※[#「さんずい+鼾のへん」、第4水準2-79-37]かみ浪人

吉川英治




親のあか



 几帳面きちょうめん藩邸はんていの中に、たった一人、ひどく目障めざわりな男が、この頃、御用部屋にまごまごしている。
 彼は、俗にいう、ずんぐりむッくりな体格で、年は廿六、七歳だった。若いくせにいつも襟元えりもとがうす汚い。はかまひももよく締まって居ないと見えて、うしろ下がりにッこけている時が多い。
『オイ、数右衛門かずえもん
 と、呼ぶと、
『ウウム』
 と、からだぐるみ廻して振向くと云ったような鈍重漢である。すこし猪首いくびのせいであろうが、そのくせ人を見る眼は、ぎょろりと一くせあるので、そう小馬鹿にも扱い難い。
 従って、彼にはまだ友達ができない。尊敬する気にはなれないし、あごで使うには厄介やっかいなのだ。ここの御用部屋には、馬廻り役とお使番とが雑居していて、相当用事も多いのだが、数右衛門だけは、いつも事務から遊離ゆうりして、まごついているふうであった。
 ※(二の字点、1-2-22)たまたま、誰でもいいような使命を当てがうと、平気でずぼらをやるし、又忘れッぽい。とても他家へ立つ使者だの、君側の大事な用向などにはれたものではない。
 だから御用部屋がひまだと彼もほっとするらしい。忙しい時まごまごするのは、彼の責任感がさせるのだった。閑になると、上役や同僚のやっている囲碁いごを、後に立って懐ろ手で頭越しにのぞいて居たりする。
『誰だ、あれは』
 兎角とかく、誰にも気になるとみえて、まだ彼を知らない奥向の老臣などでも、よく彼の同僚は訊ねられた。
『は、あれは先頃、お国表の方から江戸詰に転役して参った――不破ふわ数右衛門でございます』
 そう同僚が答えると、次にはきっと、誰でも同じように頷いてつぶやいた。
『――道理で、何処どことなく、浪人くさい男じゃと思ったら、あれが岡野治太夫のせがれか。それでまだ、親のあかが抜けておらぬのじゃな』


浪人ぼね



 さむらいの中には、浪人骨ろうにんぼねという言葉がある。元和慶長頃の粗野な血をそのまま持っていて、元禄という文化時代へ来ても、どうしてもそれが洗練されない――そして平和な社交で奉公人の型にはまらない人間――それを、
浪人骨ろうにんぼねのぶとい奴)
 と、よく云うのである。
 数右衛門がそれだし、彼の親の岡野治太夫が又それだった。豪放不覊ごうほうふきたちだったのであろう、もう十数年前に、浅野家を浪人して、がんとして、陋巷ろうこうに貧乏を通して死んだ。
 べつに、罪科があっての浪人ではないから、その子の数右衛門は又、元の浅野藩の家へ養子に貰われて来た。しかし、親ほど浪人骨がぶといとは、養家でも思わなかったに違いない。
 ところが、数右衛門の浪人骨は、親の治太夫以上にぶといものだった。
 今でも、国元の者のあいだに、
『何せい、殿様をあやまらせたのは、彼奴あやつばかりだからのう』
 と、話柄わへいに残っている事がある。
 それは、或る夏だった。
 赤穂城に近い千種ちぐさ川で川狩が催された時である。舟中の宴の座興ざきょうに、内匠守長矩たくみのかみながのりがふと云い出した。
『誰ぞ、あの飛び交うつばめを斬り落してみい』と。――そして近習きんじゅうの中に交じっていた数右衛門に、眼が止まった。
『そちに申し付ける』
 数右衛門はだまってお辞儀をした。お断りするだろうと皆思っていると、彼は小舟を放して、川の中ほどへ行き、刀を抜いてめていた。
 するどい声と共に、彼の体とやいばとが、ちゅうへ閃めいて、伸び上ったと思うと、水面に片羽を切られた燕が一羽、浮いて流れて行った。
『ようした』
 と、内匠頭は呼びよせて、杯を与えようとしたが、数右衛門はすっかりつらふくらせて、何か、不平そうに固くなった儘、手を出さないのである。
『何とした?』
 内匠頭が云うと、
『今日限り、おいとま頂戴ちょうだいいたします』と云うのだった。
 彼の理由には当然なところがあった。自分の武芸は、一朝君家に何事かあった場合に役立たせる為のもので、こんな座興に供する為にみがいているのではない。――けれどもし厭だといえば臆したとわらわれるであろうし、君命にも反く。そしてもし、為損しそんじれば、男として腹を切らなければならないから――武家奉公というものがこんなものならめたほうがいい。つらつら父治太夫が浪人した気持もわかると、臆面おくめんもなく云って退けたのである。
『悪かった。数右衛門、わしが悪かった』
 ――それ以後、内匠頭は、家臣へ向って、そういう座興めいた事をいた例はまったくなかった。
 だが、数右衛門のぶとい浪人骨は、少しも細くなって居ない。
 この夏(元禄七年であった)――彼が、国許から転役を命じられて、江戸づめに廻されて来た理由も、そのごつい浪人骨がいんを為していた。
 国家老の大野九郎兵衛から、在府の殿の手へ届いている人事上の文書には、
(数右衛門不埓ふらちの事)
 として、三つの箇条が書上げられてあった。その三箇条というのは、
 第一、平生殺傷沙汰さっしょうざた多く、辻斬つじぎ据物斬すえものぎりなど好む事
 第二、勤務粗暴にて忠誠なき事
 第三、平素勝手元不如意ふにょいを申し立てながら、多く人をあつめ、酒振舞ふるまいなどいたし、武家屋敷にあるまじき囃子はやしなど時折りれ聞え候事
 ――だが内匠頭はその書面を握りつぶしているのであった。彼はなかなか人を捨てない主君であった。国表では使い難いそうだから江戸へ廻せという程度で、定府じょうふの方に転役させて、何も云わずにいた。
 数右衛門は勿論、この転役を歓ばなかった。国許なら自由もきくし、野広のびろく生きていられる気がするが、江戸の藩邸では、朝も夕も、主君と一つむねにいて、跫音あしおとも気をつけて歩かなければならないし、非番となっても、藩邸内の長屋住まいなので、馬鹿騒ぎもできなかった。
 それに、江戸詰の人間は、どれもこれも軽薄に見えた。社交が上手で、身綺麗で、何かというと、殿様の前で声をひそませるのを得意としている。そんなわけで数右衛門には、三月経っても、四月経っても、親しい友は出来そうもなかった。


作らぬ俳人はいじん



 今も。
 を囲んでいる連中の頭ごしに、懐中ふところ手して突っ立っていた。
『…………』
 その数右衛門が、時々、くすくす笑うので、富森助右衛門とみもりすけえもんに打ちこまれて敗け色の田中貞四郎は、気になって堪らない。
 時々、じろっと、数右衛門の顔をめ上げるが、数右衛門の神経には何もひびかないのだ。
 側には、中村清右衛門だの、他四五名も見ているが、誰も立ってなど居る者はない。その者たちも、数右衛門の不作法や笑い方が気にさわっていた。
 で、一局くずれると、
『不破氏』
 と、清右衛門が振向いた。
『――貴公、だいぶやるようだな。一戦、試みよう。坐んなさい』
『いやあ、拙者あ、碁など一向に知らん』
『でも、覗いていたではないか』
『退屈だからで』
『然し――何も分らない者が、そう長く熱心に見ていられる訳のものではない』
『拙者が見ていたのは、つい襟元から盤の上に取り落したしらみが、誰の所へ歩いて行くかと、それを楽しみに見ていたのでござる』
 あきれた眼と、いきどおって青くなった顔とが――彼のうしろ姿を見送った。数右衛門はぶらりと御用部屋の外へ出て、欠伸あくびをしていた。
 わき玄関の小廊下に、明るい秋の日がしていた。萩垣根の下に、萩の花を浴びて、この頃生れた犬の子が白い親犬にたわむれている。
『小僧、小僧……』
 数右衛門は、自分の手を、犬の子にませて、戯れていた。すると今、門の方へ出て行こうとした藩士の一人が、足を止めて、退屈そうな数右衛門を振向いていたが、眼を見合すと話しかけた。
『おひまか、不破殿』
『さればで……』と、彼も自分の持て余している体に気づいて、苦笑した。
『どうですか、御一しょにそこら迄』
『お供いたそう』
 数右衛門はすぐ草履ぞうり穿いた。江戸はまだ不案内なので、一も二もなく、そう云ってくれた人の好意がうれしかった。
 その人は、御腰物おこしもの番の大高源吾であった。源吾はいつも、御用部屋にいながらそこに同化していない数右衛門をながめて、
(友達がないな)
 と、察していたのである。
 外へ出てから、数右衛門は訊ねた。
『何処へおいでになるのでござるか』
『深川ですよ』
『深川』
『今夜の会は、永代えいたいの千鳥庵でして、大川尻のながめもなかなかいい所です。まあ一度来てごらんなさい』
 物柔かい言葉づかいが、京都の大町人を思わせるような所がある。数右衛門は心の中で、こんな侍は国許の方には居ないなと思った。
 久しく酒にもかわいている。心から飲みあう友がないからだ。ともかく数右衛門はいて行ってみた。千鳥庵といえばいずれ洒落しゃれた料理屋であろうと思って。
 ところが、そこは静かな川沿いの貸席で、宗匠頭巾そうしょうずきんの老人とか、医者とか、僧侶とか、町人の旦那衆と云ったような者ばかりが、ひっそりと、墨のの中に集まって、※(二の字点、1-2-22)めいめい、筆と短冊を持ち、しわぶきもせずに俳句を作っているのだった。
(来るのでなかった)
 と、数右衛門は後悔したが、追いつかなかった。
 夕方、弁当に酒が一本ずつ出たので、せめて、それを慰みに、運座うんざの様をながめていた。じっと、話しもしないで、それで退屈そうでもない人々が、彼にはふしぎだった。
 ――柿紅葉かきもみじ
 ――新酒
 ――のちの月
 そんな席題が貼り出されてある。何の事か、彼には分らなかった。大高源吾の句が読みあげられると、子葉という名で答えたので、
(ははあ、子葉という俳号はいごうを持っているのか)
 と、数右衛門は初めて知った程だった。彼の前にも、紙と筆が配られてあったが、元より句など作れもしなかったし、作ろうとも思わない。そのうちに欠伸あくびが出てならないので、ひじ掛窓にって、大川の夜空を見ながら、無意識に鼻糞はなくそをほじっていた。


最初のひと



 運座の帰り途である。
『まだ御存じはあるまい。こちらは、一閑いっかん殿と申されて、同藩の小山田庄左衛門しょうざえもん殿の御厳父げんぷですよ』
 と、大高子葉に紹介ひきあわされて、
『わたくしが、不破数右衛門でござる』
 と、途々みちみち、挨拶を交しながら、三人で連れになった。
 小豆あずき色の十徳に、投げ頭巾をかぶり、袖口から小田原挑灯ぢょうちん[#「挑灯を」はママ]ぶらさげて一閑は歩いている。人品のいい、かない気性の老人に思われた。
『御子息は、まだお独りですかな?』
 何かの話から、子葉が云うと、老人は尖った肩を振って、
『さて、彼奴あいつがの、いつになったら、女房でも持つ気になるか。はははは』
 闇を払うように、大きく笑ってから又、
『兄よりは、妹のほうがもう妙齢としごろ。これは盛りを過ぎてはいかぬ。虫のつかんうちに、子葉殿も、ひとつ心がけておいてくだされ』
 と、真面目に云った。
『あのお千賀どのが、もうそんなお年頃かの』
廿歳はたちを一つ越えたがなあ』
 と、一閑は舌打ちするように、嘆じて云う。
 永代橋まで来ると、子葉は俳友の雪中庵が、風邪で寝ているので、見舞に立ち寄ると云って――別れ際に、
『数右衛門殿、ちょうど鉄砲洲への行き道故、御老人をお宅の側まで、送ってあげて下さらぬか』
 云い残して、川筋へ曲がった。
 数右衛門はちょっと気色きしょくに障った。別れたら独りで何処どこかで飲もうと胸算むなざんしていた当てが外れたからである。
 だが、一閑はさばけた老人だった。若い者のそういう顔色がく見えたのか何うか。
『まだ早い、ついでに拙宅へお寄りなさらんか。せがれも好きな方じゃ、夜長に一こんみ交そうで』
 と、云う。
 寄ってもいいと考えていた。ところが、蠣浜かきはま橋の上まで来ると、足早にれ違った黒羽織の武家が、足を止めて、
『小山田の隠居か』
 と、呼びかけた。
 一閑が、何気なく、
『おう、誰か』
 振向いた時、その男は、いきなり羽織を脱ぎすてて跳びかかって来た。――きらッと、白刃しらはが眼をかすめたので、
『――何するッ』
 一閑はね退いたが、もう七十ぢかい老齢である。体に粘ばりのないせいか、その勢いのまま、仰向けにひっくりかえった。
『老人。おれに恥をかかせたな。恥をっ』
 こうわめいた顔の上に、高く刀を持つと、武士は二度目の踵を蹴って、起ち上ろうとする一閑の真っ向へ――
『覚えたかっ』
 と、大なぐりに振り下ろそうとした。
 そのはやかった事に、数右衛門もハッと思った。国許で辻斬をやったおぼえのある彼は、今の言葉が耳に入らなかったので、それだと直ぐ思った。
 彼の伸ばした腕は、一閑の頭へ、刃が降りない先に、その武士の襟がみをつかんで、勢よく引き戻していた。
『下手め! そんな事で、辻斬りができるか。顔でも洗って出直せっ』
 ――どぼうんと、途端とたんに真っ白な飛沫しぶきが橋杭の下から立った。欄干らんかんを越えて、一閑の体にも、数右衛門の影にも、水玉がかかった。
『……わっ、冷たい』
 不意打の白刃よりも、その方が彼を遙かに戦慄せんりつさせた。するとそのしおに、
『お父様っ……』
 と、走り寄って、一閑に抱きついた女性があった。数右衛門が、生れて以来、美しい人――と此の世で意識した女性の、最初のものを、彼はそこに見たのであった。


彼の場合



 末娘のお千賀ちがであった。
 娘も次男も三男も、みな他家へかたづいてしまい、小山田家には今、後とりの庄左衛門と、末娘のお千賀としか残っていない。
 一閑は、腰をさすって、欄干を力に起ちながら、
『ややお千賀じゃないか。なんでこんな所へ? ――』と、眉をひそめた。
『でも……今の織田雄之助様がひどい御血相で、お父上の出先へ行き、一分を立てるのだ、ほんとに怖い捨て言葉をいて行らっしゃいましたので、もしも、こんな事がありはしないかと案じましたので』
『じゃあ、わしの留守に、又来おったのか』
『ええ……兄様は、織田様の声を聞くと、居てはまずいと、裏口から出ておしまいになるし』
『それは困ったろう。揚句あげくの果てに、怒ったのか』
父子おやこして、あざむいたのだ、一閑を斬ってしまうと、仰っしゃいました』
『はははは。あんな骨の柔い次男坊に、小山田一閑の首が斬れてたまるものかよ』
『……でも』と、お千賀は暗い川面かわもをのぞきこみながら――
『後で又、どんな事になるでしょう。旗本衆は、徒党ととうを組むから、とても怖いと、よく世間で申しますから』
っとけ、抛っとけ』
 一閑は、自分で相手を投げ込んだようにそう云ったが、ふと気づいて、
『そうじゃ、お千賀、数右衛門殿に礼を云え。ここまで送って下すったのじゃ』
 数右衛門は、感心したように、お千賀の顔ばかり見ていた。当然、彼は父娘おやこの好意に甘えて、小山田家に立ち寄った。一閑は隠居の身だし、庄左衛門は居なかったし、百石ばかりの小身しょうしんな住居なので、気のけるわずらいもない。
『もう、もう、これ以上は、頂戴できませぬ。又、次の日に、後の分を、飲みに参ることにいたして……今宵こよいは……今宵はこれにて……』
 数右衛門は、へべれけに酔って、久しぶりに堪能したらしく、帰って行った。
 お千賀は、後で、
『おもしろい無邪気なお方でございますね』
 と、父へ云った。
 その晩から、数右衛門は度々遊びに来た。いつ来ても、息子の庄左衛門とは出会わなかった。
 あまり家庭に見えないので、或る時、無遠慮に聞いてみると、
『旗本仲間に友だちが出来おって、近頃、遊蕩あそびは覚えるし、交際つきあい張って、困りものじゃて』
 と、一閑は苦り切って答えた。
 そんな事情を知ると、いつかの晩、蠣浜橋で一閑に斬りつけて来た男も、何の意趣か、事情が読めてきた。
 あれは旗本の織田雄之助という男だった。家柄はおそろしくいい。織田右大臣の血脈だというのである。――それが息子の庄左衛門と懇意こんいであった。
 庄左衛門は、父には隠しているが、だいぶ彼から遊里あそびの借財などもあるらしく、何かの時、
(妹を妻にくれないか)
 と、雄之助から切り出されて、庄左衛門は断りにくい羽目になっていた。一応という余地もかずに、先の家柄や、裕福な点や、又男ぶりだって、不足はなかろう位で、
(承知いたした。尊公が貰ってくださる事なら、父も妹も、ふたつ返辞で欣びましょう)
 まったく、彼自身も、そう思い込んだから、その通りに請合ってしまったのだ。ところが、つむじ曲がりな一閑は、息子からそれを聞くと、
(何も、旗本などに、娘をもらって貰わんでもいい。――家筋が何じゃ、わけて近頃、名門の次男坊共の風紀ははなはだおもしろくない。きっぱり、突っねてやれ)
 すこし庄左衛門の持ちかけ方が、父や妹を喜ばせようとし過ぎて、誇大でもあったせいか、よけいに反感を買って、手きびしくこう一しゅうされてしまった。
 だが又、機嫌のいい折もあろうと、庄左衛門は多寡たかをくくって、一方の織田家へも、ていよく云いつくろって来たのであったが、一閑の気持は、其の後もいっこう変化しない。
 半年過ぎ、一年経った。
 織田雄之助は、友達へも、
(お千賀どのを、妻にもらう)と、かなり前披露ひろうしてしまったし、庄左衛門もつい当座の嘘に嘘がかさんで、退っぴきならない板挾みになってしまった。
 結局、その嘘は皆、親父が頑迷で、この結婚を理解しない――というせいに帰着させて、庄左衛門は近頃、雄之助を避け初めたので、物質的な損害もうけている雄之助としては、
(父子共謀のうえに相違ない)
 と怒って、ひどく一閑を怨み初めた。
 それでもまだ、お千賀の意志に、多分な頼みを残して、留守をうかがっては、二、三度訪れたが、お千賀もふるえ上っているので、その三度とも玄関で追い帰したので、
(よしっ、その分ならば、一閑の出先へ行って、今夜こそ、俺の一分を立ててみせる。後で嘆くな)
 と、最後の捨言葉をいて、千鳥庵の運座の帰りを待ちうけていたか、或はそこへ行くちがいに、先夜の暴行をかっとしてやったものだった。
『――まあよかった。あれでもう来まい』
 一閑は、そう云って、ひどく肩の荷を下ろしたつもりでいた。もちろん彼としては、織田家に借も貸もないつもりであるから。そして、
『数右衛門、又来いよ』
 と、彼を馳走ちそうして帰すたびに、帰り際には、きっとそう云った。口に出して礼を云う老人でなかったが、蠣浜橋の時の彼の働きは、内心大いに多としているのであろう。
 偶然――そういう事情の中に懇意ちかづきとなったので、数右衛門は、老人にも愛されるし、お千賀にも、いつも笑顔で迎えられた。
 で、数右衛門は、
(雄之助へは断っても、おれならばくれるな)
 と、思った。
 何かで、旗本のうわさだの、雄之助の話が出れば、お千賀も一閑と共に、よく云わないし、反対に、自分には絶対な好意を示す。――数右衛門の癖で、
『御息女。もう一本……』
 と、酒とあと引や、長座の夜かしになっても、
『では、これっきりで御座いますよ』
 お千賀が、愛くるしい眼で、にらむまねはするが、決して厭な顔はしない。
 その上、酔った戻りに、どぶへ落ちたと云えば、洗い物を持っていらっしゃいと云ってくれるし、寒くなれば、知らない間に、冬着をっておいて、
『お国元から参りましょうが、お間に合せに、お召しくださいませ』
 と、お千賀が、しつけ糸まで抜いて、身背丈みたけを見ながら、着せてくれたりする。
 気だての良さ、お千賀の美しさ。身分の高下もたんとない。それに同藩ではあるし――数右衛門はすっかり自分の幸福を信じていた。
 江戸づめに廻されて来て、かえってよかったと、その秋から冬まで思っていた。


幻影



 数右衛門は、うれしいことは欣しいとおもてに現わすたちだった。
 当然、藩邸にいても、此頃の彼はちがっている。
 同僚があやしんで、
『不破氏、何か欣しい事でもあるのか』
 すると彼は、
『あるっ』
 と、例の締まりの悪い襟元から毛ぶかい猪首を伸ばして云うのだった。
『拙者に、相愛の佳人かじんができたのでな』
『ほんとか。冬にしては、この頃ちと陽気が暖か過ぎるが』
『笑い事ではござらぬ。まだ微禄びろくだし、何の御奉公いも現しておらぬ故、遠慮申しているが、何ぞの折に、めとろうと考えておる』
『貴公の胸だけで』
『なんの、先方でも、そういう考えでいるらしい。恋は色に出ぬ程のよさと兼好けんこう法師か誰かも云うてある』
『貴公から恋の講釈こうしゃくを聞こうとは思わなかった。一体、その佳人とは誰だ』
『小山田一閑どのの娘』
『え。……お千賀どのか』
『されば』
『あれならば美人だが』
 ――然し、同僚の誰も、呑み込めない顔つきだった。信じぬいて居るのは、彼自身だけだった。
 ――と、或る日、
『不破氏、ちょっと、顔を貸してくれないか』
 背の高い、苦み走った美男子で、身装みなりや動作にもそつのない武士が――御廊下の隅で出会いがしらに囁いた。
『や。其許そこもとは』
 と、数右衛門は、丸っこい眼を上げて、彼としては、最大な慇懃いんぎんさをもって、お辞儀をした。
『――お千賀どのの御兄上でござったな』
『左様、てまえが、お千賀の兄、庄左衛門です。隠居や妹が、いろいろお世話になっておるそうな』
う仕って』
『いちど、お礼を述べたいと思っていたが、お役部屋も懸け離れ、先頃までお下屋敷の方に詰めていたので、つい折もなく、失礼いたして居りました』
『何の、その御挨拶は、それがしの方からいたす事』
『所で――今日は御用の御都合は』
『さしつかえない体でござるが』
『そこ迄、何うでしょう。交際つきあって下さらぬか。ちとお寒いし雪模様だが』
『この頃、俳諧ばやりの由でござるが、運座の席へでも』
『はははは。子葉殿のような風流は、それがしなどのがらではありません。もっと俗な所で――』
 と、其処では一度別れて、約束の刻限こくげんに、数右衛門が通用門から出て行くと、庄左衛門は先に外へ出て居て、灰色の宵空よいぞらをながめながら立っていた。
 鉄砲洲てっぽうずを離れると、
『――かごっ』
 と、庄左衛門は、すぐ通りかかる提燈かんばんを呼び止め、何処か行く先をささやいて、
『さあ、どうぞそれへ』
 と、数右衛門へすすめ、自分も乗ってタレをぱらっと下ろす。
 いかにも、江戸馴れている肌合が、数右衛門には、これでも同藩の人かとふしぎに思えた。もっとも、江戸表の定府組のと、国許のお城方とでは、誰にしても、多少気風や生活ぶりが違ってはいるが――。
 駕が着く。
 そこは、日本づつみだった。
 堀の涙橋から、少し歩いて、隅田川の方へ入ると、数右衛門などは、くぐった事もないいき貝殻葺かいがらぶきの門がある。いう迄もなく、吉原通いの船次ぎの茶屋だ。
 酒が来る、おんなが集まる。
『――寒いわえ、何ぞ、温まる物でも』
 というので、鍋物がぜん代りにかこまれて、数右衛門にとっては、何だか、夢みたいな気色になった。
 だが、彼はいつになく、余り酔えない。庄左衛門から、大事な話があるにちがいないと思うからだった。もちろんその用談は、お千賀と一閑の意中を伝えて、自分の意志を聞くことと極まっている。そう話を進めて来られたら何と返辞をしよう。――来年はまだちと早い。さらい年か、三年後か。
 そんな事を描きつつも、酒は好きだし、つい陶然ともなって来る。数右衛門は顔が火照ほてってならなかった。
『おい、そこを少し、開けておくれぬか』
『まあ、こんなお寒いのに――』
 おんなは、川面の障子を、初手は細目に開けたが、
『おや、めずらしいものが。……まあ、綺麗だねえ』
 と、さけんで、いっぱいに其処そこを開けて見せた。
 隅田川の広い闇を、まるで幻を見るように、降り出した初雪が、白いしまをななめに描いて、一瞬、酔える人々の目を奪った。


雪見ゆきみぶね



『寒い、寒い。――そう開けるな』
 庄左衛門のことばに、おんなたちは、あわてて両方から障子をてた。
 しばらく、燭台しょくだいが墨をいている。庄左衛門はそれをしおに、妓たちを遠ざけて、
『時に、数右衛門どの』
 と、あらたまった。
『は……』と、数右衛門は待っていた言葉を聞いたように思った。そこで彼も、努めて、着物の前を合せたり、膝を正そうとしたが、生憎あいにくともう、手のほうがいう事をきかないらしい。かえって、妙に、酔っぱらっていることを証拠立ててしまう。
『あいや、そう窮屈きゅうくつにされぬでもよい――。話はまことに簡単なのだ』
『な、なに事でござるか。……拙者に、折入っての、御用向とは』
『ほかでもないが、藩邸の中で、近頃しきりにうわさにのぼるらしいが――何か、うわさの火元は、其許そこもと自身の口からだと人は申すが』
『それは? ……。ははあ、思い当ることもある』
『妹のことです。お覚えがありますか』
『ござりまする』
『お千賀と、すでに婚約があるような事を仰っしゃるそうだが、小山田家としては、ちと迷惑に存ずる。どうか、あのような事は、以後云われぬようにして貰いたい』
『いやあ、ついそんな事を云い申したが、以後は云い申さぬ事にいたしまする。まだ、いずれにしても、両三年は、お取極めなさるまいな』
『何もまだ、考えておりません。とかく、人の口端くちははうるそうござる。足繁あししげく宅へお遊びに来られる事なども、お互の為、暫く、おつつしみくださらぬか』
 数右衛門は、言葉のおもてに現われた事だけしか聞かない。で、彼はむしろ、その晩の酒を、祝福して充分過ごした。庄左衛門の方は、それで結構、こっちの意志は通じたものとして、一足先に、帰ってしまった。
『……ああ、又酔ったか。こ、これはいかん、もう何刻なんどきか?』
 数右衛門は、酔いつぶれていた。――ふと眼をさますと、妓もいない、庄左衛門の姿もない。
 手をたたく、呶鳴どなる。
 女中おんなが来て、
『お目ざめでございますか』
『小山田殿は、いつのまに帰られたのじゃ。帰り途が、分らぬではないか。弱ったぞ、これは』
『御心配なさいますな。鉄砲洲のお近くまで、猪牙舟ちょきでお送りいたします』
『猪牙舟とはなんだ』
『お舟でございます』
『舟か、それはいい』
『あれ、あぶのうございます。唯今、お支度させますから、ちょっと、お待ちあそばして』
 雪は小やみだったが、猪牙舟の上は、耳ががれそうに寒かった。
『船頭。茶屋の者が、確か酒を入れてくれた筈だの』
『その、箱火鉢はこひばちのそばに、暖めてあるのがそうで』
『オオこれか』――数右衛門は手酌てじゃくで飲みながら、
『ああいい心地じゃ。ゆるりとやれ、るりと』
下流しもへ行くんですから、ろくに漕いじゃあおりません』
『はやいのう。――そんなにこの河は流れが急か』
 徳利を片手に、覗き込んでいた時だった。猪牙舟につるんで従いて来た一そう屋形船やかたがある。それがいきなりみよしをぶつけて来たかと思うと、猪牙舟の船頭はわざと、勢いよく数右衛門のそばによろけて、
『あっ、あぶねえ』
 彼の腰を、とんと突いた。
 数右衛門は、徳利を持った儘、川の中へ、もんどり打って飛び込んでしまった。
 厚着をしていたのと、酔っていた所なので、彼は少からず面喰めんくらった。然し、水には達者なので、すぐ大小を片手で束にしてかかえ、片手で袴の紐や帯を解きながら泳ぎ出したが、その間に、猪牙舟はもう遠く去っている。
 近くに、素知らぬ顔して、屋形船は雪見をしていた。船障子を細目にあけて、
『見ろ、あの田舎者が、飲みつけぬ酒を喰らったので、まだあぶあぶやっている』
『いい手際てぎわだった』
『あははは、今夜あたりは定めし冷たかろうなあ』
 狭い屋形船の中に、灯は華やいでいた。酒もあるおんなもある。そして客は五人程の旗本で、直参じきさんでない者は、その中に小山田庄左衛門一人だけだった。
『雄之助様、これでもういつかの晩の、御鬱憤ごうっぷんは晴れたでしょうな。同時に、それがしが決してあなたを裏切っていない証拠も見て戴いたと思います』
 その庄左衛門が、杯を洗って、旗本の中の一人へすと、美服につつまれた色の小白い織田雄之助は、
『いやいや、すっかり胸が晴れたと迄はゆかぬ。もひとつ、晴れねばならぬものがあるぞ』
 と、次男坊らしい物云いで、左右にかぶりを振って見せた。


春待つ家



 数右衛門はもうあの事を口にはしなくなった、小山田家へもそう行かない、大いに慎んでいるわけだった。それだけに又、彼のみの心理としては、前より強く、胸の中で独り楽しみを暖めている傾きもある。
『なぜか、此頃あまり、あれを云わなくなったぞ』
 わざと、話しかける同僚もある。でも数右衛門は、お千賀のことはける。そして唯、へらへらと笑う。
『おめでたいというのは、数右衛門のような人物のことだろうな』
 陰のうわさは、少しも彼に反映しない。眼で見ても、物事を疑うとか、疑ってみようとかしない彼であった。
 隅田川の災難も、過失かしつだと思っているのだ。むしろ自分の不覚――恥とさえ思って慚愧ざんきしているくらいで、あの折の屋形船の中に、庄左衛門や雄之助が、自分の苦しみをながめて、酒のさかなにしていたなどとは、彼の性格では、そう人が教えてやっても、嘘だというに違いない。
 けれど真実は結局、誰か真実を見ている。至って、友達のなかった彼にも、
『いや、あれには、いい所がある』
 と、次第に親しみを加える者が、いつとはなく藩邸の中にも幾人かは出来てきた。
 押しつまって、御用仕舞じまい年暮くれの廿五日。
 藩邸の御長屋で、数右衛門並みの同僚ばかりで十四、五名で、持ち寄りで一酌やった。
 その時一人が、数右衛門をつかまえて、おれは貴様の友達だからこそ云うのだぞと、酒の上のみではない熱意をもって聞かせた。
 小山田家のお千賀どのは、この年暮くれの三十日に、織田家へ輿こし入をする。もう、結納ゆいのうもすみ、あの家では、初春はるの支度で、花嫁の準備で、友禅ゆうぜん小布こぎれや綿屑わたくずが、庭先に掃き出されてあるのでもそれが分る――と、云うのだった。
『そんな筈はござらぬ』
 数右衛門は、がえんじない。
 だがさすがに、すこし不安な色も見せて、
『つい先夜も、拙者は、一閑殿を訪れて、晩くまで飲み合ったのだ。お千賀どのも、何も話は御座らなんだ』
 と、云う。
『では何か。貴公は、一閑どのなり、又お千賀どのなりと、何ぞ固い約束でもなされた事があるのか』
 友達がただすと、
『うんにゃ』
 と、数右衛門はかぶりを振って、そんな口約などはしてないが、自分の肚はきまっているし、お千賀どのも、自分が望めば、嫌という気づかいはないのだと、どこまでも云い張る。
『こうなると、むしろ不憫ふびんだ』
 友達は、彼を前にさし置いて、露骨ろこつな顔を見あわせた。
『じゃあ、すっかり話して聞かせた方がいい。数右衛門と来ては、まるで世間も、女というものも、知らないのだから』
『云おうか……』と、友達共は、引導いんどうでも渡すように、彼を囲み直して、
『だめだよ、諦めろ』
 と、宣告した。
 その打明け話によると。
 織田家の方では、其後も、少しも手を緩めずに、婚儀のはなしを進めていた。蠣浜橋での乱暴を、織田家の方から、かえって人を介して、謝罪してくるし、又、多年積もっている小山田の親戚先の負債まで整理してくれるやらで、さしもの頑固な一閑も、すっかり我を折ってしまい、先頃、和解と結納が一緒に済んで、藩庁へも、婚儀の届出がもう差し出されているというのである。
『――数右衛門、これでもおぬしは、お千賀どのを、妻に持つ気か。持てるとまだ思ってるか』
 数右衛門は、腕拱うでぐみした儘、自分の頭を、畳の中へめり入れるように、俯向うつむき込んでいたが、やがて少しめかけた顔を持ち上げると、
『何、持てないとは思わない』
 と、答えた。
『え?』
 っ気にとられた友達の顔を下にいて、彼は起ち上っていた。
『まだ、分らぬ。まだ、お千賀どのの、心というものがござる。その心を、誰が知ろうぞや』
 彼は先へ出て行った。残った連中が、後から出て行って、帰りがけに数右衛門の長屋の戸を隙見すきみしてみると、数右衛門は蒲団ふとんの中にもぐって、高いいびきをかいていた。
『――あいつは倖せ者だよ、まだ疑わないのだ。結句けっく、あのほうが人間は気安いなあ』
 かえって彼等は、数右衛門を羨しく思って寝た。


竹垣根



 もだえがなければ数右衛門には恋がないのだ。然し、彼にはやはり彼なりの悶えがあった。その悶え方は、かえって、悲壮な顔や、憂鬱ゆううつな眉のできる人間よりも、強いものかも知れなかった。
 数右衛門のは、それがいきなり行動として出てしまうものだった。この三、四日は、多少むッつりしていたが、べつだんな様子もなかったのに、三十日が輿入こしいれと聞いた――その前夜の二十九日、真夜半まよなかだったが、何思ったか不意に蒲団をね退けて、
『そうだ、お千賀どのの、心のほどは、誰にもわからぬ』
 ぷいと、外へ飛出した。
 もう門限で、藩邸は裏門ともに閉まっている。だが門番とは日頃仲がよいし、又彼は正直に、事情を訴えて頼んだので、門番もそっとすきを作ってくれた。
『夜明け前には帰る』
 そこを出ると、数右衛門のあしは早かった。小山田の家は、そう広くもなく、勝手は充分知りぬいている。表は、門もへいもあったが寺隣りの庭の横に、竹垣根の一部があった。彼は難なくそこを越えて入った。
 明日は花嫁として、他家へ輿入する女性の部屋へ、深夜、外部から戸をこじ開けて訪問するという事が、どんな非常識であり罪悪であるかを、彼は、そうふかく自分に咎めなかった。がたがたと戸に手をかけている間も、数右衛門の眼には、いつも自分に会えば微笑ほほえむ彼女の顔しかなかった。こういう方法に出たのは、もう一閑だの庄左衛門だのを通して聞くよりも、彼女自身の口から、かに聞くべきだと思ったからである。一閑や庄左衛門には、侍として、云い難い気持も、お千賀へ向ってならば、自分も云えると思ったからである。
 ――当然、彼の物音に、部屋のうちの者は、すぐ眼をさました。
『あっ……誰じゃ』と、女の声が中でおののく。
『お千賀どの。――拙者だ、数右衛門でござる』
『げっ……』
 慄然りつぜんと、障子へれて起ったような絹摺きぬずれが、戸を隔てた外にまでれた。
『あっ、お静かに。――お千賀どの、静かに』
 そのくせ、数右衛門の仕方は少しも静かでない。一枚の戸を、がたがた揺すって、外へはずし、のっそり入って行こうとすると、
れ者ッ』
 ――びゅッと、胸いたへ向って、手槍の光が、闇の中から飛んで来た。
『しまったっ』
 後ろびに、庭へ跳ぶと、
『この痴れ者ッ』
 と、槍は彼の影をけ廻して、離れなかった。
『やあ、待たれい。庄左衛門殿ではないか。数右衛門でござる』
『だまれっ、不埓ふらちな』
『何が不埓』
『その無恥、もうゆるさん』
『お千賀どのに、胸の底を、問いに来たのじゃ。お千賀どのを、これへ呼んでくだされい』
『ば、ばかっ!』
 庄左衛門は、声のつぶれるほど、いかって呶鳴った。
『あれ程、いつかも申したのに、まだ性懲しょうこりもなく、妹の後を追い廻すか。犬のようなやつだ、武士か、それでも』
 数右衛門のつて人にけがされる事をゆるさないものに、その口汚いつばが、ぴりっと触れたらしかった。
『何ッ、もう一言申してみい』
 蒼白の顔から、髪がさっと立った。
『犬のようだと云ったのだ。小山田家には、犬にくれるような娘はおらぬ』
『云ったなっ』
 数右衛門は、相手の槍を引ッくった。そして、庄左衛門の体を振り飛ばすように振ッて、
『なんだ、犬に獲物を奪られて、それでも武士か』
 力まかせに、槍の柄で、相手の背ぼねをたたき伸めし、その槍を、お千賀の部屋の中へ、ぶんと抛り込んだ。
『わかった。売女のように、金や権門けんもんに買われてゆく女だったのか。……ベッ、ベッ、もういい、胸がいた』
 一目散に、その儘、数右衛門は藩邸の長屋へ帰って来た。足を洗って寝床の中へ潜り込んでいた。するとやがて、
『卑怯者っ、怖いのか』
『数右衛門、出て失せい』
 と、門口で云いののしる者がある。追いかけて来た小山田庄左衛門と、その父の一閑なのだ。声高に家の中へ呼ばわりながら、大刀を反らして柄を叩くのだった。


うまや悍馬かんば



 喧嘩だという声が御長屋の隅々すみずみまですぐ鳴り渡った。藩邸なので、表役人や門側の番士なども駈けつけて来る。
『何の意趣いしゅがあって、他家へ嫁がせる娘にあらぬ悪罵あくばを浴びせたのみか、娘の部屋へ忍び入ったか。その返答を承まわろう』
『家名に代えても、数右衛門のくび申し受ける。云い条あらば、これへ出て、武士らしゅう云ってみよ』
 小山田父子おやこの周りには、何事かと驚いて起きて来た人々が、真っ黒にたかって、なだめたり、理由をいたり、かえって怒られたりして、ごった返していた。
 どうして又、数右衛門が藩邸を出たか、門番の責任を云い出す者があるし、老臣を迎えに駈ける者があり、屋内へ入って、数右衛門に何か詰問している同僚たちもある。
 ほのかに夜は白みかけていた。
 内匠頭たくみのかみは、早起だった。いつでも、うまやに気の荒い愛馬の脚ひびきがし出す頃には、風呂ふろ所から上って、祖先の仏間に礼拝しているのが常である。
 その間に、夫人は、竹荘ちくそうと呼んでいる奥殿の離室はなれで、静かに朝茶の釜をにかけている。その釜の湯のたぎる頃――内匠頭の庭下駄の音がそこへ近づいて来る。
奥方おく、何であろうの』
最前さいぜんからさわがしい声がいたしまする』
『長屋じゃの、若侍どもが、何かいさかいを初めたか。……宿直とのいは誰じゃ』
『源吾でございました』
『茶は、後にしよう』
 佩刀はかせを持った小姓こしょうは、彼の早い足の後から小走りにいて行った。
 内匠頭は、書院のえんに立った。
『源吾、源吾』
『はっ』
 ゆうべの宿直とのい、大高源吾は、縁端えんはしに手をつかえて、内匠頭の眉を見上げながら、
『お耳にさわりましたか……』
 と恐懼きょうくした。
『誰じゃ、あのわめきは』
『小山田一閑父子でござりまする』
『喧嘩じゃの、隠居が、何しに又、伜と共に、あのように立腹いたしているのか』
『……はっ』
『相手は誰』
『不破数右衛門でござります』
『ウム、あれか――』
 と、内匠頭は、苦笑を閉じるようにくちをむすんで、
『数右衛門ではめずらしくない事だ。……源吾。そちにも、云い含めておいたはずではないか。ちと、あの粗暴そぼうめ直すようにせいと』
御意ぎょいもござりました故、一二度、俳諧の席などへも誘いましたが、いっこう風雅などは、心にもそまぬ様子……。それに、数右衛門の数右衛門たるところは、やはり野育ちの素白な性質――あの浪人骨のぶとい所にあるやに存ぜられますので、実は、其後は抛って置きましたわけで』
『そうも云えるのう。……何じゃ、まだまぬようではないか。理非りひはいずれにもせい、藩邸の内で、双方とも不作法千万、見てまいれ』


宵の上汐あげしお



 聞き役は、源吾が聞き取った。双方の申し分はそのまま、源吾から内匠頭の耳へとどいた。
(……困った問題が)
 という顔は、裁決を待つあいだの、源吾の面にだけあるもので、内匠頭は、さほどな態でもない。
 脇息きょうそくに倚って、しばらく、沈吟ちんぎんはしていたが――。
 何っ方も、藩士である、可愛い家来なのだ、傷つけたくない。そういう気色は見られる。
『――こう沙汰せい』
 裁決はついた。
 内匠頭のむねをうけると、源吾は、君意を奉じて、てきぱきと申し渡した。
『きょうは、御息女が輿入の当日であろうが。遠慮のう、華典かてんの儀、運ばれるがよい。庄左衛門にも、妹の祝日とて、特に何らのお咎めはない』
 一閑は、やや不服な色を、眉にあらわした。庄左衛門にも特におとがめなし――と云う沙汰は、庄左衛門に何かとがあるように耳へひびいたからである。
 だが――親の慾目でも、それへ触れてゆくのは、後ろめたかった。自分の知らない不埓がありそうにも思えるのである。――然し老人のくせで、何もいわずに引き退がれなかった。
『して、相手方の、数右衛門は何うなりましょうな。その次第に依っては、一閑の皺腹しわばらしても、娘の汚名を洗わねば、他家へ白無垢しろむくは着せてやれませぬが』
『――不届き者と、ことのほか、殿にも御立腹である』
『それだけでお座ろうか』
御折檻ごせっかんの為、即刻、転役仰せつけられた』
『又、お国表の方へ』
『いやいや、先頃より松山城の城受取り方の公命が当藩に下っておる。その為、お国表から、大石内蔵助殿が御人数を率いて四国へ渡っておられる故――その方へ、差廻さしまわされることになった』
『何の御勘気もなく』
 源吾は、改まって、
『御隠居、あなたも若気の御子息をお持ちのことだ。今までも今迄、この先も猶どのような事が起るまいも限らぬぞ。――余りその辺のお沙汰には、論議なさらぬ方がお為ではなかろうか』
『いや、お上のお沙汰でござった。今のことばは、子葉殿として聞いておくりゃれ。……どれ、今日はせわしゅうござれば』
 老人も源吾の言葉の裏を読んで、あたふたと、引取った。
 もちろん、その晩の婚儀は万端運んでいる様子だった。
 それにひきかえて、数右衛門は長屋の一室に、平日の面影おもかげもなく、俯向うつむいたきりでかしこまっていた。殿のお沙汰がやがて下るし、深くお咎めないらしいから、そう恐縮していないでもいい、心配せずといいと、同僚が代る代る慰めに来ても、彼は、
『うむ。うむ……』
 と、頷いてみせるきりで、やはりかしらを垂れた儘、畏っていた。
 午頃、お表へ呼び出された。
 殿のおことばであるぞ――と何日いつもの源吾とはまるで違った人のように峻厳しゅんげんに云い渡しがあった。
『至急、松山城外にある大石殿の手元まで、殿の御秘札ひさつ一通をたずさえて、急使の役、仰せつけられる。御用済みの上もお沙汰あるまで、出先大石殿の手にいて在役の事。よろしいか、数右衛門、あい分ったか』
『はっ』
『御書状、粗末にすまいぞ』
 と、殿墨付一通を渡されて、数右衛門は夢心地に引き退がった。
 すぐ旅支度。
 そう伝え聞いて、彼の同僚たちは、彼の住居へどやどやと押しかけて、餞別せんべつを渡しながら、凱歌がいかをあげた。そして口々に、
『数右衛門、女はいくらでもあるぞ、あんな女に、未練を持つなよ』
『いくら庄左衛門や一閑が、貴公の不埓を云い立てても、その儘、受け取られるようなお上ではない。今度の縁組も、小山田の一家が、金に眼がくらんで運んだ事、又、相手の家門にびている事、おそらく、殿にもその辺の彼等の心情は、憎んでおられるにちがいないのだ』
『庄左衛門の行状など、分っている限りのことは、吾々からも、源吾殿を通じて、お耳に達してあるしな』
『はははは。ざまを見ろというものさ。――今宵こよいの婚礼などには、この通り、誰も列しないつもりだ』
 と、言葉の餞別も、にぎやかだった。数右衛門は、黙々として、藩邸を出た。非番の者だけが十二、三名、れい岸島まで見送ると云って、彼と一緒にぞろぞろと肩を押し並べてゆく。
 海路、摂津せっつから四国へ行く便船は、こよいの八刻やつの上げ潮にともづなを解くというので、夕方の船着場は、積荷や客の送別で雑閙ざっとうしていた。
『早かったなあ』
『ウム、ちと早かった』
『ちょうどよいではないか。数右衛門の行を祝って、どこかで別盃べっぱいむには』
 近くのいそ茶屋で、そのまま歓送の宴が張られた。遅れせに見送りに来た藩士も加えて、人数はいつか二十名近くにもなっている。
『あっちの婚礼に負けるな』
 と、酒がまわると、誰かが云い出して、誰の歓送やら日頃の鬱を晴らすやら分らない騒ぎになった。数右衛門も初めは浮かなかったが、さかずきが重なるにつれて、ぽっといつもの顔になり、しまいには、国許で大野九郎兵衛から譴責けんせきを喰ったお囃子はやし真似まねや、裸踊りまでやり出して、江戸詰の人々との、当分のあいだの惜別も遺憾なかった。


奈落ならくさが



『船が出るそうでございますから、そろそろ、お支度遊ばして』
 茶屋の女中は、少し早めに、そう告げて来た。
『まだ、まだっ』
『もっと持って来いっ、酒を』
 云う者もあるし、又、
『いやもう止めい。乗りおくれては一大事。殊に、殿の御書状を持っているのだし――それも何か、お急ぎの御用らしい』
『いくら急いでも、着く船は、着く日にしか着かぬぞ』
『まあいい。――おうい、数右衛門殿、貴公はもう身支度をしたがよいぞ』
 数右衛門は、その前から、席を起って、支度にかかっていたが、何か探すように、帯を振ったり、ぜん退けてみたりして、うろうろしているていだった。
『数右衛門。――何をしているのじゃ、何を』
『うむ……。無いのだ』
『何が?』
『殿の御書面が』
『えっ』
『立ってくれ』
『ほんとか、おい』
たしかに――こう懐中ふところ慥乎しっかと――肌につけていたつもりだが』
冗談じょうだんではないぞ数右衛門。お墨付を失ったりしたら、一閑に尻を持ち込まれた位な事ではすまぬぞ』
『ウム……そこを退いて見せてくれ』
『今、見たよ。……切腹ものだぞ、数右衛門』
『なければ、切腹だ』
『そう平気なつらをして云うなよ。おい諸公、われわれだって、多少困るぞ』
『多少どころではない。これは大変な事になったものだ。すっかり、座蒲団ざぶとんを上げてみい』
『まさか、君公のお手紙を』
『でも、念の為だ』
 皆、顔いろを失った。
 酒の酔も、一しゅんに、消えてしまった様子。
 船の出るのももう間があるまい。車がキリキリと闇の空にさけぶ。
『どうしたものだ!』
 ただ数右衛門がここで腹を切ったからと云って、それで済む問題でない、第一、松山への使命が遅れる。
 数右衛門は、悄然となった。まったく彼の影は、一瞬いっときの間に細く見えた。――つくづく奉公人の器でない事を、今更、自分で知ってほぞを噛むのだった。

涙笑流々相るいしょうるるそう



 もう探しあぐねた。それでも無いのである。
 みにく狼狽ろうばいはもうよそう。
(お詫びだけだ!)
 と、密かに肚をすえた。
 彼は、墓場のような今までの部屋をそっと出て、あかりはないが、川沿いの一室が空いていたので、そこへ入った。
 そっと、あとからいて来た一人は、彼がそこへどっかと坐って、脇差わきざしに手をかけようとするのを見ると、
『待てッ、ま、待てっ』
 と、必死で抑えた。
『――今、御一同が、とにかく藩邸へ駈け戻って、ありまま、源吾殿まで、御相談に参った。死ぬにしても、それからにせい。それからなら、われわれも止めはせぬ。われわれとても、お咎めを待たねばならぬ』
 数右衛門は、やや落着いて、
『そうかなあ……』
『そうしてくれ、そうしてくれい……。あっ? ……ひづめの音、藩邸からもう早馬だ。数右衛門、必ず待ってくれよ』
 ばたばたと、廊下へその同僚が出て行くと、すぐその者を案内して、藩邸から駈けつけて来た大高源吾が、息をきりながら入って来た。
 源吾は、彼のすがたの無事を見ると、ほっとしたように、すぐ上意を伝えた。
『数右衛門、そちは何処まで倖せな者であろう。殿のお言葉には、そちに託した一札は、御書面ではなく、お手近の文庫より見出された松山城の絵図面であるとの仰せ。――松山城に城受取りの任を帯びて出向いておる内蔵助殿にとって、何かの参考にもなろうかと、そちをつかわすついでにお托し遊ばされたのじゃ。お墨付ではない。従って、失うた粗骨は不届きなれど、反古ほご一枚で、人命一つを失うては、なお勿体ないと、有難いおことばだ。――反古と仰せられたからには、もはやおゆるしと承知してよかろう。遅滞ちたいせずに、すぐこの便船で出立しゅったつせい』
『…………』
 数右衛門は、何と云ってよいのか、到底、言葉には、胸いっぱいの感情を――その一端でも、あらわす事はできなかった。
『……か、か、かたじけのう御座りまする』
 嗚咽おえつの中に、やっと、それだけ云うと、顔をそむけ、がばと畳に顔をつけてしまった。彼の泣き方も、野人そのものだった。とめどなくしゃくり上げて、※(「さんずい+鼾のへん」、第4水準2-79-37)はなみずをこぼしている。そして慌てて、たもとから※(「さんずい+鼾のへん」、第4水準2-79-37)紙を探し出して※(「さんずい+鼾のへん」、第4水準2-79-37)をかみ、又、涙もそれで拭いた。
 一人が、行燈あかりを持って来たが、その態に、遠慮して、部屋の隅へ遠く置いた。
 ――まだ数右衛門は、泣いていた。君恩の大と、身の不つつかが、口惜しく考え出されて。
 源吾はふと、彼が、涙の眼に当てている※(「さんずい+鼾のへん」、第4水準2-79-37)紙へ眼をとめた。
『……や? 数右衛門』
『…………』
『これ、そちが今、たもとから出して※(「さんずい+鼾のへん」、第4水準2-79-37)みずをかんだその紙は何じゃ』
『えっ? ……』
 源吾は濡れてくしゃくしゃになった※(「さんずい+鼾のへん」、第4水準2-79-37)紙を、顔から離して、じっと見ていたが、突然あっと跳び上った。
『あったっ。――御書状がここにあった』

        *

 所詮しょせん、ぶとい浪人骨は、親ゆずりのもので、われながら何うにもならない。その不束ふつつかな不奉公を以て、高禄をむのは心ぐるしくてならないから――という一書を、内蔵助に残して、不破数右衛門は、その後、松山城受取の藩の大任がすむと程なく、赤穂にも江戸にも、その姿をかくしてしまった。
『惜しい』
 と、云った者が多かった。
 けれどそれから六年後、内匠頭の兇変きょうへんがあって、浪士の盟約が密かに結ばれた頃、彼はどこからともなく、のっそりと現われて、大高子葉、潮田うしおだ又之丞の二人を介して、義挙ぎきょに加わった。
 浪士四十七名のうち、内匠頭が生前中からの浪人として、義盟に名を連ねた者は、彼一人だった。いや真の浪人骨のぶとさを持った人間も、彼一人だったと云ってよかろう。
 小山田庄左衛門は、世皆知るとおり、討入の直前に脱走して、彼らしい気働きばたらきから、不義士の名を百世に買ってしまった。
 一閑は、それを聞いて、憤死ふんしした。織田家へ嫁いだお千賀も、とかく不和で、数右衛門をどう思っていたか、それも語らずについ終ってしまったらしい。
(昭和十三年一月)





底本:「吉川英治全集・43 新・水滸傳(二)」講談社
   1967(昭和42)年6月20日第1刷発行
初出:「サンデー毎日 新春特別号」毎日新聞社
   1938(昭和13)年1月
入力:川山隆
校正:門田裕志
2013年10月6日作成
青空文庫作成ファイル:
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