夕顔の門

吉川英治




十九の海騒うみざい




『はてな。……閉めて寝た筈だが』
 と、若党わかとう楠平くすへいは、枕から首をもたげて、耳を澄ました。
 ――風が出て来たらしい。
 海が近いので、庭木には潮風がざわめいている。確かに、寝しなに閉めたとばかり思っていた庭木戸のが、時折、ばたん――ばたん――と大きな音を立てている。
 楠平は、手燭をけた。そして揺れる灯をかばいながら、庭へ出て行ったが、主人たちの住む南側の母屋を見て、眼をすくめた。
『あっ、おいち様の部屋がいている?』
 口走りながら、楠平はそこへ寄ってみた。雨戸が二尺ほど開いているし、縁の内をそっとのぞくと、暗くてよく分らぬが、何か取乱れている気配がする。
『――お嬢様、お嬢様』
 ふた声ほど呼んでみた。
 返辞はない。
 楠平はすぐ、はっと或る予感の的中を思って、体がおののいた。
 明日は、家中の人、曾我部兵庫そがべひょうごとつぐというので、きょうも一日、れの荷物や、何かの支度に、せわしく暮れたこの部屋だった。
『旦那様っ、旦那様っ。――お嬢様のお部屋が開いておりますが。そして、お嬢様のお声もしませぬが』
 雨戸の外から、主人の寝所をたたいて彼が告げると、
『なにっ、娘が居ないと?』
 田丸惣七たまるそうしちの夫婦は、ね起きたらしく、にわかに家の内には、狼狽する気配が聞かれた。
 娘のお市の行状については、田丸惣七夫妻も、薄々は一抹の気懸りを抱いていたものとみえて、
『さては、格之進かくのしんめにそそのかされて、明日あしたを前に、立ち退いたものとみえる。……不! 不埓者ふらちものめが!』
 と、狼狽の中に、惣七の怒りの声がれたと思うと、やがて、
『おまえが悪いっ。女親として、知らずにおる事があるものか』
 と、彼女の母親を、恐しい声で叱りとばした。
 ――わっと、泣き伏す声がした。お市の母が悔い泣くのである。
 その泣き声を、惣七は又叱りながら、
『ば、ばかめ! 泣いていて済む場合か。遺書を見い、上方へ行くとある。わし達がやすむ迄は、何の気振も見えず、この部屋の灯影ほかげに姿が見えた彼奴あいつだ。――差しずめ、一刻も早く、手配をするのが肝要じゃ。まず斎地さいちどのへらせに行け。岡村へも、野坂へも。――早く、早く』


 ――まだそう遠く迄は走っていまい。
 それに夜半よなかは、浜から出る船はない筈だから、足どりも、山越えを指して行ったに違いない。
 楠平は、自分の若党部屋へもどって、あわただしく身支度をする間に、そう考えた。
『旦那様。ひと足先に、てまえが追いついて、お嬢様を抑えて置きますから、お後からすぐ』
 出がけに、外から云うと、惣七は、窓から顔を見せて、
『楠平か、楠平か』
『はい。はい』
『よく気がついた。早く行ってくれ。――浜ではないぞ。道どりは山の方らしい』
『てまえも、そう考えます』
『わし等も、手配をして、すぐあとから行く程にな――』
 楠平はもう外へ駈け出していた。主人のおろおろした声が耳に残って、いつまでも心がいたんだ。
 中津の城下は、もう何処も寝しずまっていた。小笠原家おがさわらけ八万石のお城にも、ポチと小さい灯が仰がれるだけだった。
 道は、山国川の流れに添って行く。町から離れ、村から遠去かるに従って、登りにかかった。
 宇佐うさまで六里。小倉まで十五里半。
 とうげの追分まで来て、ほっと楠平が汗を拭っていた時である。もう戸をてて人気もない筈の山茶屋の陰から、人影が二つ――寄り添って彼方あなたへ行くのが見えた。
『あっ? ……やっぱり相手は格之進』
 楠平は、覚られないように、身をかがめて追いかけた。
 もう一人の方は、紛れもない主人の娘の――お市であった。
『お待ちなさいっ。――お嬢様、格之進様っ』
 不意に馳け寄って、楠平は、男女ふたりの袂をつかまえた。


 男女は吃驚びっくりして、彼の手を振払ったが、楠平は先へ廻って、道に立ちふさがった。
『何とした事です。お嬢様もお嬢様なら、格之進様も又、武士にあるまじき為され方。――さ、お帰りなさいませ』
『…………』
 若い男女は、すくんだまま、楠平のかんだかい声に、顔いろをおののかせていた。
『今のうちにお帰りなされば、誰もまだ知らぬ事、お嬢様も傷がつかず、格之進様も御無事で済みましょうが。……おふたりの仲は、楠平も以前から、薄々はお察し申しておりましたが、お嬢様には、親御様のお口から、嫁にろうと誓った歴乎れっきとした良人おっとのある身。――それを、明日あしたは御婚礼という今夜、こんな事を遊ばしては、親御様のお立場は何うなりましょうぞ』
 ――すると、それまで黙っていた深見格之進は、
『これ楠平。若党の分際ぶんざいで、いらざる事に出洒張でしゃばるな。もう御城下を出奔したからには、男女ふたりの恋は命がけ、ここは二人が、恋に勝つか死ぬかの峠だ』
『では、何うあっても』
『知れたこと!』
『……でも、お嬢様は、よもや御両親を苦境に捨てて、後は何うでもなれというお考えでは御座いますまい。口の巧い、容貌かおだちのい男に限って軽薄なもの。――永い行末ゆくすえに、御後悔をなされますなよ』
『おのれ、今の言葉は、誰を指して? ――』
 と、格之進は不意に刀を抜いて、楠平の横顔へ斬りつけた。
 楠平は、わっと両手で顔を抑えながら五、六歩ほどよろめいた。
 そして一度は、腰をつきかけたが、血を浴びた刹那せつなに、彼にも武士の性根が勃然ぼつぜんと眼をまして、
『もうこの上は!』
 と、刀を抜合せて、烈しく斬返して来た。
 格之進は、彼の鋭い切っ先を、何度もかわしながら、彼の弱るのを待って、滅多斬りに刀でなぐった。
 お市は、自分の幼い時から、背にも負われ、手にも抱かれた召使なので、さすがにおもてを向けていられなかった。
『――もう、もう、止してください。格之進様っ。止して下さい。……あっ、誰か彼方むこうから人が来ました。はやく此処を』
『えっ、追手が来た?』
 彼女のことばに度を失って、格之進は血刀を提げたまま、お市の走るのにいて駈け出した。
 だが、その翌々日、男女ふたりは、門司もじから赤間あかまの関へ行く便船の中で、追手の者に、捕まってしまった。
 然し、連れ戻されたのは、お市だけで、男の深見格之進は、島の多い海峡の瀬戸口で、追手の隙を見て海へ飛びこんでしまった。
 勿論、この事は、田丸家の内輪の者だけで、極秘にされ、お市の婚礼は、急病というていで、延期された。
 若党の楠平は、重傷だった。けれど生命いのちだけは取止めたので、彼の義兄で、身分の低い同藩の侍――尾形周蔵を呼んで、懇篤こんとくに引き渡した。
 その後、半年以上も過ぎて、お市の結婚は、極めて質素に執り行われた。――かねて正当な婚約のあった同藩の曾我部兵庫そがべひょうごが、その日からの彼女の良人であった。
      ×         ×
          ×         ×
 享保二年から八年までの歳月は、またたく流れた。
 十九の年のあやまちも、六年前の夢となって、お市は今なお水々しい二十五の御新造ごしんぞぶり、良人の曾我部兵庫は、四十近い寡黙かもくな侍であった。そして明けても暮れても、静かな海騒うみざいと、長閑のどかな陽あたりのほか、何事もない城下町では、この一家庭も、勿論、平和に見えた。ただ夫婦の仲に、子がないだけが淋しく思われる位なものであった。


の妻




 七夕も近い――夏の或る日の黄昏たそがれだった。
 お市は、ぽつねんと、雑草に委されている庭に立って、夕方の星を仰いでいた。まだ、外も、窓も、仄明るかった。
『お市っ。――たかはどうした?』
 良人の書斎から、兵庫の声が、その姿へ、鋭く投げられた。
『…………』
 星を見ていたお市の眼は、そこらの木を梢から梢へ移されたが、良人の方は見もしなかった。
『……居りません』
 と、冷ややかに云ったのみで。
 兵庫は、書き物に疲れた眼をあげて、筆架ひっかへあらく筆をいた。
 彼の周りは、書物に埋っていた。
 伸びるままに委せてある庭の雑草のように、彼の身のまわりも、独り者のように、散らかって、ちりが積っていた。
『居ない? ……。それは当り前だ。そんな所に立った儘、庭木を見ていた所で、見える筈はない。外を歩いて探して来い』
『…………』
 彼女は然し――その立っている所から動かなかった。
 今し方、良人に代って、鷹小屋の中へ這入って鷹へをやる時、過まって、鷹を逃がしてしまったのである。
 鷹のふんだの、羽虫のにおいだのがして、その中へ這入ると、彼女はいつもむっとする。だから彼女は鷹が嫌いであり、鷹に不親切であった。
 飼い馴れている鷹であるから、本来逃げる筈のものではないが、彼女の姿を見ると、鷹もいかるのであった。過失あやまちのもとは、そこにあった。
 それを良人の兵庫は、叱りはしなかったが、
(探して来い)
 と、先刻さっきから云っているのだった。
(馴れた者が、口笛をふくなり、手をあげて呼べば[#「呼べば」は底本では「呼べは」]、鷹はこぶしに降りてくる。おまえも、鷹匠の妻ではないか)
 とも云うのである。
 だが――彼女はその命に従がえなかった。
 星を見ていた……。
 ここに居ない、遠くの人が思い出された。
 そして現在の自分に、ほろほろと理由なく泣けて来る――
『まだ其処に居るかっ』
 兵庫の声は、烈しくなった。
『もう年老いて、猟には使えぬ古鷹だが、年来、わしが飼いして来た鷹だ。それに人に馴れ過ぎているので、この家を離れれば、すぐ心ないわらべたちに捕まるか、猟師に撃ち殺されてしまうだろう。――余り暗くならぬうちに、早く見つけて来い』
『……御無理です』
『なに、なぜわしの吩咐いいつけが無理か』
『女などに、鷹を捕まえて来いなどと仰っしゃっても』
其方そちが逃がしたのではないか』
『逃がしたから、そのとがを責めて、困らしてやろうというお考えですか』
『誰が、妻の困るのを見て嬉ぶものがあろうぞ。そなたも鷹匠の妻でないか、もう五、六年も朝夕わしのする事は見て手心も知っている筈。――今渡した鷹笛をふいて、彼方此方あなたこなたと、庭木の多い屋敷を歩いて居れば、きっと鷹が聞きつけて降りて来る』
『……そ、そんな、見ッともないことが』
『何が見ッともないのか』
『御自身で探していらっしゃれば、よいではございませぬか』
『十日以内には返上すると約束して、他家から拝借した「放鷹故実ほうようこじつ」を、こうして今、懸命に写しておるので手が離せぬ。……アア行燈あかりもまだいていないの。の用意はわしがするから、さがして来い、鷹を探して来い』
 すぐ側にある行燈を引き寄せたが、掃除の届かない油皿にもちりが溜っていて、付木の火を移すと、バチバチと火花がねた。


 いつのまにか、お市の姿は、庭から消えていた。
 鷹を探しに外へ出て行ったものとばかり思って、兵庫は又、机にかがみこんでいたが、ふと、彼女の部屋に物音がするので顔をあげてみると、お市が鏡台に向って、いつもの夕化粧をしている姿が、萩戸を透かして見えた。
『居るのかッ、未だ!』
 こう呶鳴ると、彼は無意識に、机の上の物を掴んで、彼女の部屋へ抛りつけた。
 それは、朱墨しゅずみろす丸硯まるすずりだった。萩の簀戸すどを突き破った硯は、箪笥たんすにぶつかって、彼女の坐っている側におどった。
『――今、行きかけている所です』
 お市は、見向きもせず、櫛の手をうごかしていた。くわっとした兵庫も、彼女の声の底に、何日いつにない冷たさと落着きぶりを感じたので、黙って、見まもっていた。
 ――次に、お市は箪笥を開けていた。閉めたり開けたりする抽斗ひきだしかんの音がだんだん荒っぽくなる。
 着物をえ、帯を締め、そして何か手廻りの物を包み初めた様子に――兵庫は、
(又、始まったな)
 と、さとって、舌打した。
『……お話がございますが』
 と、彼女は、改まって、良人の前へ来て坐った。
『……なんだ』
『おひまをくださいまし』
『…………』
貴方あなたは、妻よりも、鷹の方が可愛いいお人なんですから』
『…………』
『この部屋も、鷹のほんでいっぱい。家の中も鷹の抜毛や餌でいっぱい。何処を向いても鷹臭いほどです。――貴方がいちばん御機嫌のよい時は、餌をやりながら、鷹と独り言に話しをしている時でしょう。――鷹になさる程な優しい顔を、妻にはした事のない貴方です』
『わしは、藩の鷹匠だ、書物を見るも、鷹を飼うも、わしの天職――わしの御奉公。――当りまえな勤めではないか』
『ですから、わたくしは、此家ここを去って参ります。どうか、お暇を下さいまし』
やすい事だ。……おまえが来てからも、この家の行燈の灯皿には、いつも虫の死骸や塵が沈んだままだ。居ても居なくても、何の変りはない』
『よ、ようござんすね。……では』
『だが、待て』
『御未練ですか。武士のくせに』
『はははは。――イヤそう思って居てもよい。其女そなたの出て行く出て行くもこれで何度か』
『はい、今日こそは、出て参ります。此の家へ嫁いで来てから、わたしはただの一日でも、倖せだった事はないのですから』
『仕方があるまい……』
『ど、どうしてですか』
『そうして、一日一日でも、親に為した不孝の罪を償うのが、せめて其女そなたのとる道ではないか』
『…………』
 お市は、ちょっと青ざめた唇を、きりっと噛んで、詰め寄りながら、
『それは一体……何の……何ういう意味ですか』
『自分の胸に問え』
『父の惣七も、私の母も、実家さとは無事に暮しています。何が、わたくしが不孝をして、親たちを』
『やかましい』
『いいえ、いいえ』
『だまれ。惣七殿が御無事なのは、わしたち夫婦が、何事もなく、いや何の風波も無いように、世間へ見せているからではないか。――あの好人物な惣七殿を初め――其女の一家が、わしの胸一つで、気の毒な事になると思えばこそ、わしはの時、何事もいわずに婚儀をしたのだ』
『そ、そんな、偽った気持――わたくしは嫌いです』
『何を云う。誰が、偽った気持など抱きたかろう。――だが、わしはお前の両親に、頼むと、手をつかれた事があった』
『知りません。父が貴方と婚約した事すら、わたしに黙ってしたのですから』
『いや、まあ聞け。武士として、頼むと、手をつかれる程、辛い事はない。其女はいつも口癖に、わしには愛がないように申すが、それはひがみというものだ。いちど自分の持った女――無智なら無智で不愍ふびんと思う――まして惣七殿が泣いて手をつかえた親心もある。きょう迄わしは、一度でも、其女を憎いとはしていない。飯櫃めしびつでも使い馴れる迄はクセのあるもの。わが妻と成しきる迄は、そのクセも抜こう、磨きもかけよう。――そう考えて努力して来たが、その大きな愛が其方にはまだ分らぬ』
『分りました。――そうです、わたくしなどは、どうせお飯櫃ひつぐらいにしか、貴方には考えられていないのですから』
『今に分る。もっと長く長く、わしと生活くらしているうちには』
『そんな辛抱しんぼうはもう……。思うだけでも、身がふるえます』
『不幸が其女を誘惑するのだ。惣七殿の為にも、其女の為にも、わしという者は、大樹の陰ではないか。――逃げた鷹はぜひもないが、不幸になる人を見のがすわけには行かぬ』
『そんな事を云って、又わたくしの気をにぶらせ、真綿で首をくくるように、じりじりと、復讐しかえしなさるので御座いましょう』
『――復讐しかえし?』
『そうです! 貴方の優しいのは、しんから優しいのではない。針をかくした※(「くさかんむり/刺」、第3水準1-90-91)とげいばら。なぜ胸にあることを、男らしく云って、つとも蹴るともなさらないのです』
『……はははは、もう落着け、鷹も探しに行かいでもよい。よく落着いて、もういちど考え直せ』
『いいえ、嫌です、嫌です。何と云われても、もうもう私は……』
 良人が冷静なまなざしを澄ましている程、彼女の眼は、涙にり上った。そして物狂わしく、自分の居間へ駈け戻ると、包んでおいた身のまわりの物を抱えて、玄関から外へ出て行った。
 前の日、一人の仲間ちゅうげんは、諫早いさはやの家に急用が起って帰り、勝手元にいる老婆は、耳が遠いし、気がついても、何日いつもの事だと思っているらしい。
 兵庫は又、机に向い直して、筆を執りかけた。
 ――すると、彼女の跫音が、門を踏み出したか、だかと思われるのに、
『あれッ』
 と、消魂けたたましい叫びが一声、そとから聞えた。
『……?』
 兵庫は、執りかけた筆をいて、耳を澄ましたが、ふと眉をひそめて起ち上った。


忘れぬ意趣




 この界隈かいわいの屋敷はみな小さい。
 従って、狭い小路が、幾筋も曲がっていたし、どの家も、簡素を超えて、貧しげな侍ばかり住んでいた。
 今――ばたばたっと夕闇をよろめくように駈けて来た旅の浪人者があった。物に衝き当った蝙蝠こうもりのように、お市が、門を出て来た出会いがしらに、そこの土塀にぶつかって、ばたっとたおれたかと思うと、
『た、助けて下さい。――おすがり申す! ……何、何処へな、おかくまい願いたい』
 と、彼女の裾をつかんで叫んだ。
 赤土の肌の崩れている土塀には、夕顔のつるがいちめんに這って、白い花が無数によいの微風に息づいていた。彼女の側にも、浪人の体にもその弱々しい蔓や白い花が、千断ちぎれて落ちた。
『あっ……?』
 と、お市が身を退くと、若い浪人は、固くつかんでいる裾の手を、猶更かたく、
『お、お、お慈悲に――暫くの間、御門内に』
 と、這って来る。
 見ると、その若い浪人の背筋は、いた魚の背みたいに真っ赤な肉がはじけていた。仄暗いので、血とも見えない液体が、黒々とそこから満身にながれて、手をついた跡にも、血しおの手型がべったり残っている。
 ――きゃっと、彼女が思わず悲鳴を揚げて、門の内へ逃げこんだのは、その時だった。ウーム、ウームと、外には、気息奄々きそくえんえん傷負ておいうめきが、不気味にたかくなっていた。
 良人には、出て行くと云って、踏み出したしきいだし、門の外には、その不気味なものが仆れているので、お市は、そこに立ちすくんでいた。
 ――と。手燭の明りがして、
『何うした? ……』
 と、兵庫の声がうしろでする。
 さっきも今も、兵庫の声には、少しも変りは無かったが、お市は、未練に思われるのが口惜しかったので、
『ええ今……今行くところです』
 と、云った。
 兵庫は、薄く苦笑したが、門の外の呻き声に、
『やっ? ……誰じゃ』
 と、傷負ておいの影へ、手燭をかざした。


 もう意識を失いかけて、昏倒こんとうしていた傷負ておいの若い浪人は、兵庫のことばと、手燭の明りに、又びくびくと全身の肉を痙攣ふるわせて、
『武士のお情に! ……お、おかくまい下さいませ』
 と、絶叫する程な力で、かすかな声をしぼりながら、兵庫の足もとを、血しおの手で拝んだ。
 兵庫は、夕顔の花より血の気のない――その浪人の顔を見て、愕然としたが、
斬合きりあいか』
 と、一こと、訊ねた。
『そ、そうです。相手は……相手は五、六人もの人数』
『ひとりか、おん身は』
『…………』
 頷くと、其儘、がくりとしかけたので、兵庫は急いで手を伸ばした。そして、傷負の体を、引っ抱えるなり、庭の奥へ、駈けこんで行った。
 お市は、その隙に、もう二度と兵庫とは顔を合せない覚悟で――ついと門の外へ踏み出しかけたが、途端に、ばらばらと駈けて来た跫音と共に、
『あっ、この家だっ』
『血しおがこぼれている!』
 と、口々に喚いて、門の前に立ち塞がった侍たちの白刃しらはを見て、今度は、より以上、ぎょッとすくんでしまった。
『――それっ』
 と、五人の中のひとりが云った。その男の白刃には、ありありと血しおがまみれていた。
 ほかの者も、総て抜刀ぬきみを引っげているのだ。どの顔も皆、まなじりをつりあげ、革襷かわだすきをかけ、股立ももだちくくって、尋常な血相ではなかった。
 その儘、彼等はどやどやと、門の中へ押し込んで来ようとした。すると、飛鳥のように、庭の奥から引っ返して来た兵庫が、
『待てっ、何処へ行くか』
 と、門の口いっぱいに、両手を拡げて、立ち塞がった。
『やっ?』――と、その姿に初めて、
『ここは、曾我部どののお住居すまいだったか』
 と、気着いたように、一同は、土塀の夕顔を見まわした。
『されば親代々、お扶持ふちたまわって、ここに住居しておる曾我部兵庫。小さくとも、貧しくとも、侍の家は一城廓じょうかくです。誰のゆるしを受けてこの門内へ、踏み込もうと召されるか』
『ただ今、この内へ、傷負の浪人が逃げ込んだ筈――討たでは措かれぬ憎ッくい曲者しれもの、お渡しください』
 頬に古い大傷のある男が喚くと、それに続いて、他の侍たちも、
『年来け狙っていたところ、漸く、時節が参って、この中津の御城下へ立ち入ったことを知り、唯今、笠懸かさかけ松の辻で見つけ、一太刀浴びせて、取り逃がした者でござる』
『どうか、その曲者を、突き出していただきたい』
『吾々の手に、お渡しください』
『それがお手数とあれば、われわれが勝手に引っ捕えます故、暫時ざんじ、お住居の中をさがす事、御用捨にあずかりたい』
 と、口々に云う声も、殺気立っていた。
 兵庫は、依然として、手を拡げた儘、
『いや。その儀は成らぬ。お断りする』
 と、云った。
 断乎とした言葉でそう答えた。


 兵庫の一しゅうに会うと、さなきだに気負い立っている五名は、
『なに! なぜ成らぬか』
 と、詰め寄った。
『何とあろうが、いちど侍のひさしの下に、助けてやると、抱え入れたからには、それを渡しては、武士の信義に外れる』
『異なことを申される。あの曲者と、そも、何の縁故があって、そのようなかばい立てを召さるか』
『縁も、由縁ゆかりもない路傍の人間なればこそ、猶更のこと。各※(二の字点、1-2-22)の手に、委ねるわけにはゆかぬ』
『分らぬ!』
 と、頬に大傷のある男は、味方の者たちを顧みて、絶叫した。
『この曾我部兵庫どのが――あんな事を仰せられる。わし等と共に、あの曲者を、一太刀恨んでもいい人なのに!』
『きっと、われわれが何者か、この門内へ逃げた浪人が誰か、まだ何も御存知ないのだろう。格之進も変っているし、おぬしの顔も、その大傷で変っているからな』
『そうだ。名乗れ名乗れ。――そして、仔細をよく話してみろ』
 顔に大傷のある男を中心に、五名の侍は、がやがや云っていたが、やがて、
『あいや兵庫どの。これにおる男は、顔の大傷のため、お見違いなされたか知らぬが、以前、田丸様に若党奉公しておった楠平と申すもの。それがしは叔父の太左衛門でござる』
『てまえは、楠平の義兄の尾形周平というもの』
『拙者は、従兄弟の中根倉八』
『友人の沢井又兵衛』
 と、順に名乗りかけてから、
『逃げ込んだ卑怯者は、六年前、御当所を逐電ちくてんした深見格之進でござりますぞ。楠平にとっては、云わずと知れた年来の怨み重なる奴なれど、旧主の田丸家に取っても、又、其許そこもとにとってはなおのこと、捨ておかれぬ畜生ではござりませぬか。――それをかくまう尊公の量見が分らぬ。いざ、お渡しください』
 と、前にも増して強硬だった。
 云われる迄もなく、兵庫はくから知っていたので、その間も、何の表情もうごかさない。――そしてただ一言、
『いや、成らぬ。何と云われようが、武士の然諾ぜんだく傷負ておいを渡すことは断じて相ならぬ』
 と、同じ言葉を、重ねただけであった。
 楠平の義兄、尾形周平は、さっきから眼を燃やして、兵庫の顔をめつけていたが、
『もう、こんな分らぬ人間に、物を云うな。云うだけ無駄だっ』
 と、ののしって、
『駈け落ち者の片方を、女房に持って、何ともせぬ神経へ、われわれの武士道を、云って聞かせても始まるまい。――この上は、刀にかけても、渡さぬというのか否か。それだけ聞こう』
 と、身を開いて、ぱっとやいばを構えながら云い放った。
 周平が、そうしたので、他の者も、さっと身構えを変えた。当然、相手がふいに、抜打ちに来るものと計ってである。
 だが兵庫は、眉も動かしてはいない。ただ微かに苦笑を唇元くちもとにながして、
『元より、刀にかけても!』
 と云った。
『――う、うぬッ』
 周平が振り込んだ一薙ひとなぎは、斜めに、門の柱へ斬りこんでいた。――途端に、中へ隠れた兵庫の影の代りに、門のが、風をはらんで、どんと閉まった。
『叔父御、背を貸せ』
 と、周平は、太左衛門の背に足をかけて、直ぐ塀の内へ躍り込もうとした。
『まあ待て、まあ待て』
 太左衛門は、背をかわして、彼やその他を、抱き止めながら、
理不尽りふじんに乗り越えては、兵庫めが云う通り、此方こちらの落度になり、彼奴きゃつには思うつぼはまるわい。忌々しいが胸を撫でて――。な、これ……此処は胸を撫でて』
 と、何かささやいた。
 四名は、だんだを踏みながら、門をめつけて、
『――かッ』
 と、つばを吐きかけ、そして、何処いずこともなく立ち去った。


鷹小屋のうめ




 楠平やその友達や、尾形一家の者が立ち去って行くらしい跫音に、曾我部兵庫は、ほっとして、家の中へ這入りかけたが、ふと、暗い大地を振向いて、
『お市』
 と、呼んだ。
 お市は、そこに居るか居ないか分らないように門の脇に、身を沈めたまま、平たくっ伏している。
『――冷えるぞ』
 それも常の声だった。
『…………』
 突然、お市は、嗚咽おえつしはじめた。肩は波を打って、泣きじゃくった。
『――泣いている間に、傷負ておいはことぎれるぞ。はやく鷹小屋へ行って手当をしてやれ』
 云い捨てて、兵庫は家の中へかくれ、又、机の前に、黙然と坐った。
 ――坐ったが、然し彼もさすがに、筆は持てなかった。
 地の下に、蚯蚓みみずが泣きぬいて、星の美しい夜となった。夜となれば暑い夏も、ずっと冷々ひえびえして、人間の心からも、焦々いらいらしたものをぬぐってゆく。
『……うううむ。……ううム……』
 庭の隅の鷹小屋から、時折、苦しげな太いうめきがながれてくる。それは、お市と兵庫の、六年間の苦しみを、一時に※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)がき苦んでいるような呻きだった。
 お市の耳へも、それは聞えてゆくに違いない。捨てて置けば、出血は止まるまいし、刻一刻と、生命いのちが縮められてゆくことも知れきった事である。
 そのうちに――がたんと、裏の方で、物音がした。
 兵庫は、すぐ窓を開けて、
『誰だっ』
 と、とがめた。
『あ……吃驚びっくりいたしました。仲間ちゅうげん由松よしまつでございます。諫早いさはやの病人がくなったので、唯今戻って参りました』
『オ……由松か』
『御用をいて、相すみませんでした』
『いい所へ戻ってくれた。早速だが、金創薬きんそうの有合せがあるか』
『ございます』
『それと、片口注かたくち焼酎しょうちゅうをなみなみいで、晒布さらしと一緒に、鷹小屋の前へ持って行ってやれ。――外へ置いてくればいいのだぞ、中へは這入るなよ』
『へい』
 由松は、不審な顔をしながら、とにかく吩咐いいつけられた品をそろえて、裏庭の奥へ運んで行った。
 そこに一棟の鷹小屋がある。
 這入るなとは主人に云われたが、戸がいているし、何やら、人の気配がするので、由松は暗い中を覗いてみた。
 白い顔が、傷負の側から振向いて、あっと、軽い声をらした。
 由松も吃驚して、
『ヤ。御新造さまでは御座いませんか』
 と、さけんだ。
 お市は、手を振って、
『叱っ……静かにしておくれ』
『そこに、誰方どなたか、怪我人が居らっしゃるのでございますか』
『わたしの襦袢じゅばんを裂いて今、手当てしているところです』
『晒布も、金創薬も、焼酎もここへ持って参りましたが』
『え? うして』
『旦那様のおいいつけで……』
『……あ。……そう』
 じっと、首をたれて、お市はうつ向きこんでいたが、もう女の特有な度胸がすっかりすわったように、言葉のふるえも消えて、
『ここへ持って来ておくれ』
『へ、へい……。けれど、旦那様が、中へは這入るなと仰っしゃいましたが』
『かまいません』
『では――』
『それから、夜半よなかになったら、済まないけれど、かごを二ちょう、そっと裏口の木戸へ呼んで来ておくれでないか』
かしこまりました』
『竹筒に水を入れて、駕へくくっておいておくれ。それから中に、油単ゆたんや小蒲団をかさねておくようにね』
『では、その怪我人のお方を』
『別府の温泉まで、療治りょうじにお連れするんです』
『旦那さまのお耳へは』
『何もかも御存じなのだから、云うには及びません。――もうすぐにお寝みになるだろうし』
『……ほんに』と、由松は庭木を透かして、
『いつのまにか、お部屋の明りが消えております』
『じゃあ、今のうちに、はやく駕を頼んでおいておくれ。間際まぎわになって、無いと困りますから』
 由松は、何処かへ、出て行った。


 もう九刻ここのつ(十二時)過ぎ――
 海騒もない、静かな夜半よなかだった。
 沖の水平線だけが、月光色の帯のように、ぎらぎら明るかった。
『御新造さま。……参りました』
『駕?』
『へい』
『旦那さまは』
『あれなり、ずっと、お寝みのようでございますが』
『……じゃあ、ちょっと、手をかしておくれ。……そっと、そっと抱いて上げないと』
『かなり深傷ふかでの御様子でございますな』
『でも、すっかり洗って晒布巻さらしまきをしましたから、だいぶお顔がくなって来ました』
 由松は、何気なく、傷負ておいを抱き起して、自分の肩に負いかけたが、ふとその浪人の顔を見て――
『あっ、この男は』
 と、思わず口走った。
 お市は、顔を反向そむけながら、
『お前も、この人の顔を、見知っているのかえ』
『知……知らねえで、何としましょう。……御新造さま! お、おまえ様というお方はなあ……』
『もう、何も云っておくれでない』
『――云いますめえ、おっつかねえことだ』
 由松は、ひじを曲げて、顔の涙をこすりながら、傷負ておいを肩に、とぼとぼと歩きだした。
『……ア、由松や。表門ではなるまい。駕は裏の木戸へ来ているのでしょう』
『うんにゃ』――と由松は首を振って、
『宵から、裏の浜辺に、不審おかしな人影が、張番みてえに立っているので、わざと、表へ廻しておきましただが』
『えっ、外に誰か、立っているって?』
『仕方がござりますめえ。この塀の中にいれば、誰にも、指一つ触らせる旦那様ではねえのに……おまえ様が好んで出て行かっしゃる地獄の道だに』
『……いいよ! ……もうわたしは、覚悟をしているのだから』
 門の前には、駕が二つ、忍びやかに待っていた。それも由松の気くばりとみえて、提燈ちょうちんには、黒いぬのが巻いてあった。
 傷負は、そっと、一挺の内へ寝かされた。由松は、鼻をすすって、地を見つめていたが、
『さ、御新造も、はやく……』
 と、人目をおそれてうながした。
『ありがとうよ――』
 彼女は、奉公人へ対しても、初めて、心からそんな礼を云った。そして、
『もういいから、中へ這入っておくれ』
 と、云った。
 由松が中へ姿をかくして、門のを閉めても、彼女はまだ、六年住んだ家の屋根やひさしや樹を見まわしていた。そして、駕屋の眼にも触れないように、門の土塀に這っている夕顔のつるを、そっと千断ちぎって、袂へ入れた。
『駕屋さん――やってください。一挺は病人ですから、揺れないように』
 駕は、傷負をいたわりながら――でも軽いはずみをつけながら――駈け出した。
 お市は、駕の中から、もういちど、草だらけなわが家の門を振り向いた。


蔓草つるくさの道




 中津の城下から南へ向って、道が町屋から離れると間もなく、いやでも応でも、浜辺の並木へかかるしかなかった。
『待てーッ』
 いきなり横合の樹陰こかげから跳び出した人影がある。しゃれ声ですぐ老人であることは分ったが、手には、槍を引っげ、はかまを高くくくし上げて、まるで夜叉やしゃのようなけんまくだった。
『お市! これへ出ろっ。他人手ひとでを待つまでもない、肉親の父惣七が成敗してやる。――出ろっ、出ろっ。その後で、不義者の相手も刺止とどめを刺してくるるから』
 惣七の後ろには、宵の五名も、その儘のすがたで、ずらりと立ちならんでいた。
 もう霜になった※(「髟/兵」、第3水準1-94-27)びんの毛をふるわせて、惣七は、
『ようも家名をけがし、良人の顔に泥をぬりおったの。――うぬ、出てうせねば!』
 槍を繰り引いて、垂れ籠めている駕の内へ、ずばっと突き入れようとした時、並木の陰から、ひらっと迅い人影が、彼の側へ跳んで槍の手元をつかんだ。
御老台ごろうだい。あなた迄が、何をなさる』
『あっ――お身は兵庫どの』
『あなたに、こんな事をさせる程なら、拙者も永い忍苦にんくはしませぬ。こうした事の生れる初めに、あなたも父として何も落度はなかったか、拙者も良人として足らぬ所はなかったか。それも考えてみなければなりますまい』
『ない、わしに落度はない。町人なら知らぬ事、武士の娘に――又武士の間に、そんな斟酌しんしゃくはないことじゃ』
『武士。――仰せられたその武士へ、では何で、お市を嫁がせる前にあなたは、頼む! と拙者に手をついたか』
『……む?』
『武士には、一だくを重んじるという事がござりますぞ。事情を打明けて、この娘、頼むと仰せられたあの涙を、なぜ今お持ちなさらぬのか。よろしいおもらい申そうと、その時云った然諾ぜんだくを、拙者はまだ、胸から捨ててはおりませぬ』
『…………』
『いや一諾の、信義のと、肩肱かたひじった理窟りくつばかりではない。きずのある玉も、身に帯び馴れれば捨てかねる。ましてやいずれに動くもただ感情に動く女、無智なれば無智なほど不愍ふびんにも存じて――今日までは何とかして、あなたに与えた然諾を、裏切るまいと努めて来たのに』
『もう、仰せられな。――勿体ない、勿体ない。そう云われては、この惣七、びてよいやら、途方にくれる』
『お詫びは、今も申した通り、兵庫からせねばなりませぬ。折角の一諾も、お引き請けいもなくて』
『な、なんの。――お身から詫び言など』
『この上は、お慈悲です。二人の然諾も、恨みも解いて、この駕を、行きたい道へやって下さい。――それが縁あって一時良人とかしずかれたそれがしが、お市への唯一つの餞別せんべつ
『いや、わしの一量見にはゆかぬ。あれに居らるる五人の衆の心もかねば』
 惣七は、親心に、もう槍の向け場を失っていた。
 兵庫は慇懃いんぎんに、五名の影に向って、
『この通りお願いしまする』
 と、云った。
 そして又、
『その中に、楠平どのは居るか』
 と、訊ねた。


『はい、これに居りまする』
 と、楠平は一足前へ出て云った。
『おぬしが受けただけの傷は、いやもっと心にまで深く、格之進に与えたではないか。その上、刺止とどめまで刺すのは武士の情ではない。――のみならず、それでは、旧主の惣七どのを、是が非でも、わがを成敗せねばならぬ破目はめに立たせてしまう』
『……分りました。貴方のお言葉で、小さい意地や男の体面のほかにまことの武士道とは、大きなしかも優しい愛のあるものだと分りました。――もう何事もわすれます。どうぞその駕、お通しくださいませ』
『かたじけない』
 兵庫は、それを惣七に伝えるつもりで、駕のそばへ戻って来たが、ふと見ると、お市の乗っている底から、血しおのながれが、無数に地を走っていた。
『しまった!』
 兵庫は、駈け寄るなり、駕のたれね上げたが、もう間にあわなかった。吾儘わがままで、容易に意志を曲げない女だけに――みずから喉を突いた短いやいばも、襟へ抜けるほど深く貫いていた。
 そして膝には、夕顔のつるに、まだしおれていない二、三輪の白い花が乗っていた。
『……兵庫どの。娘はやはり武士の娘に違いはなかったのじゃ。わしが悪かったかも知れぬ。いや悪かった、悪かった。……ゆるして下され』
 大地へ手をつかえた惣七は、こらえる嗚咽を、もろくもおいの肩骨にふるわせて、いつ迄、顔を上げ得なかった。
『――それ』
 と、眼くばせ交すと、楠平を初め五名の者は、すぐもう一つの駕を取巻いて、中をのぞいたが、その格之進は自刃もしていなかった。
 ――すでに、ここ迄来る途中で、彼の生命いのちは終っていたからである。
(昭和十三年六月)





底本:「吉川英治全集・43 新・水滸傳(二)」講談社
   1967(昭和42)年6月20日第1刷発行
初出:「婦人倶楽部 臨時増刊」大日本雄弁会講談社
   1938(昭和13)年6月
入力:川山隆
校正:門田裕志
2014年2月14日作成
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