大植物圖鑑

自序

村越三千男




 人生に最も關係の深いのは植物である。植物と動物とは相互に同化作用に依つて生活を營んでゐるが、若し此の世界から人間以外の動物を驅逐したとしても、人間の生存することは必ずしも不可能でないであらう。けれども植物なしに人間が生存することが出來るであらうか、それは全然出來ないと言はなければならない。是れ唯生存に必要な同化作用が出來ないからといふばかりでなく、植物なくしては直ちに食物の上に大なる支障を生ずるからである。現に菜食主義を唱へて植物性以外の食物を全く攝らない者はあるけれども未だ肉食のみに依つて全く植物性の食物を攝らずに生存してゐる人間のあることを聞かぬ。
 實際的利用的に見ても此の通りであるが今は暫く利用的態度を離れて、此の世界を一草一木も無い一大沙漠の如きものと假想したならば何うであらうか、人は必ず平板無味にして何等の刺戟なき土塊の上に生存するに堪へぬであらう。何處を向いても單調な色彩であり、一樣な砂丘であるならば人は必ず地上の生活を詛ふに相違ない。然るに此の世は幸にして沙漠ではなかつた、焦土ではなかつた。地上は草木のために限りもなく美しく彩られ、更に芳香高く色彩麗はしき花に依つて、到る所に變化と趣致とを添へてゐる。草木なくして山水に何の趣があらう、この國土に何の眺があらう。所詮人生は草木を外にしては成立しない。
 メーテルリンクは草花の叡智を説き、驚く可き其の感覺を述べてゐる。詩人的に之を觀察すれば幾多の神秘も發見されよう、科學的に之を觀察すれば造化の玄妙を驚嘆するばかりである。併し吾等の研究はたゞ自然の至妙に驚嘆して止む可きではない。これを利用厚生の立場から見て、如何に人生に資すべきかを考へねばならぬ。審美的鑑賞的のものは美的滿足を贏ち得るものとして、實用的生産的のものは亦其の用途効果等に就いて各々利用の方法を考察せねばならぬ。是の如くして人生と植物との關係を一層密接ならしむることは、吾々斯學研究者の當然爲すべき責務であらうと思ふ。
 余は何うかして一般植物と人生との交渉を深からしめたいとの考へから、曩には先づ植物の名稱形状等を知らしめて人々に植物に對する親愛の念を起さしむる目的を以て、植物圖鑑其他二三の著述を公表したが、それは素より目的に到達するための豫備的事業に過ぎなかつた。何時かは本書を完成して、廣く我が國に分布する一般植物を科學的に記述し普ねく之を人生の各般に關聯せしめて、其の栽培利用法等をも精確に解説し、而して一般の理解をも得しめんことを期したのであつた。斯くして余が當初の念願は本書に著手後十有五年にして漸く此に達成せられたのである。
 右にも左にもこれで余が植物研究の最初の目的を達した譯であるが、此に到達する迄には隨分幾多の辛酸困苦と戰はねばならなかつた。わが身邊の事を管々しく記すは憚るが、余は全く家財を糜し家族を犧牲にして、幾度か忍ぶ可からざるものを忍びつゝ、唯此の研究を成し遂げんがために一意專念に邁進した。今にして既往を回顧すれば本書完成の大なる喜びの裏にも、なほ涕涙潜然として坐ろに悲愁の情の湧き來るを禁じ得ない。如是幾多の辛酸を經過した後で、漸く本書を完成し得たとき、更に之を如何にして世に出さんかゞ一大問題であつた。時は震災の直後で世間は極端に疲弊して居つたので、この多大の資金を要する大事業を容易に引受けようと云ふ者は勿論無かつた。余はこれには殆ど當惑したが或る知人の紹介に依つて博進館主和出徳一氏に諮ると、同氏は學術的研究に厚い同情を有つ人で、學究者の苦心などは語る迄もなく深く洞察して、獨自の意見と周匝なる批評とを忌憚なく發表する程の人であつたから、然程の大問題であつた出版の相談も唯々一回の會見に依つて略々決定した。併し同氏は其後綿密に原稿に目を通され、主として出版者としての見地から、此處を如是したなら、彼處を如彼したならと、一々讀者に對する親切から湧いた意見を發表されるので、それには余も隨分弱らされた。併しそれは全く氏が營利的見地を離れて、專ら善き出版物を讀者に提供しようといふ眞心から湧いた意見であることか明かだつたので、余も亦長き苦心の結果に成つた本書を出來るだけ善いものにして公にしたいとの念は決して氏の出版者としての熱心に劣るものでは無かつたから、喜んで其の意見に聞いて既に出來上つたものを幾度か手を加へて只管善きものを得ることに努力した。そこで和出氏は帝都の中央にあつた出版事務所も住宅も震災のために烏有に歸して、纔に倉庫一つが燒け殘つた程の大打撃を被つてゐながら、奮然本書出版のために蹶起して、獨力を以て「大植物圖鑑刊行會」を組織し、一意本書を世に出すことに精進された。その間の氏の努力と熱誠とは出版者として稀に觀るべきもので、殆ど著者たる余と一體となつて本書を完成したかの觀がある。余はこれに對して衷心より敬意を捧げ且つ深く感謝するものである。
 然るに本書は普通一般の活字出版物と異なり、圖版の多數なること到底普通の出版物の比でなかつたので、著手後製版其他の仕事が豫想通りに進まなかつた。それに前述の如く次々に幾多の工夫と考案とを取入れて大分面目を一新したので、彌※(二の字点、1-2-22)豫想の如く進捗せず、出版期日の如きも最初の發表通りには如何に焦慮しても間に合はなかつた。併し出版者は一日一刻も出來の期を急いで、殆ど中央の印刷能力を以てしても是れ以上を望めないと云ふ程度まで有らゆる機關を利用し、著者たる余も亦寸刻の休息をも得ないで、出來るだけの活動を繼續したのであつた。その間余は幾度か蓬頭垢面の我が身を顧みて自ら憐れむの情に堪へなかつた。此の如くにして本書は出來上つたのである。其の内容に就いては之を各方面の批評に聞きたいけれども、自ら全力を盡し得たことは聊か快心に思はざるを得ない。
 本書の圖版の原畫を描くには隨分多くの苦心を拂つた。所謂畫家の畫とは違つて精密にして科學的ならんことを期せねばならなかつたから、幾度となく描き改めて、自ら滿足する迄は止めなかつた。そのために一日筆を執つても僅に一葉しか出來ないこともあつた。順潮に運んでも一日に三四葉しか描き得ないのが普通である。斯くして長い苦心と努力との積り積つたものが本書である。故に本書中の一版畫と雖も私に取つては鏤心刻骨の結果に成つたものに外ならない。それと共に本書の解説も出來るだけ科學的にして研究者の便宜となり、且つ一般的利用的ならんことを期したのであつた。故に是れ亦一解説一事項にも、人知れぬ幾多の苦心を費したものである。
 卷末の索引の如きは多年の實際的研究より案出したもので、有らゆる方面より直ちに本書全體を活用し得るやうにと心掛けて作製したのである。故に斯學研究者は勿論一般に於ても本索引により内容を十分に利用して頂きたい。
 尚斯の種の科學的研究は殆ど其の到達點を見究めることが出來ない状態であるから今後永く研究の歩を進めて行きたいと思ふ。幸に本書を手にせらるゝ世の識者の示教を望む。

大正十四年九月

著者識





底本:「大植物圖鑑」大植物圖鑑刊行會
   1925(大正14)年9月25日発行
※国立国会図書館デジタルコレクション(http://dl.ndl.go.jp/)で公開されている当該書籍画像に基づいて、作業しました。
入力:蒋龍
校正:フクポー
2018年2月25日作成
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