今から約千七百八十年ほど前のことである。
一人の旅人があった。
腰に、一剣を
年の頃は二十四、五。
草むらの中に、ぽつねんと坐って、膝をかかえこんでいた。
微風は
涼秋の八月だ。
そしてそこは、黄河の
「おーい」
誰か河でよんだ。
「――そこの若い者ウ。なにを見ているんだい。いくら待っていても、そこは渡し舟の着く所じゃないぞ」
小さな漁船から
青年は
「ありがとう」と、少し頭を下げた。
漁船は、下流へ流れ去った。けれど青年は、同じ所に、同じ姿をしていた。膝をかかえて坐ったまま遠心的な眼をうごかさなかった。
「おい、おい、旅の者」
こんどは、後ろを通った人間が呼びかけた。近村の百姓であろう。ひとりは鶏の足をつかんでさげ、ひとりは農具をかついでいた。
「――そんな所で、今朝からなにを待っているんだね。このごろは、
青年は、振りかえって、
「はい、どうも」
おとなしい
けれどなお、腰を上げようとはしなかった。
そして、幾千万年も、こうして流れているのかと思われる黄河の水を、
(――どうしてこの河の水は、こんなに黄色いのか?)
「ああ……、この土も」
青年は、大地の土を、一つかみ
支那の大地を作ったのも、黄河の水を黄色くしたのも、みなこの沙の微粒である。そしてこの沙は中央
「わたしのご先祖も、この河を
彼は、自分の体に今、脈うっている血液がどこからきたか、その遠い根元までを想像していた。
支那を
「ご先祖さま、みていて下さいまし。いやこの
天へ向って誓うように、劉備青年は、空を拝していた。
するとすぐ後ろへ、誰か突っ立って、彼の頭からどなった。
「うさんな
劉備は、おどろいて、何者かと振りかえった。
「どこから来たっ」と、彼の襟がみをもう
「……?」
見ると、役人であろう、胸に県の
「

劉備青年が答えると、
「

「はい、

「商売は」
「
「なんだ、
「そんなものです」
「だが……」
と、役人は急にむさい物からのくように襟がみを放して、劉備の腰の剣をのぞきこんだ。
「この剣には、黄金の

「これだけは、父の
素直ではあるが、
「しかしだな、こんなところに、半日も坐りこんで、いったい何を見ておるのか。怪しまれても仕方があるまい。――折も折、ゆうべもこの近村へ、黄巾賊の群れが
「ごもっともです。……実は私が待っているのは、今日あたり
「ははあ、誰か身寄りの者でもそれへ便乗して来るのか」
「いいえ、茶を求めたいと思って。――待っているのです」
「茶を」
役人は眼をみはった。
彼らはまだ茶の味を知らなかった。茶という物は、
「誰にのませるのだ。重病人でもかかえているのか」
「病人ではございませんが、生来、私の母の大好物は茶でございます。貧乏なので、めったに買ってやることもできませんが、一両年
「ふーむ。……それは感心なものだな。おれにも息子があるが、親に茶をのませてくれるどころか――あの通りだわえ」
二人の役人は、顔を見合せてそういうと、もう劉備の疑いも解けた
と、やがて、
「おお、船旗が見えた。洛陽船にちがいない」
彼は初めて草むらを起った。そして
ゆるやかに、江を下ってくる船の影は、
「おうーい」
しかし船は一個の彼に見向きもしなかった。
おもむろに
百戸ばかりの
今日、洛陽船を待っていたのは、劉備ひとりではない。岸にはがやがやと沢山な人影がかたまっていた。
なにしろ、黄河の上流、洛陽の都には今、
幾月かに一度ずつ、文明の製品を積んだ洛陽船が、この地方へも
ここでも。
夕方にかけて、おそろしく騒がしくまたあわただしい取引が始まった。
劉備は、そのやかましい人声と人影の中に立ちまじって、まごついていた。彼は、自分の求めようとしている茶が、仲買人の手にはいることを心配していた。一度、商人の手に移ると、
またたく間に、市の取引は終った。仲買人も百姓も物売りたちも、三々五々、夕闇へ散ってゆく。
劉備は、船の商人らしい男を見かけてあわててそばへ寄って行った。
「茶を売って下さい、茶が欲しいんですが」
「え、茶だって?」
「あいにくと、お前さんに
「結構です。たくさんは
「おまえ茶をのんだことがあるのかね。地方の衆が何か葉を煮てのんでいるが、あれは茶ではないよ」
「はい。その、ほんとの茶を
彼の声は、懸命だった。
茶がいかに貴重か、高価か、また地方にもまだない物かは、彼もよくわきまえていた。
その
また別な説には、一日に百
いずれにしろ、劉備の身分でそれを求めることの無謀は、よく知っていた。
――だが、彼の懸命な
「では少し頒けてあげてもよいが、お前さん、失礼だが、その代価をお持ちかね?」と訊いた。
「持っております」
彼は、
「ほ……」
洛陽の商人は、
「あるねえ。しかし、
「何ほどでも」
「そんなに欲しいのかい」
「母が眼を細めて、よろこぶ顔が見たいので――」
「お前さん、商売は?」
「
「じゃあ、失礼だが、これだけの
「二年かかりました。自分の食べたい物も、着たい物も、節約して」
「そう聞くと、断われないな。けれどとても、これだけの銀と替えたんじゃ引合わない。なにかほかにないかね」
「これも添えます」


「よろしい。おまえさんの孝心に免じて、茶と交易してやろう」
と、やがて船室の中から、
黄河は暗くなりかけていた。西南方に、
――世の中がいよいよ乱れる
と、近頃しきりと、世間の者が
「ありがとうございました」
劉備青年は、錫の小壺を、
しかし、ここから故郷の

「今夜は寝て――」と、考えた。
すると夜半頃。
木賃の亭主が、あわただしく起しにきた。眼をさますと、
「あっ、火事ですか」
「
「えっ。……賊?」
「旦那も、交易した一人でしょう。奴らが、まっ先に狙うのは、今夜泊った仲買たちです。次にはわしらの番だが、はやく裏口からお逃げなさい」
劉備はすぐ剣を
裏口へ出てみるともう近所は焼けていた。家畜は、異様なうめきを放ち、女子どもは、焔の下に悲鳴をあげて逃げまどっていた。
昼のように大地は明るい。
見れば、
昼ならば眼にも見えよう。それらの悪鬼は皆、
「ああ、
「ここへ自分が泊り合せたのは、天が、天に代って、この
と、剣に手をかけながら、家の
母がある。――自分には自分を頼みに生きているただ一人の母がある。
黄巾の乱賊はこの地方にだけいるわけではない。
一剣の勇では、百人の賊を斬ることもむずかしい。百人の賊を斬っても、天下は救われはしないのだ。
母を悲しませ、百人の賊の
「そうだ。……わしは今日も黄河の
劉備は、眼をおおって、裏口からのがれた。
彼は、闇夜を駈けつづけ、ようやく村をはなれた山道までかかった。
「もうよかろう」
汗をぬぐって振りかえると、焼きはらわれた水村は、
空を仰いで、
まして人間の小ささ――一個の自己のごときは――と劉備は、我というものの無力を
「
――
と、誰かいったような気がしたが、振りかえって見たが、人影なども見あたらなかった。
ただ、樹木の蔭に、一宇の古い
劉備は、近づいて、廟にぬかずきながら、
「そうだ、孔子、今から七百年前に、
多感な劉備青年は、あたりに人がいないとのみ思っていたので、孔子廟へ向って、誓いを立てるように、思わず情熱的な声を放って云った。
――と、廟の中で、
「わはははは」
「あははは」
大声で笑った者がある。
びっくりして、劉備がたちかけると、廟の
「こら、待て」
劉備の
同時に、もう一人の大男は、廟の内から劉備の眼の前へと、孔子の木像を蹴とばして、
「ばか野郎、こんな物が貴様ありがたいのか。どこが偉大だ」と、
孔子の木像は首が折れて、わかれわかれに転がった。
二人の
問うまでもなく、黄巾賊の仲間である。しかも、その
「
劉備の襟がみをつかんだのが、もう一人のほうに向って訊くと、孔子の木像を蹴とばした男は、
「離してもいい。逃げればすぐ叩っ斬ってしまうまでのことだ。おれが睨んでいる前からなんで逃げられるものか」と、いった。
そして廟の前の
けれど、総大将の
というように尊称していた。
その下に、大方、中方などとよぶ部将をもって組織しているのであった――で今、劉備の前に腰かけている男は、張角の配下の
「おい、
「そいつを、もっと前へ引きずってこい――そうだ俺の前へ」
劉備は、襟がみを持たれたまま、馬元義の足もとへ引き据えられた。
「やい、百姓」
「
「はい」
「はいではすまねえ。
「べつに意味はありません」
「意味のないことを独りでいうたわけがあるか」
「あまり山道が淋しいので、怖ろしさをまぎらすために出たらめに、声を放って歩いてきたものですから」
「相違ないか」
「はい」
「――で、何処まで行くのだ。この真夜中に」
「

「じゃあまだ道は遠いな。俺たちも夜が明けたら、北のほうの町まで行くが、てめえのために眼をさましてしまった。もう二度寝もできまい。ちょうど荷物があって困っていた所だから、俺の荷をかついで、供をしてこい――おい、
「へい」
「荷物はこいつにかつがせて、
「もう出かけるんですか」
「峠を降りると夜が明けるだろう。その間に奴らも、今夜の仕事をすまして、後から追いついてくるにちげえねえ」
「では、歩き歩き、通ったしるしを残して行きましょう」と、甘洪は、
驢は、北へ向いて歩いた。
鞍上の馬元義は、ときどき南を振り向いて、
「奴らはまだ追いついてこないがどうしたのだろう」と、つぶやいた。
彼の半月槍をかついで、驢の後からついてゆく手下の
「どこかで道を取っ違えたのかも知れませんぜ。いずれ
いずれ賊の仲間のことをいっているのであろう――と
(何しろ、従順をよそおっているに
劉備は、賊の荷物を負って、黙々と、驢と半月槍のあいだに挟まれながら歩いた。丘陵と河と平原ばかりの道を、四日も歩きつづけた。
幸い雨のない日が続いた。十方
「ああ――」
旅に
そんな時、劉備はふと、
――今だっ。
という衝動にかられて、幾度か剣に手をやろうとしたが、もし仕損じたらと、母を想い、身の大望を考えて、じっと辛抱していた。
「おう、甘洪」
「へえ」
「飯が食えるぞ。冷たい水にありつけるぞ――見ろ、むこうに寺があら」
「寺が」
黍の間から伸び上がって、
「ありがてえ。
夜は冷え渡るが、昼間は焦げつくばかりな炎熱であった。――水と聞くと、劉備も思わず伸び上がった。
低い丘陵が彼方に見える。
丘陵に抱かれている
そこの石橋を渡って、荒れはてた寺門の前で、馬元義は驢をおりた。門の扉は、一枚はこわれ、一枚は形だけ残っていた。それに黄色の紙が貼ってあって、次のような文が書いてあった。
○
「誰かいるか」
「ところが、いくら呼んでも誰も出てきませんが」
「もう一度、どなってみろ」
「おうい、誰かいねえのか」
――薄暗い堂の中を、どなりながら覗いてみた。何もない堂の真ん中に、

「やい、老いぼれ」
老僧は、やっとにぶい眼をあいて、眼の前にいる甘と、馬と、
「食物があるだろう。おれたちはここで腹支度をするのだ、はやく支度をしろ」
「……ない」
老僧は、
「ない? ――これだけの寺に食物がないはずはねえ。俺たちをなんだと思う。
「……どうぞ」
老僧は、うなずいた。
馬は甘をかえりみて、
「ほんとにないのかもしれねえな。あまり落着いていやがる」
すると老僧は、

「ない! ない! ない! ……仏陀の像さえない! 一物もここにはないっ」と、いった。
泣くがような声である。
そしてにぶい
「みんな、お前方の仲間が持って行ってしまったのだ。
「でも、何かあるだろう。何か喰える物が」
「ない」
「じゃあ、冷たい水でも汲んでこい」
「井戸には、毒が投げこんである。飲めば死ぬ」
「誰がそんなことをした」
「それも、
「しからば、泉があるだろう。あんな美麗な
「――あの蓮花が、なんで美しかろう。わしの眼には、
「こいつめが、妙な世まい
「嘘と思うなら池をのぞいてみるがよい。紅蓮の下にも、白蓮の根元にも、
「あたり前だ。大賢良師張角様に
「…………」
「いや。よけいなことは、どうでもいい。食べ物もなく水もなく、一体それでは、てめえは何を喰って生きているのか」
「わしの喰ってる物なら」と、老僧は、自分の
「……そこらにある」
馬元義は、何気なく、床を見まわした。根を
「こいつは参った。ご
と出て行きかけた。
すると、その時はじめて、賊の供をしている劉備の存在に気づいた老僧は、穴のあくほど、劉青年の顔を見つめていたが、突然、
「あっ?」と、打たれたような

老僧の落ちくぼんでいる眼は大きく
やがて、独りで、うーむと
「あ、あ! あなただっ」
膝を折って、床に坐り、あたかも現世の
劉備は、迷惑がって、
「老僧、何をなさいます」と、手を取った。
老僧は、彼の手にふれると、なおさら、
「青年。――わしは長いこと待っていたよ。まさしく、わしの待っていたのはあなただ。――あなたこそ
「とんでもない。私は

「いいや、あなたの人相骨がらに現われておるよ。青年、聞かしておくれ。あなたの祖先は、帝系の流れか、王侯の血をひいていたろう」
「ちがう」
劉備は、首を振って、「父も、祖父も、楼桑村の百姓でした」
「もっと先は……」
「わかりません」
「分らなければ、わしの言を信じたがよい。あなたが
「
「もっと前から、家におありじゃったろう。古びて見る面影もないがそれは

「……?」
堂の外へ先に出たが、後から劉備が出てこないので、足を止めていた賊の馬元義と甘洪は、老僧のぶつぶついっていることばを、聞きすましながら振向いていた。が、――しびれをきらして、
「やいっ劉。いつまで何をしているんだ。荷物を持って早くこいっ」と、どなった。
老僧は、まだ何か、いいつづけていたが、馬の大声に
「劉、そこへ掛けろ」と、木の根を指さし、自分も石段に腰かけて、大きく構えた。
「今、聞いていると、てめえは行く末、偉い者になる人相を備えているそうだな。まさか、王侯や将軍になれっこはあるめえが、俺も実は、てめえは見込みのある野郎だと見ているんだ――どうだ、俺の部下になって、黄巾党の仲間へ加盟しないか」
「はい。有難うございますが」と、劉備はあくまで、
「私には、
「おふくろなぞは、あってもいいじゃねえか。
「けれど、こうして、私が旅に出ている間も、痩せるほど子の心配ばかりしている、至って
「そりゃそうだろう。貧乏ばかりさせておくからだ。黄巾党に入って、腹さえふくらせておけば、なに、
馬元義は、功名に燃えやすい青年の心をそそるように、それから黄巾党の勢力やら、世の中の将来やらを、談義しはじめた。
「狭い目で見ている奴は、俺たちが良民いじめばかりしていると思っているが、俺たちの総大将
と、
今から十年ほど前。
張角はしかし
(お前を待っていること久しかった)と、さしまねくので、ついて行ってみると、白雲の
張角は、再拝して、
(我は
張角は、そのことを、山を降りてから、里の人々へ自分から話した。
正直な、里の人々は、(わしらの郷土の秀才に、神仙が宿った)と
張角は、門を閉ざし、
(今は、神が我をして、出でよと命じ給う日である)
と、おごそかに、
五百人の弟子は、彼の命に依って、
それでも、癒らぬ者は、張角自身が行って、
体の病人ばかりでなく、次には心に病のある者も集まってきて、張角の前に
たちまち、諸州にわたって、彼の勢力はひろまった。
張角は、その弟子たちを、三十六の方を立たせ、階級を作り、大小に分かち、頭立つ者には
これがそもそもの、黄巾党の起りだとある。初め張角が、常に、結髪を黄色い
また、黄巾軍の徒党は、全軍の旗もすべて黄色を用い、その
大賢良師張角!
大賢良師張角!
今は、三歳の児童も、その名を知らぬはなく、大賢良師張角!
(――蒼天スデニ死ス。黄夫マサニ立ツベシ)
と唄った後では、張角の名を
けれど、黄巾党が
張角は自己の勢力に服従してくる愚民どもへは、
(太平を楽しめ)と、
(わが世を謳歌せよ)と、
その代りに、
天下一統の大業を完成して、後漢の代を興した光武帝から、今は二百余年を経、宮府の内外にはまた、ようやく
十一代の帝、
心ある者は、ひそかに、
(どうなり行く世か?)と、憂えているところへ、地方に
――
の童歌が流行ってきて、後漢の末世を暗示する声は、
そうした折にまた、こんなこともひどく人心を不安にさせた。
ある年。
幼帝が
また、つい近年には。
赤色の
そんな凶兆のあるたびに、黄巾賊の「蒼天スデニ死ス――」の歌は、盲目的にうたわれて行き、賊党に加盟して、掠奪、横行、
思想の悪化、組織の混乱、道徳の

州の諸侯をはじめ、郡県市部の
富豪は皆、財を捧げて、生命を乞い、寺院や民家は戸ごとに、大賢良師張角――と書いた例の
さて。……
長々と、そうした現状や、黄巾党の
「
「そこでも、黄色い貼紙を見たろう。書いてある文句も読んだろう。この地方もずっと、俺たち黄巾党の勢力範囲なのだ」
「…………」
劉備は、終始黙然と聞いているのみだった。
「いや、この地方や、十州や二十州はおろかなこと、今に天下は黄巾党のものになる。後漢の代は亡び、次の新しい代になる」
劉備は、そこで初めて、こう訊ねた。
「では、張角良師は、後漢を亡ぼした後で、自分が帝位につく
「いやいや。張角良師には、そんなお考えはない」
「では、誰が、次の帝王になるのでしょう」
「それはいえない。……だが劉備、てめえが俺の部下になると約束するなら聞かせてやるが」
「なりましょう」
「きっとか」
「母が許せばです」
「――では打明けてやるが、帝王の問題は、今の漢帝を亡ぼしてから後の重大な評議になるんだ。
「へえ? ……なぜです。どうして支那の帝王を決めるのに、昔から
「それは大いにあるさ」と、馬は当然のように――
「いくら俺たちが暴れ廻ろうたって、俺たちの
「えっ。では黄巾賊のうしろには、異国の匈奴がついているわけですか」
「だから絶対に、俺たちは
「結構なお話です。母も聞いたら
云いかけているのに、馬元義は不意に起ち上がって、
「やっ、来たな」と、彼方の平原へ向って、眉に手をかざした。
それは約五十名ほどの賊の小隊であった。中に
「やあ、
こなたの馬元義も、石段から伸び上がっていうと、
「おう
「峠の
「ところで、ゆうべの
「大していう程の収穫もなかったが、一村焼き払っただけの物はあった。その財物は皆、荷駄にして、例の通りわれわれの営倉へ送っておいたが」
「近頃は人民どもも、金は
「ウム、そういえば、先夜も一人惜しいやつを取逃がしたよ」
「惜しい奴? ――それは何か高価な財宝でも持っていたのか」
「なあに、砂金や宝石じゃないが、洛陽船から、茶を交易した男があるんだ。知っての通り、盟主張角様には、茶ときては、眼のない好物。これはぜひ
賊の
劉備は、驚いた。
そして思わず、
すると、馬元義は、
「ふーむ」と、うめきながら、改めて後ろにいる劉青年を振向いてから、さらに、李へ向って、
「それは、
「そうさな。俺も見たわけでないが、
「じゃあ、この男ではないのか」
馬元義は、すぐ傍らにいる劉備を指さして、いった。
「え?」
李は、意外な顔をしたが、馬元義から
「そいつかもしれない。――おういっ、
と、池畔に
手下の丁峰は、呼ばれて、屯の中から馳けてきた。李は、黄河で茶を交易した若者は、この男ではないかと、劉の顔を指さして、質問した。
丁は、劉青年を見ると、惑うこともなくすぐ答えた。
「あ。この男です。この若い男に違いありません」
「よし」
李は、そういって、丁峰を退けると、馬元義と共に、いきなり劉備の両手を左右からねじあげた。
「こら、貴様は茶をかくしているというじゃないか。その茶壺をこれへ出してしまえ」
馬元義も責め、
「出さぬと、ぶった斬るぞ。今もいった通り、張角良師のご好物だが、良師のご威勢でさえ、めったに手にはいらぬ程の物だ。貴様のような
劉備は、云いのがれのきかないことを、はやくも観念した。しかし、
(何とか、ここをのがれる工夫はないものか)
となお、未練をもって、両手の痛みをこらえていると、李朱氾の靴は、気早に劉備の腰を蹴とばして、「
そして、よろめく劉備の襟がみを、つかみもどして、
「あれに、血に飢えている五十の部下がこちらを見て、
劉備は二人の土足の前へ、そうしてひれ伏したまま、まだ、母の歓びを売って、この場を助かる気持になれないでいたが、ふと、眼を上げると、寺門の陰にたたずんで、こちらを覗いていた最前の老僧が、
(物など惜しむことはない。求める物は、何でも与えてしまえ、与えてしまえ)
と、手真似をもって、しきりと彼の善処をうながしている。
劉備もすぐ、(そうだ。この身体を傷つけたら、母にも大不孝となる)と思って、心をきめたが、それでもまだ
「これこそは、父の
すると、馬元義は、
「おう、その剣は、俺がさっきから眼をつけていたのだ。貰っておいてやる」と
劉備は、やむなく、肌深く持っていた
「これだ、これだ。洛陽の
賊の小隊はすぐ先へ出発する予定らしかったが、ひとりの物見が来て、ここから十里ほどの先の河べりに、県の吏軍が約五百ほど野陣を張り、われわれを捜索しているらしいという報告をもたらした。で、にわかに、「では、今夜はここへ泊れ」となって、約五十の黄巾賊は、そのまま寺を宿舎にして、携帯の
夕方の炊事の混雑をうかがって、劉備は今こそ逃げるによい
「おい。どこへ行く」
賊の
劉備は
そこは床に瓦を敷き詰め、太い丸柱と、小さい窓しかない石室だった。
「やい劉。貴様は、おれの眼をかすめて、逃げようとしたそうだな。察するところ、てめえは官の密偵だろう。いいや違えねえ。きっと県軍のまわし者だ。――今夜、十里ほど先まで、県軍がきて野陣を張っているそうだから、それへ連絡を取るために、
馬元義と李朱氾は、かわるがわるに来て、彼を
「――道理で、貴様の面がまえは、
しまいには、馬と李と、二人がかりで、劉を蹴って
劉は一口も物をいわなかった。こうなったからには、天命にまかせようと観念しているふうだった。
「こりゃひと筋縄では口をあかんぞ」
李は、持てあまし気味に、
「いずれ明日の早暁、俺はここを出発して、張角良師の総督府へ参り、例の茶壺を献上かたがた良師のご機嫌伺いに出るつもりだが、その折、こいつも引っ立てて行って、大方軍本部の軍法会議にさし廻してみたらどうだろう。思いがけない拾いものになるかもしれぬぜ」
よかろうと、馬も同意だ。
斎堂の扉は、かたく閉められてしまった。夜が更けると、ただ一つの高い窓から、今夜も銀河の秋天が冴えて見える。けれどとうてい、そこからのがれ出る工夫はない。
どこかで、馬のいななきがする。官の県軍が攻めてきたのならよいが――と劉備は、望みをつないだが、それは物見から帰ってきた二、三の賊兵らしく、後は
「母へ孝養を努めようとして、かえって大不孝の子となってしまった。死ぬる身は惜しくもないが、老母の余生を悲しませ、不孝の
劉備は、星を仰いで
賊府へひかれて、人中で生恥さらして殺されるよりは、いっそ、ここで、ひと思いに死なんか――と考えた。
死ぬにも、身に剣はなかった。柱に頭を打ちつけて憤死するか。舌を噛んで星夜をねめつけながら
劉備は、悶々と、迷った。
――すると彼の
「……あ?」
人影もなにも見えない、ただ四角な星空があるだけだった。
劉備は、身を起しかけた。しかしすぐ無益であることを知った。身は
「……ああ、誰だろう?」
誰か、窓の下へ、救いに来ている。外で自分を待っていてくれる者がある。劉備は、なおさらもがいた。
と、――彼の行動が遅いので、早くしろとうながすように、外の者は
足の先で、短剣を寄せた。そしてようやく、それを手にして、自身の縄目を断ち切ると、劉備は、窓の下に立った。
(早く。早く)といわんばかりに、無言の縄は外から意志を伝えて、ゆれうごいている。
劉備は、それにつかまった。石壁に足をかけて、窓から外を見た。
「……オオ」
外にたたずんでいたのは、昼間、ただひとりで

「――今だよ」
その手がさしまねく。
劉備はすぐ地上へ跳びおりた。待っていた老僧は、彼の身を抱えるようにして、物もいわず馳けだした。
寺の裏に、
「老僧、老僧。いったいどっちへ逃げるんですか」
「まだ、逃げるのじゃない」
「では、どうするんです」
「あの
走りながら、老僧は指さした。
見るとなるほど、疎林の奥に、疎林の
「どうしたのだろう?」
劉備は気を揉んでいる。そして賊兵が追ってきはしまいかと、あちこち見まわしているとやがて、
「青年、青年」
小声で呼びながら、塔の中から老僧は何かひきながら出てきた。
「おや?」
劉備は眼をみはった。老僧が引っぱっているのは駒の手綱だった。銀毛のように美しい白馬がひかれだしたのである。
いや、いや、白馬の毛並の見事さや、背の鞍の華麗などはまだいうも
「青年。わしがお前を助けて上げたことを、恩としてくれるなら、逃げるついでに、このお
老僧のことばに、劉備は、
老僧は、彼のためらいを、どう解釈したか。
「そうだ、
と、老僧の眼がふと、古塔の
「いや、動かぬがよい。しばらくは、かえってここに、じっとしていたほうが……」
と、老僧が彼の袖をとらえ、そんな危急の中になお、語りつづけた。
県の城長の娘は、名を
だから、芙蓉の身を、そこまで届けてくれさえすれば、後は以前の家来たちが守護してくれる――白馬の背へ二人してのって、抜け道から一気に逃げのびて行くように――と、
「承知しました」
劉備は、勇気を示して答えた。
「けれど
「わしかの」
「そうです。私たちを逃がしたと賊に知られたら、和上の身は、ただでは済まないでしょう」
「案じることはない。生きていたとて、このさき幾年生きていられよう。ましてこの十数日は、草の根や虫など食うて、露命をつないでいたはかない身じゃ。それも
老僧はそう云い終ると、風の如く、塔の中へ影をかくした。
あれよと、芙蓉は、老僧を
「和上さま。和上さま!」
芙蓉は慈父を失ったように、扉をたたいて泣いていたが、その時、高い塔の
「青年。わしの指をご覧。わしの指さすほうをご覧。――ここの疎林から西北だよ。
「はいっ」
答えながら仰ぐと、老僧の影は、塔上の
「
劉備は、彼女の
芙蓉の体はいと軽かった。柔軟で高貴な
劉備も木石ではない。かつて知らない
「ご免」といいながら、劉備ものって一つ鞍へまたがった。そして片手に彼女をささえ、片手に白馬の手綱をとって、老僧の指さした方角へ馬首を向けた。
塔上の老僧は、それを見おろすと、わが事おわれり――と思ったか、突然、歓喜の声をあげて、
「見よ、見よ。
云い終ると、みずから舌を噛んで、塔上の石欄から百尺下の大地へ、身を躍らして、五体の骨を自分でくだいてしまった。
白馬は
やがて
野に出ても、二人の身をなお、
「オ。あれへ行くぞ」
「女をのせて――」
「では違うのか」
「いや、やはり劉備だ」
「どっちでもいい。逃がすな。女も逃がすな」
賊兵の声々であった。
疎林の陰を出たとたんに、黄巾賊の一隊は早くも見つけてしまったのである。
獣群の声が、
劉備は、振り向いて、
「しまった!」
思わずつぶやいたので、彼と白馬の脚とを唯一の頼みにしがみついていた芙蓉は、
「ああ、もう……」
消え入るようにおののいた。
万が一つも、助からぬものとは観念しながらも、劉備は励まして、
「大丈夫、大丈夫。ただ、振り落されないように、駒の
芙蓉はもう返事もしない。ぐったりと鬣に顔をうつ伏せている。その
「河まで行けば。県軍のいる河まで行けば! ……」
劉備の打ちつづけていた
低い
「待てッ」
驢を持たない徒歩の卒どもは、駒の足に続ききれないで、途中であえいでしまったらしいが、
「止れッ」
「射るぞ」と、どなった。
鉄弓の
そのまま芙蓉は身動きもしなかったが、劉備は起ち上がって、
「何かっ!」と、さけんだ。彼は今日まで、自分にそんな大きな声量があろうとは知らなかった。百獣も為に
賊は、ぎょっとし、劉備の大きな眼の光におどろき、驢は彼の大喝に、
だが、それは一瞬、
「何を、青二才」
「手むかう気か」
驢を跳びおりた賊は、鉄弓を捨てて大剣を抜くもあり、槍を舞わして、劉備へいきなり突っかけてくるもあった。
どういう悪日と
黄河の
「もうこれまで」
劉備もついに観念した。避けようもない賊の包囲だ。斬り
けれど身には寸鉄も帯びていない。少年時代から片時もはなさず持っていた父の
劉備は、しかし、
「ただは死なぬ」と思い、石ころをつかむが早いか、近づく者の顔へ投げつけた。
見くびっていた賊の一名は、不意を喰らって、
「あッ」と、鼻ばしらをおさえた。
劉備は、飛びついて、その槍を奪った。そして大音に、
「四民を悩ます害虫ども、もはや

といって、捨身になった。
賊の小方、
「この百姓めが」と半月槍をふるってきた。
もとより劉備はさして武術の達人ではない。田舎の
でも、必死になって、七人の賊を相手に、ややしばらくは、一命をささえていたが、そのうちに、槍を打落され、よろめいて倒れたところを、李朱氾に馬のりに組み敷かれて、李の大剣は、ついに、彼の胸いたに突きつけられた。
――おおういっ。
すると、……いやさっきからその声は遠くでしたのだが、
遥か彼方の野末から、
「――おおういっ。待ってくれい」
呼ばわる声が近づいてくる。
野彦のように凄い声は、思わず賊の頭を振り向かせた。
両手を振りながら
だがまたたく間に近づいてきたのを見ると、木の葉どころか身の
「やっ、
「そうだ。近頃、卒の中に入った下ッ端の
賊は、不審そうに、顔見合せて云い合った。自分らの部下の中にいる張飛という一卒だからである。他の大勢の歩卒は、騎馬に追いつけず皆、途中で遅れてしまったのに、張卒だけが、たとえひと足遅れたにせよ、このくらいの差で追いついてきたのだから、その脚力にも、賊将たちは
「なんだ、張卒」
「小方、小方。殺してはいけません。その人間は、わしに渡して下さい」
「何? ……誰の命令で貴様はそんなことをいうのか」
「卒の張飛の命令です」
「ばかっ。張飛は、貴様自身じゃないか。卒の分際で」
と、いう言葉も終らぬ間に、そう
卒の張飛が、いきなり李朱氾をつまみ上げて、宙へ投げ飛ばしたので、
「やっ、こいつが」と、賊の小方たちは、劉備もそっちのけにして、彼へ総掛りになった。
「やい張卒、なんで貴様は、味方の李小方を投げおったか。また、おれ達のすることを邪魔だてするかっ」
「ゆるさんぞ。ふざけた真似すると」
「党の軍律に照らして、成敗してくれる。それへ直れ」
ひしめき寄ると、張は、
「わははははは。吠えろ吠えろ。
「なに、野良犬だと」
「そうだ。その中に一匹でも、人間らしいのがおるつもりか」
「うぬ。
槍の柄は折れ、打たれた賊は、腰骨がくだけたように、ぎゃっともんどり打った。
思わぬ裏切者が出て、賊は狼狽したが、日頃から図抜けた
張飛は、さながら岩壁のような胸いたをそらして、
「まだ来るか。むだな
「あっ! ……では汝は、鴻家の旧臣だな」
「いま気がついたか。此方は県城の
「さては、鴻家の残兵だったか。そう聞けばなおのこと、生かしてはおけぬ」と、一度に打ってかかった。
張飛は、腰の剣も抜かず、寄りつく者をとっては投げた。投げられた者は皆、
劉備は、茫然と、張飛の働きをながめていた。

「なんという豪傑だろう?」
残る二、三人は、
「いや旅の人。えらい目に遭いましたなあ」
と、何事もなかったような顔して話しかけた。そして直ぐ、腰に帯びていた二剣のうちの一つをはずし、また、
「あ。私のです」
劉備は、失くした珠が返ってきたように、剣と茶壺の二品を、張飛の手から受取ると、幾度も感謝をあらわして、「すでに
張飛は、
「いやいや徳は
と、
「大人、失礼ですが、これはお礼として、あなたに差上げましょう。茶は、
張飛は、眼をみはって、
「えっ、この品をそれがしに、賜ると仰っしゃるのですか」
「劉備の寸志です。どうか納めておいて下さい」
「自分は根からの武人ですから、実をいえば、この剣の世に稀な名刀だということは知っていますから、欲しくてならなかったところです。けれど、同時に貴公とこの剣との来歴も聞いていましたから、望むに望めないでおりましたが」
「いや、
「そうですか。しからば、ほかならぬ品ですから、頂戴しておこう」
と、張飛は、自身の剣をすぐ解き捨て、
「じゃあ早速ですが、まだ賊が押し返してくるにきまっている。それがしは鴻家のご息女を立てて、旧主の残兵を集め事を
張飛のことばに、
「おお、それでは」
と、劉備は、
張飛は、先に自分が解き捨てた剣を劉備の腰に
「こんな剣でも帯びておいでなされ。まだ、

そして張飛自身も、芙蓉の身を抱いて、白馬の上に移り、名残り惜しげに、
「いつかまた、再会の日もありましょうが、ではご機嫌よく」
「おお、きっとまた、会う日を待とう。あなたも武運めでたく、鴻家の再興を成しとげらるるように」
「ありがとう。では」
「おさらば――」
劉備の驢と、芙蓉を抱えた張飛の白馬とは、

この地はまた、
城門の

だからこの辺の住民は、そこの門のことを、六
「待って下さい。待って下さいっ」
彼方から驢を飛ばしてきたひとりの旅人は、危うく一足ちがいで、一夜を城門の外に明かさなければならない間ぎわだったので、手をあげながら馳けてきた。
最後の鼓の一つが鳴ろうとした時、からくも旅人は、城門へ着いて、
「おねがい致します。通行をおゆるし下さいまし」
と、驢をそこで降りて、型のごとく
役人は、旅人の顔を見ると、「やあ、お前は
劉備は、ここ楼桑村の住民なので、誰とも顔見知りだった。
「そうです。今、旅先から帰って参ったところです」
「お前なら、顔が
「はい、いつもの商用ですが、なにぶん、どこへ行っても近頃は、
「そうだろう。関門を通る旅人も、毎日へるばかりだ。さあ、早く通れ」
「ありがとう存じます」
再び驢にのりかけると、
「そうそう、お前の母親だろう、よく関門まで来ては、きょうもまだ息子は帰りませぬか、今日も劉備は通りませぬかと、夕方になると訊ねにきたのが、この頃すがたが見えぬと思ったらわずらって寝ているのだぞ。はやく帰って顔を見せてやるがよい」
「えっ。では母は、留守中に、病気で寝ておりますか」
劉備はにわかに胸さわぎを覚え、驢を急がせて、関門から城内へ馳けた。
久しく見ない町の暮色にも、眼もくれないで彼は驢を家路へ向けた。道幅の狭い、そして短い宿場町はすぐとぎれて、道はふたたび悠長な田園へかかる。
ゆるい小川がある。水田がある。秋なのでもう村の人々は刈入れにかかっていた。そして所々に見える農家のほうへと、田の人影も水牛の影も戻って行く。
「ああ、わが家が見える」
劉備は、驢の上から手をかざした。
「どんなに自分をお待ちなされておることやら。……思えば、わしは孝養を励むつもりで、実は不孝ばかり重ねているようなもの。母上、済みません」
彼の心を知るか、驢も足を早めて、やがて
この桑の大木は、何百年を経たものか、村の古老でも知る者はない。
古老がいうには、
「楼桑村という地名も、この桑の木が茂る時は、まるで緑の楼台のように見えるから、この樹から起った村の名かもしれない」とのことであった。
それはともかく、劉備は今、ようやく帰り着いたわが家の裏に驢をつなぐとすぐ、
「おっ母さん、今帰りました。
と、広い家の中へ馳けこむようにはいって行った。
旧家なので、家は大きいが、何一つあるではなく、中庭は、
「オヤ、どうしたのだろう。
彼は召使いの老婆と、
ふたりとも、返辞もない。
劉備は、舌打ちしながら、
「おっ母さん」
母の部屋をたたいた。
「や? ……どうしたのだろう」
茫然、胸さわぎを抱いて、たたずんでいると、暗い中庭のほうで、かたん、かたん――と
「おや」
廊へ出てみると、そこの仕事場にだけ、うす暗い灯影がたった一つかかげてあった。その灯の下に、白髪の母の影が後ろ向きに腰かけていた。ただ一人で、星の下に、蓆を織っているのだった。
母は、彼が帰ってきたのも気がついていないらしかった。劉備がすがりつかんばかり馳け寄って、
「今、帰りました」
と顔を見せると、母は、びっくりしたように起ってよろめきながら、
「おお、阿備か、阿備か」
乳呑み児でも抱きしめるようにして、何を問うよりも先に、うれし涙を眼にいっぱいためたまま、しばしは、母は子の肌を、子は母親のふところを、相擁して
「城門の番人に、おまえの母親は病気らしいぞといわれて、気もそぞろに帰ってきたのですが、おっ母さん、どうしてこんな夜露の冷える外で、今頃、
「病気? ……ああ城門の番人さんは、そういったかも知れないね。毎日のように関門までおまえの帰りを見に行っていたわたしが、この十日ばかりは行かないでいたから」
「では、ご病気ではないんですか」
「病気などはしていられないよ、おまえ」と、母はいった。
「寝台も箪笥もありませんが……」
劉備が問うと、
「税吏が来て、持って行ってしまった。
「婆やが見えませんが、婆やはどうしましたか」
「息子が、黄匪の仲間にはいっているという疑いで、縛られて行った」
「若い下僕は」
「兵隊にとられて行ったよ」
「――ああ! すみませんでしたおっ母さん」
劉備は、母の足もとに、ひれ伏して
詫びても詫びても詫び足らないほど、劉備は母に対して済まない心地であった。けれども母は、久しぶりに旅から帰ってきた我が子が、そんな自責に泣きかなしむことは、かえって
「阿備や、泣いておくれでない。何を詫びることがあるものかね。お前のせいではありはしない。世の中が悪いのだよ。……どれ
と、
子の機嫌をとって、子の罪を責めない母のあまりなやさしさに、劉備はなおさら大愛の姿にぬかずいて、
「もったいない。私が戻りましたからには、そんなことは、玄徳がいたします。もうご不自由はさせません」
「いいえお前はまた、あしたから働いておくれ。稼ぎ人だからね、婆やも下僕もいなくなったのだから、台所のことぐらいは、わたしがしましょうよ」
「留守中、そんなことがあろうとは、少しも知らず、つい旅先で長くなって、思わぬご苦労をかけました。さあ、こんな大きな息子がいるんですから、おっ母さんは部屋へはいって、安楽に寝台で寝ていて下さい」と、いって劉備はむりに母の手を
いや、寝台や
「こんなにまで、領主の軍費も詰まってきたのか」
劉備は、身の生活を考えるよりも、もっと大きな意味で、
そして直ぐ、
「これも、黄匪の害の一つのあらわれだ。ああどうなるのだろう?」
世の行く末を思いやると、彼はいよいよ暗い心にとざされた。
物置をあけて、彼は
すると、むりに部屋へ入れて休ませておいた母が部屋の中で、何か小さい物音をさせていた。行って見ると、床板を上げて、土中の
「……ア。そんな所に」
劉備の声に、彼女はふり向いて、浅ましい自分を笑うように、
「すこし隠しておいたのだよ。生きてゆくだけの物はないと困るからね」
「…………」
世の中は急転しているのだ。これはもうただ事ではない。何億の人間が、生きながら餓鬼となりかけているのだ。反対に、一部の黄巾賊が、その血をすすり肉をくらって、不当な
「阿備や……。灯りを持っておいで、粟が煮えたよ。何もないけれど、二人して喰べれば、おいしかろう」
やがて、老いたる母は、貧しい卓から子を呼んでいた。
貧しいながら、母子は久しぶりで共にする晩の食事を楽しんだ。
「おっ母さん、あしたの朝は、きっと歓んでいただけると思います。こんどの旅から、私はすばらしいお
「お土産を」
「ええ。おっ母さんの、大好きな物です」
「ま。何だろうね?」
「生きているうちに、もいちど味わってみたいと、いつか仰っしゃったことがありましたろう。それですよ」
母を楽しませるために、劉備も、それが
母は、わが子のその気持だけでも、もう眼を細くして歓んでいるのである。
「織物かえ」と訊いた。
「いいえ。今もいったとおり、味わう物ですよ」
「じゃあ、食べ物?」
「――に、近いものです」
「何じゃろ。わからないよ、阿備や。わたしにそんな
「望んでも、望めない物と、
「まあ、そんなに長年、心にかけてかえ? ……なおさら、分らなくなってしもうたよ阿備。……いったいなんだねそれは」
「おっ母さん、実は、これですよ」
「洛陽の銘茶です。……おっ母さんの大好きなお茶です。……あしたの朝は、うんと早起きしましょう。そしておっ母さんは、裏の桃園に
「…………」
母は眼をまるくしたまま錫の小壺を見つめて、物もいえなかった。ややしばらくしてから怖い物でもさわるように、そっと
「阿備や。……お前、いったいこれは、どうしたのだえ」
声までひそめて訊ねるのだった。
劉備は、母が疑いの余り案じてはならないと考えて、自分の気持や、それを手に入れたことなど、噛んでふくめるようにして話して聞かせた。民間ではほとんど手に入れがたい品にはちがいないが、自分が求めたのは、正当な手続きで
「ああ、お前は! ……なんてやさしい子だろう」
母は、茶壺を置いて、わが子の劉備に
劉備は、あわてて、
「おっ母さん、滅相もない。そんなもったいない真似はよして下さい。ただ歓んでさえいただければ」
と、手を取った。そうして相擁したまま、劉備は自分の気もちの
翌る朝――
まだ夜も白まぬうちに起きて、劉備は驢の背に水桶を結いつけ、自分ものって、
もちろん劉備が出かけた頃、彼の母も
母はその間に、
桑の大木の下を通って、裏へ出ると、牛のいない牛小屋があり、鶏のいない
だが、そこから百歩ほど歩くと這うような姿をした果樹が、背を並べて、何千坪かいちめんに揃っていた。それはみんな桃の樹であった。秋は葉も落ちて淋しいが、春の花のさかりには、この先の
「……オオ」
彼女は、ひとりでに出たような声をもらした。桃園の彼方から陽が昇りかけたのだ。金色の日輪は、密雲を噛み破るように、端だけ見えていた。今や何か尊いものがこの世に生れかけているような感銘を彼女もうけた。
「…………」
彼女は、ひざまずいて、三礼を
それから、
たくさんの落葉がちらかっている。桃園は村の共有なので、日ごろ誰も掃除などはしない。彼女も一部を掃いただけであった。
新しい
清掃した桃園に坐って、彼女は水を汲みに行った息子が、やがて鶏村から帰るのを、心静かに待っていた。
桃園の梢の
「わしは
彼女は、この一朝の満足をもって、死んでもいいような気がした。いやいや、そうでないとも思う。独り強くそう思う。
「あの子の
ふと彼方を見ると、その劉備の姿が近づいてきた。水を汲んで帰ってきたのである。驢にのって、驢の鞍に小さい桶を結いつけて。
「おお。おっ母さん」
桃園の小道をぬって、劉備は間もなくそこへきた。そして水桶をおろした。
「鶏村の水は、とてもいい水ですね。さだめし、これで茶を煮たらおいしいでしょう」
「ま。ご苦労だったね。鶏村の水のことはよく聞いているけれど、あそこはとても恐い谷間だというじゃないか。後でわたしはそれを心配していたよ」
「なあに、道なんかいくら
「黄金の水、洛陽のお茶、それにお前の孝心。王侯の母に生れてもこんないい思いにはめぐり会えないだろうよ」
「おっ母さん、お茶はどこへ置きましたか」
「そうそう、私だけがいただいてはすまないと思い、ご先祖のお仏壇へ上げておいたが」
「そうですか、盗まれたらたいへんです。すぐ取って参りましょう」
劉備は、家のほうへ馳けて、
母は、
劉備は、母がにわかに改まって自分の身なりを見ているので、
「どうしたのですかおっ母さん」
いぶかしげに訊いた。
母は、いつになく厳粛な
「
「はい。何ですか」
「お前の
「わたくしのですが」
「嘘をおいい。旅に出る前の物とはちがっている。お前の剣は、お父さんから
「……はい」
「はいではありません。片時でも肌身から離してはなりませぬぞと、わしからもくれぐれいってあるはずです。どうしたのだえ、あの大事な剣は」
「実は、その……」
劉備はさしうつ向いてしまった。
母の顔は、いよいよ峻厳に変っていた。劉備が口ごもっていると、なお追及して、
「まさか手放してしまったのではあるまいね」と念を押した。
劉備は、両手をつかえて、
「申しわけありません。実は旅から帰る途中、ある者に礼として与えてしまいましたので」
いうと、母は、「えっ、人に与えてしまったッて。――ま! あの剣を」と、顔いろを変えた。
劉備はそこで、黄巾賊の一群につかまって、人質になったことや、茶壺も剣も奪り上げられてしまったことや、それからようやく救われて、賊の群れから脱出してきたが、再び追いつかれて黄匪の重囲に陥ち、すでに斬り死しようとした時、
「賊に捕まった時も、張卒に助けられた時も、その折はもう何も要らないという気持になっていたんです。……けれど、この銘茶だけは、生命がけでも持って帰って、おっ母さんに上げたいと思っていました。剣を手放したのは申しわけありませんが、そんなわけで、この銘茶を、生命から二番目の物として、持ち帰ったのでございます」
「…………」
「剣は、先祖伝来の物で、大事な物には違いありませんが、
母の惜しがる気持をなだめるつもりで彼がそういうと、何思ったか劉備の母は、
「ああ――わしは、お前のお父様に申しわけがない。亡き良人に顔向けがなりません。――わたしは、子の育て方を
「何を仰っしゃるんです。おっ母さん! どうしてそんなことを」
母の心を酌みかねて、劉備がおろおろというと、母はやにわに、眼の前にあった
「
「何処へです。おっ母さん。……ど、どこへいらっしゃろうというんですか」
「…………」
彼の母は、答えもせず、劉備の腕くびを固くつかんだまま、桃園の果てへ馳けだして行った。そしてそこの
「あッ。何で?」
びっくりした劉備は、われを忘れて、母の
「おっ母さん! ……おっ母さん! ……一体、なにがお気にさわったのですか。なんで折角の茶を、河へ捨てておしまいになったんですか」
劉備の声は、ふるえていた。母によろこばれたいばかりに、百難の中を、生命がけで持ってきた茶であった。
母は、歓びの余りに、気が
「……何をいうのです。
母は、劉備の手を払った。
そして
「…………」
劉備は、きびしい母の眉に、思わず後ろへ退がった。生れてから初めて、母にも怖い姿があることを知った。
「阿備。お坐りなさい」
「……はい」
「お前が、わしを歓ばせるつもりで、はるばる苦労して持っておいでた茶を、河へ捨ててしもうた母の心がわかりますか」
「……わかりません。おっ母さん、
「いいえ!」
母は、つよく頭を振り、
「勘ちがいをおしでない。母は自分の気ままから叱るのではありません。――大事な剣を人手に渡すようなお前を育ててきたことを、わたしは母として、ご先祖にも、死んだお父さんにも、済まなく思うたからです」
「私が悪うございました」
「お黙りっ! ……そんな簡単に聞かれては、母の
母は、子を叱るために励ましているわれとわが声に泣いてしまって、
「……お忘れかえ、阿備。おまえのお父様も、お
「…………」
「だが、こんなことは、めったに口に出すことではない。なぜならば、今の
「…………」
「わたしは、そんな教育を、お前にした覚えはない。
「……はい」
「阿備。――その剣を人手に渡して、そなたは、生涯、蓆を織っている気か。剣よりも茶を大事にお思いか。……そんな
と、母は
母に打ちすえられたまま、劉備は身うごきもしなかった。
「すみません」
母の手をいたわるように、劉備はやがて、打つ手を抑えて、自分の額に、押しいただいた。
「わたくしの考え違いでございました。まったく玄徳の愚かがいたした落度でございます。仰っしゃる通り、玄徳もいつか、土民の中に貧窮しているため、心まで土民になりかけておりました」
「分かりましたか。阿備、そこへ気がつきましたか」
「ご
――するとそれまで、老いの手が
「おお! 阿備や! ……ではお前にも、一生土民で朽ち果てまいと思う気持はおありかえ。まだ忘れないで、わたしの言葉を、魂のなかにお持ちかえ」
「なんで忘れましょう。わたくしが忘れても景帝の玄孫であるこの血液が忘れるわけはありません」
「よう云いなすった。……阿備よ。それを聞いて母は安心しました。ゆるしておくれ、……ゆるしておくれよ」
「何をなさるんです。わが子へ手をついたりして、もったいない」
「いいえ。心まで落ちぶれ果てたかと、悲しみと怒りの余り、お前を打擲したりして」
「ご恩です。大愛です。今のご打擲は、わたくしにとって、真の勇気をふるいたたせる
「――ではお前は、何を思っても、この母が心配するのを怖れて、母が生きているうちはただ無事に暮していることばかり願っていたのだね。……ああ、そう聞けば、なおさらわたしのほうが済まない気がします」
「もう私も、肚がきまりました。――でなくても、今度の旅で、諸州の乱れやら、黄匪の惨害やら、地上の民の苦しみを、眼の痛むほど見てきたのです。おっ母さん、玄徳が今の世に生れ出たのは、天上の諸帝から、何か使命をうけて世に出たような気がされます」
彼が、真実の心を吐くと彼の母は、天地に黙祷をささげて、いつまでも、両の
しかし、この日の朝のことは、どこまでも、
劉備の家には、相変らず
土民の手あらの者が、職人として雇われてきて、日ごとに中庭の作業場で、
変ったことといえば、それくらいなもので、家の
すると、浅春の
白い
誰か、のっそりと、無断で家の横から中庭へはいってきた。
劉備は、母と二人で、蓆を織っていた。無断といっても、土塀は崩れたままだし、門はないし、通り抜けられても、
「……おや?」
振向いた
「ご精が出るのう」
老人は、なれなれしい。
「お爺さん、どこから来なすったね。たいそう毛のいい山羊だな」
いつまでも黙っているので、かえって劉備から口を切ってやると、老人はさもさも何か感じたように、独りで首を振りながら云った。
「息子さんかの。このお方は」
「はい」と、母が答えると、
「よい子を生みなすったな、わしの山羊も自慢だが、この息子にはかなわない」
「お爺さんは、この山羊をひいて、城内の
「なあに、この山羊は、売れない。誰にだって、売れないさ。わしの息子だものな。わしの売物は酒じゃよ。だが道中で
「では、せっかく遠くから来て、おかねにも換えられずに帰るんですか」
「帰ろうと思って、ここまで来たら、偉い物を見たよわしは」
「なんですか」
「お宅の桑の樹さ」
「ああ、あれですか」
「今まで、何千人、いや何万人となく、村を通る人々が、あの樹を見たろうが、誰もなんともいった者はいないかね」
「べつに……」
「そうかなあ」
「珍しい樹だ、桑でこんな大木はないとは、誰もみないいますが」
「じゃあ、わしが告げよう。あの樹は、
「お爺さんは、易者かね」
「わしは、
「羊仙さま。じゃあ世間の人は、あなたを仙人と思っているので?」
「はははは。迷惑なはなしさ。何しろきょうはよろこばしい人とはなし、珍しい霊木を見た。この子のおっ母さん」
「はい」
「この山羊を、お祝いに献上しよう」
「えっ?」
「おそらく、この子は、自分の誕生日も、祝われたことはあるまい。だが、今度は祝ってやんなさい。この
初めは、戯れであろうと、半ば笑いながら聞いていたところ、羊仙はほんとに山羊を置いて、立ち去ってしまった。
驚いて、桑の下まで馳けだし、往来を見まわしたが、もう姿は見えなかった。
けれど、その水にも、詩を
「おっ母さん、行ってきますよ」
「ああ、行っておいで」
「なにか城内からおいしい物でも買ってきましょうかね」
劉備は、家を出た。
いつか羊仙のおいて行った山羊がよく馴れて、劉備の後についてくるのを、母が後ろで呼び返していた。
城内は、
雨が久しくなかったので、
「蓮根は、母の持病に悪いのじゃないか」と、取換えに戻ろうかと迷っていた。
がやがやと沢山な人が辻に集まっている。いつもそこは、
「何だろ?」
彼も、好奇にかられて、人々のあいだから
見ると――
今にして、鬼賊を
欣然、各子の武勇に依って、府に迎えん。

「兵隊を
「ああ、兵隊か」
「どうだ、志願して行って、ひと働きしては」
「おれなどはだめだ。武勇もなにもない。ほかの能もないし」
「誰だって、そう能のある者ばかり集まるものか。こう書かなくては、勇ましくないからだよ」
「なるほど」
「
ひとりがつぶやいて去ると、そのつぶやきに決心を固めたように、二人去り、三人去り、皆、城門の役所のほうへ力のある足で急いで行った。
「…………」
劉備は、時勢の
――が。蓮根の菓子を手に持ったまま、いつまでも、考えていた。誰もいなくなるまで、高札と睨み合って考えていた。
「……ああ」
気がついて、間がわるそうに、そこから離れかけた。すると、誰か、
「若人。待ち給え」
と、呼んだ者があった。
さっきから楊柳の下に腰かけて、
自分の容子を、横目ででも見ていたのだろうか、二、三歩、高札から足を退けると、
「貴公、それを読んだか」
片手に、
楊柳の幹より大きな肩幅を、後ろ向きに見ていただけであったが、立上がったのを見ると、実に見上げるばかりの偉丈夫であった。突然、山が立ったように見えた。
「……私ですか」
劉備はさらに改めて、その人を見なおした。
「うむ。貴公よりほかに、もう誰もいないじゃないか」
声も年頃も、劉備と幾つも違うまいと思われたが、偉丈夫は、髪から
「――読みました」
劉備の答えは
「どう読んだな、貴公は」と、彼の問いは深刻で、その眼は、
「さあ?」
「まだ考えておるのか。あんなに長い間、高札と睨み合っていながら」
「ここで語るのを好みません」
「おもしろい」
偉丈夫は、酒売りへ、銭と
「ここで語るのを好みません……いや愉快だ。その言葉に、おれは真実を聴く。さ、何処かへ行こう」
劉備は困ったが、「とにかく歩きましょう。ここは人目の多い市ですから」
「よし歩こう」
偉丈夫は、
「あの
「よいでしょう」
偉丈夫の指さすところは町はずれの楊柳の多い池のほとりだった。虹をかけたような石橋がある。そこから先は
学者は、それでも根気よく、石橋に立って道を説いたが、市の住民や童は、(気狂いだ)と、耳もかさない。それのみか、
学者は、いつのまにか、ほんとの狂人になってしまったとみえ、ついには、あらぬ事を絶叫して、学苑の中をさまよっていたが、そのうちに蓮池の中に、あわれ死体となって浮び上がった。
そういう遺蹟であった。
「ここはいい。掛け給え」
偉丈夫は、虹橋の
劉備は、ここまで来る間に、偉丈夫の人物をほぼ観ていた。そして、(この人間は
「時に、失礼ですが、尊名から先に承りたいものです。私はここからほど遠くない楼桑村の住人で、劉備玄徳という者ですが」
すると偉丈夫は、いきなり劉備の肩を打って、「好漢。それはもう聞いておるじゃないか。この方の名だって、よくご承知のはずだが」といった。
「えっ? ……私も以前からご存じの方ですって」
「お忘れかな。ははは」
偉丈夫は、肩をゆすぶって、
「――無理もない。頬の刀傷で、容貌も少し変った。それにここ三、四年はつぶさに浪人の辛酸をなめたからなあ。貴公とお目にかかった頃には、まだこの黒髯もたくわえてなかった時じゃ」
そういわれても、劉備はまだ思い出せなかったが、ふと、偉丈夫の腰に
「おお、恩人! 思い出しました。あなたは数年前、私が黄河から

「そうだ」
張飛はいきなり腕をのばして、劉備の手を握りしめた。その手は鉄のようで、劉備の
「よく覚えていて下された。いかにもその折の張飛でござる。かくの如く、髯をたくわえ、容貌を変えているのも、以来、志を得ずに、世の裏に潜んでおるがためです。――で実は、貴公に分るかどうか試してみたわけで、最前からの無礼はどうかゆるされい。」
偉丈夫に似あわず、礼には
すると劉備は、より以上、
「豪傑。失礼はむしろ私のほうこそ咎めらるべきです。恩人のあなたを見忘れるなどということは、たとえいかに当時とお変りになっているにせよ、相済まないことです。どうか、劉備の罪はおゆるし下さい」
「やあ、ご鄭重で恐れいる。ではまあ、お互いとしておこう」
「時に、豪傑。あなたは今、この県城の
「いや、話せば長いことになるが、いつかも打明け申した通り、どうかして黄巾賊に奪われた主家の県城を取返さんものと、民間にかくれては兵を

「そうですか。少しも知りませんでした。そんなことなら、なぜ楼桑村の私の家を訪ねてくれなかったのですか」
「いや、いつかは一度、お目にかかりに参る心ではいたが、その折には、ぜひ尊公に、うんと承知してもらいたいことがあるので――その準備がまだこっちにできていないからだ」
「この劉備に、お頼みとは、いったい何事ですか」
「劉君」
張飛は、鏡のような眼をした。らんらんとそのなかに胸中の
「尊公は今日、市で県城の布令を読まれたであろう」
「うむ。あの高札ですか」
「あれを見て、どう思われましたか。黄匪討伐の兵を募るという文を見て――」
「べつに、どうといって、なんの感じもありません」
「ない?」
張飛は、斬りこむような語気でいった。明らかに、激怒の血を、顔にうごかしてである。
けれど劉備は、
「はい。何も思いません。なぜなら、私には、ひとりの母がありますから。――従って、兵隊に出ようとは思いませんから」
水のように冷静にいった。
秋かぜが橋の下を吹く。
虹橋の下には、
びらっと、色羽の
「嘘だっ」
張飛は、静かな話し相手へ、いきなり呶鳴って、腰かけていた橋の石欄から突っ立った。
「劉君。貴公は、本心を人に秘して、この張飛へも、深くつつんでおられるな。いや、そうだ。張飛をご信用なさらぬのだ」
「本心? ……私の本心は今いった通りです。なにを、あなたにつつむものか」
「しからば貴公は、今の天下を眺めて、なんの感じも抱かれないのか」
「黄匪の害は見ていますが、小さい
「人は知らず、張飛にそんなことを仰っしゃっても、張飛はあなたを、ただの土民と見ることはできぬ。打明けて下さい。張飛も武士です。他言は断じて致さぬ
「困りましたな」
「どうしても」
「お答えのしようがありません」
「ああ――」
「お覚えがあるでしょう」と、
「これはいつか、貴公から礼にと手前へ賜わった剣です。また、私から所望した剣であった。――だが不肖は、いつか尊公に再び巡り合ったら、この品は、お手もとへ返そうと思っていた。なぜならば、これは張飛の如き
「…………」
「血しぶく戦場で、――また、
「…………」
「劉君、
「…………」
「一
「…………」
「いや、剣は、剣を持つ者へ訴えていうのだ。いつまで、わが身を、
「……あっ」
劉備も思わず石欄から腰を立てた。――止める間はなかった。張飛は、剣を払って、ぴゅっと、秋風を斬った。正しく、剣の声が走った。しかもその声は、劉備の
「君聞かずや!」
張飛は、いいながら、またも一振り二振りと、虚空に剣光を描いて、
「何の声か。そも」と、叫んだ。
そしてなおも、答えのない劉備を見ると、もどかしく思ったのか、橋の石欄へ片足を踏みかけて、枯蓮の池を望みながら独り云った。
「
あなや、剣は、虹橋の下に投げ捨てられようとした。劉備は驚いて、走り寄るなり彼の腕を支え、「豪傑待ち給え」と、叫んだ。
張飛はもとより折角の名剣を泥池に捨ててしまうのは本意ではないから、止められたのを幸いに、
「何か?」と、わざと身を
「まず、お待ちなさい」
劉備は言葉しずかに、張飛の悲壮な顔いろをなだめて、
「真の勇者は
「おっ。……では」
「風にも耳、水にも眼、大事は路傍では語れません。けれど自分は何をつつもう、漢の
「豪傑。これ以上、もう多言は吐く必要はないでしょう。折を見てまた会いましょう。きょうは市へきた出先で、遅くなると母も案じますから――」
張飛は獅子首を突きだして、噛みつきそうな眼をしたまま、いつまでも無言だった。これは感きわまった時にやるかれの癖なのである。それからやがて唸るような息を吐いて、大きな胸をそらしたと思うと、
「そうだったのか! やはりこの張飛の眼には誤りはなかった! いやいつか古塔の上から跳び降りて死んだかの老僧のいったことが、今思いあたる。……ウウム、あなたは景帝の
独りしてそう
「謹んで、剣は、尊手へおかえしします。これはもともと、やつがれなどの身に
劉備は、手を伸ばした。
何か、おごそかな姿だった。
「
剣は、彼の手にかえった。
張飛は、いく度も、拝姿の礼を、くり返して、
「では、そのうちに、きっと楼桑村へ、お訪ねして参るぞ」
「おお、いつでも」
劉備は、今まで佩いていた剣と佩きかえて、前の物は、張飛へ戻した。それは張飛に救われた数年前に、取換えた物だったからである。
「日が暮れかけてきましたな。じゃあ、いずれまた」
夕闇の中を、劉備は先に、足を早めて別れ去った。風にふかれて行く水色の服は汚れていたが、剣は眼に見える
「体に持っている気品というものは争えぬものだ。どこか貴公子の風がある」
張飛は見送りながら、独り虹橋の上に立ち暮れていたが、やがてわれにかえった顔をして、
「そうだ、
城壁の望楼で、今しがた、
張飛は一度、市の辻へ帰った。そして昼間ひろげていた
「やあ、遅かったか」
城内の街から城外へ通じるそこの関門は、もう閉まっていた。
「おうい、開けてくれっ」
張飛は、望楼を仰いで、駄々っ子のようにどなった。
関門のかたわらの小さい兵舎から五、六人ぞろぞろ出てきた。とほうもない馬鹿者に訪れられたように、からかい半分に叱りとばした。
「こらっ。なにをわめいておるか。関門が閉まったからには、
「毎日、城内の市へ、猪の肉を売りに出ておる者だが」
「なるほど、こやつは肉売りだ。なんで今頃、寝ぼけて関門へやってきたのか」
「用が遅れて、閉門の時刻までに、帰りそびれてしまったのだ。開けてくれ」
「正気か」
「酔うてはいない」
「ははは。こいつ酔っぱらっているに違いない。三べんまわってお辞儀をしろ」
「なに」
「三度ぐるりと廻って、俺たちを三拝したら通してやる」
「そんなことはできぬが、このとおりお辞儀はする。さあ、開けてくれ」
「帰れ帰れ。何百ぺん頭を下げても、通すわけにはゆかん。市の軒下へでも寝て、あした通れ」
「あした通っていいくらいなら頼みはせん。通さぬとあれば、汝らをふみつぶして、城壁を躍り越えてゆくがいいか」
「こいつが……」と、呆れて、
「いくら酒の上にいたせ、よいほどに引っ込まぬと、
「では、どうしても、通さぬというか。おれに頭を下げさせておきながら」
張飛は、そこらを見廻した。酔いどれとは思いながら、雲つくような
「こらっ。どこへ行く」
ひとりは、張飛の腰の
張飛は、髯の中から、白い歯を見せて、人なつこい笑い方をした。
「いいじゃないか。
そしてたずさえている猪の肉の
「これをやろう。貴公らの身分では、めったに肉も喰らえまい。これで寝酒でもやったほうが、俺になぐり殺されるより遥かにましじゃろうが」
「こいつが、いわしておけば――」
また一人、組みついた。
張飛は、猪の股を振り上げて、突きだしてくる槍を束にして払い落した。そして自分の腰と首に組みついている二人の兵は、蠅でもたかっているように、そのまま振りのけもせず、二丈余の鉄梯子を馳け登って行った。
「や、やっ」
「
「関門破りだっ」
「出合え。出合えっ」
狼狽して、わめき合う人影のうえに、城壁の上から、二箇の人間が飛んできた。もちろん、投げ落された人間も
物音に、望楼の守兵と、役人らが出て見た時は、張飛はもう、二丈余の城壁から、関外の大地へとび降りていた。
「
「間諜だ」
五、六里も来ると、一条の河があった。
楊柳に囲まれた寺院がある。塀にそって張飛は大股に曲がって行った。すると大きな
「おういっ。もう寝たのか。
張飛は、烈しく、奥の家の扉をたたいた。すると横の窓に、うすい灯がさした。
「だれだ」
「それがしだ」
「張飛か」
「おう、雲長」
窓の灯が、中の人影といっしょに消えた。間もなく、たたずんでいる張飛の前の扉がひらかれた。
「何用だ。今頃――」
手燭に照らされてその人の
智的といえば、額もひろい。眼は
「いや、夜中とは思ったが、一刻もはやく、尊公にも聞かせたいと思って――よろこびを
張飛のことばに、
「また、それを
「ばかをいえ。それがしを、そう飲んだくれとばかり思うているから困る。平常の酒は、
「ははははは。まあ入れ」
暗い廊を歩いて、一室へ二人はかくれた。その部屋の壁には、孔子やその弟子たちの聖賢の図がかかっていた。また、たくさんな机が置いてあった。門柱に見えるとおり、童学草舎は村の寺子屋であり、
「雲長――いつも話の上でばかり語っていたことだが、俺たちの夢がどうやらだんだん夢ではなく、現実になってきたらしいぞ。実はきょう、前からも心がけていたが――かねて尊公にもはなしていた
「相かわらずだのう」
「だって」と、雲長はまた笑い、「これから楼桑村へゆけば、
せっかく、一刻もはやくよろこんでもらおうと思ってきたのに、案外、雲長が気のない返辞なので、
「ははあ。雲長。尊公はまだそれがしの話を、半信半疑で聞いておるんじゃないか。それで、渋ッたい
「ははははは。やり返したな。しかしおれは考えるな。なんといわれても、もっと熟慮してみなければ、うかつに、景帝の玄孫などという男には会えんよ。――世間に、よくあるやつだから」
「そら、その通り、拙者の言を疑っておるのではないか」
「疑ぐるのが常識で、疑わない貴公が元来、生一本のばか正直というものじゃ」
「聞き捨てにならんことをいう。おれがどうしてばか正直か」
「ふだんの生活でも、のべつ人に
「おれはそんなに人に騙されたおぼえはない」
「騙されても、騙されたと覚らぬほど、尊公はお人が好いのだ。それだけの武勇をもちながら、いつも生活に困って、窮迫したり流浪したり、皆、尊公の浅慮がいたすところである。その上、短気ときているので、怒ると、途方もない暴をやる。だから張飛は悪いやつだと反対な誤解をまねいたりする。すこし反省せねばいかん」
「おい雲長。拙者は今夜、なにも貴公の
「だが、貴公とわしとは、かねて、お互いの大志を打明け、義兄弟の約束をし、わしは兄、貴公は弟と、固く心を結び合った仲だ。――だから弟の短所を見ると、兄たるわしは、憂えずにはいられない。まして、秘密の上にも秘密にすべき大事は、世間へ出て、二度や三度会ったばかりの
雲長は、劉備の家を訪問するなどもってのほかだといわぬばかりなのである。彼は、張飛にとって、いわゆる義兄弟の義兄ではあるし、物分りもすぐれているので、話が、理になってくると、いつも頭は上がらないのであった。
出ばなをくじかれたので、張飛はすっかり
「いや、今夜は飲まん」
と、張飛はすっかり無口になって、その晩は、雲長の家で寝てしまった。
夜が明けると、学舎に通う村童が、わいわいと集まってきた。雲長は、よく子供らにも
「また、そのうちに来るよ」
学舎の窓から雲長へいって、張飛は黙々とどこかへ出て行った。
むっとして、張飛は、雲長の家の門を出た。門を出ると、振向いて、
「ちぇっ。なんていう煮え切らない
楽しまない顔色は、それでも
「おいっ、酒をくれい」
朝の空き腹に、
やや気色が晴れてきたとみえて居酒屋の亭主に、
「おやじ、お前んとこの
「旦那、召しあがるなら、毛をむしって、丸揚げにしましょう」
「そうか。そうしてくれればなおいいな。あまり鶏めが慕ってくるから、
「生肉をやると腹に虫がわきますよ、旦那」
「ばかをいえ。
「ヘエ。そうですか」
「体熱が高いからだ。すべて低温動物ほど寄生虫の巣だ。国にしてもそうだろう」
「へい」
「おや、鶏がいなくなった。おやじもう釜へ入れたのか」
「いえ。お代さえいただけば、揚げてあるやつを直ぐお出しいたしますが」
「銭はない」
「ごじょうだんを」
「ほんとだよ」
「では、お酒のお代のほうは」
「この先の寺の横丁を曲がると、童学草舎という寺子屋があるだろう。あの雲長のとこへ行って貰ってこい」
「弱りましたなあ」
「なにが弱る。雲長という
亭主は、如才なく、彼をなだめておいて、その間に、女房を裏口からどこかへ走らせた。雲長の家へ問合せにやったものとみえる。間もなく、帰ってきて何かささやくと、
「そうかい。じゃあ飲ませても間違いあるまい」
おやじはにわかに、態度を変えて、張飛の飲みたい放題に、酒をつぎ鶏の丸揚げも出した。
張飛は、丸揚げを見ると、
「こんな、鶏の
と、そこらにいる鶏をとらえようとして、往来まで追って行った。
鶏は羽ばたきして、彼の肩を跳び越えたり、彼の危うげな股をくぐって、逃げ廻ったりした。
すると、しきりに、村の軒並を物色してきた捕吏が、張飛のすがたを認めると、
「あいつだ。ゆうべ関門を破った上、衛兵を殺して逃げた賊は。――要心してかかれ」
張飛は、その声に、
「何だろ?」と、いぶかるように、あたりを酔眼で見まわした。一羽の若鶏が彼の手に脚をつかまえられて、けたたましく啼いたり羽ばたきをうっていた。
「賊っ」
「
「神妙に縄にかかれ」
捕吏と兵隊に取囲まれて、張飛ははじめて、おれのことかと気づいたような面もちだった。
「何か用か」
まわりの槍を見まわしながら、張飛は、若鶏の脚を引っ裂いて、その股の肉を横にくわえた。
酔うと酒くせのよくない張飛であった。それといたずらに
「なに? ……おれを捕まえにきたと。……わははははは。あべこべに取っつかまって、この通りになるなよ」
裂いた鶏を、眼の高さに、上げて示しながら、張飛は取囲む捕吏と兵隊を
捕吏は怒って、
「それっ、酔どれに、愚図愚図いわすな。突き殺してもかまわん。かかれっ」と、呶号した。
だが、兵隊たちは、近寄れなかった。槍ぶすまを並べたまま、彼の周囲を巡りまわったのみだった。
張飛は、変な腰つきをして、犬みたいにつく
「さあ、大きな鶏どもめ、一羽一羽、ひねりつぶすから逃げるなよ」
張飛はいった。
彼の頭にはまだ鶏を追いかけ廻している
大きな鶏どもは呆れかつ怒り
「野郎っ」と、
「やったな」
槍を引ったくると、張飛はそれで、
叩かれた捕吏や兵隊も、はじめて死にもの狂いになり始めた。張飛は、面倒といいながら槍を虚空へ投げた。虚空へ飛んだ槍は、唸りを起したままどこまで飛んで行ったか、なにしろその附近には落ちてこなかった。
鶏の悲鳴以上な
居酒屋のおやじ、居合せた客、それから往来の者や、附近の人たちは皆、家の中や木蔭にひそんで、どうなることかと、息をころしていたが、余りにそこが、急に墓場のような
首を払われた死骸、血へどを吐いた死骸、眼のとびだしている死骸などが、惨として、太陽の
半分は、逃げたのだろう。捕吏も兵隊も、誰もいない。
張飛は?
と見ると、これはまた、悠長なのだ。村はずれのほうへ、後ろ姿を見せて、
その
「たいへんだ。おい、はやくこのことを、雲長先生の家へ知らせてこい。あの
居酒屋のおやじは、自分のおかみさんへ
母と子は、仕事の庭に、きょうも他念なく、
がたん……
ことん
がたん
水車の
だが、その音にも、きょうはなんとなく活気があり、歓喜の
黙々、仕事に精だしてはいるが、母の胸にも、
ゆうべ。
劉備は、城内の市から帰ってくると、まっ先に、二つの吉事を告げた。
一人の良き友に出会った事と、かねて手放した家宝の剣が、計らず再び、自分の手へ返ってきた事と。
そう二つの歓びを告げると、彼の母は、
「一
と、かえって静かに声を低め、劉備の覚悟を
時節。……そうだ。
長い長い冬を経て、桃園の花もようやく
がたん……
ことん……
――我は青年なり。
空へ向って言いたいような気持である。いやいや、老いたる母の肩にさえ、どこからか舞ってきた桃花の
すると、どこかで、歌う者があった。十二、三歳の少女の声だった。
花ヲ折ッテ門前ニ
少女の美音は、近づいてきた。
……十四君 ノ婦ト為 ッテ
羞顔 未 ダ嘗 テ開カズ
十五初メテ眉 を展 ベ
願ワクバ塵 ト灰トヲ共ニセン
常ニ抱柱 ノ信ヲ存 シ
豈 上 ランヤ望夫台
十六君 遠クヘ行ク
近所に住む少女であった。早熟な彼女はまだ青い十五初メテ
願ワクバ
常ニ
十六
「…………」
劉備は、木蓮の花に
そしてふと、自分の心の底からも一人の麗人を思い出していた。それは、三年前の旅行中、古塔の下であの折の老僧にひき合わされた
――どうしたろう。あれから先。
張飛に訊けば、知っている筈である。こんど張飛に会ったら――など独り考えていた。
すると、
少女は、犬に
自分のうしろに、この辺で見たこともない、剣を
「おい、小娘、劉備の家はどこだな」と、訊ねたのだった。
けれど、少女は、振向いてその
「あははは。わははは」
髯漢は、小娘の驚きを、滑稽に感じたのか、独りして笑っていた。
その笑い声が止むと一緒に、後ろの
墻といっても
だから、背の高い張飛は、首から上が、生垣の上に出ていた。劉備の庭からもそれが見えた。
ふたりは顔を見合って、
「おう」
「やあ」
と、十年の知己のように呼び合った。
「なんだ、ここか」
張飛は、外から木戸口を見つけてはいって来た。ずしずしと地が鳴った。劉家はじまって以来、こんな大きな跫音が、この家の庭を踏んだのは初めてだろう。
「きのうは失礼しました。君に会ったことや、剣のことを、母に話したところ、母もゆうべは歓んで、夜もすがら希望に
「あ。こちらが貴公の
「そうです。――母上、このお方です。きのうお目にかかった
「オオ」
劉備の母は、
また、実際、劉備の母にはおのずから備わっている名門の気品があったのであろう。世の常の甘い母親のように、息子の友達だからといって、やたらに小腰をかがめたりチヤホヤはしなかった。
「劉備からおはなしは聞きました。失礼ですが、お見うけ申すからに頼もしい偉丈夫。どうか、柔弱なわたしの一子を、これから
「はっ」
張飛は、自然どうしても、頭を下げずにはいられなかった。
「母公。安心して下さい。きっと男児の素志をつらぬいて見せます。――けれどここに、遺憾なことが一つ起りました。で、実はご子息に相談に来たわけですが」
「では、男同士のはなし、わたくしは部屋へ行っていましょう。ゆるりとおはなしなさい」
母は、奥へかくれた。
張飛は、その後の
雲長も、自分が見込んだ
のみならず、景帝の
「残念でたまらない。雲長めは、そういって疑うのだ。……ご足労だが、貴公、これから拙者と共に、彼の住居まで行ってくれまいか。貴公という人間を見せたら、彼も恐らくこの張飛の言を信じるだろうと思うから――」
張飛は、疑いが嫌いだ。疑われることはなお嫌いだ。雲長が、自分の言を信じてくれないのが、心外でならないのである。
だから劉備を連れて行って、その人物を実際に示してやろう――こう考えたのも張飛らしい考えであった。
しかし、劉備は、「……さあ?」と、いって、考えこんだ。
信じない者へ、
すると、廊のほうから、
「劉備。行っておいでなさい」
彼の母がいった。
母は、やはり心配になるとみえて、
もっとも、張飛の声は、この家の中なら、どこにいても聞えるほど大きかった。
「やあ、お許し下さるか。母公のおゆるしが出たからには、劉君、何もためらうことはあるまい」
促すと、母も共に、「時機というものは、その時をのがしたら、またいつ
劉備は、母のことばに、
「では、参ろう」と決心の腰を上げた。
二人は並んで、廊のほうへ、
「では、行ってきます」
礼をして、
すると、道の彼方から、約百人ほどの軍隊が、まっしぐらに馳けてきた。騎馬もあり徒歩の兵もあった。
「あ……、また来た」
張飛のつぶやきに、劉備はいぶかって、
「なんです、あれは」
「城内の兵だろう」
「関門の兵らしいですね。何事があったのでしょう」
「たぶん、この張飛を、召捕らえにきたのかも知れん」
「え?」
劉備は、驚きを
「では、こっちへむかって来る軍隊ですか」
「そうだ。もう疑いない。劉君、あれをちょっと片づける間、貴公はどこかに休んで見物していてくれないか」
「弱りましたな」
「なに、大したことはない」
「でも、州郡の兵隊を
云っている間に、もう百余名の州郡の兵は張飛と劉備を包囲してわいわい騒ぎだした。
だが、容易に手は下してはこなかった。張飛の武力を二度まで知っているからであろう。けれど二人は一歩もあるくことはできなかった。
「邪魔すると、蹴殺すぞ」
張飛は、一方へこう呶鳴って歩きかけた。わっと兵は
「面倒っ」
またしても、張飛は持ち前の短気を出して、すぐ剣の
――すると、彼方から一頭の
「待てっ、待てえ」
と呼ばわりながら馳けてくる者があった。州郡の兵も、張飛も、何気なく眼をそれへはせて振向くと、胸まである
それは、雲長であった。
「待て諸君」
乗りつけてきた鹿毛の鞍から跳び降りると、雲長は、兵の中へ割って入り、そこに囲まれている張飛と劉備を後ろにして、大手をひろげながらいった。
「貴公らは、関門を守備する領主の兵と見うけるが、五十や百の小人数をもって、一体なにをなさろうとするのか。――この
「まず五百か千の人数をそろえてきて、半分以上の

雲長は、実に雄弁だった。一息にここまで演説して、まったく相手の気をのんでしまい、さらに語をついでいった。
「――こういったら諸公は、わしを何者ぞと疑い、また、巧みに張飛を逃がすのではないかと、疑心を抱くであろうが、さに
雲長は、
そして、
「ここな不届き者っ」
と、鯨の
張飛は、むかっとしたような眼をしたが、雲長はさらに、
「
張飛は、雲長の心を疑いかけたが、より以上、雲長の人物を信じる心のほうが強かった。
で――何か考えがあることだろうと、神妙に縄を受けて、大地へ坐ってしまった。
「見たか、諸公」
雲長は再び、呆っ気にとられている捕吏や兵の顔を見まわして、
「張飛は、後刻、それがしが県城へ直接参って渡すから、諸公は先へここを引揚げられい。それともなお、この雲長を怪しみ、それがしの言葉を疑うならば、ぜひもない、縄を解いて、この猛虎を、諸公の中へ放つが、どうだ」
いうと、捕吏も兵も、逃げ足早く、物もいわず皆、退却してしまった。
誰もいなくなると、雲長はすぐ張飛の縄を解いて、
「よく俺を信じて、神妙にしていてくれた。事なく助ける策謀のためとはいえ、貴様を手にかけた罪はゆるしてくれ」
詫びると、張飛も、
「それどころではない。また無益の
怪しんで問うと、
「張飛。なにをとぼけたことをいう。それでは昨夜、あんなに熱をこめて、時節到来だ、良き盟友をえた、いざ、かねての約束を、実行にかかろうといったのは、嘘だったのか」
「嘘ではないが、大体、尊兄が不賛成だったろう。俺のいうこと何ひとつ、信じてくれなかったじゃないか」
「それは、あの場のことだ。召使いもいる、女どももいる。貴様のはなしは、秘密秘密といいながら、あの大声だ。洩れてはならない――そう考えたから一応冷淡に聞いていたのだ」
「なんだ、それなら、尊兄もわしの言葉を信じ、かねての計画へ乗りだす
「おぬしの言葉よりも、実は、相手が楼桑村の劉備どのと聞いたので、即座に心はきめていたのだ。かねがね、わしの村まで孝子という噂の聞えている劉備どの、それによそながら、ご素姓や平常のことなども、ひそかに調べていたので」
「人が悪いな。どうも尊兄は、智謀を
「ははは。貴様から交際いにくいといわれようとは思わなかった。人を殺し、酒屋を飲みたおし、その
「もう行ったか」
「酒屋の勘定ぐらいならよいが、官の
「なるほど」
「
「いや、済まん」
「しかし、これはむしろ、よい
「いや。劉備どのなら、そこにいる」
「え? ……」
雲長は、張飛の指さす所へ、眼を振り向けた。
劉備は最前から、少し離れた所に立っていた。そして、張飛と雲長との二人の仲の
「あなたが劉備様ですか」
雲長は、近づいて行くと、彼の足もとへ最初から膝を折って、
「初めてお目にかかります。自分は
と、最高な礼儀をとって、
劉備はあえて、
「ご丁寧に。……どうも申し遅れました。私は、楼桑村に永らく住む百姓の劉玄徳という者ですが、かねて、
と、誘えば、
「おお、お供しよう」
関羽も歩み、張飛も肩を並べ、共にそこからほど近い劉備の家まで行った。
劉備の母は、また新しい客がふえたので、不審がったが、張飛から紹介されて、関羽の人物を見、よろこびを現して、
「ようぞ、
その晩は、母もまじって、夜更けまで語った。劉備の母は、劉家の古い歴史を、覚えている限り話した。
生れてからまだ劉備さえ聞いていない話もあった。
(いよいよ漢室のながれを汲んだ
張飛も、関羽も、今は少しの疑いも抱かなかった。
同時に、この人こそ、義挙の盟主になすべきであると肚にきめていた。
しかし、劉玄徳の母親思いのことは知っているので、この母親が、
(そんな危ない
と、断られたらそれまでになる。関羽は、それを考えて、ぼつぼつと母の胸をたずねてみた。
すると劉備の母は、みなまで聞かないうちにいった。
「ねえ劉や、今夜はもうおそいから、おまえも寝み、お客様にも
それを聞いて、関羽は、この母親の胸を問うなど
劉備は、
「では、お言葉に甘えて、明日はおっ母さんに、一世一代の祝いを
「では、ちょうど今は、桃園の花が真盛りだから、桃園の中に
張飛は手を打って、
「それはいい。では吾々も、あしたは朝から桃園を
と、いった。
客の二人に
厨の
桃園へ行ってみると、関羽と張飛のふたりは、近所の男を雇ってきて、園内の中央に、もう祭壇を作っていた。
壇の四方には、
「やあ、おはよう」
「おお、お目ざめか」
張飛、関羽は、振向いた。
「見事に祭壇ができましたなあ。寝る間はなかったでしょう」
「いや、張飛が、興奮して、寝てから話しかけるので、ちっとも眠る間はありませんでしたよ」
と、関羽は笑った。
張飛は劉備のそばへきて、
「祭壇だけは立派にできたが、酒はあるだろうか」
心配して訊ねた。
「いや、母が何とかしてくれるそうです。今日は、一生一度の祝いだといっていますから」
「そうか、それで安心した。しかし劉兄、いいおっ母さんだな。ゆうべからそばで見ていても、
「そうです。自分で自分の母を褒めるのもへんですが、子に優しく世に強い母です」
「気品がある、どこか」
「失礼だが、劉兄には、まだ
「ありません」
「はやくひとり
「…………」
劉備は、そんなことを訊かれたので、またふと、忘れていた
で、つい答えを忘れて、何となく眼をあげると、眼の前へ、白桃の花びらが、
「劉備や。皆さんも、もうお支度はよろしいのですか」
厨に見えなかった母が、いつの間にか、三名の後ろにきて告げた。
三名が、いつでもと答えると、母はまた、いそいそと
近隣の人手を借りてきたのであろう。きのう張飛の姿を見て、きゃっと
やがて、まず一人では持てないような
それから豚の仔を丸ごと油で煮たのや、山羊の吸物の鍋や、
劉備さえ、心のうちで、
「これは一体、どうしたことだろう」と、母の算段を心配していた。
そのうちにまた、村長の家から、
「大饗宴だな」
張飛は、子どものように、歓喜した。
準備ができると、手伝いの者は皆、母屋へ退がってしまった。
三名は、
「では」
と、眼を見合せて、祭壇の前の
「われらの大望を成就させ給え」
と、祈念しかけると、関羽が、
「ご両所。少し待ってくれ」
と、なにか改まっていった。
「ここの祭壇の前に坐ると同時に、自分はふと、こんな考えを呼び起されたが、両公の所存はどんなものだろうか」
関羽は、そう云いだして、劉備と張飛へ、こう相談した。
すべて物事は、
偶然、自分たち三人は、その精神において、
今は、小なる三人ではあるが、理想は遠大である。三体一心の体を整えおくべきではあるまいか。
事の中途で、仲間割れなど、よくある例である。そういう結果へ到達させてはならない。神のみ
関羽の説くところは、道理であったが、さてどういう体を備えるかとなると、張飛にも劉備にもさし当ってなんの考えもなかった。
関羽は、語をつづけて、
「まだ兵はおろか、兵器も金も一頭の馬すら持たないが、三名でも、ここで義盟を結べば、即座に一つの軍である。軍には将がなければならず、武士には主君がなければならぬ。行動の中心に正義と報国を奉じ、個々の中心に、主君を持たないでは、それは徒党の乱に終り、
訊くと、張飛も、手を打って、
「いや、それは拙者も考えていたところだ。いかにも、
「玄徳様、ふたりの熱望です。ご承知くださるまいか」
左右から詰めよられて、劉備玄徳は、黙然と考えていたが、
「待って下さい」
と、二人の意気ごみを
「なるほど、自分は漢の宗室のゆかりの者で、そうした系図からいえば、主たる位置に坐るべきでしょうが、生来鈍愚、久しく

「待ってくれと仰っしゃるのは」
「実際に当って、徳を積み、身を修め、果たして主君となるの資才がありや否や、それを自身もあなたたちも見届けてから約束しても、遅くないと思われますから」
「いや。それはもう、われわれが見届けてあるところです」
「
「うむ」
関羽は、長い髯を持って、自分の顔を引っぱるように大きくうなずいた。
「結構だ。張飛、おぬしは」
「異論はない」
改めて三名は、祭壇へ向って牛血と酒をそそぎ、ぬかずいて、天地の
年齢からいえば、関羽がいちばん年上であり、次が劉備、その次が張飛という順になるのであるが、義約のうえの義兄弟だから年順をふむ必要はないとあって、「長兄には、どうか、あなたがなって下さい。それでないと、張飛の我ままにも、おさえが利きませんから」と、関羽がいった。
張飛も、ともども、
「それは是非、そうありたい。いやだといっても、二人して、長兄長兄と
劉備は強いて
「では、永く」
「変るまいぞ」
「変らじ」
と、兄弟の杯を交わし、そして、三人一体、協力して国家に報じ、下万民の
張飛は、すこし酔うてきたとみえて、声を大にし、杯を高く挙げて、
「ああ、こんな吉日はない。実に愉快だ。再び天にいう。われらここにあるの三名。同年同月同日に生まるるを
と、呶鳴った。そして、
「飲もう。大いに、きょうは飲もう――ではありませんか」
などと、劉備の杯へも、やたらに酒をついだ。そうかと思うと、自分の頭を、ひとりで叩きながら、「愉快だ。実に愉快だ」と、子供みたいにさけんだ。
あまり彼の酒が、上機嫌に発しすぎる傾きが見えたので、関羽は、
「おいおい、張飛。今日のことを、そんなに歓喜してしまっては、先の歓びは、どうするのだ。今日は、われら三名の義盟ができただけで、大事の成功不成功は、これから後のことじゃないか。少し有頂天になるのが早すぎるぞ」と、たしなめた。
だが、一たん上機嫌に昇ってしまうと、張飛の機嫌は、なかなか水をかけても
「わはははは、今日かぎり、もう村夫子は廃業したはずじゃないか。お互いに軍人だ。これからは
と、劉備へも、すぐ
「そうだ。そうだ」と、劉備玄徳は、にこにこ笑って、張飛のなすがままになっていた。
張飛は、牛の如く飲み、馬のごとく喰ってから、
「そうそう。ここの席に、
急に、そんなことを云いだすと、張飛はふらふら母屋のほうへ馳けて行った。そしてやがて、劉母公を、無理に、自分の背中へ負って、ひょろひょろ戻ってきた。
「さあ、おっ母さんを、連れてきたぞ。どうだ、俺は親孝行だろう――さあおっ母さん、大いに祝って下さい。われわれ孝行息子が三人も揃いましたからね――いやこれは、独りおっ母さんにとって祝すべき孝行息子であるのみではない。支那の――国家にとってもだ、われわれこう三名は得がたい忠良息子ではあるまいか――そうだ、おっ母さんの孝行息子万歳、国家の忠良息子万歳っ」
そしてやがて、こう三人の中では、酒に対しても一番の誠実息子たるその張飛が、まっ先に酔いつぶれて、桃花の下に大いびきで寝てしまい、夜露の降りるころまで、眼を醒まさなかった。
大丈夫の誓いは結ばれた。しかし
「さて、どうしたものか」
翌日はもう酒を飲んでただ
朝飯を食べると、すぐその卓の上で、いかに実行へかかるかの問題がでた。
「どうかなるよ。男児が、しかも三人一体で、やろうとすれば」
張飛は、理論家でない。また計画家でもない。
「どうかなるって、ただ貴公のように、
が、関羽は、常識家であった。二人のことばを
劉備は、そのいずれへも、うなずきを与えて、
「そうです。こう三人の一念をもってすれば、必ず大事を成しうることは目に見えていますが、さし当って、兵隊です。――これをひとつ
「馬も、兵器も、金もなく、募りに応じてくれる者がありましょうか」
関羽の憂いを、劉備はかろく微笑をもって打消し、
「いささか、自信があります。――というのは、実はこの楼桑村の内にも、平常からそれとなく、私が目にかけた、同憂の志を持っている青年たちが少々あります。――また近郷にわたって、
「なるほど」
「ですから、恐れいるが、関羽どのの筆で、ひとつ
「いや、手前は、生来悪文の
「いいや、あなたは多年塾を持って、子弟を教育していたから、そういう子弟の気持を打つことは、よくお心得のはずだ。どうか書いて下さい」
すると張飛がそばからいった。
「こら関羽、
「なにが怪しからん」
「長兄劉玄徳のことば、主命の如く
「やあ、これは一本、張飛にやられたな、よし早速書こう」
なかなか名文である。荘重なる
それが近郷へ飛ばされると、やがてのこと、劉玄徳の破れ家の門前には、毎日、七名十名ずつとわれこそ天下の豪傑たらんとする熱血の壮士が集まってきた。
張飛は、門前へ出て、
「お前達は、われわれの檄を見て、兵隊になろうと望んできたのか」
と、採用係の試験官になって、いちいち姓名や生国や、また、その志を質問した。
「そうです、
壮士らは異口同音にいった。
「そうか、どれを見ても、たのもしい
張飛は、一場の訓示を垂れて、それからまた、次のように誓わせた。
「われわれの旗下に加盟するからには、即ち、われわれの奉じる軍律に服さねばならん。今、それを読み聞かすゆえ、謹んで
張飛は、志願してきた壮士たちへいって、うやうやしく、
一 卒 たる者は、将たる者に、絶大の服従と礼節を守る。
一 目前の利に惑わず、大志を遠大に備う。
一 一身を浅く思い、一世を深く思う。
一掠奪断首 。
一虐民極刑 。
一 軍紀を紊 る行為一切死罪。
「わかったかっ」一 目前の利に惑わず、大志を遠大に備う。
一 一身を浅く思い、一世を深く思う。
一
一
一 軍紀を
あまり厳粛なので、壮士たちも、しばらく黙っていたが、やがて、
「分りました」と、異口同音にいった。
「よし、しからば、今よりそれがしの部下として用いてやる。ただし、当分の間は給料もつかわさんぞ。また、食物その他も、お互いにある物を分けて喰い、いっさい不平を申すことならん」
それでも、募りに応じてきた若者
四、五日のうちに、約七、八十人も集まった。望外な成功だと、関羽はいった。
けれど、すぐ困りだしたのは食糧であった。ゆえに、一刻もはやく、戦争をしなければならない。
するとある日。
「張将軍、張将軍。馬がたくさん通りますぞ、馬が」
と、一人の部下が、ここの本陣へ馳せてきて注進した。
何者か知らないが、何十頭という馬を
馬と聞くと、張飛は、「そいつは何とか欲しいものだなあ」と正直にうなった。
実際いま、
張飛は、奥へ行って、
「関羽、こういう報告があるが、なんとか、手に入れる
関羽は聞くと、
「よし、それでは、自分が行って、掛合ってみよう」と、部下数名をつれて、峠へ急いで行った。麓の近くで、その一行とぶつかった。物見の兵の注進に
ここへきた馬
関羽は、それに着くと、自分ら三人が義軍を興すに至った、愛国の衷情をもって、切々訴えた。今にして、誰か、この覇業を建て、人天の正明をたださなければ、この世は永遠の闇黒であろうといった。支那大陸は、ついに、
張世平と蘇双の両人は、なにか小声で相談していたが、やがて、
「よく分りました。この五十頭の馬が、そういうことでお役に立てば満足です。差上げますからどうぞ曳いて行って下さい」と、意外にも、いさぎよく云った。
いずれ易々とは承知しまい。最悪な場合までを関羽は考えていたのである。それが案外な返辞に、
「ほ。……いや
掛合いにきた目的は達しているのに、こう先方へ
すると、張世平はいった。
「はははは。あまりさっぱりお渡しするといったので、かえってお疑いとみえますな。いやごもっともです。けれど手前は、第一にまず
「恨みとは」
「黄巾賊の大将張角一門の暴政に対する恨みでございます。手前も以前は中山で一といって二と下らない豪商といわれた者ですが、かの地方もご承知の通り黄匪の
「むむ。なるほど」
「で、甥の
「やあ、そうか」
関羽の疑問も氷解して、
「では、楼桑村まで、馬をひいて一緒に来てくれないか。われわれの盟主と仰ぐ劉玄徳と仰っしゃる人にひきあわせよう」
「おねがい致します。手前も根からの商人ですから、以上申上げたような理由でもって、無料で馬匹を進上しましても、やはりそこはまだ正直、利益のことを考えておりますからな」
「いや、玄徳様へお目にかかっても、ただ今のところ、代金はお下げになるわけにはゆかぬぞ」
「そんな目先のことではありません。遠い将来でよろしいので。……はい。もしあなたがたが大事を成しとげて、一国を取り、十州二十州を平らげ、あわよくば天下に号令なさろうという筋書きのとおりに行ったらば、私へも充分に、利をつけて、今日の馬代金を払っていただきたいのでございます。私は、あなたの計画を聞いて、これがあなたがたの夢ではなく、わたしども民衆が待っていたものであるという点から、きっと成功するものと信じております。ですから、今日この処分に困っている馬を使っていただくのは、商人として、手前にも遠大な利殖の方法を見つけたわけで、まったくこんなよろこばしいことはありません」
張世平は、そういって、甥の蘇双と共に、関羽に案内されてついて行ったが、その途中でも、関羽へ対して、こう意見を述べた。
「事を計るうえは、人物はお揃いでございましょうし、馬もこれで整いました。これで一体、あなた方のご計画の内輪には、よく経済を切りまわして糧食兵費の内助の役目をする算数の達識が控えているのでございますか。
張世平に、そう指摘されてみると、関羽は、自分らの仲間に、大きな
経営ということであった。
自分はもとより、張飛にも、劉玄徳にも、経済的な観念は至ってない。武人
一軍を持てばすでに経営を思わねばならぬ。武力ばかりでふくらもうとする軍は暴軍に化しやすい。古来、理想はあっても、そのため、暴軍と
「いや、いいことを聞かしてくれた。劉玄徳様にも、大いにそのへんのことをはなして貰いたいものだ」
関羽は、正直、教えられた気がしたのである。一商人のことばといえども、これは将来の大切な問題だと考えついた。
やがて、楼桑村に着く。
関羽はすぐ張世平と蘇双のふたりを、劉玄徳の前につれて来た。もちろん、玄徳も張飛も、張の好意を聞いて非常によろこんだ。
張は五十頭の馬匹を、無償で提供するばかりでなく、玄徳に会ってから玄徳の人物をさらに見込んで、それに加うるに、駿馬に積んでいた鉄一千
その際も、張はいった。
「最前も、みちみち、申しました通り、手前はどこまでも、利を道とする商人です。武人に武道あり、聖賢に文道あるごとく、商人にも利道があります。ご献納申しても、手前はこれをもって、義心とは誇りません。その代り、今日さし上げた馬匹金銀が、十年後、三十年後には、莫大な利を生むことを望みます。――ただその利は、自分一個で
玄徳や関羽は、彼の言を聞いて大いに感じ、どうかしてこの人物を自分らの仲間へ留めおきたいと考えたが、張は、
「いやどうも私は臆病者で、とても戦争なさるあなた方の中にいる勇気はございません。なにかまた、お役に立つ時には出てきますから」といって、
千斤の鉄、百反の
「これぞ天のご援助」
と、いやが上にも、心は奮い立った。
早速、近郷の
雑兵の鉄甲、

飛龍の
その頃ようやく人数も二百人ばかりになった。
もとより天下に臨むには足りない急仕立ての一小軍でしかなかったが、張飛の教練と、関羽の軍律と、劉玄徳の徳望とは、一卒にまでよく行きわたって、あたかも一箇の体のように、二百の兵は
「では。――おっ母さん。行って参ります」
劉玄徳は、ある日、武装して母にこう暇を告げた。
兵馬は、粛々、彼の郷土から立って行った。劉玄徳の母は、それを桑の木の下からいつまでも見送っていた。泣くまいとしている眼が湯の泉のようになっていた。
それより前に、関羽は、玄徳の書をたずさえて、


太守劉焉は、何事かと、関羽を城館に入れて、
関羽は、礼をほどこして後、
「太守には今、士を四方に求めらるると聞く。果して然りや」
と、訊ねた。
関羽の威風は、堂々たるものであった。劉焉は、一見して、これ尋常人に非ずと思ったので、その
「然り。諸所の駅路に高札を建てしめ、士を
そこで関羽は、
「さん候。この国、黄賊の大軍に
あえて、媚びずおそれず、こう正直にいってからさらに重ねて、
「われら恩を久しく領下にうけて、この
と、述べ、終りに、玄徳の手書を出して、一読を乞うた。
「この
といって、非常な歓びようであった。
「では、何月何日に、ご城下まで兵を
そのせいか、あれっきり、

それと、眼をみはったのは、玄徳や張飛の顔を見知っている市の雑民たちで、
「やあ、先に行く大将は、
「そのそばに、馬にのって威張って行くのは、よく
「なるほど。張だ、張だ」
「あの肉売りに、わしは酒代の貸しがあるんだが、弱ったなあ」
などと群集のあいだから嘆声をもらして、見送っている酒売りもあった。
義軍はやがて、

太守は、直ちに、玄徳らの三将を迎えて、その夜は、居館で歓迎の宴を張った。
大将玄徳に会ってみるとまだ年も
なお、素姓を問えば、漢室の宗親にして、
「さもあらん」と、劉焉はうなずくことしきりでなおさら、親しみを改め、左右の関、張両将をあわせて、心から
折ふし。
青州
関羽と、張飛は、それを知るとすぐ、玄徳へ向って、「人の歓待は、
玄徳は、「自分もそう考えていたところだ。早速、太守へ進言しよう」と、劉焉に会って、その旨を申し出ると劉焉もよろこんで、
玄徳の軍五百余騎は、
時、この地方の雨期をすぎて、すでに初夏の緑草豊かであった。
合戦長きにわたらんか、賊は、地の利を得て、奇襲縦横にふるまい、諸州の
玄徳は、そう考えたので、
「いかに張飛、関羽。太守劉焉をはじめ、校尉鄒靖も、われらの手なみいかにと、その実力を見んとしておるに違いない。すでに、味方の先鋒たる以上、いたずらに、対峙して、味方に長陣の不利を招くべからずである。挺身、賊の陣近く斬入って、一気に戦いを決せんと思うがどうであろう」
二人へ、計ると、「それこそ、同意」と、すぐ五百余騎を、鳥雲に備え立て、山麓まぢかへ迫ってからにわかに
賊は、山の中腹から、鉄弓を射、
「寄手は、たかのしれた小勢のうえに、国主の正規兵とはみえぬぞ、どこかそこらから狩り集めてきた烏合の雑軍。みなごろしにしてしまえ」
賊の副将

「やあやあ、
すると、寄手の陣頭より、おうと答えて、劉玄徳、左右に関羽、張飛をしたがえて、白馬を緑野の中央へすすめて来た。
「
玄徳は、賊将程遠志の前に駒を止めて、彼のうしろにひしめく黄巾賊の大軍へも轟けとばかりいった。
「天地ひらけて以来、まだ獣族の長く栄えたる例はなし。たとい、一時は人政を
聞くと、
「白昼の大寝言、近ごろおもしろい。醒めよとは、うぬらのこと。いで」
と、重さ八十斤と称する青龍刀をひッさげ、駒首おどらせて玄徳へかかってきた。
玄徳はもとより武力の猛将ではない。泥土をあげて、
「この下郎っ」
おめきながら割って入り、先ごろ

「やあ、おのれよくも」
賊の副将

「
虚空に鳴る
賊の二将が打たれたので、残余の
――
と、武威をしめした。
「
張飛は、関羽にいった。
「なあ兄貴、このぶんなら、五十州や百州の賊軍ぐらいは、半歳のまに片づいてしまうだろう。天下はまたたく間に、俺たちの
「ばかをいえ」
関羽は、首をふった。
「世の中は、そう簡単でないよ。いつも
大興山を後にして、一同はやがて幽州へ凱旋の
太守
ところへ。
軍馬のやすむいとまもなく、青州の城下(山東省済南の東・黄河口)から早馬が来て、
「大変です。すぐ援軍のご出馬を乞う」と、ある。
「何事か」と、劉焉が、使いのもたらした
当地方ノ黄巾ノ賊徒等 県郡ニ蜂起 シテ雲集シ青州ノ城囲マレ終ンヌ落焼 ノ運命スデニ急ナリタダ友軍ノ来援ヲ待ツ
と、あった。青州太守
景

玄徳は、また進んで、
「願わくば
と申し出たので、太守劉焉はよろこんで、
時はすでに夏だった。
青州の野についてみると、賊数万の軍は、すべて黄の旗と、
「なにほどのことがあろう」と、玄徳も、先頃の初陣で、難なく勝った手ごころから、五百余騎の先鋒で、当ってみたが、結果は大失敗だった。
一敗地にまみれて、あやうく全滅をまぬがれ、三十里も退いた。
「これはだいぶ強い」
玄徳は、関羽へ計った。
関羽は、
「
玄徳は、よく人の言を用いた。そこで、総大将の
まず、総軍のうち、関羽は約千の兵をひっさげて、右翼となり、張飛も同数の兵力を持って、丘の陰にひそんだ。
本軍の
「追えや」
「討てや」
と、図にのって、賊の大軍は、陣形もなく追撃してきた。
「よしっ」
玄徳が、駒を返して、充分誘導してきた敵へ当り始めた時、丘陵の陰や、
太陽は、血に煙った。
草も馬の尾も、血のかからない物はなかった。
「それっ、今だ」
逃げる賊軍を追って、そのまま味方は青州の城下まで迫った。
青州の城兵は、
――援軍来る!
と知ると、城門をひらいて、討って出た。なだれを打って、逃げてきた賊軍は、城下に火を放ち、自分のつけた炎を墓場として、ほとんど、自滅するかのような敗亡を遂げてしまった。
青州の太守

「もし、
と、人々を重く賞して、三日三晩は、夜も日も、歓呼の楽器と万歳の声にみちあふれていた。
鄒靖は、軍を収めて、
「もはや、お
と、幽州へ引揚げて行ったが、その際、劉玄徳は、鄒靖に向って、
「ずっと以前――私の少年の頃ですが、郷里の楼桑村に来て、しばらくかくれていた
そして、自分はこれから、広宗の征野へ、旧師の軍を援けにおもむくから、幽州の城下へ帰ったら、どうか、その旨を、悪しからず太守へお伝えねがいたいと、伝言を頼んだ。
もとより義軍であるから、鄒靖も引止めはしない。
「しからば、貴下の手勢のみ率いて、兵糧そのほかの
と、武人らしく、あっさりいって別れた。
「なに。
しきりに首をひねっていたが、まだ思い出せない
戦地といっても、さすが漢朝の征旗を奉じてきている軍の本営だけに、将軍の室は、大きな寺院の中央を占め、境内から四門の外郭一帯にかけて、駐屯している兵馬の勢威は物々しいものであった。
「はっ。――確かに、劉備玄徳と仰っしゃって、将軍にお目にかかりたいと申して来ました」
外門から取次いできた一人の兵はそういって、盧将軍の前に、直立の姿勢をとっていた。
「一人か」
「いいえ、五百人も連れてであります」
「五百人」
「じゃあ、その玄徳とやらは、そんなにも自分の手勢をつれて来たのか」
「さようです。関羽、張飛、という二名の部将を従えて、お若いようですが、立派な人物です」
「はてなあ?」
なおさら、思い当らない容子であったが、取次ぎの兵が、
「申し残しました。その仁は、

「ああ! では
盧植は、にわかに、なつかしく思ったとみえ、すぐ通せと命令した。もちろん、連れている兵は外門にとめ、二人の部将は、内部の
やがて玄徳は通った。
盧植は、ひと目見て、
「おお、やはりお前だったか。変ったのう」と、驚いた目をした。
「先生にも、その後は、
玄徳は、そういって、盧植の
そして彼は、自分の素志をのべた上、願わくば、旧師の征軍に加わって、朝旗のもとに報国の働きを尽したいといった。
「よく来てくれた。少年時代の小さな師恩を思い出して、わざわざ援軍に来てくれたとは、近頃うれしいことだ。その心もちはすでに朝臣であり、国を愛する士の持つところのものだ。わが軍に参加して、大いに勲功をたててくれ」
玄徳は、参戦をゆるされて、約二ヵ月ほど、盧植の軍を援けていたが、実戦に当ってみると、賊のほうが、三倍も多い大軍を擁しているし、兵の強さも、比較にならないほど、賊のほうが優勢だった。
そのため、官軍のほうが、かえって守勢になり、いたずらに、滞陣の月日ばかり長びいていたのだった。
「軍器は立派だし、服装も剣も華やかだが、洛陽の官兵は、どうも戦意がない。都に残している女房子供のことだの、うまい酒だの、そんなことばかり思い出しているらしい」
張飛は、時々、そんな不平を鳴らして、
「長兄。こんな軍にまじっていると、われわれまでが、だらけてしまう。去って、ほかに大丈夫の戦う意義のある戦場を見つけましょう」
と、玄徳へいったが、玄徳は、師を歓ばせておきながら、師へ酬いることもなく去る法はないといって、きかなかった。
そのうちに、
盧植がいうには、
――そもそもこの地方は、
その方面へは、やはり洛陽の朝命をうけて、
ここでも勝敗決せず、官軍は苦戦しているが、わが広宗の地よりも、戦うに益が多い。ひとつ貴下の手勢をもって、急に援軍におもむいてもらえまいか。
賊の張梁・張宝の二軍が敗れたりと聞えれば、自然、広宗の賊軍も、戦意を喪失し、退路を断たれることをおそれて、潰走し始めることと思う。
「玄徳殿。行ってもらえまいか」
盧植の相談であった。
「承知しました」
玄徳は、もとより義をもって、旧師を援けにきたので、その旧師の頼みを、すげなく
即刻、軍旅の支度をした。
手勢五百に、盧植からつけてくれた千余の兵を加え、総勢千五百ばかりで、
陣地へ着くと、さっそく官軍の将、
「お手伝いに参った」とあいさつすると、
「ははあ。何処で
そして、玄徳へ、
「まあ、せいぜい働き給え。軍功さえ立てれば、正規の官軍に編入されもするし、貴公らにも、戦後、何か地方の小吏ぐらいな役目は仰せつかるから」
などともいった。
張飛は、
「ばかにしておる」
と怒ったが、玄徳や関羽でなだめて、前線の陣地へ出た。
食糧でも、軍務でも、また応対でも、冷遇はするが、与えられた戦場は、もっとも強力な敵の正面で、官軍の兵が、手をやいているところだ。
地勢を見るに、ここは広宗地方とちがって、いちめんの原野と湖沼だった。
敵は、折からの、背丈の高い夏草や
「さらば。一策がある」
玄徳は、関羽と張飛に、自分の考えを告げてみた。
「名案です。長兄は、そもそも、いつのまにそんなに、孫呉の兵を
と、二人とも感心した。
その晩、二
一部の兵力を、迂回させて、敵のうしろに廻し、張飛、関羽らは、真っ暗な野を這って、敵陣へ近づいた。
そして、用意の物に、一斉に火を点じると、
「わあっ」
と、
かねて、兵一名に、十
寝ごみを衝かれ、不意を襲われて、右往左往、あわて廻る敵陣の中へ、投げ松明の光は、花火のように舞い飛んだ。
草は燃え、兵舎は焼け、逃げくずれる賊兵の軍衣にも、火がついていないのはなかった。
すると彼方から、一
「やよ、それに来る豪傑。貴軍はそも、敵か味方か」
玄徳のそばから大音で、関羽が彼方へ向って云った。
先でも、玄徳たちを、
「官軍か賊軍か?」と疑っていたように、ぴたと一軍の前進を停めて、
「これは洛陽より南下した五千騎の官軍である。汝らこそ、黄匪に非ずや」
と、呶鳴り返してきた。
聞くと、玄徳は左将軍関羽、右将軍張飛だけを両側に従えて、兵を後方に残したまま数百歩駒をすすめ、
「戦場とて、失礼をいたした。それがしは

いうと、紅の旗、紅の鎧、紅の鞍にまたがっている人物は、玄徳の会釈を、馬上でうけながら微笑をたたえ、「ごていねいな挨拶。それへ参って申さん」と、
近々と、その人物を見れば。
年はまだ若い。肉薄く色白く、
声静かに、名乗っていう。
「われは

「結構です。では、曹操閣下が
玄徳が謙遜していうと、
「いやそれは違う。こよいの勝ち
「では、一緒に、指揮の矛を揚げましょう」
「なるほど、それならば」
と、曹操も従って、両将は両軍のあいだに
野火は燃えひろがるばかりで賊徒らの住む尺地も余さなかった。賊の大軍は、ほとんど、秋風に舞う木の葉のように四散した。
「愉快ですな」
曹操は、かえりみて云った。
兵をまとめて、両軍引揚げの先頭に立ちながら、玄徳は、彼と駒を並べ、彼と親しく話すかなりな時間を得た。
彼の最前の名乗りは、あながち
それにひきかえて、本軍の総大将
「せっかく、
義はあっても、
(よく戦ってくれた)と、恩賞の沙汰か、ねぎらいの言葉でもあるかと思いのほか、休むいとまもなく、(ここはもうよいから、広宗の地方へ転戦して、盧将軍を
という
「え。すぐにここを立てというんですか」
と、むっとした顔色だった。ことに張飛は、
「怪しからん沙汰だ。いかに官軍の大将だからといって、そんな命令を、おうけしてくる法があるものか。昨夜から悪戦苦闘してくれた部下にだって、気の毒で、そんなことがいえるものか」と、激昂し、「長兄は、大人しいもんだから、洛陽の都会人などの眼から見るとなめられやすいのだ。拙者がかけ合ってくる」
と、剣をつかんで、朱雋の本営へ出かけそうにしたので、玄徳よりは、同じ不快をこらえている関羽が、
「まあ待て」と、極力おさえた。
「ここで、腹を立てたら、折角、官軍へ協力した意義も武功も、みな水泡に帰してしまう。都会人て奴は、元来、わがままで思い上がっているものだ。しかし、黙ってわれわれが国事に尽していれば、いつか誠意は天聴にも達するだろう。眼前の利慾に怒るのは小人の
「でも
「感情に負けるな」
「無礼なやつだ」
「分った。分った。もうそれでいいだろう」
ようやく
「劉兄。お腹も立ちましょうが、戦場も世の中の一部です。広い世の中としてみればこんなことはありがちでしょう。即刻、この地を引揚げましょう」
ついでに関羽は、玄徳の憂鬱もそういって慰めた。
玄徳はもとより、そう腹も立っていない。こらえるとか、堪忍とか、二人はいっているが、彼自身は、生来の性質が微温的にできているのか、実際、朱雋の命令にしてもそう無礼とも無理とも思えないし、怒るほどに、気色を害されてもいなかったのである。
兵には、一睡させて、せめて食糧もゆっくりとらせて、夜半から玄徳は、そこの陣地を引払った。
きのうは西に戦い。
きょうは東へ。
毎日、五百の手勢と、行軍をつづけていても、私兵のあじけなさを、しみじみ思わずにいられなかった。
部落を通れば、土民までが馬鹿にする。――その土民らを賊の
「なんじゃ。官軍でもなし、黄巾賊でもないのが、ぞろぞろ通りよる」
などと、陽なたに手をかざし合って、
けれど、先頭の玄徳、張飛、関羽の三人だけは、人目をひいた。威風が道を払った。土民らの中には土下座して拝する者もあった。
拝されても、嘲弄されても、玄徳はいずれにせよ、気にかけなかった。自分が畑に働いていた頃の気持をもって、土民の気持を理解しているからだった。
駒を並べてくる関羽と張飛とはまだ
「およそ嫌なものは、
と、関羽がいえば、
「そうさ。俺はよッぽど、朱雋の面へ、ヘドを吐きかけてやろうと思ったよ」と張飛もいう。
「はははは。貴公のヘドをかけられたら、朱雋も驚いたろうな。しかし彼一人が官僚臭の鼻もちならぬ人間というわけではない。漢室の
「それゃあ分っているが、とにかく俺は、目前の事実を憎むよ」
「いくら
「黄巾の賊はなお討つに易し。廟堂の
「その通りだ」
「考えれば考えるほど、俺たちの理想は遠い――」
道をながめ、空を仰ぎ、両雄は嘆じ合っていた。
少し前へ立って、馬を進めていた玄徳は、二人の声高なはなしを先刻から後ろ耳で聞いていたが、その時、振りかえって、
「いやいや両人、そう一概にいってしまったものではない。洛陽の将軍のうちにも、立派な人物は乏しくない」と、いった。
玄徳は、言葉をつづけて、
「たとえば先頃、野火の戦野で出会って挨拶を交わした――
それには、張飛も関羽も、同感であったが、浪人の通有性として官軍とか官僚とかいうと、まずその人物の真価をみるより先に、その色や臭いを嫌悪してかかるので、玄徳にそういわれるまでは、特に、曹操に対しても、感服する気にはなれなかったのである。
「ヤ。旗が見える」
そのうちに、彼らの部下は、こういって指さし合った。玄徳は、馬を止めて、
「なにが来るのだろうか」と、関羽をかえりみた。
関羽は、手をかざして、道の前方数十町の先を、眺めていた。そこは山陰になって、山と山の間へ道がうねっているので、太陽の光もかげり、何やら一団の人間と旗とが、こっちへさして来るのは分るが官軍やら黄巾賊の兵やら――また、地方を浮浪している雑軍やら、見当がつかなかった。
だが、次第に近づくに従って、ようやく
「朝旗をたてている」
「アア。官軍だ」
「三百人ばかりの官軍の隊」
「だが、おかしいぞ、熊でも捕まえて入れてくるのか、
大きな鉄格子の
その前に百名。
その後ろに約百名。
檻車を真ん中にして、七
ばらばらっと、先頭から、一名の隊将と、一隊の兵が、馳け抜けてきて、玄徳の一行を、頭から
「こらっ、待てっ」というふうにである。
張飛も、ぱっと、玄徳の前へ駒を躍らせて、万一をかばいながら、
「なんだっ、虫けら」と、いい返した。
いわずともよい言葉であったが、
石は石を打って、火を発した。
「なんだと、官旗に対して、虫けらといったな」
「礼を知るをもって
「だまれ、われわれは、洛陽の勅使、
「王城の直軍とあれば、なおさらのことである。俺たちも、武勇奉公を任じる軍人だ。私軍といえど、この旗に対し、こらっ待てとはなんだ。礼をもって問えば、こちらも礼をもって答えてやる。出直してこい」
丈八の蛇矛を
官兵はちぢみ上がったものの、虚勢を張ったてまえ、退きもならず、
関羽は、心得て、
「あいや、これは

詫びるところは詫び、
官兵の隊将は、それに、ほっとした顔つきを見せた。張飛の暴言も薬になったとみえ、今度は丁寧に、
「いやいや、あれなる檻車に押しこめてきた罪人は、先頃まで、広宗の征野にあって、官軍一方の将として、洛陽より派遣せられていた
「えっ、盧植将軍ですって」
玄徳は、思わず、驚きの声を放った。
「されば、吾々には詳しいことも分らぬが、今度勅命にて下られた
と語った。
玄徳も、関羽も、張飛も、
「嘘のような……」と、茫然たる面を見あわせたまま、しばしいうことばを知らなかった。
玄徳はやがて、
「実は、盧植将軍は、自分の旧師にあたるお人なので、ぜひともひと目、お別れをお告げ申したいが、なんとか許してもらえまいか」と切に頼んだ。
「ははあ。では、罪人盧植は、貴公の旧師にあたる者か。それは定めし、ひと目でも会いたかろうな」
守護の隊将は、玄徳の切な願いを、
関羽は、玄徳の袖をひいて、彼は
張飛は、それを小耳にはさむと、怪しからぬことである。そんなことをしては
「いやいや、かりそめにも、朝廷の旗を奉じている兵や役人へ向って、さような暴行はなすべきでない。といって、師弟の情、このまま盧将軍と相見ずに別れるにも忍びないから――」
といって、なにがしかの銀を、軍費のうちから出させて、関羽の手からそっと、守護の隊将へ手渡し、
「ひとつ、あなたのお力で」
と、折入っていうと、
「しばらく、休め」 と、自分の率いている官兵に号令した。
そしてわざと、彼らは見て見ぬふりして、路傍に槍を組んで休憩していた。
玄徳は、騎をおりて、その間に、檻車のそばへ馳け寄り、がんじょうな鉄格子へすがりついて、
「先生っ。先生っ。玄徳でございます。いったい、このお姿は、どうなされたことでござりますぞ」
と、嘆いた。
膝を曲げて、
「おうっ」
と、それこそ、さながら野獣のように、鉄格子のそばへ、跳びついてきて、
「玄徳か……」と、舌をつらせて
「いい所で会った。玄徳、聞いてくれ」
盧植は、無念な涙に、眼も顔もいっぱいに曇らせながらいう。
「実は、こうだ。――先頃、貴公がわしの陣を去って、
「……なるほど」
「すると、左豊は、盧植はわれを恥かしめたりと、ひどく恨んで帰ったそうだが、間もなく、身に覚えない罪名のもとに、軍職を
と、盧植は、身の不幸を悲しむよりも、さすがに、より以上、上下乱脈の世相の果てを、
慰めようにも慰めることばもなく、鉄格子をへだてた
「いや先生、ご胸中はお察しいたしますが、いかに世が末になっても、罪なき者が罰せられて、悪人や奸吏がほしいままに、
と励ました。
「ありがとう」と、盧植もわれにかえって、「思わぬ所で、思わぬ人に会ったため、つい心もゆるみ、不覚な涙を見せてしもうた。……わしなどはすでに老朽の身だが、頼むのは、貴公たち将来のある青年へだ。……どうか
「やります。先生」
「ああしかし」
「何ですか」
「わしの如き、老年になっても、まだ
「ご訓誡、
「では、あまり長くなっても、また迷惑がかかるといけないから――」
と、盧植が、早く立去れかしと、玄徳を眼で
「やあ長兄。罪もなき恩師が、獄府へ引かれて行くのを、このまま見過すという法があろうか。今のはなしを聞くにつけ、また先頃からの鬱憤もかさんでおる。もはや張飛の堪忍の緒はきれた。――守護の官兵どもを、みなごろしにして、檻車を奪い盧植様をお助けしようではないか」
と、大声でいい放ち、一方の関羽をかえりみて、
「兄貴、どうだ」と、相談した。
耳こすりや、眼まぜでしめし合わすのではない。天地へ向って呶鳴るのである。いくら背中を向けて見ぬ振りをしている官兵でも、それには総立ちになって、色めかざるをえない。しかし、張飛の眼中には、蠅が舞いだした程にもなく、
「なにを黙っておるのか。長兄らは、官兵が怖いのか。義を見て
いきなり張飛は、その鉄格子に手をかけて、猛虎のように、ゆすぶりだした。
いつもあまり大きな声を出さないし、めったに顔いろを変えない玄徳が、それを見ると、
「張飛! 何をするかッ」と、大喝して、「かりそめにも、朝命の
と、かの名剣の柄をにぎって、
――檻車は遠く去った。
叱られて、思いとどまった張飛は、後ろの山のほうを向いて、見ていなかった。
玄徳は、立っていた。
「…………」
黙然と、凝視して、遠くなり行く師の檻車を、暗涙の中に見送っていた。
「……さ。参りましょう」
関羽は、
玄徳は、黙々と、騎上の人になったが、盧植の運命の急変が、よほど精神にこたえたとみえ、
「……ああ」と、なお嘆息しては、振向いていた。
張飛は、つまらない顔していた。彼にとっては、正しい義憤としてやったことが、計らずも玄徳の怒りを買い、義盟の血をすすり合ってから初めてのような叱られ方をした。
官兵どもは、それを見て、いい気味だというような嘲笑を浴びせた。張飛たるもの、腐らずにいられなかった。
「いけねえや、どうも家の大将は、すこし安物の
舌打ちしながら、彼も黙りこんだまま、
山峡の道を過ぎて、二州のわかれ道へきた。
関羽は、駒を止めて、
「玄徳様」と、呼びかけた。
「これから南へ行けば広宗。北へさしてゆけば、郷里

「もとより、盧植先生が

「そうしますか」
「うム」
「それがしも、先刻からいろいろ考えていたのですが、どうも、残念ながら、一時郷里へ退くしかないであろう――と思っていたので」
「転戦、また転戦。――なんの功名ももたらさず、郷家に待つ母上にも、なんとなく、会わせる顔もないここちがするが……帰ろうよ、

「はっ。――では」
と、関羽は、騎首をめぐらして、後からつづいて来る五百余の手兵へ、
「北へ、北へ!」
と、指して歩行の号令をかけ、そしてまた黙々と、歩みつづけた。
「あア――、あ、あ」
張飛は、大あくびして、
「いったい、なんのために、俺たちは戦ったんだい。ちっともわけが分らない。――こうなると一刻もはやく、

関羽は、苦い顔して、
「おいおい、兵隊のいうようなことをいうな。一方の将として」
「だって、俺は、ほんとのことをいっているんだ。嘘ではない」
「貴様からして、そんなことをいったら、軍紀がゆるむじゃないか」
「軍紀のゆるみだしたのは、俺のせいじゃない。官軍官軍と、なんでも、官軍とさえいえば、意気地なく恐がる人間のせいだろ」
不平満々なのである。
その不平な気もちは、玄徳にも分っていた。玄徳もまた、不平であったからだ。そしてひと頃の張り切っていた
すると、突然、山崩れでもしたように、一方の山岳で、
「何事か」
玄徳は聞き耳たてていたが、四山にこだまする
「張飛。物見せよ」と、すぐ命じた。
「心得た」
と張飛は駒を飛ばして、山のほうへ向って行ったが、しばらくすると戻ってきて、
「広宗の方面から逃げくずれて来る官軍を、
玄徳は、驚いて、
「では、広宗の官軍は、総敗北となったのか。――罪なき盧植将軍を、檻車に囚えて、洛陽へ差し立てたりなどしたために、たちまち、官軍は統制を失って、賊にその虚をつかれたのであろう」
と、嘆じた。
張飛は、むしろ小気味よげに、
「いや、そればかりでなく、官軍の士風そのものが、長い平和になれ、気弱にながれ、思い上がっているからだ」と、関羽へいった。
関羽は、それに答えず、
「長兄。どうしますか」
と玄徳へ計った。
玄徳は、ためらいなく、
「皇室を重んじ、秩序をみだす賊子を討ち、民の
と、即座に、援軍に馳せつけて、賊の追撃を、山路で中断した。そしてさんざんにこれを悩ましたり、また、奇策をめぐらして、張角大方師の本軍まで攪乱した上、勢いを挽回した官軍と合体して、五十里あまりも賊軍を追って引揚げた。
広宗から敗走してきた官軍の大将は、
からくも、総敗北を盛返して、ほっと一息つくと、将軍は、幕僚にたずねた。
「いったい、かの山嶮で、不意にわが軍へ加勢し、賊の後方を攪乱した軍隊は、いずれ味方には相違あるまいが、どこの部隊に属する将士か」
「さあ。どこの隊でしょう」
「汝らも知らんのか」
「誰もわきまえぬようです」
「しからば、その部将に会って、自身訊ねてみよう。これへ呼んでこい」
幕僚は、直ちに、玄徳たちへ董卓の意をつたえた。
玄徳は、
董卓は、椅子を与える前に、三名の姓名をたずねて、
「洛陽の王軍に、
玄徳は、無爵無官の身をむしろ誇るように、自分らは、正規の官軍ではなく、天下万民のために、大志を奮い起して立った一地方の義軍であると答えた。
「……ふうむ。すると、

董卓の応対ぶりは、言葉つきからして違ってきた。露骨な軽蔑を鼻先に見せていうのだった。しかも、
「――ああそうか。じゃあ我が軍に
と同席するさえ、自分の
官軍にとっては、大功を立てたのだ。董卓にとっては、生命の親だといってもよいのだ。
然るに!
何ぞ、
士を遇する道を知らぬにも程がある。
「…………」
玄徳も、張飛と関羽も、董卓のうしろ姿を見送ったまま、茫然としていた。
「うぬっ」
憤然と、張飛は、彼のかくれた
獅子のように、髪を立てて。
そして剣を手に。
「あっ、何処へ行く」
玄徳は、驚いて、張飛のうしろから組み止めながら、
「こらっ、また、わるい短慮を出すか」と、叱った。
「でも。でも」
張飛は、怒りやまなかった。
「――ちッ、畜生っ。官位がなんだっ。官職がない者は、人間でないように思ってやがる。馬鹿野郎ッ。民力があっての官位だぞ。賊軍にさえ、蹴ちらされて、逃げまわって来やがったくせに」
「これッ、鎮まらんか」
「離してくれ」
「離さん。関羽関羽。なぜ見ているか、一緒に、張飛を止めてくれい」
「いや関羽、止めてくれるな。おれはもう、堪忍の
「待て。……まあ待て。……腹が立つのは、貴様ばかりではない。だが、小人の小人ぶりに、いちいち腹を立てていたひには、とても大事はなせぬぞ。天下、小人に満ちいる時だ」
玄徳は、抱き止めたまま、声をしぼって
「しかし、なんであろうと、董卓は皇室の武臣である。朝臣を
「……ち、ち、ちく生ッ」
張飛は、床を、大きく
「口惜しい」
彼は、坐りこんで、まだ泣いていた。この忍耐をしなければ、世のために戦えないのか、義を
「さ。外へ出よう」
赤ン坊をあやすように、玄徳と関羽の二人して、彼を、左右から抱き起こした。
そして、その夜、「こんな所に長居していると、いつまた、張飛が虫を起さないとも限らないから」と、董卓の陣を去って、手兵五百と共に、月下の曠野を、
わびしき雑軍。
そして官職のない将僚。
一軍の
渡り鳥が、大陸をゆく。
もう秋なのだ。
いちどは郷里の

潁川の地へ行きついてみると、そこにはすでに官軍の一部隊しか残っていなかった。大将軍の
「さしも
関羽がいうと、
「つまらない事になった」
と、張飛はしきりと、今のうちに功を立てねば、いつの時か風雲に乗ぜんと、
「――義軍なんぞ小功を思わん。
劉玄徳は、独りいった。
黄河を渡った。
兵たちは、馬に水を飼った。
玄徳は、黄いろい大河に眼をやると、
「ああ、悠久なる
と、呟いた。
四、五年前に見た黄河もこの通りだった。おそらく百年、千年の後も、黄河の水は、この通りにあるだろう。
天地の悠久を思うと、人間の一瞬がはかなく感じられた。小功は思わないが、しきりと、生きている間の生甲斐と、意義ある仕事を残さんとする誓願が念じられてくる。
「この
茶を思えば、同時に、母が憶われてくる。
この秋、いかに
いやいや母は、そんなことすら忘れて、ひたすら、子が大業をなす日を待っておられるであろう。それと共に、いかに聡明な母でも、実際の戦場の事情やら、また実地に当る軍人同士のあいだにも、常の社会と変らない難しい感情やら争いやらあって、なかなか武力と正義の信条一点張りで、世に出られないことなどは、お察しもつくまい。ご想像にも及ぶまい。
だから以来、なんのよい便りもなく、月日をむなしく送っている子をお考えになると、
(
と、さだめしふがいない者と、
「そうだ。せめて、体だけは無事なことでも、お便りしておこうか」
玄徳は、思いつめて、騎の鞍をおろし、その鞍に結びつけてある旅具の中から、
駒に水を飼って、休んでいた兵たちも、玄徳が
「おれも」
「吾も」
と、何か書きはじめた。
誰にも、故郷がある。姉妹兄弟がある。玄徳は思いやって、
「故郷へ手紙をやりたい者は、わしの手もとへ持ってこい。親のある者は、親へ無事の消息をしたがよいぞ」と、いった。
兵たちは、それぞれ紙片や木皮へ、何か書いて持ってきた。玄徳はそれを一
「おまえは、この手紙の
と、路費を与えて、すぐ立たせた。
そして落日に染まった黄河を、騎と兵と荷駄とは、黒いかたまりになって、浅瀬は
先頃から河南の地方に、何十万とむらがっている賊の大軍と戦っていた大将軍
「いかがはせん」と、内心
そこへ、
「
朱雋はそれを聞くと、
「やあ、それはよい所へ来た。すぐ通せ、失礼のないように」
と、前とは、打って変って、鄭重に待遇した。陣中ながら、洛陽の美酒を開き、料理番に牛など裂かせて、
「長途、おつかれであろう」と、歓待した。
正直な張飛は、前の不快もわすれて、すっかり感激してしまい、
「士は
などと酔った機嫌でいった。
だが歓待の代償は義軍全体の生命に近いものを求められた。
翌日。
「早速だが、豪傑にひとつ、打破っていただきたい方面がある」
と、朱雋は、玄徳らの軍に、そこから約三十里ほど先の山地に陣取っている頑強な敵陣の突破を命じた。
否む理由はないので、
「心得た」と、義軍は、朱雋の部下三千を加えて、そこの高地へ攻めて行った。
やがて、山麓の野に近づくと天候が悪くなった。雨こそ降らないが、密雲低く垂れて、烈風は草を飛ばし、沼地の水は霧になって、兵馬の行くてを
「やあ、これはまた、賊軍の大将の張宝が、妖気を起して、われらを皆ごろしにすると見えたるぞ。気をつけろ。樹の根や草につかまって、烈風に吹きとばされぬ用心をしたがいいぞ」
朱雋からつけてよこした部隊から、誰いうとなく、こんな声が起って、恐怖はたちまち全軍を
「ばかなっ」
関羽は怒って、
「世に理のなき妖術などがあろうか。
と大声で鼓舞したが、
「妖術にはかなわぬ。あたら生命をわざわざおとすようなものだ」
と、朱雋の兵は、なんといっても前進しないのである。
聞けば、この高地へ向った官軍は、これまでにも何度攻めても、全滅になっているというのであった。黄巾賊の
そう聞くと張飛は、
「妖術とは、
と、軍のうしろにまわって、手に
朱雋の兵は、敵の妖術にも恐怖したが、張飛の蛇矛にはなお恐れて、やむなくわっと、黒風へ向って前進しだした。
その日は、天候もよくなかったに違いないが、戦場の地勢もことに悪かった。寄手にとっては、甚だしく不利な地の利にいやでも置かれるように、そこの高地は自然にできている。
「鉄門峡まで行かぬうちに、いつも味方はみなごろしになる。豪傑、どうか無謀はやめて、引っ返し給え」
と、朱雋の軍隊の者は、部将からして、
だが、張飛は、
「それは、いつもの寄手が弱いからだ。きょうは、われわれの義軍が先に立って進路を斬りひらく、武夫たる者は、戦場で死ぬのは、本望ではないか。死ねや、死ねや」と、督戦に声をからした。
先鋒は、ゆるい
すると、たちまち、一陣の風雷、天地を震動して木も砂礫も人も、中天へ吹きあげられるかとおぼえた時、一方の山峡の頂に、陣鼓を鳴らし、
――わあっ。わあっ。
と、烈風も圧するような
「死神につかれた軍が、またも
と、声を合わせて笑った。
その中に一人、遠目にもわかる異相の巨漢があった。口に

「やあ、魔軍が来た」
「賊将張宝が、
朱雋の兵は、わめき合うと、逃げ惑って、途も失い、ただ右往左往うろたえるのみだった。
張飛の督戦も、もう
事実。
そうしている間に、無数の矢や岩石や火器は、うなりをあげ、煙をふいて、寄手の上に降ってきたのである。またたくうちに、全軍の半分以上は、動かないものになっていた。
「敗れた! 負けたっ」
玄徳は、軍を率いてから初めて惨たる敗戦の味をいま知った。
そう叫ぶと、
「関羽っ。張飛っ。はや兵を
そして自分もまっしぐらに、駒首を逆落しに向けかえし、砂礫とともに山裾へ馳け下った。
敗軍を収めて、約二十里の外へ退き、その夜、玄徳は関羽、張飛のふたりと共に、
「残念だ、きょうまで、こんな敗北はしたことがないが」と、張飛がいう。
関羽は、腕を
「
「幻術の不思議は、わしには
これは玄徳の説である。
「なるほど」と二人とも初めて、そうかと気づいた顔つきだった。
「だから少しでも天候の悪い日には、ほかの土地より何十倍も強い風が吹きまくる。この辺が、晴天の日でも、峡門には、黒雲がわだかまり、砂礫が飛び、煙雨が降り
「ははあ、大きに」
「好んで、それへ向ってゆくので、近づけばいつも、賊と戦う前に、天候と戦うようなものになる。張宝の地公将軍とやらは、奸智に
「さすがに、ご活眼です。いかにも、それに違いありません。けれど、あの山の賊軍を攻めるには、あの峡門から攻めかかるほかありますまい」
「ない。――それ故に、朱雋はわざと、われわれを、この攻め口へ当らせたのだ」
玄徳は、沈痛にいった。
関羽、張飛の二人も、良い策もない、唇をむすんで、陣の曠野へ眼をそらした。
折から仲秋の月は、満目の曠野に露をきらめかせ、二十里外の彼方に黒々と見える臥牛のような山岳のあたりは、味方を悩ませた悪天候も嘘ごとのように、大気と月光の
「いや、ある、ある」
突然、張飛が、自問自答して云いだした。
「攻め口が、ほかにないとはいわさん。長兄、一策があるぞ」
「どうするのか」
「あの絶壁を
「登れようか、あの断崖絶壁へ」
「登れそうに見える所から登ったのでは、奇襲にはならない。誰の眼にも、登れそうに見えない場所から登るのが、用兵の策というものであろう」
「張飛にしては、珍しい名言を吐いたものだ。その通りである。登れぬものときめてしまうのは、人間の観念で、その眼だけの観念を超えて、実際に懸命に当ってみれば案外やすやすと登れるような例はいくらでもあることだ」
さらに、三名は、密議をねって、翌る日の作戦に備えた。
一方、張飛、関羽の両将に、幕下の
そしてなお、士気を鼓舞するために、すべての兵が
敵を前にしながら、わざとそんな所で、おごそかな祈祷の儀式などしたのは、玄徳直属の義軍の中にも、張宝の幻術を内心怖れている兵がたくさんいるらしく見えたからであった。
式が終ると、
「見よ」
玄徳は空を指していった。
「きょうの一天には、風魔もない、迅雷もない、すでに、破邪の祈祷で、張宝の幻術は通力を失ったのだ」
兵は答えるに、万雷のような
関羽と張飛は、それと共に、
「それ、魔軍の
と軍を二手にわけて、峰づたいに張宝の本拠へ攻めよせた。
地公将軍の
すると、思わざる山中に、突然
「裏切り者が出たか」と、訊ねた。
実際、そう考えたのは、彼だけではなかった。裏切り者裏切り者という声が、何処ともなく伝わった。
張宝は、
「
と、そこの守りを、賊の一将にいいつけて、自身、わずかの部下を連れて、山谷の奥にある――ちょうど
するとかたわらの沢の密林から、一すじの矢が飛んできて、張宝のこめかみにぐざと立った。張宝はほとばしる黒血へ手をやって、わッと口を開きながら矢を抜いた。しかし
「賊将の張宝は射止めたるぞ。劉玄徳、ここに黄匪の大方張角の弟、地公将軍を討ち取ったり」
次に、どこかで玄徳の大音声がきこえると、四方の山沢、みな鼓を鳴らし、奔激の渓流、
山谷の奥からも、同時に黒煙
上流から流れてくる渓水は、みるまに紅の奔流と化した。山吠え、谷叫び、火は山火事となって、三日三晩燃えとおした。
首
朱雋は、玄徳を見ると、
「やあ、
「ははあ、そうですか。ひと口に、武運ということもありますからね」
玄徳は、なんの感情にも動かされないで、軽く笑った。
朱雋は、さらにいう。
「自分のひきうけている野戦のほうは、まだいっこう勝敗がつかない。山谷の賊は、ふくろの鼠としやすいが、野陣の敵兵は、押せばどこまでも、逃げられるので弱るよ」
「ごもっともです」
それにも、玄徳はただ、笑ってみせたのみであった。
然るところ、ここに、先陣から伝令が来て、一つの異変を告げた。
伝令の告げるには、
「先に戦没した賊将張宝の兄弟
とのことだった。
朱雋は、聞くと、
「冬にかかっては、雪に凍え、食糧の運輸にも、困難になる。ことに
総攻撃の令を下した。
大軍は陽城を囲み、攻めること急であった。しかし、賊城は要害堅固をきわめ、城内には多年積んだ食物が豊富なので、一月余も費やしたが、城壁の一角も奪れなかった。
「困った。困った」
朱雋は本営で時折ため息をもらしたが、玄徳は聞えぬ顔をしていた。
よせばいいに、そんな時、張飛が朱雋へいった。
「将軍。野戦では、押せば
朱雋は、まずい顔をした。
そこへ遠方から使いが来て、新しい情報をもたらした。それもしかし朱雋の機嫌をよくさせるものではなかった。
曲陽の方面には、朱雋と共に、討伐大将軍の任を負って下っていた
董卓と皇甫嵩のほうは、朱雋のいういわゆる武運がよかったのか、七度戦って七度勝つといった按配であった。ところへまた、黄賊の総帥張角が、陣中で病没したため、総攻撃に出て、一挙に賊軍を潰滅させ、降人を収めること十五万、辻に
(戦果かくの如し)と、報告した。
大賢良師張角と称していた
朝廷の
(征賊第一勲)
として、
自分が逆境の中に、他人の栄達を聞いて、共によろこびを感じるほど、
「一刻もはやく、この城を攻め陥し、汝らも、朝廷の恩賞にあずかり、封土へ帰って、栄達の日を楽しまずや」と、幕僚をはげました。
もちろん、玄徳らも、協力を惜しまなかった。攻撃に次ぐ攻撃をもって、城壁に当り、さしも頑強な賊軍をして、眠るまもない防戦に疲れさせた。
城内の賊の中に、
「願わくば、
陽城を
「さらに、与党を狩りつくせ」
と、朱雋の軍六万は、
「賊には
朱雋は、陣頭に立って、賊の宛城の運命を、かく
朱雋軍六万は、宛城の周囲をとりまいて、水も漏らさぬ布陣を詰めた。
賊軍は、
「やぶれかぶれ」の策を選んだか、連日、城門をひらいて、戦を挑み、官兵賊兵、相互におびただしい死傷を毎日積んだ。
然しいかんせん、城内の兵糧はもう乏しくて、賊は飢渇に瀕してきた。そこで賊将韓忠は遂に、降使を立てて、
「仁慈を垂れ給え」と、降伏を申し出た。
朱雋は、怒って、
「
と、降参の使者を斬って、なおも苛烈に攻撃を加えた。
玄徳は彼に
「将軍、賢慮し給え。昔、漢の高祖の天下を
将軍は、
「ばかをいい給え。それは時代による。あの頃は、
「いや、伺ってみると、たいへんごもっともです」
玄徳は、彼の説に伏した。
「では、攻めて城内の賊を、殲滅するとしてもです。こう四方、一門も
「なるほど、その説はよろしい」
朱雋は、直ちに、命令を変更して、急激に攻めたてた。
果たして、城内の賊は、乱れ立って一方へくずれた。
朱雋は、騎を飛ばして、乱軍の中に、賊将の韓忠を見かけ、鉄弓で射とめた。
韓忠の首を、槍に突き刺させて、従者に高く振り上げさせ、
「征賊大将軍朱雋、賊徒の将、韓忠をかく葬ったり。われと名乗る者やなおある」
と、得意になって呶鳴った。
すると、残る賊将の
「あいつが朱雋か」と、火炎の中を、
朱雋は、たまらじと、自軍のうちへ逃げこんだ。韓忠親分の
賊の一に対して、官兵は十人も死んだ。朱雋につづいて、官軍はわれがちに十里も後ろへ退却した。
賊軍は、気をもり返して、城壁の火を消し、再び四方の門を固くして、
「さあいつでも来い」と構えなおした。
その日の
「何者か」
と、玄徳らは、やがて近づいて陣門に入るその軍馬を、幕舎の傍らから見ていた。
総勢、約千五百の兵。
隊伍は整然、歩武堂々。
「そもこの精鋭を
見てあれば。
その隊伍の真っ先に、旗手、鼓手の兵を立て、続いてすぐ後から、一頭の
これなんその一軍の大将であろう。
「誰かな?」
「誰なのやら」
関羽も張飛も、見まもっていたが、ほどなく陣門の衛将が、名を
「これは

堂々たる態度であった。
また、
「…………」
関羽と張飛は、顔を見合わせた。先には、
「やはり世間はひろい。
同じ、その世間を、
「甘くはできないぞ」
という気持を抱いたであろう。なにしろ、孫堅の入陣は、その卒伍までが、立派だった。
孫堅の来援を聞いて、
「いや呉郡富春に、英傑ありと、かねてはなしに聞いていたが、よくぞ来てくれた」
と、朱雋はななめならずよろこんで迎えた。
きょうさんざんな敗軍の日ではあったし、朱雋は、大いに力を得て、翌日は、孫堅が
「一挙に」と、
即ち、新手の孫堅には、南門の攻撃に当らせ、玄徳には北門を攻めさせ、自身は西門から攻めかかって、東門の一方は、前日の策のとおり、わざわざ道をひらいておいた。
「洛陽の将士に笑わるるなかれ」
と、孫堅は、新手でもあるので、またたく間に、南門を衝き破り、彼自身も青毛の駒をおりて、濠を越え、単身、城壁へよじ登って、
「呉郡の孫堅を知らずや」
と賊兵の中へ躍り入った。
刀を舞わして孫堅が賊を斬ること二十余人、それに当って、噴血を浴びない者はなかった。
賊将の
「ふがいなし、
もう一名の賊将孫仲は、それを眺めて、かなわじと思ったか、敗走する味方の賊兵の中にまぎれこんで、早くも東門から逃げ走ってしまった。
その時。
ひゅっと、どこか天空で、弦を放たれた一矢の矢うなりがした。
矢は、東門の望楼のほとりから、斜めに線を描いて、怒濤のように、われがちと敗走してゆく賊兵の中へ飛んだが、狙いあやまたず、今しも
「あの首、掻き取ってこい」
玄徳は、部下に命じた。
望楼のかたわらの壁上に鉄弓を持って立ち、目ぼしい賊を射ていたのは彼であった。
一方、官軍の
「漢室万歳」
「洛陽軍万歳」
「朱雋大将軍万歳」
南陽の諸郡もことごとく平定した。
かの大賢良師張角が、戸ごとに貼らせた黄いろい
しかし、天下の乱は、天下の草民から意味なく起るものではない。むしろその禍根は、民土の低きよりも、廟堂の高きにあった。川下よりも川上の水源にあった。政を奉ずる者より、政をつかさどる者にあった。地方よりも中央にあった。
けれど腐れる者ほど自己の腐臭には気づかない。また、時流のうごきは眼に見えない。
とまれ官軍は
洛陽の城府は、挙げて、遠征の兵馬を迎え、市は五彩旗に染まり、夜は万燈にいろどられ、城内城下、七日七夜というもの酒の泉と音楽の狂いと、酔どれの歌などで沸くばかりであった。
王城の府、洛陽は千万戸という。さすがに古い伝統の都だけに、物資は富み、文化は
けれど。
二十里の野外、そこに
そこに。
無口に
玄徳たちの義軍であった。
義軍は、外城の門の一つに立って、門番の役を命じられている。
といえば、まだ体裁はよいが、正規の官軍でなし、官職のない将卒なので、三軍洛陽に凱旋の日も、ここに停められて、内城から先へは入れられないのであった。
「…………」
玄徳も関羽も、この頃は、無口であった。
あわれな卒伍は、まだ洛陽の温かい菜の味も知らない。
張飛も黙然と、水ばなをすすっては、時折、ひどく虚無に
「
誰か呼びかける人があった。
その日、劉玄徳は、
振向いてみると、それは
「
「おう、どなたかと思うたら、張均閣下でいらっしゃいましたか」
玄徳は、敬礼をほどこした。
この人はかつて、
「思いがけない所でお目にかかりましたな、ご健勝のていで、何よりに存じます」
と、
郎中
「貴公は今どこに何をしておられるのですか。少しお痩せになっているようにも見えるが」
と、かえって玄徳の境遇を反問した。
玄徳は、ありのままに、なにぶんにも自分には官職がないし、部下は私兵と見なされているので、凱旋の後も、外城より入るを許されず、また、忠誠の兵たちにも、この冬に向って、一枚の暖かい軍衣、一片の賞禄をもわけ与えることができないので、せめて外城の門衛に立っていても、霜をしのぐに足る暖衣と食糧とを恵まれんことを乞うために、きょう
「ほ……」
張均は、驚いた顔して、
「では、足下はまだ、官職にもつかず、また、こんどの恩賞にもあずかっていないんですか」
と、重ねて
「はい、沙汰を待てとのことに、外城の門に
「それは初めて知りました。
「…………」
玄徳の面にも、
「いや、よろしい」
やがて張均はつよくいった。
「それも、これも、思い当ることがある。地方の騒賊を
郎中張均は、そう慰めて、玄徳とわかれ、やがて参内して、帝に拝謁した。
めずらしく帝のお側には誰もいなかった。
帝は、玉座からいわれた。
「張郎中。きょうは何か、
張均は、階下に
「帝のご聡明を信じて、臣張均は今日こそ、あえて、お気に入らぬことをも申しあげなければなりません。照々として、公明な御心をもて、暫時、お聴きくださいまし」
「なんじゃ」
「ほかでもありませんが、君側の十
十常侍ときくと、帝のお眸はすぐ横へ向いた。
御気色がわるい――
張均には分っていたが、ここを
「臣が多くを申しあげないでも、ご聡明な帝には、
「張郎中。なんできょうに限って、突然そんなことを云いだすのか」
「いや、十常侍らが政事を
「怨み?」
「はい。たとえば、こんどの黄巾の乱でも、その賞罰には、十常侍らの私心が、いろいろ働いていると聞いています。
帝の御気色は、いよいよ曇って見えた。けれど、帝は何もいわれなかった。
十常侍というのは、十人の内官のことだった。民間の者は、彼らを
霊帝はまだご
「――遊ばしませ、ご断行なさいませ。今がその時です。陛下、ひとえに、ご賢慮をお決し下さいませ」
張均は、口を
遂には、玉座に迫って、帝の
「では、張郎中、
ここぞと、張均は、
「十常侍らを獄に下して、その首を刎ね、南郊に
云いかけた時である。
「だまれっ。――まず汝の首より先に獄門に梟けん」
と、
張均は、あッと驚きのあまり昏倒してしまった。
手当されて、後に、典医から薬湯をもらったが、それを飲むと眠ったまま死んでしまった。
張均は、その時、そんな死に方をしなくても、帝へ忠諫したことを十常侍に聴かれていたから、必ずや、後に命を
十常侍も、以来、
「油断しておると、とんでもない忠義ぶった奴が現れるぞ」
と気がついたか、
それもあるし、帝ご自身も、功ある者のうちに、恩賞にももれて不遇をかこち、不平を抑えている者がすくなくないのに気がつかれたか、特に、勲功の再調査と、第二期の恩賞の実施とを沙汰された。
張均のことがあったので、十常侍も反対せず、むしろ自分らの善政ぶりを示すように、ほんの形ばかりな辞令を交付した。
その中に、劉備玄徳の名もあった。
それによって、玄徳は、
もちろん、一官吏となったのであるから、多くの手兵をつれてゆくことは許されないし、必要もないので五百余の手兵は、これを王城の軍府に託して、編入してもらい、ほんの二十人ばかりの者を従者として連れて行ったに過ぎなかった。
その冬は、任地でこえた。
わずか四ヵ月ばかりしか経たないうちに、彼が役についてから、県中の政治は大いに
強盗悪逆の徒は、影をひそめ、良民は徳政に服して、平和な毎日を楽しんだ。
「張飛も関羽も、自己の器量に比べては、今の小吏のするような仕事は不服だろうが、しばらくは、現在に忠実であって貰いたい。時節はあせっても求め難い」
玄徳は、時おり二人をそういって慰めた。それは彼自身を慰める言葉でもあった。
その代り、県尉の任についてからも、玄徳は、彼らを下役のようには使わなかった。共に貧しきにおり、夜も床を同じゅうして寝た。
するとやがて、河北の野に芽ぐみだした春とともに、
「天子の使いこの地に来る」
と、伝えられた。
勅使の使命は、
「このたび、黄巾の賊を平定したるに、軍功ありといつわりて、
という
そういう沙汰が、役所へ達しられてから間もなく、この安喜県へも、
玄徳らは、さっそく関羽、張飛などを従えて、督郵の行列を道に出迎えた。
何しろ、使いは、地方巡察の勅を奉じてきた大官であるから、玄徳たちは、地に坐して、最高の礼をとった。
すると、馬上の督郵は、
「ここか安喜県とは。ひどい田舎だな。何、県城はないのか。役所はどこだ。県尉を呼べ。今夜の旅館はどこか、案内させて、ひとまずそこで休息しよう」
と、いいながら、
勅使督郵の人もなげな傲慢さを眺めて、
「いやに役目を鼻にかけるやつだ」と、関羽、張飛は、かたはらいたく思ったが、虫を抑えて、一行の車騎に従い、県の役館へはいった。
やがて、玄徳は、衣服を正して、彼の前に、挨拶に出た。
督郵は、左右に、随員の吏を侍立させ、さながら自身が帝王のような顔して、高座に構えこんでいた。
「おまえは何だ」
知れきっているくせに、督郵は上から玄徳らを見下ろした。
「県尉玄徳です。はるばるのご下向、ご苦労にございました」
「ああおまえが当地の県の尉か。途々、われわれ勅使の一行が参ると、うすぎたない住民どもが、車騎に近づいたり、指さしたりなど、はなはだ
「はい」
「旅館のほうの準備は整うておるかな」
「地方のこととて、諸事おもてなしはできませんが」
「われわれは、きれい好きで、飲食は贅沢である。田舎のことだから仕方がないが
意味ありげなことをいったが、玄徳には、よく解し得なかった。けれど、帝王の命をもって下ってきた勅使であるから、真心をもって、応接した。
そして、ひとまず退がろうとすると、督郵はまた訊いた。
「
「されば、自分の郷家は

と、いうと、
「こらっ、黙れ」
督郵は、突然、高座から叱るようにどなった。
「中山靖王の後胤であるとかいったな。
「……はっ」
「退がれ」
「…………」
玄徳は、唇をうごかしかけて、何かいわんとするふうだったが、益なしと考えたか、黙然と礼をして去った。
「いぶかしい人だ」
彼は、督郵の随員に、そっと一室で面会を求めた。
そして、何で勅使が、ご不興なのであろうかと、原因をきいてみた。
随員の下吏は、
「それや、あんた知れきっているじゃありませんか、なぜ今日、督郵閣下の前に出る時、
玄徳は、唖然として、私館へ帰って行った。
私館へ帰っても、彼は、
「県の土民は、みな貧しい者ばかりだ。しかも一定の税は徴収して、中央へ送らなければならぬ。その上、なんで巡察の勅使や、大勢の随員に、彼らの満足するような
玄徳は、嘆息した。
次の日になっても、玄徳のほうからなんの贈り物もこないので、督郵は、
「県吏をよべ」と、他の吏人を呼びつけ、
「尉玄徳は、
玄徳の徳に服してこそはいるが、玄徳に何の落度も考えられない県の吏は、恐れわななくのみで、答えも知らなかった。
すると、督郵も重ねて、
「訴状を書かんか、書かねば汝も同罪と見なすぞ」と、脅した。
やむなく、県の吏は、ありもしない罪状を、督郵のいうままに並べて、訴状に書いた。督郵は、それを都へ急送し、帝の沙汰を待って、玄徳を厳罰に処せんと称した。
この四、五日。
「どうも面白くねえ」
張飛は、酒ばかりのんでいた。
そう飲んでばかりいるのを、玄徳や関羽に知れると、意見されるし、また、この数日、玄徳の顔いろも、関羽の顔いろも、はなはだ憂鬱なので、彼はひとり、
「……どうも面白くねえ」をくり返して、どこで飲むのか、姿を見せず飲んでいた。
その張飛が、
「やい。どこまで行く気だ」
眼をさますと、張飛は、乗っている驢にたずねた。驢は、てこてこと、軽い
「おや、なんだ?」
役所の門前をながめると、七、八十名の百姓や町の者が、土下座して、なにか
張飛は、驢をおりて、
「みんな、どうしたんだ。おまえら、なにを役所へ泣訴しておるんだ」と、どなった。
張飛のすがたを見ると、百姓たちは、声をそろえていった。
「旦那はまだなにもご存じないんですか。勅使さまは、県の吏人に、訴状を書かせて、都へさし送ったと申しますに」
「なんの訴状をだ」
「日頃、わしらが、お慕い申している、尉の玄徳さまが、百姓いじめなさるとか、
聞くと、張飛は、毛虫のような眉をあげて、閉めきってある役館の門をはったと睨みつけた。
「おい」
張飛はいった。大地に坐っている大勢の百姓町民へ向って、
「おまえ達は、退散しろ。これから俺がやることに、後で、かかり合いになるといけないぞ」
しかし百姓たちは、泥酔しているらしい張飛が、何をやりだすのかと、そこを起っても、まだ附近から眺めていた。
張飛は、門を打ち叩いて、
「番人どもっ、開けろ、開けなければ、ぶちこわすぞっ」と、どなり出した。
役館の番卒は、「何者だっ」と、中から覗き合っていたが、

「誰だ、誰だ?」と、さわぎ立ち、県尉玄徳の部下だと聞くと、
「開けてはならぬぞ」と、厳命した。そして人数をかためて、門の内へさらにまた、幾重にも
その気配に、張飛はいよいよ怒りを心頭に発して、
「よしっ、その分ならば!」
門の柱へ両手をかけたと思うと、
中にいた番卒や督郵の家来たちは、逃げおくれて、幾人かその下敷になった。張飛は、豹の如く、その上を躍り越えて、
「督郵はどこにいるかっ。督郵に会わんっ」と、
番卒たちは、それと見て、
「やるな」
「捕えろ」と、さえぎったが、
「えい、邪魔な」
とばかり張飛は投げとばす、踏みつぶす、撲りたおす、あたかも一陣の旋風が、塵を巻いて
折から勅使督郵は、昼日中というのに、
張飛は、帳を払って、
「やいっ
眼は百錬の鏡にも似、髯はさかしまに立って、丹の如き
「――きゃっ」と、胡弓や琴をほうりだして
督郵も、ちぢみ上がって、
「なんじゃ、待て、乱暴なことをするな」
と、ふるえ声で、逃げかけるのを、張飛はとびかかって、
「どこへ行く」
軽く一つ撲ったが、督郵は
「じたばたするな」
張飛は、その体を軽々と横に引っ抱えると、また疾風のように外へ出て行った。
門外へ出てくると、
「犬にでも喰われろ」
と、張飛は、引っ抱えてきた督郵のからだを、大地へたたきつけて罵った。
「汝のような腐敗した
督郵の顔を踏んづけて、張飛がいうと、督郵は、手足をばたばたさせて、
「者どもっ。この
悲鳴に似た声でわめいた。
「やかましい」
「そうだ、見せしめのために」
と、督郵の両手を有りあう縄で縛りあげ、その縄尻を柳の枝に投げて、吊しあげた。
柳から
「どうだ、やいっ」
と、一本の柳の枝を折って、まずぴしりと一つ撲った。
「痛いっ」
「あたり前だ」と、また一つ打ち、
「悪吏の虐政に苦しむ人民の
柳の枝は、すぐ粉々になった。
また新しい柳の枝を折って撲りつけるのだった。三十、四十、五十、二百以上も打ちすえた。
督郵は、見栄もなく、ひイひイひイと声をあげて、
「ゆるせ」と、泣き声だし、
「待て、待ってくれ。なんでもいう通りにするから」
と、遂には、涙さえこぼして、あわれっぽく叫んだが、
「だめだ。その手は食わぬ」
と、張飛は、乱打をやめなかった。
その日も玄徳は、私宅に閉じこもって、
「大変です。今、張飛さまが、お酒に酔って、役所の門をぶちこわし、勅使の高官を、柳の木に吊しあげて打ちすえております」
と、告げて去った。玄徳は驚いて、そのまま馳けだして行った。
折ふし居合せた関羽も、
「ちぇッ、張飛のやつ、また持病を起したか」
と、舌打ちしながら、玄徳の後から馳けつけた。
見ると、柳に吊されている督郵は、衣裳もやぶれ、
仰天して、玄徳は、
「これっ、何をする」と、張飛の腕くびをつかんで叱りつけた。
張飛は、大息つきながら、
「いや、止めないで下さい。民を害する逆賊とはこいつのことです。息のねを止めないでは俺の虫がおさまらん」
と、玄徳のさえぎりなどは物ともせず、さらに、
悲鳴を放って、張飛の鞭にもがいていた督郵は、柳の梢から玄徳のすがたを見つけて、
「おお、それへ来たのは、県尉玄徳ではないか。公の部下の張飛が、酒に酔って、わしをかくの如く殺そうとしている。どうか早く止めてくれ。もしわしを助けてくれたなら、このまま、張飛の罪も不問にし、おん身には、帝に急使を立てて前の訴状をとどめ、代わるに充分な恩爵をもって
「はやく助けてくれ」
と何度も悲鳴をくり返した。
そのいやしい言葉を聞くと、張飛の暴を制しかけていた玄徳も、かえって止める意志をさまたげられた。
けれど、彼は、いかに
「止めぬかっ張飛」と、彼の手から柳の枝を奪い、その枝をもって張飛の肩を一つ打った。
玄徳に打たれたことは初めてである。さすがの張飛も、はっと顔色を醒まして棒立ちになった。もちろん不平満々たる色をあらわしてではあったが。
玄徳は、柳の幹の縄を解いて、督郵のからだを大地へ下ろしてやった。すると、それまで、是とも非ともいわず黙って見ていた関羽が、つと馳け寄ってきて、
「長兄。お待ちなさい」
「なぜ」
「そんな人間を助けてやったところで、所詮、むだなことです」
「何をいう。わしはこの人間から利を得るために助けようとするのではない。ただ、天子の御名を
「わかっております。しかしそういうお気持も、いったいどこに通じましょうか。前には、身命を
「……ぜひもない」
「ぜひもないことはありません。こんな不法は蹴とばすべきです。先頃からそれがしもつらつら思うに、
関羽には、時々、
玄徳はいつも聴くべき言はよく聴く人であったが、今も、彼の言をじっと聞いているうちに、大きくうなずいて、
「そうだ。……いいことをいってくれた。我れ栖む所を誤てり」
と、胸にかけていた県尉の
「卿は、民を害する賊吏、今その
そして張飛、関羽のふたりをかえりみて、
「さ。行こう」
と、風の如くそこを去った。
いっさんに馳けた玄徳らは、ひとまず私宅に帰って、私信や文書の
官を捨てて野に去ろうとなると、これは張飛も大賛成で、わずかの手兵や召使いを集め、
「ご主人には今度、にわかに、思うことがあって、県の
貰う物を貰って、自由にどこかへ去る者もあり、どこまでも、玄徳様に従ってと、残る者もあった。
かくて夜に入るのを待ち、手廻りの家財を
――一方の督郵は。
あの後、間もなく、下吏の者が寄ってきて、役所の中へ抱え入れ、手当を加えたが、五体の傷は火のように痛むし、大熱を発して、幾刻かは、まるで人事不省であった。
だが、やがて少し落着くと、
「県尉の玄徳はどうしたっ」
と、うわ
その玄徳は、官の印綬を解いて、あなたの首へかけると、捨てぜりふをいって馳け走りましたが、今宵、一族をつれて夜逃げしてしまったという噂です――と側の者が告げると、
「なに。逃げ落ちたと。――ではあの張飛という奴もか」
「そうです」
「おのれ、このまま、おめおめと無事に、逃がしてなろうか。――つ、つかいを、すぐ急使をやれっ」
「都へですか」
「ばかっ。都へなど、使いを立てていたひには間にあうものか。ここの
「はっ。――何としてやりますか」
「玄徳、常に民を
「はっ。わかりました」
「待て。それだけではいかん。すぐさま、
「心得ました」
早馬は、定州の府へ飛んだ。
定州の太守は、
「すわ、大事」と、勅使の名におそれ、また、督郵の
数日の後。
「何者とも知れず、安喜県のほうから
との報告があった。
「それこそ、玄徳であろう。からめ捕って、都へ差立てろ」
定州の太守の命をうけて、即座に鉄甲の迅兵約二百、ふた手にわかれて、玄徳らの一行を追いかけた。
北へ、北へ、車馬と落ち行く人々の影はいそいだ。
幾度か、他州の兵に襲われ、幾度か追手の
「張飛。御身の指図で、ここまではやって来たが何か落着く先の
関羽もいうし、玄徳も、実は案じていたらしく、
「いったい、これからどこへ落着こうという考えか」と、共々に訊ねた。
「ご安心なさるがよい」
張飛は大のみこみで云った。そして
「しばらく、ご一同は、その辺に車馬を休めて待っていて下さい」
と、一人でどこへか立ち去ったが、ほどなく立ち帰ってきて、
「
と告げた。
「劉大人とは、どこの何をしておる人物かね」
「この土地の大地主です。まあ大きな郷士といったような家柄と思えばまちがいありません。常に百人や五十人の食客は平気で邸においているんですから、われわれ二十人やそこらの者が厄介になっても、先は平気です。またこの地方の人望家でもありますから、しばらく身をかくまっておいてもらうには、なによりな場所でしょうが」
「それは願ってもないことだが、御身との間がらは、どういう仲なのだ」
「劉大人も、今こそ、こんな田舎にかくれて、岳南の隠士などと気どっていますが、以前は、拙者の旧主
「そうか。その上にまた、同勢二十人も、食客をつれこんでは、劉大人も、眉をひそめておいでだろう」
「そんな事はありません。非常に浪人を愛する人ですし、玄徳様のご素姓と、われわれ義軍が、官地を捨てて去ったことなど、つぶさにおはなししたところ、苦労人ですから、非常によく分ってくれて、二年でも三年でもいるがいいというわけなんで」
張飛のことばに、
「そういう人物の邸なら身を寄せてもよかろう」
と、玄徳も安心して、彼の案内について行った。
すると、
「あの邸です。どうです、まるで豪族の家のようでしょう」と、自分の住居ででもあるように誇って云った。
玄徳がふと
「はて、どこかで見たような」
玄徳はふとそんな気がした。
遠目ではあったが、妙に印象づけられた。もっとも、
麗人は、すぐ広い土塀に囲まれた、豪家の門のうちへ入ってしまった。
「そこが劉大人の邸だ」
と、たった今、張飛に教えられたばかりなので、さては劉家の息女かなどと、玄徳はひとり想像していた。
ほどなく、玄徳らの一行も、そこの門前に着いた。一同は車を停め、驢から降りて、
ここの
けれど、張飛に案内されて、
やがてのこと、
「はい、てまえが、当家の
こう主の
「ありがたい。酒さえあれば何年だっていられますよ」
と、もう贅沢をいう。
玄徳はいんぎんに、
「何分」
と、しばらくの
劉大人は、いかにも大人らしい
「どうです、落着くでしょう」
張飛は手がら顔にいう。
「落着きすぎるくらいだ」と、関羽は笑って、
「ぼろを出さぬようにしてくれよ」
と、暗に張飛の酒ぐせをたしなめた。
年を越えた。春になった。
五台山下の部落は、まことに平和なものだった。ここには、劉恢が土豪として、
しかし、張飛や関羽は、その余りにも無事なのにむしろ苦しんだ。酒にも平和にも
それとは違って、玄徳は近ごろひどく無口であった。常に物思わしいふうが見える。
「長兄も、この頃はようやく、ふたたび戦野が恋しくなってきているのではないかな。風雲児、とみに元気がないが」
ある時、関羽がいうと、
「いやいや、戦野が恋しいのじゃないさ」
と張飛は首を振った。
「では、郷里の母御のことでも案じておられるのかな?」
「それもあろうが、原因はもっとべつなほうにある。おれはそう
「ふウむ。原因があるのか」
「ある」
張飛のはなしを聞いて関羽にも思い当るふしがあった。関羽はそれから特に玄徳の容子に注目していた。
すると、それから数日後の宵であった。その夜は
「おや、いつのまにか」
気がついて関羽はつぶやいた。三名して食卓を囲んでいたのである。張飛は例によっていつまでも酒をのんでいるし、自分も、杯をもって相手になっていたが、玄徳は室を去ったとみえて、彼の空席の卓には、皿や
「そうだ」
こよいこそ彼の行動をつきとめてみよう。関羽はそう考えたので張飛にも黙って急に部屋から出て行った。
そして南苑の白い梨花の
もう奥の内苑に近い。主の
「はて。これから先へゆく筈もないし」
関羽がたたずんでいると、ほど近い木の間を、誰か、
「……ははあ?」
関羽は自分の予感があたってかえって肌寒いここちがした。物事の裏とか、人の秘密とかには、むしろ
劉恢の姪という佳人は、やがて
すると梨の花の
「オ。玄徳さま」
「
ふたりは顔を見あわせてニコと笑み交わした。芙蓉の歯が実に美しかった。
相寄って、
「よく出られましたね」
玄徳がいう。
「ええ」
芙蓉はさしうつ向く。
そして梨畑のほうへ、ふたりは背を
「劉恢は、あれでとても、厳格な人ですからね。……食客や豪傑たちには、やさしい温情を示す人ですけれど、家庭の者には、おそろしくやかましい人なんです。……ですから、……、こうして
「そうでしょう。何しろ、われわれのような食客が常に何十人もいるそうですからね。私も、関羽だの張飛だのという腹心の者が、同じ室にいて、眼を光らしているので、彼らにかくれて出てくるのもなかなか容易ではありません」
「なぜでしょうね」
「何がですか」
「そんなにお互いに苦労しながらでも、夜になると、どうしてもここへ出てきたいのは」
「私もそうです。自分の気もちがふしぎでなりません」
「美しい月ですこと」
「夏や秋の冴えた頃よりも、今頃がいいですね。夢みているようで」
梨の花から梨の花の径をさまよって、二人は飽くことを知らぬげであった。夢みようと意識しながら、あえて、夢を追っているふうであった。
この家の
「ああ、平和は雄志を
彼は、慨嘆した。
見まじきものを見たように関羽はあわてて後苑の梨畑から馳け戻ってきた。そして客館の食卓の部屋をのぞくと、張飛はただ一人でまだそこに酒を飲んでいた。
「おい」
「やあ、何処へ行っていたのだ」
「まだ飲んでいるのか」
「飲むよりほかに為すことはないじゃないか。いかに
「一杯もらおう、実は今、いっぺんに酒が醒めてしまったところだ」
「どうしたのか」
「……張飛」
「ウム」
「おれは、貴様のように、いたずらに現在の世態や時節の来ぬことを、そう悲観はしないつもりだが、今夜はがっかりしてしまった。――
「ひどく失望の態だな」
「もう一杯くれ」
「めずらしく飲むじゃないか」
「飲んでから話すよ」
「なんだ」
「実は今、おれは、人の秘密を見てしまった」
「秘密を」
「されば。先頃から貴様が謎めいたことをいうので、こよい玄徳様が出て行った後からそっと
「なにを見たのだ一体」
「あろうことかあるまいことか。当家の
「そのことか」
「貴様は前から知っていたのか」
「うすうすは」
「なぜわしに告げないのだ」
「でも、できてしまっているものは仕方がないからな」
張飛も腐った顔つきしてつぶやいた。その顔を頬杖にのせて、片手で独り酒を
「英傑児も、あまり平和な温床に長く置くと
「志を得ぬ
「訊かれると面目ない」
「なぜ? なぜ貴様が面目ないのか」
「……実はその、あの芙蓉娘は拙者の旧主
「え。では貴様の旧主のご息女なのか」
「まだ義盟を結ばない数年前のはなしだが、その芙蓉娘と玄徳様とは、
「え。そんなに古いのか」
関羽が呆れ顔した時、室の外に誰かの
劉恢は、室内の様子を見て、
「おさしつかえないですか」と、二人の許しをうけてから入ってきた。そしていうには、
「困ったことができました。数日の内に、洛陽の巡察使と定州の太守が、この地方へ巡遊に来る。そしてわしの邸がその宿舎に当てられることになった。当然、あなた方の潜伏していることが発覚する。一時どこかへ隠れ場所をお移しなさらぬと危ないが」
という相談であった。
折も折である。
関羽、張飛も、一時は途方にくれたここちがしたが、むしろこれは、天が自分らの
「いや、ご当家にも、だいぶ長い間の逗留となりました。そういうことがなくても、このへんで一転機する必要がありましょう。いずれわれわれども三名で相談の上、ご返辞申しあげます」
「なんともお気の毒じゃが。……なお、落着く先にお心当りもなければ、わしの信じる人物で安心のなる所へご紹介もして上げますから」
劉恢は、そういって、戻って行った。
後で、二人は顔見あわせて、
「玄徳様と芙蓉娘の仲を、主もさとってきて、これはいかんと、急にあんな口実をいってきたのではあるまいか」
「さあ。どうとも知れぬ」
「しかし、いい
「そうだ。玄徳様のためには至極いいことだ」
翌朝。二人はさっそく、「
すると玄徳は、一時は、はっとした顔色だったが、直ぐうつ向いた眼ざしをきっとあげて、
「立退こう。恩人の劉大人にご迷惑をかけてもならぬし、自分もいつまで安閑とここにいる気もなかったところだから」と、いった。
そういう玄徳の面には、深く現在の自身を反省しているらしい容子が見えた。
そこで関羽は、思いきって、こういってみた。
「――ですが、お名残り惜しくはありませんか、この家の深窓の佳人に」
玄徳は微笑のうちにも、幾分か
「
と、答えた。
その一言に、
「さすがは」
と関羽も、自分の取越し苦労を打消し、すっかり眉をひらいた。
「そういうお気持なら安心ですが、実は、われわれの盟主たりまた、大望を抱いている英傑児が、一女性のために、壮志を
「いや」
玄徳は、正直にいった。
「恋をささやいている間は、恥かしいが、わしは本気で恋をささやいているよ。女を
「え……?」
「だが両君。乞う、安んじてくれ給え。玄徳はそれだけが全部にはなりきれない。恋のささやきも一ときの間だ。すぐわれに返る。
その翌日である。玄徳たち三名は、にわかに五台山麓の地、
別れにのぞんで、主の劉恢は、
「また、時をうかがって、この地へぜひ戻っておいでなさい。お連れになってきた二十名の兵や
「ありがとう」
四人は起って乾杯した。
劉恢のいうように、ここへくる時連れて来た二十名ばかりの一族郎党の身は、皆、劉家に託しておいて、関羽、張飛、玄徳、思い思いに別れて一時身をかくすこととなった。
が――劉家の門を出る時は、三人一緒に出た。世間の眼もあるので、劉恢はわざと見送らなかった。けれど、邸内の楼台から三名の姿が遠くなるまで独り見送っている美人があった。いうまでもなく
張飛は知っていた。
しかし、わざと何もいわなかった。玄徳も黙々と歩いていた。
もう五台山の影も後ろに遠く霞んでから、張飛がそっと玄徳へいった。
「きのうお言葉を伺って、もう自分らもあなたの心事を疑うような気もちは抱いておりません。むしろ大丈夫の多情多恨のおこころを推察しておりますよ。例えば、私が酒を愛するようなものですからな」
彼は、酒と恋を、一つものに考えているのだ。
その程度だから、玄徳の心に同情するといっても、およそ玄徳の感傷とははなはだ遠いものにちがいなかった。
「――だが、長兄」と、張飛はまた、玄徳の顔をさし覗いて云った。
「豪傑は色に触るべからずという法はない。あなただって一生涯独身でいられるわけもない。ほんとに芙蓉娘がお好きならこの張飛が話してどんなことにでもします。拙者にとっては、旧主のご息女ではあるし、ああいう頼りのないお身の上ですからむしろあなたに願っても生涯を見ていただきたいくらいなものですよ。けれど今はいけませんな。時でないでしょう。志を得た後のことにね」
「わかったよ」
玄徳は、うなずいた。
それから州道の道標の下まで来ると、
「じゃあ、わしはここから一人別れて、ひとまず郷里の

張飛も、関羽も、各

「こんどはいつここで会おう」
「この秋」
玄徳がいう。二人はうなずいて、
「ではあなたはこれから

「うム。ご無事なお顔だけ拝したら、またすぐ風雲の
「おさらば」
「気をつけて」
「お互いに」
三名は三方の道へ、しばし別離の姿をかえりみ合った。
関羽と張飛のふたりに別れてから、玄徳は姿を土民のふうに変えて、ただ一人、故郷の

「ああ、桑の木も変らずにある……」
何年ぶりかで、わが家の門を見た玄徳は、そこに立つと一番先に、例の巨きな桑の大樹を、懐かしげに見上げていた。
――かたん。
――ことん、かたん。
すると
その機を、その
問うまでもない、玄徳の母であった。征野に立った息子の後を、ひとり留守している老いたる母にちがいなかった。
「いかにお淋しいことであったろう。また、ご不自由なことであったろう」
家にはいらぬうちに、玄徳はもう
――すみません。
彼はまず故園の荒れたる門に心から詫びて、そして機の音の聞える裏のほうへ馳けこんで行った。
ああそこに、黙然と、
「母上っ」
ひざまずいた。
「――母上。わたくしです。今帰って参りました」
「……?」
老母は、驚いた顔して、機の手を休めた。そして、玄徳のすがたをじっと見て、
「……阿備か」
と、いった。
「長い間、お便りもろくにせず、定めし何かとご不自由でございましたろう。陣中心にまかせず、転戦からまた転戦と、戦に暮れておりましたために」
子の言葉をさえぎるように、
「阿備。……そしておまえはいったい、なにしに帰ってきたのですか」
「はい」
玄徳は地に面を伏せて、
「まだ志も達せず、晴れて母上にお目にかかる時機でもありませんが、先頃から官地を去って、野に
老母の眼は明らかにうるんでみえた。髪もわずかのうちに梨の花を盛ったように雪白になっていた。眼もとの肉もやつれてみえるし――
しかし、以前にかわらないものは、子に対してじっと向ける眸の大きな愛と
「阿備……」
「はい」
「それだけで、そなたはこの家へ帰っておいでなのかえ」
「え。……ええ」
「それだけで」
「――母上」
すがり寄る玄徳の手を、老母は、藁ゴミとともに
「なんです。
思いのほかな母の不機嫌な
母は、その子を、大地に見ながら、なお叱っていった。
「まだおまえが郷土を出てから、わずか二年か三年ではないか。貧しい武器と、訓練もない郷兵を集めて、このひろい天下の騒乱の中へ打って出たおまえが、たった三年やそこらで、功を遂げ名をあげて戻ってこようなどと……そんな夢みたいなことを母は考えて待っておりはしない。……世の中というものはそんな単純ではありません」
「母上。……玄徳の
「
「……そうです」
「ようく、お分りであろう。……もうそなたも三十に近い男児。それくらいなことは」
「はい」
「そこらの豪傑たちが、乱世に乗じて、一州一郡を
「はい」
「千億の民の幸いを思いなさい。老先のないこの母ひとりなどが何であろう。そなたの心が――せっかく奮い起した大志が――この母ひとりのために
「あ。母上」
玄徳は驚いて、ほんとにそういう決心もしかねない母の
「悪うござりました。もう決して
「…………」
老母も、くずれるように、地へ膝をついた。そして、玄徳の体を、そっと抱いて、白髪の
「阿備や……。だが、わたしはね、亡きお父さんの代りにもなっていうのだよ。今のは、お父さまのお声だよ。お叱りだよ。――あしたの朝は、近所の人の人目にかからないように、暗いうちに立っておくれね」
そういうと、老母はいそいそと
間もなく、
玄徳は、その間に、
手もとが暗くなってくる。白い夕星がもう上にあった。
「ああ。故園は変らない――」
玄徳は嘆じた。
桃花はまた春に若やぐが、母の白髪が再び黒くかえる日はない。春秋は人の身のうえにのみ短い。しかも自分の思う望みは遠くまた大きく、いつの日、彼の母が心のそこからよろこんでくれる時がくるだろうか、考えると、いたずらに大きな嘆声が出るばかりであった。
「――阿備やあ。阿備やあ」
もう暗い母屋のほうでは、母が
時は、
帝は病の
「
と、
大将軍何進は、すぐ参内した。何進はもと牛や豚を
そのため兄の何進も、一躍要職につき、権を握る身となったのである。
何進は、病帝をなぐさめて、
「ご安心なさいまし。たとえ如何なることがあっても、何進がおります。また、皇子がいらっしゃいます」といって退がった。
しかし、帝の気色は、
帝には、なお、複雑な
何后は、それを知って、大いに嫉妬し、ひそかに
ところが、董太后は、預けられた協皇子が可愛くてたまらなかった。帝もまた、何后の生んだ
で、十
「もし、協皇子を、皇太子に立てたいという思し召ならば、まず何后の兄何進から先に
「……ウム」
帝は蒼白い顔でうなずかれた。
自己の病は篤い。いつとも知れない命数。
帝は決意すると急がれた。
にわかに、何進の邸へ向って、
「急ぎ、参内せよ」と、勅令があった。
何進は、変に思った。
「はてな。きのう参内したばかりなのに?」
急に帝の病状でも変ったのかと考えて、家臣に探らせてみるとそうでもない。のみならず、十常侍の
「
と、参内しないかわりに、廟堂の諸大臣を私館へ招いて、
「こういう事実がある。実に怪しからぬ陰謀だ。さなきだに天下みな、十常侍の輩を恨んで、機あらば、彼らの肉を
「…………」
誰も皆、黙ってしまった。ただびっくりした眼ばかりであった。すると、座隅の一席からひとりの
「至極けっこうでしょう。しかし十常侍とその与党の勢力というものは、宮中においては、想像のほかと承ります。将軍、威あり実力ありといえども、うっかり手を焼くと、ご自身、
見るとそれは、
「だまれっ。貴様のような若輩の一武人に、朝廷の内事が分ってたまるものか、ひかえろ」
と、一言に叱りつけた。
ために、座中白け渡って見えた時、折も折、霊帝がたった今
何進は、その報らせを手にすると、会議の席へ戻ってきて、諸大臣以下一同に向い、
「ただ今、重大なる報らせがあったが、まだ公の発表ではないから、そのつもりで聞いて欲しい」と、前提し、厳粛なる口調で、次のように述べた。
「天子、ご
「…………」
何進がそういい終っても、ややしばらくの間、会議の席は
諸大臣の面上には、はっとしたような色が流れた。予期していたことながら、
――どうなることか?
と、この先の政治的な変動やら一身の
しかも場合が場合である。
何進が、十常侍をみな殺しにせんと息まいてこの席に計り、十常侍らは、何進を
そも、何の
人々が一瞬自失したかのように、暗澹たる
――ああ、漢朝四百年の天下も今日から崩れ始める
と、いうような予感に襲われたのも、決してむりではない。
しばし、黙祷のうちに、人々は亡き霊帝をめぐる近年の宮廷の浅ましい限りの女人と権謀の争いやら、数々の悪政の頽廃を胸によびかえして、今さらのように、深い嘆息をもらし合った。
× × ×
霊帝は不幸なお方だった。
何も知らなかった。十常侍たちの見せる「
十常侍の一派にとっては、霊帝は即ち「
その悪政を数えたてればきりもないが、まず近年のことでは、黄巾の乱後、恩賞を与えた将軍や勲功者へ、裏からひそかに人をやって、
「公らの軍功を奏上して、公らはそれぞれ莫大な封禄の恩典にあずかりたるに、それを奏した十常侍に、なんの沙汰もせぬのは、非礼ではないか」
などと
恐れて、すぐ
「何をばかな」
と、一蹴したので、十常侍たちはこもごもに、天子に
また、
たまたま、
従って宮廷の
この動乱と風雲の再発に、人の運命も波浪にもてあそばれる如く転変をきわめたが、たまたま、幸いしたのは、前年来、不遇の地におわれて、代州の
「天下は泰平です。みな帝威に伏して、何事もありません」
十常侍の輩は、口をあわせて、いつもそんなふうにしか、奏上していなかった。
だが。
長沙の乱へは、孫堅を向わせて、平定に努めていた。
また
その頃。
故郷の

といわれて、一通の紹介状をもらった。
玄徳は恩を謝して、直ちに、関羽張飛などの一族をつれ、劉虞の所へ行った。劉虞はちょうど、中央の命令で、漁陽に起った乱賊を
(よし。君らの一身はひきうけた)と、自分の軍隊に編入して、戦場へつれて行った。
四川、漁陽の乱も、ようやく一時の平定を見たので、その後、劉虞は朝廷へ表をたてまつって、玄徳の勲功あることを大いにたたえた。
同時に、廟堂の

(玄徳なる者は、前々黄賊の大乱の折にも抜群の功労があったものです)と、
で、玄徳は、即時、一族を率いて任地の平原へさし下った。行ってみると、ここは地味
(天、我に兵馬を養わしむ)と、みな非常に元気づいた。そこで玄徳以下、張飛や関羽たちも、ようやくここに
――果たせるかな。
一雲去れば一風生じ、征野に賊を
× × ×
会議の席も、
「将軍。お耳を」と、室外にちらと影を見せた者があった。
「オ、潘隠か。なんだ」
何進はすぐ会議の席をはずし、外廊で何かひそひそ潘隠のささやきを聞いていた。
潘隠が告げていうには、
「十常侍の輩は例によって、帝の崩御と同時に、謀議をこらし、帝の死を隠しておいて、まずあなたを宮中に召し、後の禍いを除いてから
何進は聞いて、
「
ところへ案の定、宮中からお召しという使者が来邸して、
「天子、今ご気息も危うし。
「狸め」
何進は、潘隠へ向って、
「こいつを血祭にしろ」と命じるや否や、再び、会衆の前に立って、
「もう俺の堪忍はやぶれた。
すると、先に忠言して何進に一喝された典軍の校尉
「将軍将軍。今日ついに断を下して計をなさんとするならば、まず、天子の位を正してしかる後に賊を討つことをなし給え」と叫んだ。
何進も、今度は前のように、だまれとはいわなかった。大きくうなずいて、
「誰か我がために、新帝を正して、
「
人々の
これなん、漢の司徒
袁紹は、昂然とのべた。
「願わくば自分に精兵五千を授け給え。直ちに禁門に入って、新帝を
何進はよろこんで、
「行けっ」と、号令した。
この一声に洛陽の王府は一転戦雲の天と修羅の地になったのである。
袁紹は、たちまち鉄甲に身を
その間に。
何進もまた、車騎将軍たる武装をして

百官の拝礼が終って、
「新帝万歳」の声が、喪の
「次には、陰謀の首魁
と、剣を抜いて宣言した。
そしてみずから宮中を捜しまわって、蹇碩のすがたを見つけ、
「おのれっ」と、何処までもと追いかけた。
蹇碩はふるえ上がって、懸命に逃げまわったが、度を失って御苑の花壇の陰へ這いこんでいたところを、何者かに尻から槍で突き殺されてしまった。
彼を突き殺したのは、同じ仲間の十常侍
「将軍、なんで無言のままこの混乱を見ているんですか。時は今ですぞ、宮廷の
「ウむ。……むむ」
何進はうなずいていた。
けれど顔色は蒼白で、日頃の元気も見えない。元来、小心な何進、一時は憤怒にかられて、この大事をあえて求めたが、一瞬のまに禁門の内外はこの世ながらの修羅地獄と化し、自分を殺そうと謀った
その間に。
一方十常侍の面々は、
「すわ、大変」と、狼狽して、
「よい、よい。安心せい」
何后はすぐ、兄の何進を呼びにやった。
そして何進をなだめた。
「私たち兄妹が、
何進は、妹にそういわれると、むかし牛の屠殺をしていた頃の貧しい自分の姿が思い出された。
「なに、俺は、俺を殺そうと謀った蹇碩の奴さえ
内宮を出ると、何進は、右往左往する味方や宮内官たちを、鎮撫する気でいった。
「蹇碩は、すでに誅罰した。彼は我を害さんとしたから斬ったのである。我に害意なき者には、我また害意なし。安心して鎮まれ!」
すると、それを聞いて、
「将軍、何をばかなことをいうんですか」
と、
「この大事を挙げながら、そんな手ぬるい宣言を将軍の口から発しては困ります。今にして、
「いや、そういうな。宮門の火の手が、洛陽一面の火の手になり、洛陽の火の手が、天下を
何進の優柔不断は、とうとう袁紹の言を容れなかった。
一時、禁門の兵乱は、治まったかに見えた。
その後。
「邪魔ものは
と、悪策をめぐらして、太后を
故霊帝の母公たる董太后も、今は彼らの勢力に拒む力もなかった。これというのも、前帝の
けれど、何后も何進も、それでもまだ不安を覚えて、ひそかに後から刺客をやって、董太后を殺してしまった。
わずかの間に董太后はふたたび洛陽の帝城に還ってきたが、それは
京師では大葬が
けれど、何進は、
「病中――」と称して、宮中へも世間へも顔を出さなかった。
彼は怒りっぽい。
しかも、小心であった。
彼は自己や一門の栄華のために大悪もあえてする。けれど小心な彼は半面でまた、ひどく世間に気がねし、自らも責めている。
要するに何進は、下賤から人臣の上に立ったが、大なる野望家にもなりきれず、ほんとの悪人にもなりきれず、位階冠帯は重きに過ぎて、
貝殻が人の跫音に貝のフタをしているように、門から出ないので、或る日、袁紹は何進の邸を訪ねて、
「どうしました将軍」と、見舞った。
「どうもせんよ」
「お元気がないじゃないですか」
「そんなことはない」
「――ところで、聞きましたか」
「何を? ……じゃね」
「董太后のお生命をちぢめた者は何進なりと、また、例の
「……ふウむ」
「だから私がいわない事ではありません。今からでも遅くないでしょう。あくまでも、
「……む、む」
「ご決断なさい」
「考えておこう」
煮え切らない顔つきである。
袁紹は舌打ちして帰った。
「袁紹が来てこうこうだ」とすぐ密報する。
諜報をうけて、
「また、大変だ」と、宦官らはあわてた。――だが、危険になると、消火栓のような便利な手がある。何進の妹の何后へすがって泣訴することであった。
「いいよ」
何后は、彼らからあやされている
「何進をおよび」
また、始まった。
「兄さん、あなたは、悪い部下にそそのかされて、またこの平和な宮中を乱脈に騒がすようなことを考えなどなさりはしないでしょうね。禁裡の内務を宦官がつかさどるのは、漢の宮中の伝統で、それを憎んだり殺したりするのは、宗廟に対して非礼ではありませんか」
釘を刺すと、何進は、
「おれはなにもそんなことを考えておりはせぬが……」
と、あいまいに答えたのみで退出してしまった。
宮門から退出してくると、
「将軍。どうでした」
と、彼の乗物の蔭に待っていた武将が、参内の
「ア。……
「何太后に召されたと聞いたので、案じていたところです。何か、
「……ム。あったにはあったが」
「ご決意を告げましたか」
「いや、こちらから云いださないうちに、太后から、
「いけません」
袁紹は、断乎としていった。
「そこが、将軍の弱点です。宦官どもは、一面にあなたを陥し入れるように、陰謀や悪宣伝を放って、露顕しかかると、太后の
「なるほど……」
そういわれると、何進も、気づくところがあった。
「今です。今のうちです。今日をおいて、いつの日かありましょう。よろしく、四方の英雄に
彼の熱弁には、何進もうごかされるのである。なるほどと思い――それもそうだと思い、いつのまにか、
「よしっ、やろう。実はおれもそれくらいのことは考えていたのだ」と、いってしまった。
二人の密談を、乗物のおいてある樹蔭の近くで聞いていた者がある。典軍の校尉曹操であった。
曹操は、独りせせら笑って、
「ばかな煽動をする奴もあればあるものだ。
それから、彼はまた、何進の
「……失敗するにきまっている。さあ、その先は、どんなふうに風雲が
と、独りごとにいっていた。
けれど、曹操は、もう自分の考えを、何進に直言はしなかった。その点、袁紹の如く真っ正直な熱弁家でもないし、何進のような小胆者とも違う彼であった。
彼は今、天下に多い野望家とつぶやいたが、彼自身もその一人ではなかろうか。
× × ×
ここに、
その董卓の手へ、
「洛陽からです」
と或る日、一片の
洛陽にある
天下の府、枢廟 の弊 や今きわまる。よろしく公明の旌旗 を林集し、正大の雲会を遂げ、もって、昭々 日月の下に万代の革政を諸公と共に正さん。
といったような意味を伝え、その反響いかにと待っていたところ、やがて諸国から続々と、「
とか、或いは、
「提兵援助」
などという答文をたずさえた使者が日夜早馬で先触れして来て、彼の館門を叩いた。
「西涼の
――
「檄文は、董卓へもお出しになったんですか?」
「む。……出した」
「彼は、
「わしも同感だ」
と、室の一隅で、参謀の幕将たちと、一面の地形図をひらいていた一老将が、歩を何進のほうへ移してきながら云った。
見ると、中郎将
彼は黄匪討伐の征野から
「おそらく董卓は、檄文を見て時こそ来れりとよろこんだに違いない。政廟の革正をよろこぶのでなく、乱をよろこび、自己の野望を乗ずべき時としてです。――わしも董卓の人物はよく知っておるが、あんな
盧植は、わざと、鄭泰のほうへ向って話しかけた。暗に何進を
「そう諸君のように、疑心をもっては、天下の英雄を操縦はできんよ」
「――ですが」
「まだまだ、君たちは、大事を共に謀るに足りんなあ」と、いった。
鄭泰も、盧植も、
「……そうですか」
と、後のことばを胸にのんで退がってしまった。そしてこの両者をはじめ、心ある朝臣たちも、こんなことを伝え聞いて、そろそろ何進の人間に
「董卓どのの兵馬は、もう

何進は、部下から聞いて、
「なぜすぐにやって来んのか。迎えをやれ」と、しばしば使いを出した。
けれど、董卓は、
「長途を来たので、兵馬にも少し休養させてから」
とか、軍備を整えてとか、何度催促されても、それ以上動いて来なかった。何進の催促を
一方。宮城内の十常侍らも、何進が諸国へ

「さてこそ」と、彼らはあわてながらも対策を講ずるに急だった。そこで張譲らはひそかに手配にかかり、
宮門を出た使者は平和時のように、わざと
「いけません」
何進の側臣たちは、即座に十常侍らの
「太后の
こういわれると、それに対して自分にない器量をも見せたいのが何進の病であった。
「なにをいう。宮中の病廃を正し、政権の正大を期し、やがては天下に臨まんとするこの何進である。十常侍らの
変にその日は強がった。
すぐ車騎の用意を命じ、その代り鉄甲の精兵五百に、物々しく護衛させて、参内に出向いた。果たせるかな、
「兵馬は禁門に入ることならん。門外にて待ちませい」
と隔てられ、何進は、数名の従者だけつれて入った。それでも彼は
「豚殺し待てっ」
と、物陰から呶鳴られて、あっとたじろぐ間に、前後左右、十常侍一味の軍士たちに取巻かれていた。
躍りでた
「何進っ、汝は元来、洛陽の裏町に、豚を屠殺して、からくも生きていた貧賤ではなかったか。それを、今日の栄位まで昇ったのは、そもそも誰のおかげと思うか。われわれが陰に陽に、汝の妹を天子に
何進は、真ッ蒼になって、
「しまった!」
と口走ったが、時すでに遅しである。諸所の宮門はみな閉ざされ、逃げまわるにも
「――わッっ。だっ!」
何進はなにか絶叫した。空へでも飛び上がってしまう気であったか、躍り上がって、体を三度ほどぐるぐるまわした。張譲は、跳びかかって、
「下郎っ。思い知ったか」
と、真二つに斬りさげた。
青鎮門外ではわいわいと騒がしい声が起っていた。なにかしら宮門の中におかしな空気を感じだしたものとみえ、
「何将軍はまだ退出になりませんか」
「将軍に急用ができましたから、早くお車に召されたいと告げて下さい」
などと喚いて動揺しているのであった。
すると、城門の
「やかましいッ。鎮まれ。汝らの主人何進は、
なにか
何進の幕将で中軍の校尉
「おのれ」と、青鎖門を睨んだ。
同じ何進の部下、
「おぼえていろ」と、怒髪を逆だて、宮門に火を放つと五百の精兵を駆って、なだれこんだ。
「十常侍をみなごろしにしろ」
「
華麗な宮殿は、たちまち土足の暴兵に占領された。炎と、黒煙と、悲鳴と矢うなりの
「
「おのれもかっ」
宦官と見た者は、見つかり次第に殺された。宮中深く棲んでいた十常侍の輩なので、兵はどれが誰だかよく分らないが、
十常侍
天日も
女人たちの棲む後宮の悲鳴は、雲にこだまし地底まで届くようだった。
その中を、十常侍一派の張譲、
ところへ。
「待てっ毒賊。帝を擁し、太后をとって、
大喝して、馬上から降りるまに張譲たちは、新帝と陳留王の車馬に鞭打って逃げてしまった。
ただ何太后だけは、盧植の手にひき留められた。
折ふし、宮中各所の火災を、懸命に部下を指揮して消し止めていた校尉曹操に出会ったので、ふたりは、
「新帝のご帰還あるまで、しばし、大権をお執りくだされたい」
と請い、一方諸方に兵を派して、新帝と陳留王の後を追わせた。
洛陽の巷にも火が降っていた。兵乱は今にも全市に及ぶであろうと、家財商品を負って避難する民衆で混乱は極まっている。その中を――張譲らの馬と、新帝、皇弟を乗せた
けれど、輦の車輪はこわれ、張譲らの馬も傷ついたり、ぬかるみへ脚を入れたりして、みな
「――ああ」
帝は、時々、よろめいた。
そして大きく嘆息された。
かえりみれば、洛陽の空は、夜になってまだ赤かった。
「もう少しのご辛抱です」
張譲らは、帝を離すまいとした。帝を擁することが自分らの強味だからである。
草原の果てに、

「もうだめだっ」
無念を叫びながら、張譲は、自ら河に飛込んで自殺してしまった。帝と、帝の弟の
やがて河を越えて驟雨のように馳け去って行ったのは、河南の
「…………」
しゅく、しゅく……と新帝は草むらの中で泣き声をもらした。
皇弟陳留王は、わりあいにしっかりした声で、
「ああ
「…………」
帝は微かにうなずいた。
二人は、衣の
「ああ、蛍が……」
陳留王はさけんだ。
大きな蛍の群れが、風のまにまに一かたまりになって、眼のまえをふわふわ飛んでゆく、蛍の光でも非常に心づよくなった。
夜が明けかけた――
もう歩けない。
新帝はよろめいたまま起き上がらなかった。陳留王も、
「ああ」と、腰をついてしまった。
「どこから来た?」と、訊ねるのである。
見まわすと、古びた荘院の土塀が近くにある。そこの
「いったい、そなた達は、
と、重ねて問う。
陳留王は、まだしっかりした声を持っていた。帝を指さして、
「先頃、ご即位されたばかりの新帝陛下です。十常侍の乱で、宮門から遁れてきたが、侍臣たちはみなちりぢりになり、ようやく、私がお供をしてこれまで来たのです」と、いった。
主は、仰天して、
「そして、あなたは」と、眼をまろくした。
「わしは、帝の弟、陳留王という者である」
「げっ、では真の? ……」
主は、驚きあわてた様で、帝を扶けて、荘院のうちへ迎え入れた。古びた田舎
「申しおくれました。自分儀は、先朝にお仕え申していた
主は改めて礼をほどこした。
その夜明け頃――
河へ投身して死んだ張譲を見捨てて、
「不忠者め」
と、閔貢は、馬上から一
「なにせい、この地方に来られたに違いない」と、捜査の手分けを命じ、自身もただ一騎馳け、
帝と陳留王のふたりを
「田舎です、なにもありませんが、飢えをおしのぎ遊ばすだけと
帝も、皇弟も、浅ましきばかりがつがつと粥をすすられた。
崔毅は涙を催して、
「安心して、お眠りください。外はてまえが見張っておりますから」と、告げて退がった。
荒れた
すると、
「誰か?」
どきっとしながらも、何くわぬ顔して、
「おいおい、家の主、なにか喰う物はないか。湯なと一杯恵んでくれい」
声に振向くと、それは馬上の
崔毅は、彼の馬の鞍に結いつけてある生々しい首級を見て、
「おやすいことです。――ですが豪傑、その首は一体、誰の首です」
閔貢は問われると、
「知らずや、これは十常侍張譲などと共に、久しく廟堂に巣くって、天下の害をなした段珪という男だ」
「えっ、ではあなたはどなたですか」
「河南の
「ああ、では!」
崔毅は、手をあげて、奥のほうへ転んで行った。
閔貢は怪しんで、馬をつなぎ、後から駈けて行った。
「お味方の豪傑が、お迎えにやって来ましたよ」
崔毅の声に、藁の上で眠っていた帝と陳留王は、夢かとばかり狂喜した。そしてなお、閔貢の拝座するすがたを見ると、うれし泣きに抱き合って号泣された。
帝も帝におわさず
王また王に非ず
千乗万騎走るなる
北
の草野、夏 茫々
――思いあわせればこの夏の初め頃から、洛陽の童女のなかにこんな歌が王また王に非ず
千乗万騎走るなる

「天下一日も帝なかるべからずです。さあ、一刻も早く、都へご還幸なされませ」
閔貢のことばに、崔毅は、自分の
閔貢は、自分の馬に、陳留王を乗せて、二騎の口輪をつかみ、門を出て、諸所へ散らかっている兵をよび集めた。
二、三里ほど来ると、
「おお、帝はご無事でおわしたか」
校尉
また、司徒
「還御を盛んにし、洛陽の市民にも安心させん」
と、段珪の首を、早馬で先へ送り、洛陽の市街に
かくて帝の
「や、や?」とばかり、随身の将卒百官、みな色を失って立ちすくんだ。
「敵か?」
「そも、
帝をはじめ、茫然、疑い怖れているばかりだったが、時に
「それへ来るは、何者の軍隊か。帝いま、皇城に還り給う。道をふさぐは不敬ではないか」
と、大喝した。
すると、
「おうっ。吾なり」
と吠えるが如き答が、正面へきた軍の真ん中に轟き聞えた。
千
これなん先頃から洛陽郊外の

董卓、

「何者だっ」
と、咎めたが、部将などは眼中にないといった態度で、
「天子はいずこに
と、
すると、帝の御駕のすぐうしろから、
「ひかえろッ」
凜たる音声に、董卓も思わず駒をすこし
「何。控えろと。――そういう者は誰だっ」と眼をみはった。
「おまえこそ、名をいえ」
こういって馬を前へ出してきたのは、皇弟の陳留王であった。帝よりも年下の紅顔の少年なのである。
「……あっ。皇弟の陳留王でいらっしゃいますな」
董卓も、気がついてあわてて、馬上で礼儀をした。
陳留王は、あくまで頭を高く、
「そうだ。そちは誰だ」
「西涼の刺史董卓です」
「その董卓が、何しに来たか。――
「はっ……」
「いずれだ!」
「お迎えに参ったのでござる」
「お迎えに参りながら、天子のこれにましますに、下馬せぬ無礼者があるかっ、なぜ、馬をおりん!」
身なりは小さいが、王の声は実に峻烈であった。威厳に打たれたか、董卓は二言もなく、あわてて馬からとびおりて、道のかたわらに退き、謹んで帝の車駕を拝した。
陳留王は、それを見ると、帝に代って、
「大儀であった」
と、董卓へ言葉を下した。
「これは、今の帝を廃して、陳留王を御位に立てたほうが……?」
と、いう大野望が、早くもこの時、彼の胸には芽を
洛陽の
帝と皇弟の車駕も、かくて無事に宮門へ還幸になった。
「おお」
と、共に相擁したまま、しばらくは
そして太后はすぐ、
「
と、帝のお手にそれを戻そうとして求めたが、いつのまにか紛失していた。
伝国の玉璽が見えなくなったことは漢室として大問題である。だがそれだけに、絶対に秘密にしていたが、いつか洩れたとみえてひそかに聞く者は、
「ああ。またそんな

「寄るな」
「咎められるな」
人民は
その頃、
後軍の校尉
「どうかしなければいかんでしょう。あいつらの
「なんのことだ」
「知れきったことでしょう。
「だまっていたまえ」
「なぜです。私は、安からぬ思いがしてなりませんが」
「でも、この頃ようやく、宮廷も少しお静かになりかけたところだからな」
鮑信はまた、同じような憂えを、司徒の
網をたずさえた
「ううむ。まったくだ。同感だ。だが、どうしようもないじゃないか」
「やんぬる
鮑信は、嫌になって、自分の手勢だけを
去る者は去り、
董卓の性格は、その軍に、彼の態度に、ようやく露骨にあらわれてきた。
「
「はい」
「断行しようと思うがどうだろう。もういいだろう」
董卓は、
李儒は、よろしいでしょうと云った。時機は今です、早くおやりなさいともつけ加えた。これも彼に劣らぬ暴逆家だ。しかし董卓は気にいった。
翌日。温明園で大宴会がひらかれた。招きの主人名はいうまでもなく董卓である。ゆえに、その威を怖れて欠席した者はほとんどなかったというてよい。文武の百官はみな集まった。
「みなお揃いになりました」
侍臣から知らせると、董卓は容態をつくろって、
美酒玉杯、数巡して、
「今日の宴に列せられた諸公にむかって、予は一言提議したい」
董卓は起って、おもむろにこう発言した。
なにをいうのかと、一同は静まり返った。董卓はその肥満した体をぐっとそらすと、
「予は思う。天子は
大問題だ。
聞く者みな色を
董卓は、
「ここにおいて、予はあえていおう。憂うるなかれ諸卿と。幸いにも、皇弟
驚くべき大事を、彼は宣言同様にいいだしたのである。広い大宴席に
すると、百官の席のうちから、突として誰か立つ音がした。一斉に人々の首は彼のほうを見た。
「吾輩は起立した、反対の表示である」
董卓はくわっと睨めて、
「木像を見ようとは思わない。反対なら反対の意見を吐け」
「天子の座は、天子の御意にあるものである。臣下の私議するものではない」
「私議はせん。故におれは公論に
「先帝の正統なる
皮肉ると、董卓は、
「だまれっ、われに
「なにをする気か」
丁原は、びくともしなかった。
それも道理、彼のうしろには、一個の偉丈夫が儼然と立っていて、
(丁原に指でもさしてみろ)といわんばかり恐ろしい顔していた。
董卓の股肱として、常に秘書のごとく側へついている
「きょうは折角の
「……む、うむ」
董卓も、気づいたので、不承不承、剣の柄から手をさげた。しかしどうも、丁原のうしろに立っている男が気になってたまらなかった。
――けれど、董卓の野望は、丁原に反対されたぐらいで、決してしぼみはしなかった。
大饗宴の席は一時、そんなことで白け渡ったが、酒杯の交歓ひとしきりあると、董卓はまた起って、
「最前、予の述べたところ、おそらく諸君の意中であり、天下の公論と思うがどうだろう」
と、重ねて
すると、席にあった中郎将
「もうお止めなさい。あまり我意を押しつけようとなさると、天子の廃立に名分をかりて、董公ご自身が、
なにか、故事をひいて、学者らしく諫言しかけると、董卓は、
「だまれっ、だまれっ――貴様も血祭りに首を出したいのか」
と激怒して、周囲の武将をかえりみ、
「彼を斬れっ。斬っちまえ。斬らんかっ」と指さし震えた。
けれど、李儒は、押止め、
「いけません」と、いった。
「盧植は海内の学者です。中郎将としてよりも、
「では、追っ払えっ」
董卓は、またつづけざまに怒号した。
「官職を引っ
もう、誰も止めなかった。
盧植は、官を逐われた。この日から先、彼は世を見限って、
それは、さておき、饗宴もこんなふうで、殺伐な散会となってしまった。帝位廃立の議は、またの日にしてと、百官は逃げ腰に閉会の乾杯を
司徒
ところが。
最前から轅門の外に、黒馬に踏みまたがって、手に
ちらと、董卓の眼にとまったので、彼は
「あれですよ、最前、丁原のうしろに突っ立っていた男は」
「あれか。はてな、身なりが違うが」
「武装して出直して来たんでしょう。怖ろしい奴です。丁原の養子で、
聞いていた董卓は、にわかに恐れを覚え、あわてて園内の一亭へ隠れこんでしまった。
重ね重ね彼は呂布のために丁原を討ち損じたので、呂布の姿を、夢の中にまで大きく見た。どうも忘れ得なかった。
するとその翌日。
こともにわかに、丁原が兵を率いて、董卓の陣を急に襲ってきた。彼は聞くや否や、大いに怒って、たちまち身を鎧い、陣頭へ出て見ていると、たしかに昨日の呂布、黄金の

その日の戦いは、
「
「漢の天下、内官の
と討ってかかった。
董卓は、一言もなく、敵の優勢に怖れ、自身の恥ずる心にひるんで、あわてて味方の楯の内へ逃げこんでしまった。
そんなわけで董卓の軍は、その日、士気のあがらないことおびただしく、董卓も腐りきった態で、遠く陣を退いてしまった。
夜――
本陣の燈下に、彼は諸将を呼んで嘆息した。
「敵の丁原はともかく、養子の呂布がいるうちは勝ち目がない。呂布さえおれの配下にすれば、天下はわが
すると、諸将のうちから、
「将軍。嘆ずるには及びません」と、いった者がある。
人々がかえりみると、
「李粛か。なんの策がある?」
「あります。私に、将軍の愛馬
「それをどうするのか」
「幸いにも、私は、呂布と同郷の生れです。彼は勇猛ですが賢才ではありません。以上の二品に、私の持っている三寸
「ふム。成功するかな?」
「まず、おまかせ下さい」
でもまだ迷っている顔つきで、董卓は、側にいる
「どうしよう。李粛はあのように申すが」
すると李儒は、
「天下を得るために、なんで一匹の馬をお惜しみになるんです」と、いった。
「なるほど」
董卓は大きくうなずいて、李粛の献策を容れることにし、秘蔵の名馬
赤兎は稀代の名馬で、一日よく千里を走るといわれ、馬体は真っ赤で、風をついて
李粛は、二人の従者にその名馬をひかせ、金銀珠玉をたずさえて、その翌晩、ひそかに呂布の陣営を訪問した。
呂布は彼を見ると、
「やあ、貴公か」と、手を打ってよろこび、「君と予とは、同郷の友だがその後お互いに消息も聞かない。いったい今はどうしているのか」と、帳中へ迎え入れた。
李粛も、
「自分は漢朝に仕えて、今では
その時、呂布はふと耳をそばだてて、李粛へ訊いた。
「今、陣外にいなないたのは、君の乗馬か、啼き声だけでもわかるが、素晴らしい名馬を持っているじゃないか」
「いや、外につないであるのは、自分の乗用ではない。
呂布は、
「これは稀代の逸駿だ」と驚嘆して、
「こんな贈り物を受けても、おれはなにも酬いるものがないが」
と、陣中ながら酒宴をもうけて歓待に努める容子は、心の底からよろこんでいるふうだった。
酒、たけなわの頃を計って、
「だが呂布君。折角、君に贈った馬だが、赤兎馬のことは、足下の父がよく知っておるから、必ず君の手からとり上げてしまうだろう。それが残念だな」
李粛がいうと、
「は……何をいうのか、君はだいぶ酔ってきたな」
「どうして」
「吾輩の父は、もう世を去ってこの世に
「いやいや。わしのいうのは足下の実父ではない。養父の
「あ。養父のことか」
「思えば、足下ほどな武勇才略を備えながら、
「けれど、父亡き後、久しく丁原の邸に養われてきた身だから、今さら、どうにもならん」
「ならん? ……そうかなあ」
「おれだって、若いし、大いに雄才を伸ばしてみたい気もするが」
「そこだ、呂布君。
「む、む。……では李君。貴公のみるところでは、今の朝臣の中で、英雄とゆるしてよい人は、一体誰だと思うか」
李粛は一言のもとに、
「それやあ、
「賢を敬い、士に篤く、寛仁徳望を兼備している英傑といえば董卓をおいては、ほかに人物はない。必ずや将来大業をなす人はまずあの将軍だろうな」
「そうかなあ。……やはり」
「足下はどう思う」
「いや、実はこの呂布も、日頃そう考えているが、何しろ丁原と仲が悪いし、それに縁もないので――」
聞きもあえず李粛は、たずさえてきた金銀珠玉をそれに取りだして、
「これこそ、その董卓公から、貴公へ礼物として送られた物だ。実は、予はその使いとして来たわけだ」
「えっ。これを」
「赤兎馬もご自身の愛馬で、一城とも取換えられぬ――といっておられるほど秘蔵していた馬だが、ご辺の武勇を慕って、どうか上げてくれというお言葉じゃ」
「ああ。それまでにこの呂布を愛し給うか。何をもって、おれは知己の篤い志に酬いたらいいのか」
「いや、それはやすいことだ。耳を貸し給え」と、李粛はすり寄った。
陣帳風暗く、夜は
「……よしっ」
呂布は大きくうなずいた。
何事かを、その耳へささやいた李粛は、彼の怪しくかがやく眼を見つめながら、そばを離れて、
「善は急げという。ご決心がついたら直ぐやり給え。予は、ここで酒を酌んで、
呂布は、直ちに出て行った。
そして営の中軍へ入って、丁原の幕中をうかがった。
丁原は、
「誰だっ」と、振向いた。
血相の変った呂布が剣を抜いて突っ立っているので、
「呂布ではないか。何事だ、その血相は」
「何事でもない。大丈夫たるものなんで汝がごとき
「ばッ、ばかっ。もう一度いってみい」
「何を」
呂布は、躍りかかるや否や、一刀のもとに、丁原を斬り伏せ、その首を落した。
黒血は燈火を消し、夜は惨として暗澹であった。
呂布は、狂える如く、中軍に立って、
「丁原を斬った。丁原は不仁なるゆえに、これを斬った。志ある者はわれにつけ。不服な者は、我を去れっ」と、大呼して馳けた。
中軍は騒ぎ立った。去る者、従う者、混乱を極めたが、半ばは、ぜひなく呂布についてとどまった。
この騒ぎが揚ると、
「大事成れり」と、李粛は手を打っていた。
やがて直ちに、呂布を伴い、
「でかしたり李粛」と、董卓のよろこびもまた、非常なものであった。
翌日、特に、呂布のために盛宴をひらいて、董卓自身が出迎えるというほどの歓待ぶりであった。
呂布は、贈られたところの赤兎馬にまたがって来たが、鞍をおりて、
「士はおのれを知る者の為に死すといいます。今、暗きを捨てて明らかなるに仕う日に会い、こんなうれしいことはありません」と、
董卓もまた、
「今、大業の途に、足下のごとき俊猛をわが軍に迎えて、
と、手をとって、酒宴の席へ迎え入れた。
呂布は、有頂天になった。
しかもまた、黄金の
× × ×
呂布は、
董卓はもう怖ろしい者あるを知らない。その威勢は、旭日のように
自分は、前将軍を領し、弟の
思うことができないことはない。
――が、まだ一つ、残っている問題がある。帝位の廃立である。李儒はまた、側にあって、しきりにその実現を彼にすすめた。
「よろしい。今度は断行しよう」
董卓は、省中に大饗宴を催して再び百官を一堂に招いた。
洛陽の都会人は、宴楽が好きである。わけて朝廷の百官は皆、舞楽をたしなみ、酒を愛し、長夜にわたるも辞さない酔客が多かった。
(――今日は、この間の饗宴の時よりも、だいぶ
董卓は、大会場の空気を見まわして、そう察していた。
時分は好し――と、
「諸卿!」
彼は、卓から起って、一場の挨拶を試みた。
初めの演舌は、至極、主人側としてのお座なりなものであったから、人々はみな一斉に
「謝す。謝す」と、声を和し、拍手の音も、しばし鳴りもやまなかった。
董卓は、その沸騰ぶりを、自分への人気と見て、
「さて。――いつぞやは遂に諸公のご明判を仰いで議決するまでに至らなかったが、きょうはこの盛会と吉日を
と、現皇帝の廃位と陳留王の
熱湯が
「…………」
「…………」
誰も彼も、この重大問題となると
すると、一つの席から、
「否! 否!」と叫んだ者がある。
中軍の校尉
袁紹は、敢然、反対の口火を切っていった。
「
董卓は、剣に手をかけて、
「だまれっ。陰謀とは何か」
「廃帝の議をひそかに計るのが陰謀でなくてなんだ」
袁紹も負けずに呶鳴った。
董卓はまッ青になって、
「いつ密議したか。朝廷の百官を前において自分は信ずるところをいっておるのだ」
「この宴は私席である。朝議を議するならば、なぜ帝の玉座の前で、なお多くの重臣や、太后のご出座をも仰いでせんか」
「えいっ、やかましいっ。私席で嫌なら、汝よりまず去れ」
「去らん。おれは、陰謀の宴に頑張って、誰が賛成するか、監視してやる」
「いったな、貴様はこの董卓の剣は切れないと思っておるのか」
「暴言だっ。――諸君っ、今の声を、なんと聞くか」
「天下の権は、予の自由だ。予の説に不満な輩は、袁紹と共に、席を出て行けっ」
「ああ。妖雷声をなす、天日も
「世まい言を申しておると、一刀両断だぞ。去れっ、去れっ、異端者め」
「誰がおるか、こんな所に」
袁紹は、身をふるわせながら、席を蹴って飛び出した。
その夜のうち、彼は、官へ辞表を出して、遠く
席を蹴って、袁紹が出て行ってしまうと、董卓は、やにわに、客席の一方を強くさして、
「
と、左右の武士に命じた。
袁隗はまッ青な顔をして、董卓の前へ引きずられて来た。彼は、袁紹の伯父にあたる者だった。
「こら、汝の
「はっ……はいっ」
「汝は、この董卓が宣言した帝位廃立をどう思う? 賛同するか、それとも、甥の奴と同じ考えか」
「尊命の如し――であります」
「尊命の如しとは!」
「あなたのご宣言が正しいと存じます」
「よしっ。しからばその首をつなぎ止めてやろう。ほかの者はどうだ。我すでに大事を宣せり。
剣をあげて、雷の如くいった。
並いる百官も、
董卓は、かくて、威圧的に百官に宣誓させて、また、
「


と、いちいち役名と名を呼びあげて、その起立を見ながら厳命を発した。
「我に
「はっ」
三将のうち、二人は命を奉じて、すぐ去りかけたが、侍中周

「あいや、おそれながら、仰せはご短慮かと存じます。上策とは思われません」
「周

「いえ、袁紹の首一つをとるために、大乱の生じるのを怖れるからです。彼は平常、恩徳を布き、門下には
「ぜひもない。予に背く者は討つあるのみだ」
「ですが、元来、袁紹という人物は、思慮はあるようでも、決断のない男です。それに天下の大勢を知らず、ただ憤怒に駆られてこの席を出たものの、あれは一種の恐怖です。なんであなたの覇業を妨げるほどな害をなし得ましょうや。むしろ喰らわすに利をもってし、彼を一郡の太守に封じ、そっとしておくに限ります」
「そうかなあ?」
座右をかえりみて呟くと、

「では、袁紹を追い討ちにするのは、見あわせとしよう」
「それがいいです、上策と申すものです」
口々からでる
「使いを立てて、袁紹を
と、厳命を変更した。
その後。
九月
董卓は、帝を嘉徳殿に請じて、その日、文武の百官に、
――今日出仕せぬ者は、斬首に処せん。
という布告を発した。そして殿上に抜剣して、玉座をもしり目に、
「
と
予定の計画である。李儒は、はっと答えるなり、用意の宣言文をひらいて、
「
と高らかに読み始めた。
孝霊皇帝
眉寿 ノ祚 ヲ究 メズ
早ク臣子ヲ棄給 ウ
皇帝承 ケツイデ
海内側望ス
而シテ天資軽佻
威儀ツツシマズシテ慢惰
凶徳スデニアラワレ
神器ヲ損 イ辱 シメ宗廟ケガル
太后 マタ教 エニ母儀ナク
政治 統 テ荒乱
衆論ココニ起ル大革 ノ道
李儒は、さらに声を大にして読みつづけていた。早ク臣子ヲ
皇帝
海内側望ス
而シテ天資
威儀ツツシマズシテ
凶徳スデニアラワレ
神器ヲ
衆論ココニ起ル
百官の
すると突然、
「ああ、ああ……」
と、
太后は涙にむせぶの余り、ついに椅子から坐りくずれ、帝のすそにすがりついて、
「誰がなんといっても、あなたは漢の皇帝です。うごいてはいけませんよ。玉座から降ってはなりませんよ」
と、いった。
董卓は、剣を片手に、
「今、李儒が読み上げた通り、帝は
いいながら、帝を玉座から引き降ろして、その
そして、泣き狂う何太后をも、即座にその
時に。
ただ一人、大音をあげて、
「待てっ逆臣っ。汝董卓、そも誰から大権をうけて、天を
いうや否、群臣のうちから騒ぎだして、董卓を目がけて短剣を突きかけてきた者があった。
董卓は、おどろいて身をかわしながら、醜い声をあげて救けを呼んだ。
刹那――
「うぬっ、何するかっ」
横から跳びついた
さはあれ、ここに。
董卓は遂にその目的を達し、陳留王を立てて天子の位につけ奉り、百官もまた彼の暴威に怖れて、万歳を唱和した。
そして、新しき皇帝を
だが、献帝はまだ年少である。何事も董卓の意のままだった。
即位の式がすむと、董卓は自分を

同時に。
年号も
まだ若い廃帝は、明け暮れ泣いてばかりいる母の
「監視を怠るな」と厳命しておいた。
見張りの衛兵は、春の
春は来ぬ
けむる嫩草 に
々 たり
双燕は飛ぶ
ながむれば都の水
遠く一すじ青し
碧雲 深きところ
これみなわが旧宮殿
堤上 、義人はなきや
忠と義とによって
誰か、晴らさん
わが心中の怨みを――
衛兵は、聞くと、その詩を覚え書にかいて、けむる

双燕は飛ぶ
ながむれば都の水
遠く一すじ青し
これみなわが旧宮殿
忠と義とによって
誰か、晴らさん
わが心中の怨みを――
「
と、密告した。董卓は、それを見ると、
「
と呼び立てた。そして、その詩を李儒に示して、
「これを見ろ、幽宮におりながら、こんな悲歌を作っている。生かしておいては必ずや後の害になろう。何太后も廃帝も、おまえの処分にまかせる。殺して来い」と、いいつけた。
「承知しました」
李儒はもとより暴獣の爪のような男だ。情けもあらばこそ、すぐ十人ばかりの屈強な兵を連れて、永安宮へ馳せつけた。
「どこにおるか、王は」
彼はずかずか楼上へ登って行った。折ふし弘農王と何太后とは、楼の上で春の憂いに沈んでおられ、突然、李儒のすがたを見たのでぎょっとした
李儒は笑って、
「なにもびっくりなさる事はありません。この春日を慰め奉れ、と相国から酒をお贈り申しにきたのです。これは延寿酒といって、百歳の
携えてきた一壺の酒を取り出して杯を
「それは毒酒であろう」と、涙をたたえた。
太后も顔を振って、
「
李儒は、眼を怒らして、
「なに、飲まぬと。――それならば、この二品をお受けなさるか」
と、
「……おお。我に死ねとか」
「いずれでも好きなほうを選ぶがよい」
李儒は冷然と毒づいた。
弘農王は、涙の中に、
ああ、天道は易 れり
人の道もあらじ
万乗 の位 をすてて
われ何ぞ安からん
臣に迫られて命 はせまる
ただ潸々 、涙あるのみ
と、悲歌をうたってそれへ泣きもだえた。人の道もあらじ
われ何ぞ安からん
臣に迫られて
ただ
太后は、はったと李儒を睨めつけて、
「国賊!
「どうしたか」
董卓は美酒を飲みながら、李儒の
やがて李儒は、
「
弘農王の首と、何太后の首であった。
二つとも首は眼をふさいでいたが、その眼がかっと開いて、今にも飛びつきそうに、董卓には見えた。
さすがに眉をひそめて、
「そんな物、見せんでもいい。城外へ埋めてしまえ」
それから彼は、日夜、大酒をあおって、禁中の宮内官といい、後宮の女官といい、気に入らぬ者は立ちどころに殺し、夜は天子の
或る日。
彼は陽城を出て、四頭立ての
ところが、ちょうど村社の祭日だったので、なにも知らない農民の男女が晴れ着を飾って帰ってきた。
「農民のくせに、この晴日を、田へも出ずに、着飾って歩くなど、不届きな怠け者だ。天下の百姓の見せしめに召捕えろ」と、驢車の上で、急に怒りだした。
突然、相国の従兵に追われて、若い男女は悲鳴をあげて逃げ散った。そのうち逃げ遅れた者を兵が
「
と、相国は
手脚に縄を縛りつけて、二頭の
「いや、花見よりも、よほど面白かった」
驢車は
するとある
「逆賊ッ」と、
美姫たちは、悲鳴をあげ、驢は狂い合って、
「何するか、
肥大な体躯の持主である相国は、身うごきは敏速を欠くが、力はおそろしく強かった。
「
「残念だ」
「名を申せ」
「…………」
「誰か、叛逆を企む奴らの与党だろう。さあ、誰に頼まれたか」
すると、苦しげに、刺客はさけんだ。
「叛逆とは、臣下が君にそむくことだ。おれは貴様などの臣下であった覚えはない。――おれは朝廷の臣、越騎校尉の
「斬れッ、こいつを」
驢車から蹴落すとともに、董卓の武士たちは伍俘の全身に無数の刃と槍を加えて、
× × ×
都を落ちて、遠く
だが、王允は、その書簡を手にしてからも、日夜心で苦しむだけで、董相国を討つ計はなにも持たなかった。
日々、朝廷に上がって、政務にたずさわっていても、
ところがある日、董相国の息のかかった高官は誰も見えず、皆、前朝廷の旧臣ばかりが一室にいあわせたので、(これぞ、天の与え)とひそかによろこんで、急に座中へ向って誘いかけた。
「実は、今日は、此方の誕生日なのじゃが、どうでしょう、
「ぜひ伺って、公の
誰も、差支えをいわなかった。
董卓系の人間をのぞいて、水入らずに話したい気持が、期せずして、誰にも鬱していたからであった。
別業の竹裏館へ、王允は先へ帰ってひそかに宴席の支度をしていた。やがて宵から忍びやかに前朝廷の公卿たちが集まった。
時を得ぬ不遇な人々の密会なので、初めからなんとなく、座中はしめっぽい。その上にまた、酒のすすみだした頃、王允は、冷たい杯を見入って、ほろりと涙をこぼした。
見とがめた客の一人が、
「王公。せっかく、およろこびの誕生の宴だというのに、なんで落涙されるのですか」といった。
王允は、長大息をして、
「されば、自分の福寿も、今日の有様では、祝う気持にもなれんのじゃ。――不肖、前朝以来、三公の一座を占め、
といって、指で
聞くと一座の者も皆、
「ああ――」と、大息して、「こんな世に生れ合わせなければよかった。昔、漢の高祖三尺の剣をひっさげて白蛇を斬り、天下を鎮め給うてより王統ここに四百年、なんぞはからん、この末世に生れ合わせようとは」
「まったく、われわれの運も悪いものだ。こんな時勢に巡り合ったのは」
「――というて、少し大きな声でもして、董相国やその一類の
などと各

「わはははは。あはッはははは」
手を叩いて、誰か笑う者があった。公卿たちは、びっくりして、末席を振返った。見るとそこに若年の一朝臣が、独りで杯をあげ、白面に紅潮をみなぎらせて、人々が泣いたり愚痴るのを、さっきからおかしげに眺めていた。
王允は、その無礼をとがめ、
「誰かと思えば、そちは校尉
すると、曹操はなお笑って、
「いや、すみません。しかしこれが笑わずにおられましょうか。朝廷の諸大臣たる方々が、夜は泣いて暁に至り、昼は悲しんで暮れに及び、寄るとさわると泣いてばかりいらっしゃる。これでは天下万民もみな泣き暮しになるわけですな。おまけに、誕生祝いというのに、わさわさ集まって、また泣き上戸の泣き競べとは――。わはははは。失礼ですが、どうもおかしくって、笑いが止まりませんよ。あははは、あははは」
「やかましいっ。汝はそもそも、相国
「これは意外なお怒りを――」と、曹操はやや真面目に改まって、
「それがしとて何も理のないことを笑ったわけではありません。時の
と臆面もなくいった。
曹操の皮肉に
「しからば何か、そちはそのような広言を吐くからには、董卓を殺す計でもあるというのか。その自信があっての大言か」
王允が再び
「なくてどうしましょう!」
毅然として彼は眉をあげ、
「不才ながら小生におまかしあれば、董卓が首を斬って、洛陽の門に
と明言した。
王允は、彼の自信ありげな言葉に、かえって喜色をあらわし、
「曹校尉、もし今の言に偽りがないならば、まことに天が義人を地上にくだして、万民の苦しみを助け給うものだ。そも、君にいかなる計やある。願わくば聞かしてもらいたいが」
「されば、それがしが常に董相国に近づいて、表面、
「えっ。……では君には
「さもなくて、何の大笑大言を諸卿に呈しましょう」
「ああ、天下になおこの義人あったか」
王允はことごとく感じて、人々もまたほっと喜色をみなぎらした。
すると曹操は、「時に、王公に小生から、一つのご無心がありますが」といいだした。
「何か、遠慮なくいうてみい」
「ほかではありませんが、王家には昔より七宝をちりばめた稀代の名刀が伝来されておる由、常々、承っておりますが、董卓を刺すために、願わくばその名刀を、小生にお貸し下さいませんか」
「それは、目的さえ必ず仕遂げてくれるならば……」
「その儀は、きっとやりのけて見せます。董相国も近頃では、それがしを
「うム。それさえ首尾よく参るものなら、天下の大幸というべきだ。なんで家宝の名刀一つをそのために惜しもうや」
と、王允はすぐ家臣に命じて、秘蔵の七宝剣を取りだし、手ずからそれを曹操に授け、かつ云った。
「しかし、もし仕損じて、事
「乞う、
曹操は剣を受け、その夜の酒宴も終ったので、颯爽として帰途についた。七宝の利剣は燦として夜光の珠の帯の如く、彼の腰間にかがやいていた。
年二十で、初めて洛陽の北都尉に任じられてから、数年のうちにその才幹は認められ、朝廷の少壮武官に列して、禁中紛乱、時局多事の中を、よく失脚もせず、いよいよその地歩を
竹裏館の秘密会で、
生れは

その父曹嵩も、
「この子は
といって、幼少の時から、大勢の子のうちでも、特に曹操を可愛がっていた。
鳳眼というのは
少年の頃になると、色は白く、髪は
こんなこともあった。
少年の曹操は、学問など一を聞いて十を知るで、書物などにかじりついている日はちっとも見えない。
「困った奴だ」
叔父なる人が、将来を案じて、彼の父へひそかに忠告した。
「あまり可愛がり過ぎるからいけない。親の目には、子の良い才ばかり見えて、
父の曹嵩も、ちらちら良くないことを耳にしていた折なので、早速曹操を呼びつけて、厳しく叱り、一晩中お談義を聞かせた。
翌る日、叔父がやって来た。
すると曹操は、ふいに門前に卒倒して、
仮病とは知らず、正直な叔父は驚きあわてて奥の父親へ告げた。
父の曹嵩も、可愛い曹操のことなので、顔色を変えて飛びだして来た。――ところが曹操は門前に遊んでいて、いつもと何も変わったところは見えない。
「曹操、曹操」
「なんです、お父さん」
「なんともないのか。今、叔父御が駆けこんで来て、お前が
「ヘエ……。どうしてそんな嘘ッぱちを叔父さんは知らせたんでしょう。私はこの通り何でもありませんのに」
「変な人だな」
「まったく、叔父さんは変な人ですよ。嘘をいって、人が驚いたり困ったりするのを見るのが趣味らしいんです。村の人もいっていますね。――坊っちゃんは、あの叔父さんに何か憎まれてやしませんかッて。なんでも、わたしの事を放蕩息子だの、困り者だの、また癲癇持ちだのって、方々へ行って、しゃべりちらしているらしいんですよ」
曹操は、けろりとした顔で、そういった。彼の父は、そのことがあってからというもの、何事があっても、叔父の言葉は信じなくなってしまった。
「甘いもンだな。親父は」
曹操はいい気になって、いよいよ機謀縦横に
二十歳まで、これという職業にもつかず、家産はあるし、名門の子だし、叔父の予言どおり困り息子で通ってきた曹操だった。
しかし、人の憎みも多いかわり、一面任侠の
「気の
とか、また、
「曹操は話せるよ。いざという時は頼みになるからね」
と、彼を取り巻く一種の人気といったようなものもあった。
そういう友達の中でも、

「今に、天下は乱れるだろう。一朝、乱麻となったが最後、これを収拾するのは、よほどな人物でなければできん。或いは後に、天下を安んずべき人間は、ああいったふうな
と、青年たちの集まった場所で、真面目にいったこともある。
その橋玄が、ある折、曹操へ向っていった。
「君は、まだ無名だが、僕は君を有為の青年と見ているのだ。折があったら、
「子将とは、どんな人物かね」
曹操が問うと、
「非常に人物の鑑識に
「つまり人相
「あんないい加減なものじゃない。もっと
「おもしろい。一度訪うてみよう」
曹操は一日、その許子将を訪れた。座中、弟子や客らしいのが大勢いた。曹操は名乗って、彼の
「ふふん……」
曹操も、持前の皮肉がつい鼻先へ出て、こう
「――先生、池の魚は毎度
すると、許子将は、学究らしい薄べったくて、黒ずんだ唇から、抜けた歯をあらわして、
「
と、初めて答えた。
聞くと、曹操は、
「乱世の姦雄だと。――結構だ」
彼は、満足して去った。
間もなく。
年二十で、初めて
任は皇宮の警吏である。彼は就任早々、
「あの
彼の名はかえって高まった。
わずかな間に、騎都尉に昇進し、そして黄巾賊の乱が地方に起ると共に、征討軍に編入され、
(そも、何者?)
と、目を見はったことのあるとおりである。
そうした彼。
そうした人となりの
その翌日である。
曹操は、いつものように
「相国はどちらにおいでか」
と、小役人に訊ねると、
「ただ今、小閣へ入られて、書院でご休息になっている」
とのことなので、彼は直ちにそこへ行って、挨拶をした。董相国は、
「出仕が遅いじゃないか」
曹操の顔を見るや否や、董卓はそういって咎めた。
実際、陽はすでに
「恐れいります。なにぶん、私の持ち馬は痩せおとろえた老馬で道が遅いものですから」
「良い馬を持たぬのか」
「はい。薄給の身ですから、良馬は望んでもなかなか
「呂布」と、董卓は振り向いて、
「わしの
「はっ」
呂布は、閣の外へ出て行った。
曹操は、彼が去ったので、
――しめた!
と、心は躍りはやったが、董卓とても、武勇はあり大力の持主である。
(仕損じては――)
となお、大事をとって、彼の
ごろりと、背を向けて、牀の上へ横になった。
(今だ! 天の与え)
曹操は、心にさけびながら、七宝剣の柄に手をかけ、さっと抜くなり刃を背へまわして、牀の下へ近づきかけた。
すると、名刀の
むくりと、起き上がって、
「曹操、今の光は何だ?」
と、鋭い眼をそそいだ。
曹操は、刃を納めるいとまもなく、ぎょッとしたが、さあらぬ顔して、
「はっ、近頃それがしが、稀代の名刀を手に入れましたので、お気に召したら、献上したいと思って、
と騒ぐ色もなく、剣を差出した。
「ふウむ。……どれ見せい」
手に取って見ているところへ、呂布が戻ってきた。
董卓は、気に入ったらしく、
「なるほど、名剣だ。どうだこの刀は」
と、呂布へ見せた。
曹操は、すかさず、
「
と、呂布のほうへ、鞘をも渡した。
呂布は無言のまま、
「馬を見給え」と促すと、曹操は、
「はっ、有難く拝領いたします」
と、急いで庭上へ出て、呂布がひいて来た駿馬の
「あ。これは
という言葉に、董卓もつい、図に乗せられて、
「よかろう。試してみい」
とゆるすと、曹操はハッとばかり鞍へ飛び移り、にわかにひと鞭あてるや否や、丞相府の門外へ馳けだして、それなり帰ってこなかった。
「まだ戻らんか」
董卓は、不審を起して、
「試し乗りだといいながら、いったい何処まで馳けて行ったのだ――曹操のやつは」
と、何度も呟いた。
呂布は初めて、口を開いた。
「丞相、彼はおそらく、もう此処に帰りますまい」
「どうして?」
「最前、あなたへ名刀を献じた時の挙動からして、どうも
「ム。あの時の彼奴の素振りは、わしも少し変だと思ったが」
「お馬を賜わり、これ幸いと、風を喰らって逃げ去ったのかも知れませんぞ」
「――とすれば、捨ておけん
と、急に甲高くいって、巨きな躯を牀からおろした。
李儒は来て、つぶさに仔細を聞くと、
「それは、しまったことをした。
「憎ッくい奴め。李儒、どうしたものだろう」
「一刻も早く、お召しといって、彼の住居へ人をやってごらんなさい。二心なければ参りましょうが、おそらくもうその家にもおりますまい」
念のためと、直ちに、使い番の兵六、七騎をやってみたが、果たして李儒の言葉どおりであった。
そしてなお、使い番から告げることには――
「つい今しがた、その曹操は、黄毛の駿馬にまたがって、飛ぶが如く東門を乗打ちして行ったので、番兵がまた馬でそれを追いかけ、ようやく城外へ出る関門でとらえて詰問したところ、曹操がいうには――我は丞相の急命を帯びてにわかに使いに立つなり。汝ら、我をはばめて大事の急用を遅滞さすからには、後に董相国よりいかなるお咎めがあらんも知れぬぞ――とのことなので、誰も疑う者なく、曹操はそのまま
とのことであった。
「さてこそ」と、董卓は、怒気のみなぎった顔に、朱をそそいで云った。
「小才のきく奴と、日頃、恩をほどこして、目をかけてやった予の寵愛につけ上がり、予にそむくとは八ツ裂きにしても飽きたらん匹夫だ。李儒っ――」
「はっ」
「彼の人相服装を画かせ、諸国へ写しを配布して、厳重に布令をまわせ」
「承知しました」
「もし、曹操を
「すぐ手配しましょう」
李儒が退がりかけると、
「待て。それから」と早口に、董卓はなお、言葉をつけ加えた。
「この細工は、思うに、白面郎の曹操一人だけの仕事ではなかろう。きっとほかにも、同謀の与類があるに相違ない」
「もちろんでしょう」
「なおもって、重大事だ。曹操への手配や追手にばかり気を取られずに一方、都下の与類を
「はっ、その辺も、抜かりなく急速に手を廻しましょう」
李儒は大股に去って、