鍋島甲斐守

吉川英治





 問う者が、
(世の中に何がいちばん多いか)
 と訊いたところ、答える者が、
(それは人間でしょう)
 と、云った。
 問う者が又、重ねて、
(では、世の中に何がいちばん少いか)
 すると、答える者が、
(それも人間でしょう)
 と、云ったという話がある。
 江戸町奉行えどまちぶぎょう鍋島甲斐守なべしまかいのかみは、いつもその話を思い出して、その人間の中でもいちばん多いものは悪人ではなかろうかと思い、白洲しらすに出るたび、人間に嫌悪けんおを感じ、常に、不幸な職に就いたものだと、人に語っていた。
 捕まえても捕まえても、街に罪悪は絶えないし、白洲は悪人を迎える事で、夜が明るとせわしかった。――いや、かえって、捕まえれば捕まえる程、意地わるく悪人の数がえるような気もちすらして来る。
『もう伝馬牢てんまろうには入りきれません。牢普請ろうぶしんでもしていただかなければ――』
 下役が悲鳴をあげて、こう訴えるほど、甲斐守は、職務に精励せいれいした事もあった。
 ではそれだけ、街にその時悪人が減っていたかというと、盛り場の事件も、岡場所おかばしょ情痴沙汰じょうちざたも、夜盗も、強請ゆすりも、人殺しも、文政末期の世間には相変らず瓦版かわらばんが賑わって、江戸の街はすこしも澄んで来たとは見えない。
『これあいかん』
 一時は、職を辞めようかと甲斐守は思った位であった。――然し、それは在職中の二年目ぐらい迄で、四、五年もたつと、彼の考え方はちがって来た。
『よくよく思うに、世の中に、ほんとの悪人などは一人もない』
 と、人にも語り、自分もふかく信念していた。
法然上人ほうねんしょうにんのようなお方ですら、御自身、十悪の凡夫だと云っておられる。親鸞しんらん上人は又――善人なおもて往生おうじょうを遂ぐ、いわんや悪人をや――とすら明言しているのではないか。その心で観れば、世の中に悪人はいない筈だ。むしろ奉行所が無理に悪人をこしらえているに等しい』
 それから後、甲斐守はたいへん気が軽くなった。彼は法令を、人間の善美をかすために用いるように心がけた。そして彼は、法然上人の念仏ねんぶつにふかく帰依きえして、この転機てんきを職の心に与えてくれた宗教に絶対の信仰をもち、社会政策と宗教とを一体にして、自分の管下を、この世の浄土じょうどにしなければならないと考えていたのである。


 その甲斐守が、きょうは吟味所ぎんみしょで、めったにない怒り方を示し、大喝だいかつしていた。
『だまれっ。――最前さいぜんから、何を訊ねても、ただ御尤ごもっともで、御尤で、とばかり申し居って、それでは一向に量見りょうけんが、わからんではないか。和解いたすのか、せぬ気か、はっきりとお答えせいっ』
 白洲には、七、八人の町人が、干鰈ほしがれいのように平伏ひれふしていた。真中に出ている二人が公事くじの当人達であろう。一方は、六十ぢかい品のよい老婆で、小紋の小袖につつましく前帯をむすび、しきりと、涙をふいている。
 又、もう一方のほうは、四十五、六歳の小づくりな町人で、これも至って、気の小さい温醇おんじゅんな男らしく、どこかに持病じびょうでもあるのか、艶のない黄ばんだ皮膚をしていて、細い眼のうちが薄黒く見え、その眼は絶えず、俯目ふしめになって、恟々おどおどしていた。
 甲斐守が怒りつけたのは、その男へであった。
 うしろの方に控えていた双方の町名主と付添人つきそいにんたちは、びくっとして、金貸の彦兵衛ひこべえが、う答えるかと、つばをのんで見まもっていた。
『……へいっ』
 彦兵衛は、肉の薄い体を腰から折って、奉行のほうを額ごしに見ながら、米搗こめつきばったを繰返して答えた。
『……ヘイ、まことに、御尤様でございまする。仰しゃるとおり、重々、御尤ではございまするが』
 甲斐守は、焦々いらいらして、
らちの明かんやつだ。その御尤さまをやめにせい。公事の御吟味について、こちらで訊くことだけを答えればよいのじゃ。――半田屋の後家の云い分を、いてやるのか、いやか』
『おそれながら……その儀はどうも』
『和解せぬというのだな』
『貸した金と利とを、揃えてくれるというならば、和解いたしてもよろしゅうございますが』
『それなら、公事にはならぬ。……どうじゃ彦兵衛、そちも、生涯に一度ぐらいは、善き事をしては』
『よい事なら、いつでも致したいと思いまする』
『だから、云うておるのじゃ。おまえの事を、街の者は、鬼と云うておるが、甲斐守の眼から見れば、おまえは決して、元来そんな悪党ではない、肚の中には、やはり善性がある者と見ておる。ただ高利貸という家業が、おまえを鬼に作っているのだろう』
『御尤でございます、その通りでございます』
 彦兵衛は、うれしそうにもじもじした、細い眼を、よけいに細くして、奉行の顔を、知己ちきのように見あげた。
『それみい、賞められれば、そちは欣しいだろう。些細ささいな善をめられてもそうだ。まして、大きな善をなせば、それだけ大きな欣びがある。鬼だとか、人非人ひとでなしとか、世間から死ぬまでつばを吐きかけられて居たくもあるまい』
『へい』
『生涯一度の善事をするつもりで、此度このたびの公事は取下げて、半田屋はんだや後家ごけと和解してやれ。――半田屋は、そちが若年の頃に仕えた旧主ではないか。零落れいらくした旧主に高利の金を貸し、その抵当かたに、旧主の家族を追い出して、旧主の家にそちが住んでみい、世間はそちを、※(二の字点、1-2-22)いよいよ、悪鬼か蛇蝎だかつのようにいうぞ』
『へい』
『半田屋の後家おすげ』
 甲斐守は、一方の老婆に眼をうつした。おすげは、奉行の取扱いに、感涙をながしていた。
『彦兵衛も、奉行のことばによって、得心とくしんていにみえる。そちの借金は、あまり法外ほうがいな利息ゆえ、最前云うように利を下げてもらって、元金は、年割とし、以後とどこおりなく彦兵衛へ返済いたすように』
『…………』
 後家は、嗚咽おえつして、奉行の慈悲をおがんでいた。甲斐守は、きょうも一つ、祖師の法然上人によろこんでいただける事をしたと思い、自分も心が明るかった。
『わかったであろうの、半田屋の後家』
『あ……ありがとう存じまする。……それでは、私共のただ今住んでいる店は、彦兵衛さんの云うように、今が今、明渡あけわたさないでも、よろしゅうございましょうか』
『よいとも、借金さえ返済すれば、彦兵衛にも異存いぞんはない筈じゃ。――のう、彦兵衛』
 すると彦兵衛は冗戯じょうだんでも聞いている様に薄笑いをした。
『お奉行さま。それではまるで、あなたが半田屋へ金を貸しているような形になるではございませぬか。ただ今の御相談は、彦兵衛にはおうけできませぬ。どうか、貸してある金は、私の物だということを、もう一応お考え下さいますように』
(憎いやつだ)
 と、甲斐守は私情をうごかさずに居られなかった。
 書記の机のほうを見て、
『証文を、もいちど見せい』
 ひざへそれを取寄せて、甲斐守は、少しでも半田屋の有利になるような点をさがそうとした。けれど、証文の文言もんごんには、針ほどの穴もなかった。
 旧主に貸した金は証書どおりに取立てることを得ない――と云う法令はないのである。むしろ法令は債権者さいけんしゃを守ってやる立場にすらある。甲斐守は、法令の代行者である自分をきょう程、無力に感じたことはなかった。


 半田屋というのは、日本橋の田所町で老舗しにせ漆問屋うるしどんやだった。漆光りになった黒い四方柱が何本も目につくほど広い構えで、店土蔵みせどぞうと母屋土蔵とで四棟もあった。
 彦兵衛は元、漆の産地からそこへ雇われて来た越中者えっちゅうもので、毎日店頭みせさきで、他の者と並んで日向ひなた漆掻うるしかきをしていたものである。
 それから廿年後になると、漆掻の彦兵衛は、小網町こあみちょうで金貸になっていた。反対に、半田屋の主は数年前に中風ちゅうぶたおれる、家産は傾いて、昔は店の雇人だった彦兵衛から高利を借りて、やっとここ一両年を支えて来たというような始末。
(むかしはうちの店で働いていた男だから――)
 後家のおすげは、どこかにそこを頼みとしている所があった。だが、期限が来ると、彦兵衛は、仮借かしゃくしなかった。約束どおり、抵当ていとうにとった家屋を明け渡してもらおうと云う。
 貧乏はしても、大店おおだなふうに、家族は多かった。後家は六十に近い年であったが、江戸でも草分くさわけ老舗しにせを、自分の代でつぶしては、先祖へも申しわけがないと思うのだった。――で、奉行所の白洲に坐ってからというものは、幾度もここへ出て、
(今後は、自分が先に立って、家族の生活くらしも質素に改め、息子や雇人たちをも自身で督励とくれいして、きっと両三年の間には、借財しゃくざいも返すようにしてみせるから、どうか、彦兵衛どのに、慈悲と思うて、又むかしのよしみを思うて、家屋の追立だけは、暫くゆるしてもらいたい)
 哀願しては、奉行の前で、泣くばかりであった。
不愍ふびんだ、何としても)
 と、甲斐守は、この公事を、和解させようとした。最初は、与力吟味よりきぎんみにまかせておいたのであるが、どうしても、彦兵衛が頑として、公事を下げないというので、ここ二回ほど、甲斐守自身が、彼をよび出しては、説得せつとくを試みて来たのであった。
 だが、甲斐守も、今日はさじを投げてしまった。――今、証書を手にとってみても、法律から見て、どこを衝くというすきもないし、何か、彼の尻尾しっぽでもつかまえてと考えても、この彦兵衛には、
 御尤ごもっともの彦兵衛
 と云う綽名さえある位で、おどしても、すかしても、又、なぐ権幕けんまくを見せても、
(ハイ、御尤で、ハイ御尤で)
 と、御尤一点張で、頭ばかり下げている男なのである。
 この上は、情をくよりほかはないと、甲斐守は思った。どんな極悪といわれる人間にも、古井戸のようなもので、悪い水をみ尽せば、やがて底のほうから真清水ましみずが湧いてくる例を、幾たびも見ているからである。


『どうじゃ彦兵衛、もいちど考え直さぬか。成程なるほど、御法規から見れば、おまえの云い分がたしかにかなっておる。だが、人道というものから見ると、おまえは、旧主の首を金の力でくくったことになるぞ。御法規がそちを罰することが出来ないにせよ、世間がそちをきっと憎むと思うが』
『御尤でございます』
『本音をけ、真実をもってお答えせい』
『イヤ、私も、それは御尤だと考えますので――』
『ではなぜ、和解してやらぬか』
『私が承知いたしても、証文が承知いたしませぬから』
『そちの書かせた証文、そちの意志で何とでもなる』
『そこが、少々、世間と手前てまえとちがうのでございます。手前は、証文に使われている雇人で、証文を自由にする主人ではございません。それ故に、人様へ金を貸せる身分になれたのでございます』
『そちの旧主が、あのようになげいているのを哀れとは思わぬか』
『御尤でございます。――けれど世の中に、金を借りる人間ほど勝手なものはございません。借る時は手前を神か阿弥陀様あみださまのようにおがみます。さあ今度は、返すという段になると、人を鬼呼ばわりしたり、居留守いるすをつかったり、罵詈ばり讒謗ざんぼういたしたり、あげくに、払いもせず、おどすという人間もございます。百人へ貸して、九十九人までがそれなんで、哀れをかけてやる気になどなりません』
『然し、此度の場合は、旧主ではないか。かりにも、其方の奉公した店が、其方の一存でつぶれるか立つかのさかい、見殺しにしては、寝ざめがよくあるまいが』
『…………』
 又、御尤ですと云うかと思うと、彦兵衛は俯向うつむいたまま黙っていた。
 たたみかけて、
『一体、あの家を抵当かたに取って、そちはすぐ転売する気か、他へ売るにしても、半年や一年は空けておかねばなるまい。それよりも、そちの生涯の一善になれば、こんなよい事はあるまいが』
 甲斐守がさとすと、
『いえ』
 と、この男にしては、めずらしく強く首を横に振った。
『手前がすぐ引移って住むつもりでございます』
『住居にする? ……でもそちは、養女のお高とただ二人暮しではないか』
『でも、いちどは、住むつもりでございます。そのわけは、手前はあの半田屋の大旦那に、そのむかしあの店頭みせさきで、牛か馬かのように、口ぎたなく叱言こごとをいわれ、足蹴あしげにされたり、漆棒うるしぼうで撲られた事もございます。そんな時には、往来には人だかりがして、人が撲られるのを面白そうに見物し、お帳場ちょうばには、そこにいる御新造様ごしんぞうさまが、すずしい顔をして見ていらっしゃいました。そのあげく、半田屋のお店からつまみ出された手前でございますから、いちどは住んで、往来へ向けて自分の名標なふだを打たなければ気がすみません。ハイ、お奉行様の仰せも、半田屋のおかみさんの仰せも、御尤でございますが、そんな次第でございますから、手前は、お上の御法と証文のおもてどおりに従いとうぞんじます』
 そう云って、彦兵衛は口のうちで、
『なむあみだぶつ。なむあみだぶつ……』
 と、念仏をとなえていた。
 この男も、奉行の鍋島甲斐守と同じように、手頸てくびおく数珠じゅずをかけているのであった。


 田所町たどころちょう草分くさわけだった半田屋は戸を閉めてしまった。その後へ、彦兵衛は自分で行って、名標をくぎで打って来た。
『あそこへ住むと、行燈あかりも一つや二つでは間にあわない。障子しょうじりかえだけでもたいへんな事になる。これは考えものだ』
 名標は打ったが、住む事は断念したらしい。
 そのかわりに、「売貸家うりかしいえ」の札を貼った。
 家作かさくはほかにもたくさん持っていた。彦兵衛の仕事は、毎日家賃と利子の取り立てにまわることだった。
家主おおやさん、水口みずぐちしきい修繕なおしてくれなくっちゃ困るじゃねえか。もう腐っているんだ』
『御尤でございます。何とかいずれ』
 そんなふうに、どこへ行って、どこを押されても、御尤で引退ってくる。
『てめえ位、ねこかぶりはねえぞ。屋根を修繕なおさねえうちは家賃はやれねえからそう思ってくれ』
 呶鳴どなりつける者もままあるが、それに対しても、エヘラ笑いと、御尤さまであった。
 養女むすめのお高は、夕方、父の帰りのおそいのが何より心配だった。
(今にあいつ、きっと、ろくな死にざまはしねえぜ)
 などと世間の声が、自然彼女の耳へも入るからであった。


 夏祭りのよいである。杉の森神社の御輿みこしが、汗のにおう町の中でんでいる。
 お高の家だけが、歯の抜けたように、祭礼まつり提灯ちょうちんともっていなかった。養父ちちの彦兵衛は、そんな費用も惜しんで、町内の交際つきあいを断っていた。
 格子こうしの外に出て、お高は近所ののきの灯を見ていた。お高は美しい着物を着ていたが、
(こんばんは――)
 と、ことばをかけて通る者もなかった。むしろ、彼女の美貌びぼうまでが、養父のめている金と共に、呪咀じゅその的に見られていた。
『……どうしたのだろ?』
 世間の中のさびしさには馴れていたが、家の中の淋しさには絶えかねるらしい。お高は、帰りのおそい養父ちちを、しきりに待ちわびていた。
民谷たみやさんの家で手間てまをとっているかもしれない? ……』
 そう考えると、お高は急に、不安になった。民谷銀左衛門たみやぎんざえもんに新之助という浪人者の父子おやこの家である。その父子の住んでいる浪宅は、つい近所の蠣浜橋かきはまばしの向うなので、日済金ひなしあつめのいちばん仕舞しまいに寄る事が例だった。
『もしや又? ……』
 格子を閉めて、お高は、涼みながら蠣浜橋を渡って行った。途中とちゅうでも会わなかった。橋向うの材木屋の裏長屋に、民谷父子は住んでいた。
 が顔へぶつかってくるような露地ろじだった。案のじょうそこへ入ると、薄ぐらい明りのさす門口かどぐちで、養父ちちの声がしていた。
『弱りましたな、御都合は百も二百も御尤でございますが、手前のほうも、渡世とせいでして、そうはお待ちができません。――証書の表どおり、おあずかりしてある後藤彫ごとうぼり目貫めぬきは、他へ売払いに出しますから、どうかおふくみ願いたいもので』
 決して怒ったことのない彦兵衛であった。こういう最後へ来ても、顔いろや声に感情を出してはいない。
 手をつかえているのは、人品はいやしくないが、縒々よれよれになった帷子かたびらを着て、貧しげな前差まえざし一本を帯びた浪人で、彦兵衛よりは年もずっとっている民谷銀左衛門であった。
『あれを売られては困り入る。せめて、もう二月ほどの御猶予ごゆうよを』
『でも証文の表には、期限までに返済しない時には、何時いつでもお払い下されてさしつかえないとありますが』
『実は……実はその……申し難いがあれは他人の品で、その方の推挙すいきょに依って、近いうちに、仕官のほうの話もまとまろうと成っているところ、せがれ新之助も、唯今ちょうどそのお宅へ伺っておる所ゆえ、せめて、せがれの戻る迄――』
『御尤ですが、期限はきのうで切れているので』
『でも、きのうの今日では、あまりといえば』
『はい、お気の毒ですが』
『お待ちくださらぬので』
『おいとま致します』
『彦兵衛どの!』
 外へ出て来て、銀左衛門は、彼のたもとをつかまえた。
『万一、あの目貫が、他人手ひとでに渡っては、われ等父子、御恩のある方へ、生涯しょうがいあわせる顔もなく、又、せっかくお骨折ほねおりくだされている仕官の口も、失うてしまわなければなりません』
『ご尤です、お察しはいたしますが』
『決して、元金利子共、一文も御損はおかけいたさぬつもり。それに、拝借した金子は二両、あの後藤ぼりの目貫は、少くも廿枚以上の品と承知しておる。それではあまりあくどいではないか』
『イヤ、ひどい蚊ですね、離してください。いちいち御尤さまで、はい、御尤で』
 彦兵衛は、相手が怒りがいのない程、頭ばかり下げていた。
 そして、逃げるように露地を出てくると、
『待てっ、人非人ひとでなしっ、もう一言いう事があるっ、待てっ』
 追いかけて来る跫音あしおとがした。


『あっ……ひ、ひどい奴だ』
 草履ぞうりを両手に持って、彦兵衛は自分の家の台所へけこんで来た。
『お高――水を取ってくれ。お高』
 返辞がないので、自分で流し元へ足を入れて、ざぶざぶと泥足どろあしを洗い、裏口をきょろきょろしながら、暑いのに、戸を閉めて、心張棒しんばりぼうをかってしまう。
『……どこへ行ったんだ?』
 家の中を見まわして、彦兵衛はつぶやいていたが、すぐ次の暗い部屋へ入って、腕くびから数珠をはずし、
『なむあみだぶつ、なむあみだぶつ、なむあみだぶつ……』
 彦兵衛にたった一つの道楽どうらくはこれだった。自分の心にとがめるような事をした後では、きっとそこへ入って念仏ねんぶつを云う。念仏さえ云えば、どんなごうもたちどころに消滅しょうめつするもののように考えているらしいのである。
『……なむあみだぶつ、なむあみだぶつ』
 今夜はすこし気持が悪かったとみえて、その念仏が長かった。蠣浜橋のたもとで、狂気したような銀左衛門につかまって、頬ぺたを二つ三つなぐられ、何をいわれたか、こっちはただもう御尤の一点張りで、生命いのちからがら逃げて来たのであった。
(もう来まい)
 とは思うが、あの時、刀のつかをにぎってにらんだ銀左衛門の眼がまだこびりついていて、背すじから恐怖が去らなかった。
『なむあみだぶ、なむあみだぶ……』
 すると、いきおいよく、表の格子があく音がした。
『――お高かい?』
 首を伸ばすと、途端とたんに、祭礼のそろいの浴衣を着た若い男が、泥足のままたたみへおどり上って来て、祭団扇まつりうちわで外をあおいだ。
『やあーい、交際い知らずの、人非人ひとでなしの、我利がり我利野郎の家へ、天王様を振り込め』
 向う側の軒下を揉んでいた樽神輿たるみこしが、掛け声をあわせて、此っ方へ寄って来た。
 金棒かなぼうだの、鈴のだの、汗いきれの掛け声に勢をつけて、まず、神輿の鼻を、どうんと格子へぶつけた。
 地震のような家鳴やなりが次に起った。ふすまも障子も滅茶めちゃ滅茶に踏みあらして、更に、座敷ざしきの真ん中へ、樽神輿をほうりだしたのである。
『どこへ失せた、御犬おいぬ野郎は』
『キリキリ舞して、二階へ逃げ上りゃがった』
『ざまあみろ』
 物凄ものすご爆笑ばくしょうが、家の中と家の外で起った。そして、ふだんの云いたい事を、一人一人、口をきわめて、云いちらした。
 その騒ぎの戸外おもてから、
『お高どの、――お高どのは居ませんか』
 青ざめた顔つきの若い浪人者がさけんだ。


 ぶちこわした家の中へ、樽神輿を抛り出してやすんでいた若衆連わかしゅうれんは、
『や、寺小屋の息子さんだぜ』
『新之助さんだ』
 と、ちょっとしらけて見えた。
 新之助の血相けっそうが、いつになく優しさを消していたからである。
 もう、嫁もあっていい年頃なのに堅くて親思いなものだと町内ではうわさのいい若者だった。
『おまえ達何しているのか』
『見た通りでさあ。こんな事あ、天王様の祭礼まつりにゃあめずらしいこっちゃあねえんで』
『何ぼ何でも、余りといえば乱暴な。――町役人の来ないうちに、はやく退散したらどうだ』
『その町方様からして、やれやれと云っているんだから、来る筈はありません』
『何せい、ここを出てくれい。いやと申せば、新之助が、そち達を相手にするぜ』
『およしなさい新之助さん、おまえさんはここのお高と、仲がいいって噂だが、あんな親父おやじを持って御覧じ、今に後悔こうかいしますぜ』
『よけいな事を申すな。神輿を出せ』
『おまえさんを相手に喧嘩けんかしたって初まらねえ。じゃあ、新之助さんの顔にめんじて、出してやろうか』


 海嘯つなみの通った後のような有様だった。勿論、明りも消えている。
 こわれた窓のすだれ越しに、向う側の祭礼まつり提灯の明りが、かすかに流れこんでいるだけである。
『――お高さん、お高さん』
 新之助は、その中に立って、呼んでいた。
 台所の戸の外で、
『ここですよっ……開けてくださいっ……戸があかないんです』
 お高の声だった。
 新之助が走ってこうとすると、その前に戸が外れて、転び込むようにお高が入って来た。
『お父さんは? ……お父さんは? ……』
『知らんっ』
 抱きしめた男の手のつよさと、その顔いろのあおざめているのに気づいて、
『し……新さん……どうかしたんですか……どうかなすったんですか』
『おわかれだよ、おまえとも』
『えっ』
『…………』
 深い息をついて男はうなだれてしまった。
 お高は、おののいて、泣き声になりながら、新之助の胸をゆすぶった。
『どうしてですっ……そ、そんな……そんな事、わたしは嫌です』
『おまえの父親にあとで聞いてくれ』
『……わかりました。じゃあ、お父さんが今夜、むごい催促さいそくをしたので、それで新さんも、怒ったんですか。かんにんして下さい。お父さんはまだ、私とあなたの仲を知らないのですから』
『それだけじゃない』
『では、……いったい何うしたのですか』
『おれの父は』
 新之助は、嗚咽おえつをのんで、
『――おれの父の銀左衛門は、たった今、恩人のやしきへ行って、自害じがいした』
『あっ――うちのお父さんの為に?』
『いう迄もない事だ。ここへ来たのは、彦兵衛を斬って、父のうらみを慰めようとして来たのだが、この土足のあとを見ては、それもおろかと考え直した。――お高さん、これきりだぞ』
『待ってください。し、新さん、私をつれて逃げて下さい』
『ばかなっ、かたきを』
『仇でしょうか。――ふたりの仲は』
『世間がゆるさない』
『では私に、死ねというようなものです。……新さん、私は、わたしはもう……ただの体じゃあないではありませんか』
『…………』
 新之助は、やみの中の又闇の中に、もう一箇の人間のかたちになりかけた一かいの血液を思いうかべて、自分が確かに為した事の結果に、慄然りつぜんとおののいた。


 ――男女ふたりは裏口から出て行ったらしい。
 彦兵衛は、階下したのささやきを、梯子はしごだんの上からそっと首をのばして聞いていた。
心中しんじゅうなどしはしまい)
 そう考えて、自分をなぐさめたが、生きてゆくとしたら、あの男女ふたりはどうするだろう。
 階下した金箪笥かねだんすへ、手をかけた様子もない。金を持って出ないとすれば、死ぬ気ではないかとも疑われる。
『五ツの年から、今日まで育てて来た養女むすめだ。――あんな者に持って行かれちゃあ……』
 彦兵衛は急に、お高の体が、金のように惜しくなった。妊娠にんしんしていても、子どもは後でどうにでもなると思う。
『そうだ』
 すぐ裏口から彼は外へ追いかけて出た。
 男女ふたりの影は、もう見当みあたらなかった。だが、見当っても、新之助へいきなり食ってかかる事は、多分な危険があると思った。お高をり返せる自信もないし、うかつに寄りつけそうもない気がする。
『……どうしよう』
 自分の力の及ばない場合というと、彦兵衛はいつでもすぐに、お上の御法規というものを頭脳あたまの中に持ち出してみる。国家の法律は、自分のために出来ているように考えているらしかった。
『おねがいです』
 自身番じしんばんへ馳けこんで、ちょうど外の涼み台で、祭りの御神酒おみきみかわしていた番太ばんたや、同心どうしんたちへ早口にうったえた。
 町方の役人たちは、口をつぐんで、顔を見あわせた。今も今とて樽神輿たるみこしのうわさをしていたところだった。青ぐろく引っれている彦兵衛の顔を見ると、同心たちは、おかしくなったのであろう、干鯣するめを裂きながら、笑って云った。
『彦兵衛、それやあ、いっその事、お奉行所へじかに駈け込んだほうがいいぞ。なぜなら、相手が侍だし、新之助の父親が、腹を切ったというその出先は、雲州侯うんしゅうこうの重臣のやしきらしいんだ。ちょっと、厄介事やっかいごとだからな』
『そ、そうでしょうか』
 彦兵衛のあたふた駈けてゆくうしろ姿を見送って、涼み台で又、笑いばなしがはずんだ。


 たてつづけに喋舌しゃべって訴える彦兵衛のことばを、鍋島甲斐守は、一口もはさまずに、終りまでじっと聞いてやっている。
『うム』
 うなずいて――
『では彦兵衛、そちの訴えは、養女を取り戻してくれというのだな』
『は、はい、左様にござります』
『くれてやらぬか、どうせ、好きな者同士、無事で暮しさえすれば、それでそちも安堵あんどであろうが』
 彦兵衛は、いつもの低い構えと口癖くちぐせを今夜はわすれ果てていた。すこし反身そりみ気味になって、理屈をこねた。
『お奉行様、それでは、おそれながらお上の御法というものが有ってないようなものになりはしますまいか』
『なぜ』
駈落者かけおちものは、御法度の筈でございます。捕まえて、日本橋のたもとに、さらし者としてくださるのが、御法だと覚えておりますが。……まして新之助という男は、祭礼まつりの神輿をケシかけて、手前の家を、野原のように若者に踏み荒させ、そのごたくさまぎれに、養女むすめさらって行った悪い奴でございます。これを御成敗ごせいばいくださらないでは、手前ども力の弱い町人は、安心してお膝元ひざもとに住んではおられません』
成程なるほど、おまえはなかなか御法規に明るいの。いかにも、そういう御法度はあるが、駈落事かけおちごとなどは、滅多めったに、ほんとに曝し者にいたした例はすくないのじゃ、――だが、望みとあれば手配をしてつかわそう』
『ありがとう存じます』
『然し――新之助のほうから、娘は返してやるが、その代りに、父親の生命いのちをもどしてくれという正当な訴えが出たらそちは何うする』
『民谷さんは、自分の考えで、自分の生命をちぢめなすったのでございます。手前の知ったことではございません。又、その手前を罪にする御法規はないとぞんじますが』
『いかにも、そういう御法令はない。――けれどそれは町人のそちと、御法規とのあいだにだけ通用する話だぞ。さむらいという者同士になると、彼等のあいだには、御法規も御法規だが又べつな義とか情とかいうのが重んじられておるからの』
『何と云って来ようと、この世に、御法規ほど、動かされないものはないとぞんじまする。はい、そんな事を申して来ても、受けつけませぬ』
『では、よいように、話し合え。――実はそちの来る前に、松平出雲守殿まつだいらいずものかみ御家中から、云々しかじかと訴えが出ておるのじゃ。わしの手でそちをくくるいわれはないが、雲州侯の家中が、そちがここから帰るのを門の外で待ちうけているかも知れぬ』
 と、云ってすぐ、
『立てっ』
 と命じた。
『…………』
 彦兵衛はたなかった。いや起てないのかもしれない。わなわなとふるえているのである。
『立てっ、彦兵衛』
『ちょっ……ちょっと……お待ちくださいませ』
『なんじゃ』
『今のおことばは、まったくでございましょうか』
『奉行はうそは云わん』
『それでは、私は、ここを出れば、殺されるかも知れません』
『銀左衛門の知己ちきどもが、事情を聞いて、はなはだしく立腹しておるということだ。どういう事があろうか分らん』
『申しかねまするが、今夜は、どこか、御牢内ごろうないのすみにでも手前を置いていただかれますまいか』
『牢へ泊りたいか』
『は、はい』
『一晩というわけにはゆかぬな。三年も入れ、そして、少し自分のして来た事を考えてみぬか。おまえの為に入っている人間も、十人ぐらいはいるだろう』
『三年などと、そんなには、及びませぬ』
『では、出て行け。そちをしばりはせん』
『…………』
『それとも入るか』
『…………』
 彦兵衛は両手をついて、白洲へしがみついたまま、動かなかった。その手頸てくびを、数珠の輪が巻いていた。
 突ッ立ったまま、甲斐守は、こわい眼でジッとにらみつけながら、肚の底からいきどおりをもって云った。
『わ、悪いやつじゃっ!』
 そして、自分の腕くびに掛けていた数珠をふッつりち切って、彦兵衛の頭へたたきつけた。
(昭和十一年九月)





底本:「吉川英治全集・43 新・水滸傳(二)」講談社
   1967(昭和42)年6月20日第1刷発行
初出:「オール讀物」文藝春秋
   1936(昭和11)年9月号
※初出時の表題は「悪党祭り」です。
入力:川山隆
校正:門田裕志
2014年2月14日作成
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