不破から西は、
「都へ着いても、おそらくは食糧難か」
と、三河仕立ての
「暑いなあ。このぶんでは、いくさは
「は」
「あすからは、夏支度にかえようわい。伊吹とはまるで季節がちがうようだ。都の内は、なお暑かろう」
「ことしは
「
「さればで」
と、いったのは、直義と駒をならべていた
あかねさす
むらさき野ゆき
しめ野行き
野守りは見ずや
君が袖振る
すると高氏もすぐ言った。むらさき野ゆき
しめ野行き
野守りは見ずや
君が袖振る
「君が袖振る! ……。
そこの古駅は、まもなくみえた。先ぶれが一騎、早くにつたえていたとみえ、
こう二人は、先に高氏の秘命をおびて、
をうけていたのであった。
こんな手順は、彼の鎌倉出発いぜんに取られていたのはいうまでもないが、その仲介者はたれなのか。「梅松論」以下の書にも、それはたれとも明記はしてない。しかし前後の事情からみて、おそらくは、かの岩松経家の弟
いずれにせよ、高氏のむほんは初めから独走して起ったものではない。やはり後醍醐の綸旨をうけ、それによって、こころざしを遂げようとしたものだ。
が、宮方にすれば、彼の幕府離反は、まぎれない彼の勤王精神とみたであろう。そこで、あらゆる困難の中を、鏡の宿まで、勅の密使をくだして来たものにちがいない。――ただ、後醍醐に後醍醐の理想があったように、高氏にもまた高氏のいだく未来図はあったのだ。それは元々、似ても似つかぬ理想であったし、初めから妥協の余地もないものだった。
四月十六日。
はやくも、高氏以下の軍は、洛中へ入っていた。
廃墟。都の今はそれにつきる。
大内の森や
平家都落ちのむかしとて、こんなではなかったろう。焼けのこった公卿館や死の町の一角はみえるが、昼も人影は稀れで、ふと生き物の声がすると思えば、犬が子を産んでいる。
そのくせ、夜になると、夜の闇は不気味な脈を生き生きと打ち出して人間のうごきを感じさせてくるのであった。あらゆる悪と兇暴がその中でおこなわれているらしい。また敵とよび合う者同士が
「これが都か」
足利軍五千は、当座、二条の河原へかけて、野陣した。
予期に反して、入京早々にもと覚悟していた合戦もなく、張りあいのないくらいな無人の曠野に、ふた晩ほどは、大かがりを焚き、その焔の下で兵は言った。
「ここの都には、薪だけは、有りあまるわ!」
高氏は会わず、直義と師直が会った。使者の
もっとも、六波羅の苦境は、いまや想像外なもののようだ。――そのご叡山の山門勢力を手におさめていた大塔ノ宮は、
また。千早、金剛の楠木も、関東の数万騎を引きよせたまま、いよいよゆるぎもせぬという。
そのうえ、はるか
だから六波羅とすれば、高氏の到着は、唯々、
「援軍来たる!」
の、よろこびだった。
つづいて、なか二日おいての四日めには、名越尾張守高家の七千余騎の入京を見、また同時の鎌倉令をうけた地方武族も、五百、七百、あるいは千と、ぞくぞく諸道から会合し、たちまちこの新手は、精鋭二万余騎とかぞえられた。
ところで、総大将の名越尾張守はまだ若かった。北条一族中での名門であり、
「諸事、おさしずを」
と、指令を仰いだ。
「む、両探題も加えて、作戦には、
と、尾張守は高氏を誘い、その日は共に六波羅に出向いた。
そのあとで、直義は気をもんだ。もし尾張守高家が上洛途上で、
「いや」と、
「尾張殿はまだお若い総大将。かりに道中で
「む、そうは思うが?」
直義はなお、不安でならず、万一のときには、どうするか。上杉憲房や三河党の面々とも計って、夜すがら、対岸の六波羅を、注視していた。
だが、
「協議のすえ、尾張どのの本軍を大手と呼び、われらの軍勢は、からめ手を行くものとする」
と、沙汰ぶれさせた。
直義は
それは、東軍の一将、奥州白河の
それの余勢で、前線の一角では、毎日のように逃亡兵が出ていたので、六波羅から関東勢のうけた衝撃は、一にも二にも、
「裏切り者の結城めが!」
であった。しぜんその一方へのみ注意も憎しみも向けられていたのである。そしてまさか、
着京の日から九日め。
名越尾張守は、その本軍七千余騎のうえに、“三
「さきをとるぞ」
とばかり、はや前線へ出ていった。いわゆる“大手の軍”とは、敵の主力へあたることである。若い総大将の彼みずからが、のぞんで行った戦場だった。
本軍を見送って、やや小半日の後。高氏もまた、
「したくがよくば」
と、馬を陣前にやって、貝を吹かせた。
彼が前線へひきつれた兵力は、当初の五千だけだった。あとの数千は、後備として、いや意識的に、洛内へのこして行ったものだろう。
とまれ、からめ手軍の足利勢は、大手の軍勢とはやや方角を
が、その日は合戦なし。
そしてあくる日、桂川の一端へ、兵馬をならべ立てたが、なお高氏はうごかなかった。
――すでに下流の
夜半。全戦場。
一ときしいんとなった。
そのさいの高氏を、古典「太平記」では、
からめ手の大将 足利殿は桂川の西の端に下り居て 酒もりしてぞ おはしける
といっているが、どんなものであろうか。彼の一刻一刻は今、あらわに態度を示そうか、もすこし待とうか。生涯の運を賭けた機微なわかれめといってよい。
下流の大手軍、名越尾張守からは、いくたびとない伝令で、
「総がかりは、明朝
と、念に念をおすように、つたえて来ている。
下流にある主力と上流側面軍との両方から、淀、山崎にわたる敵を同時に打つ申しあわせであったのだ。で、いつでも桂川を
ところが、宮方の赤松勢は、はやくもこれを知っていたようである。ことによったら高氏の手の者がそっと密報していたかもしれない。いずれにしろ赤松勢は逆に、夜もまだ明けぬうち、下流の名越尾張守の陣地へ、奇襲をかけてきたのだった。
附近は、
こうなると、ひとかどな武士までも、かえって、味方が足手まといとなって、軍の機能は、まったく寸断といったかたちである。馬ぐるみ、深田へ落ちこんで、日頃の名だたる将も、あえなく、雑兵たちの槍さきにたたき伏せられたり、まるごと、一軍団のなだれが、追いつめられて、
ここに、赤松一族の者で
日ごろ、この
元来彼は郷里の
主力の、しかも総大将が討たれた。――とわかったので、朝霧の引くように、全軍の関東勢が
五千の人馬は、橋みたいに、桂川を二つに見せた。
そこから下流は水の色も変り、対岸は白いしぶきでけむり立った。――直義、師直たちも、水を切って、
「殿、殿」と、さきに駈け上ったひとを追っかけていた。
高氏が振返った。その姿も、
「すてておけ」
と、聞き流し、
「大事ない、大事ない」
とばかり、彼は、もっと先の諸将のあいだへ、駒をすすみ入れて行った。
「よいかしら?」
直義は、不安らしく、まだ後方をふりむいていた。
大事ない
よくいう兄の口ぐせである。だが、うしろからは、下流で敗れた本軍の名越勢の残兵が、かなりな数、この軍を味方と信じて、たよるように、くっついて来るのであった。
「とんと、お胸はわからぬ」と、師直もつぶやいた。「が、あの大腹中は、あとになってみると、いつも無策ではおざらなんだ。われらが取り越し苦労にはおよびますまい」
直義も近ごろそれは信じている。兄の馬群をすぐ追った。やがて、ばくばくたる土ぼこりで、かぶとの
不審な?
と、このとき早や誰かは感づいていていいはずだった。――なぜならば、
あるいは、敵の
やっと、一部の将士が、この点に気づき出したときは、高氏以下、人馬の流れは、桂川の西、松尾寺の山ぎわから、北へ転じて、大江越えの山坂を前に仰いでいた。
「まてよ。これやこのまま
摂津の人、
「足利殿その人も、この軍勢の様子も、心得ぬことばかりだ。おぬしどう思う?」
「もしやと、おれもさっきから疑っていた。問わずもがな、ふた心にちがいないわ。さりとて、ただ引っ返すのも
「よせよせ。しょせん、
この二将は、わざとおくれて、手の者三、四百をまとめ、大江山の麓からどっと元の道へ駈け去ったのだ。そのため、これを動機に、全軍も大いに揺れ、諸所で逃げ出す者も少なくなかった。が、高氏は「大事ない、大事ない」としているように、振向きもせず、駒は、
老ノ坂は、昔の大江の
後の天正年間に、
そこから一里で、丹波
篠村の
とまれ、その日はすぐさま、大江山一帯の陣地構成がいそがれた。例の、源氏
高氏は、国じゅうの武士へ、即日、
すぐ
篠村へ集まれ。
この
こう申すは勅命でもある。
こう、つたえ聞いて、大江山の陣場は、日ごとに人数を加えていた。
いまもって、ふんべつもつかず迷っていた者、
「ご陣の端に」と、小者は小者なりに、一個の運を、これへ賭けてくるのであった。
そんな中に、郎党二百人もつれた、
「元からの家の紋か」
と、たずねたところ、時重の答えには、
「さようです。家の先祖、武蔵の久下二郎重光が、頼朝公のお旗上げのさい、
とあったので、高氏は、
「それは、めでたい。当家にとっても
と言って、ひどくこれをよろこんだという。これをみても、彼の自負が、ひそかに自己を頼朝の再来に
けれど、続々集まってきた武士どもには、綸旨のしめす王政復古も、高氏のいだく未来図も、問うところではなかったのだ。彼らはただ天下大乱のなかに泳ぎ迷っていた濁流の群魚にすぎない。また多くは世に不遇だった不平武士でもある。そしてそれらの下積み武士の不平をたれよりも身に知っていたのは高氏だった。
五月。雨期に入る。
が、ことしは
ただ、ここの兵力だけは、梅雨の大河のように刻々とその勢いを増していた。
十人の
「いや、驚き入りまする」
と、高氏の
「わずか十日にもみたぬまに、御軍勢は今日にて、一万をすこしこえました。はや倍加したわけにござりまする」
「ちと、ふえすぎたな」
「なんで多すぎるということがございましょうや」
「したが、
「さようで――」と、吉良は恐縮していった。「二度も高山寺へ使いをやって、呼びかけましたが、そこの足立、荻野、小島、和田、
「なんと」
「たとえ足利殿たりと、人の下風につくは面白からず、と」
「そういって、ほかへ移ってしまったのか」
「おろかな奴どもでございまする」
「いや、そうでない。そういう
と、高氏の胸は、さまざま、忙しそうであった。
「うちあわせのため、山崎に
「その
「これからは、いくさにつけ、諸事につけ、いちいち事の運びは公卿相手だ。上杉は付けてやったが、武辺のほかは、公卿振りも知らぬ直義、つつがなく、使いをすましてくればよいが」
高氏は、吉良へも洩らさなかったが、ここ刻々な憂慮は、ほかにもある。――たとえば、六波羅が高氏の
とくに彼がおそれていたのは、鎌倉の再援軍でもなく、六波羅固めの
が、翌日。彼は直義の姿を見た。
その直義と、叔父の
「これは」
と、背のずんぐり低いその武将は、与えられた
「足利殿でおわするか。それがしは備後の住人、児島三郎
と、中国
名を聞くのも、高氏には初めてな人だった。
しかし、千種殿の副将にえらばれたほどなら相当な武者ではあろう。また、
さて、高氏が礼を返して、
「ご用命は」
と、いうのに対して、児島三郎高徳はまず言った。――さっそくな貴所のお使いにむくいて、自分はその御返礼使にこれへ
「千種殿には、すぐさま船上山の
と、当座の感状と共に、預かって来た一
高氏には高氏の心のなかの旗がある。しかし彼は錦旗をかろんじるものでは決してない。うやうやしく拝受した。そして領家の奥に席をうつし、あとは高徳をねぎらいながら雑談に入っていた。
高氏は彼とのはなしで多くのものを
伯耆の船上山の
北条討伐
のお祈りもすさまじく、都への還幸をかたく期して、しかもなお、そこを大本営ともなして、諸州の宮方へ、親しく軍議の令もおさしずしているおすがたでもあるという事。
いやみかど以上にも、いまや気負うているのは、千種の頭ノ中将殿(それ以前は少将)でと、高徳はなお言った。
「――中将どのは、つまり帝のご還幸の露払いとして、山陰山陽の兵二万余騎を
「が一方には、赤松勢という精鋭がお味方のはずだが」
「さ、それも」と、高徳はふと眉をひそめた。「一こう千種殿との折合いが悪く、功をきそッてばかりいて、これまでは、互いに勝手戦略のありさまでしたが、いやもう以後の行動は一致しましょう。ご当家も加わり、日を期して、三道の三軍一せいに六波羅攻めと、かたい戦略の立ったことでもおざれば」
高徳は、まもなく、淀南岸の自分の陣地へ帰って行った。
なるほど、公卿には信頼されそうな武将であった。その心にみえる
こうして翌々日。五月七日の
勢揃いと共に、
「戦勝の祈願もかねて」
と、高氏はそこを、旗上げの地とえらんだのだ。
神だのみを事とする彼でもないが、篠村は、むかし源義経の所領地であった。またここの八幡宮は、源頼義が
やがてのこと、
「妙源、
という高氏の声がきこえる。
願文四百余字の漢文体のそれは、かねて命をうけた引田妙源がしたためておいた物。
高氏は、神前へすすんで、
「――
と、奉書の冒頭から、次第に、
ソレ八幡大菩薩ハ
聖代前烈 ノ宗廟
源家中興ノ霊神 也
黒い霧のなかの者は、わからぬまでも、耳をすまし、気を聖代
源家中興ノ
漢文四百字はかなり長い。
だが高氏の声はつかれなかった。何かへ、迫らずにいないものがあった。そして、いよいよ朗々と、声に汗をすら思わせてゆくうち、
……将 ニ、コノ義戦ニ
神モ霊威ヲ耀 カシ給ハバ
神光、剣ニ代ツテ
一戦ニ勝ツコトヲ得ン
シカモ丹精 ハ誠ニアリ
誤 ル莫 ラン
元弘三年五月七日
源朝臣高氏 敬白
と、特にわが名へ初めて、神モ霊威ヲ
神光、剣ニ代ツテ
一戦ニ勝ツコトヲ得ン
シカモ
元弘三年五月七日
「筆を」
と、弟の直義から筆をうけとっていた。そして
それに、ならって。
舎弟の直義も、一トすじの矢を壇にささげて
さいごに、ここで高氏は、
「一色右馬介に、一番の矢を命じる。右馬介、旗上げの祝い矢いたせ」
と、その名誉を、彼に、名ざした。
右馬介は十年の苦もむくわれて、じんと全身熱くなった。引きしぼったかぶら矢はうなりを曳いて雲間に
王子、老ノ坂は、またたく越えた。ひがしには大きな日輪が霧の海を敷き、桂川も洛中も、白い霧の下でしかない。ただ目をさえぎるものは、この人馬に驚いて、
六波羅もすでに強力な備えに入り、これまでにない決意の
こうして何と
逆にここの六波羅の府は、颱風の目をおもわせるようなひそまりをたたえ、
北の探題、越後守北条仲時
南の
の二人は、
いずれも、庁の大庭に
「大物見か」
と、仲時がつぶやいた一ト言に、一方の時益も、ぴくりと顔をあげていた。
「鬼六か、待ちかねていた。敵のけはいは?」
そういう両探題の前に、鬼六は、部下の偵察網から次のような判断を打出して報告した。
敵は、三方にみられる。
本軍はもちろん男山八幡の方面にあった
第二軍の赤松円心には、先ごろ寝返ッた結城勢も加わっておよそ四、五千だが、たびたび洛中突入の経験もある猛気の兵だ。少ないとて、あなどれない。そしておそらくこれは
ところで。その出かたに、全然、予見がつかないのは、第三軍とも呼びうる――そしてもっとも憎い怖るべき――足利高氏の叛軍で――老ノ坂をこえて、山崎道へ出るか、桂川へ旋回するか、これはどうも……と、鬼六は口をにごして、
「いまのところ、まだ、なんとも申しあげられませぬ」
と、復命をむすんだ。
「よしっ、また出てもらおう。休息しておれ」
そのあとは、両探題ともまた、だまりあって、今日の作戦図の中に苦慮していた。といっても、これ以上加えるなんの策も今はない。ただかえすがえすも“足利”という名が
「高氏の首を
「北殿っ。ちょっと、おいで下さいませぬか」
すると。いちど立ち去った鬼六が、何事かまた、戻ってきた。
北の越後守仲時は、振向きざま、
「なんだ? 鬼六」と、彼のことばをいぶかった。
鬼六は、告げた。
「例の、
それは両探題とも、あたまから忘れていた人間だが、
と聞けば思い出される。
あれは四月の初めごろか。検断所の兵が、
「洛中を
と近くの
調べてみると、その怪異な老人はすこぶる能弁で、探題の前でもたかく
すでに洛中は“赤松焼き”に会って、諸所に焦土をただらし、六波羅中も戦争以外何をかえりみているいとまない中だったので、
「ひとまず、
と、監禁を命じ、吐雲斎のことは、さっそく鎌倉表へ問い合せを発したものの、そんな一
「鬼六。その老いぼれが、会いたいと吠えるのか」
仲時は、
「将監どの。ちょっと見てまいる、時も時だ、何を訴えたいと申しおるのか」
と、一方の床几を振向いたが、時益はなんの興味もないらしい。ただうなずいてだけ見せた。
だが仲時には今、ワラをもつかみたい気もちがある。偽者にせよ本物にせよ、とにかく、聞くだけはその言を聞いてみよう。と、鬼六を先に樗門の内へ大股に入って行った。
そこの大きな一
かつての日には、後醍醐と三人の妃が、押しこめられていた獄舎の一部だ。――そこにいまは、かの
「おうっ、やっと来たか。……若い方だな。すると、北の探題か」
なるほど、白髪もばさと、声には鬼気があって、寄りつき難い。
仲時はすぐ悔いた。
が、狂人へするような、あのあいまいな温顔に似た顔を作って。
「されば、身は北の北条仲時だが、なんぞ、このほうに?」
「おうさ」と、吐雲斎は相手のことばも奪いとって「なぜ、もそッと早く、これへ見えなかったか。ばかな大将だ、おなじやって来るものなら」
「ついいま聞いたものを、これ以上早く来ようはない」
「なんのなんの。そこらの武者ばらへ、わしからは、何十ぺん、探題へ告げよと言ってあるかわからん。とき早や遅しじゃ。六波羅の守りもいまは危なかろうがの、苦しかろうがの」
「老人」
「わしには名がある」
「
「なんじゃ」
「さまでとは、いったい、何を本心申しのべたいのか」
すると、吐雲斎は、
「何をいう。身のためではない」
と、むッつり顔して、だまりかけたが、また。
「探題には、まだ疑っているのか。ここにおる兵学者へ、なぜ早くに教えを乞わぬか」
「策を問えとな」
「そうじゃ」
「いくさの妙策があるというのか」
「あらいでか! 大言と聞いたかしれぬが、
「……ふうム?」
仲時は、獄中に光ってみえる茶いろの眸を見て
が、獄中の眸は仲時の惑いなど意にしているふうでもなかった。吐雲斎の言は、彼自身の
つまりは骨の
また、たびたび彼が探題へ面会を求めていたのも事実である。抑えようもなく胸中に湧いてくる必勝の策を、たんなる兵理でなしに実戦に行わせてみたいからだった。官軍賊軍、いずれが、どうだというのでもない。ただそれだけのことなのである。しかしそれは彼の千
「探題、探題……。聞いておるのか」
「む、聞いておる」
「ちと、手おくれだが、ここを三日ささえ得れば、六波羅はかならず
「どう、いそぐ」
「わずか千早の城一つに、
「…………」
「いや、楠木が暴れ出よう、追討ちかけよう。また
「…………」
「
いかに半狂人の言としても、吐雲斎の
だが仲時は正直おどろいた。いうことはよく当っている。六波羅の弱点をついて、兵法の理にも
ただしかし、自分たち六波羅の主脳が、彼の指摘したような点に、全然無知でいたとするなどは、まちがいである。それだけをのぞけば、一つの大きな抜かりを彼もはっと気づかせられたことは否みえなかった。それは、
なぜ勅をもって、六波羅の令に代えぬか!
の点だった。
なにぶんにも、金剛山の寄手にある諸大将は、みな北条幕府の歴々たちであるために、六波羅の令などは、とかく軽んじられていた。まして、
探題などに何がわかる?
の風でしかない。
元々、探題職は平和時の半文官だし、越後守仲時も若年の人なので、現地の老将軍や頑将をうごかすには、どうしても、いちいち鎌倉の府を通し、鎌倉の指令としなければ行われぬような状態にあったのだ。しかもいまはそんなまどろい機能など用もなさない。――仲時は
すると、獄の
「やあ、仲時殿待て」
と、吐雲斎がふたたびどなった。
「わしの言を
「むむ、そちの忠言をむだにはすまい。よいことを聞かせてくれた。さっそく皇居へ伺って、勅をいただくことにする」
「ならばこの吐雲斎を、獄から出せ。胸にはなお、いくらでも秘策がある。両探題の蔭の軍師となって
「いやそのことは、一存でまいらぬ。南の左近将監にも
言いすてて、仲時は庁へ走り戻って来た。ときに早や白々明けの下で、南の左近将監時益以下は、庁の大庭で朝の兵糧をとっていた。
仲時は、彼との立話で、吐雲斎の言った一策について協議した。そして時益も同意のもとに、すぐその足で、六波羅北殿の方へ、わき目もふらず駈けて行った。
そこの一
さはいえ、新帝のほかにも、父の後伏見法皇、叔父の花園上皇、東宮、皇后、梶井ノ
後醍醐の軍勢が来る!
千種、赤松、足利が、三方から攻めて来る!
今朝はここの仮御所も、池殿の
「おお、探題が」
と、公卿たちは、
「いくさは?」と、模様を問い、
「ここは大事あるまいか」
と、さまざま、性急な質問を浴びせかけた。
仲時も、当惑顔のほかなく、
「ま、おしずまりください」
と、左右をなだめ、
「仲時がこれにおりますからには」
と、わざと落着いてみせ、しかる後、堀川ノ大納言へ、次のような
「火急、金剛山にある寄手にたいし、勅令をお発しねがいとうぞんじまする。――即刻そこの囲みを解いて、千種、赤松、足利の敵に当れ、と」
「えっ? 軍令を」
「天皇にそんな機能はない。前例としても、朝廷が直接、軍令を出すなどというためしは」
「いや!」
仲時は、力をこめた。
「ぞんじておりまする。……なれどここの危急を超えて勝つには、それ以外にみちはありませぬ。遠い鎌倉の令を仰いでいたのではまにあいませぬ」
「どうしたものか?」
公卿溜りでは、
「かたじけのうぞんじます」
と、仲時は勅を拝して、押しいただき、
「これによって、河内の二万余騎は、すぐ六波羅の
くれぐれも、仲時は、公卿一同へ言いのこした。それほどに、この仮皇居を、六波羅の内に抱えていたことは、目前の大決戦を果たすうえに、大きな負担であったには相違ない。
それからすぐであった。
勅をおびた六波羅の密使は、大和口から金剛山のふもとへ早馬を飛ばして行った。――すでにもう
さきに本庄鬼六の報でも、
今暁、なお不明
と、いわれていた足利高氏のうごきも、ようやく、その出方がわかってきた。
大江山をまだきに降りた高氏の一手は、山崎へ出ず、桂川を渡っていた。そして
高氏に対する六波羅方の憎しみは想像以上なものがある。
その朝。――二条大宮から
「憎さも憎し、高氏の首を見ずにはおくまいぞ。
と、異様なまでの
なおまた、五条辺に
「足利を。ただ足利を突け」
「期して、高氏を討て」
と、するようなかたちを厚く作ってきた。
このさかんな意気に出会って、高氏は、いかに六波羅方が自分への反撃に燃えているかを知り、それへぶつかるのは得策でないと思った。
彼は
吉良、今川、細川の各部将は、まず分別もある者と、それらには安心して部署をまかしておいていいとしている。
だが、直義に劣らない
「……始まったな」
と、高氏はその五体で全戦場の響きを
馬けむりが揚げる砂塵と音響を交ぜて、各所に始まった戦端は、そのまま五月の空に映写される。焼けあとのほこりは黒く舞い立ち、大路や野原の戦いは黄いろいつむじを吹き起す。
「
直義は、気が気でない。
「二条方面の敵、六角勢が、あなどり難い勢いのようです。
うん、ともいわず、高氏は
「大事ない、大事ない……」
夜半ごろから
高氏は、床几を退いて、
「おうっ、深草あたりだ」
「伏見、山崎、竹田の空までも、真っ赤に見ゆる」
と、口々に言い騒ぐ兵の声に、ふと目をさまして見ると、なるほど、洛外の西から南へかけて、
みじか夜だ。すぐ明けてくる。
「暑くなる」
高氏は、神祇門の下で、悠長にも、大よろいを解いて、よろい下着を一枚脱いでいた。
「兄者。お
「なぜ」
「
「あたる矢なら――」と高氏は笑った。「のど首へでも、
「いかさま」
直義は、だまった。
しかし彼には自分のうなずきもじつはよく分っていない。いったい、兄は臆病なのか、その逆なのか、と。
これだけの精鋭をもち、また天下に義戦の
で、あけがた。直義は、
ところが、高氏は依然、
「待て待て」
と、ばかりであった。そして、
「まだちと早い」
と、うごく
理由を問えば、こうなのだ。
千種忠顕も赤松円心も、おそらくは六波羅
むしろ、欲しい者には、誇らせておけ。
とにかく、
それをついきのう起った足利勢に、横から功を奪われてしまっては、円心の顔が立つまい。武門の意地でも、彼はここを一
また友軍の一方の人は、公卿大将の千種殿だ。これまた、円心におくれては、自身のこけんにかかわるような
おろかなことだ。犠牲はぜひがないとしても最小限にとどめねばならぬ。あまつさえ罪もない民家をあんなに焼き払うなどはちと気狂い沙汰だ。――ゆくすえ世の上に立って民治を考えるものが、あのような狂暴を民衆の前に演じてみせるなどは、みずからその無資格を衆へさらすにひとしい愚であろうに――高氏は言って、
「一
と、一同をなだめたままでいたわけだが、もちろん直義たち幕僚の将には、何ともジリジリするような我慢以外なものではなかった。
こことはちがい、洛南洛西方面の様相は、きのうも今日も、激烈をきわめていた。
はじめ六波羅方では、対足利の陣に重点を
「今は」と急に、兵力の配備をかえ出していたのであった。
そのうごきを今、高氏の本陣
「敵の
と下へ告げ、つづいて、
「六角勢の一部も、加茂川の向うを、大和口の方面へ、大きく移動しつつあります」
とも、どなっている。
これを高氏が耳にしたのは、初夏の烈日も、いつかすぐ曇って、東山一帯に、雲の帯がまたどんよりと
「直義っ」
大きく呼んで、
「
「かかりますか」
答えもせず、高氏は、
「馬を」
と、すぐ
「師直は、側にあれ。
と、自分を中心に
高氏も直義の影も、はじめて、
その乱軍の中で、
「あれは五郎左の子だな」
ふと、高氏の目に入った若者がある。
鎌倉の
一瞬。彼のあたまを、「留守に残してきた幼い千寿王やら妻の
奇妙な幻覚だった。こんな中で思いもしなかったことである。思惟でも思慕でもありえない。
ぶンと、敵の中から、まだら羽の矢が一本、彼の体のどこかに
高氏は覚えもしない。
そのうちに、
「足利殿の旗もと、大高二郎重成っ、敵将
と、どこかで聞えた。
「あれは
と、急に駒をめぐらした。
その転陣の先へ、設楽五郎左の子権之助が、敵将斎藤
もちろん、足利方でも、このわずかなまに、数百の死傷は出していた。雲の低い夕方である。暗くなるのが早かった。
そのころ羅生門方面のたたかいも惨烈をきわめていた。まっかな
寄手は
しかし六波羅方でも、ここでは自信をもって、
「やわか洛内の大手を」
と、よくふせいでいた。
羅生門の
だが、赤松勢には、円心入道の子、
一角が破れると内は
河原方面でも、
「七条へ敵が入った」
と叫ばれ、そのころには、夜空の色でもわかる伏見、
そして宵すぎると。
六波羅数万の兵は、各戦線から急激に減っていた。
「だめだ」
と、そのころから逃亡兵の群れは跡を絶たず、公然、戦衣を脱いで空家のうちへもぐり込むのやら武装のままで山野の闇へあてなく落ちてゆく群れなど、ぞくぞく見られ出していた。死ぬためでなく生きるために彼らは
でもなお、洛中のいたるところでは、市街戦が交わされていた。かなしいもののふの最期をあくまでその武者だましいにかけて
「おお……。あの炎」
「やがて、ここへも」
「どうしたものぞ」
「ここを落ちよとて」
「落ち行く先はあるまいに」
六波羅北御所の仮皇居の内こそは今、どうしようもない騒ぎであった。小女房たちの悲泣をなだめてやる人すらなく、公卿すべても動顛のていだった。右往左往の影が、あらぬ口走りを放ち合い、ただ「
そこへたった今、探題の郎党
「はや、ここもあぶない。主上、両院、
と、どなり捨てて行ったばかりなのだった。
さすがこんなさいになっても、主上の
「まろは、あとでよい」
泣き伏す皇后の背へお手をかけて、別離と、いとしみの耐えを、お唇もとに、
「ともあれ、
と、うろたえている三条、
光厳すら二十歳である。皇后はもっとお年下でまだあどけない姫宮ともみえるほどだった。お身をもだえて、なかなか帝のお袖を離れるふうもなかったが、そのときほかの女院からまた女房や
「……あわれ。女たちさえここを去らせば」
光厳帝は、いっそもう、おちつかれたようであった。御父の法皇がおられる方へと、やや
帝が近づいてゆかれると、そこではまぎれない御父の後伏見法皇のお声が、
「今となって……」
と、
「そちはなんと言った! かならずここは
「……はっ。ただもう」
ことばもなく、ひしがれたような姿の人は、探題の越後守北条仲時だった。
「おわびのほかはございませぬ。……腹切っておわびのほかには」
「腹切りなど見とうない。わびられたとて、どうなろう」
「なにとぞ、いまは早や一刻もおはやく」
「落ちろとか」
「仲時、また時益も、斬り死にいたさんと申し合いましたなれど、いや、主上をはじめ両院その他の方々を、ここで敵手にまかせては、御運のほどもいかがあらん……。それよりは生き恥たえて、いずこまでもおん供すべきであるまいかと」
「それ、すすめるなら、なぜ昨日のうちにすすめぬ。せめて今日の早くにすすめざりしか。ええもう、追いつかぬわ。仲時、供の人数はどれほどある?」
「まだ千余騎はおりまする」
「たった千騎か」
刻々、敵軍のせまるらしい物音は夜の
「ぜひもない。……花園」
と、弟ぎみの花園上皇へ、
「落ちよう!」
とお声をかけた。
そして、みかどへも、といわれたが、その光厳帝は、もうこれへ来ていて、
「おん
と、後伏見の身まわりに、かいがいしいお手をかしておられたのだ。
それすらお目に

たれも身に持った物など何一つない。すでに、
「や、あの兵は」
「お驚きなされますな。お味方です」
「探題たちか」
「六波羅松原に残余の兵を呼びあつめて、共々落ちゆく者どもでござりまする」
そこではみな、つかのまながらほっとした。
千余騎の将士など、たのむに足らない少数だが、それさえ心づよく見えたのである。
光厳の弟ぎみ、梶井ノ二
「いくさには敗れましたが」
と、探題の仲時、時益のふたりは、みかどの前にひざまずいて、こもごも、なぐさめを言上していた。
「六波羅一つが、北条のとりでとはかぎりません。金剛方面には、なおつつがなき数万騎をひかえ、鎌倉までの途中とて、諸国には、頼みあるお味方も少なしといたしませぬ」
「わけて近江伊吹には、
「なにとぞ、お心づよくおぼしめし賜わりますように」
「こう、われらがお付添いまいらすうえは……」
みかどは、ただ
「鎌倉へ行くのか」
と、心細げに、うなずかれる。
両探題は、すぐ、
「御馬上へ」
と、みかどへも、法皇上皇へも、駒をすすめた。
あけがたの星はまだ白かった。瀬田ノ大橋が
「やれ……」
と、みな眉をひらいた。
足弱な
けれどその千余騎の
「敵がいる」
と、意外な方から、あとの足なみを押しもどしてきた。
とつぜん、橋詰の口をはさんで射浴びせて来た矢かぜであった。数騎は落馬し、あとの駒も、けたたましく、いなないた。
「油断すな。伏勢らしいぞ」
「もどせ、もどせ」
「足場がわるい」
声々、立ち騒ぐ中で、
「知れたもの! 駈け抜けろ」
左近将監
「射て来るものは、どれもこれも古矢ばかりだ、
なるほど橋づめの柳の原にチラチラ隠現している黒いものには
しかし、数には驚くべきものがあった。追えば追うほどわんわんふえてくるのである。――ひとたび権力の座をすべれば――こうも彼ら
「しょせん、いちいち相手にしていては、果てしないぞ。ただ追ッ払え。討っては駈け、
こうさけんで、主上の先を払っていた時益だったが、その南の探題時益も、ついに瀬田と守山のあいだの
いや、光厳のみかどすらも、ひだりの
もともと伊賀山脈に
公卿の落伍はかずもしれない。彼らはみなくくり
古典「太平記」によれば、
主上、その日は
篠原 ノ宿 に着かせ給ふ
とあり、また
梶井ノ宮には、これよ
り引別れて、伊勢の方
へぞ赴 かせ給ふ
と見える。すなわち梶井ノ宮だけは、鈴鹿越えをとって伊勢路へ別れて行かれたのだ。そしてり引別れて、伊勢の方
へぞ
そこで考えられるのは、六角時信の発言である。
道が犬上郡へ入れば、そこはもう六角領であり、すぐ隣郡には、同族の佐々木道誉が伊吹の城をかまえている。
「かならずや道誉も、忠誠を示して、お迎えに出で、われらの難を見すててはおりますまい」
時信は、そういって、人々をはげましたにちがいなく、仲時以下、悲腸にとらわれていた面々も、
「そうだ、この難行も、ともあれ伊吹へ着くまでのことだ」
と、考えたに相違ない。
つかのま、ご一
おなじく後伏見も花園上皇も、馬には馴れぬお身を、ここまでは、夢中であったが、
「もう鞍ズレに耐えぬ」
とのお訴えで、いずれもここで
輿をになうのも
それら
宰相の有光
勧修寺中納言
「みなどうしたか?」
と、
たれよりも力としていた南の探題時益の落命を途中にみてから、越後守仲時のすがたにも一そう孤愁の影と悲壮が濃かった。しかも従う兵は、半分以下にまで減っている。
が、その夜は、六角領の観音寺城泊り。眠るだけはよくやすまれた。
問題はつぎの日だった。
――
仲時は大事をとって、
「六角勢は
と、命じて出た。
伊吹までは、あと一日半か
野伏が襲ってくる地点にはほぼ条件がある。「出そうだ」と思われる所に出てくる。おおむね、
その夕。すでに犬上郡へ入って、
「はや山風も……」
と、それの
折も折にである。道の不安を打ち払うため、一隊で先駆していた糟谷宗秋が、
「お止まりください。この峠、うかとは進めませぬ」
と、引っ返して来て、仲時以下を寒からしめた。
「夜をかけても、番場までは」
と、むりを承知で将士をはげましていた仲時も、
「またもか」
と、途方に暮れた眉だった。
「それが、これまでの野伏らともちがいまして」
と、糟谷は言った。
「錦の御旗を持ち、数も二、三千か。山の
「なに、野伏が錦の旗を? ……。そんなものはとるにたらん。
「そうあれかしと、てまえも祈って、いろいろ探らせましたところ、やはり、さにあらで、賊は野伏や土民兵らしく、また御旗は、
「はて、そんな宮が、野伏山賊のなかまに
「あるいは、宮は偽者かもしれませんが、おととい以来、伊賀、
「そうか」
仲時は低くつぶやいた。
「越えるには、覚悟をということなのだな」
しずかに彼は全軍の士へ露営を命じた。またせめて、主上、法皇、上皇、女院がたなどには、
この仲時は、さきに六波羅を捨てると決して、天子の
また、勅を請うての一策も手おくれに終り、万策ここにつきるにいたった責任も、探題として、つよく感じているらしい。それがだんだん彼をしてまだ二十八の人ともみえぬ
「朝となれば、後陣の六角時信も追いついて来ようし、使いを派せば、伊吹の道誉も、加勢に討って出てくれるにちがいない」
彼自身は、天子のお小屋のそとなる樹下に眠って、なおそうした希望の
たえず油断がならない。賊の奇襲が恐ろしい。
それと山は五月の湿度だった。
「……どう、ここの大難を」
と、ついあしたの峠を思い悩んだ。
あとから来る六角時信の加勢と、伊吹の城の合力とである。それだけは、
だが、みかどを思うと、お気のどくだった。しんじつ、おいたわしいといってもなお言いたりない。武家として、いや
なにもご存知でないお若い天皇――
なにも、彼がこうしたわけではない。後醍醐を追って、あとの帝位に、持明院統の皇族からおひとりを選び、
この君を
と、北条氏がその政略から新帝として、あがめ立てたことである。後伏見、花園も御賛同のことだった。だから何も仲時がひとり自責に
しかし彼にはなお古風な、鎌倉武士の匂いがあった。
たとえ職は一探題の若年でも、まぎれなく自分も北条一族の一人ではある。責任がないとはいえない。いわんや、いくさにも敗れ、天子以下、両院や
「……大納言どの」
仲時は、いつか木蔭から起き出て、炭焼き小屋の土間をそっと覗いていた。
灯はなく、天皇の
「オ、仲時よな。……?」
「ご一筆、
「どこへやる書状か」
「思い立って、これを伊吹の佐々木が許へつかわそうとぞんじまして」
「途中、賊の手に、使いが捕まる
「たぶんにそれはありまする。……が、むなしくいるよりは、一策でも手を打っておくべきかと思い直し、
もちろん大納言にいなみはなかった。仲時の使いはまもなく暗黒な峠をのぞんで立って行ったようである。もうなんとなく、明けまぢかな感がある。――法皇、上皇のお寝小屋でも、
「探題、探題」
そのあたりで、宰相の有光、勧修寺の中納言などが、仲時をよんでいた。なにかおいそぎな上意でもあるらしかった。
山小屋の
「ただいま、その両院からの、仰せ出しじゃが」
と、仲時へ
仲時はつつしんで。
「何事にございましょうか?」
「仰せには、こうして
「それがかなえば、それにこしたことはございませぬ。したが、賊の出方によりますこと。われら武者どもは、どうにでも、血路を開いて通りますが、みかどを初め、足弱な女房がたもおられましては」
「しかし、昨夜はどこも静か。賊とて、いうほどな大群ではないのであろ」
「いや、わざと鳴りをひそめているものと思われます。そのうち伊吹の佐々木道誉もお迎えに出て、後からは六角時信がお供に追ッついてまいりましょう。ま、いましばし、ここにご辛抱を」
仲時はなだめた。
彼にすれば、
ところが。
やがて白々と明けてきたが、どうしたわけか、
「六角どのは、昨夜、
人々は、仰天して、
「そんなはずはない」
「
「何かの、まちがいか?」
と騒いだが、それの実否をただすまもなかった。――峠の上や諸所の間道からは、すでに賊徒の群れが、あらわな
ついに、仲時も意を決したものか、
「宗秋、先を払ッて進め」
と、糟谷三郎の一隊をまず先頭にたてさせた。そして主上、両院のおん
「離れまいぞ」
「散っては弱まる」
「峠の上、番場の
「伊吹の城とも、目と鼻のさき」
「そこまでの
と、必死な将士は、やがて摺針峠のおよそ一里を、えいえいと、気勢を高めて登り出していた。
ときどき、山こだまが方々で聞える。不気味さは言いようもない。
けれど賊徒のほうでも、さすが決死の武者へ当るのは恐いのか、なかなか姿をみせて迫っては来なかった。
「もうわずかだ」
全将士が、そこではほっと大息をやすめた。峠の上、
「案じたよりは」
と、仲時もいくらか眉をひらいた。――これで六角時信の異心がたんなる誤伝とわかり、また伊吹の道誉が、
けれど彼がそんな希望を持ち直したときこそ、じつは最後だったのだ。とつぜんな
「すわ」と、坂道を下へ、ふりかえった
「しまッた」
と、弓をつがえる暇すらないまに、列は、賊徒のために両断されていた。
「下へ駈けるな」
仲時は、あえて味方の一端を見捨てた。どよめき立つまわりの駒や
「おん
彼のさしずは、急であった。ここらへまでバラバラと賊徒の矢が飛んで来る。どの

「あ」
と、光厳帝は、輿からおからだを投げ出されていた。法皇上皇も、女院がたも次々に、輿の内からまろび出た。
人心地のあるお顔はなく、みずから
「万が一のばあいにも、仲時がおりますからには、めったなことはさせませぬが、もし流れ矢などに触れ給うてはなりません。しばしそこの御堂へお潜みねがわしゅうぞんじまする。決してご心配なされますな」
子をあやすようだった。
ここは
の
たちまちここを中心にやや遠くまでの防衛線が仲時の指揮に
いつか陽は高く、今日にかぎってまた、真夏のような照り方だった。――六波羅を落ちていらい、食も眠りも足りていない人々には、この
賊徒の群は、刻々ふえて来るばかりであった。
古典には、この賊徒なるものをたんに「――近江、伊賀、
疑わねばならぬと思う。
その解明はあとにするが、天皇、上皇、仲時らの四百余人を遠巻きにしつつだんだん迫ってきた賊の数も「いつか五、六千人にも余るほどなもの」が一向堂を包囲したとなっている。古典の誇張と割引きして、約半分とみても二、三千だ。
こんな数は容易でない。
乱世の下、たしかに野伏、追剥ぎ、あぶれ者は多かったが、六波羅陥落の実相も、よほどな早耳でなければ、まだよく知りえないはずの直後であった。それが山奥の伊勢ざかいまで聞えて、はやくも美濃近江の要路、
たれか、この烏合には、指揮者があったに相違ない。
その指揮者もだ、よほどな策士がいたといえよう。――なぜなら、このあぶれ者の大衆のうえに、錦の御旗を持たせ、上には、後醍醐の御子“五ノ宮”がおられるのだと
その旗を、仲時も見た。むらがり寄る野伏勢の、うしろの遠くに、ひるがえるそれを見て、
「
怪しむと同時に、
「しまった」
と、今はさとった。
ここから伊吹の城はいくらの距離でもないはずだ。二里余の彼方にすぎない。
野の野伏すらみな知っている六波羅の
第一、かかる万一の日のために、その道誉は、かねて執権高時の厚い信任をうけて、この近江の要害に、たのみある者として、おかれたものではなかったか。
それが、どうだ?
伊吹からは一兵の
仲時が絶望を感じたのはそれひとつでなく。――
賊の射る矢は、ほとんど集中されてくるので、小半日の合戦には、一向堂のかべ、とびら、ひさしなど、まるで傘の骨みたいに矢が刺さッた。
しかも、こなたからは、射る矢もすでに尽きていた。敵の矢を拾ッて
「くそうッ」
と、顔を
はじめは、六波羅
「三郎っ……。宗秋」
仲時の声だった。それも喉にひッつくような、かすれ声で、
「来てくれ」
と、一向堂の階に、
糟谷三郎は、その声を、顔で捜している。目から半面へかけての血しおで、人相も変っていた。
「お。北殿」
「三郎か。もうだめだ」
「な、なんの……」
「いやだめだ、残念だが」
「ならば、一せいに、賊のうちへ駈け入り、斬ッて斬って斬りまくりましょう。まだこれほどな御人数はある」
「やめよう。
「では、降伏して出ようとでも仰せられますか」
「降伏」
「心外でも、みかどにまで万一を、およぼさぬためにはと」
「この仲時も、それはいちばん苦慮していることだ」
「はやお味方の者どもも、斬り死にか、降参か、それしかないぞと、しどろに防ぎ疲れておりまする。今はもうただ苦しいだけです。はや
「三郎。味方すべてを、この辻堂のぐるりにいちど呼び集めよう。そしてわしからいおう。降伏しても、生は望みえられない。無念だが、わしたちはまんまと裏切り者の奸計に陥ちていたのだ。六角を力とたのみ、伊吹の城を救いの城と見たなどは、あやまりだった。
やがて。――一向堂の縁からしゃがれ声をふりしぼッて呼ばわる糟谷三郎の声に、どれもこれも
仲時は思うところを部下一同に告げて、責めはすべて自分にあると、六波羅いらいの事ごとな手ちがいを詫びた。また皇室の方々へも申しわけないと深く
将士はみな泣いた。
「……お。北殿」
堂をめぐって坐っているすべての者が、こううつろになって呼んだとき、越後守北条仲時は、もう答えのない人となっていた。みずからの短刀でわき腹をえぐって、がくと、肩を落していたのである。
「……お
一とき、たれのおもても
みなそれほどに
「お供つかまつる。北殿」
「野伏などの手に、かからんよりは」
「生き恥かくなどは、鎌倉武士の名おれ」
「いっそ、この一堂を一
「いざ、いさぎよく」
声から声へ、次々に、自身の刃でうッ伏していたのであった。また互いに刺し
みるみる、一向堂のまわりは、血のうみをなし、越後守仲時以下、糟谷三郎宗秋そのほか都合四百三十二人ことごとく、枕をならべて、自害してしまったのだ。
むざんである。過去の歴史とはみても、胸がいたむ。何とか生きようもあったろうにと、その
それにしても、四百余人の集団死とは、あまりに
後年、附近の八葉山蓮華寺のうちに、
蓮華寺過去帳
なるものが伝えられた。
それの伝写に依ると。
元弘三年五月・執筆・
と、供養者の氏名まで明記されて、それには仲時以下の死者四百三十二人の俗名が洩れなく書き
くだって、江戸時代の「木曾名所図会」などみると、街道に沿うた番場ノ宿の町なかに“仲時の塚”というのが載っており、そばの丘には“六はら山”と
矢うなりや、石つぶてもやみ、やがて賊徒も鳴りをしずめた。そして、賊たちはこわごわと寄って来た。
いかに彼らでも目をおおったことだろう。血のうみである。四百余人の声なき
「……?」
そのうちに賊の部将らしい男どもが、目と目を見交わしていたとおもうと、勇を
「……あ」
と、かすかなふるえ声を、彼らは薄暗い中に聞いた。
しかし、それきりであった。
大納言資名、宰相ノ有光、中納言
「玉座であるぞ」
叱ったように聞きとれる。
下に居よ、との意味であったろうが、かすれて、声もなさず、なお、何か言ったことも、よくは分らなかった。
「うーむ」
と、賊どもは、うめいただけで、めずらしいことでも見たように、よけい無遠慮な眼を光らせた。
光厳、後伏見、花園、女院の二、三みなお体をひとつに寄せ、寄りかたまったそのままに、半ば失神していたのである。まるで落雷下の物のように。
ともあれ、ご無事ではあったのだ。――堂外では
主上、上皇は
この死人共の有様を
御覧 ずるに
肝 、心もお身に添はず
只 あきれてぞ御座 しける
とばかりで、つぶさな描写を避けているが、およそ、ばかげた書き方である。越後守仲時らが、ことごとくそのこの死人共の有様を
ところが古典の文章は、奇怪にも、ここでまた一転して、
さる程に、五ノ宮の官軍ども
主上上皇を取進 らせて
その日まづ、長光寺へ入れ奉 る――
と、それまでは、野伏強盗あぶれどもの集まりとしていた賊方を、急に“官軍”とよんでいる。主上上皇を
その日まづ、長光寺へ入れ
が、ひとまず、それは措くとしても。
長光寺とは、一体どこか。
種々調べてみると、番場、柏原附近にも古くからの寺院は多いが、どうも伊吹山四院とその頃よばれていたうちの一寺らしい。「大日本史」にこういう記載がある。
元弘三年五月中
光厳帝、後伏見、花園
六波羅ヲ落去
伊吹山太平護国寺ニ幸 シ
留 マルコト十八日
京師ニ帰ル
これでみれば、みかどたちのお身柄を、やがて一向堂からそこへお移しした者は、決して賊徒の輩ではなかった。伊吹の佐々木道誉であったことはもう明白といってよい。光厳帝、後伏見、花園
六波羅ヲ落去
伊吹山太平護国寺ニ
京師ニ帰ル
伊吹の西の
また太平寺にはそれいぜん、亀山上皇の御子が
とにかく道誉とすれば、わが自領の下である。何をたくむにも都合はいい。
いまとなって思えば。
仲時がここの加勢を待ったことも、
しかしその道誉は、「これもまたやむをえぬこと」と一人割切ッていたことであったろう。
すでに足利高氏とは先頃の密約がある。高氏との盟約を履行したまでのことにすぎぬと、道誉は、そらうそぶいているのかもしれない。――とはいえ、もし高氏の叛軍が六波羅に破れていたら? ――それはまた、どういう構えを取ったかは分らぬ彼だが――なにしろ目前に、持明院統の帝室が
が、なお用心ぶかい彼は、それをすら、土民の怪軍と覆面でやりのけていた。
みずから手をくだす寝ざめの悪さもあったであろうが、四隣の聞えや鎌倉の方へも気をくばっていたものとおもわれる。むりはなかった。世は
ところが
ほどなく彼も知った。
飛報は、東国の空からだった。
この五月八日。
すぐ十一日、十二日と。
新田軍は早や鎌倉への急進をみせ、鎌倉勢はこれを武蔵野にむかえ撃ッて、いまや東国の天地も両軍の激戦場と化しつつある。――くわしいことはまだ後報によらねば分明しないが――と、ここへも聞えてきたのであった。
道誉はおどろいた。過ぐる日、高氏が洩らした言を、いまさらのように思い出していたのである。六波羅の陥落と遠い東国の
「はて! 足利という奴は」
と、舌を巻いたことだった。そしてあの薄あばたの、とかく
六波羅松原はあるが、六波羅の府は変った。
すべて人も昨日の人ではない。
占領二日後には、一切のあとしまつも完了していた。だがこれで大乱が終ったのでもない。進駐の

千種忠顕の軍は、二条富ノ小路の旧
赤松円心は、洛外警備へ。
そして高氏は、六波羅の府に、そのまま残った。
「殿。……わかりました。やっと、お二人のご避難先が」
「お、右馬介、知れたか」
「はい。いぜんの
「それはよかった」
高氏はしんから言った。
「あのあたり、
「待て。ここはまだまだ
「かしこまりました。時に……もひとつお伺いを」
「まだ用か」
「小右京どのの安否についてでございますが」
「む、後家の君か」
「兵を見せにやりましたところ、仁和寺長屋なども、みな逃げて、住人は人ッこ一人おらぬそうでございます。あの小右京どのも、ひとり殿をたよりとしておられました。捜させましょうか」
「まあ
高氏は彼をおいて、もうほかへ歩いていた。見廻りの途中だったのである。南北両六波羅の広い地域だ。一回の巡視もなかなかそれは容易でなかった。
「殿」
またも彼の姿をみて、用を持ってきた者がある。
「例の……兵学者なりと自称する奇怪な老爺のことですが、あの者の処分は、いかがしたものでございましょうな」
「
「さればで」
「
「それは仰せどおりしておきました。また先夜の兵火で、
「ならば、それでいい」
「ところが、きかぬ老爺で、火傷の苦しみにもめげず、高氏どのに会いたい、何でも会わせろ、と申し立ててやみません」
「ははは」と高氏は歩きながら笑い捨てた。「獄中にいて、あの夜の炎にくるまれたのだ。まだ半狂乱の
一巡を終って、高氏は、庁の床几場へもどって来た。
すると、ここにも彼を待つ時務や訴えが山積していた。
訴えの中には、山野へ避けた難民の代表者もいて、庁の一隅で、それを訊く高ノ師直にどなりつけられ、二の句もなく恐れ縮んでいるようだった。
高氏は小耳にはさんで、
「何か」と、師直をよんで訊ねた。
師直がいうには。
「いやはや、単純なもので、難民どもは、はや御合戦もすんだごとく思い込み、一日も早う元の家々へ帰りたいとか、商売をしたいなどと陳情を持ちこんでまいりますゆえ、たわけども、戦はまだこれからだわ、命が不用なら、おのが家へでも焼け跡へでも戻るがいいと、
高氏はつぶやいた。
「虫がいいのは彼らの方ではあるまい。……さての」
一ト思案してから。
「洛民のうちでも、悪徒なんどのしぶとい奴は、わがもの顔に元の巣にいる。山野に伏して元の屋根を恋しがっているのはなべて良民だ。長く憂き目を見させてはおけまい。――師直」
「は」
「申し渡してやれ。安心してみな洛内へもどるがよいと。そして何事によれ、訴え事は六波羅へ持って来い。また夜昼の物騒も、われらが守ってつかわすゆえ、一日も早くそれぞれの職や
「大事ございますまいか」
「いくさは地ならし、それがわれらの耕作というものだ。それすらが出来なんだら、いくさはしない方がいい」
師直が去って、その旨を代表らへつたえてやると、法師、医者、
高氏は、即日、六波羅内に、
奉行所
を、設置した。六波羅奉行所とは、
「奉行所ができた」
と知っただけでも、一般には暗夜の灯ともよろこばれた。また事実、これが焦土の洛内に初めての、政治らしきものの芽生えであった。
こうした洛内へ、やがて伊吹の太平護国寺からは、光厳帝をはじめ、後伏見、花園たちの
それら持明院統の方々の処置は、それを千種忠顕のふんべつにまかせ、高氏は、庶民のいとなみを見はじめると、軍令を出して、市中における将士やあぶれどもの横行を取締り、その悪にたいしては、
「用捨なく、厳罰でのぞめ」
と
直義には適任だった。彼は、洛内四十八ヵ所の
事のわけはこうである。
ある小雨の晩。
今出川御門そとの篝屋(町方警士の
それいぜんから、たれいうとなく、酢屋の二つの土蔵には、六波羅落ちをした公卿衆から預かった財宝が
それ行け。
と、居合わせた篝屋武士十人ほどがすぐ駈けつけた。
ところが強盗は、いわゆる群盗であって、それ以上な徒党であり、しかもおそろしく勇猛で、歯が立たない。
そこで辻々の篝屋へも、馬触れを廻し、相互、幾人もの死傷を出したあげく、やっとのことで、
直義は見て憎んだ。
うち一人は大法師である。
「きさまらは、そも、どこの何奴だ。かりそめにも、悪事
と、きびしく責め、
「坊主の寺はどこだ。また三名の主人はたれだ。所属を申せ。いわねば、
と、脅したが、四名とも唖かつんぼのように一言の答えも吐かない。のみならず、直義が“
「こやつ。ただのあぶれや強盗とも思われぬ。よし、ひとまず六条の獄へ放りこんでおけ」
こんな小事件などは、高氏には小耳にも入っていない。市中取締り令を発し、みずからそれを“御教書”ともよばせていたが、関東の空、千早金剛の方面、そのほか彼にはまだ当面、安からぬものが山ほどだった。
そこへある日、奉行所の内へ、
「大塔ノ宮の
という取次ぎ。
殿ノ法印というのは、一時捕われて、六波羅監禁をうけ、その監視を破って宮の吉野、
「じつはさき頃、ご
という申し入れなのだった。
宮のご
と、高氏は内心あきれた。しかし、ほかならぬおたのみと思うとむげにもできない。で、その日は「直義に申しましょう」と約してひとまず良忠を返した。
彼はさっそく弟をよび、四名の釈放を
高氏は弱った。彼に潜む政治性が弱りぬいた。
その政治的な考慮から、大塔ノ宮の腹心殿ノ法印へは、先に「何とかいたしましょう」と、口約してあるのである。
しかし直義が、
「いやです、いかに仰せでも、治安の任にある者として、さような計らいは出来かねまする」
と、受けつけないのにはどうにもならない。主張は、正しいにちがいないのだ。
「先夜とらえた群盗の
直義は、むきになって、言いまくしたものだった。
「なんのための
「まあ直義、そう
「いや何とはなく、大塔ノ宮なる御存在が、
「む。宮とのあいだに、あえて感情のもつれを持つなどは、
「では、恐れなので」
「
「兄者。こうなっては、じつを申しあげますが」
「じつをとは」
「
「なに、すでに斬ってしまっているのか」
これには高氏も、次のことばを失った。事後では今さらどうしようもない。ただかえすがえす、直義の用い所を、ひそかに悔いるのみだった。
殿ノ法印からは、かくとも知らず、しきりに引渡しを迫って来る。しかし高氏は、それを弟のせいにはしなかった。返答は腹をすえたものだった。四名の罪状は明白なので、宮方のご名誉のためにも、これを不問には付しかねる、悪しからず、と断わったのだ。
すると、
事件は終った。
めずらしいことでもない。今の洛中には毎日あるようなものだった。けれど大塔ノ宮の
洛中も洛中だが。なお幾多の事がらは後にゆずっておくべきだろう。ゆるがせにできないのは、河内方面の急である。千早のどよめき、金剛いったいの寄手の崩れだ。
六波羅陥落
の報が金剛山のふもとを驚かせたのは、おそくも九日か、十日も朝のうちと思われる。いずれにせよ、
「何、何。六波羅が?」
と、寄手の諸大将は、その飛報に、仰天したことにちがいない。
それまでの、ここのおちつきぶりからみても、
「しょせんは、長陣」
と、夏越しの蚊帳まで持ちこんでいたような寄手の首脳だったのである。「――京では、足利が寝返った」との取沙汰なども聞かないではなかったが、「足利とは、あの、ぶらり駒の高氏か」と、その憎しみも
もちろん高氏以外に、鎌倉からの援軍は刻々増派されているものと
どっちにしろ、鎌倉の
「さて、いかにすべき?」
を、彼らは、いくさ奉行長崎
しかしここでも、古戦記のうえだけでは、さっぱり呑みこめないことばかりである。古記録のいずれもが、六波羅の敗亡を知るやいな、寄手の十数万騎、見えもなく、なだれを打って、逃げ退いたとある。はたして、そんなものだったろうか。
もすこし古記録の説を引いてみると――同時に千早の楠木勢が追い討ちに出で、そのため寄手は自分たちが設けておいた
古来、戦ばなしとしては、以上のようなことに語りつたえられているが、ほんとはそんなわけではあるまい。
近江の番場では、同じ鎌倉武士の探題仲時以下四百何人が、ことごとく、枕をならべて壮烈な自刃をとげた。いかに衆をたのんでいたものにしろ、金剛山の下に埋まった白骨のみが、いたずらにそんな周章
おそらくは味方同士のあいだから、さまざまな誤伝や流説がわきおこり、また事実、たちどころに、
「いまからは宮方へ」
と、裏切りに出るなどの同士討ちもおこなわれたのではあるまいか。
戦局に敏感なのは、上よりもむしろ下部である。――六波羅が落ちるいぜんからとうにここへも聞えていた――足利殿の離叛などは、とくに彼らの士気を大きくゆすぶッていたにちがいない。
それと、見のがせないのは、古記に
二里三里が間の山路を
敵には追つたてられ
今朝までは十万騎の勢も
残り少なに討たれて
わづかに生けるものも
馬物具 を捨てぬはなし
というほどなのに、敵には追つたてられ
今朝までは十万騎の勢も
残り少なに討たれて
わづかに生けるものも
されど宗徒 の大将達は
一人も討たれずして
その日の夜半に
南都にこそは落着かれける
と、ある一事だ。一人も討たれずして
その日の夜半に
南都にこそは落着かれける
これでみれば、歴々の大将たちは、長崎以下すべて、もっとも早く、またもっとも無事な逃げ口をとって奈良方面へなだれ落ちたとしか考えられない。
けれど、それにせよ、ただ六波羅の悲報ひとつで、こんなにまでの、俄なみにくい総くずれをおこしたとするには、まだすこし疑問があろう。思うに、ここの味方内から離反者が
「すわや洛中が宮方のものとなっては、すえの勝敗もおよそみえたぞ」
と、がぜん態度を変え出したのではあるまいか。
さらには野伏から土地の
偶然ではあろうが。和泉国の
そして、時の芽ぶきを待ちつつ、近国近郡のひろい山野にその気運を
「やっ?」
城のやぐらで誰か叫んだ。
そのとき、物見山のとりでの方でも、
「おうっ、ただごとでない」
「寄手の内に何かがある」
「何か起った!」
と、異様な昂奮をみせていたが、たちまち楠木
「兄上、兄上っ。お気づきですか。麓の方を」
はや、正成のすがたも大勢にかこまれて、やぐらの上に立っていた。
一、二ノ
「お、ご舎弟」
正季がのぼって来たのを知ると人々は正成のそばを少し離れて
「兄上、兄上には、どうごらんになりますか。籠城百七十日いらい、寄手のこんな動揺は初めてです。ただ事でございませぬ」
正成は、
「むむ、……」
と、のみであった。
ひとみも彼方のままだった。
「遠くの陣ばかりか、近くの木見、猫背山、
「正季、やっと、時が来たらしいな」
「てっきり六波羅が陥ちたものと思われます。まだ
「ム、あれほどな敵勢が、
「兄上っ」と、正季は迫って「――即刻、追い討ちかけろと、ご指揮をおくだしくださいまし。浮き足のあの敵勢へ、ここからも打って出れば」
「いや」
と、正成は、彼のせきこむ語気をさえぎった。
「そのことは今も、これへ集まった和田、松尾、南江、神宮寺、
「待てと仰せのまに、機を
「図に乗るまい。――籠城の兵は、病人負傷者をのぞけば千人を欠いておる。それも草を食って、
「でも決死の千人なら」
「しかし敵にも侍はいるぞ。たとえ戦意を失った寄手にしろ、総勢二万余騎の大軍だ。この城と、この天嶮に
もすこしとは何を待てというのか。正季だけでなくみな疑った。しかし、いくらも時をおかないうちにであった。寄手方から混乱の中を脱して、千早へ落ちてきた一勢がある。旗を巻き、
正成、正季について千早の内にいた石川豊麻呂の父、散所ノ太夫義辰の手勢だった。義辰は子を助けたさに、先月らい、望んで寄手の陣に加わり、その子を
これと同時に、
「よしっ、打って出ろ」
と、正成は、正季以下の者の望みを、そのごにおいて、初めてゆるした。
あらゆる観点から、寄手はもう必然な自解をおこしている支離滅裂と見たからであったが、しかしなお正成は、諸将の
「
と、いましめ、
「いささかでも体に故障ある兵は残れ。とりでにいて、あとを守れ」
と、その号令にもとくに心をつかっていた。
今や全城の士気は沸くばかりであったにせよ、どれもこれも、
「つづけ」
ほどなく、正成は、率先して城を出た。
その正成も満足な体ではない。矢傷をこじらせた
「旗を振れ」
正成は、
「菊水の旗を、高々と振って、旗の下へ、降伏してくる者、降伏せぬまでも、これへ刃向かって来ぬ敵には、手出しをするな。やがてはみな寝返ってくる者ぞ。――ただ追い声かけて追いまくせ。いたずらに敵を殺して快とするな。逃げまどう雑兵など、いくら斬っても益はないぞ。ただ追えばよし。敵は敵みずからの恐怖に追われて潰走をつづけ、自身の馬蹄で自身の犠牲を止めどなく捨てて逃げよう」
これらの令を、正成はいちどに叫んでいたのではない。
敵を追いつつ、機に応じて、いくたびにも、馬上から前後へ言っていたのである。
馬は、見事な
和田
神宮寺ノ
また、その日、返り忠してきたばかりの散所ノ太夫義辰とその子石川豊麻呂も、手勢をつれて追撃に加わっていた。
いやこの少ない千早勢が、赤坂ともう一方の間道を駈けくだして、西条川と東条川とをむすぶ麓の石川河原へと出てきたころには、おどろくべき人数にふくれあがっていた。敵の数千ともみえる部隊が、逃げおくれを装ってふみとどまり、正成たちと、その菊水の旗をみると、
「いまからは
と、旗の下に、降を乞うのやら、あるいは、
「宮方へのおとりなしを」
と、部下の
為に、寄手数万の兵は、石川の流れと共に、北へ北へと、その潰走を一方へ争ッて行くしか、外界への吐け口はなかった。そのうえ、彼らが、もっとも恐れていたものと、予期せるごとくぶつかった。
なにかといえば。
古市や道明寺あたりの
かねがね、東国勢にたいする散所民らの反感は、露骨なほどだったのである。遠征二万余の将士が、威張って、しかも半年も、設営で暮らしてくるには、その期間どうしても、彼ら細民を牛馬のごとくコキ使い、その労働力から
だから関東の兵馬とみれば、日ごろから
「けなくそわるい、くそ蠅や」
と、白い眼で見ていたのだ。
反対に、弱者は弱者に同情を持つ。
彼らに何の理解があるわけでもないが、朝夕に金剛山の空を見ては、楠木一族の孤塁を思い、この大軍の包囲によくもと、心で讃嘆したり、寄り寄り小声で声援もしていたのだった。わけて楠木家の祖は、
「千早、がんばれ」
「
関東勢の下に使われながら、ひそかには、そんな祈りをもっていた彼らなので、ひとたび、六波羅の敗亡を聞き、今日の寄手崩れを、寸前に知ると、
「わああっ」
と、各所でかん声をあげ、
「ざまを見さらせ」
とばかり、その退路の妨害に出たのは、たんなる暴徒の敗者いじめだけでもない何かであった。
石川の流れは、当時、大小幾すじにもわかれていたが、随所の橋は、橋板を取って捨て、巨木や石を、ころがしておき、小さい橋はみな、ぶちこわしてしまった。また道には大穴をほって、さりげなく見せておき、そんな陥し穴を、いたるところに
しかもまた、六波羅陥落を知ると同時に、難波、住吉、堺あたりにいた宮方の遊撃部隊や、和泉の一端からも急進して来た武族があって、東国勢の逃げなだれて来た行くてをさえぎり、
「みなごろしに」
と、
死傷、ソノ数ヲ知ラズ
といわれ、そして、
味方ノ屍 ヲ踏ンデ逃グル者、マタ忽チ屍 トナツテ、他ノ馬ニ踏マル――
と、古戦記にある惨状は、まさに、ここらで現出されたことだったのであるまいか。もちろん、楠木勢も、この辺までは、追撃をゆるめず追ッかけて来ていたに違いあるまい。
敗走の兵馬ほど、怪しまれるものはない。これがきのうの、あの大軍か、あの歴々な大将たちの軍旗かと、あきれもされる。
その東国勢は。軍のすがたもなく、ちりぢり、奈良へ逃げ込んだようだった。
逃げおくれた兵は、
いずれにせよ、二万の軍も、雲散霧消のていだった。
「このうえは、洛中へ出て六波羅を
と、再起をはかってみたものの、もう
結局。――彼らも今は、鎌倉へ落ちようにも行く道なく、やがてはみな、首を揃えて降伏に出るしかないものと見られるにいたっていた。「
時にさて、正成の方はどうなっていたか?
このさいにおける楠木正成の態度は、よほどよく、見ておく必要があろう。
いまや勝者の陣でも、彼こそは、武勲第一と自他共にゆるされるものだった。
いや、武門列だけでなく、民衆の声望もまた誰より高い。領下の民はもちろん散所民まで、
「ようも、あの
「関東の大軍を。……」
「しかもそれも、六波羅へ向った宮方とは、わけがちがう。楠木勢だけの一手じゃった」
と、熱狂的にほめたたえた。
しかし、野に
もしその正成に、他日への野望があり、また当初の“
今こそ目の前
に、あったといえよう。――孤塁千早を開いて、百七十日ぶりで降りてきた菊水の旗の前には、数千の降兵と、また和泉、紀伊、
「たのもしい楠木殿」
「わが
と、それこそ、時の
ところが、彼には、その気がなかった。そしてそのことが後には逆に、野心満々な
とにかく河内平野は、この戦勝で
「正季」
そんな中で、正成は弟をよんで、告げていた。
石川河原の、
「わしは明朝、いちど千早へ引きあげる。あとを、ようせよ」
「ここは」
「そちにまかす」
「かしこまりました」
「安間了現、神宮寺正師なども残しておく。なにせい、数千の降兵と、俄に、宮方へなびいた近国の武者どもが、河内一円にひしめき出していることだ。よほど統御がむずかしい」
「お案じなされますな。安間、神宮寺などは、武者扱いにそつのない老臣、よく相談してやりまする。はや
「さっそく諸所へ、厳戒の
「楠木家の名ではいけないのですか」
「領下だけならよいが、わが家は近郷の地主にすぎん。千早の
「それもこころえました。して、赤坂へはいつ?」
「移り住むかと申すのか。そうだの、
こうして、正成が、いちど千早へ引きあげて行くまでには、
そして、彼の姿が、千早のとりでへ帰ってきた日は、あの河内平野に沸いた物狂わしい
「おお、御本屋さま」
「お
正成の姿は、たちまち、留守していた
「よろこべ。いくさは勝った。みなのお蔭で勝った」
正成もまた顔を
「あとで。あとで、また」
と、正成はすぐその足を、さらに山上の、転法輪寺の方へ向けていた。
彼の姿が山上へ出ると、ここでもまた、五月の
「おお、おやかたじゃ」
「わが殿、わが殿」
と、歓呼の迎えだった。
転法輪寺の門前には、兵といわず、すべて半歳の籠城を共にしてきた
「お帰りなされませ」
「めでたく、ご凱旋で」
と、口々に、
「とはいえ、てまえらは、ご馬前にも立たず、かようなざまにて、面目もございませぬ」
と、さけび、果ては、
「不忠のほどおゆるしを」
と、正成の足もとに、それぞれ、その口惜しげな体を伏して、あやまるのだった。また、泣くのであった。
正成は、それらの者を見ると、
「ばかを申せ」
と、わざと笑ってみせた。
「きょうの勝ち
それから、彼の一歩一歩の前へ寄って来る男女の手放しなよろこびようは、むしろ彼を途方に暮れさせた。しかし彼はなによりもまず、転法輪寺の内にある総帥の前に伺わねばならないとしていたのであった。
そこの寺中には、
この
「なにもかも、これは
と、正成はほんとの気もちのまま
「いや、
と、隆資は、彼があまり誇らないのを、むしろ物足らないように
「まったく、
隆資のそばには、大塔ノ宮の家来、高間秀行、僧快全なども、その
彼らとしては内心、自分たちが、裏金剛から千早をたすけていたことが、千早の命脈をささえて来た唯一の源泉力であったのだ――という自負満々であったが、しかし一応は口をそろえて、正成の殊勲を共にたたえ、他日の恩賞には、正成こそ、その筆頭であろうなどとも言い
そしてまもなく彼は、
たいへんである。生きて帰った父を見た多聞丸や三郎丸は、正成が坐ると共に、この人を自分らのものとして、つかまえたきり離しもしない。
いくさに勝ったと聞く
「さ、もうよかろう」
まといつく子供らの手をそっと解いて、
「晩にしよう。のう、夜さりまた、ゆるりと、はなしをしようわえ」
正成もここではもう、その
子供たちは、なお、ねばって。
「では、今夜は、お父さま、ここへ泊まるの」
「ね。一しょに寝ような」
「晩のごはんも」
「お、久しぶりで、みなと共に喰べようぞ」
「あしたの晩も」
「いや、こん夜だけ」
「どうして?」
「ははは。よう聞けよ。近くのいくさは終ったが、まだまだ遠い九州や東国では、合戦の最中なのじゃ。そこで今のうちに、赤坂の
「うれしい。赤坂へ返るんだとさ」
子供らは手をたたいた。そして、父と母のまわりを、めぐり廻った。
「殿」
久子は、やっと、子供らから譲られたような良人のそばへ、こころもちすり寄った。
「わたくしたちは、なおここにいても、さして不自由はございません。それよりは、お体のご養生を、幾日なりと、ひとまず先に遊ばしてから……」
「いや、いや」と、正成はかろく首を振って「
ふと、彼は耳をそばだてた。
「久子」
「はい」
「ここの奥か、外の小屋か。生れたばかりのような
「お妹の
「え。卯木が産んだか」
「それもほんに玉のようなよい
「ふうむ」
正成は、唇をむすんで、やがて、そのおもてにあった戦場いらいの硬ばったものを、自然な微笑に
黒い戦雲の下では、あんなにも人が死んで行き、ここには、
「ふしぎだなあ!」
「こんな籠城の中からでさえ、
五月二日の朝だった。
ここで断わっておかねばならないが、以下の時局は、日時を少しさかのぼって、もいちど、元弘三年の“五月
ところでその二日の早朝。東国鎌倉ノ府ではまだ寝起き顔の人々のあいだに、ふと小さい噂がかもし出されて、
「おかしいよ、どうも」
「何かヘンだぜ?」
と、不安な朝食をすましているまに、はや
「わかった、わかった。いやもう、たいへんだ」
たれが、どう
町の目や耳は、
でなくてさえ、彼らは、上方における鎌倉軍の旗いろは知っている。――武者所や
「東国勢は
と、偽報を公示して、人心の揺れを抑えていたものの、しかし昆虫のように、また蝶や鳥みたいに、府民は生活を託しているここの土壌に敏感なのだった。ただいやおうなしの権力下にあるばかりに、その労働力や技術や商戸のいとなみを、軍幕府の強要にささげてはいたが、もうどこかには、この鎌倉の運命を感じとっている顔つきばかりなのである。
「えっ、何が? どこで何があったんだね」
「
「へえ、あの
「まだ四ツ五ツの、お小さいお方だそうだ」
「もうひとかたの、竹若さまとか仰っしゃる方は」
「それも、
「じゃあ、その和子も、逃げ出したろうか」
「さあて。そこまでは分ってないが、質子が脱け出したのは、
「ふーむ、足利殿がの」
町じゅうは沈んだが、しかしまだ、半信半疑ではあった。
けれど午後にはまた、大蔵屋敷のほか、二軒の館が、幕府の兵にかこまれたのを、彼らは目で見た。
一つは、鶴ヶ岡下の赤橋守時の邸であった。高氏の妻、
が、登子は、姿を消しもせず、ちゃんとそこにいたという。
さらにもう一軒の方は、小町ノ辻の新田義貞の屋敷で、昨今、義貞も妻子もいないことは、幕府方にもわかっていたのに、あえて差向けられた兵は、土足で乱入するやいな、すぐ屋敷じゅうの家捜しにかかっていた。
「ない」
「なにもないわ」
「目ぼしい物は何ひとつ」
「まるで空家だ!」
家捜しの物音は、兵たちの張合いなげな口々のうちに終っていた。
「ひきあげよう」
幾通かの、公卿名の書簡ぐらいを獲物として手にかかえた部将が、こう、あごをしゃくッて、兵たちと共に、いちど新田屋敷の門を出たが、
「いや待てよ。いかに当主義貞や家族がおらぬ屋敷にせよ、余りな無人さは、いぶかしい」
彼の再度の命で、兵はまたあとへもどった。そして留守居の老臣、小者、
この光景も、町の人々の目を刺した。
今暁、足利屋敷から、
「新田どのも怪しいのか?」
と、波長をひろめた。
その新田義貞は、過ぐる三月下旬ごろ、たった二、三日この鎌倉にいたことがある。
「心なくも病気のため」
という
幕府では、彼が、現地からそのまま帰国の
「神妙である」
として、そのさいの彼には、おおむね寛大だった。
小町の留守には、彼もまた、ほかの御家人並に、正妻がおいてあった。で、病身の
義貞の室は、北条氏の重臣、安東左衛門高貞(入道聖秀ともいう)のむすめであり、その安東家からも、
「よろしきように」
との口添えが、幕府へなされていたので、その妻と共に、
ところが、帰国以後の義貞の身辺には、とかく病身ともみえぬという報告が、近くの国府から幕府のうちに聞えていた。――それいがいにもチラホラ
「念のためだ。新田の小町屋敷もいちど洗ってみよ」
との高時の命から、俄な家捜しとなったものだった。
が、結果は何もうるところがない。数通の公卿手紙も、四季のたよりや、持明院統の人の筆で、幕府として、何ら敵視されるものでなかった。
それと留守居の老臣も、ほんとに世事にもくらい老家職にすぎず、小者、釜屋働きにいたっては、論外な無知で、取調べの労にも足らない。
しかし幕府は、これでいいとはすまさない。むしろ、積極的な一策へと移行した。すなわち、その日すぐ
のふたりが、
五月二日夜半ノ事
と見えるから、それがとすれば、すでに新田義貞は、自己の諜報網からそれは耳にしていたと見るべきであろうが、彼の住む
考えてみると。
この日、五月五日は男の
わけて義貞には、幼名を辰千代といった
「おそれいるが」
と、息をきッている家臣の里見新兵衛という者が、中次ノ
「
と、上がりもせずに、庭口からの願いであった。
ご無礼には当るまいか。
はじめ、中次の侍たちは、それですこし渋っているやに見えたが、新兵衛の血相もただならずと思ったか、やがて一人が立って
と。まもなく、
「新兵衛か」
廊の上に、顔へ酔を花やがせている人がみえた。義貞の弟、脇屋ノ二郎義助である。
近くの宝泉寺村脇屋に別所をかまえているので、脇屋殿とみなよんでいた。
「申しわけございませぬ。お座立ちをねがいまして」
「かまわぬよ、そんなことは。それよりは何事がおこったのだ?」
「ただいま
「む!」
「鎌倉表の同勢五十人ほどの一隊が、これへまいるとの知らせです。いや、すでに
「鎌倉の?」
「はい。
「ふーむ。なんの前ぶれなしにだな?」
「怪しまれまする。しかもこのさいのことではあり……」
「待っておれ。一おう、殿のお耳へ入れてくる」
義助は、いちど奥へもどったが、またまもなく姿をみせた。そして新兵衛を近くにまねき、廊の上と下とで、なにかを、ひそかに耳打ちしていた。
新兵衛は、主命をのみこむと、ひざまずいて、
「こころえました。では、そのように」
と、すぐどこかへ走り去った。
世良田のみなみへ半里、利根川べりに行きあたる。
そこの川岸の里は地名を徳川といい、新田家の一支族、
さて余談はおき、いま、利根を渡って来た
「まず近くの徳川家へ、沙汰の使いをやってみようか」
と、
ところへ、駈けつけて来た里見新兵衛が、馬を下りて、二人の前へつかつかと歩みよって行き、そしてたずねた。
「あいや近国の衆ともお見うけ申されぬが、いずれからお越しあって、いずれへおわたりの人々か」
「わしらか」
「鎌倉から」
と、単にいう。
「はて鎌倉のご上使なら、前もってお館へ、何らかの触れもあるはずですが」
「いや、自分らは
「ははあ、
「いかにも」
「これは、
と、新兵衛は自分の思いちがいをそう詫びた。けれど決して、先方のことばどおりなものとも受け取っていなかった。
「して、当所への、ご用向きは」
「たれぞ、しかるべき
「さようにござります。いつも街道木戸番所に詰めておる
「ならばちょうどよい。新田殿へも
「かしこまりました。しばらくお待ちを」
新兵衛は、いちど去った。そして近くの徳川教氏や大関平馬の門へ告げて、それぞれ家来を糾合し、出迎えの列を揃えて、そのさきに立った。
徴税使の下向ときくと、どこの領土でもこの頃は、またかと、おののいたものである。大戦いらいの出費に次ぐ出費から、幕府としてもムリは承知で諸国へ苛烈な追徴の
「いざ、どうぞ」
新兵衛たちは一
館ノ坊と、義貞の館とは、べつなようで一つでもあった。徴税使の
「ほどなく、脇屋どのが、ごあいさつにお伺いいたしまする」
と聞いていたが、しかし
「耳ざわりな」
と、ふたりの徴税使は、にがりきって、
「なんだろう、あの無遠慮な、浮かれ
と、陀羅尼院のうちから、義貞の館のほうを、木のま越しにうかがって言っていた。
「いや忘れていたが、きょうは五月の節句。端午の客の騒ぎとみえる」
「それは
と、出雲介は、彼方の大屋根の灯へ、目をすえたまま、
「ここは
「それも、来てみて分った。新田は戦の外に立って
「では、足利千寿王の逃亡と義貞とは、
「まず、ないと見てまちがいあるまい。一方の高氏は遠い上方の戦場へ出ていることだし……。またもし新田に策があるものなら、このさい、笛や太鼓の端午遊びどころではないはずだ」
「それもそうか……」出雲介は肯定して。「では、さっそく評定所のほうへ、それは早打ちしておくとして、明日は足利領へ廻ってみるか」
「それにも及ぶまい」
彦四郎は打消した。
「それよりは、当初の名分どおり、税を
「なるほど、そのうちもし新田の内輪に
「しっ。……」
ふたりは口をつぐんだ。
たれか見えたのである。里見新兵衛であった。またすぐうしろに、
「脇屋殿でいらせられます。御当主の弟ぎみ、脇屋の二郎義助さまで」
新兵衛が、両使へ言った。
つづいて、その義助が、あいさつを述べた。そして、いかなる
ことばは、なるほど、いんぎんであったが、しかし脇屋義助のからだからは、昼からの酒がふんぷんと匂っていた。それだけでも、むかっと、相手は反撥を持つに充分だった。――で、黒沼彦四郎伴清がまず政所ノ状をとりだして読みきかせ、状はそのまま義助へ手わたされた。
五日ノ内ニ上納ノ事
右、領主
「……脇屋殿」
「は」
「いつまで、無言でおいでられるか、お受けのことばは?」
「出てまいりませぬ」
「出ぬとは」
「何ともお受けあいいたしかねまする」
「なにお受けできぬ? これは聞き捨てならん」
黒沼と明石の両使は、ひらき直った。そしてその高圧的な態度を、もっと露骨に。
「脇屋殿!
「いや、そむきは仕らぬ」
「でもいま、できぬと申されたではないか」
「さよう、五日の内に、銭五万貫の上納などは、できぬゆえに、できぬと申しあげたまでで」
「それが上命を
「そうです!」と、脇屋義助は相手がたかぶれば
「それや何も、ご当家だけではない。しかも新田殿はこの三月いらい、病のためとて、戦陣からご帰国のままではないか。ほかの諸大将にくらべれば、それだけでも、楽をしておる。せめて
「とはいえ、わが新田領の稲も銭も、まったく余力はありませぬ。領民どもからも、しぼれるだけの物はしぼって、すべて軍費にささげつくしています」
「そうはいわさん。国府の調べでも、また近国の目でも、新田ノ庄ほど
「よそ目には、でしょう」
「いやいや、そうでない。この天下大乱の折に、悠々と、
「子供のための祭りぐらいがなんで悪い。とまれ、五日以内に、銭五万貫の調達などは思いもおよばぬ。政所へは悪しからず、おとりなし給わりたい」
「虫のいいことを。さような悪例をひらいては、よその領主への徴税にも事を欠く。よろしい、世良田のお館でできぬなら、直接、われらの手で当地の
「ご存分に」
と、義助は言って、それ以上は、さからいもしなかった。そしてすぐ座を立ちかけ、
「新兵衛。ご両使はまだ当分ここにおいでらしい。せめて、おもてなしでもしてさしあげろ」
と、いいのこして館の方へもどって行った。
もう宵をすぎている。
節句の客の、小さい者たちはみな帰ってしまっていたが、その近親者やら家臣のおもなるものは、なお広間で酒をのんでいた。義貞も上座のしとねに、やや居ずまいをくずして、義助がみえるのを待ちかねていたふうだった。そして義助が来てからは、いちばい声もひそまって、そこはそのまま密議の車座となっていた。
「よし」
義貞は言った。
密議のすえにである。
さんざんな議論も出たが、彼のくちからさいごの
「ぜひもない」
と、義貞はかさねていう。
「まこと、当家の旗上げは、もすこし先にとしていたが、千寿王の逃走、徴税の催促、かたがた四囲の情勢も、いまは一刻の猶予もしてはいられぬようだ」
「いられませぬ」
と、義助も和して。
「いたずらに、大事をとって、上方の戦況を、にらみ合せていたのでは、ついに機を
「が、そうなると邪魔なのは、
「いや、義助におまかせおきください。むしろここは彼らのなすがままにさせておいたほうが、鎌倉の目へは“
「それもそうだ……」
と、義貞はすぐほかの顔へ。
「事俄かなので、岩松経家はまだ、今日のことは知っていない。かねての手はず通り、都にある足利から再度の飛脚がくるのを待った上でと心得ているだろう。……たれか岩松の許へ、かくかくと、報じておけ」
そのほか、新田ノ庄の
が、そうした近郷のほか、新田の同族は、なお遠国にもたくさんいる。
たとえば、足利家における三河の三河党のように、新田氏の分家や
「それも、岩松経家に託しましょう。すべて岩松家の者は、そうしたことには、ずぬけて、熟練しておりますれば」
義助のすすめに、
「よかろう。では、そちが経家と共に、計ろうてくれ」
と、義貞はまかせた。
やがて脇屋義助が、その経家と会ったのは、まだ夜のうちであった。経家が住む岩松村は、世良田の館から、馬なら一ト
「いや、何とか思案もございましょうわい」
経家は、案外なほど、義助が持ってきた至難な任務を、むぞうさにひきうけて、
「では、ついそこまで、ご同道をねがったうえで」
と、彼をつれて、屋敷裏からすぐ近くの安養寺の地内へ案内して行った。
岩松の祖、新田義重をまつってある
その不動堂の扉をたたいて、
「
と、彼はよんだ。
すると内から「おうっ」と、
あらためていうまでもないが、この吉致は、経家の弟で、かつては、
「や、この深夜に」
と、驚き顔に。
「何事のお越しで?」
やがて、明王院の一室に小さい灯がともされた。
その座で彼は、兄の経家と脇屋義助から、予定の旗上げの日が、俄にくりあげられたと聞かされたが、それにはかくべつ意外な容子でもなかった。
「して、その日はいつとおきまりになりましたので」
「極秘だが」
と、義助が声をのんだ。
「――八日の朝、
「八日」
「む」
「すると、あと二日しかありませんな」
「それよ」
と、経家は事の要点へ入った。
「何せい火急だ。これを越後の同族たちへ、
「わかりました。すぐ越後へ発足いたしましょう」
「そちが」
「いや一人では足りません。同坊ども五、六名を連れ、風のごとく急いで、越後じゅうの新田一味へ触れを廻しまする」
「が、幕府の国府や途中の武辺に怪しまれては一大事だが」
「ご懸念には及びませぬ」
自信をもって吉致は言った。
こういうことには吉致は馴れている。
いつか九州一円にわたって、船上山の御旗上げを数日のまに触れ廻ったのも、彼の指揮だった。
また、都へ出ては、阿波の勝浦ノ庄を根じろに、大塔ノ宮との連絡にあたったり、さらに鎌倉へも忍んで、幾たびか、足利高氏を訪い、高氏と義貞とのあいだに、東西同時旗上げの密約を運ぶなど、それらの
そうした、むずかしい裏面工作にくらべれば、こんどのただ時速だけを尊ぶ“
「しばらくお待ちを」
と、やがて彼は、身支度のため、ふたりをおいて、どこかへかくれた。
明王院の内には、つねに数十人の
「では」
と、ふたたび元の座に、その姿をそろえて、義助、経家のふたりへ告げた。
「同行七名の不動山伏。すぐお触れ状をたずさえて、越後路へむかいまする。とは申せ、いかに急いでも、八日には間にあいませぬが、ご出馬の途中にては、きっと、越後軍のこらずお旗の下に
そのころの、不動行者なるものは、どんな服装をしていたろうか。
ふつうの山伏ともちがって、白木綿の
とまれ古くから山伏類似のそんな不動行者もあって諸国の
いずれにしろ、その吉致をかしらに、不動行者に
その三国峠を越え、浅貝、
また、べつな清水越えをとっても、行く先々の村には、新田の支族が住んでいた。
さらに信濃川流域の
それらの門戸の党首を、誰々といえば、
羽川刑部
風間信濃之助
中条ノ入道、その子佐渡
五十嵐文四、文五
そのほか田中家、一ノ井家、
ところが、義貞旗上げの数日前に、この地方には一つの不思議があったという伝説がある。
どこから来たとも知れぬ天狗らしき者が、一日のまに国じゅうを駈けまわって、
「かねてのさだめどおり、
と、触れまわり、また、
「時は八日。おくれぬように、各

と、出兵の急をうながしていたというのである。
そこで、越後、信濃の族人ばらは、義貞の挙兵におくれることなく参加しえたが、あとで思うに、あのときの
が、それもまんざら根のない
節句すぎの六日から七日。新田ノ庄の領民は、とつぜん大恐惶におそわれていた。
富有な商戸や農倉を目ざし、強制的な戦時税の税物の供出が命ぜられて来たのである。
それも莫大な割当を、
「即日に」
という厳しさだった。
のみならず、しがない小農家の戸ごとへまで、
「それぞれの
との催促だ。
領民はふるえあがった。従来の
なんで世良田のお館をこえて、直接こんな課税がきたのか。上のいきさつは、もとより彼らに分ろうはずもない。ただ鎌倉の御用ときかされ、また、
「このうえ何を出す物があるだよ」
と、隠し納屋の穴ぐらから自身の血肉を裂くような蓄えの物を取出していた。いや強奪にあったといったほうが彼らの気もちに近いだろう。なにしろ、世良田を中心に、いたるところこの騒ぎと悲鳴でない村はない。
「なに、なかには公命に応じぬ
徴税使の出雲介と彦四郎は、部下五十人に加え、近くの国府から国府役人の手までかり出して、世良田の辻に、仮の税物収納所をおいていた。そして、不穏な声をきくとすぐ兵をやって、
「さような奴は、家族どもをひっくくれ」
と命じ、また、
「家に
とばかり、終日諸所方々へむかって、馬ぼこりをけむらせ、
こんな恐怖の日も暮れた七日の夜である。――七日の
すると、夜半すぎだった。
「な、なんじゃろ」
「あの人声は?」
世良田の民は、大地震かとでも慌てたように、寝まき、はだしのままで、みな外へとび出していた。
いくさだ、いや火事だ、と彼らの識別もまださだかでないうちだった。
「わあっ、お館の衆だ、お館がお
領民は快を叫んだ。それを自分らのためになされた報復かのように見たものらしい。
逃げる者は逃げ、逃げおくれた兵はあちこちで殺され、陀羅尼院の火もまた、まもなく黒ずんでいた。
「ほぼ終ったな」
「つないである奴をこれへ曳いて来い」
と、かたわらの武者へむかっていいつけた。
世良田ノ館は、すぐ森隣りであった。
その、けむりの中でさえ、彼のすがたは、キラめかしかった。
彼ばかりでない。家中の士全部もみな身を
「おん前に」
やがて、二人の縄付きが彼のまえに曳きすえられた。
鎌倉下向の、黒沼彦四郎と明石出雲介のふたりだったが、出雲介だけは、何といっても、下に
「むほん人に、土下座するいわれはない」
と、義貞を面罵した。
九代を通じての北条氏の恩顧をわすれたか、
日和見といわれた一語は、ひどく義貞のかんを突いたらしい。でなくてさえ、義貞にはよくカッと色をなす性情がある。つと、義貞の顔が横を向く。その面の冴えなど、美しい太刀の
「新兵衛っ、ものいわすな、血祭りにしてしまえ!」
「はっ」
縄尻にひかえていた里見新兵衛のからだがとたんに躍ッた。おそろしく迅かったのでその太刀は出雲介の首の根を狙ッて右肩からあばらへ
「船田の入道」
義貞は、うしろへ言った。一族の船田ノ入道
「たしか、黒沼とかは、そちが妻の縁類にあたる者だったな」
「さようにござりまする」
「ならば、黒沼の身柄は、そちの手に預けてくれる。どうにでもいたせ」
「これは、お情けな」
「晴れの
「こころえました」
「
「はっ」
「
「仰せつけのとおり、せがれ
「一族各

「は。みなひとつに」
「よし、それで足手まといもまず安心ぞ。義助(脇屋)、貝を吹け。はやほかの一族ばらは、
生品明神は、東山道に沿う道ばたの
だが、鎌倉は真南だ。
一路、南進すべきはずの新田軍が、そのかど出になぜ北方へ逆行したのか。旗上げ場所を、生品明神の社頭としたのか。
理由はいくつもあったであろうが、鎌倉がたの代官がいる群馬郷の国府(現・前橋市と高崎市の中間、元総社と呼ぶ地)をうしろに、それを措いて南進するのは無謀であり、危険と考えられたことも一つにちがいない。
それとまた。
義貞の別館(しもやしき)のある
ともあれ、それは五月八日もまだまっ暗な
黒い
「しいーっ」
と、制し声を交わしながらわらわらと駒をおりた。世良田から義貞、義助たちの一勢が着いたのである。その声なき影の群れを割って、義貞の影は黙々と社殿の前へすすんで行く。そしてすぐ、かねて賜わっていた
とくに綸旨は、彼の挙兵の動機を正当づけ、また将士をして、それに死なしめる思いを与えるのでなければならない。
逆威ヲ
ココニ至リ
関東征伐ノ策ヲ
「船田の入道」
「はっ」
「
「
「む。呼んでみい」
執事の船田
脇屋ノ二郎義助以下、大館宗氏、堀口貞満、同行義、岩松経家、
呼ぶ。答える。
呼ぶ。答える。
「船田、もうよい、すべてで何人?」
「およそ百五十騎にございまする」
「百五十騎か」
少ないのは覚悟のまえであった。馬上になった義貞は、すぐ鞭を西北へ
「明けぬまにこそ」
義貞は号令する。
「国府を蹴ちらせ。かど出の血まつりにだ!」
「おうっ」
騎馬の者全部のムチの手が一せいに唸った。
道はいい。東山道の街道である。一陣の
いかに義貞が、時を惜しんでいたかがわかる。このさいの彼は、
たとえ成算はあったにしろ、一族
ひとつには、あの徴税使ふたりが、旗上げの時期を早めさす口火にもなっていたわけだ。――で当然、
と、すれば。この朝、いや朝ともならぬうち、国府がわの守護代官も、ただちに軍備をととのえ、新田ノ庄へ出勢していたに相違ない。古典「太平記」にはこのへんのことはなんら見えず、ただ「梅松論」の一節に、
然る間、当国ノ守護、長崎孫四郎左衛門、すぐさま馳 せ向つて、合戦におよぶといへども……
と、一戦の下に敗れて逃げたとあるばかりである。思うに現今の前橋、高崎附近で遭遇戦となり、新田軍は、これをかど出の一撃に撃破して、「いざ、南へ」
と、即時にその進路を、鎌倉の方向へ、向けかえていたものとみてまちがいない。
「さいさきはいいぞ」
「うしろで、赤城の山も見送っている」
「おお赤城の山とも」
「しばらくは……」
軍は、どこかで、
この間のこととされる。
はるか北の
大井田経隆をはじめ、羽川、
鞍つぼから身をのばして、彼は全軍の将士へいった。
「みな聞け。不思議の
義貞の語尾について、全軍は、わあっ……と三たびの
もっとも、それが南下してきた道すじの児玉郡や
「お味方に」
と、多少は
だが、義貞の腹づもりにしてみると、
「それにしては?」
と、参加者の数になお不足だったに相違ない。そして、武蔵野一帯から、多摩、秩父の山波にもひそまっている不気味な古源氏の武族が、
「いったい、敵にまわるものか。中立の腹か?」
と、その出方に、たえまなき警戒を持ちながら、進路を南へしていたのだった。
そして、十一日の昼。
「やっ、敵がみえる」
「追ッかけろ。敵の物見か」
と、はや彼方の丘陵へむかって数十騎は突撃していた。
黄色い花山吹の花粉のような埃りが夏草の上をながれた。
「待てっ。射るな」
あとから近づいて来た義貞の声だった。
義貞は、もしやと思っていたものを、見つけたのである。川向うの丘に立っている一人の男が、竹竿のさきに、童子の
「義助、行って止めろ。そしてすぐこれへ迎えて来い」
と、そばの脇屋義助を川べりへ駈けさせた。川幅といっても狭い支流である。しぶきを見せて、はや騎兵の一部は、向うの岸へ駈け上がりかけている。
「やあいっ、
義助のこの大声には、たれもが耳を疑った。しかし、彼らがやっとその弓をおさめたと知ると、こんどは先の男が、丘の上なる雑木林の蔭へむかって、その手にしていた竹竿の紫の水干を振っていた。
するとはじめて、そこらの木の間から、百人ほどな兵や
「お越しありしは、脇屋殿か」
「おお、義助です!」
「やれよかった。足利殿の留守居、紀ノ五左衛門でおざる。千寿王さまのお供して、からくもこれまでお連れ申しあげまいた」
まもなく義助は、千寿王の輿に付きそい、供の紀ノ五左衛門ら百人ほどをみちびいて、引っ返してくる様子だ。
遠くで、義貞はそれを見、ほほ笑ましげに、
「来たわ、
と、つぶやいていた。
全軍へは「休メ」の号令がかかり、兵は急に、そのへんの
草ばかりな武蔵野の空の下である。
「よう、つつがなく、わせられたの」
やさしい
「さだめし、ご苦労なされたろうが、もう何もご心配はいらぬ。……この新田は、
「はい」
「む、よいお子だ。どこやら又太郎高氏のおもかげもある。……船田の入道」
「はっ」
「なんぞないかの。甘い物でも」
「
「さしあげておけ」
そのまに、義貞は、紀ノ五左衛門から、これまでの経過を親しく訊いていた。
さきに、高氏と義貞との盟約のあいだには、
「鎌倉攻めの日には、一子千寿を御軍中に預ける」
「こころえた。しかと預かる」
という一条項も、ふくまれていたのであった。
他のどんな軍事上の提携よりも、高氏は、このクサビに他日のふくみを打ちこんでいた。――子を鎌倉の
(鎌倉攻めは、新田だけの催しでなく、足利の一子と一軍も、参加していた)
となす、発言権をも、ここで将来のため、確保しておこうという考えがある。
義貞は、善意だった。この一約にかんするかぎり、彼はきわめて単純に、
「千寿王の参陣は、よろこばしい。新田、足利、両源氏の
と、していたのだった。
かりに
ところで足利千寿王は、いったいどうして鎌倉脱走の冒険に、成功したのか。
いま、紀ノ五左衛門が義貞に語るところによると、次のようなわけだった。
さきに、足利高氏は、その上方出征の途中、箱根路の山中で、家士二十人を抜擢し、これをひそかに変装させて、元の道へ返している。
密命をうけた彼ら二十人の家士は、笠売り、
その五月二日は。
上方では高氏が、丹波
「時を移さず
と、飛報していたものに相違ない。
同様な飛命は、伊豆山へもとどいていたろう。伊豆山には、もうひとりの庶子の竹若が
かねがね、用意のことなので、千寿王の大蔵脱走はさして困難でもなかった。紀ノ五左衛門が馬の前つぼにお抱きして、
これを諸書には、
武蔵七党の一つ、丹党の一族
「そうか」
義貞は、聞き終って。
「では、安保ノ丹三郎も供のうちか」
「は。これへ千寿王さまのお供をしてまいったのは、あらまし安保の人数でございまする」
「手柄な者だ。五左衛門、丹三郎を呼ぶがいい」
「お会い賜わりますか」
五左衛門にさしまねかれて、丹三郎忠実も、そこへ出て、何かと義貞の問いに、答えていた。義貞はまた、その二人へむかって。
「もう一名の、足利殿の
「されば、その君は、伊豆山から叔父の法師ほか十数名に守られて落ち行く途中、御運つたなく、駿河の
「みなごろしに。……では竹若どのもか」
「は、聞きおよぶところでは」
「それや
さしあたって、足利家の丸に二引両の旗はここになかった。
「いかがでしょう?」
丹三郎忠実の智恵だった。
「さいぜん、若ぎみの
「旗にか」
「さようで」
「紫だったな」
「紫の水干でございました」
「なるほど。紫なら乱軍のなかでも、千寿王どののいる所は遠目にもすぐ知れよう。
と、義貞は言っただけで、ほかならぬことだけに、紀ノ五左衛門の意へまかせた。
五左衛門も異存はない。さっそく水干を
「ご守護あれ」
と、それの旗手を丹党の丹三郎忠実へ嘱した。
千寿王の
夕がせまった。
入間川を前に夜をすごすか、越えて野営するかは、問題である。が、そのうち物見の情報に「数里の先にも敵を見ず」とあったので、全軍、夕川を押し渡る。
するとその夜早や、
「鎌倉攻めのお催しとか。年来、今日を待っていた
と、言って来たり、
「足利殿の稚子大将も御在陣と聞き、合力に
などと味方に馳せ加わって来る武士が、ぞくぞく、絶えないほどだった。
彼らはまた、新たな情報を、それぞれにもたらして来た。――義貞が綜合してみるに――敵は目に見えないが、もうまぢかにありと思わずにいられない。
草枕、また、短か夜だ。
まどろむまもなく、
「昨夜のうちに、鎌倉軍一万以上の大兵が、多摩川を押し渡り、府中、立川をこえて北上中との聞えです」
と、夜明けの一報が、物見隊から響いてきた。
「まず
義貞は騒がなかった。
「早飯も戦のうち――」と。
この日、十二日、初めて両軍は久米川(所沢附近の南方)をはさんで矢合せの序戦を切った。
幕府が、
序戦、半日の矢戦では、新田軍はほとんど所持の
なぜ、義貞は退却したのか。
思うに、持ち矢は尽き、代え矢も不足してきたのであろう。
これを積み歩く輸送力など容易でない。矢三百本を一ト
疾風迅雷、鎌倉の不意を突く。
また。日ごろ鍛錬の鉄騎と白刃にものをいわせ、あくまで野戦の騎兵主力で突入する。
その腹だったにちがいない。
「船田の入道」
「はっ」
「千寿王どのの手勢も無事に退いたろうな」
「されば、ずんと後陣でしたから、はやあれなる低い丘に、紫のお旗を見せておられまする」
「オ、あれがそうか。紀ノ五左衛門を、ここへと呼べ」
その伝令をうけると、五左衛門はすぐ馬でとんで来た。
「五左衛門、すさまじい
「なかなか」
と、五左衛門は笑ってみせた。
「お泣き遊ばすどころか、ややもすれば輿からお顔を出して飽きもし給わぬご容子です。われら
「さすが、たのもしい」
語気を、一転して。
「ところで、昨夜来、ずいぶん足利殿
「いつか二千を超えております」
「二千?」
「はい、続々と。昨夜、今朝、そして今も今とて、
「それはめでたい」
かろい嫉妬の感じを、義貞はそう言いかえた。
自分の
「五左衛門。馳せ加わる味方はなお、刻々ふえるのみだろう。鎌倉入りは、新田、足利、
「もとよりわれらも、おゆるしとあれば、先陣に出て、一死を惜しむものではございませぬ」
「いやいや、そちなどは幼君のおそばにあって、どんな乱軍の中でも離れてはならん。したが新参の兵は、ことごとく、義貞の
「望むところにござりまする。一切は、ご指揮の下に」
「船田の入道。――このひまに夜来の人名を
原より出でて原に入る――といわれる武蔵野の陽は、大きく赤く、西にうすずきかけていた。
退いたとみせ、じつは兵力の充足や陣組みを新たにしていた新田軍は、十二日朝のまだ暗いうちに、久米川の敵陣へ朝討ちをかけた。
「鎌倉勢は疲れている。また急遽、馳せ向ってきた驕慢な兵でもある。そのうえ序戦にもまず勝ったと思い、この暁は正体なく寝入っているに違いない」
こう
数においては、はるかに多い鎌倉軍であったが、
「すわ」
と、なったときすでに、その野営地帯は、新田方の騎兵を主力とする斬込み隊によって、寸断され、駈けちらされ、
「退くなっ」
「あわてるな!」
ぐらいの上将の
下部だけではない。
桜田治部ノ大輔の中軍にしてさえ、やがて東村山から恋ヶ窪(現・国分寺駅附近)の方へ、われがちな退却をおこしていたし、左右両翼の一つは、横田から拝島へかけ、もう一軍は
もちろん、踏みとどまって、新田勢をなやました敵もまた少しではない。それらは、ひろい武蔵野の雑木林や丘や部落などの遮蔽物をめぐって、終日、頑強な抵抗をくり返した。しかしもう主力を
こうして、きのう今日の戦場になった所は、すべて鎌倉街道の“
おそらく、義貞の姿は。
そんな庶民の目からは、こつねんと、世に現われた将軍のように見えたであろう。坊主、遊女、
さらにはまた、この夜も甲斐、信濃、そのほか国々から来たり投じる武族がたえない。
「まさに、諸方の
義貞自身も、はや他日の将軍の
わるくない。義貞でなくても、自然、こういう形には乗せられてゆく。わけて義貞は
多摩川が見えだしていた。
義貞は、多摩野の中ほどで、やや駒足を落しながら。
「義助義助。府中へ物見を入れてみたか」
「は。
「河原の方は」
「かなりいたはずの敵勢も、お旗の近づくを知るやいな、みな鳥影のごとく川向うへ逃げ失せましたそうな」
「
「北条も平家。ゆらい平家にとって、川は
「いかさま。あははは」
前後の将も、みな笑った。
府中の
ところが。
やがて江田行義、篠塚伊賀守、
上流にも備えがあった。
また下流でもおなじ犠牲がかず知れず出ていた。
ようやく、義貞も、
「これは」
と、この渡河戦にやや用意を欠いていたことに悔いの汗をにじませていた。しかしもう消極な作戦には返りえない。彼の命令で、
「とどいたぞ。岸を踏んだぞ。脇屋どのの一手、
「田中氏政ッ」
「越後党の烏山時成」
声々に、敵のなかへ斬り込んでゆく。たちまち影も見えなくなる。いつか敵の陣はおそろしい数を加えていたのだった。
そのはずなのだ。
きのうの残軍だけがここに備えていたのではない。――二日おくれて鎌倉を出た幕軍の第二軍三軍がすでに
「退けッ」
義貞は俄に叫んだ。
「船田の入道。退き貝吹かせろ。味方にとって地勢もまずい」
しかし、退くには多くの犠牲が出よう。義貞はそれも覚悟か、一たん渡りかけた多摩川から全軍をひきあげさせた。そして
かたちは逆転した。
いちど乱離と崩れた陣は、容易にこれを組み直せない。かなり沈着な部将にしてさえ、
はやそのうちに。
鎌倉軍二万余騎の新手は川を地つづきにして押渡って来た。――見つつどうしようもない新田勢であった。その騎兵主義もはや威力はなく、弓隊を持たないので、みすみす敵をして、難なく
義貞、散々 に打負けて
すでにここにて
討たれ給ふべかりしを
堀金をさして、引退 く。
一方、府中の六所神社にいた足利千寿王とその随身たちも、合戦の悪化に驚き、幼君のすでにここにて
討たれ給ふべかりしを
堀金をさして、
もうこのさい、鎌倉勢が猶予をおかず、さらに新田勢へ追撃に追撃を加えていたら、義貞も討たれ、千寿王もまた、捕われていたかもしれない。――だが、なぜか追わなかった。多摩川北岸にとどまって、明日を待ってしまったのである。
天佑とはこんなことか。
その晩である。
三浦三崎の族党、三浦兵六左衛門義勝が、おなじ陣にいた松田、河村、土肥、本間などの
「今からは」
と、義貞の許へ投降してきた。
そして投降の将は口々に、
「かねがね、宮方へ心をよせていたのですが、よい折もなく、心ならずも、今日まで幕府の下にいた者どもです。ご疑念を解くため明日の合戦には、われらが先陣して鎌倉入りのおみちびきを仕らん」
と、いうのだった。
いぶかしいのは、これだけではない。明け方にもまた、大量な投降者があった。
「何で敗者のわが陣へ?」
と、
六波羅滅亡!
それの噂がここへも知れてきたのである。
もちろん、幕府は極力それを秘して来たにちがいないが、近江番場における探題以下の自決だの、光厳、後伏見、花園上皇の
これでは当然だ。内にそんな動揺があっては、勝機をつかんだ鎌倉勢も、一頓挫を来たさないわけにゆくまい。――逆に、義貞の方とすれば、都の聞えは、まさにここでの起死回生となっていた。
「まだ聞かぬ者は聞け。六波羅は陥ち、箱根以西はみな宮方に降伏したというぞ。余すは鎌倉の府のみ。余命いくらもない鎌倉に手間暇かすな」
義貞は、その朝、声を大にして全軍へ告げ、さらに分倍河原への逆襲を
高時の弟、北条泰家は、右近ノ大夫入道
陣は、あけがた、分倍河原から多摩野へわたって、
「ござんなれ」
と、新田の逆よせにそなえていたが、きのうは大捷をはくし、なお、敵に三倍する大軍を持ってもいるのだ。それが俄に、こんな守勢に転じなければならぬとは――と彼の若さは、心外でたまらなかった。
「いったい、鎌倉武士のほこりは今、どこへ失せてしまったのか」
「いいのか。こんな手当てで。大丈夫か」
と、くりかえしていた。
「
一将が、指さしつつ説明する。
「敵が、まともに来れば、両翼でおおいつつみます。右端へかかれば、
「そんなことは分っておる。わしが念をおしているのは、このうえにもまた、裏切り者が続出せぬかという惧れだ」
「いや」
と、
「昨夜らい、六波羅失陥の噂やら、上方の敗報しきりと聞いて、急に、お味方を捨て去った卑劣なやからは、もう出つくしておりまする。またそのような二タ股者が、ふみとどまっていたにせよ、何ら頼みにはなりませぬ。むしろ、脱落するものは脱落し去って、いまは堅くなったといえましょう」
「そうかな?」
「そうです。鎌倉武士も
「いかにも」
人々の眼は、高貞へそそがれた。高貞は、さしうつ向いた。
ここに一将として加わっていた安東左衛門高貞は、敵の新田義貞の
「…………」
泰家は、眸をそらした。気の毒さに何もいいえず、すぐ馬をめぐらした。そして親しく中軍の士気をはげましているうちに、
「塩田っ。どうしたのだ?」
「寝返り者です」
「それ見ろっ。して何者が」
「どの手勢とも分りませんが、新田の騎馬隊に陣をひらいて、わざと中軍へみちびき入れた不届者があります。ここは危ない。はや川向うへお立退きを」
「ばかなっ」
泰家はきかなかった。
「なお、二心の
「死に場所もございましょう。ご短気すぎる」
老将の塩田陸奥は、耳もかさない。
かえってあたりの近習たちへ。
「
「塩田。わしには、見物していよと申すのか」
「ぜひもございません。裏切り者につづく裏切り者の続出。これが、どこまで出たら止まるものか」
「その非武士めを
「それこそ、ご血気。塩田が思うに、御府内もまた、ただ事ではありますまい。高時公の御安否すら気がかりだ。それでも、あたらこんな場所で、死をお急ぎなされますや」
極言だった。
しかしこの老将には、頼みがたい人心の浪の逆巻きが、もうそんなにまで急迫したものに見えたのだろう。――よもやと、これほどとは予想もしていなかった塩田だけに、失望の度もつよかったにちがいない。
事実、二次の分倍河原の合戦は、いわゆる“味方破れ”というもので、鎌倉勢は、自軍から出した昨日の味方と戦ってやぶれたようなものだった。そしてほぼ一昼夜にわたる激戦のはて、多摩野や多摩の川原には、
「まず、大物見を」
と、義貞は
そして、十六日は、うごかなかった。
兵馬をやすめ、また
またこのうちにも、武州の熊谷直方、直春。常陸の
それと、武人の間では。
足利どのの
という呼び声が、一種の人気のようによく人の
いよいよ十七日。――関戸陣を払って、鎌倉攻め開始の日には、彼ら、若御料を愛する武士たちは、幼君の
みな黒髪を投げ伏せて泣いていた。柳営の大奥なのである。……むつらの
藤も散り、なぎさの菖蒲やつつじの花も黒ずんできた五月の蒸し暑い昼だった。すると、庭の遠くで、
「女房がた。女房がた」
と、男の顔が垣越しに、
「なんとなされましたぞ。ご
と、内へ告げて立ち去った。
われに返った
これは、いつも、
「お目ざめ」
と聞くとすぐ彼女らがする御起居の習慣となっている。
とかく夜は眠れず、昼は時を問わず、疲れるとすぐ横になる高時だった。その
夢見でも悪かったのか。
もっとも、具足のままだ。浮かないのはムリもない。小手指ヶ原、分倍河原と、新田勢の南進を刻々耳にしはじめてからは、さすが
彼のよろい具足は、お抱えの
「新右衛門っ」
近習の長崎新右衛門を見て。
「はやく
「は。いま、ごさいそくを申しやりました」
「いまごろか」
そのすきに、
「
「伊具か。なんだ」
「戦場からのご急使が、さいぜんより、お目ざめをお待ちしておりますが」
「どこに」
あらためて、寝ざめの目をさまよわすほど、周囲は武臣の姿で埋まっていた。いまやこの表小御所は陣営中の陣営だった。いわば死か生かの、鎌倉さいごの命脈を支配している心臓部なのである。
見ると、二名の血まみれな武士が庭前にぬかずいていた。その背に、午後の陽が直射していた。ひとりの方は虫の息らしく力がない。身じろぎもしないので血に蠅の群れがたかっていた。高時は本能的に眼をそらして、ついと座から立ってしまった。
「たれか聞いておけ。つかのま、具足を解いて、肌の汗を拭いたい。
ちょうど廊に女房たちの列が見えた
「ここへよこせ」
高時は、石ノ庭の
「お
「お肌もお拭きあそばしますか」
「この汗だわ。
そのあいだに、

高時は一ト口ふくんで、石ノ庭へ吐きすてた。
「こんなもの、たれが持って来いといった」
彼女らは、遠くすべって、おののきの指をそろえた。
「ご近習や
「ばかな。この高時のどこが病者か。病人は天下の
「め、めっそうもない。ただおからだをお案じ申しあげるばかりに」
「おや。泣いているな。……どうした。いま泣き
「おゆるしくださいませ」
「もどかしい。ほんとのことをいえ! ほんとのことを」
「うえ様……」と、常葉の局が、むせびあげて。「ほんとは、たったいま、六波羅の御合戦から近江番場のくわしいことが、さる
「そして」
「むつらの
「死んだのか」
「討死したり自害したり、
「しかたがあるまい。人間がみんなどうかしてしまったのだ。冬の
「ご
「くすりとは、それのことだ。わしは負けたくない。こんな世に負けたくない。一日でも愉しまなくて何の生きてきた
「――
それは、廊の外へきていた金沢ノ入道
「お
「はい」
彼女らが起つとふたたび、
「太守」
と、崇顕は、沈痛ないろを眉いっぱいにたたえて、ゆるしも待たず、内へにじり入ってきた。
「またも凶報でございました。新田勢およそ二万騎とか。はや、両三日中にはここへ迫るかもしれませぬ」
「また、負けたのか」
何か、遊戯の上の負け事みたいに高時はそう言ったが、やはり落胆は大きいのであろう。肩を落して、
「ふうむ……」
と、うつろに鼻腔を鳴らした。
ふと、崇顕は涙ぐんだ。
一族中の長老である。十五代の
だからこの金沢ノ老大夫には、ことし三十一歳となった人の恐れる相模入道高時も、まだ子供みたいな、言ってみるなら天真らんまん、幼いままなお人としか見えないのであった。
お気のどくな。
こんな世に、こんな家に、お生れなくば。
と崇顕は、いつもそうした同情につい先立たれる。
世評、ややもすれば、高時を暗君と見、また“うつつなき人”といったりして、一族御家人までが、腹のなかでは、軽んじているのだが、崇顕からみると、すべてそれは、高時自身の罪ではない。
朝廷では、この人を、鎌倉の司権にすえておくことが、なんにつけても、都合がよかった。高時だと、諸事、言いなりになるからである。
また幕府内でも、高時を
で。たとえ、かざり物でも暗君でも、この君を立てておくしかないとされて来たのである。
要するに四囲のためだ。
政略、勢力争い、すべて四囲の人間が、自分らの保身と、相手の擡頭をふせぐため“うつつなき人”高時は道具にされていたようなものでしかない。――しかもその人は、生れながらの病弱で、
だが決して、そうとはいわず、また考えるでもなく、我には当然な天職と思いこんで、その執権の座に、衆臣の畏伏や美言をそのまま信じている高時が、金沢ノ老大夫には一そうあわれでならなかったのだ。
「太守。……なにとぞ、おこころしずかに。……いかなる事態が迫りましょうと、この崇顕から長崎、
「気をしっかり持てというのか。これ金沢の
「いや、念のためのみでございまする。なにせい、新田勢は日ましに数を加え、はや武州多摩川をこえ、関戸の辺までも」
「待て待て。どうしてそんな俄に新田勢が近づいて来られるのだ。味方の左近大夫(泰家)や桜田などの諸大将は、いったい、どこで何しているのか」
「ぜひなき
「ぜひなき仕儀とは」
「されば……。ついきのうまでは
「では、新田が強いのでもなく、味方の負けは、裏切り者が出たせいだの」
「いやそうとばかりも」
「ほかに理由は?」
「六波羅の敗報などが一時に知れて、それがお味方の士気を一挙に
「おなじことだわ」
高時は、
誰へでもない。嘲笑は、日頃もよくする人だった。彼の娯楽の一つなのである。
そこへ、お

「持ってゆけ」
と、すぐ追いやった。
ぼうと、瞼に生気の色がさしてくる。高時の中の、もひとつの高時が、やっと眠りをさましたふうだった。
「
「
「聞えてもいい。わしは世間を眺めて思うのだ。裏切ったやつがまたいつか人を裏切り自分を裏切る日が来なければ倖せだと。……恐ろしさも、こうなると、いっそ、面白の世やと、
「太守。ここは御陣中です。浮沈のさかいです。なにとぞ、ご酔言もちとおつつしみを」
「だまれ。いまほどな酒で酔いはいたさぬ。ほんの
彼は立った。
歩き方まで違っている。
以前の、表小御所の陣座へもどって、どかと坐り直したのだった。そしてキラキラよくうごくその酔眼が、居ならぶ一族、御家人を
「ち」
と、癇性な舌打ちをもらした。――いまの大敗報にひしがれてか、
その陰気さが、彼には堪らなく
「みな聞け。いまも金沢ノ大夫に申したが、近ごろ武門は寝返り
「…………」
「だが言っておく。高時は一人となってもここで戦う。高時にはほかへ逃げて行く国もない。鎌倉はわが祖先の地だし、わしが当代の
そのとき、中門の外でなにか言い争う武者声がしていた。
高時はすぐ気づいて。
「赤橋の声もする。守時が来たのか?」
すると、駈け入って来た一将が、こう訴えた。――かねてから謹慎中の赤橋殿が、無断、
「上げるな」
高時は言って立った。
誰もが、ご
「
と、近習へ命じ、その一つに腰かけてから中門の将へ。
「赤橋をつれて来い」
「お
「なぜ問い返す」
「はっ」
「別れに来たに相違ないのだ。死んだら死んだ先までの憎しみなどは誰へもない。みなもさようには思わぬか」
彼に添って、ぞろぞろ、庭上へ降りてきた金沢ノ大夫以下、同族の武将の群れをふりむいて、そう話しかけなどしている。
――と、もう彼方の内門に赤橋守時の顔が見えた。高時だけでなく、その姿はここにいる限りな人々の視線に
足利高氏の妻の兄。
いわば反逆人の片われ。
と見る衆人の目のトゲが、わけて千寿王の失踪いらいは、彼の頬をも肩の肉をも
「…………」
無言のまま、守時は、高時の床几のまえに、ぬかずいた。
高時は、日頃のような口吻で、床几をすすめた。
「赤橋。かけたらどうだ。まずそれへ」
「謹慎の身です。ありがたくは存じますが、いただきかねます」
「遠慮はいらん。わしがゆるすのだ。また、無断出仕の胸もほぼ分っておる。赤橋、出陣のゆるしを求めに参ったのであろ」
「ご明察の通りです。新田の大軍は、はやこれへ近づき、西の海道からも、大塔ノ宮の指令による海道の宮方武士が、新田に
「望みか」
「さもなくては、この守時、死にきれませぬ。――守時とて北条一族の内、その
「もっともだ。人はみな依然、赤橋を疑っている。兵馬を持たせて前線へ出すなど、とんでもないことだというだろう。……だが、高時はそう思わん。疑うくらいなら八ツ裂きにしてしまう。
守時は、落涙した。なんども、高時の床几を拝して、
「かたじけのう存じまする」
と、身を沈める。
その手をとって、高時は抱くように、彼を床几へかけさせた。
「赤橋。いまからは、御辺も一方の大将としてたのむのだ。もう謹慎の身ではない」
「
「いや。御辺がこれへ来たことは、高時にもうれしいのだ。人間同士が信じられぬままでは何とも浅ましい。わけて高時は人一倍の淋しがり。わしの陣に、赤橋のごとき者が一人ふえたと思えば、心も少し賑やかになる」
「おことば、一生の賜物と、
「ときに……」と、高時はふと、語気をかえた。
「
「はっ、その妹は」
守時は、さしうつむいて。
「子の千寿王が、大蔵のお固めを破って脱走したのも知らず、良人高氏の反逆いらい、この守時の実家で、尼同様な
「今暁、どうかしたのか」
「仏間にて、わが手でのどを突き、相果てておりました。……
「やれ……。ふびんであったな。あんな明るい、よいむすめであったのに」
高時の一語には、嘘でない
しかし、周囲は決してそうばかりではない。
ご寛大も
となし、千寿王の失踪などは、母として登子も未然に知っていたにちがいなく、赤橋殿もまた、知りつつ見のがしていた同穴の
現にいま、この場で高時のことばを聞いていた一族御家人の将星の中には、
ああ、暗君だ
暗君はついにどこまで来ても暗君だった!
と、なんら明察の
――とはいえ、高時の性情はいま始まったことでもない。
また彼ら自身も、いまさら、北条血族のきずなは切れないし、恥を敵に売って、あげくに、首斬られる恐れもあることは知っている。ここはただ阿修羅になって守りぬき、ひとまず外敵を追った日こそ、この暗君を、他のよき人に代える絶好な機会としているものだった。
しかし、北条九代の府、鎌倉武士の名もここから出たのである。禅もここで栄え、学問も政治も、かつての日には生きていたのだ。一概に武士は
十七日の夕。
海道の一駅、藤沢の
しかし物見隊同士の遭遇戦にすぎないもので、いつか、夜半の暗い雨となっていた。
雨は風を加え、そのなかを、先鋒、本軍、後続部隊まで、新田勢はぞくぞく藤沢の宿へこみ入って来た。――足利
「ここの寺は
義貞は、これへ着いても休息をとる容子はない。ただ雨も小やみと見、船田ノ入道が、寺内の広場に床几場を設けて。
「されば。
「では、寺中には、たくさんな男女の
「おるかもしれませぬ」
「まず、それを洗え。とかく念仏
その脇屋義助は、兄の旨をうけると、まもなく二人の
笠、尺八は持っているが、後世の
「義助、怪しい奴か。この二人は」
「いや、お味方です。遊行寺に潜んで、今日のご着陣を、待ちかねていたものと申しまする」
「ほ。たれのお使いだの?」
義貞は、ていねいになった。虚無僧二人は、大塔ノ宮の党人、
その合力状によると。
かねがね、大塔ノ宮の密命の下に、三河半島の一角で待機していた船団がある。伊勢、熊野などの海党も交じっていて、三木俊連がそれの
「かたじけない」
義貞は書面を巻いて、ちょっと、
「つとに、宮のご
「はい」と、三木の家来、奥富三郎兵衛が、それへ答えた。「四日ほど前、それは風浪の高い日でございましたが、武蔵野からの早打ちに接するやいな、兵船九隻に、兵千七百を乗せ、鎌倉の海へさして船出なされました」
「では、その船手は早や、ついそこへ来ておるのだな」
「まいっております。江ノ島の島蔭まで」
「よしっ、さらば、こちらも急ぐ」
「その総がかりは、いつとなりましょうか。おそれながら、ご軍勢のくばりと、また、三木勢の上陸地、攻め入る口など、おさしず仰ぎとう存じますが」
「それは秘中の秘。……さ、それはだな」
義貞は口を渋った。まだいくらかの疑惑を二人へもつらしく、その
ここは“ツメ手”というところである。
天下諸州にわたる宮方と北条幕府とのたたかいも、ほぼ終盤に入っている。
そして、北条氏の王将の府「鎌倉」だけが、いま
「七郎っ」
義貞は見まわした。
呼ばれて、
「これにおります」
と、諸将のうちでも一トきわ若いひとりの若武者が、すすんで、義貞のことばを待った。
一族の、新田
「七郎、大手への先陣をつとめろ。――すぐ腰越から七里ヶ浜を駈けて、極楽寺の下へせまるのだ」
「これは……」と、蔵人ノ七郎は武者ぶるいにふるえ。「身の面目にござりまする」
「待て。まだある」
「は」
「海上に船手をつらねて待つと聞く三木俊連の一勢は、すべてそちの指揮下とする。――よいか、三木の使い両名も、すぐ馬をとばして、このむねを俊連以下の人々へ達しておけ」
この朝、これが義貞の最初の軍令であった。
それまでは、あるいは義貞もまだ“
ここ数日で、その持チ駒も、二万余騎とふえていたが、大半以上は利を見て傾いて来たものである。新田の一引両、足利若御料の旗、それの景気が招いた
――が、
そのうえ、地勢のこともある。嶮ではないが、鎌倉四境はすべて山だ。また山に沿う丘やら
もし高時以下、一族北条が、
他日を期して
と、するならば、海上から船で遠く逃げおちることもできなくはない。
あれこれ、義貞も思いめぐらしていたことだろう。が今は何の
これを藤沢から見ると。
左翼の一軍は、堀口貞満、大島
また右翼は。
大館宗氏、江田行義が将となって、さきに新田蔵人が急いだ鎌倉の大手、極楽寺の切通し口へ。
そして大将義貞の中軍は、おなじく大将足利若御料の
鎌倉攻め。それの総がかりは、十八日その日から始まった。
迅かった。
北条方でも、もちろん、
相模原から藤沢まで、暗夜、雨にさえ濡れてきた連戦の兵が、眠りもとらず、すぐ鎌倉へ肉薄するはずもない。――などと府内へ報じていた物見隊の観測などが、かえって、あやまらせていたものか。
いやそればかりでもない。前線でやぶれた将士が一時にせまい鎌倉じゅうに込み入っていたのである。わけて下郎、雑武者などは、自分らの敗北を聞えよくかざるため、競ッて敵方の兵力を誇大にいう。またその惨烈さを
街は、釜の湯が沸くような騒ぎに落ちた。一面の海をのぞけば、鎌倉の街そのものが釜の底といってよい。その中で煮られる豆みたいに府民は家もすてて泣きさまよった。山へ走れば山はどこも兵の陣場になっているし、浜へ逃げれば、沖には兵船だけで、小舟一そう
けん、けん……と、どこかでは群犬の声が雲にこだましている。
「二度とは見まい」
守時は、誓って出た。
「ここ、住み馴れた鶴ヶ岡も、赤橋のわが家も」と。
執権御所の内で、
「
と高時から令をうけたのが十七日のひるさがり。家は柳営に近く、勢揃いも八幡社頭でおこなわれたので、つかのま、彼はやしきへも立寄っていた。
「よいか。心得たるか」
くれぐれも念を押して、彼は門前の赤橋を渡って戻った。いや橋の上で立ちどまった。――そして行く谷水を見ていると、かつての年、妹の
ここを出るとき、花嫁すがたの妹は泣いた……。
女は良人しかないものぞ。
もどるな。よい妻になれ、よい母に。
守時は忘れはしない。妹へ言った。鎌倉武門のあいだではあたりまえな
守時は兄だが、両親とも早世だったので、父同様な心で登子を手もとにそだてて来たのである。で、実感からも責任感としても、彼には父以上なものがあった。それが今日の愛別の苦となっていた。――しかし、彼はいささかも悔いている色ではない。妹の良人高氏が、謀反とわかったときでさえ、そうかといっただけの彼だった。
ほどなく、赤橋守時の一軍は、前線のふせぎに急いだ。
その下には侍大将の南条左衛門高直以下の
それでも、府内の残存兵力とすれば少なくはない。主戦場は、三街道の口と見られ、
また、極楽寺方面へは、大仏陸奥守貞直を将とし、ここへは兵力も一万以上、もっとも、重厚な守備をみせている。
いや、守備籠城のかたちではなかった。
敵に長陣を強いて、長期籠城の戦法なら、こう全力をあげて、打っては出まい。
一気に、迎え打って、敵を粉砕するの気でいたのである。――鎌倉武士の気負いとして軍議は必然そうなったろう。――また連戦の息やすめもせず、ひたぶる急下してきた敵勢でもある。
「疲れを打て」
ともしたにちがいない。とにかく、上方でも武蔵野でも連敗は
十七日の夕、赤橋軍は山ノ内を北へ越えていた。
同夜、雨の中。
洲崎、青船に陣す、とある。
洲崎はいまの北鎌倉の山崎あたりか。
あけて十八日のたたかいは、まずこの辺の
「あれ見よ」
と、守時は味方へ言った。
「敵は、馬も兵も、泥土にまみれ、相模野から駈けつづけて来た疲れのままだ。味方は新手の精鋭、なんで
侍大将の南条高直は、これを
そして、たちまち、新田がたの両将、堀口貞満、大島守之の二軍を追いしりぞけた。
だが、すぐ敵は逆巻いてきた。
とくにこの手についていた越後新田党の北国武士は果敢だった。山国の痩地でそだち、累代、半百姓の飢寒と不平にたえてきた欲望の猛兵である。とかく
ぶつかるやいな、とッさから激突だった。追ッつ追われつだ。新田勢も鎌倉勢も、いきなりどうしてこんな
思うに新田方は策として、一挙決戦を
そのころの武蔵路、大船から戸塚街道へかけて。また藤沢寄りの丘や野づらでも――両軍の衝突は、地形に制せられて、幾十ヵ所にも分裂していた。
卯ノ刻――午前六時ごろから暮れがたまで、各所での白兵戦六十余たび、なお、ひからびた両軍の武者吠えはやまず、敵か味方かの、けじめもつかなくなっていた。
すでに白い
「殿ッ」
足もとの見さかいもなく、一人の小冠者が狂奔して行き、
「殿っ。殿はどこです?」
と駈け
そのうちに、小冠者も、空馬を拾った。そしておなじ方向へ駈けた。すると山崎の上に密集している軍があった。彼は馬を捨て、またおなじ叫びをくりかえしながら崖をのぼッた。
やっと尋ねるお人に会えたのである。さんざんな敗北となった残余の勢を
「小市か」
守時は、人なき木蔭に腰をおろして、
「こころ待ちにしていたぞ。女どもはみな無事か。それとも、そちが来たのは、なにか異変か」
と、たずねた。
紀ノ小市丸は、千寿王の侍童で、また紀ノ五左衛門の孫でもある。だから元々は、大蔵屋敷の者だが、
一書を
良人の罪をわびて、
妹は自害いたしました。
と、守時は先に執権の前でも答え、そとにもそう信じさせてきたが、まことは、幾人かの侍女老女に、紀ノ小市を付けて、
おそらくそこには、他人には想像もしえない涙と涙の顔で、愛情にもとづく言い争いもあったであろう。兄を死地に立たせてまで生きようとしない登子であったにはちがいない。けれどそれを叱ッて、鬼のごとく叱ッて、しいて登子を
「ご無事でいらっしゃいます。誰にも見つかる
「まだわかっていないのか。……わが子の千寿王は、もうついそこの陣へ、父に代って来ておるのに」
「いえ、まずはごらん下さい。おそらくは
守時は受け取って、星あかりにかざして読んだ。そして返書代りにと、静かに言った。
「生き抜くお覚悟との
紀ノ小冠者が、そこを駈け去ってから、時間としていくらでもない。
「あれだ。赤橋の崩れ本陣は」
「西道を取れ」
「そこの崖をのぼれ」
と、昼からの勝ちに乗じて、肉薄してきた。
丘一帯は、松の暗がりは、たちどころに鳴動しだした。相打つ怒濤の吠えと、白い穂先やつるぎの
侍大将の南条高直は、
「や。あのお声は」
と、乱刃のなかを退いて、ひと息入れ、またすぐ、自分を呼ぶ声をあてに駈けだした。
守時が待っていた。
背を大樹にもたせて、髪もみだし、槍を杖に、
「南条か」
やっと、立ちささえている姿だった。
「ア、どこを。いますぐお手当てをいたしまする」
「それには及ばぬ」
青い眼のふちは笑っていた。
「……わしは果てる。本望と思って死ぬ。あとをたのむ」
「なんの、まだ」
「いや死なせてくれ。そちは侍大将。退けまいが、はや退くがいい」
「思いもよらぬ仰せ。
「そうだったな。惜しい者ほど、散りいそぐか。ならば行け。思うさま武士の名に生きるがいい」
「赤橋どのは」
「あれで」
と、守時は槍を杖にすこし歩いた。すぐそばに小さい北野天神の
敵の目にふれてはと、首を掻いて、祠の裏に穴を掘った。気づいたのはそのときで、守時の首は一通の
ゆらい守時最期の地は、
洲崎千代塚
と、古典にみえる。が、千代塚の名も洲崎も現地名にはない。ただ「相模風土記稿」によれば、わずかに北鎌倉の
南条高直の戦死も、同夜の宵過ぎてはいなかった。――主将守時の死を見とどけ、直後、敵のなかへ駈け入っていたのであろう。なにしても、鎌倉の北の口はこれで突破され、越後新田党の猛兵や、堀口、大島の二隊も勢いを駆ッて、夜半にはもう山ノ内まで進出していた。
もっとも、分断された赤橋軍の残兵は、まだ藤沢街道の村岡や深沢あたりで戦っているらしくもある。夜更けるにつれ、遠く民家の焼ける火が赤かった。
しかし、ここ以外は、中軍の義貞が陣した
仮粧坂は、どの攻め口よりも、鎌倉の腹部に近い。だが、幕府もここへは大兵を当て、道には樹林を
「さて?」と、義貞も足ぶみしたことにちがいない。
だから彼の本陣を仮粧坂とは
そこへ、左翼軍から、
「お味方は敵将赤橋守時を討ちとって、はや小袋坂をまえにしております」
との
義貞は、もうわが物と思ったろう。夜明けへかけてはまた、諸方の火の手もますますふえ、くるまれた鎌倉の府の屋根は、海までも、薄墨いろの底だった。
ところが。その十九日のひる、様相は逆転しだした。一大凶報が入ったのである。
浜手へ向った右翼、大館宗氏の一隊が、この朝の引潮どきを狙ッて、稲村ヶ崎の
奇功をそうした大館勢は、府内へあばれ入って、前浜の民家に火を放った。鎌倉じゅうは為にどよめきを起したが、当然な猛反抗に、大将大館宗氏が、まず稲瀬川のへんで斬り死にをとげてしまい、そのほか、部下の多くも討たれたので、残余の兵は、からくも
「……しまった。左に赤橋を討って、右で大館を失ったか」
おおいえない色が、義貞の眉を
なによりは、敵に士気を振わせたことこそ重大である。手薄になった浜手は苦戦におちるだろう。また小袋坂の方まで盛りかえされるかもしれない。
「いや、そんなことよりもだ」
と、彼は意を決した。
霊山の上で、危険にさらされている敵中の孤児を見ごろしにはならない。このさい、救うにためらいを示していたら、義貞の威信はなくなろう。坂東武者というやつは、元来がそういうところで自己を託している人間の将器というものの
「義助。そちの一手はここへ残すぞ。擬勢のためだ、さとられるな」
「兄上は」
「自身、ここにある岩松、里見、山名。また越後党の一ノ井、
「ならば、それがしに代らせてください」
「いやここには足利若御料もおる。万一、正面の敵金沢有時の知るところとなったら、味方は分断され、勝目のほどもおぼつかない。ここも大事だ。義貞に代ってここにおれ」
あぶない戦法ではあるが、腰越までの間は、低い独立した小山群であり、またそれを縫う
義貞は、そもそもの、生品明神の旗上げからこの日まで、終始、捨て身の戦法、
いちか、ばちか
で通してきた。また、勝ってきた。
だが、ここはかたい。
敵の大手だ。
その極楽寺坂は、
「あれしきの
「なじか破れぬことがある」
浪となって、新田勢の部隊は、交互、われこそと、ぶつかって行く。また引き返す。
そのつど犠牲は少なくない。敵は、尽きない矢のかずを持っており、矢かず惜しまず射あびせるのだ。どうしても白兵戦に持ち込まぬかぎりは勝負にならない。
二十日、二十一日、攻めあぐねた義貞は、
「七郎を呼び返せ」
と、藤沢遊行寺の陣からこの口へ、一番に立たせておいた
「ま。食べないか」
義貞は、自分も手づかみで取っていた
「七郎。こう力押しのくりかえしはこけなことだ。いわば敵の思うつぼに乗っているもの。なにか戦法を変えずばなるまい」
「はや、味方の堀口、大島などは、功をあげたと申すのに、面目もございませぬ」
「いやその山ノ内方面の
「おやかた。一策がないでもございませぬが」
「聞こう。どんな策か」
「この附近の田鍋谷から北へ入って、長谷山へ出て、極楽寺の敵の背後へ突き出でまする」
「いい考えだ。が、義貞もこの辺の姥ヶ谷、田鍋谷などの八方へ兵を入れては間道をさぐらせてみた。しかしいずれも兵馬の通れるような所ではないという」
「いや田鍋谷なら越え行けぬことはないと、三木俊連が申しおります。おゆるしとあれば、三木の一勢が」
「行くというのか」
「望んでおりまする」
「俊連のひきいて来た船手も、かくては用をなしていないな」
「なにせい、わずか九隻。それにくらべ、敵の兵船は大小百余艘もありましょうか。
「七郎」
「はっ」
「こよい、深夜の干潮は、正しくは
「このところ、夜々、月の出は
「すると? ……」
義貞は何か考えこんだ。
或る確信をえたらしい。
「潮は今だ、潮時もいい」
と、義貞はいった。
すぐ彼は、
もうここでは床几なぞは使っていない。帷幕といっても、行合川のほとりの草原に、各

「よろしいか」
義貞は、念をおした。
諸将、ことばもなかった。しかしことば以上なもので深く
岩松経家と
また、三木俊連は、
道もない道を迂回路として行くのであったから、三木部隊はみな徒歩だった。馬一頭
こうして、夕までに、海陸ふた手は、夜を待つべしと、義貞の計をうけて立ち去ったが、この間にも、行合川の陣場には、二家の新しい参陣者があった。
ひとりは伊豆の天野
もひとりは、父におくれて駈けつけてきた武州熊谷の小四郎直経の子、熊谷虎一だった。
どっちも、ひきつれて来た人数は少ないものだが、
「折もよし」と、義貞は、うれしく会って、
「そちたちは、運のいいやつだ。もしこよいを過ぎて来たら、秋の扇か、日和の傘、用にもされず、自分でも、武運つたない者と悔やんだろうに」
と、いって笑った。
そして虎一はすぐ父と同陣の、新田又五郎常政の手へ配属された。
どの部隊も、この宵は、たらふく食わされて寝ころんでいた。牛の群れみたいである。黒々と、行合川の海口ぢかい砂丘一帯にまでみえる。
いつか深々、寝込んでしまっている顔もあった。泥ンこな兵たち、欲も得もないような寝顔、それでも誰かが、
「月の出か?」
まもなく、彼らの草枕は、伝令の騎馬に蹴ちらされた。
「起きろ。起きろっ」
「用意、用意」
すでに中軍の旗本群は、馬首をそろえていた。その中に、義貞の影もある。
「山国勢は、先に出ろ」
これは夕方の陣替えに編成され直していた約束だった。――まだ一度も海を見たことがなく、初めて海を見たという兵もかなり多かったのである。
そういう山国兵は、すべてこれを選りのけて、蔵人ノ七郎氏義の手勢に付け、その氏義を先鋒に、総勢、義貞の旗本もくるめて四千騎たらず、縦隊三段になって、極楽寺坂へ攻めよせた。ただの一兵も、あとには残しておかなかった。
兵家のあいだの兵法言葉に“まぎれ”という語が広義な意味でよくつかわれる。極楽寺坂の総がかりもまた、この“まぎれ”戦法にほかならぬものだった。
うおうっっっ
わああっ……
迫ってゆくが、たちまち、わざと崩れをみせて退く。また肉薄する。猛攻をしめす。
そして敵をここ一点に充血させ、干潮が来るまでの、時をかせぐのが主目的であったのである。
極楽寺坂の敵の主将は、
しかし、その大仏貞直にしてさえも、
「新田勢のこよいの攻め方は、これまでのようではない。逆軍の義貞も今やあせって、気短に、
と、当面の猛攻撃が、相手の“まぎれの攻め”とは気づいていなかったふうである。
もし気づいていたならば、「ここよりは」と、まず稲村ヶ崎の突端の防禦と、干潮時の時刻とに、最大な注意を払っていなければならなかった。
もちろん、彼も細心な防禦法は講じていた。
わけて、つい三日前、新田がたの大館宗氏の一勢が、昼の干潮時をうかがって、突如、
だが先の大館勢は、これを袋の鼠にして
「来るなら来い。ござんなれ」
と、多少のたかはくくっていたに相違ない。
“まぎれ”はつまり、心理戦でもある。こうした郭内の将士の心理が、義貞のおもわくを都合よく進めていたことも否まれまい。やがて深夜もすぎ、
「七郎。敵の木戸へ、また一ト押し、押し迫れ」
義貞は、次いで、もっと烈しい命をくだした。
「このたびは、そちの部下のみで、小勢になるぞ。その小勢を
このとき、義貞自身は、またその本軍の大部隊は、大きく急旋回して、稲村ヶ崎の磯根づたいに、岬廻りの道へ向い出していたのであった。
そこは昔、鎌倉開府のころには、磯根に沿って、細い
岬、南へ突出すること
十町ばかり
海崖、およそ三十間
切岸の「石くえ」絶えず
峰の北は
霊山 、長谷の山に連なる
いまはどうか。古記にはそんな形容がつかわれている。「石くえ」とは、石ナダレのことである。十町ばかり
海崖、およそ三十間
切岸の「石くえ」絶えず
峰の北は
「切岸に沿って行くのはかえって危ないぞ。なるべく
口から口へ、義貞は、うしろの隊へ伝令させた。
陰暦五月二十二日は、まだ俗にいう“大潮”の季間である。かなり沖遠くまで潮は引く。
その時刻も、後世幾多の考証で、あきらかに算出されており、正しくいえば、最干潮時は、いまの時間で午前二時五十七分であった――という。
まさに時こそであったのだ。義貞以下、江田、里見、烏山、羽川、山名などの旗本、諸部隊、多くは騎馬で、むら
けれど古来、この新田義貞の稲村ヶ崎駈け渡りの事は、古典から伝説化されて、例の有名な史話となっている。
それは義貞が、
その夜の月の入る方へ、
前々、干 る事もなかりし稲村ヶ崎
俄に二十余町も干あがりて、
平沙渺々 たり。
横矢、射んと、待ち構へぬる数千の兵船も、
落ち行く潮に誘はれて、
遥かの沖に漂 へり。
不思議といふも類 なし。
という奇蹟話になっているのである。これがよく、いぜんには歴史画の画題などにも取り上げられ、新田義貞といえば、稲村ヶ崎の龍神祈りが、かつての童幼がいだく唯一の影像にもなっていたものだった。前々、
俄に二十余町も干あがりて、
横矢、射んと、待ち構へぬる数千の兵船も、
落ち行く潮に誘はれて、
遥かの沖に
不思議といふも
せっかくな古典もこんな分りきった
なにかといえば、
横矢射んと、待ちかまへぬる数千の兵船――
と、あるそのことだ。当然、北条方には、数千ほどではなくても、兵船の配備はあったはずである。――ところが古典太平記の荒唐無稽を笑って、ただしい推理や傍証を加えてきた多くの学説も、どうしたわけか、干潮時間や、渡渉進軍の可能だけをいって、海上に兵船のあったことにはほとんど言及していない。思うに、学者がそれをいわないのは、傍証の史料を欠いてるためだろうが、さりとてそれをいま「私本太平記」のここでは無視するわけにはゆかない。
新田方にも、十そう前後の兵船はあった。
先に大塔ノ宮のさしずで、三木俊連が伊勢、熊野の遠くからひきつれて来た加勢である。
が、指揮の将には、新田一族の、岩松経家と吉致が乗りこんで、宵から沖で待機していた。そして今し、義貞の本軍が、
一方。極楽寺川の下から、干潟十町を駈けて、
「ここ一ト息ぞ」
と、すでに、
かねて、警戒の船列をしいていた北条方の船手が、これを見ているはずもなく、
「すわ」
と、
加うるに、干潟にも、
「これまでか」
と、早や討死の覚悟もしたほどではあるまいか。
しかも、干潮の最頂期を境として、潮位はまたすぐ、上げ潮へ変ってゆく。
そのうちに。
これがわあッと、北条方の敗勢と気崩れになって来たにはべつな理由がある。
彼らの心臓部――つまり極楽寺坂の
いうまでもなく、それはさきに田鍋谷から長谷山へ分け入った三木俊連の一隊が、
「勝ッたぞ」
義貞は、絶叫した。
「宮ノ党人三木勢にのみ名を成さすな。極楽寺坂はもう味方の足もとに踏まれている!」
新田勢はそれに乗じて、干潟を駈け抜け、極楽寺下、前浜あたりへ、一せいに駈け上がったが、郭内の防衛陣は、もう四分五裂となっていた。――稲瀬川をこえ、由比ヶ浜の一ノ鳥居方面へ。――あるいは、大仏下の山ノ手づたいに、黒けむりの下を、ぞくぞく町屋の方へ逃げ退いてゆく長蛇の敵しか見られなかった。
「朝を待とう!」
義貞は令した。もう鎌倉そのものは、袋の中と見たのである。
朝になって分ったことだが、極楽寺口の大将大仏貞直は、乱軍のなかで戦死していた。
彼のまわりには、十数人の将士の屍が、殉じていた。抵抗振りの烈しさもしのばれる。
また、仮粧坂口では、そこの守将、金沢貞将が討死をとげ、脇屋義助の手勢は、同朝、府内へ突入していた。
これで鎌倉の守りは、
三道とも突きやぶられ、あとは狭い府内の主要地を残しているだけのものになり終った。
――が、諸所の合戦は、
むしろ死相の死にもの狂いと、
義貞は、甘縄山の下、無量寺谷のへんに、陣場をすすめて、由比ヶ浜から、町の内までを、一望に見ていた。
そのうちに、一ノ大鳥居のあたりにむらがる敵軍のうちから、ただ一騎、いかにも見事な敵振りの武者が、浜を駈けて、味方の陣へ突進して来た。
これは、島津四郎といって、長崎円喜の
だから、敵味方とも、
「あわれ、島津が
と見ていたところ、さはなくて、島津は新田勢の前まで来ると、馬をすて、かぶとを脱いで、降参に出たのであった。
敵味方、これを見て
あな汚 し、と、
悪 まぬ者はなかりける
と、いかに降人も多かったかの一例として古典は彼を挙げている。だが、あな
年来、重恩の郎党
或は、累代 奉公の家人共
主を棄 て、親を捨て
敵方につき
目もあてられざる有様なり
ともいっている。それが実状であったであろう。或は、
主を
敵方につき
目もあてられざる有様なり
とはいえ、そうした武士ばかりでもない。さきには赤橋守時がある。また大仏貞直や金沢武蔵守のような華々しい者もあった。とくに長崎一族は、みなよく戦って、北条最期の日に殉じた。
長崎ノ入道
「父上っ」
と、呼びかけ、
「お別れとなりましょう。よくお顔を見せてください」
と、瞬間だが、涙ぐんだ。
すると思元は笑って、
「なにをいう。長いことなら知らず、鎌倉の運命もきょう限りのこと。夕にはあの世の辻でまたすぐ会えようものを」
「ああ、そうでした」
為基は引っ返して、由比ヶ浜で奮戦して果て、思元は、扇ヶ谷方面で討死にした。
またべつな辻では、
――時に、ここで寄手の総帥義貞が、何とかして敵の中から救い出そうと、その救出にあせッていた者がある。妻の父、彼には舅の安東左衛門高貞だった。だがその高貞は、いくら誘ッても来なかった。最後の最後まで戦って、ついに新田勢の矢風のなかで戦死していた。
「いやだっ」
高時は、なんとしても、きかなかった。
「ここは、うごかぬ」
としているのである。
しかしその執権御所も、新田勢が三方面から府内へ火をかけ出してからは、まもなく、
あの石ノ庭、
「
うごかない高時の姿をめぐッて、墓場のような沈黙におちていた周囲から、長崎ノ入道円喜が、彼の床几へ、再度の
「……ご無念はよう拝察いたされますが、なにせい小袋坂、
「逃げろというのか」
「たちまち火の手も街の四方に廻りましょう。また、こうなっては、辻々のお味方が、どうよく防ぎ戦いましても、あと半日か、今日じゅうのもの」
「では、どう逃げる?」
「時早くば、朝比奈の切通シから
「ばかな」
と、高時は
「その方面は、寝返りの将、千葉貞胤が新田に付いて、金沢の爺の息子、武蔵守貞将を破り、はや金沢街道を
「は。……それゆえに、
「それ見たことか。――
「いや、さきに金沢ノ崇顕がおすすめ申し上げましたごとく、小壺ノ浦には、日ごろの御遊船やら大船八、九そうを武装させ、万一の用意につないでございまする。……ひとまず、海上へお
「くどい」
烈しく、高時は首を横に振った。こんどは、ひと事みたいでなく、彼自身の自尊心がゆるさぬような青筋だった。
「円喜、一つことを、一体なんど繰返すのだ。長崎の息子、
「…………」
円喜は黙った。赤面して、うしろへ隠れた。
一族御家人、なお千余人は、大庭せましと、充満していたのである。上を行く煙は刻々と黒さを増し、一報の聞えるたび、悲痛な揺れが、
すると、そこへ、
「
と、大声がした。――尼公といえば、高時の生母、覚海尼のことでしかない。その人からの急使だろうか。見れば妙齢なひとりの尼が、静かに、刀槍のあいだを平然と、高時の床几の前に案内されて来るのであった。
「おっ。
高時は驚きの目をみはった。こんな
「やれ、思わぬ客を見るものだ。
と、たてつづけに訊ねた。
「いただきます」
尼は一礼して、与えられた床几へかけた。
彼女は、この陣中にいる
そして、その姉にもまさる美貌なのに、なぜか嫁ぐことも
それには、姉、高時、彼女自身の恋。いろんなもつれの結果だと、噂は一時さまざまだったが、しかし彼女の道心は堅固で、また尼公の
「
「春渓。とうとう最後が来たらしい。して、母ぎみのお
「待たぬ日は早くまいりました。いつかはとは知りながら」
「いつかは……と。それは
「はい。お口ぐせのように日頃から」
「むむ、思い出す。こんな日が来るぞよと、母の尼公は、わしの顔さえ見れば、きつう申した。それがうるさいので寄りつかなんだが……。今朝からはしきりと、幼い頃の、添い寝の母が思い出されてならなんだ」
「尼公さまも、ここ幾夜もお嘆きでございましたが、はや東慶寺の御門も危うくなりましたので、今暁、五山の僧衆に守られて、円覚寺の奥まった一院へお身をお移しなされました」
「そうか。……高時が行くところたちまちそこは兵火となる。……お会いは出来ぬが安心いたした。長い間ご不孝をおかけしましたと、おつたえ申しあげてくれい」
「尼公さまからも、今生の
「いさぎよく?」
「満つれば花にも落花みじんの日が否みようなくまいりまする」
「いや、人間の子には
「ホ、ホ、ホ、ホ。それもおよろしいかもしれませぬ」
彼女は笑った。
白い顔の一微笑に、まわりの
「
「はい」
「大儀だった。はや帰れ。ここもあぶない」
「いいえ」と、彼女は顔を振った。「ご最期をお見とどけするまで、ここにおかせていただきまする」
「なに」
高時は、耳を疑って。
「わしの最期を見とどけるまで、そなた、ここの陣中におかせて欲しいと申すのか」
「はい。尼公さまのおいいつけでもございまする」
春渓尼は明晰に言った。あくまでも冷静である。
「おん母の尼公さまにも、ただ一つのお気がかりとみえ……あわれ
「それで?」
「それで私が、こうお使いをうけたまわってまいりました。この目で、太守のご最期の様を親しく拝してまいりましょうと」
「…………」
高時は黙った。しかし母の
母の秋田氏、覚海夫人は、高時の父貞時が亡くなるとすぐ、仏国禅師の禅門に入り、また
春渓尼は、そのひとの法弟でもあり、いわばまた侍女でもある。尼公の胸はたれよりもよく察している。
尼公の日ごろからの悩みといえば、ただ一つ、俗身のとき産んだ、高時という奇矯な子ひとりにあった。だからその高時の世上の悪評も、生れながらの病弱も行状ぶりも、すべて母の自分のせいのように、蔭で世に詫びてきたのであった。
いや世へだけでなく、子の高時へも、覚海夫人は、母として、子に詫びていた。――本来は、邪心もなく、生れついたままの
しかし、いまはもうどうしようもない。
このうえは、高時が、よくその天命を自覚して、最期をきれいに。北条九代の終りを、かざらぬまでも、世の物笑いになってくれぬように。――と、産みの子の
そしておそらくは、春渓尼からの報告を聞いたのち、彼女自身も、母としてのとるべき道を、心しずかに選ぼうとしているのではなかろうか。
とにかく、春渓尼が、高時の床几の前にいたのもほんの一
「これはいかぬ。ここは捨てよう。東勝寺へ退け。
高時は、急に左右の将へ言って、ただちにここの移動を命じはじめた。
移動には、何の危険もともなわなかった。葛西ヶ谷は、すぐ近くなのである。
柳営のひがし裏、小町門からあふれ出た人数は、東南の低い山ふところへ、熔岩の流れみたいにどろどろ移りはじめていた。
高時をつつむ、一門
「いまを
と、附近の藪へ物ノ具を脱ぎすてて、身一つ、どこへともなく落ち去った武士も少なくはない。
ところがまた、その半面には、思いがけない者どもが、
「おおう、ご執権さま」
「御所さま」
と、高時の姿のまえへ、口々に何かさけびながら、身を投げだしてぬかずいた。数も何十人かわからない。
「や、や」
高時は、そのたくさんな顔の、濡れている頬を、一つ一つ拾って、なつかしそうに呼びかけた。
「そちは仏師の
「は……。はい」
「また、
「さ、さようで」
「大工の木曾ノ
「ご執権さま! ……」と、扇絵師の翁と、染革師の老職人が、声をひとつに、おなじことばを泣いて放った。
「な、なんとも、なさけないことに相なりました。申しあげようもございませぬ」
「やい、やい、泣くな」
高時は、どなった。
「おまえらの顔を見たら……おまえらが泣くのを見たら……どうしたことぞ、急にわしも泣きたくなった。泣いていられる場合かわ。戦争なのだ、新田との合戦なのだ」
「わ、わかっておりまする」
「みんな遠くへ行け。とッとと、退散しろ。ここにいては、あぶないぞ」
「いいえ、御所さま!」
また一人がさけんだ。
「この東勝寺は、北条泰時さま御草創の、
「さよう。この高時には父祖代々の
「何の、鎌倉の滅亡は、てまえどもには、世の終りもおなじことでございまする。父祖百年らい、稼業をつづけ、ご恩顧をうけ、わけて、ご当代には、なんぼう、お
「むむ、おもしろかったな鎌倉
「くやしゅうございます。御所さまも世にいなくなり、この鎌倉も灰かと思えば、私どもも、もう生きるささえはございませぬ」
「何。死にたいと?」
高時は、かえって、きょとんとした顔つきで、
「武士でもない仏師やら笛吹きどもが、死んでどうする! 高時は死なねばならぬゆえ死ぬまでのこと。おまえらにはもう長の
また、左右の武士へも、こう命じた。
「やい。そこらでベソベソ泣いておる遊芸人や
声にヒビが入って、それがひどく非情に聞える。
でもなお、ここにいる諸職諸芸の
そのあとで、武士はがなりつけていた。
「虫ケラども、ほかへ失せろ」
「ほかの
「ご執権を暗愚にして、今日の
日ごろ、高時が庇護を加え、つねに宴遊の相手としていたべつな人種とも見ていたので、武士たちは、その
しかし、ここのそんな狂暴も、
ほかの遠くは、いうまでもない。
北は雪之下、扇ヶ谷、南は、きのうからの前浜一向堂へんから佐々目ヶ
それも、乱打の
「ちいっ」
高時は、しばしば、床几をはなれて、東勝寺の広前を、
「畜生」
青白い顔だった。その白さも、くらべる物のない白さである。眸はいよいよ鋭く、
「
と、急に、何か不安にかられ出したように、呼びたてた。
「太守。……崇顕はこれにおりまする」
「オ。金沢の爺。あれを見い、あの炎を」
高時は、扇ヶ谷の方をさして。
「いま燃えさかッている所は、ちょうど二位ノ局(高時の愛妾)の家あたりではないか」
「まことに」
崇顕はその老眼をしばたたいて、あと何もいえなかった。
「爺っ」
「は」
「ほかの局とちごうて、二位の手もとには、わしとの仲の幼い者がふたりいる」
「お案じなされますな。御家人中でも、日ごろ厚くお目をかけ給うた
「いやその五大院ひとりでは、
「噂では、ご舎弟
「たしかか。それは」
念をおされると、金沢の
覚海尼公が、子の高時を、どこかで見まもっているように、高時も二児の父として、さっきからここで胸を
だが高時も、どうにもならない現状は知っている。
「まっ赤だな、今日の
高時は、上を見た。
たえず何か言ってないと、おそろしい寂寥に体のうちを吹き抜かれる。そしてたまらない淋しさが襲いかかり、自分を
「見ろ……」
ふと、あたりの沈黙の陣を見て言った。堂の下、山門の蔭、広前いちめん、高時と共に在る一族御家人の影は、このかなしい主君を
「あの不吉な色の日輪を見ろ。この業火では蝶も鳥も生きてはいられん。こんな後で、何が生き残るのだ。生き残って何の愉しみがあるというのだ。ろくな世が来るはずはない」
たれへともなく罵ッていたが。
「秋田の
「はっ。おりまする」
「
「はっ。
「
「いずれも、これにひかえております」
「武蔵ノ左近時名もいるな」
「はいっ」
「総勢どれほど?」
「お心づよくおぼし召されませ。なお千人ほどは、おそば離れずこれにおりますれば」
――事実は、もうそんな大勢はいなかった。逃げたい者なら、
一片の義にとらわれ、主従骨肉のきずなにしばられて、高時と共にいた者でも、ふッと、ここで姿を
だが、武蔵ノ左近時名が、
「まだ、千ほどは、君のおそばにおりまする」
と答えたのは、高時の心を少しでも、気丈にさせようとする思いやりにほかならなかった。それを高時も、覚ってはいたろうが、
「むむ!」と、満足そうに。そして、その武蔵ノ時名へ、
「時名。寺中には、
と、いいつけた。
歴代の菩提寺である。客院用の酒壺はもちろん
やがて、兵たちが、数十箇の酒がめをそれへ運んできて並べると、
「これは壮観だ。さすがは東勝寺の
と、唇をゆがめて笑った。そしてみずから場所をえらんで、地に
「みんなここへ寄れ。鎌倉の終りもほぼ見とどけた。このうえは、高時の身の処置いたす。高時がさいごを、皆して、見とどけておくりゃれ」
と、言って
一族の面々は、かえって首をたれてしまった。驕慢な
「……さては、お覚悟よ」と、諸将はみな胸をうたれ、仰ぐにたえない容子だった。とまれ、この
「まず、
と、杯をささげて、彼の前へ
常葉ノ局、むつらの御方、お
高時は見て。
「おう、みなまだいたのか。いかに悪鬼
「いいえ」と彼女らは、口を揃えて。また
「では。そなたたちも」
「はい」
「わしに殉じて死にたいと望むのか。……はての。この高時が、そんな倖せ者とは思わなんだ。死出の道、賑やかなことではある。さあ、みなも飲め、あるかぎりな酒がめ相手に、討死しよう。
日は暮れかけ……。
しかも暮れ迷う夕の
終日の黒けむりだ。日輪の所在もよくわからない一日だった。ただ
高時はすでに、斗酒をほしていた。
青白くいよいよ冴えた顔を、きっと、
「火の雨だな。月雪花、この世の物、さまざま見たが、火の雨とは、思わぬ景色を見るものだ。あわれ、馬鹿者」
彼は次第に、ふんまん、やるかたない語気を、たれへともなく、吐きちらしていた。
すでに塔ノ辻、大町、若宮小路は、炎の大河だった。
なかでも巨大な
「いわれなくても、わしは自分を知っていた。高時は悧巧な人間では決してない。ましてや、北条氏中興のお人、
と、高時は、その大杯を、下へ置くこともなく。
「この火の雨を避けたいばかりに、わしは朝廷へは、できるだけ譲って来たぞ。諸大名にも、権力をかざすなく、諸民にも、仲よく暮らせと祈って来た。人のためにではない、わしのためにだ。何よりも高時の念願は、せっかく、北条九代の
「た、太守ッ」
「誰だっ。わめいたやつは」
「
「さても気短な。忍阿はわしの乳母の良人。もう死んで行ったかや……。まだ

「太守!」
「また誰か、腹切ったか」
「いや、ただいま戦場のまッただ中から、長崎次郎高重が、
「や。約束をたがえず、高重がこれへ帰って来たか。今朝、敵中へ馳せ入るまえに、どんなことになりましょうとも、もいちど帰って、おそばで一しょに相果てますると、約束して去ったやつだ。すぐ連れて来い」
「ただ今、手当を加えておりまする」
「そんな
「全身の矢傷刀傷です」
「高重は、円喜の孫。……円喜、早よう行って見てやれ」
ほどなく、その高重は、人々に抱きささえられて来た。しかし、高時の前では、しっかりしていた。「敵将義貞の首を、お目にかけるつもりでいたのに、事成らず、
醜いもの、美しいもの。
また、裏切りだの、壮烈なる
亡滅の一瞬には、人さまざまな生命の持ち方とその閃光をチリヂリに見せたが、中でも長崎次郎高重は、鎌倉最後の日をかざった一条の若い
高重は、武蔵野合戦の当初から、一軍の将として、戦場へ出ていたが、さんざんに負けて、
「面目もありませぬ」
と、いちどは高時の前に、ひきあげて来た。
彼は一族の長老円喜の孫で、少年の日から小姓として仕え、高時とは主従の半面、いわば
だから、今朝の出勢にも、
「かならず、もいちど帰ってまいります。そして最後の最後には、きっと御一しょに死にましょう」
と、高時へ約し、高時もまた、
「きっと帰って来いよ。それまでは死なずにいる」
と、ことばをつがえたことだった。
その高重には、今日、深く期すところがあったので、どこの防禦陣地にも付かず、日ごろ教えをうけていた
「目ざすは、義貞一人」
と、不敵な意図のもとに、敵の大将旗が見える辺まで近づいたが、
「や、旗も差さず、笠印もない一隊の兵が来る?」
新田の部将、由良新左衛門に怪しまれ、
「来るは、何者ぞ」
と、はばめられてしまった。
高重は、これまでと思い、
「忘恩の賊、新田小太郎が首をとりに参ったり。これは高時公の侍臣、円喜入道が孫、長崎次郎っ」
と、
そして、新田の旗本、横山太郎を討ち、庄ノ三郎為久の首をもあげた。もちろん彼自身も、部下あらましを失ったし、身には満身のいたでを負ったが、一時敵の核心部を大混乱に落して、義貞のきもを寒うさせた。
しかし高時との約束もある。からくも血路を切りひらき、
「次郎、よく帰った」
と、高時はうれしそうだった。いまは臣下でもない。一人の幼友達と見るような眼で、
「その
と、小姓の長崎新右衛門をふりむいて言った。新右は十五歳、次郎高重の弟なのである。
「おさかずき……、ありがたく」と、高重は杯を胸に抱きしめ。
「……いただきます」と、しいて笑った。笑いつつ刻々にせまる死がその若い目もとを青ぐろくしかけていた。
「高重、高重。もすこし
高時はそれを持って、得意の舞を見せようとするのらしい。すっと起って、
年へたる
鶴ヶ岡べの
やなぎ原
高時は舞いながら鶴ヶ岡べの
やなぎ原
茂るもくるし
青のみだるる……
そこでまた、舞をやめ、彼はあたりへ、さいそくした。青のみだるる……
「やい、みなの者、なぜ声を合わせて、謡わぬか。高時一人ではおもしろうない。一同唱和せい、一同唱和せいっ」
しかし、無理だった。
すべてみな敵の新田勢ばかりにちがいない。東勝寺の
むしろ彼らは、ひそかに高時を心のうちで
自分らにはまだ
すると、
「太守。舞をおすすめ遊ばしませ。尼が
「おう春渓、そなたが相拍子いたすとか。満足満足……」
なぜ騒ぐ
やなぎの糸は……
と、高時はすぐつづけ、やなぎの糸は……
世のかぜが酷 いゆゑと
鎌倉の烏 は言ふよ
烏に似たる天狗ども
谷 の穴にや巣食ふらむ
夜々七郷の空に出て
華雲殿 の棟木 をゆすり
わが枕べに笑ひどよめく……
鎌倉の
烏に似たる天狗ども
夜々七郷の空に出て
わが枕べに笑ひどよめく……
これは、ひと頃、鎌倉の辻で、
火の雨、
……敵も、
……と。突然。
高時の舞に合わせて、鼓を打つ者があった。また謡を唱和し、鈴を振り、
いつのまにか、東勝寺の
「やあ、おのれらは、まだそこにいたのか」
「ご執権さまには、淋しいのがお嫌い。また常にお
「うれしいぞ。おまえらまでが。そう思うてくれる高時は日本一の倖せ者。さらば、もひとつ舞おう。その間は、敵も寄るまい」
一瞬……。
新田勢は立ち
「や? あれは?」
耳をすまして怪しみ合った。
執権以下が立てこもった北条勢の最後のとりでとそこを見て、その遠巻きをきわめて慎重に押しちぢめていた山門の内から、突如、大勢の
「はてなあ?」
「計略か」
「そうだ、敵は何か策をかまえているのかもしれぬ」
「しばらく、様子を見ろ。放ッておいても、早や東勝寺の内も火だ。敵は、
たしかに、東勝寺五大堂の上にそびえている五重ノ塔の三層目あたりにも、ピラと、真っ赤な火焔がひらめいている。
そのほか、木々にすら火の火花がチラめき、
「息つぎに、ひとつ、飲もう。……新右衛門、杯を」
高時は、
天狗、天狗車
人の世の人を嫌 つて
天狗が廻す
此世車
修羅を行く輪 は業 の焔
乗るは大天狗
引くは木ツ葉天狗
押すは何天狗
人の心の谷 に棲む諸
天狗
みにくい外道
美しい夜叉
この鎌倉にも百八の谷 あり
然 るがゆゑ、谷 の上に
鎌倉の一法師高時
誓願 の輪奐 をきづき
七宝の精舎 を建て
此世車には
人を乗せ人に引かしめ
春は春をたのしみ
秋は秋を……
「いや、だめだった。わしは暗君。わしの願望などは、たわけた痴人の夢だったぞ。わはははは」人の世の人を
天狗が廻す
修羅を行く
乗るは大天狗
引くは木ツ葉天狗
押すは何天狗
人の心の

みにくい
美しい
この鎌倉にも百八の
鎌倉の一法師高時
七宝の
此世車には
人を乗せ人に引かしめ
春は春をたのしみ
秋は秋を……
高時はここで、息も疲れたのか、また薙刀の柄を肩へ立てて杖としながら、
「世の中、謡のようには参らん。さような
と、笑ったが、そのとき、どこか遠くの方で、天狗の声でもない、人間の吠えでもない、いんいんと、赤い夜空にこもるようなものを聞いて、彼は俄に、ぶるッと、身ぶるいして、こう叫んだ。
「あっ、うかと、忘れていたわ! 新右衛門」
「え? 何事を」
「畜生たちをだ。あわれ、ほんとの畜生たちをつい忘れておった。この有様では、鳥合ヶ原の犬小屋も火の雨をまぬがれえまい。かしこの犬小屋には、高時を慰めてくれた高時の愛犬何百匹が、
それを言い終ると、高時は黄金づくりの小刀を解いて、
彼の覚悟の容子に。
……さては早や。
と人々はとむねをつかれた。
意外でもあった。
万一、
が今、その高時には、何ら狂噪の風もない。自己の運命に素直すぎるほど素直な姿で、
「春渓尼……」
と、呼び、
「わしの前へ」
と、さしまねいていた。よろい下着となった半身の白さもいとど澄明なものに見えて、彼らは逆に、自分らの死出の立ち遅れに、そぞろ慌てた。
「太守。おこころ支度ができましたか」
言ったのは、春渓尼。
その、さり気なさは、まるで
「
すぐ、手の短刀は
「来たか! 来たのか?」
「いえ」
と春渓尼は、一ばい静かに。
「ごゆるりと遊ばしませ。敵を山門内に見るには、まだ間がございましょう。……オオ死出の道、お淋しそうな。むつらの
花の輪が、高時をかこんだ。彼女らはそれぞれ泣き乱してはいたが、この
するとその中のまだ十六、七にすぎぬ百合殿の小女房が「皆さま、おさきに!」と、まっ先に刃でのどを突いて俯っ伏した。その鮮紅に
「尼前……。これでいいか。高時、こういたしましたと、
と、かすかな息で言った。
たちどころに、春渓尼のまわりは、すべて
そのほか一門三十四人。
すでに、
東勝寺の八大堂は、二日二た晩、燃えつづけた。あとには、八百七十余体の死骸があった。死なずともよい工匠たちの死体も中には見られたとか。――総じて、鎌倉中での死者は、六千余人にのぼったという。
また。それから二日後。
五山の一つ、
鎌倉幕府はここに亡んだ。
炎々数日らいの湘南の兵火は、昨日までのあらゆる権力のあとを焼きつくして、時の空に、
夢
ただそれしか思わせない
だが、一夜に百五十年の武家機構とその経営の府が根こそぎ崩れ去ってみると、こことて、ただの関東の一海浜で、しかもあわれな
時の人。それは誰か。果たして自分か。義貞といえ、まだまだ、
五月二十三日である。それは鎌倉占領のすぐあくる日だった。彼は長井六郎、大和田小四郎の二名を選んで、
「今日、立て」
とばかり、西への使いに急がせた。
ところが。偶然といえようか。
もちろんまだ、後醍醐には、鎌倉がほろんだなどのことは、ご存知もなかったが、すでに六波羅陥落の報につづき、千早城もまた
足利殿
この名もまた、いまや洛内では、義貞以上にも、時運の波に乗ってきた“時の人”のひとりであった。
しかし高氏自身は今、そんな誇りどころな立場ではない。――洛内の治安から、そして西の龍駕へも、東の義貞へも、心くばりの多さは、多忙というもおろかなほどだ。まさに、
六波羅奉行
となし、また、わが名による“
「さて、どうしているぞ? どうなることか?」
と、早馬のひづめに、胸の明け暮れ、かきたてられていたことにちがいない。
鎌倉には、妻の
――で彼は、先に、千寿王の鎌倉攻め参加が首尾よくおこなわれたと聞くやいな、家臣細川
「もうここはよい。ここは一トかたづきした。おぬしは急遽、鎌倉へくだって行き、千寿王を
と、命じていた。
美濃。尾張。天龍の渡し……。
海道もひがしへ
「東国はたいへんだぞよ」
「わけて鎌倉は」
と、行くところで、新田勢と幕軍との耳新しい戦況を聞く。
細川和氏の一勢は、そんな風説のあらしのうちを、急ぎに急いだ。
その旅人は、和氏の前でこう話した。
「……てまえは、
和氏は、それでほっとした。
加勢に駈けつけるわけではない。――千寿王のきみが、ご無事であればいいのである。
「これでまず、幼君のご無事なことは確かだが、もう
こうして、駿河の浮島ヶ原(沼津附近)まで来た日だった。――彼方から十騎ほどな旅装の武士が道をいそいで来る。――細川の隊とスレちがいかけた。すると、中の二人が、こなたの兵の
「足利殿のお身内か」
と、訊いていた。
「されば」
和氏の弟、頼春が列を出て。
「これは仰せをうけて鎌倉へくだる細川一族の者でおざる。して、あなたがたは」
「や」
と、二人は馬を降りた。
「われらは、新田殿の家臣にて、鎌倉大捷の吉報を、みかどへお聞えに上ぐべく、上奏の御書を
「それはまた、はからずも……。
そう聞いて、和氏も何かと、鎌倉入りの実状を二人へただした。長井と大和田とは、知るかぎりを、こまごまと話して、さて、先を急ぎますゆえ――と、別れぎわに。
「ここは浮島ヶ原、このあたりで、足利殿のご
二使は、供の郎党をつれてすぐ駈け去った。よほど急ぐらしい様子だった。
和氏たちも、やがて列を進め出していた。
主君の一子、竹若ぎみの
かくて和氏が、鎌倉へ着き、そして義貞と会ったのは、
「めでたく、鎌倉入りの御本懐をとげられて、大慶至極にぞんじまする。――在京中の主人高氏殿からも、右、くれぐれもとのおことばで。……ついては、お祝の辞を
義貞とは、初めての面識だ。
これが和氏の、彼への最初のあいさつだった。
「ほ。三州足利党の一家にて、音に聞ゆる細川殿とは、
と、義貞は
「――天下はいつか宮方に
「わが足利家は都の戦後を。新田殿にはここ鎌倉を。――これからは車の両輪、わだちを揃えて、天下の処理にあたるのだと、主人も申しおりました。……上に
「いうまでもない。両家は仲よくしよう。何事も申しあわせて」
「そのため、千寿王さまの補佐として、不肖、当地へ任ぜられてまいりました。諸事、よろしくおさしずを仰ぎまする」
「そうだ。さっそく、
と、義貞は上々の機嫌で、侍臣をして、さっそくに、杯台をそこにおかせる。
ここは、彼の
鎌倉じゅう、八割は焼け野原なので、宿所割りもなかなかつかず、一部の将士はまだ焦土に野陣している有様だから、義貞すらも住居に困った。――で、鶴ヶ岡の鶯谷一帯にわたる神官や僧侶の邸宅をたちのかせて、当座の本営としていたのだった。
また。
足利
「ああ、おつつがなくて」
と和氏は、その姿を拝してから、義貞へむかって言った。
「共に、鎌倉入りの御陣をおつとめ遊ばしたお蔭で、かく御無事なるをえましたが、一方、わが足利家においては、
「むむ、まことに」
義貞もそれには、共に眉を
しかし、和氏の狙いは違う。
さきに義貞が、鎌倉攻略の功を「義貞が一手にて」と、ふと誇ったことばにたいし、思慮ふかい彼は、そのときは「いや」とも逆らわず、ただここで、足利家もまた大きな犠牲をこの戦いに払っていることを、やんわり、言外にほのめかしていたものだった。
戦いは戦いだけで終らない。
敵を消し去ると、すぐまた、味方同士、味方内の仮想敵を見つけ出す。それは政略という互いの腹の中で始まる。
千寿王を前において。
足利――新田
と合併してなされる諸般の打合せが、義貞と和氏とのあいだで、
「はははは」と、義貞は笑いくだけて。「……このような小むずかしい談合、
「これはしたり! 小さい
「なんの、なんの。むりはない」
「やがて朝廷のおさしずも待たねばならず、都との時務の往来にも、一致を欠いてはなりませぬ。この後は、和氏もしばしばここへ
「ウむ。そうありたいもの。……さしずめまた若御料のお住居も、こう御家来がふえては、いまの別当房では、どうにもなるまい。それから
その脇屋義助が見えると。
「義助か。……どこぞに、焼け残っておるよい
「さあて?」
と、義助はそこへ焼け跡の図面をひろげた。そして。
「ごらんのごとく、武家屋敷も軒なみ焼け
「
「もとより
「二階堂の、道誉が屋敷跡は」
「焼けました」
「では、寺よりないな」
「その寺院とてあらましは
「しからば、何としたものか」
「いかがでしょう。――
「扇ヶ谷は、ここより地の小高い場所になるな」
義貞は考える。
自分の館のある所より、足利若御料の邸が、高くにあるのはまずいらしい。
しかしその附近は、高時の愛妾二位ノ局の家も焼け、また上杉の館といっても、半焼け同様なすがたと聞くと、
「ぜひもない。ひとまず、そこを修理して、お
と、和氏へ
宿所の結構などはいま問題でない。和氏は異議なくそこへ移るときめた。そこで千寿王を奉じて、その日のうちに、足利方は扇ヶ谷のほうへ移った。
だがこのさい、義貞はふと、安からぬものを感じだした。
「若御料は、扇ヶ谷へ」
と、つたえ合うやいな、別当房にいた人数はもとより、焼けあとに
「……ちと、ご
どうしてなのか。
足利若御料
なる者の小さいはずな存在が、ここでは時の人新田義貞の名にも
高氏の意をおびて、その幼主の補佐にくだって来た細川すらも、
「はて?」
と、小首をかしげたほどだった。
ともあれ、扇ヶ谷へは、招かずして、諸家の家の子郎党が移ってしまった。彼らは即日、附近の山林を
「これはちと急変すぎる。新田殿の
和氏は、たずねた。
弟の頼春、
「わかりませんな。諸国の武士どもが、何を考えていることやら」
「もっとも、われらが六波羅を出てくる折、殿(高氏)が申された一言はある」
「どういうことでした」
「義貞について、鎌倉入りした武士どもも、味気ない鎌倉には安心しておちつきえず、その
「ははあ、ではこんなことも、遠地におわしながら、お見とおしなのでございましょうか」
「……と、
「こころえておきます」
「特に、部下の喧嘩に気をつけい。新田殿と張り合ったりせぬように」
「いやもう、喧嘩沙汰は、焼け残りの辻々で、毎日のようだと聞いておりまする」
「それはいかんな。軍令を出しておけ。厳罰に
「令ぐらいでは止みますまい。なにせい、戦に勝った驕兵です。酒をさがし出す、財物を
「ここの兵もか」
「その欲望
「困ったものだな」
「それが楽しみで命がけの戦争に身を賭けたのだと、放言する
ふと。和氏は顔をくもらせた。
「……まだ今日も、お行方が聞えて来ぬな」
「
「そうだ。新田殿の手でも、合戦直後、八方捜してくれたとは申しているが」
「新田の言など、あてにはなりませぬ。ただ紀ノ五左衛門も鎌倉じゅうの山々から
ここへ、
と、そのことは、すぐ都の高氏へ飛報してある。
だが主君の胸になってみれば、敵国の中においたままの妻が、生きてか、死んだか、今は一刻も早く安否を知りたいとしているだろう。
千寿王附きの紀ノ五左衛門も、この数日らい寝食もわすれて、捜しに出ていたが、
「……とんと、聞きうる所は何もござりませなんだ」
と、その夕も、悄然としてもどって来た。
これまでの間に分っていたことといえば、登子の兄守時が、山ノ内合戦における悲壮な死と、それの数日前までは、たしかに登子の姿を、おやしき内で見たという赤橋家の
ところが、また一面には、
「いやいや登子の御方は、それいぜんに、ご自害なされた。――千寿王どのの鎌倉脱走の騒ぎと共に、罪が兄の守時どのにかかって来たので、或る朝、お仏間のうちで」
と、まことしやかにいう者もかなりある。
しかし、その説には、紀ノ五左衛門が首を振った。かたく否定していうのである。
「それこそは、
要するに、登子の行方は、
新田方でも同情して、八方詮議中と
「あ、喧嘩か」
「喧嘩とみえます」
「
「は」
「困ったものだ、もし足利党の武士と新田兵との喧嘩だったら、ぜひをとわず、こっちの者をしょッ曳いて来い。見せしめのため厳罰に処してくりょう」
彼方の人だかりを見て、末弟の師氏はすぐ飛んで行ったが、どうしたのか、戻って来ない。そして、そこの男女は、焼け跡のほこりと人の輪をいよいよ濃くして、たえずドッと、笑いどよめいているふうだった。
「はて。喧嘩でもないのか?」
和氏の駒が、そこへ近づきかけたときである。とつぜん、髪ふりみだした一人の女が、つむじのように、浜の方へ走って行った。
「師氏、なんだあれは?」
「ごらんなされましたか。近ごろやたらに多い
犬神
いまでいう恐水病、あの狂犬病のことだろうか。
鎌倉の戦後には、それに類した病症の男女が焦土の
焼け落ちた門、はや、夏草を見せだした
うっかり寄って、その目に射られたらことである。すぐ
「
それを悲しんで、縁につながる家族らが、よく巷で追っかけ廻している図も見るが、当人は骨肉の見さかいもなく、身のかろいこと、
由比ヶ浜の波は、そうした犬神憑きの死骸を、もう幾十体呑み去っていたことか。犬神憑きはたいがいここへ走ッて来ると死ぬのであった。そして浜の砂丘には、身寄りの者が建てたらしい
「
「は……」
「供を返せ。駒も一しょに」
「お帰りは」
「すこし浜を
「新田殿との駈引きやら、諸国の武士の統合、それに
「いや、疲れとも違う。……ただなんとなく、やりきれぬという気もちだ。武士が口外すべきではあるまいが、師氏、戦とは、
「
師氏は数歩、あとへもどった。そして駒を曳いてついて来る後ろの従者たちを、先へ扇ヶ谷へ返してから、ふたたび兄のそばへ来て肩をならべた。
「……ですが兄者、戦はまだこれからでしょう。大殿(高氏)に深いご大望のあるからには」
「むむ、多難だな。……ご前途は」
「新田殿も、お腹では」
「むろん次代の
「……あ。お気をつけなされませ。咬まれますぞ」
「なんだ、はやほの暗いが」
「さっきの、犬神憑きの女が
「さいぜんの女か」
「べつ
「犬神憑きは、
「いや武士たちもです。……乱暴な兵までが、犬神憑きには、乱暴をいたしませぬ」
「妙に、死後この鎌倉では、高時公というと、一様にみな涙を寄せているらしいの」
「逆に、その人を討った新田殿は、冷たい眼で見られがちです。こちらにとっては、まあ倖せともいえますが」
波音は屈託がない。なぎさに
「もどろうか」
和氏が言いだしたときである。
「
「なんだ?」
「いま私たちを見て、そこの漁師小屋のうちへ……塩焼き小屋か……ひどく慌てたさまをして逃げこんだ女がいます」
「女? 女など」
「いやそれが、ここらの磯女ともみえません。
「
「でも、そんな者からでも、御台所(登子)のご消息が聞き出されぬともかぎりますまい」
師氏はもう歩いてそこを覗いていた。屋根には石はのせてあるが強風にあえば吹き飛ばされそうな板囲いとむしろ戸だけの浜小屋だった。
覗いても、よくよく、ひとみをこらさねば内のもようは分らない。小さい
「女は? ……たしかいま、女がここへ走りこんだはずだが」
翁は唖か。ただ首を振る。
何もいわない。
やや威嚇を用いてみても、老いた鹿のような
だが、師氏はやがて知った。翁のうしろに、女の
「なぜ隠す! 居るではないか」
と、近づきかけた。
翁は、ぱっと立って、師氏の胸をさえぎった。
「お近づきなされますな。咬みつきたがる病人でございまする」
「なに」
「もう咬まれたら、犬神憑きが、あなた様へもうつりますぞ。狂い出したらどうもなりませぬ。かまわんでおいて下され」
「うそを申せ」
翁は腰をついた。師氏の手がもう蓑をつかんで
女は小娘だった。十六、七。
「師氏」
と、和氏が後ろで言った。
「……手荒にするな」
「手荒になどはいたしませぬ」
小女房はそれでやや安心したらしくはあるが、何を問われても、翁同様、答えもしない。けれど師氏がよく
戦火で焼けるその日まで、扇ヶ谷の二位どの御所(高時の側室)に仕えていた小女房の
「棗というか」
「はい」
「いくさもすんだのに、なんでこんな浜小屋に隠れているのか」
「…………」
「そうか。まだわしたちを
師氏は、兄と目をみあわせ、自分らは、足利若御料のお
漁夫の翁は、目を白くして、急に小女房の袖を引いて言った。
「おはなしなされませ。
敵意の殻にとじていた棗も、それでやっと、何かと口を開きだした。彼女の境遇はこうなのだった。
鎌倉さいごの日――
彼女の仕えていた二位どの御所は、女御所なので、あの炎に会った泣き叫びも、ひと通りでなく、わけて二位どのには、高時との仲に
二位どのは、それを見てから、炎の中で自害した。
棗は、どう生きたのか、わからない。――われに返ったときは、鎌倉はなく、見るのは敵軍の兵だけだった。その敵兵に色を売って生きている旧主の友の女もあれば、良人を敵に討たれた後家が、その敵に身をまかせているのもある。
五大院宗繁という侍は、生前の高時には、ずいぶん厚く用いられ、二位殿からもまたなき者と愛されていた。さればこそ万寿
義貞は
「高時の子は、も一人いる」
と、新田方では、さらに弟の亀寿(後の北条時行)の行方を、八方、重賞を懸けていま、
「……でも。その
棗は言った。
無残な鎌倉の焦土が、ひとりの乙女のなかに、こんな不敵な眸を作っていたかと、怪しまれるような強さで、
「……生きよう。生きぬいて、兄の盛高のところへ行き、亀寿さまをお育てして、もいちど、鎌倉へ帰ってみせる。そういう気もちになったのです」
と、
「盛高とは?」
和氏がたずねた。
「――高時公の二男亀寿どのを負うて落ちた諏訪三郎盛高のことか」
「ええ……」と、棗は、はじめてニコとした。それもやや誇らしげに「そうです。私の兄盛高は、五大院宗繁みたいな腰抜け武士ではありません」
「国元はどこ」
「信濃です。兄と共に、私も小さいとき、信濃から来て、御所へご奉公にあがったのです」
師氏が代って訊いた。
「……では、そなたの兄、諏訪盛高が落ちて行った先は信濃だな」
「たぶん……」
「そうだろうと思いますが」
「して。この浜小屋の漁夫は、何者か」
「見たとおりのよいお人です。むかしから独りぼッちでここにいました。あるとき、二位のお局さまが、
横で、
嘘がない。真情があらわれている。いまの武士間にも
「棗とやら」
こんどは和氏が。
「安心して、ほんとを申せ。そなた、胸では、自分も信濃へ落ちて行きたいものと念じているのであろ」
「ええ。……でも街道の木戸はどこも通れません」
「ム、軍兵でな」
「それに兵隊の目も恐いのです。何をされるかわかりません。おじいさんは言ってくれます。犬神憑きじゃとわしがいう。人が来たら犬神憑きの真似おしやれと。……生きるためには色をひさぐ
棗は、目をふさいだ。
もういうこともないように。
ほとほと、和氏は、そのけなげさに見とれてしまった。故郷三河の細川村には、ほぼおなじ年ごろの娘がある。思いくらべて、心をうたれずにいられない。
「師氏」
「はい」
「貧しい翁の
「舟を。……与えるのですか」
「そうだ。棗とやら、それへ乗って、どこへなと翁に送ってもらうがよい」
「えっ。で、では」
ぼろぼろ……と二つの顔から涙が散った。感情に富むらしい乙女の泣き顔も、皺くちゃとなった翁の
「兄者」
追いついて来て。やがて師氏が、ぼそッといった。
「つい、うかと、御台所のご消息などのことは、訊くのも忘れてしまいましたが」
「いや、訊いても知るまい。さっそく小舟一つ廻してやれ」
「こころえました。ですが兄者、思わぬ者に会いましたな」
「ムム、あれも一つの犬神憑きか。いわば美しい犬神憑きともいえるだろう」