古川ロッパ昭和日記

昭和十一年

古川緑波




前年記



 昭和十年は、浅草から丸の内へといふ、僕にとっての一大転機の年として記念すべき年であった。
 昭和七年一月宝塚中劇場のスタート以来、七年一杯をわれらがレヴィウ「悲しきジンタ」の大阪松竹座、浅草大勝館公演と、帝都座の「海のナンセンス」等、小やかなアトラクション俳優として過し、その暮に、新橋演舞場のカーニヴァル座結成、昭和八年正月の公園劇場出演、二月の大阪・京都吉本興行の寄席廻りと、名古屋松竹座出演を経て、四月浅草常盤座に「笑の王国」旗挙げ、之が意外の当りで、つひに昭和八年四月から、昭和十年六月まで、浅草の役者となり、漸く力を養ひ、昭和十年七月、東宝へ一座を統ゐて転じ、初めて名目共に古川緑波一座としての公演を開始し、横宝、有楽座、日劇、宝塚中劇場に出演し、中でも日劇の「歌ふ弥次喜多」の大当りに、漸く僕の名が丸の内を中心に、東京的になり、全国的になりつゝある、といふ現在である。
 短い間に、役者修業もし、ショウマン的苦労もした。
 すべては、これから。準備は出来た! これから出帆である。
 役者となりて五年目の春、いざ、はり切って進まんかな。
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昭和十一年一月



一月一日(水曜)

 京宝劇場初日。
 宿で、屠蘇・雑煮。屠蘇は甘味なく、雑煮は白味噌の汁なり。夕刻、思ひついて相鴨のすきやき、青い葱と水菜がうまく、たっぷり食って、宿を出ると、つい二三丁のところ、京宝劇場、今日初日で夕五時半から一回。入りは満員。一の「学校友達」では、客が乗ってない感じで心配したが「ガラマサ」の一景で安心した、笑ひすぎる程よく笑ふので、セリフの次が出ない位だ。五景迄無事だったが、三味線ひきの爺がひどくて、肝腎の義太夫のクライマックスが、てんでいけない。代へて貰はないと芝居が出来ないと言っておく。「歌ふ弥次喜多」は、大受け、先づ安心した。徳山と岸井が、今夕四時に着いたが、二人とも風邪をひいてゐる。初日ながら十時打出しの好成績。宿へ帰り、かやく飯を食ふ。吸入かけてねる。
 京都の客は、女が多く、よく笑ふ。但し、ニュース的神経はなく、たゞ可笑しいものが可笑しいと云った型なり。宝塚はインテリ風、京都は一口に素直と云ふべきか――さて名古屋は何んなものか。


一月二日(木曜)

 京宝劇場二日目、今日より二回である、十二時すぎ楽屋入り。もう満員である。「ガラマサ」又三味線でくさったが、受けることは驚くべきもの。「歌ふ弥次喜多」も、ワッと笑の波のどよめき具合が日劇を思ひ出させた。一回終り、部屋でカツレツをとって食ふ。島村来り、二十二日初日の日劇アトラクションについて話す。結局僕が書くより他はない、やれ辛し。夜の部、もう満員。芝居はうまく行ってゐるのだが、暗転がマチ/\でくさらされた。要するに此の劇場は人間が不足なのである。ハネ、九時四十五分。調子よくないので、宿で吸入につとむ。


一月三日(金曜)

 座へ十二時半に入る。満員である、「ガラマサ」の義太夫老人スリッパはいたまんま舞台へ出たりして面喰はせるが、何うやら呑み込めて来たらしく、今日は我まん出来た。「弥次喜多」の受けるの何のって日劇の三分の一位の人数でゐながら、丁度あの位笑ふ。昼がすむと、デリケッセンからランチをとって食ひ、少し休むともうすぐ夜だ、「ガラマサ」のセリフ二三警察から、つまらんとこをカットせよと言って来たのでやりにくかった。入りは満々員。九時四十五分ハネ。やれくたびれることだ。宿へ帰り、をきなから牛肉をとって、すきやき。


一月四日(土曜)

 今日は実に神経を使った。昼の部の「弥次喜多」で廻り舞台のモーターがこはれて廻らなくなり、暗転がやたらにのびる。大道具が素人ばかりなのでガタンピシン大きな音をたてるし、もう一々世話がやける。漸く昼が終ると、土地の親分が来て、たってのたのみで、意味なき奴らの前で、一席喋らされ、くさってすぐ戻り、デリケッセンで食事し、楽屋へ入ると、秦豊吉から「ニチゲキノキヤクホンドウナツタ」と電報、人の気も知らないで、畜生何言ってる。今日も昼夜共満員なり。咽喉本当の調子が出て来た。


一月五日(日曜)

 昨夜は宿で麻雀したので四時近くねた。朝食、グジの味噌漬など。今日も昼夜売切れ。吉岡専務来京、「ターキーの南座は満員にならないさうだ、こっちはいゝね」とホク/\だ、日劇の脚本は、八日一杯位に書き上げてしまふと約束する。毎日々々頭の中をそれが往来してゐてとても辛い。「ガラマサ」で、火鉢に火箸が無くて、芝居が出来ず、小道具にカス。毎日決してエラー無しのことがない、いやんなる。楽屋中風邪ひき大流行り。一回の終りに十五銭のむしずしを食った。ハネ後、をきなで、すきやきを食ふ。徳山・岸井と、三月の芝居の話に花を咲かした。


一月六日(月曜)

 今朝は、風邪ッ気の気分で、咽喉はガラリといけない、先づくさる。朝食して、座へ出る。昼の「ガラマサ」の義太夫とても苦しく、いつも程ゆかず。昼の部終ると、やれ/\と一休み、デリケッセンの一品にパン。今日は白いものチラ/\するかと見ると又照って又チラ/\といふ、よっぽどの寒さ。夜の部は、丸西醤油店の買切で、ひどい客、「ガラマサ」は、てんで受け方半分、それが「弥次喜多」では大受け、此の本の大衆性に又自信つく。調子かなりひどい、養生しよう。


一月七日(火曜)

 今朝十一時起きると咽喉の具合悪く、奥へ入った模様、憂鬱なり。今日、大文字屋を引きあげる、宿代を払ひ、茶代を置く、三十円也。座へ出る。調子ちっとも立たず、くさりつゝ演ず。一回終るとデリケッセンのカツと、コーヒーに、トースト、ハム、ホットケーキと豪遊し、ねころびて揉ませる。夜の部も調子出ず、くさりつゝやる。ハネて、岸井・徳山と共に、三島ですき焼を食ふ。此処サービス悪く、いゝ加減きりあげて、寒い街を歩いてホテルへ。五階の五一一号室。同宿の岸井・徳山・三益来室、一時迄ムダ話してしまったので、今日は本を書けさうもなし。
 日本宿ってものは、何う考へても、非能率的で、非事務的だ、きっとホテルはその反対のものだらうと思ひて、引越してみると切実にその通りなので呆れるばかりだ、仕事をしようなんて時は、何うしてもホテルでなくちゃいけない。


一月八日(水曜)

 四時近くに眠ったと思ったらすぐ地震で眼をさまし、漸くねて、今朝は十一時半迄。下のグリルで、オルドヴルとポタージュにハムエッグス、紅茶に菓子で三円半、チップ共四円かゝる。これじゃ高くついてかなはない。座は、今日も売切。調子昨日より少しいゝ、声はガサ/\だ。幕間にむしずし食った。夜の部は丸紅商店てのゝ買切で、客はいつもより高級だ、大笑ひはしないがよく分るらしい、「ガラマサ」よく出来た。「弥次喜多」では、徳山が丸紅小唄をうたった。ホテルへ帰り、仕事するつもりが徳山・岸井・三益乗込みで話し込んでしまひ、一時になった。それから原稿紙出して仕事にかゝる。


一月九日(木曜)

 昨夜はそれでも十枚ばかり書いた、ねたのは四時近い、今夜徹宵で書き上げる気だ。十一時に起きる、トーストとハムエグスをとり、すぐ出かける。座は今日も昼夜満員、千秋楽迄売切ったらしい。一回終りに菊池氏にきいた祇園の十二段家って料理屋へ行く。一人で鴨なべ、鯛さしみ、白出し、鴨ロースに幕の内と、たんのうする程食った。今日、轟と島、二人の踊り子丸トチリしたので楽屋へ一時間立たせろと言っておく。徳山・三益・岸井と四人で四海楼の支那料理食って、ホテルへ帰り、今一時近く、之より仕事。


一月十日(金曜)

 昨夜、ベッドの傍へ机をよせて、日劇用の脚本を書き出した、辛いと思った、二回芝居をやりながら――それも健康状態でない時なんぞ、やっぱりスラ/\と書けない、隣室に橋本啓一が寝てゐて出来次第東京へ持って帰らうといふのだが、ついに音をあげちまひ、橋本の室へ行き、書けないから、「女優と詩人」でもやることにしようと話し、五時にねた。十二時に起き、グリルへ下りて食事し、座へ出る。今日も昼夜満員、全く売切。調子は又いけない。耳鼻科の亀谷といふ医者に往診して貰ふ。夜は、きん鍋て家へ、松竹少女歌劇の連中などゝ行った。ウイスキー初のみ。


一月十一日(土曜)

 昨夜ウイスキーをのんだが、咽喉さほど悪い状態ではない、きこえる程度には行く。グリルで朝食、ポタージュにフライと玉子のグラタン、それにオレンヂ・ジュースをふんだんに飲んだ。座へ出る、昼の部満員だが、何うもダレちまった。一回終ると、ビクターの招待でちもとへ一寸顔を出す、間に、昨日の医者来た。ホテルの洋食弁当を食べた。夜の部、長尾新輔や中学同窓の岡村・川野来訪、「ガラマサ」ハリ切ってやった。今夜はホテルで、ゆっくりしたいと思ってゐたが、J・Oトーキーの池永浩久・大沢両氏の招待で、木屋町の玉房へ。帰りに舞妓など連れて、三養軒へ行き、色々食ふ。日劇「大番頭」にしないかとの電報、よからうと言ってやる。


一月十二日(日曜)

 京宝千秋楽。
 毛布を下へ落して、浴衣一枚でねてた、調子ます/\いけなくなるわけだ。徳山・三益と三人で、アラスカへ食事に。小林社長夫人がゐた。京都のアラスカも中々うまい、オルドヴルうまし、ポタージュに、鴨とスパゲティ、ティムボールドリアン等。座へ出る、十二日間完全に売切、「弥次喜多」の一景で、まるで声が出なくなったので驚いた。少し驚かした方がいゝから、医者に、絶対休ませねばいかんと言はせる、皆相当あはてる、当りまへだ。でも夜を一生けんめいつとめて、めでたく、シャン/\。きんなべへ行き、相鴨のすき。
 調子やる、ってことは全く妙なもので、熱も出ないのだが苦しい声しか出なくなる、あと二十日ばかり、立て続けに働くかと思ふと実に気が重い、結局此の酷使は誰がさせる! 癪にさはってたまらない。


一月十三日(月曜)

 名宝劇場初日。
 一時三十六分のツバメで、岸井・徳山共々名古屋へ向ふ。淡谷のり子・田村邦男等同車、食堂でデブばかりで寄せ書きを書いたりして楽しく名古屋へ着く。ホテルへ着くと、岸井うなり出し、今夜は休ませようかといふ状態になった。劇場、ホテルのすぐ近くなので歩いて行くと、殆んど空席なしといふ入り、先づ喜んだが、「ガラマサ」二景の半頃から、声がまるで苦しくなって、次の「弥次喜多」がつとまらないって気がし出した。一休みして、僕は、倒れてもやる、然し、善後策は考へておいて呉れと言ひつゝ、「弥次喜多」出る。細々とした煙のやうな声をふりしぼりて、何うやらおしまひ迄漕ぎつけた。岸井は、八度以上熱が出ちまって、とても出られさうもないので、九重京司に代役させた。ハネると肉が食ひたくなり、小尾悦太郎って老人に御馳走になる、小林社長の親戚で、名宝の相談役の由、それじゃ甘ったれろと、肉食はして下さいと言ったわけ。山まんてうちへ、徳山と三人で行き、東宝のいけない話をうんとした。小尾さんも大いに喜んで「初めて逢ったやうじゃないね」とくつろいで呉れた。ホテルへ帰ったのは十二時、吸入大いにつとめ、ベッドへ入る。
 次の弥次喜多は代役させようかと思ってゐるところへ、徳山が来て、「岸井のとこは何ういふ風にしよう」と言ひに来た、それどこじゃないって気持なので「今、人のことなんか分らん」と、ニベもなく言っちまった、徳山はくさってゐた、これは僕がいかん、徳山にあやまっておいた、何うも我がまゝすぎる。注意しよう。


一月十四日(火曜)

 スチームがカチャン/\と音を立てるので三時すぎ迄ねられなかった。十二時に起きる。東京から川島順平が来たので、下の食堂で「大番頭小番頭」日劇アトラクションの準備。そこへ昨夜の小尾老人が迎へに来り、河文といふ料亭へ。名古屋新聞の森一兵・井口等を招いての会食、皆小尾老人の骨折、料理は関西とも関東ともつかず、つまり名古屋式か。あんまりうまくはなし。帰りに大毎支局へ挨拶に寄る。当地では他の各新聞とは喧嘩してゝ挨拶に廻る必要なき由。ホテルへ帰ると、P・C・Lの岡田敬・佐々木能理男が、「弥次喜多」撮影の打合せに来てた。座へ出ると、夜一回だが、凡そ大満員で、補助椅子も出て、ギッシリ。声は昨日よりは少々いゝ。然しよく受ける。「弥次喜多」は、岸井を休ませ、九重が代役、ハリ切ってやってゐるが、これはぐっとつまらなくなってゐる。岸井はウンスー言って、ホテルでねてゐる、何うも大げさで我まゝで好意が持てない。ハネると、小尾老人が又来て呉れて、入江町のやよひといふ家へ連れてってくれた、酒のまず、かしわのすきやき、きしめんに、ぜんざい。一時すぎ辞してホテルで吸入。徳山と又話し込んで、ねたのは三時。
 京都ホテルのモダンで、事務的な感じにひきかへて、名古屋ホテルは古風で非事務的だ。廊下や階段は大した時代物で、徳山が「何うも連れ込みの感じだネ」と、全く少々その気あり。


一月十五日(水曜)

 十一時起き、入浴し――此のホテルのバスは感じ悪し――徳山と二人でアラスカへ行く。ランチだけでは足りないので、ヴィル・ピカタをとる。座に出る、調子とてもいけない。夜の「弥次」の歌をカットするなどして、強行軍するが、先が思ひやられる。そこへ電話で日劇の十日間は助けて貰へることになったとの報せ、ホッとした。ハネるとすぐ、旧友福島利通がすゝめるので彼発明のオゾン注射を、咽喉へして貰ひ、帰りに一引といふおでんやで野菜ちりを食ふ。一時半帰り、徳山・三益と三時まで話し込む。


一月十六日(木曜)

 十二時起きる。徳山と一緒にアラスカで食事。昼の部は、小尾老人の骨折で廓連、盛栄連の連中あり、賑か。尤も満員にはならない、名古屋って昼の利かないとこださうで、これなら上の上って入りださうだ。調子昨日より稍々楽だった。一回終ると又、徳山とアラスカへ、徳山は美食したことがないので、あんまりうまいもの食ふと酔ふさうだ。夜の部は大満員、義太夫の時、声が大分出た、出るといつもの倍受けた、だから調子やってるのは辛いてんだ。


一月十七日(金曜)

 昨夜ウイをのみ、熟酔して十二時に起きた。ヘントウセン痛けれど、声の方は稍いゝらしいので嬉しい。おそくなったので、ホテルの食堂で食事、いやそのまづいの何のって呆れけり。座へ出る、ひるはとても一杯にならぬ。一回終りに徳山と二人、アラスカへ。ポタージュとビフ物一つ、菓子食って座へ帰る。「ガラマサ」の義太夫もグッと声が出て、ワッと受ける、調子が出ると受け方グッと違って来る。「弥次」の地声の方がまだ出ない。ハネ後雪の中を、一引へおでん食ひに。
 声の出ない位、舞台へ立つ身の辛いことはない。声をタップリ持って、自由に出す時の気持こそは天国である。休みの間、温泉にでも浸り、充分声を治さう。


一月十八日(土曜)

 十一時起き、ビクターの森田氏の招待で、徳山と二人、広小路の鯛めしや呑兵衛へ行く。昨夜来雪で、あたりは白し。鯛めしの水たきはまだよかったが、売ものゝ鯛茶のまづいことお話にならず。座へ出ると、雪にもめげず、土曜なれば昼も満員だ。「ガラマサ」の調子出るが「弥次」の方がうまく出ない。徳山と又アラスカへ行く。ブルガリヤのスープに、猪の肉(ワイルドボア)の火のついた奴を食った此のうまさ、殊に猪のうまさにしばし夢心地だった程だ。夜の部大満員だ。徳山曰く「二階は客がムクれ上ってゐる」夜も「ガラ」はいゝが、「弥次」調子出ない。ハネて芳蘭亭へ支那食、あっさり。
 沢村源之助の「一調子二芸三男」といふ言葉があるが、役者は第一が調子だ。僕などそれに恵まれてゐるのだから之からます/\注意して調子を大切にしなければならない。


一月十九日(日曜)

 名古屋千秋楽。
 十時起き。入浴して、アラスカへ、鈴木文四郎夫妻に招かれ徳山と二人行く。スープはポタージュ、犢の骨つき、キャビアのオルドヴル。満腹した。一時楽屋入りする。今日は日曜で昼夜共、徳山の所謂むくれ返る入りだ。一回終りに、ホテルへ帰り、払ひをする。五十円ばかり。夜の部は、「弥次喜多」の後半が中継になるので順をかへ、二に「弥次喜多」をやる。弥次喜多もガラマサも百回以上やったが、これで当分打切りと思へば熱が出て、「ガラマサ」大ハリ切り、義太夫など全然受ける。ハネて、吉例シャン/\/\。楽屋でビールの乾杯。小尾老人に招かれ、得月へ徳山・三益・柏・花井等で行き、ウイのみ、一時十七分で帰京。


一月二十日(月曜)

 夜のあけかゝり、をだはらで眼がさめた、寝台で眼鏡かけて、陽の出かゝった空を眺める。あゝ東京近し。食堂でハムエグスと紅茶。八時、東京駅着。円タクで帰宅。やれ/\。これで当分のんびり出来る。入浴し、食事して年賀状を見る、思ひの外少く二三百しかない。四時に銀座へ出てヤングで理髪、P・C・Lへ寄ると森さん不在、試写室でワーナーの漫画数本見た、とてもよろしい。それから銀座へ出る、何となく面白くなく、のむほどにねむくなり、千成ずしですしを食って帰る。


一月二十一日(火曜)

 十時半起き。食事をして、メンソレタム沢山土産に持って伊藤松雄のとこへ行く。結局三時迄も話し込んでしまった。それから丸の内へ専務を追っかけて行き、三益・鈴木・大庭に給金を上げてやってくれ、上山にも亦、それに柳に月給を出してほしいと申し出る。それから浅草へ。松竹座にエノケンを訪れ、暫く話し込み、常盤座へ行く、ヴァラエティと「青春五人男」を見たが、ハヤもう下品で見てゐられない。もう此の座も見込みはない。山野・サトウ・生駒とみやこで、ウイをのみて食ふ、此処は中々うまい。
 エノケンが二月の有楽座に確定し、出し物も「法界坊」その他と決定した。三月は、此うなると、こっちもゼヒ、有楽座へ出なくてはならぬ、三、四の両月を貰はなくてはなるまい。エノケンよりは、遙によきものを提供出来る自信はついてゐる。


一月二十二日(水曜)

 十時半起き、P・C・Lの人が沢山来り、応接でカツラ合せをやり、二月の撮影につき色々話す。中々急しくなりさうだ。昼食、柳・上山・大西と食す。母上と共に雑司ヶ谷の墓参をする。それからビクターへ行く。青砥に逢ひ、明後日家へ来ることに約束して、P・C・Lへ。森氏と会ふ、二十九日あたり熱海でゆっくり話さうと定めた。四谷へ。「キング」二月号の「坊ちゃん重役」ます/\よろしい、これはぜひやらねばならない。


一月二十三日(木曜)

 四谷より、午後出て、先づ浅草へ。「あきれた連中」を見たくて花月劇場へ行く。永田キング一党の「鼻唄シラノ」といふレヴィウ。永田キング、持味はあるが、俳優としては買へない、他の連中もひどすぎる。次が万才、一光の曲技、十年一日軽妙である。P・C・Lの「あきれた連中」は、面白い、エンタツ・アチャコのかけあひはふき出すこと多し。此処を出て、アラスカへ行く。一円五十銭の定食、食へる。それから帝劇へ行く。キートンの二巻物、エデュケショナルだ、淋しい。シリイシムフォニーの“Music Land”ってもの大傑作なり。


一月二十四日(金曜)

 十時半起き、青砥来訪、伊藤松雄の家へ連れて行く。雑談数刻、万事うまく運び、伊藤松雄ビクターの作詞をやることに定った。砧村P・C・Lへ、自動車乗りでがある。岡田敬・伏水修両監督と助手、こっちから上山と堀井で、打合せする、二月一日開始、月一杯にあげる予定である。五時から丸の内会館で加藤家親類の新年会。三円五十銭といふ会費のわりに少ししか料理が出ない。その上一向にうまくなし。銀座へ出て、堀井と会ひ、ルパンへ寄り、又ぞろのみにけり。


一月二十五日(土曜)

 雪盛なり、醒めて驚く。二時半、自動車来り、出る。日劇四階で月給を皆に渡す、三益・鈴木・大庭・上山、幾らか宛上った。柳を直属にすることは不許可らしい。今度のは旅の特別手当もなく、名古屋の借をひかれたから、いきなり貧乏だ。P・C・Lの「歌ふ弥次喜多」本読みあり、少々ゲスなのが困る。ニュウグランドで母上とオルドヴルにポタアジュ、卵と魚の飯と、アスパラガス、プディング、うまいが高し、二人で八円。六時半、新橋駅集合で、島村竜三・穂積純太郎、多和利一、ムランルージュの藤尾純と揃って、箱根環翠楼へ。久しぶり麻雀に浸る、メンバー五人ゐるので交代で休む。今、四回ばかりやって、さて一人、夜の夜中に温泉に浸り、あゝ人生はよろしきこと多しと思ふ。
 三月有楽座は八重子と定ったらしいので今日失望す。


一月二十六日(日曜)

 昨夜麻雀の支度が出来たのが十一時。溪流の音のきこへるところでテーブルを前にした時は、わく/\する程嬉しかった。久しぶりで、夜明し。いくら負けてもタマのことなり、それもよし/\といふ気持。午前十一時に、床へ入り、一時迄ねると、それッと又始まる。つひに終日今日も麻雀で明し、夕食を食ひ、之より又明朝迄やり、明日は熱海へ向ひ、勉強する予定。夜の三時迄やってるうち一万七千も負けた、もうやめよう/\と風呂へ入ってねた、アンマをよんで。


一月二十七日(月曜)

 二十何時間も打通しに麻雀をやり、背中の骨が痛み、爺さんのやうに腰が痛い、昨夜もうやめてくれと弱音を吐いて、風呂に入り、サトリをひらいた、今年からこんな時間潰しは一切やめろとの神の教へに違ひない、こんなにダラシなく二万点近くも負けるってのは。朝、十二時迄ねた。咽喉が痛い。困る。何うして此う弱くなったかな。環翠楼を出たのが二時半。熱海延寿旅館へ。すぐ入浴して、ねる。夜食牛肉すきやき食って又入浴し、又ねる。こゝは静かで充分ねられさうだ。


一月二十八日(火曜)

 まだ早いと思って眼がさめたら十一時だ。腰の辺が痛くて、お爺さんみたいに、アチゝゝゝゝと言ひたくなる。麻雀などゝいふもの、ほんとに人生の無駄の結晶だ。あゝいふものは、もっと暇でもっと不幸な人のやることだ、アチゝゝゝゝ馬鹿だな全く。朝食して、黙阿弥の「河内山」を読む。夕刻、延寿の板前出来のカツレツとビフテキを食ひ、床へ入りうと/\したと思ふと東京より柳来り、一泊して行く。森氏が明日来られるからうんと仕事の話しようとハリキる。夜、谷崎氏の「武州公秘話」を読始める。


一月二十九日(水曜)

 十二時に起きる。入浴し、パンと紅茶で朝食。まだ腰が痛いので按摩を呼ぶ。中々うまいし、第一強くていゝ。夕刻、柳が帰り、そのあと宿を出て、万平ホテルへ食事に行く。三円の定食高し、まづくはないが、普通。ジャマンベーカリーの菓子をお土産に、森氏着。すぐ食事。ホテルのが少量だから、又食へた。先づ「歌ふ弥次喜多」のプランを練り直し、P・C・Lのスター売出し方につきいろ/\意見をのべる。又、僕の一座のかため方などをいろ/\きく。森さんの話をきいて、僕の思ってることゝ一致したのは、エノケン一座の如く、やたらに人間をふやしてしまっては、結局座員の食ひものになるのが落、それより小さく一座を持ち、あと臨時々々で予算を貰ってやるべきだといふことだ、これはたしかにさうだと思ふ。


一月三十日(木曜)

 九時に、隣室の森氏が帰支度をしてゐるらしいので、ねむいが起きる。では又明日砧で、と別れ、氏は帰京。母上が伊豆山の相模屋に居られるので電話してみると梅林へ行って居られるとのこと。僕も行ってみたが、見つからない、寒風吹きすさんで一向に梅など観賞出来ず。相模屋へ行く。千人風呂へ入ったりしてゐると、母上帰られ、二人夕食する。食後浪の音きゝつゝ、葉書を九枚書き、さて明日は帰京なりと思ふと、それも亦楽しい。


一月三十一日(金曜)

 九時に起きる、十二時一分、熱海駅発で、砧村へ向ふ。母上は熱海ホテルへ寄って帰られる。P・C・Lへ行くと、岸井明がまだ病気で、出られないので、筋を変更しなければならぬといふことで一さわぎ。岡田敬や伏水の考へた筋では何うもいけないが、さりとてこっちにもいゝ知恵がない。テストとスチルをとり、それから自動車で浅草へ。笑の王国楽屋に遊び、又、松竹座のコロムビア実演のけい古場で川口と逢ったりして、みや古で皆を集めてのむ。
 橋本によると、二月の有楽座はエノケン、三月が水谷で、四月を東宝劇団にするといふ主脳部の意見らしい、こいつはたまらない、三月は我まん出来たが四月を東宝劇団にやらせて、こっちを旅に出さうなんて気なら考へがある、よし、明日かけあひに行く。
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昭和十一年二月



二月一日(土曜)

 十一時迄ねる。服部老が来て、榊・平林が博士になった祝の会場の相談、日本橋の井上がよからうから夕刻下見ママに行かうと約す。二時、東宝へ。吉岡専務ひとりである、約一時間にわたって、四月の有楽座を貰へないといふ法はないと言ふ。重々察しるが、之は社長命令で何とも仕方ないから辛抱しろ、三月は日劇でハリ切ってくれと言ふから、アトラクションはごめんだ、兎に角クサった/\と言ひつゝ、引きあげる。六時服部老と井上へ。オイル焼きと普通のすきとやる、たっぷり食ったが、美味いとは思はぬ。神田へ廻り、古本を買ひ、四谷へ。


二月二日(日曜)

 去年は八・十・十二の三ヶ月、歩の悪い月ばかり貰ひ、四月は大丈夫と思ってゐたのが五月迄待てと言はれた。これでは折角人気のついた僕一座が人気を失ふことになる。日劇は本興行にするならば、ハリ切ってやるが。今日は一日それを考へ、結局嘆願書を専務・支配人宛に書いてみた。夜、ラヂオの寄席中継をきく、金語楼がダンゼン他を圧してゐる。十時、新宿ベルハウスでウイをのみ、家へ電話をかけてみたら明日八時より撮影ときいて、のむ元気なくなり、すぐ帰る。


二月三日(月曜)

 午前八時集合となると、六時半起き、殆んど狂気沙汰である、食事急いで自動車で砧へ。開始は結局十時近く。オープンセット三島の宿。これで昼になり、近郊ロケで杉並木を撮る、腰から下が薄着だからたまらなく冷える。ロケーションて奴は、自動車が通る、豆腐屋が通る一々ダメでとても長くかゝる。撮影所へ帰って七時からのプレ・スコを待機する。七・八・九時――つひに今日は中止となる、ギタ弾きが不参のため。でも此う寒くちゃ、此の方がありがたい、新宿迄自動車、マルヤへ寄りウイをのみ、明日七時々々と思ひつゝ帰りねる。一時。


二月四日(火曜)

 大雪降る。
 今日は七時集合、近郊ロケ、夜八時に沼津へロケに出発。といふ予定。五時半母上に丁寧懇切に起される、まだまっくらだ。七時に着いたが一向集らない。なーんだい、全く映画って奴は金をよけい貰ひでもしなくちゃ馬鹿々々しくって出来ない。十時に近郊迄出かける。箱根関所のロケ・セット。天候此の頃より次第におかしくなり、白いものチラ/\、十二時四十分、今日は中止。雪が見る/\積り、今夜の出発はお流れと定り、では浅草へでものして雪見酒としゃれようかと漸く拾った円タクが、吹雪で動かなくなる始末、雪だるまとなって帰宅五時半。鬼は外福は内と豆を撒いて、十時頃ねた。


二月五日(水曜)

 十二時迄ねた、入浴し乍ら寝足りた感じを味はふ。それから専務支配人宛に、恨みつらみをつらねた手紙を書く、悪い月ばかり呉れて僕一座を殺す気か、四月は有楽座がいけないなら、日劇を本興行で開けさせろ、さもなきゃクビにしろと言ってやる。二時頃出て、伊藤松雄訪問、ぜひロッパ節を書いてくれるやうにたのむ。雪まだ市内に一杯、辷りさうで危い。日劇へ出る、支配人と専務二人ゐたので手紙を置いて去る。那波・樋口と銀栖鳳へ行き、ウイスキーをのみつゝ話す、那波は日劇を二回興行で開けるやう努力するからまあおさまってくれとしきりに言ふ、ルパンへ寄ると田中三郎に逢ひ、牛込へ行く。
 新聞を見ると、白魔のため、昨夜は各劇場内に客を泊めたりしたさうで未曽有の出来事である、五十年ぶりの大雪だった由、おかげでロケーション出発は、何うなることやら、この撮影しきりに祟られた。


二月六日(木曜)

 今日は一体何うなるのか、――日本映画界はロケーションにたよってゐては能率が上らない、よろしくセット本位で行くべしだな――兎も角十一時に起きる。何時電話があるか分らないので気が落つかない。服部老来る、博士の祝会は十七日と定める。ビクターの青砥、印税を持って来て呉れた、二百七十何円、二百円前借してるから七十何円だけ。やれ/\。四時頃、那波と樋口が来り、日劇の本興行は大体O・Kだが、十日間にして呉れと言ふ、それはよろし。徳川・大辻を入れて「凸凹放送局」を再演してみようかと思ふ。夕方家を出て、辷りさうな道をヒョロ/\歩いて、浅草へ。生駒・菊田等とみや古へ。
 三益が「ほんとに撮影なんてくさ/\する、此んなことをして喜んでる役者は、舞台の味を知らないからだ」と言ったが、正にさうだ。此うやって、天気とにらめっこして待機してゐるなんて、全くいやになってしまう。何と言っても舞台がいゝ。


二月七日(金曜)

 十時半に砧の上山から電話、「多分今日出発すると思ひますが、暫くお待ち下さい」とある、そのうち突如十二時頃「一時の汽車で立ちますから東京駅へ」と言ふ、それッとあはてゝ行ってみると、ナンのことはない、此処で待機とある、駅食堂で待ってると、今日は中止、多分明日の一時で出発、と云ふので、もう業腹だ、一っそ伊豆山へのしちまはうって気になり、四谷へ帰って食事し、五時半の準急で、柳と鈴木桂介、それに大西を連れて、伊豆山へ、相模屋へ着く。こっちは暖いと見えて雪が殆んど無い、四方山話してるうちにもう三時半。浪の音が耳につくからアダリン四錠のみて眠る。
 映画ってものはキチン/\と仕事しようとしても、ちっともはかどらない、結局此の生活が、映画独特のバカを造り出すのだ。待機って言葉きいてもブル/\っとする。


二月八日(土曜)

 十二時迄眠った、すぐ天候を気にする、曇り、雨が今にも降りさうだ、今日は一体何うなるのだ、全く嫌んなっちまふ、オール読物やモダン日本の約束があるから原稿紙持参したが、さてペンをとる気になれず、柳を相手に朝から五目ならべだ。漸く三時二十五分、一行熱海着。黄色い大きなバスで、伊東の先の峰温泉てとこ迄、何と三時間余、揺られ/\て行く、六時四十何分、峰温泉着。玉峰館て宿屋、一同此処へ泊る。夕食まづいが腹が減ってゝ大いに食ひ、食後禁を破って麻雀を弟子共相手にやり、二時に終り床へ入る、明日わりにゆっくりの由。
 ロケーションってもの小さい頃、小笠原プロの「愛の導き」で大磯へ行った以来だが、芝居の旅の方が、ずっと気分いゝ。


二月九日(日曜)

 徳山が、僕も鼾は相当なものだ、と言って、昨夜ねたら、さあいけない、プープーと吹いたり、グーグーと言ったり、これですっかりねそびれて弱った。今朝一番手の桂介等は六時から出かけたらしいが、陽が出ないので、僕が起きた十時半にはまだ一カットも撮ってないといふ。到頭三時頃駄目と定ったので、又麻雀を二回。まるで無駄な幾日、気が気ではないがお天気相手じゃ喧嘩にもならない。あゝやれ/\。夕方、罐詰買はして食事し、「オール」に約束の原稿八枚書いた。明日は一番手で六時起きといふことで十二時床につく。


二月十日(月曜)

 徳山の鼾が気にかゝり、寝ついたのは漸く三時近い、七時に起される。山の方へロケ。藤原の武士と桂介の盗賊がからむ、岸井が休んだので筋の変ったところ、まるで面白くなさゝうで腐る。六七カット撮ると、三益と上山と三人でハイヤで熱海迄揺られ、五時の汽車で東京へ。熱海で間があるので駅前の食堂で色々と食っちまひ、楽しみにしてた東京の洋食を食ひ損ったのは愚だった。日比谷公会堂へ。移動図書館の会で、三益の一人トーキー、僕、久しぶりで客の前へ出るのが嬉しくって二十五分、歌の話をしちまった(60)。樋口・風間と逢って三月の日劇打合。みや古でのみ、明朝五時に又引返すので夜あかし状態。


二月十一日(火曜)

 四時半に起きて、東京駅へ。上山・三益と落合って、又ロケ地へ引返す。まだまっ暗だ、紀元節の休日東京を後に、何と狂気じみてゐる。玉峰館へ着くと又、雪。これがカラリと晴れて、海岸で、舞坂の場を撮る。曇って来て七カットばかりで中止。寒いの何のって。終ったのが四時。宿へ帰って入浴し、腹ん這って日記。実は昨夜、東京で万年筆を落し、憂鬱である。夕食には、罐詰色々と開ける。七時頃から藤原等と麻雀し、十一時すぎ床に入った。又、アダリン四錠のむ。
 まがわるくって、東京へ帰りながら、うまいものを食ひ損ってしまった。宿屋の飯を食ってゐると、ひたすらホテルかニューグランドのオルドオヴルが恋しい。人生、それ何て食ひ物はいゝことであらう。でも罐詰など仕入れたので今夜はしのげた。


二月十二日(水曜)

 七時起き。今日は快晴らしい、食事するとバスで、今井の浜ってとこへ。舞坂の続きを撮る。昼食は宿の弁当を砂浜でひろげ、寒風の中で食ふ。午後は近くの街道筋で、道中姿を三四カット。之でロケはすっかり終った。四時半出発のバスで一同揃って揺られ/\て行く。徳山と二人で無邪気に大声で歌を歌ふ、伊東で休憩、カツレツを食ひ、すしやですしをつまむ。熱海を八時三分の汽車、P・C・Lの式で、一同三等、僕と徳山だけ二等。やれ/\東京よ/\、東京を満喫したい気持だったが、さて銀座へ出てみると、何だか一向に面白くない、やっぱり仕事が急しい時でないと遊ぶ気も出ないものだ。


二月十三日(木曜)

 久しぶり家の床の中でねる。十時起き、上山から電話、お待ちしてゐるから一刻も早く砧へといふこと。円タクで砧へ。行くと今日は僕のところは中止だと言ふ、呆れ返って物が言へない、全く映画は嫌だ。徳山も体があいたので、今日吹込の筈を一旦断った「歌ふ弥次喜多」主題歌を何とかして今日入れようと、兎も角ビクターへ行く。五時半から、「弥次喜多」吹込みした、何うにか行った。終って、青砥・徳山・柳でアラスカへ。オルドヴルとオニオングラタンとビーフピカタ。食っちまふと、欲にも得にも眠くなり、珍しや九時帰宅、すぐねた。
 今日の都にエノケンが、二回芝居に馴れてゐたのが、一回になり、フヌケみたいになっちゃったと言ってゐるが、何年と浅草にゐた者には無理もない、丁度今の僕は、それのもっとひどいのだ、体にも頭にもスキをこしらへるのは、全くいけない。


二月十四日(金曜)

 古今未曽有の気持、九時半から朝十時迄、よくねた。気の抜けたことには、今日も亦休養の電話がかゝった。全くフヌケになってしまふ。一旦起きたが又床をとらせ、菊池先生の秘書佐藤女史から望月美恵子の不始末について、詫の手紙が来てるのに対し返事を書く。ペラ十四枚の長篇。すっかりこれでくたびれちまひ、「モダン日本」の自伝を五枚ばかり書いたら精根尽き、気を変へてハイヤで丸善へ出てみたが閉ってゐる、伊東屋でウオタマンの二十二円五十銭の万年筆を買ふ。ホテルのニューグリルで、「都」の記者に逢ひ、「敵手を語る」で、エノケンを二三十分話す。グリルで、オルドヴルとオニオングラタン、コールドラブスターを食ふ。何うも腹があんまり空かないでいけない。
 からだが、のび加減で、頭がフヌケだ。ロケーションの間、飯を食ひすぎたので、飯の中毒だと思ふ。パン食をして治せばすぐ治る。尤も仕事がキチン/\として、からだを規則的に動かすやうになればすぐよくなるに違ない。


二月十五日(土曜)

 今日は九時開始と電話があった由、何うせほんとに始まるのは十時すぎだと多寡をくゝって、円タクで砧へ。結局十一時近くセットに入る。日本橋出立の巻で、同時録音で、やり出す。セットの地が砂を敷いてあるのでほこりのひどいことたまったものでなく、含嗽をやたらにやりながらやる。監督が二人ゐて、何っちも別のことを言ふし、土台の脚本が気に入らないので、単に俳優的にのみはり切ってやる。漸く午後十時終り、入浴し、さて之からプレスコで、二三歌をやるってとこで今度は楽師が揉めたとかで又のび、今、十一時、食堂でポツンと待ってる有様。終ったのがもう一時すぎ。
 いやはやもう映画ってものゝやり切れなさには悲鳴以上である。神よこれは何うしたらいゝのでせうか。


二月十六日(日曜)

 本来ならば休日なのだが、おくれてゐるので、休めない。八時半に徳山が迎へに来た。今日は夕刻迄にあげないと、徳山が明日放送で稽古がある。能率をあげようてんでどん/″\支度したが、始まったのは十一時すぎ、キャメラが何うしたのマイクが何うしたので又相当のび、一時の昼休み迄に三カットしか行かない。又々フヌケ状態となる。※午後もセット赤坂並木だが、何うもトン/\とは行かない、漸く五時すぎに終ったので、文藝春秋祭へ行く。何っち向いても知った顔ばかり。ウイスキーをのんで三益と万才をやる、酔ってるのでめちゃだったらしい(10)。八時すぎ井上へ、榊と平林が博士になった祝ひ。眠くて/\、帰ったのが十二時一寸すぎ、いやはや労れてゐるんだな。
 ※より先の日記は、何と十七日の日記であった。


 二月十六日
 もうよく記憶がないが、夕方撮り終って、みや古へ飲みに行ったのだった。
 二月十七日もたしか早くから撮影あり、夕方で終ってそれからあとが十六日の分に入ってしまってゐる。即ち頭がボッとなって日記が狂ったのである。


二月十八日(火曜)

 八時に起きる、今日は着くとすぐ開始、セット赤坂並木で、狐火が燃えたり、狐の侍女が出て来たりするところ、トン/\行って、十何カット夕方迄に済んだ。徳山が義理で横浜迄、選挙の応援演説に行かなければならないと気を揉んでゐる。六時半、撮影の合間に徳山は横浜迄すっ飛んだ。暇が出来たので、「モダン日本」の「自伝」のつゞき八九枚書いた。使に渡してホッとした。結局徳山が帰って来たのは十時すぎ、皆大迷惑、おかげで予定のセット一つ残り、二時アダリンのんでねる。


二月十九日(水曜)

 七時半に起きると徳山の迎へで砧へ。然し、徳山が昨日ちゃんとゐて呉れゝば今日の分は済んで、のんびりと寝てゐられたものを、何うも徳山にも時々困らせられる。結局十時すぎ開始、でも十二時半チョン。円タクで徳山とヤング軒へ行き、理髪しながらコクリ/\。ニューグランドへ行き、オルドヴルとポタアジュ(これがとても美味かった)犢脚の煮込、スパゲティ附。満腹して、ビクターへ寄り、中山晋平氏に「東京ちょんきな」を習ふ。もう一二度やればと自信つく。四時半、歌舞伎座へ新派を見に行く。「結婚の条件」よし。


二月二十日(木曜)

 久しぶりでたっぷり、一時から十一時迄よくねた。今日は五時開始なのでいそ/\と、先づ日劇へ行く。日劇四階で、那波と打合せし、出し物を定める。それから「東宝ダンシングチーム」が出てゐるので見る。よく揃ってゐる。それだけのこと。銀座へ出て、伊東屋でレコードの容ものゝいゝのがあったから一つ買った。中華第一楼で簡単に食事して、砧村迄円タク。七時すぎになり漸く開始、「歌ふ弥次喜多」主題歌のプレスコ。一時間余で上り、浅草みや古へ。生駒・山野を呼んで話す。又早いといふのに、のんじまった。


二月二十一日(金曜)

 今日が又九時開始、どうせ嘘とは分ってゐても八時に家を出る、果して開始は九時どころか十時半すぎ、馬鹿々々しい。午前中には、「モン・パゝ」を歌ふところ一カットやっただけ。テスト/\で四遍も五遍も歌はされるので、いよ/\本盤となった時は草臥れてゐて、何だか気に染まない出来だった。今日は四時頃終ると言って、六時すぎに、之から食事して始めると言ふ。そして明日は七時からロケだと言ふ、可笑しくって。つく/″\嫌だ。始まったのが七時半、万才のとこだけにスラ/\とは行ったが、それでも終ったのは九時廻ってゐる。千吉に柳等がゐるので円タクで行き、ウイをのむ。


二月二十二日(土曜)

 七時起き、食事もそこ/\、徳山迎へに来り砧村へ八時一寸過ぎに着いた。ロケは二子玉川の河原、吹きつぁらしのとこへ筵をしいて、待つこと何時間。冷たい箱弁を食ひ、「多摩の河原乞食だ」とくさりつゝ、漸く十二時半から三カット撮って終り。コンティユニティーをその場々々で作るのだらうが、七時に起されて十二時半じゃ怒りたくなる。之でロケが終り、夜はセットといふので、入浴して俳優部屋の一隅で二時間余り眠る。又、間の持てない数時間の後、漸く八時すぎからセットでほんの二カットでチョン。馬鹿々々しくて腹が立つ。帰りにマルヤへ寄る。
 午前八時から夜の十時迄かゝって、わづか四カットしか進まず、それもてんでたゞダラシなく此うなのだからアイソがつきる。まあ今回は終る迄黙ってゐて此の次は、コンティユニティはっきり見て、やらなくちゃ出来るこっちゃない、頭がボーッとしちまった。


二月二十三日(日曜)

 八時頃小便に起きると、又雪だ。十一時に起きる。霏々と降ってゐる。しょがないなア。P・C・Lへ電話してみると一時迄に来いと言ふ。そんなら先づ二時だらう。一時、自動車で砧へ。まっ白、たゞ降る中を。二時に着く。セットへ入ったのは三時頃か。夕刻迄二三カット、食堂でハヤシライスをパクつくと、又始まる。フィナーレ総踊りの場をプレスコアリングの音を出し、プレイバックする。と言ってもその間、停電が数回あったり、例によってぐづ/″\してゐるので、僕の体があいたのが十一時すぎ。今日能率上げたから、明日は休みといふことで元気づいた、今、徳山を待つ間、明日の休みに書くべき「さらば青春」の案を練る。


二月二十四日(月曜)

 今朝は十二時迄ねて、入浴食事。さて仕事にかゝらうと、部屋に床しいて、原稿紙を前にした。今日一日で書き上げるつもり、七八十枚のものにはなるが、強行軍でやっつけろ! と意気込んだが眠くなって来た。今日一日あると思ふと妙に怠けたくなり、レコードかけたりしてるうち大西が来たので揉ませながら書き出した、一景すら/\と出来た。入浴、夕食後三十枚、三景迄は中々面白くかけた。四景を書き上げて、一時だ、くたびれた。手が痛い。
「さらば青春」てのを書かうって気は随分前からあり、三年前浅草で「僕の青春」としてやったが、今回は藤山一郎を得て、自分は二役をとる考へで、今半分まで出来たが、若い学生の方の役が何うもうまく書けないので、中途で行きづまった。結局自分の役は一ばん書きにくいな。


二月二十五日(火曜)

 昨夜は結局四景を書直して、まあ/\気のすむものとなり、四時近くにそこで止めてねた。十一時迄ねる。P・C・Lへ電話してみると、今日は二時でいゝとの話、二時ってば三時だが、まあ一時すぎハイヤで家を出た。今日から三島の宿だが、やっぱりはかどらず、四時頃から声だけ一寸入れて、夕食して待つこと一二時間、こんな暇に書くといゝんだが、そいつは無理だ、何時呼ばれるかと待ち乍らでは、ストーヴにあたって愚談してるよりない。八時、プレスコで篭の鳥とストトンをやると、それでチョン。馬鹿々々しくって、つく/″\いやになる。九時四谷へ。


二月二十六日(水曜)

 七時半起き、四谷から砧へ。三島の宿の撮影してると、伏水が大変な事が起ったさうだと言ふ、今朝四時六時の間に、五・一五事件以来の重大な暗殺事件あり、首相蔵相等五六人、軍部の手に殺されたと言ふ、その後流言ヒ語しきり、何処迄本当か分らず、無気味な気持のまゝ、撮影を続ける。三島の宿五六カット。夕食後プレスコ。その合間々々に、「さらば青春」の案をねり、鉛筆で書きとめちゃあ清書する。此の分なら今晩書上げる自信ついた。八時きっちり、砧を出る。渋谷からの環状道路にタンク出動物々しい、ラヂオのニュースきいたらやっぱり事件はほんとだった。恐ろしい世の中だ、だが日本人は偉いとこあるなア。徳山と話し「こんな日は家へ帰って早くねるのが一番でしょ?」徳山曰く「さうだな」僕「こんな時だけが家がいゝんじゃないか」徳山曰く「さうだな」「然し此ういふ時いゝとこがほんとのいゝとこさ。」帰って九時夕食し、はらん這ひになり、十一時半、「さらば青春」七十二枚書上げた。有楽座で出すつもりが日劇になったので、グッと下げた調子で書いてみた、少し下げすぎたかと思ふが、受けることは大丈夫。二役早変りの僕の役、一寸ハリキリすぎてるが、ま、やらう。


二月二十七日(木曜)

 今朝が又早い。八時に徳山迎へに来た。昨日の大事件は各新聞に簡単に報道されてゐる、まだ詳しくは分らない。世間は騒然としてゐる。二月に芝居してなくてよかった。砧へ来るとすぐ支度、でも始まったのは十一時だ。上山に東宝へ脚本を持たしてやる。午後、川島順平が打合せに来た。夕食食堂でお寒く食べて、一休み。待つ間、「談譯」へ、森暁紀に一言書く。夜は、岸井のやった風呂の底抜けさわぎを僕がやり、裸になりふるへ上る、「金儲けは楽じゃない」浸々思ふ。終って帰ったのは二時すぎ、三時就床。世間まだ騒然たり。
 三月の日劇は大体左の如く決定、第一 凸凹放送局、第二 ガラマサどん、第三 さらば青春。
 強力番組と思ふ。


二月二十八日(金曜)

 又※[#「雨かんむり/方」、U+96F1、149-下-3]であった。
 今日は十時開始。もう馴れたから驚かない、砧へ着いたのは十一時だ。すぐセットへ入る。風呂場で、僕がさわいで底を抜くところ。熱い湯に浸っていゝ心持だがのぼせるので弱った。之が済んで今度は宿屋の庭、オペラのとこ。プレイバック。世間は愈々騒然となり、革命軍は千余名、赤坂の幸楽や山王ホテルへ分れて陣取り、之を撃たんと軍隊が取りまいてるのニュース、又、日劇その他の丸の内の劇場は軍隊に占領され、避難所となってゐるなどのニュース、続々入る。此んな時「篭の鳥でもチエある鳥はァ」なんて歌ってるのが不しぎだった。夕刻、P・C・L所長植村氏の説では革命軍引きあげ、平和に帰った、とのことだった。一時は今月は勿論、来月の芝居もだめかと思ったが、さうでもないらしい。と、又それがデマで、今にも市街戦が始まらうとしてるんだといふ。不安の中に、セットを続け二時近く迄やり、新宿でおでんとすしを食って帰る。深夜の新宿をタンクが通る、不安の中に更け行く。


二月二十九日(土曜)

 今日は撮影一日休み。十二時迄よくねた、此の騒ぎはきっと上野の戦争以来のことでせうなどゝ昨夜母上と話してねたので、お鉄婆さんの夢を見た。ラヂオは他の一切の放送をやめて専らニュースを放送してゐる。アナウンサの声も上づってゐる、山王ホテルや幸楽に陣取ってゐた叛軍が段々引き揚げて帰順しつゝあるとの報。先づ下二番町へ見舞旁々行く、うまくハイヤで道を選んで行ったので前迄行けた。ラヂオのニュースで、二時頃すっかり叛軍帰順を終り平和となった報あり。四時すぎ迄下二にゐて、それから四谷へ見舞、殺されたと思ってた岡田首相は健在なりとのニュースあり、呆れる。丸の内一帯の交通も許されたらしいので、日劇四階事務所へ行く。もう日比谷映画も地下ニュース劇場も、日劇も興行してゐる、平和である。那波と樋口とで打合せし、三月十一日初日三本立で行くことゝ定める。四日からけい古に入る。川島順平を呼び、高島と三人で、銀座で飲み、更くる迄語る。
 今度のやうな騒乱は先づ一生に一度ぶつかるか何うかといふ位、めったにない騒ぎであらう。それが二十九日午後四時頃、漸く鎮定し、丸の内辺の交通も復旧した、そしてその途端――六時すぎから、丸の内の日劇・日比谷・地下等の映画館は興行を開始した、と、どし/″\客が入って行くのである。これを見てゝ、震災直後にも娯楽復興の早さには驚いたことだったが、如何に人間が娯楽を求めるものかゞうかゞへて感心した。革命後のロシヤを見る迄もない、日本人にも娯楽は必需品だ。此の分なら三月十一日初日といふことは最もいゝ時機ではあるまいか。天に感謝する。
[#改段]

昭和十一年三月



三月一日(日曜)

 今日は砧へ行くとすぐアフレコを始める。それから今迄の中二巻分位の試写を見た、まるで僕の扮装が失敗だ、老けてゐる、五十位に見える。やっぱり手を抜かずにちゃんとメーキアップすればよかった。此の間「都」の記者が僕を海棲動物と言ったが、何うもそれなのだ。くさった。然し写真はきっと受けると思ふ。夕食後一休みしてセットで箱根関所、舞坂の残り、プレイバック三セットと、タイトルバックを撮る。午前一時半あがり。笑ふも泣くももう明日一日だ。これでチョンだ。やれ/\、一ヶ月全くくさり通した。帰らうとしたら、靴がない。下駄はいて自動車、新宿で徳山とすし食った。


三月二日(月曜)

 晴れてゐたらロケーションに川越方面へ行くといふので午前七時起き、徳山が来て一緒に砧へ。着いてみると天気は晴朗だが、雪がまだまだ残ってゐるので駄目らしいと言ふ。俳優部屋で徳山・三益と待機する、十二時近く迄ぼんやりしてたら、「中止」と来た。撮り残しは何とか胡麻化すらしい。然し知恵のないこった、僕が監督なら色々逃げ方はあるが、此の地獄から早く逃げたいから黙ってゐる。二時迄、試写を見る、益々自分の顔がいやんなる。これでもう撮影は終ったわけなんだが、何だかサッパリしない、へんな風に終ったせいか。ビクターから東宝事務所で打合せ八時迄。名物食堂のスエヒロへ寄り、東宝「バービー」見る。


三月三日(火曜)

 四谷へ帰り、一時半にねて、何と今日の午後三時迄ねた。それでもまだ寝足りた感じがしない。映画撮影は全く地獄だ。もう当分やりたくない。それにひきかへ舞台のたのしさ。今度の如く自信あるものばかり並べる時は一層いゝ。夕刻、菊池氏にきいた浜町の橋本て家へ牛肉食ひに行く、菊池氏は一ばんうまいと言って居られたが、肉はいゝが、タレが下だ、葱の切り方、肉に胡椒をかけて来るなど、すべて三島のやり方で、いたゞけない。夜は、珍しく一人で銀座へ出た。バーでも寄るとさはると、事件の話ばかりである。二時ねる。うづ/″\する程、明日の本よみがたのしみである。映画に比べて、何たる嬉しさか。


三月四日(水曜)

 十時になると起きたくなる、今日は本読み、と思ふと腰が落ちつかない。母上と途中迄一緒に出て、東宝小劇場へ。ビクター藤山・渡辺に大辻・井口・神田と揃って賑か。望月美恵子が謝り、何卒元のやうにといふことで、許すことゝし、ついでに座員に告ぐ、と一席話をし、「僕を神の如く信ぜよ、信じられなきゃ止すまで」それから序から本読にかゝる。五時半からホテル演舞場で「沢田を偲ぶ夕」あり、石田守衛を連れて見物に行く。島田正吾に逢ふ。此処を出て、みや古迄のし、のむ。公園のヨタ者たかりに来て五円とられた。


三月五日(木曜)

 十時半に起きて昨日の新国劇見物をノートに書き、伊藤松雄の家へ寄る。二時ハイヤで東宝小劇場へ出る。「さらば」を立つ。藤山も渡辺も熱心だが、セリフは一骨だ。十景全部立つとげんなりした。しばらく休む。五時半から小劇場楽屋で「凸凹放送局」今日は読合せだけ。銀座へ出る。篠原で、靴を買った。それから浅草へ向ふ。みや古で池田一夫のコロムビア映画社入りを祝ふ会があるので、行くと大満員だ、会費の他十円寄附した。生駒が来てオリエントへ行ってウイのみ、橘弘一路や太田黄鳥その他とへんな新券の待合へ一寸一時間ばかりつきあった。P・C・Lより「歌ふ弥次喜多」の出演料追加五百円今日受取る。


三月六日(金曜)

 十時起き、ビクターへ行く。「助六節」といふものを、けい古する。松平信博作のもの三回ひいて貰へばもう覚えられた位のやさしいもの。二時、今日は日劇地下室でけい古。「さらば青春」は四景迄立つ。藤山・渡辺共に少しよくなった、が、まだ/″\セリフが全然素人くさくて、何とかしてやらなくちゃだめ。五時すぎ、歌舞伎座へ。「忠臣蔵」の通し。チャップリンが突如来朝、これを見物してたのは驚いた。九時半、約束なのでふた葉へ行く。生駒と清川・高尾その他の連中。
 然し近頃、のめど一向パッとせず、何が面白いってものが又々少くなって来たには閉口である。仕事が一ばん面白い、が、それだけでは又、物足らぬし。


三月七日(土曜)

 母上と十二時に出る。名物食堂のスエヒロへ、わりにうまい。二時、日劇地下室けい古場へ、「さらば」の六景から立つ、繰返してかためる。五時近く終って、「凸凹」を立つ。此の方は簡単。六時から歌をやる。望月美恵子は、柳等の計ひで、謝らしておいて断はった由。その方がいゝ、一座は今やよく統一されてゐる。エノケンと二村は今月でいよ/\分裂、二村は僕の方へ来たがってゐる由。こいつはあんまり食ひつかぬ話。柳と浅草へ。花月劇場の「歌はぬ弥次喜多」をのぞき、公園劇場の金井修をのぞく。みや古で又のむ。


三月八日(日曜)

 昨夜又のんだ、体の調子は極くいゝが、どうものみすぎるな。注意。もうセリフを覚えなきゃならんし、大切な興行を控へてゐるのだ、注意。十一時半迄ねた。又雪がちら/\。驚いたな。一時から「ガラマサ」を立つ、此れは京・名古屋の配役だから世話なし、二時から「さらば」を立つ、藤山も渡辺も熱心だから少し宛よくなる。八時、藤山等と一緒に「ミュジックアルバム」を見に、東宝劇場へ行く。白井鉄造ならではの、すばらしいものである、あまり技巧沢山で甘さがなくなってゐるのがいけない。帰りに松喜へ寄り牛肉食ふ。こゝはわりにうまし。学生客サインを求めて襲来、何処行っても落つかない。四谷。


三月九日(月曜)

 酒が入ってないと、兎角ねそびれたり、夜中に眼をさましたりする、アル中になっては大変、気をつけよう。二時半けい古場へ。「さらば」音楽入りで通す。ダンスチームもハリ切ってゐるし、堀井も珍しく力が入ってゐてよきものになりさうだ。七時すぎに終り名物食堂の金ずしで、平目を食ふ。こゝはうまくない、蛇の目の方がやっぱりよろし。十一時から日劇舞台けい古、まだ間があるので、有楽座をのぞく。水谷八重子だが、七分と入ってゐない、十一時近くまでやってゐるのは驚いた。日劇終ったのが何と四時半。入浴して円タクで五時に帰宅。


三月十日(火曜)

 ビクターへ二時に行く。松平信博作曲・長田幹彦詞の「助六」を吹込む。長田幹彦に「ロッパ都々逸」って案を話したら、そいつは面白いと乗気だった。五時から日劇五階でけい古、九時すぎ迄かゝった。藤山一郎と堀井の二人を連れて井上へすきやきを食ひに行く。しることざうに迄とって食ったので、ねむい。そこを日劇へ引返して午前一時から「さらば青春」の舞台けい古、一景を二度宛くり返してけい古する。踊子の一人浦野ますみ喀血す。入院させる。猛練習暁に至れどまだ/″\終らず、労れた。


三月十一日(水曜)

 青い街が段々明るく白くなり切った七時頃、漸く「さらば青春」のフィナレが終った。おつかれさま、本当に。午前七時半帰宅。三時間眠って十一時起き、日劇の前迄来ると、大分つゝかけてゐる様子だ、安心して楽屋へ入る。「凸凹」の頃は、もう殆んど満員である。「凸凹」第一回は、浅草程客が食ひつかない感じ。「ガラマサ」は、大劇場向きでないところへ、暗転々々が一々赤い緞帳をしめる始末で、ます/\食ひつかない、くさりである。「さらば青春」は、これにひきかへ、受けるところも予期以上で、大丈夫なものと自信がついた。夜「さらば」が終ったのは十一時半。生駒や泉など王国連見物に来り、「さらば」を絶讃する、ふた葉でのむ。


三月十二日(木曜)

 昨日の夜が一寸悪かったので家を出ながらいさゝか心配、日劇へ着いてみると、もう大半満員ときいて一安心。一回目の「凸凹」は、大分受けた。「ガラマサ」は四場からやったので受けない。島公靖っての、装置は全然成ってゐない、しようがないから大改革して、ワリドン前を利用し、夜からは出揃ふやうにした。「さらば」は益々受ける、学生向きらしく学生のセリフ一々受ける。夜もぎっしり満員である。ハネは十時半。ビクターの岡氏見物、新橋房田中で御馳走になる。岡氏「さらば青春」をとてもいゝと賞める。ウイスキー大分のみ、岡・藤山を相手に気焔をあげる。


三月十三日(金曜)

 昨夜つひのみすぎたが声具合よろし、安心。十二時に家を出て、座へ行くと、もう満員である。「凸凹」の石田守衛の踊りの引込みもかたまり、「ガラマサ」も道具を簡略にして、トン/\運ぶやうになったら、ぐっと受け出して、漸く本当になって来た。「さらば」は予期以上受けるし、見た目もスマートだし、自分でもすっかり気に入った。此の方の装置横川信幸はいゝ。夜の部、昨日より又凄く、完全な満員、三階迄人が立ってゐる。樋口、那波と二人で喜んでゐる。これが当らないと顔が潰れた連中だ、彼等のためにも、ほんとによかった。ハネ後入浴し、みや古へのしてのむ。今夜はひかへ目に。
 秦支配人は、此の日劇興行に反対で、何うにかして止めさせたい位の腹でゐたらしいが、それだけに全然楽屋へ顔を見せない。


三月十四日(土曜)

 穂積純太郎来訪、何うも心得の間違った奴だから、うんと叱ってやる。座へ出る。今日も無論大変な入りである。ハリ切って芝居する。三つの狂言が一つも嫌なのがないのだから、つく/″\嬉しい。だから何んなに苦しくても脚本は自分でよく/\選び又は書くべきである。中野実来楽、中々いゝと言って賞めて呉れた。「ガラマサ」も調子づいて来た、此ういふものは努力よりもその人物になって晴々とやることだ、としみ/″\思ふ。夜、林文三郎が来て、「何だか夢みたいだよ」と言ふ。だって文三郎がドイツへ立ったのは六年の昔だ、「映画時代」社長の僕を見てゐた目に今日の僕は、全く夢であらう。ハネて入浴し、四谷へ。
 当った、全く当った、客が長蛇の列で日劇を巻いてゐる。而も二月のあの御難月はPCLでのんきな日を送ってゐたのである。何と此の幸運、神々に感謝せよ。


三月十五日(日曜)

 四谷より、十一時に出る。日劇の前一杯の人だかり、既に満員、今日は十一時に開演し、「あなたと呼べば」だけ一本返しで三回やる、入りがいゝと自然浅草式興行になって来る。鼻っ風邪をひき、少しく熱があるらしい、「ガラマサ」が終ると、声すっかりいけなくなった。一回が四時に終る。スエヒロのビフテキとって食ふ。表の人だかり益々激しく、騎馬巡査が交通整理に出張する程のさわぎ、日劇の廻りを二巻きしてゐるさうだ。二回目が五時に開き、益々声がいけないのを感じた。三つ共兎に角大受けである。高尾光子・伊達里子・清川等来り、銀座裏の信華で支那料理を食ひ、ウイスキー又々相当行った。
 何といふ男としての幸運が僕の上にふりかゝってゐることであらうぞ。日本の東京、そのまん中の東洋一の大劇場を、満員にしてセンセーションを起してゐるのだ。死んでもいゝ、死んでも本望――此の上何を望むべきか、といふ気持である。神も仏も護らせたまふ、幸な僕である。


三月十六日(月曜)

 咽喉の調子、今朝に至って全く悪し、弱った。座へ出る。「凸凹」で声の苦しいのに驚いた。「ガラマサ」の方が調子を太くして出すので楽だ、「さらば」に至って全く声が無い位の状態になっちまった。川口松太郎が見てゝ、セリフのテンポ、間、カブセ方等が、僕のはいゝが座員全部がその点いけないと言ふ、研究しよう。四月十日からの名古屋は、此のまゝの狂言、此のまゝの顔ぶれといふことに決定。夜の部「凸凹」客に断はらしたが、てんで声が出ない。そこで、「ガラマサ」は五郎みたいな浪花節声でやった、それならいくらか通る。あと四日あること故、「さらば」の代役立てゝ帰れと言って呉れるので、帰って養生することゝした。


三月十七日(火曜)

 今朝は十一時半迄ねたのだが、起きた途端の声は昨日よりいけない位である、いやんなる。一時に出て、座へ。又もや大満員である。何と恵まれたりな此の興行。「凸凹」は井口に代って貰ひ、「ガラマサ」から出る、「只今病院からかけつけました」なんて場内放送しておいて、出る。まるで浪花節の声、義太夫なんぞ自分でもきいたことのないやうな声が出る、然しよく受けた。「さらば」も先生の方は浪花節、片っ方は地声、これが全くひどくてかすれてゝ殆んどきこへなさゝうだ。樋口のすゝめで、まるやのスッポンの血とスープをのむ。部屋でオゾン発生機をかけたり吸入したり色々するが中々さうは治らぬ、夜も苦しい声でやって、ハネるとすぐ帰宅。「モダン日本」自伝の二を、クサリ乍ら書いて、アダリンのんで二時半ねる。


三月十八日(水曜)

 十一時半までよくねた。今朝は、少し声が出るやうな気がした。でも、「凸凹」だけ休むことゝし、自動車で座へ。又々大入である。当然日のべすべき興行だが、反対した顔があるから、支配人も何とも言って来ない、兎に角支配人も専務も一度も楽屋に顔を見せないんだから反って愉快だ。一回終ると吸入、大分いゝやうだ。伊藤松雄夫妻来楽、セリフが一体にひどい、もっと皆勉強させろと言ってゐた。夜の部、又行列で満員。「凸凹」も出た。「さらば」の方も、今日は浪花節声でなく二役ともやった。鈴木桂介が、神田の歌ってる最中、ふざけて客を笑はしたから、ひっぱたき、「大バカの化けものめ。もうやめろ。」とどなる。あとでいやな気持だが、此うしなくては言ふこときかないのだからやり切れぬ。まっすぐ帰って、吸入し「婦人公論」へ三枚半書く。


三月十九日(木曜)

 都新聞の文芸欄に久板栄二郎といふ男の、「演劇と民衆」といふ題で、小見出し「忠臣蔵ロッパ他」といふのが目について読んでみると、丸の内某大劇場を十重廿重にとりかこむ民衆を見ると、国辱的名物だと思ふ、と書いてゐる。腹の立つことしきりである。座へ出る。今日は大分声が出るので、「凸凹」から相つとめる。「ガラマサ」の四景で、石田の顔を見ちゃあ「嫌だねえ」と言ふと、ワッと客に受ける。妙なもんで、客も同感して笑ふらしい。入りは相変らずの大満員。ハネると、海老沢が来てゝ浅草へ誘はれる。もう明日一日だし、さう/\禁酒もしてゐられない。生駒を呼んで、ウイをのむ。


三月二十日(金曜)

 日劇十日間昼夜二回、完全に満員で打ち通した。とても入り切れず、日延をするだらうから――と帰った人が多い。が、日のべなし、今日で打切り。今日、入江たか子見物、菓子を届けて呉れた。さてハネると幸楽に於て、当り祝ひといふことになった。先づのっけに、柳が立って「古川緑波一座のために乾杯」は、気が早すぎるが、次に立った秦支配人大入を感謝する辞を終ると、早いとこ姿を消した。大辻が酔っ払ってゝ例の通り自分を売りたがる嫌な演説、僕も一席やり、樋口がイキリ立ち、谷幹が荒れ、多和と林寛の喧嘩から柳が出たり、けどその間僕が専ら止め役、なだめ役だったのはよかった。よかったね全く。


三月二十一日(土曜)

 十一時頃、橘弘一路と写真班来り、「映画ファン」用訪問写真を撮って行く。一時PCL日劇試写室で、「歌ふ弥次喜多」の試写、大丈夫、ゲスではあるが儲かるものだし、見てゝ面白い。たゞメーキアップの研究が不足なりしことを浸々思った。滝村が「さらば」を映画に――と言ふ。それから浦野ますみの見舞に寄り、フロリダ・キチンで夕食する。アメリカ風の弁当屋であるが、不二アイスやオリムピックよりはうまい。公会堂で一席、「調子やってゝまるで声が出ない」という漫談(40)。ひどいことをやるものだが、これが又受けてる。八時十分小田原へ、箱根三河屋をさして行く。
「歌ふ弥次喜多」は、岸井の巨漢の役のないのはいけないが、その代りの釜足の役は意外に面白かった、兎に角、僕も随分線が太くなった。ハッキリと、割り切った演技をしてゐる、多分に舞台的ではあるが、決してまづくはない。


三月二十二日(日曜)

 箱根小涌谷の三河屋二階。起きたのは十二時。酒をのまないと夢ばかり見る。而も「ガラマサ」を一景からおしまひ迄、づーっと演るところを見た、入浴する、感じがよくない。食事――これが又宿屋でございと言ふ式のもの。按摩をとる、これがうまくないくせに一円五十銭と抜かした。これだから箱根はさびれるんだ、実にブルジョア/″\してゐる。夕食に珍しく日本酒をのむ。急に思ひ立って、修善寺へのしてしまはうといふことになり、夜の道をとばす。三河屋が一泊八円もとるには又驚いた。九時修善寺の新井旅館に着いた。こゝはじっくり温泉気分がする。


三月二十三日(月曜)

 修善寺新井旅館の朝。又芝居の夢を見て寝言を言ひ、眼がさめる。十一時に起きてすぐ入浴する。光琳風呂といふのが古風で、如何にも温泉らしくていゝ。按摩をとる、こゝでは八十銭と言ふ。一円やりたくなる、食事もおうかゞひ式でよろしい。夕方散歩する、怪しき射的屋街あり、カフェーの名前よろし、「夜叉王」と来た。お参りして、宿へ帰り又入浴。東京が少し恋しい。家へ電話したら東宝の橋本から電話ありし由、横浜へ出さうとしてるのではあるまいか。芝居をするのは嬉しいが、横浜はいやだな。


三月二十四日(火曜)

 三時に修善寺を出て、自動車で沼津へ出る。沼津発の準急で、横浜迄。支那街のヘイ珍楼へ行く。うまし。量が多いのでいろ/\食へないのは残念。八宝全鴨や掛炉焼鴨を、次の機会前注文で食はせろと言っとく。円タク拾って帰宅。九時近く。いろ/\用もあることなればじっと家にゐればいゝのだが、又々その車で「笑の王国」へ遊びに行く。生駒や泉天、佐藤節や東を連れてみや古でのむ。旅から帰ると必ず浅草へ来たくなるのは何ういふものか。生駒がやっぱり話面白く、帰宅が三時。何うやら東京を一挙に満喫した感じ。


三月二十五日(水曜)

 酒のむと実によく眠る、気分よし。溜った日記を片付けてしまふと、ビクターへ。中山氏が「東京ちょんきな」を弾いて呉れて声を出してみたが、まだはっきり治ってゐないので、吹込は二十七日の予定だが延さうと話す。東宝へ。給料貰ふ。柳の給料まだ出ない、秦が文句をつけるらしい、早く社長よ帰ってくれ、言ひたい文句で一杯だ。給料貰ったが払ひが多くて、やりきれん。今月はとても足りない。横浜はいゝ塩梅に、那波あたりが有耶無耶にしちまって呉れたらしい。PCL試写室で又「歌ふ弥次喜多」を見、ついでにRKOの短篇七八本見る。七時より新橋太田屋で牛肉会、ダンスチーム十何人。ルパンへ廻り、錦潟へ生駒・山野と合流。


三月二十六日(木曜)

 十一時起き。榊磐彦と保彦来る、保彦が役者になりたいと言ってきかぬ故僕が任だらうと飛んだ意見番、学校さへ出れば希望の事をさせると言って帰す。二時、穂積純太郎が叱られに来る、よく叱る日だ。ヤングで理髪し、日劇四階へ、名古屋行の配役する。急に吉岡専務が阪急会館設立につき六日程行けと言ふ、五月の脚本準備があるからと強談判して之はひっこませた。やれ/\。二百円借りる。百円樋口に貸す。五時半に、約束より大分おくれてレインボーへ、川口松太郎、もうあいつも気が早い、出かけちまった。逢はうと思ってた森岩雄も発熱して帰っちまったので、すっかりあぶれ、ホテルのニューグリルで一人で食事、オルドヴルに、オニオングラタン、雛のココット、こいつはうまかった。


三月二十七日(金曜)

 九時半頃眼がさめた、母上と十一時頃出かけて、銀座で本を二三冊買って――何とよき本の少き。フロリダ・キチンで食事をし、新橋を一時の汽車で鎌倉へ。旅行ってことは、読書出来るだけでもいゝに違ない。鎌倉の加藤伯父上の家へ。夕食は、家出来の豚の角煮と、支那料理屋から掛炉焼鴨をとって下さり、げんなりする程たらふく食べた。八時の汽車で、熱海行。延寿旅館へ。柳・大庭等待ってゐた。五月の有楽座のプラン頭の中で色々渦巻く。


三月二十八日(土曜)

 延寿旅館の朝。カラッと晴れていゝ天気。どうも酒が入ってゐないと夢を見る。朝食済むと伊原青々園の「演劇談義」に読みふける。五月の有楽座の出しもの、「河内山」の筈でゐたが、東宝劇団が四月にやるので引っこめた方が無事だし、とすると何か――さあその何かで苦しむ。此の延寿には、俵孫一一家が泊ってゝいゝ部屋を占領してる、何うもいやなので、夕刻引きあげ、伊豆山の偕楽園てのへ行く。一望海。いさゝか安手なれど値も安しとのこと、よろし。湯がちとお寒いが、茶代廃止で気に入った。二時近くねる。


三月二十九日(日曜)

 偕楽園の朝。一望海で気持よし。夢を見た、ユーモア反乱軍てなものが起って、町中大さわぎといふ、馬鹿にいゝ夢だと思った。入浴食事すると、川口松太郎へ電話し、A・1で夜逢ふことゝし、熱海駅一時発。一たん家へ帰る。それから伊藤松雄を訪れ、話してるうちに、有楽座の五月は僕が女魔術師になり、奇術のネタバラシを仕組んだものをトリに据へたいと思った。七時、A・1で川口に逢ふため行く。待つ間、サーロインステーキとポタアジュ、シュガーコーン。セーゴ・バゞロアがうまいのでお代りする。ルパンへ出たら、中野実に逢ひ、三人で、築地のつるた川ってうちへ行き、のむ、のむ。明日の吹込みを気にして――やっぱりのむ。ぐでん。


三月三十日(月曜)

 吹込が気になって朝早く眼がさめる、アーアーと言ってみる、声は大丈夫らしい。又ねた。十一時に起きる、一時ビクターへ行く。中山晋平ピアノで勝太郎と合せて呉れる。吹込も手間どるもので、終ったのは五時。座員を集めてあるので日劇へ。名古屋行きの配役を渡し、那波・樋口・川島の四人で五月有楽座案を相談する。僕案は「さらば青春」と「大久保彦左衛門」と、僕が天勝になる「日本の恋人」の三つ。ところが那波も樋口も、女型にはオソレをなしてハッキリ賛成しない。七時、晩翠軒へ。藤原義江と千葉早智子の送別会、送別される二人が不在といふ珍景、でも会費一円でビクター持ちの大御馳走、たらふく食った。


三月三十一日(火曜)

 四谷にて。充分すぎる位眠る。頭の中から、有楽座のプラン去らず、題の「日本の恋人」は悪くあるまいが、さて筋は、「キッド」を入れてみようか――などゝ考へ通しだ。夕食を新橋の三福でとらうと出かける。プチマルミットとビフテキ。食はぬ先から給仕女がサインブックを出す、学生が来る、もう嫌になって立たうとすると、「今お客様がサインブックを買ひに行ってます、一寸待って下さい」ムッとしたが我慢して、駈けつけた少女に又サインして、はう/\の態で出る。それから新宿歌舞伎へ淡海を見に行く。二分も入ってるか何うか――舞台げい古の時みたい。帰りに新宿山登美でひらめを一口ほゝばったらネトッと来たので、御苦労にも遠く土橋迄すし食ひに行った。
[#改段]

昭和十一年四月



四月一日(水曜)

 十時起き。一時、東宝へ。有楽座は昨日の案通りにやることゝ決定。JOAKから五日にラヂオ風景を、たのみたいと言ふ。本を一と通り読んだ、前川千帆作、ひどいものでお話にならぬ。AK迄行き、北村寿夫に事情を話し、僕は出ず、一座の者だけでやらせることに定めた。日劇ボックスで、「ロイドの牛乳屋」を見る、一寸いゝ。PCLの滝村に逢ひ、「日本の恋人」をやるについて天勝に会はして貰ふこと、借金したきこと等々。友田純一郎・斎藤豊吉来り、銀座裏関西料理錦潟へ行く。腹境の変化、近頃脂っこいものより日本食を求める傾向あり。年であらうか。久々で橘弘一路のとこへ麻雀をやりに行く。面白いのでうか/\と徹宵てことになる。


四月二日(木曜)

 とう/\午前六時迄麻雀。少々勝つ。午前七時帰宅して、すぐねる。一時迄ねた。ビクターの「真平仁義」きいてみる、よくない。食事して「新青年」へ三枚半書き、川口松太郎に贈られた「明治一代女」と「鶴八鶴次郎」を読んで、川口へ感想の手紙を書く。森岩雄より葉書、「歌ふ弥次喜多」は三週続映の由。大当りらしい。五時半、浅草みや古へ。映画人古参ばかりの集り。田中三郎と久々で逢ったので嬉しく、友田・高尾光子等と共に、神楽坂へ行き、スケッチごっこをして大いに笑った。帰るとヘタ/\とねた。


四月三日(金曜)

 十一時起き、体のことを気をつけてゐながら酒だけは平気でのむのは分らん、いかんと思ふ。井上叔母の造りし豚肉料理を大いに食ふ。十二時半に出て、日比谷公会堂へ。ビクターお伽の国大会。浅いところでロッパお伽噺(50)。有楽座をのぞく。惨憺たる入りである。何故四月に僕を出さなかった! 東宝の馬鹿。P・C・Lの滝村来り、旅に神田が行かれない由、三條正子を貸すといふ。止むを得ぬ。天勝は六日の晩に逢ふことゝ定る。坪内・川島両処と錦潟で、鴨なべつゝき乍ら、文芸部確立の話をする。九時に浅草へ。笑の王国へ行ったが、けい古で皆出られず、大ダレの後、神楽坂へ。


四月四日(土曜)

 十時すぎ起き。十二時から小劇場でけい古なので、すぐ出る。五日放送の台本を配る。愚作で皆驚いてゐる。けい古ザッとすませると、麻雀を一荘やり、P・C・L事務所へ行って、三百円借りる。何かと物いりで貧乏である。夕食をホテルのニューグリルでとる。鶏のバタ焼白ソースがうまかった。それから有楽座の菊池寛「結婚と恋愛の書」を見る、土曜の入りではない、六分。然し作品はよろしい。ルパンへ行くと、中野実とバッタリ。中野は川口松太郎と仲よくなれて嬉しいとしきりにハシャいでゐた。山野と生駒が来て、赤坂へ行ったのはいゝが、中野グーグーねちまって、こっちはダレた。


四月五日(日曜)

 日曜のけい古場へ。今日は大西に揉ませたので少しいゝが、此の春先、何処か体が悪いのじゃないかしらと思はれる位。樋口が来て、十日初日の岐阜中止、名古屋が十四日初日、それだけってことになった。名古屋であとすぐやられちゃあ岐阜は困ると言ったので中止ださうだが、そんな事は初めっから分ってる問題じゃないか。又社長に言ひつけることが殖えた。二時からの座員の放送をきいた、愚作品。皆が帰って来たとこで発表し、今日はけい古なしとする。体があいちまったので一荘やり、それから見舞に寄る、浦野ますみは確然たる肺病らしい。四谷へ。


四月六日(月曜)

 一時半、小劇場けい古場。今夜は天勝に逢ふ日だ、逢って元気で「日本の恋人」を書いてしまはうと意気込んでゐたのに、滝村から電話で、天勝は和歌山の奇術のネタを造る秘密の工場へ行ってゐてまだ今夜は帰れぬとある。一時半から四時半迄、「凸凹ロマンス」と「大番頭」を立つ。樋口が来て重役連が「さらば」に不賛成だから変へろと言ふ由、しゃくだが仕方ない、ビクターへかけつけて、「東京ちょんきな」のレヴィウ化を決定した。浅草へエノケンを見に行く。「居残左平次」はよかったが「流行歌六大学」でダレて、山野とルパンで飲みのむ。


四月七日(火曜)

 昨夜又意味なくガブ/″\のんだので、今朝は充分にグロッキー、いかん。十一時起き、伊藤松雄訪問、「東京ちょんきな」のヴァラエティ台本を引受けて貰ふ。小劇場けい古場、人の集りが悪く、「さらば」も「凸凹」も碌に出来なかった。小劇場楽屋でアンマをとる。谷幹一の斡センで屋井乾電池の屋井に呼ばれた。どうせ馳走になるならと、注文を出して、日本橋偕楽園の支那料理。これはちとひねりすぎてうまくなかった。サロン春へ廻ったが一向面白くなし。向島へのし、山野等を呼び、大さわぎ。谷幹一人酔ひ、皆にからみ、中々面白し。ねたのが三時。


四月八日(水曜)

 昨夜は大して飲まなかったから今朝は苦しくなかった。一時からけい古である。徳山がけい古場へ遊びに来た。月末に、勝太郎・小林千代子の三人で満洲へ行く由。ビクターへ行く。「東京ちょんきな」のテスト盤きいた、失望した。声が太い、勝太郎の歌ひっぷりとは格段のまづさである。くさっちまった。鈴木静一が「僕のホームラン」の曲が出来たからと、ひいて呉れた。こいつはいゝ、僕に向いてゐると思ふ。この方は一つ、太くない声を出して歌ふ練習をしよう。石田守衛とフロリダキチンで食事して、浅草へ。「笑の王国」の「弥次喜多」のめちゃ/\な皆で楽しく遊んでるやうなのが寧ろよかった。浪花節の音羽座を見た。銀座ルパン。生駒・徳山・佐藤節その他大ぜい、のむ。


四月九日(木曜)

「そこでもう一杯のまう」「面白い、それにつきもう一杯」なんて、何でさうノンセンスなのみ方をするのか、自分で分らぬ、酒馬鹿。二時からの川口松太郎の会へ行く。マーブル。川口が自ら司会者役をつとめ、御順に悪口を言ってくれと言ふ。僕は立って「今皆さんが川口の衣食足って礼節を知ったのを賞められたが、そこが気に入らん。人をつかまへたらすぐお前と来る、やっぱりその無礼である川口がいゝ。」なんて、言ったあと滓が残って一寸不快になる。四時になったので明治座へかけつける。梅島がのっけから活躍で嬉しい。連れは、藤山・三益・花井。揃って梅島の部屋を訪問する。藤山が二十六、一廻り上で川口が三十八、もう一廻り上の梅島が五十。偶然此う集って、感慨深し。結局浜町へ一寸寄り、三時までベロン。
 今日、梅島曰く、「金をとらうと思ったら、サラッとしてないで、臭いことをやるんだねえ、うん。」


四月十日(金曜)

 十一時に起きる。今日夕方迄の予定がギッシリ詰ってゐる、といふことが嬉しい。先づ「東京ちょんきな」の台本が出来て来たので、それを読むと、伊藤松雄のとこへ行き、色々話す。三時に日劇地下室へ、座員一同集合。明後日の十一時二十分出発で名古屋行き。樋口のとこへ寄り、原作料のことや、その他要件片づける。不満のこと実に多し、すべては社長の帰朝を待って――! と勇む。夕方、柳を連れて永田町へ行く。田原屋の洋食を食ひ、麻雀する。兎に角、仕事第一にして酒や麻雀をやめたいのだが、此う体があいてゐると、反っていけない。さあ明日はハリ切って仕事々々。


四月十一日(土曜)

 四谷。サトウハチロー作「青春音頭」を読終ってがっかりした。作もつまらないし、歌や音楽のあしらひやうもなし、自分で書く元気が出なくなった。で、旬報へ電話して、友田純一郎を煩はし、菊田にでも書かさうと、七時にランチルームで逢ふことにした。友田に会ふと、菊田より穂積を使って呉れ、責任持ってやらせるからと言ふので、友田の顔を立てることゝした。日劇ボックスで「歌ふ弥次喜多」見物、大した満員ではない、やっぱり地方向なのだらう。ルパンでのむ。女もつまらず、酒もつまらぬ、よき条件の下に仕事をすることこそである。
「さらば青春」P・C・L映画化原作料、五百円と定り、昨日残りの二百円を呉れた。


四月十二日(日曜)

 抽斗をあけると、思いがけなく十円紙幣の束が、五六百円――って夢を見た。あさましい。十一時起き、穂積純太郎来る、「青春音頭」の場割し、名古屋へ持参させる約束とした。「モダン日本」へ自伝の三を十四枚、三時迄かゝって書く。母上と、銀座へ出て、錦潟で食事する。白菜なべ、おでん、かまめし。馴れるともう大してうまくなし。そこで母上と別れ、ネクタイを求め、神田へ出る。本二三冊求め、虎屋で十円の帽子買ひ、文房堂でパイロットの太先万年筆を買ひ、東京駅へ行く。座員一同揃って十一時二十分発。サトウハチロー兄弟が見送って呉れた。


四月十三日(月曜)

 十一時二十分発車、藤山一郎と食堂車で話し込む、ビクターをやめて、今日正式にテイチクに入った旨新聞にも出た、僕にレコード以外のことは一切任せると言ふ。つひうか/\とウイスキー数杯。酔ったら寝られるだらうと寝台へ入れば、スチームが強くてとてもねられない。つひに一睡も出来ず、食堂で和食の朝飯。名古屋駅頭一人も出迎なし、先乗りの橋本が、ボヤ/″\して宿定らず駅頭八十分もさらされて大奮概する。名古屋ホテルの部屋があいてたので、そこへおさまり、アダリンのんで二時半迄ねた。四時に藤山等とアラスカへ。一円半の定食を食ったが、ミネストラスープ他二品とてもうまし。アラスカの中でも名古屋は白眉らしい。夜七時からけい古にかゝる。
 始終仕事をしてゐたいものだ、とつく/″\思った、第一からだの調子がよくなる。今日など睡眠不足だのに、けい古弁のまづいのがペロ/\と二つ空になった。近頃ないことだ。


四月十四日(火曜)

 名宝初日。
 舞台けい古、済んだのは、朝の六時。ホテルへ帰るとハムエグストースト紅茶。明るくなって、ベッドと来ては大苦手だ、まるでねられず入浴して、「東京ちょんきな」の手入れをしてゐると、川島が「大久保彦左衛門」の本が出来たからと、来り、本読みをして呉れた。ひどく大芝居である、悪い出来ではないがトリには困る感じ。四時、藤山等とアラスカへ。マロボンといふのを食ふ、にはとりのトサカの料理が出た。レタスとパイとコーヒー。座へ出る、初日。大入満員。今日は夜一回。「凸凹ロマンス」久しぶりなので大ハリキリ、熱演大受け。「大番頭」もよく受ける。「さらば青春」も予期以上大受けで安心、此の分なら大丈夫だ。ハネ十一時半。ホテルへ帰り、ウイスキーを一人で。


四月十五日(水曜)

 藤山と、名宝食堂で朝食をすませる。今日から昼夜二回、昼の部は十二時半開きだ。昼の入りは心配してた通り初め三分、半頃からは五分の入りとなった。名古屋といふ土地柄、何を出したって昼を満員には出来ないらしい。一回終りに、アラスカへ藤山と行く。冷たいコンソメにレモンジュースを入れたのが先づ美味い、白い魚のコキールとビフテキを食った。久しぶりなので舞台へ立つのがやたらに嬉しい。夜は、何とか時計店の貸切で、満員ではあるが、ジャリ多くザワ/″\して、「まるで海岸で芝居してるやうだな」と言ったもの。これがまだ二三日続くといふんでがっかり。ハネて柳等のゐる福富旅館へ行き肉を食ひ、ホテルへ一時に帰り、さあタップリねようと、アダリン五つのむ。


四月十六日(木曜)

 アダリンのおかげで十一時迄ぐっすりねた。起きると咽喉とても痛い、ルゴールを塗る。やっぱり昼はいけない、五六分ってとこらしい。が、昨夜の貸切りの客にひきかへて、よくカンドコロを外さず笑ふ。一回終ると、アラスカへ一人で行く。ポット入のスープと、マトンの料理、シュガーコーンと、プディング。座へ帰り、すぐ夜の部。いやな客で、「凸凹ロマンス」だけは分るらしいがあと二つはまるで笑いがカンドコロを外れてゐる。おまけに子供がビー/″\泣くし、調子をやるといけないからと、大きらひなマイクを使ってるんだが、それでもハリ気味になると見え、夜の部の終りには、やりかゝった声になった。ハネるとすぐホテルへ帰る。吸入をしきりにやり、藤山・三益の三人で二時迄話し込む。
 何うして此う咽喉が弱くなったのであらうか、浅草の頃の強いのどは何うしたのだ。今回のは結局気でやってしまったらしい。


四月十七日(金曜)

 昨夜又アダリン五つのんで、今朝十一時迄ね通した。十二時、名宝食堂で朝食。調子やりの状態、憂鬱。昼の部が七分近い入りになって来た。いゝ客で、受けるところをチャンと知ってる。気持よく昼の部を終ると、アラスカで夕食。ポークチャップの馬鹿でかい奴を食ってるところへ、JOCKから迎へ。一緒にゐた藤山が、伴奏を引受けて呉れ、JOCKへ行き、六時二十五分から三十分、「歌・歌・歌」ってのを座談的に、うんとくだけてやってみた、藤山もよく伴奏を入れて呉れ、之は又面白い一分野が拓けさうである。座へ帰って夜の部。又、時計屋の貸切のひどい客、全然カンドコを外されるので一同大くさり。ハネてダンスチームの宿、小西旅館へ、藤山と行って夜食し、一時半ホテルへ帰り、吸入。


四月十八日(土曜)

 十一時迄ねる。入浴しこれがどうも西洋風呂じゃ嫌んなる。日本宿の方がいゝな。朝食、トースト紅茶ハムエグスこれが不味し。名宝食堂の安料理がまだまし。昼からいゝ入り、七分以上。あひにく又調子をやってる。でも受けるので嬉しい。PCLの滝村来り、「さらば青春」の撮影は六月中旬、僕は大村先生のみに特別出演し、藤山を主役とす。夜の部、えらい声だ。さうそ、その前アラスカへ行き、マロボンとポタアジュ、アスパラガス、それにボイルハム。夜の部今日は貸切でなく、いゝ客なので、三つともとてもよく受ける。ハネ後福富旅館へ。東京から「東京ちょんきな」打合せのため、わざ/″\遠山静雄氏来名、打合せ終って、ウイスキーのみ乍らのすきやき食ひ。二時にホテルへ帰った。


四月十九日(日曜)

 十一時起き。部屋でトースト、ハムエグス紅茶。それから名宝食堂へ行ってコーヒー。今日は日曜で、昼が又貸切。愛知時計店といふのゝ連中、ちっとも手応へがなく、皆ほと/\くさる。一回の終り、又アラスカへ一人で行き、今日は、ポタアジュに、トルネード、椎茸のオムレツ。マロンシャンティリークリーム。座へ帰り、夜の部。声はがさ/″\でくさりであるが、今晩こそ本当の客、補助椅子の出る満員で、ぎっしり、気持よく受ける。そろ/\暑くなり、汗しきりである。藤山の知ってる五月といふ料理店へ行き、鳥なべとおさしみを食ふ。旅てものも、実につまらん。宝塚・京都はまだいゝが、名古屋と来ちゃ全く助からない。東京が恋しい。ホテルへ一時半帰り、吸入する。
 一昨日、小林社長は、大阪へ着いた。さあそろ/\思ふ事が通りさうになって来た。


四月二十日(月曜)

 十時半起き、藤山・三益と三人で富士アイス迄食事しに行く。ベコンエグスとオートミール。ホテルの味気ない生活がつく/″\嫌だ。年のせいか、いろ/\なことがつまらなくなり、仕事のみ面白し。昼の部、五分の入り、お花見日和なので、客もノビてゐるし、舞台もダレた。一回終ると五月の宣伝用写真を撮る。おかげでアラスカへも行けず、弁当とって食ふ。夜の部が又貸切で、ひどい客、子供が芝居最中にエプロンステージを散歩してるのには吹いちまった。いけないことだが、大分ふざけたり手を抜いたりした。ハネ後一引といふおでんやでおでんを食ひ、ダンスチームの宿へ遊びに行き、アンダースタンディングと、人物当てをやって遊び二時に切り上げてホテルへ帰る。
 日本宿もいけないがホテルは沙漠だ。日本宿を松竹にたとへ、ホテルを東宝にたとへようか。茶代廃止のチップ制もいゝが、そこに色気ってものがないと、人間がひからびてしまふ。


四月二十一日(火曜)

 名宝千秋楽。
 十時すぎ起き。つく/″\ホテルぐらしが嫌だ。藤山・三益と富士アイス迄朝食しに行く。ハムエグストースト、ハンバークステーキにホットケーキ。座へ出る、昼の部は尻上りで今日も六分位入ってゐた。今日は千秋楽だから、「あなたと呼べば」の三益の演ってる女学校の先生の役を、丁度女形の鬘があるので、買って出た。楽屋大受け。客にも予告して演ったので大受けである。終演後、シャン/\としめて、おめでたう。先づ名宝も大当りで充分儲けさせた筈である。福富旅館てので、十二時すぎから二荘やり、へた/\と草疲れ、その宿にねる。やっぱり日本宿の方がつく/″\いゝ。外は雨しょぼ、明日名古屋を去る。


四月二十二日(水曜)

 静岡で。
 名古屋福富旅館の朝、三円五十銭の泊りとは安い。一時の汽車で全員帰京の途につく。迎へにも来ないし、送りにも来ない名宝の人。僕・藤山・三益・花井・堀井・桂介・石田・大庭と、これだけ静岡で下車。井口静波にたのまれて、今夜一晩、静岡若竹座でやる。駅前大東館へ着き、夕食。それから若竹座へ。客満員、表に「古川緑波一座」は、一寸おそれ入るが、小屋は大へんな穢さ。井口がハリキッテ漫談をやり、口立ての寸劇を幾つかやり、藤山は歌った後で、伴奏を一手に引受ける。僕は、「歌漫談」をやる(120)、思の外客種よく、よく受ける。十時ハネて、久々で赤い大入袋を貰って、夜の一時すぎの汽車で帰京の途につく。


四月二十三日(木曜)

 宇都宮で。
 一時の汽車、コーヒーをのみ、読書したり、うと/\したり。暁五時、青い光の東京。すぐ家へ帰り、十一時近く迄ねた。今日は又井口のたのみで、いやでたまらないが一時二十分上野発で宇都宮へ。北海道行の志賀廼家淡海一座が同車、送りに来てた川口三郎に紹介させ、色々話してたので倦きないで宇都宮着。八百駒といふ料理屋の招待会とかで、会場が「体育館」と来た、大へんな馬客の前で一向に受けず(100)、くさりで、電車で浅草へ。九時半の汽車で大阪へ向ふ、小林社長を東京駅に送る、帰朝後初めての顔合せ、社長曰く「大きくなったねえ」で、ダア。浅草みや古でのむ。


四月二十四日(金曜)

 今朝十時半迄ぐっすりねた。徳山※(「王+二点しんにょうの連」、第3水準1-88-24)が来て待ってた、彼の妻君がヒスを起し、過日我らに対し無礼の行動ありしを以て、その謝罪である。「ま、病人は仕方がない」と不問に附す。小劇場楽屋へ。一から順に本読みである。藤山も来り、打合せる。四時迄かゝった。ビクターへ寄り、岡氏と対談、岡氏の考へとしては「さらば青春」のPCL映画には藤山を出したくないらしい。こいつは一寸弱り。九時に、牛込の何とかいふ家へ、青砥と徳山がゐるので行く。「東京ちょんきな」のレコードは明日発売、これの振りが出来たのを、芸妓が踊ってみせた。母上湯ヶ原より今日帰られ、久々の対面。日記して二時、ねる。


四月二十五日(土曜)

 雨である。今日は木挽町の朝日クラブでけい古。序幕の演出を引受けたおかげで朝の十一時から出なくてはならない。「大久保」は、読合せしても一向ピンと来るところがない、つまらないこと甚しい。これがくさりの元。樋口来り、五月の昼をづーっと東京市で買切るさうだが、やってくれるかと言ふ。座員全部にそれぞれのことをして呉れるなら、やる、といふことにした。えらいことになったものである。六時PCL事務所へ。藤山一郎を連れて行く。ビクターでは藤山をPCLへは出したくないのだが、森氏の方は藤山を使ひたいといふわけで、結局PCLへ専属といふことに定りさうである。森氏は「歌ふ弥次喜多」がPCL創始以来の大成績とあって、頻に喜んでゐた。八時迄事務所で話して四谷へ。


四月二十六日(日曜)

 十一時半、小劇場の楽屋へ行く。序幕を立つ、川島順平作「彼等とキャメラ」、序幕としては好適。僕演出で、やる。続いて「大久保」だが、こいつは全くくさりである。二時、一昨日自殺した、東宝社員佐分真の葬式に行く。又小劇場へ帰り、「東京ちょんきな」を立つ。これもパッとしない。一から四迄自作で行きたいものだ。終ると四友クラブで、二荘やる。四千プまける。山野を電話で呼び、銀座へ出る。遊ぶことが皆つまらん。ルパンで、佐佐木茂索をつかまへて茂索論をやり、古い作品の名を一々出すので、よく知ってるねと驚いてゐた。ルパンから千成へ寄り、すし大いに食ひ、一時半帰る。


四月二十七日(月曜)

 十時起き。すぐに出かけて小劇場で、序幕のけい古。エロキューションを、充分みてやる。四の「大久保」を一時から立つ、同じ作者でも序幕はいゝが、此っちは弱ったものだ。体があいたので麻雀をする。今日は好成績、親で満槓をツモった。八時から招魂社のお祭り見物、八幡の籔しらずが流行で、二つ出てゐる。五銭出して入る。キャー/\言ってさわいでゐる。ポツリ/\と雨、招魂社に雨は昔からつきもの。それから向島へのして二時半迄さわいだ。初日は迫った。セリフは一つもまだ入ってゐない。プランも確立してゐない、それつとめよ。


四月二十八日(火曜)

 ゆっくりねるつもりが十時に起きたので「東京ちょんきな」のレコードをきく。テストの時より大分いゝ、少し声が割れるのと、歌のメリハリが足りないのが瑕だが、さほど悲観したものではないらしい。けい古が一時からなので、伊藤松雄のとこへ寄り、小劇場へ。「大久保」を立ち、又々くさる。続いて「青春」この方もいけない感じ。前売りの景気は極くいゝのだが、此う出し物が悪くちゃいかん。つく/″\考へる。五時半、終って、円タクを支那町へとばし、聘珍の二階で、掛炉焼鴨と八宝全鴨他二三食ふ。最も好きな全鴨は、しこたま、うなる程食った。それから記念会館の「ファッションショウの夕」へ。気持よく三十分しゃべる、大受け(50)。皆で伊勢佐木町を歩き、アイスクリームのみ、五十銭の酒饅頭の包を一つ宛持って十一時に帰宅。珍しや、セリフを入れる。


四月二十九日(水曜)

 十時起き。日劇の五階けい古場へ行く。十一時半と張出してあるにもかゝはらず中々集合しない、腹が立つ。けい古場を抜けて、東宝ダンシングチームの公演を見る、こっちよりずっと金をかけてゐるし、オーケストラなども馬鹿な人数で豪華にやってゐる。癪にさはる。二時から五階で「東京ちょんきな」を立ち、有楽座四階楽屋で「青春音頭」を立つ、電通地下食堂へ。ブーフアラモド、グリンピースのポタアジュ、マカロニ・ナポリタン。又有楽座へ帰って、「大久保」をくさりやり、麻雀二回やって一時帰宅。さて、セリフだ。


四月三十日(木曜)

 十一時半から舞台けい古だが、とても時間通りに行く筈はない、電話で連絡とっといて、伊藤松雄のところへ「東京ちょんきな」作料として二百円持って行く。十二時半、電話で、有楽座へ一時に着く。何うして中々始まらない。「彼等とキャメラ」の始まったのが、かれこれ三時。これを演出、みっしり二回宛通す。それから御難の「大久保」である。これは全く見てる者も悲鳴をあげた。川島も困ってゐるらしいが、何うにもならぬ。それから一休み、次の「青春音頭」これが又五時間以上もかゝり、女装したまゝで大くたびれ。この分では夜明しは明々の事、腰を据えて、「東京ちょんきな」にかゝる、午前六時。
[#改段]

昭和十一年五月



五月一日(金曜)

 もう外は明るい。道具の出来るのを待って「東京ちょんきな」にかゝった。フィナレが終ったのは何と十二時近い。明るい中を一旦帰宅し、四時半迄ねた。起きて食事するとすぐ座へ。眠不足でふら/\だ。序幕はマダムの扮装で暇どるので見られない。「青春音頭」が開く。いやもうマダムの出の受けること――尤も入りが八分ってとこだ。客にも面白くないことが分るのか、来ない。「青春」は先づ無事。「ちょんきな」も思ひの外受けて文句なし。たゞ恐ろしかったのは「大久保」だ。やってゝ冷汗をかく。つく/″\此んな本を書いた作者を恨む。ハネ何と十二時。四谷へ。


五月二日(土曜)

 十二時に座へ。土曜のマチネーだ。「青春」が結局一ばん受ける。専務から手紙で「大久保」はあんまりひどいから二の替りは違ふものを出せといふ注文。それにしても此れでは仕方がないから、大カットを断行。作者の川島に「我が子の手術を見るやうなもの故」と、立会はぬことをすゝめたのに、ちゃんと来て見てゐるから、カットしにくゝて弱った。夜の部カットした分をプロムプター附でやる、まあ/\客を立たせずにおしまひ迄やれた。つく/″\作者の阿呆さにあいそがつきる。ハネ十一時。藤山と滝村等でルパンから千成ずし、その話で持ち切り。


五月三日(日曜)

 今日もマチネーあり、十時半起き。赤い満員札が事務所に出る。昼の部「大久保」で又ガッと落ちてしまふ。情ない。脚本だけは生命を注いで選ぶべしと決心したのに又その悔を繰返してしまった。社長が今晩見物するとの前ぶれあり、夜の部も補助椅子出て満員。「青春」の幕切のギャグ一々受ける。「ちょんきな」はお粗末乍ら受ける。たゞ「大久保」は、ワッとくさらされる。セリフがまだ入らないといふんだから呆れる、自分で。四友クラブで一荘やり、負ける。


五月四日(月曜)

 十時半に起き、入浴食事。ヤングへ寄って理髪し、それからビクターへ。「僕のホームラン」の吹込みをやる。鈴木静一曲で、中々歌ひいゝ。センチな、ハリキリの歌ひ方をした、尤も声を細くすることには大分努力してみた。六時楽屋入り。「青春音頭」のマダム、たのしみな程受ける。芦原英了来り、つく/″\自分で本を書きなさいよと言って呉れる。「ちょんきな」気持よく歌ふ。声は今度は大丈夫らしい。「大久保」走るがハネ十時半。PCLの伊達・高尾・清川等来訪、ふた葉へ。ウイ一本あける。


五月五日(火曜)

 一時に社長室へといふ達しがあったので、早目に日劇四階の新装社長室へ行く。集るもの支配人、専務、東宝劇団の幹部連、所が寿美蔵と簑助が十五分遅刻して入って来る、社長「君達は古い習慣で時間を守らなくていかん」と一喝あり。社長の話は、東宝劇団は現状のまゝやる、僕の一座は、東宝ヴァラエティといふ称を廃して単に古川緑波一座でやり、演出家や役者も充実させろとの事、もう一組日劇アトラクション隊と、此の三つでやって行かう、各々の劇団に文芸部長を定めて、そのOKのみで運ぶことにする。とあった。その他、留守中の秦・吉岡のだらしなさを非難し、「緑波に脚本料を払はぬとか、之は間違ってゐる。」など痛快。もう此の人がゐれば大丈夫と思はせた。夕五時、森岩雄とホテル・ニューグリルで会食。連鎖劇の計画する。捕鯨船を扱った、仮題「大洋の寵児」。六時楽屋入り、マダムを終へ、「ちょんきな」済み、「大久保」でくさる。終って、ルパンへ。今日芦原英了の紹介で若き作家佐藤邦夫来る、有望らし。


五月六日(水曜)

 今日は母上のお誕生日なので、家へ美佐古鮨を呼んで、親類大ぜいを招き、御馳走する。握り立てをどん/″\食べるので中々よく売れる、座へ出る六時きっちり。京都宝塚劇場の高井主任来り、来月の京都昼夜二回といふから、ごめんかうむると言ってやる。樋口と相談して、六月一日から日劇で「東京ちょんきな」をやり、これは僕抜きにして貰って、色々準備することにしたいので、社長宛に手紙書くことにした。芝居例によりトリの「大久保」でくさる。ハネてから、四谷。


五月七日(木曜)

 四谷で、社長宛に、一、文芸部総長を坪内士行とし、その麾下に東宝劇団、古川一座、アトラクションの三部長を属せしめよ、古川一座は古川を文芸部長にするよりなし、一、今年はづーっと昼夜二回ばかりで労れてゐるから六月一日からの日劇は僕抜きにしてほしい事等を書く。夕刻出て、座へ。京都の高井再来、マチネーなしにするからと言ふ、そんならとO・Kする。六月十八日より三十日迄京宝と定る。「青春」大受け、「大久保」でくさり。ハネて、伊馬鵜平・斎藤豊吉・穂積純太郎を連れて、浅草みや古。斎藤を文芸部に入れようと思ふ。七・八月のことで相当頭をなやます。二時ねる。


五月八日(金曜)

 今日より市電慰安会の昼は貸切。午前十時開演なので九時起き。客席子供ざはめきて、まるで芝居が出来ない。尤も此ういふ客を前にすると、色々アチャラカな事をすることを覚える。「客が芝居をさせて呉れる」といふ見方は正に正しい。二時に終って、六時迄間がある。海老沢君来り、スエヒロの四階魚鳥グリルへ行く。定食食って、金ずしでひらめ数個食ひ、座へ帰る。今日は金曜だのに、八の日デパートの休みのせいか満員である。順を変へて、二に「大久保」をやるので気がらくになった。二なら客が多く期待しないし、後の方が面白いのだからいゝ。マダムの出も、前に老けをやってゐるから一層うける。


五月九日(土曜)

「都」と「日日」に批評が出た。どっちも先づ好意ある評。日日の三宅周太郎が序幕の引越人夫がうまいと賞めてゐたので、座へ出るとすぐ人夫役三人を呼んで五円やる。一回終るとすぐ社長に電話しといて、東電本社へ。先づ文芸部長が吉岡氏になって、その下に三劇団が属し、大いに能率をあげよとの話が出た。中々狸で、月給など少ししか上げない気でゐるらしい。でも溜ってた奴を話してスッとした。吉岡氏のとこへ行くと、辞令を呉れた。「文芸部東宝古川緑波一座主任ヲ命ズ」といふ妙な文句。兎に角これで仕事はドン/″\運ぶだらう。夜の部は申分なき満員。ハネてから、川口松太郎に呼ばれたので、築地の米田家へ。スコットのスパゲティとカツレツ。ウイ。


五月十日(日曜)

 日曜も何も同じこと。朝九時起きの十時出。今日は序幕の時、客席から子供がヨチ/\舞台へ上ったといふ話、とても団体の客てものは、つとまらない。ひるの部「大久保」など、めちゃをやる。済んだとこへ岸井明が来た、彼を見ると、ムラ/\と食慾起り、昇竜閣といふ長崎料理へ入った、四円の定食は安くないが、うまい。一家総出で歓迎して呉れる。夜の部、他は大した景気でないといふのに、うちは何うも大した入りだ。「青春音頭」は大した受け方、ワーッワッと笑の波が、日劇を思はせる。汗かいて、クタ/\で、入浴。海老沢君の案内でメトロポリタンてとこへ行った。


五月十一日(月曜)

 九時起き、座へ出ると又客が悪くて、「大久保」など、めちゃ。咽喉は痛いし、労れてはゐるし、外出しないでねそべって日記。山水楼の料理二つとって食ひ、ごろ/″\してる間にもう夜の部になってしまふ。昼と夜との客がガラッと変るんだから可笑しい。月曜といふのに九分入り、今度の低俗を狙ったプログラムは、たしかに当った、それに、女形の評判がとてもいゝので、来てゐるらしい。ハネて、佐藤節来り、ハチローが逢いたがってると言ふが草疲れてるからとことはり、二人でルパンで少々のむ。仕事の話ばかりが面白い。それも段々プロデューサー的なことに興味を持つやうになり、企画すること頻りである。


五月十二日(火曜)

 九時起き、若葉の頃は何となくモヤ/\する。昼は例の通りのザワ/″\で、何やっても手応へなし。ビクターへ行く。日劇に、小野巡と佐藤千夜子の二人を借りること決定。「僕のホームラン」のテスト盤をきいて、あんまり声楽家じみた声で本格に歌ひすぎてるのでくさった。細く甘い声でといふ狙いはヒットして、一寸徳山・藤山をまぜたやうな声である。飯田信夫が作って呉れた、「わるくない」といふ歌のけい古三十分ばかりして楽屋へ戻る。渡辺はま子の「トンがらかっちゃだめよ」をきく、とてもいゝ、之で一本書ける。「大久保」で、鈴木桂介が、素足で素顔で出て来たので、うんと叱る。三階の硝子戸が外れて下へ落ちた、怪我人なし。客の入り八分。


五月十三日(水曜)

 昨夜はのまないので床へ入ってから仕事のことばかり頭に浮び、又眠られなくなって弱った。昨夜、馬鹿に腹が減って、丼を二つもかっ込んだので腹が悪いらし。昼の部、腐演して入浴。松喜へ飯食ひに行く。ヒレしかないので反って並ロースの方がよからうと、食ふ。うまい。タレが松喜第一だ。五時に、会議室へ。専務が一同を集めてよろしくやらうといふ話だけ。僕、専属オーケストラでない迄もコンダクターだけは一人定めてほしいと言った。座へ帰り、夜の部。昼が悪いから夜のやりいゝこと。ハネると慾も得もなく、くたびれちまった、ルパンへ寄り一寸のみ、すしをつまみ帰る。


五月十四日(木曜)

 おせ/\に寝不足なので頭の芯がボエンとしてゐる。歩く元気なく、自動車呼んで出る。昼の部又々ダレ、やりたいことやってふざける。一っそ面白い。一回の終りに、ビクターから青砥、小野巡・佐藤千夜子等来り、打合せる。千成に注文したすし食ひつゝ話す。京都の宣伝文書く。六時になり、夜の部だ。夜は又客がいゝのでグッとはり切る。今日は入り七分位だが、西条八十、ハチローその他名士多し。ハネて、グッと又くたびれた途端、小林宗吉氏を岸井明が伴って来り、ルパンへ。小林氏、フォールスタッフを日本の時代劇にしてやる案ありと言ふ。


五月十五日(金曜)

 九時起きが毎日となると、ほと/\辛い。座へ着く、今日は大西が徴兵検査で昼ゐない。井上がドロンしたので人手が足りぬ。昼の「大久保」も「青春」もふき出す程のふざけ、あと口よからず。一回の終りに、月給の二割五分宛手当が出た。買物に出る。丸善で、オノト万年筆を一本、九円を買ひ、辞典の小さいのを一つ、それから高島屋で食事、座へ帰る。大西第二乙種の由。夜の部、八九分の入り。「青春」のマダムの受け方一と通りでないので、つひ熱演して息が切れて、ハーハー。それでもめげずに、雨の中を浅草みや古へ。斎藤豊吉、こっちの話もまだ定らないのにムーランをやめた由、気の早いこと。大森痴雪のかごや大納言使用OKの由。


五月十六日(土曜)

 九時起き、又今日も貸切の客の前で芝居するのかと思へばつく/″\辛い。ふざけたりくさったりして一回の終り。今日、秦支配人が支配人を解かれ、那波君が新に支配人となった由、樋口が喜び勇んで報告に来た。久しぶりでBRへ行き、二円半の定食を食ったが、どうもうまくない、淡りしてるのが特長だが、これが僕には向かん。夜の部開演前に満員。つまらない筈の「大久保」迄が客の入りがいゝと受ける。マダム登場となると、場内鯨波の声だ。実に気持がいゝので、つひ熱演して、やれ/\くたびれた。もう何うする元気もなくなり、千成で、すし五六個つまんで帰宅、一時前にねる。


五月十七日(日曜)

 九時起床、悲壮な感じだ。昼の客は、ます/\ひどい。その代り、こっちもふざけ切ってやる。有閑マダムは、男の声になって「ナニオこん畜生」てなことを言ひ、それが又受ける。一回の終りに、柳亭左円次といふ人、ぜひ逢って呉れと言ふので逢ふと、声色屋さんで、僕の声色などやってゐると言ふんだから恐い。部屋で色々やり出したには面喰ったが、喜多村が一等よく、その他二三いゝものあり。祝儀十円やって帰す。信華へ食事に行く。二円の定食、大したことなし。小林社長が楽屋へ突然来て、パリで買って来たよと、ゴム製のクニャ/\動く、グロな人形を呉れた。夜の部大入満員。ワッワと受ける。ハネ後、屋井氏の御馳走で、駒込神明へ行き、谷幹一が悪酔して、罵言を吐き、皆を困らせた。


五月十八日(月曜)

 昨夜は二時半にねた。九時起きは、とてもの辛さ。円タク拾って出る。二つともふざける。終ると、ねむくてたまらず、楽屋でねてみたが、電話がうるさくて、起きてしまふ。ホテルのニューグリルへ出かける。オルドヴルに、ポタアジュ――これは相不変不味し。ビフステーキ・シャリアピン。キャビネット・プディング。座へ帰り、夜の部。月曜としては大出来の入り、九分と云ふところ。熱演する。くたびれ。これで漸っと、昼夜興行の中日である。夜、方々から誘はれたが、草臥れてるので、まっすぐ帰る。


五月十九日(火曜)

 雨、四谷より座へ。「中央公論」に杉山平助が僕のことを感じの悪い筆で書いてゐるので不快。そこへ以て来て昨夜、柳が轟のファンを(中学生なので)叱って追いかへしたのへ三益がギャア/″\言ふし、女の子がトチったりとても感じ悪く一回が終った。日劇四階へ。新支配人那波氏と話し、PCL森氏に逢ふ、九月に又撮影になったらしい。渡辺篤の母が死んだといふので花環を送らせる。日劇地下食堂で支那物二三、金ずしですし五つばかり。夜の部今日も八九分。三益・柳とふくれ合って以来、感じ悪し、女子と小人は養ひがたし。ハネ頃、佐藤チャカ来り、ルパンへ行く。のむ程に、さくばく。つまらん。千成ですしをつまむ。


五月二十日(水曜)

 九時起き、今日は藤原が撮影ありで昼は休み、一心太助は藤森が代る。さまはいゝが、すべて半間で可笑しかりし。「青春」も充分ふざけ。ビクターへ行く。飯田信夫作の「まんざら悪くない」を、けい古する。渡辺はま子の「トンがらかっちゃだめよ」の裏面用に鈴木静一作曲の、やはり同題のもの、之もけい古した、歌詞が不徹底で気に入らない。夜は九分といふところ。客ワッワと言ふ。「忘れちゃいやよ」の如き絶讃である。終って銀座裏の昇竜閣へ。那波新支配人の祝ひの意味で那波・樋口を招いた。大いにのみ大いに食ふ。五円の定食、先日のよりうまくなかった。一時に帰り、すぐねる。


五月二十一日(木曜)

 八時半起き、十時に日劇会議室で社長の話あり。別にこれって話もない、たゞ訓辞みたいなこと。先へ失礼して座へ。昼の部、トチる奴多く、ダレてゐるので一同注意せよと黒板に書く。一人、ニューグランドへ食事しに行く。ポタアジュ、ほうれん草、タピオカ入り、うまい。スープは断然ホテルよりよし。白い魚のムニエルと、スプリングチキンのひき肉詰を食ってみる。共によし。プディングはいかん。座へ帰る。今日も八九分の入り、どん/″\尻上りである。夜の部又トチリあり、黒板にトチるなと又書く。二三日前より稀代の妖婦の局所切断事件で話題は占められ、楽屋でも愚談が続く。ハネて、ジュネットでのむ。去年の水虫復活痒し/\。


五月二十二日(金曜)

 九時起きもあと一週間、のう/\とねることがたのしみである。座へ出る。何うも一体にダレ気分でいけない、しまれ/\と言ふ。昼の部終ると、樋口が来たので、大和へ牛肉水たき食ひに行く、わりに不味くないがうまくもない。名物食堂の金ずしでひらめ五六個。座へ帰ると、ファンが撮って呉れた写真が来てゐる、「送って下さいよ」と言っといたらチャンと来た、感じよし。夜の部客よく、八分弱か。ハネ後、今夜は顔ぶれをかへて、石田・多和・土屋等を連れてマルヤへ。多和の僕に対する観察中々面白く、女を大切にする点エノケンとは正反対と、フェミニスト振りを指摘。鈴木桂介病休と思ひしに泥酔の上けんかして拘留中とあり、保証金持たしてやる。


五月二十三日(土曜)

 九時起きももうわづか、千秋楽に近いのが楽しみだ。座は例の如し、昼の客ザワ/\、ちっとも身が入らない。ニューグランドへ一人で行く。人参のポタージュ、うまし。他二品、一つは、スパゲティボロニエスとかいふ犢肉のたゝきの入ったスパゲティ。アイスクリームのみ、一人で歩いてゝ危いなと思ってると日比谷の角でアダヨが来り、二円たかられる。夜の部満員札出る、マダム大受け。要するに今回の大入は、此の女形の惹く力なり、企画的成功。キングコングを発明した功の如きもの。ハネて、ルパンへ行くと里見※(「弓+享」、第3水準1-84-22)氏酔ってゐて、銀座裏ヨーロッパおでん、お勝といふうちへ、珍しや洋食をおでん風に食はせる、うまし/\とメニュー一と通り食っちまった。


五月二十四日(日曜)

 日曜でも同じこと、九時起きで座へ。例の如きザワ/″\した客席、花道に子供がねころんでる始末、芝居もへったくれもなし。二時半雨の中を早稲田大隈講堂へ、久々のオザ。早稲田工手学校の二十五年祝賀の会。二十分、歌の漫談をやる、学生ばかりなのでとてもやりよく、大受け(40)。それから銀座裏へ出て、昨夜覚えた、ヨーロッパおでんで、食ふ。その前の、いさみずしでひらめ五六個。労れてゝ、とてもねむい。然し、マダムとなると自づとハリ切って来る。ワッワと受ける。終って入浴、今日は全く元気なく四谷へ。のう/\眠れる休みがたのしみである。


五月二十五日(月曜)

 あゝ九時起きの辛さ。座へ出る、一回の終り、給金が出た。上っちゃ居ない。とても、此の給金ではやって行けない。一つ、社長に会って頼まう。柳と出て、麻雀クラブで一荘やる、座へ帰って、松翁の「続劇壇今昔」を読み乍ら、揉ませる。クラブでカツ丼としるこ、山水楼の支那そば。貧乏だから食物が落ちたらしい。全く金が足らん。夜の部、補助椅子が出る有様。女形で出ると拍手歓声、此うなると、やっぱり熱演しちまふ。鈴木静一来訪、「ちょんきな」の売行きは宣伝程になるまいと言ってる、さうかも知れん。ハネ後、みや古へ行き、のむ。三時にねた。


五月二十六日(火曜)

 今日も九時起き。座へ出て、一回目は、例の通り。終るとビクターへ。飯田信夫曲の「まんざら悪くない」の吹込み、まあわりによく行ったつもり。マイクロフォンが変って今度のRCAのは感じよし。渡辺はま子の「トンがらかっちゃダメよ」のB面について話す、「トンガラかっちゃダメよかい」といふのをテストしてみたがピンと来ないので、「ハリキリボーイ」といふのを考へた。夕食は、大洋ビル食堂のランチですませた。夜の部、雨のため満員とはならず、八分の入り。ハネてから、中野英治にポーカーを誘はれたが、すっぽかして、お勝へ行き、ビール二杯、ヨーロッパおでんいろ/\食った。いさみずしで、鯛を食ひ、十二時半帰る。今日は一時就床、たっぷりねようぞ。


五月二十七日(水曜)

 今日は稍眠が足りてゐるが、九時起きでは元気が出ない。座へ出て、すぐ揉ませる、強く揉ませるのは毒だときゝもしてゐるのだが何うも揉ませるとなると強くなって困る。昼の部、ダレ演。「もうあと三回だ。」なんて喜んでゐる。大庭を連れて外出、不二アイスの二階で、チキンコロッケとトマトクリームスープ、シュガーコーン、ストロベリーショートケーキ。栄ずしで鯛を三つ四つつまむ。夜の部が終ると、屋井から谷幹ヌキで大いに飲まうと誘ひ来り、松島・花井・石田と連れて駒込神明へ。山野の即興浪花節といふ奴、これが中々いたゞける、生駒も来り、大いにのみ、NO10といふウイを初めてのんだが、ちといかんかな。かごや大納言の上演許可を作者大森痴雪から得て、原作料など打合せにかゝってゐたら、大森痴雪が突然死んだのは驚いた。七月の上演は、中止せねばなるまい、何うもこれは驚いた。


五月二十八日(木曜)

 九時起き、今日一日だと思へば元気が出て、自動車で出る。今日は完全に宿酔だ。座へ出ると、アイスクリームソーダ二杯に、コゝアを一杯、アイスウォター限りなくのむ。昼の部充分ふざけて、終るとすぐ外出。麻雀クラブへ、やり乍ら、ハヤシライス一、ちらし一、しるこ一、ざうに一、皆おどろく。夜の部「大久保」終ってホッとした、一生此ういふ愚劇はやりたくない。「青春」突如女が男になり、「うるせえッ」といふ暗転、お客びっくり絶笑。「ちょんきな」済んで、ホッとして入浴。伊藤松雄氏来り、青砥と三人で牛込へ。田原屋の洋食三皿、ウイをのむ。雨音、小便に立って窓から下界眺めつゝ、今夜からじっくりねられると思ふと、抱きしめたいやうな嬉しさ。
 然し全く、よく此の一と月を過したものだ。朝の九時から夜の十時半まで、それに又ウイをのんで、ろく/\ねないで、よくまあ働いた、ほんとに、これが続いたら命が縮まる。


五月二十九日(金曜)

 何時迄でも無限にねたいと思ってゐたが、十二時すぎに眼がさめてしまった。ゆっくり入浴、食事して、母上が二時に出られるので一緒のハイヤで出る。日劇四階へ。専務迄、座員の優良なるものゝ値上をして貰はうと、その表を作ったのを出す。僕の事には触れない。これは社長に直かに話すつもりである。
 仕事は山程ある、然し嵐の前の静寂ではないが、仕事の前の休養、「よく遊び」が必要だ。此の二三日うんと能率をあげて遊びたいと思ふ。又、映画や芝居、その他出来るったけ見て歩きたい。そして、七八月をハリ切る! 快!


五月三十日(土曜)

 一時起き。四谷の朝。二時頃出て、江戸橋の、オリムピックキチンてのへ行ってみる、まことにまづし、ボーイの大声放談、すべて心持よからず。浅草へ。日本館へ入る。映画の見物記は勉強日記に記すが、アイデアのつまった時は外国映画を見るに限る。雨になったので三十銭の傘を買って、日劇へ。日劇アトラクション「東京ちょんきな」の舞台けい古である。今日は演出だけ故気は楽だ。十二時からマイクを使って演出、先づ一同に五月はダレたが一つ大いにハリキレの訓辞。四時すぎ迄。明日は雨らしい、たのしみにしてゐた豊島園のロッパ運動会は中止らしいな。


五月三十一日(日曜)

 雨、雨ざんざ。十二時迄すや/\とねた。雨でなければ、豊島園で古川緑波園遊会があるのに、残念した。座員殊に女の子のがっかり加減が思ひやられる。若し雨だったら――と、堀井・一木・穂積と約束しといたので、二時に、新宿の空閑の経営してる麻雀クラブ、大東京へ行く。座ってやるのと違って、腰かけてやると確かに労れない、じゃん/″\勝った。空閑が来て、マイクロフォンで「只今古川氏が来られてやってゐます」と放送されちまって、くさり。八千プ位勝ちで、十二時近くに打ちやめる。明日は又、自宅でやることになってゐるので、先づ此の辺でとめ。雨からっとはれて、にくらしいやう。
[#改段]

昭和十一年六月



六月一日(月曜)

 十時半頃起き、今日からチョッキ無しの紺服、カラリ晴れてゐる、暑い。日劇へ行く。今日初日、一座のアトラクション。第一回は、手違ひ多く見てゐてハラ/\した。済むと部屋を廻ってダメを出す。然し見てゐて思ったことは、如何にも此の脚本がつまらんことだ。アトラクション向きの小脚本ならいくらでも思ひつきがあるがなア。五時半、山水楼へサンデー毎日の座談会で行く。エンタツアチャコが不参、夢声と僕にエノケン、エノケンすっかり虎で来り、馬鹿なことばかり申し、ひどいものんなっちまった。それからすぐ傍の陶々亭で、吉岡専務の御馳走会、又こゝでも掛炉焼鴨をたらふく食ひ、家で面々が待ってゐるので、麻雀会のため帰る。


六月二日(火曜)

 昨夜家へ帰ってみると、島村・穂積・川村・堀井・水町・松村・一木・林・多和・友田といふオンパレード。麻雀台を買ひ、いざ――と始めたのが、負ける/\、自摸が悪すぎて面白くない。午前六時半頃迄やったが、へと/\となり、先にやめて、下でねる。起きたのが一時半、もう皆帰っちまってる。食事――さて、何ともサクバクとした気持になった。緑のそよぎは何か不安を齎し、何をするのもいやである。ビクターへ、ダレてばかりもゐられないので行く、「トンガラかっちゃ」B面用「ハリキリボーイ」が出来て鈴木静一がけい古して呉れた、これはよろしい、演歌調でいける。日劇へ。「ちょんきな」を又見て、ダメをうんと出す。九時半、岡氏と逢ひ、徳山と二人、牛込松ヶ枝別館てうちで馳走になる。
 昔から僕は、勝負事が好きで、そのためソンばかりしてゐる。箱根で二万プも負けてから、麻雀は、金輪際やめたつもりでゐたのだが、やっぱり止められないとみえます。


六月三日(水曜)

 十時半起き。気になって、日劇へ。見てゐると、いろ/\ダメを出さずにはゐられない、然し此の商売は楽しいと思ふ。近くのクラブで一荘やり、ビクターへ行く。鈴木静一曲の「ハリキリボーイ」オーケストラ入りのけい古、歌も自信がついた。鈴木を誘ひ、ニューグランドへ、ポタージュと、卵かけあほり飯、スウェディシュのミートボール、アイスクリーム。別れて又日劇へ、さて何うして時を潰さうか――酒ものみたくなし、女を見たくもなし、あゝ何ともハヤつまらん/\で又堀井等と二荘。生駒・山野を呼び、ルパンで落合ふ。サトウハチローも来り、大いにのむんだが、これが又つまらないんだ。ヨーロッパおでん、滝よしのおでんを食ひ、千成へ寄って又食ひ、帰るとイキナリウンコを山程した。


六月四日(木曜)

 今日は何と能率をあげたことか。一時ビクターへ行く。「ハリキリボーイ」の吹込みである、昨日の声より悪いと言はれ、牛乳のんだりして、漸く二時半頃終る。PCLの永見来り、「大洋の寵児」について打合せ、放送局の小林氏来り、十六日は書き卸しをといふ注文、「ハリキリボーイ」と「まんざら悪くない」を入れてオペレットを書く約束した。四時、日劇へ寄って留守中ダレないやう注意して、五時、レインボーへ、東宝新雑誌「エス・エス」の菊池寛氏に芝居をきく座談会へ出席、まづい定食食ひつゝ六時半迄ゐて、本二三求め、七時十分発で修善寺へ向ふ。


六月五日(金曜)

 伊豆、修善寺あら井旅館。たっぷりと寝た。此の宿はお伺ひ制度で、まづい洋食なども食はせるので、カツレツなどとる。さてそれから、蒲団一枚敷いて、枕にアゴをのせると、十六日放送を約束した、ラヂオオペレットを書き出す。夕食後又続きを書いて、十二時頃三十枚書き上げた。自信あり、ラヂオ用として此の位まとまった気のきいたものは一寸あるまい。もうすぐにもけい古にかゝりたくなる。然し、第一日に此う能率が上ったんじゃ、明日明後日と、いゝものが書けさうだ、と嬉しい。三十枚、揃へてカバンの底へ入れ、満足。


六月六日(土曜)

 十一時迄ぐっすり眠る。今日は七月の日劇を片付けよう、「人生劇場」をもぢって、「人生学校」いろ/\な学校を順に見せようといふプラン、食事を終ると、蒲団を出して、又例の姿勢となり、ペンを握ったが、さて書けない。考へが纏まらない、じり/″\して来ると、その企画迄に自信がなくなって来る。えゝいッと昼寝する。天平式あやめ風呂へ行って、のびる。按摩をとる。夕食後散歩する。帰って又、姿勢に戻ったが、さて何うにもならない、物を書く商売も辛いものだらうとしみ/″\思った。兎に角、こっちあ書けなんだ。


六月七日(日曜)

 今日も一日書けなかった。十一時近く起きて、入浴し食事したが、今日は書いてみようって気も出ない。もう書けないと定ったら、一っそのんびりしよう、自動車賃も安くないが、三島まで食事しに出る。三島カフェーで、四品か五品食べた、むろんまづいが、うまく食った。まだ此の町は弁士がゐるときいて、嬉しくなり、富士館てのへ入った。お二階二十銭である。大都映画「天現寺長屋」ての、一人も知った役者は出ない、ヘンテコなチャンバラ。成程、なつかしや弁士が、弁士らしい声を出して、やってゐる。次に古い/\「緑の地平」てふものが始まった、もう我慢出来ないで、自動車で修善寺へ引っかへした


六月八日(月曜)

 ついに、ラヂオプレイ三十枚きりであったが、まあ書けないよりよかった。今日は引きあげ、名残りの風呂へ入る。温泉てもの何うも好きだ。汽車中佐々木邦の「ぐうたら道中記」を読み乍ら、東京駅へ六時四十分着。日劇へ。アトラクションを見物する。女子案内人が空席へ五人も並んで見物してるので、みっともないから注意する。「東京ちょんきな」いゝ塩梅、ダレもせずにやってゐる。放送局へ「ハリキリボーイ」を届け、それから浅草へ行きたくなり、林寛・吉岡・石田・藤森・大庭等を引きつれ、観音様へお参りし、みや古へ落ちつき、生駒・只野など来て大いにのみ語る。只野等に十円やり、行けと言ふ。


六月九日(火曜)

 東電へ電話したら、社長、ひる頃迄に来いとの話、東電社長室で三十分、話す。入れたい作者、役者がないから、徳山・渡辺はま子・藤山一郎を嘱託料出しておさへてほしい事、研究生を五人、演出助手を二人ばかり入れる事等、それから給金値上をたのみ、大体きいて呉れた。飯食ひにエーワンへ。それから日劇へ寄り、六時半にはレインボーへ、「エス・エス」の座談会で行く。徳川夢声・石黒敬七・中村正常等。石黒って人は面白い。日劇へ戻って又ダメを出した。それから川口松太郎に招かれ、樋口正美と共に下谷へ赴き、又大分のみました。久々で自ら声色などやりて朗かなりし。


六月十日(水曜)

 又早く目がさめる、九時すぎ、床の中で日記の溜ってたのを整理。都の小林勇から電話、十二時ビクターへ。食堂で勇に逢ふ、新宗教に凝ってるさうだが、その話をと言ふ、そりゃ何かの間違ひだよで、話は終り。一時から「まんざら悪くない」の吹込直しをやる、今日のは気分よく行った。三時から陶々亭で「講談雑誌」の座談会、伊藤松雄司会で、市丸・勝太郎・徳山・山野に僕。座談会も此う続くと、いゝネタはない、陶々亭あんまりうまくなし。六時、非凡閣加藤・中野英治とポーカーの約束。パラマント田村の大森の家でやる。十二時四十何分まで、大いに自重してやる、結局僕のヒット、然し大したことでもなし。千成ずしですしをほゝばり、帰宅。


六月十一日(木曜)

 何ういふものか早く眼がさめる、九時半起き。十一時日劇会議室へ文芸部だけ集め、七月の日劇の出しものを定める。一に「海の令嬢」、これを穂積に書かせる、二に「凸凹ロマンス」、三をヴァラエティ、四は川島に「かごや大納言」を書かせることゝ決定。一時から小劇場で、十六日放送の「ハリキリボーイ」を本読み、三時半頃から大丸の内で一荘やり、ケタ/\に負ける。PCL滝村来り、藤山でもう一本古賀政男とコムビのものを作りたいといふ、その原作をたのまれる、「君を想へば」と仮題しとく。五時から新宿第一劇場へ、松竹家庭劇を三益・花井・能勢・柏で見物。曽我廼家十吾にみつかり、ハネ後、ぜひ逢ひたいと言ふので、十吾の招待の中州富久井筒へ。十吾って男酒のまず、芸にもそれが出てゐる。


六月十二日(金曜)

 十一時迄ねる。東日記者久保田来り、ラヂオに関する話をしろと言ふ、訛の話、受信機制定の話等して、十六日放送のサラリーマン物はぜひきいてくれと味噌を並べる。井口静波自分の小自動車を運転して来り、その自動車に乗る。小型のくせに、細い道では苦労して漸く大路へ出ると颯爽。浅草へ。笑の王国楽屋で生駒・山野と話し、銀座へ出て、ヨーロッパおでんといさみずしへ寄り、有楽座で「一本刀土俵入」を見ようとしてると、JOAKの小林・飛島以下文芸部の連中来り、僕作「ハリキリボーイ」が、逓信省から差止めを食ったと言ふ。意外なること、あの台本は全く何処にもイデオロギーもなし、風俗壊乱もなし、むしろ道徳的で、さし止めなど、とんでもない事だ、小林・飛島は、僕らもちっとも悪いとは思はないけれど、さういふ次第故、「大番頭小番頭」でもやって呉れませんか、と言ふのだ。即座にこれは断はった、「あれがいけなきゃもう僕の書くこと喋ることは一切ダメに定ってゐます、小林さんや飛島さんの顔がなければ、今すぐ放送局と絶交するところです」と言った。小林は、もう一度逓信省の方を押してみます、それでダメだったら、延していたゞきませう、と言ふ。「一本刀土俵入」を見て、又井口の自動車で神田へ寄り、杏花楼でやきそば食って上野へ。仙台行の一行は、三益・花井・能勢・堀井・多和・土屋・鈴木・大庭、それに柳、ラヂオの話すると皆大くさり。十一時二十分、寝台車なしの二等で、仙台へ向ふ。浴衣になり、本など読む。


六月十三日(土曜)

 仙台。
 上野から仙台迄、海老形になって、うと/\とした。午前九時三十分着、駅前の青木ホテルに休息。仙台の井上といふ顔役が出迎へ。ハチローの弟チャカベエの佐藤節が間へ入り、手金二百円持逃げしたので、井上は二重に払ってるのださうだ。いろ/\いかん事である。三時、仙台座へ。此んなとこで六代目が芝居したといふんだから驚く。ヒルの部は兵隊さんを招待したので、それだけだ、漫談三十分。ホテルへ帰り、あんまとり乍らねる。九時に起きて、座へ。入りよくない、けど客はインテリばかり、よく笑った。ハネると十時五十分で、無事帰京の途につく。


六月十四日(日曜)

 豊島園緑波園遊会。
 午前六時何分上野着、円タクで家へ帰り、すぐ床につく。十一時頃起きる。軽く食事。十二時すぎに、新宿駅へ一旦集り、僕はシボレー、他の連中はダットサンに分乗十何台、豊島園へ。ロッパ歓迎のアーチ、すべて今日は一座園遊会の宣伝が届いてゐる。野外劇場の緑の舞台で、僕が座員を紹介する。それから、ウォーターシュートに乗ったり、鯉に餌をやったり、その間サイン責めでヘト/\になる。ほこりだらけで一日を此処に過し、聚楽荘てふお寒いところで宴会、安田信託の小川氏の挨拶、文芸部の川島順平が狂人じみた余興、お定の巻てものをやり一同を顰蹙ひんしゅくさす。それから安田の小川に連れられて築地分とんぼへ赴き、ウイをのみ大いにさわぐ。


六月十五日(月曜)

 運動会の提灯競争に迄若返って加はり、夜はオールドパーを二本、何人かで空けちまったので、さあくたびれたの何のって、四谷で一日ごろっちゃらしてゐた。夕刻四谷を出て、久々晩翠軒で食事、何うもこいつはひどくうまくなかった。夏は支那料理は駄目なのかな。八時半に飛島と逢ひ、ラヂオは七月四日に「大番頭小番頭」をやらうといふことに妥協する、考へれば考へる程腹が立つのだが、泣く子と地頭で我まんする。大丸の内をのぞくと、島村・一木・藤尾等ゐるので、三荘やる。二千プ負けてたのを一回の満槓で取戻す、安く上げた哩。


六月十六日(火曜)

 朝、大辻司郎来訪、秋あたりに、漫談ショウをやりたい、結局日劇あたりを狙ってゐるらしい。勝手な時だけ来る奴だ。二時にアラスカへ。藤山一郎が古賀政男に紹介するため。古賀政男中々商売人だ、田舎者だがジャーナリズムあり。ビクターへ。「まんざら悪くない」のテスト版をきく、今度のはいゝ。声が大分馴れて来た。柳と大島を連れて銀座をブラつく、大徳でヤン/\。サエグサでネクタイ三本。不二家でクッキー三円包ませる。七時、築地秀仲へ。森岩雄氏と会見、愈々「大洋の寵児」決定。古賀政男・藤山一郎も来り、十一時の下関行で京都へ向ふ。


六月十七日(水曜)

 寝台へ入ったが暑くて眠られない。八時すぎ藤山も起き、食堂で朝食、コンフレークス、ハムエグス等。九時四十七分京都着、大文字屋へ。すぐ入浴、大西以下書生三名泊ってゐる、大西以外は、まだ野育ちでかなはん。井口も同宿。四時頃から井口と第二京極の方へ出て、小波若朗・小笠原茂夫一党剣劇をのぞく、中々元気あってよし。京宝へ。四時から舞台けい古、「凸凹」を通し、「大番頭」は道具しらべだけで済ませ、「さらば」は、一と通り簡単に通した。さんざもう手に入ってるものだから、舞台けい古とは言へ遊んでるみたいに楽である。宿へ帰ると、谷幹・堀井・京宝の高井で一荘やり、軽く負けて、三時近くねる。


六月十八日(木曜)

 京宝初日。
 十一時近く起きる。宿の朝食は、こっとりと京都風でかなしい。午前中新聞社廻り。今日は南座の五郎の初日とぶつかってゐるので心配したが、一円半席が百も明いてゐたか、九分の入り。「凸凹ロマンス」は、久しぶりなので手心が分らず、白く塗りすぎちまったのでやりにくかったが、受けることはよく受けた。「大番頭」大いに受ける、やっぱり此ういふ芝居めいたものが、地方はやりいゝ。「さらば青春」も、名古屋より又受ける。終演十一時半。坂東好太郎来楽、女の子大さわぎ。ハネてさくらゐ井屋で十九円半の牌を買って帰り、多和・堀井・谷と四時半までやった。蚊帳をつらせてねる。
 いつも旅には本を数冊と、稿紙数百枚を持って来るが、何うもハヤ一向に――といふのが例である。今夜は又牌なんか買っちまったが、弱ったものである。


六月十九日(金曜)

 ぐっすり十二時迄ねた。宿で谷・森野・多和で二荘やる。色々用はあるのに、何とも好きな道は仕方がない。座へ出ると今日は貸切とかで一寸客種が違ふ。「凸凹」より「さらば」より「大番頭」が受けた。身のあるもの――何うしてもこれが必要だ。林文三郎が、アノルドファンクのとこのチャルデンとかいふ作者を連れて見物し、下加茂の住人小林正が来り、ハネ後四条の山家料理鳴瀬といふうちへ行く。今日の収穫はこれであった、鳥の足の焼いたのや、野趣満々たる色々な料理、ぐっとウイスキもすゝんで、三時近く迄ベロになる、外人チャルデン氏はのびてしまった。
 ロマン・ロランの友といふチャルデン氏、僕の芝居を見て曰く、君は、バカの顔と利巧の顔の二つを巧みに使い分けるところが魅力だ。と、何処かピンと来た。


六月二十日(土曜)

 十二時近く起き、朝は宿に命じて冷紅茶とトースト。マチネーで座へ出る。いゝ入りである。結局一ばん喜ぶのは「大番頭」らしい、あっさりしたスマートなものより油っこいものを心がけねばならぬ。一回終り、宿の弁当と、リプトンからトーストサンドをとって食ひ、放送局から二十六日に藤山・三益とで放送するものゝプランを急がれてゐるのでそれを書く。夜の部も大満員、「凸凹」の受け方一と通りでない。然しやっぱり一ばん「大番頭」がやりよかった。ハネて入浴、浴衣がけで、昨夜の鳴瀬へ行き、鳥の足二本食ひ、他いろ/\。昨夜程の感激はなかった。宿へ帰り、堀井・多和・谷と三時迄二荘やる。


六月二十一日(日曜)

 今日もマチネー。満員。昼から割れ返るやうに受ける。此の暑いのに、よう来て呉れはる、感謝である。一回の終りに、アラスカへ行く。例の大氷柱に、ポツンと載った、オードヴル、コーンチャウダー、あとはチーフ任せで松茸飯みたいなもの、バゞロア。すぐ夜の部。「凸凹」の受け方物凄し、「大番頭」は京都の生活に近いからよく受けるらしい、「さらば」も大した受け方である。すっかり僕一座も京都・名古屋は地盤を作った。今日のやうに入りがよくて、而も狂言は気に入らぬものなし(これが重要な点だ)となると、芝居してるのが嬉しくてたまらない。それにつけても、大いに書きたいのだが、夜になると麻雀したくなり、あはてゝすき焼を食って、又森野・谷・多和で三荘、五時近し。


六月二十二日(月曜)

 午前十時、ビクターの岡氏来洛、木屋町の中村家へ。岡氏、川口松太郎の来洛と逢ひ、食事、あっさりしてゝ凡そたよりなし。それから宿へ帰り、揉ませる、意地の悪い暑さ。そこへ蚊が出る、やりきれない。四時、菊水楼上の、京都芸術クラブの座談会へ、紳商連のお道楽の集りらしく、客種よし。夕食も中々気がきいたものだった。座へ。月曜といふのに九分の入り、ワン/\受ける。寝不足のせいか、呼吸が出ず、何となくいけなかった。ハネて、チャング飯田信夫、藤山一郎とおきなで、すきやきし、十二時半帰って又麻雀する、四時迄。


六月二十三日(火曜)

 たっぷりねて、十二時起き。谷幹がのっそり入って来て、やりませうと言ふ。麻雀卓につく。で夕刻迄ぶっ通しにやる。やりながら考へる、此ういふ事はやめなきゃいかんと、――でもまあいゝさ、やってる間てものは兎に角充実してるんだから。大阪から佐藤邦夫来り、「人生学校」について打合せをする。夕食は軽くカツレツとトースト。座へ出る。満員、今日はいくらか涼しいからもあらうが、補助椅子が出る/\。此う入ってると又受け方も大変、ワッワと言ふ。ハネて、四海楼で支那料理三つ四つ、ビールをのむ、宿へ帰ると、千恵プロへ撮影に来てゐる藤尾純が待ってゝ、さて又麻雀。これが何と六回にわたり、午前八時迄やったとはタハケ者かいな。


六月二十四日(水曜)

 一時すぎに、東京から穂積純太郎が着いたので起きる。東京でも麻雀ばかりやってたらしく一向仕事が捗ってゐない。こっちも何もしてゐないので、今日から――といふわけ、早速「人生学校」三枚書く。もう麻雀は止めて大いに仕事しようと言ってるとこへ、堀井と井口が来た、一荘やるかいなと、すぐ又始めちまった。座へ出る、今日も亦ギッシリ十分の入り、蒸暑いのによく来ることである。「凸凹」調子ピッタリ合はず、石田を呼んで注意する。ハネて入浴、浴衣がけになり、今夜はJOの大沢・池永氏の招待で、木屋町の中村家へ行く。「のむとねられんから」と言ふのを老妓小やなが、「水枕してねたらダンないが」と水枕を買はせて呉れたので、ウイのみ、水枕かゝへて二時半、宿へ帰る。


六月二十五日(木曜)

 昨夜は水枕のおかげでよくねられた。十一時半起き。明日の放送のコンティユニティーを出せと言はれるので、上山雅輔に速記させ、三十分のものを作った。一時半、大朝の根本といふ人と、ライカのキャメラ氏と三人で、撮影所めぐりをさせられる。下加茂へ行き、高田浩吉・小笠原章二郎等とスナップを撮り、第一映画へ行き、伊藤大輔・水島道代と撮り、日活へ行ったが誰もゐないので、新興へ、鈴木澄子と並び、宿へ帰ると、皆手ぐすねひいて待ってゝ麻雀一回。座は今日も補助椅子満員。ハネ後すぐ宿へ帰り、用がワンサとあるのに又麻雀。今日月給出た、今月より上った。他の座員も申出た分は皆上ったので元気だった。麻雀はつひに午前四時半迄。今夜も成績よかりし。


六月二十六日(金曜)

 朝十一時に起きる、京都放送局へ。十二時五分から藤山・三益と三人で「朗らかなトリオ」を放送する、起き立てなので声がいけなかった。宿へ帰ると、PCLの氷室、「大洋の寵児」のシナリオ持参来洛、一読してまるで狙いが外れてゐるのでくさる、あゝ暇さへあれば、コンティユニティ迄書いてやりたい。注文を出し書直して貰ふことにする。それから「人生学校」又二三枚書いた。一人でアラスカへ。アテチョクなんかの出る豪華オルドヴルに、マロボントースト、ポタアジュに小さい魚肉フライの入ったもの、で満腹しちまふ。座へ出る、今夜も補助椅子が出た。高田浩吉が見物してると皆大さわぎ。川島順平「かごや大納言」の脚本持って来洛、一と通り読む、大丈夫である。宿へ帰ると、二荘、三時半まで。


六月二十七日(土曜)

 十時半起き、今日は又昼夜である。がっかりする。「映画と演芸」の撮影所訪問記を書く、すっかり凝っちまって、浪花節型式で書いた。座へ出ると、昼の部はいかん、七分弱の入りだ。一回の終りに、ガールス二三人連れて、石段下の十二段家へ行く。冷奴、鯛さし、鴨ロースに、幕の内といふのだから相当食ふ。夜の部は大満員である。京宝楽屋のお稲荷さんに、提灯を寄進したのが昨日出来て来た、おがむ。宝塚の高井来り、十月はぜひ宝塚で二十日間やってくれと言はれる。では松茸狩を条件に行かうと言っとく。ハネ後、東山ダンスホールの緑波一座歓迎の夕てのへ顔を出す、四海楼で支那物食って宿へ帰るとすぐ麻雀を始める、午前五時近くまで。


六月二十八日(日曜)

 座へ出ると、小林社長が見物に来られ、楽屋を訪れた。ひるは、今日、雨にたゝられたか、七分弱位しか入らず、舞台バナへ雨漏りしたのは驚いた。一回終って、社長と、高井等でアラスカへ。徳山※(「王+二点しんにょうの連」、第3水準1-88-24)来る、社長と個人的な話を色々した、一寸くさる事にて、あと/\迄舞台で考へちまった。実に僕なるもの生活的に優柔不断なところあり。仕事的には偉いが、家庭的には駄目だな。夜の部、満々員、片岡千恵蔵来訪、又々相当なるさわぎ、芝居、千秋楽気分にてふざけることよろしく、大詰の幕下りるやシャン/\としめて、おめでたう。
 京宝今回の成績は今日の昼夜分位が儲けといふところだと言ふ。三千円位だらう。


六月二十九日(月曜)

 昨夜はハネてから一旦宿へ帰り、「人生学校」を何うやら纏めてしまった。十二時半頃からロッパガールスの宿、美登里館といふのへ行く、勝太郎に貰ったもなかを土産に。此の甘泉堂の菓子といふもの中々よろし。宿へ帰り、谷・高井・多和とで夜あかし麻雀。七時半からトロ/\と二時間ねた、起きるとすぐ仕度して、京都駅へ。一同揃って帰京、ねむくて/\、寝台車の方乗ると、グーグー眠る。兵隊さんにねてるのを起してサインさせられたのは腹が立った。十一時四十二分東京着、専務支配人樋口以下揃ってお迎へには恐入った、ルパンでのみ、スコットの洋食三品食ひ、くた/\にねむくなり、帰る。


六月三十日(火曜)

 十時半頃起き、入浴朝食、久々家のよさ。母上と要談、生活方針、家庭についての話、グッと憂鬱になり、何事も面白くないやうな気分となる。長尾半平氏死亡のくやみに玄関迄行き、神田教育会館のビクター実演大会の練習に行く。「歌ふ弥次喜多」の藤沢のとこのけい古と、「ハリキリボーイ」をオケで合せて、チョン。大庭と神田をブラつき、新刊書二三求む。何となく憂鬱なり。四谷へ。今日放送局より六日のひるに、海外放送として「東京ちょんきな」をやるからとのこと、その本をラヂオ用に直す。生活・家庭いろ/\の苦悩――然し仕事に成功することでその穴を埋めるか。
[#改段]

昭和十一年七月



七月一日(水曜)

 東宝劇場ビクター実演大会、十二時すぎ楽屋入り。大西以下書生が開演してから、ノコ/\やって来る、腹立つ。一部のミュジクゴーラウンドは、僕ハリキリボーイを歌ふ。歌だけでは自信がなかったので、ギャグを用意しといた、拍手多し、三部の「歌ふ弥次喜多」は、久しぶりなのでセリフがつまって可笑しかった。スエヒロへ一人で夕食しに行く、家庭といふ事考へて又憂鬱。額にキュッとたて小じはがよる。七月日劇の配役をすませた。夜の部あく、昼夜共大満員である。ハネて、何ともつまらない気分で、穂積と新宿マルヤで紅茶のんで帰る。仕事以外たのしみはなし。


七月二日(木曜)

 今日一時から小劇場で本読み。全然集りが悪い。おくれて来た土屋・一木をボロクソにとっちめてやる。本読みの具合でも今度の狂言は大丈夫だと思ふ。樋口、那波支配人と銀栖鳳へ行く。樋口が言ふには、鈴木桂介が、松竹の蒲生の仕事で引抜かれた、そこで柳や樋口・那波で、よけいなことをしたと思はれるかも知れないが、引留めをした、何卒、彼を怒らないで可愛がってやってくれと。商売大切のことなれば、怒るどころか感謝する。浅草へ。生駒・大辻その他の連中でみや古でのみ、グッと気が大きくなり、向島へのし、さわぐ。気になるのは八月のプラン確定せざること、それと、そこはかとなき神経衰弱的心境。


七月三日(金曜)

 十一時起き、徳山※(「王+二点しんにょうの連」、第3水準1-88-24)来訪、一緒に出る。先日来うるさく就職をたのみに来る山村って男がついて来て、くさらされた。日劇四階へ行くと、桂介が、書置きを残して、大阪へ行っちまった由、樋口が、此うなったらハデにこっちも引抜きをやらうと言ふ。けい古場へ入ると、一木礼二も役不足と、昨日どなられたのが気にさはったか、出て来ない、こんなのは要らないからかまはない。「かごや」「人生」のけい古を四時に終へて、文藝春秋社へ、七月末の文士劇ヴァラエティを一つ引受けた。それから築地の米田家へ行き、菊池・久米・近経・樋口・小島と会食、九時JOAKより迎へで、テスト。「大番頭小番頭」をやる、何ともつまらぬものになりさうでくさり、帰りにマルヤでウイのむ。桂介去りしこと、やっぱり気になり、ねる時のさまたげとなる。


七月四日(土曜)

 午前中伊藤松雄を訪問、一時半公会堂へ、二十分、何とかの夕てんで喋る、ひょっと思ひついて、エノケンの「忘れちゃいやよ」をやってみたら、大受け。けい古場へ。「かごや大納言」川島の演出は、まるでプランが出来てゐないので、たよりなくてクサる。「人生学校」は先づ大丈夫。六時半迄、大丸の内で一荘やり、当りを見せ、公会堂へ昼と同じ会で出る(80)。八時に放送局へ行く。「大番頭小番頭」の放送、つまらないので投げたくなる奴を、グッと引き締めつゝやる(70)。終ると又、新音楽堂へ森永主催オリムピック応援の夕で、藤山一郎伴奏をして呉れ、大受け(40)。又山へ帰り、十一時迄かゝって、海外放送のテストをし、帰りにルパンへ寄り、益田銀三等とのむ。


七月五日(日曜)

 十二時半に三越衣裳部へ「かごや」の衣裳を見に行く、自分で一々見ると安心。二時から「かごや」のけい古。川島の演出ます/\いけない。けい古いゝ加減にして、大丸の内へ行き又麻雀。毎日やらないと気が済まない、その暇に勉強しなくてはしようがないのだが。七時に邦楽座へ上森と岡崎に逢ひに行き、古い女給の集まってるドームへ行ってみる、カフェーなどつまらぬ骨頂乍ら、のめば又何とかなるもので、結構はしゃぎ、のむは/\。サロン春へのし、おまけに赤坂の長谷川迄のしちまった。


七月六日(月曜)

 宿酔で、咽喉具合まことに悪し。徳山※(「王+二点しんにょうの連」、第3水準1-88-24)来訪、細君がヒスになり、八月の芝居は出るなと言ってきかない、やめることは出来まいか、と。馬鹿々々しすぎてお話にならぬ、悪妻一生の不作、気の毒なり。一時半放送局へ。初めての海外放送、「東京ちょんきな」をやる。声全然悪く、くさる。でも放送は大好評の由(40)。日劇へ帰って、「かごや」のけい古。川島とんでもないことばかり言ふので皆くさる。又、大丸の内へ寄り、三荘やる、あゝいかん/\。四谷へ。雨なり。


七月七日(火曜)

 四谷より十二時、日劇へ出る。一時より「かごや」とてもこりゃ川島に任してはおけない、自分で演出もしてみよう、川島には気の毒だが不勉強の罰、明日取ってしまはうと思った。鈴木桂介は、一旦引抜かれたが、那波から槍が出て、SYのショウはオジャンとなり、千葉氏の添書を持って帰って来ちまった。何処迄も三枚目なり。又、今日も大丸の内で三荘やりヘト/\。浅草へ。エノケンの「ミュジクゴーラウンド」と、音羽座で東武蔵をきゝ、みや古で、生駒の喜代丸のろけ話を肴に二時迄のむ、いやはや。


七月八日(水曜)

 十二時に雨の中をハイヤで出る。日劇へ行くと、川島の演出では時間がのびるからといふ理由で、僕が、カットしておいた台本で演出する。もう川島って奴には演出はさせまい。一と通り通したが役者の活気が出たし、大丈夫のものになったやうである。それから又々麻雀にひっかゝってしまひ、大丸の内で、チャシウメンやオムライスで安く腹ごしらへし乍ら、しきりにガメって、しきりに負けた。ルパンへ多和・一木を連れて、のむ。ウイスキーものみすぎるし、ちと考へがなさすぎるな、反省。


七月九日(木曜)

 十時半起、雨の中をハイヤで一時に出る。かごやの総げい古、社長がひょっこり見に来た。九景通してしまふと、四時。又大丸の内へやりたくて行ったが、かくてはならじと、歌舞伎見物と定め、ニューグランドへあこがれのポタアジュを食べに行く。あひにく、麦のスープで、あんまりドッとしなかったが、此処のスープをのんだら他のはのめない。シャトブリアンを食べる。これがドッとしなかった。五時、歌舞伎座へ。珍しく開幕から殆んど終り迄見た。千成へ寄り、枝豆のすしを造らして食ったが、之は珍で悪だった。それから大丸の内で一荘やり、一時近くから日劇舞台けい古。四時に終り。「人生」大丈夫。


七月十日(金曜)

 起きたのが一時だ。三時、PCLへ、森氏に逢ふ。鈴木桂介も吉岡専務が頑として受けつけないので、PCLへたのまなきゃならないことになりさう。五時、浜町浜の家へ。川口松太郎その一党をおごる約束したので行く。六時すぎ皆漸く来る。浜の家の料理、今日は馬鹿に食へた。アスパラガスの白ソース煮などうまかった。それから今夜もどうせ一時からだらうと、大丸の内で一荘やって、日劇楽屋にねころび、揉ませ乍らセリフを入れる。結局、舞台けい古の始まったのが二時半だからおそろしい。「かごや」六時半迄にあげ、急いで帰り、ねる。


七月十一日(土曜)

 今朝七時にねて、十時半に起きるんだからひどい。日劇へ行くと、階下は既に満員である。此の分ならまあ安心。二の「凸凹ローマンス」けい古なしの打つけだから文句も言へないが、照明が暗くて、客が食ひつかない。「人生学校」は、思ひの外芸妓学校が受け、浪花節は予定の八分しか受けてゐない。でも、トン/\運ぶから之は大丈夫。「かごや」は、皆セリフが入ってゐないので、ひどく間の抜けたものになった、それに、舞台がやたらに深いので、やりにくくて敵はない。徒に昔の、渡辺篤と関・サトウの駕屋が恋しいばかり。頗る手順よく、初日から十時すぎのハネ、先づ/″\と、マルヤへ寄りて一杯。


七月十二日(日曜)

 二日目が、二回半で、三から始まるので九時起きだ。日曜で雨、一回目から満員だ。今度の立て方は、自慢じゃないが、盆興行としては理想的なもので、浅草の客をこっちへとっちまふ考へであったが、今日はその狙ひ通り成功したらしい。此の十日間のうち、四日間が二回半、あと昼夜二回、そしてその間に脚本を書かうといふんだから、まるで奇蹟を信じてるやうな気がする。「人生」の中の僕の漫談が大受け、その他二本立骨は折れない、今日はズーッと客がよかった。十時にハネる。四谷へ。


七月十三日(月曜)

 四谷より、十二時楽屋入り。「かごや」をやってしみ/″\うちには碌な役者のゐないことが分る。石田も所詮は乞食芝居で、堀井も大舞台の役者じゃない。一回終り、スコットのスパゲティ、ポタージュ、と肉のもの一皿。夜の部、一杯である。ビクターの岡、川口松太郎、中野実等現はれる。急がしくて眼が廻りさうで、それが嬉しい。中野実は、新国劇のために、「弥次喜多」を書く由、「競争だね」と言はれて、こっちは、書けるのかい一体! って気がする。ハネて、ビクター岡に招かれ、築地房田中へ。のみて、結局つまらず。


七月十四日(火曜)

 今日は十一時から研究課の坪内・園池の肝入りで、ダメの会があるので十時に起きて日劇会議室へ。専務や風間その他並んだが、ロクなダメは出ないし、こんな会はやって貰ってもしようがない。今日も客は悪くない。「かごや」は、何うしても石田がダメだ、渡辺篤との、気の合った楽な芝居が恋しい。あいつはやっぱりツーテバカーのよさがあった。一回終り、スコットのコロッケとオムレツ、トースト。夜の部、サラッと済ませて入浴。帰って「弥次喜多」を書かうと思ってゐたが、その気になれず、山野を浅草から呼んで、ルパンへ行き、何となくつまらなくなって、千成ずしへ寄り、一時帰る。


七月十五日(水曜)

 九時起き、辛し。十時開演、大した入りでなし、今日は暑いから海へとられたらしい。第一回から声が出ない。読売の中川って記者来る、一時間近く、ゆーもあ人物評伝の一徳川夢声を語る。二回目、やっぱり客は大したこともなし、お盆は丸の内じゃいかんかな。二回目の終りに、気を変へて、日劇地下の支那食二三。PCL森氏来楽、鈴木桂介の所置につき色々心配して呉れる。夜の部、声ます/\いかん。完全な調子やりになって来た。読売の中川から電話、「先程のお話は何うも気乗りがしてないのと長いんで」なんて実に心なき奴である。
 税務署より所得税九拾何円の附加税四拾何円の請求が来た。かなはん。
 島村竜三が、秦の下にあって新喜劇団を造りつゝあることは知ってゐたが、やり方が非常識で、八月一日から日劇で、旗挙をするらしいので、これは一本槍を出さずばなるまい。今日、林寛・土屋伍一トチリ怒る。


七月十六日(木曜)

 今日も亦ねむい眼をこすり/\の九時起き。十時に楽屋入り。完全な満員である。今回の出しものは好評ではあるが四つ共淡すぎる、筋のがっちりしたものが、たとへ夏でも一つは必要だなと、つく/″\思ふ。それがないので客のハリ切り方が弱い。それに役者のゐないこと、しみ/″\淋しい、渡辺篤がほしい、結局さうなる。九時四十分にハネた。「弥次喜多」は、二十二日がアゲ本故、二十日の夜から二十一日一杯に書いてしまはうときめ、今夜は、のむ。ルパンへ、樋口・堀井・石田その他大ぜい。四十円近くのまれたのは、ヤレムダ。


七月十七日(金曜)

 今日から十二時半開き。ハイヤで出かける。今日も打込みからいゝさうで、二階の一円席が一杯にならないが、夜迄五十銭席は一杯。咽喉具合まことによからず、然し、もう馴れで、近頃はアセらない。一回終り、スコットのポタアジュ、他二品。八月一日から日劇で、新喜劇団旗挙の計画は、有楽座の初日にかぶせることはあるまいと横槍を入れたので、オジャンになるらしい。PCL滝村来り、「人生学校」のプランを二百円でたのむとある、OKした。ハネ九時半、川口の招きで米田家へ、大和の牛肉とって、裸ですきやきし、すしを食ひ、アイスクリームをのみ、ねむくなり、のまず帰る。


七月十八日(土曜)

 今日も十二時半開き。土曜のせいかみっしりとよく入ってゐる。今度の狂言は、薄っぺらで、大したことはなかったのだが、初めに狙った盆興行といふところの成功だった。比ういふ[#「比ういふ」はママ]プロデューサー的なことを考へると、興味津々として来る。PCL滝村来り二百円持参。又スコットを食ひ、夜の部が九時半に終る。PCLの高尾・夏目・伊達が遊びに来り、清川も合併、円タクで方々流した末、神楽坂へ行き、酒を夏はつまらん、と思ひつゝ又つひのんじまふ。しょがない。


七月十九日(日曜)

 日曜で今日は又二回半。九時起きのねむい/\でハイヤで出る。いゝ入りである。これで又二万円位儲けさせるなと思ふと、ちと馬鹿々々しくもなる。然し、ほと/\くたびれるな、此の間に脚本書く気でゐたのは、何う考へても奇蹟を信じすぎる。一回目の三・四が終って入浴。これからまだまる二回かと思ふとげっそりする。九時半にハネる。四谷へまっすぐ。今夜はたんまりねよう。四谷あたりは蚊やりをたく位のことで、蚊帳いらずだから、のう/\する。一寸からだ具合悪いらしいので心配。


七月二十日(月曜)

 日劇千秋楽、熱海へ。
 四谷から日劇へ。今日は千秋楽。皮肉にも調子がすっかりよくなって、思ふ通りな声が出る。今日は防空演習の第一日で、全市暗黒となるといふので八時半頃に終る予定。もっと早く上ってもいゝときいて、すっかり元気づき、大馬力で急ぐ、千秋楽迄満員続きで快かりし。八時ハネ。藤山一郎来り、湯から上った僕を団扇であほぐ、何と気持のいゝ男。今夜は熱海の延寿旅館へ、「歌ふ弥次喜多」続編を書きに行くのだが、汽車迄に間があるので、帝国ホテルニューグリルへ藤山と行く。外はもう燈火管制でまっくら、暗澹たる東京。十時半、東京発、熱海へ。着くとすぐに、入浴して、「弥次喜多」の原本を読み、二時からかゝって、五時迄に十枚書いた。空青み、カナ/\/\とセミ鳴き出づる頃ねる。熱海一向、涼しくなし。


七月二十一日(火曜)

 弥次喜多執筆。
 十一時に起きた。大西も穂積もまだグーグーねてゐる、とてもたよりない。然し多く求むべからず、而も多く与へよである。元気出して、十一枚目から書始める。二、三景はトン/\と書けた。四景、祇園を落語本から。五景六景と夕刻迄に五十枚迄行った。一安心。さて夕食をすませると、ねそべったり座ったりして七景にかゝったが、こゝで二三時間食っちまった、書き上るとホッと一息、入浴して八・九景と済ませると、十景は一枚。場割と役割がすんで、表紙を書き上げた時の嬉しさ! 入浴し、カーボンにペンを走らしてる大西・穂積を残して、二時に就床。
 歌ふ弥次喜多 京大阪小唄道中。大丈夫書ける! といふ気もしてたが又不安もあり、実に心細かったが、十何時間で、書けた。嬉しい。神の助力みたいな気がした。


七月二十二日(水曜)

 平へ。
 あれだけ労れてゐても、シャンと八時半には起きた、穂積・大西はねてゐる、出世しない。朝食。旅の辛さは第一に食物だ、味気ない朝食をすると一日、かなしい。十時五分の列車で東京へ。一時二十何分の汽車で、平なるところへ赴かねばならぬ辛さ。日劇ランチルームで食事しながら、早くもアゲ本をすまさせ、一時二十五分、上野発。平へ六時十七分着、青年団の出迎へで住吉屋旅館へ落つく。九時から、そのすぐ近くの聚楽館といふ小屋へ。日日の山口にたのまれた仕事で、平の青年団主催の「漫談と映画の夕」。既に大満員である。大庭が漫談を一席、「エー或る浪花節語りは非常に訛がある、でー」とやり出して、ふと福島県下なることを思ひ出したと見え、「エーこの話ゃ、こりゃやめませう」とやめたのは可笑しかった。十時に終って宿へ引返し、朝七時の列車に乗れば、十時二十五分に着くときいて、住吉屋へ泊る。主催の青年団員が、実は此の宿の主人、柳と大庭は平の町の色街探検に出かけた、元気だな。中庭をへだてたところで、青年団員の当り祝ひが、深夜迄続いたので閉口した。


七月二十三日(木曜)

 アダリンのんだが、騒ぎの声で中々ねられず――でも六時には眼がさめた、「弥次喜多」の本読みするたのしさを思ひつゝ起きると急行が五十分おくれますといふ話、昭和の聖代に此ういふ事が平気なのだから驚く。七時五十分頃に平を発。食堂でハムエグスを食ひ、「昇給酒合戦」に手を入れる。上野着、日劇の地下理髪へ行くと、ケンモホロゝな口のきゝ方で、満員と言はれ、腹を立てゝヤング迄行って理髪し、ローマイヤで、グリンピースのスープと、豚のゼリーを食ひ、日劇へ引返して、順に本読みした。「歌ふ弥次喜多」先づ――七十五点はとれさうな気持。今夜も燈火管制なので七時に帰宅、四隣たゞ暗である。日記五日分まとめて、十一時ねる。
 駅売店にて「笑の小ばなし」と言へる、十銭の小冊子を求め、読み始めると中々面白し、ネタ箱を作ってネタになりさうなものどん/″\切っておかう。


七月二十四日(金曜)

 七時半起き、永田町の小林邸へ、社長に逢ひ、鈴木桂介の始末につき話すと、これは突ぱねろといふ意見、仕方なし。菊田一夫と渡辺篤の引抜きを承認して貰ふ。十月の有楽座もこっちでやる事と決定。十二時、朝日新聞社で座談会、「映画と演芸」の「旅の話座談会」で勘弥・我当・伊志井寛・水谷八重子・夢声・喜代三に僕。我当の汽車マニアがヒットで、皆とても面白がった。井うちの支那料理たんまり出て、一時のけい古に大分おくれる。渡辺はま子が「弥次喜多」の女中じゃ困るから娘にして呉れとの注文でゴテてゝ出て来ない、いやんなる、がその通りにしてやる。大丸の内で麻雀勝ち、ルパンで樋口とのむ。


七月二十五日(土曜)

 十時半迄ねる。朝、母上が水枕をかへて下さったので快し。十二時に家を出て、小劇場へ。「弥次喜多」の一景から五景迄を演出する。月給出る。借金をひかれてゐるし、今月は又税金で、いやはやいくらとっても出る一方也。徳山を誘ってニューグランドで、うまいポタージュと、ポークソーセージを食ひ、日劇へ寄り、エノケンの「千万長者」少々見て、活動も見なくちゃいかんと思ひつゝ東京駅へ。五時半の準急で熱海、伊豆山相模屋へ、古川方の叔母二人、母上も居られて、夕食後、十六ミリの映画を見、あんまとってねる。


七月二十六日(日曜)

 八時起き。伊豆山相模屋の朝、十時五分の汽車で逗子へ向ふ。逗子海岸の森永キャムプストアへ行くのだが、気がきかず迎へが出てゐない、エゝイとばかり人力車へ久々で乗り、養神亭裏まで。ヨットへ乗せられ、女軍水泳の図を日日の写真班がポカ/\撮り、十銭お買上げの方にサイン紙一枚進呈でやたらサインをさせられる、こんな約束じゃなかったのでふくれる。バスで鎌倉山の高島氏の別荘てのへ行く。一行二十名、そこで料理いろ/\出る、大いに食ひ、満腹苦しい程。バスで東京迄、ゆられ/\て、二時間。もう欲にも得にもねむくなり、家途をさして急ぎけり。


七月二十七日(月曜)

 先日来、からだ具合がおかしいので、折笠医院へ寄った、熱を計ってみると、六度八九分ある、少し通へと言はれる、少しと言へば先づ一と月、えゝまゝよ一番じっくり治すか。一時にけい古場へ出る。熱っぽくていやな気持になり、四谷へ帰り、ねる。が、徳山に東劇の少女歌劇の切符を貰ったので、七時半頃から出かけてみた、「夏のをどり」と「忘れな草」と。ターキーの馬鹿な人気には驚いた。未だ曾て、舞台の役者でこんな華かな拍手と歓声に乗って登場したのは見たことがない。


七月二十八日(火曜)

 情ない程の暑さ。十一時に医者へ、熱が七度四分位。一時から、「弥次喜多」を立つ。渡辺はま子が、「忘れちゃ嫌よ」のヒット以来まるでガラッと変って、威張り出し、けい古にも来ない、呆れる。四時すぎに済むと、もう帰ってねたい位なのだが、今晩十時から林葉三追悼会の発起人になってゐるので、それ迄の間を持たねばならず、日劇へ行って、「エノケンの千万長者」を見て感心し、ローマイヤで食事、浅草へ。常盤座へ行って、菊田に早く東宝へ来いと言ってやる。山野と十時みや古へ行き、林葉三の追悼会。石田・堀井・大庭・大竹保や川公一・佐藤久雄色々集まったが、一向面白くなく、帰らうとするとアダ系の清水など来て、急いで逃げ帰ってねる。


七月二十九日(水曜)

 九時半起き。ベットリ汗、いやはや全く暑い。ハイヤで医者へ。十二時に出て、東宝グリルへ行くと、樋口がゐて、有楽座の出しものを相談、一月の分迄きめて案を渡しておく。一時よりけい古、暑さに参ってか倒れる者多し、多和も倒れたので一寸心配。渡辺はま子、すっかりお天狗で、時間通り来たこと一度もなく、平気でおくれてやって来る、腹が立つが、ま、いゝ加減あしらっとく。「弥次喜多」通し、「昇給」の終り迄やり、四時すぎに終へて、久々で下二番町へ行く。夕食し、九時に辞し、まっすぐ帰り、芝の上で冷たいものをのみ、二階で蚊帳の中でセリフなど見る。
 ビクターの印税四百十一円受取った。これじゃ商売にならない。


七月三十日(木曜)

 九時になるともう暑くてねてゐられない。ハイヤで出て、医者へ。一時間治療。汗だくで日劇へ。地下劇場のニュース見ようと思ったら満員、何しろ暑いので都人は映画館へ涼みに入るのだ、浅草は益々さびれるわけ。今日の総ざらへは、三時から。徳山四時に来る、怒ってやる、「けい古もお給金の中やで、あんまりそまつにしなはんな」と。「歌ふ弥次喜多」済むと七時、レインボグリルの新妻莞夫妻を激励する会に出る。十五分漫談し、新音楽堂の日日の会へ(30)。暑いのなんのって、少々ヘンになり二三弥次に応酬して、あとでくさる。熱が七度四分あるので、まっすぐ十時に帰る。


七月三十一日(金曜)

 八月興行舞台稽古。
 汗が耳へ入ったりしちゃとてもねてはゐられない。ハイヤで出て医者へ。一時間治療。有楽座へ。一時からの舞台けい古、珍らしく道具も揃って、二時にならぬうちかゝれた。「歌ふ弥次喜多」で七時迄かゝる。去年の程爆笑はなさゝうだが、こっちが、芝居に成ってゐると、樋口が言ふ。終って「昇給酒合戦」。根気がなくなり、いゝ加減に運んだから、十一時前に上る。多和が倒れたので、石田守衛に代らせたから、尚トン/\行かない。ま、明日はセリフを昼のうちに入れて、チャンとやる。「東京オリムピック」は歌だけ簡単にやる。穂積純太郎十二時頃やって来る、「自分の受持だけ顔出せばいゝてもんじゃない、好意持てんよ」と本人に言ってやる。二時就床、今日夕立があったさうで、とても凌ぎよくなった。
[#改段]

昭和十一年八月



八月一日(土曜)

 有楽座初日。
 十時起き。オリムピック四年後東京に開催とのニュース、新聞に出てる。丁度「東京オリムピック」を出したのはよかった。二階に床しいて、セリフを覚え始める、ねころんでやってるとトロ/\とねむくなり、つひにねちまふ。四時に家を出て、医者へ寄り、座へ。初日、補助椅子ジャン/″\出て、有楽座の初日としては未曽有なり。六時開幕、二「昇給酒合戦」セリフが入ってないので、全くひどかった。帽子と靴がなくて、花道からハダシで出るの醜態を演じた。「オリムピック」は徳山に東京開催の挨拶をさせ大受け。「弥次喜多」は先づ大成功らしく、評判よろし。ハネ十一時半。まるやへ寄る、芦原・佐藤邦夫・堀井・樋口で。のまず。帰って熱を計ると、ちとあるので不快。三時。


八月二日(日曜)

 九時起き、医者へ寄り、座へ出る。もう満員である。今日は風があるので楽屋は涼しい。「昇給」まだセリフが入らない。ボケで行ってるんだが、何うもやりにくい感じである。「弥次喜多」は大した受け方である。一回終り、腹具合が面白くないのだが、徳山とニューグランドへ行く。スープはやっぱり美味い。メロンの一円は高いが、ハネデューのしたゝるばかりなる、うましともうまし。夜の部、満員である、渡辺はま子重ね/\生意気にて、今日は「弥次喜多」の梯子に乗るとこが危っかしいから嫌だと言ひ出した。とんでもない奴だが、虫を殺して、梯子の傍へ立つことで承知した。ハネ十時四十五分。「弥次喜多」完全に受ける。四谷へ。


八月三日(月曜)

 昨夜の夕立以来、がらりと涼しくなり、寝心地満点、十二時近く迄ねてしまった。岡崎の借家賃滞納の件、結局田中三郎の厄介になるよりなしと今夜有楽座へ来て貰ふことゝする。夕方、医者へ寄り、座へ出る。入口に満員の札。こいつは又々大当りだ、既に補助椅子がワンサと出てゐる。「昇給」は壺がやっと掴めた、要するにハタが悪いので芝居が出来ないのだ。高尾光子はよくやってゐる。「弥次喜多」の声色のところは大した拍手である。やっぱり芝居くさい程僕にはやりいゝ。田中三郎来てその話、大丈夫と引受けて呉れたので一安心する。ルパンへ一寸、金兵衛へ一寸寄り、一時半帰宅。


八月四日(火曜)

 十二時近く出て、日劇見物。アトラクション「白鳥」なるもの愚かし。「歩く死骸」の中で往年の大二枚目ケネスハーランを発見、なつかしかった。「これは失礼」は愚作。四時頃医者へ行き、名物食堂のスエヒロで食事し、座へ出る。既に満員である。つまらながって演ってる「昇給酒合戦」が中々面白いといふ噂、分らぬものである。「弥次喜多」も芦原・田村道美などは、前のよりづっと面白いといふ説。兎に角此の興行大当りである。ハネて徳山・奥村とルパンへ寄る。奥村も、狂言皆面白いと言ってゐる。出し物次第だな、しみ/″\さう思ふ。


八月五日(水曜)

 午前中家を出て、医者へ寄り、銀座へ出る、要件で東京茶房てとこへ寄る、冷紅茶三十銭とる、茶房てものつく/″\馬鹿げてゐる。日比谷映画へ寄り「処女散歩」ってのを見る、中々面白いが、時間なので座へ出る。今日も補助椅子の出る満員。九月の有楽座につき、エラ方がモメたさうで、水谷八重子と東宝劇団、それに僕一座が合同って話迄出たさうだ、呆れたバカ共だ。森岩雄氏見物。「昇給」ます/\受ける。「弥次喜多」も充分大丈夫。ハネて、神楽坂へ、偶然渡辺篤がゐたので、こっちへ来ることをすゝめる、本人も望んでゐるのだが、月給を千円とってゐるといふので参った。もう少し安くさせて、何とか早く入れたいと思ふ。


八月六日(木曜)

 十時頃起きると又二階へ寝床しかせて、「人生サーカス」「桐の木横町」を読んでしまひ、読書日記をつける。四時すぎ迄、とろり/\と眠る。医者へ寄り座へ。今日も満員の札が出てゐる。盛夏八月のことだけに驚く。「昇給」の白痴演技を、わけもなく客喜ぶ。「弥次喜多」は、ちっとも骨を折らずに受けるんだから此の本は成功だ。声色のとこ、殊に梅島のになると、ワッと受ける。暑いからハネてから、楽しまうといふ元気がない、が、みや古迄行って、ウイをのみ、色々食ふ。
 渡辺のことを考へる、あれが来て呉れゝば、芝居はよくなるのだから、何とかして入れたい。


八月七日(金曜)

 昨夜来又暑くて寝苦しく、汗びっしょり。右の咽喉痛む。上の左端の歯も具合悪し。食後二階で、舞踊新潮へ四枚、講談倶楽部へ一枚、東宝宣伝部へ一枚半。責をはたす。大変な夕立、ザーッと来て雷鳴入り。出られもしないので、川口の「三味線やくざ」を読む。四時すぎ出て医者へ寄り、六時に日比谷音楽堂へ、毎夕の名流の夕のトップを切る、終ってすぐ座へ。今日も赤の大入札が出てゐる、中外商業に足立忠の評が出た。大入続きなので皆緊張してゐて活気づいてゐる。ハネ後松若へ行き、タンシチュー、マルヤへ寄る。一滴ものまず。


八月八日(土曜)

 十時起き、医者へ寄り、一時に銀茶寮へ行く。市川猿之助と一問一答、「エスエス」のために。ハリ切って待ってゐると、市川猿之助ニコ/\と来り、食事しながら話し始めたが、こっちの芝居なんか見てないらしく、芸談ばっかり。フジアイスに寄り、岡田嘉子に偶然逢った。近々に遊ばうと約束する。青柳信雄の家へ行く、盲腸炎手術後のへたりで、ねてゐる。六時、座へ出ると、今日も無論大入満員。中野実来訪、「坊ちゃん重役」を書上げたから君が自分で脚色して貰ひたいと言ふ。日日に三宅周太郎の評、好評なり。ハネ後、樋口とルパンへ。涼しさうだからてんで、むやみとのんじまった。今日鏑木来り五円やる、山野一郎三十円貸して呉れと来る、しょがない貸す。


八月九日(日曜)

 医者へ寄って、十二時に楽屋入りする。ひるの部はとっくに売切れ、夜の部も昼のうちに売切れてしまふという盛況。「昇給」なんて馬劇をやってゝ此う来るんだから考へさせられる。ひるの部の汗を流すと、ニューグランドへ。ポタージュと鶏のコゝット入り。渡辺篤が来たら、富山をやらせ、徳山の荒尾で金色夜叉をやりたい。三人ばかりの何々シスタースを作って歌はせることにしたい。色々内容充実について考へる。夜の部、入江たか子と田村来訪。田村は「歌ふ弥次喜多」絶賛で、前篇よりづっと面白いと言ふ。九月は大いに本を練って、十月十二月を又、めちゃくちゃ満員にしたいものなり。ハネ後四谷。


八月十日(月曜)

 四谷より日劇四階へ、樋口のとこへ行ってみたが、居ない。丁度来てゐたRKOのレニン、鈴木重三郎を無理に誘って、日劇地下で理髪する。それからあっちへ行き、こっちへ行きフジアイスで、クリームトマトスープとチキンコロッケを食って、医者へ。今日は月曜、そろ/\客が落ちはしまいかと思ってゐたが、やっぱり満員札が出る、安心した。劇評は中外・日日・時事等に出た、皆一応入りのいゝのを驚いてゐる。ハネると、川口松太郎来り、ルパンへ行く。川口と芸談、文談を戦はせる。のむまいと思って、何うしてのんじまふものかいな。


八月十一日(火曜)

 暑。医者へ寄って日劇へ、東日の主催で日本映画コンクールがあるので見に行く。東日のコンクール、日活とPCLだけで、松竹・新興は、不公平だと言って、今年から加はらないのださうだ。千恵蔵の「女殺油地獄」つまらず、次の日活の「風流深川唄」が絶対よろしい。小林重四郎って役者には惚れた。PCLの「唄の世の中」はひどいもの。一人でホテルのグリルへ行ったら、川口松太郎が三益と仲よく食事してゐる、恐れ入りだ。チアコンソメとオルドヴル、ミニツステーキを食って座へ出る。又満員である。多和利一がステッキついてヒョロ/\やって来た、深川のヨカナーンてな顔をして。ハネ後、神楽坂へ行き、のまずいろ/\食ふ。のまないと、やっぱりらくにねられる。


八月十二日(水曜)

 兎に角暑い。医者へ寄って、日劇へ、樋口と、渡辺篤について話す、昨日柳と会見の結果、月給八百円の、前金二千円といふ条件、それでもいゝから話を進めろと言ふ。今日初日の日劇のアトラクション、ジャズバレーを見る。今迄のものでは一ばんましである。秦豊吉に逢った、いやに世辞る。日出で、鯛さしみ、鯛めんなど食ひ、日比谷映画へ入り、RKOの実写「奇蹟の五ツ児」を見る、憂鬱になった、ジャナリズムを憎む。座へ出る、今日も満員。ハネ後、大庭と土屋伍一がよくやってゐるから両名と、友田・穂積で信華へ行く。ウイをのみつゝ友田と二人で穂積を責めて、つひに泣かした。


八月十三日(木曜)

 十時迄一生けんめでねてゐた。家を出て医者へ。それから帝劇が面白さうだから行く。七十銭席、一杯ではない、冷房も不完全だし、これじゃ日劇にとても敵はない。ジャネット・マクドナルドの「ロズマリイ」と、「カルメン狂燥曲」二つともひどくつまらなく腹の立つことしきりなり。五時、ニューグランドへ。母上と、弘三を呼んで定食を食ふ。定食となるとあまり美味くない。座へ出る、今日も満員札、ハネ後、赤坂長谷川へ、自分で誕生祝ひ、岡田嘉子・高尾光子と、川口・中野実・徳山・樋口と呼んでおいたのに、徳山は又ワイフのため、川口は突如発熱とあって欠席。オルドパーをのみ、三時近く迄、中野・岡田を中心に女優論を戦はせた。


八月十四日(金曜)

 今日も暑い。十時すぎに起きて、「エスエス」の、市川猿之助と一問一答を「映画時代」頃の気持に返って、二十枚ばかりの原稿に書き直した、一文にもならない仕事だが、此処らが僕のいゝとこだらう。四時すぎ家を出て、医者へ。それから、教文館のフジアイスへホットケーキのべーコン附が食ひたくなって、行く。蓑助や、前進座の長十郎に逢った。座へ出ると、満員。今日、伊庭孝が朝日に批評を書いてゐる。一寸皮肉で、好意的ではないが悪くはない。杉寛が倒れ、大庭六郎に「昇給」の伯父さんの役をやらせたが、こいつは大コケ、芝居をめちゃ/\にしちまやがった、ひどい目にあった。ハネて四谷へ。


八月十五日(土曜)

 四谷。九時半起き、昨宵より涼しかりし。医者へ。又四谷へ引返し、「東宝」へ「ナヤマシ会の思出」なるもの四五枚書く。まことにつまらん稿なり。夕刻より、赤坂あかねへ初めて行く。座敷はいゝが、食ひものは平凡、器を一々取りかへるのも反って面倒。五円の定食、安くなし。座へ出ると、今日は満員にあらず。十四日間満員、一日土がついた。杉寛又休み、大庭今日はセリフが入っていくらかまし。芦原英了、塩入亀輔来訪、帰りにマルヤへ寄り、塩入に「緑波の発声は自然でよろし」と賞められる、のまず。オリムピック放送をきく、水泳日本勝つ。


八月十六日(日曜)

 今日は日曜でマチネー。九時半起き。医者へ寄り、座へ出る。今日は大丈夫満員らしい。杉寛休みで「昇給」気分出ず。徳山と二人で、ニューグランドへ食事しに行く。トマトのポタアジュ、ブフアラモド式の肉の煮込みに、メロンを食ひ、プディングを食ひ、アイスクリームを――かなり満腹である。やはり高いものは、うまい。座へ帰って、夜の満員札を見て安心。ハネると、幸ひ来訪客もなし、まっすぐ帰る気になる。毎晩何処かへ遊びに行かねば気が済まぬくせをだまし/″\治して行きたい。夜を仕事の時間にしたら能率も上るし、小遣も要らない――などゝ考へる、涼しい。


八月十七日(月曜)

 九時半に起きる。都新聞から写真班来り、庭と応接で写して行く。家を出て医者へ、熱がひかないのが気になる。久々でビクターへ寄る、岡氏夜見物に来ると。小林千代子と十月出て貰ふことで話す。一時ニューグランドで大辻と逢ふ、こっちへ出たい意向、きゝ流す。二時、日劇五階でガールスの声楽試験を徳山にやって貰ふ。三人ばかりいゝのが出た。それから、那波と社長のとこへ渡辺篤のことを相談に行く。万事僕に任せるから、よろしくやれとのことに勢を得る。名物食堂の四階レストランデンツーの招待日で、ポタアジュ、ブフアラモド、冷鶏とシャベット。うまかりし。座へ出る、今日は満員。ハネ後、のまず、まるやで時を潰す。


八月十八日(火曜)

 朝医者へ。一時に浅草で石田・大庭と待合せて、何か見る約束。花月劇場の金語楼の「弥次喜多」を見る、ひどいもの。広養軒へ寄り、食事して、丸の内へ。那波・樋口と、われらのプランをきくと、九月は休み、十月が有楽座、十一月が宝塚と横浜(おや/\)十二月有楽座の一月が京・名古屋と定ったらしい。二月が又有楽座で、三月PCLの弥次喜多撮影である。六時座へ出ると、今日も満員である。渡辺篤が、松竹の方に知れたらしいと言って来た由、策略かも知れないからうっかりするな、と言っとく。ルパンへ。


八月十九日(水曜)

 涼しいのでいくらでもねてゐたい感じ。十一時起き、医者へ。それから日劇へ行く、渡辺篤のこと、スムースに行かぬらしく、半ばあきらめる。PCLの試写室で、ワーナーの漫画五六本見る、とても面白し。四時半から、僕原作の「大洋の寵児」の試写。いやはや呆れた、大愚作。憂鬱になる。六時、デンツーへ寄り、スープと平目のフライを食って、座へ出る。満員である。「昇給」つく/″\馬鹿々々しい。「弥次喜多」は、らくな気持でやれる、受けることもしきりなり。帰り、千吉へ寄る、ドライカレーライスがうまし。つまらん。


八月二十日(木曜)

 満腹にしてねたせいかいろ/\夢を見る、女形で出るところをヒゲをつけた武士に扮しちまって、あはてる等。医者へ。一時に日劇、那波・樋口と会って渡辺篤と交渉の結果をきくと、新に前金千五百円殖へたと言ふ。未練は大いにあるが、又社長のとこへOKをとりに行く元気もなくなった、一時打切らうと言っとく。お茶をのんでたら、加藤清眼に逢ひ、丸の内松竹劇場へ、まあ入れと言はれて、暇潰しに見た。右太衛門の「坂本竜馬」には参ったが、清水宏の「君よ高らかに歌へ」で、すっかり気持よくされた。フロリダキチンでビフテキ食ひ、座へ出る、又満員なり。帰りに徳山と二人、土橋の金兵衛で、食事。


八月二十一日(金曜)

 十一時迄深々と眠った。四谷の朝。食事して又二階へ床をしき、里見※(「弓+享」、第3水準1-84-22)の「金の鍵の匣」を読む。それから「日本映画」に、五枚ばかり書いた。何しろ涼しいのが嬉しくてたまらない。医者も今日は休んだ。此うしてのらくらしてゐるとすぐに夕方になっちまふな。座へ。今日も満員になった。此の分なら千秋楽迄持ちさうである。PCLの矢倉茂雄来り、「大洋の寵児」は自信なく相済まぬ、然し評判はいゝので面喰ってるとのこと。ハネて、何となく柳や大庭と、神楽坂に遊び、のまず、食って、結局ちっとも面白くなく、一時頃帰る。仕事以外面白くなし、近頃の心境。


八月二十二日(土曜)

 涼し。医者を一時に出て日劇へ。那波・樋口と渡辺篤のことで又話す、結局社長の裁断をあほぐよりなし、と樋口と二人で社長を追っかけ、東宝前の骨董屋の二階でつかまへて、あと千五百円追加の話をしたら、「よろし、早くやれ」の一声、万事之で方針定り、渡辺へ報せる。ホテルのグリルで、冷ハム卵とガランティンを食ひ、日劇の新喜劇の旗挙を見て呆れ、座へ出ると満員である。全く驚くべきものである、予期以上、全く以上の成績。PCLより「歌ふ弥次喜多」京大阪小唄道中の原作料来る。ハネて、ルパンでのみ、築地瓢亭へ行き又のむ。


八月二十三日(日曜)

 食事してると井上三枝、支那料理持参で来り、鶏のまる煮を食ふ。医者へ寄る、経過いゝらしい。座へ出る、ひるの部既に満員である、ひるは一寸気を抜く。一回終り、徳山、高尾を誘ってニューグランドへ。ポタージュ相不変うまい。ミクスグリルを食った、こいつはあんまりどっとしなかった。メロンのうまいのと、アイスクリーム。夜の部随分客を帰したらしい、そのアブレで小劇場が珍しく満員だったさうな。花柳章太郎など見てるといふのでハリ切る。ハネてから、小林千代子・能勢・徳山でルパンへ行ったが、さて一向酒のむ気にもならず、プランタンのサンドウィッチと、すしを食ひ、無事に帰る。


八月二十四日(月曜)

 医者へ寄り、間があるので日比谷映画へ入る、結局冷房のあるところへ行きたくなる。今年の夏の興行は冷房の勝利だと新聞で書いてゐた。見物してると何処から探し出したか、樋口から電話、社長出席の会議をやるから四時から出席しろとある。会議室へ行く。劇場の支配人――主事がたよりないから更迭を断行する、田中良を舞台課長とし、大いに前進しようって話、田中良って人ハッキリ物を言ふ。六時、地下室でまづいシウマイと中華丼を食って、座へ行く。満員である。夕方になると、気分が悪いが、何ういふものかな。六時から八時ってとこがいけない。芝居終って久々来訪した丸山夢路と話す、うちへ入りたい由、マルヤへ。


八月二十五日(火曜)

 十時起きして医者へ。一時からビクター「僕のホームラン」の吹込直しである。行くと、譜が東宝へ貸しっ放しになってゐると云ふのでダメ。日劇へ。谷幹と柳、入江プロへ電話して、田村を誘ひ、千山閣ってのへ行って、二荘やる。二千プ負ける。やってると、熱っぽくて病気の感じである。風邪・咽喉もいけないのだが、その熱かしら、気になる。今日は、ビクターの店員の招待三百あり、「弥次喜多」の各ビクターの歌、ヤンヤと拍手である。ハネて、久々で、銀座へ出て、サロン春の地下室へ行って驚く、大へんな暑さ。渡辺篤から返事なし、柳が今夜行った。菊田一夫は明日座へ来る筈。月給、出ました。


八月二十六日(水曜)

 今日は、うだ/″\と家にねそべってゐた。あつい/\とのたまうて、ごろ/″\してゐる。四時、家を出て医者へ。デンツーへ寄り、ビフテキを食った。座へ出ると、「昇給」の、和舞をやる田代が無断欠勤で、福田が代った。「弥次喜多」例の通り汗演。今日も満員、三十日間の売切を記録に残せさうである、此のあとに出る東宝劇団の苦衷もさることながら、十月われらも堅褌せねばなるまい。ハネて山野と只野が来た。名物食堂の金ずしですしを食って別れる。四谷。夜通し、うちはであほがせても――うん、あつい。


八月二十七日(木曜)

 四谷。今日は医者を休み、読書三昧。宇野浩二の「大阪」に、たんのうした。夕刊を見ると、田代敏夫が同性心中目的で失踪したとのニュース。緑波一座の俳優――と大きく出てるので吃驚した。座へ出る。田代は月給貰ふとすぐ同性愛の美少年と失踪したものらしい。柳に渡辺のこときくと、本人は来たがってゐる(これもアテにならぬ)が、松竹の防戦猛烈で、あきらめて元へ戻る気になったらしいと。そんならそれでよし。三益が胃ケイレンとかで、倒れそくなひ、川口松太郎心配の乗込みなどあり。ハネ後、ビクター岡、東宝那波・樋口などのゐる房田中へ行き、のまず、専ら食ふ。こんなところも一向面白くなし。


八月二十八日(金曜)

 新聞で、昨夜PCLの宇留木浩が、心臓狭心症で倒れたとのニュースを見て、面食ってたら、徳山から電話で「とう/\死んださうだ」とのこと。お互に同い年のこと故、心配なり。医者へ寄り、ビクターへ、「僕のホームラン」の吹込直しのつもりで行ったが、誰にも通ってゐないらしい。徳山が来たので一緒に出て、日劇へ涼みに入り、「オリムピックニュース」にたんのうし、「大洋の寵児」を一寸見て憂鬱――宇留木がそこに生きてゐるので。山水楼で食事、かにの巻あげとテッパーチーカイ。座へ出る、何かにつけて宇留木を思ひ出して弱った、デブ君大恐慌である、飲むまい/\と言ふ。ハネると、山野・只野が来たので、サロン春へ行ってみたが、つまらないので、とりしげへ行き、すし屋へ寄って、帰る。


八月二十九日(土曜)

 暑い朝。十時起き、医者へ。それから東京劇場へ、大船映画と実演があり、行く。相当の入りである。「黒豹脱走曲」といふ、ナンセンス物の毒気にアテられ実演でくさった。島津保次郎の「男性対女性」は三時間もかゝる大長篇だが、これが又ちと困りものである。終って、皆川ビルのヤマトへ食事しに行く。家庭向きで、高くなくてよろしい。座へ出る。舞台の暑さ実にはげしく、「昇給」の時の汗なんて、凡そ大したものである、熱が出たのかと計ると、七度二三分。ハネてから、錦潟へ寄り、あっさりしたものを食ふ、暑くて/\何の楽しみもなし、帰る。


八月三十日(日曜)

 有楽座千秋楽。
 九時半起きして医者へ、十二時楽屋入。ひるも満員。暑さ猛烈。失踪中の田代敏夫つひに上高地で屍体発見の報至る。自殺はエゴイストのすることなり、彼自身には大いに好意を持ちたいが、その行為が不快である。五時頃、楽屋口を出ると、社長に逢ひ、「飯をごちさうして下さい」と、徳山・高尾光子などゝニューグランドへ。ポタアジュと鶏のコゝット。フレンチペストリと紅茶。夜の部は、むろん満員。千秋楽だから、色々飛入りあり、「昇給」の一景に、徳山や柳、橋本なんかゞ出る。「弥次喜多」の方は、ふざけず、馬力かけた。ハネて、シャン/\としめ、PCLの植村の招待で、柳橋へ行き、オルドパーを、大分のんじまって、ちと又苦し。


八月三十一日(月曜)

 昨夜のんだのでよく眠れず、汗びっとりで十一時迄ねる。いつも夏は辛いと思ふが今年は芯から応へた。今日は二時から宇留木浩の告別式、盛大に行はれた。死ぬ者貧乏だなと、浸々思ふ。此んなに盛大に葬って貰へると本人は思ってはゐなかったらう。食堂は、日活やその他の連中で大賑ひだ。入江・田村・木村・東坊城等に逢ひ、一戦やらうと、田村家へ。親子を馳走になり、大いにがめる。気持のいゝ夕立あり。これで風は冷たくなり、らくになりさう。四荘で、二千八百の勝。からだの調子は、ひどくよさゝうだ、嬉しい。帰り、すっかり雨もあがって、涼風である。
 ズラリ並んだ、喪服の人々の前を通って、仏前に礼拝するのは、誰しもテレるものだが、今日は何しろ暑さは暑し、ノーネクタイの不礼姿でズン/″\と入って、ペコンと礼をして、サッサと出て来ちまったが、あとで自分をいやになって困った。
[#改段]

昭和十一年九月



九月一日(火曜)

 やっぱり酒の気がない眠りは快適だ、十時起き。医者へ行く。一時に日劇へ集合して会議をする筈だったが、樋口がゐないし、四日にやり直すことにした。日劇のアトラクションの「秋のをどり」、例によってひどいものだ、うちから能勢を貸したので心配だから見たのだが、よくやってゐる。有望。穂積と近処で茶をのむ、とたんに「ハリキリボーイ」をかけられてくさる。然し此の分なら大分売れてるかな、とニヤリ。四時半に大森松浅へ。ビクターの集り。チャンと三十分サバよんで行ったのに、五時になっても揃はない。食事は七時、まづいこと大したもの、静ときわが酔っ払って「あたし此の会費知ってんのよ、二円五十銭よ」で大笑ひ。伊藤松雄と青砥とで銀座へのし、ルパン。


九月二日(水曜)

 十時起き、日記の溜ったのをまとめて、それから何か書かうかと思ってゐたのだが、此の暑さには参って、うだ/″\してゐた。二時に母上と家を出て、淀橋の馬渡さんへ行く。伯母上と話してるうち夕立、これで、サラッと涼しくなるかと思ったら、やっぱり暑い/\。えらい汗、ぐっしょり――づぶぬれ、如何に形容しても足りない位汗をかく。医者へ寄り、四谷へ。十月の出し物は渡辺が来るつもりで考へておいたので、グラついちまひ、未だハッキリとつかめない。ピタッと――何か此うピタッと来るものはないか。然し仕事のこと考へてるのは肩は凝るが苦しくはない。


九月三日(木曜)

 四谷。十一時までねた。夕刻迄、宇野浩二の「文芸草子」を拾読してゐたが、思ひ立って、夕立の中をエノケン見物に出る。マーブルへ寄り一円半の定食、中々よし。松竹座へ入ると、二階は二側か三側しか入ってゐない。「若い燕」といふつまらない音楽喜劇が終って、グランドヴァラエティ「輝ける珠玉」なるもの、このつまらないのに驚いた。いつのまにか、エノケンは僕より下のものになってしまった、と浸々思った。僕がうまくなった、偉くなったのか――エノケンがまづくなったのか。これなら、僕が客の立場で、大丈夫ロッパを見に行く。第一、彼のからだからは発散するものがもう出尽したのではあるまいか。夕刻熱が七度二分あった、何うしてだらう、いやんなる。


九月四日(金曜)

 十時起き、又暑い。医者へ寄り、日劇中三階へ行く。都と読売のラヂオ面記者に逢ひ、八日の放送のことを話し、四階で十月の出し物について打合せる。「河内山」と「ハリキリボーイ」に決定。三時にビクターへ。「僕のホームラン」すら/\行って無事に吹込が済んだ。日劇へ戻り「秋のをどり」の能勢のところを見て、注意を与へ、ランチルームで読売の吉本明光と徳山とで話す、金沢へ十三日に行くことが決定した。地下室の理髪ホワイトで理髪し、七時にルパンで屋井に逢ふ。藤山一郎とも逢ひ、色々話す。


九月五日(土曜)

 十時に起きる、大西を呼んどいたので大いに揉ませる。徳山一時頃来る。伊藤松雄のとこへ二人でおしかけて、大いに喋る。四時迄ゐて辞し、医者へ。東宝の中島から電話がある筈なのにスッポカされた。旬報へ電話し、友田と橘のとこへ麻雀しに出かけることゝし、レインボーで食事する、一円半の定食、はるかにマーブルに劣る。サヴィスもゼロ、むしゃくしゃする。橘のとこへ。十二時半迄やり、大負け致す。帰って暑し/\と思ひつゝねる。
 ――結局、渡辺篤は、笑の王国で居直っちまひ、こっちへは来ないと定った。で、文芸部の菊田一夫とその妻君の春日静枝が入り、丸山夢路が入る(道川晴子と改名させた)他、森英治郎が願ひたいと来てゐるので、OKするつもり。


九月六日(日曜)

 九時半起き、稍々涼しく、じっくりねられた。医者へ。オール読物に、オリムピックの放送記録が出てゐる。河西の放送の分、前畑秀子が優勝するところを読んでたら眼頭が熱くなるのを覚えた、妙なものだな、日本人魂かな。十二時すぎ母上と待合せて、鎌倉へ。汽車中「サンデー毎日」増刊の、川口と中野が並んでるので読む、小説だけに川口の方がぐっと上だ。鎌倉伯父上に、今回のことにつき、よろしく御願ひし、二階の風通しのいゝところで、ひるね、いゝ心持だった。九時近くの汽車で帰京。新橋の千成で母上と立食して帰る。「ハリキリボーイ」を早く書かう。


九月七日(月曜)

 医者へ寄り、AKへテストに行く。三時、「東京ちょんきな」の放送テスト、此の間海外放送でやったし、感激少しもなし。四時半、明治座へ。新派大合同といふ奴、岡・樋口・三益・高尾・清川で見たんだが、開幕から見てるのは僕一人、いやはや暑くて/\。一が終ると腹が減って、支那食堂でシュウマイを食ふ。熱っぽいので計ってみると七度六分ある、腰かけてるのが辛かったが、途中で岡・川口・三益が帰ったのに、やっぱり好きと見えて僕は残り、十一時にハネる迄ゐた、暑い/\、中洲の松本ってうちへ、連中と寄って帰る。
 書落したが、今日社長を交殉社の食堂でつかまへ、森英治郎を入れることのOKをとり、ついでに僕の文芸部長としての月給を出すことをOKして貰った。これから助かる。


九月八日(火曜)

 午前十時、伊藤松雄が森英治郎を連れて来訪、モソッとしてゝあまり感じはよくなかった。今日は立石君に、丸ビルサラリマン生活見学の案内を頼んであるので十一時、家を出て、大阪信託へ行き、オフィスの陣立、月給支払日の光景等いろ/\話をきく、すべて十月の「ハリキリボーイ」のためである。四時に医者へ寄り、JOAKへ。八時五十分より「東京ちょんきな」をやる、無事。終ってビクターの青砥と銀座の不二アイスで茶をのみ、吹込の相談して四谷へ。今日も熱七度四分あった。(夕食ニューグランド)
 放送を終って、AKの自動車で山を下りて来ると、一杯の人である、ワーイ、ロッパ! 忘れちゃイヤよなんてさわぐ。これは人気のバロメーターだと思ふ。今後、よく注意して研究すること。


九月九日(水曜)

 朝十時に眼がさめた、ムンと暑い、四谷。朝食進まない、冷たいものガブガブ。三時半に出て、医者へ。熱が一昨日から七度四五分あるので不快、一時間治療して、五時すぎ新橋演舞場へ、曽我廼家五郎見物。何しろ暑くて/\見物してゝも役者の方が楽である。食堂又暑し、汗ダクでまづい洋食を食ふ。「都」の左本に逢ふ、五郎と二人の座談会をしろと言っておく。終り迄見て、まっすぐ帰り、勉強ノートつける。


九月十日(木曜)

 何といつ迄も暑いのだ。伊藤松雄来訪、それからそれへとよく喋るの何の、すきを見ちゃあ喋りっこである。二時まで喋って帰る。四時半頃出て、医者へ。六時、安田の小川栄一と築地へ行かうじゃないかと、分とんぼへ。冷房あり、涼しい。晩翠軒の支那料理とって貰ひ、のめ/\と言はれるが、食ふ一方。柳・大庭・石田に丁度菊田も来てたのを、皆呼び、「河内山」をアメリカのギャング物に見立てゝやらうと考へ至り大いにハリキる。新宿のまるやへ寄って帰る。


九月十一日(金曜)

 十時起き、もう涼しくなってもよさゝうなものだのに、暑い。医者へ。まだハッキリしないが、旅行は差支あるまいと言ふ。日劇へ、専務と十月の出しものについて話し、ギャング河内山は大丈夫いゝから安心しろと言っとく。ビクターへ行き、徳山と二人で、ニューグランドへ。オルドヴルと、ヅペパバ何とか――といふスープをのんだら、すっかり満腹しちまひ、白いスパゲチ少々食ひ、マスクメロンとアイスクリームでちょん。徳山に送って貰って帰ると、荷ごしらへして、上野駅九時発、金沢行で富山へ。同行母上、柳と三益。駅まで川口松太郎堂々と見送りには顔まけ。列車、食堂無しといふ悲しさ、アダリン五つのむ。寝台へ入る、さあねられない。


九月十二日(土曜)

 富山――昼夜二回。
 寝台へ入ったのは十一時半、うと/\としてたらもう六時。六時四十何分、富山着。富山劇場の田島って人など出迎へ、舟山旅館てのへ。三益と二人の漫才をウタってあるので怒り、やらぬぞと断はっとく。浅草の頃揉んだことがあるといふ按摩が押かけて来た。三時すぎに出て、富山劇場、昼の部、三益の一人トーキーと、僕の歌漫談をすませ、宿の傍の洋食屋で食事、わりに食へた。柳が田島ってのにおがみ倒され、夜は漫才をやることを渋々承諾する。又先の按摩来り、揉む、五円やる。夜の部九時近くから。漫談四十分もやり、三益と万才をやって、十一時六分の汽車で金沢へ向ふ。わりに涼しい。金沢の浅井屋って旅館へ。


九月十三日(日曜)

 金沢――昼夜二回。
 金沢、浅井屋の朝、食事してると、読売支局の記者連ゾロ/″\来り、前にきいてない、デパートめぐりだの何のと言ひ出すので、暑さは暑し、ゲンナリする。今朝着いた徳山・渡辺と共にデパート二軒へ寄り、公会堂へ。石川読売発刊記念の会で、ひるは六七分しか入らず。一回終ると、何か脂味を食ひに行かうと思ってるのに、新聞社の連中が、卯辰山の金閣てのへ案内し、まるで淡りした日本料理。がっかりして食ふ。夜は大満員、受けること/\。徳山も渡辺も二三回宛出て大サービスだ、漫談も三十分以上やる、トリに「朗かな演芸会」、昼間はこれをCK管内中継した(300)。夜すんで新聞の人が金沢美人を見せると、町へ行ったが、ロクなのはゐず、こっちは洋食ムシャ/\食ってばかりゐた。徳山・渡辺・三益今夜帰京した。母上と柳と僕、もう一晩泊る。
 三十五年前に住んでゐた金沢の町を、母上は今日一人で見物して歩かれた、その昔住んだ家がそのまゝあったさうだ、公園のベンチへかけて、われ/\の中継放送をきゝながら、往時を思ひ夢のやうだったとの話。


九月十四日(月曜)

 宇奈月温泉へ。
 九時に起きる、母上は一足先へ立って高岡へ寄り、(此処も昔住んでゐらしったので)僕の列車へ乗られる。朝食に、ゆふべとったカツサンドがある筈なので何うしたと言ふと、感じの悪い女中、「一夜たってゐるからと思って犬に食はせました」とヘラ/\笑ふ。犬女め。十時すぎ宿を出て、僕一人三日市へ、高岡から母上乗られ、三日市から宇奈月行の電車、三時近く宇奈月着、延対寺別館て宿へ泊る、大へんな一等室、風呂は一寸遠いが感じよし。夕食も肉ばかりだったのでよし。「ハリキリボーイ」一景八枚書く。夜に入りて少々むしあつし。明夕迄に大分進行する見込み。


九月十五日(火曜)

 寒い位だった、よくねられた。母上は九時頃から黒部峡谷を見物に出られ、僕は十時半迄ねてしまった。入浴、食事して、さてペンをとったが、杉狂児と岸井のことがハッキリしないので、どうもキッパリ書けない、歌の材料も不足で、帰ってからでなくては埓があかないので、ねころんで馬場孤蝶の「明治文壇回顧」を読む、悪文で楽しめない。母上夕刻帰られた。夕食、肉ばかりにしろと言ってあるので色んな洋食が並んだ。珍しく此の旅館は感じよくて助かった。鎌倉伯父上一行が来られるのと逢ひ、入れ違ひに出立、雨の中を電車で三日市、それから急行で上野へ向ふ。アダリン五つのむ、わりに涼しいらしいので喜びつゝねる。


九月十六日(水曜)

 七時、上野着、家へ帰り、入浴し、食事――あゝ家の食事のうまいこと。今日は、うちの青年部の試演会で、小劇場へ行く。「父帰る」「女優と詩人」と上山作のヴァラエティ、それ/″\面白かった、女優として早川、雲井見込あり、青年部にも人多し。心強し。石田守衛を連れて、ニューグランドへ。ポタージュとチキングリル。有楽座の「ふるさと」を見物、PCL滝村・藤山一郎と話す。東宝劇場の少女歌劇を見る。小林一三が「たゞ歌ってりゃあいゝんだよ」と言ったのは名言なりし。中野実、脚本「入選」を持って来て呉れ、ルパンからサロン春、それからパレスから赤坂へ。
 滝村に今日怒った。藤山一郎の第二回作品を、あれ程僕に相談しておきながら、まるでスポかして、佐伯孝夫にストーリーさせ、こっちに何の挨拶もなかったこと、然るに滝村は、たゞすまん/\あやまるの一点張り、それだけじゃこっちはおさまらぬ、尚もっと怒るつもり。


九月十七日(木曜)

 昨夜からうんと涼しくなったのでよくねられた。雨――仕事によろし。十一時、鏑木来訪、職を失ったと言ふ、仕方なし十円やる。主婦之友の婦人記者来り、何のことか要領を得ぬ奴で弱った。十二時頃から「ハリキリボーイ」を書きにかゝる、大体プランを立ってゐたので、すら/\行く。その間方々から電話かゝり、下へ下りるのに、左足の水虫が痛くて弱った。夜十時近く、六十何枚か書き上げた。樋口の電話、杉狂児十月出ると言ふ。準備してないので困る。十一時に、柳橋の吟松へ。都新聞に出すべき曽我廼家五郎と一問一答で行く、初対面頗る感じよし。つひに夜も三時迄話した。


九月十八日(金曜)

 十一時迄ぐっすりねた。先づ日劇中三階事務所へ。「ハリキリボーイ」の本を渡し装置家を横川と定め、狂言四つ決定。一の川島のは「山に呼ばれて」といふのを「海抜三千尺」と直し、二を「ハリキリボーイ」三に中野実の「彼女をめぐる」四が「ギャング河内山」菊田が目下書いてゐる他皆揃ったわけ。二時にビクターへ。「東京オリムピック」の吹込をする、上山の詞を佐伯に直さしたもの、兎に角入れた。足の水虫が痛くて医者へ寄らうと思ひながら時間なく、日劇へ引返して、配役を済ませ、ビクター実演大会のための本を、四谷へ徳山と行って十二時近く迄かゝって書く、ヘト/\だ。ねたのが三時近い。


九月十九日(土曜)

 雨の音きゝながら十二時すぎ迄ねた。都の今朝のに、五郎とロッパ――本紙の記事が取持つ縁で会ふ、といふみ出しで写真入りで出た、感じよき写真。起きて食事すると、床しかして、有楽座の宣伝文を書く。「ハリキリボーイはサラリーマンのバイブルだ、音楽入りのテキストだ」なんてのは傑作だらう。「東宝」へ、自作について一枚半書く。四時すぎ、柳と大庭来り麻雀。めちゃ勝した。四谷から二時近く帰ると、電話が沢山かゝったのが控へてある、急しいのが嬉しいくせに、急しいと音をあげたくなる。明日は本読みである。座員一同と久々に顔を合せることの嬉しさ。又雨、今日記し、さてねる。


九月二十日(日曜)

 朝医者へ寄る、大分いゝらしいので嬉しい、水虫の方も手あてして呉れた。一時、小劇場へ、一から本読にかゝる。一は川島順平が自ら読む、どうも具合が悪いらしい、役をとったのでブツ/″\言ってゐる。二「ハリキリボーイ」を自分で読む。三を抜かして菊田が「河内山」を読む、きいてゝ吹き出すこと数度、大分浅草式の下劣があるが、大丈夫笑へるものにはなった。終って、樋口と二人、ホテルのグリルへ食事しに行く。グラタンとオルドヴルで満腹。つれ/″\なるまゝに東宝名人会を見る、伯鶴と孫三郎だけいたゞける。正岡容に逢ひ、酒をやめて健康になってるので驚いた、歌詞を作れとすゝめる。ルパンから、柳橋の五郎紹介の吟松へ。


九月二十一日(月曜)

 十一時頃浜尾操氏来訪、親戚の十九の学生が学校が嫌で役者になりたいと言ふから一度逢ってやってくれとたのまれる。一時、けい古場小劇場へ。時間通り集らなくて困る。「彼女をめぐる」「ハリキリボーイ」「河内山」と読み合せをして行く。杉狂児が、タド/″\しいので心配だが、舞台へ出ちまへばきっとやるだらうと思ふ。四時に終り、東宝グリルで田中三郎と会ふ、先日来頼んどいた件、結局岡崎に誠意なくこっちで払はなきゃならぬことになりさうである。六時、樋口と待合せて、築地錦水へ。東宝重役今村氏の招きで食事、おかったるくて話にならぬ。九時ルパンで田中三郎と逢ひ、楽亭で支那食して、帰る。大徳でステッツン二十一円のソフト買った。


九月二十二日(火曜)

 朝主婦之友の記者柴田来り、「怪我の功名」って話をしてやる。医者へ寄り、けい古場へ出る。今日は日劇五階、「ハリキリ」「河内山」と立って、「彼女をめぐる」を演出する。森英治郎、三益と杉狂児、丹念に振をつける、杉狂は声が小さいが味がある、森は間がまるでのびてスピーディなとこがない。「彼女をめぐる」は思ひの外面白くなりさうだ。石田守衛を連れて、デンツーで夕食、ポタアジュと鶏カツ食って、芝浦のサーカス、ベルハムストンの天幕へ。二円払ひ、てんでひどいインチキでくさる。浅草花月劇場へ、宇留木浩追悼の夕で、夢声・エノケンのあとへ出る、ワーッといふ歓声拍手、「ロッパ浅草を忘れたか」と言はれセンチになり、出来悪し。藤山がアコディオンで伴奏して呉れた。広養軒へ寄り、のむ。山野と帰る。


九月二十三日(水曜)

 医者へ寄ってけい古場へ。けい古終ると柳と東劇へ。新派井上・水谷・梅島を見る。前から二列目。岡田嘉子が発見して手紙を持たしてよこした。徳山夫妻に偶然逢ふ。徳山は初めて梅島を見たので、何だか梅島が僕の声色使ってるやうな気がするといふ、梅島もたまらん。食堂の洋定食のまづさや甚し。四谷へ。


九月二十四日(木曜)

 十時半四谷を出て医者へ寄り、けい古場へ。小劇場楽屋、小佐川鶴之丞に来て貰って、河内山玄関先を本行通りつけて貰ふ。大庭の大膳大きな声ばかり出すが、肝腎の憎みが出ず、サア/\/\のとこなど、スカ屁のやうになるので弱る。四時半、石田・大庭を連れて新宿中村屋で夕食、ボルシチとパステーチェン、プディング。それからムランルージュへ行く。八時すぎ迄一と通り見物する。宮田重雄がゐた。望月美恵子が挨拶に来た。いゝ子だ。ひょっこり白川道太郎・穂積純太郎と逢ひ、銀座へのす。ルパンへ入ると田中三郎等に逢ひ、旬報の二階で二十一から相場、ポーカーと進歩して行く話から明日はぜひ一戦やらうと約す。


九月二十五日(金曜)

 十一時迄ねる。浜尾操氏が、久保田といふ親戚の青年を連れて来り、是非弟子入したいといふことで、明日からでも兎に角来いと言っとく。医者に寄り、けい古場へ。二時から河内山をやり、日劇へ。広告部が僕の原稿にヘンに手を入れるので文句。月給は出たが、文芸部の分を呉れないので専務のとこへ明日にも呉れと言っとく。五階で徳山に来て貰って、歌のけい古をさせる、徳山には今月から百円宛出すことになってゐる。食事しようとB・Rへ、芦原英了に逢ひ色々話す。それから蒲田の田中家へ。田村・堀・田中・高橋と久々のポーカー。シクスティ程、快敗した。蒲田から省線で新ばし。千成ずしつまんで帰る。


九月二十六日(土曜)

 十時起き、時間なく医者へ寄らず小劇場へ。今日は「河内山」と「彼女をめぐる」を立つ。四時半、ビクターの実演大会けい古場神田教育会館。ハリキリボーイの歌と、「歌ふ弥次喜多」道中日記の一頁を立つ。六時すぎ、浜町の浜のやへ、主婦之友の座談会で行く。藤山一郎・松平晃・近衛敏明迄はいゝが中原某てふ画家と、邦正美は弱った。理想の女を語るといふんで二十六の藤山が僕と女性観を同じくしてゐるのは驚いた。十時にひきあげて、柳橋吟松へ行く。のめど一向に面白くはない、花柳界のつまらなさてものは一と通りでない、何が僕の夜をなぐさめるものであらうか。


九月二十七日(日曜)

 十時起き、医者へ寄って、日劇五階けい古場へ。何うして此う日本人は時間の観念がないのか、一時からといふのに始めたのは二時だ。「ハリキリ」頭から通した。「ハリキリボーイ」は、今迄僕の書いたものゝ中ではかなり変った味のものだ、当るか何うか心配になる。日劇地下ホワイトで理髪。樋口とホテルのニューグリルへ行き、舌平目の皿焼と、チキンパイを食ひ、新橋のブラックエンドホワイトへ。杉狂児と大庭でのむ。杉狂児は、九州博多の産、天勝にあこがれて入座し、転々して今日に至った奴、天勝の手品伴奏のメロディーをやってやったら驚いてゐた。天勝のズマのしくじり話など面白くきく。


九月二十八日(月曜)

 ビクター実演大会 東劇。
 伊藤松雄から電話、ビクター大さわぎの報。新聞見ると、渡辺はま子・小野巡・静ときわ・児玉好雄等がビクター脱退、今日の大会へ出ないと出てた。イタにかけて居直るなど全くド素人めいたいやなやり方。すぐ柳をビクターへやり、あはてちゃいかん、役者はいくらでも貸すからと言ってやる。日劇五階で「河内山」を通し、終って一人ニューグランドへ。ポタージュはオニオングラタン。イタリ料理のラヴィオリ・ニュアスとてもよろし。東京劇場へ。十周年記念の会。ハリキリボーイを歌ふ、受ける。即製の「歌ふ弥次喜多」の一頁も充分受けた。脱退組の中、渡辺はま子はビクターへ泣を入れたがこっちで断はり、器量を下げて帰った。サロン春からおでんや銀七へ。


九月二十九日(火曜)

 ビクター実演大会 横浜宝塚劇場。
 今日は横浜のビクター実演大会。医者へ無理して寄る。横宝劇場で二時半から、第一部の歌、ハリキリボーイを歌ふ、受ける。二部は、中野実の「キャンプの一夜」、これには脱退組が出る筈だったので、うちの石田・大庭・多和・轟を貸した。三部で「歌ふ弥次喜多」を出し、終ると、神奈川の田中屋で宴会。あんまり有がたくない、横浜へ来たら支那料理でも食ひたいのに。社長の挨拶から、十年勤続の佐藤千夜子と平井英子に記念品が出たり、学校みたいなことをやり、それから宴会。まづい料理で参って、岸井と二人づらかる。四谷へ。


九月三十日(水曜)

 有楽座舞台稽古。
 十一時座へ。今日は舞台けい古。三の「彼女をめぐる」から始めた。これは杉が中々味をやるから受けると思ふ。さて次に「河内山」だ。菊田がまだ丸の内に馴れないから何かとピンと来ないものがありさうでかなり心配である。山水楼のやきそばだけで腹をこしらへ、夜十時頃から「ハリキリボーイ」にかゝった。いつもの作と変ったものだけに、これも何処迄受けるか見当がつかない。徳山が来て呉れて歌のとこは監督して呉れたので助かった。時計は午前三時――四時。明日は豊島園へ一時に行かねばならない。労れることである。終ったのが五時。徳山と同車で帰り、もう明るいので床の向をかへてねる。
 舞台装置家が、芝居を見てないので、全く困る。島公靖も「弥次喜多」は大出来だったが、今回の河内山はひどい。入谷寮の概念がまるでないから松江侯の邸の窓から海が見えてゐる。クラシックを馬鹿にすることが近代青年共通の大欠陥だ。
[#改段]

昭和十一年十月



十月一日(木曜)

 豊島園野外劇場で漫談(100)、座へ出る。四時からフィナレの歌のけい古、ホテルへ行き、チキンブロスと舌平目、コーヒーのむ。六時。既に満員。序終って、二の「ハリキリボーイ」狙ひどこが、いろんな手違ひで外れた、第一音楽がひどい、まるで小さな音しか出ない。道具やキッカケトチリ多く、がっかりした。三の「彼女」は支度のため見られず、四の「河内山」は又トチリ続出で、いやはや浅草の初日を思ひ出した。セリフが入ってないのでトン/\行かなかったが、玄関は大丈夫、大庭もわりにいゝ。「あゝ役者はやめられねえ」のサゲも利いてゐる。十一時四十二分ハネ。ダメは明日三時集合で出すとして、今日のところは帰る。杉狂児その他大ぜいで新宿まるやへ。


十月二日(金曜)

 たっぷりねて十一時すぎに起きる。日記の溜ったのを片付け、三時日劇へ。菊田・川島・穂積に樋口でカット相談。デンツーで樋口と食事、ニキチャップとブフアラモード。何うも味が単調である。座へ出ると、もう満員。序幕終って「ハリキリ」音楽の方が稽古をしたとみへて、いくらかましだが、ビクターのオケストラで歌ふやうなわけには行かぬ、淋しくてしようがない。「彼女をめぐる」を見る、杉狂児がとても巧い、之を選んだのは成功だ。「河内山」は、暗転でえらく手間をとった。玄関先は昨日より出来よろし。引込みのギャグは大受け。ハネ十一時六分。ルパンからシラムレン、飯田信夫と逢ひ、四時迄語り論ず。
 十一月は、上半を宝塚、中旬を横浜といふ予定だったが、今日宝塚の萩原来り、宝塚だけ、但しのびて二十日までと決定した。此の方がよろし。


十月三日(土曜)

 今暁、五時帰宅って馬鹿な有様だったので、一時迄ねた。何うも意味ないことであった。医者へ寄り、ホテルのグリルへ食事しに行くと、川口と三益がビフテキとセロリの生を食ってる、ダア。僕、クリームスープにミニツステーキ。座へ出ると、もう満員である。「ハリキリボーイ」は、段々うけるやうになった。「河内山」も、馬鹿々々しいが、まとまって来た。


十月四日(日曜)

 今日はマチネー。ワンサ/\の客である。「ハリキリ」大いに受ける。「河内山」のサゲ益々よし。ひるを終ると井上へ、白井鉄造再渡欧の送別会。六時迄しかゐられないからと、主賓の来ないうちにどん/″\すきやきを食ふ。座へ帰る。夜も無論満員である。「ハリキリ」は杉狂児と段々合って来たが、やっぱりたよりない、特別出演が皆素人なので気の休まらぬこと甚しい。※大崎健児来り「昨夜はエノケンに御馳走になったから今夜は一つ」と、仁義に来た。丁度山野も来たので、石田を連れて、サロン春一階へ行く。それから新宿へのして、大崎他二人送り込んで帰る。
 ※十月六日参照。


十月五日(月曜)

 医者へ寄り、ビクターへ行く。「東京オリムピック」と「僕のホームラン」のテスト盤をきく、まあ両方ともきかれる程度には入ってゐる。二時三益来り、岡庄五の室で話し、ビクターの人間となること決定。で、早速、伊藤松雄の「アホかいナ」の歌詞を見せて貰ったがとてもアカンので書直して貰ふことゝした。ビクターの地下で食事して座へ出る。今日も満員である。何となく労れてハリキれない、毎日のむのでいかんらしい。気候がよくなると飲まないわけにもゆかんて。今日は然し、ハネ後一路四谷へ。そして、健康なる眠りであった。


十月六日(火曜)

 たっぷりねて、のんびりと「新青年」など読みまして、四時に出て医者、そして座へ。伊藤松雄から手紙で森英治郎が、色々不満だからやめると言ってたから、そのつもりでゐてほしいとのこと。充分対遇してやってるのに、そんな気なら、何時でもお止しないだ。役者は己惚れの強いものとは定ってゐるが、度を越してるのは馬鹿である。今日も満員だ。今回は、出し物は強くないのだが、並べ方で成功したらしい、プロデューサー・ロッパの成功である。(此の日ハネ後の事は間違へて四日のとこへ書いちまった。)


十月七日(水曜)

 今日から三日間マチネーあり、朝日新聞従業員の慰安会である。団体貸切となると子供連の多いこと、何をやってもこたへがない。ひる終ると、リキー宮川と杉狂児を誘って、日本橋の井上へすきやき食ひに行く。女中連サインブックを持ってつめかける、やっぱり映画の方が人気あり、藤山一郎より杉狂がモテる。井上の女中が「ハリキリボーイ」の歌を絶讃する。帰って夜の部、一々ひると対照するからピン/\と受けると一層気持がいゝ。海老沢・屋井等の旦那連かち合って来訪、海老沢とサロン春地下から又のす。


十月八日(木曜)

 今日マチネーだから起きるとすぐ出かける。ひるの客は相変らざる団体の客で少しもピンと来ない。一回終るとニューグランドへ行き、PCLの森氏を待つ。食事は、トマトクリームスープと舌平目洋酒蒸に、鶏インコゝット。此処のスープはうまいが、トマトクリームは戴けない。森氏と三月の撮影の打合せ。「ハリキリ」を見て呉れと森氏を連れて座へ。夜の部の客、ひると違って心地よし、それに社長が来てるときいて一同ハリキる、社長曰く、「ハリキリは大変面白い、彼女をめぐるはつまらない」と。ハネ後、リキー宮川と多和・大庭・石田でルパンで大いに飲み、ハリキった四人を向島の彼方へ送り込み、一人帰る。三時半。


十月九日(金曜)

 今日もマチネーだ、十一時に起きてすぐ座へ。ひるの客はちっとも笑はない。「ハリキリ」一向ハリキらず、「河内山」の玄関もいゝ加減にしとく。一回の終りに海老沢来り、銀座へ出て、新金春ですきやき、僕は珍しく鯛さし・栗甘煮・野菜煮と土瓶むしと来た。帰りにゾンネでうまい菓子とコーヒー。座へ帰って一揉み揉ますと夜の部。風邪流行で三益は調子をやってるし、踊り子二三名休みで、人数が足りない。ハネ頃日活の小林重四郎・井染四郎来り、サロン春の地下へ行き、それから、ふた葉へ、帰りは二時に近し、あゝよくぞ飲む奴かな。


十月十日(土曜)

 又のんだ、いかん、注意せよ。大辻来訪、仕事のこと約一時間話して帰った。日記をまとめやうとするが、あんまり溜ってゝ何の日が何うか分らなくなってゐる、毎日飲む話ばかり、まるで勉強をしてゐない。それハリキれ、イエス! そこでハリキってビクターへ行った。らば、みんなハイキングに行って誰も出てゐない。医者へ寄って座へ。満員、土曜の客で景気がよく、声をかけたりする。杉狂児やリキーも芝居は成程面白いって気になったらしく、喜んで演ってゐる。夜、ハネると又、ふら/\と山野・多和の二人を連れて歩き出す、又少々のんでしまひぬ。


十月十一日(日曜)

 日曜でマチネー。満員。一回終ると、藤山一郎来楽、ホテルのニューグリルへ。スコッチブロスにコーンにクラブハウスサンドウィッチ。それに又アイスクリームフルーツ。よくめし上る。座へ戻り、又々満員の客を前に、「ハリキリ」もよく受けたし、「河内山」の玄関など、えらい受け方である。ハネて、引越した青山へ。
 ――エノケンが近頃ひどいさうだ、四分の入りで松竹から給金値下げを申渡されたとか。人気といふものゝ恐ろしさ――然し此の場合はエノケン文芸部の企画的失敗が不入のもとなのだから、人気云々よりそれを考ふべきではあるが。


十月十二日(月曜)

 青山で、十一時起き、宝塚のプログラムに刷る文章「センチメンタルロッパ」を四枚と、「ヒット」に、レコード歌手中心のゴシップみたいな小咄を書く。医者へ寄り、ホテルニューグリルで食事。オルドヴルに、ポタアジュ、舌平目洋酒蒸。アイスクリームフルーツ。座へ出る、今日も補助椅子ベッタリ。「ハリキリ」の一景から二景あたり快い笑を誘ふらしい、とてもよく笑ふ。「河内山」落ちついて来たので、からだの恰好がつくやうになった。玄関以外は凡そ、やってるってだけのもの。ハネて、屋井の招待で、又のんだりさわいだり、いやはや。


十月十三日(火曜)

 十一時に起き、ビクターへ行く。「アホかいな」のけい古。のんだ翌日のせいかカンが悪くていけない、三益とかけあひなんだが、三益の方がよく覚える、歌も曲も中々面白い。それが終ってから、佐々木俊一の「ロッパ狂燥曲」、曲は面白いものだが、佐伯の詩が気に入らない、くさりつゝやる。ホテルニューグリルへ行き、コンソメ、キスのフライと犢のエスカロップを食った、犢の大きさには参った。座へ出る、今日も満員である。実によく入る、此うなると軽々しく行けない。読売と朝日に評が出た、読売の方で河内山が珠数を始終持ってゐるのは可笑しいと書いてゐるが、それはこっちにも考へがあってやってゐるのだから改めない。ハネ頃山野来り、新橋の金兵衛へ行き、好物揚シュウマイをワン/\食ってちと苦しみ。


十月十四日(水曜)

 医者へ寄り、一時にビクターへ。「アホかいな」のけい古。一時間やり、能勢と二人の「恋のカレンダー」をけい古する、これはワルツで、とても覚えよく、すぐ入った。クラブで大洋食堂のコロッケ取って食ひ、五時半、東宝グリルで、藤田房子親子に逢ふ。座は満員である、づーっと補助椅子の出ない日なしといふ景気になるらしいので安心する。ハネ後、ビクター岡氏から築地豊村へ来いと電話あり、能勢を連れて行く、オルパーをのみ、ひとりで喋っちまった。


十月十五日(木曜)

 昨夜二時、今朝十一時だからたっぷりねた。伊藤松雄訪問、レコードの案いろ/\立てる。それから中野実のとこへ。著書三冊貰って、銀座のヤングへ行き理髪する。四時、ビクターへ行ったが吹込室がノびてゐるので、大洋食堂で、ポークチャップとオムレツに、チキンクリーム煮を平げて「軽い食事を終った」と言ったら、鈴木静一がトタンにくさった。「アホかいな」のオケ合せ終って六時に有楽座へ。今日は西川ふとん店の、おとくゐ招待の貸切で、いつも笑はぬとこで笑ってみたり、肝腎のとこはスカしたりされるので一と通りならず、面喰ふ。中野実と山野一郎でハネ後、サロン春の地下から赤坂へのす。


十月十六日(金曜)

 十一時起き、ビクターへ行く。「アホかいな」の吹込み、三益とのかけ合ひ、あのガサ声が今度のマイクを通すときれいな声になるには驚いた。歌詞も曲もいゝからこれは売れるが、印税は二人だから安い。日劇へ行き村山知義の「恋愛の責任」を見る、中々いゝ、その神経が買へる。三年後あたりを期待する。ホテルのニューグリルへ。ポタアジュと、ミニツステーキにフレンチペストリ。座へ出ると満員。PCL滝村来り、「ハリキリ」を買って呉れと言っとく。「河内山」は、日野が倒れて柏が質屋の女房を代役したので、それに気をとられ、大切なギャグを忘れた。ハネて、川口松太郎・中野英治といふ変った顔ぶれでルパンから九段へ。


十月十七日(土曜)

 祭日なので昼夜である。むろん満員。昼の部大いに受ける。林・堀井・石田で山水楼へ、三円の定食珍しいものが出てよろしい。豚のホルモンてのが出たら、それッと皆ハリキった。座へ帰ると、下二の母上と鋭五が来てた、此ういふ人々は、楽屋に不適である。仕事が仕事だから家庭的なものに入られることは何うもいけない。夜の客は、土曜客プラス祭日客だ、ワッワと何でも大受けに受ける。ハネて、山野が又来り、ルパンへ。ヨタ者マコ来り十円タカられる。


十月十八日(日曜)

 マチネーだ、早く出る。座へ出るともう満員だ、降りみ降らずみの好日曜日、有楽街の人出は大変なもの。ひるの部からハリ切ってしまふ。終ってニューグランドへ行き、トマトクリームスープに、チキンとヌードルのクリーム煮、それにアイスコーヒーとプディング。食事しながら、「ロッパ狂燥曲」を自分で作詞してみる、やり出すと何うしてさう馬鹿に出来ない調子。先に曲が出来てゐれば、すぐ出来る自信ついた。座へ帰る満員。ハネ後、雨の中を青山へ。からだの調子がおかしい。


十月十九日(月曜)

 青山の朝、十一時迄ねる。昨夜からずーっとドサ降りである。二時にビクターへ出る。僕の作詞を見せる、佐伯孝夫の意見で、折角の面白いのをつまらなくされちまった。佐伯としても印税の関係上、何うしても自作にしたいのである。題は「ロッパ狂燥曲」を止して「明るい日曜日」とする。医者へ行く。糖を診て貰ったら、大分出てると言はれ、近頃の不快がこゝにあったなと思ふ。憂鬱になり、ホテルニューグリルで、オニオングラタンに、オルドヴル、コールビーフで食事し座へ出る。満員、雨の中をよくこそのお運びである。ハネ頃山野来り、相変らずの調子で入座希望。そろ/\いゝかと思ふ。


十月二十日(火曜)

 十一時起き、ビクターへ。楽士も揃ひ、待ってたら、何と佐々木俊一が雲がくれしちまって、やって来ない、今日の吹込はおじゃん。からだのことが気になって面白くない。五時、久しぶりで、アラスカへ行く。こゝのオルドヴルは二円とるが、まづくない。オニグラも、うまし。ローストチキン、スタッフドキャポン。メロンとアイスクリーム。座へ出ると、今日も満員だ。ます/\客が乗って来た感じ、実によく笑ふ。「河内山」の玄関、漸く手に入り、今夜あたり一寸本ものゝやう――自分で言ってりゃ世話はないが。ハネて、サロン春地下へ。


十月二十一日(水曜)

 伊藤松雄とヴァラエティ「恋のカレンダー」の打合せのため、堀井十二時に来た。一緒に、伊藤松雄を訪れ、打合せはちょいとすませて例のお喋りにうつる。三時大隈講堂へ、戸塚署にたのまれた結核予防何とか会の余興に出た、いやはや子供と婆ばかりの会で、途中で逃げ出したくなるのを我慢して、やった。礼金は寄附してさっさと帰る。大丸の内で一荘、大いに負けたが、久しぶりで混一トイ/\の小三元をやった。座へ出る。今日も満員。「ハリキリ」の第一景で昨日程は受けないのを感じた。日によって客の乗りが違ふ。青砥来り、二十七・八日に三枚吹込みと決定。ハネ後海老沢と銀座へ。


十月二十二日(木曜)

 十一時起き、医者へ、それから一人で秋晴を浅草へのした。常盤座の笑の王国を見る。ヴァラエティ「ラッキイパラダイス」、踊り子がかなりよく動いてる。此処の振付の坪井を抜かうかと考へる。次の「森の石松道中記」は、渡辺がハリキってゐた。山野はまづい。四時に、上野翠松園へ行き、いろ/\食べる、その中にハシラが白ソースで煮たのがあった、そのハシラがいけなかった。座へ出て、間もなく胃がヘンになり、苦しくなって来た。上沼医師に来て貰ひ、「ハリキリ」終ると注射、これで何うやら落ちついた。「河内山」の玄関でうんと声出したので胃もよくなったが、一時は心配した。帰りに、只野・泉虎夫来り、ふたばへ。


十月二十三日(金曜)

 十一時起き。今日は古川家の叔母達来られ、道子来りひき合せる日なり。久々で羽織袴。鏡にうつした己が姿の、何と老いて、落ちついたことよ。庭へ出てみたり、そろ/\家庭に親しまんとす。母上・道子・湯浅叔母とホテルのニューグリルへ行く。オルドヴル、オニグラ、舌平目その他。それから座へ。満員である。楽屋も日活の連中や、長尾新輔の一家や、近江のメンソレタムの重役連等で賑はふ。メンソレタムは今後もどん/″\お送りすると言ふ。ハネてから、ルパンへ、マキノ満男・近経・サトウハチロー・樋口で行くと、田中三郎がゐて、合流し、富士見町へのす。「ハリキリ」は、PCLでは気がないと言ふので、然らば日活の方へ色気を見せて置く。


十月二十四日(土曜)

 十一時起き。伊藤松雄のとこへ行き、徳山※(「王+二点しんにょうの連」、第3水準1-88-24)の悪妻の噂、段々きいてみると、徳山は外出中一時間毎に家へ電話をかける義務があるのだと。何たる人生。二時すぎ軍人会館(50)。お伽ばなしビン君の冒険をやり、此の方面のネタを仕入れる必要を感じる。三時、美松食堂で、徳山・岸井と座談会あり、「映画とレヴュー」誌。牛の水たき、すきやき両方試みたが、まづし。座談会は、岸井じゃ相手不足、いゝ加減にやる。今日月給出た。さあ払ひの多いこと/\、すっかりくさりである。ビクターからうんと来ないと旅はピー/\なり。中野実とサロンから新橋へ。


十月二十五日(日曜)

 有楽座千秋楽。
 今日は有楽座千秋楽。ひるの部むろん大満員。昼の幕間に、なじみの易者久保田光山来り、肩が凝ると言ったら、お灸もやると、四所へ熱い灸を据えられた。五円やる。ひる終ると、ニューグランド行く。オルドヴル、ミネストロンと犢の白ソース煮。満腹して座へ帰るとすぐ夜の部。「河内山」で轟役の花魁紫式部を杉狂児が買って出て、凡そグロなる花魁を見せ、ふざけすぎの後口わるし。シャン/\としめておめでたう。ハネ後、岡庄五の招待で、市丸・川口・三益・樋口と築地の喜むらって家へ行き、ウイをじゃん/″\のみ、近頃になくドロ酔ひ。


十月二十六日(月曜)

 九時起き、ズシーンと宿酔である。浜尾四郎一年忌で染井の墓地へ。一同で目黒の雅叙園、さんざ待った末、あんまりうまくない支那食、たゞ此の家の便所、大の方が六畳敷なのは一驚し、敬意を表してゆっくりやった。三時日劇へ集合、座員一同に旅の手当と、当り祝ひをゲンナマで貰ふことになってゐるので、待たされても誰もブーブー言はぬ。金を貰って、東劇へ新派のらくなので行く。樋口と三益と並んで見てると、樋口はゆふべからのベロ酔い、いびきかくので、外へ出しといたらアームチェアで小便しちまった。かついで円タクにのせて帰す。ホテルでクラブサンドウィッチ食って青山へ。


十月二十七日(火曜)

 一時に軍人会館。陸軍糧秣本廠の会で二十分やり(40)、ビクターへ行く。今日は「金色夜叉」の吹込み。徳山・三益・清川でAが熱海でBが荒尾との出合、鈴木静一の音楽もよく、面白いものになったらしい。今期の印税を貰った、意外に少い、レコードは全く商売にならぬ。六時、築地房田中へ、三益愛子を悩ます会とあって、岡・青砥・塩入・吉田・相島・吉本が各々アベックで斉田愛子・清川・高尾・伊達・原みち子・小林千代子を連れて乗込み、おとり膳で仲よく食ひ、三益だけが一人ポツネンと芸妓のおしゃくで食ってゐる、やけで三益が飲む、酔ったところへ、三益本人も気づかぬうち川口を太鼓持狸孝として呼ぶといふ。岡は流石に遊んでゐる、近頃こんな愉快をしたことなし。


十月二十八日(水曜)

 十時起き、午前中に長尾新輔を案内に長谷川伸氏を訪れる約束なので、急いで食事してると、谷幹一がコロムバンの菓子を一折持って、入座させて呉れと来る、くさる、が可哀さうでもあり一と通り話をきく。十一時高輪の長谷川邸――と云ひたい立派な――へ。先づ「女夫鎹」の許可を得た、相手役すゐせんをたのみ、それから色んな芸談になったら、中々尽きず、ビクターへあせり心地でかけつけたのが二時。すまん/\と、スタディオに入り、佐々木俊一のクサリ「明るい日曜日」と、能勢との「恋のカレンダー」を吹込む。声いさゝか力なし。終って医者へ寄り、旅用の薬を貰ひ、ニューグランドで一人食事、カレースープに、松茸と舌平目のピラフ、ローストビーフ、プディング。ルパンへ一人で行き、カフェへ。


十月二十九日(木曜)

 十時前に起きる。伊藤松雄のとこへ行く。ビクターの印税、伊藤松雄は、何と三十何円しか貰はなかった由、僕も、労力と人気とに対し、あんまり安いし、色々考へさせられる。日産の宣伝部の人が見えたとの報せで帰る。「奴さんだよ」をモヂって「ダットサンだよ」って歌を作れと、此の間、日産の人に話した、冗談から駒が出かゝった。六時に家を出て、祖母上等道子も共に晩翠軒で夕食する、あまりうまくなし、掛炉焼鴨の味噌が油っぽすぎる。九時、東京駅へ。徳山・高尾・三益・能勢・柏に、川口・ビクターの岡同車で賑か。食堂で又三皿も食ひ、アダリン五錠のんで寝台へ入ったが、さあスチームがむん/\してねつかれず。


十月三十日(金曜)

 七時半彦根あたりで起きちまった。咽喉いさゝか悪きを感ず。食堂ハムエグストーストのみ。九時大阪着、座員大ぜいと宝塚の人出迎。阪急で宝塚へ。昔なつかしき松楽館に落つき、入浴、日記。十二時きっちりに中劇場へ行く。先づ「昇給」の道具調べに近い舞台けい古。続いて「弥次喜多」、これもトン/\運ぶから早い。終ったのが八時。松楽館へ、まっすぐ帰る。板前は気を利かして、天ぷらにかしわと松茸の煮たのってふ風に脂こいものを出して呉れるが、白米を食はなくてはならないのが辛い。林寛・多和・穂積来り、九時から二荘やる。二千プの負。


十月三十一日(土曜)

 宝塚初日。
 昨夜宝塚少女歌劇学校備付けの電気吸入器で吸入をしてねたのだが、十時に起きてみると、いくらか調子がいゝやうなのでホッとした。一時に大阪へ出る。徳山・高尾・三益も一緒で、国民会館でライオン歯磨主催の名流芸術の会へ昼夜出る。五時半に大急ぎで宝塚へ引返す、入りは九分。ところがこの小屋としては九分の初日なんてのは珍しいらしくひどく喜んでゐる。「昇給」は東京通りに受ける、歌がないと調子やってない位らくに出る、次の「人生学校」で歌ったら、大分いけなかった。「弥次喜多」は、役者が労れてる感じ、東京の三分の二位しか受けない。十時二十五分ハネ。まっすぐ帰って、松楽館の祝って呉れた鯛を食ひ、昨夜のメムバーで麻雀し又々負けた。
[#改段]

昭和十一年十一月



十一月一日(日曜)

 宝塚の二日目。日曜でマチネーである。十時すぎに起きる、咽喉の具合もいさゝかいゝらしい。昼の部満員である。「昇給」は、よく受ける、初めクサってゐたのがとても受けるものになっちまって意外だ。「弥次喜多」のフィナーレで道具廻らず、クサる。宝塚ホテルへ食事しに行く、グラタン入のポタージュうまし、マカロニとハンバークステイキを食ふ。夜五時開演である。補助が大分出て、満員々々とさわぐが、小屋は小さいし、大した景気と思へない。咽喉がまだハッキリしない。ハネてから又昨日のメムバーで二時迄麻雀をやり、今日は勝負なし。


十一月二日(月曜)

 宝塚松茸狩。
 今日は松茸狩。宝塚終点から行けるとこ迄自動車で行き、テク/\歩き出す、思ったより労れず天幕に到着、一休みして他の連中と別に、山のオヂさんが、隠しといて呉れたいゝ場所へ案内され、うんと収穫あり。それから青空白雲飛ぶのを見ながら、かしわのすきやきを食ふ。やっぱり来てよかった。下りは元気にどん/″\先へ下りる。身体が丈夫なので嬉しかりし。宿へ帰って、堀井・多和・穂積で一荘やる、珍しく勝った。座へ出る、八九分の入り。「昇給」が馬鹿な受け方。「人生」も受けてる。「弥次喜多」が、ちとスマートすぎるか東京程には受けない。ハネて又しても昼のメムバー来り麻雀一荘半、少し負け。


十一月三日(火曜)

 十時半迄ねた。渡辺はま子(大阪出演中)から徳山・三益・能勢・高尾と僕の名宛で、阪急デパートの羊かんとカステラ何う見ても皆で一円のものを送って来た、一同大笑ひ。間違ひ出すと何処迄も脱線するもの。十一時開演「昇給」大受け。徳山・高尾を誘ってホテルへ行き、グリルで、ポタアジュとサワラのフライに、ミニツステーキ、これはうまくなかりし。昼も満員だったが、夜はワンサ/\補助が出てゐる。先づ今日迄は亀の踊り、明日からの勝負である。「昇給」も「弥次」もよく笑ふ。調子大てい元の通りになった、此処数日のまないで、吸入してたから違ふ。代りに徳山が調子やり、えらい声を出してゐる。九時半ハネ、昨日のメムバー来り、麻雀、又勝負なし程度。


十一月四日(水曜)

 十時半迄ねた。柳と大阪へ出る。雨である。円タクでさんざ腹を立てることあって竹川旅館へ。小野姉とおふみ・柳とで川口町の天仙閣へ支那料理食ひに行った、今日は不味かった、支那はやっぱり神戸がいゝ。宝塚へ帰る。雨ジャン/″\だから何うかと思ったら果して入りわるし、四分か五分ってとこか。がっかりし、「昇給」かなりダレた。渡辺はま子へすし五円竹川から届けさせた。田口桜村来訪、明日大劇へ行く約束する。ハネてすぐ宿へ帰る、今日はダンスチームのすきやき会を宿でやる。ウイをのみ、陶然となり、十二時半にねた。


十一月五日(木曜)

 十時半迄――よくねた。入浴――これがぬるくて出られない、書生に朝っぱらからカス。ホテルの床屋へ行き理髪する。大庭・高尾と二人連れて大阪へ出る。大阪劇場へ入り、ビクター脱退五人組の、但し渡辺はま子は例の「忘れちゃいやンよ」と歌ったとかで出演を禁止され、残る四人の歌をきく。事務所で蒲生重右衛門に逢ふ。「来年契約が切れた時は一つ居直りの応援しまっせ」なんて言ふ。出て、弥生座のピエルボーイズを見る、岸田一夫が席へ挨拶に来る。木の実へ寄り、夕食して、帰る。今日は七八分の入り、あまりパッとしない。宿へ帰って又麻雀。よく負けた。とても弱くなった。


十一月六日(金曜)

 十一時頃食事終り、轟以下ダンスチームの数名を連れて神戸へ行く。神戸は今港まつり、ワイ/\さわぎである。新開地を歩いて、湊座の剣劇をのぞく、これが中々面白かった。何とか館で日活の「昇給酒合戦」をやってるので見る、全然つまらず、われ/\の芝居の方が遙かに面白い。夕刻、南京町へ出て、第一楼で食事、八宝全鴨が去年ほどうまくなし。元町をブラついて、ビーハイヴでお茶をのみ、宝塚へ帰る。入りはザッと七分かな。「昇給」気のりせず、「弥次喜多」ハリ切った、徳山の声も出出して快演してゐる。夜に入りて雨、今日は麻雀やめ、ウイを二三杯のむ。雨の音きゝつゝ何となくしてゐた。


十一月七日(土曜)

 十時半起き、多和・堀井・林が来て昼興行麻雀をやる。何うもついてゐない。此んなことしてるより動物園でもぶらついてゐた方がよっぽどよさゝうなものだのに。今度はまだ大好きな川をそママ殿にも面会しない。座へ出ると雨が降ったけれど満員だ。此の小屋は、宣伝費と劇場人件費を加算してないんだから、六分で元々の計算、此の分なら大分儲けさせた。「昇給」が、やってゝは馬鹿々々しいんだがよう受ける。「弥次喜多」も、ちゃんと壺が定って、やりいゝ。やり乍ら、此の本は実によく書けたなと思ふ。ハネて川万へ麻雀しに行く。大庭・吉岡とやって、これ又負ける。情ない有様。


十一月八日(日曜)

 マチネーありだから十時半に起きる。満員である、今日は一ばんよく入った。「昇給」と「弥次」では骨が折れなくて、受けてはゐるが面白くない。昼の部終ると、ホテルのグリルへ行く。ポタアジュはトマトクリーム、ニューイングランドボイルディナがうまかった、珍しく徳山の奢り。夜の部終ると、今日は宝塚会館で古川緑波一座交驩の夕てのがあり行く。ダンスホールなるもの相変ず苦手で、たゞバーでのんでふらつく。大庭が度胸で歌ふ、これがそんなにまづくない。徳山が、一人で芝居をした、マイクがこはれて、途中から声が出るところ、こいつがとてもまづかったので、安心して、僕も二三歌った。川万へ寄り一荘やり又負けた。


十一月九日(月曜)

 十時半起き。「サンデー毎日」の約束の日なので、感心に腹ん這って、書き始めた、連作ユーモア小説「牛は牛づれ」十枚、ひるすぎに書き上げた。支那食堂でまづい支那料理食って、座へ。入りは六七分ってとこ。がっかりだ。大阪の歌舞伎へ出てる新派の英太郎が見物してゐる。芝居済むと、一緒に大阪へ出て、竹川へ行き、麻雀。柳永二郎、英太郎、大矢市次郎で徹宵、奇抜な、めちゃガメリ麻雀で、面白くないが、暁近くなると例の喋りでアホっちまひ、大分負けてたのを千プばかりで助かり、午前七時竹川に泊る。


十一月十日(火曜)

 起きたのが一時半、ビショ/\といやな雨である。おかみさんを起して、一緒に出かける。大丸へ入ったら馬鹿にいゝネクタイあり、十三円半はちと贅沢だが買ふ。アラスカへ食事に行く。スープは、ミネストロン、飯粒がフンダンに入ってゝ、竹川の曰く、「お粥さんやネ」全く。コールドラブスターとキャビネットプディング二つ食ひ、コーヒーのみ、二人で九円半は高い。宝塚へ帰る。雨だから入りはひどからうと思ったわりにはよく、宝塚中央会てふ連中と、同宿の早大弓術部学生が「ロッパ!先生!」てなことを言ふので景気はよかった。終ると又ぞろ麻雀をやること二荘、勝負なしってところ。さあもういゝ加減麻雀やめて何ぞ仕事せなあかん。


十一月十一日(水曜)

 十時起き、今日は大阪へ、角座の関西新派を見ようと揃って出かける。道頓堀へ出て角座の様子をきくと今日は貸切だとあって、止むなく、新世界へ。第二朝日劇場てのへ入って、恐るべき新派と剣劇を見た。然し役者が一生けん命やってゐるのが嬉しい。序幕へ出てる柏等を帰して、堀井・三益・高尾とで本みやけへ行き、すき焼する、いろ/\のザクうまし。おそくなりあはてゝ阪急でかけつける。今日は少女歌劇の総見もあり、八分の入りだ。吉岡専務来楽。


十一月十二日(木曜)

 十一時までねた。徳山来り、昨日細君宝塚ホテルへ泊り、今朝早く帰京した由、一緒に朝食する、ホテルへ泊っても食事して来ないところ、此の男貯金あるに違なし。宝塚ホテルの宝塚女子青年会てのへ徳山・三益・高尾と揃って出かける。大ぜいと並んで記念撮影をさせられ、座談会をやり、例によって徳山が一人ではしゃぐ。終って十二月興行の「歌ふ金色夜叉」の宣伝写真を数枚撮る。支那食堂で食事して、座へ。今日も八分強の入り。「弥次喜多」で又、益田がキッカケをトチリ、楽士がボックスで喋ったりめちゃくちゃにされて腹を立てる。今日から川万へ移ったので橋を渡って帰る。此の宿もわりに感じいゝ。堀井の部屋で麻雀を始め、久しぶりの当り、つひに五時迄。


十一月十三日(金曜)

 十一時に眼がさめ、もっと眠らうかと思ったが、起きてしまふ。神戸へ出かける。ダンスチームの子三人連れて。新開地へ出て金井修一座の多聞座へ。一幕だけ見て、南京町の第一楼へ。支那料理を食ふ、やっぱり此処は美味し。座へ出ると今日も八分弱の入り(七分?)「昇給」何となくハシャいじまった。宿へ帰ると、柳から手紙で、例の岡崎の件、いよ/\払はなくてはならないことになりさうである。いやんなっちまふ。社長に会って借金の件を話さなければならない。宿で牛肉すき。又堀井の部屋で麻雀、二荘やって、又負けた。旅ってものは仕事が出来ないなとつく/″\思ふ。つまり旅はノンビリ遊ぶたてまへで来べきものだ。


十一月十四日(土曜)

 大阪野村ビル有恒クラブの十年記念の会てのへ、座員十何名余興にたのまれて行く。五時前に舞台へ出る。二十分やり大受け(50)。宝塚へ帰る。土曜のためか今日は満員である。気持よくやってゐたが「弥次喜多」の時、ボックスの中で楽士同士がベチャクチャ喋り、腹が立ち、係りをどなる。然し此っちへ来て、いさゝかヒス気味になってゐるのじゃなからうか、麻雀の夜更しが続いてゐるが、そのため妙になってるとこもあると思ひ、ハネ後大庭・大島を連れて大阪のし。南へ出てウイをのみ、カフェへでも入らうかと思ったが馬鹿々々しく、すしをつまんで自動車で帰る。宿へ一時半に帰ったんだから無事なものだ。自動車代四円――あとできいたら大てい二円OKの由、田舎者にされた。


十一月十五日(日曜)

 マチネー。楽屋へ入ると道子から感じ悪き手紙来り居り、これでクサリ、舞台へ出てもムシャクシャして弱った。入りは大満員である。ひるの部終ると徳山とホテルのグリルで食事。徳山といふ男、自分の妻帯悲劇を享楽してゐるのか、愚痴ともつかず悪妻の話をする、みぢめで凡そ男らしくなき最たるもの、こっちは大げさに言ふとヒステリーになりさうだ。夕やみ迫れる動物園を歩く、カンガルーが追はれて寝ぐらへ帰る有様が徳山だった。大阪の鸚鵡は、「お早やうサン」と喋る。夜も大満員、元気が出ない、手紙のムシャクシャがまだ胸につかえてゐる。終って麻雀。今日は当り、二千以上勝つ。


十一月十六日(月曜)

 十時起き。ムニャ/\うー辛い/\で起きる。能勢・徳山・三益を待合せて、ビクターの支店行き。倉庫みたいなオフィスで「アホかいな」と「恋のカレンダー」きく。「恋カレ」が思ひの外いゝ。「アホかいな」は大阪では大いに力を入れると言ってた。揃ってアラスカへ行き、食事。定食の他にチキングリルを食ったが全部うまくなかった。二時半、松坂屋へ行き、店内で色々撮影する。屋上で豆自動車に乗ったがこいつは面白かった。心斉橋で十二円半の珍しい時計一個買って、宝塚へ帰る。家庭劇の天外十吾が見に来てゝ、芝居済んでから、一緒に大阪へ出る。新町の吉田屋てふうちで一時半迄御馳走になり、ジョニオカを半分のんぢまひ、三時宝塚へ帰り、ウーム/\とねた。


十一月十七日(火曜)

 ジョニオカのクロって奴馴れないせいか一寸フラつく感じの朝。十二時半から大劇場の歌劇見物の日なのだが、つまらないときいてゐるので三時すぎに出かける。つまらないときいてゐたせいか「バービーの結婚」面白かった。終るとホテルのグリルへ。お粗末なオルドヴルに、クリームスープ、ハンバクステーキにコーヒー。座へ出る。今日は、六分強といふところか。菊田一夫と柳が帰って来た。宿へ帰り一人すきやき致した。菊田・柳・上山・堀井を集めて、配役、これが一時迄。それから二荘。これが払暁となり、やれ又明日早いのに。
 十二月の有楽座は一に佐々木邦作・川島順平脚色の「奇人群像」を据えてゐたが、昨日脚本を読み、つまらないのでおくらにして、中野実の「乾杯学生諸君」をやらうと思ふ。


十一月十八日(水曜)

 四時半にねて、十時半起きは辛かった。たっぷり睡眠をモットオとしながら、つひ/\おそくなる。今日は、阪急の佐藤新社長の招待、大阪へ出る、徳山・三益・高尾・能勢・柏と揃って、北の本みやけへ。本みやけは、肉より野菜や豆腐や所謂ザクが美味い。佐藤社長からお土産を貰ふ、本べっ甲のシガレットケース、女にはコムパクト。小林さんとは違ひ、ハデな人らしい。それから大劇へ「ベラエスパニヤ」を見に行く。宝塚の真似で、とても及ばず、大つまらず物。宝塚へ帰る。今日は入りよく、八九分入ってゐる。夜、又例の如く麻雀を始め、又々払暁となる。いけません。


十一月十九日(木曜)

 起きたのは一時半。これでもまだねむい。二時頃神戸へ一人で出かける。サノヘイで、ネクタイ掛けを買ひ、ぶら/″\してると座員数名に逢ひ、本庄でお茶をのみ、宝塚へ帰る。今日は入りが悪い、六分ってとこか。然し、平均今日迄九分に行ってるといふ話だ。大分儲けさせたらしい。「昇給」の時、客席に酔漢がゐて、何かどなったりするので、注意させる。そのためかつひにしまひ迄乗せそこなっちまった。芝居なんて思へば、随分モロいものだ。今日はPCLの井関がポカをやりに来るやうな話だったので心待ちしてゐたが、すっぽかされたらしい。草疲れてるから早寝ってことにして、按摩を命じた。こいつがまづくて、書生に揉ませ直してねた。


十一月二十日(金曜)

 相当寝足りた朝。食事を済ませると、神戸へ。心境の具合で、一人で自動車を走らせ、舞子迄行き、海を見乍ら茶店でサイダーをのんで帰る。平和楼で食事、支那、わりにうまし。阪急会館ってのへ入ってみる、映画は「彦六大いに笑ふ」夢声は永遠に役者にはなれない。宝塚へ帰る。三益が松竹へ入るといふデマが新聞に出たので東京から電報で、真偽をきゝ合せてきてゐる、三益も人気者になったもの。入りは今日は七分位か。ビクターの鈴木静一来り、牛肉すきやきして話し、東京へ看板の下絵の原稿を送り、又麻雀惨敗す、ねたのは五時、いけませんね。
 寝足りた朝の快適さは、何ともたとへようがない。寝ることだ、寝不足が一ばんいけない、人間の活動力は寝て得なくてはいけない。ねよ、大いにねることは大いに起きることなり。


十一月二十一日(土曜)

 今朝は又起きるのが辛かった、馬鹿々々しい/\と思ひながら麻雀をやっちゃ辛がってゐる、馬鹿々々しい。ホテルのグリルへ食事しに行く、つく/″\まづい、やっぱり帝国ホテルかニューグランドでなくちゃうまいものは食へない、阪急デパートへ、佐藤氏をたづねて行ったが留守。書籍部で来年の日記や、メモのやうなもの求め、夕方宝塚へ帰る。三益のことで吉岡専務や伊藤松雄あたり迄が心配して色々言って来てる、川口もそんな馬鹿じゃないのに大分誤解されてゐる。ハネて、大阪へ、ビクターの鈴木と逢ひ、本みやけで又すきやきをふんだんに食ふ。自動車で宝塚迄。三円。鈴木はホテルへ。帰って日記してねたのが三時すぎ。


十一月二十二日(日曜)

 もうあと二日となりぬ。此の旅――思へば、たゞ麻雀に日をくらしたのみ、そのわりに小遣が沢山要ったのは驚いた、今日百円だけ借りることにした。今日マチネー。座へ出るともう昼夜売切、立見が大ぜい。ひるは客種悪く、クサった。宿で宝塚ホテルグリルのをとって食ひ、又すぐ座へ。夜も大満員でワッワと受ける。此の絶讃の波を残して帰る又快である。丸尾長顕等来り誘はれたが金もつかひたくなし、断はり宿へ帰って、一人で食事。数日前より病に倒れた多和利一、残って病院へ入るので心細さうにひげボー/″\となって部屋へ来た。宿の者ばかりで茶話会だてんで、しめったやうなせんべいなど買はせ、より/\に話をして、無事ねる。


十一月二十三日(月曜)

 宝塚千秋楽。
 今日で千秋楽なり。座へ出ると満員。一回の終りに、楽屋へ大変なのが乗込んで来た。神戸の有名な親分で嘉納健治といふ、ピス健で通ってる大者、これが座り込んでビールをのんでゐる、柳に「若い者にのませろ」と三十円ばかり出したと言ふ、挨拶に行くと、小男だが中々面白い奴で、大したタコの上げ方、「お前の芝居はいかん」とさん/″\やり込められたが面白くて腹も立たない。ホテルで食事し、夜の部へすぐ引返す。ピス健結局座員に百五十円ばかりもまいて帰った由。今日、阪急経営部長から大入の寸志として金三百円呉れた。助かり。ハネて、シャン/\としめ、大阪へ。十一時の汽車で帰京の途についた。
 ピス健、曰く、お前は相手の目を見ないで芝居をする、いかん。又曰く、口を動かしすぎる、手も足も動きすぎる、もっと、おほらかにやれ。一々うまいことを言った。


十一月二十四日(火曜)

 九時半東京。家へ帰ると、道子も来てゐて、家中きれいになり畳も代って心持よし。労れて十二時から三時頃迄ねた。五時半有楽座へ、「ポーギー」と「奥様経済学」を見て、東宝劇団も何うにもならぬことが分り、日劇へ評判のワイントラウブジャズバンドをきゝに行き、痛くこれに感激した。よろしい、これはよろしい。樋口と青柳信雄とで、ホテルのニューグリルへ行く。オルドヴルとオニオングラタン、舌平目の洋酒煮に、クラブハウスサンドイッチ。銀座へのしてルパンへ寄る。
 ワイントラウブジャズバンドを見て、これだと思った。これを日本風に消化したものこそ、これから受けるものである、それ! これを作らう。


十一月二十五日(水曜)

 今日から仕事が始まる。十時起き、小劇場のけい古場へ。本読み、「女夫鎹」は自分で読む、こいつは読んでゝも一寸泣けた。伊藤松雄来り「恋のカレンダー」を自分で読む。月給が出た。ビクターへ行く。「明るい日曜日」のテスト盤きく、思ったよりはいゝ。伊藤松雄のごちさうで、日本橋の若葉てふ西洋料理へ初めて行く、食はせるものは風月堂の洋食って感じ、こっとりと落ついてゐて。それから銀座の連盟本部で、麻雀をやる。この急しいのに、七時から十一時迄、せい/″\やり、せい/″\負けちまった。いかん。帰りに金兵衛へ寄り、ふんだんに食った。


十一月二十六日(木曜)

 十時半起き、小劇場へ。十二時から伊藤松雄自身のけい古で「恋のカレンダー」それから「金色」の読合せから「女夫鎹」の読合せ、かなり労れた。麻雀に行き、七時迄やり、樋口・那波によばれて花の茶屋へ行く。ウイスキーを大分のんだ。それから止しゃいゝのに又麻雀だ、いかん、一切いかんのだが何うして此う誘惑に弱いか。十二時迄やり、ヤンキーで紅茶のんでたら、ひょっこり中野実来り、新宿のまるやへ、中野が怪談をやって女給をこはがらしたが、その語り口のうまさは一寸特記したかった。


十一月二十七日(金曜)

 十時半起き、けい古場の小劇場へ行ったのが一時。「金色」久富が初めてゞ心配なり。「女夫鎹」一場だけ立つ、何うも気持がいゝ。歌のけい古が五時からあるのに不心得にも又、麻雀したくなり、林・谷・堀井と囲む。何うして此んなことをしなくちゃならんのかと思ひながら、でも今日は少し勝。夜、今日初日の有楽座、漫才大会を見に行く、大満員、三亀松をきゝ、おめあてエンタツ・アチャコのコムビ、「親の子」といふのをやったが、やはりこれはよろしい。それからホテルのニューグリル。オルドヴル、オニグラ、舌平目にクラブハウス。で、ウイをのむ。夜更け迄何やかと。然しグータラベエな生活も、きりゝとしまる日が近づいた、「よく学びよく遊べ」の学びの部を完成させよう。


十一月二十八日(土曜)

 十時半起き、けい古場へ。「女夫鎹」は二場だけかためて四時になっちまった。それから、馬鹿だね、又麻雀したくなって連盟へ行き、やり出す、やってゝ此んなことを年中やってる奴は、即ち此のクラブへ集まってる奴は馬鹿ばかりだと気がついた。おそい/\。ホテルの理髪部で理髪、又、有楽座のエンタツ・アチャコをきゝに行く。今日は得意の「早慶戦」で思はずワッワと笑はされること数回、これですっかり朗かになった。中野実と会ひ、ホテルのニューグリル。オルドヴル、チキンスープ、平目のグラタン、クラブハウス。と、ウイ。さあ、もうヨタ/\してるのはやめて大いに働くべし!


十一月二十九日(日曜)

 十時半起き。今日を限りに生活が革まる。もう麻雀やぐーたら飲みをやめて一路仕事に邁進の事だ。十二時小劇場けい古場へ。「金色」を通して立つ。徳山は、もう一っぱしで、久富のセリフを直したりしてゐる。ニューグリルでポタアジュとミニツステーキをやり、日劇へ。五階で「女夫」を動きをつけ、一汗。少憩の後、「金色」の歌を八時すぎ迄やり、名物食堂デンツーで又食った。それから有楽座へ、エンタツ・アチャコをきゝに行くと又「早慶戦」なので、がっかり。楽屋へ行ってエンタツ・アチャコを誘ひ、三亀松も一緒で、サロン春から柳橋の吟松へ。独身最後の夜、大いにのんだ。


十一月三十日(月曜)

 本日仕事は一切休んだ。
 記念すべき日、結婚。
[#改段]

昭和十一年十二月



十二月一日(火曜)

 昨夜早くねたので、九時半頃眼がさめる。日劇五階へ。十二時から「女夫鎹」を通してみる、大丈夫のやうな気がする。日劇のアトラクション、ワイントラウブジャズの二の替りのぞく。東京音頭が愛嬌だが、前回程感心しなかった。四時に「金色夜叉」の音楽入り通しけい古。ごみ/″\してゝとても空気悪く、早くちゃんとしたけい古場が出来ねば困る。徳山が声楽指導して呉れるので合唱などづっとよくなって来た、嬉しい。ビクターの岡氏来り、ホテルのニューグリルへ、白葡萄酒を冷し、ぜいたくな夜食をする。オルドヴル、クリームスープ、ビフテキシャリアピン、それにパンケーキスゼット。満腹で、帰ったのが十一時半、これよりセリフをやる。


十二月二日(水曜)

 セリフを三時頃迄やり、今朝は十時半起き、十二時に有楽座へ行った。十二時「女夫」が、序の稽古がおくれたので、三時頃からになる。何うも道具が気に入らない。此処の舞台課の人達は芝居を知らなすぎる。芝居しちゃあ演出し、随分草疲れるけい古だった。「恋のカレンダー」は伊藤松雄の演出で、昔に帰ってコール天の服でマスクして、やってゐる。僕の出場が済んだのが十時頃、ホテルのグリルへ行って、樋口と二人で、オルドヴル、スープ、舌平目ムニエル、ハムエグスにキャビネットプディング二つ、ねむくならないやうにコーヒーをのみ、座へ帰ったが、けい古が中々進まない。「金色」が始まったのが午前三時。終ったのが、何と午前八時。さすがヘト/\につかれ、湯に入ってすぐ帰宅。


十二月三日(木曜)

 有楽座初日。
 ねたのが九時近く、四時迄すっかりねた。まあ/\セリフが入ってるから安心の初日。五時半頃は七分の入り、終頃はざっと一杯。序の「学生諸君」わりに受けたらしい。「女夫鎹」は大熱演で、汗と涙で顔をベロ/″\に光らせつゝ演り幕切で手が来たので一安心した。川口松太郎来り、「お前はヅラつけると生世話のセリフが滅法うまい。実にいゝ」と絶讃。「恋カレ」終って「金色夜叉」、ハネたのが十一時半。菊田の本は、結局ムダが多い、刈込みの要あり。然し幕切れが受けてゐたからよからう。ハネ後、部屋へ皆集めて、ダメをいろ/\。川口と共にルパンへ寄り、トロ/\とねむくなり帰宅、二時。


十二月四日(金曜)

 先日来の例の岡崎の件で、執達吏が仮さし押へに来り、洋室の戸棚などへペタ/\とやって行った。岡崎なんて悪い奴を友にしてゐた、己の馬鹿さを思ひ、腹が立つ。夕刻、座へ出る。今日は満員、然し十月の時みたいな馬鹿景気ではない。「女夫鎹」手に入り、今日は出来よかりしも、幕切の手が少かったので気にし色々研究する。「恋のカレンダー」のあと、日日ののし餅・義金デーのため一言挨拶する。「金色」歌をトチっちまひ、熱海などいけなかった。演出家穂積・樋口・菊田に舞台課の畑で、浅草のみや古へのし、酒ものまず一時半近く迄、明日からのカットの打合せ、たゞやたらに食った。


十二月五日(土曜)

 今月は土曜マチネーがあるので、十時半起き、母上見物で一緒に出かける。やっぱりマチネーは満員にならない。八分ってとこか。でも新宿へ出てゐるエノケンは、夜も六分の由、昼の「女夫鎹」わりによく行った、あばれるので足に大分痣が出来る。労れる。その代りあとの歌と「金色」のらくなこと、だが「金色」は歌を大分トチった。終ると友田純一郎が来てホテルニューグリル。ポタアジュとシャリアピンを食ひ、アイスティでペストリー。夜の部は満員。「女夫鎹」の母子対面のとこ、客席の子供が感じてワーと泣き、ぶちこはされた。「金色」の時稍調子苦しく、ラドンナモビレなどいけなかったので、まっすぐ帰り、吸入する。初日に例の嘉納健治楽屋へ来り、酒一斗樽三つも置いていった。
 女夫鎹で泣かせた上に金色が、泣かせるところあり、今度は涙の劇ばかりなので客の方も面喰ってゐるらしい。が、此の企画は、先づ成功したと言へよう。


十二月六日(日曜)

 又マチネー。今日はひるから補助がドン/″\出る。「女夫」声を加減しようと思ひながら、ギャーッてな声を出すのでくたびれる。客席涙。「金色」熱海の歌かなり苦しい。ひる終って名物食堂へ、蕪のポタージュがうまかった。夜の「女夫」は、うまく行った、と思ったら轟がセリフを二つ三つとばしてしまった。でも幕切は大拍手。「金色」もタップリ受けた。ハネ後、川口松太郎・中野実・岡に三益・清川も加はり米田家へ、いゝ心持に酔って、快談し、帰りかゝると、PCLのロケーションカアがある。きくと、入江プロの撮影、電気屋の生意気なのが、「トーキーだ、入っちゃいけねえ」と抜かしたのがキッカケで中野と僕大怒り、大あばれの末、帽子を失くした。


十二月七日(月曜)

 十時半起き、十二時から山水楼で「講談倶楽部」の座談会あり。高田稔・山路ふみ子・辰野九紫その他だが一向爆笑にならなかった。二時から又山水楼で、今度は「エス・エス」の古川緑波をめぐる放談会があり、三島草道・坪内士行・伊藤松雄・川口松太郎・中野実・徳川夢声といふメムバー。夢声結局第一、伊東松雄が僕との知遇をちと売りすぎるので参った。柳、今日裁判所へ行き、先日来の件、六百円近くの金を払はされることに決定、やれ/\仕方なし。「女夫鎹」熱演、今日は社長夫妻、三宅周太郎見物の由でハリキリ、大いに泣かした。何うも調子やったらしい。終って、ホテルニューグリルへ、樋口と吉本と提携興行の件につき語りつゝ、ミネストロンとハムエグス、メリンゲパイ。十二時半にねる。


十二月八日(火曜)

 十時半迄たっぷりねた。声を先づ気にする、よくない。穂積純太郎と逢ひ、浅草の評判の剣劇、松竹座の不二洋子、「女白浪」てのを見る。えらいナマリの、気味の悪い女だが、客を惹くことは分った。浩養軒でカツレツを食ひ、有楽座へ。入りは今日も補助椅子沢山の大満員。長谷川氏見物の報にハリキリつゝやったが、調子苦しくて汗ばかり。ヴァラエティはまだしも、「金色」の歌よっぽど苦しかりし。ハネると、長谷川氏の宅まで穂積同道で行き、「女夫鎹」のダメから、舌がはづみ、一時二時三時――つひに三時半、品川のあたりで円タクを漸くつかまへて帰ったのは四時。吸入してねる。
 長谷川伸の話し好きには此の前も驚いたが、まさか三時半迄とも思はなかった。芸談が主だが、長谷川好みの話が多く、ちと六代目を神様にしすぎてゐるきらいがある。


十二月九日(水曜)

 十二時迄ねた。柳が来て来年度の昇給者の予算をする、上げてやりたい役者てものはゐないものである。一時半に出て、ビクターの試聴会へ神田の教育会館。「まんざら」と「アホかいな」を歌った。声まるで悪いが、小さいとこだから助かる。鈴木静一と、芸術家クラブで、「犬も食はない」といふ歌漫才式のものを書いた。ホテルニューグリルで、オニグラとミニツステーキをやり、座へ出ると今日も補助椅子がワンサと出てゐる。「女夫」長谷川氏の話をきいたせいもあり、調子やってるせいもあり、出来悪し。昨日と同じ、いかん声。ハネ後、蝶花楼馬楽や大庭・石田を連れて浅草みや古へ行く。笑の王国脱退のサトウロクローと、剣劇の鳥居正が来り、夜中となり、十円置いて帰る。


十二月十日(木曜)

 十二時半起き、日劇へ。報知のジャズまつり、昼夜、三益と歌ふ(100)、ハリキリとアホかいな、オーケストラと合せてなかったので、ひどくのんびりやられてクサる。済むと、藤山一郎とニューグランドへ。ポタアジュと鶏のコゝット。それから日比谷公会堂のキンシ正宗の会へ、六時一寸前に上って、例の道楽で藤山が伴奏して呉れた(50)。座へ帰り、「女夫鎹」をやり、ヴァラの歌を終ると又日劇へかけつけ、夜の部。如何に打合せしなくとも上野の棒を振る東宝オーケストラのひどさには愛ママがつきる。又座へ帰って「金色」と、随分つかれたことである。田中三郎来訪、金兵衛で大いに食ふ。柳の妻君病気で苦しんでるらしいので三十円やる。


十二月十一日(金曜)

 十時半起き、日劇へ。「メリークリスマス」てふアトラクションの初日。やたら金をかけてゐるが、ギャグは一つもピンと来ない。金語楼映画の愚劣さ。も一つのW・B「Gガン」ての面白かりし。ニューグリルでオルドヴルとグラタンとソール洋酒煮とプディング。座へ出ると今日も満員である。声は「女夫」の時は、やっぱりいけないと思ったが、段々出て来たやうなので嬉しい。PCLの滝村来り、三月の撮影は「歌ふ弥次喜多」よりも「ハリキリボーイ」にしたい由。その方がフレッシュで野心的なものが出来ると思ふ。その脚本料たのんでおく。


十二月十二日(土曜)

 土曜マチネーはうんざりする、損するみたいな気持。十時半起きで座へ。八九分の入。声は未だ治らない、先夜PCLの電気屋をどなったのがいけなかったんだな。一回終ると山水楼へ、うまくなかった。夜の部、大した満員だ、今月の企画に対して大いに自慢したい。「女夫」カンの声で泣かすとこが出ないので情ない。「金色」の歌がとても苦しかった。ハネてすぐ徳山と帰る。サンドウィッチ食って吸入し、「東宝」へ「ゲイ談」六枚書いた。歌を二つばかり作り、ねむくなって二時ねる。


十二月十三日(日曜)

 又マチネーと思ふだけでも労れる。十時半起き、座へ。うちも土、日は客種が落ちる、一ばんいゝのは不思議と月曜日である。昼もむろん満員。終ると、徳山とニューグリルへ、オルドヴルに大麦ポタアジュ、シャリアピン。プディングとペストリー。糖が出るといふのにまるで逆ってる感じ。夜の部、とっくに満員。近頃大道具が何かと文句を言ふ。「女夫」大受けである、こっちも乗って大いに泣かせる。「金色」となると、らくで気が抜けさう。信華の支那料理食って帰る。今日も能率をあげて、「都新聞」にたのまれた五枚を書いてしまった。二時半ねる。


十二月十四日(月曜)

 十時半起き、十二時半に日劇四階会議室へ行き、社長に会って借金を申し入れたらすぐOKして呉れた、これで借金てものがなくなり、安心して仕事出来る。理髪、ホワイト。ビクターへ行く、「嘘クラブ」をけい古する。夕食は大洋ビルのまづい洋食ですませちまひ、座へ。大満員。毎日劇評が新聞に出るが、エノケンが新宿へ出てるのでそれと一緒にされて大分損、でも今日の読売番匠谷英一のはとても好意的で嬉しかった。声、今日は大分いゝ。只野等とサロン春へ行き、のむ。


十二月十五日(火曜)

 十一時起き。ビクターから「明るい日曜日」が来たので、かけてみる。大したクサリレコードだったが、きいてみるといゝ、佐々木の曲てのが馬鹿にならない。先日の緑波をめぐる放談会の速記録を二十枚に纏め上げた。伊藤松雄を訪問する、ビクターの気に入らぬ話、伊藤もちとうるさすぎるが、ビクターの青砥って奴が又いけない。座へ。今日も満員。声は舞台へ出るとわりに出る。徳川夢声来楽、ナヤマシ会同人忘年会で、富士見町の喜京家へ行く。十一時から、田中三郎・肥後・生駒・山野でウイのみ、午前三時半、すっかりつかれてひきあげる。


十二月十六日(水曜)

 十二時近く迄ねる。日劇へ寄り、社長にたのんだ金を借りる、小切手で三千円。これで家の借金もなくなり安心。ビクターへ行く。鈴木静一と「嘘クラブ」のけい古。「嘘クラブ」は日日の夕刊にデカ/″\と大宣伝して呉れた。銀座の隠豪家へ。母上・道子も先に食事中、ビフテキ食って座へ。今日も満員なり。「女夫」熱演、汗だく。「金色」らくに済ませると、藤山一郎が古賀政男を連れてやって来た、古賀のパッカードで神楽坂へ案内される、古賀って男大した田舎者だがフル・オブ・ジャナリズムのところたのもしく、心地よく話して三時半に至り、夜も更けたわいと帰る。大分酔ひだ。


十二月十七日(木曜)

 十一時までよくねた。今日は母上も道子も鎌倉伯父上のとこへ行き留守。四時ビクターへ行く。明日が「嘘クラブ」吹込の約束だったが、声に自信ないので延すことゝした。「アホかいな」稍々景気いゝらしいニュース。夕食は一人で不二アイスでホットワフルのハム附とポンキンパイ。座へ出る、満員。今日は何処かの忘年会の連中でもあるらしく、中々うるさい。ハネると、屋井がごちそうしたいとあって、烏森へ行く、晩翠軒からいろ/\とって呉れたのがうまかった、谷・石田・大庭等大ぜい。二時すぎ辞す。又飲んだが――今日は大したことなし。


十二月十八日(金曜)

 十一時起き、朝日「映画と演芸」の漫画子堤寒三来訪、小一時間話す。今日はまるで夏と言ひたい暑さ、オーヴァ無しで汗じっとり。ビクターで一月末有楽座の実演大会のプランを練る、その一つに「歌ふ新婚旅行」といふものを菊田に書かせることにした。鈴木静一・徳山と、京橋のヤキサンドってうちで、焼サンドを食ひ、サンドウィッチコートってうちで、サンドウィッチを食ひ、山野楽器店でレコードきく。シュヴァリエに感心す。座へ出ると、楽屋のれんが伊藤松雄から届いた、初代古川緑波丈江、い組より、その紺染くさいこと。今日も満員。声、稍々本格的調子やりになりかゝってるので、すぐ帰って吸入。
 二月のプラン、
楽天公子
嘘クラブ
 の二つはいゝと思ふが、時代のトリものがなくて苦心又苦心。


十二月十九日(土曜)

 今日は又マチネー、十時半起き、座へ。ひるは何うしても九分と迄ゆかぬ、調子がいよ/\いけなく、歌ふのゝ苦しさ、汗びっしょり。ひる終ると、友田と菊田で名物食堂の竹葉へ行き、珍しく日本食する。夜の部、声ます/\いかん。でも「女夫」が力が入って頗るよかった。「金色」も大受け。今日文芸部一同ボーナスが出た、僕も取りにやったらボーナスは僕には無いと、がっかりする。年賀広告が沢山金とりに来る、百円をとっくに越えた、いやはや何とも辛し。帰って夜食し、吸入する。


十二月二十日(日曜)

 十時半起き、座へ出る、昼から大満員である。「女夫」は昼は気が入らぬ、「金色」しきりに受ける。ひる終ると、ニューグリルへ。川口松太郎・友田で。オルドヴルとポタアジュにチキンコロッケ。夜に入って霙となり雪となりし様子。夜の「女夫」は気が入り泣けた。ビクターから鈴木静一来り、「嘘クラブ」は二十三日に入れやうとて相談する。今日、霙のため客の傘など預るので混雑し開幕が十五分もおくれた。ハネて徳山と帰る。雑談数刻、外は雪。「サンデー毎日」の「春は嬉しや」っての九枚書いたが、いやになって、ま、そのまゝねる。


十二月二十一日(月曜)

 雪の朝、まだやまない。十時半起き。伊藤松雄が書いて来た「かっぽれ洋行記」てのを読む、うまくない、がっかりする。一時、日劇会議室で、二月の出しもの決定の会議、トリに「見世物王国」を据えて、「楽天公子」「血煙荒神山」に、穂積の「タンポポ女学校」を序につけることにした、これなら相当の強力番組だと思ふ。三時からニューグランドで、ビクターの新楽長辻順治の披露茶会あり、中山晋平・辻・岡等のスピーチつまらず、お茶とサンドウィッチ腹でしょうがなく、会が済んでから、ニューグランドで、スープとローストビーフを食って座へ、雪にもめげず満員である。サトウロクロー来訪、浅草の正月は喜劇八座の競争だと言ふ、滝村来り、三月「ハリキリボーイ」阪田英一が脚色、大谷俊夫が監督の由。ハネ後、雪やむ。


十二月二十二日(火曜)

 十一時までねた。声がガサ/″\で明日の吹込の自信がない。ビクターへ出かける。鈴木静一が「成程こりゃひどいや、明日は止めにしませう」と、中止にする。芸術家クラブで、「ロッパ節」について案を練る、長年のプランである、結局、世界を確りつかめないので未だに出来ないのだ。五時半座へ出る。もう満員である。ついに此の月も十一割以上の入りを続けることが出来た。それだけに二月のことが心配である。二月のプランはフレッシュなものを欠くやうな気がしないでもない。田中三郎来訪。岡崎の方の金は払ったと言ったら、何とかして取ってやると、しきりに言ってゐた。二人でのむ、三郎得意の泣き迄。


十二月二十三日(水曜)

 十一時起き、上山雅輔来訪、来年は歌の方を勉強しろとすゝめる。一緒に出て、日劇へ。PCLの「新婚うらおもて」山本嘉次郎の作品、結構なもの、たゞ出てる役者に魅力がないので損。日劇地下の蛇の目ですしをつまみ、三ますでしることざうにを食ふ。ケイオーの中学生が、とぐろをまいてゴロツキみたいな言葉で話し合ってゐる、傍若無人で、ブンなぐってやりたくなった。今日はビクターの家族百何十名の総見で、賑か。事務所の人曰く、全く日本にはありませんね、こんなに入る劇団はと。「女夫」熱演、「金色」も稍々声が出るのでハリキった。ハネ後、千吉へ。ダンスチーム忘年会で行く、福引を出してやる。大喜び。


十二月二十四日(木曜)

(なし)


十二月二十五日(金曜)

 今日が祭日で此処んとこ三日マチネーあり、気が重い、ほんとの掉尾的大奮闘である。今日はわりに咽喉の調子もいゝので嬉しい。昼の部から満員である、やっぱり祭日と来ると昼から景気がいゝ。ひるが済むと、ニューグリルへ。グラタンと何を食ったっけか(二十九日夜記、忘れた)夜の部も大満員、大いに熱演し、ハネ後銀座だったらう。


十二月二十六日(土曜)

 十時半起き、座へ行くと、昼は二階が二側位しか入ってゐない。作曲家協会から「金色夜叉」で使ってる沢山の譜に対し、放といたので、厳談の手紙、「貴下の如き非紳士的云々」には腹が立った。樋口呼んで手配をとらせる。昼終るとホテルのニューグリルへ。ポタアジュ、ハムエグス、コーヒー、ペストリー。朝食の感じ。座へ帰る、夜は無論大満員。急にたのまれたオザ、公会堂の歳末児童救済会てのへ、かけ持ちし、例の歌の話をして、あはてゝ引返す。年賀広告だ、やあ何だってあとから/\金取りに来る奴ばかり、世間は景気いゝさうだが、此の暮ちっともよくないぞ。ハネると、岡・川口・中野、築地の田川にゐるからとの電話、行く。


十二月二十七日(日曜)

 有楽座千秋楽。
 さあ今日で終りだ、元気よく出る。マチネーも満員。ひるが終ると友田純一郎とニューグリルへ、オルドヴルとポタアジュとシャリアピンを食った。夜の「女夫」は大々熱演、初日みたいにハリキって涙を流しちまった、暴れるったけ暴れるから労れて/\。その中をオザで、矢の倉の福井楼迄行き、久々で声帯模写をやった(100)。座へ引返すと「金色」これが大ふざけ。久富など吹いちまって喋れないさわぎ。緞帳下りると、シャン/\としめて、座員一同に五円宛の当り祝ひが出て、めでたく十二月興行終り、川口の招待で、房田中へ、労れてるので一向ハヤ面白くなかりし、つかれた/\。


十二月二十八日(月曜)

 十一時に起きると、ビクターへ。途端に一大事、徳山が肋膜らしく、入院せねばならず、名古屋は駄目と定ったのである、あはてゝ代役を立てることにし、久富吉晴を喜多八に、小林千代子も十日間たのむってことに決定、両名共承諾したのでホッとした。そのため吹込の方は、明日と延びた。五時に、洗足の猪熊弦一郎といふ画伯の家へ門司の子供会あり、余興拝見の辛さを浸々味はひつゝ九時辞して、銀座で中野実・英治や村山知義・PCLの矢倉等々合流し、さて又飲みにけらしな。


十二月二十九日(火曜)

 午前十一時起き。PCLの阪田英一が来て待ってゐる、「ハリキリボーイ」の脚色についていろ/\意見を出す、いゝシナリオ屋がゐない、阪田も凡手であるが熱心らしいからまあいゝ。一緒に出て、ビクターへ。鈴木静一に逢はせて、打合せをさせる。五時近くから、牛乳を飲み生卵子を飲んで、「嘘クラブ」AB面入れてしまふ。心配してた程声は悪くもなかったらしく、やれ/\ほっとした。六時半帰宅。珍しく一家揃って牛肉を食ひ、ポンパンをのみ、火燵にあたってラヂオをきく。ラヂオ余技の夕、三浦環の長唄や夢声が浪花節をやる等殺人的なもの。徳山と三益の万才は徳山休演、ビクターの灰田が代って気の毒みたい。十一時頃ねる。


十二月三十日(水曜)

 名古屋へ向ふ日である、十時二十分発で、座員殆んど揃って出発、昼の汽車は退屈、金語楼の新作落語集を読んでみたり、眠らうとしてみたり、お好み弁当てのを食ったり、――そのうち四時五十何分、名古屋着。劇場に近い福富って宿に落つき、入浴して、サッパリしたところ、女優志願の洋装女が乗込んだりして、又落つきそこなふ。夕食しに、アラスカ迄行ってみたら何のこったい今日は休業とあって、くさり、宿へ帰ってはかない夕食を一人で食ふ。夕食後、淋しく家へ手紙書いてゐると、麻雀のメンツが揃ひ、二時半まで四荘やる。今日は強くて三千ばかり勝った。


十二月三十一日(木曜)

 名宝舞台稽古。
 十一時すぎ迄ねる。大晦日の朝ではあるが、一向そんな気分が出ない。朝食がとてもいけなさうなので、不二アイス迄行き、ハムエグストースト他、ハムエグスのみうまし。名宝へ行く。舞台けい古、「昇給」と「人生」だけ、衣裳なしで道具しらべの程度でやる。夕方宿でポツンとしてたが、三益、高尾をさそって、芳蘭亭てのへ行く。当地一流の支那料理屋で、中々うまかった、三益が五九郎一座にゐた時の話なんてのがとても面白かった。宿へ帰ると、麻雀連が待ってゐて、三荘やる。これがベタ負け、すっかりクサリ、止めて部屋へ帰ると、名古屋劇場へ出てゐる河辺喜美夫が、鈴木桂介を連れてやって来り、詫を言はせる、ビールをとって、話してゐるうちに、はや三時半、明日は正月、それねよう。





底本:「古川ロッパ昭和日記〈戦前篇〉 新装版」晶文社
   2007(平成19)年2月10日初版
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2012年5月31日作成
2013年8月28日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について

「雨かんむり/方」、U+96F1    149-下-3


●図書カード