食料名彙

柳田國男




 序

 諸君の食習採集手帖が整理せられたら、この語彙は又大いに増加することであらうが、それを促す意味を以て、先づ自分の今までに控へて置いたものを竝べて見る。此中には救荒食物は入つて居ない。又所謂いかもの食ひの食へば食へるといふものも入れてない。我々の目的は通常の生活を明かにするに在る故で、又昔食つたといふだけのものも入れない。

マスモノ

 五穀の總稱として桝物といふ語がある(土佐方言の研究)。佐渡でもマスノモノ。米麥などの桝で量るもののことである。亥の子の日には桝の物を一切外に出さぬなどといふ。

キチマイ

 吉米。よき米といふことをいつの頃よりか音でいふ。是糯米と區別する名といふのは(淡路)、後の解であらう。もとは常の日は粳米より惡いものを食つて居たからで、それには屑米又粟、稗の類も算へられたことゝ思ふ。

シャクノコメ

 粳米をシャクの米といふことは四國ばかりで無い。鹿兒島縣十島の惡石島でも、粟に糯と粳との二種があり、後者をサコアハ又はシャアクともいふ(民族學研究二卷三號)。シャクは瓢のことで、「ひさご」といふ語から導かれて居る。是も桝物と同じに瓢で量つて使ふ粟の義と思はれる。器を以てはかるのは、人別に定量があつたことを意味する。即ちそれが桝の最初の用途である。

ヨネスル

 ヨネは農家では稻米だけに限つては居なかつた。たとへば信州遠山では、粟などの搗いて外皮を剥いたものもヨネである(方言六卷一號)。天龍川を越えて三河の北設樂郡でも、稗、麥共に皮をとつて精げることをヨネスルと謂ふ。ヨネしたものは家の中の物置に置く。籾のまゝなのは外のアラモノ庫に入れて置く。アラモノとは脱※(「禾+孚」、第3水準1-89-44)せぬ穀物の總稱である。

イマズリ

 籾で貯へて置いて、盆の頃になつて籾摺したものをエマズリ即ち今摺といふ(頸城方言集)。普通の食料には早くからまとめて摺つて置き、且つ色々の調合をしてすぐに炊けるやうにして貯へてあつたのである。

ケシネ

 語原はケ(褻)の稻であらうから、米だけに限つたものであらうが、信州でも越後でも又九州は福岡大分佐賀の三縣でも共に弘く雜食の穀物を含めていふことは、ちやうど標準語のハンマイ(飯米)も同じである。東北では發音をケセネ又はキスネと訛つていふ者が多く、岩手縣北部の諸郡でそれを稗のことだといひ、又米以外の穀物に限るやうにもいふ土地があるのは(野邊地方言集)、つまりは常の日にそれを食して居ることを意味するものである。南秋田郡にはケシネゴメといふ語があつて、是は不幸の場合などの贈り物に、布の袋に入れて持つて行くものに限つた名として居る。さうして其中には又粟を入れることもあるのである。家の經濟に應じて屑米雜穀の割合をきめ、かねて多量を調合して貯藏し置き、端から桝又は古椀の類を以て量り出す。その容器にはケセネギツ、もしくはキシネビツといふのもある。ヒツもキツも本來は同じ言葉なのだが、今は一方を大きな箱の類、他は家屋に作り附けの、落し戸の押入れのやうなものゝ名として居る地方が東北には多い。九州の方のケシネは甕に入れ貯藏する。之をケシネガメと謂つて居る。

ケシネツツキ

 飯米を貯藏用に精げて置くことをケシネスル(久留米方言考)、又はケシネ搗くといふ。忙しい折柄にこのケシネが絶えると、農家ではまごつくのである。千葉縣には霖雨をケシネツツキといふ言葉さへ出來て居た(上總國誌稿)。外の作業は出來なくて、たゞ飯米を搗いてくらす時といふ意味らしい。佐渡の海府地方では飯米が絶えて、俄かに稻を扱き籾を摺つて食べる米だけをケシネと謂つて居る。熊本縣などにも、飯米をケシネといふ語は既に行はれなくなつて、ケシネといへば只穀類を搗き又は摺る作業の名になつて居る(肥後方言集)。そのケシネには勿論米だけで無く、麥や粟を精げる仕事も含まれて居た。しかも標準語でヂゴヱ(地聲)といふところを、ケシネ聲といふ語なども行はれて居るから(肥後南關方言集)、まだケシネをふだんの食物と解する記憶は或は殘つて居るのである。

カテゴメ

 カテとは飯にまぜる色々の雜物のことである筈だが、越後の蒲原地方などでは、粗惡な米をカテゴメ、米の碎けをカテとも謂つて居る。多分はカテ飯を炊ぐ時の米といふ意味であらう。だからそのカテ飯に入れる菜大根の類をシタガテとも謂ふのであるが、別にゴンダと稱してそのカテ米だけを、味噌汁で煮て食べることもある(さと言葉)

デハ

 宮崎縣などでは、デハといふのがこの食用米のことである(日向の言葉卷三)。ところが壹岐の島に行くと芋と穀類の粉とを釜の中で練つたものをデェハと謂つて居る(方言集)。二語は關係があるらしいが語原が知れない。

フチカタマイ

 農家で自家用に取りのける米を、扶持方米といふ處がある(岡山方言)。扶持方即ち一家眷屬を養ふ食料である。

ナカシマイ

 能登の鹿島郡などで、仲仕米といふのはダイトマイのことだといふ。大唐米はトウボシ又赤米とも稱し多産劣質の新種である。仲仕のやうなうんと食ふ者には特に用意して斯ういふ米を向けるのである。土佐などでいふキチマイは、このダイト米に對する語だといつて居る。

ウシカタマイ

 東北地方の牛方は一種の行商で、主として鹽、鹽魚などを賣つてあるいた。その牛方に與へて鹽と交易する爲に、用意して置く劣等品を牛方米と謂つたのである。土地によつてはその米も無くて、稗や粟を以て鹽を買ふところもあつた(鹽俗問答集)

カヂゴメ

 鍛冶米である。越後などには農具の貸付制が行はれて居て、鋤鍬を鍛冶から借りて使ふ農家も多かつた。その借料をも年貢と謂つて居た。秋の收穫後に鍛冶屋がその米ネンゴを集めに來る。それに渡す爲に多少無理な調製をした粗惡米を用意して置くのが鍛冶米である。此米を又堰料とか入會料米などに充てることもある(金塚友之亟君)

ヲケヤゴメ

 飛騨の高山附近など、あまり上等でない米を、特に桶屋の支拂の爲にのけて置いた。それが桶屋米である。桶屋は秋收の後に、橇を曳いて此米を集めに來た。今はもう日當で金を拂ふ者も多くなつて居る。

マチマイ

 越後の舊新發田領などには、年貢米と町米とにも差等があつた。前者は一俵四斗と二三升で、俵は二重、之を散田作りといひ、後者は一重俵で六斗入であつた。今日は無論一樣に四斗入となつて居る。

ニギリゴメ

 昔は穀物を食ひ延ばす方法として、毎日炊事に際して一握みづゝの飯米を別にのけて置く風習があつたといふ(山口縣阿武郡)。鹿兒島縣では之を猪口米とも謂つて居る。報徳社などもこのチョコ米を勸説した。

フカシモンゴメ

 米穀調製の際に出來る粗質の碎け米を越後蒲原地方では又フカシモン米とも謂ふ。ばら/\して居て是ばかりでは炊けぬから、カテ飯を炊ぐときに、この米を上に載せてふかすやうにした。カテゴメといふのも同じであらう。

ダゴノモン

 加賀の河北郡の農村では米を搗くときに臼の外へ飛び散つた分を拾ひ集め、之を團子のものといふ。團子の粉に挽くより利用のし方が無いからであらうが、注意すべきことには正月七日の株團子のやうな、式の日の定まつた食物も是でこしらへたことは(風俗畫報二二五號)、東北などでいふツツボダンゴも同じであつた。なほこの地ではダゴノモンを、又アラモトともいふさうである。

ヨナドリ

 岡山地方でヨナドリといふのは、籾摺の際に最後まで殘つた米まじりの籾、他の地方でアラともアラモトともいふものゝことである。此名の起りは私には判らない。

カシラ

 又ヒキガシラともいふ。唐臼で籾を挽いて米を取つた殘りを、中國地方は一般にさう謂つて居る。頭といふ名はよいけれども、何囘も唐箕や萬石を通して、最後に篩の上になる屑籾のことなのである。今日は牛や鷄に食はせる家が多いが、以前は是に粉米やシヒナ(粃)を合せて粉に挽いて、テンコ餅といふものをこしらへて食ひ、又は其粉を糯米にまぜても食つた(粒々辛苦)。安藝の山縣郡では是に粃を合せて、粉にして作つたものをヒキモノ餅と謂つて居る。何れも決しておいしいものでは無いが、シヒナやユリヌカに比べると、カシラはまだそれでも上等の部であつた。

アラ

 文字は古くから粡の字を書いて居る。本來は玄米に對する籾粒のことだつたらしいが、それが問題になるのは、僅かづゝ米にまじつた場合で、籾搗き時代には之を無くするのが骨折であつた。アラモトといふ語は類聚名義抄にも見えて居る。此方が多分米にまじつた籾のことであらう。それが多いのをアラが高いと謂つた。人の缺點をアラといふのも、此方から轉用した名である。
飯のアラを食べると腹を破る
といふ信州上伊那の諺なども(民俗學四卷三號)、人のアラと對立させて興を催した言葉のやうである。

カイナゴ

 加賀の大根布のイタダキの女などの、在へ魚を賣りにまはつて農産物と交換する人々の、カイナゴと謂つて居るのは米のことだといふが(ひだびと六卷三號)、是も何れ質の劣つた米なのであらう。能登の方へ行くとカイノゴといふ者が多く、カイは匙即ち臼の中のものをかき出す器の名らしいから、本來は團子の粉のことゝいふ方が正しく、つまりはカイノゴ用の米といふことを省略した名かと思はれる。しかし現在は能登でもその米の粉だけで無く之に供せられる三番以下の籾まじりの米を、やはりカイノゴと呼んで居る。此地方に行はれる粉挽唄に、
夏のカイノゴ三升が限り
五升を出たやら鷄やうたふ
といふのがある(鹿島郡誌)。即ちカイノゴ挽きは樂な仕事ではなかつたのである。

ユリゴ

 屑米又は米の極めて粗惡なるものを、滋賀縣湖南地方などはユリゴと呼んで居る。飛騨では元はユルコ今はイリゴ、越中でもイルコ又はエリゴ、越後ではイルコ・イリゴ又はイリマイと謂つて居る。土臼で籾を摺つた時代にも澤山のエリゴが出來たが、以前の手杵で搗いた時代はなほ更であつたらう。米を苧絲の篩でふるふときに出るものと謂つて居るが(飛州志)、さういふ道具の普及せぬ頃にはユリといふ楕圓形の木の盆で、米と籾とをゆり分けたので、其ユリの奧に滑り落ちずに止まつたものを、ユリゴと呼ぶやうになつたのである。めんつう其他すべての楕圓形のものを、ユリナリといふのも是から出た語で、最初の必要は米だけを搖り落す爲に、斯ういふ形を考へ出させたやうに思ふ。近世は色々のもつと便利な器具が發明せられてユリは主として祭祀用のものとなつたが、なほ是に食物を入れて頭に載せて運ぶのには由緒があつた。ユリゴには碎け米や粃、又は色々の屑ばかりが殘るから、飯に炊くことはとても出來ない。挽いて粉にして置いて糯粟などを加へ澤山の蓬や山牛蒡の葉を搗き込んで草餅として、米マタジ即ち補食用に供するか(ひだびと四卷五號・六卷二號)、さうでなければ蕎麥粉などゝ共に練つて、手毬ほどの大さに丸め、藁火や爐の中に轉がして燒いて一朝の飯の代りにした。祭や祝ごとの日には、特に小豆や菜のあへもの、鹽辛や蛸などを入れてこの團子をこしらへることもあつた(頸城郡誌稿)。或は小さいイリゴダンゴを入れて團子汁を作り、又はイリゴガテと稱して飯の上に載せて共に蒸すことも越後などにはあつた。南魚沼郡では苗代の種籾の殘りを乾して炒つて、特に石臼で荒く挽いたイリ米といふものがあつた。是は粥に煮て病人の食餌にしたといふから(高志路三卷七號)、名は同じでも別のものである。

イロヌカ

 米の碎けを石見の邑智郡の一部でイロヌカといふのはユリヌカであつた。又ユリヌカと謂つて居る土地も此地方には多い。唐臼で挽いた時に、すくもの屑などゝ共に殘る小米のことで、斯ういふのはヒキグヒ即ち粉食にするより他に用途は無かつた。

チチウコ

 土穗即ち土にまみれた稻の落穗を、發音が六つかしいので色々な言ひ方をして居る。ツツボといふ土地が最も多く、それでこしらへた團子をツボ團子ともいふが、是でも元の意味がもう不明になつて、庭の掃き寄せのすべての屑米までを含むやうにも解せられて居る。越後の三島郡などでチチウコといふのもその一つで、チチウは稻架場の落穗のことで、それを粉に挽いたのがチチウコだとはいふが、文字は地中粉などゝ書いて居るさうである。昔は寺子屋への附屆けは、歳暮の禮に、この地中粉が一袋であつた。
 それで此郡の諺にも、
チチウ粉を運ばなければチチウを運べ
といふのがあるさうで、其意味は「寺子屋に行かぬ者は落穗拾ひをする他なし」といふことだと語つて居る(高志路七卷二號)。舊暦二月一日の犬の子ついたちといふ日に、此粉を以て團子をこしらへる風習は、相應に弘く行はれて居るが、中越では是をもチチウ團子と稱し、北越月令には又土生團子と書いて居る。岩船郡の方でチジョ團子といふのも同じ日の食物で、チジョは落穗米又は掃き米のことだといふ。現在はそればかりで作るわけでも無いが、本來は之を用ゐるのが恆例であつたことは名稱からも察せられる。之を茹でるのに十二月といふ新春の呪ひ木を焚き、又家に飼つて居る鳥けものにも之を食べさせたといふことである(布部郷土誌)。岩手縣上閉伊郡で、秋の稻こきの時に足元に散る殘穀から製するといふツンジョオダンゴも(遠野方言誌)、土穗の訛語であることは明かだが、是は如何なる機會に作るのか、まだ確かめられて居ない。

コメザイ

 佐渡の島の中部で、米の屑のことをいふ。語の起りは米のサイでは無く、メザイに「小」を冠したものらしい。

メザキ

 米を篩にかけて殘つた屑をさういふ處もあるが(長門豐浦郡)、恐らくは粉米を意味する東京などのメンザイと同じ語であらう。尾張の日間賀島でも、メザイとコゴメとは同じで、是と小麥糟、大豆の粃などを合せ蒸して糠味噌を作るといふ。
 或は又麥のメザイもある。麥粒の芽の部分の碎けたものといふから、メザキ・メンザイも共に芽先の意にちがひない。滋賀縣の湖北には又蕎麥のメンヂャがある。是は十分實の入らぬ粒、即ち粃のことだと謂つて居る。米に混じて飯に炊いで食べる(高島郡誌)。長崎縣松浦の島々で、メザケ・ミザケ又はミジャケといふのも、碎け米もしくは粉米のことである。

ミヨサ

 滋賀縣南部の各郡から、伊賀の阿山郡にかけて、粃をミヨサといふ。大和和泉の方ではミオサといふが、語原が不明なのだから何れが正しいとも言へぬ。たゞ北陸では富山縣でミヨーシ、關東では上總房州の方でミヨセといふのがやはり粃のことらしく、ミヨサの方が類例は多いのである。房州などのミヨセは、粃に限らず庭に落ち散つた屑米を總稱し、今は少なくとも實寄せといふ感じで使つて居るらしい。ミヨシ團子は土穗團子も同樣に、初冬の神祭の式の食物ともなつて居る。

シンダ

 粃の「しひな」は、もと發音のしにくい語音だつたと見えて、地方毎に大分ちがつた形にかへられて居る。たとへば中國九州で一般にシイラ、それで農民の好んで食ふ「しいら」といふ魚の名を忌んで、この方をマンビキと呼びかへて居る。東北は岩手縣の大部分では粃をシヒタ、秋田縣の男鹿半島などはシダと謂つて居る。二番籾を唐箕にかけて、その中の一番を「人のシダ」と呼び、是からは米の粉を取つて、ネレゲ其他の餅に作つて食べる。その又二番は「馬のシダ」と呼び、馬に食はせる(寒風山麓農民手記)。能登半島の各郡では、粃をシンダとも發音して居る。それで考へるのは東京でいふ糠味噌、關西でジンダともいふ粗惡な味噌は、本來はその材料にする粃から出た名であつたらしい。今日は漬物の床にしか使はぬやうになつたが、以前は食料であり、今も伊豫石鎚山麓の村々などに、之を食べて居る者があるといふことである。

イタジイラ

 粃は事によるとシヒナよりもシイラの方が前であつたかも知れぬ。籾の屑では無いが、籾そのものをシラといふ言葉は八重山諸島にもある。現在はその籾の貯藏方法に、穎のまゝで積んだものだけをシラと謂ふので、別の解釋も起つて居るが、沖繩の神歌などにシラチャネと詠じたのも、單なる白色の種をいふことでは無かつたらしい。熊本縣の葦北郡でも、今は籾殼のことをシラといふが是も最初はやゝ實のあるものまで、包括して居たことは疑はれぬのである。中國では岡山地方に、イタジイラといふ語がある。粃の中の又屑であつて、男鹿半島の馬のシダに當るものだが、之をさう呼ぶのは板の如く扁平な粃の意では無く、もとは汰板(ゆりいた)の上に殘留するシラのことで、乃ちシラが普通の籾であつたことを推測せしめる。

ジャバ

 越後の刈羽地方などで、粃の一種の幾分か實のあるものをさういふ。唐箕の二番口へ出て來るのが多くはそれで、之を石臼にかけて粉とし、ジャバ團子をこしらへる(高志路四卷八號)

イカシ

 粃をイカシと呼んで居る地方もある(但馬方言集)。イカシバットウといふのは之を粉に挽いたもので、此地方のハットウは多分炒粉であらう。臼でひく以前には杵ではたいて居たので、ハットウといふ語は起つたものと思ふ。

ミケ

 肥前上五島でミケといふのは碎米のことである。或は前に擧げたミザケなどの訛音かも知れぬ。

イスンカ

 伯耆中津の山村などには、屑米をイスンカといふ語があつて、イリゴも同じだといふが、この方は凶年に多く出來るものだといふから、多少の差異はありさうである。以前は普通の食事にも食べて居たといふが、現在は其粉に蓬や野葡萄の葉の干したのを交ぜて、圓くしてオヤキに燒き、味噌砂糖などを附けて食べる。東京などでよく聽く「粉糠三合あれば養子に行くな」といふ諺を、こゝでは「イスンカ三合あれば聟になるな」といふさうだから、イスンカの粉糠に近いものであることはわかる。出雲の能美郡でも屑米又は碎け米をイシンカ。恐らくはもと臼糠であつて石糠では無いだらう。ヌカは今日では主として粉糠のことをいふが、古い用法ではアラヌカの方がヌカで、玄米を精げる時に出來る方が特別であり限定詞を被つて居たのである。篩のまだ精巧で無かつた時代には、粉糠には微細の米屑を多く交へて居たので、その全體を食料の外に置くことが出來なかつたのである。

テノコ

 千葉縣東上總方面では糠をテノコといふ(千葉方言)。恐らくは籾殼だけをヌカと謂つて居たので、所謂粉糠には別に斯ういふ名が入用だつたのであらう。或は手糠で、手に附く糠の義であつたのを、ヌカともいひにくいので手の粉のやうに感じ始めたのかも知れぬ。

          ○

ハワケ

 飛騨丹生川谷では、稗と米とを半々にまぜたものに限つてハワケと謂ふ(採訪日誌)。かねて飯米の爲に大量を調合して置く場合の名らしい。米と麥とを併せ炊く飯をハンバグといふのも、起りは半麥でも半白でも無くて、やはりこのハワケだつたらうかと思ふ。

スリヌギ

 稗の粉の最も精選したものを佐渡の外海府などではスリヌギと謂ふ。搗いた稗を何囘も石臼にかけたもので、淡い水色を帶びた美しい色の粉である。赤兒の乳の代りに用ゐ、又病人も稗のスリヌギを食べても全快せぬやうなのは、醫者に見せても見込は無いと謂つて居た。

トウキビゴメ

 阿蘇火山の東側面の陸田地方は、玉蜀黍を主食にして居る。粉にひいても食ふが多くは米粒大に碎いて飯に炊ぐ。それを唐黍米といふが、唐黍は此地方では玉蜀黍のことである。遠目には美しい色をして居るが、トウキビ米はさう旨いもので無い。

コザネ

 阿蘇に接した日向の高千穗方面では、麥や玉蜀黍をすり割つたものをコザネと謂つて居る(旅と傳説六卷八號)。豐後の方ではコザネといへばたゞ割麥のことである。ヒキワリといふ名は挽臼が普及してから後の名であらうが、其前にも割麥はあつたのである。コザネは古い言葉かと思はれる。近年になつては穀實をサネとは謂はない。

コクレン

 玉蜀黍には數多の地方名のあることは、「方言覺書」中にもう發表した。其中ではコウレンといふのが不明で、或は高麗黍の名が元はあつて、それを訛つたのかとも思ふが、越後西蒲原にはコクレンといふ語さへあり、地藏堂の町のコクデングヮシといふのも、玉蜀黍で製した菓子の名であつた(高志路一卷六號)

サナゴ

 東京西郊の農村では、小麥の挽いた粉をサナゴと謂ひ、もとは之を午後の間食にもして居たといふが(北豐島郡誌)、是は少しばかり變化した用語法であつた。サナゴは靜岡縣西部の山村では、粉をふるふ時に篩に殘る荒い粉のことで、又フキガスといふ者もある。小麥のサナゴは多くは鷄の飼料であつた(土の色一二卷三號)。山形縣の東田川郡でも、米や蕎麥の粉の篩の滓がサナゴ(土の香一六卷三號)、上總の一宮邊でも豆の粉を挽いた殘りの滓がサナゴである。サナはサマと同じに元は窓又は目のあるもの、たとへば焜爐の中じきりの網樣の底を、近江の北部ではサナと呼んで居る。だから篩の目から出ずにしまつたものが、サナゴと呼ばれることは、ユリゴなども同じである。ところが其言葉が次第に不明に歸して、長門の豐浦郡でも東京でママコといふもの、即ち粉を水に和したときに、小粒となつてよく水に交らぬものをサナゴと謂つて居る。

メゴナ

 麥の引割を作るときに粉が出來る。それを相州津久井地方で、メゴナと謂ふのは新語である。即ち臼の目にたまる粉の意である。

メカス

 目糟も挽臼に殘る滓のことだつたらうが、現在は是だけをもう一度臼にかけるので、其意味が説明しにくゝなつた。佐渡の島などのメカスは專ら蕎麥の粃のことで、之を粉にしてメカス團子といふものを作つて居る(佐渡の民謠)。外海府に行はれる民謠の一つに、
稗粉するときや嘗め/\摺るが
    メカス摺るときやならが出る
といふのがある。ナラは涙、この島ではダ行をラ行に發音するのである。蕎麥のメカスは臼にかけても中々すりにくく、しかも稗粉ほど旨くは無いのが悲しいといふ意味であつた。越後の岩船郡では、米の精白の際に生ずる粉米碎け米もメカスといひ、蕎麥のメカスも亦粉をひく前に取つてのけるといふが(布部郷土誌)、それはこのメカス摺りに取りかゝる前までの話であらう。信州の下伊那郡で、蕎麥のメクソと謂つて居るのもこのメカスのことで、此地では蕎麥粉は水車の挽臼にかけて挽くが、それへ遣る前に先づメクソを取ることをカヂュウスルと謂つて居る。粒を石臼に入れて杵でこねるのだといふが、實際を見ないからどういふ風にするのか私にはわからぬ。このメクソだけは別に粉に挽いて、かい餅などにして食べるといふ(伊那一五三號)。ところが石川縣の石川郡などでは、其樣に二つに分けて挽かなかつたと見えて、蕎麥を篩にかけて殘つた滓がメクソだと謂つて居る(風俗畫報二三〇號)。察するところ以前は一樣に、蕎麥もメクソも同じ臼を以て、一續きに粉にして居たのである。

モミヂコ

 關東の方ではフスマといふもの、即ち小麥の粉を取つた殘りの外皮を、上方では一般にモミヂと謂ふやうである。其色の少し赤味を帶びたのを、紅葉にたとへた風流の名らしい。そのモミヂからも惡い粉を取つて食料にした。是をモミヂコとも又フスマコとも、兩樣の名を以て呼んで居る地方もある(紀伊日高郡)

スマ

 小麥の外皮をフスマといふわけは、まだ明かでないが、麩といふ食物の名と關係があるだけは想像することが出來る。現に埼玉縣の東部農村には、小麥粉を取つたあとの糟を、スマと謂つて居る例もある(幸手方言集)。フスマは現在は家禽などに遣つてしまふけれども、以前は此中から色々の入用なものを取つた。その一つは即ち麩、その殘りの粗惡品からは、糊にする生麩(しやうふ)が出來た。是は麩を製するとき水の底に澱んだものを、乾して曝して貯藏するのであつた。石の挽臼が行き渡らなかつた世には、搗臼によつて得られる小麥粉の量は少なく、麩になり生麩になる部分が今よりも遙かに多いので、フスマも當然に食料の中に入れなければならなかつたのである。しかしそれをスマといふ名で呼んだかどうかはまだ明かでない。

コムギシラコ

 土佐の高岡郡では、フスマ即ち小麥の皮を水で捏ねて、其ねばりを黐の代りにする。子供が蜻蜒をさすのは、通例はこの小麥シラコであるといふ。このシラコも白い色から出た名ではないらしい。

トドリ

 麥を磨いだ磨ぎ汁の底に沈澱するものを、長門の島々ではトドリと謂ひ、之に蓬の葉を入れて餅に搗いたのを、トドリ餅といふ處もある(見島聞書)

          ○

ノムギ

 信州から飛騨に越える野麥峠の地名なども、この野生の食料によつて出來た名といふ(信濃地名考)。野麥はミヤコザサといふ一種の笹の實で、普通にすずの實といふものの方言である。皮は薄赤く、中に白い粉があつてやゝ小麥と似て居る。山地の住民は之を穀物に交へて麺に作つて食べて居た(伊那一五三號)

エノコ

 隱岐の島前では葛の根をエノコと謂ふ(昔話研究一卷九號)。この名稱は他の地方ではまだ聽かない。

ズリ

 長門の大津郡などで、根から澱粉を採取する野生植物の一つ、「かたくり」のことだといふが、西の方で此名を以て呼ぶのは、山慈姑だけには限らぬやうだからまだ心もとない。ズリといふ名は他にもあるかどうか。

ウルネ

 ウルネカヅラといふ野生植物の根だといふことで、昔の飢饉年には是から片栗粉を取つて食べたといふ話が、紀州の上山路などにはある。カヅラといふ以上は本物の片栗で無いことは明かである。南河内の山村でカラウ又はウリネといふものと同じであらう。

カネ

 葛の粉をカネ又はカンネといふ土地は弘く、九州は一般に葛をカンネカヅラと謂ふやうであるが、果して此一種に限るか、又は根塊類の澱粉をすべてカネといふのかは問題である。鳥取縣の東伯郡などには、蕨のカネといふ語があり、鹿兒島縣でも特にクヅノカネと明示して居るから、少なくとも長門の豐浦郡のやうに、之をカヅネとはつきりと發音し、葛根の語音の如く考へるのは誤りであらう。しかし注意して見ると野生のものに限り、栽培品の芋などにはさう謂はぬらしい。全體にこの所謂カネを、常食とする風は意外に少ないやうである。飛騨の白川などは葛の粉はクヅネで、カネといふ語は行はれないが、是から製した澱粉はコといふものには入れて居ない。さうして明治の末頃までは、たゞ凶年の補食として大事にするのみで、殆と常用にはして居なかつた(ひだびと五卷六號)。カネの語原は或は斯ういふ處にあるのでは無いかと思ふ。

ハチグヮツバナ

 野生の澱粉をハナといふ區域は中々弘い。それが同じ物をカネと謂はぬ地方にのみ行はれて居るのを見ると、或はこの二語はもと一つのものかも知れない。飛騨で八月バナといふのは蕨粉のことで、多分は採取の季節から出た名であらうが、大體にハナとたゞ謂ふと、此地方では蕨の粉のことである。しかし信州の伊那遠山などでは、クヅノハナといふのが葛粉のことであり、東北には又特に根バナといふ名もあるから、元は範圍のずつと弘かつた語と想像せられる。たゞそれが米小麥稗蕎麥などの、澱粉にまで及んだかどうかは疑問であつて、後に此區別を立てない土地が少しはあつても、それは新たなる延長かも知れぬのである。熊本縣の南部等に於て、人が死ぬと直ぐに作る枕團子を、オハナといふのは忌言葉であらう。乃ち斯ういふ必要から、いつと無く米の粉もハナと謂ふやうになり得るのである。

タテハナ

 飛騨で蕨粉のハナを製する方法は、もうよほど進んで居る(ひだびと七卷二號)。是の水の中に沈澱させる裝置をハナ桶、其前に垂れ槽の中で攪拌する櫂の樣な木をハナ起しといふなど、色々の道具が具はつて居る。製品の中では上等品をシロバナ、多少土などもまじつた二番粉を黒バナと謂ふ。タテハナのタテはもとかきまぜることで、斯うして作る粉の全體の名かと思はれるのに、現在は二種を分離した第二等のものゝ名だといふ。即ち黒バナとの中間に又一つの品種が認められたのは、段々製法が改良せられて、優等の商品が出來たことを意味するのであらう。

ネバナ

 蕨の粉をネバナといふのは東北一圓のやうで、是で製した餅をネバナ餅、岩手縣の下閉伊郡では、又ネ餅とも謂つて居る(民俗研究九號)。秋田縣の山本郡などには、今から百數十年も前に、もうこの蕨ネバナを、商品として賣り出す村があつた(霞む月星)。ネバナが蕨の粉に限るやうになつたのは、或は是だけが早く商品化した結果では無いかと思ふ。その時代より前には、津輕では葛かづらの根の餅を、ハナモチと謂つて居たこともある(率土が濱風)

クサノハナ

 相州の津久井から、富士の山麓地方にかけて、草のハナといふのが蓬即ち餅草のことである。蕨粉などのハナと共通の點といへば、餅になるといふことだけであつた。それで我々はハナ又はカネといふ語が、何か補食料の意味をもつかと想像するのである。

ササメ

 青森縣の上北郡などで、蕨の根から澱粉を取つた殘りの、一番滓をアモ、二番滓をササメと謂ふ。無能な人を罵つてアモクソといひ(野邊地方言集)、ササメとは言はないのは、ササメ以上はまだ之を食料に用ゐる餘地があつたものと思はれる。

ヲノネ

 美濃揖斐郡の山間の村で、ヲノネといふのは、「からむし」の根のことである。晒して粉にして食用に供した。

カラウ

 和名木烏瓜といふ。カラウは瓜呂などゝも書く。一名ウリネともいへば、前に掲げたウルネカヅラと同じものであらう。二尺ほどもある大きな芋が出來る。それを掘り出して鉈ではつり、唐臼でつき、水に浸けて粗皮を取去り、底に溜つたものを握つて食べた。まことに苦いものであつたといふ(南河内郡瀧畑村古老談)。是が我々の知つて居るたつた一つの記述である。烏瓜は九州の方ではニガゴリといふ方言がある。やはり其根を食用とした經驗からの名でなかつたか。

ヘボッチョ

 瓜類の末なりの小さなものを、此名で呼ぶことは他の地方にも例があるが、信州北安曇郡の小谷地方では、烏瓜のこともさう謂つて居る。食用又は藥用にするのは其果實で、根の澱粉は所謂天花粉である(郷土一卷四號)

オシグリ

 搗栗(かちぐり)のことを岩手縣九戸郡ではさういふ(郡誌)。臼に入れて杵で搗くことをカツといふ地方ならば「かちぐり」、オスといふのも多分同じ處理法の地方名であらう。

クリノコ

 栗の粉、搗栗を更に舂いて粉にしたもの、青森縣の五戸地方では商品になつて居た(ひだびと六卷一〇號)

コザハシ

 栃の實をさはして澁を拔き、食用として貯藏するもの、其さはし方には二通りあり、粒のまゝ灰水の中に永く浸して置いて澁を拔くのをマルザハシ、一方最初から粉にしてさはすのが粉ざはしである。粉のさはし方は煮てどろ/\にして上から水を當てる。之に用ゐる簀を栃棚といひ、楮の皮で編んで布が敷いてある(ひだびと六卷二號)。是を十分に乾燥して後に貯藏するものと思はれる。楢の實も同じやうな處理をして居るやうだが、なほ栃の粉ざはしの方が多く用ゐられ又有名である。此語の行はれる區域は中々弘く、岐阜富山新潟の三縣に亙つて、山村には今なほこの製法を記憶して居る者があり、殊に越中五箇山の奧、越中加津良、飛騨桂といふあたりには、
嫁に行くなら桂へおいで
    栃の粉さはし我がまゝよ
などゝいふ、少し皮肉な民謠さへ殘つて居る。即ちこの粉の用法は餅に入れたり團子にこねたり、其他色々の手數のかゝるものがあるのだが(旅と傳説九卷四號)、此土地だけは最も簡單に、いつでも自由に粉のまゝを頬張つて居たといふので此歌があるのである。

ドワ

 穀粉などの醗酵して固まることを、出雲大原郡ではドワニナルといふ。標準語には之に該當するものが無い。ママコといふのは只水にゆるめた場合だけの名のやうである。

ゴマメ

 筑前早良郡などで、黒豆のことをゴマメといふのは、大豆を摺りつぶしたのをゴといふことゝ關係があるらしい。即ち特にゴとして食ふに適した豆の意か。

ゴト

 陸前本吉郡などでは、醤油の滓をゴトと謂つてよく食べる。ヒシホ・モロミなどゝ同じだといふが、勿論一段と粗末なものであらう。糠味噌をゴトミソといふ地方もあるのを見ると、ゴといふものゝ範圍は豆だけに限らなかつたか、もしくはこのものにも元は豆を入れて居たかである。鹿角の毛馬内あたりでは、豆粢まめしとぎの柔かなものをジンダと呼び、正月十六日にはカユノシルの中へ、是を燒いて切つて入れた(ひだびと九卷一號)。他の地方でいふジンダは米の粉糠を寢かせたもので、今では主として漬物用であるが、古くは之も補食品であつた。さうして此語の起りはまだ判つて居ない。

ザウジモノ

 文字には雜事と書く中世の上品語で、今日いふ副へもの・オカズを意味する。地方には弘くまだ殘つて居るが、專ら野菜に限つて用ゐられる。たとへば廣島邊では我々の謂ふ八百屋をザウジヤ又はザウジ賣りといひ、越中高岡でも野菜ものをゾウズモン、越後の蒲原地方でも、汁に入れて煮るべき野菜がザウジだと謂つて居る(さと言葉)。熊本縣南部の山村でも青物をザウシモノと謂ひ、特に親戚の不幸の折に、米一升に添へて持つて行く青物をさう呼んで居る。中部地方でも飛騨の清見村有巣などは、芋牛蒡大根の類を他家へ贈るのをゾジと稱し、吉凶ともに酒米は持參せず、たゞこのゾジと醤油だけを持つて行くといふ(ひだびと五卷一號)。斯ういふ山間の村に於て、雜事に栽培蔬菜を用ゐ始めたのは古いことではあるまい。現に伯耆の中津の奧などでは、ソウジモノと謂へば山で採る野菜の總稱になつて居て、其中には獨活・山の芋・蕨・ゼンマイ・蕗・タラの芽・ムカゴ・スズノコから艾・ハハコまでが含まれて居て、人に贈りものにする場合だけには限らなかつたことは(山村生活の研究二八〇頁)、青物といふのも同樣である。

サイノクサ

 丹波の北桑田郡でも、不幸の家へ米一升に副へて持つて行く食品をサイノクサと謂つて居る。現在は商品の瓜大根、又は乾物などもあらうが、それをなほ菜の草といふのは古風のまゝである。

クサモノ

 飛騨の丹生川の山里では、吉凶ともに人の家へ青物を贈るが、祝ひ事には之をセンザイモノと呼び、葬式の時に限つて之をクサモノといふさうである。センザイは多分千歳の音に近いのをめでたので、それで凶事には避けたものかと思ふ。

カデクサ

 クサモノのクサも元來は草から出た名であらうが、後には弘く副食品のくさぐさを意味するやうになつた。青森縣の津輕地方には、オカズ即ち飯の副へものを一般にカデクサといふ名があり、秋田縣の北部でも、汁に入れて食べる青物類を汁クサといふ語が知られて居るのみならず、更に大阪府下泉南の山村の如きは、正月元日に年始に訪れる人に、串柿二つ蜜柑二つを供するのを、クサといふ風さへある(口承文學二號)。カデクサのカデは飯に添へるものゝ意で、オカズといふ語とも元は一つのやうだが、地方によつては是をやゝちがつた意味に用ゐて居る。

ヤマカデ

 山野で採取する野生のカデクサのことゝ思はれるが、越後の東蒲原郡などでさう謂つたのは、單なる副食用のもので無く、アザミ・カヘロッパ・コゴミ等の、飯に炊き込んで食ふ種類のものだけを、もとは山カデと呼んで居たさうである。カテルといふ語の用ゐ方が、土地によつてちがつて居るので、之を補食用の意味にカテ飯などゝいふのは、比較的新らしいことかと思ふ。北蒲原の出湯附近で、春早く採つて食用にする一種の草に、カテナといふのがあるといふが(高志路二卷九號)、是などは多分菜(サイ)にする方のカデであらう。雪國では野菜が嫩く柔かくて、今でも副食用として採取せられる山の青物が多い。ミヅ・アイ・ホナ・シホデの類、算へ上げると二十種以上もあるが、是は既に分類山村語彙に載せたから、爰には再び説かない。中部以南の暖かい土地にも芹とかヨメナ・タンポポといふやうな栽培せぬ野菜は今も存外多く、又ヒユナやアカザの類の、特別の場合だけに食用とするものも若干ある。

アヲカテ

 陸中東磐井地方で青カテと謂つて居るのは、大根の葉の鹽漬にして貯へられたものゝことである。之を小く刻み大根と共に米の飯に交へて食べる(岩手藤澤誌)。大根の葉は乾しても貯藏し、之を赤葉といふから、それに對した語であらう。

アヲモノトリ

 野菜のもと野生であつたことは文字からでもわかる。それを又青物と謂つて居たのは、雪の多い地方としては最も自然の名であつた。越後北蒲原地方の山の青物には、アヅキナ・コゴミ・ミヅ・シドケ・小ウルヒ・本ウルヒ等があり、信州北安曇郡ではこの以外に、ウトウブキ・ウド・アザミ・蕨や筍までを其中にかぞへて居る。さうして青物採りといふ語は東北から此地方にまで及んで居た。一時に大擧して採り集め、之を鹽にして置いて年中に食料にした。それで又「無鹽の青物」といふ珍らしい言葉もあるのである。漬物といふ特色ある食品の日本に發達したのも、起原は全くこの青物採取の期間が、畠とはちがつて甚だしく短いからであつた。

アヲヤ

 栽培する蔬菜にも青物といふ名を延長し、之を鬻ぐ店を青物屋といふことは、東日本一般の風であつたが、東京などはいつの間にか之をヤホヤといふやうになつた。種類が多いから八百屋だと解する人が多いが、それは後からのこじつけである。會津の若松などは今でも青屋と謂つて居る。實は今一つ青屋といふ職業があつて、それは一つの下り職であつた故に、まちがへられては困るのでヤホヤと言ひかへたのかと思ふ。

アヲクサヤ

 加賀の金澤などは、所謂八百屋を青くさ屋と謂つて居る。多分は青物をもと青クサとも謂つたのである。クサは食品のことだつたから、この方が一段と具體的だつたともいへる。

シャエンモノ

 徳島愛媛の二縣などには、蔬菜類をシャエンモノといふ語がある。シャエンは菜園の漢字音だけれども、其方はもう使はずに、略してシャエンと謂つてもやはり蔬菜のことであつた。佐渡の島でも所謂野菜の意味にサエンといふ語を使ひ、之に伴なうてサエン畠・サエン賣りなどの語があつた(方言集)。大和宇陀郡などで野菜をサイクサといふのも、事によると一度このサエンといふ語を通つて來て居るのであらう。

センザイモノ

 是も東京附近で蔬菜のことをいふ名である。前栽は中世の上品な新語で、もとは庭園のことであつたのだが、農家では屋敷に接した汁の實用の畠を、この前栽の名で呼んで居たのである。

デアヒモノ

 季節の食物といふ意味に、出合ひ物といふ語を使つて居る土地がある(但馬大杉谷)。魚類にもあるが植物には殊にシュン又はスといふことを重んずるのは、もと/\採取の時期が限られて居たからかと思ふ。

フクタチ

 莖立即ち蔬菜の春になつて薹に立つことであるが、それをククタチと呼んだのは古く、東北では又一般に始めのクをハ行に發音して居て、時としては畠の菜をすべてフクタチといふ人さへある。雪の中から急いで伸びるので、野山の青物も同じやうに、殊に寒國では菜の莖が柔かいのであらう。しかし中國の方でも、稀には小松菜をフクタチナといふ處もあるから(岡山方言)、名の起りは新しいものでない。

クキナ

 山形縣の多くの郡では菜漬をクキナ、之を細かく刻んで味噌で煮たものをクキニともいふ。莖立の菜には限らず、生えて間も無い大根をまびいたのも、デコグキと謂ひ、又大根葉の乾したのをクキバとも謂つて居る。何れも他の地方同樣に味噌汁に入れ、又は煮付けて食べる。(土の香一六卷二號)。島根縣の邑智郡などでいふクキタチも、必ずしも薹に立つた菜だけでは無く、三月頃麻じりの畠に殘つて居る蕪菜を拔いて漬けて置くものゝことであり、もとは田植の頃の食物となつて居た。さうして漬物用の菜を一般にヒラグキとも呼んで居る(粒々辛苦)。能登の舳倉島の海女がフキと謂つて居るのは薩摩薯の蔓のことで、之を鹽漬にし又はフキ汁にして食べるさうである(島二卷)

カンヅケ

 いはゆる澤庵漬のことを、九州北部では一般に寒漬とさういふ。今では菜類にも冬に入つてから貯藏にとりかゝるものが多くなつて居るが、以前の野菜は春の終りに漬けて、古くしてから食べなければならなかつた。同じ漬物でも寒漬の方が、まだ若干の新鮮味を保つて居たので、是も食物文化の一つの進境であつた。

ヤタロウ

 一旦鹽漬にしたものを出して、甘酒の中に酒粕を入れたものへ漬直すのを、どういふわけでかヤタロウといふ土地がある(富山市近在方言集)。斯ういふ漬物にも色々あるが、何れも新らしい方法かと思はれる。

トウブンヅケ

 大根や茄子を鹽少なく漬けたものを當分漬(出雲方言考)、味はよいが長くは貯へられぬ。或は當座漬又は淺漬といふ處も多い。つまり漬物は年を越すやうに鹽辛くつけるのを、本則として居たのである。

カンダイコ

 大根も寒中に一旦煮て、凍らせて乾して貯へる風が東北にはある。之を春さきの汁の實に入れるのである(旅と傳説一一卷九號)

カケダイコ

 正月歳神樣や惠比須大黒樣に、掛大根と稱して二本、ちやうど掛の魚のやうに竿に掛けて上げる地方がある(岡山縣川上郡など)。一つは美觀であらうが、もとは斯ういふ短期の貯藏法も、暖かい地方にはあつたのである。いはゆる澤庵漬の大根は今でもたゞ掛けて乾して居る。

ツルクシダイコ

 又單にツルクシとも謂ふは乾大根のことである(愛知縣碧海郡誌)。土地によつてはこの簡單な方法によつて、貯藏に堪へるものを作ることが出來るのである。しかし現在はたゞツルクシ又はツルシといへば、乾柿を意味する處の方が多い。

サキボシ

 岐阜縣東部などに、乾大根をサキボシといふ語があるのは(民族一卷三號)、裂き乾しである。小さく切つて乾すかはりに、株の根もとを一つにして取扱ひに便にしたのは、小さいながらも近世の考案であつた。

ミノボシ

 大根の切乾しのことだと報ぜられて居るが(信州上田附近方言集)、起りは美濃乾し又は蓑乾しであつて、やはり一本のまゝで纏めて乾すやうに、竪に長く割いたものかと想像する。

タコノテ

 山口縣の一部で乾大根をさう呼んで居る(阿武郡誌)。是も蛸の手のやうに竪に割つてあるからの戲語であらう。

ムジン

 越中の五箇山では、刻み乾大根をムジンといふ。語原はわからぬ。

カッポジ

 信州でカッポジといふのは蕪の切乾しのことである。蕪乾しかと思ふが確かでない。

カンコロ

 薩摩薯の切乾しをさう呼んで居る地域は、九州北部から島々にかけて甚だ弘い。名の起りはまだ明かで無いが、さう古くからの食品でも無いから、或は外の物からの轉用とも考へられる。現に馬鈴薯にも、早又カンプラ薯の名が出來て居るのである。薩摩の伊唐島ではこの切乾しをコッパ、此名も相應に弘く知られて居るが、是は手斧のはつり屑を、東京あたりでさう謂ふのと同じに、木の葉のことゝも解せられる。同じ地方では又大根を薄く切つて乾したものを、切る前に暫らく鹽水に漬けて置くので、カンヅケと呼んで居る例もあるから、或は斯ういふ方面から移つた名とも見られる。何れにしても語音に人望のあつた爲に、記憶しやすく又流布しやすかつたことは爭へない。

ホシカ

 さつま薯を皮のまゝ切つて乾したものを、土佐ではホシカと謂ふ處がある。大和吉野郡の天川村あたりにも同じ名は行はれ、爰では皮は剥いて居るが、適宜の薄さに竪に切つて、大根や串柿と同樣に、軒に下げて乾して居るのが眼につく。十分乾燥してから貯へて置いて、春さき副食物の乏しくなつた頃、湯でもどしておかずにするといふ(大阪民俗談話會報一〇)。土佐では多くは餅にして食べるといふが、或は切る前に一度蒸して置いて、菓子代用にする薯切乾しも他にはある。ホシカといふ語は一般に、肥料用の干鰊の名になつて居るので、此方を誤用のやうに解する人もあらうが、實はその肥料のホシカとても新らしい名であり、又その由來も明白でないのである。

カチイモ

 靜岡縣氣多の山村などでカチ芋といふのは、普通の里芋、この邊でエゴ芋といふものゝ乾したのである。最初に一度蒸し、火棚へ上げて十分乾燥させてから、臼で搗いて外皮を去つたもの、即ちこのカチは搗栗のカチであつた。俵につめて何俵と無く貯藏し、五十年前までは是がこの地方住民の主たる食糧であつた。今も堅い家では若干は之を續けて居る。

ケイモ

 宮崎縣の一部には、里芋をさう呼ぶ處がある。ケ芋のケはハレに對するケ、即ち日常用といふことで、以前は此芋が單なる副食物で無かつたことを推測せしめる。

ワンナ

 千葉、茨城二縣の農村で、芋殼一名ズイキの乾したのをワンナと謂つて居る。今では語原を知る者は無いが、割菜であらうと思ふ。多くのナの中で此物だけが、裂いて細くして食べるものだつた時からの名と見られる。備中の笠岡あたりでは、産後一ばんの食物は白味噌の汁にズイキを入れたもので、是をワリナと呼び、古血を下す效があると謂つて居た。紀州の熊野の太地邊でも、舊十月十五日の此神祭の供物には、この割菜と鯨の皮とを入れた味噌汁を、今でも必ず供へることにして居る。ワンナも恐らくは乾して貯へるものに限らず、以前はもつと弘く用ゐられた食料だつたらしい。

イモジ

 里芋の莖を蔭乾しにしたものを、信州下伊那地方ではイモジと謂ふ。五月頃野菜ものゝ乏しい際に、之を出して味噌あへなどにして食べる(日本農業雜誌二卷一三號)。莖立ちをクモジと謂つた類とも考へられるが、イモジは古くは鑄懸屋のことであつた。多分は此名に托して食物のわびしさを紛らさうとしたのであらう。鑄物師をオイモヤサンと戲れた手毬歌なども處々に殘つて居る。

ダツ

 愛知縣の市郡から飛騨にかけて、芋殼即ち里芋の莖をダツと謂つて居る。名の起りはまだわからない。

フワイ

 喜界島では今でも芋田があつて田芋を作つて居る。芋餅は五月五日の定まつた食物にもなつて居るが、別にその莖を食料にすることも栽培の一つの目的であるらしい。この芋莖をフワイといふのは(同島食事日誌)、くわゐ(即ち慈姑)の轉用のやうにも見られるが、どちらが前であつたかは實はきめられぬのである。

タホド

 津輕では慈姑を田ホドと謂つて居る。野生のホド芋は見たことも無い人が多くなつたが、阿波の劍山周圍その他の山村では、之を掘つて食つた記憶が新らしく、殆と馬鈴薯に逐はれたと言つてもよい。東北の瓜子姫昔話には、通例爺と婆とのホドを掘つて來て食はせる一條を伴なうて居る。

ギワ

 黒くわゐといふものの別名、まだ實物を見て居ない。子供がその球根を掘つて食ふ地方がある(岡山方言)

ツシダマ

 阿波の祖谷山で、菎蒻玉のことをさう謂つて居る。是も野生の一種ではないかと思ふ。

チブシ

 箒草の實といふが、或は特に食用に適した一種があるのかも知れない。字には地膚子などゝ書いて居るけれども、少しも宛てにならぬ宛て字で、多分は齒に當つてツブ/\とする感じの形容であらう。東北では可なり人望のある食品で、味噌で煮たり、又はわさび醤油や大根おろしで味を附け、飯の上に載せて食べる。三戸郡などの狹い區域に限られるものゝやうにいふのは誤りで(旅と傳説九卷四號)、土地によつて少しづゝ名稱がちがつて居るのである。秋田縣の南部に來ると之をトンブリと謂ふ。トンブリを七日七夜煮ると、馬の眼玉ほど大きくなるといふ話もあるから、大體にさつと煮て食べるものと思はれる。中部以西にも全く無い食料とは言へまい。

オヤス

 大豆の「もやし」、地方によつては夙くから之を食料にし、從つて育成の方法もよく研究せられて居た。鹿兒島縣肝屬郡などでオヤスといふのも、モヤシの音變化ではあらうが、同時に豆を併せてこの物を作る行爲をもオヤスと謂つて居て、二つの動詞の元は一つであつたことを心づかせる。

ダイヂガラ

 佐渡の小泊などでは、蕨の乾したものを水に浸けたのをさういふ。之を二本づゝ結び合せて、節分の夕の膳には、是と七粒の大豆とを必ず添へることになつて居るさうである。

シホモノ

 春のうち野山から採つて來た蕨・蕗・いたどり・エニヨなどゝいふ類の若芽を、一度水で煮てから鹽に漬けて置くものを、東北では一般に鹽物と謂つて居る。夏になると茄子や夕顏なども斯うして貯へることがある。秋田の男鹿地方などは、正月十五日の前夕、一晩がかりでこの鹽物を大鍋に煮て置いて、正月中之を食べて居るといふ。

ビエン

 又はブエン、字には無鹽と書いて普通には鹽にせぬ生鮮の魚のことだが、やはり東北には無鹽の青物がある。採取期の極めて限られた自然の野菜は、鹽に貯藏して食用にする日が多く、取り立ての珍重せられたことは魚類と異なる所がなかつたのである。

アヒモノ

 又アヒノモノ、古い文書には合物と書いた例が多く、或は相物とも書いて居るが、意味は採取期と採取期との中間の食物、即ち主として乾して貯へてある魚類海産物、鰹節乾海老の類をさう呼んだのである。鹽魚鹽漬類はもとはこの合物の中では無かつたと見えて、鹽合物といふ用語例も殘つて居る。しかし四十物と書いてアイモノと訓ませるやうになると、此品目の中には鹽物も入つて居たかも知れぬ。隱岐の合物船のことは太平記の御船出の條で有名である。

アエダラ

 今なら鱈の燻製とでもいふべきものを、以前青森縣下でアエダラと謂つたのも(尾駁の牧)アヒモノの鱈といふことであらう。寒地では日光乾燥が間に合はなくて、地爐の煙に當てゝ防腐したものと思はれる。年越肴煤取祝の膳には、この合鱈を用意したことが記録せられて居る。

クグシ

 喜界島では鰆その他の大きな魚を捕つたとき、良いところは皆一定の大さに切つて、串に刺し火の側に立て、好い色に炙れると拔いて保存して置く。折目や客をする日の料理に限つて使ふので、わざ/\無鹽の魚を斯うして食ふことさへある(食事日誌)。長く保存する爲には時々出して日に乾す(旅と傳説、盆號)

カケガラシ

 能登の西海岸などで現在掛けがらしと謂つて居るのは、一旦鹽漬にしてから乾した魚である。主としてハチメといふ魚で、之を四五尾づゝ一連にして、掛けて乾し上げたものである(水産界六六四號)

カラガケ

 鰮を鹽に漬けてから上げて汁を切り、更に鹽をまぶして壓搾したもの。正月の幸ひ木の飾りには缺くべからざるものとなつて居る(續壹岐島方言集)。所謂懸の魚は、本來は貯藏の状態のまゝの姿と思はれる。

ツツミジヒラ

 山陰地方で弘く用ゐられる正月肴の一つ。シヒラを鹽にして藁で包んで貯藏したもの。北陸では鰤も同じ目途に供せられ、之をマキイナダと謂つて居る。鮭や鱒にも以前はこの貯藏方法が盛んであつたらしく、今もアラマキといふ語が知られて居る。アラマキは淺漬と同じくあらく鹽をふり撒いたからの名かとも思つたが、マクはやはり藁を以て卷くことであつたのが、この包みシヒラの類推によつてわかつた。八月頃に盛んに漁れる魚で、農家と親しみが多く、瀬戸内海沿岸ではこの魚の名が稻の粃(シヒナ、シヒラ)と近いのを憎んで、マンビキといふ別稱を用ゐて居る。マンビキは此魚の群來性に基づき、或は又クマビキともいふ。

ホウドシ

 所謂目ざし鰯のことを、福島縣相馬地方でホウドシと謂ふのは頬通しである。目も頬も大よそ同じで、或は又ホウザシと呼ぶ地方もある。小魚を一尾づゝ乾す煩はしさを省く爲に、串を使つたのは近世の發明らしい。

イリボシ

 汁の調味料に使ふ小魚を、イリコ又は炒り乾しといふ處は多い。少ない水と強い火で一旦煮て乾すから又ニボシともいふのである。コワイジャコといふ名は上方に弘く行はれて居るが、語原はまだ確かめられぬ。

イリガラ

 大阪と其附近では、鯨の肉の油を取つたあとを、古くから炒り殼と謂つて居たが(浪花聞書)、本來は是だけには限らなかつたらしく、東北は石卷大槌などでも、田作りの名をもつゴマメといふ小魚の乾したのをたゞガラと呼んで居る。殼といふからには多分魚燈の油を搾るやうになつて後の名と思はれる。

ニガヒ

 甲府韮崎あたりの名物として知られて居る煮貝は、富士川の水運を利用して入つて來たものだが、まだその蚫の生産地はどこであるか知らぬ。徳島縣海部地方の商ひ船では、隱岐の某地に渡つて蚫を採り、煮貝を製して持つて來たことが記憶せられて居る。古くからの貯藏法の一つと思はれる。

チギリ

 血切りか、魚類を割き血を洗はずに其のまゝ鹽漬にしたもの、播磨でも土佐でも共に此名がある。

ツケドミ

 信州の山村にも知れ渡つた食物、所謂四十物(アヒモノ)の一つ、長鰯を粉糠と鹽とで漬けたもので、主として越後西頸城の海濱から、歩荷の肩で運び入れられた(郷土一卷四號)。越後の方では是を又ナシモノとも呼んで居る。妙な言葉だが魚無し時の食物の意で、やはり又合物と同趣旨の命名らしい。ツケドミの粉糠は洗ひ落さずに、其まゝ燒いて糠も共に食べた。東京では現在鰯の粟漬といふものが、以前は粟の代りに粉糠を用ゐた時代がある。是は酢漬で燒かずに食べるのだが、漬け物材料まで食つてしまふ點は相似て居る。酢といふものゝ起りも是であり、鹽魚も元は鹽は洗ひ棄てゝは居なかつた。我々の食習は、いつの間にか大いに變つて居るのである。

キリゴミ

 東北ではほゞ一般に、所謂鹽辛を切込みと謂つて居る。是も亦魚も漬けしろも共に食べてしまふ一例である。佐渡島では特に烏賊の鹽辛だけをキリゴメと謂ふさうだが、是は鹽と麹と烏賊のわたとを合せたものへ、生烏賊を小さく刻んで入れ、瓶の中で醗酵させたものといふから今の普通の製法とはちがひ、よほど黒作りと呼んで居るものに近い。

ハラスマイ

 奧州の氣仙地方で鹽辛又は「ひしほ」のことだといふ。語原は不明。

ニトリ

 鰹節を作るときに、釜で煮た煮汁の底に沈澱したもの。集めて味を附けて酒の肴にする(阿波の言葉)。同じ地方で又酒盜などといふのも同じ物らしく、是は商人の廣告用命名で、現在は其類の珍らしい名が多い。

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ツトクヅシ

 卷蒲鉾のことを、肥前の唐津などではさういふ。クヅシは西國一般に魚の肉を叩いて集めたもの、即ち東で蒲鉾といふものゝことで、それを苞で包むから苞クヅシである。蒲鉾といふ名も蒲の穗の形によそへたのであらうから、寧ろ今いふチクワが是に該當する。だから西の方は是だけをイタと謂つて居る。板にクヅシを載せるやうな小さな改良も、新らしい文化の一つの現はれであつた。

ハシトウフ

 豆腐の粕を取らずに堅めて作つたものを、喜界島では何故かハシ豆腐と謂ふ。もとは屋普請や農繁時にはよく作られた(食事日誌)。全體に西南地方の豆腐は今でも固く、藁で十文字に結はへて下げてあるくのを屡※(二の字点、1-2-22)見かける。多分鹽を多く使ひ、又目の粗い布の袋で漉すのであらう。都會では近い頃まで絹漉し豆腐の名があつた。今の葛湯に近い豆腐は新らしい現象である。

ヒユシ

 豆腐を厚みに切つて油で揚げたものを、鹿兒島附近でヒユシといふのは、多分ヒリョウズのR子音脱落であらう。しかしその所謂飛龍頭の名の起りも不明、是を葡萄牙語といふのも出たらめらしい。東京でガンモドキといふのは商品名であらうか。モドキは「よく似て居るもの」のことだから、或は雁の味がするとでも謂つたのであらう。この位の誇張は商品には有りがちである。

ケンゾ

 越前から能登の半島にかけて、おから即ち豆腐の殼をケンゾと謂ふ語が行はれて居る。その語原は究め難いが、信州松本附近でいふキジといふ語を仲に置いて、どうやら京華語のキラズとの關係が考へられる。之を「切らず」と解したのは後のことかも知れない。

ココロボチ

 越前の三國港附近で、石花菜即ち「てんぐさ」をさういつて居る。この單語にはをかしい歴史がある。中世以前の日本語はブト、今でも九州から沖繩にかけて、まだ口言葉に傳はつて居る。此草を煮とらかすとよく凝るので、「ここりぶと」からココロブトと謂ひ出した時代が久しく、意味とは何の關係も無しに、心太の文字を使ひ出したのが、文字は其まゝにして置いて、之をトコロブトと謂ふ者が多くなつたものらしい。コゴルは「煮こごり」などの複合形でまだ殘つて居るが、コルといふ動詞に新たな内容が出來て、普通カタマルといふ語を代用し段々もとの意味が不明になつたのと、一方には野老(トコロ)といふぬる/\するものが知られて居るので、終にトコロテンが標準語になつてしまつたのである。テンといふのも音が面白いので流行したまでで古い語では無く、或は心太の太の字を、天と誤つたのが始めでは無いかとも想像せられる。

イゴサラシ

 イゴは一種の海草、植物圖譜にエゴノリとあるものかと思はれる。用途はてん草と同じく、東日本の各地では盆の月の食品とし缺くべからざるものである。海から遠い村々にも商品として持込まれて居る。濱では採つて洗つて日に乾し、天氣つゞきなればわざと夜露にあてる。白く晒したものを寒天のやうに練つて、細かく刻んで酢味噌あへなどにする。佐渡ではイゴネリと稱して、張板や餅板の上に練つたイゴを薄く延ばしたものを、切つて醤油で煮て食べる食法もあつたが、それよりも普通なのはカガミイゴ、即ちこの液體を皿類の中で凝らせて、圓い鏡の形のまゝを供するもので、越後でも信州でも、又奧州の南部領でも、今以て之を盆の正式の供物の一つにして居る。圓いといふ點に何か信仰上の意義があつたものらしい。

イギス

 東北は秋田の男鹿半島でも、エギスといふ海草を汁くさとして食べて居たといふ記事が殘つて居る(恩荷奴金風)。九州にも此名は處々に知られ、島原半島などは誤つてイギリスと呼んで居る。大分縣速見郡でイギスといふのは、椿やくぬぎの實を叩いて粉にしたもので、之を水に浸けて置くと固まるといふが、それは疑はしいことで、多分是にも海草のイギスを加へて凝結せしめるのであらう。イギスとエゴノリとは、科を同じくし種を異にして居るが、以前はこの區別を立てず、二者同じものゝ地方名の變化だつたかと思ふ。オゴといふ海草も現在は別種のものであるが、言葉は一つのものから次第に分化して來たやうである。

イムラ

 又イグラともいふ。植物學の分類ではヒバマタ科のイシゲといふものであるが、イゴ又はイギスと外形が少し似て居る。壹岐では明治の初めまで、そのイグラを乾して粉にしたものを團子に入れ、又は飯の中にまぜて食べた(民俗誌)

メノコ

 岩手縣の海岸地方では、昆布を細かく刻んで米粟稗などゝ共に飯に炊いて食べた。之をメノコと謂つて居たが、近頃は殆と廢れて居る(下閉伊郡誌)。單に昆布の惡いのをメノコに乾したともいへば(民俗研究九)、或は昆布の根を細かく切つて乾したともいつて居る(新岩手人二卷四號)。つまりもう覺えて居らぬ者が多くなつたのである。

ハマナ

 庄内地方で、海苔を濱菜といふとあるが(山形縣方言集)、是も紫海苔だけには限つて居なかつたものと思ふ。

テントコ

 鳥取縣の中津山村では、胡椒をテントコと謂つて居る。此地でコショウといふのは蕃椒即ちトウガラシのことである。蕃椒をコショウと呼ぶ地域は存外に弘い。中部地方では木曾信濃二川の流域、京都附近にも飛び飛びに痕跡がある。九州は大體にトウガラシをコショウといふ地域であり、その南部にはカウレエグス、即ち高麗胡椒の名がある。其他の地方では東海道の一部から北陸奧羽の全體に亙つて、ナンバン又はナンバがあの赤い蕃椒のことである。トウガラシといふ地域は、全國の五分の二にも足りない。

ツブカラシ

 會津地方では、蕃椒をもとカラシと呼んで居た。之に對して標準語のカラシに當るものを、特にツブカラシと謂ふさうである(新篇風土記)

アキビアブラ

 秋田縣鹿角地方では、「あけび」の種子から油を搾つて食用にした。小正月には特に此油を以て附け揚げをこしらへて佛さまに上げた(民俗學二卷二號)

メダレ

 以前の食鹽は製し方が粗末で「にがり」が多く之を貯藏することが容易でなかつた。越後地方では木を刳つて作つた鹽槽の上に鹽を叺のまゝで置き、其底にたまる滷汁をメダレと呼んで居た。メダレの用途は土臼を卷く粘土の中に入れ、又は除雪用のコイスキに塗つて雪の凍み付くを防ぎ、或は皮膚の水蟲よけに塗つたりしたが、別に食用としては豆腐の製造に之を利用したさうである。

スマシ

 現在は醤油で調へた汁だけがスマシで始めから澄んで居るのだが、以前は濁つた汁を澄ましたものが醤油であつて、味噌と醤油とは本來は別々のものでなかつたのである。或はこのスマシ取る爲に、始めからやゝ水分の多い味噌を仕込んだこともあるらしいが、普通には味噌を水で薄めてから、布の袋を二度ぐらゐ透してオスマシの汁を作つて居る。秋田縣北部などでは其袋をスマスブクロと謂ひ、又味噌漉しといふ一種の竹籠も、其爲に作られたと思はれるから、スマシとは謂つても十分に澄明なものでは無かつた筈である。しかし是だけでは今日の醤油のやうに、濃淡を自由にすることは出來ない。それで今一種のタマリといふ方法があつて、味噌桶の中へ細長い竹笊をさし入れて置き、佛事の日などには其筒形の中に溜つたものを汲み出して使つたのである。中部地方などで醤油屋をタマリ屋といふ語が今でもなほ行はれて居るのは、この方式のよほど久しく續いて居たことを意味する。

シラトリ

 醤油の表面に浮ぶ白い黴を、上方ではシラトリ又はシラトといふ者が多い。關東から奧羽地方へかけては之をササミといふ。語原はわからぬがササミとシラトとはもと一つの語だつたやうである。きたない例だが虱をシラミ、その蟲の子をキサザなどゝいひ、東北では今でもシラミをシヤメと發音する人が稀でない。

コシ

 鹿兒島附近では黴も麹も共にコシと謂ひ、又色々の皮膚の病にもコシ・コセカキ・コシキヤマヒといふ語がある。麹を今の假名遣ひでカウヂと書いて居るのは、最初からの名では無かつたかも知れぬ。各語それ/″\の獨立した起原は考へられぬからである。

トモゲ

 岡山方言に、トモゲは麹の種のことだと報じて居る。トモはこの種を米にまじへると皆麹に化するから、仲間にするといふ意味で、トモといふ語も同じであらうが、ゲといふ語がまだ判らぬ。或はカウヂの舊語であらうか。以前の麹作りは今よりも一段と神祕なもので、たとへば壹岐島のテモヤシの如く(民間傳承一卷八號)、家はそれ/″\の口傳があつて、空中の酵母の自然に來り着くに任せて居た。從つて所謂トモゲの經驗は、食物文化の一つの進歩であつた。

アマカス

 甘酒はもとは堅練りが普通であつたらしい。東日本では是を甘粕又は甘粥といふ名が弘く行はれて居る。秋田縣の男鹿半島の甘粕の製法は一つの例だが、米をケメシ(粥飯)に煮て甕に入れてさましてから、同じ量の麹を入れてかきまぜ、何か被せものをして二日ほど置いてから食べるといふ(農民日録)。水にうすめて湯にして飮むのが普通だが、諏訪の古い祭では、之を木の葉に包んで供へたことが記録に見えて居る。

アマリ

 酢をアマリといふことは、上方では夜分の忌言葉として殘つて居るだけだが(民俗學四卷六號など)、中國九州に行くと是が普通の名であり、鹿兒島縣と南の島々では又アマンとも謂つて居る。米の飯や薯なども餘りの物を、壺の中に貯へて作るからと、五島あたりでは説明して居るが、やはり酸くなる前に一旦甘くなるので、アマリと謂つたのでは無いかとも想像せられる。腐るをアメルといふ動詞も東北にはある。

カキズ

 熟柿を甕の中に貯へて作る酢があつて、廣島縣では之を柿酢と呼んで居る。柚を關西ではたゞユウといひ、九州ではユース、東の方ではユズといふ者が多いのは、柚子といふ漢語の音讀では無く、この果實から最も簡單に酢が取れるからの名であつたことが、是によつて類推し得られる。橙をコウブツなどゝいふのも、最初はカブスでは無かつたかと思ふ。カブは九年母とも書いてもとは外來語らしい。

シバス

 柴酢。徳島縣奧木頭の山村で、ユルデ即ち白膠木(ぬるで)の葉から酢を搾りそれをさう呼んで居た(人類學雜誌一九〇號)。何か簡單な酢が手に入るやうになれば、當然に斯ういふものは忘れられて行くのである。

オコウ

 味噌は製法の地方差以上に、名稱が各地區々である。オムシ又はムシといふのが中央部には弘く行はれて居るが、佐賀縣ではオコウ、鹿兒島縣でもオコ、さうして其語の起りはまだわかつて居らぬ。八丈島では之をダシ(八丈の寢覺草)、東北は氣仙郡でオエンソといふのは鹽噌の古稱である。津輕では又ジンゴベイといふ名もある。

ジンダミソ

 甲州では陣立味噌と書き、又一夜味噌とも謂つて、武田信玄の古法だといふ説がある(續甲斐昔話集二八九頁)。小麥粉の花つけ(麹)を戰場に携へ、鹽と水とを合せて、之をジンダを掻くと謂つたといふが、他の地方の例を見比べると、是ではまだ一般の解説にならぬ。たとへば岩手縣の稗貫郡では枝豆餅、即ち若い豆を潰して餅につけて食ふのをジンダ餅とよび、飛騨でも大豆を煮てつぶしたのをジンダと謂ふ、中世の記録に糂※(「米+太」、第3水準1-89-82)などの字をあてたのは、多くは米の粉糠を鹽に合せて醗酵させたもの、今日の所謂糠味噌のことをいふやうである。糠味噌は現在は單に漬物の床であるが、もとは是をも食料に供した土地が多かつたやうである。

ヒナタミソ

 廣島縣の一部では、「ひしほ」のことをさう呼んで居るといふ。醤のヒシホの「ヒ」も日であつて、曾ては日温を以て之を促成して居た故の名ではないかと思ふ。

ナッツ

 納豆ともと一つの言葉であらうが、秋田地方には別にナッツと稱して、鹽辛と鮓とのあひの子のやうな食物がある。製法はまだ我々にわからぬが、何か穀類を使つて醗酵させたものらしく、是に川魚や草などを漬けて貯藏するといふ(旅と傳説八卷六號)。所謂納豆にも豆を使はなかつた時代があるのではなからうか。

ナットノヲトコ

 越後の各郡では歳の暮に納豆を寢せるのに、藁を引結んだものを其苞の中に入れ、之を納豆の男と謂つて居る。この「男」を入れると納豆がよく出來るといふのは實驗であらう(越後三條南郷談)。薩摩の黒島でも燒酎釀造の際に、笹を結んで麹の上に刺すのをムスビと謂ふ。ムスビを多くさすほど燒酎の出來がよいといふ(くろしま一四八頁)。數千年間のバクテリヤは、斯んな簡單な方式を以て傳はつて居たのである。

ミソカスモチ

 東北ではスマシを取つた味噌の搾り滓に蕃椒や山椒の實を入れて摺り、それを丸く平たく握つて乾したものを、味噌滓餅と謂つて貯へて置き、炙つて飯の菜にして居る(鹿角方言集)

ヨカンベイ

 酒の粕は酒の價が高くなると、湯に解いて酒の代りに飮む者が益※(二の字点、1-2-22)多くなる。東北では一般にドベといふ。山上憶良のカスユ酒もやはり是であらう。福井縣の坂井郡などで、酒の粕をヨカンベイといふのは、やはり此用途の爲に出來た名で、隱語で無いまでも、恥を包む戲語であらうと思ふ。

ナンバンショノカス

 越後では我々のいふ味醂粕のことをさう呼んで居る(出雲崎)。ナンバンショは即ち南蠻酒で、この酒製法の輸入の際に出來た名である。

トウライ

 味噌豆の煮汁の底に澱んだものを多くの土地では、アメ、美濃の徳山村ではトウライと呼ぶ部落がある。子供がそれを貰ひあるいて食べる。

エガス

 荏糟。荏胡麻の實を臼に入れて搗き締木にかけて油を搾つた殘りを、やはりその多くの産地では子供が貰つて喜んで食べた。多く食べると下痢をしやすいものだつたといふ(三州奧郡風俗圖繪)

アメガタ

 水飴は早く起り、之を固形にする技術は久しく普及しなかつた。飴形といふ言葉は、後者が子供にも親にも珍重せられた名殘で、西國は一般にこの名を以て今も行はれて居る。菓子を總括してアメといふ地方も弘い。所謂飴形以外に是といふ種類の菓子も無かつた時代があるのである。この固形の飴が始まつてから、急に小兒の食物が變化し、町の小商人の才覺が農村を風靡したことも想像し得られる。たとへば彩色を利用して、横斷面に人の顏を出すやうにした飴の棒、東京では「おたさんと金太さんが飛んで出たよ」などゝ謂つて、縁日で賣つて居たものが、僅かの間に全國の隅々にまで普及し、中國でも九州でもよく見られるやうになつた。東北では男鹿半島の農村で、テゴコアメ又はフトコアメと謂つて、市の日に賣りに來たのも是であつた(農民日録)。フトコは「人」といふことで、即ち小兒の付けたらしい名である。

タグリアメ

 水飴は段々と固くなつて來た。タグリ飴といふ名は今も東北に殘つて居て、篦か箸のさきに附けてたぐり取るほどのゆるさであつたものが、後にはケヅリ飴と謂つて鑿を以て削り取り、目方で賣るまでになつた。容器も始めは碗や皿であつたのが、コバ飴といつて鉋屑に包み、又は笹の葉や竹の皮に挾んで運ぶのを珍重するやうになつた。それが愈※(二の字点、1-2-22)形を作り、又練つて白い色のものを作ることが出來て、粉をまぶして數を算へ賣れるやうな商品になつてしまつたのである。

ギョウセン

 今でも水飴の方をギョウセンもしくはヂョウセンと謂つて居る土地は甚だ弘い。上方などでは竹の皮に引き伸ばした飴、或は固飴のことをさういふ處も稀にはあるが、四國九州では水飴に限つた名であるらしい。起りは地黄煎、即ち地黄といふ苦い藥を煎じたのに、水飴を混じて飮みやすくしたものの名であつたといふ(浮世鏡三)。地黄は藥と言はうよりも寧ろ強壯劑であつた。是が商品として流行した事情は、可なり近世の肝油飴と似て居る。多分は後者が地黄煎の故智を學んだものであらう。その事情が既に不明になつて名のみ殘り、賣藥の盛んな富山縣などでさへ、淨宣寺又は行仙寺といふ寺で、製し始めたのが元で此名が出來たといふ説を信ずる人が居る。しかし液體の水飴ならば古い頃からあつた。たゞこの藥の煎汁を混じ始めた頃から、是が人望ある商品となり、同時に竹の皮を飴の皮と呼ぶ位に、やゝ固形に近くなつて來ただけが進化なのである。

シホガキ

 砂糖以前にも飴の普及があつて、食料の甘味は徐々と増加して來たが、その以前は今から想像もし難いほど淋しいものであつた。柿の實の食法の今よりも多岐であつたなども、この甘味の不足を補充する手段であつたかと思はれる。あまづらとか蜂蜜とかも記録にあるのみで、全く是を知らぬ土地は少なくなかつたのである。信州川中島附近には鹽柿と稱して、柿を鹽藏する風が今でもある。此柿は或は澁柿のよく熟したのを、此方法によつて甘くするのかと思はれるが、奧州八戸附近でいふ漬柿は、ミャウタンなどゝいふ木ざはしの柿が多く用ゐられる。鹽を少し入れて貯へて置き、冬中氷を割つて出して食べるといふ(ミネルヴァ一卷八號)

ヂンヂイガキ

 甲州北巨摩郡あたりで爺柿といふのは、燒柿のことである。柿を燒いて食べる風はもう稀になつたが、是も恐らくは澁柿の調理法であらう。樹の實で齒の無い者にも食べられるものは、以前は甚だ少なかつた上に、木練り即ち樹上で甘くなる柿の種類も乏しく、何か手をかける必要があつたのである。

トンコ

 熟柿は多くの土地ではジュクシ又はヅクシと謂つて居るが、是は漢語だから新らしい名と見られる。もとは別の名をもたぬ位に、是が普通の柿であつたのかと思ふ。越後の三面村ではこの熟柿をトンコと呼んで居る。コウセン即ち麥の炒粉に、このトンコを合せ練つて、甘味をつけて食べるといふ(布部郷土誌)。この食法は信州美濃等にも弘く行はれて居る。ネルといふ言葉は、或は斯うした穀粉の食法から始まつて居るのではあるまいか。

ネリガキ

 コネリ即ち木練りといふ名は、既に柿系圖にも見えて居て古い言葉であり、又今も九州には行はれて居る。信州でも一種小粒の砲彈形のものに其名がある(上田附近方言集)。東京近郊でも甘柿をキザハシ、即ち樹上でサハシた柿といふ名を以て呼んで居るが、サハスといふのは元來は樽などに入れ又は酒精を注射して、澁柿を甘くする技術のことであつた。京阪地方では是をアハスと謂ひ、九州でも佐賀縣などはネルと謂つて居る。その澁柿を練つたネリ柿に對して、自然の甘く熟する柿の方はネレ柿と謂ふさうである。つまりは乾柿その他の柿を甘くする方法が既に擴張してから後に、樹の上で甘くなる品種が普及した歴史を語るものである。岡山縣の西部などでは、サトウ柿といふのは所謂あはし柿のことであつた(備中北部方言集)。砂糖の名を知る頃まで、なほ澁柿を以て之に代用して居たのだから、ネル又はアハスといふ技術の大切であつたことはわかる。

グヮンザン

 熊本では澁柿のアヲシ柿に對して、木ねり、木ざはしの柿をグヮンザンと呼んで居る。この語の意味はまだ明かでない。

カブチ

 橙を志摩の和具村などでカブチといふのは、此地方としては珍らしいが、是に近い名は九州の海岸と諸島には行き渡り、或は香物又は好物と解してコウブツといふ者も多い、九年母は中央部では橙とは別種と言はれるが、西國ではこの區別は無いやうであり、是にも亦クニブといふ類の地方名がある。或は兩者もと一つの系統の、外來の歴史を示す語では無いかと思ふ。ダイダイといふ名なども實は由來が判つて居ない。好ましい音だから弘く行はれたまでのやうである。

ツング

 子供が取つて食ふ木の實には、曾ては成人にも入用のあつたものが多いやうである。九州の島々には我々の知らぬものも色々ある。ツングといふのは「あこの木」の實のことだが、他にもこの名を以て呼ばれて居るものがあるらしく、肥前江島などでは今も小兒が採つて食べて居る。又インタといふ葡萄の實に似て小さいものも食べる。

コウシキ

 中國地方の山の村で、子供が秋の山に入つて採る樹の實も色々あるが、其中で色が赤く肉が柔かで、低い灌木になるコウシキといふなどは忘れ難い。今から考へて見ると形がやゝこしきと似て居る。甑はもう使用する人が無いから、至つて古い命名であることがわかる。

ヤラフ

 蘇銕の實である。是は今でも穀食を補つて居る。沖永良部島などの味噌は、專らヤラフを用ゐ、此實の取れる十月前後に、味噌を搗くことになつて居る(シマの生活誌)。又粉にして貯へて凶作の備へともする。

ハマチャ

 島根縣一帶に知られて居る茶の代用品で、クサネムといふものだといひ(出雲方言)、或はカハラケツメイのことゝもいふ。石見三瓶山の裾野の産がよく知られて居る(郷、一卷三號)。郡によつてはコーカ茶といひ、又カーカ茶とも謂ふ。コーカ又はカーカは多分中國各地のコウゲも同じで、草原のことであり、東北でいふカヌカ又はカッカと共に古語の殘りと解せられる。即ちさういふ土地に野生する茶の代用品で、茶に伴なうて其利用が始まつたのである。

モクダ

 青森縣津輕の農村には、斯ういふ名の茶代用品が元はあつた。普通には山茶ともいひ、煎じたものを茶筅で泡立てゝ飮むことは、以前の茶の用ゐ方も同じであり、又たゞの茶に交へて煎じることもあつた。漢名は赤竹麻、山に野生する、トリノアシといふ草に似たものといふ(外濱奇勝)





底本:「定本柳田國男集 第二十九巻」筑摩書房
   1964(昭和39)年5月25日発行
初出:「民間傳承八卷二號〜八號」
   1942(昭和17)年6月〜12月
※「新らしい」と「新しい」の混在は、底本通りです。
入力:フクポー
校正:津村田悟
2021年7月27日作成
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