落葉

レミ・ドゥ・グルモン Remy de Gourmont

上田敏訳




 樹々きゞに落葉のある如く、月日つきひにも落葉がある。無邊のあなたから吹いて來る音無おとなしの風は歳月の樹々を震はせて、黄ばみわなゝく月日をば順々に落してゆく。落ちてどこへ行くのだらう。黄ばみ戰くはどこへ行くのだらう。言ふまでも無く、それは自然が歳々としどしの復活を營むあの大實驗室へ行くのだ。それがまた新に青くなつて、一樣になつて、歸り來る時、葉の裁方たちかたにまでかはりが無い、白楊の葉はしんの臟、橡の樹のはてのひら篠懸すずかけの樹のは三叉みつまたほこの形だ。然しあの黄ばんで、戰いて散りこぼれた月日の落葉は一體どうなつたのだらう。遠い、遠い、未知不可思議のいかなる世界へ、永久に持ちゆかれて了つたのか。誰もこれをまたたことが無いからだ。なるほど、年々としどしの若葉ともいふ可きあらたの月日、またない月日、待受けぬ月日、意外の月日、すきになる月日、おそろしい月日は歸つて來ても、過ぎた昔のしたしみのある、願はしい、待受けてゐるあの月日は戻つて來ない。年々歳々の木の葉の方は、たとひ、われらが認め得ないとても、必らず再び立歸る。
 然り、これも月日である。始あり、終あり、光あり陰あつて、闇に生れ、闇に消えゆく。たしかに月日だ、然し同じものではない。其頬笑ほゝゑみしかめ顏もてんで違つてゐる。授け與へる其悦は少しの物吝も無く分配されるが、にほひが違ふ、色が違ふ。昔、君を恍惚たらしめたあの笑顏にまた逢はうなどと望み給ふな。あれはもう亡くなつた。其生れるのを見た月日が戻つて來ない如く、これは君の愛する顏の上にまたと立歸るものでは無い。それでは、せめて、君の愛する其顏だけでも、其儘かはりなくまたと眺められるだらうか。悲しいことには、さういかない。或は思做おもひなしでさうとだまされることはあつても、はかない心の試に過ぎぬ。月日は闇に消えゆきながら、人間の顏を少しづゝ記念として持ち去るからだ。或は、遠くの遠くの不思議な世界まで、これらの顏の斷片きれはしを持つていつて、それを土臺に全く別の新しいのを造上げるかも知れないが、これとてもしかとは受合はれぬ。
 然り、この世に同一の物は無い、決して無い。緩いのも、急なのもあるが、とにかく疲勞を知らぬ一大運動があつて、兩端のつひに合する事の無い組踊の中に萬物を引込むのである。歳が暮れて行く、まだ一日あるぞ。其一日が過ぎて行く、まだ一時間あるぞ。其一時間が經つて行く、まだ一分あるぞなどとあゝ徒目だめだ。然し、せめてもう一遍は戻つて來さうなものだのに。いや前にも言つた、さうはいかぬ。えい、思切の惡い。めいにこれ從ふのさ。
 二度と同じ流を渡ることは無いと希臘の哲人は言置かれた。或者はこれを以て悲哀の源とするだらうか、他の者は却つてこゝに希望の一理由を發見する。追憶が主として悲しい事ばかりである人々は、さうと聞いて安心することだらう。またと同じ事を見ずに了へるから宜いでは無いか。涙は流れ、笑はこぼれ、いのちの同じりつつて、底知れぬ淵穴ふちあな共々とも/″\落込んで了ふのである。
 一として再び歸り來る物は無く更に始まる物も無い、決して同じ物は無い、而も常に同じ物に見える。何となれば、月日はまたと歸り來ずとも、刹那刹那に湧出でる新しい生物は其生の續く間、甞つてわれらの生にも伴立つれだつて、時に之を照したと同じ幻影を作出することに勉めるからである。地合ぢあひは永久、ぬひもまた永久だ。われらが死ねば宇宙も死ぬ。別の生物が別の情感をもつて世界に現はれる時、別の宇宙が生れる。如何なる物も更に始まることは無いと云ふのが眞ならば物皆すべて續くとするもまた正しい。個々の生物についてか、或は總體の絡合からみあひについてか、見方によつて、さうとも、かうとも憚らず斷言し得るのだ。思考の最終點に達すれば、すべては同時に共存する。同一の原因が相撞着する結果を生じて而も論理に戻らない。すべての色と其色合とが、器械の一おしで、紙に刷られて、生と名づける靈妙の畫を成すのである。
 かくて始無く終無く、過去も當來も無く、唯現在のみが有る。不易にして而も不定、複雜にして而も純一なる現在のみが有る。
 人各其力と望と欲とに應じて、皆この生の大海にたづさはつてゐる。然らば月日の落葉、木々の落葉などは、どうでもよい。
 木の葉も月日も萬人にとつて、一どきに落ちるのでは無い。一年の終を示すその時刻は、又の一年のうまれを示すものである。
 かくて予は今、臘月の末日に際してつくづく生の虚無なるを思ふ。何となればそはたえず死んで行くからだ。又生の有力うりきなるに氣がつく。何となればそはたえず生れて來るからだ。これは落ちてかつ流れる水の一滴である、而も他の一滴がすぐに後から迫つて來る。人間は丁度それだ、それぎりだ、結んで、落ちて、流れるしたゝりだ。而してその束の間に一の世界を創作して、それをきてゆくひまをもつてゐる。人間の生の貴くして且つ不思議なる點は、かくも生が何でも無い物であり、又同時に大きな事を行ひ得る所に在るのだ。これは唯、極微の一原子に過ぎない、而もこれ無くては、全體が重みも形も失ふ。これは天地の大運動に一の役目を果しつゝあるので、宇宙の釣合と循環性との一要素である。
 されば、人は其生がたとひ愛す可きもので無い場合に於ても之を愛さねばならぬ。何となれば生は一あつて二無きものだからだ。生はまたと歸つて來ない福である。各人は之を營み且つ味はねばならぬ。生は大なり小なり一の資本だ、然し永遠の間に支拂を受ける未濟金として、永く投資しては置けない。生は一生扶持である、これほど確なことは無いのだ。故にこのややもすれば滅び易く、其日其日の落ちる毎に、價値を少しづゝもう失くして行く所有について、少しでも爲に計らうとする努力はすべて皆尊重すべきものだ。今もなほ樸直の人を欺いてゐるあの永久といふものは、決して生のあなたに在るのでは無い。實は生そのものであつて、すべての人、すべての生物は皆之を相伴しやうばんしてゐる。われらは各そのうちの極小さい一片を享けてゐるに過ぎない。而もこの一片の貴さは、ごくの貧しい者をも富ますに足るのである。われらの麺麭ぱんは白くとも黒くとも、心を安じて、これを咬み食はしめよ。而して月日の落葉がとみに繁くなるやうに見える時は黄昏たそがれもまた曙であると夢みよ。





底本:「上田敏詩集」玄文社詩歌部
   1923(大正12)年1月10日発行
入力:川山隆
校正:Juki
2012年7月10日作成
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