新書太閤記

第九分冊

吉川英治




偽和ぎわ


 越前はもう積雪の国だった。
 雪となり出すと、明けても雪霏々ひひ、暮れても雪霏々、心を放つ窓もない。
 が、きたしょうの城廓は、この冬、いつもの年よりは、何か、あたたかいものがあった。
 おいちかたと、連れ子の三人の姫たちが、本丸に近い一廓に住みはじめていたせいであろう。
 めったに、お市の方のすがたは見るを得ないが、三人の姫たちは、限られているつぼねの中だけにじっとしていなかった。それに、姉の茶々が十六、中の妹が十二、末の妹が十という――木の葉が落ちてもおかしがるほどな――いわゆる乙女ざかりなので、その笑い声がたえたことがない。折には、本丸のほうまで明るく聞えてくる。
 それにひかれて、勝家はよくつぼねへ渡った。そして彼女たちの明るい中に、屈託くったくの多い心を一時でも忘れようとした。けれど、勝家がそこへのぞむと、茶々も初姫も、末の姫も、いいあわせたように変な顔をしてしまって、ホホともケロとも、笑わなかった。
 ――何しに来たんでしょう。
 ――こわらしい小父様。
 ――はやく帰るとよいに。
 はとみたいな眼を見あわせて、暗にそうささやき合っているような容子ようすだし、お市の方も、名玉めいぎょく香炉こうろのごとく、端厳たんげんとして、飽くまでうるわしくはあるが、ひややかに、
「いらせられませ」
 と、わずかに、銀の籠目かごめ火屋ほやを掛けた手炉の端をそっとわかつぐらいなものだった。
 久しい過去の主従の観念がまだどこやら除き切れずにあった。お市の方にもあり、勝家にもある。
「初めて見るこしの大雪に、寒さもわびしさも、ひとしおでおわそ」
 勝家が、なぐさめると、
「さまでには」
 と、お市の方は、わずかにおもてを振って見せたが、やはり暖地が慕われるのであろう。
「越の雪が解けるのは、いつの頃になって――」
 と、外を見やりながら訊ねた。
岐阜ぎふ清洲きよすなどとちがい、彼の地に、菜の花が咲き、桜も散る頃になって、ようやく、野や山が、斑々まだらまだら雪解ゆきげしてまいる」
「それまでは」
「毎日、このようなもの」
「解ける日ものう」
雪千丈ゆきせんじょうじゃよ」
 終りの一語は、吐き出すような響きだった。こんな話は、勝家に何の興もないのである。
 のみならず、越路の雪の長さを思うと、彼の胸には、千丈はおろか、万丈の恨みが悶々もんもんとふり積った。かくて寸閑も女子供など相手に晏如あんじょとしていられないものにわれ出すのであった。
 そこに姿を見せたかと思うと、勝家はまたすぐ本丸へあるいていた。小姓どもをしたがえて、吹雪する渡殿わたどのの廊を大股にゆく後ろでは――もう三人の姫たちの声が、嬉々ききと、つぼねの縁へ出て、雪へ戯れかけるように、越のうたならぬ、尾張の歌をうたっていた。
「…………」
 勝家は、振向いて見る気もしないようだった。本丸へ来るとすぐ室へ入る前に、
「五左衛門と五兵衛とに、急いで、まいちどの部屋へ、参るように云ってこい」
 と、小姓の一名へいいつけた。
 小姓の姿は雪明りの大廊下を、光もののように寒々と走って行った。
 加賀大聖寺だいしょうじの城主、拝郷はいごう五左衛門家嘉いえよし、石川郡松任まっとうの城主徳山五兵衛則秀のりひで、ふたりとも、柴田譜代ふだいの重臣だし、勝家が股肱ここうの老職たちだった。
「昨夜来、熟議じゅくぎして、とりきめたことだが――前田への使いは、はや出してしもうたか」
 勝家の言だった。
 五左衛門がいう。
「御書面をもたせ、先刻、七尾ななおへ向って急がせましたが」
 それに云い足して、五兵衛則秀も、
「……何ぞ、お云い残しでも」
 と、顔をうかがった。
 勝家はだまってうなずいた。
 しかし容易に、次の口は開かなかった。なお何か、思いまどうものの如く――
「使いは出たか」
「出ました……が?」
 老職に、在城の一族も加え、昨夜来、熟議されたことは、かなり重大らしかった。
 対秀吉との問題である。
 はらはきまっている。受け身ではなく、積極的にだ。
 で、ここ北ノ庄は、その予備工作に向って、八方画策かくさくの秘策を施しつつ冬に入ったのであった。伊勢の滝川一益をしては、辺界の小城小城を余すなく結束させ、神戸信孝かんべのぶたかの手からは、蒲生氏郷がもううじさとを説かせ、丹羽長秀へ加担かたんの申し入れ、また、勝家自身としても、遠く東海の徳川家康へ音信して、それとなく家康の意中を打診してみるよう、昨今、備後びんごともにありと知った足利義昭あしかがよしあきへも使いを派し――この古物の野心家をうごかして――いざの場合、毛利をしてふたたび秀吉の背後をおびやかさしめんなど、几案きあん作戦は、おさおさ怠りないものがあった。
 けれど、惑星わくせい家康の反応は、可とも不可とも、全く不透明である。義昭の多情はそそのかすにやすいが、毛利、吉川、小早川という三家鼎立さんけていりつから成る大勢力が、たやすく自己へ傾いて来るような公算は取りきれなかった。しかのみならず、信孝から当ってみた蒲生氏郷父子は、秀吉へ随身を明らかにし、丹羽長秀は、
(いずれも、故主の遺臣、柴田どのへもくみし難く、羽柴どのへも合力ごうりきいたしかねる。それがしには、三法師君あるのみ)
 と、これはていよく、中立を云いたてて、それ以外、答えない。
 こういう間に、京都では、秀吉施主のもとに、盛大未曾有みぞうの信長法要が着々と行われ、為に、全国の人心は一時そのことにあつめられたかの如きかんをなしたし、それに伴う秀吉の中央的存在と名声とはいよいよもって、北辺に自負する豪強勝家をして、なすべきことの“断”と“急”とを思わせて来たのだった。
 が、如何せん、越前の山野は、鬼将軍の夜も鏘々しょうしょうと鳴る心事に反し、十月末はもう白皚々はくがいがいの雪、意はうごかし得るも、軍はうごかすよしもない。折から、
(明春、雪解ユキドケヲ待ッテ、大事一挙コソ上策。ソレマデハ、秀吉ト和セラレ候エ)
 と、滝川一益の密書はすすめて来たのであった。勝家も、よしとした。そこでゆうべから、老臣一族と協議して決したことも、実に、この問題だったのである。
「何か、又左どのへ、お云い足し遊ばしたいことでもあるなれば、追いかけに、早馬など飛ばせましょうか」
 老臣ふたりは、勝家の案じ顔へ、かさねてそういってみた。
「さればよ」
 と、勝家は初めて、ふたりの者へ、迷いをはかった。
「秀吉へ、和議を云いやる使者として、が腹心の不破彦三、金森五郎八の二名に、前田又左衛門利家を添えてつかわそうとは……これはもう協議の折、とりきめたことじゃあるが。……さて、どうあろう?」
「どうあろうとは」
「又左という男じゃよ」
「お使いの向きに、御不安でもござりますか」
「あれはの、勝家がもっともよく知っておるが、秀吉がまだ下賤の頃から、夜遊びの放埒ほうらつにも、家と家との間でも、縁者同様、親しゅう交わっていた仲じゃ」
「それは聞き及んでおりまする。信長様が安土あづちに御普請ふしんを起された頃にも、秀吉と又左どのとは、垣を隣りして、仮屋敷をもち、夏など、ふんどし一つで、両人が夕顔の下にむしろをのべ、高笑いして、夕餉ゆうげなど一つに喰べていた様を、よくわれらも見かけ申したことでござりました」
「そういう仲ということもあるし、かたがた、又左衛門利家というものは、われら宿老よりは、末輩に相違ないが、何というても、織田家の直臣じゃ。羽柴、池田、蒲生、佐々などと同列の遺臣のひとりじゃ。久しく、北国の陣にあって、この勝家の麾下きかに属しおるも、要するに信長公の命によって、柴田軍の一翼に参じおる者。――これを今、猿めの所へ、使いとしてやるは、果たして、策を得たものか、どうじゃ。……実は、後になって、その辺がふと案じられて来たので、急に、まいちどその方どもにはかってみるわけじゃが」
「ご心配はございますまい」
「ないか」
毛頭もうとう
 拝郷五左衛門は云った。
「又左の所領、能登のと七尾ななおの十九万石も、子息利長の領地越前府中の三万石も、共に、御当家の領国と、われら腹心の者の城々に囲まれておりまする。秀吉とは、地勢の上で、左様に絶縁されております上に、彼の妻子眷族けんぞくは、いやでも府中と七尾にのこして参らねばならぬこと――。それは、御杞憂ごきゆうにすぎないかと存ぜられます」
 徳山則秀も、それに同意して、
「御主君と又左殿との間には、今日までの長い戦陣中にも、まだただの一度でも、御不和の見られた例はありませぬ。――むかし清洲の若ざむらい仲間に、犬千代といわれた頃の前田どのは、名うての乱暴者で聞えていた人でしたが――変れば変るもの、近頃は、律義人りちぎじんといえば、又左どのか、実直人といえば、前田どのかと、すぐ人もうなずくほどに信ぜられておりまする。されば、このたびのお使いには、むしろ打ってつけの適任者ではござりますまいか」
「……なるほど」
 そう聞けば、そういう気もしてくる。勝家は、自分の迷いを、迷いに過ぎなかったかと、その後では笑った。
 しかし、この一策にして、もしまずい結果にならんか、事態は、急悪化する。しかも、雪国の軍は、明春まで、動かせないとなると、何よりは、岐阜の信孝の孤立化と、伊勢の滝川の分裂などが、大きな不安となってくるのであった。
 故に、この使いは、重大中の重大だった。そのうちに、日ならずして、前田利家は七尾城からこれへ来た。
 又左衛門利家は、左眼がつぶれている。これは若いときからのものだ。
 秀吉よりは一つ年下であったからことし四十五のわけだ。戦陣の風雲が人をみがくことはひどいものである。一眼のない容貌まで、どこか沈剛ちんごうな風格のひとつになっている。
「こん夜はひどく御優遇でございますな」
 北ノ庄に着城の晩。
 彼は、勝家の歓待かんたいをうけながら、その歓待の過分に笑っていた。
 初め、座にはおいちかたもいて、勝家夫妻で彼をもてなしたが、利家は、
「われら武辺者の、すさまじき酒の座に、寒夜のおはべりは、お辛くおわそう。われらもちと窮屈、どうぞお室へ」
 と、いて奥へこもるように云ってひきとらせた。
 勝家は、遠慮とのみ、解していたが、利家の気持では、亡き信長にどこかやはり似ておわすと思われるお市の方が――所も遠い北国の城廓に、今は、勝家の夫人となって、この又左衛門利家ずれの酒席に侍しおられるかと――その心のうちを思いやると、胸もいたみ、盃のふちも冷たくて、酔い心地にもなれないのであった。
「さすが、よく参るの。したたかとは、承知していたが」
「酒ですか」
「おいの」
「はははは」
 利家は、片目を燭にしばだたいて、浩然こうぜんと笑った。
 痩身の方だが、肩胸幅はひろく、薄手な美男型の容貌であるが、鼻ばしらと口の大きいのが目立つ。それにもみあげの毛がもじゃもじゃと長いのもこの人の特徴に見えた。
「たしか、筑前は余り、けなかったの」
「筑前。ああ、あれは弱い。すぐ赤うなって、酒には意気地ござらぬ」
「が、若い頃は、ずいぶん彼とは、夜歩きを共にされたらしいが」
「いや遊ぶにかけては、あの猿冠者さるかじゃのほうが、飽きもせず、達者でおざった。此方は飲むばかり、飲めばどこへでも、他愛のう寝てしもうたが」
「近頃も、筑前とは、よほど御入魂ごじっこんなことであろうの」
「いやいや。世に、遊び友達などというものほど、あてにならぬものはおざらぬ」
「左様かなあ」
「柴田どのには、お覚えはないか。若い頃には、誰でもある。飲む、喰う、唄う、夜を歩き明かす。そういう時の友達は、手で首をからみあい、親兄弟にも語らぬことも打ち明けなどして、真底の交わりとも、その時は思うが、時経ち、互いに必死の世の中へ働き出し、やがて主をもち家をもち妻や子まで持つにいたり、久しき後に相見るなれば、部屋住み頃の心とは、双方が甚だちがうものでおざる。――世をる考え、人を観る眼、すべての思想も、以後育って、以前の彼に非ずわれに非ず、ただむかしの如く軽んじ合うことのみ残されるからでおざろう。――真の、心契しんけいの友、刎頸ふんけいの友というものは、やはり艱苦かんくの中で知りおうた者でなければ生涯をちぎられますまい」
「それはちと匠作しょうさくが思いちがいいたしたわい」
「何をな。修理どの」
「いや、おもとと筑前とは、もっと深い交わりと存じ、おり入って、一事を托し申したいと思うたが」
「筑前との喧嘩なら、利家、一番槍は御免こうむる。和談なれば、先陣なとおひきうけして見しょうが……。事はちがいますかな」
 利家は、云いてた。――どうです。そういわぬばかりだ。盃をあげながらみをふくんでいる。
 どうしてそれが彼に漏れたか。勝家はどぎまぎした眼をみはった。――が、よく考えてみると、最初から筑前筑前と話題に出しては利家を試していたのは自分だった。能登にいても、隅にはいない利家である。中央の情勢にも通じ、自分と秀吉とのいきさつにも明るいこの人間が、しかも自分の不時ふじな招きをうけて、この雪中を物ともせず、早速にやって来た以上、それくらいな洞察力どうさつりょくもない者と観るのは、こちらの見方が甘すぎていたかもしれない。
 勝家は、その反省の中から、利家という者を、もういちど見直すことを余儀なくされた。――将来もいよいよ大事な一翼として、自己の陣営のうちに、この有力な味方を抑えて置くために。
 元々からの部下ではない。――勝家が利家に接する今の気持はすべてがこれに根柢こんていをなしている。
 佐々成政さっさなりまさもそうであるが、前田利家もまた、そもそもは、信長の命によって、勝家の麾下に配属されて来た一軍団であった。――で、過去五ヵ年にわたる北陸攻略では、当然、勝家は利家を指揮下の一部将と見なし、利家は勝家を、北陸探題の総大将と仰いでは来たものの、さて今日、その信長が死去してみると、この関係は、このままあり得るものか否か。大きな疑問である。いや不安であるといったほうが、より勝家の感情に近いであろう。
 殊には、故信長も、於犬於犬と呼んで、犬千代のむかしから、織田の人材中でも、一器量として、愛重あいちょうかなかったほどの人物である。――
 勝家が、その上の宿老たり総司令であったという重さも、帰するところ、信長という主体あってのことで、それなくして、単に、武門の一将と一将、人間と人間という対比に返って接してみると、これは以前とだいぶ感じがちがって来ないわけにはゆかない。
 前田又左衛門利家という人間の重さは、やはり信長なればこそ、於犬於犬と、軽々持てたものであって、柴田修理勝家では、にわかに何かずんとするものを抱えた気持だし、始終、持っていることを意識にしなければ持っていられないものだった。
「さればよ。何も筑前を相手どって、此方は喧嘩している気もないが、世上の取沙汰は、なかなかそうでないそうな。あははは。匠作も、大迷惑じゃよ。ははは」
 人が老成しかけて来ると自然熟練して来る笑い方というものがある。相手とのあいだに直視をぼかかすみが曳かれるのである。
 勝家はそこでなおいう。
「喧嘩もせぬ筑前へ、和談の使いもおかしいが、三七信孝様も、また滝川からも、ぜひ此方から使いを立てるようにと、まことに切なる御書状が一再ならず参っておる。――故右府様御他界このかた、半年もぬまに、遺臣のやからが、はや相剋内紛そうこくないふんしておると聞えては、世上にみぐるしい。かつは、上杉、北条、毛利などのうかが間隙かんげきともなりはしまいか。こう三七様にも、いたく御心配されておるもののようでの」
「わかりました、そのことは」
 利家は、くどく聞く要もないように、元来、口下手な勝家のことばを取って、あっさりひきうけた。
「ひとつ、秀吉に、会いましょう」

不惑ふわく大惑だいわく


 次の日。又左衛門利家は、使いとして、北ノ庄を発した。
 不破ふわ彦三勝光に金森五郎八長近のふたりが随行ずいこうした。こう二者は共に柴田の直臣だ。副使の格であるが、利家にたいする目付めつけたることはいうまでもない。
 一行は、十月二十九日、長浜へ着いた。ここはすでに柴田家の養子伊賀守勝豊の居城となっている。折わるく勝豊は病中だった。
 しかし勝豊は病床を払って、三名を迎えた。そして三名の使命を聞くと心からよろこんだ。勝豊は、養父と秀吉との関係が日にまして険悪になりつつある情勢にたいし、衷心ちゅうしん、憂いていたところだったのである。
「ぜひ、自分も行こう」
 勝豊は云い出した。
「いや、御病気を押して、さまでには」
 と、利家もとどめ、二臣もいさめたが、勝豊はきかなかった。若い純熱をもっていうのである。いま養父勝家と筑前守との間さえ和せば、織田遺臣もまるおさまってゆき、ふたたび天下に大乱を見ることもあるまい。かみ御軫念ごしんねんを安んじ奉り、下万民のためだ。一身のやまいぐらいどうなろうと物の数ではない――と。
 晦日みそかの朝、船は長浜を出た。
 勝豊の侍医じいは、船中に囲いをしつらえて薬を煮、湖をわたる寒風を気づかった。しかし勝豊は、毅然きぜんと坐して、つとめて、利家や五郎八などと談笑していた。
 大津から先、一行は騎馬だったが、病人は肩輿かたごしに助けられて、京都に入り、同夜は洛中に一泊し、翌日、山崎天王山の宝寺城たからでらじょうへ向った。ここはこの夏、光秀のやぶれ去った旧戦場であった。その前までは、古びた一宿駅に過ぎなかった寒村が、いまは活気ある城下町をなさんとしていた。淀川を渡るとすぐ望まれるのはかなり大規模な改修計画と見られる宝寺城の丸太足場であり、通路は牛馬のわだちで縦横にえぐられ、耳に聞えてくるものもすべて秀吉のさかんなる意欲の縮図とられないものはない。
「これでは?」
 と、利家すらも、秀吉の心事を疑ってみたい気がしたほどである。柴田、滝川、また三七信孝などが、何かにつけてよく秀吉攻撃の口癖としている――
(筑前こそ、清洲以後は幼君のおりも怠って、ただひとえに、私利私慾の営みに汲々きゅうきゅうとし、洛内においては、私権をほしいままにし、洛外においては、事もない今日、はばかりもなく、堅固な築城に莫大なついえをかけている。西域北辺なら知らぬこと、いったい中央の地で、誰をあいてにする軍備か)
 という声をふと思いうかべたからであった。
 それにたいし、秀吉はまた秀吉として、
(清洲会議で定められた――三法師君を安土へ移し奉るという約も今もって実行しないのはなぜか。故信長様の御葬儀についてはかっても、一片の返書すらなく、袖を連ねて参列せぬは如何なる意か。宿老宿老と結び、みだりに御遺族のお一方ひとかたようし、党を組み、遺臣を誘説ゆうぜいし、求めて世上の不安を醸成じょうせいしつつあるなど、そもそも、その理由の了解りょうかいに苦しむものである)
 と、大いに反駁はんばくしているとも利家はかねて聞いている。さらに、このもつれには相互の複雑な感情もあるし――と、彼は早くも使命の至難さを予想せずにいられなかった。
 前夜、京都からあらかじめ聯絡れんらくはしてあったことである。一行は、直接宝寺城へは入らず、その日は、城下の富田左近将監とみたさこんしょうげんの宿所に泊った。
 四使と秀吉との会見は、翌十一月二日の昼、新築半ばの本丸で行われた。
 挨拶だけで、会談の主題に入らないうちに、饗膳きょうぜんが出て、
「遠路のお疲れもあろう。まず、おくつろぎあって」
 と、家臣たちの接待で、下へも置かずもてなされた。
 終ると、茶一ぷく。
 これは秀吉が亭主となって、自身、四使へのねぎらいであった。
 密事を談じるには茶室にくはない、とよくいわれているが、そういう場合とも場合がちがう。四使は、ここでも使命の本題にふれかねた。けれど、こう膝ぐみになると、利家と秀吉とのはなしは頻りにはずむのであった。共に、若年からつかえてきた信長という主柱をうしなって、今日、会うのが初めてであり、その以前からも、北国陣と西国陣とに遠く別れて、相見ぬこと久しいものがあったのである。
「於犬、幾歳いくつになられたの」
「四十五じゃよ。やがて四十六」
「そうなるか。おぬしも」
「何をとぼけて。……むかしからおことの一つ年下ではないか」
「そうそう。一つ年下の弟であったよな。……が、こうして見ると、おぬしの方が、大人おとなに見ゆる」
「何の、わしの方が若い。おことけておる」
「老けているのは若いときからじゃよ。――正直、この秀吉は、幾歳になっても、大人になった気がいたさぬで困る」
「四十不惑ふわくとか申すに」
「たれがいうたか、あれはうそらしい」
「そうかの」
「君子は――と上につけて申すことばである」
「君子ハ四十ニシテマドワズか。なるほど」
「われら凡夫ぼんぷは、四十初惑というてよい。於犬などは、なかなかそうであるまいが」
「とぼけ召さることよ。猿どのが。……のう、御両所」
 利家は、とかく話の外にかれがちな柴田勝豊、金森、不破の三名をかえりみて笑った。
 面とむかって、猿殿へ猿どのと呼びうる程な親しさが、三名にはふとうらやましく見えた。
「てまえには、前田殿のことばにも、羽柴殿のお説にも、何やら服しかねまする」
 金森五郎八がいった。この人は四使中の最年長者で、六十であった。
「どう服せぬのか」
 秀吉が興を寄せると、
「愚老をもっていわしめれば、人生十五にして不惑、と申しとうござります」
「それはまた、早いな」
「元服がすんだかすまぬか頃の――初陣の若者どもを御覧ごろうじなされませ」
「ウム。いかにもな。十五にして不惑、十九、二十歳はたちにしていよいよ惑わず、四十からそろそろいけなくなるか。おもしろい。……して、尊老頃の年配になるとどうじゃ」
「五十、六十は、大惑でござる」
「七十、八十となっては」
「それはもう、忘惑ぼうわくの境に入りましょう」
「忘惑か。ははは」
 みな笑った。
 夜は夜でまた饗宴であろう。病人の勝豊には、耐えきれるところではない。
 秀吉が、容子ようすに気づいて、ふと訊ねてくれたのをしおに、利家から打ち明けた。
「実は、病気でせられていたが、われらが当城へ参ると聞き、やまいを押して共に一緒に来られたのじゃ。――身を顧みてはいられぬとて」
 これを話の転機に、折入って――と改まりかけたのであるが、秀吉が、
「座を移そう」
 と云い、ひとまず先に茶室を出たので、四名は案内を待っていた。
 その間に、羽柴家の典医てんいが見え、ってと願って勝豊の脈をた。そして薬湯をすすめた。
 また、家臣も来て、
「御大儀でいらせられましょう。その召服物めしもので、お寒くはございませぬか」
 などと再々見舞った。
 やがて会談となった大書院は、病人のために、調度を尽してあたためられてあった。
 秀吉の眼も、無言のうちに、絶えず病の人をいたわっていた。
「かねて三七信孝様からも、御書状をもって、柴田殿との和をおすすめ申されてある由でおざるが」
 利家は口を切った。
 秀吉はうなずいた。――大いに聞こうという態度である。
 故信長を主柱として今日にまで至ったおたがいの臣節ということから利家は述懐をひらいた。その臣節にたいし万全を尽したものは実に御辺であったとも率直にいった。けれど、爾後じごにおいて、宿老輩との和を欠いて、三法師君を奉ずることが薄くなっては、足下の臣節も誠意も、私利私慾の営みに汲々きゅうきゅうたり――などと誤解されてもせんないことになりはしまいか、友人として自分は惜しむ。
 神戸かんべ殿や北ノ庄殿の立場にもなって見給え。一方は御失意、一方は世上へ間が悪いのだ。瓶破柴田かめわりしばた、鬼柴田ともいわれたひとが、遅れ通しで、ここ何事にも後輩の足下にすべてを先んぜられてしまい、清洲会議でも、足下には一目も二目もおいていたというではないか。
「ひとつ、さっぱりと、いがみ合いはやめてもらえぬか。利家の顔にもめんじて。――いや利家ごときは問題でないが、先君の御遺志はまだ中道にある。早くも、遺臣仲間の同床異夢どうしょういむは見ッともない。一切はそれひとつでも和解し得るはずと思う。いわんや其許そこもとには、先頃、叙位じょい任官のありがたい恩命にも浴された折ではないか。この上、御軫念ごしんねんを悩まし奉るは、余りに畏れ多くはないかの」
 秀吉はひとみを正した。利家の終りの一言によってである。利家はそれを猛烈な反駁はんばくの出る準備かと覚悟した。不和の主因が、勝家よりも秀吉の方により多くあるかの如き云い方を承知の上でしていたからである。
「いや、真にそうだ、その通りだ」
 案外、秀吉は、幾度も大きくうなずいた。決して、軽々しくではない。歎息して云った。
「筑前に落度はない。故に、云い条を立てれば、山ほどあるが、御辺のようにいわれてみると、ちと、筑前のやり過ぎはあったようだ。いや大いにあったな。悪かった。その点、筑前が悪い。……前田殿、まかせる。あつこうてくれい」
 和談は立ちどころに成った。
 余りに秀吉があっさりしているので使者たちが却って懸念を抱いたほどである。
 利家は、秀吉の性情を知熟しりつくしているので、
かたじけない。それ聞いてそれがしも、遥々北国から来たかいがあった」
 と、釈然しゃくぜんとしたが、不破、金森の二使はなお歓びを迂濶うかつに現わさなかった。
 ぶりを察して、利家は、
「――が、筑前どの。北ノ庄殿にたいして、云い条なり御不満があらるるなら、忌憚きたんなく申されたに越すことはあるまい。それを包んでの和議では永続きせぬおそれもある。どうせのこと、利家、いかようとも、お取次や解決の労は惜しまぬが……」
 と、一歩すすんで云い足した。
 すると、秀吉は笑って、
「無用無用、それを腹に溜めて、黙っておるこの筑前かよ。云いたいことは、とくに申し尽しておる……神戸殿へも、柴田殿へも。――長い長い書面をもって、逐一ちくいち、箇条書して云い送った」
「あれなれば、北ノ庄を立つ前に、実はそれがしも見せていただいた。其許そこもととしてはみな一理あることと、柴田殿も今日においては、充分、お心も解けての和談、重ねて伺うまでもない」
「三七信孝様にも、同様、筑前の歯にきぬきせぬ云い条を見られた後の和談のおすすめと読まれたので――実はの又左どの、御辺の来られる前からもうもう柴田殿の気色には触れまいと、内心慎みおったところじゃよ」
「そうか。やはり元老はどこまでも元老として立て召されよ。と人にはいうが、この又左なども、折々、鬼柴田のつのに触れることがあるのじゃて」
「あの角にさわらぬように事をするのは難しい。おたがい若輩の頃からとかく意地の悪いこわかった角だったからの。殊に、この筑前など、時には、信長様のお気色より、鬼の角のほうが怖かったことも毎度じゃった」
「あはははは。聞いとるよ、聞いとるよ。御直臣おじきしんたちが」
 利家は、片手で腹をかかえながら、片手で金森五郎八や不破彦三たちの顔を指さした。不破勝光も、金森老人もつりこまれて共に笑った。主人の悪口も、蔭口でなく、こう面と向っていわれると、却って同感禁じ得ないものを覚えたりして、わけもなくおかしさを共にしてしまうのであった。
 ひとの心理は微妙である。それからというもの、金森、不破の両使も、心から秀吉にも解け、利家にたいする警戒の眼もやわらげた。
祝着しゅうちゃくにぞんじまする」
「われらどもも、この上のよろこびはございませぬ。かつは、主命を達しまして、身の面目、御寛容、お礼申しあげまする」
 などと口を極めてふたりとも拝謝はいしゃした。殊に、病を冒して来た勝豊が、涙せぬばかりよろこんだのはいうまでもない。
 勝豊は早く城を辞して、富田左近将監の宿で手厚い手当をうけ、利家、金森、不破の三名は、その夜の饗宴に臨んで、おそく同じ宿所へ帰って来た。
 あくる日。
「どうであろ。このまま、越前へ帰って、主君へおこたえ申しあぐるにも、何がな、筑前どのの墨付すみつきでもなければ、頼りない気がいたしはすまいか」
 また疑い出したのは、金森五郎八だった。
 六十、七十は大惑といったあの老人である。
 使者たちは、その日、出立を前にして、
「御礼のために」
 と、再度城内へ入って秀吉に会った。
 大玄関の外に、馬を立てた従者がたたずんでいたので、来客中かと思いつつ通ったが、それは秀吉が外出のため待たせていたものらしく、折ふし、本丸から出て来た秀吉は、途中で使者たちを待ち、
「よく来られた。さあ奥へ」
 と、ひっ返して、自身、小侍と共に客を導いて一室へ入った。
「昨夜は、腹の皮がよれたことであった。おかげで今朝は寝坊いたして」
 と秀吉はいった。なるほど彼は、いま顔を洗ったような寝起き顔をしていた。ゆうべは腹の皮がれたといった意味は、あの宴の後でおたがいが羽目はめをはずしたことをいうのだろうと思ったが――今朝の使者たちは各※(二の字点、1-2-22)が別人のようなからこもって、何か改まった容子ようすを示していた。
「御多事の中、過分なおもてなしを賜わりましたが、今日帰国の途につきたいと存じまして」
 金森五郎八が一同に代って礼をのべた。秀吉はあっさりうなずいて、
「左様か。帰国の上は、柴田殿へもよろしくいってくれい」
「御和談のこと、快くお誓い下されて、北ノ庄様にも、いかばかりお歓びかわかりませぬ」
「大儀大儀。筑前も、おことらが使いに来てくれて心が軽うなった。とかくひとに喧嘩をやらせてみたがる世間のものは、これでがっかり致したろうがの」
「さてまた、その世上の口端くちのはをふさぐためにも、和議のお固め変りなしとの、ひと筆の御誓紙を、おしたため賜わるわけにまいりますまいか」
 これだった。今朝になって急に使者が気づいた肝腎かんじんなものは。
 和談は予想外にすらとまとまったが、ことばとことばの上だけでは不安になって来たのである。
 これを勝家へ告げるにしても、何か一札なくては、確約を得たというだけのものに過ぎない。――で、とてものついでに、誓紙の交換を申し入れ、まず秀吉の証文を、この立ち際に求めたのだった。
「うム。それよ」
 秀吉も同意のいろを満面に見せていった。
「こちらからも渡そうし、柴田殿からも、もろうておこう。……が、このことは、ひとり筑前と柴田殿との間にかぎったものではない。他の宿将も名をつらねておかねば意味のないことになる。さっそく、丹羽や池田などへもわしから談じておく」
「は。……なにとぞ」
「よかろう。――それで」
 利家の眼へ、秀吉の眼が移った。
「よろしいでしょう」
 利家は明晰めいせきに答えた。
 彼のひとみは秀吉の胸を読み抜いていた。いや既に、北ノ庄からこれへ臨む前に、彼は、やがて到来すべき必然の将来をさえもう看破している者だった。曲者くせものといえばこれくらい上品にして物騒ぶっそうな曲者はない。
 秀吉の他出を待つ供や馬を玄関に見ていたので、使者たちはすぐ暇を告げかけた。と共に秀吉も席を離れて、
「わしも出かけるところ。城下まで一緒に参ろう」
 と、本丸を出た。
 歩みながら訊ねた。
「伊賀どの(柴田勝豊のこと)は見えぬが、先に長浜へ帰られたか」
「いや、今朝は御病気のすぐれぬていゆえ、むりに宿所へのこして参ったので」
 不破彦三がいうのを聞くと、秀吉はひとり言のように、
「それはいけない」
 玄関を出た。秀吉は待っている馬に乗った。使者たちは徒歩で来たのである。秀吉は従者をかえりみて云った。
「お客の方にも、馬をあげろ」
 忽ち、三頭の馬が曳かれ、使者たち各※(二の字点、1-2-22)の前に鞍をすすめた。普請中ふしんちゅうの大手の道を、秀吉と三使の姿が駒をならべて降りて行った。城下の辻へ来ると、利家がたずねた。
「筑前。きょうは、どちらか」
「常のように、京都へまいる」
「では、ここでお別れいたそう。われらはまだ宿所に寄って、旅装をととのえねばならぬゆえ」
「いや、伊賀どのの病気をちょっと見舞うてやろう」
 秀吉がふいにそこを訪れたので、家臣の富田とみた左近将監もあわてたが、一室にやすんでいた柴田勝豊は殊のほか驚いて、急いで病床から出ようとした。
 秀吉は早やその室へ来て坐っていた。そのままそのままと、勝豊の起き上がるのを止めて、
「御容体は、どうじゃな」
 と、先ずたずね、
「それ程な病を押して、寒さもいとわず、長浜からこれまで来らるるなど、自体御無理であったのじゃろ。しかしお許の真心はむだではない。その熱意を見たればこそ、筑前も大いに心をうごかされたことでおざった。何も申さず和談にもおこたえしたのじゃった」
「ありがとうございました」
 勝豊は感泣した。
 昨夜の宴を断り、今朝の答礼も欠き、使者の中に加わって来たことも、名目に過ぎないかたちになり終って、心から相すまぬと、慚愧ざんきしている者にたいして――秀吉がいってくれたことばは余りに温かい。しかも、病苦をこらえて使いに来た御身の誠意を買って、何もいわずに和談に応じたのであるともいった。それはあだかも今度の功を、勝豊の熱意一つに帰しているかのような口吻くちぶりである。勝豊としては、その恩に感じて、涙せずにはいられなかった。
 なおまた、秀吉はねんごろにいう。その体できょう立つのは無理である。いくら肩輿かたごしの中でも冬風がさわる。数日はここで充分療養してゆくがよい。薬餌や手当も万全を尽させよう。その間に、京都表の者にいいつけ、湖上の船も充分良いのを支度させて置く――。
 利家たちの、三使もすすめた。
「おことばにあまえて、そうなさいませ。筑前どの、おたのみ申す」
「よいとも」
 そこで秀吉は、これから京都の政治所へ出向くのでと、忙しさを告げて、病間を辞した。
 利家がふすまを開けた。不破、金森は平伏する。その間を、秀吉はずっと通って来たのであるが、それらの動作と同時に、うしろの方で、誰か手を叩いて笑った者があった。まったくはばかりもない天放の一声であった。
 ものに動じない秀吉も尠なからず驚いたらしく、振向いて、きょとんとしていた。
 うしろに見えるのは病人の勝豊である。襖際ふすまぎわには、平伏している金森五郎八と不破彦三と、それに利家がいる。それだけしかここには見えぬ。
 どこで、誰が、何を? ――笑ったのか。
 しかも、明るい、無遠慮な、いかにも「快」とするような声をもって。
「……何じゃ」
 怪訝けげんそうに秀吉がいう。金森も不破も、同様な眼を、まとなくうごかすのみだった。
 ――と。うたの声がした。
猿殿のおいどは
べにつばき
折るに 折れない
やぶの花
猿殿が おくしゃみ
ちんと散ろ
 南縁の障子の腰に、小猫のような影が日にうごいた。さっきの笑い声も、謡の流れたのも、そこに違いなかった。
「――此奴こやつな」
 利家がさっと開けた。
 あ――と軽い声が庭へねたが、庭では、利家がもう飛躍したその小さい者をとらえ伏せて、
れな。――これっ」
 と二つ三つ打擲ちょうちゃくしていた。
「痛いっ。ごめんなさい」
 悲鳴しながら、こぶしの下で、小さい悪戯者いたずらものはまだ笑っていた。利家の打擲をくすぐったいように笑うのである。
「何たる、御無礼をッ」
 膝がしらと両手とで利家が締めつけたので、息の根が止まったのか、少年はついにぐにゃりと黙ってしまった。
「止せ、止せ。又左」
 縁の上から手を振って留めぬいているのは秀吉だった。その秀吉の短い羽織の裾から、少年持ちの赤い扇が半開きにブラ下がっていた。最前、少年が茶菓を運んで来た後、しばらく後ろに控えていたようだったが、その僅かな間にやった仕事らしいのである。
「あ。――こんな悪戯わるさをしおったぞ。やくたいもない小僧め」
 気がついたので、こうとしたが解けなかった。身を廻すと、それがちょうど猿殿のおいどを思わすように付いて廻った。
「解きまする。解きまする」
「平に、平に。おゆるしを」
 不破と金森は恐縮そのものを示した。――秀吉のうしろへ寄ってすぐ取った。が、秀吉は赤い扇子を見ると、自身でも、聯想れんそうにくすぐられたか、腹を抱えて笑い出した。
「又左。連れて来い。そう手荒うすな。――わっぱは、おことの小姓か」
「あきれた奴です」
 利家はつまみ上げて、そのまま秀吉の前に連れて来た。さすがに少年は泣き出していた。小姓にしてもまだ十一、二歳としか見えない幼さである。
「これはおもしろいぞ」
 秀吉はいうのである。何を見ての言か分らないが独りで大いにうなずくところあるもののようだった。そして唐突とうとつに云い出したものである。
「これはいい。末楽しみがありそうじゃ。又左衛門、この童、筑前にくれぬか」
 皆、意外な顔した。――が、利家の答はこうだった。
「飯をつけても捨てたい程な悪戯猫でございますが、生憎あいにくと、他家へは差し上げられない者で――」
 秀吉の乞いを物好きなと、一笑に附したのではない。利家は理由を云い足した。
「――実はこの童は、それがしの兄利久としひさの子でおざる。そのうえに、瓜のへちりにひとしい奴で、腕白を通りこした変り者。他家へつかわすなど、とても、親どもが同意いたしませぬ」
「ほ。利久どののお子だったか。道理で、物怯ものおじせぬつらがまえよ。幾歳いくつになられる」
 秀吉は見直すような眼を与えて、少年の頭へ手をのせた。
 利家は、捉えていた小さい腕首を離しながら、小声でうながした。
「これ、お答えせぬか。……年は幾ツかと、おたずねなされておる」
 少年はニヤニヤ笑うのみで、無遠慮に相手の顔を眺め入っている。猿に似ている小柄な大人を見出して、友達としてれてみたいぐらいにしか心得ていないらしい顔つきなのだ。その愛くるしい中にある不敵な眸に会って、秀吉も少々顔負け気味であった。ふと――白痴はくちかナ? と疑ってみたくもなった。
 利家は赤面しながら、
「これ。慶次」
 と、きつい眼でたしなめた。
 慶次郎なる少年は、とたんに答えて、
「十二っ」
 と云い放ち、ひよのごとく、庭木のあいだへ駈け去った。逃げたのである。利家は大きく舌打ちした。そしてもう一度秀吉へ詫びを云った。
「自分の兄の子ですが、あのとおりちと馬鹿なのでござる」
 そのくせ利家には、なげいているふうはなかった。むしろ、この一奇児を、ひそかに珍重している容子ようすさえどこかにある。
「いや、暇どった。又左、来春陽気が好うなったなら、また上洛のぼられい。ゆるりとな」
「ぜひ、参ることになりましょうな」
 利家は、門まで秀吉を送り出しながら、なお一語、云い足した。
「――越路の雪の解け次第に」
「さらば。雪でも解けたら」
 秀吉は振返って、後から来る顔のそばでニコと笑った。利家も微笑した。
 前田利家、不破彦三、金森五郎八の三使は、同月十日北ノ庄に帰り、直ちに、仔細を柴田勝家に復命した。勝家は、偽和ぎわの計が、予想以上、うまく運んだものとして、
「寒天の節、遠路辛苦しんくの使い、何とも大儀であったよ。満足満足」
 とよろこぶことかぎりなく、やがて利家が越府を辞して、能登の居城へ帰った後、極く腹心の輩に、密かにこうささやいていた。
先々まずまず、冬中は筑前をたばかりおいて、明春、雪解けの頃を待ち、一挙に宿敵をほふり去ろうぞ。兵馬、軍糧、そのほかの備え、すべて雪のうちのこと。おぬしらも抜かりあるなよ」――と。
 時にまた。
 一方の秀吉は秀吉で、その側臣にこう語って、大いにわらっていたということである。
「そもそも、われらをはからんほどの者は、異朝にては子房しぼう、わが朝にては、楠多聞兵衛くすのきたもんのひょうえにてもあれば知らぬこと、柴田なぞが、愚意をもって筑前を謀らんなどは笑止の沙汰じゃ。見ておれ。蟷螂とうろうおのとは、このことぞ」

家康いえやす


 天正十年はかくて暮れんとしていた。さらに多事いよいよ多事を予想さるる天正十一年は迎えられようとしている。しかも黙々の天機運行の下、人は、来るべき年が地上にとっていかなる現象を事実となす年かを寸前にも知ることができなかった。それがことごとくの地上の人であった。
 ただわずかに、その大きな未来の空間をみつめて、一箇の胸三寸に、天、地、人、三運の神機をとらえて、く自己の掌上に日月のうごきと麾下きか百万の生命とを照らしみながら、
 ――明日は、かく。
 ――来年は、こう。
 と、あきらかな予見と信念のもとに、遠大な方図を徐々に進めながら、この時の「時」を歩んでいる極く少数の人物のみがまたべつにあった。
 こういう特異な人物は、そう沢山にあろうはずはないが、どんな乱麻らんま暗澹あんたんていしている時流の中でも、かならずどこかにいることはいるのである。
 けれど、そういう時に限って、人すべてが、天もえず、地も見得ぬような、狭小な心殻しんかくにとらわれているので、人は、人の中からその人を見出すことすらできないでいるらしい。
 為に。一般多くは、心の支柱を、柴田にもたせて見、羽柴に寄せて見、毛利に寄せて見、上杉に寄せて見、徳川に寄せて見、北条に寄せて見、或いは織田遺族の信孝や信雄などに付託ふたくして、
(誰かがやがてはこの日本をもっと日本らしきすがたになすであろう)
 とは期しているが、さてその人が以上のうちの誰かとなると、これはまったく判定がつかなかった。――後、歴史としての結果が明確にされた頃に至ってみれば――どうしてそれくらいな見通しがつかなかったかと怪しまれるほどのことも、天正十年末の時局下には未だ、そこまでの秀吉の業績や人間を眼に見て来た者でも、
(この人に、信長ほどな器量きりょうがあるかどうか。ここまでは意外な神速と才腕を見せて来たが、この辺が精いッぱいな弓勢ゆんぜいではないか)
 などと自分自分の尺度しゃくどにあてがって、次期の蹉跌さてつを危ぶむ気もちも多分だったのである。それほどに当時なお人が人を見出すに模索もさくの域を出ていなかった証拠には、翌天正十一年春となって、いよいよ柴田羽柴の衝突不可避と定まり、各家その旗幟きしを両陣営のいずれかにどころを明らかにしなければならない日になってから初めて、
(二者のいずれに属すか)
 の問題が、事改めて、諸家の内部では重大な岐路として討議されていた事実でもよく分るのである。蒲生賢秀がもうかたひで氏郷うじさとの父子でさえ、その際には、思案を決しかねて、成願寺じょうがんじの陽春和尚をしょうじ、卜占ぼくせんをたてさせて、決断をえきに訊いたというほどであるから、爾余じよの諸勢力の迷い方も思いなかばに過ぎるものがあった。
 こういう中でも、英雄は英雄を知る。或る感能の持主だけは、世のうごきを観とおすと共に自己の位置をさとり、自己を知ると共に、自己のあいてを知っていた。その点で、柴田勝家などもひとかどの具眼者ぐがんしゃにはちがいない。
 彼は、表面秀吉と和して、まずその一策が成ったと思うと、すぐ同年十一月末には、またも使者を派して、徳川家康をその居る所に訪わせていた。
 この半年六月以降。
 徳川家康というものは、まったく中央から離れていた。
 本能寺以来、天下すべての者の意志耳目が、突然陥没された中心の充空じゅうくうに注がれて、他をかえりみるいとまなく皆過ぎていた間に、彼は、彼独自のみちを取っていた。
 あの時、堺見物の途中から、九死一生の目にあいつつ、からくも、自国まで帰り得た彼は、すぐ軍備を令して、鳴海なるみまで押し出した。
 が、ここの心事は。――越前から柳ヶ瀬を越えて出た柴田勝家のそれとは大いに違う。
 すでに秀吉軍が山崎に到る――と聞いても、家康は、秀吉のの字も口にせず、そうか、とうなずいたのみで、
「領内は静かなようだな」
 と、あっさり浜松へ引揚げてしまったのである。
 もとより彼は、信長の遺臣らと同列に自分を置いていない。織田家の客分であるのだ。柴田、羽柴の徒は信長の一部将に過ぎない。何で彼ら遺臣間の乱後の乱に立ち入って、余燼よじん拾得しゅうとくを争おうや――という襟度きんどがあった。それとまた、彼にはもっと実質的な「この際になすべき事が」一方にあった。
 参遠駿さんえんすんの自領に接続している甲信二州への版図拡張はんとかくちょうは、長いあいだ彼の虎視眈々こしたんたんのものであった。これは、信長という者が生きているあいだは、手の出せないものであったし、今後も中央の定まる日となっては、機会がないかも知れないのである。
 この絶好な機会へ、家康の意が向いたやさきへ、愚かにも、その虎視へ道をひらいて与えた者こそ、相州小田原の北条新九郎氏直うじなおだった。
 氏直もまた、本能寺の変を機会に「この際」と動き出した一人である。北条勢の五万という大軍は諸所から境を切って信州へ入った。大部は信州海野口うみのくちから甲州を南下した。――るべし、と思うだけの領分を、遠慮なく線で地図面に引くような規模をもっての大侵攻であった。これは家康にとって絶好な出兵の名分である。が、彼の挙げ得た実力はわずかに八千。そのうち三千の先鋒は、諏訪すわ以南、乙骨おつこつヶ原までの七里のあいだに、よく北条勢の数万を牽制けんせいしつつ、やがて家康の後陣と合して、新府韮崎にらさきの地形にり、浅生あそうヶ原をはさんで対陣幾十日に及び、さしもの北条の大軍をして、動けば不利、うかがうも隙なく、まったく立ち往生のほかなきものとしてしまった。
 和議が起った。家康の待っていたものである。扱いは、北条美濃守氏規うじのり。これは家康が幼時、今川家に質子ちしとなっていた頃、共に質子として同家にいた幼な友達である。これ以上の口きき人はない。
「上州一円は、北条に渡され、甲信二国は徳川家に」
 という折合いである。家康の意図は成っている。
 家康は二女の徳姫を、氏直へる約束にも承諾した。和と婚と分領ぶんりょうと、三こう一約のもとに、相互、十二月中に軍を退くことになっていた。
 越前から柴田勝家の使いが、荷駄行装にだこうそうに北国の雪をかぶって、遥々はるばるこれへ着いたのは、十二月の十一日であった。
 遠来の使節はひとまず古府の客館に休息の時間を与えられた。一行は柴田家の老臣宿屋七左衛門、浅見対馬守入道道西どうせい、ほか士分二十余名、荷駄足軽の供数十人という大人数であった。
 公式の使節たるはいうまでもない。石川数正が接待役として、一行の世話に当った。
「お会い日のお沙汰あるまで、まずごゆるりと」
 両日ほど、一応のもてなし振りであったが、数正は、
「何分にもこの陣中。爾後じごの御軍務もおせわしく、家中の手も廻りかねておる有様です。馳走のおかまいも充分にとどきかね、主君にも、お気のどくなと申されておられまする」
 同じような文句と鄭重ていちょうさをもって、幾度も詫びるのであった。けれどその言を裏書するような誠意は少しも見あたらなかった。
「どうもお寒いことだ」
 一行は冷遇れいぐうかこった。第一、柴田家からの沢山な音物いんもつにたいしても、目録を収めたきりで挨拶もない。
 三日目である。石川数正が、
「今日、お会いすると仰せられます。宿屋殿と浅見殿だけお渡り下さい」
 と、初めて家康のいる古府のやかたへ案内した。
 この厳冬というに家康は火の気もない伽藍がらんのような広間に坐っていた。貧苦と逆境には骨のずいまでさいなまれて来た人とも見えない。頬の肉はむっちりと厚く、その筋肉に引ッぱられて、大きな耳たぶの根が茶釜の環付わつきの如く相好そうごうの全体を重からしめている。これがまだ四十になるやならずの大将かと思わせられる。充実した生命となお若い筋骨とは、黒皮のよろいのうちに、賢者の威と健康の美をつつんでいた。
 もし、かの金森五郎八老が、今度の使いにも来ていたら、一見いっけんただちに、この人こそ四十不惑の語にあてはまる人と、歎じたことであったかもしれない。
「遠国の路を、数々の音物いんもつ、心入れなことよ。匠作しょうさくには、相かわらずかの。――云いわすれたが、故右府殿のお妹、久しゅう後家でおわしたお市御料人ごりょうにんを先頃お室へ迎えられたそうな。めでとう存ずる。――家康、その折より、境界の騒乱そうらんに出馬を余儀のうせられ、つい祝いも申さで過ぎおった。帰越のうえは悪しからず伝えておくりゃれ」
 語品が高い。しずかなうちに人を圧す声である。さらに、本多、大久保、榊原、井伊、岡部などの諸臣がひとみをそろえて二使を見すえている。宿屋、浅見の二名は、みつぎしに来た属国の臣みたいな卑下ひげいられる心地がした。この上、主人の口上をそのまま伝えるのは心外な気もしたが、是非なく、
「このたびは、甲信二国を御平定あそばされ、主人勝家も蔭ながらお歓び申しおりまする。そのための寸志の賀、これまた、お快くお納め賜わりまして、面目の至りにござりまする」
「疎遠なるこの家康へ、匠作にはわざわざこの度の賀をべに、おもとをつかわされたとか。さてさて、ごていねい」
 挨拶として率爾そつじはないが、噛んでも味のない辞令じれい一片である。石川数正もそうだったが、総じてここの家中には一種特別な家風がげんとしてあるやに感じられる。
 よく世間は対比していうのである。
 徳川家に臨んだ者は、秋霜しゅうそうのごとき三河武士の軍紀と、ゆるみなき緊張にむすばれている組織力と、そして家康の、依然むかしを忘れぬ質実な風に打たれるということを。――また近頃、羽柴家の内をうかがう者は、ひとしく秀吉の大気をたたえ、その陽々たる家族的な和こそ羨ましいものであるといい、ここの家中にある和と大気と若い者の力こそ、今日、彼に未来をしょくす人が日に増しつつある所以ゆえんであるともく。
 一は陰。一は陽。
 また一は精神をずいとした理念的の組織体。一は人間――わけて情念の面を壁とし理想を柱として寄った巨大なる家族体。
 こうる者もありまた、何の武門、それはまだ主たる家康なり秀吉なりの個性の反映にすぎない。時と位置と対象が変れば、天相てんそう晴曇せいどんによって、海の色や山のたたずまいも変るように、一定したものがあるわけでなく、帰すところ、相拠あいよれる生命群が、相拠れる一方の生命群にたいし、いかに高く生き輝かんかの相貌そうぼうであって、一顰一笑いっぴんいっしょう悉く神変の意をふくむもの。軽々しく、某家の風はかくの如しとか、何々家の陣容はかかるものなりとか、一度や二度使者に臨んだとて、めったな推定を掴み帰り、これを主君や自藩の家中に吹聴ふいちょうするのは、まことに危ないことであるばかりでなく、時には自己の主をしてあやまらしむる不忠とならぬ限りもない。凡小井蛙ぼんしょうせいあ眼孔がんこうをもって、軽々な取沙汰は慎むべきであると――苦々にがにがしくたしなめる老武者もあった。
(使者というものは、どんにも卑屈にもなれる者でのうては出来ぬ)
 柴田家の一行は、今度という今度、まことに後味あとあじのわるい帰路を味わった。
 家康からは、勝家にたいし、遂に、土産みやげになるほどなことばもなかったのである。
 自分らが冷遇されたことはともかく、
(よろしく)
 という一言すらなかったなどとは主人に報告するにもしかねる。
 殊になお、勝家から家康へ宛てた懇篤こんとくなる書翰しょかんにたいしても、
(いずれ……)
 とのみで、返書はついになかったのである。要するに、今度の使節は、まったく無効果に終ったのみでなく、何となく、家康の鼻息前びそくぜんに、勝家自身、自己の心事を必要以上、卑下ひげしたような形になってしまったことは否み得ない。まずいといったら、これ程まずい打ち手はなかったのだ。気がついても、復命ふくめいの後では遅い。
「この上は余り御気色をそこなわぬ程に、軽くお伝え申しおくほかはあるまい」
 宿屋七左衛門と浅見対馬守の両使が、みちすがら口を合わせていた憂いのうちには、当然の敵秀吉ある上に、依然、北越の上杉をひかえているのだ。この上、徳川家とのあいだに、感情の齟齬そごなどあらば大不吉、と唯々無事を祈る気持しかなかったのである。
 ところが、時雲の早さはそんな小心者の杞憂きゆうごときは、いつでも遥かに超えていた。この一行が越前へ帰った頃には、つい前月の口約もやぶられ、初春はる迫る年越しを前に、秀吉は、江北ごうほくの一部にたいし、断乎だんこ重大な軍事行動を起していたし、同時に、徳川家康も、何を思うか、急遽きゅうきょ、浜松へひきあげを開始していた。

掌上しょうじょうもの


 前田利家らの一行三使が、越前へ帰ってから約十日ほど後である。――なお後に残って、宝寺たからでらの城下で、療養につとめていた柴田伊賀守勝豊も、ようやく健康に復したので、一日秀吉に暇乞いとまごいをなし、
「このたびの御温情は、忘れることができませぬ。いつかまた、折を見て上洛、あらためてお礼に伺いまする」
 と、辞去して、長浜へ立った。
 その帰るに際しても、秀吉は京都まで同道して、みずから途中の世話を見、大津までは加藤光泰みつやす、片桐助作などに護らせた。また特別仕立の湖船に医者をも添えて、長浜まで送らせた。
 勝豊は、秀吉の温情の翼に抱かれて、恍惚こうこつとなるほどだった。親身、真情というものを、初めて知った。――それは、彼の心にかわきぬいていたものだった。
 彼は自分こそ、北陸の大柴田の一族中でも第一に坐るべき地位にあったが、事実は、常に孤独の中におかれていた。勝家にもまれ、一族にも冷眼視されていた。従って、今日までは、彼が彼を反省してみてさえ、どこやらにひがみ者のかげがないとは云い切れない思いがしていた。
 それが、秀吉に接してからは、恥かしくもなり、また本然の自己に立ち返ろうとする意志ともなっていた。肉体の元気を取り戻したばかりでなく、こんどのことは、心のやまいにも秀吉の投薬をうけて、何やら胸の明るさを持ち帰っているような気がしていた。
「風のおこるところ人あり、人の興るところ上にありというが、まこと羽柴家のうちには、何ともいえぬ居心地のよいものがある。日蔭がない。違和いわがない。蔭口を聞かぬ。そしてその底に、草萌くさもえ頃の地熱にも似た誓いがどの顔にも燃えている。ずいぶん苦しい任務や内輪の艱難かんなんもあるにはあるのだろうが、家中の誰にも不平や卑屈の顔が見えないのはふしきだ。――柴田家とは比較にならぬ。わが柴田ではああではない。羨ましいことではある」
 若い勝豊は、こういう風に、早や秀吉の鳳翼ほうよくいつくしまれ、身は、柴田勝家の養子にして、心は、すでに秀吉のものだった。養父勝家を思う以上、秀吉にふかく帰依きえしてしまった。
 もっとも、彼が秀吉を慕うようになったのは、決して突然のものではなく、久しい以前から折あるごとに秀吉のひそかに積みかさねていた好意の上に、今日のことがさらに彼の心を大きく揺りうごかしたものだった。
 しかしその間の秀吉の情誼じょうぎが、いかに純なる「不遇な者への温情」であったとしても、これを今日、大局の上からて、一言もって結果的にいえば、
“彼はすでに秀吉の薬籠中やくろうちゅうのものたるのみ”
 である。
 秀吉は、さきに前田を、今また勝豊を見送って、さて以後の約半月は、城普請しろぶしんも京都表のことも、ほとんど顧みぬかたちで、何やら目に見えぬ他方面へとその毎日をふりむけていたが、やがて十二月に入ると、かねて清洲へ密行させておいた脇坂甚内安治やすはると蜂須賀彦右衛門正勝のふたりが、月の早々ここへ立ち帰っていた。――この一便こそ、秀吉が清洲会議以後の受身と隠忍いんにんの、休息期を離れて、初めて天下の棋盤きばんぱしっと一石打って出た、消極から積極への一転を予告するものだった。
 蜂須賀、脇坂が、清洲へ行ったわけは、清洲に在る織田信雄に稟議りんぎして、その承諾を求めるためであった。
 理由は――
(信孝の暗躍あんやくは昨今いよいよ甚だしい。勝家らの軍備も今や顕然けんぜんである)
(信孝は今もって三法師君を安土へ移し参らせず、岐阜の自城に抑留よくりゅうしている)
(これ奪嫡だっちゃくの罪たり。また、清洲条約を公然と破棄するもの)
 等々の箇条を実状に照らして、それらの因をなせる謀略の首魁しゅかい勝家を討つには、まず北陸の勢が、積雪のために南下し得ぬうちに、これを果しておかねばならぬ――と、説かせたのであった。
 信雄はもとより信孝に満腔まんこうの不平を抱いている。勝家にも快くないこと勿論だ。彼は決して、秀吉を信じ、秀吉を理解し、将来を秀吉にたのんでいるものではないが、勝家よりは遥かにましだとしているのである。自分の力ではどうにもならぬ信孝を除いてくれた上、云い得ないでいた不平まで、秀吉の軍が天下に布告してくれるものと歓んだのだ。何の否やのあるべき筈はない。
「……いやもう、信雄様には大乗り気でいらせられました。このことは、遅い程であると仰せられ、筑前が岐阜へ出馬あれば、自身も陣に立つとまでいわれて、却って、稟議のおゆるしを得に参ったわれらどもが励まされたような次第で――」
 と、彦右衛門と甚内は、信雄にえっした様子を伝えた。
「大乗り気か。……いや、目に見ゆるような」
 秀吉はあわれみつつ胸にえがいた。典型的な名門の公達きんだちがそこには思い出されるのだった。救いがたき性情の持主を感ぜずにいられないのである。
 が、それを大きな僥倖ぎょうこうとしている自分の意図も同時にはっきり自認していた。彼は従来、かりそめにも、大望大言をいったことのない人間であったが、信長きこのかた、特に山崎の一戦からは、
“天下われをいて人やある”
 の自覚と大信念を明確に持ち、敢えて、その自負その自尊をつつまぬ者となっていた。
 またもっと著しい変化は、本来どう名分をかかげても、私意の拡大に過ぎないものに疑われやすい“天下人たらん”の大望が、以前とちがって近頃は、自己にも公にもひるみなく心のうちに当然視されて来たことである。仮に、そうなって来た心懐しんかいを、秀吉自身の説明に求めるとすれば、
(然り。――太陽が出なければ世は明けまい)
 というであろうと思われる。
 闇、闇、闇。そこにもかしこにもなお低迷する闇の面のなんと多いことか。信長は久しき暗夜の密雲を一掃した大疾風ではあったが、太陽ではなかった。秀吉はみずから這い出したものでなく、一世をけ去った信長のあとに、前から在るままに在った者である。太陽はのっと昇るように見えるが、実は地表のはや旋回せんかいによってそう見えるようにである。
 突として、実に突として、一彪いっぴょうの軍馬が、相国寺の門前にかたまったかと思うと、さらに、西、南、北から相流れ寄るものを、千実せんなふくべの下に集めて、忽ち都のただ中に、幾軍団もの勢揃いを起した。
 師走のから風がふき捲くる七日の朝という陽の下である。
「なんでっしゃろ?」
 庶民は、故を知らなかった。
 つい十月の、大徳寺大法要の荘厳さ、うるわしさ、あの日の賑やか。――庶民は小判断にとらわれやすい。もう戦争は当分ないかのような独断にぬくもり返っていた顔つきである。
「筑前様自身、馬を先にして行かっしゃる。筒井勢も見える。丹羽殿の軍勢も」
 路傍の声は、なおこの出陣の行く先を不審にしていた。急速に、蹴上けあげを越えた蜿蜒えんえん甲冑かっちゅうは、さらに、矢走やばせで待ちあわせていた一軍を加え、渡頭の軍船は、白波をひいて湖心から東北に舳艫じくろをすすめ、陸上軍は安土その他に三晩の宿営を経て、十日、佐和山さわやま城に達していた。
 そして十三日にはここへさらに細川藤孝、忠興父子が麾下きかを率いて丹波から来会した。
 藤孝父子は、すぐ秀吉にえつを求めて、
「遅れました」
 と、つつましかった。
 それにたいして、秀吉は、
「よくぞ」
 と、この父子をまつこと極めてあつく、
伊吹いぶき、北国路もあの通り。途中さだめし大雪に悩まれたろうに」
 と、いたわった。
 思えばこの藤孝父子ほど、この半年を、薄氷をふむ思いで通って来た者はあるまい。
 かの光秀と藤孝とは、共に、信長に仕える前から莫逆ばくぎゃくの友であった。忠興の妻の珠子たまこ伽羅沙がらしゃ夫人)は、光秀のむすめであった。そのほか切っても切れないきずなは両家の家中と家中のあいだにも多かったのである。光秀が、必然なる味方と、謀挙ぼうきょの公算に入れていたにもそれだけの理由は大いにあったといってよい。
 が、藤孝は組さなかった。もし一髪いっぱつの私情にでも引かれたら彼の一門も明智と同じものになったろう。まさに累卵るいらんをささえたのである。しかし、外に善処ぜんしょし、内にはその危機を脱するまでの苦心は言葉に絶えたものがある。麾下きかの内争も生じ、光秀の娘たる忠興の妻を救うにも、なまやさしい藤孝の苦労ではなかったのだ。――今日はすでに、秀吉も、ゆるすところとなっているし、父子の大義にって来た真情も認められて、かく秀吉の優遇はうけているが、秀吉が見るに、藤孝の糸鬢しびんはたしかにあの頃から急に霜となっている。――ああ、達人たつじんなるかな、と思うと同時に、大局に立って誤らぬには、人間やはりここまで肉体と髪の黒さを削らねばならぬか――と、秀吉は彼を見るごとにそぞろ気の毒になるのだった。
「湖上からも、城下からも、はや鼓を鳴らしてお取詰とりつめのように見られますが、せがれ忠興にも、先手の一攻め口を、どこかお与え下されますように」
 藤孝のことばを、秀吉は、
「長浜か」
 と、まるで目標外のもののように云って、さて、それとは切り離して答えた。
「水陸からやってはおるがな。……何、何。真の攻め口は、城の中にあって、城の外にはない。多分、今明のうちには、城を捧げて、伊賀守勝豊の家来どもが、これへ参るであろうよ。――おもとらにはまず長途のつかれを充分に休めておられい」
 藤孝は、秀吉の今のことばに思いあわせて、ふと、
――ク人ヲ休メ得ル者ハ、又克ク人ノ死力ヲ用イ得ル者也
 という古語の滋味じみをあらためて心のうちに噛みしめていた。
 子の忠興も同じように、秀吉の横顔を仰ぎながら、ひとつのことを思い出していた。それはかつて細川家の運命が大きな岐路に立ったときである。その去就きょしゅうに、家中を挙げて紛論のかわされた席で、父の藤孝がこういって、く所を直指したことがある。
(自分はこの年までることの稀れな人間を、今の世において二人まで見ている。ひとりは浜松の徳川家康、もう一名はまぎれもなく筑前守秀吉である)――と。
 しかし、それを今考え出してみてもなお、若い忠興には(――そうかなあ?)と思われるのみであり、
(これが父のいうような、稀れな人だろうか。今の世に二人ぐらいしかいない程な大将だろうか?)
 を疑わずにはいられなかった。――殊に、秀吉という実物を眼の前に見ていると、よけいにそうまどわれてならない。どう見ても、それ程とは、思えないのである。
 やがて、佐和山城中の一かく退がって、父子一室にくつろいでから、この気持をありのまま、父にいってみると、藤孝は、さもあろうといわぬばかりに、
「わかるまい。そちなどの器量きりょうと年齢では、まだまだ」
 と、つぶやき、忠興の不服そうなひとみに気づくと、若い者の心を察してまた云い足した。
おおきな山は、山へ近づくほど巨きさが見えなくなる。山のふところへ入るとなお分らなくなるものだ。諸人の批評を聞き較べておるがよい。たいがいは山の全体をて云っているのではない。一峰一渓を見て全体と思っていたり、限られた眼界の草木や道を見て全山の評をしているに過ぎない。ほんとの人物というものは、到底、そんな狭い眼で見とおせるような者だったら、それは所詮しょせん、或る程度の、求めれば世間に代りの幾らもある人物でしかあるまいが」
 こう教えられてもまだ忠興のあたまには依然として(そうかなあ?)が残されていた。が、世の経験と、あらゆる人間を観て来たことにかけては、父藤孝に遠く及ばない子である点において、忠興は素直に父の言を肯定せざるを得なかった。結局、人間として、もっと自分が成長してみなければ分らない観念の限界の問題であろうと、彼は謙虚に返って眸をおさめた。
 驚くべきことには、それから二日目に、長浜の城は、一兵も損せず、秀吉のの物になった。
 秀吉が、細川父子へ、「彼の方から城を捧げてくる」といっていた予告通りに運ばれて来たのである。
 伊賀守勝豊の老臣、木下半右衛門、大金藤八郎、徳永石見守の三人がその使いだった。すなわち、誓書を以て、
「勝豊以下、家中一統、御手に属しますれば、以後のおさしず、よろしきように」
 と、秀吉のすすめに応じて来たものである。
「よく分別した」
 秀吉は満足そうに云った。約束にもとづいて、所領も旧により、長浜の城も現城のまま、勝豊に持たせておこうと確言した。
 長浜の城は、清洲会議の結果、柴田家へゆずった物であるが、秀吉はそれを七月に明け渡して、同年の十二月には早や取り戻していたわけである。
 当時、世人は、
(あの要地を、よくも思いきりよく)
 と、彼の心事をはかりかねていたものだったが、今となってみれば、それを柴田の手にまかしておいたのは、実にわずか半年にも足らない間でしかなかった。
 明け渡すにも、あっさりと、きれいであったが、取り返すにも、左の掌の物を右の掌へ移すぐらいな容易たやすさに思われた。
 がしかし、これは秀吉を中心に見た場合のことで、対者となった柴田勝豊の身辺は、この数日、颶風ぐふうの巻くようなものであったに違いない。
 越前へ援兵を求めるにも、積雪のために、到底、それは望んでも望み得ないことだった。
 加うるに、養父勝家は、その後も勝豊にたいして、依然、辛く当ってばかりいた。殊に、前田、金森などの使者に加わって、あの折、勝豊が共に宝寺城へ赴いたことにたいしては、
(出過ぎ者が――)
 と、口ぎたなく一族の者へ不興をもらしていたというし、また、
(病にかこつけて、筑前のもてなしに甘え、幾日も羽柴の城下に遊び過ごして帰るなど、言語にたえたうつけ者よ)
 とののしりぬいているという取沙汰なども、越前に在る家中の家族の便りなどから勝豊の耳にも入っていた。
 今、秀吉の軍にかこまれて、孤城、たのむところなく、孤心、るところなき勝豊は、
(如何にせん)
 かを思い余って、これを老臣たちにはかり、老臣たちは、彼の意中をすでにんで、家中の衆議に懸けるまでもなく申し渡したのであった。
「――越前に家族を残されてある人々は、越前へ帰らるるもよし、また、勝豊様と共に留まって、以後、筑前殿の手に属す心ある者は、変りなくここに居られたい。……何せい、いかなる理があろうと、北ノ庄殿は、殿にとっては、御養父にあたられる御方、そむくは、人の道ならねど、よくよくの御心事とお察し致して、われらどもは、すでに殿へ御同意申しておざる。さりとて、柴田家を離れては、士道の一分いちぶん立ち難しとお考えの面々には、遠慮なくお立も退きあるように」
 一時不穏な空気がみなぎった。けれど事すでにここに至っては――の感がふかい。異論百出までもなく悲痛な面にうなだれてしまった。男のしのび泣く声ほど人のはらわたをえぐるものはない。その夜、主従義別の杯がまれた。しかし、越前へ帰った者は、家中の十分の一ほどもなかった。
 かくて勝豊は、養父を離れて、秀吉にいた。彼はこの時から秀吉に属した。しかしそれは形の上のことである。勝豊の心はそれより以前からすでに秀吉のかごに飼われた小鳥だったのである。
 ともあれ長浜の接収はすんだ。が、このことは秀吉にとっては、岐阜への行きがけの一仕事に過ぎなかった。こんどの軍の目標は飽くまで神戸信孝の岐阜城にあるはいうまでもない。
 とはいえ長浜は、北越勢の出撃を予想する場合、何といっても、に収めておかねばならぬ重要な地ではある。秀吉は予定のごとく勝豊を降し、まずこの要地を自陣に加えたが、守将はそのまま柴田勝豊に命じ、本領安堵ほんりょうあんど墨付すみつきを与え、転じてさらに、岐阜へ前進したのであった。
 およその者ならば、この場合、腹心の者と入れ替えねば、気のすまないところである。

 冬の不破ふわ越えは、伊吹を左に、名だたる難行だった。関ヶ原あたりの風雪はわけてひどい。
 十二月十八日から二十日にかけて、秀吉の軍はこの辺を通った。軍団は幾部隊にも分れて前後し、部隊はまた小荷駄、大荷駄、鉄砲、やり、騎馬、足軽等の組々に分れて、雪泥せつでいを冒しつつ進んで行く。二日にわたって、約三万ぐらいな兵力が南下した。
 それを旗幟きし別に見ると。
 丹羽勢、筒井勢、細川勢、池田勢、蜂屋勢などの各軍各将の指揮下に編制されていた。これが大垣おおがきに近づくにつれて、大垣の城主氏家行広うじいえゆきひろも来て合し、曾根の城主稲葉一鉄も参加し、秀吉にえっして麾下きかに属した。
 主陣は大垣に置かれた。ここを作戦本部として、秀吉は、美濃みの一円の小城を次々と攻めつぶしにかかった。
 急は岐阜へ報じられ、信孝はここ数日来、まったく狼狽ろうばいあるのみで、防戦の令はおろか、るべき策も知らなかった。
 なぜならば彼は、意志をべる計のみを思っていて、意志をなしげる道を知らなかったからである。従来、柴田や滝川などと固く結んで、秀吉をたんのくわだては着々とすすめていたが、その秀吉から逆攻をうけることなどは全く予期していなかったのだ。敵を知らざることも甚だしい。
「いまは手段てだてもない。この上は、五郎左など頼んで――」
 と、信孝は当惑の果て、一切の運命を、老臣たちの善処にまかせた。いやこのような帰着となってから善処などという余地があろうはずはない。
 老臣らもまた、秀吉の陣門に叩頭こうとうのほかはなく、信孝の生母の坂氏、及び家族の女子たちを質子ちしとした上、なお自分らの母たちまで送って、
「ただ御寛大なお処置を仰ぎまする」
 とのみ、丹羽五郎左衛門長秀にすがって、ひたすら信孝の助命を乞うた。
 秀吉は、ゆるした。
 和をれるに際して、信孝の老臣たちへ、
「三七どの、お目がさめたか。わかれば祝着しゅうちゃく
 と、苦笑して見せた。
 即刻、人質を安土に送り、つづいて岐阜城内におかれていた三法師の身を受け取って、これまた安土へ移した。
 そして以後、三法師の擁護ようごを、信雄の任として、これを託し、同月二十九日、宝寺城に凱旋した。――帰って二日めには、はやその年の大晦日おおつごもりであったのである。
 天正十一年の元旦は雪のあとのうららかな日ざしが、朝から新城の真新しい木々に照りかがやいていた。
 家臣たちの年賀の受礼は、どこでもおよそ二日が慣例であったが、羽柴家には由来、慣例というものが余りない。時により、所に応じ、適当に速やかに事をむのが慣例だった。それかあらぬか、今年は大晦日と元旦とが一しょになった。天正十年中の御用仕舞と共に、家臣たちは、湯にも入らず式服を着て、暗いうちからぞろぞろ年賀に登城して来た。やしきへ戻らず、そのまま、城中にいて、屠蘇とそをいただいた者も多い。
 雑煮ぞうにの香が、満城にただよい、鼓の音など流れて半日すぎた。――と、ひるの頃、にわかに、
「姫路へ御下向じゃ」
 と、奥から触れ出された。何たる急。何たる暇なしである。ことしもまた忙しい前表であろうぞ――と、人々は多忙を楽しむごとく、その準備に駈けずり廻った。

ふきのとう


 秀吉が姫路へ着いたのは、元旦の日もほとんど夜半に近い頃だった。
 先駆けした一家臣が、馬の脚力のかぎり急いで、前もって、それを姫路へらせはしたが、姫路の城でも、まったく思いもうけぬことだったので、
「それは――」
 とばかり上下を挙げて、久々な主人の迎えに、大さわぎのていだった。
 この姫路へは、秀吉が中国を離れて、山崎の一戦へおもむいたときから、実に初めての帰国だったのである。
 ここには、その折残された腹心の家来、家中の者、その家族らも、沢山いた。殊には、長浜から昨年七月移っている秀吉の老母、妻の寧子ねね、また縁につながる多くの子女老幼も住んでいる。そのすべてが、秀吉を戸主と仰ぎ、秀吉を柱とたのみ、朝に蔭膳かげぜんそなえ、夕に武運を祈り、今生こんじょうの箇々小さなる命をまとめて、
「生も共に、死も共に、幸いも共に、苦も共に。――進めとあれば進み、留守せよとあれば留守し、ただ御声にまかせ、御運にまかせてよき家の子とおめにあずからん」
 と、いう気持一つに成りきっているものだった。
「寧子よ。あの子の好物こうぶつは、何であったかの」
 北の一曲輪くるわにある老母すら、報を聞くと、うれしさに落着かない容子ようすなのである。ましてや寧子は、思いのあふれを、どう包もう。
「ほんに、お嫌いというものがござりませぬので、何をさしあげたらおよろこびやら」
「幼いときは、薯汁いもじるが好きじゃったが」
「薯汁と申しますると」
「麦飯に山の薯を、汁かけ飯にしてたべる。あれが好きでの……余りたべて連れあいの筑阿弥ちくあみどのにごくつぶしよと、いたく怒られたことがある」
「ホ、ホ、ホ、とろろ汁のことでございますか。それも作らせましょうが、深夜のお着きと申しますゆえ、御空腹とて、またきっと湯漬をと仰せ遊ばすかもしれませぬ」
「いつもせっかちな子じゃてのう。さて、湯漬には何がめずらしかろ」
「御老母さま。よい物がござりまする」
「よい物とは」
「お庭をごらん遊ばしませ」
 寧子は起って、塗骨ぬりぼねの障子の腰にひざまずき、一尺ほどそこを開けた。なお春の夕ともいえぬ寒さなので、老母が襟をすくめもせんか――と、流れ入る冷えを怖れながら、
「はて、何か?」
 たそがれの庭面にわもには、ところどころに、土佐派の絵師が屏風びょうぶに盛った雪のように、白いまだらが厚く消え残っていた。広芝のあなたにも、築山のすそにも、まだ若菜わかなの色も木の芽も見えない春なのである。
「あれ、あの雪の下の物でございまする。すこし土を掻きさがせば、もうきっと、青い青いふきとうが、芽をふいているに違いございませぬ。それをって蕗味噌ふきみそにしてさしあげたら如何なものでございましょう」
「おう、おう、よいものへ気がつかれたの。ここでもまだ膳部に見ぬゆえ、あの子もまだたべていないにちがいない」
 老母は縁へ出て来て、上の掻着かいぎの裾を、腰衣こしぎぬとともに短くくくりはじめた。夕方の寒さではあるし雪もある。寧子は、お風邪でも召してはと、たって止めたが、老母は早や庭へ降り立って笑いながら云った。
「なんの、百姓の母じゃがの……」と。
 ――庭面は暗くなってゆく。残雪だけが暮れ残る。小島のように飛々に白い。
 老母と寧子とは、雪と土とを根気よくじっていた。求める蕗のとうの一ツでもと、祈りに似る気持で捜していた。
「寧子よ。ないのう」
「いまに……ありましょう」
「まだ早過ぎるのであろ。もうすこし春もさきにならねば」
「けれど、なければないほど、それはとうとうございますから」
「そなたもそれを知るか」
 老母の影は、ふと腰を撫でていた。そして、わが影に添う影を顧みていった。
「のう。――たとえ海ほど山ほどの馳走を盛ろうと、もしそれが、心のわぬものであったら、何のことはない、人は物に、たばかられているようなものに過ぎない」
「わが良人つまのお嫌いも、心の副わぬ、物だけの、物脅ものおどしでございました」
「さればよ。また、いつものむかし語りじゃが、わしもあの子も、尾張中村にいた頃は、或る夜は、一握りのひえだにうて、ただの湯に味噌を落して飢えをしのぎ、寒夜をわなわな抱きおうて、母子おやこして過ごしたこともある。――極道なあの子の義理の父親が、幾日も家をのぞかぬため、あわれ物乞いにもなりかねて、人様には人なみに喰べた顔をよそおいながら、飯つぶはおろか、塩気を溶いた湯のほかは、あの子の腹にかてらしい糧の入っていない日が、ああ、それはもう、幾日幾日もあったものぞよ。……世間の衆は、あの子をみるたびに、餓鬼がきとよび、筑阿弥どのが家に帰れば、穀つぶしめ、穀つぶしめが、とののしったものじゃが、育ちざかりじゃ、むりはなかった」
「…………」
寧子ねねよ。そなただけぞや。このような打ちあけた古事ふるごとを語るのは。――生涯、あれに添うてくださる妻と思えばじゃ。あの子を、……いえのう。そなたの良人つまを、天下一、大きゅうなさるも、小さくなさるも、蔭にいてたもるそなたのお心ひとつと、真実、この老母までたのみにしているためと思うてくだされよ」
「…………」
 ふたりには、土が見えているのであろうか。ふたりの手と棒のさきは動いているが、あたりは梅のつぼみも凍るかのような寒さと夜の闇になっている。
「……が、寧子よ。わしは今でもよいことしたと思うています。そのようなとぼしい中にあの子を育てはしたが、わが身は常にこういうて聞かせていた。――日吉よ、さもしゅうなって下さるなや。人は心次第で、物など今にどうにでもなる。かりそめにも、物の下に自分を置くな。時により、貧しい月日を送る日とて、心は高く、物の上に置いてたも。氏神うじがみのお子ぞ。お日様の生かしている人間じゃぞよ。何で、物に指をくわえて、物の下にひしがれてよいものぞ。――物の上に在って、天の下の物を自在に用いるはずの人間が、物の下に置かれなどしたら、もうおしまいというものぞよ……と」
 老母は、なお云いつづけた。
「貧乏な時ばかりではない。富めばなおなおそうであろ。物におごり、物にびられ、物を持てば持つで、物の下に召し使われ、あわれ、物には頭の上がらぬ富者が何と多いことかよ。――わが身たちは今、あの子のお蔭で、一城の主の妻となり母となったが、それを忘れてはなりますまい。自身を物の下に置いて、何で一国の上に立てましょう。……のう、寧子よ。そうではないか」
 侍女、老臣、若侍など六、七人の影が、紙燭ししょくのゆらぎをたもとかばいながら、
「北の丸さま」
「御母堂様――」
 と、広庭のあなた此方こなたを、呼びまわりつつ探していた。そして、
「これにおる」
 との答を知ると、皆、一つ所に駈けよって来て、口々に、
「奥にも常のお部屋にもお見え遊ばさず、灯ともし頃を、どう遊ばしたやらと、御表の方まで、お尋ねいたしました」
 と、安堵あんどを語り合うのだった。
 老母は詫びて、
「おう、ここはもう北曲輪きたぐるわの遠いはずれよの。……思わず来てしもうたと見える」
 寧子と顔を見合わせて笑った。そして老母は、腰衣こしぎぬを折ってめたふきとうをのぞいて、
「寧子、幾つ見つけてぞ」
 と、たずね、彼女が自分の腰衣のなかを数えて、
「七つ」
 と、答えると、
「やはりそなたの方が多い。ばばの採ったのは五つしかない。一つにして持ってたも」
 と、彼女の方へ移して、一つ腰衣のうちへ合わせた。
「オ。蕗のとうを」
「ようお探し遊ばしましたな。雪もあるのに」
 侍女や家臣たちは、紙燭をよせて、近々とそれをのぞき合った。まだ土ふかく秘められていた植物の淡い春の青さが、人の目に見られるのを羞恥はにかむような形して、薄紅梅の腰衣こしぎぬにくるまれていた。たまのように持たれていた。
「まあ」
 侍女たちは眼をみはった。――と、老母は、うしろに離れて佇立ちょりつしていた瀬尾せのお金五郎という――いつも中門の守りをしている年若い侍をふりむいて、
「金五。――そなたの家の御病人は近頃どうじゃの。この寒さでは持病もつのろう。蕗のとうは、痰持たんもちには無二の薬と聞いておる。煮るなと、汁に入れるなとして喰べさせてあげたがよい」
 と、いちど寧子の手にあずけた蕗のとうの幾つかを取って、懐紙につつみ、家に病父を抱えているその家臣へけてやった。
「はっ。……あ、ありがとうございまする」
 金五郎は、意外な恩に、度を失ったものの如く、へたと、雪の中に坐ってしまい、両手にそれを押しいただいて、
「雪を分けて、手ずからお採り遊ばした物を。……勿体ない。父は、何たる冥加者みょうがものでございましょう」
 若い声もわなわなふるえ、いつまでも感泣している様子だった。
 城楼でときの太鼓が鳴った。こよいに限り夜空もあかあかとかがりえ、今朝の初日の出がまだ沈みきらずにあるようだった。
 寧子は老母の手をたすけ、先へ立つ明りと、侍女たちの影はそれを囲んで、やがて暖かな大殿の内へ戻って行った。
 瀬尾金五郎も、持役の中門へ帰った。だが、ふところの蕗のとうえてはと、明朝までの置く所に迷っていた。
 同役の話合う侍小屋の壁に、小さい神棚が吊ってある。その御榊みさかきのそばへ、彼の背伸びした手がそっと白い紙包みをのせていた。
「瀬尾。何じゃそれやあ?」
 同役の四、五人が怪しんでたずねた。金五は答えず、しばしをあわせてから、彼らのいる炉ばたへ来た。
 同僚は非番である。餅を焼いていた。金五は非番でない、炉へ寄って来たものの、すぐ立つ構えをしていた。
「あれか。あれはふきとうだよ」
「蕗のとう?」
 同役たちは餅を喰いながら――
「このせわしいのに、そんな物をっていたのか。何でまた、そんな物を、神棚へなぞ上げたのか」
 金五は、中腰をすえ直して、炉の火を見つめた。眼のなかにも、火がたぎり、ぼろぼろと赤くこぼれた。
「ははは。瀬尾が泣いてる」
 ひとりが不用意に笑ったが、他はみなしゅくと黙してしまった。金五の涙に真摯しんしな光を見たからである。
「俺が採ったのじゃない。お役中に、誰がそんな閑事ひまごとをしているものか。……御母堂様から拝領はいりょうしたのだ」
「え。御母堂様から」
「聞いてくれ。こうだ。……俺の父、甚右衛門の長煩ながわずらいを、どうして御存知か、蕗のとうは、痰持たんもちに無二の薬、病人にやるがよいと、下されたのだ。まだ雪もあるこの寒夜を、北の丸様とお二人して、お庭へ出てやっと手ずからお捜しなされた物をけて。……同役、これが泣かずにいられるか。誰か、笑うたが、笑ってくれ、俺は泣く……」
 金五は両手で顔をかくした。ふいに、ひとりが立って、神棚の下へ寄った。
「おあかりを上げ忘れていた――」
 燈明がともった。
 皆、その一穂いっすいを仰いだ。母堂の心のつつまれている白い物と、榊葉さかきばの青さとが、何か、清々すがすがしいものを人の胸へうつした。
「…………」
 誰も立って行って拝みもせねば口にも出さなかったが、皆ひとしい幸福につつまれていた。この城を枕にこの場に死んでも惜しくないというほどな幸福感だった。今日あって明日知れぬ戦国に、よくぞ羽柴家の家中にはなっていたぞ、とも思うのだった。
 ふしぎな心理といえばいえないでもない。燈明は一勺いっしゃくの油の作用であり、御榊みさかきはそこらにもある植物の一枝である。白い紙包みとて、中には、数箇の蕗のとうがあったに過ぎない。――物としてこれらをみれば物。しかもいとささやかな物とよぶにも足らないほど貧しい物質でしかない。
 しかもそれが、人をして泣かしめ、小禄しょうろくの士をしてすら、時あらばよろこんで死なんの思いを内に誓わせている。
 蕗のとうは、物だろうか。とよぶのがほんとうだろうか。
 蕗のとうのあのほろ苦い――冬中の苦難と春さきの希望を舌に思わすような香と味は――あれはにがいまずいといって嫌う人もあるが、好む人はいたくその苦味と苦薬の香を愛するのである。
 四季をもち、その四季からなっている微妙な国土は、一草の芽にもまた単純に噛み難い香、色、味を含んでいる。なおそれが人のに取り上げられ、人の愛にかけられると、物と心との区別はまったくないことになる。物にして心。心にして物。それがこの国のふしぎな伝承でんしょうであった。
 だから、物と心が別離されたり、逆作用を起すような仕方は、武門も百姓も、いましめていたところである。秀吉の母も、それを間違えまいとしていたに過ぎない。

下坐げざたみ


「御城主がおかえりなされる」
「筑前守様の御帰国というぞ」
「お着きは夜半よなか頃になろうとある」
 不時のかがりと、城中の者から、これは忽ち城下にも知れ、口々に伝えられて、どよめき渡るものがあった。
 元日の夕方は、毎年、町屋は早く大戸をおろし、いずこの家も、大晦日おおつごもりのつかれを見せて、宵にはもう真っ暗に寝しずまるのが例だった。――が、天正十一年の姫路城下は、その例をやぶって、宵から万戸、戸をひらいて、道を掃き、かがりをき、或いは金屏きんびょうに花を添え、軒に香を焚いて気をきよめなどする者もあって、見廻りにあるいた騎馬の城士が、
「それには及ばん」
 と、制しても、また、
「御到着は、夜半か、或いは、それより遅くおなり遊ばすやもしれぬゆえ、お迎えには及ばぬぞ。わけて寒天凍地、城下の者に風邪ひかすなと、御母堂様のおことばでもある。――みな戸をとざして、眠るがよい」
 とさとして廻っても、眠るどころか戸をたてて引っこむ者もないのである。
 初めは、軒々にたたずんで、かたまり合っていたり、各戸の店頭に腰かけなどして、町中が雑談笑声に賑おうていたが、やがてけて来た夜靄よもやのうちを、先触さきぶれの先駆二、三騎、
「お着き。程なくお着き」
 と、飾磨しかま方面の並木道から、辻の木戸へ、路傍の警固へむかって、合図して駈け去ると、大手の夜空は一きわ明々と篝をさかんにし出し、町の沿道は、急に、てついたようにひそまり返っていた。
 領民はのこらず軒下の路傍に坐っていた。薄氷も張る寒夜の大地に、むしろも敷いていないのである。
 ――が、時は経っても、城主の列はなかなかこれへ見えない。思うに秀吉はその日、尼ヶ崎辺から乗船して、海路の北風を負って今しがた飾磨しかまの港に着いたのであろうが、船はついても、多くの供の衆や、馬匹、荷駄などを降ろすのになお手間どっていたのであろう。
 土下坐どげざして待つ領民の背に、白い霜が立つように思われた。あちこちで咳声しわぶきもする。騎馬の城士はなお再三、
「まだまだお着きにはいとまがある。夜半の御入国じゃ。御母堂様のお気づかいもあること。皆、戸をたてて眠りにつくがよいぞ。内へ入れ、家の内へ入ってやすめ」
 頻りにさとし廻ったが、情をもって、そういわれればいわれるほど、土下坐の領民は、なお立たなかった。
 そのうちに、飾磨しかま道の並木のうえに、ぼっと火光がして来た。点々と、松明たいまつが近づいてくる。てた大地を戛々かつかつ馬蹄ひづめの音も聞えてくる。
 多勢ではなかった。近臣、小姓足軽などすべてで七、八十人足らずの列。時の羽柴筑前守の入国としては軽装に過ぎるほどなものである。――が何分、その日、思いたつやいな、飛び出して来たので、扈従こじゅうの臣も、顔を揃えているひまはなかったに違いない。
「オオ。おすこやかそうな」
去年こぞよりは、なおお元気に」
「たのもしい御大将ぶり」
 土下坐の民は随喜した。眼の前を通ってゆく秀吉を見てである。彼は金鞍きんあんの上にあり、これは氷上にぬかずいているが、ここにある階級の別こそ、却って民の大安心であった。国主と民の二者に、何の対立なく、民の心は国主であり、国主の心は民だった。要するに、そう二つのものは、完全なる一者の境にあったからである。
「ほ。……おう、おう」
 秀吉は、馬上から、道の右を見――左を見――感声をもらしていた。
 前後の松明たいまつが、彼の横顔を、赤く照らし、その口から白い息が吐かれていた。
 扈従には、蜂須賀父子、生駒、稲葉、堀尾、脇坂などの部将。小姓には加藤、片桐、石田、福島などの輩。みな領民には見覚えのある人たちである。
「寒いのに」
 秀吉のそういった片語だけが、ふと、土下坐の上に聞えた。
(私たちのことを思いやって下されたのだ)
 領民は直感した。せつな、ひとしお頭が下がって、町と道のつづく限りつづいている土下坐の人影は、なびくがごとく、なおひれ伏した。
「どの家の鏡餅も、大きゅう出来ておるよ」
 これも秀吉の声だった。町中に馬蹄ひづめの音もゆるく大股に運ばれていた。
 地へ垂るる慈眼と――
 仰ぐ無数の信頼の眼と――
 この場合、二者は完全な一者だった。別体でなく、同体である。もし別々であれば、この光景は地に描けない。おごりと卑屈との対立から、平等に名をる闘争や、際限なき人間の欲望の葛藤かっとうが、永劫えいごうに血で血を洗いはじめるであろう。
 真の平等は、形に作られた平面にはない。げんたる上下にある。ことばの如く、上下が真の一体一者になったときにある。
 侍――さむろう――下坐に着く――武士の本質もさむろう下坐の姿にある。その武門の棟梁とうりょうに下坐する民も、いられてするのでなく、われからする信頼と安心の姿なのである。
 こよい、秀吉を仰いで、涕涙ているいしている老人も少なくない。
 妄信迷拝もうしんめいはいと見るには、余りに真摯しんしで素朴な涙だった。涙は、彼らの大安心から溢れ出ているものだからである。
(この御方の下に住めばこそ)
 と思う大いなる感謝。また、
(国にこの人あれば)
 となす真っすぐな信頼。――今日も明日も、先知れぬ戦国の生涯も、一切、秀吉のふところに、まかせきっている民だったのである。
 この地方も、応仁以後の暗黒乱麻な時代的苦難の長い流れの外ではなかった。今の老、壮、青年はみなかつての久しい血と飢餓きがの中のただよいを身に知っている。
 かつての不安時代には、今夜のように、土下坐したくも、心から仰ぐ人がなかったのだ。忽ち来て忽ち去る私兵的勢力か、また、それを掃討そうとうして国守群守と称する者が現われても、徳なく威なく長計なく、ただ民にり民にび、汗税かんぜいの追求のみを能とした。為に、下また上をあげつらい、吏の非違やお互いの悪ばかり見つけあった。当然、これは亡び去る。そしてまた、同じような国守が立ち同じように滅亡してゆく。――が、果てしれぬ不幸はむしろ民自体の中にあった。心から尊敬して土下坐する者を持たない民は、同時に、心からな安心を持つことができないからだ。
「…………」
 炎々のかがりに迎えられ、秀吉は早や城内へ入っていた。その盛んな景観を見、最大級の歓びを抱いていた者は、秀吉にあらずして、秀吉の領民だった。
 大手の欄干橋のほとりには、家中の士の家族が、女子老幼まで出て、自分を迎えていたのを見た。
 また、城門に入れば。
 多門やぐらから大玄関までの上りから広前まで、およそ満城の家臣という家臣が軽輩まで残らず地にひざまずいて、われを迎えているのを見た。
 ここへ来ると、秀吉は漆黒しっこくの駒の上から親しく、眼をもって、ことばをもって、
「オオ、みな息災よな。――達者でよい、達者でよかった」
 と、歓びを共にしつつ通った。早やわが家に帰った心地とみえる。
 駒繋こまつなぎの前で、ひらと降り、手綱を扈従こじゅうの手へ渡した後、一瞬、無量な感慨をおもてにして、城内を見ていた。
(さて、生命いのちあったか)
 今さらのようにそう思ったことであろう。
 昨年の夏六月。
 一去、高松攻めの兵をてっし、一鞭いちべん山崎をさして、故信長のとむらい合戦に向ったときは、
(生きて再び還る日やある?)
 と立った門口である。
 あとに残した三好武蔵守、小出こいで播磨はりま守などへも、
(もし秀吉の敗れと聞えなば、わが眷族けんぞくことごとく処分し、城中にいえも残さず焼きはらえ)
 と遺命をさずけて行ったほどであった。
 その家の門に今日還る。天正十一年元旦の真夜半まよなかに帰ったのだ。感なきを得ない。
 もしあの折――
 大機を踏みまよい、長浜の妻子眷族に思いをひかれ、ここの一城に執着し、ここを、死すべし――の一図をもって踏み出しきれずにいたら、西は毛利の大軍に圧せられ、東は明智の強化も成って、ついに今日の帰趨きすうは見られなかったことであろう。――と。
 一箇の人の場合も、一国の場合も、興亡の境は常に、死生いずれへすかにかかる。死中生あり、生中生なし。
 彼を迎えた留守居衆から端々はしばしの召使までが、その夜、身を粉にしても、主人のたその尊い「生」をなぐさめようと争い努めたのはむりもない。
 ――が、秀吉は、休養をとるべく帰った様子でもなさそうである。本丸に入るやいな、旅装も解かずに、はや小出播磨や三好武蔵などの留守居衆をあつめ、
「ウむ、うむ。そうか。……いやよくしておいた。して、あの方は?」
 などと、以後の中国情勢や、領下の諸事情を、きき耳たてる如く聴き、また問うべきことを、たて続けに訊ねた。
 下刻げこく。夜は深更なのである。終日のつかれもあろうに――と、家臣たちは自己の労を惜しむのでなく、主人の余りな精力が体にさわりはせぬかとおそれた。
「御母堂にも、寧子ねねどのにも、宵よりいたくお待ちかねでおられます。ともあれ奥へ渡らせられ、殿のおすこやかぶりもお見せ申しては」
 三好武蔵守一路かずみちは秀吉の姉婿あねむこである。この人なのでこうすすめもできるのだった。首を突っこむように家臣と膝を交えていた秀吉は、今は夜半かと初めて気がついたように「ウム」とうなずき、頷くやいな起ち上がって、
「あすは皆、存分に休めやい。腹いっぱい正月せい」
 と、云い残して奥へ入った。

大慈悲だいじひ


 奥へ渡れば奥にも、彼を待つ老母や妻やめい義妹いもとらが、寝もやらずいた。
 揃って手をつかえる顔、顔、顔――の出迎えを秀吉はまばゆいような眼と微笑にうけて通った。そして老母の前に出て、
「この正月、ようやく寸暇を得ましたので、ちょっと御拝顔にもどりました」
 と、まず何より先の対面をした。
 下坐しもざについて、母を拝す秀吉の姿は、さながらこの老母がいまもって口癖にいう「あの子」そのものであった。
 ふくよかな白絹の頭巾ずきんの中に、老母のおもては、いわずしてもういう以上のうれしさをほころばせていた。
「越し方、並ならぬ御苦労、わけて去年こぞは、やさしいものではなかったのう。――が、ようぞこらえなされた。まずはめでたい」
「この冬は、例のない寒さと覚えましたが、母者人ははじゃひとには、思いのほかお元気のようで」
「おいのう。何もかも和殿わどののお蔭で、このようによい年を迎えさせて貰うておる。年齢としは覚えぬものというが、いつかこの身も古稀こきを一つ越えましたわいの」
「ほんに、明けて七十一とおなり遊ばしましたな」
「思わぬ長寿をするものかな。こう長生きしようとは、ゆめ、思わなんだが」
「いえいえ、百歳までもお生き遊ばして戴かねばなりませぬ。秀吉とてまだこのような子どもでございますから」
「ほ、ほ、ほ。和殿とてこの春は四十八におなりなされたのであろに。……ホホホホホ。何で子どもなどと」
 老母は笑いこぼれる。寧子ねねもまた笑いをたすけた。
「でも、御老母様も常に、あの子あの子と、朝夕に仰せではございませぬか」
「あれは口癖じゃがの」
 秀吉は、よろこびきって、
「どうかいつまでも、そうお呼び下され。年のみはっても、秀吉、正直のところ、心はいっこう年並みに育ちきれませぬ。――その上にもし母者人でもおられなければ、この子どもは大きな張合いを失うて、なお育つ穂も止まってしまうやもしれません」
 と、いった。
 ひと足遅れて見えた三好武蔵守は、秀吉がまたここでも老母と話しこんでいるのを見、いささか、あきれ顔に、
「殿。まだ御旅装も解かずにおいでか」
「武蔵か。まあ坐れ」
「坐りもしようが、まずお湯殿へなと渡らせられ、一浴ひとあみした上にいたされては」
 武蔵守も、ここへ来れば、御表とちがい、秀吉の姉婿むことして、内輪の者のひとりだった。秀吉もまた義兄の言と素直にうなずいて、
「そうそう、それよ」
 と、やおら起ち、
「寧子、案内」
 とあごをすくって出て行った。
 うれしそうであった。それはすぐ「はい」と、良人の声に応じていて行った妻のすがたに、ありあり見えたものである。
 偉大な男性をわが良人とした女性は、選ばれた幸福者には似ているが、狭い女ごころや小さい貞淑ていしゅくの対象とするだけでは、到底、この良人は持ちきれない。
 ほとんど、家にいない日の方が多く、たまたま家にある日も、良人のまわりは十重二十重の公務や家臣や近親が取り巻いてしまう。また、その男性が不断に闘っている創造の世界がげんとして妻を隔てがちである。が、妻はあくまでかしずく妻でなければならない。しかも、よい女房でなければならない。
 寧子は、湯殿の揚り屋に脱ぎ捨てられた良人のものを自身で畳みつけていた。武者羽織、小袖、下着、肌襦袢はだじゅばんなど、それは久しく替えたこともないようにあかじみていた。
 家にいる身が勿体なく思われ、お側にいれば――とふと思われて来ないでもない。けれどこれは日常秀吉の側にいる者の手が届かないわけではない。一事に取り懸ると、その関頭を越えるまでは、体が垢にくさくなろうが身にしらみを見ようが、幾十日でも平気でいる習慣の良人である。――だから、そう感じるときは、彼女が畳みつけた衣裳を退げさすにも、侍女たちへ注意して渡した。
「――おむしがたかっているかもしれないから、べつな所へ置いて、お肌着もお下帯も、熱い湯にひたして洗わせますように」
 ――馴れない侍女は笑いをこらえるのに苦しむ。けれど羽柴家としらみとは切っても切れない縁もある。そもそも彼女がまだ十六、良人も二十六歳というむかし、軒傾いた清洲の弓長屋で、ふたりが形ばかりの祝言を挙げた晩から、親類のほかなるこの親類が、すでに夫婦の生活に立ち交じっていたらしいのである。
 この新妻が初めて新夫のものを洗濯したとき、彼女は、たくさんな良人の親友を、肌着の縫目に発見して、目をまるくしたものだった。
 以来、しらみのことでは、
(わたくしが世間に笑われますから――)
 と、妻がいい、
(ばか、天然にわくものは仕方がないではないか)
 と良人がいい、若夫婦の口喧嘩になることもしばしばだったが、結局寧子ねねが良人を理解してくるにつれ、また、戦陣即家庭、家庭即戦陣の――吹きすさぶ所のけじめない時代――を歩むにしたがい、虱の問題は自然解決がついていた。それを良人の肌着に見出すときは、却って、良人が妻に告げないでいる辛労しんろうをひそかに察して涙ぐましくなるようになっていた。苛烈かれつなる永禄えいろく元亀げんき天正てんしょうの世にかけて、彼女も良人に遅れぬものを日々に学んでいたのである。
「ああ……。極楽、極楽」
 お湯殿のうちの声である。
 それから、せっかちに五、六ぱい、湯をかぶる音がして、
「寧子、背を拭け」
 がらと、檜戸ひのきどが開いた。
 あまり見事でない背中がこちらへ向けられている。
 寧子のさしずの下に、替えの衣裳や足袋、懐紙など細々こまごま捧げて、それへ取揃えていた侍女たちは、その背を見ると、あわてて揚り屋のお次へ退がってしまった。
 そこで皆、つつましくお次の床に控えていると、聞くまいとしても、聞えてくる。
「どうだ、えたであろ」
「ホ、ホ、ホ。さまでには」
「よく見い、この辺を」
 と誇って、ぴしゃぴしゃとわが手で肉体を叩いて見せているらしく――
一頃ひところからみれば、近頃は、金剛力こんごうりきぞ」
「ま。お肌着をはやく」
「待て待て」
「何の、お真似ですか」
「知らぬか。角力すもう取りの四股しこを。――寧子、一番とろうか」
 侍女たちはおかしさに、口を抑え、ククククと苦しがった。
 これが五十近い御夫婦かと、あきれ顔の目と目を見合わせるのであった。
 彼の家族は馴れている。むかしから秀吉の私生活は、時間はきまりなしである。寝食出入、ただ時による。きょうの定めは、あしたの例でなく、あしたの予定は、決して、あしたの規則ではない。
 すべてを、公生活に基づけ、私生活は、その隙間あいまのこと、時雲の緩急とにらみ合わせ、自由自在としているのである。
 自然、日々変化が多い。きのうはしらみえりくびわせ、きょうは一浴に王者の快を思う。
 こよいも、土圭とけいの間の土圭はすでに、うし(午前二時)を報じている。――が今、湯殿から出て来た秀吉は、さあこれからといわぬばかりだ。さばさばと改まった血色を、ふたたび老母の部屋の燭に見せて、
「どれ、すぐ戴こう。秀吉、お腹がりました」
 という。
 はや、膳部の前に座を構えて、杯をもつ、汁を吸う。箸を取る。また杯を挙げる。せわしいことであった。
 三好武蔵守は、老母とともに、笑って見ていた。
「よほど御空腹でせられたとみゆるの」
「ウむ、ウむ、またたくまに酒がまわる」
 と、姉婿の武蔵守へ、杯をわたして、
「寧子。湯漬くれい」
「お酒は」
「あすもある。止めておこ。飯、飯」
 今日の海上の寒かったことや、船中でもいろいろ馳走は並べられたが、こうして老母の顔を見、皆と共に喰う楽しみを予想して、努めて過ごさぬように、空腹を守って来たなどと、秀吉は湯漬を掻きこみつつ、興じ入って語りながら、ふと、箸の先にかけた蕗味噌ふきみそを見、ちょっと、前歯で味わうように噛みしめて、
「これは、珍味」
 と、また箸をのばした。そしてさらに、湯漬を一椀よけいに喰べた。
 老母の眼もとは、うれしそうな波に刻まれて、給仕している寧子をかえりみて、
「お気に召されたようのう」
 と、ささやいた。
 寧子もニコとうなずいた。むくわれたもので胸いっぱいな笑みであった。が、秀吉は頓着とんじゃくなく、一語、
美味うまかった」
 とのみで、箸をおさめ、もう姉婿をつかまえて、話である。
「姉者人も、子たちも、みな達者かの」
「つつがのうおりまする。いずれ伴うて、御年賀にまかり出ましょうが」
「そう聞けば、見ずともよい。家の中の事をさせておけ。女房という役もなかなかよ。いや、御辺にも去年は、ここの留守という女房役をさせ申して、肩が重かったことであろ」
「西国へは、常に、不測あらば一死をもっての気を示して、ぐっとおさえてはおりましたが、一城の留守をお預かりしてみて、初めて、人を用うる難しさを知りましたわい。諸衆を一人の如く、また手足の如く動かすのは、まこと、難しいことで」
「難しいといえば難しい。やさしいといえばやさしい」
「それは、お殿のごとき器量にして――じゃあるまいか」
「なに。違う」
「いや、誰でもできることではない。おのずから、諸衆を率いるうつわであらねば」
「器」
「さればよ」
「姉の婿。秀吉は、そんなに小さく見ゆるかやい」
「小さいとはいわぬがな。――御殿おんとのの器量をたたえたのじゃ。自然、諸侯を率いる器をそなえておらるるものと」
「器ではまだ駄目駄目。小さ過ぎるわえ。秀吉をさしていうには当らぬ」
「なぜな」
「いかに大きくあろうと、器には形がある、限度がある、るるに足るものと、容れ得ぬものとあろうが」
「それは」
「一城を率いる者、それは器で足りよう。一郡を治める者、それも器でよい。だが、三千世界の知識碩学せきがく、乃至、不覊狷介ふきけんかい、乃至、愚婦懦夫だふ、あらゆる凡下ぼんげまでを容れるには、器では盛りきれまい」
「はて。わからぬ」
「わかりきっておる」
「では、そもそも、秀吉という人間は、いったい何じゃ」
「そう訊かれると。……さて、なんであろ、摂津二郡播磨はりま国守くにもり平朝臣左近衛少将たいらのあそんさこんえのしょうしょう――は、さアなんであろうな」
 わざと、小首を傾げ、
「やあ、忘れていた。思えば大きな忘れものよ。――この身もやはり人間であったわえ。姉婿、よう見知りおいてくれ。秀吉は人間にて候うぞや」
「ホホホホ」
「ほ、ほ、ほ」
 秀吉のひょうきんには、内輪では度々見ている老母も妻も、お末の人々も、まわりで笑いこぼれていた。――が、彼と義兄の間には、それこそ滅多に見られない真面目な眉と眉があった。
「われも人間じゃによって、秀吉、人間誰もの心が、まず分る。民のほかにある別拵べつあつらえの器などではないが、民と同じの秀吉ではある。――秀吉は民と一者なり。それしか云いようがない」
「…………」
「さあるからには、まつりごと諸事、心やすい。智者賢人もくるめて人はおよそ凡下ぼんげなものと思う。……が、凡下といえど、底の底には、事あらば涙ともき、怒れば天もつ、霊の泉をみな胸に持っておる。誰にはある。彼にはない。そんなものじゃない。自身気づかぬ凡愚でも持っている。この国に生れた者の生れ性。それだけは確かじゃよ。――何といおうそれを。神といってもよい。仏と名づけてもよい。――とまれ、無限の霊の泉、民にある心底の井戸。――まつりごとといい、いくさといい、秀吉はただその釣瓶つるべよ。上と下とを、くるくる通っておるに過ぎぬ」
「それが汲みかねる。われには汲みかねる」
「いや、汲もうとせぬのであろ。――井をのぞいて、水のうわべのみを見、これはにごり井じゃ、これはれ井じゃなどと、だいじゅう(大衆)粗相そそうに見て、釣瓶の仕替えや、井をののしることばかりを能としておらなかったか――底の底の清水がこんこんと湧き出づるまで真を尽しぬいてみたか」
「…………」
「総じて、諸州の国守もその手代どもも、領下の民といえばなおさら、あめが下のだいしゅを見るに、大衆だいしゅといえば低きもの、智なきもの、いかようにもなるものとなしおるが、秀吉には心得難きことに思う」
「では、御殿おんとのの眼には」
「大衆は大知識じゃよ。秀吉とていつわれぬ。手くだではままにもならぬ。それを動かし、死生も苦楽も共にさせんには、ただただ真と誠を示して、それと一者になるしかないわさ」
 いつにないこと――
 と老母も、寧子も、他言をさしひかえて、燭のまたたきと共にじっといた。
 姉婿の武蔵守には、折々、耳のいたいこともあるらしい。
 が、秀吉が、かくも沁々しみじみ、真面目に心事を語るのは、めずらしいことだった。それは彼が、いまや天下にさん抱懐ほうかいしょぶるに当って、この年の初めを、まさに重大な岐機ききと見、
(――外よりは、内に敗れぬ備え)
 を、まず一族の武蔵守にそれとなくしょくしているものと思われる。
 姉婿たる武蔵守も、そこは以心伝心いしんでんしん、わかっている。それほど秀吉が自分にたのむところあついわけでもあると。
 殊に、彼の長子孫七郎秀次(後の豊臣秀次)は、秀吉の手によって、三好康長の養子となり、まだ十六というに、河内北山で二万石という寵遇をうけてもいる。秀吉の母思いな天性は、骨肉すべてに及んでいた。いやその心情をもって、領民へも臨み、天下の民とも楽しんで暮そうというのが彼の人臣としての誓願らしく思われるのである。
 けれど、彼がおそれているのは、その大誓願もまだようやくしょについたか否かにある今日、早くも自己の眷族けんぞくや家臣のうちには、いまの小成をもってもう誇りおごるの風が絶無ではないことだった。わけて権をもつ吏務りむの面にしばしば、耳づらいことを聞く。
 民と一者の彼は、自分の配下の吏が、民へ無情だったり、民へ不当な私権を振舞うのを聞いたりすると、そのたびに、どこか痛むような顔をした。
 事実、ずきずき胸が痛むのだった。なぜならば、彼は幼にして、またやや長じてからの、貧苦、漂泊、あらゆる下積みの生活のうちに、その権柄けんぺいや無情なしもとが、身の皮に肉に骨髄こつずいに、どういう味がするものか、路傍の犬が人の手の小石を見るときのように、さんざん知って来ているからであった。
 そのくせ、彼自身が、民の公事くじを聴き、訴訟の裁決になど当ると、これはひどい。驚くべき、厳罰主義を下す。
 姫路ではその暇もなかったが、久しくいた長浜や京都政事所では、吏と共に法務を処した場合もある。
 彼の断罪は大ざっぱで、およそ三罰のほかは出ない。三罰とは、
 叱る。
 叩く。
 斬る。
 右のうち、罪の性質にもよるが、斬罪を科すこと度々だった。斬るのを何とも思っていないように斬らせた。時には、刑吏の情においてさえ、余り重きに過ぎるやを思って――畏る畏る秀吉に意をただして再考を求めたところ、秀吉はその吏を叱咤しったして云った。
(たわけよ。誰が可愛い領民を好きで殺すか)
 すぐ云い直した。
(殺すのじゃない)
 また早口に云い足した。
(――一殺多生じゃ。万のいのちをよく生かすためには、折々、ひとりの人柱ぐらいは何でもない。いわんや、金輪際こんりんざい、叩き直らぬような悪性をそれに用うるのは、秀吉の大慈悲じゃわえ)
 そう大喝だいかつしたとき、秀吉の赤い顔が、さらに眼の中まで赤くなって、今にも泣き出しそうに見えたことを――。それは、長浜時代のことだったが、武蔵守は、今ふと思い出されていた。
 大慈悲。
 と、武蔵守は、思い当る――
 それが持てれば、もし権化ごんげともなりきれれば、民と一者の指揮者は、無限な民の心泉から、無限な力を汲みあげられないはずはない――と。
 なお、元寇げんこうの国難のような場合では、なおさら、時の先達せんだつは、民の多くのものの憤怒を身に具足し、民の中に懦民だみん怯民きょうみんを、羅刹らせつの鞭をもて打つことでもなしあたわないわけはない。
 到底、めざる者は、これを斬って、市に示すとも、天は非道とはなし給わぬであろう。
 ――ただそれが、真に、寸毫すんごうの私なき、権にみだるところなき、民と一者の、大慈悲心の下にされるならばである。
(……できない。できないから尊い。故に、もしそういう一者が出れば、一世の日輪にちりん、民の師父だが)
 武蔵守は、そうした反省と、留守中をしょくせられた領政りょうせいとに顧みて、
(似たほどもやっていなかった)
 と、正直に恥じた。
 ――膝ぐみでこうる夜などめッたにない。燭は四更、衆臣もいず、内輪ばかり、寧子ねねや老母の迷惑は察しられたが、彼は、以上の思いを吐いて、なお秀吉に問うた。
「最前。――難しいといえば難しい。やさしいといえばやさしい。まつりごといくさ一定いちじょうと仰せられ、さて、秀吉も人間、民と一者なり、と伺いましたが、その人間とは一体、見た通りのものが真性か。底の底にあると仰せの善美が真性か。いずれがしかと人間の本性なるものでありましょうか」
「きめてかかるが間違いのもとじゃよ。――のう、姉婿」
 秀吉も常になく真摯しんしにいう。
「おたがい、身の姿は一つじゃが、心のすがたは一つでない。おもとさがにも善あり悪あり、秀吉の性にも凡愚あり聡明あり。いわんや大衆。ただその惑濁わくだくの大海より真を汲み、美を飛沫しわぶきせしむることに尽きるわさ」
「さ、それですが?」
「命こそじゃよ。命豊かな民でのうては、求めても汲めまい。また命豊かな者ほど、死も怖れぬ。秀吉、この眼で、若い武者輩にそれを常に見た。――が、人間はみな生きたいものにはきまっておる。帰すところ民はそれよ。何たる寡慾かよく。あわれいじらしい。われら武門は、百難苦戦を真ッ向にかぶって進み行くとも、民の婦女老幼は、生々と生き楽しませつつ連れ歩みたいものよ」
「誰しも思うところですが」
「ここの領下とて、いつ修羅しゅらちまたとなろうも知れぬが、ならばなおさらぞ。およそ人間の生命力とは子を生む。喰う。闘う。沙門しゃもんのいう、愛慾即是道。飲食おんじき即是道。闘争即是道。の三つに尽きると聞く。しかもみな菩提ぼだいへ通じる業とある。戦はおれどもがやる。見ておれというても、見ておれぬのが民の本能じゃ。その戦、いよいよ烈しき日とならば、喰うこと。生むこと。ただその二つを絶対に欠かすな」
「…………」
「また余り世話をやき過ぎぬがよい。政、密に過ぎれば、民、創意を失い、民の力は弱まるという」
「その折の大慈悲は」
「憤怒の不動ふどうたればよい」
「と。不動明王に」
「不動明王と、観世音菩薩とは、二相にして実は一体の御仏ぞや。表裏一の大愛を現わしたものじゃ。……そうそう、お身に与えよう。――寧子、そなたの室に、小さい金色の観音像があったの。あれを明日でも、姉婿の持仏にさしあげろ」

楔子くさび


 鶏鳴におどろいて、ちょっと、横にはなったが、ほとんど、語り明かしたといっていい。
 早暁の太鼓と共に、秀吉はもう衣冠いかんして、姫山の社前に、朝拝していた。
 寧子ねねの部屋で雑煮をたべた。
 そして本丸へ出た。
 この日、正月二日、秀吉の下向げこうと知って、遠近から年賀の礼に登城する者が、朝からひきもきらぬ有様だった。
 秀吉は一々迎え、一々杯を与えて、やがて退がろうとする賀客も留めて、
「まあ飲んでゆけ。ゆるゆると」
 小姓たちも忙しく、
「いざ、こなたへ」
 と、他のくつろいだ室へ案内して行くのだった。
 そこには必ず、その前に通って、はやうららかな顔を揃えている幾組もの先客がいた。
 本丸、西丸を通じて、客のいない部屋はなく、あなたでうたうと、こなたも謡い返し、満城陽気藹々あいあいであった。
 ひるすぎても、秀吉の前にはなお、新たな賀客がたえず、その間に秀吉は、祐筆ゆうひつ三人ばかりを側において、何か雑然と藩の扶持帳ふちちょう庫帳くらちょうなどをひろげさせ、
「それには小袖一襲ひとかさねをやれ。それには太刀をつかわせ。……待て待て、茶具には何がある。彼には、茶入れをやるがよいか、馬をやるがよいか」
 などと年来の功をあんじ、或いは日頃の人物に勘考かんこうして、留守中の諸士にたいする恩賞の要務をっているのだった。
 すべてで八百六十余人という家士への論功行賞は、秀吉は、この日の隙間あいま隙間に見て、
播磨はりまをよべ」
 と、たそがれ近い頃、ひとまず祐筆にしたためさせたものを一括いっかつして、小出播磨守に下げ渡し、かつその奉行を命じて、
悉皆しっかい、四日のうちに仕舞うようにいたせ。五日朝、沙汰を下し、一時に皆のよろこぶのを見るであろう」
 と、いった。
 さすがの秀吉もつかれたか、やれやれと云いたそうに、腰をのばすと、すでに左右に燭があった。
 奥の寧子ねねから使いがあって――
(お忙しく遊ばすのも、お身に限りのあること。程々になされて、せめて今宵ぐらいは、早く奥へお入りあって、ゆるやかにおくつろぎなされますようにと、これは、御母堂さまからのくれぐれのお言伝ことづてでございまする)
 と、いわせ。――そして、
(いつ頃、渡らせられますか、御母堂さまもわたくしも、お食事をいただかずに、お越し待ち上げておりますから)
 とのことだった。
 秀吉は、奥の使いの者へ、
「程なくまいる」
 と返事して返し、祐筆ばらと播磨守へ、
遺漏いろうはないな」
 と、残務をただした。
 一同は、書類を整えて、
「――とどこおりなく」
 と、答えた。
退がっていい」
 秀吉も一緒に立った。寝不足と疲労で、立ったとたんにめまいがした。部屋部屋の謡声や鼓の音は、燭とともにさかんだったが、それすらちと頭のしんに痛いような気がした。
 そこへまた――どやどやと一組の賀客と小姓たちの跫音あしおとがした。播磨宍粟しそう郡山崎の城の黒田官兵衛孝高よしたかが、せがれの吉兵衛長政を携えて、今これへ着いたというのである。
 奥へ入りかけていた秀吉であったが、そう聞くと、
「なに官兵衛父子おやこが来たと。――通せ、通せ」
 彼と黒田とは、ただの仲ではない。彼が手を振っているまに、官兵衛はすでに来ていた。黄昏たそがれのあいろにまぎれて、もう広間の中ほどに立っていた。
 小姓たちが、彼のために、あわてて燭やしとねを席に調ととのえるのをよそに、
「おう、お達者よな」
 立ったままで、挨拶だった。
 秀吉も立ち待ちしていたからである。
「やあれ、官兵衛か。――よくぞ、よくぞ」
 ずかずか歩み出して来て、両手で官兵衛の肩をしかと抱いた。
「あぶない」
 官兵衛は跛足びっこだ。その手を持ちつつ、しとねのない所に、ぺたんと坐ってしまった。――往年、荒木村重が叛離はんりのとき、単身、有岡城へ入り、その折、遂に失った左の一脚に――秀吉は、気づいた。人の身なので、つい当人より後でハッとしたのである。
 手と手を持ち合いつつ、秀吉もびっこのように共に坐り崩れ、
「よろこばしいぞ」
 といった。官兵衛も、
「うれしゅうござる」
 と、いった。
 相擁しているかたちである。
 秀吉は、遠くに、おとなしく控えている彼の一子にも気づいて、
「あれが、松千代か。さても、大きゅうなったな」
「元服いたさせました」
「そうか、名は何と」
「それがしの幼名吉兵衛を継がせ、吉兵衛長政と与えました」
「吉兵衛か。来い、来い」
 手招きして近づけ、本年十五歳と聞いて、
「たのもしい」
 と、自分のものみたいににこにこして眺め入った。
 彼の心の楽しいときは、おのずからことばのはずみにも、それが人に分る程だった。秀吉は、自分らの主客が、燭やしとねからも離れて、冷たい素畳すだたみの上に勝手に坐ってまだ席にも着かずにいるのも忘れて、
「これ。何をしおるか」
 と、傍観をとがめ――
屠蘇とそ、馳走。なぜ早うせぬ」
 と、あごを振った。
 小姓どもは笑った。――笑いつつかしこまって答えた。
くに、お席もお膳部も、あれにしつらえてござります」
 秀吉も苦笑し、振向いたが、席は主座下座に隔てて置かれてあった。それが気に入らぬでもあるまいが、動くのが面倒といった顔つきで、
「これへ持て。膳も一緒に持って来い」
 と、広間の真ん中に膝交ひざまじえの座をさだめ、
「まずは」
 と、屠蘇をわし、吉兵衛へも、みずからして、さて、正月はこれからというように、
「久しぶりよ。さあ、ろうぞ。くるまで語ろう」
 と、ゆたかに坐りこんで見せた。
 大書院の隅のほうへ、その時、侍女こしもとらしい者が手をつかえていた。――また寧子からの使いであった。御老母さまも北の御方もお膳につかれず待ちわびておられますが……というのである。秀吉はこっちから大声で云った。
「さきに喰べいといえ。先に。――わしを待っておると、夜半になるか朝になるか知れぬぞと申せ」
おそくにまかり出て、申しわけおざらぬ」
 官兵衛は、奥の者の気づかいと、秀吉の心からな歓待を知って、すまない顔をした。
「何の、何の」
 秀吉はそうは思わせてはならないように、われもみ、彼にもすすめ、
「近頃、脚はどうか」
 と、たずねた。
 官兵衛は、悪い方の片膝をして、
「寒さとなるとのう――」
 と、ちとめる容子ようすを見せた。それに対し秀吉が、どこかへ入湯でもしては――とすすめると、彼は、ほろ苦い笑みを口辺にゆがめた。
「いや、近々に、けろりと忘れる場所がおざろうて。待ち申しておる」
「どこへの。どこへ行かるる」
 官兵衛は、また笑い、
「殿のほうが、御存じのはずじゃが」
 ――すると秀吉も、破顔一笑して、うなずき、
「はははは。……そうか、戦場のことをいうのか」
「まだ官兵衛を中国の片田舎に隠居さすは早かろう。こんどは率いて行きなされ。せがれも連れて上らにゃならぬ」
「それで先からちと不機嫌のていか。御辺は、退屈性よの」
「なぜ」
「高松退陣以後、まだ半年と遊んじゃおらぬではないか」
「ていよく、毛利への番人じゃった。誰かにさせて賜われ。官兵衛にゃ向かぬ」
「いや、向いたわ」
「向かぬ、向かぬ」
「この山陽に坐したまま、西国四国までをにらまえて動かさぬほどな者。御辺をおいて、誰かある」
狛犬こまいぬと間違えなさるな」
「よういうた。似たりや似たり」
「ほうけたことを」
「怒るまい怒るまい」
「何せい、この度は、ぜがひでも、いて上り申す。――雪解けまでとは待つまい」
「何がじゃ。いったい」
しらを切り召さることよ。さりとは筑前どの、水臭みずくさかろ」
 ほんとうにふさぎかけて来た。官兵衛ほどな男がと、それを見ると、秀吉も気のどくに覚えたか、
「北ノ庄かよ」
 と、急に声を落した。真顔にである。
 官兵衛が顔を解いて、うなずき笑いをして見た時である。――夜となっても、まだ登城を伝えて来た。播磨飾西しきさい置塩おきしおの城主赤松次郎則房のりふさが、同苗どうみょう弥三郎広英ひろひでを伴って――という取次であった。
 赤松の末流で中国土着の豪族たちである。秀吉が中国探題たんだいとして、ここに臨んで後、織田に属し、自然秀吉に随身ずいしんして来た輩ではあるし、かつは、黒田官兵衛にとっても、家系の主筋にあたる人々。かわってそれらの有縁うえんいて、秀吉の麾下きかにまとめたのも、専ら官兵衛の働きにあったことなので、
「それはよい折へ」
 と、ばかり迎え入れて、さらに新規の客膳がえた。やがてまたこれへ三好武蔵守が加わる。蜂須賀彦右衛門父子も交じる。在城の近臣の――あれも来い、これも来い、となって、いつかここの広間は、賓主従ひんしゅじゅう一堂の花畑のような盛会となっていた。
 ――寧子ねねと老母の旨をふくみ、折々伺いに来た奥の使いも、このさかんなる男の集まりを覗いては、秀吉の耳へ、それを伝えるすべもなく、ただかこがおに、行きつ戻りつしていた。
 ――ようやく、奥へひきとって、秀吉が眠りについたのは、その夜も下刻げこく(午前一時)であった。
 元旦のひる、山城を出、陸路海路を経て、同夜入国、翌二日も受賀と、家中一統への恩賞の要務などを見つつ、ぶっ通しに起きつづけて、初めて眠るべく眠ったのである。
 その精力の絶倫ぜつりんさには、彼の家族も側近も、驚き呆れていたらしい。小瀬道喜おぜどうき甫庵太閤記ほあんたいこうきにも、その状を写して、
 ――百合若大臣ゆりわかだいじんいくさにしつかれ、熟睡せられしにも超えたり。傍人ぼうじん、笑止に思ひはべりていふ。およそ、人の気根もつづく程こそ有るべけれ。ぬる年のうちは、つひに夜のひまさへ穏かならざりし。昨今の熟睡の体、思ひやられて痛みにけり。
 三日之午後、やうやうよろぼひ出で給ひ、いささか休息しはべりししるしにや、
 鬼共とも組み打つべうぞ覚えける。さらばと(中略)――御前絶えまもなく拝謁はいえつにぎはひけり。四日五日は近国の衆、或は城主、或は諸寺、諸社の僧官神人集まりつどひ、その様おびただし。
 朝には、大名小名に対し、親愛を尽し、夕べには寵臣近習に向つて、政道の損益を評し、天下泰平の工夫、更に懈怠けたいもなかりけり。
 といっている。
 これに見るも、彼の暮から正月への日々がよくうかがわれよう。そして、諸人への恩禄賞施おんろくしょうしなども万端、五日中に仕舞って、その夕には早くも、
「明日は上洛する」
 と、物頭ものがしらどもへ、足もとから鳥の立つように、準備をうながしていた。
「これは何としたこと」と毎度のことながら、人々はその急なるにまたまたあわてた。
 少なくも今度は、中旬ぐらいまでは在国であろうといわれ、事実、秀吉の容子にも、その日の昼まで、出立の風は見えなかったのであるから、諸士が不意をくったのも無理はない。
 後日になっては、さてはそういう仔細しさいかと、人々にもうなずけたことだったが――それには、こういう動機があり、機をはずさない秀吉が、即刻、それに対して動き出たものなのである。
 関盛信せきもりのぶなる一将がある。
 これは伊勢亀山の城主で、神戸信孝に仕えていたが、つとに、よしみを秀吉に通じ、伊勢ではかくれもない“異心のある者”と見られていた。
 ほかにも、同じ鈴鹿すずか郡の峰ノ城代岡本重政がやはり睨まれていたし、かたがた神戸信孝の岐阜失陥しっかんにも衝動しょうどうされて、同国の形勢は、とみに騒然たるものがあったらしい。
 ところが、この正月。
 亀山の関盛信は、一子一致かずむねれて、そうした四囲険悪な中を、ひそかに姫路へ来て、年賀を兼ね、かつ、爾後じごの策を仰いでいた。
 そこへ早馬が来たのだった。伊勢からである。盛信父子へ伝えていう。
(御不在中、家中の岩間三太夫らが、すきに乗じて、亀山城をり、滝川一益のさしずを仰ぎ、一益の軍、また長島を出て、岡本重政殿を追い、峰ノ城以下、附近の諸城残らず収めて、厳に鈴鹿口を堅めて候う)
 折も折だったのである。
 かく聞くや秀吉は、猶予ゆうよなく姫路を発した。同夜宝寺たからでら城に着、七日すでに入朝し、翌日は安土に到り、九日、三法師に謁した。
 しずたけ決戦の楔子くさびはこの日に打ちこまれたといっていい。
 即ち、その日秀吉が、明けて四歳となったばかりの三法師に謁して、たずさえて来た春駒の玩具など種々くさぐさの土産物をならべ、
「御機嫌御機嫌。おお、おうれしそうな」
 と、他愛なく相手になって、やがて程なく、幼君の前を辞し、安土の一広間へ、姿を現わした時からである。
 ここには、三法師付きの衆臣もい、蒲生氏郷がもううじさともいた。――関盛信、一致の父子も姫路から従って来た。山岡景隆かげたか、長谷川秀一ひでかず、多賀秀家といったような近国衆も詰合わせていた。
「滝川一益征伐のこと。ただいま三法師君のおゆるしを仰いだ」
 秀吉は座に着くとすぐ宣言した。こんな大事を、まりでもほうるように、満座の中へいきなり云って投げたのである。――が、まだ伊勢方面の変を、正しく知っていない者もあるやと、
「仔細は、関盛信から語らせよう。盛信、一同へ話せ」
 と譲って、自身は口をとじた。百言にまさる怒りを見よといわぬばかり沈黙を守っていた。
 留守の間に、家士の岩間三太夫に裏切られ、自城も峰ノ城もられた盛信の感情は、それを移して、一同の義憤となすに充分だった。
 わけて蒲生氏郷の妹は、盛信の子一致に嫁している。両家は姻戚いんせきだ。氏郷の眉目には、誰よりも強い決意が見えた。
「――初めの早馬は、姫路で受け、これへ参る途中でも、次々の報を聞き申したが、その後、岩間三太夫めは、当然、滝川一益と合体し、一益は令を下して、峰ノ城には甥の滝川詮益のぶますを、関には滝川法忠のりただを、亀山には佐治益氏ますうじを、それぞれ配して、鈴鹿口をやくし、こなたの南下を犇々ひしひし備えておるとのことでおざる」
 盛信が云い終ると、
「滝川ずれは何ともないが」
 と、秀吉が補足ほそくした。
「主要は、柴田勝家のうごきにある。柴田がのうては、そんな動きをなす滝川でもない。――で、ここは、柴田の北兵どもがで来らぬ以前に、伊勢一円を片づけてしまわにゃならぬ。やなしずたけなど、境の山々が、いまや積雪千丈の自然の防ぎをなしておるこそ一倍の強味よ。何とよいしおに、岩間三太夫とやらが、滝川を否応なく、筑前の一撃下に、引き出しておくれたではあるまいか」
 そして、笑い出しつつ、その苦笑の下に、
「滝川とて、うつけじゃない。おそらく一益、あの禿げ上がったひたいをたたいて、ちと早かったと、ほぞを噛んでおるにちがいないわさ」
 と、いった。
 勿論、彼のはらくにきまっていたが、伊勢経略の意表を、衆座の中で言明したのは、この日この時で初めてであった。
 彼の口吻くちぶりから見ても、岩間三太夫の無謀の挙を、彼がいかに天恵てんけいの機会とひそかに慶していたかが察せられる。
 が、彼は決して、事を急ぐがために、順をあやまるような愚はしない。入っては朝を拝し、出でては三法師に謁し、なお評議の必要とてないが、ここに衆将を会して、その名分をいやが上にも明らかにしてかかった。
 げきはここから発せられた。
 領国の輩はもとより、友邦の諸将にも広く伝え、共にその正大の兵を安土に集合せんことを求めた。
 あわれむべき盲策もうさくの持主。それは北ノ庄の雪深きところに、麗人お市御料人を室に迎え、
(――陽春、雪解けの時来らば)
 と、むなしく自然をたのんでいた柴田修理勝家にほかならない。
 誰か知らん千丈の雪。彼が鉄壁と見ていた方略の雪壁は、すでに春ともならぬまに崩れ出して来たではないか。
 勝家とて、その地響きに、耳おどろかされぬはずはない。
 岐阜落城。長浜の叛離。神戸信孝、秀吉の軍門に降る、等々の報。
 つづいて、近頃、
(筑前、げきを飛ばし、伊勢攻略の企てあり。滝川また頻りにうごく)
 と聞いては、焦躁しょうそういよいよ思うべしである。居ても立ってもいられない心地があろう。
 しかし、江越ごうえつの境は、雪、蜀道しょくどうの如きものがある。兵も輜重しちょうも越えられたものではない。
(彼より襲い来る憂いなし)
 と、ひそかにたのみ安んじて、進むはそれの解くる日にありとしていた雪は、何ぞ知らん、事今日に到ってみると、敵国の防壁と化していた。おのずから、みずからの兵を、氷雪のうちすなく押しこめておくほかなきものとしていたのである。
(一益ともあろう老巧ろうこうが、亀山や峰の小城などるに、何で時も計らず粗相そそうに兵を動かしおったか。愚かな沙汰よ)
 勝家は真に腹を立てた。
 すでに大計において、自己の盲策があやまっていたことはいて、時を待たず起した滝川一益の行動を、愚だと、ののしった。
 こういう取返しのつかぬ大きな齟齬そごに行き当たったとき、いよいよ、味方は味方を励ましあうべきはずなのに、事実は、妙に味方が味方を口ぎたなくいきどおり合う傾きを生じやすい。
 一心同体の感情にあるので、べつな所の失策も、自分の失策として、自身に怒り自身をじしめる気持からではあろうが、勝家の場合に見ても、その憤激の向けどころがまるで違っている。
 怒るならば、正面の敵、秀吉へ向ってこそ、彼は、大いに怒るべきであった。
 たとえ滝川一益が、勝家の内示を守って、雪解けの頃まで、じっと動かずにいようとしたところで、すでに敵の意を看破していた秀吉が、それまでの時をすものではない。
 要するに、秀吉は、勝家の裏を掻いたのだ。――勝家が和談の使いを立てたときから、勝家の肚の底まで見抜いていたものである。
 その秀吉に憤激を向けずして、味方の滝川一益をののしるなど、柴田修理ほどな人物も、老来やや旧年の名もせはじめて来たかのおもむきがないではない。
 ――が彼も坐してそれをている者ではなかった。再び使いを派して、備後びんごともにある足利義昭よしあきに密書を送り、毛利をして西国より動かしめんと努め、一方、浜松の徳川家康へも使いを立て、極力一方の援けを求めつつあったらしい。
 ところが、その家康は、一月の十八日前後、何の意があってか、また、どういう聯絡れんらくを取ったものか、自領岡崎まで双方から出向いて、ひそかに織田信雄と会見していた。
 厳に、局外中立を標榜ひょうぼうしている彼が、これはいったい何の魂胆こんたんか。
 時も時である。この喰えない男と、喰える男との会合に、周囲も眼をそばだてたが、
(人、その故を知らず)
 とうそぶき、みな口をとじて、噂が噂となることを警戒しあった。

たみとそのくに


 大勢にくらいのも甚だしい。
 もっと突っこんでいえば――
 自分の地位の重きもわきまえぬ軽率無恥なさもしい行為と見られても致し方がない。
 織田信雄の心事である。――いくら家康が招いたからといって、この際、物欲しげに、岡崎までのこのこ出かけて行った彼の気持は、およそ面目とか個性とかの尊ばれていた天正人士のあいだでは、理解に苦しんだことだろう。
(お公達きんだちの心は、お公達になってみにゃ分らん)
 と、されていたに違いない。
 しかしこの――時代の激潮に恟々おどおどしている名門の二世を自家の秘室へ呼んで、わざわざその脆弱ぜいじゃく性を甘えさすような歓待や密語をさずけた家康という者こそ――時人じじんはまだ東海の一若将としかこの頃では注意していなかった風だが――まことに油断のならない存在といわねばならぬ。
 家康が信雄を遇するや、まるで大人が子どもをあやすようなものだったろう。その会見が、どういう内容を結んだかは「人、その故を知らず」である。いわゆる秘中の秘とされていた。
 ともあれ信雄は満悦まんえつして清洲へ帰った。匹夫ひっぷがほくほくした時のようなていであった。が、小心な彼はその姿にまで、終始うしろめたいようなかげを持っていた。秀吉の眼を極度にはばかっていたものらしい。

 時に、その一月十八日前後、秀吉はどこで何していたかというに。――彼は、腹心わずか十数騎を連れ、安土から湖北へめぐって、江越国境の山地を忍びで歩いていた。
 すでに柴田の先手を打ち、滝川討伐のげきを諸州へ発し終り、あれから直ちに長浜へ赴き、そこで軽装を調えて、北境の山岳地方へ廻ったものだった。
 視察はこれで二回目である。年暮くれのうち長浜を収め大垣を攻めたあの振旅しんりょの帰途にも、秀吉はひそかにしずたけから柳ヶ瀬をあるいて京へ帰った。その目的が、柴田勝家とやがての決戦を期す必然な大戦場の実地踏査とうさにあったのはいうまでもなかろう。
「天神山というか。あれにも一塁いちるいを。そこ、かしこの山にも急いでとりでを築きおけやい」
 数日にわたって、雪なお深い山村、渓谷、高地などを歩きまわりながら、秀吉は、杖にしていた竹のさきで、折々、要地を指しては、こう指図して歩いた。
 そして、その陣地構築と、守備とを、柴田勝豊家中の大金藤八郎、山路正国などに命じ、
「いちいちのことは、丹羽五郎左に聴け」
 と、いって帰った。
 丹羽長秀をもって監視とするの意であった。
 こえて二月七日。
 在京の秀吉は、西雲寺の住僧を使いとし、信州海津城の須田相模守のもとに書を送った。
 須田相模守は、上杉景勝の臣である。秀吉の託した一書の内容が何か、もって察しられぬこともない。
 秀吉は、この時において、北陸の上杉景勝と結ぶべきを思い、攻守同盟の約を、我から求めて行ったのである。
 書面は、臣の増田仁右衛門、木村弥右衛門、石川兵助の三名の名をもってさせ、須田を介して、上杉へ申し入れたが、秀吉の胸には早くから「このこと、必ず成るべし」という自信があった。
 なぜならば柴田勝家と上杉とは、数年間にわたる血戦に一奪一譲いちだついちじょうを続け、両国麾下きかの士には解くに解けない骨肉の宿怨が累として横たわっている。今や勝家はそれをも解いて、後のわずらいなく、正面の秀吉に全力を集中したいと念じてはいるだろうが、彼の我意と驕武きょうぶの質は、よくそのような含みのある経略はなし得ぬ者とみていたからである。
 北の上杉へ、二月七日附の一書を送ってから、中二日の後、秀吉は勢州出陣を触れ、総勢、せきを切って南下していた。
 三軍にわかれ、三道から進められ、旗鼓きこ雲にかんし、歩武山嶮さんけんすった。
 即ち、同日同時刻、安土から揚った一柱の狼煙のろしを見て、一斉に発向した三道三軍の編制は、次の組織であった。
“左軍”――佐和山ヲ発シ、土岐多良トキタラ越エヲ行ク。兵二万五千。
“中軍”――高宮ヲ発シ、多賀、大君ヶ畑越エヲ行ク。兵二万。
“右軍”――安土ヲ発シ、草津、水口ヲ経、安楽アンラク越エヲ行ク。兵三万。
 統率の将は。
 左軍、羽柴小一郎秀長に――筒井順慶、伊東祐時すけとき、稲葉一鉄、氏家行広などが属し。
 中軍、三好孫七郎秀次には――中村一氏、堀尾吉晴、その他、南近江一円の兵力、それに属し。
 右軍、羽柴秀吉は、秀勝を伴うほか、丹羽、蒲生、細川、森、蜂屋など合力衆を始め、蜂須賀、黒田、浅野、堀、山内などの直系の幕僚旗本を擁し、彼の全勢力を挙げてみせたかの観があった。
 ――が、事実は、これに用いた七万五千は、なお彼の持つものの一部でしかない。
 備前の宇喜多は一兵も召集していないし、織田信雄の兵もまだこの日には会していなかった。池田、筒井の兵力も一部の参加であったし、因幡いなばの宮部、淡路あわじの仙石なども、特に徴していなかったのである。
 宇喜多、宮部は、中国の毛利の抑えに、池田、仙石は、阿波及び土佐にまたがる長曾我部元親の抑えに。
 また虚に乗じて起るおそれのある根来ねごろ雑賀さいが土冦どこう的なものに対して、畠山貞政や筒井の一部をもってその抑えとし、さらに、雪なお解けぬ江越方面の境にも、秀吉は、手許の武将をいてまで、このことの前にちらほらと、幾隊かを目立たぬ程ずつ派していたもようであった。
 で、秀吉には、今は後の憂いは何もない。すくなくも、万全をそれに尽し切って出た姿である。彼が、滝川一益を踏みつぶしにかかるに、約一ヵ月のこの間の準備は、やや長すぎたし、また大懸おおがかりに過ぎるきらいがないでもなく見える。――しかし、一月七日、姫路を発して以来の彼は、胸中すでに、一滝川を敵の全貌と見てはいない。充分重視していたのは柴田である。彼自身、二回も雪中を冒して、柳ヶ瀬、賤ヶ嶽などの境を巡視しているように、彼はまた自然をも歳月をもたのみとはしていなかった。
 戦は常に人智を超える。それはわれに観るところ、当然敵もふるうところだ。で、秀吉は思う。
彼奴きゃつ、雪解けも待つまい。熊のように穴から出て来おるにちがいない)――と。
 備えは、そこの一面だけに止まらない。中国も阿波も四国も近畿もである。
 よし。
 ――となれば彼は、集中をもって当るのがその真面目しんめんもくだった。
 これは、大事小事にかかわらないのである。前後の方略は持つが、やる、と当面したことに集中する。戦ばかりでなく、日常の時務、楽しみにも、そうであった。
 さて。
 三道の軍は、近江伊勢の脊梁せきりょう山脈をこえて、やがて南降を示し、かねての作戦にもとづいて、目標の桑名、長島附近に合流した。滝川一益はここにいる。
「ひとつ、秀吉のいくさぶりを見るか――」
 敵迫ると聞えた時、これは滝川一益が、左右へ放った揚言ようげんであったという。
 彼にもそれくらいな自負は充分あるべきところである。
 ただ、否みがたい内心一齟齬そごとして、
(ちと、早かった)
 となす時機の問題があった。開戦の機を誤ったことである。それは勝家と信孝と自分と、三人だけの密契みっけいとして、一族幕僚にもかたく秘めていたために、却って、内に機を焦心あせる味方から盲目的な口火を発してしまったのだ。他を責める前に、余り秘密主義過ぎていた首脳者の自身を責めずにいられない性質のものでもある。
 で、この喰い違いは、
(事ここに及んでは――)
 との当然なる一擲いってきに附し、事態の急に一切を挙げたのだった。
 岐阜へも、越前へも、事態の急を早馬しておき、長島の城には、一族の滝川源八、同彦次郎などの兵二千をめ、自身は日置へき五郎左、谷崎忠右ただう、小林直八、玉井彦三などの旗本精兵をひっさげて、桑名の城に拠ったのであった。
 一面に海をめぐらし、一面の市外には丘陵を持つ桑名城は、長島よりは守るによく、敵を撃つに利がある。
 といって一益も、この狭隘きょうあいな地区に、いたずらな持久を策すのみではなかった。勢州西方の山地から鈴鹿口へかけて、峰、国府、関、亀山などの諸城が散在している。敵の六万余も、その一部は、岐阜ぎふ方面の抑えにかねばならず、長島へも幾部隊かを当てるであろう。さらに、以上の諸城へ攻撃を向け、この桑名へも迫ろうとするとなれば、当然、寄手の兵力は分散され、たとえその主力軍たりとも、いうが如き怒潮どちょうの勢いをもつわけにはゆかなくなる。
 かつは、敵大軍も、数量いかにも物々しくは聞ゆるが、三国みくに鈴鹿すずかなどの尾甲びこう山脈の嶮を越えて来た長途の兵だ。軍需、食糧などの荷駄隊が多くを占めていることも察知するにかたくない。
 こうて、一益は内心、
(秀吉を破ることかたからず)
 となし、
(ひき寄せて、散々に撃ち、機を計って、信孝を再蹶起さいけっきせしめ、岐阜の兵を合わせて長浜へ殺出せん)
 と、期しているかのごとき軍容だった。もちろん今度は齟齬そごなきように、亀山、関、国府、峰などの守将たちへも、この方針を伝えてもあるらしい。
 麾下きかの将士もまた、
(近頃、おごづらの羽柴勢に、目にもの見する日は今だ。百錬ひゃくれんの滝川勢のやり鉄砲がどんな味のするものか覚えさせてくりょう)
 と、意気はすさまじくたかい。
 結果が出た後になってみれば、そうした一概の強がりは、やはり大処大観にうとい地方認識に過ぎなかったことが合点されるのであったが、滝川子飼こがいの者や一族の頭には、何といってもまだ神戸信孝の存在や、柴田勝家の勢力などが、よほど重大視されていた。――のみならず、滝川左近将監しょうげん一益という自分らの主人と秀吉とを端的に比較しても、秀吉の指揮する兵に敗れ去るような大将とは、どうあっても考えられない者たちであった。
 ――ただ、一益の麾下きかの士には大勢にはくらいが、土地と縁の深い土着の強味のある者は多い。一益の出がやはりこの地方の甲賀大原の産だからである。
 甲賀でも、滝川姓の族は、みな由緒ゆいしょある家すじだった。一益もその血系の子であった。鍛武のまなびはもとよりのこと、若年ずいぶん辛酸しんさんもなめたらしい。
 彼もまた、明智、羽柴などと同様に、信長に見出されたことが、何といっても、世に伸び出したいとぐちであった。
 けれど、年配、家柄などからも、当然、彼は明智の上にあり、秀吉などよりはずッと先輩であったのはいうまでもない。
 よく世間は、信長が秀吉を愛したことを特にいうが、秀吉が大成して、その君愛を世に生かしたからこそいわれることであって、信長としては、いわゆる士を愛していたのである。ひとしく、光秀も愛していたし、勝家も愛していたし、一益もまた、並ならずその質を愛されていたものだった。
 それにこたえて、一益の武功も、数えきれぬ程なものがあり、ひと頃、織田の滝川槍隊の前に立ち得る敵はなかった程である。
 めずらしく彼はまた、士人にして経営の才にも富んでいた。信長が志業を中央へべる始めに、その後顧こうこたる三河の家康を説いて、織徳しょくとく同盟を成功に導いた彼の功は信長も大きく買っていたらしい。
 ついに、丹羽、柴田などと共に、宿老の重きをなして来たのも当然とされ、蟹江かにえ、長島を所領しては、その地方的信望もあつきを得ていた。由来この地方は、牢固ろうこたる門徒勢力が錯綜さくそうしていて、家康も手をやき、信長さえも散々手こずった難治の地である。――先に信長の死去に際し、上州引揚げの帰途には、北条勢にはばまれて、為に清洲会議にも出遅れるというまずさを見せたが――一益ほどな男が、いつもそんなまずさをやる者とは思えない。よくこの地方を治めて来たという一事だけでも、彼が尋常一様な凡物でないことは証し得て余りがある。まして麾下百錬の精鋭はなお“滝川衆”の名をして誇る剛強揃いでもあるにおいては。
 秀吉は、この敵を前に、決して軽視していない。
 桑名へ迫るに先だって、鈴鹿郡川崎村の峰ノ城へ、一部兵力を抑えに残し、神戸、白子などの民屋を焼き立てて、途々小邀撃しょうようげきしてくる敵を鎧袖がいしゅうしょくの勢いで圧しながら、やがて矢田に陣した。
 土岐多良ときたら越えの一軍も、大君ヶ畑越えの一軍も、共に、桑名攻囲の部署についた。
 一益の予想に反して、秀吉は各地の小城出城には右顧左眄うこさべんなく、敵の中巣ちゅうそうへ向って、全主力を傾倒し来ったのである。
 ――が、布陣終ると、
「構えて敵を粗相に見、城壁の下へ詰め寄るな」
 と、いましめた。
 臆病なほどの令である。しかし、秀吉は敵の火器を重視していた。世に銃火器に精通くわしい者、明智に次ぐは滝川なり、という定評のあった過去を今も忘れてはいない。かたがたその城庫には多量な矢石しせき火薬の蓄蔵も必至と見られたので、
「まず、城下を焼け」
 と命じ、目前に敵府へ迫りながら、敢えて急追の体を見せなかった。
 令一下、寄手の軽兵は、町々へ放火しだした。
 これには焼草と火薬をつかう。
 敵国へ侵攻の際、これは多量に携行した。火攻は、戦略遂行の要法とされていたからである。
 こんどの勢州入りでも、秀吉の軍は、沿道の民屋から、矢田の本陣附近の村落まで、余さず焼きたてて来たのである。
 ※(「風にょう+炎」、第4水準2-92-35)ひょうえんは忽ち城下をおおう。
 すぐそこに見えていた桑名の城すら見えなくなった。辻は火の跳舞ちょうぶと、家々の残骸と、煙る鉄甲てっこうの人影しかない。
 奇兵を用うるに便となった。城兵は、炎煙にまぎれて突出し、到る処で、寄手の軽兵のうしろへ廻り、箇々に包囲して、鏖殺みなごろしにするの策に出た。また市倉や民家をたてとして、鉄砲で狙撃そげきする。これも寄手を悩ました。
「――母ちゃあん」
「婆ようっ。婆ようっ」
 あわれ、これらの声は、甲冑かっちゅうの者から出る叫びではない。
 包囲二日後にも、なお残っていた庶民がある。ささやかな食器家財などを持ち、老いたるを負い、病人を励まし、乳のみ児を抱き、足弱を曳きつれ、火の家を出て、剣槍の下をはしる髪おどろな人影が――武者たちの眼を幾度かよぎった。
 ――あな、いたまし。
 と見ぬではない。
 が、戦いである。
 火と戦いは付きものだ。戦い始まるや煙を見る。一日前か二日前に、その予報を眺めながらも、何する間さえないのもいくさだった。
 煙の店で母を呼び、剣槍の間から子を呼び求める。しかし、これがあり得ぬ大変とは、魂消たまげもしない領民だった。
「戦ッ。戦だぞよっ」
 と、励まし、たすけあうばかりである。戦のない世間はなく、戦のない生涯など、考えられもしなかったその頃の人達だった。いや、この戦国期だけでない。かつての応仁前後、建武正平の頃、鎌倉期、遠くは上世の応神、推古、宇多、後宇多等の御年代にわたっても、外夷がいいの征、内賊のばつなど、地に戦を見ぬ日が、果たして幾日あったろうか。
 文化の万朶ばんだ、華のごとき時代といわれ、上下みなおおらかに、日々、春日しゅんじつの下にいたかと思われている――あの万葉の歌の生れた時代でさえ、後人はその歌のみを見て、天平宝字てんぴょうほうじ絢爛けんらんを慕うが、実は、その万葉の世頃、約四百年の間にも、国家には、外征、外冦がいこうの変、国内の乱。飢饉ききん、天変地災などが、代々にわたってあった程であることは、人、誰もいわず、誰も思わない。
 いずれにしても、戦いは、地震の頻度ひんどほどあった日本である。わけて戦国期の民は、その中に苦楽し、その下から新しい年々をてていた。都でさえも、洛内くまなき地、兵火の灰より成っていない地層はほとんどなしといってよい。
 桑名も、秀吉軍が迫る前に、く城内から領民へ、
退く者は早く立ち退け」
 と、布令ふれられていたが、やはり多くは残ってしまったものらしい。可憐いじらしさ、不愍ふびんさ。しかもベソは掻かず、飽くまで生きんとし、生きんとし、はしのがれる生命のたくましさ。甲冑かっちゅうの士の流す血しおとは、またべつな健気けなげさがある。
 およそ長い歴史を通じ、何が強靭きょうじんかといって、民の不撓不屈ふとうふくつほど、驚歎されるものはない。
 往時、浅間山が大噴火すると、麓の村々は、一夜にすがたを消し、地物はみな灰の下になったという。灰が土と化し、木が生え、畑ができ、村ができると、また大噴火があったという。
 しかもいつかまた、村がち、町につづき、ひな節句せっくには、草餅をつき、秋の月見には、新酒で蕎麦そばを喰べたという。
 史上の、いかに烈しい戦乱といえ、それによる転変といえ、この民の力の大示にまさる力を見ず、この不撓不屈なわざに比類するものもない。
 それと戦いとは違うが、民の性根しょうねというものは、これ程なものだというには、あかし得て余りがあろう。
 また、その克己こっきと、戦いの艱苦かんくとをくらべれば、戦火のごときも、物の数ではない。いかに烈しかろうと、人と人との戦いだというに尽きる。
 戦国時代の民が、のべつ戦乱の中に置かれながら、あの大どかを持ち、ついに醍醐桃山だいごももやまの文化を築いたのも、元来、こういう性根の民だったことを思えば、驚くには足らないことであるかもしれない。
 しかし、古来からあの当時までも、ひとたび戦争となれば、その領辺一帯には、早くも敵国兵の姿を見、春ならば麦を、秋ならば稲を、農田のあらゆるものまで、焼かれ、刈られ、掠奪りゃくだつされ、家は勿論、ぱりぱり焼き立てられたものだった。
 村落を焼き、町を焼き、橋を焼き、敵を断つ。――これは攻城野戦ともにやる常套じょうとう的な正攻法で、兵家としては、まことに陳腐ちんぷな一攻手に過ぎない。
 ――が、百姓町民はその都度つどに会うことである。火に追われ、流れだまや、白刃素槍すやりにも見舞われる。血にすべりかばねにつまずき、落ちてゆく山地の夜には、また、剽盗無頼ひょうとうぶらいの徒が待っていた。
 この民に、食を供与きょうよしてくれる者はなく、却って、彼らが持って逃げたわずかな食糧をも、これを奪う者のみが、野や山にはまだ多かった。
 ――が、こういう後にも、なお彼らが、再び群をなして、何処からか焼け跡へ帰って来る姿を見ると、幾日も幾日も、喰う物とてなかった筈なのに、――しかも非常に明るくてなごやかで、もう明日の希望にかがやいていた。
 何が、彼らをして、こう不死身にしたかといえば、それは、物乏しければ乏しくなるほど、彼らは相見互あいみたがいたすけあい、心と心とのやりとりをもって、より強くうるわしく、生きる道を知っていたからだった。
 そして、田に帰ればまた、黙々と田を耕し、町へ帰ればまた、孜々ししとして、小屋を建てた。
 ――やがてまた、これへ。
 さきに籠城ろうじょうと同時に城へ入って、城中の士を助けていた若い男どもも、間もなく各※(二の字点、1-2-22)の土と家に帰って来るのだった。およそ働き得るほどな男どもは、日頃の城主の恩を思って、家中の士と共に城入りするのが、彼ら庶民の道義としても、当然とされていたからである。
 これ程な民だった。故に、この民を持っても、よくこの民の心を持ち得ない国主が、過去永禄えいろく以来、滔々とうとう、亡び去っていたのも当然だった。

心耳しんじ機眼きがん


 互いに軽兵を出して、諸所に、奇襲逆襲の交綏こうすいはあったが、桑名攻守の両軍のあいだには、依然、大戦闘はなかった。
 四六時中、決戦機の寸前を、いッぱいにはらみながら、相互ともに、本格的なうごきを示すなく、数日は過ぎたのである。
 その間に、滝川一益は、秀吉の本陣地、矢田山の情況を充分に偵知ていちし得たものの如く、城中の首脳部を会して、“或る作戦”のふくみをたたえていた。
 秀吉もまた、直ちにそれを、察知したものの如く、前線の尖角せんかく陣地から山麓の要所へわたって、壕を掘らせ、柵をわせ、かつ、
「こよいから陣々には、夜どおしかがりを絶やすな」
 と、令した。
 城兵の動かんとする気配を――必ず大挙して大夜襲に出てくるもの――と予感しての先手を打ったものだった。
 果たせるかな滝川勢は、翌晩、城中の精鋭数千を七手に分けて、一手は城の北門を出て市街、一手は西路へ出、これは常の如き小奇襲を行うものと見せながら、他の大部隊は、黒々と搦手からめてから市外を遠く迂回して、全軍ばいふくみ、必殺の意気をこらしつつ、矢田山の敵本営へ向って進んでいた。
「――や。待て」
 一益は、突として、鞍の上から声を発した。
「待て。兵を止めろ」
 流るるが如き列の中にありながら、彼は馬首をめぐらしてはばめていた。
 前後にある幕僚ばくりょうたちの影は、何事やらん? ――と疑うように、彼にならって駒を止めたが、前隊はなお知らないで先へ進んでいた。――当然、中軍との間が約半町も隔てられた。
「……見合わせよう」
 一益のことばである。
 部将たちは意外として、
「こよいの夜討をですか」
 と、ひとしい眼をみはった。
「そうだ。早く、先鋒せんぽうを呼びもどせ」
「はっ」
 なぜと、ただしている場合でもない。四、五騎がすぐ駈けた。後続隊へも、
「もどれ。――戻るのだ」
 と、物頭ものがしらたちが、いぶかりまどう足なみへ、にわかに、令を伝えている。
 矢田山へはまだ一里の余もある。
 どうして急に大夜襲の決行を見あわせたのか、城へ帰った一益の口から親しく説明されるまでは、誰にも、そのこころが分らなかった。
「いかぬわい。さすがは筑前、くに夜討を備えておる。なに、どうしてそれが分ったというか。……はて、愚なる問い、それしきの心耳しんじ機眼きがんがのうて、いくさができるかよ。見ておれ、やがて物見が帰って来て告げることばを」
 程なく、大物見の者が帰城して、帷幕いばくへ詳細を報告した。それによって、一益の言があやまっていないことがより明瞭になった。敵の矢田山附近には、一日のうちに、新たな柵と塹壕ざんごうが急設されており、各陣地には、炎々とかがりが望まれ、夜半といえ、戦気はみちみち、少しの間隙も見えなかったという。
「ああ、危うかった」
 諸将は一益の明察に推服すいふくした。同時に敵の秀吉にも感心した。秀吉もまた心耳と機眼のある大将かなとひそかに思った。
 ――が、当の秀吉は、その夜すでに、矢田山の本陣にはいなかったのである。
 秀吉の主力は一転して、鈴鹿口の攻略に移っていた。
 桑名の攻囲には、単に城を攻囲しているだけの兵力を残して、忽ち南進し、十六日から、まずこの地方の小城寨しょうじょうさいの主塁と目される亀山城へ攻めかかっていた。
「踏みつぶせ」
 秀吉の令はこれだけだった。
 桑名へ取りかかったときとここでは、まるで気魄きはくちがっていた。
 彼処かしこには、長期をゆるし、転じてここでは、寸刻の時もゆるさぬ猛相もうそうを示して攻めさせた。
 さきに一益に直面したときの秀吉の戦策を、ひそかに皆、
(歯がゆし!)
 としていた麾下きかである。先を争って、城壁へ肉薄にくはくした。
 が、城将の佐治新助益氏さじしんすけますうじは、これも聞えた侍である。防戦実に見事だった。秀吉をして折々、
「やるの。佐治め、やるの」
 と唇を噛ませる程だった。
 山城やまじろなので、ほりはないが、鉱山かなやま掘りの坑夫をつかって、城のまわりに塁壕るいごうを深く掘らせ、これに鈴鹿川の渓流を切って流し、寄手の徒渉としょうを困難にした。
 西北を山にして、守り口を狭く取っているのもこの城の強味だった。どうしても、寄手に際限ない出血の犠牲を払わせなければ、足もとへも寄せつけない天嶮てんけんと最善の戦備をも持っていたのだった。
「――今日は」
 と一揉ひともみに見えた城が、明日もちない。次の日も陥ちない。
 総攻撃は、毎日だった。
「この小城一つに」
 と、羽柴勢は、部隊をかえてかかるごとに、その部将が、一番乗りの先頭を期すのであったが、頑として亀山は陥ちない。
 かくて、羽柴軍の主力も、約半月、ここで釘づけになりかけた。その間、わずかに占め得たところは、東側の城壁に接した一隅の地だけであった。
「城の小さいやつは、攻むるにはむしろ攻め難い。大城は厳なるに似て、実は、虚を生じ易く、内の破れを誘う手段てだても施しうるが、数千に足らぬ人数も、しかと、小城の内にって、一心り固まって一つとなると、これは十州の兵を追うより難いぞ」
 秀吉もちとあぐね気味にこう洩らしたが、決して策なき前には、こんな気持を幕僚に洩らす彼でもない。
 すでに数日前から、兵をして東側の城壁の下から深い坑道を掘らせていたのである。もちろん城中へ向けてである。ひとつの土龍もぐら戦術ともいえるものだった。これは前例のない戦法でもなく、城壁を高く持つこと極端なほど堅固な中国では古くから行われている法である。
 また、そこから搬出はんしゅつされる土をもって、城外の濠をどしどし埋め立てて行った。城中には明らかに動揺が認められた。秀吉はひそかに、
「――落城近し」
 と結論を抱いていた。
 ところが、やがてその地下突撃路が、城内へ貫通する日も間近のうちと思われていた一日、轟然たる大爆音が地をすった。
「ア。何か」
 城に近い山上に在った秀吉も思わず床几しょうぎから突っ立った程であった。
 その手の堀秀政が、やがて息を切って、告げに来ていた。
「――敵もまた城内から、同じ方向へあなを掘り進めて来たものらしく、爆薬の火計にかかって坑内のお味方はほとんど全滅をこうむりました」
 聞くと、秀吉は言下に云った。坑道突撃隊の味方が全滅した――という悲報にたいし、彼は、その「報」は耳に取っても「悲」は膝を打ってね返していた。
「やあ、では坑道あなみちとおったな。ようし、道はひらけた」
 振向いた秀吉のひとみに、諸将は、ことばもたず、片手を地へつかえ、各※(二の字点、1-2-22)、眼をかがやかした。
氏郷うじさと長可ながよし――すぐその坑道から城中へ入れ。敵は二度三度と、火薬をもって、埋めふさぐであろうが、もう容易たやすい。時移すな」
「はっ。――参ります」
 蒲生氏郷、森長可は、すぐ立って、各※(二の字点、1-2-22)麾下きかのいる方へ駈けた。
「やれ、この小城に、存外な長戦ながいくささせられたが、勝目は見えたぞ」
 つぶやきながら、秀吉は床几しょうぎから立った。そして幕舎の外へ出ると、彼方此方あなたこなたに、空の屋根と草のしとねを楽しんでいる武者たちの群が見られた。
「貝の者――」
 と、呼ぶ。
 おうっ、というこたえ。
 あたりの甲冑かっちゅうは音を揃えて一斉に立ちあがっていた。
「吹け。総がかりぞ」
「はっ」
 螺手らしゅはそこからもう一段高い岩上へ向って駈け上がった。
 その影が、くっきりと一つ、夕空に浮く。
 ほらがいは鳴った。高く、低く。
 これを吹くにもむずかしい法があるという。
 吹鳴すいめいの合図を果しながら、なおその中に秋霜しゅうそうの陣気がなければならない。進むに、死をえしめ、退くに、乱れなきよう、粛たるものを感じさせなければならない。で、耳のある将は、螺声らせいを聞いて、その兵の怯勇きょうゆうを知るといわれている。なお心耳しんじのある名将となると、いかに上手じょうずが吹いても、敵の看破みやぶり、虚実を察し、鋭鈍えいどんはかり、決して、その耳をあざむくことはできないという。
 故に、螺手らしゅの気は即、味方の士気でもある。沈剛大気の士がそれに選ばれたことはいうまでもない。
 が、中には、
(貝の音ぐらいで、そんなことまで分るはずはない)
 と疑う者もある。疑うのはそもそも、耳はあっても、心の耳を持たないからだと説く者もある。
(では、心の耳とは?)
 と来ると、問われた者も、これは教外別伝に附すしかないであろう。けれど茶や禅などに参入した人ならすぐ会得えとくはつくはずである。
 一例がある。茶の席入りにつかうあの銅鑼どら、あれは非常に余韻よいんを尊ぶ。客は、主の一打、一打に、身を澄まして、心でその音を聴くからである。
 銅鑼には、南蛮、朝鮮、みん、和作など種々ある。ところが、争われない事実は、その国の盛んにして民土興隆の時代に製せられた物は、ボーンと一打のあと、音いろの末になるほど、陽々と天上に昇るかの如き余韻をひろげてゆくが、それに反して、もしその国の衰退期に作られた銅鑼であると、いかに打手がよくても、音が美わしくても、余韻は陰々と地へ地へと消え入って、いわゆる楽しむ声を帯びていないものだという。
 また、一般の歌調音楽も、あれはらずらずに、民の志気を導くものとされているので、古来の名宰相は、ちまたの童歌も決しておろそかには聴いていなかった。それをもってみれば、螺手の一吹いっすいも、聴く耳にとっては、怖いものとする方が、或いは本当かもしれぬ。
 籠城の将、佐治新助は、
「城門をひらけ。たつみ矢倉を除くのほか、持口の守備わずかを残し、一陣に各所から突いて出ろ」
 と、急に命じた。
 腹心の老将が注意した。
「あれ聞き給え、寄手の陣所の方に、折ふし、総がかりの貝を烈しくふき鳴らしておりまするぞ」
 新助は、にが笑いした。
「御老体。それゆえに出て働くのじゃよ」
「この塁壕るいごうって守れば、戦うに利がありましょうず」
「壕はすでに埋められておる。城壁をたのんでいる時でもない。敵の越える前に、存分、城外で駈け蹴散けちらしてくりょう。――それからでも守るには遅くあるまい。御老体、機を観て、退き太鼓を打て」
 云い放って、佐治新助もまた、一門から馬上に槍をいだいて駈け出た。
 鈴鹿山と思える空の落日がまださえぎる物なく地上をあかねにしていた。広きへ殺出さっしゅつした城兵と、押太鼓を打って、狭きへ迫り会った寄手とが、喊声かんせいをあげ、奔馬ほんばを駈け合わせ、はやくも狂瀾怒濤の相搏あいうつ状をえがき出した。
 寄手にとって、城兵の猛出撃は意外だった。守ることすでに半月、相当疲れているものとていたし、また、この大事の総がかりには、必然、彼はいよいよ守塁や城門を堅く守る一方と見込んで駈け寄っていたからだった。
 ところが、貝合図と同時に、城門を開いて出て来た城兵の方が、むしろ攻勢を示して突ッこんで来たのである。鉄砲はほとんど組織だてて射つ間はなかった。寄手は各隊ともに、ひたすら城乗りの一番を心がけている槍組の将士が列をくずして駈けて来たところだった。
 為に、近頃の野戦では見られなくなりかけていた槍と槍、白刃対白刃、馬上馬上の斬りあいが、全軍にわたって展開された。高地から望むと、馬けむりと喊声の中にきらめくそれが無数の針のように見えた。
 いかに秀吉の兵でも、必死の兵には押されざるを得ない。山の上の秀吉は、凝然ぎょうぜんつばをのんでいた。平日の彼には見られない顔のしわが一つ二つよけいに寄っている。
 ――と。やがて、
「あ。……氏郷か、長可か。はや城中へ入りおるな。坑道は通った」
 初めて顔をほぐし、それと共に狂気の如く鳴っている敵の退き太鼓を、体じゅうで聞いているように、床几しょうぎの身を少し前屈みに曲げていた。
 佐治新助を始め、城方の兵は、あざやかに退いていた。
 る機と見て――敵に離れず追い討ちかけて行った寄手は、すぐ眼のさきに、城の石垣を見たと思うと、その下に、伏せ身をしていた城兵にわッと立たれて、思わず退き足を乱した。そこを、城壁の上からも、城門の上からも、一斉に狙撃そげきを浴びせかけられた。
 これは城方の老巧が、出撃の味方をとどこおりなく収容する奇策だったこというまでもない。瞬時にして、城門の鉄扉はかたく閉められていた。
 そして、次には、それらの者が城壁の上に現われ、
「寄らば、これぞ」
 と、じ登ろうとする寄手の頭上へ、火矢乱石を浴びせかけた。
 その中に、城を離れて、動かない一軍団があった。敵とも味方とも分たぬ位置に黒々と見えるのである。
 山野は暗紫色に暮れかけ、落日の射るところだけが、草も地も赤かった。
 秀吉は、山上の床几場しょうぎばから、ふと、不審な一軍が野中にかたまり合ったまま、さっきからじっと動かずにあるのを認めて、
「はて」
 と、小手を眉にかざし、
「あれや、誰の組だ?」
 と左右へたずねた。
 小姓の中の石田佐吉が、きぱと答えた。
「お味方の勢ではございませぬ」
「なに。味方でない」
 驚いたらしい。
 秀吉はさらに凝視していた。
 乱軍の果て、敵はことごとく城中へ引きあげ、味方はそれにいて皆、城壁の真下へなだれ寄っていた際なので、今頃なお敵の一軍が、この本陣地の近くに、じっと、居残っていようとは思いもしていなかったのである。
「ウム……。健気けなげな奴よ」
 敵をめるかの如くうめいた彼は、辺りへ向って、その敵を見届けて来い、と言葉強く命じた。三名の武者が声に応じて駈けた。程なくその影は、ふもとから三騎となって、動かぬ敵団の方へ近づいていた。
 ぱっと、敵の前で硝煙しょうえんの立つのが見えた。三騎のうち二騎まで落ちた。が、うちの一騎は程なく駈け戻り、床几の前に報告した。
「敵将佐治新助の老臣、鵜殿斎宮うどのいつきの手勢でありました。人数は三百に足りませぬ」
「さてこそ手練者てだれもの。――序戦の乱軍には目もくれず、じっと、動かず居残っている体は、死を決した者のみが捨身をもって、暮るるとともにこの本陣へ突き入って来る覚悟と思われる。いや、危ういことだ」
 秀吉がこうつぶやいている間に、秀吉の令を待つのももどかしく思っていた味方の旗本の小勢であろう、陣していたふもとの疎林からいちどに駈け出して、彼方なる不動の敵団へ、わあっと咆哮ほうこうを向けてゆく人数が見えた。
「何者だ。――出たのは」
 左右の武者たちは口々に声をはずませてそれに答えた。
「猪右衛門です。猪右衛門ですっ」
「山内猪右衛門一豊の手勢に見えまする」
 秀吉もつり込まれて、
「猪右衛門か」と、思わず叫び――
「敵は必死の兵、心もとないが、猪右衛門なら、あれも生きる気で出おるまい」
 果たして、山内一豊の手勢は、それへ当るに、驚くべき果敢を示した。動かざる必死の敵団も、その一触いっしょくをうけるや、眠れる虎が、一吼いっくして立ち上がったような猛気をふるい、両勢、およそ同数の兵が広き地域へ分裂もせず、うずとなって戦い合った。彼も必死、これも必死、まさに鮮血一色の死闘図だった。
 その喊声かんせいもハタと止んだ。野はすでに暮色である。勝敗は一瞬に決したのだ。猪右衛門一豊以下わずかの影が、綿のように戦い疲れて引っ返して来る。馬の足もとまでよろめいているかに見えた。
 約三百の兵が、わずか四、五十騎しか戻って来なかったのである。その時、秀吉の側から、秀吉の旨をうけた使番の尾藤勘左衛門が急に下へ駈け降りていた。そして中腹の岩鼻から、下を通る一豊へ向って勘左衛門は、
「猪右衛門、猪右衛門。お働き御覧ぜられ、筑前様には、大慶たいけい斜めならず、やるわやるわと、躍り上がって、尻餅をおきなされ候う程ぞ。――御面目にこそ!」
 と、大声で祝った。
 猪右衛門は、馬のまま、上を仰いでニコと歯を見せ、
仰山ぎょうさんにいわるるなよ。面映おもはゆいわえ」

 亀山の城は、その夜、陥ちた。
 守将の佐治新助以下、よく防ぎ戦ったが、城中に火を見るに至って、ついに力尽き、新助は、重囲の中に捕えられてしまった。
 一説には、身を秀吉の軍にまかして、城中数千の士民の助命を乞うたものともいわれている。
 かほどな堅塁けんるいが、さいごのねばりになって、こう急に敗れた原因は何かというと、寄手のしゃ二無二な土龍もぐら戦法が犠牲を無視して城中へ入ったのが、彼の致命を制したこと勿論だが、何よりは、指揮者の機眼がよく機をとらえて、
「今だ」
 と感じたことを、直ちに即行して破敵はてきの機をはずさなかったところに最大な勝因があったというに尽きよう。
“機をつかむ”ということぐらいは誰も知りぬいている常識に過ぎないが、事ある日の大機小機を、平然と見遁みのがしてゆくのもその常識の病であるといえよう。敗軍の側から見ても、決して、非常識を策して敗れ去るのではなく、多くは常識を辿たどって常識に敗れ終るのである。
 亀山の落城は、三月三日で、秀吉は翌四日、虜将りょしょう佐治新助の縄を解かせて、
「長島へ帰れ」
 と、これを放った。
 新助は、茫然とした。秀吉の意を解しかねた面持ちである。秀吉は笑って、
「いずれ、滝川殿とも、こうして会う日が近いであろう。桑名にも立ち寄って、ありのまま、伝えおかれよ」
 と、陣門から追い立てた。
 一隊をあとに留めて、秀吉の軍は、六日にはもう国府城へ移動していた。数日のまにその国府も収め、転じて同国鈴鹿口に結集した。そして一手をもって関ノ城を収め、主力は峰ノ城へかかった。
 峰は、亀山以下の小城だ。そこに立籠たてこもっている兵も千二百ぐらいな小勢でしかない。しかし山腹のけんを負い、渓谷を前にし、寄手の作戦行動は、極めて狭隘きょうあいな悪地にしかゆるされない条件にある。
 それとここを守る滝川儀太夫は叔父まさりといわれている勇将だった。叔父とは、滝川一益のことで、いうまでもなく、彼は一益のおいなのである。
 寄手の主先鋒は、仙石権兵衛、木村常陸ひたち、脇坂中務なかつかさ服部采女はっとりうねめなどの手勢だった。いわゆる新進気鋭の旗本たちである。奇襲、猛攻、夜襲と城兵の息もつかせず攻めた。しかし峰は微動もしない。折々にやりと笑って城外を望見してるかのごとき守将滝川儀太夫のすがたがやぐらの上に見えたりする。
彼奴きゃつ
 と、寄手の陣地で認めて、
「一発で――」
 と、好い獲物えものまとにして、引き金ひいて撃ち争ったが、当時の鉄砲である。たまはそこまで届かない。
 旬日にして、寄手はおびただしい犠牲をかさねた。この城、短兵急にはち難しと見えた。帷幕いばくの作戦もまだこれに対して何らの神算なきものの如く特に新たな令も出なかった――こういう折も折、江北から急使が着いた。長浜、佐和山、安土などから前後して報じて来たのである。
 事態は容易でない。世をおおう時雲急潮は、真にその日その日、同じ姿の世でなかった。
 ――いわく。
「越前の先鋒せんぽう、柳ヶ瀬を経、一部は早や江北ごうほくへ攻め入りて候う」と。
 次の急使もいう。
「柴田勝家、ついに、積雪の解くる日を待ちこらえず、数万の役夫をして、沿道の雪を払わせつつ、主力の大軍、徐々南進中に候う」
 また、べつの飛札も、事態の急を、大々的に告げて、こう報らせていた。
(――柴田が軍勢は、ほぼ当三月二日頃、北ノ庄を発したるやに思われ、その先鋒、五日には、近江柳ヶ瀬附近、また椿坂つばきざかにまで進出。七日、一部隊は早くもお味方の天神山へ迫るの気勢を示し、他の部隊は附近村落、今市、余吾よご、坂口辺りを放火しまわり、爾後、大将勝家以下、前田利家らの中軍およそ二万余は、なお続々南下中に相見え候う)
 これらの報告を綜合して、秀吉はその半日のうちに、ほぼ勝家のうごきをながらに知った。
 あとは、この大事態に処して、いかに号令すべきかの、彼の頭ひとつにある判断しかない。
「遂に、しびれを切らして出て来おったの……」
 勝家のことをいっているのであろう。秀吉はその匆忙そうぼうな間、至極にやにやしていた。
「雪にとじられていた穴熊あなぐまも、かくなっては、春の日長を待ちきれなくなったものとみゆる」
 かねて期していたところとしている容子ようすである。その口吻くちぶりには、勝家の出撃時期を、批判しているようなふうもうかがわれる。
 もし地をかえて、秀吉が越前にあるものならば、この時機に、出動したろうか。おそらく非常な相違があろう。こういう定石の後手は追うまい。
 なぜならば、今、数万の役夫を徴用ちょうようして、あの江越ごうえつ国境の山また山を除雪しながら進む難儀は、それをもっと早い一月に決行しても、去年の冬に断行しても、帰するところ、難渋なんじゅうな点は同じであった。
 ――それを「雪の解くる日まで」と、悠々ゆうゆう、以後の期間をむなしく過ごしていたところに、実に勝家の“常識”が常識どおり踏襲とうしゅうされて来たものといっていい。
 しかも、岐阜、勢州方面などの事態が起ると、到底、その予定も保持しているわけにはゆかなくなった。つまり事態を見ては事態に動かされていたもので、極言すれば、勝家その人の方策は、あるもないも結果においては同じものになっている。
 少なくも、こういう愚は、秀吉の決して踏まないところである。およそ必然来るべき事態の見通しに対しては、彼はあらゆる先手の布石を施してからこの勢州陣へも取りかかっている。
 たとえば、長浜の柴田勝豊を誘降したのもその一手であり、岐阜攻略も急速な先手だった。敵の出動路にあたる江北の各要地を巡視して、く幾つものとりでを築かせておいたのもそれである。さらには、遠く使いを派して、越後の上杉景勝へ、親交の書を送るなど、抜け目ない先手先手を打っている。
 が、先手取りは、常人の常識ではよくつかみうるものではない。心耳に聞き、機眼にる。その人の胆略たんりゃく如何にある。

とりで


 秀吉のはらはきまった。
 それがひとつの号令となって行動に移されてみれば、事は簡単に似ているが、もし主脳がその“断”を下すまでに、いたずらにまどうていたら、やはり惑うに際限はなかったことであろう。そして遂に、重大な“時”を柴田軍の破竹の如き出足にしてしまったに違いない。
 滝川の本城桑名はなお陥ちていないし、長島も健在である。ひとたびは秀吉の陣門に詫証文わびしょうもんを入れた神戸信孝の美濃勢力も「勝家南下す」と知れば立ちどころに豹変ひょうへんして、これまた一益と共に厄介な火の手となることは容易に予想がつく。
 今、亀山もおとし、国府も収めたといえ、それらは要するに地方的な端城はじろに過ぎず、勢州攻略のことはまだ敵地を踏んだというだけのものでしかない。――この時において、越前の柴田軍がぐうを負う虎の如く、柳ヶ瀬越えの境から大挙南進して来たということは、位置勢州にある羽柴を主力として、決して軽々に方途の定められる問題ではない。
 ――が、秀吉は、その明示を下すに、無為むいな時日を移さなかった。彼が帷幕いばくのうちから、
「すぐ陣払いを」
 と命を発し、つづいて、
「北近江へ」
 と、転陣の先をあきらかにしたのは、実に、報を受けたその日――夕刻から夜半までの間に、万端の手筈もすべてなし終っていたのである。
 即ち、勢州方面の、爾後じご作戦は、これを織田信雄と蒲生氏郷の二将にゆだねて、その麾下きかには、関盛信、山岡景隆かげたか、長谷川秀一、多賀秀家らの部隊を残して、
「要路は断ち、城はつつみ、来れば応じ、敢えて追わず、構えて、滝川の誘いに乗って、老巧な詭計きけいにかかるな」
 と、かたくいましめ、そして一切を託した上、にわかに、次の日から軍をかえして、続々、土岐多良越え、大君ヶ畑などの峠路から、近江へ向い出したのであった。
 そして主軍秀吉が、佐和山に着いたのは、三月十五日。――十六日には、長浜に移り、翌十七日には、すでに湖岸の道を蜿蜒えんえんと北江州へ前進してゆく金瓢きんぴょう馬簾ばれんおびただしい旌旗せいきの中に、馬上、春風におもてをなぶらせて行く彼のすがたが見られた。
 国境、柳ヶ瀬方面の山々には、まだ鮮やかな雪のひだが望まれた。そこを越えて、北の国から湖へ落ちてくる風はまだ武者輩むしゃばらの鼻を赤めさすほど冷たかった。
 たそがれ、柳ヶ瀬附近に着くとすぐ、全軍は黒々と布陣の位置に別れ出した。すでにこの辺へ来ると、何となく、敵臭てきくさいものが感じられる。そのくせ敵の姿も、立てる煙のひとすじも見えないが、
「天神山のすそ。椿坂。あのあたりには、柴田の先鋒がだいぶおる。木之本きのもと、今市、坂口辺にも、大部隊がとどまりおると申す。眠るにも油断をすまいぞ」
 組々の将は、そういって、寸前にある見えぬ敵を、兵のために、指さしていた。
 が、夜霞よがすみは白く曳いて、戦いのある世とも思えぬほど、静かな春の夜に入っていた。
 パチパチパチパチと、どこかで銃声がし始める。途絶えてはまた聞える。
 そのすべてが羽柴勢から撃つ音ばかりで、敵は眠っているのか、終夜、遂に一発の音もなかった。
 夜の明けがた。
 鉄砲隊の数隊が、三方面から引揚げて来た。
 夜どおしパチパチ聞えていたのは、これらの散隊が、諸所で敵の方へ当てていた“さぐり撃ち”であったらしい。
 早朝、秀吉は床几場しょうぎばに、銃隊長を寄せて、
「そうか。……ウむ。むむ」
 頻りに、夜来の敵状況を、聞き取っていた。
 で、大体の敵布陣の図が、彼の頭には、描かれて来た。
 別所山には、前田利家とその子利長の軍。
 橡谷山とちだにやま方面にあるは、金森長近と徳山則秀のりひでの手勢。
 また、林谷山には、不破ふわ勝光、中谷山には、原房親ふさちかの部隊。――これがまず第一線を布陣しているもようだった。
 第二隊には、佐久間盛政兄弟の大部隊が、行市山ぎょういちやまって八方破りの堅陣を示し、その附近から奥の中尾山まで、新しい幅二間道路を切りひらいて、中尾の頂上までつづけ、ここに総大将柴田勝家の本陣をおいて、視野と聯絡れんらくに、遺憾なきを期していた。
「佐々の陣は見ぬな」
 秀吉は、念を押した。
 銃隊長三名は、三名とも、
「佐々成政の旗は、いずこにも見えませぬ。このたびの出兵には加わっておらぬものかと思われます」
 と、答えた。
 そうだろう――というような秀吉のうなずかたであった。勝家が出て来るにしても、背後の上杉に後顧なきを得ない。そのために、残して来る者は、必ず佐々成政あたりであろうとは、秀吉の予測していたところだった。
「よしよし。退がって眠れ」
 入れ代りに、昨夜から大物見に出ていた部将が二名、そこへ入った。これらの細作隊さいさくたいの情報も、前の報告と、さして相違はなかった。
「朝飯」
 それから後は飯だった。
 手にした野戦食は、かしわの葉でくるんである色の黒い握り飯だった。中に味噌が入っている。秀吉はそれをボソボソ噛みながら小姓組の石田佐吉、福島市松、片桐助作などと何やら語らっていたが、自分がまだ半分も喰べ終らぬまに、みなペロリと食い終っているのを眺めて、
「おことらは食物を噛まぬか」
 と、たずねた。
 小姓たちは笑って答えた。
「殿が遅すぎるのでございましょう。早飯早糞は私どものならいです」
「心構えはそれでよかろう。早糞もよろしかろう。じゃが、飯は佐吉のように喰わねばいかぬ」
 片桐、脇坂、その他の輩は、そういわれて皆、佐吉の方を見た。――秀吉と同じように、佐吉もまだ手に半分ほど飯をのこして、お婆さんのように念入りに噛みしめていた。
 秀吉は云った。――
「なぜと申せば、かかる戦いの日にはまだよいが、いよいよ、城にこもって、限りある物を、一日でも長く喰いのばす時には、一城の者が、少量の食をよく噛むと噛まぬでは、大きな違いが、城の支えにも体の元気にも現われて来よう。また、山城渓谷の深きに入って、かてなく持久を策す折も、草の根、松の根、何でも噛んで胃のしにせにゃならぬ。平常、その癖をつけおかぬと、時に当って、そう随意にはならぬものぞ。――佐吉の噛んでいるのをみい。勘定高くよく噛みおる」
 それから、ふいに床几しょうぎを立った。手招きして云ったのである。
「みんな来い。父室山ふむろやまへ登ってみよう」
 父室山は、東浅井郡の余吾ノうみと、西浅井郡の琵琶湖びわことの大小二つの湖の北端にある群山の一つである。麓の父室部落から頂上まで、標高二千六百尺、道程二里余。その嶮しい道をじるとすれば、優に半日はかかってしまう。
「お出ましぞ。お出ましぞ」
「え、殿が」
「何処へ、俄かに?」
 床几場しょうぎば警備の武者たちは、小姓群の姿を見て追いかけて行った。――秀吉はと見ると、細い青竹を杖とし、まるで鷹狩の折のように、気楽げにテクテクと先へ一人で歩いているのである。
「お登りなされますか」
 追いついた一柳市助、木村隼人佑はやとのすけ、浅野日向などが、息せいて訊ねると、秀吉は顧みて、
「おう、あの辺りまで」
 と、竹の杖を上げて、中腹の一高地を指した。
 山の三分の一ほど登ると、小平地があった。秀吉はひたいに汗を吹かせて見せながら風の中に立った。そこに立つと、およそ柳ヶ瀬から下余吾方面までの山河が一眸いちぼう俯瞰みおろされた。山を縫い村落をつなぐ北国街道も一すじの帯のように眼で辿たどれる。
「中尾山は」
「あれでございます」
 木村隼人の指さす所へ、秀吉の眼は向いていた。敵の主陣地である。おびただしい旌旗せいきが山のしわに沿うて麓までつづき、その麓にも、一軍団が認められる。
 さらに眼を放つと、彼方の山々、此方の峰々、或いは道の要衝ようしょうを取って、北国勢の旗は、ここと思う所に、見えぬ所はない。あたかも兵法の妙手が、ここの一天地を棋盤きばんとして、大展陣を試みたかのようである。布置ふちの妙、配備の要、隙なく、間なく、逆なく、またすでに呑敵てきをのむの気もたかく示して、壮観言語に絶すばかりだった。
「…………」
 秀吉は黙々眺め渡していた。そして眸を、またもとの柴田勝家の主陣地たる中尾山の一点にもどして、凝視を久しゅうしていた。
 よくよく見ると、中尾山主陣地の南面に、ありのように動く人影が認められる。一ヵ所や二ヵ所ではない。小高い所にはことごとく何らかの活動が見られるのだった。
「……ははあ。さては勝家、長陣の心組みでおるか」
 秀吉は答えを得た。
 敵は、主陣地の南方へ、幾段ものとりでを構築しているのである。中軍からひらいている全陣形の綜合的陣容もまた極めて念入りな主守漸進ぜんしんの大事を取っているものであり、急潮をなす気勢はまず見られなかった。
「む、そうか」
 敵の企画は読めた。そういったふうな彼の独語だった。――要するに勝家は、これへ秀吉の主力を寄せつけ、一たん勢州の危急を救うと共に、ここではなるべく接戦を避け、持久を策して日を移し、その間に、伊勢美濃その他の味方に充分時を稼がせて、機の熟すや南北から大攻勢を起し、秀吉をして腹背ふくはい二面の苦境におちいらしめんとする意図であったのだ。――秀吉が察知したところもまたそれであった。
「戻ろう」
 秀吉は歩き出し、山下を望みながら、供へ訊ねた。
「べつな降り口はないか。登って来た道でない道が」
「あります」
 片桐助作が心得顔に、側をり抜け先に立った。
杣道そまみちですが、あれを、左へ降りると、天神山の西、池ノ原へ出まする」
「助作はこの辺の生れとも聞かぬが、どうして杣道まで詳しく存じておるか」
去年こぞの暮、この辺を御巡視のみぎり、お供の余暇をうかがって、独り彼方此方、歩きましたから」
「ふム。何を思うて?」
「二度まで殿がお歩きある以上、後日、必ずこの地こそ、柴田勢との決戦場たる地に相違なし――と思い定めましたゆえ」
「そうか」
 うなずいたのみだったが、秀吉の眼は、ういやつ――とでているようだった。
 たえず彼の側にある小姓組のうちでは、脇坂甚内安治やすはるの三十歳が年頭としがしらで、次が助作の二十八歳であった。
 ついでに、他の面々を見ると、平野権平と大谷平馬吉継とが、同い年の二十五歳。
 福島市松が、二十四。
 加藤虎之助が、二十二。
 加藤孫太郎嘉明よしあき、二十一という順になる。
 このほか、秀吉の側にはいないが、今度の戦陣に参加している若桜には、一柳四郎右衛門十八歳、黒田吉兵衛長政の十六歳、菅六之丞の十七歳、羽柴秀勝の十六歳などがあり、恐らく、最年少と思われる者に、丹羽長秀の子、丹羽鍋丸の十二歳などかある。
 これらは皆、武将の子、名門の子弟だが、槍、荷駄、その他の組にも、年まだ十五、六の紅顔の兵は沢山いた。そのすべてが皆、実戦への参加をわが子にせがまれ、或いは、父が望んで、相携あいたずさえてきたものだった。
 なぜといえば、死生の間を通らずには、一箇の人としての成長もなく、戦場に学ばずしては、武門の子の教学もなかったからである。
 ここに見る羽柴家子飼の者にしても、かつて、長浜の小姓部屋時代には、どれもこれも、青洟あおばなを垂らしかねないいもの子、山の子揃いだったのが、それが、どうして? と疑われるほど、いつのまにか各※(二の字点、1-2-22)ひとかどの人品と武者振を備え、天下大惑の乱れを救うものわれなり――となす秀吉の左右にあって、大事小事、如何なる用にも事欠かぬだけの教養もみな持っていた。
 それは決して、平日机坐きざの学問から受けたものではない。
 多年、戦陣また戦陣で、主人の秀吉自身からして、勉強らしい勉強を書物に就いてする暇などなかった。兵書、国学、道義の書など、折にふれて手に取っても、それはことごとく戦陣の燈下か、敵前の小閑だった。彼の小姓部屋の輩が、はなたれ時代から今日へ来た教学の過程もまた、同じものだったというてよい。
 しかも秀吉始め下手へたながら、国風くにぶりの和歌もまんとなれば詠みもするし、筆書諸道、人なみはみなたしなんでいる。思うに、彼らの学問は、机というものを知らず、ただ、生死の道の生命を手鑑てかがみとし、人間世態の現実をおしえかえりみ、天地自然を師となして体得されたものである。
 くだりを変えたので、道をめぐって来るにつれ、東方の平地が展望されて来た。
 秀吉はふと足を止めて、
「あの煙は何か」
 と、木下日向守をた。
「高時川の部落が焼けておるのでございましょう」
「その彼方かなたの煙は」
「新堂かと思われまする」
「もそっと、右の方へ寄って、なおさかんな煙の見ゆるのは、どの辺か」
「今市の町と、狐塚きつねづか辺に当るかと存じられますが」
「柴田め。……焼きおったの」
 と、秀吉は東浅井の半ばにもわたる辺土のいちめんな濛煙もうえんを見て、ふとくちをかむかの如くつぶやいて、
「見よ、やがてこの火が、柳ヶ瀬を越え、北ノ庄まで焼き払うであろうことを」
 急に早足になった。くだりなので扈従こじゅうはみな追いかける程だった。秀吉の胸には何か、勃然ぼつぜんたる怒りが発したものらしい。
 彼が主力をひっげてこれへ来るまでの間に、柴田勢が放火したり、田畑や穀倉こくそうなどを蹂躪じゅうりんした地域はかなりの広さにわたっている。すでに詳報も聞いていたが、その被害をまざまざと眼に見ては、激怒にかれざるを得ない。
 しかし、彼が感情に駆られざるを得ないまでに、町、村落、農田、山林までを荒し廻った柴田勢の底意は――要するに秀吉のその通りな気持を誘致ゆうちしているものであって、いわゆる“激を誘って備えに撃つ”の策たることは明らかである。
「――遅いぞ、遅いぞ」
 ふもとに着くや、秀吉は遅れた者を振向いて、こう大声に呼んでいた。そして、供の顔が側に揃うと、
「どうじゃ、早かろう。筑前、まだ年はらぬな」
 と、健脚を誇った。
 焦土の余煙を遠望して、勃然とうごかした感情はもう顔のどこにもない。竹の杖をもてあそびつつ細いやぶ道を歩みながら、
「ホ。野梅が咲いておる」
 などと美麗きれいなものを見出してしばし見恍みとれていたりした。
 藪鶯やぶうぐいすの声もする。世は戦いというのにあわれ啼きぬいている。秀吉は、左右へ向って云った。
「春ながら、誰も見てやる人もない。ふと眺めてやるも路傍の情よ。誰ぞ、発句せぬか」
「…………」
 つかの間、みな黙った。陽に立つ梅の香が皆の顔へそっとれてくる。
 大谷平馬吉継が発句した。
来る人に語りたげなる野梅かな
 すると、平野権平長泰ながやすが、声に応じて、
花は過ぐとも待て勝つ日まで
 と、下の句を附けた。
 秀吉は上機嫌を示し、よしよしと感賞しながらまた歩き出した。歩みつつ上下の句を一聯して、口のうちで微吟びぎんしていた。
 天神山と池ノ原の間まで来ると味方の一陣地があった。陣旗を見ると、細川与一郎忠興ただおきの持場であった。
のどかわいた。白湯さゆなと貰おう」
 そんなことを云いながら秀吉は陣門へ近づいて行った。忠興とその家臣たちの驚きは一方でない。突然の陣見廻りかと考えたらしい。
「いや何、父室ふむろへ登った帰り途じゃ。――が、思い出したゆえ、ここで伝える」
 と、秀吉は忠興を前に見ると、白湯をのみながらこう命じた。
「おことの軍勢は、直ちにここを陣払いして、国許へ帰れ。そして、丹後宮津一円の兵船を挙げて、越前の敵沿海をおびやかせ」
 忠興は、ありがとうぞんじますると即座に答え、秀吉が去った後で、すぐ陣を引払い、宮津へ帰国した。
 そして、やがて一ヵ月後、ここにしずたけ決戦の果さるる日となるに及び、この細川軍の一手は、水軍をもって、越前の領海を水上から襲撃したのであった。
 山へ登って、水軍を着想する。こういう聯想によらない構想は、秀吉でなければちょいと働いて来ない頭脳あたまといってよい。
 彼の頭脳のはたらきと、肉眼の視界とは、大して関係がないのである。
 それはともかく、その日、忠興に唐突とうとつな引揚げを命じて、一椀の白湯さゆに喉をうるおし終ると、秀吉は、
「どれ」
 と、床几しょうぎを辞し、国許へ帰ったら藤孝によろしく伝えてくれい――などと忠興に語りながら陣外へ出て来たが、別れるとすぐ振向いて、
「与一郎、与一郎」
 と、また忠興を呼んだ。
 まだ何か命じ残したことでもと――忠興が駈け寄って行くと、
「与一、筑前に、馬を一頭おくれぬか」
 というのであった。
 忠興は、名馬を望まれたことと思い、当惑そうに、
「私の愛馬はさし上げるわけにはまいりませぬが、他の馬なれば」
 と、いった。
 秀吉は無頓着に似ていた。彼のつなぐいを見て、自身立ち寄り、
「これを貰うぞ」
 と、もう乗っていた。
 それは、鞍こそ置いてあるが、荷駄組の者の乗用していた丈夫一方の不恰好な馬だった。
(大将、馬相をる目がないな)
 若い忠興はふと軽んじるような念を抱いたが、いつか佐和山城内で、父の藤孝からねんごろにさとされたことばを思い出して、
(いやそう見ては、自分こそ、人をる目がない者かも知れぬぞ)
 と、すぐ、自己をいましめて、駄馬に乗って行く秀吉の姿を見送っていた。
 秀吉は、馬の背から、
「虎之助」
 と、供のうちの加藤虎之助を呼んでいた。
「なんぞ?」
 と、鞍側へ寄って見上げると、秀吉は、鞍腰をすえ直しながら云った。
「この馬は、癖馬くせうまか。左へ左へと寄りたがるぞ。どうしたことか」
「ははは。その筈です」
「脚でも悪いか、鞍ずれか」
「いえ、片目が曇っておりまする」
「何、片目か」
 秀吉も、大いに笑って、
「与一めが、馬を惜しむは、さむらいらしい物惜しみ、そうありてよしと思うたゆえ、筑前が帰陣までの用達ようたしには、駄馬にてよけれと、わざと駄馬を選んだのじゃが、片目とは思わなんだ。これは厄介な物を所望しょもうしてしもうたぞやい」
「お気づかいなされますな。虎之助がよいように口輪を取りますれば」
廃馬はいばも曳きようか」
「そういえましょう」
 一里余にして、新堂から高時川附近へ出た。この辺の村落はことごとく敵に焼かれていた。秀吉はつぶさに見つつ折々いたむ眉をしていた。わけて今市の町へかかると、灰燼かいじんのほか眼にふれる物もなかった。聞けば二日前の夜に敵が焼き払ったとのことであるが、以後、雨もないせいか、なおいぶり煙っている土もある。
 東浅井の今市は、彼の思い出ふかい長浜時代の領下である。
 多くの領民は皆、山地へのがれて姿を見せぬが、広い焼けあとにはなお焼け出されたままの姿で何を求めるか歩いている人影もある。それや路傍のえなき亡骸なきがらや、何を見るにつけ、秀吉も胸にいたみを覚えずには通れなかった。久しい年月、手塩にかけた旧領下の民である。かつて領内歩きのときには、あれもこれも、馬前で見かけた老若男女だったような気がする。
(――不愍ふびんな者どもよ、こういう憂き目を見すること、戦乱の世の常といえ、筑前、民の上に立ちながら、民に頼まれがいもないこと。しかも不時に越前軍の出撃あるべしとは、かねて知られながら、敵をして、かく誇らしめたるは、ひとえにわが不覚のいたせるところぞ。――ゆるせよ、ゆるしてよ)
 そこらの死者にも、灰燼かいじんにも、また生ける人影へも、秀吉は詫びつつ馬を歩ませていた。そのうちに彼は何を見かけたか、
「虎之助、待て」
 と、馬の口輪を止めさせた。
彼方かなたの焼け跡に、家を失うた者が大勢して、焦土にひれ伏しておるようじゃが、どうしたことぞ。飢えておるのか、泣いておるのか」
 木村隼人佑はやとのすけ、浅野日向、小姓組の面々も、秀吉のことばに、初めて広袤こうぼうな焦土の中に、その異様なる一群の人間がいることを知り、みな不審そうな眼をこらしていた。
「あ。分りました」
 石田佐吉だった。ふいに膝を打って、馬上の主人へ告げた。
「あれはたしか、今市観世音の跡でございます。観音堂の焼け跡にちがいございませぬ」
「観音堂のあとか」
「そうです。伽藍がらんも楼門も、木々までも、跡かたなく焼け失せておりますが」
「ああ……」
 秀吉は驚歎した。人の真実に打たれた面持おももちだった。一物も焼け残っていない灰へ向って、庶民の心はそこになお、観世音の実在を観ているのであった。そして再生の誓いをしているものと思われる。
 荒涼たる焦土にはもとより何ものも眼に入るものはないが、戦災民のぬかずいている前には、まさしく大慈悲光の観音が降りていた。秀吉の眼にもそれが見えた。
 彼は馬を降りて、彼方の一群の方へ向い、を合わせた。そしてふたたび鞍にかえってそこを通り過ぎた。庶民たちの方では気づかない風だったが、秀吉は、本陣へ帰ってからでも、焦土の中のその一光景が、頭から消えなかった。
 半日にわたるその日の戦区視察で、秀吉の作戦構想はほぼ肚がきまったらしく、その夜、帷幕いばくのうちへ、諸陣地の将をあつめて方針を授けた。即ち、敵の持久戦にたいし、われもまた、さらに諸塁を構築して、持久対峙の策を取るべし――ということだった。
 とりでの構築が、開始された。
 土木は、民意をさかんにさせる。民土にひそむ敵愾てきがい心を、戦いへ総結させるためにもこの際――と秀吉は大規模にそれへ取りかからせた。
 目睫もくしょうの大決戦期に、敵前これを実施するのは無謀とも大胆ともいえる。もし間隙かんげきやぶれんか、敗因の罪は一に敵前土木の工などに、かかずらっていた迂愚うぐにありと、世にわらわるるは必定ひつじょうである。
 が、彼は敢えてそのを取った。まず領民を総結するためである。彼の仕えた信長のいくさぶりは、常に破竹の勢いを示し“信長のくところ草木も枯れる”といわれたものだが、秀吉の軍はややおもむきことにし、彼の征く所、陣する所、おのずから民を寄せ、市をなし、まずく民を持つ――そのことを、敵に勝つ前の大事としていた。秋霜凛烈しゅうそうりんれつはもとより軍紀の骨胎こったいだが、血風蕭々しょうしょうの日にも、彼の将座にはどこか春風が漂っていた。誰やらの句にもいう。
春風や藤吉郎の居るところ
 ――なる趣が確かにあった。
 さて。とりでの設営箇所は、北国街道中之郷の北山から東野山、堂木山だんぎやま、神明山への第一線地区と。――岩崎山、大上山、賤ヶ嶽、田上山、木之本などの第二陣地区にわたる広範囲なもので、当然、のべ何十万人もの労員を要する。
 秀吉は長浜の領下からこれを徴集した。特に戦災地には高札を立てさせた。
一 老幼男女を問わず、せむし足なえたるも構いなし、土かつげぬ者は、縄ないさせ申すべし。
一 当座、よねと塩とを与うべし。後日には、かまど年貢ねんぐ、一年ゆるしあるべし。家失いたる者には御合力のお沙汰あるべし。いち、この夏より立つべし。盆には、踊りあるべし。
一 せおくれまじき事。各※(二の字点、1-2-22)見あいて、寝盗人ねぬすびと家におくな。かまえて、重罪たるべし。
 山々は日ならずして人間で埋まった。木はられ、道はひらかれ、彼処にも一塁、ここにも一塁、やがて一大要塞地圏ようさいちけんの現出が思われた。
 が、事実の工事は、そう容易でない。その一塁といえ、望楼陣舎も要る。ほりや築堤の工もある。山麓は鹿砦ろくさいめぐらし、中腹には迷路を作り、一ノ柵、二ノ柵、三の木戸と畳み上げて、敵が攻め口として登りそうな道の上には巨木巨石を蓄えて置くなど、戦略的施設も随所に多い。
 殊に、第一戦区の、東野山から堂木山までの間は、柵と塹壕ざんごうで、蜿蜒えんえんつながれた。この土掘りだけでもたいへんである。その大土木もわずか二十日程で完了していた。この力の中には文字どおり老いも女も子供も参加していた。ざるに一杯の土を抱えてよたよた運ぶ婆すら見えた。乳呑み子を持つ女房が湯沸かし場でかしぎする姿もあった。もとよりそれ自体の力は多足というに足らない。しかしそれが一般強壮な者の汗闘かんとうふるわすことは大きい。彼らは戦災の悲愁ひしゅうをわすれ、希望の明日をこの土木へけたのである。
 秀吉は、各とりでを一巡して、
「よし」
 と、うなずいた。
 砦の工事――それのみに強味を得たのではない。領民の胸にもこれで“心の砦”が固められたとなしたからである。
 軍民ひとつの“心の砦”と、地物一切による要塞の全工事が成ると、秀吉はここに麾下きか各将の部署をさだめた。
 第一線地区。――東野山の砦には堀秀政の五千人、街道の北方に、小川佐平次祐忠すけただの千人。また堂木だんぎ山には、山路将監しょうげん正国、木下半右衛門などの勢各※(二の字点、1-2-22)五百。
 神明山に陣する者、大金藤八郎、木村隼人佑重茲はやとのすけしげのりなど、同じく各五百――この辺は、柴田勝豊の持ち場だが、折ふし勝豊がまた病気中のため、その家臣大金藤八郎と山路将監が代って指揮に当っていた。(勝豊は程なく京都にて病死す)
 第二線地区。――
 ここには秀吉直属の高山右近長房が岩崎山に。中川清秀が大岩山に。桑山重晴が賤ヶ嶽に、各隊千人の同兵力で中核的な堅陣を示した。
 さらに、田上山に羽柴秀長の一万五千人が置かれ、諸塁はこれらの衛星とも見られる。
 このほか客将格の丹羽長秀は、湖北の警備に当って、海津近傍に七千余の兵力を出した。その子丹羽長重も三千人をひきいて敦賀つるが方面の牽制けんせいに任じている。元よりこれが秀吉軍のすべてではないが、大体、以上の部署へ兵力配置をなし終ったところで、秀吉はべつに、一構想をひとり胸底に抱いていたのだった。
 ――が、なおそれは誰にも洩らさず、数日は敵の動向をはかっていた。初め、秀吉方で諸砦を構築しだすと、柴田勢は夜間奇襲や、種々いろいろな小策を取って、盛んに妨害して来たが、常に備えあるものに対しては、何の奇功もないことをさとったらしく、以後はまったく山の如く動かず、むしろ無気味なものすらあった。
 ――なぜ容易に動かぬか。
 秀吉には分っていた。くみし易からぬ老練の強敵よ、と秀吉が思いつつあることを、勝家も同様に思って自重に自重していることは勿論だが、他に重大な理由がある。
 勝家としては、もうここでの戦備は充分としていたが、他方面にある手持の持駒もちごまたる味方の機動力が、全面的に動員されて来るには、機なお熟せず、とていたからであった。
 持駒としているのは――いうまでもなく岐阜の神戸信孝だった。信孝が起つことによって、滝川一益も、桑名の城から積極的攻撃に移り、ここに初めて、勝家の考えていることが戦略上に実際化されるのだ。
(さもなくばこの戦、容易には勝ちを取り難い)
 とは勝家が初めからひそかに苦慮くりょしていた公算だった。その公算は、われと彼との、国力比較から来ている。
 当時、秀吉方は山崎以来、急激にその勢望を加えており、彼の与国は、播州ばんしゅう但馬たじま、摂津、丹後、大和やまとを始め、他の幾州に股がって高二百六十万石に及び、兵力六万七千は動かし得る。――それに織田信雄の尾張、伊勢、伊賀に散在する兵や備前の宇喜多その他を合わせれば、無慮むりょ十万に上るであろう。
 柴田方は、越前北ノ庄を主力に、能登のとの前田、加賀尾山おやまの佐久間盛政、越前大野の金森長近、加賀松任まっとうの徳山則秀、越中富山の佐々成政などをわせ、百七十余万石、動員兵力量四万四、五千にすぎない。
 ――これに美濃、伊勢の信孝、一益の国力を加え、ようやく、ほぼ敵と拮抗きっこうし得る六万二千人の兵力を持ちうることになるのだった。

謀略ぼうりゃく


 旅の僧形そうぎょうである。壮夫の如き足つきだった。いま集福寺坂を登って行く。
 この辺は、西浅井の沓掛くつかけ、集福寺、柳ヶ瀬など、山また山へ続く間道だ。しかも柴田軍の主陣地をなす行市山ぎょういちやまから中尾山の警備区域内でもある。果たして耳ざとい哨兵しょうへいの一群が、突如、木蔭を排して踊り出で、
「どこへ」
 と、僧の前へ槍垣やりがきを示した。
「おれじゃよ」
 僧は、かぶっている法師頭巾ずきんいでみせた。哨兵たちは、粗相そそうを詫びて、うしろの柵へ手合図を振った。木戸にはべつな一隊がかたまっている。僧はそこの番将へ向って何か話しかけた。馬を貸せと懸合かけあっているらしい。迷惑そうであったが否み難い要務の者とみえ、番将自身、曳いて来て渡した。僧はそれに乗ると、行市山の営へと前にも増して急いでいた。
 行市山の営は、佐久間玄蕃允盛政げんばのじょうもりまさ兄弟の陣所だった。僧形の男は、玄蕃の弟安政の臣水野新六という者で、秘命を帯びてどこかへ使いしたものらしく、半刻ほど後には、
「いま戻りました」
 と、主人の久右衛門安政の帷中いちゅうにあって、かしこまっていた。
「どうだった? 吉左右きっそうは」
 と、待ちわびていたらしい安政。
「まず、調ととのいました」
 と、新六。
「会えたか、首尾しゅびよう」
「いやもう、敵の監視きびしく、山路殿へ近づくだけでも、容易ではございませんでした」
「そうあろう。それでこそ特にその方をさしむけたのじゃ。して、将監しょうげんの意中は」
「これにたずさえて参りました」
 網代あじろ笠の裏を覗き、笠の緒の付根つけねをパリッと※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)むしり取った。その下に貼り込めて来た一通の書状が彼の膝へ落ちた。新六は、畳み目を伸ばして主人の手へ渡した。
 安政は、封の表をとくと見て、
「うむ、たしかにたしかに将監の手蹟しゅせき。……が、これは兄者人あにじゃひとへの名宛てになっておる。新六、わしにいて来い。すぐ兄者人へお目にかけ、また、中尾山の御本陣へも急達して、およろこびの顔を見よう」
「お待ち下さい」
 新六は倉皇そうこうとして、べつな小屋へ退がり、僧衣をかなぐり捨てて具足をまとい直して来た。
「お供いたしましょう」
 主従はそこの柵を出て、なお行市ぎょういち山の頂上へと登って行った。兵馬、柵門、営舎の布置は、上へ行くほど堅密けんみつになる。そしてやがて仮城とも見える本丸小屋と無数の陣幕が山上にひらかれ、中央に馬簾ばれん旌旗せいきなどの簇立ぞくりつしている所こそ問わずして、佐久間玄蕃允げんばのじょう床几場しょうぎばと知られる。
「久右衛門安政じゃ。兄者人へ伝えられよ」
 陣門の番将へいうと、旗本の近藤無一が走り出て来て、
「おう、御舎弟様ですか。――殿は御床几におられませぬ」
「中尾山へでも行かれたか」
「いや、あれにおられます」
 無一が指さす彼方あなたを見ると、なるほど兄の玄蕃允は、本丸小屋から離れた彼方の山芝のうえに、何をしているのか四、五の武者や小姓達と共に坐りこんでいた。
 近づいて行って見ると、玄蕃允は、小姓の一名に鏡を持たせ、また一名には鬢盥びんだらいを捧げさせて、青空の下に他念なく、顎鬚あごひげっているところだった。
 この日は四月十二日。(陽暦六月二日)
 天地はすでに夏に入り、江南の駅路うまやじや、平野の城市はもう暑さを覚える頃だが、その山上も、一眸いちぼうの山岳地も、春はいまがたけなわである。木の芽のむら、浅みどりの谷々には、所々、燃ゆるような山つつじや山桜の盛りが眺められる。
「兄者人、これにおられましたか」
 安政が来て、その芝地へひざまずくと、
「おう、舎弟か」
 と、玄蕃はちょっと横目に見た。が、なおりかけているあごの先を、小姓の持つ鏡の前へ突き出して、悠々ゆうゆうと剃り終り、さて剃刀かみそりを置き、鬢盥びんだらいの水で青髯あおひげあとを洗いなどしてから、初めてこっちへ向き直った。
「何用か。――安政」
「小姓どもをみなお退しりぞけ下さいませ」
「小屋へ戻ってもよいぞ」
「いえいえ、ちと密談、こここそ充分見通しのまたとない座敷」
「そうか。しからば」
 と、顧みて命じた。
「みな遠くへ退いておれ」
 小姓たちは鏡や鬢盥を捧げて去った。近侍も退いた。山上の芝地は相対す佐久間兄弟のみとなった。いやもう一人いる。安政の伴って来た水野新六である。新六は身分柄、遠くにあって平伏したままだった。
 玄蕃も今、気づいて、
「新六が戻ったか」
「首尾よう戻りました。御用も上々に足りたようで」
「御苦労御苦労。して山路将監の返答は」
「新六が託されて参った将監の書状です。――まず御披見ごひけんを」
「お。……これをな」
 玄蕃允は手に取るとすぐ開封した。おおい得ない喜悦が眼にも溢れ唇元くちもとにもただよい出した。いかなる秘事の成功をこう歓ぶのか。彼はじっとしていられないように肩を揺すぶった。
「新六。もっと近う寄れ。そこでは遠い――」
「はっ」
「将監の書中によれば、なお詳しくは使いの者に仔細申しさずけ置く――と相見ゆるが、将監からの伝言、余すところなくそれにて申せ」
「口上をもって、山路殿がお伝えには、何分、自分と大金藤八郎の両名は、もともと、長浜の臣、長浜のああなる前より勝豊様とは意見を異にしおる者とのことを、秀吉始め麾下きかの諸将も存じおるゆえにや、われらに、堂木だんぎ山と神明山の二塁を預けて、それが守備に立たせながらも、いっこう油断なく、べつに秀吉の腹心木村隼人佑はやとのすけを監視に付け、滅多に、動きもとれぬ始末と申されておられました」
「……が、書面には、明朝、大金藤八郎と共に、必ず堂木とりでを脱出して、この方の陣所へ投ずべし、としたためおるが」
「その儀は、秘中の秘ゆえ、書中にはお認めございますまいが、詭謀きぼうを用いて、木村隼人佑を殺し、さそくに旗をかえして、同勢一散に、柴田方へ馳せ参ぜんとのお確約にございます」
「明朝といえば、間もない。こなたからも途中まで迎え勢を繰り出しておけや」
 と、安政の眼へ云いふくめ、また新六の方へこう訊ねた。
「秀吉は今、陣中にいるらしくもあり、長浜にいるとも聞くが、そちの見たところではどうじゃ。正しくは何処におろうか」
「さ。それのみは、とんと定かに相分りませぬ」
 水野新六は率直に答えた。
「分らぬか」
 と、玄蕃允も歎じていう。
 柴田側として、秀吉が、前線にいるか、長浜にいるかの疑問は、重大な謎だった。
 いかにさぐらせてみても、確報をつかむに至らないのである。殊に、ここ数日来は、羽柴軍にも微妙な戦気が見え、味方の作戦も熟しつつあるのだったが、肝腎かんじんな、
“秀吉の所在如何?”
 の問題がしかとしない以上、どうにも、現在の戦態から一歩も積極的に移行することができない実状にあった。
 なぜというに。
 柴田軍はあくまで一方的侵攻を方略としていないのである。神戸信孝かんべのぶたかの岐阜軍が蹶起けっきの機の熟す日を待つこと久しいのであった。かたがた、伊勢の滝川一益も攻勢に転じ、勢濃二州がこぞって秀吉の背後を脅威きょういするに至る日をもって、即ちここの二万余勢の総兵力も、一挙、なだれ打って、西浅井、東浅井の諸砦しょさいを攻めつぶし、秀吉を長浜、佐和山の一隅へ追いつめ、完全なる終局の勝利をかたく期しているものだった。
 すでに、岐阜の信孝からは、
(近々に、不測ふそくを起し、勢州ともちょうじ合わせ、秀吉のうしろをるべし)
 と、密書をもって、勝家まで告げに来ているのである。
 それにたいし、もし秀吉が長浜にいるものなら、秀吉は早やその気配を察知して岐阜、柳ヶ瀬の両面に備えているものと見てよい。そしてこちらも充分その要意あるべきだし、もしまた秀吉が、今なお江北前線にあるとすれば、信孝の起つべき時はまさに今をいてはない。
 柴田軍としてはそのことに先立って、極力、秀吉をここに膠着こうちゃくせしむべき方策を取り、信孝が作戦に有利な情勢を速やかに展開しておく必要もある。
「不明かのう、その一事は」
 玄蕃允げんばのじょうは、もういちど、口のうちで繰りかえした。彼の旺盛おうせいな戦意や日頃の性格からしても、月余にわたる無為に似た長陣は、もはや到底耐えきれない鬱屈うっくつとなりかけていたにちがいない。
「――いや、慾をいえばりもないこと、山路将監しょうげんの誘致が調ととのうただけでも、この際、まずまず祝着しゅうちゃくとせねばなるまい。どれ、早速に北ノ庄殿のお耳へ達しておこう。……安政、おぬしは勝政(末弟)とよく計って、明朝山路が内応の合図を見さだめ、抜かりのう手配しておけ」
かしこまりました」
「新六には、いずれ後日、御褒美のお沙汰あろうぞ」
「ありがとうぞんじまする」
 安政と新六とは、先に立って、自陣へ帰って行った。玄蕃允は小姓をさしまねいて、愛馬“青嵐せいらん”を彼方から曳かせ、武者十名ほど具して、そこから直ちに中尾山の本陣へ向って行った。
 行市ぎょういち山から中尾本陣までの軍用路は、幅二間の新道で、蜿蜒えんえん二里余、ほとんど嶺の上を縫っていた。折ふし満目、深山の春である。名馬青嵐を打たせてゆらゆら行けば、玄蕃允の荒胆あらぎもにも月花の風流ならぬ歌心が、しきりに胸を往来した。
 中尾山の本陣は幾柵いくさくにも囲まれている。彼は木戸へかかるたびに、馬上から一言、
「玄蕃允ぞ」
 と、名乗るだけで、衛将番卒を見下ろしながら、通って行った。
 ところが、本丸小屋奥の木戸も、その“顔”をもって、通ろうとすると、
「待て」
 と、守備の衛将が、きびしく制止して、
「何処へ行かれる?」
 と馬上の玄蕃允を誰何すいかした。
 玄蕃允は、じろと振向いて、
「やあ、毛受めんじゅか。――叔父御に会いに参る。叔父御はお小屋か、お陣幕とばりの裡か」
 案内せよ、といわぬばかりである。毛受勝助家照しょうすけいえてるは、ふと苦々にがにがしい眉をあげ、玄蕃允の前へ廻ってこうたしなめた。
「まず馬からお降り下さい」
「なに」
「ここは御大将の帷幕いばくに間近な陣門です。いかなる御方であろうと、また急用であろうと、馬上のまま乗り入れはゆるされませぬ」
「いうたの。勝助」
 苦笑いしながら玄蕃允は降りた。“こいつが”という反感であったが、軍紀には抗し得ないのである。その代り相手の要求通り下馬すると、もってのほか語気は荒くなった。
「叔父御は、いずれか」
「御軍議中です」
「誰と誰が寄っておるのか」
拝郷はいごう殿、おさ殿、原殿、――浅見殿。御子息権六勝敏様なども加えられ、御幕下のみで御陣幕にもられておられまする」
「ならば、さしつかえない、そこへまかり通る」
「いや、お取次しましょう」
「それには及ばん」
 玄蕃允は押通ってしまった。
 毛受勝助は、その姿を見送っていた。ふとおおい得ない憂色が眉をかすめていた。彼がおもてを冒して今のようなとがめだてをしたのは、ただに軍律ばかりでなく、日頃から玄蕃允の態度に対して、ひそかに反省を求めたいものがあったのである。それは玄蕃允が何かにつけて、勝家のちょうおごっている風があることだった。北ノ庄の主脳部に一族間の私情的な盲愛と狎恩こうおんが濃くうごいているのを見ると、勝助は、この堅陣も心もとない気がしてならない。尠なくも、軍中においては、“叔父御”などという私称をもって、この大軍の総帥そうすいを呼ばせたくない気持だったのである。
 ――が、当の玄蕃允げんばのじょうは、勝助家照の憂いなどは、もとより意にもなかった。彼は直接、叔父勝家の帷幕いばくへ臨んで、居合わせた衆臣を尻目しりめに、
「御用がすみましたら、ちと内密に」
 と、勝家へささやいて、しばらく、傍らの床几しょうぎにひかえていた。
 勝家は匆々そうそうに、評議を切上げ、諸将を退けてから、さて何事? と床几のひざをこの甥とつき合わせた。
 玄蕃允はまず、にんまりと笑ってみせてから、この叔父をよろこばすべく、黙って、山路将監の返書を先に示した。
「ううむ。でけたのう」
 勝家の満足はひと通りではない。元来、これは彼が着想して、玄蕃允に工作させた陰謀であっただけに、
謀略はかりごとは図にあたった”
 とする快は、誰よりも彼自身の内に特に大きい筈であった。わけても陰謀好きと世に定評もあった彼である。将監の書状を巻き納めながら、彼がよだれを垂らさんばかりな喜悦きえつをあらわしたのは無理もない。
 はかりごとを施すをもって、ひそかに得意とする勝家が、山路将監やまじしょうげんへ目をつけたのは、さすがは“敵のやまい”を知るものであった。
 敵の弱質な部面に病菌を植えつけ、敵の内臓を内よりい破るのが謀の目的である。――秀吉の戦列の中に、山路将監正国まさくにや大金藤八郎などのいることは、勝家の目から見てまたなき謀略の温床だった。この存在をいかにして“敵中の味方”たらしめるかに彼が腐心したのはいうまでもない。
 繰り返すまでもなく、山路将監や大金藤八郎らの一類は、もともと柴田勝豊の家臣であり、勝豊が秀吉に降ると共に、以後、羽柴方の陣営にある者たちだった。
(これを説いて、かえちゅうをなさしめ、敵を内から切り崩すにかぎる)
 勝家ははかりごとの手段を密々、玄蕃允にさずけ、玄蕃允は弟たちと計って、敵の腹中に毒を盛るの隠密を放つこと幾度か知れなかったのである。しかし堂木山、神明山の二とりでは木村隼人佑はやとのすけの監軍が厳しく出入を見張っているため、いずれも不成功に終って来た。そしてこの日までは、当の将監に近づくことさえ成り難いかと、折角の謀略もむなしく諦めるものになりかけていたところだった。
 そこへ水野新六が、遂に、将監に会い、将監の返書を持って来たのである。佐久間兄弟の誇りは申すまでもない。老兵勝家が、わが術成れり、と喜悦きえつ斜めならず、それを甥の玄蕃允の殊勲しゅくんとして、
「骨折り骨折り」
 と、ほくほく顔で労をねぎらったのも当然だった。
 謀は利をもって計ること、古来からの常例である。勝家も、山路正国を説かすに香餌こうじをもってした。――即ち越前坂井郡の丸岡城と、その近地わせて十二万石を与えようという約束なのだ。正国はそれに目がくらんだ。彼自身は理由をたてて、みずからのしゅうに良心の目をふさごうとしたではあろうが、明らかに彼はすでに家門の名も生涯も利に売った人間と成り下がっていた。
 老獪ろうかいな勝家は、将監の利用価値は買っても、その人物を買ってはいないのだ。すでに利にうごく人間と彼すらているのである。いかにこれへ香餌を約束しておこうと、戦いが終れば、後の処置は意のままにつく。
 古来、内応醜反しゅうはんの徒が、利に走りながら、利を得て生涯を栄えたためしのないのもまた不思議だ。後日、その約束が無視されて、利に代るに、ざんや毒を以てされ、或いは、自滅にまかされても、天下の嘲笑はむしろ快とするのみで、誰ひとりその末路を憐れむ者すらない。
 そうした史上無数な例も知らぬではない山路将監が、どうしてそんな愚に迷ったかというに、彼もまた、
(これだけはうまくゆこう。北ノ庄殿も確約していること)
 と、自身の場合だけを例外なものに見、しかも戦が柴田側の勝利に帰すことまでを、いて信じていたのである。驚くべき妄動もうどうというほかはない。しかし、後では彼も煩悶はんもんした。良心に問われもしたにちがいない。――が諾書だくしょはすでに渡してあった。悔ゆるも及ばずである。是が非でも明朝は内応を決行して、そのとりでに、柴田軍を引入れなければならない運命を自身で作っていた。

うちやぶもの


 十二日のこく頃である。
 子の刻といえば、正に真夜半、かがりも暗く、山中の軍営は、粛々、松の葉か、露のふる音ばかりだった。
「――御開門ねがいます。……ちょっと、御開門を」
 誰やら頻りに陣柵の木戸をたたく。声も、はばかるように忍びやかである。
 ここは本山もとやまの本丸小屋だ。――本山というのは、堂木だんぎ山、神明山の総称である。以前は、山路将監しょうげんが坐っていたが、秀吉が、配置代えを命じて、山路や大金を外曲輪そとぐるわに出し、木村隼人佑重茲しげのりを本丸へ入れたのは、つい先頃のことであった。
「――何者だ? 叩くのは」
 柵の内から、武者の顔が外をのぞいた。闇にたたずんでいる顔は一人らしい。
「大崎殿をお呼び下さい」
 とその者は外からいう。
 番士は叱って、
「名をいえ。どこのなにがしと、先に申せ。さもなくばお取次もならん」
「…………」
 外の人影は去りもしない。雨に似たものがぱらぱら打つ。墨のようなそらである。
「――ここでは、ちと申しかねる儀です。怪しい者ではありませぬ。ここの木戸組頭、大崎宇右衛門殿に、柵までお顔を拝借いたしたい。この通りお願い申す」
「味方か」
「知れきったこと、この辺りまで、敵をやすやす歩かせる程、御守備は粗漏そろうでもありますまい。また、敵の隠密などなら、かくは木戸を叩きなど致しませぬ」
 筋の通ったことばである。番士はうなずき合っていたが、やがて部将の大崎宇右衛門へ通じたらしい。宇右衛門が近づいて来た。
「何じゃ。外の者」
「大崎殿ですか」
「いかにも、大崎だが」
「私は、柴田勝豊様の臣、野村勝次郎と申し、只今は、山路将監の麾下きかいて、神明下の二番やぐらに陣しておる者です」
「その御辺ごへんが、深夜、何用があって、本丸木戸を忍びやかに叩かれるか」
「私を、木村隼人佑はやとのすけ殿の所へ、御案内ねがいたいのです。……と、だけでは御不審でしょうが、折入って、しかも火急、お耳に入れねばならぬ一大事があるので」
「それがしからの取次では、打明け難い程のことか」
直々じきじきならでは申しあげかねる。念のため、これをお預け申す。一刻も争う大事、何とぞ俄かにお計らい下されたい」
 野村勝次郎は、太刀たちと小刀をはずして、柵の間からそれを宇右衛門の手へ渡した。
 宇右衛門は、彼の誠意を見とどけて、自身門を開いて通した。そして部下十名に囲ませて、自身その先に歩み、木村隼人佑の小屋へ導いて行った。
 まず、宇右衛門が先に入って、侍臣を通じ、隼人佑の起床をうながした。戦陣なので、深夜早朝のけじめはない。隼人佑の室にすぐしょくがゆらいだ。小姓二名、やがて出て来て、
「お通りあれ」
 というのである。
 部下十名を外に残し、宇右衛門は野村勝次郎を伴って、一室へ入った。本丸とはいえ仮普請かりぶしんなので、居室はほとんど板囲いに過ぎない。程なく、隼人佑はそれへ来て、静かに座をしめ、さて、
うけたまわろう」
 と、野村を正視した。横明りのせいか、勝次郎のおもては、蒼白く見えた。
「明朝、あなた様をお主客として、山路将監の神明山の陣小屋で、朝茶の会があるはずですが。……将監からお手許へ、その招きが参ってはおりませぬか」
 勝次郎の眼にはつきつめた感情が燃えていた。深夜の無気味な静寂は語気の微かなふるえまでを伝える。――隼人佑も宇右衛門も、何かただならぬ気持を抱かせられた。
「参っておる。たしかに、将監から招きが参っておる」
 隼人佑は簡明に答えてやった。疑わない態度を見せて、この正直者らしい人間のいおうとする懸命な気持をたすけてやるように耳傾けた。
「――ではすでに、それへお出向きなさることに、お約束なさいましたか」
「されば、折角の招き、明朝参じようと、使いにいうて帰したが」
「いつ頃のことで?」
「きょうのひる頃であったかの」
「さてこそ、急に思いついた計とみえまする」
「計とは?」
「――決して、明朝はお出向きなされてはなりませぬ。朝茶をさしあげたいとは大嘘でございます。将監の本心は、あなた様を茶室に封じて、刺し殺さんと、手につばして、待ちうけておるものにござります」
「…………」
「すでに将監は、柴田方の密使と出会い、敵へ誓紙を入れております。――そのため、まずこの本山の守将たるあなた様を殺し、直ちに、叛旗はんきをかかげて、柴田勢をこの堂木、神明の二塁へ引き入れんと、深くたくんだものに相違ございませぬ」
「おぬし、どうしてそれを知り得たか」
「将監が、祖先の忌日と称し、近くの集福寺しゅうふくじから、僧侶三名を陣内へ呼び入れました。それが一昨日のことです。……ところが、うち一名の僧は、私が見覚えのある者にて、水野新六と申す柴田の臣にちがいないが……はて? と気をつけておりますと、果たして、おときの食後、腹痛を起したとか称し、僧三名のうち二名だけその日に帰って、一名だけが山路の陣中に泊まりました。そして翌早朝、集福寺へ帰るとて木戸を出て行きましたが、念のため、小者にあとをけさせてみると、案のじょう集福寺へは戻らず、佐久間玄蕃允げんばのじょうの陣山へ飛ぶが如く走り去ったと申しまする」
「いや。ありそうなことだ」
 隼人佑はもう多くを聞く必要もないかのようにうなずいて、
「よく知らせてくれた。かねて山路と大金の両名は油断なり難し、と仰せられ、筑前様自身にも、お心はゆるしておられなかった。もはや彼らの逆意は明白じゃ。……宇右衛門、何としようのう?」
 大崎宇右衛門は膝を寄せて、自己の考えを述べてみた。勝次郎の考慮も容れ、立ちどころに一策が立った。宇右衛門は、外に置いていた部下十名を、その場から長浜へ急がせた。勿論、極秘のうちにである。中の一名だけが宇右衛門の旨をふくんで、夜のうちに搦手からめてから出て行った。
 木村隼人佑は、その間に、一通のてがみをしたため、宇右衛門に託した。山路将監へ宛てた断り状である。――夜来、風邪気味、せっかくながら、今朝のお茶に参じ難し、春風なお機あらん、近日拝面、おわび申す、りょうせられよ――という意味の短い謝状であった。
 夜が明けると、宇右衛門は、その手紙を携えて、神明山の将監の所へ訪うて行った。
 その頃の風として、陣中でもよく釜をかけた。もとより仮屋の茶室、荒かべ藁莚わらむしろ、一壺の野の花――その程度の簡素にちがいない。要は胆養にある。また長陣にまぬためにも心がけられる。
 その朝、山路将監は、早暁から露地を掃き、風炉の灰などを作っていた。まもなく相客の大金藤八郎と木下半右衛門が見えた。共に、柴田伊賀守勝豊の家臣で、今度の裏切には、将監に打ち明けられて、行動を共にすべしと、深く誓いあった同腹の輩だった。
「遅いのう、隼人佑は」
 どこの陣屋で飼っているのか、鶏の声がし出すと、藤八郎も半右衛門も、とかく過敏かびんな眼いろだった。が、さすがに将監は、何気ない亭主ぶりを振舞いながら、
「いや、程なく見えられよう」
 と、落着き払っていた。
 待つ人の姿は見えず、やがて大崎宇右衛門が、隼人佑の手紙をもたらして来た。断り手紙である。――三名は顔を見あわせた。
「使いの宇右衛門は」
 と、小者にたずねると、手紙を置くやいな、すぐ帰ってしまったという。
「はて。感づいたかな?」
 三名の顔は、同じものだった。不安につぶされたのである。いかに勇猛な者どもも、こうしたうしろめたい破綻はたんに立つと日頃の顔色もない。
「どうして漏れたろう。これほど密々に運んだことが」
 つぶやきも、愚痴ぐちに似ている。すでに大事が露顕ろけんした上は、朝茶どころではない。いかにしてここを脱出するかだ。一刻をも争わねば――と、もう焦躁しょうそう座に耐えない姿が大金と木下の二人に見えた。
「ぜひもない。……この上は」
 といううめきが、将監の唇から出たとき、二人はもう一度、胸をかれた。が、将監は、その太い眉をもって、うろたえ召さるな、と叱るように二人を睨んだ。
「貴公たちは、すぐ手勢を伴って、池ノ原まで駈け降り、あの大松のほとりで待て。それがしは、一書をしたため、長浜へ使いをやって、後より直ちに駈けつける」
「長浜へ、何の使いに」
「はて、長浜の城には、この方の老母や妻子どもが、まだ置いてあるのじゃよ。身ひとつは、如何ようにも、ここの陣を脱しようが、老母どもは、時を移すと、必然、人質ひとじちに捕われよう」
「あ。――それは遅い。間に合うかどうか」
「何とあろうが、置き捨ててはゆかぬ。藤八郎、そこのすずりをかしてくれい」
 将監は早や懐紙に筆を走らせ始めた。ところへ、部下の報じるものがあった。昨夜来、二番木戸の士、野村勝次郎がどこにも姿を見せぬというのである。将監は、筆を投じて、ののしった。
「さては、彼奴きゃつよな。日頃からの薄野呂うすのろ、何がと、油断していたのが、誤りじゃった。おのれ、今にみよ」
 呪咀じゅその眼に似ていた。妻へ宛てた文の目を封じる手さえわなわなさせ、
「野上を呼べ。逸平太いっぺいたを呼べ」
 と、声にも疳気かんきを乗せて云った。すぐ逸平太が見えると、
「早馬で長浜へ急ぎ、わしの老母と妻子に会って、貨財などには目もくれず、ただ身をのみ船へ移して、湖を漕ぎ渡り、柴田殿の陣所へと落してくれい。――頼むぞ。一刻も争うぞ、早く行け」
 と、いいつけた。
 そして云いも終らぬまに、将監は具足を取って身をよろい、大槍を横ざまに持って、小屋の外へ躍り出た。
 大金藤八郎と木下半右衛門のふたりは、早くも部下をまとめて麓へ立ち退いていた。
 その頃、夜はまったく白み、本山の木村隼人佑はやとのすけの令による手配も開始されて、全山は、
「裏切り者をやるな」
「神明とりでの寝返りぞ」
「同士打ちすな。謀反人むほんにんは、旧柴田勝豊の家中のみなるぞ」
 と、呼ばわり、駈け合う声々にこだました。
 大金、木下の二群は、麓まで行く間に、大崎宇右衛門の手勢に待ち伏せられて寸断され、残る者どもと、池ノ原の大松の下で山路将監の来るのを待ち合わせていると、堂木山の北方を迂廻して来た木村隼人佑の旌旗せいきが、早くも行くての道を遮断して包囲して来たので、再び散々に潰乱かいらんしてしまった。
 ――山路将監もまた、ひと足おくれて、部下一団と共にこれへ駈け降りて来た。
 鹿角しかづの前立まえだち打ったかぶとに、黒革のよろいを着、大槍をばさんで、馬上に風を切らせて来た武者振りは、さすがに勝豊の麾下きか中第一の剛の者と見えたが、いかなる大勇も、すでに武門の大道を踏みあやまっては、その馬蹄に、正義堂々たる威風はない。血相はただならぬものだったが、どこやらしどろな姿だった。
 押っとり囲んだ木村隼人佑の部下たちは、長槍と長槍の流れをなして、前に立ち、後を追い、
「裏切り者。どこへせる」
「この恥知らずよ」
「醜夫め、犬畜生め」
 と、あらゆる悪罵あくばを浴びせかけた。
 しかし将監は、死に物狂いに血路をひらき、遂に、鉄桶てっとうから脱出した。そして二里ほどはしると、かねてしめし合わせておいた佐久間安政の軍が昨夜から野営して待機しているのと出会った。――木村隼人佑の謀殺に成功すれば、将監ののろしを見次第、堂木、神明の二塁へ攻めこんで、たちま占領せんりょうするつもりであったが、案に相違したので、辛くも山路将監の身だけを救い取り、行市山の自陣へ引揚げてしまった。
 大金と木下も、後から行市山へ投じて来た。けれど、将監と同様に、彼らもほとんど身ひとつで、部下の大半以上は、途中で打たれたり、逃げ散って、手勢はいくらも連れていなかった。
「――なに、今暁に至って、露顕ろけんのため、隼人佑に先手を打たれてしもうたと? さてさて、将監の謀としては、知慧の足らぬことをしたものかな。……が、まあよい、ぜひもない。三名をこれへ連れて来い」
 弟の安政から顛末てんまつを聞いて、佐久間玄蕃允げんばのじょうはこうにがりきったものだった。事前には、あれほど手を尽して将監の内応を誘致しておきながら、思惑おもわくのつぼがはずれたとなると、まるで厄介者を遇するような口吻くちぶりに一変していた。
 将監たちは、下へもおかぬ優遇を夢みていた。が、玄蕃允の態度にまず大きく失望した。――けれど、落度もかえりみて、胸を撫でていた。そしてその落度を償うて余りある重大な機密を、北ノ庄殿に会って、直接告げたいという希望をのべた。
「ふム。それや耳寄りな」
 と玄蕃允は、やや機嫌を直したが、大金と木下には依然、にべもなく、
「お身どもは、当所に控えておれ。御本陣へは、将監一名だけを伴うであろう」
 と、その朝、直ちに中尾山へ出向いた。
 今暁、十三日の出来事は、はや詳細に、そのいきさつまで、勝家の耳にとどいていた。
 程なくこれへ、玄蕃允が山路将監を伴うて来るとのことに、彼は、将座おごそかに待ち構えた。何事につけ、威儀張る人である。これは彼として何の不自然でもないが、やがて将監が帷幕いばくに伺候し、一応の挨拶などあってから、
「将監。このたびは、不出来だったのう」
 と、本音を吐いたときの顔つきは、ひどく複雑だった。俗にいう“現金な性質”は、柴田の叔父甥に共通なものとみえて、勝家もまた、玄蕃允と同様、将監を待つこと甚だ冷薄だった。
「抜かりました」
 山路は謝すほかなくあやまりぬいた。今にしてひそかにほぞまれたであろうが、再び返る所はない。はじの上の辱もしのび、腹立ちもこらえて、ただただ、傲岸ごうがんでわがままな相手の前にひたいをすりつけ、
「今暁の手違いは、まったく自分の浅慮のいたすところで」
 と、勝家の憐愍れんびんにすがるしかなかった。しかし、彼はなお一つの献策をもって、勝家の鼻息びそくをうかがい、功をつないで、恩賞の約を追うことを忘れなかった。
 秀吉の所在が問題である。将監がそれを云い出すと、かねて深い関心をよせていた勝家も玄蕃も、
「まこと、秀吉は今、何処におるか」
 と、熱心に耳をかした。
 将監は、告げた。
「筑前の所在は、味方内でも、常に極秘にされておりまする。とりでの構築中は、折々、姿を見かけましたが、ここ久しく陣地に見ませぬ。恐らく長浜にいて、一面岐阜に備え、一面当所の動きを見、変に応じる所存かと考えられます」
「そうか。やはりそうか」
 と、勝家は重々しくうなずいて、玄蕃允と顔を見合わせ、
「……察しに違わず、長浜におるときまったわ」
 と、呟いた。
 玄蕃允はなおただした。
「――が、それには何ぞ、確証があるか」
「もとより嘘言きょげんは申し上げませぬ。しかし、ここ数日の御猶予あらば、なお仔細に、筑前の動静をお耳に達し得られましょう。……長浜表にはなお、それがしの目をかけておいた者、幾十人かはおりますゆえ、この身が北ノ庄殿へ加担と知れば、必ず長浜を脱して尋ねて参る者も幾人かございます。またべつに放ちおいた細作さいさくの報らせもある筈で――」
 将監は、期すところを述べて、
「その上、羽柴勢を敗地へおとし入るの良策をも、同時におすすめ申したく存ずる」
 と、信念の程をほのめかした。
「念には念を入れよ――か。さらば、将監の申すにまかせよう」
 と、勝家は大いに喜色を持ち直した。玄蕃允もまた心に満を持しきって、来るべき戦機を待ちかまえた。
 ――越えて、十九日の朝方である。山路将監は佐久間玄蕃允と共に、ふたたび勝家の帷幕いばくを訪うた。そしてここに、彼がゆうべ早耳に入れた重大な敵の機密と、わせて、それに沿う作戦上の献言とを、勝家に呈したのであった。
 降将山路将監正国が、その朝にもたらしたものは、たしかに重大であった。玄蕃允はすでに聞いていたが、初耳の勝家は、一瞬、眼をらんとさせ、全身の毛穴をそそけ立てた。少なくも彼の張りつめている戦意に一大衝撃をうけたことは否み難い。
 将監も激を含んだ口吻くちぶりで告げた。
「先日来、長浜に退居していた秀吉は、一昨十七日、突如、兵二万をひきい、長浜城を発して、早くも大垣へ着陣したこと確実にござりまする。――申すまでもなく、岐阜の神戸殿を、一撃に砕き、後顧こうこを断って、忽ちにその全力を挙げ、こなたへ向って、乾坤一擲けんこんいってきの決戦をいどみ来らん覚悟をなしたものと察せられます」
 彼はなお補足していう。
「長浜をつに先だって、かねて安土にめおいた神戸かんべ殿の質子ちしはみな討ち果したということでおざる。もって、筑前めが、岐阜へ向った決意のほどもうかがわれ申す。……また、昨十八日には、すでに麾下の稲葉一鉄、氏家広行うじいえひろゆきなどの先鋒せんぽうは、各地に放火し、またたくまに岐阜城を取詰めんの猛勢を示しおるとも聞え、このたび筑前が決意と動きは、これを、なお余日ありなどと、ゆるやかに観るわけには断じて相成りませぬ」
「…………」
 勝家、玄蕃允、将監の三名ともしばし口をとじていた。凝然ぎょうぜんとひとつの熟慮に向って集中された各※(二の字点、1-2-22)まなざしだった。
(機乗ずべし。待ちに待ちたる時は来る)
 勝家は舌なめずりして思う。
 若き玄蕃允はなおのこと、燃ゆるが如くそう思う。
 が、この好機を――またとない絶好な機会を――いかにつかむか。
 それこそが、重大だった。
 小機、小運は、戦いのうち、千波万波だが、興亡一挙にかかる真の大機会は、繰り返されない。
(今だ、それが。――この機を掴むか、掴まぬかにある)
 勝家は、思うだに、つばのねばる心地だった。玄蕃允の唇は常になく紅い。またいつになく口数もきかぬ。
「将監……」
 とやがていった。勝家がである。――「何か、献策があるというたが、申してみい。腹蔵なく」
「ありがとう存じまする。――愚存、信じますところは、この機を逸せず、敵の岩崎山とりでと、大岩山砦の二塁を攻め、遠く、岐阜の神戸殿に呼応の火の手を示すと共に、秀吉の急なるに劣らず、お味方もまた、破竹の電突をもって、羽柴方の幾砦をことごとく踏みつぶし去ることにござりまする」
「おおよ。そう致したいものではある。……が、将監、いうはやすいが敵にも人がないわけでなし、砦もあだには築いておるまい」
「いや、秀吉の布陣も、内から見れば、大きな間隙かんげきを持っております。よく御覧ごろうじませ。……敵の岩崎、大岩の二砦はお味方の陣を隔たること最も遠い地点にあり、敵にとっては中核の堅塁かの如き観がありますなれど、それだけに、実はこの二塁の構築が他のどこよりも手軽く粗末にできておる。加うるにそこの守将も将士も、よもこの陣地へ敵の襲撃はあるまじとその位置にたのんで、守備に怠るの風も相見えまする。――今、電撃の不意をもってくならばここです。しかもひとたび敵のその中核部を突き崩せば、他の諸砦の如きは何程のものでもありませぬ」

中入なかい


「なるほど。――さすがはさすがは」
 勝家は感悦かんえつをくり返した。そして彼の献策にも一応のうなずきを与えた。それに附随して玄蕃允も、
「将監の達見は、たしかに敵の虚をいたものじゃ。筑前に泡吹かすは、その一策をいてはあるまい」
 と、これは率直に賛同し、口を極めて将監の才略をめた。
 将監がこう持てたのは初めてだ。過日来、多少、怏々おうおうと楽しまぬ色のあった彼も、俄かに気色を持ち直して、
「まず、これを御覧ぜられい」
 と、携えて来た戦図を拡げた。――それには、堂木だんぎ、神明の二砦のほか、余吾よごうみの東方に隔っている岩崎山、大岩山の砦、またすぐ南方のしずたけから田上山などの幾塁や、北国街道に沿う一聯の陣地線と、所在兵力にいたるまで、たなごころを指すようであり、勿論、附近一帯の地勢、湖沼、山野、間道なども詳密しょうみつに写されていた。
 あり得ぬことが、あり得るのである。こういう秘図が、戦わぬ前から、敵軍の帷幕いばくのうちで拡げられていた秀吉側の不利の大はいうまでもない。
 従って勝家のよろこびは、それだけ大きいともいえる。彼は眼を皿にしてそれを検討していたが、やがてもういちど大仰にたたえた。
「これはよい土産みやげじゃったよ。将監、出来でかされたのう――」
 傍らの玄蕃允げんばのじょうも共にそれに見入っていたが、戦図から顔を離すと、とたんに何か確信を抱いたものの如く、
「叔父御――」
 と、つよく呼びかけて、半ば、その熱意をひとみにいわせながらこう求めた。
「いま、将監の申した一計、――不意に敵中ふかく入って、敵の岩崎、大岩の二塁を奪取する先鋒にはぜひとも、それがしをお向けねがいたい。また、玄蕃ならでは、そのような果敢迅速かかんじんそくを要する奇襲は、果し得ぬものと、自負じふいたしまする」
「まア待て。……まあ」
 勝家は、抑えた。気負う鋭気を危ぶむかのように熟慮じゅくりょの眼をふさいだ。玄蕃允の自負と熱血はすぐそれを反撥した。
「このにのぞみ、何を御思案なさるるか。お考えの余地もない儀を」
「なに。そうではない」
「天機は、待ってはおりませぬぞ」
「…………」
「こうしている間も機会は刻々こっこくいっしつつあるやも知れぬ」
焦心あせるまい、玄蕃」
「いや、御熟考も時にこそよれ。かほどの勝目を見ながら、なお御決断がつきかねるとは、ああ、鬼柴田殿も老いられたとみゆる」
「たわけを申せ。その方こそ未だ青いというものじゃ。戦闘には剛であろうが、戦略にはまだ青い青い」
「な、なぜですか」
 玄蕃允は色をなしかけたが、さすがに勝家は激さない。百戦の老巧らしい落着きを失わずにおしえた。
「玄蕃思うてみい。およそ中入なかい(兵家ノ熟語、敵中核ニ深ク入ッテ撃ツヲイウ)ほど危うき戦法はないのじゃぞ。……左様な危険を冒してまで、取るべき策か、どうか。ここは悔いなき思慮を、練りに練ってみねばなるまいがな」
 聞くと、玄蕃允は、大いに笑った。
 ――乞う、安んぜよ。
 玄蕃允の笑い方は、そういうものだった。無用な御心配を――とほのめかす裏に、若い鉄の意志が、老齢の分別と逡巡しゅんじゅんわらうものも含めていた。
 ――が、勝家は、この甥のあけすけな嘲笑にたいして、
(何を笑う?)
 ととがめる色もなかった。むしろこういう無遠慮までが“愛すべき奴”という感情に変るらしいのである。そしてその意気のさかんなるを、ひそかにでている風すらある。
 日頃から、叔父のちょうれぬいているこの甥は、すぐその気持を読んで、組しやすしと、なおこう主張するのだった。
「玄蕃、若年ですが――中入なかいりの危険な戦法であるぐらいなことは、万々、承知しております。それゆえ、自身、難に当らんと申すわけで、ただ策をたのみ、功にはやる次第ではありませぬ」
 それでも、柴田勝家は、容易に「うむ」といわなかった。依然、熟慮の体である。
 玄蕃允は、強請せがみあぐねた気味で、ふと将監を顧み、
「いまの図面を、まいちど見せてくれい」
 と求めた。そして床几しょうぎったまま、ふたたびそれを繰り拡げ、片手を頬に当てて、彼もまた、いつまでも、黙りこんでいた。
 かくあること半刻はんときに及んだ。
 勝家は、甥が、熱意を燃やして云っている間は、危ぶんでいたが、口をとじて、戦図に静思している体を見ると、俄かに、頼もしさを覚えて来たものか、
「よかろう」
 遂に、自身の分別に断を下して、玄蕃允の方へこういった。
「――抜かるなよ、玄蕃。こよいの中入なかいり、そちに命じる!」
「えっ」
 玄蕃允は、顔を上げ、同時に床几から突っ立って、
「では、それがしに、おまかせ下さいますか」
 狂喜した。礼を慇懃いんぎんにした。まちがえば、死地となる中入りの先鋒に立つことを、かくばかり正直によろこぶ甥を、勝家は、心には歎賞しながらも、なお固く、いましめた。
「くれぐれも申しおくぞ。岩崎山、大岩山のとりでを踏みつぶし、目的を遂げたときは、速やかに兵をまとめ、味方の後陣まで風の如く退けよ」
「はい」
「いうまでもないが、戦は、切レ(兵家ノ熟語、開戦前ノ隔縁カクエン状態、或イハ退陣ニ際シテ追撃ヲ断ツ手際テギワナドニイウ)が大事じゃ。わけて、中入りの戦いに、切レを取り損じては、九仭きゅうじんこう一簣いっきに欠こう。くれぐれも、引揚げの機を誤るなよ。風の如くいて、風の如く去れよ」
御訓戒ごくんかい、よく心得おきまする」
 希望はすでにれられたので、彼も至って素直だった。勝家は直ちに使番つかいばんを呼び、各陣地の主将をこれへ集合した。――この日、帷幕いばくに会する者、前田利家父子おやこを始めとし、勝家の養子勝政、不破ふわひこ勝光かつみつ、徳山五兵衛則秀のりひで、金森五郎八長近ながちか、原彦次郎房親ふさちか、拝郷五郎左衛門家嘉いえよしおさ九郎左衛門連龍つらたつ、安井左近太夫家清いえきよなど。ここに参じては去る将星たちの唇元くちもとにも、何やら厳しいものが結ばれていた。
 たそがれまでに、令はことごとく行きわたり、諸隊の準備は万端整い終ったらしい。
 時、天正十一年四月十九日の夜――正確にいえば二十日というべきであろう。先鋒、先鋒本隊、中軍、監視隊などの総勢一万八千が、ひそかに各※(二の字点、1-2-22)その営からゆるぎ出した時刻は、まさに下刻げこく(午前一時)の一点であったから――。
 総軍は、大略、二手に分けられている。
 中入なかいりして、肉薄突撃にあたる先鋒及び先鋒本隊。これは各四千、合わせて八千の兵力を以て、集福寺坂から塩津谷しおつだにへ降りてゆき、足海たるみ峠を越えて、余吾よごの西岸を、東へ東へと延びて行った。
 また、それとべつに。
 勝家の本軍をふくむ一万二千の主力は、牽制けんせい的な略を計って、まったく道を変え、北国街道に沿うて、徐々、東南下していた。要するに、この方面の進出は、中入りの佐久間盛政、不破彦三などの奇襲戦の成功を側面からたすけ、同時に、他の敵塁のうごきを監視するという役割をもつものだった。
 ――で、この主力牽制軍のうち、柴田勝政の一隊三千人は、飯浦坂の東南に、旗甲きこうを伏せて、敵の賤ヶ嶽方面のうごきを、じっと、監視していた。
 前田利家父子の持ちは、塩津から堂木だんぎ、神明山にわたる一線の警戒にあり、そのため前田隊の兵二千は、権現ごんげん坂から川並かわなみ村の高地茂山しげやまあたりにかけてまっていた。
 さらに、総大将柴田勝家も、同時刻、中尾山の本営を出たこというまでもない。この中軍兵力は約七千である。即ち、北国街道を流れ下って、狐塚きつねづかまで進み、東野山方面にある有力なる敵――堀秀政の兵五千――をひきつけて動かさぬために、敢えて、旌旗せいき堂々たる進出を誇示した。
 かくて、かかるまに、夜はようやく、明けなんとしている――
 この日、陰暦四月二十日は、陽暦の六月十日にあたり、ひと頃より、夜はずっと短くなっている。日の出は、四時二十六分のわけである。
 中入なかいりの先鋒せんぽう、不破彦三、徳山五兵衛、原房親、拝郷五郎左衛門、安井左近太夫。それに玄蕃允の弟、佐久間安政などの諸将が、余吾ノ湖の白いなぎさを、暁闇ぎょうあんの下に見出でた頃が――ちょうどその刻限でなかったろうかと思われる。
 その兵四千につづき、すぐあとの一隊四千があった。これが中入り本隊で、佐久間玄蕃允盛政は、その中にあった。
 霧が深い――
 余吾の湖心に、ぽかっと、虹色の光が見える。それだけがわずかに暁を思わせるだけで、前を行く味方の馬の尻すらよく見えぬほど、草原の道は未だ暗かった。
 旗も甲冑かっちゅうも、槍の柄や草鞋わらんじ脛当すねあてなどはもちろん、水の中を行くように、しとどの露に濡れていた。
(はや、敵地だぞ……)
 身のまる感が迫っていた。眉や鼻毛にたまる霧も冷たい。これほどな兵馬が一緒に歩いているとも思えないほど接敵はひそやかに行われていた。
 ……すると。
 余吾の東南岸のなぎさで、ザブザブと水音が聞えた。何か、声高に笑い合っている話し声もする。中入り軍の大物見は、すぐ伏せ身となって、霧の中の人影をうかがっていた。それは大岩山砦の中川瀬兵衛の部下らしく――武者二名に、馬卒十人ばかりが、湖の浅瀬に入って、馬を洗っているのだった。
「…………」
 大物見の兵は、先鋒隊の近づいて来るのを待ち、声なく、後ろへの手合図を振った。そして敵兵の先を断ってから不意に、
れッ」
 と、その少数の敵へ、一斉にわめきかかった。
 何も知らずに、馬を洗っていた馬卒と武者たちは、あっと、水を蹴合って、
「敵だッ。敵っ」
 と、渚から一散に逃げかけた。五、六名は逃げおわせたが、うち半数は、捕えられてしまった。
 柴田勢は、その者たちの、襟がみをつかんで、
「初物だ。お目にかけてから――」
 と、部将不破彦三の馬前まで引きずって来た。
 槍ぶすまの中に置いて、彦三が訊問してみると、一人は池田専右衛門せんえもんという中川瀬兵衛の隊士、あとは組下の馬卒たちと分った。
 処置を仰ぐべく、伝令を走らせておいた本隊の佐久間玄蕃允からは、その返辞として、
(左様なものに手間どるな。斬って、血祭りとなし、直ちに大岩山のとりでへかかれ)
 と、激励して来た。
 不破彦三は、馬を降りて、陣刀を抜き払い、自身、池田専右衛門の首をねた。そして、
「それっ、血祭りぞ。他の首もみな打ち落して、いくさ神へにえを捧げ、ときを合わせて、大岩砦へ攻めかかれ」
 と、大呼して、先鋒全員へ号令した。
「おうっ」
 と、左右の麾下きかは争って、馬卒らの首を斬り落した。その血刀を高々と暁天に挙げて、まず生血を捧げた人々から、
「わあーッ」
 と、修羅神しゅらじんを呼び降ろし、それにこたえて、全軍も、
「うわーっ」
 と、ときの声を合わした。
 怒濤の相を現わした甲冑が、われ先と、朝霧をくぐって、もくもくと揺るぎ出したのは、そのとたんであった。
 悍馬かんばは悍馬とからみあって先を争い、槍隊は槍隊で、穂先一尺を争って駈け出してゆく。
 すでに銃声はさかんに聞え、長柄や太刀たちの光も、はや大岩山の一の柵あたりで、異様な物音をたて始めたが、みじか夜の残夢なお深し矣――秀吉方の要塞帯中核――中川瀬兵衛が守るところの大岩山の内も、高山右近が固むるところの岩崎山のふところも、未だこれを知らぬかのように、白雲の帯はしゅうをとざして、山上山下をなおひそとしていた。

 かくは外の曲輪くるわをいい、塁は各部の囲いをいい、さいはその中心全体をいう。
 急築粗造ではあるが、城廓じょうかく様式の形は備えているので、この大岩山のそれも一つの城といってさしつかえない。
 中川瀬兵衛清秀は、その前晩中腹の一塁にある寝小屋に眠っていた。
「――はて?」
 物音か、叫喚きょうかんか、何かはまだ意識せず、彼はふいに、ガバと首をもたげたのだった。
「何かある……?」
 ゆめうつつの境の――第七しきのはたらきが、彼をして、突然、何ということもなく、枕もとのよろいを、手早く身につけさせていた。
 ところへ、寝小屋の戸もはずれよとばかり外から叩く者があった。また一名が、それへ体をぶつけたらしい。
 戸は、内側へ倒れ、三、四名の部下が、まろびこんだ。
「し、しッ、柴田勢ですっ」
「はや、押しかけました、大軍をもって」
 湖畔から駈け通して来た太田平八と、馬取うまとりの小者たちだった。
「落着け」
 瀬兵衛は、叱った。
 ――が、太田平八を始め、馬卒たちの告げることは、余りにうわずっていて、敵の兵力、かかくち、その主将など、何ひとつ、要領を得ない。
「不敵にも、これへ中入りして来る程の者とあれば、およそ生やさしい敵ではあるまい。柴田の麾下きかでその人を誰かとなせば、玄蕃允げんばのじょう盛政のほかにあろうとは思われぬ」
 瀬兵衛清秀は、よくた。
 そう感じると、ふるえが、身のうちを走った。
“強敵!”
 と、否みがたく、思われてくる――。が、その圧倒感にたいし、べつな力は、はらの底からき立って、
狗鼠くそっ。ござんなれ)
 とも、反撥しているのだった。
 ふるえは、そう二つの、まったく相反したものが、意識を通さずに起した瞬間の衝動だったといえよう。
「出合えやっ。おうういっ――」
 瀬兵衛は、大槍を立てて、寝小屋のすぐ前の、小高い盛土の上から呶鳴った。
 銃声がさかんである。
 ふもとの方にもするが、案外近いところの、山の中腹にあたる西南の樹木のうちでも聞える。
「間道からも来たな」
 霧がこめているため、視界のうちに、敵軍の旗幟きしを認め得ないのが、却って、焦躁しょうそうを駆らしめる。
「おオオいっ――」
 また、呼ばわった。……声は、山ふところへこだました。
 ここを守る中川隊千人は、まさしくもう眼前の襲変に眼をさましていた。全山、あわただしい物音がこたえている。
 とはいえ、不意を喰っていたことは間違いなかった。
 ここは、柴田軍の敵陣地をへだつこと余りに遠い後方になる。その距離感が、何となく日頃から、ここの守兵に安易を抱かせていたことは否み難い事実だった。
 ――来れ。としている所へ敵は来ない。よもやここへは、とたのんでいるらしい虚を知るやいな、敵は疾風をして襲うて来る。
 大岩山は、たしかに油断していたのである。瀬兵衛は、地だんだ踏んで、味方をののしった。
「――熊田孫七はおらぬかっ。榧野かやの五助は何しておるっ。森本道徳どうとく、山岸監物けんもつ、はや出合え出合え。鳥飼とりがい平八っ、馬印をこれへ立てよ」
「おうっ、参りました」
「殿ッ。これにおられましたか」
 各※(二の字点、1-2-22)が各※(二の字点、1-2-22)を、求め合っていたものとみえ、そこに立った馬簾ばれんを見、瀬兵衛の声を知ると、忽ち、組々の物頭と、その手兵とが駈け集まって、瀬兵衛を中心に、まんまると一陣をした。
「寄手の勢は、柴田のおい、玄蕃允盛政が采配さいはいか」
「御意です」
 鳥飼平八が答えた。
「人数は?」
 と、瀬兵衛、たたみかけて訊ねる。
「一万とはありませぬ」
「ひと手か。ふた手か」
「二軍に見えます。玄蕃の勢は、庭戸にわとはまから麓へせかけ、また、一手は、不破彦三、徳山五兵衛、などの一隊、尾野路山おのじやまの間道をとって、山腹から迫って参りまする」
 守兵総員を寄せても、千人しかいないとりでである。せて来た敵は、一万足らずの勢という。
 間道にしても、麓の木戸にしても、手薄なことはいうまでもない。時移せば、忽ち、個々全滅は目に見えていた。
「淵之助っ、間道へ向え」
 瀬兵衛は、股肱ここうの中川淵之助に兵三百をさずけて先にやり、また直ちに、
「入江土佐、古田喜助、久保甚吾――。おぬしらは、五十名ほど待って、本丸小屋にたてこもれ。玄正坊げんしょうぼうも参れ」
 早口に、命じ終ると、
「他の者は、瀬兵衛について来い。摂州茨木いばらきこのかた、おくれは知らぬ中川勢ぞ。面とむかった敵には、尺地も退くな」
 と一語、麾下きかの士を励ますや、自身、旗、馬簾ばれんなどの先に立ってまっしぐらに、麓口ふもとぐちへ駈け降りていた。
「殿っ、殿っ。しばらく」
 うしろで榧野かやの五助が、呼ばわった。振りかえると、
「お使いですっ。桑山殿からの御使者が、何やら申し上げたいとのことで――」
 と、五助が、その使者を伴って、追いついて来た。
「何か――」
 と、瀬兵衛の眼はすでに敵と戦っている。使者は、火急とあって、口上で伝えた。
「主人、修理大夫(桑山重晴しげはるのこと)の申しまするには、今暁、中入なかいりの敵勢は、いかにせん大軍。それに反し、ここの寡勢かせい、いかに中川殿が勇猛なりとも、所詮しょせんささえはならぬこと、――無念には候えど、く疾くお退きあって、他の味方内へ、おまとまりあるようにとの、お心遣いにござりますが……」
「無用でおざる」
 瀬兵衛は、きびしく顔を振って、その使者へ、こう返答した。
「御厚情浅からず、まことにかたじけなく思うが、清秀の胆は、まださまでには、しぼみており申さぬ。――余吾に臨むこの尾崎の二砦は、少なくも味方の陣地として中核の要害、瀬兵衛、この守りに当りながら、敵多勢と見て、一支えにも及ばず、捨てて他へ移りたりと聞えては、末代、世のわらいぐさ、子孫の恥こそ、不愍ふびんでござる……」
 口を結びかけたが、そこへ後に続いて来た麾下の士がかたまったので、それにも聞えよと、さらに云った。
「――われら、摂津茨木いばらきの郷より身を起し、元亀げんき元年、和田伊賀守を討ち、家の子郎党、中川衆の名一つに武門をみがき、ぬる年の山崎の一戦に、明智が将、御牧三左衛門、伊勢三郎貞興さだおきを討ちとるまで、いまだ戦場において、敵にうしろを見せたためしなく、戦わずして退いたる兵一人も持ち合わせぬ。――広言には似たれど、真実のこと。桑山殿へ、瀬兵衛がそう申したと、有様ありように、伝えておくりゃれ」
「……はっ」
 使者が、顔を上げたときは、はや瀬兵衛の姿は見えず、瀬兵衛のあとに続く武者たちが、山つなみのような声をあげて、下へ下へ、雪崩なだれうっていた。
 桑山重晴は中川瀬兵衛と同数の兵を持って、しずたけを守っていたのである。賤ヶ嶽はここから山つづき一里余の南方に在り、岩崎山、大岩山、茶臼山、足海たるみ峠など、余吾ノ湖をめぐる群峰の主山をなしている位置にある。
 使者が、帰って来た。
 復命を聞いて、重晴は、
「瀬兵衛らしい。さもあろう」
 とつぶやいたが、六十歳の彼の分別は、さらに再三急使を飛ばして、瀬兵衛に退陣をすすめてやまなかった。

じょ


 武将感状記ぶしょうかんじょうきの一節に、こういう記載が見える。
――玄蕃ゲンバ盛政ノソバニ老功ノ武者アリ。志津シヅヶ嶽タケ(大岩山ノ誤リ)ニ向フ時、中川瀬兵衛清秀ノ取出トリデ(防塁ノコト)昨今ノ急築ナレバ、塀土ヘイドモ乾クカラズ。之ヲ攻ムルニハ、塀越シノ槍コソ利アラントテ、十文字、鑰槍カギヤリナド打捨テサセ、皆、長柄ノ素槍ヲ持テトテ諸手ニ配ル。アンタガハズ、塀越シノ槍、長柄ニテ大イニ利ヲ得タリト。
 また、同じ項に。
――玄蕃ゲンバノ家人ニ老功ラウコウアリ。玄蕃ガ前ニ来ツテ申ス。中川ハ勇ヲ好ム将ナリ。敵寄スルト聞カバ、ナガラ待ツベカラズ。必ズ中途ニ迎ヘ戦ハンニ、他ノ間道ヨリ奇兵ヲ放チテ、トリデノ背後ニ廻シ、多クノ下小屋(兵舎)ヲ焼カシメナバ、中川勢火ヲ見テ、ウシロニモ戦ヒ有リト思ヒ、急ニ引退ヒキノニ浮キ立ツベシ。之ヲ伏兵ニテ撃タバ、御味方ノ勝利、歴々レキレキタラント述ブ。
 などという記事もある。
 玄蕃允の左右には、屈強な武者も勿論多かったが、彼にたいし、こういう良策を献じていた老功とは誰をさしたものだろうか。
 徳山五兵衛則秀のりひでか、拝郷五郎左衛門あたりかと思われる。わけて拝郷は名だたる者で、加賀大聖寺だいしょうじに一城を有し、智謀もあり武勇の聞えもあった老将であるから、玄蕃允をたすけて、中入りの奇略をまっとうさせた側近といえば、まずこの辺の人物と見てまちがいあるまい。
 とにかく、この朝――。
 佐久間勢としては、その突ッ込みの序において、思い通り敵中へ肉薄し、敵をして、相違なく不意を喰わせたものだった。いわゆる“じょち”をめて、
「踏みつぶすはまたたく間ぞ」
「乗りれ、一気に」
 と、はや麓口へかかった勢は、一ノ柵を突破し、大手の妙見坂みょうけんざかを半ば近くまで攻め登って来た。
 これらの木戸木戸には、せいぜい一部将に七、八十名の守兵が配されていたに過ぎない。怒潮四千の軍馬に揉み込まれては、文字どおり鎧袖がいしゅう一触いっしょくで、敢然、孤槍をふるって立ち向う兵は、忽ち、泥地でいち血漿けっしょうと化し、多くは四散して、次の防塁にろうとした。
 この頃だった。主将中川瀬兵衛とその麾下たちが、猛然、一団となって、山上から邀撃ようげきに出て来たのは――。
推参すいさん雑兵輩ぞうひょうばら、ここを無人の砦と思うてまぎれ入ったか」
 陣頭、真っ先に、槍うなりをさせて駈けこんで来たのが、たしかに瀬兵衛その人と見えた。馬腹、槍手、すでに血ぬられ、馬蹄ばていの躍るところ、前に立ち得る敵もない。
「――玄蕃やある」
 瀬兵衛の声は、敵味方に聞えるほどだった。剛槍ごうそうみずから誇る彼は、北ノ庄の身内みうちに佐久間玄蕃げんばありと聞ゆる程なその男に、きょうこそ会ってみたいと、駈け廻るのだった。
 この将の下に、鉄火の兵をもって鳴る中川衆がある。森権之丞、榧野かやの五助、鳥飼四郎大夫、山岸監物など、馬上、或いは徒歩かちなどで、総勢四百余人――それは当面の敵兵力の十分の一に過ぎなかったが、各※(二の字点、1-2-22)の捨身の血相を持って、
「おのれっ」
 おもてもふらず、佐久間勢の槍隊のうちへ、これも多くは槍をふるッて突入した。からみ合う長槍の響きは、怒罵どば絶叫ぜっきょう、馬のいななきと入り交じって、それらことごとくが、血の音、血の声と聞かれた。
 およそに対する多数というものはてんじては強いが、局部的には、まぬがれ難い弱点を持っている。
 中川隊四百の捨身の邀撃ようげきは佐久間勢の腹中へ入って暴れ廻った。約十倍の大兵は、その量だけの力を、狭い一局戦に集めることは困難だった。
退けっ。麓口まで」
 余りの犠牲に、佐久間勢のうちの一部将が、きぬくような声で叫んでいた。――が、それにしても、多数の行動を変じるにも自然、遅鈍ちどんならざるを得ないのである。
「今ぞ。追い落せ」
 瀬兵衛清秀を始め、中川衆の猛者もさは、いわゆる当るにまかせて敵をほふるの勢いを示した。占めていた地勢にも利があったし、何といっても、佐久間勢の兵は、夜来、一睡いっすいもしていない。
“わっ――”と、初めの攻め声が、虚声きょせいに変った。ひとたび“崩れ”を生じると、これは如何ともなし難い勢いを示すものだ。全軍、先を争って、麓へ駈け出す。踏みとどまって、ささえんとする者まで、顔色を失った味方に押され、石を落すに似た勢いで、落着く所まで持って行かれてしまうのである。
「越前勢、ひとりも生かして帰すな」
 瀬兵衛の声である。追いかけ追いかけ味方へ云っていた。すでに勝てりと思ったものか、飽くまで追撃してやまない。
「危うし……」
 これは危険と感じた麾下きかもあったにちがいないが、主人の姿を見て、ひるむわけにゆかなかった。果たせるかな、妙見坂を降り、尾野路ノ浜のなぎさまで見える平地まで来ると、俄然、両側から、佐久間勢の押太鼓が、耳もろうせんばかり鳴りとどろき、あたりも見えぬ弾煙たまけむりが、中川隊をつつみ出した。
 瀬兵衛の左右だけでも幾人かたおれた。しかし瀬兵衛はこういう死地には馴れているので、さして驚きもしなかった。
 初一念の怒号をつづけて、
「玄蕃に会おうっ。――玄蕃允げんばのじょうっ、出でよ」
 なお獅子吼ししくしていた。
「おう、中川殿よな」
 と、敵方から誰か応じた。ゆらっと、黒い大波にも似て、瀬兵衛のすぐ側へ、馬を寄せて来た者がある。
「この老爺おやじ、存じはあるまいが、加賀大聖寺の城主、拝郷五郎左衛門じゃ。――よい御首に恵まれ申した。貰うぞ」
 槍を付けた。――が余りに、馬と馬とが寄り過ぎていたので、ぐるりと一転するまに、瀬兵衛は振向きざま、
「そのほおげたへ、進上」
 と、一槍高く、後ろへ、飛電を見せた。
 五郎左の体は、馬のたてがみに伏していた。しかも手の大槍と、その眼は、敵の内身をうかがって、はずす、突き入る、二つの動作を同時にした。
仕損しそんじたり」
 と、瀬兵衛は馬を退げたが、五郎左の大槍は、退がる槍へからんで、さらに、攻勢を取って来る。加うるに、敵らしい徒歩かち立ちの武者が、瀬兵衛のうしろへ迫ったらしい。
 ――と、直感の下に、瀬兵衛は槍を返して、馬の後ろを一払いした。どさっと、倒れた者の上へ、飛鳥の如く、ひとりの武者が飛びかかって、立ちどころに首をあげたのを見た。
「鳥飼か、先を開け」
 主人の声に、鳥飼四郎大夫は、瀬兵衛の前に立ちふさがり、拝郷五郎左へ立ち向った。
 瀬兵衛は、咄嗟とっさ、横ざまに馬を飛ばして、なおも、
「玄蕃に会わん」
 と血眼ちまなこで、将座の旗を、敵中に求めて行った。
 修羅しゅらの中にも、真空に似たじゃくがある。それは、勇者の姿にのみある。仏陀の背光はいこうにも似たものといえよう。
 勇の極致は、すずやかだ。無碍自在むげじざいの境にあるからである。己れもなく目に余る敵大軍もない。無我無想のうちに、あるはただ武門の一魂いっこん、それのみだった。
 中川瀬兵衛清秀は、たしかにそういう境地にまで到達し得る勇者ではあった。けれど、武勇にも限りがあった。彼と共に、奮戦していた近侍の小姓や馬廻りの面々は、敵の新手新手を迎えて、大部分が斬り死していた。
 この間にも、味方の桑山重晴の使いが、幾度、彼の後退をうながしに来ていたか知れなかった。岩崎山の高山右近からも、使番がせ来って、
「ぜひとも、ここはお退きあって、せめてお身ひとつなと、無事をお守りあるべしと、主人右近も、今朝来、わがことの如く、心痛いたしおりますれば――」
 と、その高山隊の使番のごときは、って、瀬兵衛の馬の口をつかみ、遮二無二、後方へ曳き退がろうとした程だったが、瀬兵衛は、
「ばかをいえッ」
 と、いよいよ鬼となって、
「ここが退けるか。ここを敵にまかして引き揚げろと申すは、この瀬兵衛に、男も名も、捨てろというにひとしいことだ。――それ程、ただならずと思うなれば、なぜ、賤ヶ嶽の桑山修理も、なんじの主人高山右近も、速やかに、手勢をもって、馳せ加わらぬか」
 叱咤と共に、その使者を、槍の石突いしづきで突き倒し、ふたたび阿修羅あしゅらとなって、敵兵を迎えた。
 血戦場、約三町ほどの間を、こうして押しつ押されつ、一進一退を繰り返すこと十三回。――早暁、とら下刻げこく(午前五時)頃から辰の下刻(九時)にいたる約四時間というもの――よく戦いも戦ったり――ほとんど、眼に血の色のほかを見ぬまで奮戦した。
「か、かくまで……お働きのうえは、も、もはや、お心のこりはない筈。……ぞ、ぞう兵どもの手に、かからぬまに」
 誰か、またも一人の味方が、瀬兵衛の馬の口を曳ッぱって、まっしぐらに、とりでの内へと走っていた。さすがの瀬兵衛も、息はあえぎ、ひとみは始終、火焔を見ているように、熱くばかりあって、物なべて、かすんで見える。
「だ、だれだ?」
「ふ、ふ、淵之助ふちのすけ重定です」
「お。……重定か。間道のふせぎは。……か、間道は如何いかがした」
「破れました。無念です」
「何を歎く。――桑山、高山輩こそ、そういうがよい。存分、闘いぬいた俺どもには、悔いはない」
「いえ、敵の計に乗ったのが、残念と申したのです。滅多に、本丸の囲いまでは、敵を入れることではないぞと、一人が十人にも当って、しのぎけずっていましたが、裏山の下小屋に、俄に、火の手が揚ったのを見――すわや、敵は後ろを巻いたりと崩れ立ち、遂に、何処の防ぎも、敗れ去りました」
「では、あの火の手は、裏山の小者小屋か」
「敵の徳山則秀が、わずかの人数を廻して、火を放った煙に過ぎませぬ」
「――あ。待て」
 瀬兵衛は突然、あぶみに突っ立って、
「淵之助、わしを、どこへ導くつもりだ」
「はや、合戦もこれまで、本丸囲いへお退きあって、お心静かに、お腹を召させられませ」
「何、腹を切れと。――ば、ばかな。瀬兵衛、ただ腹を切るのは嫌いだ。――離せっ、離せ。馬の口輪を」
 ――ただ一騎となっても、なお最後の一戦を思い捨てぬ瀬兵衛だった。
「腹を切るより、よき敵と刺しちがえてこそ死ね。……淵之助、無用な死所へ俺を連れて行くな。死にざまなど、どうでもいいわさ。俺は、もいちど敵へ見参する。おぬしは、いいように死ね」
 云い放って、手綱に波をくれ、馬の首を悍強かんづよく振らせた。
「それまでに、仰せなれば」
 と、中川淵之助は、口輪の手を離して、一瞬、眼に涙をためた。血のつながる同族であり、山崎の合戦にも、終始、死生の境を共にして来た主人でもある。
「……あっ、追って来ます」
「来たか。――仕合わせ」
 うしろへ迫る喊声かんせいにたいして、瀬兵衛は直ちに、馬首をめぐらそうとしたが、あわれ、馬さえ疲れ果てている。焦心いらッて、あぶみのかかとで馬腹を蹴った。しかしあけにまみれた馬の巨体は、いなないては、よろめくばかりだった。
 そのとき――
「中川瀬兵衛清秀はここぞ。――瀬兵衛これにあり。いざ、いざ寄れ」
 という声が、彼方に聞えた。
 瀬兵衛は、はっと、振り返った。
 とたんに、馬は膝を折った。どうと、鞍の上から、彼をも地へほうり出していた。
「やあ、淵之助めが、俺の身になり代り、八面に敵をうけて戦いおるわよ。――身をもって敵に当り、なおも俺に、落ちよというか」
 うれしさ。しかし、涙は出ない。ニコと笑ったようにすら見える。けだし淵之助重定の心境も、彼の心境も、まさしく一つだったからである。
「淵之助っ。死出の道も一つにしようぞ」
 彼方へ向け、こう大声を送りながら、両のを、地上でこすッた。血糊にぬるぬるする槍の柄が、手にすべると、自然、全力の発揮を欠くからである。
 われから行くまでもなく、敵は早くも寄って来た。閃々せんせん、槍を揃えた甲冑の一群は、波状をして、彼の前に迫り、しばしば、声ばかり発していたが、
「真の瀬兵衛はこれだ。これこそ、敵将清秀っ」
 一箇の武者が、わめいて、一歩出た。突ッかけたのである。――が届かない。また一人出た。瀬兵衛の槍は、巻きこんで、叩き伏せ、石突いしづきを返して後ろを突いた。
 せつな、乱戦となった。人は容易には死なぬものである。幾度か、瀬兵衛のすがたは、朱をあびて、よろめいたが、ひょうのごとく、躍ってはまた、敵をたおした。――というよりは、遂には、口をもって、敵の喉笛のどぶえへ噛みつくような勢いだった。悽愴せいそうを極め、鬼気胆を刺した。さしもの敵兵も一角をくずした。まだ生きている瀬兵衛は、折れ槍をひッ提げて、幽火ゆうかちゅうを歩くように、ひょろ、ひょろと、血路を辿たどった。
 ――朦朧もうろうたる眸が、坂道へ行き当った。もう登る力もない。
 匍匐ほふくしてけて来た佐久間勢のうちから、一武者が、ぱっと立った。武者は槍もろとも、瀬兵衛の体へぶつかッて行き、
「佐久間殿の身内、近藤無一ッ」
 と、名乗っていた。ごろごろっと、二つの体が転がり合った。再び起った無一は、
「討ッたっ。中川殿の御首、近藤無一、討ち取ったりっ」
 と、絶叫し、鮮血したたるものを、高く差し上げていた。
 大岩山は陥ちた。
 中川瀬兵衛が討死した時刻、山上の本丸小屋からも、濛々もうもうと、黒煙がのぼっていた。内曲輪の中川衆五十余名も、その頃、ことごとく斬り死したものとみえる。
 山裾の北方から東にかけての兵舎や厩舎きゅうしゃなども各所に煙をき、火薬であろう、折々、炸爆さくばくする音もまじえて、生木の燃える熱風で、血臭い大地に、一時、木の葉の灰を雪のように降らせた。
「油断すな。ほっとするは、まだ早いぞ」
 馬上の佐久間玄蕃允げんばのじょうは、途々みちみち、部署の将士へこう云いながら、幕僚ばくりょう数十騎、兵二千をつれて、まだ燃えているさかりに、山上へ登って行った。
 やがて、勝鬨かちどきがとどろいた。
 天辺に聞えた万雷のそれにこたえて、ふもとの庭戸ノ浜や、尾野路山の間道や、その他、諸所の警備に分駐ぶんちゅうされた味方の各部隊も、その居る所から、
「わあーっ。うわあっ」
 勝ち誇るときの声をあげ、この朝の予想外な戦捷せんしょうを天地に祝した。
 時に、陽はこく(午前十時)頃であった。
(この間に、腰兵糧を解き、休息あるべし)
 という令が伝わる。令は、貝をもって知らされ、心得は、使番をもって、各隊の部将に達せられた。
 即ち、いう。
中入なかいりの一挙は、首尾上々、味方の大勝に帰したとはいえ、なお賤ヶ嶽、岩崎山、堀秀政の東野山より堂木だんぎへわたる敵のうごきも定かでない。飯咬めしかむあいだも油断あるな。――常に、山上の旗合図、のろし、或いは随時、貝をもって報ずる令に心せよ)
 炎煙はやや鎮まった。
 焼け跡近く本陣をおいた佐久間玄蕃允げんばのじょうのまわりは、花見のようなざわめきだった。玄蕃允は大機嫌なのである。床几にって、次々に持って来る首級をにかかった。首帳第一は、当然、何といっても、瀬兵衛の首をあげた近藤無一であったが、無一は、
「首を掻いたのは、私ですが、討ったのは、大勢のお味方です。私一名が、筆頭を占めてよいわけはございませぬ」
 功を戦友にゆずって、かたく記名を辞退した。
 無一、年二十一歳だった。よい侍、目をかけてやれとは、勝家もいっていた者である。佐久間家にも、こうした武者は少なくなかった。
 戦捷の飛札ひさつを添えて、中川瀬兵衛の首級は、直ちに狐塚きつねづかの柴田勝家の本営へ送られた。それと共に、玄蕃允は、使いをして、
「夜来、長途を来て、今暁からの合戦にて、兵馬は大いに疲れておるゆえ、今夜は、当所において夜を過ごす覚悟。――お案じあるなと、お伝え申せ」
 狐塚までは、迂回路をとると四、五里もあるが、直線に行くと一里余しかない。勝家が、瀬兵衛の首級を目に見たのは、同日の午頃ひるごろだった。
「やったわ。甥めが」
 大喜悦である。
 しかし、今夜は所在の陣地に一泊するという伝言を聞くと、急に眉をひそめた。
「――もってのほかな」
 と、厳しい反対だ。大利に酔うておごるは兵家の禁物とするところである。一刻もはやく敵中から足を抜け。さもなくば袋叩きの目にあうであろうぞ――と、戒告かいこくして、その旨を、かたく使者に答えて帰した。

驕兵きょうへい


 同日の朝である。
 琵琶湖の湖心を水鳥の群れのように北上して来る六、七隻の兵船があった。
 船楼せんろうをつつむ軍幕とばりには、杜若かきつばたの大紋がはためき、武者囲いの蔭には、銃身や槍の穂先が林立していた。
「や。……あの煙は?」
 丹羽にわ五郎左衛門長秀は、船楼に立っていたが、ふと湖北に連なる一山から立ち昇る黒煙くろけむりに、思わず声を大にして、左右へ訊ねた。
「――大岩おおいわ辺か、しずたけか」
「賤ヶ嶽かと相見えます」
 坂井与右衛門、江口三郎右などの幕僚が答えた。
 実際、この辺から望むと、山また山の重畳ちょうじょうなので、大岩山の火の手も、てっきり賤ヶ嶽と見られぬでもない。
「はて。せぬが」
 長秀は、眉をひそめて、なお凝視ぎょうししつづけていた。
 解せぬ――と思ったのは、余りにも、彼の予感があたり過ぎていた驚きであった。
 この日の二十日未明、長秀は、海津かいづめてある一子鍋丸なべまるを将とする軍隊から、早馬をもって、
(昨夜来、柴田、佐久間などの営中、何となく騒然そうぜん不審ふしんに候う)
 との通報をうけた。そのとき彼の六感はすぐ“敵の奇襲”を直感した。なぜならば、十七日以来、秀吉が大垣へ発して、岐阜へ作戦中のことを知っていた彼には、敵がこれを偵知ていちすれば、時を移さず、虚を撃って来ることは――必然的に察し得るところだったからである。
 で、長秀は、早馬の者が、
「昨夜来の敵の様子、不審にて候う」
 と聞くや、
「かくある間も心もとなし」
 と、手勢わずかに千余人を兵船五、六艘に乗せて、直ちに、
葛尾くずお附近へ」
 と、がせて来た。――と果たして、賤ヶ嶽方面に煙が見られ、やがて、葛尾の岸近くに来ると、さかんな銃声さえ聞えて来たのであった。
「敵は早や本山のとりでを攻めおとしたと見ゆるわ。賤ヶ嶽も危うい、岩崎山も恐らく持つまい。……与右衛門、三郎右、その方どもは何と見るの」
 幕僚の二人は、長秀から意見を問われると、率直にこう答えた。
「まことに、事態容易とは思われませぬ。必定ひつじょう、敵は大軍を動かし来ったものに相違なく、今この小勢をもって、破竹の敵に向ってみたところで、到底、お味方の危急を救うには到らぬものと見られます。事態、かくの如き上は、このまま、坂本へ引っ返し、坂本城におこもりあるが上策ではないかと思考されまする」
「愚かなことを……」
 と、長秀は聞き流した。そして却って、二人へ火急に命を下した。
「早々、船をなぎさへつけ、兵馬をことごとく、岸へ上げい。そこでまた、その方どもは、急いで船を返し、海津かいづとどめてある鍋丸の軍勢の三分の一を分けて、即刻、当所への加勢に駈けつけさせよ」
「でも、五里の湖上を、往き返りしていては、目前の御合戦に、間にあいましょうや」
「戦に当っては、日頃の算用一切無益じゃ。――五郎左衛門長秀が、これに兵を上げたりと敵へ響けば、それで既に効はある。よもやかかる小勢とは、敵も測り得ず。必ず一面に猶予ゆうよを生ずるであろう。小さい思慮分別、かなぐり捨てて、早や船を着け、海津へ急げや」
 丹羽長秀の上陸した地点は、葛尾くずお村の尾崎であった。船はすぐ引っ返した。装備に一刻余り費やされた。銃隊、槍隊、騎隊、荷駄隊など、列伍が組まれると、それはすぐ賤ヶ嶽へむかい、急流のごとく進軍し始めていた。
 途上の一部落で、長秀は馬を止めた。村民の群れを見かけたので、情報を聴取するためだった。
 村民たちのいうには、
「夜明け方の合戦は、不意のことで、何やらいっこう分りませんでしたが、この辺までも、流れ弾が飛んで来、程なく大岩山の方に火の手が揚ったと思うと、ときの声が、幾度も、海嘯つなみのように聞えて参りました。そして佐久間隊の武者が――多分、斥候隊かもしれませぬ――馬を飛ばして何度も余吾よごの方から村を駈け抜けて行きました。うわさには、中川瀬兵衛様の軍勢は、とりでを守って、一人のこらず討死したとやらで、どうなることぞと、今も皆して語り合っていたところでございまする」
 また、賤ヶ嶽方面の味方については、何か知るところはないかと訊ねると、村民たちは、口を揃えてこう告げた。
「――つい今し方のこと、賤ヶ嶽の桑山重晴様は、砦のお手勢をみなきつれて、木之本の方へと、山伝いに、急いでおいでなされました」
 これは、長秀を唖然あぜんとさせた。
 加勢して、共にそこへ楯籠たてこもろうとして来たのに、当の桑山隊は、中川隊の全滅もよそに、持場を捨てて、早くも落ちて行ったとある。何たる醜態しゅうたい、何たる心事。長秀は修理重晴のあわて方にあわれみすら覚えた。
「村民ども、見かけたのは、今し方と申したの」
「はいはい。まだ十町とは遠ざかっていないと存じまする」
「……猪之助」
 と、長秀は徒士かちの一名を呼び出して、急にいいつけた。
「桑山隊を追いかけて、修理殿に会い、長秀、これまで参ったる由を告げ、共に賤ヶ嶽を守るべし。早々、引っ返されよ……と申して来い」
「承知仕りました」
 使番安養寺あんようじ猪之助は、馬に鞭をあてて、木之本の方へ急いだ。今朝来、中川瀬兵衛へ向って、退陣のいさめを再三くり返すのみで、協力にも出ず、ひたすら佐久間勢の猛襲に狼狽ろうばいしていた桑山重晴は、中川隊の全滅を知るや、いよいよ浮き足立てて、この味方の中核陣地の潰乱かいらんを前に、一弾一槍の反撃を試みず、賤ヶ嶽の持場を捨てて、今し、われがちの速度で落ちて行くところだった。
 そのこころは、木之本にある味方と合流して羽柴秀長の命を仰ごうとしたものだったが、途中まで来ると、丹羽家の安養寺猪之助が、長秀の来援を伝えて来たので、
「なに丹羽殿が加勢に駈けつけられたとか。さらば――」
 と、俄に勇気づいて崩れ立った部下をまとめ、急旋回して、また元の賤ヶ嶽へ引っ返した。
 その間に、長秀は、附近の村落に諭告ゆこくして、住民を安堵あんどせしめ、賤ヶ嶽へ登って、やがて桑山重晴と合した。
 また、即刻、一書をしたためて、美濃大垣の陣にある秀吉の許へ早馬を立て、事態の重大を急報した。
 この日の夕方、羽柴秀長の命をうけ、藤堂与右衛門高虎も、一隊をひきつれて来援し、賤ヶ嶽の死守に加わった。
 一方、大岩山の佐久間勢は、戦捷せんしょう気分のうちに、そこの暫定主陣地で、うまこく(正午)から約一刻いっとき余りは、悠々、休息をとっていた。昨夕方からの長途と激戦のあげくである。将士は、勿論疲れていた。
 ――が、兵は腰兵糧をった後も、血まみれな手足を誇りあい、談笑に興じなどして、疲れも忘れていた。物頭は令を伝えさせて、
「寝ろ寝ろ。この間に、一眠りしておけ。夜もどうなるか分らぬぞ」
 と、組々へいわせた。
 雲も夏めいて来た。新樹に初蝉はつぜみの声もする。湖から湖へ渡る山上の風はわけて快い。空腹を満たした兵たちは、ようやく眠気ざし、槍や銃を抱いたまま、彼方此処に転がり始めた。
 木蔭の馬も、まぶたをふさぎ、部将たちも、木の根にって、居眠っていた。
「…………」
 静かである。激戦のあとの一瞬ほど寂たる感を誘うものはない。つい夜明け前まで、敵が夢をむすんでいた営はすべて灰と化し、その人はことごとく屍となって草むらにまかされていた。昼ながら鬼気肌に迫る――。哨兵の姿のほかは、帷幕いばくのうちまでひそとしていた――。雷の如しというほどでもないが、主将玄蕃允盛政げんばのじょうもりまさ鼾声かんせいが、そこから、さもこころよげに洩れてくる。
 ――つと五、六騎がどこかで留まった。一群の甲冑はすぐこっちへ駈けて来た。玄蕃允をめぐって、各※(二の字点、1-2-22)、坐態のまま眠っていた幕僚たちは、くわっと、すぐ眼を外へ向けて、
「何かッ」
 と、呶鳴った。
「松村友十郎、小林図書など、大物見の者どもにござりますっ」
「はいれっ」
 そういったのは、玄蕃允だった。不意に起きて、大きくみはった眼はまだ寝足らないように赤かった。一睡いっすいに入る前に、たしなむ酒を仰飲あおったとみえ、座のかたわらに朱の大盃がかわいていた。
 松村友十郎だけが、幕裾まくすそにひざまずいた。そして物見を報じていう。
「岩崎山には、早や敵の一兵もおりませぬ。万一、旗をかくして、埋伏まいふくけいもやあると、入念に見ましたが、守将高山右近長房以下ことごとく、一刻半ほど前に、田上山(羽柴秀長の陣地)のふもと辺りまで、遠く退却いたしたようにござりまする」
 玄蕃允げんばのじょうは手を打って、
「逃げおッたか」
 と、哄笑こうしょうし、幕僚たちを顧みて、重ねて、
「――右近は逃げたと申すよ。はやい奴かな。わはははは」
 と、全身を揺すって笑った。
 祝盃の余酔がまだ醒めきっていないらしい。玄蕃允は、なお笑いやまず、
「むかし富士川に平家あり。今日、岩崎山に高山右近あり。いやはや、とんだ道化者よ。武門の生れぞこないよ。わろうても嘲いきれぬ」
 このとき、さきに狐塚きつねづかの柴田勝家の本陣へ、戦捷せんしょう報告にやった使いが、勝家の旨を帯びて帰って来た。
「使番。――戻ったか」
「は。ただ今、帰陣いたしました」
「御本陣狐塚の方面には、敵のうごきはないか」
「別条もない由にござりました。おやかたにもいとお気色ようて」
「さぞ、およろこびなされたであろうな」
「さればで――」
 使番は、玄蕃允のたたみかけるような問いに、汗をぬぐうひまもなく答えつづけた。
「今暁からの合戦のもようを、逐一ちくいち、申し上げましたところ、そうかそうか、おいめの面目見るようじゃと、いつものお口癖もしばしば出され、斜めならぬ御感悦にござりました」
「して、中川の首級しるしは」
「すぐ御一見あって――たしかに瀬兵衛よ、と仰せられ、左右の方々を顧みて、幸先さいさきよいぞ、めでたい――といよいよ御機嫌のていにお見うけ申されました」
「さもあろうず」
 玄蕃允は上機嫌だ。
 勝家の喜悦を聞くことは、同時に彼の得意をも楽しませた。なお、その叔父をして、もっと大きな歓びに驚倒きょうとうさせてやろうという意図にすら燃えていたのである。
「岩崎山の砦もまた、つづいてわが手中に入ったことなど、北ノ庄殿には、まだ存じはあるまいに。……ははははは。さりとは、ちと御満足が早過ぎる」
「いや、岩崎山のことは、それがしがお暇申す頃には、早や狐塚にも伝わっておりました」
「では、再度、早馬には及ばぬな」
「そのことだけならば――」
「いずれ明朝と相成れば、さらにしずたけも、わが手のものじゃ。あわせて耳に入るるも遅くはあるまい」
「さ。……その儀ですが」
「その儀とは」
「戦いの大利に乗じ、余りにくみしやすしと敵を見るは不覚のもとと、よそながらお案じの御容子ごようすで」
「たわけたことを」
 と、一笑して、
「玄蕃、これしきの勝ちに、酔うてはおらぬ」
「……が、おやかたには、御発向ごはっこうの前、特に御訓戒ごくんかいのあったことでもあり――中入なかいりは退きの切レこそ大事、一勝をち獲た上は、敵中に長居はくれぐれ無用――と、今日も繰り返され、きっと、殿へその旨を伝えよとの仰せにござりました」
「すぐ引揚げよ、とか」
退いて、後方の味方に合せよとのおことばです」
「はて、腰弱な」
 かすかな嘲笑すら見せて、玄蕃允は、強く口のうちでいった。
「まあ、よい」
 ところへ、偵察隊の一報がまた入った。丹羽長秀の三千が桑山隊に加勢し、共に賤ヶ嶽へって、防備を固め直しているというのである。――これは、賤ヶ嶽の攻略を、独り明朝に期していた玄蕃允には、さらに、火へ油を注ぐものとなった。猛将の猛気は、かかるとき、いやが上にもさかんなる戦意に駆られるばかりだった。
「おもしろい」
 玄蕃允は、陣幕を払って、外へ出て、南の方二里余、青嵐せいらんまゆにせまる賤ヶ嶽を見た。
 ――と、麓から登って来る一将があった。従者数名を連れている。そしてその案内に、木戸の守将が先に立ち、これへ急いで来るのが見えた。
「入道じゃな」
 玄蕃允は舌打ちした。
 その人間が、常に叔父勝家のそばにいる浅見入道道西どうせいとわかると、すぐ彼がこれへ使者に来た用向きも、会わないうちに知れた気がしたからである。
「オ。……これにおいでで」
 道西入道は、汗をかいていた。たたずんでいた玄蕃允は陣幕のうちへいざないもせず、
対馬つしまどのか、なんじゃ」
 にべもない眉を示した。
 道西は、ここでは申し上げかねるが――という意を容子に見せたが、玄蕃允はそれに先手を打って、
「こよいは宿陣して、引揚げは明日と相成るぞ。――先刻、狐塚へも伝えておいたが」
 と、余事には耳もかさぬ顔をした。
「伺いおりまする」
 道西入道はいんぎんに礼を仕直した。そして、大岩山の大勝をくどくど祝した。玄蕃允は思う。こいつにねばられては堪らん。――そこでぶッきら棒に云い出した。
「叔父上には、まだ何か、取り越し苦労をなされて、御辺をこれへよこしたのか」
御賢察ごけんさつのごとく、その宿営の儀を、いたくお案じで、夜ともいわず敵との切レを取って、わが本陣へ来るべし――との御意で」
「案ずるな、入道。玄蕃が麾下の精鋭せいえいは、進まば破竹はちく、守れば鉄壁。未だかつて、はじを取ったためしはない」
「もとよりそれはお館にも御信頼のことにござりますが、兵法の上よりみて、中入りの地に凝滞ぎょうたいあるは、なんとしても、策を得たものではないと……」
「まて、入道。凝滞の陣とは、変通自在を欠く死陣をさしていうことぞ。玄蕃を兵法知らずと申すか。その一言は、なんじの言か、叔父上のことばか」
 ここに至っては、道西入道もおぞ毛をふるって口をつぐむほかはなかった。そして到底、かかる間の使いに立つのは身の危険であるとも考えた。
「それほどまでの仰せとあれば、ぜひもございませぬ。御信念のほど、お館に申し上げておきましょう」
 倉皇そうこうと、入道は辞去じきょした。玄蕃允げんばのじょうは、将座へもどると、すぐ指揮を発して、岩崎山へ一隊を派し、また、賤ヶ嶽と大岩山の中間にあたる観音坂附近や蜂ヶ峰へも、各※(二の字点、1-2-22)監視小隊をさし向けた。
 すると、程なくまた、ここへ取次の声があった。
「狐塚の御本陣より、国府尉右衛門こくぶじょうえもん殿、御軍令をうけたまわって、ただ今、これへお越しになられます」
 この度の使いは、単なる面談や、勝家の意思の取次でなく、正式なる軍令を伝達する者として来たのである。玄蕃允も、床几をゆずらざるを得ない。
 ――が、命令の内容は、さきの繰り返しに過ぎなかった。神妙に聞いてはいたが、玄蕃允の答は、依然、自説を固持して敢えて服する色もなかった。
「すでに、中入りの一戦は、指揮進退、玄蕃に御一任くだされたこと。おことばをれては、せっかくの作戦も、画龍点睛がりょうてんせいを欠くことに相成る。さらに、ここはもう一歩、玄蕃允の采配におまかせおき賜わりたい」
 使いをもって、ねんごろに伝えさせてもうなずかないし、総大将の命なりと達しても服さないのである。そうした自我をたてに取って構えた佐久間玄蕃允の前には、勝家から選ばれて来た国府尉右衛門といえども、ついにその剛性ごうせいを説き伏せることはできなかった。
「やむを得ぬ儀」
 彼は忽ち見切りをつけた。軍令の使者たる手前でもそうなければならなかった。やや憤然たる眉色びしょくさえ見せて、
「おやかたの御意ははかられませぬが、お答え通り申し上ぐるでおざろう」
 余談は何ひとつ交えず、すぐ帰って行った。勿論、往復ともに快足の駿馬しゅんめに鞭打っているのだ。
 その三度目の使者が帰り、折返して、四度目の急使がこれへ来た頃、陽は西にうすずきかけていた。
 勝家侍側の老臣で太田内蔵助おおたくらのすけという老武者が、ことばを尽して、説きに来たのである。――というよりは、叔父甥の仲に入って、若気な玄蕃允の剛性をなだめに来たというかたちだった。
「まあまあお志もおわそうが……お館とても、あなた様をば、御一族中でも格別に思し召されればこそ、かくまでの御心配を遊ばすというもの。……殊に、ここまで敵の一角崩せば、後は陣勢堅固に立てて、勝目勝目と、おもむろに敵の弱身を破ってゆけば、ここに、わが大柴田の策す天下の計は定まると申すもの。……のう、玄蕃どの、ここは一つ折れて」
「老人。――日が暮れると、途中があぶない。帰れ」
「なりませぬかの」
「何がじゃ」
「御決意は」
「そんな決意は、初手しょてからしておらぬ」
 この老臣も手持無沙汰に帰った。――五度目の急使が来た。実にこれで五人目の使いである。玄蕃允の剛性につのが生えた。わがままも、ここまで来ると、意地である。
「会わんといえ」
 追い返そうとしたが、使者の宿屋七左衛門は、小武者ではない。きょうの使者はみな馬上の歴々だったが、わけて七左衛門は君側の一雄である。
「――われらのお使いにては、不足かは存ぜぬが、勝家様自身、これへ迎えに参らんと仰せ出されましたのを、まずまず、さまでにはと、われら近衆がおひき留め申して、不肖七左衛門が、かくは大殿の代りに参ったのでござる。なにとぞ、御分別あって、一刻もはやく、ここ大岩山を、御陣払いのほど、伏して願い奉りまする」
 陣幕とばりの外に平伏して訴えるのであった。――が、玄蕃允の胸にはべつにこういう判断があった。いかに大垣の秀吉が変を知って駈けつけたところで、大垣からここまでは約十三里。きょうの注進が着くのも夜にかかろう。また、そう急には岐阜ぎふの陣地を離れ得るものでもない。その転進をよほど早目に予想しても、まず、明日の夜か、明後日あさってにはなる。――そう彼は多分に多寡たかをくくっていたのだ。――がんとして初志をひるがえさない一因のものは、彼の持ったその公算にもあったのである。
(――玄蕃めがどうしてもかぬとあれば、われ自身出向いても、こよいのうちに引揚げさせん)
 とまでいったという柴田勝家の焦躁しょうそうは、焦躁としても、さすがに兵家の老練といっていい。玄蕃允のあまい公算とは大きにちがう。
 その日、狐塚の本陣は、中入り軍の快捷かいしょうの報をうけて、一時は、歓呼にきたてられていたが、勝家の戦局観による中入り軍の急速な後退命令が、いっこう行われず、特に、馬上歴々の衆を次々にさしむけても、ことごとく玄蕃允の拒否や嘲笑に追い返されて来る始末に、俄然、勝家の憂色濃く、
「甥めは、この勝家に、皺腹しわばらを切らす男じゃ。……ああ、何たる奴」
 と、歎声を発し、果ては、身もだえせぬばかり、玄蕃允の我意がいののしっておられる――という帷幕いばくの内紛が洩れるに至って、中軍の士気も何となく鬱々うつうつと重く、
「また、お使者が出た」
「や、またも」
 と、頻々ひんぴんたる大岩山との往復に、将士までが胸をいためていた。
 勝家も、この半日で、寿命をちぢめる思いをしたらしい。五たび目に使者の宿屋七左衛門の帰るのを待っている間などは、床几しょうぎについていなかった。陣所は狐塚の一寺にあったが、そこの廻廊を、黙々と、めぐり歩いては、山門の方を見て、
「まだか。七左は」
 と、幾たび、近衆に訊ねたことか知れない。
「――はや黄昏たそがれるか」
 せまる暮色まで、彼をいらだてた。が、日の長いさかりである。鐘楼しょうろうのあたりにはなお夕陽が残っていた。
「宿屋どのが帰りました」
 山門固めの武者が階下まで走って来て告げた。オオと白髪しらがまじりの眉をしかめ、近づく影を見るや、
「七左。どうした?」
 と、ひざまずく間も待たず、彼から訊ねた。
 七左は、玄蕃允げんばのじょうが会わぬというのをって会って、縷々るる、お旨を伝えて来ましたが――結局、大垣にある秀吉がこの方面へ駈け向って来るには、ぜひとも、一両日は要し、また迅速じんそくに来たところで、長途につかれた兵、これを撃つのは、さして困難とは思われぬ。それゆえどうしても大岩山に踏みとどまるお覚悟と申され、如何とするも、意志を変じるお気色は見えず、やむなく立ち帰りました――との口上を有態ありていに復命した。
 ――と、勝家は、眼のくぼをぎらとさせた。憤怒ふんぬをまぜた骨肉の感情をよこにたぎらせて、
「ば、ばかな」
 と、血を吐きそうな叫びをなし――大きなうめきの下に、また、
「途方もない男よ」
 と身をふるわしてののしった。
弥惣やそうっ、弥惣っ」
 右を見、左を見、次室の武者だまりの内へ、こうかんだかく呼びたてた。
「吉田弥惣どのですか」
 毛受めんじゅ勝助が問い返した。勝家は、その勝助へまで当りちらすように、
「そうじゃよ。早く呼べ。弥惣にすぐこれへといえ」
 あわただしい跫音あしおとが、寺中を駈けた。呼ばれて来た吉田弥惣は、またすぐ勝家の命をうけて、大岩山へ馬をとばして行った。
 長い日もようやく暮れ、若葉の木蔭に、かがりの火色が揺れ始めていた。――勝家の胸奥きょうおう象徴しょうちょうするもののように。
 二里余の往復は、飛馬一鞭いちべんのまたたく間だった。吉田弥惣は、忽ち帰って来た。
「これが最後のおことばとまで――切においさめいたしましたが、玄蕃允様には、ついにおき入れもございませぬ」
 六度目の復命もこうだった。勝家はもう怒る気力もないようだった。もしここが戦場でなかったら落涙もしかねない容子に見える。ただ歎息に沈んで、今は責めを自己にたずね、
(……が悪かった)
 と、日頃の彼になしていた盲愛もうあいが今さら、やまれてくる。
 軍律ぐんりつ一本のげんたる統率になければならない戦場において、はしなくも、今日の玄蕃允は、日頃の叔父甥の感情を持ち出し、平常のれたる態度で、興亡の処決に向い、しかも、自我のわがままを押し通して、いッかな顧みもしないのである。
(困った!)
 実にそう思う。ほぞんでそう思う。
 勝家のこぶしは膝にわなないている。
 ――が、若年の彼をして、そうれしめた者は誰か。誰でもない叔父たる自身の盲愛ではなかったか。玄蕃允の素質を愛するの余り、さきには養子の勝豊と長浜城を失い、今は、全柴田軍の運命からさらに大きな――またと取り返しのつかない機運を失おうとしているのだ。――こう思い来るとき、柴田修理勝家は、まったく誰をも恨みようのない悔恨かいこんの底に、暗然たらざるを得なかったのである。
 吉田弥惣は、なお告げた。――玄蕃允が云ったという返答をである。それによれば、玄蕃允は、弥惣の切なるすすめに対し、依然一笑をむくいて、
(むかしは、柴田殿といえば、鬼ともいわれ、神算鬼謀しんさんきぼうの大将ともいわれたか知らぬが、今日となっては、北ノ庄殿の戦法も、すべてのおさしず振りも、はや時勢にわぬお古い頭となっておる。古風な軍略では今時の合戦はでき申さぬ。このたびの中入なかいりにせよ、初手はなかなかおゆるしもなかった程だ。ともあれ、ここは玄蕃にまかせ、修理叔父は、狐塚にお控えあって、一両日は、御見物がしかるびょう思われる)
 と揶揄やゆして、てんで受けつけもせず、その間にも、観音坂や蜂ヶ峰方面の新地点へ、積極的に小部隊を増派している様子でした――と弥惣はつつみなく語るのであった。
 勝家の憂いと、惨心の影は、見るに堪えないものがあった。なぜならば、彼は、秀吉の真価を誰よりも知っていた。日頃、玄蕃允や侍臣などに云っていた評は、敵を怖れしめないための戦略的言辞に過ぎないのであった。秀吉の怖るべき理由は、中国引っ返し以後、山崎の合戦でも、清洲会議のときでも、飽くほど、胆に知らされて来た勝家である。――いま、その強敵を前にし、乾坤一擲けんこんいってきの火ぶたを切って起った出ばなに、はからずもこの一蹉跌いちさてつを味方に見ては、いかに勝家みずから勝家をたのむも、決戦の前途に、早くも安からぬ困難を感ぜずにはいられない。
「途方もなき玄蕃かな。勝家、今日まで、一度も不覚を取らず、敵に総角あげまきを見せたこともなきに。……ああ、ぜひもなや」
 沈痛な嗟嘆さたんのうちに、宵闇ふかい夜は、彼の苦悶に、あきらめをいていた。遂に、ふたたび使者は出なかった。

その日のうち


 大垣の秀吉の陣所へ、羽柴秀長からの第一報が入ったのは、その日二十日のうまこく(正午)頃であった。
(今暁、佐久間勢八千、間道より中入りを遂げ、大岩砦の瀬兵衛苦戦)
 と、早馬をもって告げて来たのである。
 木之本きのもとから大垣まで十三里、早馬としても、非常なるはやさだったといっていい。
 すぐ、第二報が着いた。
(柴田勝家の本軍一万二千もまた時を同じゅうして、全面的にうごき出て、狐塚を中心に、北国街道に沿い、東野山方面へ当てて、布陣ただならず見えて候う)
 時、ちょうど秀吉は、呂久川ろくがわべりへ出て、増水の勢量を視て帰って来たところだった。
 一昨日おとといから昨夜にかけて、美濃方面は豪雨だったとみえ、大垣岐阜ぎふ間の合渡川ごうとがわも呂久川も氾濫はんらんしていた。
 そのためここでは、作戦に大狂いを生じていたのである。――予定としては、昨十九日、岐阜城へ向って、一挙に総攻撃を開始するところであったのが、豪雨と呂久川の出水にさまたげられて、きょうも渡河の見込みなく、一両日、待機たいきとなっていた折であった。
 秀吉は、一番着の使いの飛札ひさつを陣外の馬上で受取り、手綱たづなを挟んで、鞍の上でそれを読むと、
「大儀」
 と、使いへ云ったのみで、何の表情も示さず、陣小屋へ入った。
由己ゆうこ、茶を一ぷく」
 と所望し、飲みおわる頃、第二報をうけた。
 三番飛脚は、堀秀政からの者で、秀政の書中によって、善戦した中川瀬兵衛の討死や、高山右近の抛棄ほうきによる岩崎山の失陥など、やや詳密しょうみつなことが明らかになった。
 これらの早馬は、時間にしても、わずか半刻はんとき(一時間)ほどを前後していたに過ぎなかった。
 秀吉は、帷中いちゅう床几しょうぎに移っていた。誰彼と、幕僚を呼びあつめ、
「秀長から今、かく飛札して来たが――」
 と、淡々と一同へ打明けていた。そこへ堀秀政の詳報が着き、諸将の眉色もただならぬものを現わしたが、秀吉もまた、瀬兵衛戦死の報に接しては、
「……惜しいことを」
 一瞬、瞑目めいもくしていた。
 その容子が、諸将のおもてに、さっと凄気せいきをながした。その唇々くちぐちから、
「大岩山の瀬兵衛には、早や斬り死いたしたるか」
 と、期せずして沈痛な問いが出た。そして、この危機を如何に処すかを、秀吉のおもてから読もうとするもののように皆、一点に凝視をあつめた。
 秀吉はそのとき云った。
「瀬兵衛を討たせたは、返すがえすも無念ではある。不愍ふびんではある。じゃが、犬死はさせぬ。……」
 ここから一段と語気高く、
「よろこべ。よろこびをもって、瀬兵衛への手向たむけとせよ。――戦いはいよいよわれらの大捷利だいしょうりと天も告げ給うぞ。いわれは、久しく切所せっしょ引籠ひきこもって行蔵こうぞうをつつみ、手策てだてのなかりし柴田めも、いまみずから牢砦ろうさいを出で、勝ちにおごって遠く陣を張れるは、まさに、勝家が運の尽きよ。彼奴きゃつたむろさぬうち、切崩きりくずさば、何の一溜ひとたまりもあるべき。天下の雌雄しゆうを決し、われらが大志を果すとき、この節到来。今ぞ到来ぞや。――怠るな各※(二の字点、1-2-22)
 突如の霹靂へきれきにも似た危機の悲報は、秀吉の一言に、却って、晴天を指す快報となっていた。
 ――われ大捷たいしょうたり。
 と、すでに秀吉は諸将へ向って明言を与えたのである。そして時もかず、次々と命令を発し始めたのだ。命をうけた諸将も、
「時こそ来れ」
 と、将座の前を辞して、飛ぶがごとく、各自の営へ駈け出してゆくのだった。
 一時は“すわ大事”と危局の感に迫られた面々も、立ちどころに、
「この勝ちいくさに、後に置き残されては――」
 と、秀吉の命令が、自身を名ざすまでの順番さえ、もどかしそうに緊張していた。
 左右の小姓近衆のほか、召し呼ばれた諸将はあらまし準備のため退いたが――氏家広行うじいえひろゆき稲葉一鉄いなばいってつなどの地侍二、三の輩と、直属の堀尾茂助吉晴には、まだ何の指令もなかった。
 たまりかねた容子ようすで、氏家広行は、われから進んで秀吉へ訊ねた。
「それがしの手勢も、お供の用意にかからせたく存じますが?」
「いや、おことは、大垣に残っておれ。――岐阜ぎふの抑えに」
 そして、堀尾吉晴へも、
「茂助。その方も残れ」
 と、同時に命じた。
 それを最後に、秀吉は陣幕とばりを出て行った。と、すぐ大声で、
「作内っ、作内っ」
 と呼びたて――
「さきに吩咐いいつけておいた飛脚どもはどうした。揃うたか」
「はっ、あれにお指図を待ちおりまする」
 加藤作内光泰みつやすは、すぐ走って、彼方に控えさせていた約五十名の健卒を秀吉の前につれて来た。
 これはさきに秀吉が(足達者な飛脚を五十人ほど揃えておけ)――と光泰に命じておいたものである。
 秀吉は、その健卒たちへむかい、直々じきじきにこう告げた。
「きょうこそは、われらの生涯のうちにも、またとない一日。――その日の先駈けに選ばれたその方どもまた冥加みょうがというものじゃ。各※(二の字点、1-2-22)、日頃鍛えたすねにものをいわせて急げや」
 ――次に、使命をさずけた。
「二十人は、垂井たるい、関ヶ原、藤川、馬上まけ、長浜のあいだ、行く先々の村民に触れて、日暮れなば、松明たいまつを道々にともしおくこと。また、道のさまたげとなる手車や牛や木材などは往来に置くな。子供らはことごとく家のうちにかかえ入れ、危うき橋はすぐしつらえ置けよ――と大声にて触れつつ走れ」
「はいっ」
 右端から二十人は、一斉にうなずいた。後の三十人には、さらに、こう命令が降った。
爾余じよの者どもは一散に、長浜へと急ぎに急ぎ、城内の留守居とも力をあわせて、町の年寄、村々の百姓に告げ渡し、われらの通る途々に、木之本きのもとまで隙間もなく、兵糧を並べ置けと申せ。湯水、松明たいまつ馬糧まぐさなどもそなえおけと布令ふれいたせ。――戦いおわらば、汝らにも、褒美あろうぞ。――早や行け」
 健卒五十名は、すぐ駈け去った。
 秀吉もまた、直ちに、
「馬をっ。馬を」
 と、左右に促して、脇坂甚内の曳いて来た黒駒へ乗りかけていた。すると、
「殿。しばらく」
 不意に誰か駈け寄った。氏家うじいえ広行であった。秀吉の鞍にすがりついて、武者たる者が、声なく泣いているのである。
 氏家広行は大垣の城主で、いわゆる地侍の頭目とうもくである。岐阜の抑えとして、その氏家だけを留めておくのは、不安な上に、或いは、神戸信孝と通じて、離叛りはんせぬ限りもない。――そう秀吉は疑ったのである。
 ――で敵の抑えに、また抑えが必要となる。堀尾茂助にたいして秀吉が、氏家と共に残れ――と命じたのは、そのためであるはいうまでもない。
(お疑いをかけられたか)
 と広行は、心外に思った。
 なお、自分のために、堀尾茂助までが、千載せんざいぐうの決戦主戦場から除かれて、残留組に廻されたのは、何とも気のどくの感に堪えない。
 そうした真情に訴えるべく、秀吉の馬前にすがった広行は、
「――それがしのお供はかなわぬまでも、何とぞ、堀尾殿はぜひ御左右にお加え下されませ。広行、この場にて、腹掻はらかッ切り、殿の後顧こうこは、断ってお見せいたしまする」
 と、までいって鎧通よろいどおしに手をかけた。
「うろたえな。広行」
 秀吉はむちをもって、彼の手を打った。
「それ程、筑前について参りたくば、後より続いて来い。――が、総勢立ち払った後より来いよ。……おおさ、茂助ばかりとはせぬ、その方も来い」
「えっ、それがしまでも」
 狂喜して、広行は、陣幕のうちを振向き、
「堀尾どの、堀尾どの。おゆるしを得たぞ。出て来いっ。お礼を申せや」
 と、大声で伝えた。
 堀尾茂助は、駈け出して来た。二人して、大地に平伏した。しかし、びゅっと風に鳴る鞭の音がしたのみで、秀吉の馬はもう彼方へ駈けていた。
「あっ、お立ちぞう」
 それには侍側の面々すら、不意をくッて、われがちに、
「おくれるなっ」
「おくれては――」
 徒歩かちで走り出す者、馬上へとび乗る者、列なくさんなく、わっと、またどっと、主人のあとを追って一斉に発した。
 時に、時刻はちょうどひつじの頃(午後二時)であった。飛脚の第一使が着いてから、秀吉の発するまで、実にまだ一刻(二時間)しか費やしていない。
 その一刻のあいだに秀吉は、江北の敗れをもって、むしろ天与の勝機と断じ、立ちどころに、全軍の大方略を一決し、乾坤けんこんてきの大道十三里余にわたる途々みちみち布令ふれまで先駆させて、ここにはらたいも、
「よし!」
 となすや、総勢一万五千の真ッ先を疾駆しっくして行ったのもまた、彼自身であった。
 羽柴軍二万のうち、五千は後に留められ、一万五千が、旋回せんかい一路、秀吉に続いたのである。
 しかし、先頭一騎駈けの秀吉の姿に、からくも追いついていた者は幾人もなかった。旗奉行の石川兵助、いくさ奉行の一柳市助、加藤光泰のふたり、小姓組では加藤虎之助、脇坂甚内、平野権平、石田佐吉、糟屋かすや助右衛門など七、八輩が徒歩かちまたは馬で秀吉の近くを走っていたに過ぎない。
 長松、垂井、関ヶ原――
 道が、山間にかかると、徒歩の士は遅れがちになり、代って、騎馬の者が追いぬいてゆく。
 しかし、秀吉の姿はなお、先頭にあった。
 不破を過ぎると、先頭にかけ離れていた秀吉と七、八騎の影は、突然、街道に見えなくなった。
「や。いずれへ」
 驀走ばくそうして来た騎馬また騎馬の奔流と、徒歩かち立ちの武者たちは、玉村はずれの並木に、せきとなってよどみながら、
「はて。お姿は?」
「この行くてには見えぬ」
「しもうた。――道をかえられたに相違ない」
「さては、伊吹の裾道すそみちよ。――玉村から川寄りへ曲がれば、藤川、上平寺下じょうへいじした春照しゅんしょう村を通って、この街道を行くよりは、およそ二十町の近道になる」
「オ、それだ。返せ」
「おういっ、道をもどれ」
「返せや、後の者っ」
 なお、駈け来る者と、引っ返す者とで、うずをえがく混騒こんそうが生じた。
 中には、かかる暇も惜しとばかり、そのまま北国街道をまっ直ぐに、鞭を上げて走るもあり、玉村の追分から、伊吹山の裾を見ながら、狭い間道をとって、急ぎに急ぐ人々もある。
 何せよ、秀吉に続く数多あまたの将士が、秀吉におくれじと、また、余人に先は譲らじと、鋭気を競い、先を争うて急ぐこと、戦国の日、諸所に大小の合戦は繰り返されたが、まだかつて今日ほど、その先争いの烈しかったことはなかった。
 当時でも、抜け駈けや味方争いは、げんに軍律のゆるさないところではある。しかし、秀吉はこの日、一切の日頃の規縄きじょうを解いて、将士の意気と思いにまかせたのである。それも、ことばや法文で示したものではない。――彼自身がまず先頭を切って、味方一万五千の先に一騎駈けして見せたのである。
 なおまた、この日、彼が決した大方針といい、行くての主戦場といい、指揮一切は、帷中いちゅうの短時間に、ばたばたと裁決したことなので、その要綱ようこう知悉ちしつしていた者は、まったく首脳部だけで、大衆一万五千の兵は、ただ木之本へ木之本への合言葉と、
いくさは勝ちだと、御大将がいっている」
 という以外に、何のためにかく急がれているのか、仔細は何もわからずに走っていたのがほとんどといってよい。
 けれどただ、兵すべては、
「御大将が、急ぐからには――」
 と、信念信頼の一点を、先頭の姿に託して、
「死ぬもじょう、生きるも定。――どうせ生死をすならば、俺らの御大将まかせだ。筑前守様にいてこそ行け!」
 これが兵の意気だった。偽わらぬ気もちだった。彼らも、騎馬の将におくれを見せず、すねをもって、飛馬と競い、中には血を吐いてついに途上に仆れた歩兵も多く出たほどであったという。
 いわんや、年ばえみなつぼみの桜にも似る、秀吉近侍の小姓組の若人輩わこうどばらにおいてをやである。
「わっ、うわっッ。前に行く馬下手べたっ。避けろ。退かぬとあぶないぞ」
 山裾の間道は道がせまい。為に、あぶみ一つはずしても、後続の者がわめきに喚く。――いや、何の理由なくも、追いつかれると、後の者は、前の者を威嚇いかくし、一人でも追い抜こうとするのだった。
 その競争は、必然、寸時でも秀吉の側を離れては恥辱ちじょくとする小姓組のあいだに、最も猛烈であった。
 前も見ず、後も見ず、同勢無二無三に先行を争うので、折々、馬と馬とぶつかり合い、棹立さおだちとなって狂う馬も少なくない。
「あっ、脚を折った」
 加藤虎之助は、鞍上から馬の首を跳びこえて、地に立った。彼が自慢の逸足いっそくも余りに烈しく打ち叩いて来たので、遂に乗りつぶしてしまったのである。
 この一頭は、勢州峰の城攻めの際、彼が、敵の鉄砲頭近江新七を討った功で、秀吉から賞に貰った黒鹿毛くろかげだった。
 馬を拝領したのは、主人から「馬に乗ってもよろしい」と許されたものとしていいのであるが、まだ小姓組の若輩ではあり、馬を持たぬ朋輩ほうばいのてまえを思って、鞍は据えても乗ったためしはない。いつもただ手綱を持って曳き歩きながら、うれしそうにしていたものだった。
 しかし、今日こそは、拝領の駿足しゅんそくにものをいわせてみせる時と、終始、秀吉の後を離れずに飛ばしていたが、今はぜひなくそれを捨て、
「やあいっ、又蔵っ。乗り換馬かえを曳いて来いっ。早く来いっ」
 と、頻りに、後から来る郎党を呼びぬいていた。
 そういう瞬間にも、騎馬、徒歩の激流は、彼の姿を目にも入れず、疾風をなして駈け抜いてゆく。
 虎之助は、気が気ではない。
「おういっ。又蔵っ。六助っ。早く来うっ」
 地だんだ踏まぬばかり呶鳴っていた。
 その姿へ、日頃顔見知りの谷兵太夫が、あやうく馬首を突ッかけそうにした。
 兵太夫は、はっと手綱を抑え、全身のはずみを語気に発して、
「ばかっ。もそっと、道のはた退んでおれっ」
 とののしった。虎之助も、負けてはいず、
「真っ直ぐに馬をやれぬほどなら、その馬を、俺にくれてしまえ」
 と、云い返した。
「青二才。何を申すか」
 と、兵太夫は振りかえって、じろと地上を眺め、
「途中で脚を折るような馬を持って、烏滸おこがましい口を叩くな。不吟味なる若者めが、以後、つつしめ」
 そのまま、行こうとすると、虎之助は、兵太夫のあぶみを抑え、
「谷殿、待て。――馬は仆れても虎之助の膝栗毛ひざくりげは、この通り達者ですぞ。先々でも、敵の名馬をってみしょう。槍の働きにかけても、貴殿におくれは取り申さぬ。覚えておかれよ」
小賢こざかしいこというな」
 兵太夫は、鞭をくれて、他の馬群のうちへ走りこんだ。
 ようやく、虎之助の槍持と、空馬を曳いた郎党が追いついて来た。――が、その乗り換馬も、また忽ち乗りつぶしてしまい、遂には、
「ええ面倒」
 と、持って生れたすねの限り宙を駈けてゆく虎之助であった。――が、駈けるには、具足は重く邪魔にもなるので、しまいには、それをも脱いで小者にかつがせ、ただ白地にしゅじゃの陣羽織一枚となって、韋駄天いだてんのごとく走り、いつかまた秀吉の側に追いついていたという。
 秀吉もまた、大垣からの一頭は乗り殺してしまっていた。余儀なく途中で馬を換えた。そこは、伊吹山麓の馬上まけという部落だった。
 秀吉が馬を乗換えていると、土地の本願寺宗の僧侶夫婦が、
「御軍旅のおなぐさみに」
 と、草団子くさだんごを献上した。
布施ふせか。かたじけない」
 秀吉は馬上ですぐ喰べた。喰べながら、僧に訊ねた。
「ここは何村か」
馬上まけ村と申しまする」
 その答えを嫌って、秀吉はなお訊き返した。
馬上寺まけじ村か、馬上寺村か」
 僧は、マケという語の不吉にハッと気がついて、
「はい、はい。馬上寺村で――」
 と云い直した。
 秀吉は、呵々かかと笑い捨てて、早や飛鞭ひべん遠くを指していた。疾駆する馬の背から、折々陽脚ひあしを仰いだ。刻々の寸時も惜しまれているらしい。
 山裾の間道を離れると、ふたたび本街道に出た。黄昏たそがれ近きを思わせた山蔭やまかげの道も、明るくひらけて来た視野には、なお夕陽にはだいぶ間のある空であった。
「どうしたことぞ」
 秀吉は前後の臣にいった。
「そこらまでは、沿道の村々みな、先触さきぶれどおり、兵糧、松明たいまつの供えなど、抜かりなきよう見えたが――この辺には、行届いておらぬかにみゆるが」
「されば、その筈です」
 石田佐吉がすぐ答えた。
「布令の衆は皆、二本の脛でお先駆けしていること、いかに迅脚はやあしとて、そういつまで、殿のお馬の先にあるわけはございません。――早や皆、追い越されて、後になったものと相見えます」
「そうか。いや、そうときまッた。さらば、行く行く布令ふれねばならぬ」
 部落を見かけるたびに、秀吉は持前の大声をもって、家々の前を駈け抜けながら呶鳴って行った。
「――やよ聞け村人。秀吉、今宵がうちに、柴田勝家を討ち取る手筈あって、駈け向うなるぞ。――家々、よねや豆を出し合わせ、ぬるがゆにして、後より来る武者どもに接待せよ。夜に入らば、かがりを出し、松明たいまつをかかげ、武者どもの駈けゆく便りにせよ。戦い終らば、褒美あるべし。米、豆など、ついえはすべて十倍にして取らすであろうぞ」
 かくて、石田村、十条、南郷をまたたく間に駈け、やがて並木越しに、湖が見えて来た。
「お。長浜」
「早や長浜ぞ」
 鏘々しょうしょうと揺れ響く馬具甲冑の激流のなかで、人々は声をもって、また鞭をもって、励まし合った。
 長浜の町は、かなえの沸くような騒ぎだった。すでにここは木之本、賤ヶ嶽にも近く、今暁以来、前線の崩壊ほうかい恟々きょうきょうとしていたところだった。しかし、秀吉の先駆が着くと同時に、極端におびえていた人心は、それだけ反動的に沸騰ふっとうして、
「大垣の味方衆がかえって来たぞ」
「筑前様が先頭に立って」
うれしや、もう大丈夫」
「なんたるおはやさ!」
 事実、秀吉の姿を目に見た領民は、せつな、感極まったものの如く、わあっ、わあっと、歓呼とも泣き声ともつかぬ絶叫をあげて、物狂わしいばかり往来に手を振っていた。
 秀吉とその先頭隊が、長浜に入ったのが、さる下刻げこく(午後五時)だ。
 以下の一万五千という後続軍である。それが後から後から続き、最後方の人馬までが、ことごとく、大垣を出払ったのは、ちょうどその時分であったろう。
 以て、秀吉が、発するに先だって、沿道の民家に、松明や糧食の供出を命じておいた用意がうなずかれる。
 長浜に着いても、秀吉は、直ちにその先手の準備を怠らなかった。
 機変に当って、ただ迅速を能としたのみでなく、いかに彼がその頭脳を精密に働かせていたかは、川角道億かわすみどうおくの一文が最もつぶさにその状況を活写している。
 ――道々の在々所々の庄屋、大百姓ども召寄せられ、馬のはみをば合せぬかにせよ。先手先手に、もちたるたしなみの米を出したかせよ。米の算用さんようは、百姓ばら自分の米ならば、十層倍にして、後に取らすき者也。急げ急げと、御自身、お触れ候。
 めし出来候はば、あき俵をさき、俵の端をば其儘おけ。俵を二つに切りあけ、塩水のからきを以てよくしめし、食を入れよ。出来候はば、牛馬に付けさせ、賤ヶ嶽を心がけ、急ぎ参るべきなり。
 合せ糠には、木の枝か、紙など印につけよ。後より人数つづかば、草臥くたびれたるもの多くある可きなり。「これは食にて候、参る可し参る可し」と言ひ聞かせよ。さだめて皆、喰ふべき者多くある可き也。ばい(奪い)とる者あるならば、其儘とらせよ。「きるものに御包み候へ」「手拭などにも御包み候て然る可し」と、おしはなし取らす可き也。
 たとへばい(奪い)とる食も、先へ持ち来りなば、みな用に立つべき也。食かと思ひとる者あらばこれは「御馬の合せ糠にて候が、御用に候はば、之を進ず可し」と、是も相渡すべきもの也。
 この周到な用意は、またよく人心の機微きびをもつかんでいる。その時代の性格として、軍民の真の同苦協力はまずむずかしかった。捨身の将士と私情の領民との一結し難いものを、苦もなく一縄いちじょうに率いてこれを鼓舞こぶしている。
 戦いである以上、秀吉とて、実は、勝敗の帰結きけつは期し難いものを、われ勝てりと、士気すでに沖天ちゅうてん、希望の大道を“目にも見よ”と、民衆に見せ示していた。振わぬ領民のあるはずはない。
 持出し米は、一戸一升と触れても、彼らは五升一斗と担いで来る。老人子供は家に在れといっても、薪をかつぎ水を汲んだ。通る武者へ湯を捧げ、食物を供した。
 純な一途いちずと情をもって、女たちもよく働く。殊に娘たちの打ち振る手や送る目も、また若き武者ばらに愛護あいごの念を抱かせた。
 かがり、松明は道のかぎり、蜿蜒えんえん光焔こうえんつらねた。その火は町から村を縫い、湖畔の水に映じ、山蔭山裾にそい、陽も落ちて、夕闇せまる頃は、一大美観を現じていた。
 馬上に握り飯を取って喰い、湯柄杓ゆびしゃくで寸時のかついやしたぐらいで、秀吉は、くに長浜を出、曾根、速水はやみと駈けつづけていた。――そして目ざす木之本に着いたのは、まさにいぬこく(午後八時)――夜なお宵であった。
 大垣から通算およそ五時間。一気に走破そうはして来たわけである。当時としては超々速度といっていい。が問題は速度ではない。彼の大気明快な統率と、無碍むげ自在な方略の断にある。
 田上山には、羽柴秀長の麾下きか一万五千人がいた。
 木之本は、山の東麓とうろくに沿う街道の一宿駅で、山上軍の一部は、ここにたむろし、宿端しゅくはずれのあざ地蔵じぞうという所には、屋根なしの井楼せいろう(物見やぐらを設けて斥候陣地としていた。
「どこだ、此処は」
 奔馬ほんばの脚を、急激に止めながら、秀吉は、馬の背にへばりついたまま訊ねた。
「地蔵ですっ」
「木之本の御陣場近くです」
 誰となく口々に答えるをよそに、秀吉はなお鞍坐あんざのまま、
「湯をひと口。水でもよい……」
 と、求めた。
 さし出す柄杓ひしゃくを、短に取って、ガブと一口のみ、初めて胸をのばした。
 駈け寄ったたむろの部将が、馬前に来て、何か挨拶したが、秀吉の注意をひく間もなかった。秀吉と同時に馬から降りた人々やら、五馬身、十馬身、または半町、一町ぐらいな差で、駈け続いて来た面々が、わらわらと一時に駒を捨てたからである。忽ち附近はこの怒濤どとう一色に塗りつぶされていた。
「高いな。だいぶ」
 秀吉はすぐ歩を運び、やぐらの下へ寄って宙を見上げていた。野天の井楼せいろうなので、階段もない。組まれている脚木あしぎを頼りにじ登るのである。
 彼は率然と、若年一軽兵の頃の体験を、その肉体に思い出したらしい。持っていた柿団扇かきうちわ(軍配)ひも佩刀はいとうの環にくくり付けると、井楼の雁木がんぎに足を懸け始めた。小姓たちは、その尻を押し上げ押し上げ、人梯子ひとばしごを重ね上げた。
「あっ。おあぶのうござる」
「ただ今、お梯子を」
 遠くでは叫んでいたが、秀吉の姿は、はや二丈余の宙に立っていた。
 この夜、そら清明せいめい――
 尾濃びのう平野を過ぎたれの余波もしずまり、星は静かに、琵琶びわ余吾よごの二湖は大小の鏡を投げたように見える。
 さっき、馬の背では、さしも疲れたかに見えた彼が、そこに立つと、毅然きぜんたる影を宇宙にしるしていた。彼には楽しみがあって疲れはないようである。危局が大なれば大なるほど、労苦が深ければ深いほど、正反対な生きがいを抱くのであろう。――逆境をのり越えて逆境を見返し得たときの快。これは大なり小なり年少からめてきたものである。人生の至楽は、成るか成らぬかの苦しい境にあるとみずから称している所以ゆえんでもある。
 ――が、今ここから間近な賤ヶ嶽、大岩山などを一望したとたんに、彼の面にはすでに勝算歴々たる余裕がのぼっていた。
 しかし、彼は人一倍、用心ぶかい。彼の習性として、この際も、一応静かに目をとじていた。そして自己を、敵でもない味方でもない、大宇宙の上においた。天地の運行と、人間抗争の布図ふずに眺め合わせ、彼勝つか、これ勝つかを、無私冷静に、大観してみた。――軍勢の多寡たかとか、わが羽柴軍がとか、この秀吉がとかいう、すべての自家撞着じかどうちゃくから脱却して、純無雑、宇宙の心となって、天意の答を聴いたのである。
 やがて、秀吉は呟いた。
「まず、ざッとすんだ……」
 そして、微笑を見せた。
「佐久間めが、青々と出たことよ。……豎子じゅし、何を夢むか」
 その夜、斥候櫓せっこうやぐらから、敵陣地を一望した秀吉が、
(ざッと、すんだ……)
 と独語したという言葉の意味の中には、彼がそのときすでに、全戦局に対して綽々しゃくしゃくたる余裕を持ち得たことを示したものといっていい。
「武家事紀」の記載によると、秀吉は独語のあとでなお、
 ――佐久間メガ、青々ト出タルゾ。皆討チ取ルシトテ、ヲドリ給フ。尾藤甚右衛門、戸田三郎四郎ナド、下ニテ聴テ、亭主ハいかう浮気ニ成リ給ヘリトテ、笑ヘリト也
 と、彼が例のごとくおどってよろこんだとしるしてある。
 書中に、亭主とあるは、もちろん秀吉をさしていう。「いかう浮気ニ成リ給ヘリ」と諸将にも見えた程であるから、もっていかに彼が、望楼から敵陣を一見したせつなに、しめたッと、手を打って跳り上がったことか、歓びの状が目に見えるようである。
 何が、彼をして、さまでに歓ばせたかといえば、それは、
(佐久間めが、青々と出たぞ――)
 の一言がよく証明している。青々というのは“青くさくも”の意味だ。佐久間玄蕃允げんばのじょうが、中入りの危険を冒して大岩、岩崎の二城塁を一挙に攻めり、これに驕旗きょうきをひるがえして、
(天下、乃公だいこうく武略家あらんや)
 と誇っている陣も、秀吉の目からは、青くさくて、“青い玄蕃”と微笑を覚えるほどな芸当げいとうに過ぎなかったものとみえる。
 兵法に、九ツの付目ということがある。
 その要綱を、「相」「体」「用」の三位三段にわけて、九ツの見所と、九ツの戒と、九ツの大事を示し、機微ことごとくこのうちにありと説いたものであるという。
(相)……きれ……まぎれ……くらい
(体)……すき……こり……たるみ
(用)……おこり……居着いつき……つき
 玄蕃允の場合についていえば、まだ戦わぬ序において、彼は、敵と対峙たいじの「相」の期間に、秀吉の「マギレ」をつかみ、よくその「隙」をいて中入りの奇功をそうしたものといえる。
 つまり「用」の用兵。序戦の立ち上がり――起――の疾風迅雷じんらいの点では、遺憾いかんなかったのであるが、勝家の六回の諫使かんしも退けて、「キレ」を取らずに、傲然ごうぜん、その夜も陣地を動かさずにいたことは、まさに、兵法のみたる「居着」の戒を無視していたものだった。――秀吉が、望見して、
豎子じゅし、居着いておるわ)
 と、手を打って、思うつぼとなしたのは、確かに、ここに理由があったのである。
 やぐらを降りると、彼はすぐ、美濃部勘左衛門という地侍を案内に立てて田上山の中腹へのぼった。そこで羽柴秀長の迎えを見、指揮をさずけ終るや、また山を降って黒田村を渡り、観音坂を経て、余吾の東方、茶臼山ちゃうすやまへかかって、初めて床几しょうぎ代りの、挟み箱に腰をおろした。
 この頃、追々と、後から駈け続けて来た将士も、約二千ほど数えられた。
 挟み箱に腰かけた彼の服装を見るに、昼から汗とほこりにまみれきった柿色染かきいろぞめの木綿陣羽織に、柿団扇かきうちわをもち、徐々、それをうごかして、戦闘指揮にかかっていた。
 ときに、ようやく真夜中、時刻にして下刻げこくからこく近く(午後十一時過ぎ)かと思わるる頃だった。

しっぱらい


 蜂ヶ峰は、鉢ヶ峰とも書く。しずたけにつづく東方の一山である。
 佐久間玄蕃允げんばのじょうは、夕刻、ここに一部隊を上げていた。翌朝の賤ヶ嶽攻撃に、飯浦坂いいうらざか、清水谷などの西北方にある味方先鋒部隊と呼応こおうし、敵を孤塁こるいらしめて撃つ意図いとであったのはいうまでもない。
 星は満天をちりばめている。しかし山中の夜はげきとして暗かった。樹林と灌木かんぼくにおおわれた山また山も墨一色だし、道も細い杣道そまみちが一すじ縫うているに過ぎないからだ。
「はてな?」
 ひとりが呟いた。
 四、五名の哨戒しょうかい兵が立っているその中の声だった。
「何が。何がだよ、おい」
 べつの声がそれにいう。
「来てみろ」
 と、少し離れた所から呼んでいる。それに応じて、ガサゴソと灌木を踏む音をさせ、哨兵しょうへいたちは山鼻に影をかさねていた。
 東南方を指して、
「妙に、彼方の空が、明るいような気がするが?」
 ひとりは云ったが、誰の目にもにわかに認め得るほどな異変でもない。
「何処がじゃ」
「いや、そんな方角じゃない。――ほれ。あの大きなひのきの右手から、ずっと南の方へかけて」
「なにかと思えば――」
 と、みな笑った。
「あれは大津か黒田村のあたりで、百姓が何かいておるのじゃろ」
さとに百姓はいないはず、みな山へ逃げこんでおる」
「では、木之本きのもとたむろしている敵のかがりでもあろうよ」
「何の、雲の低い晩なら知らず、この冴えた夜に、あのように空を染めているのはおかしい。……オ、ここは眼をさえぎる樹が多いが、あの屏風岩びょうぶいわのてッぺんに登ればよく見えよう」
「――止せ。あぶない」
「踏み外したら谷間だぞ」
 止めたが、ひとりはもうじ登っていた。つたかずらに取ッついて。
 登りつめた一ツの人影が、猿のように岩山の頂に見えた。――と思うと、その兵の口から出た叫びだった。
「あっ。たいへんだっ」
 下でも、驚いた。
「何だ! 何が見えたのか」
「…………」
 上の影は、凝然ぎょうぜん、自失しているように見える。次々に、下の者も登って行った。そして皆、夜風の空に、肌をすくめた。
 そこに立てば、余吾よご琵琶びわはいうに及ばず、湖に沿うて南へ一すじの北国街道も、伊吹いぶきの裾まで一望される。
 ――見れば。夜目なので定かでないが、長浜あたりとおぼしき地点をつらぬいて、ここのふもとに近い木之本まで、一条の光焔こうえんが河をなしているではないか。松明たいまつかがりの隙間なき流れだ。炎々、点々、眼のとどく限り火流光輪である。
「これは!」
 と、眼を奪われた一瞬から醒めると、
「それっ、早くっ」
 哨兵たちは、すべり降りて、ころぶが如く、部隊陣地へ知らせに駈けた。
 明日は――
 と、胸に期すところ深かったので、玄蕃允げんばのじょうは早くから帷幕いばくに寝ていた。
 兵も寝ていた。
 馬も眠りおちていた。
 こく(午後十時)に近い。
 玄蕃允はむくと身をもたげた。――なにかが、ふと鋭感えいかんな彼の緊張をゆり起したものらしく、
対馬つしまっ」
 と、呼んだ。
 同じ帷中いちゅうに、手枕で眠っていた大崎対馬守が、きたとき、玄蕃允もまた立って、無意識に小姓の手から槍を取っていた。
「馬のいななきが聞えた。――見て来い」
「はっ」
 と対馬がそこのとばりを上げたのとあいがしらに、やあと、いう者があった。清水谷に陣している佐久間勝政の部下今井角次かくじなのである。
「一大事です」
 まず、角次の第一語に、
「何のらせか」
 と、玄蕃允の声もはずみ上がった。――よほど慌てているらしく、角次のことばは、火急の報告として、ひどく簡明を欠いていた。
「――今、物見の知らせによりますと、美濃路から木之本まで数里の間、おびただしい松明たいまつかがりが、赤々と動き渡り、ただならぬ様子とのことにござります。――勝政様にも、必定、敵の移動ならん、早くお耳に入れよとのことに、駈け参りました」
「なに。美濃路から火の列じゃと? ……」
 まだ玄蕃允にはに落ちぬ顔いろであった。しかし、清水谷からの急報とひと足ちがいに、蜂ヶ峰の原房親はらふさちかからも、同様な異状をこれへ急告して来た。
 陣中の将士は一斉に起きて、暗いざわめきの中にあった。忽ち、ここの波紋がひろがって、
(美濃路から秀吉がひっ返して来た――)
 と伝わったからである。
 が、玄蕃允はなお、
「よもや、まだ?」
 と、半信半疑の体であった。固持する自己の公算からも割りきれない面持おももちなのである。
「対馬。確かめて来い」
 いいつけると、床几しょうぎを求め、彼は強いて、悠然ゆうぜんたる容態ようたいたもとうとした。自分の顔いろをうかがう衆臣の心理はいま微妙にうごきつつあるからだった。
 大崎対馬守は程なく馬を打って帰って来た。清水谷、蜂ヶ峰とも方角を変えて、茶臼山から観音坂まで行って見届けて来たという。――そしてその言によると。
「篝、松明はおろか、耳をすますと、馬のいななき、馬蹄の戛々かつかつ、木之本を中心として、まことに、凡事ただごとならぬ物声にござりまする。早や早や御対策なくてはかないますまい」
「さては、筑前か」
「秀吉自身、まッ先に、駈け参ったものと思われます」
「ちいッ。かくも……とは」
 今さらの如く愕然がくぜんとした玄蕃允げんばのじょうはいうことばすら欠いて、こう唇を噛んだまま、しばし黙然と蒼白な面をじっと仰向あおむけていた。
 ややあって、彼は、
退こうっ。――退くよりほかにあるまいではないか。来るは大軍、われは孤軍」
 牛のうめくように云い放って、にわかに陣払いを触れ出した。
 つい夕方まで、叔父勝家のあれ程な命にも服さず、強硬に我執がしゅうを持していた玄蕃允も、今は、
くせいっ。早くせい」
 と、あわただしい陣払いの支度を、足下から火のつくばかり、旗本小姓の面々に、き立てている人と変っていた。
「蜂ヶ峰の使いは帰ったか、まだ居るか」
 馬の背に移りながら玄蕃允は左右に訊いていた。そして、いると聞くと、馬前へ呼び、
「すぐ立ち帰って、彦次郎(原房親)に申せ。われら本隊は、今よりここを立ち退き、清水谷、飯浦坂を越え、川並かわなみ茂山しげやまを経て引揚ぐるほどに、彦次郎一手の者は、しっぱらいしつつ後より来いと――」
 命じ終るとすぐ玄蕃允は旗本たちと一群になって、真っ暗な山道を辿たどり出した。
「彦次郎を後におけば」
 と、いささか心のゆとりも生じて来た。しっぱらいとは、殿軍しんがりのことで、後払しりはらい――武者訛むしゃなまりから来たものであろう。
 かくて、佐久間本隊が総退却にかかり出したのは、下刻げこく(午後十一時)頃であり、この夜、月の出は、今の時間にして、十一時二十二分。――で、約三十分間ほどは、敵に移動をさとられまいとするため、松明たいまつもつかえず、ただ打ち振る火縄と星を頼りの暗夜行路だったのである。
 玄蕃允の根本的誤謬ごびゅうが、いかに部下の将士を極度に狼狽ろうばいさせたことか。小瀬甫庵おぜほあん甫庵太閤記ほあんたいこうきに、その状を、
 ――玄蕃允陣中もいよいよさわぎ立ち、立ち退きなんとひしめきしかど、昨夜よべは節所を窘歩きんぽし来り、昼は終日戦ひ暮れたり、目ざすも知らぬ夜の道、小笹をざさが上の露もろとも、おちまろび、起きては倒れ、倒れては起き上り急ぎしが、せめて月をよすがにせむと、ののじる内に二十日夜はつかよの月、山の端に、ほのかなりければ……。
 とあるにても、その混乱と喧騒ぶりは、察するに難くない。そしてこの山また山の難路退却は、翌暁の午前三時過ぎまで――約四時間にわたるものとなっていたのである。
 一方――
 秀吉の進撃と、ここの動きとを、時間的に対比してみると、玄蕃允が陣払いを始めていた頃、ちょうど秀吉は、黒田村から茶臼山ちゃうすやまへのぼり、挟み箱を床几として、ひと休みしている時分かと思われる。
 秀吉は其処で、秀吉にえっするために、賤ヶ嶽から急遽きゅうきょ降って来た、丹羽長秀にわながひでに会った。長秀は客将分である。彼にたいして秀吉の礼があついのはいうまでもない。
「いまは、何もいわぬ。――今朝来、いこう骨折りでおざったな」
 ことば短に、そういっただけで、床几をかち、あとは敵状や地勢などを問い、折々には、ふたりの笑い声が、山上の夜風に流れていた。
 かかるまも、二百三百と、秀吉におくれた将士が追いついて来た。彼の周辺は、刻々、満潮時のように、兵を加えているばかりだった。
「――蜂ヶ峰附近に、一部の殿軍しんがりをのこし、玄蕃の隊は早や清水谷へと退き始めておりまする」
 物見は、頻りに、告げて来た。
 秀吉は、長秀に命じて、味方の諸砦しょさいへ、次のことを伝達させた。
 ――予は、うしこく(翌二十日午前二時)より、玄蕃の急追撃にかからん。
 ――土民をもあつめて、黎明れいめいとともに、各山上において、大喊声だいかんせいを発せしめよ。
 ――夜、けんとするや、一斉の銃声あるべし。まさに、嚢中のうちゅうの敵を一掴いっかく、そのときにあり。
 ――未明の銃声は、敵のものと心得てよし。総がかりには貝合図あるべし。機、はずすことなかれ。
 丹羽長秀にわながひでが去るとすぐ、秀吉も床几を払わせ、
「玄蕃は落ち退いたりと申すぞ。玄蕃の退き道を、ひた追いにけて、無二無三、追いつめよ」
 と、馬廻りの士をもって、全軍へいわせた。
「夜の白むまで、鉄砲撃つな――」
 それも心得させた。
 坦々たんたんたる街道とちがい、折所せっしょの多い山道である。進撃先鋒しんげきせんぽうは、続々、動き出したが、意の如く進めない。
 中には、馬を降りてみずから曳き、互いの腰を押し合って、道もない沢や崖を踏みこえて行く隊もあった。
 夜半過ぎからは、いとど中天に冴えて見えた二十日月はつかづきは、佐久間勢の退路もたすけていたが、急追撃を思う秀吉麾下きかの将士にとってもまた絶好な明るさだった。
 両軍のへだたりは、その序戦行動に入った時間から見ると、約三時間の差でしかない。
 秀吉が、この一局戦に、敢えて圧倒的な大軍を傾けて来たことと、立ち上がりの士気とにおいて、両軍の勝敗は、戦わぬうちに、すでに帰趨きすうを明らかにしていたといっていい。
 世人はよく評していう。
 秀吉の戦法は、常に、衆をもってを討つものであり、この点、信長とは大いにおもむきを異にする――と。
 あたっていない、と秀吉はいうだろうと思う。
 なぜならば、小より大がよく寡より多の方がよいことは平凡な道理であって、戦略や信条といえるものではない。できれば誰でもそれをるであろうことは言をつまでもない。
 秀吉の場合は、この平凡な道理に従って、常時、戦のない日でも、それを戦務と政略に、孜々しし、心がけて来ている結果のものなのである。
 そして、いざ戦闘にも、
――五指ノハジクハ、一拳イッケンカズ
 の古語をんで、一玄蕃を粉砕ふんさいするにも、美濃から引ッさげて来た全軍をそそいだのである。――が、彼はその量をもって妄信もうしんしている愚者ではない。――五指は彼の部下であり、五指をもって一拳の力となすには、自身、陣頭に立つことであるを知っている統率の体現者であった。統率こそ、彼の本領であり、彼の真面目しんめんもくのあらわるるところといえよう。
 短い初夏の夜も、まだ明けきらない。
 秀吉は、猿ヶ馬場まで進み、
「あれが、余吾か……」
 と脚下に俯瞰ふかんされた湖をながめて云った。
「余吾です」
 馬廻りの武者たちが答えた。
 秀吉は、手綱をとめ、地勢をあんじているふうだった。
 パチパチッ、パチッ……
 左方の高地で銃声が聞えた。烈しい武者声もこだましてくる。秀吉はまた問うた。
「佐久間勢のしっぱらいと見ゆる。いずれ玄蕃の子飼こがいであろうが、あの健気けなげな敵は誰だ?」
殿軍しんがりの敵将は、原房親ふさちかとか、聞えております」
 馬廻りの一名が答えた。
 何か思い当るものへ、秀吉は、独りうなずいて、
「あ。あの原彦次郎かよ」
 と、なおしばし、こだまに耳をすましていた。
 彼方の銃声と喊声かんせいは、まッ暗な山腹を通って、次第にその戦闘地点を、西へ西へと移行しているらしい。また、時々、尾撃びげきしてゆく羽柴勢が、逆突ぎゃくとつをくって押し返され、阿修羅あしゅらの両勢のおめき合うのが、すぐその辺のもののように迫って来る。
 秀吉は、そこの激闘をしのんで、
「彦次郎めにしッぱらわれては、蜂ヶ峰へ向った味方も、つらい目をめおるにちがいない。……が、まずよかろう」
 といった。そしてふたたび、馬をすすめ出していた。
 今し、序戦の火ぶたが切られている蜂ヶ峰とは、反対な方角へ、秀吉の主力は降りて行ったのである。
 その道を、斜めに降りて行くと、尾野路おのじ山を右に見、やがて余吾ノ湖のほとり――庭戸ノ浜へ出る。
 と――
 坂の途中に、切れ草鞋わらじ、手拭、折れ矢、笠、馬糞ばふんなどが踏みにじったように散乱していた。
「玄蕃の軍勢も、尾野路よりここを横切って、清水谷へ越え出たものとみゆる。――見よ、地に描いて行ったこのあわてぶりを」
 秀吉が察した通り、佐久間本隊は、つい一刻(二時間)前に、ここを通過していた。
「急げ。夜明けまでには、追いつこう。逃ぐる敵との間も、はや遠くはない。もう一息ぞ、もう一息ぞ」
 余吾ノうみの水面は、こころもち明るくなって来たかと思われる。山坂の嶮隘けんあいにかかると、秀吉は馬を曳かせて、若者輩にも負けずに歩いた。
 浜へ出た。
 なぎさの水明りのみでなく、夜も白々と明けたのである。
かて喰え、糧喰え」
 軍奉行いくさぶぎょうに触れさせて、秀吉も行糧を喰べた。けれど、烹炊ほうすいの煙は一切あげなかった。昨夕、美濃街道を急行軍して来る途々みちみち、領民たちから給与きゅうよされた握り飯を、木の葉や、手拭包みから解いて、立ったまま、むしゃむしゃ頬張り始めたにすぎない。
 また、云い合わせたように、兵は渚の水へ首を伸ばして、馬のように、湖を飲み合った。
かわきにまかせて、飲みすぎるな。日盛りともなれば、頭から照りつけるぞ。よいてがらを持たぬうち、汗塩をかき過ぎていたずらにつかれるなよ」
 二人の軍奉行は呶鳴っていた。
 夜来、遅れていた面々が、追々に到着するので、ここの主力はなお増強を示していた。――明けて二十一日朝の雲もない朝空の下に、ざっとその頭数を見わたしてみると、約六、七千の兵はあった。その揺れあう甲冑の波の上に、常に見馴れた金瓢きんぴょうの馬印も、今朝ほどうるわしく見えたことはない。
 こく(午前六時)頃――一斉にまた急追にかかった。程なく、敵の一尾隊に接触した。その敵は佐久間本隊の殿軍しんがり、安井左近の手勢だった。
“退き”をいそぐ佐久間軍主力の殿軍と、尾撃すべく“け”を早めていた羽柴方の先鋒とは、初めて電雷一触の叫喚をここに起したのであった。
 佐久間方のしっぱらいの任に当った安井左近家清いえきよは、手勢数百を、道々、半町ごとに伏せて、秀吉の先鋒がかかるやいな、
はずすなっ」
 小銃の一斉音と、たまけむりをもってつつみ、銃手が弾込たまごめするあいだには、
「射ろ射ろっ。弓の手」
 と、代る代るに、烈しい矢攻めを喰わせて、敵の先手に、ひと泡ふかせ、見事、たじろがせたのであった。
 それに対し――
 秀吉の姿の見える中軍のあたりは、いくさ奉行、旗奉行たちの、叱咤の声が高かった。激越げきえつなるかいかねのひびき、また、押太鼓の音が、鼕々とうとうなみとなって、先鑓さきやりを励ました。――組々の武者頭も、退くな、ただ突っ込め、殿軍の小勢のごとき、踏みつぶし踏みつぶし、駈けて通れっ――と声をらし、
「つづけ」と、われから先を開いてゆくのである。
 殿軍しんがりは、小勢ながら、地勢を利しており、羽柴方は、大軍ではあるが、狭隘きょうあいな地なので、全力を注ぎ得ない。
 しばらく、一進一退の、押しあい、みあいが、前方でくりかえされていた。
 秀吉は、鉄砲隊へ、
「いちどに撃て」
 と、命じた。
 これは、敵兵を撃つものではない、敵軍を威圧するため、かねて丹羽長秀にちょうじておいた大喊声だいかんせいを起すべく、のろし代りに撃たせた銃声であった。
 銃声にこたえて、味方のしずたけからも、諸所の散隊や砦々からも、いちどに、“わあッ”というときの声が揚った。
 声のなみは、山を越え、余吾ノ湖を越え、木之本、田上山たがみやま堂木だんぎ、神明、街道中ノ郷の諸部隊にまで呼応しつつ伝わって行ったので、さながら万雷一時に鳴る――の思いを敵になさしめた。
 かつは、味方の先手を、鼓舞したこと、ひと方でない。
 この勢いに、安井勢はついえ去り、怒濤の羽柴軍の“け”にまかせて追われたが、突然、蜂ヶ峰方面から駈け下って来た隊伍なき捨身の一群が、
「味方よ、返せ。彦次郎が来たわえ! 俺と共に、しッぱらえ、しッぱらえ!」
 と安井左近へ呼びかけながら、猛烈な槍風を揃えて、ふたたび秀吉方の先手へ突っかかった。
 未明から、蜂ヶ峰道の敵別動隊に当っていた佐久間方の殿軍しんがりの一手、原彦次郎房親だった。
 原隊の奮戦は、さしもの“け”の激流を釘付けにして、一時ながら大いに羽柴軍を悩ました。
 原彦次郎の「抜槍の殿軍」といわれて、この折の彼のすぐれた働きは、当時、諸人の目をさますとたたえられた。“抜槍”といういわれはこういう乱戦となれば、長槍短槍を問わず、敵味方とも、たいがい乱打の叩き合いとなるものだが、原彦次郎のみは、終始、突いては引き抜き、突いては引き抜き、駈け廻って、手練沈着しゅれんちんちゃく、見事であったと、人みな感じたことによるのである。
 原彦次郎の勇名と共に、ほかにも、一挿話が残っている。
 原隊の一士に、青木法斎ほうさい(当時、新兵衛)という者があった。
 この法斎は、晩年、越前家に仕えたが、或る夜、同藩の荻野河内おぎのかわちの宅で、寄合い振舞いがあり、彼も客の中に招かれていた。
 その頃までも、武辺者のならいで、飲めばすぐ往来の戦語いくさがたりである。その夜も、客のひとりが云い出した。
「――賤ヶ嶽の繰引くりびきに、余吾よごうみばたで、羽柴勢のけを、猛烈にしッぱろうた合戦のもようを、ひとつ、ここに居る法斎どのから聞こうではないか」
「それは初耳じゃが、法斎老に、左様な体験がおありなのか」
 と、みな彼の顔を見た。法斎は、迷惑そうにしていたが、男は、さかんにたきつけた。
「あるともあるとも。法斎老は、常に薄とぼけたていをしておざるが、当時、原彦次郎の手について、みちを離れて見事な働きをなされたお一人と聞き及ぶ」
 そこで、相客たちは皆、口をそろえて、法斎に、ぜひ話せ、ぜひ聞こうと、興じ入って求めた。
 断りきれず、法斎は、ぽつぽつ語り出した。そしていうには、
「べつに、手柄ばなしとておざらぬが、その節、羽柴方の先手から、ひとりの武者が襲いかかり、てまえに槍をつけ申した。……その武者、金か銀かは、しかと覚え申さぬが、盆ほどの大前立をなし、烈しゅう突ッかかり来おッたを、この方の大槍、前立にカチと当り、突きそびれて候うが、その武者、突き廻されて、無念げに、おのが陣へ引取りまいた。したが、殊のほか、見事な相手の振りに、今も忘れずにおりますわえ」
 すると最前から聞き入っていた亭主の荻野河内が、
「近頃、めずらしいお話をうけたまわった。その折の武者の具足は、朱漆しゅうるしとは御覧なかりしか?」
 法斎は、そうだと答えた。河内は、たたみかけて訊ねた。
「指物は、然々しかじか。――また、そのとき尊公の革胴かわどうに、槍の痕は残らざりしか」
「なかなか、仰せの通りじゃが……」
 と法斎が、いぶかると、河内は、きッと改まった。
「客衆多くのなかで、よいお物語りを出されたものかな。その折の朱具足の武者こそは、この河内にて候う。仰せには、突き廻されて、引取ったりと聞えたが、迷惑な御記憶ちがい、末代までの家名にもかかわる儀、しかと、御詮索ごせんさくの上のこと、まいちど承り申したい」
 開き直ったので、大議論になった。双方ゆずらないのである。
 ところへ、河内の一子、生年十七歳の若者が、台所を手伝っていたので、はかまも着けず、それへ来て、二老の前に両手をつかえ、
「さてさて、御老人たちは、戦場からお残り遊ばした余生を、恥よとも、勿体ないとも、思し召さず、よくもまあ、退いた退かぬなどと、愚かな喧嘩がおできになりますな。こうして、寄合い振舞いなどのできるのも、誰のためと思し召すか。五十年来打ち続いた合戦に、どれほどな武者輩が白骨となったでしょう。思えば、その方々へ、蔭膳かげぜんの礼もせずに、今日、一杯の酒とて、飲めた義理ではござりますまいに」
 と、たしなめて、文句なしに、扱いすませたということである。

獅子児ししじ一群いちぐん


 玄蕃允げんばのじょうの弟、柴田勝政は、前夜以来、兄玄蕃允の命をうけて、手兵三千と共に飯浦坂いいうらざかにあった。
 飯浦坂というのは、琵琶湖北岸の入江にある小部落から、賤ヶ嶽の西にかかる山ふところの坂道をいう。
 地勢は極めて狭い。
 もし、戦況が不利となれば、立ちどころに、危地となるおそれがある。
 で、玄蕃允は、自己の率いる本隊を、余吾よご水際みずぎわから清水谷を経て、急速に引き退かせつつある間に、勝政の支隊へも、使いを飛ばして、
「事態は急変。おもとにも、飯浦坂の堀切を捨て、早々、峰道を西へとり川並、足海たるみ峠のあたりまで、一気に兵を退げられよ」
 と警告していた。
 すでにその前から、飯浦部落や賤ヶ嶽から、羽柴方の先鋒が、散弾的にこれへ襲撃を示して来て、勝政の麾下きかは善戦していたが、玄蕃允の伝令をうけるに至って、
「さては、何事か起って、にわかに、作戦がえになったものとみゆる」
 と、ようやく、敵の気勢のただならぬ一変と、自陣の危地に気づいたものであった。
 これが当朝の、下刻げこく過ぎ(午前七時半頃)であった。
「飯浦、堀切の谷あいを、西へじ越え、総勢、峰づたいに、足海、権現坂方面まで“繰引くりびき”せよ」
 あわただしい退がいかれて、勝政の麾下は、それぞれの旗幟きしと組頭の行くを目あてに、堀切の崖を、道も選ばずじ登り出した。灌木帯の浅みどりも、岩間をつづる山つつじも、一瞬、嵐のように揺れ騒いだ。
 堀切とよばれる名にも想像されるように、ここの谷あいは、谷というよりは、樹木の生い茂った断層といったほうが適切なくらい狭いのである。西の高地と、東の高地との、ふたつのみねの空間は、さしわたし僅か十数間しかない。数百年も経たかと思われる山桜の巨木は、のこんの花と、若葉を見せ、西の崖から東の絶壁へ届くかと思われるばかり、そのおおきな枝を伸ばしてもいる。
 降りはよいが、登りとなると、馬は容易に進まない。すべり落ちる馬の下になって、共に転げてゆく兵もある。
 荷駄隊は、困難を極めた。――がようやく、先手は登りきり、馬印と中軍旗などが、そこの八分頃まで押し上っていた時である。
 ――不意に。
 耳もつぶれるような小銃の音が東側の高地からとどろいた。
 鬱蒼うっそうの断層は、その銃声と同時に、硝煙につつまれて、
 だ、だ、だだだッ――
 ザザザザ
 と、凄まじい物音を起した。大木の転がるような、また、土砂のくずれ落ちてゆくような音だった。
 が、それは皆、弾にあたった人馬のかさなり落ちてゆく響きだった。
「やっ、敵ぞっ」
「羽柴勢っ」
 愕然がくぜんと、うしろを見た眼は、すぐ彼方の対崖に、むらがり立っている敵軍を眉の前に感じた。旗さし物や、甲冑で、槍の光が、朝の陽にきらめいているのが、こつとして、山霊のふところから湧き出た雲の如く見えた。秀吉の姿は目撃されないまでも、秀吉のそこに在ることが証せられていた。
 秀吉勢の方向を、急に、これへ招いてしまったものは、他の何らの原因でもない。勝政自体の動きであった。
 彼の麾下きか三千が、にわかに、飯浦坂を去って、堀切から西の峰へ退き始めたことを、逸早く偵知ていちした羽柴方の大物見が、これを秀吉に報じたので、秀吉は、
「それこそ、三左衛門(柴田勝政)よ。よい獲物えもの。討ちもらすな」
 と、すぐ物頭に令し、七手ななての鉄砲組を先に急派して、峰の岨路そばみちや谷の木蔭などに足場を取らせておいたのである。そして敵勢の大部分が堀切の登りへかかった背並せなみねらって、この手の鉄砲が、一斉に火ぶたを切ったものだった。
 弾けむりの下に約二、三百の兵が、間の谷へ、転げるのが見えた。
 ――と、共に、山をゆるがす程の喊声かんせいが、西のがけにも、東の峰にも、わき起った。谷あいの手負ておいも、馬も、異様な声を発した。
 そのとき、秀吉の主力は、早や東の高地に殺到し、秀吉自身の、
「かかれっ」
 という総がかりの叱咤しったつるを切られて、われがちにそこから駈け降りていたのである。
 いや、道を求めている間などはない。多くは、灌木帯を目がけて跳び降り、その上にまた跳び降り、跳び降り、青葉をかすめる槍の光や差物さしものが、山つつじの花と共に、一瞬、あらゆる色彩のまんじを描いた。
 世に、賤ヶ嶽の七本槍――三振の太刀などと聞えたのは、このときのことをいう。
 叱咤しったに、声をからしていた秀吉は、さらに、左右の若者たちへ、烈しく采配さいはいを示して、
「軍法も、時による。小姓どもとて、きょうは法度はなしぞ。思いのまま、駈け向えや。やりたいように、いくさしてみよっ」
 と、励ましたのである。
「あっ」
 と、躍り立つ者。
「わっ」
 と、そこからもう先を争ってゆく者、侍側十数名の若者が、猛然、崖をくずして雪崩なだれたかと思うと、早くも、谷あいの両勢の対峙たいじは、均衡きんこうを破って叫喚きょうかんの乱軍となり始めていた。
 一方に、さかんなる貝が鳴れば、一方もがねを乱打して、各※(二の字点、1-2-22)、武者声をたすけ、
「うしろは見せじ」
 と、武門の名にかけて、烈しくしのぎをけずり合った。
 ――が、一歩おそく駈け出した若者ばらは、すでに渦巻いている遠方此方おちこちの戦闘を捨てて、云い合わせたように、敵のむらがりを目がけてその中核へ突き進んでいた。
 この一群の獅子児ししじは。
 福島市松、加藤虎之助、奥村半平、大谷平馬、加藤孫六、石川兵助、石田佐吉、一柳ひとつやなぎ四郎右衛門、平野権平、脇坂甚内、糟屋かすや助右衛門、片桐助作、桜井佐吉、伊木半七などであり、ほかにも秀吉馬廻りの面々があった。
 獅子児は、強敵を選ぶ。
 彼らの無言に求めていたものは、少なくも敵将の首だった。敵から槍をつけられても、一瞥いちべつ
「この
 と見るあいては、蹴倒し、叩きつけて、駈け廻った。
「よい敵と見た。見参げんざん
 真っ先に、その大物を捉えて、こういどみかかっていたのは、年少十八、紅顔の武者、石川兵助であった。
 兵助は、年まだ十八に過ぎなかったが、秋田助右衛門と共に、旗奉行を任ぜられていたほどで、こんなとき、断じて、人後に落ちる若者ではない。
 ――が、敵は、
小冠者こかんじゃっ」
 と、馬上から一喝いっかつし、槍先の邪魔といわぬばかり、扱い過ごして、駈け抜けようとした。
「筑前どのの旗奉行、石川兵助を知らぬかっ」
 兵助は、敵の大きな背へ向ってどなった。敵はふり向きもしないのである。兵助はふたたび、
「卑怯だぞッ、返せ」
 と、わめきながら、手の槍を馬の尻へ投げつけた。
 そこは赭土あかつちのくずれを見せた崖近くだった。どうっと、たくましい甲冑の全体と、棹立さおだちの馬の影とが、濛々もうもう、土けむりにつつまれたのを見たとき、兵助は早や、
「討ッた」
 と、思いこんだものの如く、その白刃と身とを、まだ起き上がるいとまなかった敵将の上に躍らせて行った。
 彼の猛烈な白刃が、敵将の前立物に火を発し、その横顔に鮮血を吹かせたことは確かであったが、敵もまた同時に、陣刀を横ざまに抜いて、兵助の諸足もろあしぎ払っていた。
 当然、兵助はひっくり返った。――傷手いたでをものともせず敵将は起き上がって、兵助の上に刃をした。
「ちいっ」
 叫ぶと、兵助は、敵の腰にしがみついた。同体になって、赭土あかつちの上を転がり合った。――と思うまに、崖の下へ、そのまま廻転して行った。
 戦友、片桐助作は、石川あやうしと見て、このとき駈けて来たが、間に合わず、
「あっ――兵助ッ」
 と、断崖をのぞいた。
 下で、味方の誰かが、すぐ駈け寄って、敵将の首をあげ、兵助を抱き起していたが、兵助は、こときれていた。
 助作は、足もとに落ちている敵将の旗さし物を見、兵助の死と、働きを、祝してやるように、
「敵の拝郷はいごう五左衛門家嘉いえよしを、石川兵助、討ッたり。羽柴どのの小姓組、石川兵助が討ったり」
 と、その高い所から叫んだ。
 拝郷といえば、柴田方随一の猛将である。助作の声は、敵を震駭しんがいさせた。また、小姓組の獅子児ししじたちは、兵助の戦死はまだ知らないので、
「彼に先んじられたか」
 と、いよいよ猛気を奪いあった。
 中でも、福島市松は、
「兵助に、見返されては残念。――拝郷五左にまさる敵を仕止めねば」
 と、衆を離れて、血風を捲き、敵将浅井吉兵衛と槍をあわせてその首をた。
 彼とは、常にきそい相手の不仲の親友たる加藤虎之助も、附近に荒れまわっていたが、
「拝郷どのの手の者、鉄砲頭の戸波隼人となみはやとぞ」
 と、名乗って、羽柴勢をなやましている強豪を見出し、十文字の槍を以て、これと闘った。激闘、草をとばし、土を蹴上げ、ついに隼人の首を取った。そこで大音声に、
「加藤虎之助、一番槍」
 と、四方へ告げると、誰かが彼のうしろで、大いに笑った。
「甚内。何を笑う」
 振向いた虎之助は、そこにいた脇坂甚内を見、むッと、眼にかどを立て――ふざけたことをいうと朋輩ほうばいとて許さんぞ――といわぬばかりな威を示した。
 甚内は、なお笑って、
「怒るなよ、虎之助」
 と、彼の方から歩み寄り――
「強敵、戸波隼人を討ったのは、出来でかしたが、それが精いッぱいか、貴様、少し逆上あがっているぞ。――その首、敵兵にり返されぬように気をつけろ」
「だまれ。ひとの功をそねんで要らざる雑言ぞうごん。どこに虎之助が逆上あがっているか」
「人前もなく、虎之助一番槍なりと、たった今、呶鳴っていたではないか」
「一番槍ゆえ、一番槍と名のりを揚げたのが、どうして悪い?」
「ははは。無理もない」
 甚内安治はずっと年上なので、平常でも虎之助輩を下風に見たがる癖がある。この折もそんな口調だった。
「――知らぬか、ついこの先の切崖きりぎしで、石川兵助が拝郷五左衛門を討ち取り、石川の一番槍なりと、片桐助作が代って名乗りあげておったのを」
「あっ。そうか」
「福島市松も、浅井吉兵衛を討ッたりと、呼ばわっていた。おぬしの如きは、一番槍でも二番槍でもない。味方の声も聞えぬようではその首を持ち帰る途中も危ないと思うたゆえ、気をつけてくれたのじゃ」
「…………」
 正直者の虎之助は、二言なく、顔をあかめていた。脇坂甚内も、すでに槍の穂をちぬり、敵の一首級は腰にくくっていたのである。
「わかったか、於虎」
「わかった」
「もそっと、場馴ばなれせずばなるまいぞ」
 云い捨てて、甚内は、さらに敵勢の馬けむりを追い慕って行った。
 虎之助ばかりでなく、この激戦には誰もみな、無我夢中だったといってよい。地形も、谷間や断崖や峰の坂道などで行われ、殊に、小姓組の獅子児たちは、決して初陣ではないが、槍をって、真の死生一髪の間に、名だたる強敵を求めて、これと一騎打ちに当るなどという晴がましい体験は、まず初めてといえる者が多かったのである。――従って、意気烈しかったが、虎之助のように、誰も彼もが、一番槍一番槍と名乗って、後に秀吉の前でも、云い争いとなった程だ。晩年、加藤清正が、若年時代の体験をその子に物語ったこととして「甲子夜話かっしやわ」にある記載を見ると、
 ――坂ヲ上ルト、向フニ敵アリ、ソレト行キ合ヒテタタカヒ始マル。其時ソノトキノ胸中ハ、何カ向フハ闇夜ノ如クニテ、一向分ラズ、目ヲネムリ、念仏ネンブツトナヘテ、一図ニ飛ビ込ンデヤリヲ入レタルニ、何カ手答ヘシタルト覚エシガ、敵ヲ突キ留メタルナリ。其レヨリ漸々ヤウヤウ、敵味方モ見分ケタリ。後ニテ聞ケバ、柴田方ノ戸波隼人トテ由々ユユシキ豪ノ者ナリシ由ニテ、其時ノ一番槍トモハレタレ
 と清正自身がはなしていることになっている。一番槍は前にいったように問題だが、彼の正直な一面と、彼ほどな勇士においてさえ、真の決戦場に立った刹那の心理はさもあろうかと思われるふしがある。死生を軽々しくいうはまだ決して真の勇者ではない。
 戦闘はもちろん瞬時も、一ヵ所に膠着こうちゃくしていない。
 初期は、柴田勢が引っ返して、高所の地の利に立ち、谷間じに迫る秀吉勢を眼下にむかえ撃つ戦態にあったが、獅子児一群の奮迅が、忽ち堀切のタテを踏みのぼり、彼が中軍の幾将を槍先にけるにいたるや、
「すわや、不利」
 と、そこは色めき立ち、
「――退けや」
 の声が各所に聞え、みだれはしる馬、士気なき旌旗せいき、草ぼこり蹴だてて退く荷駄、歩卒などの崩れが、嶺道みねみちを、西へ、約二十町も、急退していた。
 秀吉は、叱呼しっこ一番、
「今ぞっ」
 と、潮に乗せて、自身、東の崖上から降りて、谷あいを駈け渡り、武者輩に、尻を押されながら向う側の高地へ這い上がっていた。
「馬をよこせ。馬を曳いて来い」
 秀吉は、彼方に立つと、大声で呼ばわっていた。
 敵の去った敵陣には、もう味方すら影まばらだった。尾撃の急なるまま、ともすれば、秀吉自身が、置き残されてしまいそうである。
「あっ、お馬ですか」
 わずか四、五人の武者がそこらにいたに過ぎない。秀吉に、馬を馬をとかれて、彼らはうろたえ気味に、駈け廻りつつ、口々に答えた。
「お馬は、乗換の鹿毛かげまで、賤ヶ嶽の岨道そばみちに、お捨て遊ばして来ましたので、これには曳いて参りませぬ」
 すると、秀吉は、癇癪かんしゃくを起し、ばかっ、と呶鳴ったようである。足踏み鳴らして見せながら、柿団扇で指した。
「――そこらに、落ちているのを拾って来い。馬はいくらもあるではないか」
 事実、敵の捨てて行った馬はいくらも飛び廻っていた。矢を負って、いなないている馬。見事な鞍のみ置いて、人はなく、手綱を引きずって歩いている馬。選ぶにまかせている姿である。
 彼は、敵の馬を拾って、敵の退却路を、鞍上から一望した。
 ここに立つと――
 ここから南北の嶺道みねみちは、嶺ながらおおむね平らだった。余吾西岸の足海たるみ、茂山のあたりまで、ほとんどゆるい傾斜をもった降りである。今やここの山岳戦は、一転、野戦に移るべきことを地勢は教えていた。
「馬の尻を、その槍ので、ひとつ叩け」
 手綱の先を定めながら、秀吉は武者に云った。
 武者は持てる槍で、秀吉の馬の尻をなぐった。そして、驚いた馬が、弾丸のようにすッ飛んで行く後から、彼らも、のけぞるばかり駈けつづいた。
 ゆくてに、再び、黄塵こうじんが望まれた。踏みとどまった柴田勢には、新たに、佐久間の一隊がたすけに加わったものらしく、猛追の拍車をかけておおいかかった秀吉軍とのあいだに、物凄い咆哮ほうこうと血風をび起していた。
 その味方の中へ、秀吉はどっと馬を乗り入れ、
「押太鼓、押太鼓」
 と、鼓手を励まし、また、
「己れのひたいで、敵の胸いた、敵の背を、押し倒せ」
 と、叱咤、激越を極め、いつか彼自身も、槍隊先鋒の真ッ先に出ていた。いや、幾つもの、団々たる敵味方さえ後にして、最もはやい若者たちと共に、あくまで敵のくずれを追尾していた。
 柴田三左衛門勝政は、この辺りの乱軍中に討死した。宿屋、徳山、山路やまじなどの諸将も、相次いでたおれた。
 勝家の養子、玄蕃允の弟、柴田三左衛門勝政は、この時、二十七。
 一手の大将として、恥かしくない戦はしたものといえよう。
 枕をならべて討死した麾下きかの部将徳山五兵衛は、獅子児糟屋かすや助右衛門に首をさずけ、宿屋七左衛門は、同じく小姓組桜井佐吉に討たれ、山路将監は、加藤孫六が首級しるしをあげた。
 右のうち、桜井佐吉の戦功については「老人雑話」に、
 ――志津ヶ嶽合戦のみぎり、桜井佐吉が高名、比類なく、七本やりの衆にも勝れり。早く病死する故に、人是を知らず。
 と、ある。
 どういう戦闘ぶりをしたかというに、彼は、敵将宿屋七左衛門が、乱軍を避けて、小高い地点から味方の虚を測っているのを見かけ、大胆にも、その真下から、
「良い敵と見申した。羽柴どのの小姓、桜井佐吉、ただ今、それへ参るぞ。――ぬな」
 と、声をかけて、道もないのに、登り始めた。
 味方の内に、それを見ていた者もあって、遠くから、
「桜井、あぶないっ」
 という声もしたが、果たして、敵の足もとまで近づくと、上からの長槍で胸いたを突かれ、見事、ごろごろと転び落ちてしまった。
 誰もが、刹那せつな、それを見て、
(桜井、討死)
 と思っていたところが、須臾しゅゆの間にまた同じ所を、じ登ってゆく者がある。
 金の大半月おおはんげつ母衣ほろの“出シ”は折れ、ほろかごも押しつぶれたか、半月の折れたのが、よろいの背にかかり、不屈の一念で、ふたたび前に槍で突かれたあたりまで這いゆき、そこで先に取り落した自身の槍を拾うと、さらに、踏み上がって、敵へ突いてかかった――というのである。
 敵の宿屋七左衛門も、自己の一突きで赤母衣あかほろの小武者は死したものと思い、くびすかえして、十四、五間も先へ歩を移していた。
 不意に、七左衛門は絶鳴をあげて、よろめいた。うしろから脇腹を目がけて突っこんだ槍をその死力に握られたので、桜井佐吉は、槍の柄を離して、太刀をひき抜き、一打、二打、三打――相手がたおれるやいな跳びついて首を掻いた。
「見事」
 と、彼の味方は、ときを作って遠くから祝した。
 石田佐吉、大谷吉継よしつぐ、一柳兄弟、糟屋助右衛門なども、各※(二の字点、1-2-22)、劣らない働きをしたが、戦場は刻々、西へ移ってゆく。場所は同じでなく、時刻もちがう。
 ここに。
 末路的な最期をとげたのは、先に味方を裏切って、節を、柴田側へ売りこみ、玄蕃允げんばのじょうを導いて“大岩山中入り”の手引きをした叛将の山路将監正国やまじしょうげんまさくにである。
 彼も、この日、この戦場で、秀吉子飼のひとり、加藤孫六の手に討たれ、可惜あたら、三十八歳の有為を、ぬぐい得ない汚名と、取り換えてしまった。
 のみならず、あの時、長浜から脱出をくわだてさせた将監の老母や妻子も、途中、番船に捕えられていた。そしてつい数日前に、敵味方環視の原頭において、
「山路、これを見よ」
 と、ことごとはりつけにされ、羽柴方の兵に、どっと、わらはやされたのであった。
 きょうの決戦に、彼がもろかったのはむりもない。彼が得たものは、彼の迷いとは、正反対なものだった。

静林せいりん


 陽は高くなった。
 この日は、初夏の爽風そよかぜもなく、殊に照りつけて、暑かったらしい。
 柴田勝政が戦死し、幕将の多くも、途々みちみち惨として、しかばねを並べてしまった結果、爾後じご、柴田勢が大幅な潰乱かいらん状態となり終ったのはいうまでもない。
「外すな。――離すな」
 追撃の羽柴勢は、これ一点張りであった。地勢もまた追うによき降り一方へかかっていた。
 陽あしは、たつこく(午前八時)頃かと見られる。
 余吾の西岸で、また一合戦あったが、柴田勢は、きびすもつかず、ふたたびはしって、茂山、足海峠の辺へまとまった。
 ここには、前田利家父子が、旌旗せいきしずかに、陣していた。
 まことに、静かである。
 今暁来、彼は、大岩、清水谷、賤ヶ嶽にわたる火花と銃撃とを、ここの床几しょうぎから静観していたにちがいない。
 もとより彼は、柴田勝家の一翼とたのまれて、ここに展陣していたものの、その心懐しんかいと、本来の位置とは、実に微妙な立場に置かれていた。――一歩、誤れば、領土一族、一切はい。
 当初、勝家に抗していたら、勝家から滅亡をうけていたのは必定であったし、さればとて、秀吉との長い長い友誼ゆうぎを捨て去らんか、情において、自己を偽りきれぬ気もする。――のみか、勝家と運命を共にするまでの、はらも固めてかからねばならぬ。
 勝家と。
 秀吉と。
 彼の、切れ長なほそい眼が、こう見くらべて、帰趨きすうの人を、いずれに取るか、誤っているはずもない。
 ――が、彼は、このたびの出軍に際して、そのいずれに加担かたんするも、下策げさくとなしていた。兵を具し、陣は張ったものの、これは一時の擬態ぎたいだった。彼が心に期していたものは、自己の戦闘による運命の打開でなく、天にしたがうことだったらしい。
 今度、府中の城を出て、この戦場に発するとき、彼の夫人も、良人おっとの意中を案じて、そっと、こう訊ねていたという。
(このたびは、是も非もなく、どうしても、筑前どのを敵とせねば、武門の立たぬものでございましょうか)
(おまえとして、察してみい)
(柴田どのに、かくまでのお義理はないかとぞんじますが)
(ばかな、武士の一諾いちだくを、みずから裏切れようか)
(では、どちらに)
(天のおはからいにまかす。それしかあるまい。人の小智の及ぶところかは)
 良人はそういって立った。夫人はたいへん安心した。彼女は、斯波しば家の臣、高島左京大夫のむすめで、利家にとついだのも、その仲人なこうどは、まだ小身時代の、秀吉寧子ねねの夫婦だったのである。
 当時、女性でも禅に参ずるものが多く、彼女も、大徳寺玉室の室に参じ、後には、芳春院ほうしゅんいんと称されている。――で、彼女はすぐさとったのである。良人が、天にしたがうのみ、といったことばを。
 天佑てんゆうとは、要するに、大いなる天運に順うことで、天の運行に、さからうことでないことと解している。
 その考えは、利家の深意にあたっていた。利家の進退はまさにそれだったといえる。
 前田陣の前衛は――いや中軍の近くまでも、敗走して来る佐久間勢のわめきや血まみれをれて、見るまに、砂塵さじんの渦となり、濛々もうもうたる凄色せいしょくにくるまれた。
「あわてるな。みぐるしい」
 騎馬一団の士たちと共に、ひとしくこれへ退いて来た玄蕃允げんばのじょうは、手綱の一方もちぎれている朱の鞍から跳び降りると、叱咤しったしゃれた声をしぼって、
「何だ、これしきの戦に」
 と、みずからをも励ますように、眼にさわる者どもを、ことごろくたしなめた。
 ――がさすがに。
 どか、とそこらの岩に腰を落すと、焔のような息を肩でついた。おおい得ない悲痛は唇をもまなじりをも常のものではなくしている。しかも、将たる矜持きょうじを失うまいとする努力は若年の彼にとってこの混乱惨敗の中では並ならぬものにちがいない。
 途中で、弟の三左衛門勝政が戦死したことも、彼は今、ここへ来て初めて知った程だった。
 原、拝郷はいごう、徳山などの勇将も討たれ、山路将監までが、敵に首をさずけたとは、何か、信じられないような面持おももちですらあった。
「ほかの弟たちは如何したか。――安政。また七右衛門などは」
 ふと、その二弟の身をたずねた。すると、家臣のひとりが、彼のうしろを指さして云った。
「御舎弟の、お二方は、そこにおいでられまする」
 玄蕃允は振り向いて、無事な二人を血ばしった眼で見た。
 安政は、足を投げ出して、茫然と空を見ており、末弟の七右衛門は、どこかの傷手いたでからポタポタと血しおが膝にたまるのも知らずに、首を垂れて居眠っていた。
(いたのか……)
 と安んじる情愛の半面から、彼は、烈しい骨肉の怒りに駆られたものの如く、いきなり頭からどなりつけた。
「立てっ、安政っ。――七右衛門もしっかりせいッ。おことら、へばるにはまだ早いぞ。――何のざま
 それを気力のはずみにして、彼もどこか傷手を持つらしい五体をやっと起し、
「前田どのの陣所はどこか。……ウム、あの坂上か。よしよし、この間に会うて」
 と、足をひきずッて歩み出したが、いて来そうな弟たちを顧みて、
「来んでもよい。おことらは、人数をまとめ、敵に備えろ。――脚早あしばやな筑前、間はかぬぞ」
 云い捨てて坂上へ向った。
 陣幕のうちの床几しょうぎって待っていると、利家がすぐ姿を見せて、
「御無念、察し入る」
 と、なぐさめた。すると、
「何の。……」
 と玄蕃允げんばのじょうは、いてではあるが苦笑を見せ、
凡慮ぼんりょのいたすところで、負けてみねば分らぬところでござった」
 と案外、素直な答なので利家は、玄蕃允を見直すような眼をした。
 玄蕃允は、敗戦のとがを、ただ一身に責めているらしく、利家が動かぬことには、一言もふれず、ただ、次の希望を告げた。
「さしずめ、御辺の新手をもって、これへせ来る羽柴勢に、一防ぎ、御加勢くださるまいか」
「心得申した。――が、槍隊か、鉄砲隊か」
ずんと前に、銃列を伏せられたい。足もとも見ずに来る敵の乱れに突ッこみ、われら二陣となり、血槍を揮って死にもの狂いに闘い申す。――たのむ、即刻」
 利家にたいし、たのむというようなことは、日頃なら、※(「口+愛」、第3水準1-15-23)おくびにもいう玄蕃允でない。
 あわれ、と利家も思わずにいられなかった。同じ陣営にありながら、この遠慮は、玄蕃允自身が失戦の弱味を持つためでもあろうが、ひとつには自分の真意を、彼もすでに察しているものであろうか――と。
「小塚藤兵衛、木村三蔵に、これへといえ」
 利家はすぐ呼びにやった。そして玄蕃允の目前で、二名の鉄砲組頭にむかい、
「佐久間どのの手について、陣前に銃列をき、羽柴勢の近づくのを見たら、いちどに撃って放せ。――進退の指揮、一切、玄蕃どのにうけて、両勢混みあうな」
 と、いいつけ、かつ、いましめを与えた。
 そのほか、匹田左馬助ひったさまのすけ、関戸弥六などの組にも、めいをさずけて、せ向わせた。
「お。……敵が近づいたらしい」
 玄蕃允の神経は一瞬たりと休んでいない。こう呟くと、早や腰を立て、
「――では、後刻」
 と、陣幕を払って出たが、後から送って来る利家をふり向いて、
「おそらく、生きての再会はなかろうが、玄蕃允も、おめおめは死なぬ所存でおざる。――たとえ一人となって、予譲よじょう故智こちならうまでも」
 頻りに、こうした問わず語りの激語を発する彼であった。利家はさっきたたずんだ坂上まで彼を送った。
「――おさらば」
 と、玄蕃允はそこから駈け足となって降りて行く。
 眼下の視野は、つい最前とは、比較にならないほど一変していた。
 佐久間勢八千は戦死傷、脱落者をのぞき、三分の一にも足らぬかに見えたが、それはことごと潰乱かいらんの兵、逆上の将で、呶号喧騒どごうけんそうは、たがいの心理を、実状以上、凄惨せいさんなものにし合っている。
 それは、玄蕃允の二弟、七右衛門と安政などでは、到底、制しきれぬものだったにちがいない。何せよ、幕将の重なる人々はあらましたおれ去っているのだ。組に組頭なく、隊は部将のいない兵が、まだ何ら次の指揮に統一されないまに、はや彼方から近づきつつある秀吉軍の急調な進撃を目に見出していたのである。いったんここに潰走かいそうを止めても、なお浮き足のまないのもむりはなかった。
 しかし、前田軍の鉄砲隊が、新手の静粛せいしゅくさをもって、水の如く、このわめきの中を走り、ずっと、陣地の先に離れて、ばたばたと“伏せ”の列をいたのをながめると。
「二陣につけ」
 と、玄蕃允の口から出た命令もよくとおって、ようやく、落着きが見え出した。
 前田勢の新手が出た――と知ったことは、一時、生色を失った彼らにとって、非常なる力であった。玄蕃允もであるが、残余の部下も、ひとしく勇気をもり返した。
「猿めが首を、味方の槍先に見ぬうちは、一歩も退くな。――前田衆にわらわるるな。恥を知れや、者ども」
 玄蕃允は励ましつつ将士のあいだをめぐっていた。さすがに、ここまで、彼についていた将士はみな恥を知る者だった。具足も血、槍も血にまみれている姿が多く、その血は、朝から照りつけている陽に干からびて、草ぼこりや土にまみれている。
(水が呑みたい。ひと口)
 誰もの顔がそう見える。しかし求めている間もない。万丈の黄塵こうじんと、敵の馬蹄の音は、はや彼方に近づいていた。
 賤ヶ嶽からこれまで、一席捲せっけんの勢いで進撃しつづけて来た秀吉も、茂山を前にひかえて、
「ここは、前田父子の陣前――」
 と見ると、にわかに先駆の盲進をとどめた。そして一応、人数をまとめ、陣容をととのえているらしく思われる。
 この場合、対峙たいじの線は、鉄砲の射程距離外にあるこというまでもない。
 前田勢の銃手をもって、玄蕃允はすぐ敵の進路に、急速な配置を指揮しつつあったが、彼方の砂塵は、動かぬ人馬をおおいつつんだまま、射程しゃていに入って来なかった。
「…………」
 利家は、玄蕃允と別れた後も、山の端にたたずんだまま、それを遠くに見ていた。彼の意中は、この時なお、周囲の将にも、謎だった。――が、そこへ、馬廻りの相浦新助と阿岸あぎし主計が、利家の馬を曳いて来たので、
(さてはいよいよ、打って出られる御決意よ)
 と、人々みな馬前の働きを中心に期していた。ところが、利家はあぶみの側へ立ち寄りながら、いま、子息利長の陣所から帰って来た使番に、何か小声に返辞をただしていたが、馬上に移っても、なお容易に駒をすすめるふうもない。
 ――と。そのとき、何が突発したのか、麓の方で、ただならぬ喧騒が起った。利家始め、何事かと俯瞰ふかんしてみると、味方の後方から一頭の荒馬がつなぎを離れて陣中を駈け狂っているのである。
 常ならばともかく、折も折だったので、混乱が混乱をよび、一方ならぬさわぎとなっているらしい。――利家は、相浦、阿岸の二士をかえりみて、眼で何事かをうなずかせ、
「皆もつづけ」
 と、辺りへ云って、急に馬を飛ばし始めた。
 とたんに烈しい銃声が平野でこだましはじめた。これが味方の銃隊のものであるからには、敵羽柴勢が一斉に突撃を開始して来たこともまちがいないことであろう。――利家は坂を駈け降りながらその黄塵こうじん万丈と硝煙を横に見て、
「今ぞ。今ぞ」
 と幾度も鞍つぼを叩いた。
 同時に、茂山一帯の陣地では、かかがね押太鼓おしだいこが乱打されていた。破竹の羽柴勢は、銃列の防禦線には、多少の犠牲者をふみこえて来たらしいが、はや佐久間隊、前田隊のふところ深く突入して来て、さなきだに喧騒混乱に揉まれていた中軍を思いのまま蹴ちらし、手もつけられない猛威を振った。
 時に。――利家はというに、その乱軍激闘を見ながら、道を避けて、子息利長の手勢と合し、にわかに、塩津方面へ退却し始めた。
「こは、何事」
 と、憤るもあり、怪しむ部下もあったが、利家としては、予定の行動にすぎないのだった。元々、彼の本心は、局外にあり、彼のねがいは、中立にあった。その領国の地位と四囲の情勢上、初め、勝家にわれて、参加を余儀なくされていたが、今は、秀吉への情誼じょうぎ上、黙して退いたまでなのである。
 が――秀吉の進撃の手は、仮借かしゃくなく前田軍をも撃ちくった。前田方の殿軍しんがり、小塚藤兵衛、富田与五郎、木村三蔵など、十数名は、この時に、討死した。
 その間に、利家父子は、ほとんど、無傷といっていい家中を率いて、塩津から疋田、今庄を迂回うかいし、利長の居城、越前府中の城へひきあげてしまった。
 二日にわたる激戦中、前田父子の陣地だけは、たとえば乱雲の中にせきとしている一叢ひとむらの静林にも似ていた。
 もし彼が、積極的に玄蕃允盛政と力をあわすとしたら、茂山、足海の線でも、長途の兵たる秀吉方をして、ああまで思いのまま蹂躪じゅうりんさせるようなことはなかったろう。
 彼の近臣、小塚藤兵衛、木村三蔵、その他数輩は、力戦して、ここに死す――とは「前田創業記」などにも見えるが、その力戦も、実は、消極的な退軍の怪我けがだったに過ぎない。
 為に、戦後には、
(前田父子は、あの日すでに、前夜から秀吉の密書をうけて、当日の裏切を約していたものだ)
 と、世上から推察され、
(そういえば、あの前夜、前田どのの陣中へ、百姓ていの男ふたり、書状をたずさえて御陣中へまぎれ入り、その夜半から、茂山のかがりが、わざと明々と、朝方までかれていた。あれも、秀吉方へ応ずる、何かの火合図であったとみゆる)
 などとちまたの批判まちまちであったが、これは、巷説こうせつの常として、少し穿うがちすぎている。事実はいつも複雑に似て単純だ。それを複雑怪奇にするのは、世上の臆測観察のわざである。一の実相にたいして、分解に分解を試み、さらに分解を附加して、相迷うところから生じるものに他ならない。
 ――彼は柴田と同敵でありしか共、昔よりのよしみ深かりけり、内々、秀吉に心を通じければなり
豊鑑ほうかん」の著者が、その点、一言でこの問題を尽しているのは、世の虚相きょそうに迷わされない評といえる。
 利家の一女は、秀吉の養女になっているとか、利家夫妻の仲人なこうどは、秀吉であるとか、内輪事はまずいても、いわゆる男子と男子の刎頸ふんけいのちぎりにおいて――彼と彼とは、一朝一夕の交友ではない。
 おたがい、若い頃の、がき、夕顔棚の貧乏暮しのときから、ふんどし一ツで、肝胆かんたんのかたらいもし、出ては、莫迦ばかもしあい、ときには喧嘩もし、
(貴様の、いいところには、ずいぶん惚れるが、阿呆なところには、つきあわんぞ)
 一方がいえば、一方も、
(おぬしの短所は、あいそがつきる。が、俺にとっては、手本になる。そのため、つきおうてくれるのだ。俺に、阿呆なところがあれば、おぬしの、よい手鑑てかがみ、良友と思うて粗末にすまいぞ)
 いわば、こんな風に、底の底まで知りあって来た仲である。――当時すでに上将として臨んでいた柴田勝家と、こうして今日に会した二人の仲とは、だいぶわけが違う。――仲の味がちがう。
 それを、勝家ほどな老将が、利家の領国が、自己の完全勢力圏にあるというだけを利して、この大決戦に当るに、前田父子の兵力を加算してかかったばかりか、賤ヶ嶽方面にこれを配置したなどは、すでに、敗れざる前の敗れというほかはない。たのむべからざるものを恃んで出た――失策たるは争えない。
 賤ヶ嶽、柳ヶ瀬の戦いを通じ、柴田の敗因は、一に玄蕃允の“中入なかいりの居着いつき”にありとされてあるが、こう観じてくると、むしろ玄蕃允の失策は、局地的であったに反し、勝家の誤謬ごびゅうは、それ以前に、異体脆弱いたいぜいじゃくなものを、敢えて、内容にゆるしていたという根本的な誤謬をおかしていたことがわかる。
 敗因は、おおむね、内にある。――内に敗るる者の敗れ――は、古今を通じての戦の定則である。

くらい


 ここで、視野をかえて、狐塚きつねづか方面のうごきをる。
 さて、柴田勝家陣所の、夜来の情況は如何――である。
 その前に、留意すべきは、この戦争がはからずも結果した特異性にある。
 ――というのは、玄蕃允げんばのじょうの“中入り”による支隊の戦闘が、すでに全戦局を決し、総帥勝家の主力は、もはや傍系ぼうけい的なものでしかなくなっていたということだ。
 要するに、勝家としては、冒険ではあるが、一奇手なりと、玄蕃允げんばのじょうにゆるしたほんの“序戦の取”が、思惑おもわくと相違して、忽ち、味方全軍の致命を招来しょうらいし、敵の大挙を見たときはもはや、狐塚主力の機動も、彼の総帥力そうすいりょくも、それを現わすすべもないものと化していたのであった。
 故に、これをもって、後世の史筆は、玄蕃允を非難して、
(賤ヶ嶽、越軍の敗れは、一に豎子じゅし大事を誤るによる)
 と、彼が、叔父勝家の言を用いず、敵地に切りわった罪に敗因の一切を帰しているが、玄蕃允の才略が老巧の将とちがって、いわゆる“青い”ことは確かであるとしても、それらの論断もまた極めて小乗的な結果論でしかないことは、以下、勝家が当夜から翌日までの、総帥としての処置をみれば、おのずから分ってくることと思う。
 前夜――
 二十日の宵である。
 勝家は、玄蕃允へ、六回もやった使者が、ついに全くの徒事とじして、怏々おうおうとして楽しまず、万事休す――とまで歎じていた。そして、
(ともあれ、一睡)
 と、やがて悲痛なあきらめの下に、陣所の寺の一房で、みじか夜の眠りについたが、さて、眠り得べくもない。
 こめかみのあたりの血管が、著しく太くなって、しきりに愚痴妄想ぐちもうそうをよぶ。耳が鳴る。
(途方もない男かな。この勝家に、腹切らす奴よ)
 と、玄蕃允にたいしてののしった自分のことばも、陣夢せきたるうちに、独りたぎらせていると、その憤怒も、やがては誰へも向けようもなく、自業自得じごうじとくと、自己に思い返してみるしかない。
 余りな、偏愛のとがであった。盲愛の毒であった。
 ひいては、叔父おいという、骨肉のそれと、軍律の中の、総帥と部下との、げんたるものとを、感情にまかせて、混同していた大なる過誤の生んだものである。
(それも、わしがさせた……)
 勝家は、いまさとった。
 養子勝豊が、長浜でそむいたのも、その原因は、玄蕃允にあった。また、かつて能登のとの戦場では、前田利家に向ってさえ、おもしろからぬ、不遜ふそんな行為があったと聞いたこともある。
 ――が、そういう瑕瑾かきんを認めても、なお、玄蕃允の素質は、たしかに、衆にすぐれていた。べつに、良いところを、多分に持っていた。
(ああ、それが却って、今日、命とりになろうとは……)
 うめいて、寝返ねがえりを打った。悪夢でもみているように。
 その時である。ここの短檠たんけいもゆれるばかり、武者たちが、外の廻廊を駈けて来たのは。
 隣室、またそれに連なる部屋ごとに、仮寝していた国府尉右衛門こくぶじょうえもんや浅見対馬守や、小姓頭毛受勝助めんじゅしょうすけなどは、
ッ。何者だっ」
 と一方で、寝所の衛兵が、跫音あしおとを制する声を聞きながらも、各※(二の字点、1-2-22)、すぐ廻廊へ立ちあらわれて、
「何事か」
「何か、異状でもあるや」
 と、口々にたずねた。
 急を告げに来た武者の動作がすでにただ事でなかった。ひッつれるような早口でいう。
木之本きのもと方面の空――先刻より赤々とみえ、不審と存じ、東野山近くまで、物見をつかわしましたるところ」
 不意に、毛受勝助が、
「くどいッ。要を、ひと口に云い召され!」
 と、きびしく注意した。
 報告者は、一気にべた。
「大垣の秀吉、到着。木之本附近、人馬喧騒、物々しき有様に見られます」
「なに、秀吉が」
 色めき立った人々は、これをすぐ勝家の寝所へ報じようとしたが、勝家もすでに耳にして、みずからそこを出て来た。
「お聞きになられましたか。――唯今のこと」
「聞いた」
 勝家はうなずいた。宵に見たより顔色がわるい。
「この事よこの事よ。中国陣の場合にみても、筑州として、これくらいには、やって来そうなところじゃ。おどろくにはあたらぬ」
 さすがに、自若じじゃくとして、左右をしずめたが、おおい得ないものは、感情の残滓ざんしである。――この事よこの事よと、玄蕃允に戒告かいこくした自己のことばの的中を、暗に誇るかのようにいったのは、かつては、瓶破かめわりとよばれ、鬼柴田ともいわれた剛将の声として、それを思う者には、あわれに聞えた。
「玄蕃は早やたのむに足らぬ。この上は、勝家みずからここに踏みとどまり、存分の一合戦してみしょうぞ。うろたえな、さわぐな、筑州、これに来らば、むしろしあわせ」
 部将を堂前によび集め、彼は、さいを持って、床几しょうぎにかかった。戦闘配置の命を降してゆく。――沈剛ちんごうな采配ぶり、さすがにまだ老いずの風はある。
 しかし。――ここまでは、彼も万一を予期していたことだが、真に狼狽させたものは、その次の、自軍内のあらわれだった。
 ――秀吉来る。
 と伝わるや、陣中、殊のほかな動揺なのだ。部署につくは少なく、急に、仮病を云いたて、命にさからい、まぎれ紛れに、脱陣逃走する者が続出し、七千の兵が、忽ち三千余しか数えられぬという醜状なのである。
 さきに越府を発するや、秀吉と戦うべく、意気たかく来た将士である。それが――秀吉来る、と聞いたのみで、こう浮足立てる理由はない。
 この、あやしい部下の心理を醸成じょうせいしたものは、万余の大軍はあっても、そこにげんたる統率がなかったという、ただ一事に尽きる。
 昼間、上将の間に、使者六回にも及ぶ我執がしゅうの争いが交わされていたとき、すでにこの不吉はつちかわれていたのだ。――それに、秀吉の行動が、予想外にはやく、彼らのどぎもを抜いたことも手伝い、かくて嘘説きょせつ妄言もうげん入りみだれて、臆病風に拍車をかける結果を生じたものというしかない。
 味方の、この醜い混乱ぶりを見ては、勝家も、憮然ぶぜんたるばかりでなく、
「あさましき奴輩やつばらかな」
 と、切歯せっしして、忿怒ふんぬの余勢を、あたりの幕将たちへも、吐かずにいられない容子ようすだった。
「いつまで、あのさわがしさは、どうしたことか、組頭どもへ、勝家が命を、しかと伝えたのか」
 浅見対馬守や国府尉右衛門じょうえもんなども、先刻から、座に居たり起って行ったり、少しの落着きもない。そして、御命令は再三きびしく伝えておりますが――と口を濁して答えると、勝家は、
「何、うろたえて」
 と、左右をたしなめ、
「――取り鎮めて来い。あの様子では、部署にもつかず、蜚語雑言ひごぞうごんみだりにして、味方が味方をまどわしておるにちがいない。左様な者あらば、厳科に処してかまわぬ」
 叱咤しったに、叱咤をかさねていた。
 吉田弥惣、太田内蔵助、松村友十郎などが、再度、厳令触れに、駈け出してゆく。その後でも、何か、勝家の声高なののしりが聞えていた。――さわぐな、狼狽するな、と抑えるつもりでいう彼自身の声からして、狐塚本陣の、騒然たる狂躁きょうそうのひとつだったのである。
 ――はや夜明けも近かった。
 賤ヶ嶽方面から、余吾西岸へ移りつつある銃声や喊声かんせいは、水を渡って手にとるようにわかる。
「あの勢いでは、羽柴勢が、これへ来るも、遅くはないぞ」
ひるまでには」
「何の、午を待つものか」
 臆病風は臆病風をさそい、ついに恐怖状態をここに巻き起していた。敵は、一万もあろうといえば、いや二万だ、何の、あのような猛威では三万も来たにちがいないと、自身の恐怖に輪をかけて、他を同ぜしめなければ気がすまないようになり、また、そのうちに何者かが、
「前田父子も裏切りして、秀吉と共にせて来る」
 などという虚説を、まことしやかに触れまわる者も出て来た。
 こう極端になってはもう物頭ものがしらたちのおさえもきかない。帷幕いばくからの厳命も、部将にかせておいたのでは、到底収拾しゅうしゅうはつくまいと、勝家は思い極めたものとみえる。
 彼はついに寺門から馬にまたがって出た。そして自身、狐塚附近を巡り、陣々の物頭たちへ、口ずから呶鳴った。
「故なく陣地を離れる者は、仮借かしゃくなく斬れ。卑劣なる脱走者は、鉄砲で追い撃ちにせよ。浮説虚言を放ち、味方にして味方の内に、士気をくじくがごとき振舞いある者は、即座に、突き殺して見せしめとせい」
 命は厳、声は峻烈しゅんれつを極めた。
 が、こういう秋霜の気がかされるのも、時にこそよれで――時すでに遅しのうらみは濃い。
 すでに七千のうち、半数以上の脱走者を出し、残る者も足が地についていないのである。加うるに彼らはすでに自己の総帥にたいする信頼を失っていた。ひとたび下からの畏敬いけいなき馬上におかれては、鬼柴田の号令といえ、ついにうつろな空声に帰せざるを得ない。
「ああ。勝家も終りよ」
 打っても響きのない士気をながめて、今はいかぬと、彼もさとった。しかし、彼自身の猛気は反対に彼に最後の死にもの狂いをちかわせた。夜は白々と明け、疎陣そじん、人馬の影もまばらだったが――。
 狐塚の地と、指呼しこのあいだに対峙たいじしていた羽柴軍の第一陣地――堀秀政の東野山の兵も、今朝になって、ようやく、動くところあらんとしていた。
 勝家の主力が、この方面へ出たのも、要するに、その優勢な敵第一軍の牽制けんせいにあったのだから、勝家としては、その目的は達していたといってよい。
 しかし、堀秀政ともある者が、この要地に、大兵をようしながら、甘んじて、その陣地に釘付くぎづけにされていたのは、秀吉側から見れば、甚だ遺憾なりともいえよう。
 一説には、こういうことも伝えられている。
 当初、秀政は、直ちに積極的な攻撃を計ったが、その臣堀七郎兵衛なる者が、
「下策です」
 と、極力諫止かんししたというのである。――理由は、
(――この半日、敵のうごきを見ていますと、勝家から玄蕃の陣へ、急使の往来、幾度か知れませぬ。これは勝家が、玄蕃にむかい、急速に引き取れと、矢の催促さいそくをなしているものと思われる。そのいさめをいて、玄蕃が引揚げるとせば、玄蕃か元の道を帰るわけはなく、必定ひつじょう、この近くで一戦はまぬがれますまい。――もしまた、玄蕃が居据わって、帰ることなければ、勝家も居たたまれず、必ず来って、この街道を中心に一合戦と相成りましょう。いずれにせよ、この二途は出ませぬ。――故に、今は兵を分けず、一陣一挙の力をかためて、敵が二途いずれに出るかを、ているべきです)
 と、いうにあった。
 これが、真説か否か、とにかく大垣から駈けつけた秀吉の直属が、賤ヶ嶽附近を席捲せっけんし、翌朝へかけて、余吾西岸を追撃しつづけるまで――東野山の第一陣地が、目と鼻の先に、敵勝家の本陣を見ながら何らの見るべき活動を起していなかったのは事実である。
 堀七郎兵衛の鑑識かんしきが、秀政を肯定させたことも一理由ではあろうが、もっと大きな理由としては、二十一日の明け方まではなお、柴田匠作しょうさく勝家あり、となす彼の存在が、その陣営の上に、無言の“くらい”というものを敵に作用していたことは争えない。
 要するに、勝家の“位”がきいていたために、秀政としても、うかつに動き得なかったものである。
 ここでいう“位”とはいわゆる位階勲位などの、それとはちがう。
 よく平俗のあいだに、
“位”がきく。
“位”がきかない。
 などといわれるあのことばなのである。棋盤きばんの上での戯れによく使われるが、おこりはやはり兵学上の語だろうと思う。聖賢の語は、こう率直でない。
 軍容、陣気、静、動――すべて、“位”の光揚こうようである。機変も、初謀も、外に“位”がきかなくては行われ得ない。外交でも政治でも、これがものをいう範囲は大きい。
 一つの家でも、家の主にして、ひとたび“位”を失わんか、わが女房にすら、あげつらわれる。一戸の亭主においてすら然り。“吏”の時務、指導者の指揮、大臣おとどの威令など――げんたない。
 ――この朝、堀秀政が、突如、進撃を決して来たのも、敵本陣の空気に、不審を認めたからではあるが、換言かんげんすれば、それは勝家の“位”のやぶれによるともいえるのである。

毛受家照めんじゅいえてる


 秀政の兵五千のほかに、麓の街道に駐屯ちゅうとんしていた小川佐平次祐忠すけただの一千も、ひとつになって狐塚の正面へ当った。
 先鋒槍隊の前を、銃隊が、露ばらいのかたちで、撃ちつづけながら、尺地尺地、踏みとって行った。
 敵も、バチバチ撃ってくる。
 しかし、至って断続的だ。たまの密度も少ない。しかもだまが多いのである。
「槍組っ。駈けこめ」
 小川佐平次は、その槍手たちと共に、馬を躍らせて、銃隊の先へ出た。
 ――敵はもろい。槍でよし。
 と、見たからである。
 堀本隊ほんたいが、それにおくれているはずはない。小川隊が、今市の町の焼け跡から迫って行くのを見ながら、堀麾下きかの各隊は、山沿いに突撃し、狐塚の直前で、はや激戦に入っていた。
 堀監物けんもつ、堀半右衛門、堀道利みちとしなど、組々の下にある士たちが、背の指物さしものを低くかがめて、敵中ふかく突きこんでゆく姿が、おちこちに認められる。
 たつ下刻げこく(午前九時)だった。
 時刻で見ると、湖西の対岸を急進撃して来た秀吉軍が、ちょうど茂山の前田父子の陣前に迫った頃――であった。
 彼方の西方にも塵煙濛々もうもう大喊声だいかんせい。ここにも、新たに起るときの声のうしお。――かくて、余吾の湖を抱いて、全羽柴勢はまもなく東西相結ぶ形を示していた。
 それに反して、狐塚の軍は、この一衝撃に会しても、まったく戦意が盛り返されて来ない。
 前哨ぜんしょうの散兵陣地、尖角せんかく陣地、第二陣地、ほとんど一溜ひとたまりもなく押し崩され、中軍の寺院附近は、それらのすなき将兵や馬のいななきで埋まっていた。
「大殿っ。……ひとまず。……ひとまずここは」
 浅見入道道西、国府尉右衛門などである。勝家の大きな体を、よろいの両脇から掻い抱くようにして、
「日頃にも似ぬ御短慮」
 と、いまそこの山門から、無理やりに、この人馬の渦の中に連れ出し、口々にあたりへ呶鳴っていた。
「はやく、これへ馬を曳けっ。おやかたのお馬はどうしたっ」
 その間にも、勝家は、
退きはせぬぞ! 勝家、何とあろうが、ここは退かぬぞ」
 たけるばかり、云いつのって、さらに、自分を離さぬ幕将たちへ、
いらはいったい、何のために、かくは勝家の討って出るを、はばめるのか。勝家を迎えるあいだに、なぜ目に見えている敵をささえぬか」
 と、眼をいからして罵った。
 乗馬が、寄せられた。きん御幣ごへいの美々しい馬印を持った士卒も、側に立った。
所詮しょせん、ここの支えはなりませぬ。――さあるからには、お討死も、あたら犬死。……ともあれ、北ノ庄までお落ちあって、御再挙をおはかりあるなり、その上の御思案もまたござりましょうに」
「ばかなっ」
 勝家は、一かつ、大きく顔を振ったが、左右の人々は、押し上げるように、彼の体を、鞍の上へ移そうと焦心あせっていた。
 それほど、事態は急だったのである。――すると、日頃はついぞわれから差し出たことのない勝助――小姓頭の毛受勝助めんじゅしょうすけ家照が、つと走り出て、勝家の馬の前に平伏して云った。
「おねがいですっ。……大殿っ。その金の御幣ごへいのお馬印を、私に、拝領させて下さいまし」
 馬印を賜わりたい――と、彼が主君に求めたのは、いうまでもなく、身をもって、後にふみ留まり、大将の身代りにならんと、われから志願して出たことにほかならない。
 勝助は、その後、
「……何とぞ」
 とばかり、ことば少なく、ひれ伏したままだった。
 その姿には、決死とか、必死とか、たけぶるものも見えず、平常、勝家の前で、小姓頭として仕えているときの挙止と何の変りもなかった。
「なに、馬印をくれいとか」
 馬上の勝家は、地にある勝助の背を、あやしむ如く見すえてしまった。
 左右の諸将も、ひとしい面持おももちひとみを、勝助の上にそそぎ合った。
 みな、意外に打たれたのである。なぜならば、およそ柴田家の近衆数多あまたなうちでも、毛受勝助家照ほど、日頃、主の勝家からひややかにあしらわれていた臣はない。
 常々、勝助の無口も、そのための憂鬱だろうとさえ、いわれていたくらいである。
 彼を、毛嫌いしていた勝家は、直接、誰よりもよくそれを知っていたであろう。――しかるに、その勝助が今すすんで、
(お身代りに)
 と、馬印を望むではないか。
 敗風ひとたび陣にすさぶや、今暁こんぎょうからの味方の浮足は見るにたえないものだった。逸早いちはやく武器を捨てて身一つ大事と脱走し去った卑怯者も少なくない。その中には、勝家が日頃、あつく目をかけていた恩顧おんこの者どもも幾人かあった。
 それを思い、これを思い来り、勝家は、咄嗟とっさの中ではあったが、ふと、まぶたを熱くせずにいられなかった。
 が、勝家は、何と思ったか、あぶみのかかとで馬腹を蹴り、まぶたにせぐりくるもろいものを、われとわが獅子吼ししくをもって、追い払うように、
「何の勝助。死なば一処ぞ。そこ退け、そこ退け」
 躍り立つ馬の下から、勝助は身を避けたが、彼の手は、その口輪を取って、
「いざ、そこまで、御案内仕りましょう」
 と、勝家の意志とは反対に、戦場をあとに、柳ヶ瀬村の方へ駈け出した。
 馬印を守る者も、旗本たちも、勝家の馬をかこんで、一団に急いだ。
 しかし、時すでに、堀秀政、小川佐平次らの先鋒隊は、狐塚を突破し、ささえに立つ柴田の将士には目もくれず、彼方へはし金幣きんぺい馬簾ばれん一つを各※(二の字点、1-2-22)目がけて、
匠作しょうさくはあれよ。――のがすな」
 と槍を持った韋駄天いだてんの群れが集中して行った。
 勝家を守って、一緒にはしっていた部将たちも、
「はや、これまで」
 と一言の別れを投げては、勝家のそばを離れて、引っ返し、追い来る敵の猛烈な槍と槍の中に、敢えて、しかばねを横たえた。
 毛受勝助も、いちどは身をひるがえして、尾撃の敵をむかえていたが、ふたたび主人の駒の後を追い、勝家のうしろから、なお叫んでいた。
「お馬印を、賜わりませ。――勝助に、下しおかれませ」
 柳ヶ瀬のはずれであった。
 勝家は、寸間、馬をとめて、かたわらの者の手から、生涯の思い出多き――鬼柴田の名と共に今日まで陣営に掲げて来た――金箔捺きんぱくおしの御幣の馬簾ばれんを自身の手に取って、
「それよ、勝助。――侍中じちゅうへ」
 と、云いながら、ッと、後ろへ向って投げた。
 勝助は、身をのめらして、鮮やかに、その柄を受けた。
 勝助は歓喜した。一瞬、その馬簾を振りまわしつつ、主人勝家のうしろ姿へ、
「さらば、さらば。おやかた
 と、最後の声を送っていた。
 勝家も、振り向いた。しかし馬は、柳ヶ瀬山地へ、駈けつづけてゆく。
 そのとき、勝家のまわりには、わずか十数騎しか見えなかった。
 馬印は、勝助の乞いにより、勝助の手へ投げ与えられたものだが、その折、勝家のことばのうちに、――侍中へ。
 という一語もあった。
 侍中へたのむぞ、という意味であり、勝助と共に、死地にのこる者達への、思いりもあったにちがいない。
 金幣の馬簾ばれんの下には、忽ち、三十余名、一かたまりに集まった。
 これだけは、正味、名を惜しみ、主家に殉じる志の輩だった。
(ああ、柴田衆といえ、人なきではない――)
 勝助は、たのもしき顔々々を見まわして、
「いざ、心楽しく、さいごを飾ろう」
 と、武者一名に馬簾を持たせ、自身真っ先に立って、柳ヶ瀬村から西へ数町、とち山の北尾根へ駈け上った。
 ここはさきに、徳山五兵衛、金森五郎八などが陣していた地点である。
 四十名を出ない小勢といえ、覚悟を一つにかためて、いざ来い――となると、なお数千の兵があった狐塚の今朝方などよりも、遥かにりんたる志気も示され、凄気せいき、敵を睥睨へいげいする概もあった。
「勝家は山へったぞ――」
「さては、さいごを覚悟し、必死の足場をとったとみゆる」
 迫って来た堀麾下きか、小川麾下の武者ばらは、さすがに、一応、いましめ合った。――この頃、堂木山砦だんぎやまとりでの木下半右衛門の手勢五百も、この追撃に合し、
「勝家の首はわが手に」
 と、先を争って、橡の木山へ分け登って来た。
 山上に耀かがやく一基の金色標と、三十余名の決死の士は、そのまま、鳴りをひそめていたが、麓からの道あるを問わず、道なき所を問わず、それを目がけて、争い登る屈強な者の数は、刻々、姿を増すばかりである。
「……まだ、水盃を交わすぐらいないとまはある」
 山上では、毛受勝助を始め、三十余名が、このわずかなひとときを、岩間に滴々とたたえられた清水をみ分けて、涼やかにさいごの心支度をしていた。
 そのとき、勝助はふと、自分と共にある兄の茂左衛門と、弟の勝兵衛を見て、
「兄上は、ここを落ちて、郷里へお帰り下さい。三人の兄弟が、三人までも討死をとげては、家名が絶え、また、留守をしていらっしゃる母上の老後を見てあげる者がいなくなります。――兄上は、家をぐべきお方でもありますから、どうかここは」
 すると、茂左衛門は、
「弟ふたりは、敵に討たせて、兄が、今帰りましたと、母上にお顔が合わせられるか。わしは残る。……勝兵衛、そちがいい、その方は去れ」
「嫌です」
「なぜ、嫌か」
「こんなとき、生きて帰ってくれたからというて、それを歓ぶような母上ではありませぬ。亡き父上も、きょうこそ、草葉の蔭で、われら兄弟を見ておられましょう。きょう越前へ向って歩く足は私も持っていません」
毛受勝助家照。
モト尾張国春日井郡ノ人ナリ、十二歳ニシテ勝家ニ仕へ、後、扈従頭コジュウガシラトナル。
性信厚、学ヲ修シ、古風ヲ好ミ、母ニ孝アリ(後略)
近江国地志略おうみのくにちしりゃく」の橡谷とちだにじょうに、著者寒川辰清さむかわたつきよは、彼の芳魂ほうこんとむらって、その生い立ちをこうしるしている。
 はやくに父をうしない、母の手に育てられた毛受兄弟の親思いはそれによるまでもなく、藩内でもみな人の知るところであった。
 その兄弟が、兄弟三人とも、主家の馬印の下にふみとどまって、勝家の危急を救い、武門の名に殉じたのを見れば、平常、その家の風や、母なる人のしつけぶりも、さこそと、うかがわれる。
 ――とにかく、兄茂左衛門も、弟の勝兵衛も、勝助家照が残るからにはと、一魂の死盟しめいへいとして掲げたる馬印の、金簾燦風きんれんさんぷうの下を、去る気色けしきもない。
「さらば共に」
 と、勝助もいまは、兄へも弟へも、家郷へ帰り給えとはすすめなかった。
 そして、岩清水一掬いわしみずいっきくの、水盃を汲み合うて、清涼せいりょうの気、胸をとおるとき、兄弟三人がひとしく家郷の母へ向って、
(余生、おさびしくおしましょうが、世間に、肩身のお狭いようなざまはいたしませぬ。それのみを、せめてと、独りおなぐさめ下さいませ)
 と、心に念じたことを察するに難くない。敵は早や、声の聞えるところまで、四方から、近々と迫っている。
「勝兵衛、馬簾ばれんを守れ」
 勝助は、弟へ云いながら、顔へ“面頬めんぼお”を当てた。――勝家なりと名乗って、すぐ敵に面を知られないためである。
 五、六発、耳近くから、銃弾が飛んで来た。
 それをきっかけに、三十余名、一斉に、身を伏せ、起すや否、
「八幡照覧」
 となえ合わせて、敵へ当った。
 およそ十二、三名一組ずつ、三手に分れて、敵を目の下に、斬って出たのである。あえぎ上って来た方は、到底、この決死の形相の前には立ち得なかった。真っ向に、太刀を浴び、胸いたへ、やりをくい、早くも、いたる処に惨たる犠牲を、出してしまった。
「死をいそぐな、面々」
 勝助は、一たんさっと、柵の間へ退いた。彼のいるところに、金幣の馬印は添い、馬印の行く所に、味方は駈け集まる。
「五指ノハジクハ一拳イッケンカズ――だ。しかもこの小勢、散っては弱まる。進むも退くも、馬簾の下を離れぬように」
 いましめて、また飛び出した。――斬って斬って斬りくり、突いて突いて突きくり、風のごとく、塁の間へ引く。
 かく闘うこと六、七回。
 寄手はすでに二百以上の死者を出した。陽は烈々、中天に午刻ひるどきの近きを思わせ、鎧甲がいこうの鮮血も忽ち乾いて、うるしねのような黒光りを見せている。
 馬簾の下にも、いまは十人ほどしか残っていない。爛々らんらんたるお互いの眼は、相見て、相見えぬ眼ざしだった。籠手こて、乱髪、膝がしら、満足な五肢を持つ者はひとりもない。――と、そのとき、
「あっ……」
 一矢、勝助の肩に立った。
 木蔭に弓をつがえて、勝助を射たものは、小川佐平次の家来、大塚彦兵衛だった。
「ちいッ」
 と、勝助は籠手こてに流るる鮮血を見ながら、肩に立ったその矢を、わが手で引き抜いた。そして矢の来た方をきっと振向いた。
 ざざざ――と彼方の笹むらを、いのししの分けて来るように、かぶと鉢金はちがねだけが、笹波の中に、幾つとなく、近づいて来る。
「のう。これまでではないか」
 勝助はなお、残るわずかな戦友へ、こう静かにいうだけの余裕を持っていた。
たたかい去り闘い来り、思いのこすところはない。面々も、よい敵を選んで、華やかに名を遂げ給え。まず、勝助より御名代の討死を遂げん。いやしくも、御馬印を伏せず、高々と持ち、まんまるとなって、続かれい」
 決死一団の血まみれ武者は、馬印を押し立てて笹波の中の敵へ向って進んで来た。
 この手に近づいて来た敵は、敵の中でも、各※(二の字点、1-2-22)期するところあるひとかどの猛者もさばかりらしい。
 ぎくともせず、反対に、槍に誓いを示して来た。勝助はそれへ向って、その鋭気をくじくような音声で云った。
「推参ぞっ、雑人ぞうにんども。――柴田修理亮勝家しゅりのすけかついえの身に、おのれらの槍が立とうや。鬼柴田の名はあだには持たぬぞ。――われに立ち向わん程の者は、小川土佐(佐平次祐忠すけただ木下美作きのしたみまさか。――さもなくば堀秀政みずから参れ」
 阿修羅あしゅらかとも疑われる勝助のすがただった。事実、彼の前に立ち得る者なく、目前に、数名は突き伏せられた。
 この勇猛を見、また馬印を死守する面々の奮闘にい、さすが自負して近づいた寄手の猛者もさも、包囲を割って、二町余り、麓へかけて、わっと道をひらいた。
「勝家自身、往来なすぞ。筑州あらば、一騎駈け、これへ出会えや。――猿面郎さるめんろう、出よっ」
 勝助は、坂路へ出た。
 そこでも、よろい武者一名、突き殺した。――が、兄茂左衛門は、そこまでの間に、はや討たれ、弟勝兵衛も、太刀の敵と斬りむすび、相打ちとなって、近くの岩の根にたおれた。
 その側に、金の御幣の馬印も、真っ赤になって、打ち捨てられていた。
 坂上から――坂下から――閃々せんせんと勝助の身ひとつにつめよる無数の槍は、その馬印と、勝家なりと信ずる彼の首とを、け物のように、
「われこそん」
 と、きそい合った。
 ほとんど、乱槍の状の下、毛受勝助は討死した。
(さすがは、鬼柴田よ――)
 と、敵の名だたる武者輩をしてさえ、肌にあわを生ぜしめたほど、最後のたたかいは、勇猛無比であったという。
 誰か知ろう。
 日頃は、無口で、おとなしく、人いちばい好学温雅なるために、却って、勝家や盛政などからも余り好かれなかった白面二十五歳の若武者が――その面頬めんぼおの下に純なるおもてをつつんでいようとは。
「柴田勝家を討ったりっ」
「金御幣の馬印、この手に、分捕ぶんどったりっ」
 口々の名乗り声、凱歌の諸声もろごえ、全山をゆるがして、しばし鳴りもやまなかった。
 このときまだ、羽柴方では、その首級が、柴田勝家ではなく、身代りに立った毛受勝助であったことを知らなかったので――
 勝家を討ったり!
 北ノ庄の首級を挙げたぞ!
 と、動揺どよめき立ち、それと共に、敵の馬印、金御幣も、った奪った、と揉み合うばかり喊呼かんこしてやまなかったが、ここで、困る問題は、毛受勝助の首を挙げた者は誰か? 馬印は誰の手にち取ったものか?
 諸書すべて、異説紛々で、いっこう分らないことである。
 ここの主力、堀秀政麾下の功を誌した記録によれば――
秀政ノ士、堀半右衛門、勝家ガ馬幟ウマジルシノ御幣ヲ取リ、首二ツヲ獲タリ。秀政之ヲ秀吉ニ献ジ、半右衛門ニ黄金一枚、刀一腰賜ハル。又首二ツノ賞トシテ、金銭三枚ヲ下サル。半右衛門、二銭ヲ頂戴シテ壱銭ヲ返上ス(近代諸士伝略)
 また、別書の「寛永譜」には、
監物ケンモツ直政、柴田ト合戦ノ時、十文字槍ヲモテ、柴田ガ金ノ御幣ノ馬符ヲ奪ヒ取ル。コノ時、小塚藤右衛門、セ懸リ、直政ニアツマル。直政御幣ヲ捨テ、藤右衛門ヲ組伏セ、首ヲ取ル。
 と、あって一致していない。しかしこの堀監物は、その頃、又者またもの陪臣ばいしんで名高きは、刑部ぎょうぶ、監物、松井佐渡――と世間にうたわれたほどの剛の者であったことはたしかであり、また、柴田の驍勇ぎょうゆう小塚藤右衛門を討ったことは他書にも見えるから、その一事は、ほぼ確実と見てまちがいあるまい。
 けれど、毛受勝助の首を挙げたとみずから名乗っていた者は非常に多かったとみえ、「余吾合戦覚え書」には、
――木下、名乗ナノカケ名乗リカケ、勝助ガ首ヲ取ツテ、筑前守ヘ見参ニ入ル。比類ナキ働キ哉ト、諸陣申合ヘリ。
 と見えるのもあるし、また一書には、小川佐平次祐忠の内の者これを討つともしるされている。
 同様に、馬印の方も、誰彼一致せず、蒲生がもう飛騨守の兵士長原孫右衛門が獲たという説もあり、なお一説には、稲葉八兵衛、伊沢吉介、古田八左衛門、古田加助、四人がかりで、辛くも捕ったという伝えなどもあって、まったくどれをとしどれをとすべきか、るところに苦しむ。
 結局、分らないというのが事実であり、その場にいて、そこに闘っていた人々もまた、分らなかったというのが、真の真相であろう。
 それほど、毛受家照が、勝家と名乗って、馬印の下になした最後の血戦は、烈しい瞬間であったにちがいない。肉漿にくしょう飛び交い、碧血へきけつ草を染むる。悽愴せいそう比なき乱軍であったことを、証するものであるともいえよう。
 この時刻。――一方の秀吉は、すでに狐塚附近まで入っていた。
 この前に、前田父子の陣は、茂山から旗を返して、遠く帰北し、佐久間の残兵も、一応踏みとどまって抗戦を試みたが、ささえ得べくもなく、再び、潰滅されていた。
 羽柴主力は、こうして、もはや鎧袖がいしゅうしょくに値するほどな敵にも会わず、秀吉を囲む騎馬一団の幕僚と、前後、おびただしい軍列は、差物、馬印を陽にきながら、蜿蜒えんえん、北進をつづけて――茂山から父室ふむろ村を経、国安、天神前を通って、今市の北、狐塚ととち山との間に当る街道へ続々溢れ出て来たのである。
 茂山からこの辺まで、約二里ほどな距離だった。
 当日の天候は「賤嶽合戦記」にも、
――四月二十一日、タツ下刻ゲコクノ事ナルニ、一天曇リナク、照リニ照リタル空ナレバ、手負テオヒ共、日ニ照リツケラレ、イト苦シガリケリ。
 とある通り、初夏とはいえ、尾濃びのう大暴おおあれのあとで、気象一変し、急激に暑くなって、炎日くような日であったと思われる。
 従って、大垣出発以来、駈けとおし、戦いとおしで一睡もしていない将士の疲労も、やさしいものではなかったろう。
 けきった甲冑の重さもさることながら、それに包まれている五体の汗腺かんせんから流れるものは汗という程度のしずくではない。どの顔もどの顔も赤銅しゃくどういろに燃えていた。こうなると、満身の血痕も泥のしぶきも、その人々の意識には何のかかわりもないものになっている。――ただ非常な空腹にある容子がうかがわれ、はやく一杯の水をのみ、土の上でも、草の中にでも、ごろりと一睡したいような色が兵全体にうかがわれた。
 長途の兵、無理もない。実に秀吉としても、無理を承知であったろう。ただ敵に大きな“虚”あるがために、敢えて取った強行戦法だった。――もしこの長途一気の労に対し、勝家が、また前田父子が、一体に結束し、逸をもって、これをむかえ撃つなら、破竹羽柴の精鋭といえ、ついにこの辺りで、さしもの力も尽き、断弦だんげんの恨み、一挙に勝敗の地をかえて、惨たる敗退を強いられたかもしれないのである。
 ――が、前田はすでに問題外だし、勝家の狐塚本陣も、いかに玄蕃允の大きな齟齬そごがあったといえ、余りに崩るるに急だった。昨夜から今朝までの間に、総帥勝家に何らの対策がなかったことは、すでにこの日をもって、柴田は亡ぶものとなっていた運命というほかない。
 この日、賤ヶ嶽、余吾、狐塚附近の三戦場にわたって、柴田軍の戦死者は、五千余人という多数であった。
 もちろん、このおびただしい犠牲は、決して一方だけのものではない。秀吉の側にも、無数の死傷者を出したことは明らかだ。しかし羽柴軍の方のは、記録的に明確な数字が残されていないのである。
 その負傷者について、一話が伝えられている。秀吉が、茂山から方向を転じ、狐塚方面へ進軍してくると、途々みちみち、乱軍のあと、無数の手負いが、炎熱の地上にうめいているのを見た。
「いたましや、苦しかろ」
 秀吉らしく、そこで彼は、先を急がるる駒を止めて、附近の山を見まわしていた。
 山の手の遠方此方おちこちには、郷の者が戦に追われて、雲霞うんかのようにむらがっていた。秀吉は、黒鍬くろくわ(工兵)の組頭をよんで、
「笠をかつぎ、みのなど携えている村人の老幼男女があれに見える。後に、褒美をつかわすゆえ、渡せと申して、笠や蓑をある限り集めて来い」
 といいつけた。
 そして、やがて、黒鍬の兵が集めて来たそれを、手負いの一人一人に、覆い着せてやるのを見届け、初めて、
「よし、よし」
 と、気がすんだような顔をして、進軍をつづけて行ったというのである。
 麾下きか諸将がようやく疲れを思い、空腹を覚え出していたとき、彼はなお人心の収攬しゅうらんをわすれず、戦後に思慮をめぐらしていたと、この逸事を説く者もあるが、さてどうであろうか。
 秀吉の真情は、負傷者の苦痛を、いかに急場といえ、路傍に見て行けなかった。ただそれだけの凡情であったと観た方が、日頃の彼の性格に近いと思う。
 ――ともあれ、秀吉主力の湖西進撃軍と、堀秀政以下の湖東留守居軍とは、柳ヶ瀬山地に入る北国街道の路上で、完全な聯繋れんけいを見、同時に、
「勝家、討死。――勝家以下の重なる部将も、あらまし斬り死をぐ」
 との喧伝けんでんもあって、ここでも一時、万雷に似た歓喜を発したのであった。
 しかし、勝家戦死は、誤報である由が、すぐ訂正された。
 勝家の帷幕いばくにあり、越軍の名だたる武将のうちの、国府尉右衛門、吉田弥惣、太田内蔵助、小林図書ずしょ、松村友十郎、浅見対馬守入道道西、神保若狭じんぼうわかさ、同八郎右衛門などが、狐塚から柳ヶ瀬の突地にわたる路上で、相次いでたおれ、その首級を、堀隊、小川隊、黒田隊、藤堂隊などの羽柴方の勇士の手にちとられたことは確報にちがいなかったが、誤報については特に、
「大将勝家と見えたるは、偽首にて、北ノ庄の小姓頭、毛受勝助の身代りに立てるものにて候う」
 と、秀吉の前に堀久太郎秀政自身、釈明しゃくめいに来た。
 秀吉は、その首を見た。
 面頬めんぼおられている。――勝家とは似せても似つかぬ白皙明眉はくせきめいびの若者の首級である。
あるじの馬印をいうけ、勝家なりと名乗って死んだか。……涼やかな死に顔よの」
 秀吉は惚々ほれぼれと見入っていた。首級の若い唇は、紫いろを呈していたが白い歯なみを少し見せ――君、君タラズトイエ臣、臣タリ――の義をつらぬいた本懐ほんかいを自ら微笑ほほえんでいるようだった。
 毛受勝助家照の名は、よほど秀吉の脳裡のうりに感銘を与えたものとみえ、後、彼が越前に軍を進めて、その平定を見た日、勝助の母と、毛受家の縁類をたずねさせ、それに鄭重ていちょうな慰問を送り、かつ扶養の約を与えたということである。
 彼の戦下行政は、いや自然に振舞う事々は、常に情義本位の政道になっていた。もとより政策の軌道は理念を基調とはしているが、表わるるところは、ひとりでに彼の性格を加えて、情念を主調とし――また物に、道義を骨胎とし、道義をもって、法治賞罰のかがみとする――戦下行政をおのずからくのであった。
 これも、数日後のことだが。
 佐久間玄蕃允の生捕いけどられたときにも、そうした施政の一例が見られる。
 玄蕃允は、二十二日の夜、自身の知行所たる越前の山中で、百姓たちの手で捕われ、秀吉の陣所に曳かれて来たのであるが、その際、秀吉は、侍側の者をもってこういわせた。
「玄蕃生け捕りに手助てつどうた者どもへは、そのことごとくへ褒美あるであろう。老若男女に限らず、訴人の百姓は、明日、一緒にまかり出るがよい」
 次の日、われもわれもと、一群になってまかり並んだ。また、われ劣らずと、その功を述べたてた。
 秀吉は、百姓に、告げた。
「敗れたりといえ、きのうまで、領主と仰いでいた地頭をからめ捕り、侵攻の敵軍へ渡すのみか、百姓の業を怠り、利のためこれへ出て、功を争い述べるなど、野人の浅慮あさはかといえ、心情にくむべしじゃ。すでに民の本性を見失うた奴輩やつばらことごとく首をねい」
 こういうのである。百姓たちは号泣したが、叱咤して、それを睨みすえ、遂に、ゆるすといわなかったという。
 民に道義を立てるには、示すに情義の政治をもってせねばならぬ。情義を“法”に持つためには、温情美賞主義のみが、決して策を得たものではない。時に、峻烈しゅんれつ無情にも似る厳科げんかの断刀もまた下さねばなるまい。

途上一別とじょういちべつ


 勝家は身をもってのがれたが、勝家の羽翼うよくであった全軍は、完全に潰滅かいめつ霧散むさんし去った。
 柳ヶ瀬附近には、今朝までの金御幣の馬印に代り、秀吉の千瓢せんぴょうの馬印が望まれる。
 異色のあるそれが、きょうは特に烈日にかがやいて、何か、人智人力を越えたものの標識のように人々の眼を射る。
 またその辺りから一帯の街道、平野、部落へかけて、麾下きか諸侯の幡旗ばんきや、各隊のつわものの指物さしものが、霞むばかり蝟集いしゅうして、宛然えんぜん戦捷式せんしょうしきかのごとき盛観を呈した。
 羽柴小一郎秀長の兵団がもっとも大きく、丹羽、蜂須賀、蜂屋、堀尾などの一部隊。堀久太郎、高山右近、桑山修理、黒田官兵衛父子、木村隼人佑はやとのすけ、藤堂与右衛門、小川佐平次、加藤光泰などの全隊など――見わたすにも目に余るほどな軍馬だった。
 ――てり。われ捷てり。
 この雲霞が波打っている光瑶こうようはそれだった。一兵の姿もその歓喜の一波だった。馬の汗にかがやき見えるのもその光だった。
 事実、この日において。
 決するものは早や決したといってよい。
 秀吉対勝家の――相互全力を挙げて、天下の帰趨きすうした一戦は、ここに勝敗を明らかにし、ふたたびこの形がくつがえる余地も奇蹟もあり得ない。
 山嶮さんけん湖沢こたく城市じょうし塁寨るいさい、平野など、さしも広汎こうはんな天地に雄大な構想を展じ、布陣の対峙たいじ久しかったこの大会戦も、その念入りな仕切りのわりに、さいごの帰結に入った血風闘地の死にものぐるいの戦いは、まことに短いものだった。また、あっけない程、一方的な突進猛撃に席捲せっけんされていた。
 後に、歴史として観れば、
 当然かくあり、かく帰するものだった。
 和漢幾多の史例が、さきに無数の国土と血をもって、明らかに示しておいた興亡の公式どおりなものでしかなかった。そう分るのである。――しかし、勝家の心事にしてみれば、到底、そんな単純には片づけられまい。なおさらのこと、定まれる法則の逆を踏んで入ったものなどとは敗れてもうなずくまい。また秀吉にしてさえも、かく一気にてるとは予期していなかったにちがいない。
 大垣を発するときの、
“我すでに勝てり”
 の一声と、あの快馬一鞭いちべんは、勝てるという晏如あんじょな気持からは出るものではない。すでに勝家との、喰うか喰われるかを予期して出た――死中生アリ、生中生ナシ――の大号令を、単なる令でなく、自身の姿をもって、全軍に震わしめたものである。
 彼がすでに、この合戦に、
(勝たねば死のみ)
 と思いきめていたに違いないことは、屍山血河しざんけつがを現出した賤ヶ嶽の乱軍中も、終始、陣頭に立って、二十歳台、三十歳台の若者たちにも劣らず、
(額で敵の背を押せや)
 と、声をらしつづけていたあの元気さでも、充分に想像がつく。
 勝てば、直ちに、明日からは、天下人てんかびとともいわれる約束をもつ彼が、もしこの間に毛ほどでも、明日以後の世や一身の栄えを思っていたら、決してこんな赤裸一挙の勝負を果し得るものではない。
 閑話休題。
 さてその秀吉の精力と迫敵心は、まだまだこんな所にとどまって、凱歌がいかに酔っているものではなかった。
 時に、二十一日の正午。
 一応、全軍は、兵糧を取った。
 顧みると、賤ヶ嶽で序戦に入ったのが今暁こんぎょうの午前四時。
 あれから約八時間ぶっ通しの戦闘であったのである。が、兵糧がすむと、全軍はまたすぐ北進の命をうけていた。
 柳ヶ瀬、椿坂、大黒谷おおくろだにと、蜿蜒えんえんの兵馬はしょくに入るしのばせた。
 国境のとち峠にかかると、西に裏日本敦賀つるがの海が早や望まれ、北方越前の山野はひらけて馬蹄の下にあった。
 すでに陽は傾き、春めく天地のものみな、虹色の暮色に燃えていた。
 秀吉の顔にもあかねが染められた。大垣以来、一睡もしていない顔とも見えぬ。おそらく彼は人間に眠るという時間のあることを忘れているのであろう。――進めど進めどとどまろうとはいわない。夜は短く、日は長いさかりである。
 日いッぱいに、越前今庄いまじょうに宿営した。
 先頭部隊は、なお行軍をつづけ、夜のうちに、二里余の先、脇本まで進出すべしと命ぜられ、後方部隊は、中軍からほぼ同距離の板取いたどりとどまったから、首尾およそ四、五里にわたる夜営陣であった。
 山ほととぎすの啼きぬくも知らず、秀吉はさだめし快睡に入ったことであろう。
(――明日は、府中の城下にかかるが、さしずめ、前田のひと挨拶、どう出るか、どう受けるか?)
 眠りに入るまえ、当然、この宿題は、彼の脳裡のうりにあったにちがいない。――が、茂山退陣の態度に見ても、利家の意中はある程度、ほのめかされているともいえるし、それを前途の障碍しょうがいとして取り越し苦労に病んでいる秀吉でもなかった。
 ――ひるがえって、その前田利家は、どうしていたかというに。
 利家は、同日の午頃ひるごろには、早やこの辺を通過し、陽もまだ高いうちに、子息利長の居城府中に、全軍を引揚げていた。
「おつつがもなく」
 と、夫人は出迎え、良人は、
「帰った」
 とのみ、意中のことは、言外にいていた。
「手負いも出た。城中に入れて、それぞれ厚く見て給われ。わしの世話は後でよい」
 利家は式台を踏もうとしなかった。草鞋わらじもぬがず、武装も解かない。そして大玄関の前にたたずんだ。小姓たちも、静粛に立ち並び、何かをおごそかに待つふうであった。
 やがて、大手門からこれへ、幾組も幾組も、武者の群が静かに進んで来た。たての上に寝かした戦死者の屍を守って来るのだった。甲冑かっちゅうの死骸の上には、その武士の誉れある指物さしものが乗せられてあった。
 十幾個の楯と指物が、城内持仏堂へ迎え入れられた。――次には、戦傷者が、負われたり、肩にたすけられたりして、べつの曲輪くるわに入った。
 この情景で見ると、茂山退陣の際に、前田軍が払った犠牲は、戦死十数名、戦傷三十七、八名であったことがわかる。
 柴田、佐久間の比ではない。けれど利家夫妻が、この少数な犠牲者にたいする礼は鄭重を極めた。従来の場合とちがい、礼以上な、詫びる気持すらあるやに見えた。
 持仏堂に鐘が鳴り、陽も夕ずく頃、城内城中には炊煙すいえんが立ちこめた。兵糧を取れと令せられたのだ。しかし、軍隊はなお解かれない。将士は、戦場に在るままの制で、各配置につき、城壁を固めていた。
「北ノ庄殿がっ。――ただ今、御城門へ見えられました」
 大手の番兵から、奥へ、こう大声で伝令があった。勝家がここへ立ち寄ったというものらしい。
「なに。匠作殿(勝家)が城門へ見えられたとか」
 折ふし、やぐらにあった利家は、大手からの知らせを聞いて、憮然ぶぜんつぶやいた。
 意外ならぬ容子でもあるが、また早くも、落人おちゅうどとなったその人を眼に描いて、会うに忍びない風でもある。
 ――沈思していたが、
「お迎えに出よう」
 子息利長と、居合わす幕将四、五を伴って、歩みかけた。
「父上」
 やぐらの降り口で、利長が云った。
「お迎えには、私一名が先へせ参って、お玄関まで御案内つかまつりましょう。お父上には、そこでお待ちうけあっては……」
「お。……そうしようか」
「そう致しましょう」
 櫓梯子やぐらばしごは急で足下も暗く、三層も階を重ねている。利長は、ととととと先へ駈け降りて行った。
 後から降りてゆく利家の足は、歩々、ものを思いつつ運んでいるようだった。最後の階段を降り、堂のような太柱が幾本となく暗闇に立っている武者溜りの歩廊へ来たときである。
 扈従こじゅうのうちの、村井又兵衛長頼ながよりが、つと、利家の後にすり寄って、
「……殿」
 と、たもとを引くようにささやいた。
 眼だけで、何か? ――と長頼の顔を見た。
 長頼は、さらに、主の耳へあごを近づけて、
「折も折。……これへ北ノ庄どののお立寄りあるは、またなき倖せ、討ち止めて、その首級を、筑前どのへお送りあらば、御当家と羽柴家とのお仲も、難なく御和解を見られましょうに」
 と、かしこげに、献策した。
 すると利家は、やにわに、又兵衛長頼の胸いたを、どんと押し叩いて、
「だまりおろうっ」
 と、怖ろしい声で叱った。
 長頼は、よろよろと、後ろの板壁まで行って、からくも尻餅をまぬがれた。真っ蒼な顔をして、立ち直すことも、下に坐すことも忘れていた。
 それをにらめすえながら、利家はなお余憤よふんのさめぬような語気で云った。
「非義、卑劣、口にするも恥ずべき邪謀じゃぼうを、主の耳にささやくなど、沙汰の限りな奴! 士にして士道を知らざる奴めが! ……誰か、門を叩く窮将きゅうしょうの首を売って、自家の経営に利せんとする者ぞ。まして、如何あろうと、勝家と利家とは、多年同陣の人。たわけをいうも、事にこそよれ。――つつしめっ」
 おののく影をあとにおいて、利家は、そのまま勝家を迎えるため、玄関へ出て行った。
 たたずんでいるほどの間もなく、勝家は馬上のまま通って来た。切り折った槍の柄を片手にもち、負傷している容子はないが、満面いや満身、悽愴せいそうの気にまみれている。
 その馬の口輪くちわは、迎えに走った子息利長が握って、親切にみずから案内して来たのである。供の八騎は、中門外に残して来たとみえ、これは勝家一騎だった。
「御子息。……恐縮恐縮」
 世辞よく、馬から降りて、そこで利家の顔を見ると、まず自嘲じちょうするように、こう大声で云った。
「負けたわ負けたわ。……無念ながらかくの如しじゃ」
 思いのほか元気であるのだ。いや、そう見せている勝家なのかも知れないが、とにかく見ぬ前に、利家が想像していたよりは、はるかに磊落らいらくな風である。
「まずまず。……さ、そのまま、そのまま」
 利家は、この敗将を迎えるに、日頃以上、ねんごろだった。子息の利長も、父に劣らぬ誠意をもって、この落人の血にまみれた草鞋わらじの片方を解いてやりなどする。
「やれやれ。……わが家に帰ったようなここちだわ」
 かかるときの人の温情が、滅失の淵にある人に真実の感動を与え他を恨む心や猜疑さいぎを捨てさせ、なお世に光を思わせる唯一の救いであるはいうまでもない。
 よほどうれしかったとみえ、勝家は本丸に通ってからも、父子の無事を祝して、
「このたびの敗れは、すべてこれ、の落度にほかならぬ。御辺にも、るいわずらわしたが、ゆるされい」
 と、率直に詫び、
「――ともあれ、北ノ庄まで落ちいて、心措こころおきなく始末、きれいに、所存しょぞんを遂げたいと思う。……この上の御造作ごぞうさじゃが、湯漬を一椀いちわん、馳走して賜わるまいか」
 さしもの鬼が、ほとけ柴田となったようなことばである。
 利家も、涙なきを得なかった。――子息をして、
「すぐ、お湯漬を持て。いうまでもない、一献いっこん、何はなくとも共に」
 と支度をいそがせ、さて、慰めることばもなかったが、
「よくいわれることですが、勝敗は兵家の常。きょうの御無念は万々お察しされるものの、大きく、宇宙の輪廻りんねかられば、そもそも、勝つもおごれば亡ぶ日の一歩、敗るるもてっすれば勝つ日の一歩。――興亡の流転るてん一朝いっちょうの悲喜のとおりではありませぬ」
 などと他事なく語りかけると、勝家ははや利家のいわんとするところを悟って、
「さればよ、惜しいのは、つるなき、流転の移りなき、名のみではある……が、又左殿、安んじておくりゃれ。決定けつじょうはつけておるで」
 そういうのも、至極自然であって、日頃の勝家とちがい、今はまったく、いらち迷っているふうもない。
 銚子が来ると、快く一献み、おそらくこれが別れであろうと、利家父子にも酌し、さて、利家の給仕で、サラサラと湯漬を一椀喰べ終ると、
「生涯の馳走、きょうの湯漬にくものはなかった。いかい造作ぞうさをかけた。忘れはおかぬ」
 と倉皇そうこう、暇乞いをつげて、元の玄関へと歩いた。
 利家は、外まで送って出て、勝家の乗馬のひどく疲れているのを見、
うまやからわしの葦毛あしげを曳いて来い」
 と、小姓にいいつけ、自身の愛馬をもって、勝家にすすめた上、ふたたび利長に口輪くちわを取らせて、
「万一あってはならぬ。城外の町屋端れまで、そうしてお見送り申せ」
 と、命じた。
 そしてなお、馬上の人へ、
「北ノ庄へお入りあるまでは、ここの防ぎお気づかいなく」
 と、特に告げた。
 勝家は、いちど去りかけたが、ふと何か思い出したように、また駒を戻して、利家のそばへ寄った。
 相別れて、いちど去りかけながら、また別れを告げ直しに戻って来た勝家の意は、こうであった。
「又左どの。――御辺と筑州とは、若年からの、ふたつなき別懇べっこん。戦いかくなるからは、この匠作に義理遠慮ははやり申さぬ。御分別よろしくあれや」
 彼のこの言葉は、利家にたいする最後のものとして、彼の最大な好意と、今日までの感謝をあらわしたものにちがいない。
 馬上の顔は、いつわりなくそれを表情していた。利家は、
「恐れ入る」
 と、その心にむかって、心から辞儀をした。
 城門を出る勝家の影を、夕陽の赤さは特に濃く浮かせてゆく。馬上の供八騎、歩卒十数名という微々たる残軍の列はこうして北ノ庄へ落ちて行った。
 利長は、父のいいつけなので、勝家の馬の口輪を取って従い、勝家が幾度か、
「もうよい。お帰りあれ」
 と、気のどくがっていうにもかかわらず、万一の変を思って、府中の町屋端れまで、送って来た。
 途中、勝家は、城下町の新屋敷など見て、
「ここも、おもとの治政で、見ちがえるばかり繁昌になって来たの。いくさもむずかしい、領治のむずかしさは格別、父上にお習いなされよ。勝家におならいあるな」
 と、さりげない馬上からの四方山よもやまばなしをしかけたり、折々、戯れをいって、利長を笑わせたりして行った。
 城下はずれまで来たので、利長は口輪を供の者に譲り、
「ごきげんよう。……では、ここにて」
 と、別れて帰った。
 父は、勝家の去った本丸の一室に、寂として、独り坐っていた。
「――御無事に、お送り申し上げて、戻りました」
「そうか」
 とのみであった。――感慨何を思うか、利家はなお黙然たる姿だった。
 二十一日の府中城はこうして暮れかけていた。――時に、秀吉の羽柴軍はすでにとち峠の国境を続々越え、この府中と一路つながる板取、孫谷、落合などへ駸々しんしんと近づきつつあったことは、まだここには分っていなかった。
「父上、燭をお持ちしましょうか」
「いや、ここには要らぬ。――こよいはやぐらにおらねばならぬ。そちも大手の守りについて、しかと怠るな。とかく疲れておる将士じゃ。そちのゆるみは皆の弛みなるぞ」
「はい……では」
「わしも櫓に立とう」
 共に、そこを出た。その時であった。
 櫓下の暗い歩廊で、
阿呆あほうっ、阿呆っ」
 ふいに、井戸の底でするような声が、がんがん響いた。
「――いけない、いけない、離すものか。イヤ離さぬ。こんな所で、犬死しようとするような阿呆、まいちど、頭から叱られるがいい。……さあ叔父上の前へ来い」
 必死の声をしぼっているようでもあり、またどこかひょうきんな調子にも聞えないではない。
「……誰じゃ、あの叫びは」
 利家がきき耳たてると、利長はすぐ答えた。
「慶次郎です。慶次にちがいございませぬ」
 声、物音の方へ、利家は歩いて行った。櫓下の武者だまりに通ずる真っ暗な歩廊であった。ひとみをらすと、おいの慶次郎が、ひとりの武者をらっしていた。
「さあ、来い。来いッてば」
 無性にその腕くびを引っ張っているらしいのである。
 武者が、本気で争うならば、まだなりの小さい、十四歳の慶次郎の手を払うが如きは、何の造作でもあるまいが、主人の甥というところに、低頭平身、なすままになりながら、ただその無下むげな意志だけをこばみぬいているのである。
「慶次郎ではないか、何をわめいておる」
「ア、叔父御。よいところへお越し下さいました」
「たれだ。そちがとらえておる者は」
「又兵衛です」
「なに、長頼ながよりじゃと」
「ええ、さっき、叔父さまが、櫓梯子やぐらばしごの下で、かんかんにお叱りになった又兵衛長頼です。叔父さま、もう一ぺん叱ってやってください。又兵衛は、大莫迦ばか者ですから」
「そちこそわらべのくせに、何をいう。……長頼があれから、どうかしたというのか」
「そこで、腹を切ろうとしたんです」
「ふむ。……そして」
「止めました。わたくしが」
「なぜ止めた」
「だって……」
 慶次郎は、さかしげな鼻の穴をつんと上へ向けた。そして叔父の意を解しかねるといった顔つきで抗弁こうべんした。
「さむらいのくせに、犬死するなんて、勿体ないじゃありませんか。腹も切りどころがあるでしょう。主君にお叱言こごとをいわれ、面目ないからといって、いちいち腹を切っていたら、この慶次郎なんか毎日、腹を切っていなければなりません」
「ハハハ。慶次がまたおかしなことを申しおります」
 父のうしろにいた利長は、これを機に、長頼の詫びがかなえば――と、前へ出て、わざと、父の話を横から取った。
「慶次よ。そなたは、どうしてここにいたのか」
「さっきから。――隠れて」
「隠れて?」
「又兵衛が叔父さまに叱られたとき、これは、きっと腹を切るぞと思ったから、あの柱の蔭に行って、ひとりでそっと見ていたんです」
「ハハハ。悪戯いたずらもするが、賢いやつ。……父上、慶次までが、こう案じておりまする。長頼の最前の失言は、どうぞゆるしてあげて下さいませ」
 慶次も一緒になって、長頼のために詫びた。
「叔父さまの許へ引張って行って、もう一度、叱っていただこうと思ったのです。又兵衛を堪忍してあげて下さい」
 利家は黙然としたまま、ゆるすとも許さぬともいわなかった。――が、やがて、又兵衛長頼へ、直接こういった。
「長頼、恨むなよ。わしを」
 又兵衛は、意外に打たれて、床にひたいをすりつけ、嗚咽おえつに似た声でさけんだ。
「な、なにを仰せられますっ。慚愧ざんきにたえませぬ。ただ、死を仰せつけられませ」
「主君を思えばこそいうそちの言だ。何の、しく聞こう。……が善意の献言も、時により主家を危ううすることもある。かつは、余人の示しにも叱ったことじゃ。いつまで根に持たいでもよい。忘れろ、忘れろ」
 村井長頼は、感涙にぬれまみれたおもてを、いつまでも、上げ得ないでいた。
 慶次郎は、彼がゆるされたと見ると、すぐどこかへ、飛んで行ってしまった。寸時といえども、時をむだなく遊びねている少年だった。
 もう十四歳にもなるので、初陣にも連れて出ていい頃であるが、利家は、兄の子という預かり者に万一があってはと思うのか、または人いちばい才はじけたところのあるおいの素質を見て、時を選んでいるのか、やかましいこともいわず、ほとんど、放ち飼いの小鳥のように、天性にまかせていた。
 その慶次郎は忽ち、やぐらの上へ駈けのぼっていたとみえ、
「ああ、見える見える」
 何か、大声を放っていたが、ふたたび駈け下りて来ると、頻りに利家父子のすがたを捜しているふうだった。
 利家は、利長、長頼をつれて、広庭の幕舎へ向って歩いていた。
「御叔父。敵が見えますよ。敵が」
 慶次郎は、追いついて、少年らしい興奮を見せた。――望楼ぼうろうへ上って、東の方を見ると、北陸街道に沿う脇本の辺に、羽柴方の一軍が早や旌旗せいきを現わして来た、と告げるのであった。
 そのことはいま、物見櫓の者からすぐ聯絡れんらくがあったので、利家は、彼に聞くまでもなく知っていた。しかしその一軍が、秀吉自身の先駆して来たものか、他の部将の先鋒隊かについては、まだ詳報しょうほうはない。
「慶次。うるさいぞ」
 黙って歩いてゆく父に代って、利長が、睨むような眼を見せた。
 だが、従兄弟の利長では、この少年に、何の効き目もないのみか、却って、慶次郎の好い相手にされるばかりだった。
「孫四郎(利長)さま。合戦は、今夜始まりそうですか。いつでも、いつでも、御叔父はわしを連れて行って下さらないけれど、ここでいくさが始まれば、おゆるしがなくたって、今度は慶次郎も戦に加われる。わしは孫四郎様にだって、負けないぞ」
「うるさいと申すに。そちは、西の丸の、母上の方へ行っておれ」
「女の中へなんか、いやなこった。戦だというのに」
「これっ、なぬか」
 利家は、振向いて、
「孫四郎。放っとけ放っとけ」
 慶次郎は、手をたたき、苦笑する従兄弟をはやした。と思うと、大庭の端れまで走って、そこから脇本方面を望み、敵のかがりに赤く染められている夜空へまるい眼をこらしていた。
 大手を駈けて来る二、三騎があった。物見組の者らしく、すぐ城門の内へかくれ、やがて利家のいる幕舎へ姿をかくした。
 詳報は、物頭たちの口々から、すぐ全城の者に知れ渡った。
「こよい、脇本に営した敵は、堀秀政の先鋒で、秀吉は、後方の今庄に宿陣したらしい。何ぶん長途一気に疾駆して来た兵だから、すぐに、このお城にせて来るおそれは万々ないが、何をやるか知れぬ羽柴勢のこと。明け方は、警戒を要する」
 府中城の将士は、さきに村井又兵衛長頼が、いたく叱責しっせきされた噂を耳にしているので、それをもって利家の心を推し、秀吉を寄せつけて、ここに興亡一挙の勝敗を果さんものと見、まぬがれ難き籠城戦を、みな心に覚悟していた。

いえつま


 一夜を、いや、ほんの半夜を、今庄に快睡した秀吉は、翌二十二日には、早くも営を立って、脇本まで馬を進めていた。
 堀秀政が出迎えた。馬印をもすぐ受けて、そこに立てた。総帥そうすいの在るを示して、この先鋒隊の位置が、そく、中軍となったことをあらわすのであった。
「昨夜中、府中城のうごきは、どうあったか」
 秀吉の問いに、
「別条もございませぬ」
 と、秀政は答え、
「しかし、なかなか意気まいておるやに見られまする」
 と、いい足した。
「ふうむ、固めておるか。筑前との一戦必至と」
 自問自答して、秀吉は、そこの丘から、府中の方角を見ていたが、唐突に、
「久太郎、要意せい」
 と、布令をうながした。
「御出馬で」
「もとより」
 坦々たんたんの大道を望むようなうなずきであった。秀政はすぐこれを秀吉の各部将に達し、また自身の先鋒隊にも貝触れを出して、まもなく、きのうの通りな序列で行軍を起した。
 府中までは一刻いっときを要さない。秀吉は久太郎秀政を先駆させて、先鋒のうちに在った。はや城壁が見える。城方の緊迫はいうまでもなかろう。位置をかえて、城頭から望めば、駸々しんしんと迫って来る兵馬の奔流と、千瓢せんぴょう馬印うまじるしは、さらに、手に取るように見えているはずである。
(――まれ)
 という令が出ない。秀吉の姿はなお馬上に見える。で、先鋒隊の将士は、さてはこのまますぐ包囲態勢につくものと思った。
 府中城の大手に向って、奔河ほんがの羽柴勢は、鶴翼かくよくのひらきを示した。そしてただ千瓢せんぴょうの馬印だけが、しばらく動かずにあった。
 そのとき、城の総構えが、ぱっと硝煙を吐いた。とたんに、つるべ撃ちの銃声である。
 秀吉は、秀政へ、
「久太郎、もすこし、後へ退けい、後へ」
 と、兵の後退を命じた。
 そして、また、
「兵をひらくな、陣形を取らず、一所にまとめ、まんまると、無態むたいの態にもどせ」
 と、備えを変えさせた。いや、備えをなくさせたのである。
 先手の兵が、射程距離の外へ退がったので、自然、城方の鉄砲もやんだ。が、相互の戦気は、まさに、一触即発の寸前にあるかに見えた。
「たれぞ、馬印を持って筑前の行く前を、十間ばかり隔てて、真ッすぐに先へ駈けよ。――口取りは、無用じゃ、秀吉ひとりして、これより城中へ参るほどに」
 前もって、誰へ意中を告げるでもなかった。彼は不意に馬上からこう云い出したのだ。そして、諸将の愕然がくぜんさわぐ顔を、事もなげに見捨てて、すぐトコトコとひとり駒を進め、大手の城際へ向って行く。
「しばらくっ。――お先に立ちますれば、しばらくお待ちを」
 のめるように、それを追いかけた一士が、からくも、十間ほど先へ越して、命じられた馬印をかざして駈けると、忽ち、その金瓢きんぴょうへ向って、数発の弾丸が飛んで来た。
「撃つな、撃つな」
 馬上、大声をあげながら、そのたまの来る方へと、敢えて、駈けてゆく一騎は、一箭いっせんの飛ぶような姿でもあった。
「筑前を、見知らぬか」
 近々と、城門の際まで寄ると、彼は腰の金采きんさいを抜いて、城兵へ振り示した。
「これは、筑前守ぞや。見知りおる者もあろう。鉄砲は撃つな撃つな」
 大手大門わきの矢倉にいた高畠石見いわみと奥村助右衛門のふたりは、あっ、と驚いた様子で、矢倉から飛んで降りた。そして内から門扉もんぴを押し開くと、
「羽柴殿におわせしか」
 さも、意外らしい顔のまま、挨拶にこうじている態だった。
 二人は、顔見知りの者だった。秀吉ははや馬から降りていたが、われから歩み寄って、
「又左は、帰ったか」
 と、問い、かさねて、
「――又左衛門父子共に、別条はないか。無事帰城いたしたか」
 と、見舞うように訊いた。
 奥村助右衛門が、
「されば、お二方ともつつがなく、御帰城されておりまする」
 と、答えると、秀吉は、
「そうか。よかったよかった。それ聞いて、いささか安堵あんど。――助右、石見いわみ。わしの馬を曳いて来い」
 馬の口を、二人へ渡すと、秀吉はあだかも、わが家来をつれてわが家へでも入るように、さっさと、城門の中へ入って来た。
 総構そうがまえにっている甲冑かっちゅうのむらがりは、茫然ぼうぜんと、この一箇の振舞いに気をのまれていた、――また、利家父子の姿も、ほとんど時をひとつに、彼方から駈けて来た。
 そして、相近づくや、
「おおこれはこれは」
「やあ、又左か」
 というようなわけである。たくむのでもなく、いていうのでもない。年来の友と友とのありのままに、
「どう召された」
 と、一方がいえば、一方の又左衛門利家も、
「どうもせぬわ」
 と、一笑に云い放ち、
「まず、こうござれ」
 と、子息利長と共に、先に立って、本丸内へ迎え入れた。
 しかも、わざと、かたくるしい大玄関は避けて、露地門を押開き、庭づたいに、杜若かきつばたの紫を見、白つつじの咲く間を縫い、奥書院へじかに導いて行くふうだった。
 これはまったく内輪うちわの客あつかいといっていい。むかし、垣一重かきひとえの隣り合わせに住んでいた頃の往来も、こうだったのである。秀吉もまた、この粗にして親しい扱いを、むかし懐かしくよろこびながら、やがて利家が、
「さあ、これへ」
 と、書院の上にしょうじても、わらじを解かず、たたずみ見まわして、
「彼方の囲い内に見ゆる一棟は、お台所らしいが」
 と訊ね、利家が、そうだと答えると、
「――ではまず、御内儀ごないぎに会い申そう。御内儀は在るや」
 と、そこから声をかけながら、早や台所の方へずかずかと歩き出していた。
 利家は、おどろいた。
 妻に会ってくれるなら、いまこれへ呼ぶから――という間もなかったし、台所へなど行ってはいけないともいえなかった。
 で、あわてて子息利長へ、
「孫四郎、御案内に立て。はよう行け」
 と秀吉のあとを追わせ、自身は書院から廊下を出て、妻へ知らすべく奥へ急いだ。
 より以上、びっくりしたのは、本丸の大台所に働いていた台所役人や、庖丁人ほうちょうにんやおしもおんなたちであったろう。
 ふいに、のっそりと、柿色の陣羽織を着た――武者にしても小づくりな一将が「やあ」と土間の内へ入って来たと思うと、そこの大勢を見まわして、
「又左の御前ごぜんはおられぬか。御内室はどこにおらるる」
 と、馴々なれなれしげにわめくではないか。
 ここには、誰も、彼を彼と知る者はない。――が、腰にたばさんでいるさいや太刀づくりは誰の眼にもただの部将とは見えない。どうしても大将である。しかも味方の内では見たこともない大将だ。
「……?」
 初めは、みな怪訝けげんな顔をしていたが、金采装剣きんさいそうけんの威を見て、はっと、一斉に下に退さがった。
「又左の御前。又左の御前。……筑前じゃ。顔をお見せなされ」
 秀吉はなお台所部屋の奥へ向ってこう呼びぬく。
 ちょうど、膳部屋の物片づけに、召使い達と共に立ち働いていた利家の夫人は、ふと、それを耳にして、
(誰ぞ?)
 と、あやしみながら、腰衣こしぎぬたすきがけのまま、何気なくそこへ出て来た。
 そして、秀吉の姿を、突然そこに見たときの、彼女の驚きようといっては、どう形容すべくもない。
「あれっ……?」
 としばし、眼をまるくしたまま、立ちつくし、
「まあ、これは、夢ではございませんでしょうか」
 と、いった。
「御内儀、久しいなあ。――さてさて、いつもお達者で、めでたい」
 秀吉が歩みよると、彼女も初めて、われに返り、襷をはずして、板床の下へ退った。そして、まずまずと、身を低めてしょうじたが、秀吉は無造作に、大土間のかまちに腰をすえこみ、
「御内儀の顔を見て、何よりも先に聞かせたいのは、播磨はりまにある娘(利家のむすめを秀吉の養女とせる者)も、姫路の女どもと打ち交じり、至極、息災そくさいに成人したる由じゃ。御安堵あるがよいぞ。――また、この度は、亭主又左衛門殿も、辛い御出陣と相見えたが、進退まどいなく、退きの切ッ先も烈しく、前田一陣のみにおいては、戦にも、負けなしと申してよかろう。これも、めでたい。御亭主の武運は、まず上首尾よ。御内儀、よろこばれい」
「……あ。ありがとうござりまする」
 彼女は、ひれ伏した額の下でをあわせた。
 ところへ、夫人を奥の方にさがし求めていた利家が、ようやくここに見えて、
「ここでは、端ぢかも端ぢか、余りにお粗末すぎる。ともあれ、どちらからでも、お草鞋わらじをお解きあって、まずまず上へ――」
 と、夫妻して、手もとらぬばかりすすめたが、秀吉は、依然“立ち寄りの客”の気がるさで、
「北ノ庄へ急ぐ途中、ゆるりとも致しかねる。だが、御意にあまえて、冷飯なと一膳たまわろうか」
「――おやすいことではあるが、それにしても、書院か数寄屋すきやへでも、ちょっと、お上がりなされて……」
 と、一家を挙げて、秀吉の小憩を乞うたが、彼は、
「他日もある。きょうは早速こそよけれじゃ、御内儀、所望は冷飯一膳、ただ手軽うたまわれ」
 とのみ、草鞋を脱いで、くつろごうとするふうもない。
 秀吉の気性は、好いも悪いも知りぬいている夫妻である。義務や恰好が価値を持つほど水臭い仲でも元々ない。
「はい。……ではざっと差上げましょう」
 利家の夫人、いちど外したたすきをかけ直して、自身、調理場の水瓶みずがめ俎板まないたの前に立った。
 一城の大台所である。たくさんな庖丁人や下婢小者もいる。台所奉行さえいる。けれど、煮炊にたきはできない、香の物の刻み方は知らないというような奥方ではなかった。
 きのうも今日も、負傷した将士へは、自身、その手当を見、食事の世話も、これへ来て、手ずから調理していたほどな夫人である。事なき日でも、良人の好みのために、調味や庖丁に親しむことは決して珍しいことではない。
 貧しい日こそ人をつくる。殊に女の教養は、貧苦窮乏の冬日をこえて来た風雪の薫香くんこうでなければ、まことに根のないばなのそれにひとしい。
 秀吉は、この夫人がむかしに変らず、襷がけで立ち働く姿を、何か清々すがすがした心地で見とれていた。
 いまでこそ、この家も、能登のと七尾ななおに一城、この府中に一城、父子両方で二十二万石の雄藩をなしているが、清洲時代の貧乏は、隣の藤吉郎の家にも負けないくるしさで、米の一升借りはおろか、塩の一握りや、一夕いっせきともさえ、あったりなかったりで、
(おや、今夜は明りがついておるぞ)
 と、隣家の富有な日が、すぐそれでも分るくらいな時もあった家である。
 ――が、その頃の苦節が、何と今日のこの奥方姿にあやうげのない香気となって生かされて来たことか。根のしっかりした教養美となって現われて来たことか。秀吉は、自分たち夫婦のその頃の生活も思い出されて、
(わが家の寧子ねねにも劣らぬ女房――)
 と、心から見入ってしまった容子ようすであった。
 が、それもつか、利家の夫人は、忽ち、二品、三品、何かの菜を作り終えると、
「さ、こちらへ」
 と、その膳部を、わが手にささげて、台所から外へ出て行った。
 食物の行くところ、秀吉も、従わざるを得ない。
 夫人はさっさとかまど部屋の横を通り、煤色すすいろのこの囲いから外へ出た。西の丸へつづく庭山の辺り、赤松の疎林の下の一亭である。
 後からいて来た侍女こしもとたちは、すぐ附近の山芝のうえに毛氈もうせんを敷き、またほかに二つの膳部と銚子とを運んで来た。
「いかにお急ぎでも、あなた様へだけ、御膳をさし上げるわけにはまいりませぬ」
「やあ、御亭主と御子息も、御相伴ごしょうばんくださるか、それは一だんかたじけない」
「野座敷にて、腰兵糧でも解くおつもりで……さ、どうぞ」
 秀吉と対して、利家もそれへ坐った。
 利長は、銚子を捧げた。
 一亭はあるが、一亭は用いず、松風は吹けど、松風も耳外にいていた。酒は一酌をこえるなく、秀吉は、利家の妻が心入れの菜と冷飯二杯ほどを、そこそこ喰べすまして、
「満足満足。ねがわくば、この上にもじゃが、茶を※(「怨」の「心」に代えて「皿」、第3水準1-88-72)いちわん
 と求めた。
 亭には、用意がある。夫人はすぐそこへ寄って、汲み出して一※(「怨」の「心」に代えて「皿」、第3水準1-88-72)を供した。
「さて、御内儀」
 と、秀吉はそれをみながらの談合顔でいう。
「いろいろ、お造作にあずかったが、事のついでに、これより御亭主の又左どのをやとうて参りたいが、どうあろう、女房どのには」
 あっさりした話である。
 が、もしこれを、羽柴方から前田家への、正面からの交渉と仮定してみたら、問題はまことに重大である。
 当然、武門としての、体面上の問題も起り得るし、内部的には、意見の分裂も生じない限りはない。下手へたをすれば、成るか成らぬかの極めて危険な状態にも立ち至るだろう。何分、城壁ひとえの内と外では、両勢とも満を持して、いつでも火ぶたを切るばかりに対峙たいじしているところである。なお第一には、それでは多くの“時”を要する。
「ホ、ホ、ホ、ホ」
 夫人は、晴れやかに笑った。
 そしていうのであった。
「久しぶりに、亭主を借せ、のお口癖を伺いました。むかしから、宿の亭主を借りてゆくぞ――は、あなた様の、毎度の奥の手でいらっしゃいましたが」
「はははは」
 秀吉も笑い、利家も笑った。
「のう、又左。女は古い遺恨とてなかなか忘れおらぬとみゆる。よく、おぬしを借り物にして飲みに出たことを、まだ、今のように申す。……ははは、御内儀、お湯加減はよろしかったが、ちと、にごうござったぞ」
 と、※(「怨」の「心」に代えて「皿」、第3水準1-88-72)ちゃわんをもどして――
「が、むかしとちがう今日のはなし。御内儀に異存なくば、亭主にも否やあるまい。ぜひ北ノ庄へ同道なつかまつろう。――御子息孫四郎どのは、おふくろ様のとぎに、あとへ残し置かるるがよい」
 談笑の間、事はすでに、きまったものと見、秀吉はどしどし独りぎめにきめていた。
「そこで、御子息はのこすも、御亭主にはぜひ、先駆けして欲しいものよ。又左は戦巧者いくさこうじゃくらぶべき者はない。――そして、めでたく帰陣の日には、ふたたびここに立ち寄り、その折は、御内儀が迷惑と申されても、五三日も逗留、ずいぶんわがままもして見しょう所存じゃ。いまより馳走を頼みおくぞ。……どれ、明朝の発向、暇もなければ、今日はこれで」
 と、秀吉は早や立って別れをつげた。
 一家の者は台所口まで送って行った。その途中で、夫人は云った。
「孫四郎は、おふくろのとぎに残せとの、仰せではございましたが、わたくしはまだそんな年でも、そんな淋しがりやでもございませぬ。城の留守にも、守るに案じのない武者も多くおりますことゆえ、どうぞ、あるじと共におつれ遊ばして下さいませ」
 利家も、それに同意だった。
 翌朝出立の時刻も、打合わせも、秀吉と家族の者の忙しい歩みの間にきまっていた。
「次のお立寄りを、きっとお待ち申しておりまする」
 夫人は、台所口に留まって見送り、父子はなお、大手まで送って行った。

虞氏ぐし楚王そおう


 彼が、前田家を辞して、城外の自陣へ帰った当夜である。
 営所へ、柴田方の大物ふたりまでが、捕虜となって曳かれて来た。
 一名は、佐久間玄蕃允盛政げんばのじょうもりまさ
 もうひとりは、勝家の養子、柴田勝敏であった。
 いずれも、山づたいに北ノ庄まで落ちて行こうとする途中捕われたものという。
 玄蕃允は、負傷していた。夏は破傷風はしょうふうをおこしてすぐのうを持つ。落武者のよく用いる非常療法に灸治きゅうじがある。玄蕃允も、山中の農家へ立ち寄って、
もぐさをくれぬか)
 と、頼み、傷口のまわりへ、所きらわず灸をすえた。
 原始的な療法に似ているが、うじのわくほどな大傷も、それによると細胞や皮肉の快復が著しく強力になるという。また、当時の武者輩も、革足袋かわたび、武者わらんじで湖沼を跋渉ばっしょうしたりした後など、足に水むしを病む者が多かったが、それにもよく灸は用いられた。傷口の場合と同じように、水むしの陣地を、灸で包囲し、病巣を火攻めで殲滅せんめつしつくすのである。
 玄蕃允が、他念なく、灸をすえている間に、土地の百姓は、ひそかに語らい合い、
つかまえて、褒美にあずかろうではないか)
 と、その夜、二将を泊めて、寝小屋を包囲し、猪縛いのしししばりにして、曳いて来たものだった。
 秀吉は、それを聞いて、
(大出来といいたいが、百姓にしては、出来過ぎている所業――)
 と、あまり喜悦の様子もなく、却って、百姓たちの期待とはまったく反対な厳科をもって彼らにむくうたことは先に記したとおりである。
 翌二十三日。
 秀吉は、いよいよ、勝家の本拠地、北ノ庄へ馬を進めた。
 前田父子も、参加した。
 この日も、先鋒せんぽうは堀久太郎秀政。
 府中から北ノ庄までは、行程わずか五里余りである。当日午後にはもう越前第一の都府、北ノ庄の城下は、九頭龍川くずりゅうがわほとりにも、足羽山あすわやまの要地にも、秀吉方の兵馬を充満していたのであった。
 途中、徳山則秀のりひでの一族や、不破光治ふわみつはる(勝光の父)などの、すでに風を望んで、陣門に降って来た者もすくなくない。
 秀吉は、足羽山に陣し、水も漏らさぬさしずを下して、北ノ庄城を完全に包囲させた。
 それの成るやいな、秀政の一隊をもって、外廓の一端を破らせた。
 そして、昨夜、生けりとした玄蕃允げんばのじょう盛政と、勝敏とを、城壁の近くへ曳き出して、
匠作しょうさくどの、これ見給え」
 と、攻めつづみを打って、城中にある勝家の耳を責めた。
「御子息、権六勝敏どの。ならびに、玄蕃允盛政も、はやかくの如し。何ぞ、最期の御一言にてもありたくば、それへ出て申されい」
 二度、三度、呼ばわらせたが、城中は寂たるままで、何の答えもない。相見るに忍びずとしてか、勝家も姿を現わさなかった。――もちろんこれは秀吉が、戦わずして城兵の士気を沮喪そそうせしめんとした策たることは明らかである。
 勝家はその前日、途上、前田利家と一別をつげて、北ノ庄へ帰ってはいたが、夜へかけて散り散りに還って来た残兵、留守居衆、非戦闘員など合わせても、およそ三千人を出なかった。
 加うるに今、玄蕃允と勝敏が、敵の手に捕われていたのを知っては――さすがの勝家も、
(わが事やむ)
 と、観念のほかなかったであろう。
 寄手の攻め鼓はやまない。夕方までには、外廓の総構えもことごとく破られて、城壁を隔つことわずか十五間か二十間の近くまで満地すべてこれ羽柴勢の甲冑かっちゅうとなっていた。
 にもかかわらず、城内は、依然として静かなままだった。そのうちに寄手の攻め鼓も休み、夜に入って、城中と城外に、使者らしき部将の往来があったりしたので、
(さては、勝家助命の運動か、降伏の使者か)
 などの噂もかれたが、また、そうでもないらしい城中の空気でもあった。
 宵過ぎると、それまで、墨のようであった本丸に、華々と、灯がともり出した。北曲輪にも西の丸にもである。いや、必死の武者ばらが防戦に夜詰しているやぐらにさえ、狭間はざま狭間にさえ明るい灯がえている。
「はて?」
 寄手は不審がった。
 が――まもなくその謎は解かれた。
 鼓の音が聞えて来たからである――また笛の音が流れて来たからである。さらに、北国なまりを帯びた郷土の唄まで聞えて来たので、
「おお読めた。城中では、こよいを最後と、あわれ、名残の宴を楽しんでおるものとみゆるわ」
 城外の寄手すら、この夜は、多感なるものがあった。
 ――想い起される永禄の頃。
 当時の、織田幕将のひとり柴田権六勝家が、江州長光寺の城にって、佐々木承禎じょうていの強兵八千の包囲猛攻をうけ、ついにその水の手を断たれても、なお、
(――水は銅盤どうばんにたたえて、庭上に捨つるほどあり)
 の態を、誘降の敵使に示し、敵使のどぎもを抜いて追い返した――あの若き権六勝家の気概きがいや、いま何処いずこにある?
 なお。
 長光寺城中の実状、いよいよ水に窮し、兵馬みなかっして、乾き死なんとするや、蓄蔵の大瓶おおがめ三個の水を、枯喪こそうして生色なき城兵のまん中に担ぎ出させ、
けいら、渇望かつぼうの水、飽くほど飲むべし。これやこれ、末期まつごの水ぞ)
 と、そのむさぼるにまかせ、兵みなくちしずくし、眼底を濡らすを見るや、大薙刀おおなぎなたの石づきを、なおあませる巨瓶おおがめの腹にさし向け、
(瓶よ聞け、われら武門、いやしくも水に窮して、枯魚の如く死ぬべきや――。かわかばすするべし、敵兵万斛ばんこくの血しお!)
 と、豪語し、その大瓶を、粉ともなれとばかり、突き砕いた上、
(それ、出よ)
 と、城門を押し開いて、敵中へ斬り込み、必死一千のしのぎの火、却って八千の大軍を走らせ、死ぬべく斬って出た道を、却って、凱歌の大道として、意気揚々本国へ還って来たという――ああ、当年の瓶破柴田かめわりしばたの名は、そも、いまは何処にせ去ったか。
 今日の城方といえ、寄手といえ、もとはみな同じ織田麾下きかの将士である。勝家のむかしを知らぬ者はない。それだけに感無量なものがあった。
 この夜、北ノ庄の城中では、最後の饗宴がひらかれていた。本丸天守の内には、勝家と夫人、その女子たちを中心に、一族股肱ここうの歴々をあわせて、八十余名、咫尺しせきの外に敵軍をひかえながら、燭も明々と居流れていた。
「こうひとつにお揃いのことは、元日の御祝賀でもないことよの」
 中村文荷斎ぶんかさいの言に、これも一族の柴田弥右衛門が、笑って云った。
「明ければ、死出の元日。こよいは、この世の大つごもり……」
 燭の数も、人々の笑声も、日頃の宴とちがうところはない。ただよろい具足の列座であるだけが蕭殺しょうさつたる気をただよわせていないこともない。
 そのなかに、夫人お市の方と、妙齢十七を頭とする三人の息女たちのよそおいが、何かあり得ないものがあるようで、あざらかで、また余りに※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)ろうやかであった。
 わけて、十一という末姫が、膳部ぜんぶの馳走や人々の賑わいにはしゃいで、喰べちらしたり、姉に戯れたりしているのを見ると、死もよそに酒宴している武骨の輩も、折々、あらぬ方へ眼をやりがちであった。
 勝家も、すごしていた。何遍となく、誰彼へ、杯を与え、
玄蕃げんばも、おらば」
 と、ふと淋しさをもらしたが、たまたま、座中で玄蕃允の失敗を悔やんでいる者の言を聞くと、却って、
「玄蕃のとがめだては止めい。万々、この勝家の不覚にほかならぬ。――それを聞くは、勝家として、身を責めらるるより辛う思う」
 と、いった。
 そして殊さらに、飲め飲めと左右にすすめ、櫓々やぐらやぐらの武者たちへも、庫中の銘酒を豊富に配って、
「名残を存分にせよ。高吟こうぎんも苦しからず」
 と伝えさせた。
 櫓々から、唄が聞え、笑声が流れてくる。ここの勝家の前でも、鼓が鳴り、小舞の銀扇が、優雅な線を描いた。
「むかし、右府(信長)様には、何ぞというとすぐ立って舞われ、匠作しょうさくもせずやと、よういられたものじゃが、不器用をじ、つい致さなんだが、今にして思えば惜しいことを致したわ。こよいのためにも、せめて、一さしは、習うておくであったにのう」
 勝家は、そんな述懐じゅっかいを洩らした。
 思うに、彼の胸にはいま頻りに、旧主が懐かしまれていたのであろう。
 それと、また。
 当時の一卒猿面郎さるめんろうのために、かく絶望のほかない窮地に追い詰められたとはいえ、せめて世に恥なきような死に花だけでもと、ひそかに念じていたに違いない。
 彼やまだ五十四歳。武将としては、これからともいえるのに、往年の概もなく、いたずらに死に花のみを心がけて、
(この世の名残を尽さん)
 と、死の饗宴のみをいさぎよくしていたのは一体どうしたことだろう。座には、一族股肱ここうの者八十余名はあり、櫓々にはなお一死を辞せざる鉄甲二千以上は優に数えられるのに、賤ヶ嶽の一蹉跌さてつ以来、彼自身が自身のうちで“負けた”と観念していたことは、畢竟ひっきょうするに、玄蕃允の若気以上、北ノ庄滅亡の最大な敗因ではあるまいか。
 往年の彼を知るもの、誰か今日、柴田老いたりの歎なきを得よう。――長光寺城一砕の大甕おおがめも、ここに至っては、可惜あたら、何の精彩せいさいも見ることはできない。世間の土中に過去現在未来する無数の糞甕くそがめと、彼もまた変るところのない、一個の凡甕ぼんようと化していたのであろうか。
 杯はめぐり、まためぐり、数樽すうたるの酒も、夜とともにれてゆく。
 唄につづみあり、舞に銀扇あり、人に歓声笑語もあるが、いかんせん、悲愁の気ははらうことができない。
 折々、氷室ひむろのような沈黙と、夜気に墨を吐く燭のゆらめきが、座中八十余名の酔顔を、酒の気もないように白々と見せるのだった。
「まだ夜は深い。明けるには間もあり、城外の敵も、げきとしてひそまりおれば、充分にお過ごしなされ。――お心おきなく」
 小島若狭守わかさのかみひとりは、酒宴のうちも、たえず天守の廊を巡って、敵のうごきを監視していた。そして、心ゆくまで、名残を惜しまれよと、折々ここへ情況を告げていたのである。
 その若狭守の声だった。――それへ来たのは何者か、と室外でとがめている。答える者のことばには、新五郎でございまする、と聞えた。するとふたたび若狭守の声で、
「やっ、せがれかっ……。参ったるか……」
 と、いうのが聞えた。何か烈しくうけた感動を、抑えきれないような様子が、目に見ぬ室内の人々までハッとさせた。
「父上っ。……参りました」
 次のことばが聞えたとき、酒席の杯は、ことごとく下におかれていた。
(はて。誰であろう?)
 みな、眼と眼を見あわせた。勝家も、きき耳たてているふうだった。
 ――が、まもなく、静かな跫音あしおとが室のすぐ外まで来ていた。小島若狭守は自分のうしろに、ひとりの若者を連れていた。その若者のかぼそい武者姿を見たとき、勝家以下みな、ふたたび眼をみはってしまった。なぜならば、若狭守のうしろに見えたのは、久しい間、病身のため出仕もならず、家にあって療養していたため、誰の記憶にもいまは忘れられていた――若狭守の一男、当年十八歳の小島新五郎にちがいないからであった。
「おねがいにござりまする」
 父の若狭守は、勝家の前へ、こう平伏していた。
「愚息新五郎こと、永々御恩禄ごおんろくみながら、やまいのため、柳ヶ瀬表へも、御供つかまつらず、このまま、家にあるのは、無念と申し、薬餌やくじに別れをつげて馳せ参りました由。――何とぞせがれめにも、明日最期の御供、おゆるし下しおかれますように」
 勝家は感動にちた気色をうごかして、新五郎をひとみで招き、
「主従は、二世ぞ」
 と、即座に杯を与えた。
 この病若武者は、翌日、追手門の扉に、
小島若狭守男新五郎十八歳
柳ヶ瀬表に不参たりといえども今日忠義を全うする也
 と大書して、猛火と乱軍の中に奮戦し、生来の病骨も、その終りを、義に孝に、薫々くんくんたるものとして果てた。
 さきには毛受家照あり、いま小島新五郎があり、亡家の中にも、不亡の士魂は少なくなかった。
 かかる士魂を多く擁しながら、遂に、大厦たいかの崩壊を坐視のほかなきていにあった勝家の、家長としての自責はけだしどのようであったろう。――燭は三更、宴はまだ果てず、幼い息女たちは、母の膝にもたれたり、居眠ったりし始めていた。
 息女たちには、この宴も、やがて退屈にたえないものとなっていたらしい。
 末の姫は、いつか母の膝を枕にすやすや眠り入っていた。おいちかたは、その子の髪をまさぐりながら、終始、涙をこらえているに精いっぱいの容子に見える。
 中の姫もそろそろ居眠りをし始め、ただ姉姫の茶々ちゃちゃのみが、さすがに母の想いを察し、この夜の宴が何であるかをも知って、いじらしい程、えた面をしていた。
 母に似て、むすめ達は、みな美貌であったが、わけて姉姫の茶々は、織田家の血脈にある高貴な香を、その妙齢と、天質の美にあわせ備え、見る者の眼を傷ましめずにおかなかった。
 勝家は、ふと、
あどけなさよ」
 と、末姫の寝顔へいった。そしてこれらの弱い者、幼い者たちの身について、お市の方へ、こうはかった。
「お身は、信長公の御妹、この勝家のしつへ移られてからも、まだ一年には満たぬ御縁じゃ。――子らを連れて、夜明けぬ前に、城を出らるるがよい……。富永新六郎を添えて、秀吉の陣所まで届け参らそう」
 お市の方は、涙して答えた。
 否とよ……。と泣いていう。
 武門にとつぐからには、かかることに会うも、覚悟の前、宿命の業、今さら驚いてはおりませぬ。
 このにおいて、城を出よとは、むしろお情けないおことばです。筑前の陣門へ頼って、いのちを助からんなどは、思いもよらぬこと――とのみ、そでうちの面を振っているらしく眺められた。
 が、勝家は、かさねて、
「――いやいや、薄縁なこの勝家へ、御貞節はうれしく思うが、元々、三人の息女らも、浅井殿(長政)の遺子。また秀吉とても、主筋の御妹にあたらるる御許おもとら母子に、つれなかるべきはずもない。……そう致されよ、早々、お支度されよ」
 と、うながしてやまず、
「新六郎、これへ」
 と、座中の侍を呼び、意をふくませて、さらに、そのことをすすめたが、お市の方は、否とのみ、面を振って、どうしてもここを去らなかった。
「それまでのお志とあらば、無碍むげのお計らいも、却って如何でしょう。せめて、何も知らぬ姫君たちだけでも、おやかたの御意のように、御城外へ出し参らせては……」
 と、衆臣のひとしくいうことばに、彼女もそれには同意の容子ようすで、さらばと、膝に寝ていた末姫も揺り起し、にわかに、侍を添えて、城外へ送ることになった。
 茶々は、母にすがって、
「嫌じゃ……。嫌じゃ……、母様と御一緒に……」
 と、離るべくもない身もだえをなしたが、勝家に云い聞かされ、母にさとされ、なお狂わしきまで歎いてやまぬ姿を、侍の新六郎に隔てられて、むりやりに外へ伴われて行ってしまった。
 三人の息女たちの泣く声が、遠くに行くまで聞えた。夜はすでに四更に近かった。歓宴かんえんならぬ歓も尽き、武者たちは早や具足の革紐かわひもを締め直し、打物って、持場持場の最後の死所へ散り始めた。
 勝家夫妻と、一門数輩は、相携えて、本丸の奥へ移った。
 お市の方は、小机をよせて、辞世じせいの墨をすった。
 勝家も、歌ひとつ遺した。
 帳裡ちょうりしょくは、ほの暗く、楚王そおう虞氏ぐしの恨みもしのばれた。時鳥ほととぎすは明け近きを告げていた。

童女抄どうじょしょう


 同じ夜――
 夜は同じながら、人の夜はひとつでない。敗者、勝者、余りにも持つ明日はちがう。
 秀吉は、夕刻、足羽山あすわやまの本陣を、さらにすすめて、市街の一端、九頭龍川くずりゅうがわをうしろに、床几場しょうぎばをさだめ、
(夜の白み次第に、総がかりのこと――)
 と、万端の令をすませて、心しずかに、明くるを待っていた。
 市街もわりに平穏である。
 二、三箇所に火災は起ったが、これも兵燹へいせんではなく、狼狽した市民の過失火とわかっており、むしろこの大きなかがりをもって、城兵の奇襲を監視する便となすように、終夜、燃えるに委せてあった。
 宵に、秀吉から堀秀政へ渡されていた軍令は、すぐ五、六十通複写されて、
「陣々に、掲示するように」
 と、各番手の部将へ交付されていた。
 その箇条は次の通りである。
     オキテ之事
一 進退何事モ母衣ホロノ者、使番次第トシ、其法ニ依ルベキ事
一 濫妨ランバウカラズ、並ニ酒家ニ入ルマジキ事
一 マダケスマジキ事
一 勝利ニ誇ル可カラザル事
一 合戦ヲ心ニ備ヘ、夜討ノ用意アルベキ事
 宵から夜半までの間に、一時、陣々へも噂がひろまったように、秀吉の営内に、さまざまな人物の出入りがあったことは確かであり、そのため、勝家の助命運動が行われているとか、即時開城になるとか、取沙汰もあったが、夜半過ぎるも、当初の作戦方針には、何の変更も見なかった。
 早くも、陣々には、夜明け近きを思わせるものがうごいた。
 そのうちに、貝が鳴った。霧をやぶる太鼓の音が、鼕々とうとう、全陣地を揺るがし始めた。
 すでに東の空は明るい。
 総攻撃は、予定どおり、とらの一点(午前四時)の時刻も狂いなく開始されたのだ。城壁に面した先手の銃声からまずその火ぶたは切られ出した。
 バチバチと、凄まじい霧の中の音だったが――どうしたのか、その銃声も、一番手の喊声かんせいも、間もなく、はたんでしまったため、
「はて、何か?」
 と、すくなからず全軍の動きをためらわせた。
 そのとき、母衣ほろの者(伝令)が一騎――霧を衝いて、秀吉の床几場と、堀秀政の陣地とのあいだを、鞭打って往復していた。
 程なく。
 城外の柳の馬場から、三名の女子を伴った一名の敵の侍が、秀政の配下や母衣ほろの武者に導かれて、徒歩かちで、市街の方へ出て来るのが見られた。
「鉄砲止め。撃ち方止め」
 と、母衣の士だけは騎馬で、注意ぶかく先に触れて通った。
「オオ。城中から出て来た落し人か……」
 兵は、目をそばだてた。
 これが、信長のめいにあたる、三人の姫たちとは知らないまでも、霧に濡れゆく六ツのたもとの可憐さにみな見送っていた。
 姉は妹の手をひき、その妹は、末の妹をいたわりつつ、石ころ道を爪さき立てて歩いた。
 降人の作法として、穿ものを取らないのが礼なので、姫たちも、絹足袋のまま土を踏んでいた。
「痛い、痛い……」
 末の姫は、歩こうとしない。お城へ帰りたいとばかりいう。
 城中から付き添って出た富永新六郎は、だましすかして、背なかに負った。
「新六、どこへゆくの」
 背の姫は、おののくのだった。美しい死体を負っているような冷たさに、新六郎まで、生きた心地もなく涙で答えた。
「よい小父おじ様のいらっしゃる処へ――」
「嫌、嫌。……」
 末姫は、泣き出した。
 十三の姉、十七の姉は、ふたりして、懸命に慰める。
「後から、おかあさまも、おいで遊ばすでしょう。ネ……新六」
「え。いらっしゃいますとも」
 とつこうつ――ようやく、秀吉の陣所のある松原のほとりまで来た。
 秀吉は、帷幕いばくを出て、松の下にたたずんでいた。
 ――近づくのを、見ていたものとみえる。
「おともない致しました」
 送って来た秀政の家臣が、城中から渡された経緯のあらましを報告する。秀吉は、受け取った、と答え、すぐ姫たちのそばへ歩み寄った。
「……よう似ておらるる」
 彼が胸にえがいて写した鏡は、信長の面影か、お市の方の姿か、ともかくそうつぶやいて、
「よい御子な」
 と、頻りに見惚みとれていた。
 茶々は、淡紅梅うすこうばいたもとに、鉢の木帯のふさを、優雅に結び垂れていた。中の姫は、刺繍ししゅうの大模様の袖に、臙脂えんじの帯。末の姫も劣らぬよそおいに、それぞれ小さな金の鈴に、伽羅きゃらの匂い袋も提げていた。
「お幾つじゃの?」
 秀吉が問うたが、三人とも答えない。むしろ、唇を白うして、触るれば、露とばかり、涙をこぼしそうだった。
「ははは」
 意味もなく、笑って見せ、
「姫たち、怖がることはない。これからは、この筑前と遊ぼうぞ」
 秀吉は、自分の鼻を指した。
 初めて、中の姫が、すこし笑った。彼女だけが、猿を聯想したのかも知れない。
 が、その時。
 早や、朝空の下だった北ノ庄城の周囲全面にわたって、前にもました銃声と喊声かんせいが一時に地を揺るがし始めた。
 姫たちは、城壁の煙を見て、
「お母あさま。お母あさま」
 と、絶叫し、泣きまどった。
女童めわらべたちを、怖がらぬ方へ連れてゆけ」
 秀吉は、それを家臣に託して、馬をッ、と烈しく呼びたて、直ちに、城の方へ駈け向った。
 後に。――女童たちも長じて。
 一の姫の茶々は、秀吉の側室に入って淀君よどぎみとなり、次の姫は、京極高次きょうごくたかつぐの正室に。また末の姫が、徳川秀忠夫人となって、家光を生んだことなど、戦国数奇すうきの運命のあやは、史によって、人みなのよく知るところである。
 九頭龍川くずりゅうがわの水をひいた外廓の二重ぼりは、容易に寄手の近づくを、ゆるさない。
 が、外濠もついについえると、城兵は、大手の唐橋を、わが手で焼き落した。
 火災が、多門やぐらに移り、付近の兵舎にも飛火した。
 城兵の抗戦は、予想外に烈しかった。
 前夜からの寄手には、はや勝ったも同様という気分が、否み難くあったためでもある。
「怖いのは敵でなく、そのおごりじゃ」
 これは秀吉が陣々に高札させておいた通り、すくなからず気をつかったところである。そのため、彼は、今朝来、先鋒軍の中に立ち交じって、直接、指揮に当っていた。
 正午、外城が陥ちた。
 寄手は諸門から、本丸へなだれ入った。
 しかもなお、勝家以下、北ノ庄一門の首脳者は、ことごとく天守の一閣にって、あらゆる防禦戦を策した。この天守は、九層造りの、鉄扉てっぴ石柱で、堅牢けんろう無比なものだった。
 寄手の犠牲は、朝からのすべてよりも、却って、ここへ来てこの一刻に、その幾倍をも出した。
 加うるに、城庭殿廊、悉く火の海である。
 秀吉は、ここへ入って来た。
「一応、残らず退け」
 らちは明かぬと見たか、攻めあぐねている各手の兵を退かせ、
「まず、ひと息入れるのだ」
 と、云った。
 しかし、その間に彼は、直属の精鋭中からも、また各隊の内からも、屈強な士ばかり数百人を選出し、鉄砲は、一切持たせず、手槍打物ばかりとして、
「秀吉、これにて見ん。――天守の内へ斬り入れ」
 と命じて、一斉に放った。
 特に選ばれたこの槍手一隊は、忽ち蜂のように閣をつつんで、やがて天守内へ躍り入っていた。
 閣の三重、四重、五重の廊からも、真ッ黒な煙が噴き出した。
「よしっ! ……」
 秀吉が大きく云ったとき、天守の千本びさしは、巨大な焔の傘となっていた。
 それは、勝家の最期を告げる閃光せんこうでもあったのである。
 勝家は、眷族けんぞく八十余名と共に、閣の三重四重あたりで、寄手の屈強を引きつけ突き伏せ、最後の最後まで、血辷ちすべりするほど奮戦していたが、一族の柴田弥右衛門、中村文荷斎ぶんかさい、小島若狭守などが、
「早や、早や……御用意を」
 と、促すので、五重へ駈け上って、お市の方と居を共にし、まずその死を見て後、自身は文荷斎の介錯かいしゃくのもとに、腹掻っ切って果てたもののようである。
 時に、さるこく(午後四時)
 閣は、炎々一夜中、信長が越前経営以来のものたる、九頭龍河畔の輪奐りんかんと、幾多の昨夢さくむ千魂せんこんを弔うごとく燃えつづけていたが、一灰と化した焼け跡からは、ほとんど、彼らしいものの何物も見出すことは出来なかったという。
 死後を見らるるなきように。
 と、周到しゅうとうな用意の下に、焼き草を閣上につめて、みずから焼き尽したためといわれている。
 そのため、勝家の死は、首級によって確認することができず、
「もしや?」
 などと臆説おくせつする声さえ一時あったが、秀吉はほとんど無頓着で、翌二十五日は、もう加賀へ向っていた。

阿修羅あしゅらせがれ


 加賀の尾山城(金沢)は、きのうまで、佐久間玄蕃允げんばのじょうの領だった所である。
 北ノ庄の落城がつたわると、この地方も風を望んで羽柴軍に降った。
 秀吉は、戦わずして、尾山城へ入った。
 ――が、勝てば勝つほど、進めば進むほど、彼は、
(――時に、馬謖ばしょくを斬るも辞せず)
 のげんを示して、軍紀のゆるみを警戒していた。
 かたがた、その意図は、勝家を征しても、なお勝家に類する前面の曲者くせものを、無言に威圧し終らんとするものもあった。
 富山城にある佐々成政さっさなりまさがそれである。彼こそ、無二の柴田党で無二の秀吉嫌い、また秀吉蔑視べっしの男でもある。
 元来、佐々は、尾張春日井郡平井の城主で、門地からいっても、秀吉の比ではない。
 過去、信長の経営下にあった北陸出征中も、柴田の副将格として、自他共に任じ、勝家が柳ヶ瀬出陣のときは、越後の上杉景勝の抑えや、内治万端の後々をたのまれて、
(ここに成政あり)
 と、北陸の留守に、にらみをきかしていた彼でもあるのだ。
 いま、勝家すでに滅び、北ノ庄も陥ちたとはいえ、生来の猛気と、秀吉嫌いを標榜ひょうぼうしていた意地からしても、
(たとえ、勝家のてつをふむまでも、まだ無傷の兵力と、残余の柴田党を糾合きゅうごうして、抗戦を長びかせば、そのうちに、四囲の変化も起ろう)
 と、死力をその方へけて来る可能性は多分にある。
 秀吉は、わざと、その意地をかなかった。威容いようを示して、敢えて攻めず、
(彼の来るを待つ)
 と、していた。いわば、成政にたいして、ここは考え所だろうが――と、思案の余地を与えておいたものともいえる。
 その間に、秀吉は、却って、越後の上杉景勝かげかつへむかって、積極的に盟約めいやくをうながしていた。
 対上杉策には、先に、滝川征伐以前に、密使をやって音問いんもんを通じ、打つべき手は打ってあったが、さらに、以後推移の実状を告げて、
(尊堂の近況如何に)
 と、敢えて具体的な意志表示を求めたのである。
 北越にはみずから、北越の鎮をもって任ずる謙信以来の上杉家が、高くしつつ、しかも独自の経略をもって、この大風雲期を乗り越えてゆかんとする風があった。
 景勝は、家臣石川播磨守はりまのかみを遣って、その戦捷せんしょうを祝し、また、秀吉の会盟の意にこたえては、
(北越の山河、昨今多忙、他日親しく拝姿の日もあらん)
 と、謹んでいわせた。
 秀吉と上杉家との間に、友好関係の見られる限り、富山の佐々成政が抗戦をもくろむ余地はまったくない。成政は、志をいつわって、ついに秀吉へ降を申し出た。――そして、自身の次女を、利家の次男利政へとつがせることを約して、本領安堵あんどというところに落着いた。
 こうして、北ノ庄以北のことは、ほとんど戦うことなくして、勝利の余勢で平定したといってよい。
 四月二十五日、彼は、富山の城中で、慰労の宴を催した。いよいよ軍を還すためである。その席に、越後の使い、石川播磨守もいた。
 石川播磨守は、すでに使節としての公務も終っていたので、越後表に帰ることになっていたが、秀吉に留められて、きょうの宴のために、帰国を一日のばして列席していたものだった。
「あなたのお顔は、戦場でとくと見覚えておるが、それがしをば、お忘れか」
 酒、たけなわとなり、座、崩れる頃、又左衛門利家は、彼の前へ寄って、杯を乞うた。
「なかなか」
 と、播磨守は、献酬けんしゅうのあいだに打ち笑って、
「――天正九年十月、成願寺せいがんじの激戦に、立烏帽子たてえぼしの前立に、黒革くろかわのよろいを朱にさせ、苦戦の味方を叱咤しておられた片目の大将の指揮振りは、いまもって、眼底にあり、忘れるどころではございませぬ」
 と、いった。
 利家は、膝を打って、
「さればよ、その折、いつも将棋の駒の旗さし物を見せ、上杉勢のまッ先に出て、味方をなやます強槍の一将こそ、越後の石川播磨なれと聞くからに、しかと、見覚えてお槍先を試みんとうかがいおったが、ついに拝面の機もなく、今日、ここでお膝を交えるとは……」
「いや、又左どのは、御幸運でござったよ」
「ははは、何の、播磨どのこそ、またなき命拾いをなされたのじゃ。――以後のお首はもうけものと申すもの。そのつもりで、今日はしたたかに参られい」
 と、座中一番の大盃たいはいを酌人に取らせて、播磨守の手にもたせた。
「これはこれは、冥加至極みょうがしごく
 越後武者で、五合入りや一升入りにひるむものはない。
 播磨守は、しずくも余さずのみほした。
 あなた、こなた、思い思いに座を寄せて歓語していた人々も、みなその飲み振りをながめていたが思わず、
「や。――見事」
 と、諸方でいった。
 秀吉も、見て、
「播磨。もひとつ」
 と、傍らの飾り盃を取った。
 それは、上戸が見ただけでも、ちょっと首を傾けそうなもので、前城主の玄蕃允が、勝家から拝領したという由来のある城付きの大盃だった。
 播磨守は、仰ぎ見て、
「ありがとう存じまする」
 と、拝したが、酌人が、秀吉の手からそれを取次いで来ようとすると、
「少々、お待ち下さい」
 と、押し留めた。
「その御盃なれば、ぜひ、他にいただかせたい者がおりますが……その者に、おつかわし給われば、一だんと、かたじけのうござりますが」
 と、やや改まっていった。
 秀吉は、不審そうに、見まわした。
「誰へじゃ。……この盃を、播磨が特に取らせてくれいと、望むのは」
「いや、これには、おりませぬ者で――」
「いないのか」
「てまえが、供のうちに連れておる者で……。もしおゆるし給わるなれば、これへ呼んで、お目通りいたさせたく思いますが」
「よいとも、すぐ呼べ」
 秀吉は、気軽かったが、またすぐ播磨守へ訊ねていた。
「……が、その者は、そちの家僕か。景勝殿のさむらいか」
「いや、阿修羅あしゅらせがれでございまする」
「ほ。阿修羅の伜とな」
「はい」
「阿修羅の……?」
 秀吉は変な顔をした。
 播磨守が、酒興の戯れをいっているものと、疑ったからである。
 が、やがて播磨守が、侍だまりから呼び入れて来たのを見ると、それはまだ十二、三の愛くるしい少年だった。
「播磨。かような童に、この大盃をやってくれとは、いかなる訳か。よも酒顛童子しゅてんどうじの伜ではなかろうに」
 秀吉も、たわむれた。眼をその少年にあつめた席上の酒客もことごとく笑った。
 ところが、ひとり石川播磨守だけは、眼に涙すらたたえて、その少年を傍らに寄せ、秀吉へ目見得めみえの礼をとらせながら、さて、こう述べた。
「――ぬる天正七、八、九年の北越陣に参加の衆は、なおお忘れあるまいが、この小伜は、当時、わが上杉家の一将として、魚津城うおつじょうり、織田どのの遠征軍たる――柴田一族、佐々さっさ、前田などの大軍を一手にひきうけて、しかも数年が間、寄手をなやませ、さしもの鬼柴田をも、攻めあぐましめた越後武者――竹股たけまた三河守秀重ひでしげの一子なのでございます」
 播磨守の真面目まじめさに、人々はみな雑語をひそめて聞き入った。
 殊に、魚津城の竹股三河守の遺子と聞いて、衆目は一そうその少年の姿にひかれた。
 播磨守は、なお、次のように、当年の思い出を物語った。
 ――孤城魚津も、堅守防戦のかいなく、やがては遂に、陥ちる日が来た。
 そのとき城将三河守秀重は、全城の火となるを見、われ敵にこの城をまかすからには、われまた、敵将勝家の首をずにおくべきやと、炎を出て、敵中へ駈けこみ、乱軍の中に倒れ伏して、勝家を狙っていた。
 勝家、それとも知らず、早や落城もまったしと、馬を進めて、入城せんと通った。
 時に、突として、累々るいるいの死骸の中から起き上がった満身鮮血の一武者は、
(知らざりしか勝家。竹股三河守、汝をここに待つこと久し。いで、その首を)
 と、猛風一念の槍、さながら飛豹ひひょうのごとく、飛びかかった。
 しかし、多勢に無勢、無念っ――の声は敢えなく鉄桶てっとうの敵にへだてられてしまった。三河守は、怒れる眼に血をそそいで、いまはこれまでと、見えたが、血路に天を仰いで、
阿修羅あしゅら王に
われ劣らめや やがて又
生れて取らむ
勝家が首
 と、辞世じせいを詠じ、二度三度、のども破れよとくり返した。そして、
(よくんだ)
 と、自讃して、呵々かか一笑したかと思うと、眼前の敵手を待たず、みずからくびねていた――という。
 魚津はついに陥ちたりとはいえ、上杉家の士は、われら上杉衆の中に、この竹股三河守を持ったことを、非常な誇りとしていたこというまでもない。
 で、石川播磨守は、こんどの使節の旅の途次、その隠れたる遺子をさがして、越後へつれ戻るべく、列の中に加えていたわけであるとも、話のあとで、つけ加えて云った。
 満座の武将は、杯をおいて、聞き澄ましていた。秀吉も、うなずき頷き聞き終った。そして、播磨守から乞われた大盃を取ると、
「阿修羅の伜。――もそっと寄れ」
 と、さしまねいた。
 竹股秀重の遺子三之助は、秀吉の手からそれを拝領した。もとより少年なので、酒をでなく、盃その物を与えられたのである。
「この盃は、三河守の一念にたいし、供養くようのため、そちの家へくれるものじゃ。父をかがみに、父に劣らぬ、よいさむらいになれよ」
 感じやすい少年の顔はほの紅く燃えていた。
 播磨守は、三之助と共に、厚く礼をのべ、この夕、越後へ帰国した。
 秀吉は、翌日、軍をまわして、北ノ庄に到り、五月一日には、北陸の諸将にたいして、新領地の加封所属を発表した。
 尾山の城(金沢)は、前田利家経営に移した。秀吉は、利家の友誼ゆうぎむくゆるに、加賀の石川、河北の二郡を附したほか、子息の利長にも、松任まっとう四万石を与え、代りに、府中の城は、これを収めた。
 加賀の江沼を、溝口秀勝に。能美郡のみごおりを、旧どおり村上義明よしあきに。――総じて地着きの豪族は、そのまま、旧領において、これをみな丹羽長秀に属せしめた。
 また特に、秀吉が意を用いたのは、丹羽長秀の功であった。
 北ノ庄に在る日の一日、彼は、五郎左衛門長秀の手を取って、
「君の厚志こうしなくば、あに、今日の事あらんや。いまその功を口にべ、労を謝せんとするも、思いきわまって、いわんと欲するも語極まる……」
 と、手を取って、ただ落涙するばかりであった――と、「丹羽家家譜」には記してある。
 果たして、秀吉がそこまで云ったかどうか、わからないが、とにかく彼が、最大な厚意をもってしたことは疑いない。
 即ち、若狭わかさ近江おうみの旧領へ、新たになお、越前全州と加賀二郡を附与ふよし、
「爾今は北陸探題ほくりくたんだいとして、筑前をたすけられよ」
 と、辞気甚だ謙で、贈るところは頗る大きく、かつ、子息鍋丸にまで、柴田伝来の“莞爾かんじ”の銘のある名刀を与えたりなどしている。
 このほか、直属の旗本諸侯などへも、大規模な論功行賞があったのはいうまでもないが、それはもっと後日になってからである。
 北陸の後図こうと一切をすまして、秀吉の戦捷軍が、長浜まで還ってきたのは、五月五日、端午たんごの日だった。
 あやめ太刀、節句祝いも、将士にさせで、滞城二日間。
 秀吉は、その間に、岐阜方面の始末を聴取した。
 その後、岐阜城は専ら、稲葉一鉄らの兵が、攻撃を続行していたが、柴田の大敗が聞えてから、神戸信孝かんべのぶたか以下、城兵の士気はまったく沮喪そそうし、加うるに、城中には、一鉄のおいの斎藤利堯としたかとか、稲葉刑部ぎょうぶなどの、いわゆる美濃同族が多くいたので、それらは皆、城を出て、羽柴方に属してしまった。
 結局、留まるもの、わずか二十七人という窮状におち入って、ついに三七信孝も、城を遁れ、長良川から船に投じて、木曾川を降り、尾張知多へ落ちて行った。
「豊鑑」や「武家事紀」などの記載によると、
 ――三七信孝、柴田をこそ頼み給ひしに、亡びにしかば、草の根を絶たれしやうにて、郎党どもみな落ちせ、日ごろ恵み深かりし者ばかり残り留れり。
 三介信雄、尾張の勢を具して、城を囲み給ひぬ。使を走らかし、尾張の方へ御座せよとたばかり給へば、城を出で、川舟にのりて、知多ちた宇津美うつみにおはせし也。そこにて、信雄のずさ中川勘右衛門をつかはし、自害し給へとありしかば、かねてかくこそと思ひしとて、静かに、事どもしたためおき、手づから刀の刃かき合せ、自害ありけり。
 とあって、信孝の身は、その兄弟の織田信雄が、巧みに導き出して、最期の処置をつけていることになっている。
 もちろん指図をしたのは、秀吉である。主筋の信孝を、直接、自軍で手をくだすのは好もしくないので、信雄の手をかりて、こうしたのであることもいうまでもない。
 このことにたいし、世上、秀吉の不臣を咎めた史評も少なくないが、山鹿素行やまがそこうの「武家事紀」などは、秀吉が毛利と和談し、山崎に光秀を討ち、清洲きよす会議に臨んだ時は、まだ決して、天下を奪う志はなかったものだと云い、ただ、信義の向うところ、止むを得ざる道を行ったものだが、天下の大事ひと先ず終って後――信雄、信孝の公達きんだちを始め勝家、一益らの旧重臣の作略が、ことごとく信義に欠けており、また智謀も疎で、却って、天下併呑へいどんの競望と素地そじとを、秀吉に与えてしまったものだ、と説いている。
 そして、なお素行の同書には、
――秀吉の是を奪ふに非ず。信雄、信孝の之を与ふる也。
 と、この問題に結論を下している。
 おおむね、衆評もこの結論には、異論ないもののようであるが、中国から山崎戦へかけての頃は、まだ天下に望みなかったという一事だけは、果たしてどうであろうか。
 ともかく、信雄といい、信孝といい、この兄弟の凡庸ぼんようだけは争えない。もし、兄弟心をひとつにするとか、或いは、どっちか一人でも英武にして時潮を知る眼をそなえていたら、決してこんな破局は見なかったであろう。
 信雄のお人よしな庸劣ようれつさにくらべれば、信孝はなおいささかは骨があった。才略なき鼻ッぱしには過ぎなかったが、尾張の野間のままで逃げのびて、そこの一寺で腹を切った最期のもようも、さすがに、
(こうなること――)
 と、覚悟していた様子で、めめしくはなかった。
 かつて、野間の安養院には、寺蔵の墨梅の古画一幅があり、織田信孝が自刃の時、室の床に掛けられていたものといわれていた。血痕のねが見えて、往時を偲ばせ、見るも哀れな一幅であるとて、後に、狩野衲永かのうのうえいがそれに一詩を題したという。
夜窓如夢到西湖やそうゆめのごとくせいこにいたる
月下見花思老逋げっかはなをみてろうほをおもう
忽有鐘声来呼醒たちまちしょうせいありこせいきたる
挙頭半幅墨梅図きょとうはんぷくぼくばいのず
 信孝。その年二十六。
 自刃したのは、五月七日といわれている。
 その七日。
 秀吉は安土へ立ち、十一日は坂本にとどまった。
 伊勢の滝川一益も、やがて遂に降った。
 秀吉は彼に、茶の湯料にと、近江の地で、知行五千石を与え、敢えて昨非の罪を、深く追求しなかった。





底本:「新書太閤記(九)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
   1990(平成2)年7月11日第1刷発行
   2009(平成21)年12月1日第20刷発行
初出:太閤記「読売新聞」
   1939(昭和14)年1月1日〜1945(昭和20)年8月23日
   続太閤記「中京新聞」他複数の地方紙
   1949(昭和24)年
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※初出時の表題は「太閤記」「続太閤記」です。
入力:門田裕志
校正:トレンドイースト
2016年3月4日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード