気運なので活気なし。東宝グリルへ。茶を飲み、ロールキャベツ等食って、座へ早目に出る。入りは七分であらうか。期待した活気は全然出ず。これだから娯楽は弾圧されてはいけないのだ。滝村来り、映画の方も四苦八苦の様子。近々に失ふわが脚、自家用を味はひつゝ帰宅。母上熱海より帰らる。


九月十三日(金曜)

 九時、清が泣き出して起された。一時本社へ、面会日を今日と定めといたので、光芙美子来る、進むべき道について話してやる。二時近く会議室で、大阪の出しもの決定、特別出演なども無しの覚悟、宝塚映画の伊島政吉に会ひ、十月の宝塚映画出演の話をする。清月へ行き、天ぷらを食ふ。大辻につかまり漫談屋で、ぜんざいを食ふ。眼科へも寄り、座へ。渡辺篤、声が出ない、ひどいので休演。「幡随院」では、石田が、「歌へば天国」ではロクローが代った。ロクローの日ベンさんはひどいもの、やっぱり役者が、まるで違ふ哩。ホテ・グリへ、滝村・伊藤基彦その他と行く。
 世情ます/\いけない。滝村なども、遊べないので働く気力が無くなったと言ってゐる。全くである。が、僕は世情に負けないやう、しっかりすべし。
 大阪の出しもの
 一、ヒコーキ親爺
 二、幡随院長兵衛
 三、雛妓
 四、活動のロッパ


九月十四日(土曜)

 朝食して、神保町へ。東京堂書店で山田伸吉と待ち合せ、文房堂へ寄り、水彩絵具を一式揃へて呉れと註文しといて、二人で上野の二科展を見に行く。中々面白いのもあるが、ひどいのもある。阿部金剛、藤田嗣治のはよかった。此ういふものを見るのも何年振りだらう。車を浅草へ飛ばし、浅草楽天地を一寸のぞき、浩養軒で夕食三皿ばかり食べて、四時に文房堂へ引返し、水彩用具一式三十七円ばかりで買って丸の内へ。今日も渡辺休演。土曜のことゝて補助の出る満員だが、どうも客が力が無い、しめってる。時世のためであらう、気の毒だ。「歌へば」日ベンをサトウが代るので気分めちゃ/\だ。ハネてまっすぐ帰宅、夜食。絵具箱を拡げて喜ぶ。


九月十五日(日曜)

 九時二十分起き。青山斉場へ。中村歌右衛門の葬儀、わりに人が少くて淋しい、入口から棺前迄列もなく一人だ、恥かしい、両側は名優オンパレードらしいが、見ずに一直線。ニットーでグレープジュースを飲み、座へ。割れ返る満員。今日の客はよく笑ふ。日曜だと気が楽なのだらう。渡辺今日より「歌へば」だけ出演、大分ひどい声だが、ロクローのよりはづっといゝ。昼の終りに、入浴して、南部・山根親子とホテ・グリへ。肉は無し、オルドヴルにスープ、スクラムルエッグ、アイリッシュ・シチュウ。皆まづい。あゝうまいコーヒー飲みたい。夜も大満員、明日から又ガタッと落ちるかと思ふと淋しい。「幡随院」から大受け。こっちも咽喉少々痛む。松平は風邪で鼻声。「雛妓」は、よく泣く。高杉妙子、菊田をカサに着て威張り散らすとて評判悪し。「歌へば」快演。ハネて、まっすぐ帰宅。夜食、さしみで飯。
 毎日客に直面してゐると、実にその客席の空気に感染しやすい。今日の如く大満員、快晴の如き笑ひにどよめけば、力を感じるが、しめった客を前にすると、こっち迄惹き入れられさうだ。そして、それを惹きつけてゐる力を弱められさうで恐ろしい。毎日、拍車をかけて、客をしっかりさせなくてはいけない。


九月十六日(月曜)

 十一時迄、よく眠る。咽喉少々悪く昨夜ルゴールつけたが、咳少しまだ出る。入浴食事、さあ今日から絵を描くのだ、庭へ下りて絵になりさうなところを探す、葉鶏頭の一群と定め、裸で清の麦わら帽子をかぶって、庭へ出る。色々な絵具を溶いて、色を出すのが嬉しい。葉鶏頭を描いてゐると雨、チェッと家へ上り、清の寝てるのをスケッチする。やたらに絵を描くのが嬉しい。四時に簡単に食事、迎へ来り眼科へ寄る。座へ出ると、今日はデパート休みのせいか、九分の入り。団体もあるかして、少し笑ひの程度は低いが。「長兵衛」で、「高麗屋!」と一声かゝった。「雛妓」よく泣くこと。「歌へば」は今日の客には少し高し。ハネる頃、田中三郎・木村千疋男約束で来る。築地のとき本へ。上森・山野も同道。ジョニ黒持参、プランタンの洋食で飲み、語り、久々で面白かりし。一時すぎに出る、満月の下に、屋台の支那そばを食ふ。これが一ばんうまかった。


九月十七日(火曜)

 九時半頃起きる、入浴食事、味噌汁うまし。一時に出るのだが、又絵が描きたくなり清の玩具を写生する、子供みたいだ。一時に出ると、日比谷の陶々亭へ、「エス・エス」主催の座談会、情報部の黒田軍人さん・岩田豊雄・遠藤慎悟・徳田純宏・権田保之助に僕といふ顔ぶれで、新体制の演芸といふ話、かなり言ひたいことを喋った。支那食は二円半と限られても、まあ割に食へる、代用食として、饅頭登場はいゝ。座へ出る。入りは七分強といふところ。客席の活気が又不足だ。どうも客が、此ういふ所へ来るのが既に贅沢なのだと思ひ乍ら来るらしいので、その気分が中々抜けないらしい。


九月十八日(水曜)

 北白川宮殿下国葬 休日。
 北白川宮殿下が飛行機事故で戦死遊ばされた、その国葬、音曲停止で、今日は休み。十一時近く迄熟睡。雨だ、涙雨か。庭へ出てスケッチが出来ないのが残念だとすぐ思った。涼しい。絵具を階下へ持ち出し、雨の庭、池のあたりをスケッチ。煙草のむのも忘れて一時間、一寸よく描けたので嬉しい。二時に迎へ来り、女房と清も同車、橘の家へ行く。橘の雑誌も潰されさうだと苦悩の最中、田中三郎も来て凝議してゐた。雄ちゃんのライカで清も僕も撮して貰ふ。五時半に出て、日比谷の陶々亭へ、橘夫妻に友田・多賀井を誘って行く。昨日の座談会の定食がわりに美味かったから、夜の五円のならいゝだらうと思ったのに、これが少量で全く満腹しないので、有志即ち僕・女房・橘の三人だけ、いんごう家へ、ビフテキとライスカレーを食ひ、橘のとこへ戻り、古風なる二十一といふ遊びを十時近く迄やり、甚だ当るので気持よかった。


九月十九日(木曜)

 雨の中を母上・女房同車、銀座映画劇場へ、松竹下加茂「浪花女」の試写会。二時間余の長篇、中々確りしたもの、溝口健二うまくなった。女房と風月堂へ寄り、食事。ここは流石に味を落さない、良心的な料理だった。一時近く本社へ行く。那波・渋沢と社長もゐて色々話す。有楽座今月は、五分ダテ位になってゐる、そこへ六分九厘平均位になってゐる(防空演習中も入れて)から黒字は約束された。兎まれ来年の四月位迄は消極策で行くことゝ定めた。二時半橘の家へ。友田・多賀井と来り、二十一で遊び、今日も成績よし。食事の間無く座へ出る。来訪服部良一・京極・芦原英了・中村メイコ。メイコより果物を貰ふ。「天国」成程ちとアクがなさすぎるな、と思ふ。


九月二十日(金曜)

 十一時半丸ビルへ京極を迎へに寄り、麻布今井町の瀬戸口藤吉翁の家へ。翁と、早川弥左衛門両所と京極とで晩翠軒へ。雑談しつゝ食べたが、二円半の定食はてんで足りないので、早川氏帰ったあと三人で、三直へ、天ぷらを又各二円半食って、翁を家へ送り、まだ夕方迄大分あるので、一旦京極家へ寄って、近くの原信子氏の邸を訪れる、歌ふ女の人で有望なの二三あるとのこと、近々会ってみることゝし、コーヒーのうまいのを馳走になり、邸内を見せて貰ふ、とても豪華で一寸類が無い。三浦さんとは大した違ひだ。座へ出る。吉岡社長来り、宝塚で男性加入オペラを作ることについて相談。入り八分位か、今夜の客は実によく笑ふ。


九月二十一日(土曜)

 十二時半に銀座のA・1へ。コロムビアの丸家と服部良一と来り、レコードの企画、十月一、二日あたりに、服部曲のもの一二枚吹込まうといふことゝなる。「パルレヴ・シノア」の企画話す。A・1の二円半定食、わりに良心的で気に入った。それから――と、暇だし、ガソリンは有り余ってゐるし、浅草へのしてみる。笑の王国をのぞく。いやな姿である、昔は此処で平気で芝居してたのかと寒い。中西で生駒・東などゝ話し、四時に又丸の内へ。柳がのこ/\出て来たのでくさった。眼科へ。眼が充血してるので辛い。座へ出る、七分強か八分弱だ、土曜の入りではない。ハネて、鈴木静一と築地とき本。プランタンの洋食で持参のジョニ赤のポケットを飲む。十二時半切り上げる。


九月二十二日(日曜)

 十時起き、眼は大して赤くない、安心する。眼科へ寄り、座へ出る。昼は、八分位の入り、一寸意外である。森岩雄氏見物。昼終ると、森氏と出て風月で食事、味よろし。「雛妓」を大変いゝと言ひ、目下東映で企画してるのを止めて、僕にやらないかと言はれる。「歌へば天国」の映画化について話す、演出は山本薩夫といふ新進、ハリキってゐる由。座へ帰って夜の部、大満員ではないが、補助は出てゐる。菊池先生が一人でフラリと来てるとのこと「雛妓」だけ見て帰ったらしい。石井漠の家へ電話させ、二十五日に僕が行くことゝする。稲葉実来訪。日米の風雲急なりとの説高し、いやはや此の上さういふことになられては。


九月二十三日(月曜)

 入浴食事して十一時に出る。眼科へ。ニットウへ寄りグレープジュースを飲み、座へ出る。祭日マチネーだが、八分弱か。昼の終りに、小佐川観之丞来り、幡随院のコーチ礼として三直の天ぷらを食はせることゝし、平野同道行く。天ぷら食ってると、樋口大祐が、アメリカから数日前着のニュウカアに試乗して呉れとて車を持って来た、それで銀座を一巡する。フォード・デ・ラックスといふ四十年のパリ/\だ。が、これもあと何日かでダメになるのだらうと気の毒だ。夜の入り九分と迄行かず。でもよく笑ふ。正岡容来訪。「歌へば天国」の終り頃、徳山※(「王+二点しんにょうの連」、第3水準1-88-24)来る、引っぱり出してしまふ、客、気がつかぬ感じ。


九月二十四日(火曜)

 絵が描きたいが急しくて暇が無い。十二時に出る、新宿へ。紀国屋で新刊を二冊。タカノで小国英雄と待ち合せ、吉祥寺の武者小路実篤氏の家へ連れてって貰ふ。武者邸の狭い応接、書籍や絵が積んである中で話す。今迄のもので役に立つものがあったら何でも使っていゝと言はれる。一時間ほどゐて井頭公園へ出る、武者氏も共に動物園水族館を見て、別れる。三直へ寄り天ぷら食って座へ出る。入り七分強であらう。ハネて、森田たまの招待で、赤坂春香亭へ、夫妻の他、猿丸強羅ホテルマネージャー、水之江滝子等ゐた。持参のブラック・アンド・ホワイトを飲み、珍しく前後不覚の酔となり、醜態だったかと思はれる。


九月二十五日(水曜)

 昨夜は大醜態らしく、ベロ酔ひで帰宅、車の中に寝てしまひ、中々起きなかったり、吐いたりした由。久しぶりの前後不覚、宿酔気味だ。朝食も食欲なし、少し食ったゞけ。十二時すぎに家を出て、自由ヶ丘の石井漠舞踊研究所へ。要件は五月に出演して貰ひたい、大喜びで承諾し、うまいコーヒーを淹れて呉れた、弟子達のダンスを約三十分見せられた。三時近く辞し、京極のとこへ寄り、原信子邸へ。末松美根子といふ女弟子、うちへ入座させることで紹介される、背が高いのでいゝ、歌も二三きいたが、先づよし。座へ出る、つひに今日は食ひ気の無い一日。入り七分弱。瀬戸口藤吉先生等見物でハリキる。ハネてまっすぐ帰宅。清、抱かれて途中迄お迎へ。


九月二十六日(木曜)

 十時半起き。軽く食事、昼食の約束があるのだが二円半では、とても応へまいと下拵へしたわけ。眼科へ寄り、京極を市政会館へ迎へに行き、銀座裏のりどといふグリル、順天堂の佐藤清一郎(外科)博士が、田沢千代子を紹介するといふ席。田沢は役者をやってみたい希望あり、面白いから正月あたりから入れることにしようと話す。二時頃迄色々話し、偕楽園へ、これも京極と共に行く。りどでビフテキ定食食った後こゝで又二円半の支那定食、一寸呆れた。早目に座へ。銀座の中村誠が兎の置物を抵当に百円貸せと言って来る。入り悪し。


九月二十七日(金曜)

 十時起き、今日は朝食せず十一時に出て、四谷の眼がねやへ寄り、中泉眼科へ寄って、山水楼へ行く。十一月の狂言決定の集り。皆愚痴言ひつゝ相談する。古川一座解散を命ずといふデマがとんでゐる由、冗談じゃない。銀座新田洋服屋へ寄り、藤山よりプレゼントの布地でオーヴァ注文。座へ出る前に、名物食堂の金ずしで、すし数個食った。「雛妓」の前半、ウンコしたくなり汗が出て苦しかった、途中でウンコした。「歌へば」も腹がヘンで苦しかった。ハネて、築地とき本へ、ウイを少しのみ、芸について語り、十二時すぎに帰る、無事なこと。ラキサトールのんでねる。
 十一月 有楽座
 円太郎馬車 正岡容原作 斎藤豊吉脚色
 あさくさの子供 長谷健原作 菊田一夫脚色
 ロッパ欧州へ行く 菊田一夫作


九月二十八日(土曜)

 朝方便所に二度起きる、ラキサトール利いて腹具合少しいゝ。軽く食事して、下二番町へ。母上・成之兄夫妻皆在宅で賑かに話すこと一時間余。二時コロムビアへ、文芸部へ寄り、来月吹込みのことを定める。サトウハチロー詞・服部良一曲。本社へ行くと、五分五厘ダテ位にしたので、不入りにもかゝはらず黒字といふので、小さいが特賞が出たのは意外の喜びだった。座員にも明日大入袋が出る。久米には会長賞が出ることゝ定る。眼科へ寄り、座へ。今日は土曜だが、七分の入り。原田盛治来訪。宝塚映画は、準備不足でヘンなものになると不可故断はることゝする。


九月二十九日(日曜)

 有楽座千秋楽。
 マチネーの千秋楽である。昼の部まことに淋しい入りで、六分弱か五分に近い、でも「雛妓」は熱演した。「歌へば天国」のオペラ場面皆吹いて歌へなくなる。昼の終りには外出せず、ふた葉のそぼろ親子をとって食べる。夜も五分強だ、少からずクサった。が、機嫌のいゝ客で、よく笑ひ、拍手する。緞帳下りるや、渋沢会長が舞台へ来て呉れて、皆に一言挨拶をして呉れた、品のいゝ言葉であった。それから皆に特賞、ロッパ賞の発表と、めでたくシャン/\/\とやって、千秋楽。原田盛治の招待で築地の何むらとかいふ家へ、フランス大使館の人が、ブルゴーニュの白葡萄酒を持参、ウイと共に飲み、プランタンを平げる。
 九月興行技芸賞
 (千秋楽に授与)
○会長賞
 菊田一夫、久米夏子
○ロッパ賞
  A
 久米夏子、高杉妙子
  B
 団福郎 福島文春、轟美津子、岩井達夫、藤リエ子
○文芸部賞
 藤リエ子
○屋井賞
 久米夏子、轟美津子


九月三十日(月曜)

 十時半迄寝る。十二時半に迎へ来り、これがもう車の乗りおさめかと心細く、コロムビア本社へ。一時に服部良一が来るといふことなのだが中々来ない、二時近くに来た、何うも此の連中の時間の観念のないのには困る。サトウハチロー作詞の「ロッパ南へ行く」と、「防夜団長」の練習一時間半。四時すぎ橘の家へ。映画雑誌もいよ/\大統制にあひ、橘のところも他の社と合併して命脈を保つことゝなった由、橘夫妻、それに女房・清と一緒に橘のとこへ来た堀井夫妻とで銀座の今朝へ。牛肉なら、今迄とあんまり変りなく食へるので満員だ。たっぷり食って、買ひものに出る。菊水で銀のライター(十五円)一つ買ひ、不二家でホットケーキ食べる。徳山※(「王+二点しんにょうの連」、第3水準1-88-24)に逢ふ。橘の家へ戻って、橘夫妻と二十一で十時迄遊び、帰宅。十一時すぎ、東宝移動劇のことで平塚・志賀口の二人来訪。
[#改段]

昭和十五年十月



十月一日(火曜)

 近頃不眠気味、昨夜も二時をきいてアダリンをのんだ。十時起き、今日から自家用車禁止だとか、まだいゝとか――ハッキリした報せが無いので、省線で出て、歩いてみようかと思ったが、大丈夫だらうとのことで、コワ/″\車で出る。眼科へ寄り、本社へ。平野を一座へ貰ひたきこと、及び堀井渡米のこと了解を得る。一時近くコロムビアへ行く。服部良一曲の「ロッパ南へ行く」の吹込み。曲は中々面白い。僕は然し、レコードの吹込みが、あんまり好きじゃない。一ばん苦手だ。夜は専ら清と遊ぶ。妙に小便が近い、少し心配だ。


十月二日(水曜)

 昨日に味をしめて今日も車で出る。街は防空演習。眼科へ寄り、旅の眼薬を貰って、文ビル三階(帝劇が情報部のものとなったので又もとの稽古場だ。)へ。「活動のロッパ」の立ち。三時近くまでかゝる、どうも面白い狂言ではない。三時にコロムビアへ。今日はサトウハチロー作詞・服部良一曲の「ロッパの防夜団長」、中々曲も思ひつきも面白い。レインボ・グリルで中野実に会ふ、移動劇団みたいなものゝことばっかり言ってる。明るいうちに帰宅。夕食後、部屋で二時間ほど寝た。起きて入浴、洗髪。清、全く元気。さて寝ようとすると今度は寝つかれず。「湖畔の画商」を読み、アダリンのむ。


十月三日(木曜)

 昨夜、宵に一寸寝たので、いざ寝ようとすると寝られない、セリフを覚え出すと眠くなるのが常だから、やってみたが駄目、四時にアダリンのんだので、グッスリ寝ちまひ、十二時迄寝た。入浴して、朝食。清、元気だが、すぐウーッと怒るのが困る。雨で絵が描けない。宝塚で充分描きたいと思ふ。一時すぎ如月敏夫婦が来た。部屋でピョン/\なんかして遊ぶが、つまらない。麻雀がなつかしい。夕食皆で鶏鍋を突っついた。七時半、家を出る。今夜こそ自家用車一、一三一号の乗りおさめだ。闇の中を行く。東京駅地下の荘司食堂で時を潰し、九時四十分の特急、二号車。久々で加藤雄策に逢ふ、隣りの寝台。食堂へ、サントリーの十二年をのむ、成程わりに飲める。少し酔って、寝台に入り、アダリンをのんだ。


十月四日(金曜)

 寝台の豆電燈も切られ、真の暗だ。アダリンは飲んだが中々寝られず、夢と現の境も長かった。七時半に起きる。顔を洗ひ、食堂へ行ったら、もう朝食は売切れ、コーヒーも無しとのこと。あきらめてサイダーを飲む。八時四十分大阪着。加藤は競馬行きで、別れ、すぐ宝塚へ向ふ。宝塚から歩いて松楽館へ。早速、絵を描きたい気持で四辺を見る。入浴、風呂場だけは感じがいゝ。宝塚ホテルへ、グリルへ食事に行く。うまかったが、二円半になってコーヒーは飲めなかった。阪急で大阪へ。一時に劇場へ着く。舞台稽古。「活動ロッパ」は、何うも面白くないが、大阪向きかも知れない。


十月五日(土曜)

 北野劇場初日。
 夜中にサイレンがやたらに鳴った。防空演習の千秋楽で、ハリキってゐるらしい、十時起き、宿の朝食、ひどい飯なので情ない。一時近くに、すぐ隣りの宝塚少女歌劇学校へ白井鉄造氏を訪れた、吉岡社長もゐた、皆元気が無い。宝塚ホテルグリルでスープとチキンパイ食って座へ向ふ。電車、大迫倫子の「娘時代」を読む、中々面白い。初日三時半開演、防空演習も終ったからワーッと来るかと思ったが何と五分の入り。「長兵衛」のらず、笑はず。「雛妓」も一つパッとせず、然し泣くには泣く。「活動ロッパ」が、その単純さがいゝのか、水に合って一ばん。来訪永田ガスビル・加藤雄策。ハネ九時近く、加藤によばれ大ぜいで北の新地へ行った、せい/″\面白くなる頃十一時、ポーッとサイレン鳴り、即ち帰る。電車が長い。
 旅のたのしみは、つひに何もなくなった。然しもうグチを言ふまい、そして何か新しいもの、新しい享楽をアミュズメントを探し出すことだ。


十月六日(日曜)

 歩いて労れるせいか、わりによく寝られる。入浴、そして悲しき食事、飲む水にも一寸味があり、朝からのう/\としない。座へ出ると、日曜といふのに六七分だ。「長兵衛」は受け出したが、「雛妓」がも一つピンと来ない、大阪にはこれがちっと辛いのだ。「活動ロッパ」は、低いからよく笑ふ。山野の臭いこと飛び切りの芸に手が来る始末だ。昼、永田光大より白米による松茸めしを貰ったので、スエヒロのビフテキをとって食べる。夜の部、これが又七分だ。心細い、が日曜の客は乾いてゝよく笑ふ。十時ハネ。北の二見迄大庭を連れて歩いて行き、洋食四皿食って又歩いて阪急、宝塚南口から又歩いて帰宿。
 愚痴を言ふまいと決心したが、中々実行出来ない。結局愚痴ってばかりゐる。明日から一つ、グチ無し生活と行かう。


十月七日(月曜)

 十時に起きると、入浴。食事は抜きにして、十二時阪急梅田で、上山・堀井等と落ち合ってガスビルへ、永田氏に地下グリルを馳走になる。味が、此処も落ちた。喫茶部でお茶を飲み、堀井と八階の理髪屋へ行き、理髪する。さっぱりした。それから心斉橋をブラつかうと、タクシーで南へ。丸善へ寄り、歩く/\、どうもまだ夏の如く暑いので汗。ドンバルでコーヒーのむ、渡辺篤と逢ひ又歩く。歩くことに段々馴れさうだ、有がたい。足といふもの、久しぶりで新な役をつけられ少々面喰ひの態である。浪花座の前で、あきれたぼういずが出てゐるので、呼び出し、ニューパレスでソーダ水を飲み、木の実でやきうどんなど食って劇場へ。入りは七分。「雛妓」が、つひに大阪ではピンと来ないと定った。


十月八日(火曜)

 昨日も随分歩いて運動が足りたせいだらう、十一時迄寝てゐた。よく歩くことで身体は益々丈夫になりさうだ。昨日は本を読みすぎた、眼が又赤い。十二時に出る、電車中本は読まぬことゝした。堀井・山野と落ち合って、嘉納さんのとこへ。神戸の大島秀吉といふ親分が来て一杯やってるとこ、まあこっちへ上って一杯やれと、ヘネシーのブランディーを開けて、のまされ、又洋食など馳走になり、帰らうとしても中々離さないので弱った。前科十何犯の、大島親分の話が面白かった。三時すぎに辞して神戸へ。元町を歩く、ブランディーの酔がまだ抜けない。五時の電車。座は今日も七分。ハネ十時一寸前。南のバアへ行かうとしたが、タキシは無いし、結局バスで行き、中野実と約束で飲み、一時の電車で帰宝。


十月九日(水曜)

 十時に起きて、入浴食事、十一時からといふ約束に大分おくれて、宝塚ホテルへ行く。十一月狂言の打合せと、新体制の相談で、菊田・上山・平野・久我と集まる。大阪へ出たのは四時近い、腹が又空いたので上山と南進して、リキーの大雅へ集まり、二皿ばかり食って座へ出る。昼はタキシがあるからいゝ。入りは九分九厘、といふのが七百人からの団体があるので。保険屋さんの団体、これのつまらんこと、全く受けるところが変り、すっかりクサる。森岩雄より電報で、十二日こっちへ来る由、女房より手紙十五日に来る由。


十月十日(木曜)

 十時起き、入浴、少々鼻風邪だ。食事して、日記し、手紙二三書く。平野が来り、一緒に少女歌劇学校へ行く。白井氏不在で、生徒をこっちへ貰ふことなど話すが、全然不得要領、駄目だ。改めて白井氏に話すことにしよう。元町へ、サノヘでネクタイ二本、輸入物だが停止価格で三円九十銭といふ安さ、籐のステッキを――これから大いに歩かねばならぬことで――買ふ、これも十五円ウィンナ製。中華第一楼で食事。阪急の本屋で夢声の「天鬼将軍」を買ひ、まだとても早いが、阪急、大阪へ。劇場へ入り、揉ませる。入り、今夜は八分を越えてゐる、尻っぱねかな。芝居皆によく受ける。ハネは十時一寸前だ。大雅へ直行して、ブラックホワイト、渡辺篤同道。明日十時から試写なので、久々竹川へ泊ることゝして行く。高橋の兄貴がゐて相変ず飲んでゐた。


十月十一日(金曜)

 竹川旅館の朝、入浴して食事、白味噌の汁うまし、こゝの朝食は松楽館より大分ましなり。九時に出て、梅田地下劇場へ、「日本映画史」の試写を見る。小一時間で終る、面白くはなかった。一ったん宝塚へ帰る。宿へ帰ると書生の山本、昨日より腹痛、苦しんでゐる。医者に診せると擬似赤痢とのこと、弱ったもの。手紙二三書いて、宝塚ホテルのグリルへ寄り、又同じメニューのスープとチキンパイを食べて、阪急で梅田へ。座。楽屋へ放送局員来り、明日の放送の稽古をする。今夜も入りはよろしく、八分を超えてゐる。ハネ十時十分前、高橋兄貴より招待され、新町の吉花へ、大庭・石田を連れて行く。高橋いゝのどをきかす。十二時竹川へ一緒に帰り泊る。


十月十二日(土曜)

 竹川へ昨夜から石田守衛も泊り、一緒に起きる、入浴食事して、タクシで放送局へ。どうも鼻風邪が抜けないので、調子も出ず、時々嚔が出る。テスト一回やり、「興亜のぞき眼鏡」上山雅輔作のモダン小咄を放送。それから、高杉・久米・轟・原・藤と石田も共に川口町の天華クラブへ食ひに行く、中々うまいし安い。時間があるので、南へ出て、心斉橋を歩く、大丸で清の玩具を買ひ、そごうで海軍帽を買った。座へ出ると、書生山本は真性赤痢と定ったさうで、松楽館は大消毒、とてもクサい由、又他の書生や僕迄同宿の故に検便されることゝなった、これではとても松楽館へは帰れない、又、清や女房の来るのにも心配故、今夜から竹川へ泊ることゝする。座は入り七分強ぐらゐ。「活動のロッパ」相当受ける、調子大分悪し。


十月十三日(日曜)

 夜中に、ふるひが来た、ゾク/\して身体がぶる/″\ふるへた。こいつは風邪がひどくなったか、夢を見たり、唸ったり、咳が出て頭にひゞく。入浴を見合せ、アスピリン飲み、食事少々。十一時半に竹川を出て座へ。マチネーだ。入りは七分強、調子は鼻にこもり歌などは辛い。食事済んだところへ、突如東京より女房・清と高橋の姉が楽屋へ来た。昨日出した速達が間に合はず、何も知らずに来たもの。松楽館へ打った電報を、宿の方で忘れてたのださうで、大変なさわぎ。清、楽屋をハネ廻る。結局宿は新大阪ホテルといふことにして、荷物を又竹川へとりにやるやら、大さわぎ。ハネて、北の二見へ、食事し、新大阪ホテル八階の一室におさまる。熱八度となり、苦しい。


十月十四日(月曜)

 新大阪ホテル八階、ベッドぎらひが熱あるのに寝るのだから楽ではない。唸りながらもよく寝て十一時起き、平野と、東京から帰った堀井が来てゐた。皆でグリルへ行く。食欲はある。ポタアジュ・ハムエグスと肉を食ひ、冷紅茶のんで室へ帰ると又寝てしまった。三時に起きる、平野の骨折で、土佐堀の京家といふ宿へ移ることゝして、僕と堀井はガスビルへ行く。ガスビル趣味の会、先日の放送をそのまゝ実演といふ趣向、熱八度以上。終へて座へ出る。昨日も来て貰った川村医師に来て貰ったが、肺炎のおそれなどなく、たゞ風邪といふこと。入りは今夜もいゝ。白井鉄造氏来訪。「雛妓」やってるうち、ひどく熱あがった感じ。「活動」は、とても辛くなり、えらいので、済んで、熱計ると九度二分。京家旅館へ帰り、夜食――松茸と豆腐の汁がひどくうまかった。


十月十五日(火曜)

 京家旅館、狭い部屋なので、女房と清は次の間の二畳に寝てゐる。夜中の熱は八度を超えてゐる、うはごとみたいなこと言ひつゞけ。京都の今井泰蔵ドクトルに電話、夕方大阪ホテル迄婚礼で行くから寄って呉れる由。夕刻迄、づーっと寝たきり、朝食に飯を一杯食ったきり。四時頃、大阪ホテル迄平野を迎へにやり今井泰蔵氏来診、これは扁桃腺からの熱だ、注射をたっぷりして上げようと、右腕に。五時近くガスビルへ、昨日の会三十分程やって、座へ。「雛妓」で一寸辛かった。フラ/\する。「活動」となったら又ヘト/\に辛く、九度二分迄又上昇。ハイヤで京家へ帰り、果物食ったのみ、ルゴール塗り首へ氷嚢巻いてねる。


十月十六日(水曜)

 何うも熱が下らない、元気が無い、食欲もない。今日は「活動ロッパ」だけ休演しようかなどゝ弱気になって来る。梨を沢山食ったゞけ、アイスクリームと。午後、轟と原秀がお守りしようとやって来た。(これから後は十一月二日記す)此の日も芝居へ出かけた。そして「幡随院」をつとめ、「雛妓」をつとめて、「活動のロッパ」のみ休演、サトウロクローに僕の役、石田がサトウの役又代りにて相つとめ、僕は宿へ帰ったものである。


十月十七日(木曜)

 マチネー。熱は下らないが、時間に劇場へ入る。入りはハッキリ覚えてゐないが、大したこともなかったやうだ。「幡随院」をやり、「雛妓」が終ると、グッタリ、「活動のロッパ」は、昨夜の通りに、代役でやって貰ふことゝし、楽屋へ床しいて寝る。熱四十度を超える。皆が代る/\来て、休んで呉れと言ふが、いや/\絶対出る。出れば治るよ、を繰り返すばかり。今井氏も来診、杉寛なども来り、休むことをすゝめるので、夜の部休演と定めた。即ち、「雛妓」一本抜いて、あとは皆代役でやり、マル札を客には返すといふことにし、杉寛が幕前で挨拶をした由。


十月十八日(金曜)

 芝居を休む。
 輾転反側――輾転反側、右を下に二十分も寝たかと思ふと、すぐ眼がさめて左を下にして寝てみる。ウーン/\と唸りながら又これが二十分位。これを繰り返して朝迄安眠しなかった。今日も芝居は駄目だと自分で思ふ。食欲無し、葡萄汁一杯。高安博士来診、でんと座って、落ち着いて一席、桑野通子が風邪で倒れた話とか、長々とやり、おもむろに診察。これは当地の真打ちに違ない。中野実が来て呉れたがシビレを切らして退散した。糖尿の検査、大分出てるから注意とのこと。今日より看護婦一人来り附添ふ。ずっと輾転反側の繰返し。ふと自分が洋服箪笥になり、あっち向きこっち向く度に、トビラがガタンピシンと音を立てゝ困るといふやうな気がした。これはカミの何かにあったやうだ。熱八度を下らない。夕方京都の今井氏来診、注射、今井氏も随分考へ込んでゐた。そこへ那波氏朝鮮の帰りに寄ってくれ、北野劇場の浦野も来て、結局此の興行、打ち切り、座員引揚げのことゝ決定。


十月十九日(土曜)

 一日旅館にシンギンしてゐた。若い看護婦が昨日からついてゐる、これが感じ悪く、何となく逆ひたい奴。(ノートによる)おや/\こいつは可笑しいぞ、ふと気がついてみれば高熱ももう一週間つゞいてる、のんきにたゞ苦しい/\と熱の下りることばかり希ってゐるが、これは所謂危篤、少くとも重態らしいぞ。ところが人間あさましいもので熱がこれだけあるし頭もホットになり、あまり喜怒哀楽が無いやうだ。のんびり、死の恐怖に対しても、のんびりとしか感じない。これで身体の苦しみがないと頭の苦しみが強くて死ぬのは辛からう、何となくノンキだが今さう思った。○ハタは何う見てゐるか僕自身では一向危険とは思ってゐないらしい、さもなければ遺言ぐらゐしたくなる筈である。それがまるでない。然し此ういふ半夢幻的状態の中に若し死ねるなら理想的だらう。夢が熱があると、いろ/\変化する、ヘイこれがお目にとまりますればお次何事、といふ風に時間制で次の夢が来るのだ。母上東京より夜着、新大阪ホテルに泊られる。


十月二十日(日曜)

 北野病院へ入院する。
 病院車で、北野病院へ運ばれた。昼頃ださうだ、病院車は、寝てゐて心持がよかった。空が見え、家並の上の方や、街路樹が見える。雪でも降ってゐたら理想的ではないか、そんな心持でゐた。何しろ此の日の記憶は無い。徳山※(「王+二点しんにょうの連」、第3水準1-88-24)が、見舞に来て呉れたのは此の日ださうだ、何だか神妙な顔した徳山が立ってゐる姿が思ひ出せる。父親の不幸直後に、こっちへ歌ひに来たのらしい。吉岡社長が何か力づけてゐたやうだ。看護婦は二人附添ってゐる。尿も大便も寝たまゝ。絶対安静で「面会謝絶」の札が出てゐる。秦豊吉が来て呉れたのは京家だったか、病院だったか――記憶ぼけて分らない。


十月二十一日(月曜)

 何が何だか記憶が無い。皆の言ふところと、ノートをたよりに形だけ日記して置く。朝、京都の今井氏が来診、色々な医者が入れ代り立ち代り、耳をヘンなものでピーン/\とはぢいて、血をとったり、注射したり、寝台車のまゝエレヴェーターで下りて、レントゲン室へ入り、何だか紫色のものが、ぼーッと被さって――つまり色々と病気の名をつけようと探られたらしい。結局チブスの疑ひもなし肺炎も無し、単に風邪といふより無いといふことに落着いたらしい。で、此の日、四階の別館の室に移されたのである。藤山が来たやうだった。夜近くの病室で、ヒステリ女が泣き叫ぶ声が、これは幻覚ではなく、実際だったらしい。何だか曽ても[#「曽ても」はママ]こんなことがあったやうな錯覚を起したり、寝苦しき一夜であった。


十月二十二日(火曜)

 二十二日のノート、熱高きため、とりとめがない。ノートをそのまゝ写す。○寝てゐるかさもなくば何処か一方を見てゐなくてはならない、といふのはやりきれん。部屋の中の線の一つでもいゝのがあるわけがない。いゝ色があるわけがない。こゝが人間の辛いところと分った。○自分は今、木かと疑ひもする。手を見ても足をそっと見ても、一夜のうちに、お伽噺の昔の神の祟りをそのまゝ木となり果てゝゐる。のではないか、木となり果てた身は致し方もないが、それを看護してゐる母上や女房子の姿は何である。大きな材木の胸にすがればトゲも生えてゐよう。○みんなわしを此の部屋に置いて何処へ行って何をしてるか。此の病院の秘密娯楽ホールがあり、そこで昇れ/\といふ棒のぼりのゲームを皆してゐるやうな気がする。○そこで蜜柑が無料のやうだと言って食ってゐるか。さう言へば、皆口を拭って入って来る。
 全く記憶が無くなってゐたが、此の日堀井英一、わざ/″\東京より見舞に来りし由。


十月二十三日(水曜)

(ノートをたよりに逆に日記の整理をして来たが〔十一月二日〕記憶がぼけてゐるのと、ノートも、わけの分らぬことが書いてあったりして、頼りない。明二十四日の頁に、上森が来て呉れ、そして即日帰京したやうに書いたが、実は二十三日に、大阪の林正之助と来り、一日泊りて翌日帰ったものらしい。以下、二十三日のノートのみそのまゝうつして置く。)
 ノート一、
 此うしてゐると不思議なことは、腹が立たぬことだ、兎に角のんびりしてることだ。
 ノート二、
 いけません、まだうまいものは一切いかんです、と夢声が言ってるやうだ。
 ノート三、
 ふと「おしゃく」の時「見えた/\よ松原ごしに」と、軍人が小原節を踊るところで、眼の上へたゞ手をかざしたが、これは望遠鏡で見る形をすればよかったのにな。
 午前九時七度九分。千葉吉造氏来る、新聞見ない方がいゝと言った。上森が大阪の林と来た。夜、京極高鋭現はる。自分の手相が、ガラリと変ってるのに驚く。


十月二十四日(木曜)

 八時に眼がさめる。葡萄アレキサンドリアを食べる。曇天なのと、半分痛む頭とで、気分すぐれない。熱は八度位か。今井先生来診、先づ安心とのこと。とろ/\としてゐると、上森が、がっちりした顔をして傍に立ってゐた、何だかたのもしかった。大阪の吉本、林正之助氏も同道、一寸顔を見た。上森は、夕方迄ゐて、思ひの外よさゝうだから帰るが、十一月は勿論、十二月も一切働かず休養するんだぞ、いゝなと念を押し、帰るぞと去った。大トランク下げて滞在の覚悟で来て呉れたらしい。弘三が夜来た、結婚祝に、先日来買っといた、B&Wを一本贈る。夜食、新大阪のグリルより、マカロニ・グラタンをとりうんと食った。回診の時、沢井先生、何でもいゝからうんと食へ/\と言ふ。


十月二十五日(金曜)

 昨夜の夢は、吉田何三とかいふ文楽の太夫の映画を撮る――これは「浪花女」の影響だらう――そのラヂオ放送もやる、その主役は、何とエドワード・エヴァレット・ホートンだと言ふ、それで何か揉めごとがあり、僕が大阪弁でタンカを切ってるところがあった。朝、本来なら今日で大阪千秋楽の、明日から東京で稽古だな、と思ふ。熱全く無し、五度何分。午前中、成之兄上、わざ/″\東京から見舞に来て下さったのだ。キャメラに、僕のヒゲ顔二三おさめられる。昼食、成之兄も病院の食事、僕はパン、卵、メロン。夕食は、オムレツ、パン、他メロン、果汁。成之兄帰られ、母上も新大阪へ帰られ、さて寝るといふことになると、どうも感じ出ず、弱る。全快したら――と考へてみても、まだ感じが出ない。


十月二十六日(土曜)

 八時ときいて、すっかり窓を開けさせる。昼間ぢっとしてるのだから夜は寝るのが辛い。口を洗ひ、顔を拭く。別府へ行かうかと考へる。汽船の往復が楽しいだらう。午前の回診、ずん/″\快方の由。母上は新大阪泊り、毎朝、こっちへ出勤。女房、森田たまの「随筆歳時記」買って来る。尿はしびん、大便も上向いたまゝ便器にとる、空中へウンコする気持、西洋便所より上のものがあった。夕刻「歳時記」読み了る。所在ないと小さな鏡――誰のかナ、看護婦のらしい――でヒゲ顔をうつしてみる、パッとしない軟いヒゲだが、相当生へてゐる。少々残したくても残りさうもない、たよりないヒゲ。ロイド眼鏡かけると、一寸辰巳柳太郎の何かの扮装みたいだ。
 社長より、今月分の月給届く。もうちゃんと手当が半分になってるのは、当りまへだが、くさった。


十月二十七日(日曜)

 わりによく寝た。午前七時半、口洗ひ、顔拭き。朝食パンと卵一個。頭痛する。プリン一個。近藤光紀、こっちへ絵を描きに来たので、見舞に来た。昼食、オムレツ、パン。熱上らず。渡辺はま子と藤田とが、九州の帰りだとて見舞に寄る、はま子も先月同じやうな病状で入院した由、結局外米の影響ではあるまいかと笑ふ。果物を貰ふ。内田百間の「南山寿」を読みかけるが、憂鬱なのでイヤ。夕方までトロ/\と昼寝。夜食は今日も青木を新大阪迄とりにやる、トマト・クリーム・スープとてもうまく、嬉しい。他、ミニツステーキとマッシュド・ポテト。ロールも美味く、皆きれいに食べてしまった。メロンもうまかった。


十月二十八日(月曜)

 夜中に小便数回、大便は出ずガスのみ盛。七時半眼がさめる、熱は五度九分だ。昨日は日曜で回診が無かった。今日は、それが楽しみだ。新聞が来たので拡げると、パリ/\パリと、下手なトーキーの録音みたいな音がする。弱ってるらしい。やせた、足など骨がクッキリ分る。手首も一と廻り一握り。回診、ちと起き上ってみてもいゝと言はれる。早速起上ってみる、フラ/\頭が定かでない。真山青果全集第一巻「元禄忠臣蔵」が来た、読み出す、すばらしい。午後林文三郎夫妻(新婚)が来り、しばらく話して行く。昼は、パンとアスパラガス他。滝村和男と小国英雄来る、十二月一杯は休むと言ったので「家光と彦左」の撮影出来ぬかと困ってゐた。その後、あきれたぼういずの四人来り、これが帰ると大分人に会ったので労れた。早く寝る。


十月二十九日(火曜)

 朝八時半、寝たまゝ口を洗ひ、タオルで顔を拭く。せめてもの快感なり。「元禄忠臣蔵」を読む。辷り出しのよさは思っても愉快だ、あとはいさゝかの渋滞あり。買ひにやった竹久夢二の「砂がき」が届いた。この方は労れない。回診あり、益々快方の由。今日より寝台より下りて大便する、両手でベッドにつかまり、大した恰好だ。京極、明日帰京するとて又寄り、一人ではしゃぐ。昼は日本間の方であぐらかいて食事、アラスカよりスパゲティとチキン・グリル。パン・バターも届き、うまかりし。京極帰り、「砂がき」を夕暮の光の中で読了る。注射あり、痛し。夕やみに又「元禄忠臣蔵」を読む。母上今日池田の小林一三留守宅へ礼に行って下さった。夜の色となる、寝返りの時、眼まひがする。退院は、もう一週間位の後と言はれる。長いな。


十月三十日(水曜)

 七時半に眼がさめる。口を洗ひ、日本間へ行って朝食。パンと卵。まだ頭がふらつき確りとは歩けない。大毎と大朝が入るので読むが、こっちの新聞は読むとこがない。「都」が来て、ほッとする。回診、沢井先生。糖が出てるから注意。糖分一切排撃しようと決心する。朝日ビルから「少女シリア」と「幸福な家族」を買って来て貰ったので安心して、「元禄忠臣蔵」を読み終る。力作であった。大辻司郎が新興の浪花座へ出るので、藤尾純・柏正子・森健二等と見舞に来た。大辻、すべて間違ったことしか言はず。新大阪の近藤来る、いろ/\世話になる。母上、今朝橿原神宮へお参りされ、帰られた。六時ベッドにつかまりウンコ。夜、武者小路の「幸福な家族」を、光線悪いのに、無理して読んでしまふ。労れた。


十月三十一日(木曜)

 夢多し、昨日読みすぎたか頭が労れてゐる。ステッキついて、フラ/\と歩く姿、鏡にうつりて、我乍ら滑稽なり。読書は労れるから、なるべくぼんやりしてるやうにつとめる。母上、帰京される。午後回診、快方、注射も今日から一本となる。糖も食餌性らしく、食後でなければ出ない由。ヒゲ剃り断行、ヴァレーでジョリ/″\、鼻毛も切り、ヘチマコロンつけて、さっぱりした。ステッキついて病院内を歩いてみる、その姿あはれ。部屋へ帰り、労れて少し寝る。「少女シリア」を読む、どうも翻訳は食ひつき悪く捗らない。昼食は、あっさりにしたので、夕食は青木が新大阪まで取りに行ってるの待ち切れぬ空腹。ポタージュ、ウインナ・シュニツェル、ロール。
 竹川より女房に電話で、英太郎が来ての曰くに、俳優協会や、猿之助その他が電報で見舞を出したのに、何の返事も無いとて、奮概してゐる向きあり、生駒なども生意気に尻馬に乗ってるらしいとのこと、腹の立つことだ、放ったらかしとけと言ふ。
[#改段]

昭和十五年十一月



十一月一日(金曜)

 午前六時、小便で眼をさますと、そのまゝ起きる気になり、立って口を洗ふ。腰かけて朝を味はふ。「少女シリア」を読む、あまり面白くない。清、起き出でゝ元気、少し遊ぶと、くたびれる。絵が描きたくなり、絵具を出させ、病室をスケッチする。うまく描けない。回診、昨夜の尿も食後のは糖が出てゐるから、調理食にしようかと言はれ、憂鬱になる。腰かけて花をスケッチしてゐると、古賀政男と清水が来訪、京都で録音の仕事があるので来た由。見舞に花を呉れた。廊下を散歩し、目方を計ると十八貫五六百しかない。夕方、東宝の杉原、植村社長よりの見舞の品持参、「家光と彦左」の台本一冊置いて行った。久しぶり日記、今日の分だけつける。手が思ふやうに動かない。長谷川一夫より菊一鉢(懸崖)、贈らる。


十一月二日(土曜)

 八時迄寝た。窓ぎわに腰かけて煙草一服。日記の整理にかゝる。入院以来のノートをたよりに、日記つける。回診、明日から調理食にして、もう一週間尿の検査といふこと、半がっかりする。柳が来訪、いやだが会った。中々帰らない、まるで何時迄もゐて苦しめてやると言ふ風に、大抵いら/\する。十二時半すぎ漸く帰った。昼食すませると、笹川るり子が花を持って見舞に来る。二時に、エレヴェターで下へ下り、心臓をエレクトロカルヂオグラムといふ機械で診て貰ひ、部屋へ帰ると、俵藤新国劇が見舞に来り、つゞいて京極の父親。又日記してると竹川おかみさんが来た。「家光と彦左」の台本読む、小国英雄近頃の傑作だ。家光主演かと思ったら全く大久保の方が主役である。今年中に撮る気だったのだが、これも断はってしまった。日記しすぎたせいか六度九分近く出た、少々心配。


十一月三日(日曜)

 七時に起き、口を洗ひ、顔を拭く。早く風呂へドップリと浸りたい。足などカサ/\になり、汚い色をしてゐる。朝食、問題の調理食が始まる。ビーフ・エグスとパン、牛乳。何とも味気ないし、腹も張らない。平野が東京より来る。話してるうち、くたびれたのでベッドへ入る。平野一旦帰り、女房買ひ物に出かける。昼寝一時間ほど。窓外の景色をスケッチする、どうもうまく書けず。昼は、やはり調理食。五時に調理食、とても量が少くブツ/″\言ひ乍ら食べる。骨ばなれがするなんて言葉は、うまいことを言ったものである。一日、調理食といふ奴を食はされ常に半空腹のまゝ居ると、ぼーッとして元気が無くなる。つく/″\食ひたいと思ふ。赤痢全快山本八三父子が帰京するとて来た。夜に入りて、近藤光紀・画家の伊藤君見舞。片岡千恵蔵と、映画世界の小倉が各々花・果物を持参、八時近く迄喋って行った。本日、「河竹黙阿弥」読了、堤千代の「小指」にかゝる。夜、読終る。
 芝居生活に入って九年目、初めての大患。やれ辛い、仕事のこと一切頭から離して、ぼんやり休養することだ、今年一杯はさうしようと、自分でも思ふところをみると、つまりはこれ日頃のつかれが出たといふのであらう。又、何これしきとガンバリ通すには年とり過ぎたのであらう。沢正も三十八で、初めて患って初めてガンバって、死んだのだ。少しは、身体をいとふことを覚えねばならぬと思った。


十一月四日(月曜)

 寝足りて朗かだ。朝食、調理食、量が何うにも足りない。平野が来て、女房と京都の今井泰蔵氏のところへ礼に行くとて出かけた。読書のノートを書いてゐると、高橋の兄貴が来た、話してると大辻と蝶花楼馬楽が現はれ、又そこへ喜多村緑郎と竹川が見舞に来り、やがて皆一斉に潮のひくやうに帰ってしまった。回診。食事の量殖して貰ふやう、コーヒーを飲むことも頼んだ。一時頃、島田正吾見舞に来る、一時間ほど話して帰った。新刊二冊呉れた。サッカリン入れてコーヒー飲む、恐るべき不味さ。三時、病室内の浴槽へ、久々何日目かの入浴、――何日目であらう、何と湯に入るといふことは、こんなにいゝ心持のものか。快哉。頭髪を洗ひ、島田の呉れた「池の素描」を読む。夕食、又々情なき味。


十一月五日(火曜)

 調理食の量が倍加した。風呂はやめて、ヒゲ剃りを行ふ。ポマードつけ、今日は午後外出を許可されたのでその準備だ。午前中回診、注射。九日には退院出来る。沢井先生と話し込む。糖についてきく。自由になったら中々糖征伐は難事なり。手紙、母上へ、何日ぶりかで手紙といふものを書く。昼食、腹一杯食ふ。英太郎夫妻見舞に来る。専ら此の人等の関心事は俳優協会のことらしく、そのことばかり言ってゐた。三時近く、久しぶりで外出、支度してゐると清川虹子が花を持って見舞に来たので一緒に出かけ、阪急迄歩いて別れると、平野と二人で阪急の社長佐藤氏と岩倉氏のとこへ礼に行く。帰りは佐藤氏の自動車で送って貰ふ、外出約一時間。久々で靴をはき、ステッキ持って歩く、身体全体がクスグったい感じ。疲れて病院へ帰ると京宝の小田進康見舞、夕食又はかなき味。「少女シリア」を読了。手紙三通ばかり書く。
 エレクトロカルジオグラムによる僕の心臓写真を見ると、やはり心臓が少しばかり弱ってゐるさうだ。


十一月六日(水曜)

 夜半四時、病院の芥溜から煙が出て、病室にも入り、廊下でガヤ/″\騒ぐので眼がさめた。七時半起き。調理食の朝飯が済むと、手紙。川端康成の「浅草紅団」を読み了る。つまらない。昼も、はかなき食事。見舞状の返事、森岩雄・長谷川一夫その他書く、疲れた。何しろ同じ内容を書くのだからつまらない。メイコちゃんへ片仮名絵入りを書いて救はれた心持がした。あとは殆んど同文だ。尾崎一雄の「夢ありし日」にかかる。回診、尿は此のところ糖出ずとのことなり。京都の玉木潤一郎が、見舞にと白米のすしを持参、例の大声で語ること数刻、引揚げた。夕食すませ、平野と女房同道で北野劇場へ。吉岡社長がゐて暫く話す、俵藤氏や、北野の浦野・山岡にも礼。楽屋へ、島田をたづねて礼。客席へ廻って「解決(おとしまへ)」といふの一つ見る、暑いのもこたへてひどく疲れ、タクシで九時に病院へ帰り、すぐ寝る。
 発信控へ
 十一月五日
上森子鉄 橘弘一路
 六日
加藤成之 京極鋭五 加藤常子 友田純一郎 菊田一夫 屋井宏之 坪内士行 森岩雄 山田伸吉 増田七郎 近藤光之 上沼健衛 中村メイコ 長谷川一夫


十一月七日(木曜)

 何となく疲れてゐる。昨日手紙を書き過ぎたのと外出が応へたか。何とヤワな身体となったものだ。嘉納健治氏令嬢見舞、先生より見舞金百円。手紙七通書く。九日退院だ、九日の中座の新派の切符、十日の文楽と買はせる。入浴。「夢ありし日」を読み上げ「レベッカ」にかゝる、翻訳物は「少女シリア」でこりたが、これは少し面白さうだ。ビクターの青砥道雄、高橋兄貴来る。夕食は久しぶりで飯が出た、鯛のさしみとしたし等、飯を丼に一杯食った。夜、加藤弘三夫妻、近藤泰来る。泰は銀行づとめの愚痴をこぼして十時頃迄居た。さて寝よう。今日の回診、京大の真下先生といふ人の診察だった。夜、目方計ると、十九貫一寸に復活してゐた。
 発信控
沢田由己 水の江滝子 阿部玉枝 山根寿子 寺木定芳 月野宮子 斎藤豊吉


十一月八日(金曜)

 午前中は「レベッカ」を読み、又手紙を数通書いた。昼頃平野が来た、昨日京都の今井さんの払ひをして来て貰った、二百七十円ばかり、それから此の病院の先生方に百円宛二人礼をする、その他中々ものいりである。此の患ひで二千円ばかり飛ぶ。命拾ひをしたのなら安いものだ。一時半にタクシーをよび、礼廻りに平野と。松竹本社の千葉吉造氏のとこ、これが朝鮮出張中、吉本の林正之助氏へ行くと上京中、ガスビルの永田氏のとこへ行ったら留守、三ヶ所ともフラれた。病院へ戻ると入浴、「レベッカ」上巻読了、「少女シリア」よりよほど面白かった。夕食、パン、空腹にまづいものなし。夜、女房使ひに出る、手紙数通書く。小穴隆一の「鯨のお詣り」読み出す、新大阪の近藤が一寸酔って来り、ごちさうを置いて帰った。さあ明日は退院なり。
 僕の入院した時の顔色、目の具合が看護婦連の目から、「やれお気の毒な、もうあの人も駄目だな」と見えたさうだ。大てい此の予感は当るのださうで、意外に早く治ったので皆驚いてゐるのださうだ。
 発信控
小国英雄 滝村和男 三益愛子 川村秀治 伊藤松雄 正岡容 太田一平 山野一郎 上山雅輔 中野実 渡辺篤 サトウロクロー 大庭六郎 石村宇三郎


十一月九日(土曜)

 退院――新大阪ホテルへ。
 七時に起きる、今日退院だと思ふとジッとしてゐられない気分。午前中石田先生回診、もう大丈夫いつでも退院していゝと言はれる。沢井先生に糖尿の食物注意書を貰ひ、注射が済むと、荷物片付け洋服着て自動車を待つ。平野も来て、新大阪ホテルへ。女房・清と荒井同道。新大阪の日本間へ落つく、ホッとした。清、久々の畳でハリキリ、匍ひ廻る。思ひついて下の理髪へ行き、理髪する。四時、グリルへ。ポタアジュとビフテキ、コーヒーに砂糖少々。中座の新派見物。女房・平野同道。桟敷で見物。「恋すてふ」の終りに楽屋へ、英のとこから喜多村のとこへ、礼に行く。奈落を通るので、クタ/\になる。九時迄見て、かどやへ寄り、ポタアジュにオムレツ、クリームチキン。新大阪へ帰り、疲れて寝る。


十一月十日(日曜)

 八時半に起きる。バスに入りヒゲを剃る、蒸し暑くて朝の気分快適ではない。朝食は和食といふ奴を部屋へとる、ひどい飯で驚いた。観劇日記つけて、女房と出かけ、朝日ビルの本屋で新刊二冊買ひ、此処の古本屋をたのしみにしてたのに休み。二千六百年奉祝日で賑はってる。竹川へ礼に寄る、丁度近衛首相のラヂオ。心斉橋を歩く、大丸などへ入る、汗が出て、又疲れたので、引返す。寒くなった、マスク買ふ。ホテルへ帰ると横になり、ウイスキーを少し飲む。京都の炭屋のお清さん、鈴木久五郎等来訪多し。昼間は、グリルで、プチトマルミット、オムレツクレオル、コールミート。四時頃出て、文楽座へ行き、生れて初めて人形浄瑠璃を見る、中途で出て、南一食堂で食事、日本食飯一杯。又引返して九時近くダットサン円タクで帰る、あゝ甘いもの食ひたい、ドラやきの夢を見さうだ。さ、明日帰京。


十一月十一日(月曜)

 大阪――帰京。
 さ、いよ/\帰京だ、嬉しい朝だ。十時にグリルへ行くと、まだ定食しかなし、オートミール、オムレツ等。ロビーで清と遊び、平野と又十一時にグリルへ、ポタアジュとミニツステーキ。十二時半にホテルを出て大阪駅へ。つばめ十号車、一等でゆったりだ。清大元気。結局武田麟太郎の「薄化粧」と鉄兵の「東京の暦」二冊読んじまった。五時に食堂、お軽少なのでビフテキを追加する。さて寝てみてもねられない、退屈する。さうそ、京都駅へ今井先生、鏑木と満芸の何とか常務が出てゐた。九時東京着、意外に出迎へ大ぜい。すでにうちの車は無し、メイタクで帰宅。やれ、わが家のありがたさ。しゃがんでウンコし、パンを食ひ、入浴しドップリ身体中浸る風呂うれし。そして久々のわが蒲団のよさ。三宅周太郎「文楽の研究」読み始める。


十一月十二日(火曜)

 八時に眼がさめる、まだ風呂が沸かないので床へ入って待つ。九時入浴、快適だ。朝食味噌汁で飯、サッカリンで大根を煮たら甘すぎて食へず。お薄を飲む。アンマ来り、揉む。一時半に昼食、パン、紅茶サッカリン入り。机辺の整理してると、橘夫妻と友田純一郎が、全快祝ひにやって来た。橘より花を貰ふ。ところへ下二母上が、一人でゐらした。橘等帰って、下二母上と暫く話す。三時、省線で渋谷へ。中井駅から。あゝ自動車の無い辛さ。マスクをしてるのであまり人には気がつかれなかったが、押し合ったり、身体がすれ/\になるのがかなり辛かった。渋谷の東横へ。今日千秋楽で、ロッパ軽喜劇隊のアトラクション「母と兵隊」を見に。楽屋に皆ゐるので行く。病院の話などで暫くは喋る。六時からのアトラクションを見る、一寸面白かった。歩いて石川亭へ。洋食たっぷり食ふ。タクシを拾い、小滝橋まで三円で帰る。「文楽の研究」読みつゝ十一時半頃寝た。


十一月十三日(水曜)

 入浴、朝食は抜き、十時に出かける。省線、中井から有楽町まで、小一時間かゝる。省線の中で読書出来るが、周囲の不潔さには参る。移転した東宝本社、(又もとの日劇五階)那波・秦・渋沢とゐて、礼を言ひ色々話す。十二時に、菊田・斎藤・平野・上山と揃って呉服橋の井上へ。正月の出し物決定。丸善へ寄り、バスで銀座へ、バスも実に辛い。三昧堂で新刊四五冊。東映本社へ、森岩雄・滝村和男両名ゐて、話は色々とはずむ。滝村が、僕の最近の酒は体にさはる筈だ、つまらん/\と言ひつゝ怒ってのんでるから。と言ったがこれは当ってるかも知れない。四時近く迄ゐて、銀座でメイタクを拾ひ、帰宅。どうもまだ身体本復しないか、ヘンに疲れたりする。「文楽の研究」読了。
正月の四狂言
一、母と兵隊 佐々木邦作
二、嫁取りアルバム
三、ロッパの開拓者
四、日本の姿


十一月十四日(木曜)

 九時半起き、入浴、朝食して十時半に出る。内幸町へ出てコロムビア本社へ、武藤・松村共に留守なので辞し、文藝春秋社菊池氏に置き手紙。築地明石町の市川猿之助邸へ、電報で見舞を呉れた礼に行く、旅へ出て留守、段四郎夫人もとの高杉早苗が出て来たので礼を述べ、今度は明舟町の市村羽左衛門邸へ、これが又留守、名刺を置いて来た。永田町の橘のとこで車を返す。橘に新体制の愚痴をきく。女房や清も後から来り、今夏大仁のホテルで橘が撮った八ミリを見せて貰ふ。清の風呂場の活躍が見ものだ。夕飯は、渋谷の石川亭へ橘夫妻を連れて行く。うまいのと安いので驚いてゐた。又橘家へ帰り、二十一を九時半迄やり、タクシーで送られて帰る。床に入って「キネマ旬報」廃刊号へ四枚書く。


十一月十五日(金曜)

 朝食して出かける。省線で上野まで。大庭が迎へに出てゝ、浅草へ行く。上野からメイタク、浅草公園は歓楽区域とあって遠くで下ろされる。笑の王国・常盤座の楽屋へ。生駒・関・泉・河辺など見舞を呉れた連中に礼を言ひ、ヴァラを見る、中々面白い。東久雄に会ふ。それから、そこで会った屋井と大庭で銀座へ出る。道八しるこ屋へ入る、山野がそこに待ってゝ、しるこ屋では僕は何も食へない、すぐ出て、八州亭へ入り、スープ、コロッケ、ポークチャップと食ひ、ホワイトホースを飲む。(これは屋井の取り寄せたもの、銀座は既にウイスキー一杯五十銭となりたるため、外国品一切売るところなし。)ほろ酔ひで又一軒、さくまといふおでん屋へ。ひらめのさしみと湯豆腐を食ひ、メイタク拾って帰宅、銀座より小滝橋まで五円也。清としばし遊んで寝る。


十一月十六日(土曜)

 十時起き、入浴、朝食、金子姉近処へ引越したので来てゐた。日劇五階の事務所へ行く。会議室で、正月公演の狂言決定の会議、第二に据えた「嫁取アルバム」農村物なので、その代りのものを相談、仮に「新婚アルバム」として、もっと練ることにした。上山と二人で、思ひ立って二時すぎに、新橋演舞場へ、ターキーを見に行く。これを見てゝ正月の僕の書くヴァラについて、やっぱり甘いものをまぜなくてはと感じた。ターキーの人気盛。日劇の新しく出来た第一食堂へ行き、ロシヤスチウを食ふ。それから有楽座へ。僕休みのために、金語楼劇団が出てる、うちの渡辺・高杉・杉を貸してるので、楽屋へ一寸寄り、それから彼等の芝居を見て、ホテ・グリへ寄り、軽く食事し、メイタクで帰る。有楽座の金語楼劇団を見て、まだまだレヴェルを下げねばうちは高級になりすぎてゐると思った。「すゐかづら」読了、「レベッカ」下巻五十頁読みて寝る。


十一月十七日(日曜)

 今朝は十一時迄ぐっすり。入浴。金子恭夫妻が来てゐるので、少し朝食をのばし、一緒に昼食にする。ブラック・エンド・ホワイトを金子兄と三四杯宛傾ける。ゆっくり食事し、清の遊ぶ態を見て皆で笑ふ。金子夫妻が帰ったのが三時近く。「レベッカ」を読み出す。金子姉も、先日渋沢秀雄も近頃こんな面白いものは無かったと言ってゐる、それ程とも思はぬが、まあ面白い。六時すぎ入浴、食事。部屋へ帰り、「レベッカ」にかゝる。面白いので、九時近くに読み終る。それから菊田一夫が満洲へ出発するのを送りに九時半すぎ家を出る。省線で読書しつゝ行く。菊田を十一時の汽車で送る、高松宮様も旅立ち、お辞儀してたら、前を通って笑はれた。十二時に帰宅。


十一月十八日(月曜)

 食事して、上森その他二三電話かけようとしたが、一々出なかったり、留守だったり、癪にさはってたまらない、わがまゝかも知れないが、ドナリつける。こんな事に腹が立つのはあたりまへ、立たん奴は何うかしてる。もう電話はかけたくない。さんざ腹を立てた揚句、歩いて中井の方へ行くと、女中が追っかけて来て、上森から電話、それで又引返す、機嫌ます/\悪い。今度は円タク拾ひに出したが無い、もう/\八の字が深くなり、物も言へず、出かける。怒り出すと自分でも何うにもならぬ、一種の馬鹿には違ひない。省線で高田馬場へ出て、メイタク、橘の家へ。雑誌の統制について詳しい話をきく、橘は中々偉くなった、衣食足って礼節を知ったわけ、田中三郎のことを大変心配してゐる、明日上森と此の話をする約束。六時、ホテ・グリで食事、サントリー十二年を飲む。銀座のバア、カザノヴァから築地とき本へ。


十一月十九日(火曜)

 伊藤松雄訪問、愚談数刻の末、ふと岡本一平の名が出たので、正月の二の狂言を、岡本一平原作にしようと思ひ立ち、伊藤が引受けたので依頼。タクシーで三時橘の家へ行く。六時の約束を大分早く行ったわけ、橘は出かけたので一人、「フランス敗れたり」といふ単行本を、火燵にあたり乍ら読んでしまふ。上森が来り、橘と三人で築地とき本へ。橘から今回の統制の抑々から、田中三郎が頑固といはうか何と言はうか、損のを引きたがり自ら泥沼へ落ちんとしてゐる状態を説明があり、橘へ申込んだ借欽二万円を如何すべきかといふ話になった。二人共すっかり気持が合ひ、涙を浮べて握手し、この上少々の金を注ぎ込んでも駄目だから、一旦突放すことになり、将来は必ず田中三郎のためにその金を出さうといふことで手を打ち、九時半帰る。僕、橘へ寄りタクシで送られる。


十一月二十日(水曜)

 伊豆山へ。
 今日は伊豆山へ行く日。一時三分の大垣行で熱海まで。女房・清と向ひ合ひの席とれたが途中から混雑二人がけとなる。広津和郎の「愛と死と」を読む。三時半頃熱海着。迎への車で相模屋へ。海を見晴す蓬来の部屋へ落ちついてホッとする。一休みして入浴、ローマ風呂といふのへ入る、清大喜び。浪の音をきゝ乍ら、ラヂオのスヰッチを入れる、ラヂオなんてきくのは何年ぶりだ。ニュースが、録音を利用して巧みなことをやるのに感心。一人で千人風呂、湯滝満喫。早く床を敷かれちまふ、進藤誠一「フランス喜劇の研究」を読み出し、あまりいゝ本なので昂奮する。
(今日体重計ったら十九貫やがて二十貫位だった。)


十一月二十一日(木曜)

 九時起き、地下のローマ風呂へ。朝食、森岩雄氏来訪。清盛にあばれる。子供といふものは急しいものだ。かゝり切りになってゐたら何も出来ない。森氏と、来年度のこと、東宝との契約、東映との話――東宝へは八月有給休暇をとりたき事の他大体今年通りでいゝとする。東映とは三本定め、他にニュース的短篇の企画をする。昼食、宿のパン、紅茶に、森氏お持たせのローマイヤのコールチキンとハム等。二時頃迄話して、熱海ホテルへ帰られた。五時、女房・清は熱海の町へ、それを送り乍ら森氏を訪れる。吉本の林弘高が来てゐて、一緒に食堂で食事。


十一月二十二日(金曜)

 十時近く迄寝る。今朝は寒い。朝食、何とも味気なし。それから読書ノートの整理で、肩をこらせてゐると、もう昼だ、パンを食べる。二時にアンマが来り揉む。入浴、湯滝の温度ひどく冷いので、熱くさせる。夕刻迄に「フランス喜劇の研究」読み終る。熱海の小沢氏に電話、俵別荘の方へ炭・米を届けて呉れるやうに頼む。夕食頃、東京より俵別荘掃除に女中なほが来たので、清を預けて女房と二人、静かに食事。熱を計ってみると七度、まだ快復しないのかとくさる。地下のオパール風呂へ入り、部屋へ帰り手紙二三。「フランス喜劇の研究」のやうないゝ本読んだあとは、くだらぬ本読む気出ず。


十一月二十三日(土曜)

 九時に起きて、清とローマ風呂へ。湯上りコーヒー一杯。絵を描かうと思ふのに今日も曇りで、此の色はむづかしい。道具を出して海の方を睨み、描くが、どうにもならない。清のチョコ/\歩く姿をスケッチする、これが中々面白い。ひょっこり南部僑一郎が来た、あまり歓迎の客ではない。入座のこと断念させるやう話し、十円渡して、三時頃の汽車で帰す。又スケッチブックに向ひ、曇天の海と戦ってゐると、又、東宝広告部の平田といふ男が、泊り合せたと言って乗り込んで来る。機嫌よくない。これが帰ると湯滝へ。どうも食欲無し。夕食、一杯しか食はず、宿の飯が悪いのらしい、女房も胃のあたり具合わるしと。夜、手紙、上森・今井・山伸・川村・武智豊子(見舞の礼)ハガキ井口静波と久我進へ書く。夜「天の夕顔」読み出す。


十一月二十四日(日曜)

 今朝は何とよく寝て、十一時半まで。咽喉も少々いけない、保養に来て風邪ひいてれば世話はない。朝昼兼帯食、パンにさせる。此の宿の食事も、一時はうまかったものだが、先々月あたりから旅館新体制で、値段の制限があるらしく、ひどいものになってしまった。ふと北野病院の調理食が恋しくなったのだから、よほどのことであらう。女中も飯の悪いのを気の毒がり、夜は白米を食はせると言ふ。それはたのしみ。「天の夕顔」読了、ノートする。アンマをよび、下だけ充分やらせる。夕食、久々で白米を焚いて呉れたのは嬉しかったが、おかずが今日は肉なしだとて、ろくすっぽなし、でも二杯半食ふ。夜はラヂオ。ラヂオドラマの「黄金の波」といふのがよかった。風邪気故、朝一回入浴したきり。
 手紙、高橋善郎・正岡容。那波光正・渋沢秀雄。
 ねる前に宿で造って呉れたポンス(これにもサッカリン)をのむ。


十一月二十五日(月曜)

 九時起き、ローマ風呂へ。清、元気ボチャ/\。部屋へ帰り、涼むとすぐ蠅たゝきでピシャリ/\蠅をとる。今日は晴天、画伯ハリキる。朝食パン少々、早速絵描きにかゝる。どうも海はむづかしい。間々に清をスケッチする、此の方がうまい。十二時五分、うちの渡辺篤以下が放送するので、スウィッチを入れると、今日は西園寺公薨去のため中止、皆がっかりしてるだらう。母上がやって来られ、昼食はお土産の中村屋のカレーパン二個のみ。午後も専ら絵を描く。それから蠅とり、今度はガラスの長い管の蠅とり器でとる。
 ガラスの長い管
 此んな蠅とり器で、首が痛くなるが、中々面白いスポーツである。この棒を持って、天井をにらんでゐる光景は一寸嬉しい。清母上に抱かれて散歩。夕刻上山雅輔来る、夕食を共にする、然し食ふもの殆んどなし、情なし/\。皆で千人風呂へ入り、清と遊ぶこと数刻、又蠅をとることなど。発信、永田将紀・嘉納健治・古賀政男・徳山※(「王+二点しんにょうの連」、第3水準1-88-24)。上山別室に泊る。


十一月二十六日(火曜)

 九時半起き。鼻風邪が抜けず。上山も起きて一緒に食事、東京からの生卵、上山持参の海苔、それに橘から京都三島の肉の佃煮が着き、白米の飯で久しぶりにうまし、三杯食った。上山と脚本その他打合せ。昨夜滝村に今日の正午―一時頃に電話しろと言っといたのにかゝって来ないので、ゴロ/″\したり、又蠅とりしたり。四時近く迄待っても電話来らず、上山も一緒、母上・女房・清とでハイヤで熱海へ出る。養鰐園へ行き、清に鰐や猿を見せてゐると、柳家三亀松に逢ふ。上山を駅迄送りハイヤで伊豆山へ帰り、清とローマ風呂へ、熱海で買った二十五銭の金魚掬ひの玩具大いに気に入り夢中で遊ぶ、これは安かった。八時、もう床を敷かれちまひ、さて床へ入ったが、いゝ本も無くて、書くものもないし、莨でものむか。ところへ突然都新聞の日色が写真班と来り、明日写真とらせろとのことで隣室へ泊る。そこで十二時半まで話し込む。


十一月二十七日(水曜)

「都」の日色・写真の寺岡二人も起き出でゝ、一緒に朝食。食後、「都」の写真、清を抱いてるとこ、絵を描いてるとこなど撮す。明日熱海俵別荘へ引越の筈だが、そっちから電話で温泉が節電のため時間制となったとのことで、大がっかり。女房と清は寺岡写真君と海岸へ下りて盛に撮して貰ふ。十二時すぎ、日色・寺岡とでワニ園へ行き撮影し、町の方へ、箱根グリルの二階で、お定食、三時近く両名帰京、一人で熱海宝塚劇場へ「燃ゆる大空」二時間近く見てると眼が疲れたので出る。電話で打合せ、熱海ホテルで母上・女房・清と落合ひ、寒々としたホールで六時迄待ち、食事。貧弱なメニューだが、デザートの甘いスフレがとても美味かった。食後すぐ帰宿。清、大いに歩く。今日より大分寒いので蠅が全くゐない。久しぶりで湯滝に当る。
 母上が清の守をして下さる、ふと口づさまれる歌が面白かった。
おけらの虫は
うじゃこい虫で
雨さへふれば
もぢゃ/″\/″\
といふのである。


十一月二十八日(木曜)

 伊豆山――熱海。
 清と入浴、荷物を片付け、勘定を済ませる、八日間三百五拾四円余、ちと高い。此う不味いものばかりで、これは高い。二時頃、熱海市西山俵山荘へ着く。別荘内は俵叔母上の在世当時通りにしてあるのが床しい。先づ入浴する、此処の風呂は家庭的でいゝ。時間制といふのは嘘か、湯どん/″\出てる。タオルで鼻の穴を掃除しても、少しも黒くならない。これだけでも保養になるわけだ。二階の机の前へ座り、荷物を配置し、落ちつく。伊豆山と違って、ひどく仕事向きだ。階下の火燵で「風流記」を読み、清を遊ばせる。飛行機/\と蒲団にのせて女房と二人で持って歩き草疲れる。夕食、久々で家の食事、漸っと人間らしい気持になる。七時頃、加藤弘三夫妻川奈の帰りだとて寄り、重箱から鰻とり、食って風呂へ入って八時半帰った。十二月一日入営の由。明日平野来ると電報あり。


十一月二十九日(金曜)

 朝食、久々のうちの味噌汁。紅茶のんでると平野が来た。滝村から杉狂児のことを頼んで来た件、石井漠の件その他。一緒に又風呂へ入る。清に土産の兎と虎の玩具で遊び、二時すぎ、母上・平野と熱海銀座へ出る。急な坂を下りるので足がガク/″\する。平野と二人になり、熱海宝塚劇場へ浪花節映画の「闘ふ男」と前進座の「大日向村」を見た。共に面白かった。出て清の玩具を買ひ、山王ホテル。母上と落合ひ、三人で夕食。ホテルも暇と見え閑散な感じ。食事はまあ/\だが、サービスゼロで、スープより前に肉を出したり、まだ食ってるとこへ次の皿を並べたり、しようがない。食後平野は帰京し、タクシで山荘へ帰る。清入浴中なのですぐ入り金魚掬ひで遊ぶ。つまり今日の一日なんていふのは、言ってみれば何もしない一日なのである。これも中々むづかしいものである。


十一月三十日(土曜)

 九時起き、昨夜雨の音をきいた、それもかなりのヘヴィーレーンだったが、実は河瀬の音だった。俵叔父・信次のところへ此別荘を借りてる礼に、俵別荘の入口をスケッチし、ちょいと絵具塗って出す。女房昼すぎから一人で買ものがてら活動を見て来ると出かけた。二階で手紙数本書く。伊藤松雄より原稿出来たとて送って来た。岡本一平原案のもの。何うもつまらないのでいやんなった。まあ使へるとこもあるが、斎藤豊吉でも呼んで書き直しだ。夕刻、くらくなる迄絵を描く。小学生が歌ひながら通るのをきけば、
わたしやおまえに
ホーレン草
早くおよめに
干し大根。
 女房、町から帰る。食事、マカロニをふんだんに食ふ。アンマを呼び、ラヂオきゝつゝ揉ませてると、清が火燵のやぐらに衝突、左眼のワキを怪我した、大したことではなかったが、びっくりした。九時半入浴してると、玉久旅館に、東宝重役連が来てるからと迎への車。那波・渋沢・三橋・日野・安藤とゐて、サントリー十二年などあり、カレーうどん食って秦が東京から着いたのと入れ代りに、明日を約して帰る。
 発信控
俵国一 俵信次 加藤清比古 東久雄 京極高鋭 山野一郎 森田たま 川村秀治 日色恵
[#改段]

昭和十五年十二月



十二月一日(日曜)

 九時半起き、入浴してると、玉久旅館から使ひ、僕が午前中に行く筈のを、中止して呉れとのこと、新社長・専務等集まって、新体制会議と見える。朝食パン。二階へ上り画材を探すが、此の画家外へ出ないで居所ばかりで探すので、もういゝ所が無い。昼すぎ、母上・女房・清で来宮駅から熱海へ出る、熱海駅長に一寸敬意を表しに寄り、バスで一休庵迄行く、その混み合ふこと、漸っと辿り着くと、一日は定休。おかみさんやなじみの女中が出て来て気の毒がる。仕方ないので、山王ホテルで、ポタアジュ、オムレツ、ビフテキ。銀座通りで買いものして、山荘へ帰ったら、湯が出ない、がっかり。伊豆山での清のスケッチを絵葉書に描く。夕食後、町で買った夢声の「閑散無双」を読み、片耳にラヂオをきゝ、毎日愚劣なものばかりなので腹が立つ。殊に牧野周一の漫談不可。「閑散無双」読了。


十二月二日(月曜)

 母上が帰京され、石井漠氏が東京から来るといふ日。一時何分に来の宮へ着く汽車あり、それで石井氏来るかと、下駄つっかけて来宮神社のへん迄下りてみたが風が強いばかり。母上帰られる、二時。石井氏を心待ちしつゝ、秋村童二の「カナリヤ奇談」。三時何分に又、出てみる、これが又無駄。待ってるって奴は、やりきれんものだな。然し此うなると意地になり、又四時半頃も出てみるが、来ない。あきらめて入浴。それでも五時半の汽車迄食事を待ってゐると、電報「イシイシケフユケヌアスユク、ヒラノ」やれ/\。待ちぼけだ、ウイを用意して待ってたので、一人で飲み出す、すぐ御機嫌となり、八時頃もうねむい/\と二階へ上り、サッサと寝てしまふ。何と今日は何もしない、たゞ待ちぼけであった。
 発信
徳川夢声 正岡容 山田伸吉 瀬川與志 伊藤松雄


十二月三日(火曜)

 七時半に眼がさめた。散歩でもしようかと思ったが寒いので床の中で湯が一杯になるのを待つ。朝食後スケッチブック持って外へ、ほんの近処二三スケッチして帰り、二階で色をつける、無精な画家。昨日スッポかされた石井漠氏昼すぎると気になる。待つのは馬鹿々々しいから忘れてゐようと思ふが、つひ待つ。火燵にねころんで長谷健の「火のくにの子供」読み出す、中々来ない、二時三時――。意地になって読了。そこへ電報、又スッポかされたかと思ったら「五ジ三一プンアタミエキツク」。熱海駅迄迎へに。石井漠同行の長瀬直諒の二人と一緒に入浴し、いろ/\話し乍ら夕食、ブラックホワイトを又一人で大分飲み、十時頃寝ちまふ。
 石井漠は、此の前は自分が出演することも快諾したくせに、何うしても振付だけにする、自分は出ないと言ふ。別にいゝ案も出して呉れず、これでは「日本の姿」出来さうもない。


十二月四日(水曜)

 八時半に眼がさめる、皆揃って朝食。石井も長瀬も都人でないので何となくつまらぬ気持になる。石井漠先生、つく/″\と曰く、「あゝ生れて初めてだなァ、静かだ。こんな静かな家庭もあるんだからねえ、全くシゴイみたいなもんですよ。」十一時二十分来ノ宮発で両名は帰京するので、送りに行く。ドテラのまゝ、女房も清を抱いて。蜜柑を買って、ムシャ/\やり乍ら歩く。帰って入浴。「日本の姿」のこと今朝の「都」のトップに出た、書かにゃならん、が、書く気にならない。昼食パンその他。滝村が来るといふのが気にかゝり、落ち着かない。此の二三日、まるで他人のために暮してるみたいでいかん。夕方迄かゝり「女獣心理」読了、中々の異色文学。夕食も滝村が来はしまいかと待ったが、つひに来ない。榎本アンマを呼び、揉ませる。「オール読物」に出た中野実の長篇「香港」を読む。


十二月五日(木曜)

 九時起き、入浴して、食事。パンを食ひ、納豆が母上から来たので飯も一杯。清、お膳を引掻き廻すので叱られ通し。滝村、今日来るかな、と待つまいと思ってゝも気になる。中野実へ「香港」の感想を書き、「映画之友」へ五枚、書く。今日中に「日本の姿」を書く約束なんだが、その気になれない。又絵を描き始める、これもうまく行かん。二時すぎに、女房と二人、町へ出る、ダラ/″\と坂道を下り、銀座へ出て、買もの二三、駅迄バスで出て又仲店で買もの、タクシで伊豆山相模屋迄。女房、清の食べる白米を分けて貰ふため、僕はまっすぐ喫茶ホールへ行き、コーヒーを飲む。熱海ホテル迄車、夕食、すぐ車で帰る。つひに滝村来ず。入浴して床へ入ると、「日本の姿」のプランを練り出し、十二時すぎ、一時頃迄かゝって大体見通しをつけた。
 橘から電報、明日来ると言って来た。明日は上山・山田も来る筈だ。


十二月六日(金曜)

 今日は客があるからと楽しみである。十一時頃、上山と山田伸吉。昨夜プラン立ったので、入浴させると、二階で読みにかゝる、新体制ヴァラエティ「日本の姿」。これで上山に渡し、兎に角脚本の型にすることにした。昼食皆揃って食ひ、又二階で、山田伸吉から色々と絵の描き方について学ぶ。写実を離れてデフォルマシヨンを勉強のことだ、スケッチブックに二三描いて貰ふ。橘弘一路夫妻が、そこへ来り、上山・山田は入れ代りに帰った。弘一路と二人、雑誌新体制の結末の話から、その他のプライヴェート話をする。揃って夕食。ウイスキー、ホットにして飲む。ほろ酔ふ、清ハリキリ、あんよは上手と大いに歩く。


十二月七日(土曜)

 八時半起き、朝食パン、飯より近頃パンがうまい。飯がひどすぎるせいもあるが。食後、火燵でピョン/\したり、二十一をしたり、十二時五分に、うちの連中の放送あり、ねころんできく、馬鹿々々しきもの。二夫婦で、一休庵へ行き、久々で普茶料理。買ものし、コーヒーをのみ、帰る。二階で絵描き、山田伸吉に教はったこと中々むづかしく、デフォルマシオンで行かうと思ってゝもつひリアルになる。七時半、大西が久米・原・轟の三人を引率して来る。僕は新かど旅館へ、此の地の映画愛好者による、あかつき会てのへ出席、座ったまゝ喋り、紀念写真撮って九時半に帰る、あんまり大勢になったので橘夫妻は相模屋へ逃げ出した。


十二月八日(日曜)

 朝八時すぎ、清ビー/″\泣き騒ぐので目がさめてしまふ。入浴、食事。家からの鮭がうまい。ひょっくり、ドクトル寺木が訪ねて来た、近くに別荘があるとのこと。土産に貰った田楽堂の田楽餅を皆で食べる。橘夫妻が戻って来た。そこへ又、清水荘平が来訪、すぐ下の別荘へ来たとて。日曜なので皆来るのだ。皆揃ったところで先日熱海の町で買った小さい玩具を福引する、清に一本ひかせたのが一等。三時近く皆で山を下り、来宮へ参詣し、銀座へ出る、内田水中亭、渡辺はま子夫妻に逢ふ。ワニ園へ行き、それから竹葉でまづい天ぷらを食って、タクシで帰る。入浴後隣りの清水の別荘へ行き一時間ばかり喋って帰ると、レコードかけて清大ハシャギ。カレーパン食ひ、ピョン/\して十二時に寝る。


十二月九日(月曜)

 昨夜から寒くなった、襟巻をして寝たが朝までとれずにゐた。入浴して朝食、大西の一行は、十二時四十五分の汽車で帰るといふので支度始める。皆が帰ると、二階、快晴の山々を描く。山田に言はれてから筆が自由に使へるやうになった。描いてるところへ、斎藤豊吉が、やって来た。風呂へと言ひたいが、節電のため昼すぎは湯が止ってる。(四五日前から毎日さうなった。)早速「新婚隣り組」の本を読ませ、土台ストーリーが成ってない、と言ふより無いと言ひたいやうな本だから、初めからストーリーを相談して作る。夕刻清水からの誘ひで、車で緑風閣へ。斎藤も一緒、珍らしくビールのみ乍ら天ぷらをウンと食った。熱海は夕食四円までといふ規則だが、闇で、盛に食はせる。
 古屋旅館で、マッチを沢山――百以上貰って来た。不思議な世の中になったものだ、その紙包が、相当な買物でもした位に、嬉しいのだから。


十二月十日(火曜)

 九時すぎ起き、斎藤も起きて入浴、朝食する。斎藤は仕事、僕は、下駄をつっかけ、画材を探しに歩く、二三スケッチして帰り、早速絵具を出す、たしかにコツを習ってから絵が生きて来たと思ふ。ところへ岩井達夫夫妻、(妻手塚久子と一昨日新婚)あらはれる。間もなくヌーッと如月敏夫妻あらはれ、又々賑かになる。昼食。女房身体悪しとて不機嫌なので怒る。いやな気持、しばらく。夕刻、敏持参の新ピョン/\。夜食前、ふと下痢し始める。何か食ひものが悪かったのか。でも夜食には、ブラックホワイトの残りを飲んでしまふ。レコード「隣り組」をかけると清大いに喜び踊る。


十二月十一日(水曜)

 九時に起きる、今日は節電日で湯が出ないといふのでクサる、ヒゲを剃る元気もなし。朝食、下痢はまだ止らない。煎茶を飲む。それからピョン/\や、ストップといふゲームをして昼すぎる。ダレちまって、さて何うしよう、何処へ行かうと頻りに迷ふ。兎に角皆で出ようと、銀座へ出て、熱海銀座劇場へ入り、日活の映画二本見る。町中チェリーが品切れ、臭いバットを少しふかして、くさる。漸く、此の小屋の人に頼み十個ばかり入手。こはい世の中だ。西村太一君が探しに来り、食事して敏夫妻と斎藤は帰京。帰ると、風呂が出たので、歓声をあげ、入ってたら滝村和男ひょっこり現はれた。滝村と二人二階へ寝る。
 絵を描き出してから思ふことは、晴天の日を一ヶ月中に幾日としか持てない日本では、油絵かきは中々辛い商売だし、中々発達もおそからうといふことだ。雨・曇のわれ/\の周囲は、あまりにも日本画的な風景にとりかこまれてゐる。


十二月十二日(木曜)

 滝村の鼾で一寸寝そびれた。朝は、九時すぎに起きる。西村太一も揃って朝食する。午後一時すぎに出て、一休庵へ。出がけから雨、熱海には珍しく雷。普茶料理、今日は二人前食ふ。女房は清をおぶって帰り、西村は帰京、滝村と熱海銀座劇場へ入り、「おしどり歌合戦」と「暢気眼鏡」を見る。プリントが悪いので困る。見てゐると、川村秀治が探してやって来た。滝村を駅迄送り、川村と西山へ帰る。榎本アンマが来てゐたので、これの荒療治。荒事になると清が心配して泣き出すので、わざとアハゝゝ笑ひ乍ら揉ませてる図は滑稽ならん。


十二月十三日(金曜)

 九時に起きる。昨日でお客は絶えたかと思ったら、川村秀治が来たので今朝の食事も賑かだ、だが、秀ちゃんのやうなシムプルな正直なまっ当な青年といふものは、何を話していゝか話題が無い。遊びを知らない、無駄のない生活をしてる彼の如きは、然し他人に退屈をしか与へない。山野・大庭は、十五日すぎに来ると言って来たが、客が多すぎるからと断はった。然し、あいつらは、少くとも清潔でない代り退屈はしないな。七時頃、彼帰りて、何となくホッとする。入浴。小説の筋を一つ考へた。それは某といふ男が人生を二度くり返してゐる――即ち前に一度これと同じ人生をすませたことがあるのだ。だからその人生での過ちを今度の人生では一切避け、色々なことを予言する。そして成功するうち、前の人生で逢ったことのない恋愛にぶつかって、神通力を失ふといふのだ。鳴海碧子の「結婚教育」を読み、十一時すぎ読了る。


十二月十四日(土曜)

 九時起き入浴、久々客のない朝食、食後二階へ上り、絵を描きにかゝる。二階からの表と裏の眺め、定ったものばかり何遍も描くので大分うまくなったやうな気がする。母上東京より来られ、清大喜び。「チーチーパッパ」のレコードお土産で、すぐかける。僕へのお土産カレーパンで昼食。京極から今日の六時三分に来ノ宮へ着くといふ手紙だったので、六時近く、ドテラの上にハンテン、その上に又羽織を着て、それでは裾がからむので尻をまくり、大したいでたちで、夜道を迎へに行った。月夜で明るい。来宮駅迄行ったが、待ちぼけ。又、テク/\帰る、汗びっしょり、すぐ入浴して食事。昨夜ふと、女房からきかされたのだが、十月の病気の悪いさかりには大便などタレ流しでおしめをあてゝゐたのださうだ、そんなことは一切知らなかった。母上と一家揃って、清はしゃぐ。たゞ清を見て夜を更かす。大江賢次の「希望の灯」を読み出す。


十二月十五日(日曜)

 九時すぎ起き、入浴。女房は東京へ。高橋の兄が、癌と診断され癌研究所へ入院したのでその見舞に行った。斎藤から脚本上ったと電報あり、「スグコイ」と返電する。寺木ドクトルからハムを届けられた。昨日すっぽかしの京極より今夕着との電報あり。夕暮、間宮茂輔の「柘榴の花」を読み出す。六時頃、斎藤豊吉脚本持ってやって来た、早速読む。「新婚隣り組」。わりによく出来たので安心した。京極が六時半に来た。入浴して皆で食事。明日上山・山田・松本等来る筈。


十二月十六日(月曜)

 京極と斎藤豊吉泊り。皆揃って食事。斎藤は十時何分の汽車で帰京。陽あたりいゝ二階で京極と話してると、上山・山田・松本四郎の三名着、早速「日本の姿」についての打合せをする。京極は昼すぎに帰京。あとの三人と午後山を下りて銀座から海岸へ散歩に行く。ワニ園へ又行き、大いに顔のきくとこを皆に見せる。それから海岸の楽焼屋へ行って、皆で色んなものに塗りこくり、灰落しを幾つか描いた。焼いてる間、海へ近づく。夕食、牛鍋。レコード、コロムビアより僕の正月新譜「防夜団長」が来たので、清にきかせ踊らせる。上山・松本は帰京し、山田だけ残る。一階にこもって「日本の姿」の纏めにかゝる。山田は、ねむいらしく、ちっとも仕事せずトロ/\した眼で雑誌など読んでる。


十二月十七日(火曜)

 東京は雪ださうだ。昨夜から泊りの山田伸吉まだ二階で寝てるので先に食事。火燵で紅茶。漸っと起きた山伸、入浴食事すると帰京した。火燵で「柘榴の花」を読み終る。しぐれてゐて寒い。入浴――雨の音をきゝ乍ら湯に浸ってゐる気分はいゝ。昼は、カレーパンを一個半食って、正岡から送って来た、田村西男の古い本「文楽」を読み出す。夕刻読み上げる。夕食前から島影盟の「読書の技術」にかゝる。六時半頃食事。たっぷり食って、甘栗、蜜柑を食べる。夜は、按摩、榎本は来られず弟子が来る、これも中々力がありてよし。「読書の技術」を十二時迄かゝって読み了る。


十二月十八日(水曜)

 起きるとすぐ湯殿へ、東京へ帰ってから刈らうかと思ってゐた頭髪を今日町へ出て刈らう、ヒゲもその時と、剃らず。食事、昨夜読んだ「読書の技術」で咀嚼の理想は二百回噛むことだとあったので、よく噛んで食べる。クチャ/\あんまり噛むのは楽しくないが。母上・女房・清オンブで山を下りる。熱銀劇場前の理髪店へ入り、理髪。顔剃りが「掘る」式のやり方であとひり/\する。母上らと、イケシマで落合ふ。屋井と大庭が怪しげな女を連れて来てた、「ウア見つかったか」と言ってる。山坂を登り、帰る。二階で絵、川村秀治よりスケッチブックが着いたので、すぐそれに描く。夕食もゆっくり咀嚼する、口が草臥れる。
 コロムビアより今期の計算(印税)七百六十円の赤字の由、一枚しかないんだから止むを得まい。


十二月十九日(木曜)

 さあ休養も今日で終る。二階へ上り、絵を描かうと思ふが、曇ってゝ思ふに任せない。裏の山へ行き、貯水池のあたりスケッチする。帰って色をつける。やっぱり見乍らでないと色が出ない。一人で山を下り、熱海宝塚劇場へ入り、ジョン・フォードの「四人の復讐」を見る。外国の家族が、父子、友達の如き姿が快い。東宝の「隣組の合唱」は、あんまりくだらないので呆れて出る。つひ隣のぼたんへ入り、しるこを食っちまった、糖尿々々と思ひ乍ら。熱海銀座劇場へ又入って「女は泣かず」を一寸見、六時に母上と待合せて、車で熱海ホテルへ。定食とチキンライス。大蔵貢に逢ひ、少時話す。七時半頃帰る。清と遊ぶことしばし。広津和郎の「巷の歴史」を読み出す、確りしたもので嬉しい。


十二月二十日(金曜)

 熱海――帰京。
 八時、眼がさめ床の中で新聞読んでると、清がウンスー言ってる、ふと見るとちゃんと起きて座ってゐた。入浴。朝食。二階で荷物拵へにかゝるのだが又描きたくなり、裏山を描く、これで十何枚と、此の山ばかり描いた。支度する前に又入浴。母上は一人残られ、二十四日に帰京のことゝて、清ハイチャイと言ひ、二時来宮駅へ。帰京の途につく。車窓より西山の俵別荘見え、ハンケチを振る。車中、「巷の歴史」を読み了り、退屈もせず四時半東京駅着。入場券禁止で、大西他の迎へは改札口に待ってる、銀座へ出て、風月で食事する。それからタクシーで小石川の俵家へ礼に寄る、今度は、大塚駅近くの癌研究所へ高橋の兄貴を見舞ひに。面癌で入院、「今度はダメだ」と言って寝てる、可哀さうなり。一時間余ゐて、漸く又タクシを拾って貰ひ、帰宅。久々のわが家。清大元気。
 タクシーの無いことは近頃甚しいが、今日の乗った運転手などまるで物を言はない、ブッとふくれてゐるきりで怒り続けてゐた。まことに日本人といふものは、すべて此ういふことに負けるタチだ。まるで、のせていたゞいてるみたいで、こっちは下手に出てばかり、まことに不愉快。


十二月二十一日(土曜)

 あたりまへの話だが、東京の寒さ。熱海では湯上り小一時間もシャツ一つでゐたが、こっちでは上ると、すぐ着物着る。朝食。火燵で寒い/\と言ってることしばし。下二の貞子姉来訪。十二時すぎ高槻が運転手となり、迎へに来る、仕方なしこれに乗りて芝の花岳院へ。今明日の稽古場である。配役をして、二時、「日本の姿」本読み、つゞいて「新婚隣り組」。石井漠、コロムビアの奥山彩子も来た。四時近くに済み、近処でコーヒーのみて、東劇へ。羽左衛門本位の十二月興行。おしまひ迄みんな見る。食堂一円の定食スープ他一皿には一驚。俳優協会の沢田弁護士・藤原釜足夫妻等に逢ふ。高槻が又迎へ、女房と乗って帰る。清もう寝てた。菊田作「ロッパと開拓者」読みつゝねる。まあ/\だ。


十二月二十二日(日曜)

 九時、電話で起される、他の電話じゃ機嫌悪いが、谷崎潤一郎氏から。頼みたいことがあるから会ひたいとのこと、明夕会ふことにした。入浴し、食事。延寿太夫の真似してたら清に又真似されて驚く。アメリカの堀井からの手紙に返事。ウォタマンの細いのを買って来てくれ、他。橘の家へ行く。原画を沢山貰って一時に花岳院へ。夕刻、大庭・石田の赤鬼青鬼を引き連れ銀座へ出る。新日記を探すが売切れ。近藤書店へ注文して置く。新田へ、放っといた仮縫ひに寄り、正月十日頃出来とのこと。づぼんつりを求め、煉瓦亭へ寄ってみる、おめあてのロールキャベツ無く、ホワイトシチュー、バアへ二三寄り、西条軍之助に逢って十二時帰宅。


十二月二十三日(月曜)

 十二時から文ビルで宣伝写真を撮るので十一時半に出る。今日は又高槻の円タクの日。文ビル三階で、久々かほをして、「開拓者」と「大和一家」の賛平さんの姿を撮る。寒くてしようがない。一時より「開拓者」の立ち。三時から「新婚」の立ち。白井鉄造、東宝入りの挨拶に来る。「仁義を通しに来ました。」と。五時近く本社へ。平野のこと、一座直属となることのO・Kを得。少時話し込み、六時ホテルのロビーで、谷崎氏を待つ。僕へたのみとは何だらう、色々考へたが人事としか思へない。氏現はれ、鶯谷の志保原へ。円タク買切で今夜は安心。志保原へ着くと、「用といふのは簡単なんだ、松本四郎のことをよろしく頼みたい。」これだけ、一寸がっかり。志保原は近頃評判、なるほどうまい。谷崎氏は酒、僕持参のウイでいろ/\話して、十時半帰宅。


十二月二十四日(火曜)

 十一時に東映本社。白井鉄造と李香蘭に逢ふ。森氏に京極のこと話す。平野迎へに来り、ニットー紅茶へ寄って話さうとするが満員、ホテ・グリが又満員、此ういふところの満員さ加減、未曽有である。世間の景気、よっぽどいゝのか。一時稽古場へ。五時半に、清水荘平が迎への車をよこすといふので、待つ。葭町の百尺へ。清水盛に吹くので中々話がむづかしい。料理は量が不足だし、うまくない。昨夜の志保原がよっぽどよかった。芸妓も料理屋も馬鹿な急しさで、てんで落ち着かない。十時頃か、切り上げて帰宅。稽古場へ南部僑一郎・鈴木桂介来る、お歳暮やる。


十二月二十五日(水曜)

 十一時に迎へ来る、(高槻の円タク)高橋の兄貴の入院してる癌研究所へ見舞。理髪屋が来てた、大分元気が無い、少時ゐて辞し、神田へ廻って、新刊三冊と、新日記を漸く発見、少々汚れてるが仕方なし、買って文ビルへ。「開拓者」の立ち。大詰のところ中々泣かせる。二時にアガリ、ホテ・グリへ。世が世ならクリスマスだが、ターキー一つ無し。ゲーム・パイなど食ふ。放送会館へ明日より三日間放送の「大望」読み合せやる。東童の子供たちが出る、そのうまいこと、菊田も思はず、「大人の人よくきいてゝくれよ。」と言ふ。五時すぎ明治座へ屋井が呉れた切符、橘夫妻を誘った。入り悪く寒々としてるし、芝居皆淋し。九時十五分にハネ、高槻の迎へで帰宅。月給日。


十二月二十六日(木曜)

 七時半起き。寒い、とても。入浴ブル/″\。食事して、支度。いゝ塩梅に、福島屋のハイヤーが迎へに来た。これが来なけりゃバスか電車と覚悟してゐたところ。放送会館へ。「大望」第一夜のテスト。本来なら夜のところ、自動車不足から此うなったわけ。それから文ビルへ芝居の稽古。夕方、銀座へ出る。大した人込み、何だか景気はいゝらしい。さう言へば、有楽座のうちの前売り昨日売出して、一万円を突破といふから、春の景気もよさゝうだ。支那グリル一番で、いろ/\食ひ、清の玩具を探し、チョコレートショップへ寄り、又歩き歩いて、八時前に放送会館へ。鶴見祐輔作・菊田脚色の「大望」第一夜。しまひの方で、くさくなり自分でも可笑しかった。すむと、残って第二夜のテスト。これで十一時すぎ迄。いゝあん梅にAKの車で送って呉れた。


十二月二十七日(金曜)

 今日は高槻の車のある日、十時、青山の古賀氏の家へ行く。「大和一家かぞへ唄」を練る。明日コロで吹込み。十二時有楽座へ。今日は昼間のうち、「新婚隣り組」だけ、舞台稽古。斎藤の演出、消極的で困る。四時迄かゝり一と通り終る。稽古見に来た伊藤松雄とその長男海彦君とで、伊藤氏知り合ひの銀座裏の天ぷら屋一亭といふのへ行く。天ぷら、わりによろしい。大急ぎで、放送会館へ。「大望」第二夜の放送、いさゝか落着きを失ってたやうで今夜の出来はよくなかった、脚本もヤマが無いので。十時前に帰宅、紅茶。


十二月二十八日(土曜)

 早起き、七時半。放送局の車がガソリンが無いから高田馬場迄しか来ないので、中井へ出る。放送会館へ。第三夜のテスト十二時近く、皆連れてニュウキャスルで食事し、今度は文ビルけい古場。「開拓者」の立ち。二時迄やり、コロムビアへかけつけ、「大和一家かぞへ唄」の吹込み。若原春江と少女一人である。文ビルへ引返して「日本の姿」の踊りと歌を通させて見てゐた。どうも労れてゐて、新しく立つとこが沢山あるのにやる気になれず。明日のことゝして、稽古場へ来てた西条八十・京極とで、鳥屋なごやへ行き、ヤキと称するすき焼を食ふ。宮田東峰が後から来て賑か。此処の払ひ、闇で三十七円。八時半に放送会館へ。九時五分から「大望」第三夜。終ると牛込蜂竜へ、西条氏の招きで行き、ニッカを少々。


十二月二十九日(日曜)

 今日は久しぶりでゆっくり出だ。清と遊ばう、玩具いろ/\出して遊ぶ。十二時半に迎へ、今日は高槻の車、文ビルへ。一時から「開拓者」の音楽入り総稽古。兎に角変ったものなのでいゝだらうが、如何にも笑が不足だ。これが四時近く迄かゝり、四時半から「日本の姿」を通す。寒くてたまらない。病後のせいか。うがひし乍ら一と通り見、立つ。肝腎の僕の唄幾つかを一つもハッキリ覚えてないのは心細い。石井漠は、これは組んだのは失敗、スマートなもの、ユーモラスなものがちっとも無く、野人的だ。京極と牛込お千代へ行く。日日の黒崎貞治郎を招き、えびす亭の牛肉を食べる。


十二月三十日(月曜)

 有楽座舞台稽古。
 九時に起きる。今日舞台稽古十時開始といふ予定、でも、さうも行くまいから、ゆっくりかまへて十時にハイヤを言ったら、幸ひあったので出かける。清を市ヶ谷の室橋病院へ送る。健康診断。変りなかりし由。有楽座、先づ「日本の姿」その第一景の富士山の画の悪さと、飛行機の造りものゝ悪さ、「これは日本の文化を疑ひたくなるぞ」と怒鳴っちまった。山田伸吉も勉強不足、舞台の大道具確かに時代から取残されてゐる。目にたよるものは駄目だ。二景の軍艦上は海軍省来り駄目を出すので手間がかゝり、十一景終ると八時になった。ホテ・グリで、如月敏と食事、ミネストロン、カネロニ、ポークチャップで、うまかった。九時に座へ戻り、十時から「ロッパと開拓者」これで徹宵。終ったのは午前六時。


十二月三十一日(火曜)

 舞台稽古終って午前六時入浴、有楽座からハイヤで帰宅。そのハイヤも二円別に祝儀を出して拝むやうにして漸っと来たもの。町々がまだ眠ってゐる。門松がお粗末なのだが並んでゐる以外は、何処にも大晦日の気分は無い。お正月の来る感じは少しも無い。味気ない世の中だ。七時に床へ入る。頭が労れてゝ反って眠れない、寒い/\。午後一時に起きる。入浴して、頭髪を洗ふ。食事。火燵で日記。セリフを入れにかゝる。「開拓者」一と通り入った。二階で手紙などの整理。五時半に、高槻迎へに来り、母上・女房・清と揃って出かける。何を食べようかと色々考へた末、呉服橋の末広中店へとりを食べに行く。冷い部屋に「火鉢はお一つと定ってます」と、寒いこと。スープ煮で他にすゐ鍋、七輪持って来て練炭で焚くといふ「殺風景で済みません」と全くだ。でも食べると少し暖まる。出て、母上と日劇で「熱砂の誓」を前後篇見る。母上と二人で京橋から銀座へ、夜店を見乍ら歩き歩く。エスキーモでアイスクリームをのみ、十一時十五分に高槻と銀座で待ち合せ、明治神宮へ向ふ。荘厳なる心持で、お詣りして、今度は靖国神社へお詣りし、一時すぎに帰宅。
[#改段]

昭和十五年のメモランダム



忘れぬ為に

(六月二十三日 下呂にて)

 下呂温泉・湯の島館の春慶寮といふ部屋で、今日一日は朝から晩まで、何の用もなくのんびりとした気持である。箱根の富士屋ホテルでは、非常時忘れの毎日で、物資も殆んど不足が無かったが、此のへんになると、やはり何かと物資が無い。煙草が無い、脱脂綿が無い――コーヒーも豆の味だし、が、此うして山の中ならそれもいゝ、その代り湯はふんだんにある、水も余ってゐる――夜になれば、芸妓をあげて、チャンチャカ/\やってゐるさんざめきも聞こえる。
 名古屋の十日間は実に色々と不自由をした。
 が、何よりの不自由は、自動車である、曲りなりにも自家用車を持ってゐる身には、何うにも自動車の不便がこたへて、雨の日など何うにもならなかった。
 物資の統制・不足――切符制、此の時局の風景を、後年のためにこゝに記してみる気になった。
 むろん、東京を中心としての話だ、これから何年か経って、あゝあの時は、不自由だったなと思ひ出せればいゝと思ふ。もっとひどくなって、あの頃はまだよかった、ではたまらない。
 衣食住、すべて極めて不自由になった、衣物は一向ハヤかまはないたちで、洋服などもかまはないからこれは大して応へないが、スフの一点張りで、純毛の洋服は先づ百円なら出来たのも二百円に上ってゐる、僕唯一のオシャレである、ネクタイも外国物が殆んど無く、先頃大阪の旅で、神戸へ行き大分買込んだので、当分間に合ふだらうが、ネクタイだけは英国物をしたいものだ。靴などもベラボーに高くなってゐるし、ハンケチなど純綿を探しても実に無くなってしまった。が、何と言っても衣の方は、あまりこたへない。芝居の衣裳・小ぎれがスフで屡々クサるし、そのために来る不自由が一ばんで、日常先づ衣の方では僕自身は、大して困らない。赤ん坊の衣類やその他のものには大分不自由があるが。
 食といふ点になると、これはハッキリこたへてゐる、何しろ食ふことが人生の喜びの大半ではないかと誤解――或ひは正解されさうな僕のことだ、随分かなしい思ひをする。
 第一が飯だ、何はなくとも米の飯といふその米は全部外米だ、七分搗きだ、馴れるまでは、下痢したり腹痛を起したりした、馴れた今日此の頃でも、やっぱりパンなど食ってゐた方が体の調子はいゝ。日常用品の不足、第一が砂糖、これが切符制になり、マッチが無い、炭もその他何もかも。料理屋でも白米が禁じられてゐる、いろ/\うまいものも原料不足のため出来なくなる、バタはマーガリンバタといふ代用品。洋食の味はグッと落ちたし、コーヒーなどまるでいけない、紅茶もリプトンが無くて国産。
 然し僕の口へ入るものゝ中で一ばんひどくこたへてるのはウイスキー。これは何しろ輸入が無いので、どん/″\高くなり、ブラック・アンド・ホワイト(元は八円五十銭)が、六十円になった程、もと十何円なりしオールド・パアなど百十八円となってしまった。何かとツテを求め、各地旅行の度に買ひ込んでゐるからウイスキーのストックは、まだ二十本近くあり、段々と又補ってゐるからまあいゝが、バアなどは馬鹿々々しくて入れない、一杯七八十銭のものが二円半から三円とる、五円迄は覚悟しなければならないのだ。他の酒を一切口にせず、ウイスキーも国産はのまない僕、これだけは必死となって探してゐる。何しろ此んな時世になるとは知らないから、いくら好きでも家にストックが少しも無かったのは残念だ、ふと此んな夢想をしてみた。
――家の一室に棚を造り、ズラリと何百本のウイスキーが並んでゐる、庭の一偶に物置きを建て、ギッシリとウイスキーを並べ、外国物の鑵詰ファグラだのハインズのものいろ/\並んでゐる――といふ風にして置けばよかったなアと。
 此んなわびしい気持にもならう、何しろ煙草なんぞのまづいこと、此の方は馴れで、チェリーを吸ってゐるが、昔の味に比べると落ち切ってゐるのだらう、此ういふ風にウイスキーも他の酒に馴れてしまへばいゝのだが、然し此う貴重になってからのウイスキーの味は又ぐっとよくなっちまったんだから仕方がない。
 住といふ中へつっくるめて、日常用品のひどさ、先づ原稿用紙のいゝのがまるでなく、ペンの辷りが悪くて手首が労れる、レターペーパー、ノートから書籍、雑誌の紙の悪いこと。これらを我慢するとしても、電気統制節約のため、一体に暗くなり、眼に影響することもひどからうし、瓦斯の節約から入浴の不便、いろ/\と限りなく不自由である。
 次に交通だ、これは又ひどい、僕としてはまるで歩けないたち故、うるさくつきまとふ円タク洪水の時代が懐しい、無理して自家用を乗り廻してゐるが、ガソリンは切符制、その与へられるのが一と月七ガロンに迄つめられてしまった、(先月迄十一ガロン)これでは手も足も出ない、闇取引のガソリン券も一枚二円以上となり、ガソリンも一ガロン八十銭位かと思ふが、それでもハイヤよりは安い。ハイヤは昔の創始時代に戻り、一寸乗ってもすぐ五六円である。
 時間統制といふものも、例外無く行はれるのでわれ/\夜の商売のものは、遊蕩を封じられた有様である、十一時以後は何もかもストップだ、東京はカフェー・バアが十一時限り、花柳界は十一時に辷り込めば、夜半迄居てもいゝといふのだが、地方は大抵十一時で追ひ出されるので、もはや地方での遊びといふものは一切出来ない身分となってしまった。遊びは仕方もなし、此ういふ時世に、贅沢だ、とあきらめもしようが、うまいものも食へない、十一時過ぎには料理屋も無いといふのは、全く弱ってしまふ。
 が、この統制も、兎に角うまく行はれてはゐる、中々当局は苦心してゐることだらうと、総評としては賞めたくなる。細部にいろ/\例外や何かを作ることも長いことには考へるだらう、兎に角、此うなると家庭中心、家庭でたのしむよりないのだから、その方にはいろ/\もっと多くを許して貰ひたいものだ。せめてさうでもしないことには、娯楽業のわれ/\が、自分たちの気晴しが出来ない。人間並の享楽をしたい、又しなければ、次の日に活力が無くなる。
 とは言へ、僕ら(江戸っ子で都会人の此の年頃のもの)は、もう充分今迄に、したいこともし尽してゐるし、うまいものも食っちまったのだから、享楽といふ字を一つ解釈し直して、明るい健康な享楽を身につけるやうにするがいゝと思ふ。
 何事をも享楽し得る、といふより享楽上手なのが、われ/\の楽天主義だ。
 新しい享楽を、次の時代のためにも考えてやらなくてはなるまい。
 然し何年か後に、これを繙いてみて、何んな感じがするか。
 それが大いにたのしみだ。

神通力を失ふ。

(七月六日記)

 七月五日、東宝劇場初めての進出の、初日である。
 三時開演が、おくれてしまひ、三時半頃に第一が開いた。
 第一の「渡洋爆撃隊」には、僕は出てゐないので、そろ/\楽屋で化粧にかゝり、約一時間半、五時半頃迄裸で――と、舞台稽古を一昨日済ませたのも、一つは何だか昂奮しない原因の一つであらうか、それともセリフがすっかり入ってゐるのが反ってハリキらない原因であらうか、兎に角、ちっとも初日らしい昂奮が無く、うすら眠くさへあるのだ。
 全く、初日のたのしみといふのは、セリフなどつかへ/\それを機転で切り抜けて行くところにあるのかも知れない、まるでセリフの心配が無いのも気ぬけのすることなのだ。むろん一方又、不安の無い、優等生が試験場へのぞむ時のやうな喜びもあるのだが、――こゝらに一つの不思議がある。
 さて、いよ/\開幕。
 喜多八の徳山が花道から出る、つゞいて僕だが、その花道の出から、何か大きなものを一つ忘れたか、落したか、兎に角気の抜けたものになってしまった。揚げ幕を、開けっ放しで出たせいもあらう。が、さて本舞台にかゝる――何うも勝手が違ふ。
 大きな劇場で、歌にはいゝが、芝居には困ると分ってゐたが、何と言ったらいゝか、客の方もひどく勝手が違ふ感じがしたのではあるまいか、一景二景三景――ずっと客を掴みそこなってしまった。
 序幕の「渡洋爆撃隊」で、客をつかまへてゐないことも、こゝへ影響してゐるし、道具の転換が一々手間どり、暗転が長かったこともあるが、僕の力でそれらを補へた筈である、それが言はゞ神通力を失ってしまひ、道具のヘドモドと共に、こっちもヘドモドしてしまった。
 丁度此の感じは、九年前の、大阪松竹座の「悲しきジンタ」の初日のやうだった、久しぶりでしろとに返った。神通力を持たぬ昔に返ったのだ。役者の芸なんて、いや/\役者のパーソナリティなんて、実にもろいものだと、痛感する。
 大きすぎる劇場ではあるが、こいつ一番飲まれてしまって、手も足も出なかったといふわけだ。
 もう一つ大きな原因として、一日初日でなく、五日初日といふのが、客への活気をグンと失はせてゐることは、勘定に入れなくてはなるまいが、然しそれにしても神通力を失ったロッパのみじめさは、誰よりも自分が寒々とした心地であった。
 いろ/\な欠点も分って来たから二日目からは取り戻すことゝ思ふし、又既に第三の「曲芸団のロッパ」では、稍々神通力を取り戻して、いつもの通りやれたのであるが。こっちは、演出も作も責任が無いといふことで救はれたものと思ふ。だが、アクター・プロデューサーである僕が、一日たりとも此うもろく破れたりしては困る。今後は注意したいものだ。

市村羽左衛門讃

(七月十五日)

 俳優協会――今までは歌舞伎役者のみで結成してゐたもの――に、新派も喜劇も何も皆入れといふことになり、何しろ警視庁のお役人の命令だ、此の間から、曽我廼家から話があったり色々したが、結局今日銀座の銀二ビルの、大日本俳優協会事務所で、その相談会があるからとの通知あり、いやんなっちまふけれど仕方なく出かける。
 入ると、いきなり市村羽左衛門が狭い事務室の窓を背にして、ゐるのが見えた。三升、英太郎・三津五郎もゐた。
 一寸挨拶したら羽左衛門は、「君の方はいつも大変な景気だね」と、ニコやかに笑った。
 素顔を見たのは、殆んど初めてだ、昔、帝劇の廊下で見たことはあるが、その時は、少しケンのあるツンとした感じだったが、今見る羽左衛門は、何と美しき好々爺なのである。
 議題――と堅苦しくなっても始まらない、三升・三津五郎では話も、此ういふことには全く向かない。あとから幸四郎・河合・花柳・柳・新国劇の小川・野村と現れたが、何としても、俳優協会てもの、恰好のつかないもの。そこへ又警視庁から寺沢ともう一名役人が来た。ヘンテコな雰囲気である。
 会長を誰にするといふことになって、さて市村羽左衛門氏よ、貴方が一つ――といふ話になったら、市村氏突如としてハッキリ言ひ出した。
「あっしゃあごめんかうむるよ。何うしてもいやだ。たってと仰言るなら、あっしゃあ役者を止める。鎌倉山の百姓をしてもいゝ、兎に角僕あ嫌だ。」
 と此うなのだ。僕は一人で嬉しくってたまらなかった。
 これでこそ市村羽左衛門である。
 たってと言へば役者は止める。さもあらん、さもさうずと同感だ。
 何といふ然しいゝ人間が此処にゐたことか! 市村羽左衛門に会ふとは、又何たる吉日であらうかと僕は、たまらなかった。
 警視庁の貧弱な役人などに、時世なればこそ挨拶をしたり、つまらぬ話もしなければならないのだ、こんなことがなくっても、役者を止めたくなってゐることであらう。
 あゝ僕は、羽左衛門のために、何とかしてやりたくなった。

時局と娯楽の問題

(七月三十一日記)

 時勢が此うなると――毎日々々考へさせられる。
 娯楽は果して如何なり行くか。日本の現状では、とても Amusement as Usual といふわけには行かない。いろ/\近頃考へたことを断片的に記してみる。

 つひ先頃――先月あたり迄、何座も大入満員、映画なんかも、たゞ開けてゐさへすれば入るといふ景気だったのが、七月から一寸深刻になって来た。
 此の様子だと、僕の考へでは、当分此の状態が続くだらうと思ふ。
 いゝものなら入る、といふよりも悪いものは入らないといふ時代になる。
 然し、これは或る意味で日本の娯楽界にとってよきチャンスとなりはしまいか、といふのは、日本のアミューズメント・メーカア達は、そのスタッフが、すべてあまりにも低級な頭しか持ってゐないから、それらはこゝで参ってしまふのではないか、そして取って代って、頭のいゝ者が此の社会へ迎へられ始めるのではなからうか、といふことである。
 そして、それによって、少くとも娯楽界が向上するだらうといふ観方は何うだらうか。

 企画一つにしても、あんまり低能だと思ふ、興行といふ、かなり精神的な分子を多く持つ仕事を、現今はあんまり馬鹿の手にゆだね過ぎてゐはしまいか。興行師に先づインテリを。これが急務である。
 ヘンに高級芸術みたいな、わけの分らぬ所謂良心的な劇や映画も、成金連中が見栄をはって、これらを見に行く時代がもう去ってしまったから、もう少し頭のいゝ企画が生れてもいゝ頃である。
 まるで下手な翻訳の流行みたいな此の二三年であった。
 もうそろ/\頭のいゝ人を此の社会へ引き入れたいものだ。

 外国の話をきくと、娯楽は娯楽であるとして、何の制限も弾圧もないさうだ、これは実に羨ましいが、そのまゝ日本に当てはめなくてもいゝ、たゞ下手な事変芝居や主人公がすぐ出征するといふ式の悪事変物を禁じなくてはいけないと思ふ、然し今の検閲の方針では、否が応でも時局物教訓物をと強ゐてゐる有様だ、よき事変物、時局物を求めるなら、量ではない、質である、たゞ毎月毎週そのやうなものばかりを強ゐずに、一方ノンビリと「時局忘れ」物も許して行かないと、娯楽といふ砂糖に、塩味が入っては仕方がない。
 それこそ逆に、さうなると国民の思想が荒れてしまふと思ふ。
 この点、僕は何処かで叫びたいと思ってゐる。

七月東宝劇場赤字なりしと聞きて

(八月九日)

 今日那波支配人よりの通信によると、先月の東宝公演は、結局一万六千円の赤字だったといふことである。
 あれだけの入り、全く十割以上の日が十何回かあったやうに思ふのだが、結局五十パーセント強の入りだったと言ふのである。
 これは結局、何分で立てゝゐるのか、土台仕込みにかゝりすぎたのではないかと文句を言ひたくなることであるが、要は日劇と合同といふことが、第一の失敗だったのである。日劇の給料そして日劇側の注文した大道具・衣裳の費用といふものが、馬鹿々々しい数字だったに違ひないのである。
 その高い道具のカットした分は、廃物利用と称して秦が、日劇へ流用してゐるのだから全く一杯喰ったわけである。
 そしてその公演の半日頃から日劇ダンシングチームは、日劇でアトラクションとして出演してゐるのだから(カットした道具を使って)言語道断である。
 それもこれも結果論ではあるが、結局は日劇と合同出演といふことが、此の企画が、いゝやうでゐて悪かった。第一に費用の点、あっちの給料とこっちのと、それに楽士がダブって百人近くゐたのだから、大変な仕込みになってしまった。
 うちだけで出てゐたら、入りはもう少し悪かったと仮定しても、赤字にはならなかったと思ふのである。
 そしてこれも結果からの憶測だと言へるかも知れないが、兎に角、うちの客は、ショウ式のものスペクタクルを求めて来るのではない、明かにドラマチックなもの、いやドラマを見に来るのだと言ふことである。
 そして、もっと叫びたいのは、ロッパを見に来るのだ、俺さへゐればいゝ、俺さへ出ればいゝと言ふ信念を、ロッパよ確りと抱かなくてはならぬぞよ! といふことである。
 何々との合同出演など以ての外である。特別出演だって、今後は、よくこっちととけ合って仕事の出来るもの以外はいかんと思ふ。
 うぬぼれのない役者はいかんと同様、プロデューサーとしても弱気は禁物のこと。
(日劇ダンシングチームの七月東宝に於ける衣裳代三万円の由。完全に一杯食ったなり。)

時局と娯楽の問題の完

(八月二十日記)

 時局と娯楽の問題も、先日記した(七月三十一日記)時より又々セッパ詰り、押し詰められた感じである。映画も大変な圧迫で、探偵をあらはすために泥棒を出すことも許されないといふやうな、言はゞ手も足も出ない光景に迄なって来た。演劇の方は、まだそれ程ではないが、演劇法がやがて又、何を言ひ出すか分らないと思ふ。
 が、僕は既に一つの信念を確定・確保することが出来た。
 圧迫・弾圧――何でもいゝ、何処迄でも押しつめて貰ふことだ、今は道はないのだ。さうなると娯楽界は、めちゃ/\になってしまふ、手も足も出なくなって、落伍するものが出来て来る。
 が、こゝで、現在迄の娯楽界をおさへてゐたところの馬鹿共、頭の無い奴どもが、どん/″\落ちて行くのだ。そして結果として、インテリを――少くとも所謂学校出でなくては、脚本一つ通らないといふことになり、従って、多く金をその方へ使ふやうになる、ブレーンのために、金をつかへるやうになる、事それは娯楽界の向上となるのである。
 何ヶ月、何年此の弾圧が続くか分らない、が、その間に、少くとも此の、ブレーンの方面に金をつかふことによって、娯楽界の向上を計るといふことだけは急がねばならないと思ふのである。
 急がねばならないといふのは、僕は此の弾圧状態が、何年といふ長きに至ることは絶対に無いと信じるからである。
 娯楽は砂糖だ、それを塩にしてたまるものか。
 これは黙って此のまゝ行けば、或る形で、それは何んな形になって現はれるかは分らないが、兎に角、観客が、ファンが、市民が或る意味での精神的暴動を起すに違ひない。それは力強いもの――といふより絶対なものであって、弾圧も何もはぢき飛ばす程のものであって、娯楽はこゝにもとの姿を取り戻すのである。嫌でも取り戻すのである。
 反動として、従来の娯楽よりも、もっと娯楽――悪い意味の娯楽になるおそれすらある。
 そこで、つまり我々は、前述の娯楽界を向上させる、ブレーンの時代を、なるべく早く実現させて置いて、さういふ反動をおさへなくてはならないのだ。
 そして此処当分は、ブレーン万能の娯楽を創り出して、地ならしをするのだ、その間所謂大衆からいくらか遠ざかり、インテリ間の、或ひはプチブル間の娯楽となり、即ち大入満員を狙ふ興行より、定席九分を理想とする、インテリ興行をしてゐなければならない。
 東京向きの芝居であり、地方向きではなくなる。
 が、それでしばらく所謂大衆から遠ざかってゐるうちに、大衆は潮の如く押しよせるのだ、「われ/\のものにもなれ!」と。
 さうさせるには又、今のところ、ブレーン公演を完全につゞけて行くより他は無いと、信じるのである。

世情セッパ詰る。

(九月十五日)

 此ういふ世の中になると誰が想像したらう。
 紙制限といふことが根本の意なのであらう、殆んど映画雑誌等は廃刊を命じられ(内務省)キネマ旬報も映画之友も今や危機に瀕してゐる。恐らくは潰されてしまふだらうといふのである。恐ろしいことになったものである。僕の「映画時代」が若し成功して今日迄及んでゐたら――今頃は青息吐息であらう。恐ろしい、と言ひたい世のさまである。
 六月二十三日に「忘れぬ為に」と書いたが、六月と今日とでは全く又状態は変って、せっぱ詰って来た。七・七禁令以後の世の中は又激しい光景である。
 人の心も此うなると、何といふか各々荒れ切って、馬脚をあらはして来た。
 今、じっと見ると、好況の時世には何かで覆はれてゐたのが脱れて、本性がすぐ分る。
 馬鹿が判然と分る。一つの馬脚時代である。
 日本よ、乗り切って呉れと祈る。

芸人に指導的であれといふことに対して。

(九月十八日)

 演劇はさておき、漫才その他の所謂演芸が、指導的であらねばならないといふお達し、こいつは日本の演劇・演芸――といふより芸人を、あまりに知らなすぎることで、到底それは無理だと僕は言ふのである。日本では――さよう他国のことは知らず、日本では芸人は、すべて一種の特殊人種として、半ば幇間的なものとして育って来たのだ。客は、芸人から何かを教へられたりすることはとんでもないことだと思ふのである。芸人といふものは、日本では此うして社会の一般より下にゐることによって安全なのだ。下であることの復讐に多くの金をとるのである。
 僕にしてからが、此の根性である。他の芸人に於ておやである。芸人を直すより先に、客を直してくれ、それより他に言ひやうはない。
 又、
 此の弾圧状態を旧に復し、娯楽に於ける限り何をやってもいゝことにすれば東京市民の活気は倍加するであらう。

続忘れぬ為に

(十一月十四日)

 下呂温泉で、「忘れぬ為に」を書いて半年足らず、ます/\時世はセッパ詰った。
 まだ/″\六月頃の状態は天国だったと言ひたい位、今の世の中は、まるでたのしみといふものがなくなった。これが何時迄つゞくのか、思へばエライ時代に生れ合はせたものである。
○つひに自家用車を奪はれた。ガソリンの統制から、自家用車は月々七ガロンのガソリンを給されるだけになったのもつかの間、今や自家用は廃止となり、十年このかた自動車以外の乗り物を知らなかった僕も、学生時代に返って、省線かバスに乗り始めた。この辛さは、何よりも激しい。日々吐息をつくばかりである。因に、自動車で劇場・待合等へ乗りつけることは禁止、市内に乗車禁止区域が沢山出来て、実に不自由を極めてゐる。
○食ひもの屋は、十月一日より、昼二円半、夜五円、一皿は一円といふ規則が出来て、殆んど何処の店もヤケを起してゐる。待合は昼遊びなし、夜五時から十一時迄となり、酒類の販売は五時から十一時迄であり、更に恐るべきは節米のため米食時間は五時―八時、昼は十二時―二時と定り、それ以外は悉く代用食となった。
○雑誌その他の刊行物に対する統制は、此の頃になっていよ/\激しくなり、映画雑誌など例へば「キネマ旬報」「映画之友」等も廃刊を命ぜられ、会議々々で日を送ってゐる。
○娯楽方面は、それらに比すれば、まだ/″\助かってゐるが、学生のウイーク・デー観劇・映画見物禁止などは、かなり行き過ぎの感である。
○炭・米・砂糖その他一切の物資不足益々激しく、配給、切符制など色々と手をかへ品をかへて来るが結局物資不足の嘆は激しくなった。
○然し、結局これが何時迄つゞくのか――といふことが問題である。僕のカンでは、来年春以後は段々と旧に復すると思ふのだが、さうも行かないか――全くたゞカンだけの話だが。

省線に乗りて

(十一月十七日)

 足を奪はれて――自家用車は取り上げられるし、円タクもハイヤも中々無し。此うなると、昔に帰って、省線で出なければならない。此の二三日、往きはもう必ず省線。中井駅から西武線で高田馬場へ出て、それから省線で有楽町へ。たゞ読書出来ることだけはいゝが、電車が混雑するので中々座れないことや、人間同士すれ/\にすれ合はなくてはならないことなどが、やり切れない。それに、生意気学生などが、ロッパだ/\などゝ言ふのが癪にさはってたまらない。昼間はまだいゝのだ。
 今夜は、十一時の汽車を送りに行くので九時半に家を出て、中井駅から西武電車、高田馬場から省線、東京駅までに「支那のユーモア」を三十頁以上読んだ、暑いのにマスクを外せないのが辛く、汗がポト/\落ちた。往きはまだいゝのだが、帰りは、斎藤豊吉等と一緒に中央線で帰った、新宿でのりかへ、ホームに立ってると、日曜の夜だから人が多く、酔っぱらひの学生が、「おいロッパ」「ガラマサどん!」などゝ言ふので、くさってゐると、ヘンな若い洋服男が、「やァ、ロッパさん」とやって来た、酒の勢いでやって来るのだからやりきれない、「大分おそいですなァ、お身体が悪かったさうですな、たまには休みもいゝでせう。」うるさいとも言へず、いゝ加減に返事してるのだが、一向感じない、「あたしは山野さんとはよく知ってるんですよ、アハゝゝ」うるさい! 去れ! と言ひたいのをじっと我慢してると、いゝ塩梅に山手線が来たので、乗り込むと、こいつも亦乗り込んだ。高田馬場で下り、西武線に乗ると又ついて来る。つく/″\いやんなっちまふ。又、図々しく何かと話しかける。やかましい! とピストルをドンと一発やって殺してしまひたかった。で、漸く中井へついて、下りるとホッとした、あゝよかった、一人になれて。月が照って、一人歩きはたのしかった。人の知らない苦労である。

食べる人生(又ハ食欲自叙伝)

(十一月伊豆山にて)

 伊豆山温泉相模屋の一室に、濤声をきゝながら、さて書くものもないが、まだ九時前なので寝るわけにも行かず、それでは此の際僕の食ひ気について記して置くのも無駄ではあるまいと思ひ、わが食ひ気について書かうと思ふ。
 此の宿――ばかりではないが、新体制の新制度で、宿の食事も、そして飯までも、全く昔日の面かげなき悲しい食事となったので、二三日食欲が無い、何品を見ても魚又は貝などでは、箸をつける気にもならず、食ひものゝ故に、逃げ出したくなって来た。殆んど飯を食はずパン食にしてゐるが、糖尿病にはいゝだらうけれど、食ふたのしみといふものゝ無い人生ほど淋しいものもあるまい。
 此うして床に腹ん這ひながら思ふことは、先づうまいポタアジュである。
 近頃はもう東京でも、それも一流の店でも、たんのうするポタジュを出さない。
 大阪での入院中、ニューオゝサカホテルのグリルと、アラスカへ使を出して取り寄せたポタアジュのとろりとした味は、何とも言へない思出となって舌端に戯れる。
 東京では、風月あたりが良心的な味を残してゐる以外、何処へ行ってもあゝうまいといふ味がなくなってしまった。材料の不足もあるが、何より値段の制限で、何店も半自棄になってゐるせいである。
 此うなると場末のいはゆる洋食屋――谷崎潤一郎が、西洋料理と洋食の区別をした、その洋食屋の、たとへば渋谷石川亭の、銀座裏八洲亭の、ビフシチュウやコロッケの味をたづねる方が腹が立たないかも知れない。
 箱根の富士屋ホテルですら、昔日の豪華さがなくなったのだ。もう、たんのうする洋食いや西洋料理の味は、毎日味はふことはおろか毎週一度といふのも危くなって来た。
 此んなに西洋料理の味にうるさくなったのは、或ひはM・Mのフランス船、クイン・ドウメルに、或はフェリックス・ルセルに、アラミスに、幾たびか本場フランス料理の味を知ったおかげかも知れない。或ひは、それは僕の一生の不幸となったかも知れない。ホテルのグリルが、ニュウグランドが最上の味だったのが、ふと知った本場の味――さてそれからといふものは、何を食ってもたんのうしなくなったのだ。思へば罪なことだった、だって数回の食事以後、現在ではフランス船の食事は法度となったのだから。
 それにしても、僕といふ人間の食欲は何うかしてゐる、だってこんな人もめったにあるまい、今までに食ったものゝうまかった思出、しみ/″\と舌に浸みた味の思出は、まざ/″\と今も覚えてゐるのだ、いろ恋の思出がうすらいでも、食ひ気の思出は消えないのだ。今それを、暇にあかして、思ひ出してみようか。たのしい気がして来た。

 子供のころから始めよう。
○銀座函館屋のアイスクリーム――コップが厚いガラス、上半分コップからはみ出した山盛りのてっぺんを先づペロリとやる気持。そしてアイスクリームが、今よりもっと/\アイスクリームらしい味だった。つまりは、牛乳気卵子気が濃いのか。函館屋の青いガスの光の下で、これを食べたのは幾才の頃か。
○若松屋の半熟ざうに――忘れもせぬ成之兄上に連れられて、今も在るあの銀座の細い露地の若松の二階で(そこは畳だった)おしるこのあと食べた半熟ざうに。
○梅園の粟ぜんざい――父上母上と一緒だった、そしてそれは日本橋の梅園だった。粟餅でなく、ほんとの粟と、熱いあんこの舌ざはり、今もあのよろこびを忘れない。
○三河屋の牛鍋――四谷見附の三河屋である。祖父上の代から幾たび、幾十たび行ったことか。あの店の皿が薄く、それへ牛肉が並べてあり、少しく汁が残ってゐて、それを女中が鍋の中へあけてゐた。うまいのは結局タレのせいであったらう。(タレは正しからずワリシタが正しいと後年聞いたが)
○風月のアスパラガス――金子姉上に銀座の風月堂で御馳走になり、その中のアスパラガスにマヨネーズの(そのソースの味だ、これは)味。
 子供のころ、結局自前で食ったのでないと思ひ出も身につかなくて、此の位しか思ひ出さない。あゝまだあった。
○来々軒の支那そば――生れて初めて浅草の来々軒へ、伊藤隆三郎氏に連れられて入り、食べた支那そばの味が、しみ/″\うまかったこと。
 それは小・中学生の頃の思出だ。
 中学から高等学院、そして大学、その間の思ひ出では、何と言っても、
○稲門ベーカリーの西洋料理――大学生としては贅沢の極みであった、船のコックをしてゐた大山といふ肥った童顔の男が、フランス料理の腕、しっかりしてゐて、父上の亡くなられた時、四十九日かには此の男に一人前七円か八円の(当時としてはかなりの料理だ)を造らせて、親類に馳走して驚かしたことがある。そのコックによる料理を毎日食ってゐた、何年間か毎日――学校へ出ないで此処でトラムプをしては、昼と夕とのスペシァルを食ってゐたのだ。その間、ブーフ・アラ・モードの味を覚え、カネロニーやその他フランス料理の一と通りを覚えてしまったのだ。そのスペシァルを、わづか五十銭で飯付きで食はしてゐたのだから此の店は結局潰れた。かの大山コックは何処にゐるであらう。
○A・1のビフテキ――菊池寛氏に初めて連れて行って貰ったエー・ワンは、小さな店であった、その時の食べたものが、ポタアジュにビフテキ、ライスカレー、ソーダ水にバゝロアであったことも覚えてゐる。バゞロアが殊にうまく、すぐ二三日して食ひに行った。
○独逸食堂の独逸料理――これは震災前のこと、誰に連れて行かれたのか、今の銀座三越のところが山崎洋服店で、その裏通りに何といふ名かドイツ人のやってゐるドイツ料理があった、そこの定食があんまり量が多いので、食ひ盛りの頃だったのに僕は参ったことを覚えてゐる。
○スウィートショップ――新橋駅の近く、これも震災前。スウィートショップといふ店、そこのサンドウィッチその他の――その頃酒を覚えたので、酒の肴のうまかったこと。
○大阪アラスカの蝦のニューバーグ――これは震災後だ、アラスカがまだ北浜のせんだんのきばしの橋畔に小さな店だった頃、竹川のおふみさんと行って食べた、ロブスター・ニューバーグの味、そして二人でその頃十円ばかりの勘定だったこと。
○川口町天仙閣の支那料理――大阪川口町へ谷崎潤一郎氏の御馳走で行って食べた時の支那料理、今で言ふ代用食みたいな支那のパン(ファンツウと言ったか)の味。
○神田×月楼のやきそば――東洋キネマ横の小支那そば屋のやきそば。(震災前)
○雑居屋の洋食――浅草区役所前、後のカフェー・フランス、雑居屋のシチュウその他の味。(これも震災でなくなった店)
○ホシ・カフェ・テリヤ――これも震災前、純アメリカ式のテリヤだから、うまいものゝあった筈もないが、目から来るあの清潔感、フレッシュな食物の色が、どうも思ひ出される。

 と、これから近代篇に入る。まだ/″\学生時代に忘れられない味があるやうな気もするが、思ひ出したら、補遺することゝして。
 近代篇は、先づ浅草から始める。役者になりて九年目、二年目から二年半を夢の間に送った浅草は、昼夜二又は三回の芝居をつゞけてゐたこと故、食ひものも縁があり、随分と食べ尽したものだが、さてうまかったなといふものも思ひ出せない。その代り安かったんだからしようがない。浅草の食ひものゝ特徴は安いことに違ひない。
 一ばん浅草でのブルジョワ食は、先づ金田のとりだが、僕これを好まず。中清の天ぷら又好むところでない。牛鍋は、松喜が随一、此処のワリシタは先づ現在の東京のお職だ。が、或る頃の冬、(金龍館の楽屋を常盤座で使ってた頃)渡辺篤と二人で一ヶ月ぶっ通しで、松喜の肉をとりにやって、石鍋で焼いて食ったことがある。楽屋で四つ足を煮て食ったので、渡辺はお稲荷さんに叱られた夢を見たさうだ。いゝ肉であった。
 然し浅草の食ひものと言はれてすぐ思出すのは、みや古だ。みや古の二階の小間へは、殆んど浅草生活の中の何分の一かの毎晩、誰彼を連れて行っては、専らウイスキーをのんでは食ひも食ったものである。日本料理のいはゆる小料理屋であるが、大衆的な、と言ふより家族向きの料理で、玉子やきやあんかけ豆腐、さはらの西京焼などが僕の常に食ふところ、冬は鍋ものゝ湯気を立てつゝ、ウイスキーの飲めたのは此処一軒であらう。ウイスキーは、ジョニーオーカーの赤を、一々小さなオモチャのやうな壜に計って入れて来るのが、一本五十銭、これが小コップ二杯分近くあった。夢のやうである。こいつを少い時で六七本、ひどい時は十六七本並べたものだが、何しろ安いので、此処の払いで廿円を越したことは、めったになかった。それで大てい小間に一杯、四五人から六七人で飲み食ひしたものだ。有名なみや古の娘おたけさんはゐなくなり、その妹の、これも中々美しいのが、突けんどんなサービスも清潔でよかった。浅草から離れてからも時々訪れたが、昨今では時間が無いので、まるで行かなくなった。
 安くてうまい、といふのが来々軒、こゝは昔――震災前ほどではなくなったが、やっぱり分厚なものを食はせる、焼売など、又中華丼・雲呑がよろしかった。もっと安いところで、通俗ジャンケンといふ支那そば屋のカツ丼なども二十銭位で結構いたゞけるものだった。
 洋食では、浅草にはうまいものはない。カフェー浩養軒は、ちょっと食はせるが、出前はしない。楽屋へ一ばんよくとったのは公園裏の大阪屋の洋食、それも冬の丼シチュウて奴が、赤と白とあって、(トマトとホワイトシチュウの二色)こいつを両方とって平げたものだが、公園裏の花柳界目当の洋食屋で値段は相当よかった。
 公園には、ニコ/\などゝいふ楽屋などへの出前専門の店もあり、そこの飯をとって、毎日屋からおかずを買はせて食ったこともある。毎日屋(今はない)は、昆布巻だの芋の煮たのなどを売る、おかず屋である。
 然し公園生活で一ばん忘れられないのがみや古なら、次にハトヤを忘れてはなるまい。
 ハトヤは、公園劇場前金龍館寄りにあるコーヒー屋で、一日にコーヒー何千杯売るといふ、小さい店だが、此処のミルクコーヒーなど、浅草の何年間に何千杯のんだか分らない。コーヒー五銭ミルクコーヒー十銭で、一と月の払ひが三十円を越えた。コーヒー以外、ホットケーキやみつ豆もうまくて、大衆的でゐ乍ら味がよく、丸の内へ来て一ばん恋しいのは、ハトヤである。舟和のみつ豆は昔から評判だが、びっくりぜんざいの白い五銭のアイスクリームもうまかった。観音境内の松邑のしるこ、グリーンのぜんざい、道妙寺の餅の入ったのなど、今でも食ってみたくなる。
 先づ浅草の食味の思ひ出は此のへんであらう。
 これからが現代篇となる。
(が、さて食ひものゝことを書くのはたのしい。)
 何と言っても、此の初めに書いた如く、M・M汽船の本場フランス料理の味は、とび離れたすばらしさで、一寸これに続くものが無い。そのメニュを出して、わづかに思出すくらゐが、楽しみだ。
 やっぱり外人の手で作られたのは、違ふ。マルセル・ルキエン家の食事、麻布のシェバリエ家の食事も、何となく日本ばなれのした味といふので思ひ出せる。
 小石川の三井邸のすっぽんのクリーム煮も忘れない、礼儀正しいフランス料理だった。
 フランス船の料理を食ふ迄は、帝国ホテルのグリル、ニュウグランドあたりの味が最高と思ってゐた。
 丸の内へ出るやうになってから、マチネー以外は夕食を楽屋で食ふこともないので、出前の料理は知らない。丸の内・銀座あたりの食味――と言っても洋食専門だが――を順に批評してみよう。
 帝国ホテル・ニュー・グリル――スープ、ゼロ。ポタアジュもコンソメも。オニオン・グラタンが先づ及第。フィレソール・ボンファムが此処第一の味。パンケーキ・シュゼットの媚びるやうな味も今は夢。スパゲティは自慢に価せず、むしろカレー・ライスをいたゞきませう。
 ニュウ・グランド――此処ではスープが第一。殊にポタアジュ、それもトマト・クリームと来たら、他に求められない味。一皿盛りがタップリしすぎて、いろ/\食へないのが困る。
 東京会館――そしてプルニエ。魚を好まないので、グリルの方がおとくゐだ。スープと料理と共に及第だ、アイスクリームやコーヒーまで良心的なるがよし。
 スコット――いつも同じ乍らコーヒーカップでのませるポタアジュと、スパゲティをとる。
 アラスカ――味の素ビルの方は御無沙汰、銀座の店。スープよろし、料理もいゝが、何となく居心地のよくないうち。
 風月堂――スープのぬるいのが欠点、そして薄いのが。魚もの殊に、ノルマンディ風のものがいゝ。こゝも隅々まで良心的でいゝ。名物は焼き立てのスウィトポテト。
 ふた葉――遠く渋谷へ飛ぶ、おきまりの定食。煮こゞりの出るオルドヴル。ポタアジュうまし。
 他、近頃出来たリッツのホテル風料理もいたゞける。A・1も一と通り。
 お話は、支那料理に飛ぶ。
 支那料理で、いつ行っても失望しないのが、
 偕楽園――日本ばし。日本化された淡彩の支那料理だが、毎日メニューが替り、当った時は、とってもうまし、いつぞや食べたショーエン豆腐他一品忘れない。
 晩翠軒――が、その次か。掛炉焼鴨の味常にいゝ。
 浜の家――これはあんまり何時行っても同じなのでいやんなるが、まづくはない。
 陶々亭――二流の上。
 山水楼――高く出すとうまいものを出す、安いと食へたものでなし。
 支那から天ぷら。
 三直――こゝが一ばん、他はづっと落ちる。昔風のつまり天金・橋善のこってりしたのは好みに合はず、つまりは関西風の天ぷらなのだが、多く食へば必ず胸やけるのであるが、こゝのは油がいゝのか、ちっともそれがなし。但し高い/\。
 天八――次は此のへんか。アスパラガスの天ぷらなんぞ出す。
 はげ天――名物食堂の支店へ行くのだが、安くてうまいのはこゝ。尤も日によって――油が煮つまるせいか、胸やけあり。
 これについで、清月など、胸やけの代りに安いといふ組。
 ゲテ洋食をついでに拾ふと、これはゲテ中のブルジョワだが、
 いんごうや――ビフテキと子供だましのライスカレー。然し時々食ひたくなる。
 八洲亭――いはゆる洋食、ガラスのびんづめでお燗した正宗チビ/″\で食ふべきもの。
 石川亭――渋谷の券番近くの西洋・支那両刀の店。ゲテ味のコロッケ、ビフシチュウなど、これ中々良心的なり。支那の方も、肉団子スープと称するものなどうまい。
 遊ぶところで、とって食べるものでは、新ばし――プランタン又はスコットの洋食。赤坂――もみぢのシュウマイ(これは素敵)支那料理。カラス亭のパンコーキール他洋食。田原屋の洋食。
 下谷――清光亭の合の子。蛇の目のすし。牛込――田原屋のオルドヴル。
 コーヒーその他も書けば、
 コーヒー――第一銀座のビーコン。耕一路。尾張町フジヤ。エスキーモ。渋谷ウインナベーカリー。
 お菓子は、(と、まあよくこんなとこ迄書くよ。)風月第一、コロンバン、トリコロール。
 とさて、地方へ行かう。何と言っても一ばん食ひものにめぐまれたるは大阪。こゝでは、アラスカ、ニュウオサカ、ニュウグリル他洋食はあれど、大阪では洋食を食ってゐては損、日本食がいゝ、つまり関西料理。
 先づ第一に、丸治――ガスビル裏の丸治の料理、お値段もいゝが、うまし。
 その他、重の家、かどの、鶴市、吉兆おの/\特徴ありてうまし。伊せやのすっぽんは、僕これを京都大市に劣れりとなす。天ぷらは、古き梅月の大きなかき揚げもよけれど、広重の小さなカキが忘れられない。川口町の支那料理では天華クラブがよし。
 一寸人の気のつかぬところに、宝塚ホテルのグリルあり、こゝの食事、ロシヤ風のスープなど中々よろしく、又デザートの豊富なること日本一なり。
 神戸へ行かう。
 先づ、ベルネ・クラブの洋食、一円何がしの定食も上等だが、前以て注文しといたら、とっても日本ばなれのしたものを食はせる。その他流石外人相手だけに、うまい洋食屋が多く、アルプス・グリル他いろ/\あるさうだが、まだ行き尽せない。三宮バーの二階、安くてうまい洋食が、決してゲテでなく、二十銭のスープが、とてもよし。支那料理では、中華第一楼・博愛等安い/\。平和楼の日本化された味はやっぱり買へる。
 京都では、
 洋食はアラスカ一軒。三養軒、南食堂の結局西洋料理より洋食の部。
 大市のすっぽん、その他瓢亭や何やかやとこっとりした味があるが、僕としては、京都で先づ食ひたいのが、円山の芋ぼう。牛のすきやきは、おきな、鹿の子、三島亭。そして、山家料理の鳴瀬も名物の一つに数へたい。
 名古屋、こいつはいけません。
 洋食はアラスカ一軒、観光ホテルのグリルより、むしろ広小路のシキシマパンへござれ。
 得月、おなやの料理より、かもめの角煮がよろしい。夜店のドテヤキ、チャーハンと下れば又他地になき味あり。朝日ビルの地下で天ぷら、すしを食ふのが無事。
 こゝらで食ひ話はおしまひにするのだが、断はっておく、右は皆去年あたり迄のことで、今年に入っては、もう二円半・五円と限られたから、何処へ行っても前のやうなものは食へません! あゝ。

補遺
 東京の牛鍋――第一松喜、今朝。タレが、おっとワリシタがいゝ。と言っても昔の三河屋みたいなわけには行かず、むしろその味をしのぶには牛込ゑびす亭がよい。ゲテとして、うつぼのブツ切りあり、下の下。





底本:「古川ロッパ昭和日記〈戦前篇〉 新装版」晶文社
   2007(平成19)年2月10日初版
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「憂鬱」と「憂欝」、「バゞロア」と「バゝロア」の混在は、底本通りです。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2014年10月13日作成
青空文庫作成ファイル:
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