八月二十四日の真夜中、当分
杜絶になるという最後の連絡船に乗って本州へ渡った。
船は
樺太からの
引揚民で一杯であった。人々は折り
重って
冷い甲板上にねていた。それからそれにも増して混んでいる東北線で一昼夜
揉み
潰されて、やっと東京へ着いた。
東京は全く平穏であったが、帰りの汽車は復員輸送で往きよりももっとひどく混んでいた。前後二週間近くのこの苦しい旅行で得たものは、日本全国流言蜚語の洪水だという感じである。自分で直接見たもの以外は、人の
噂などは全部流言と思って差支えないという確信を得ただけでも、今度の東京行は大いに有意義だったという気がした。
出発前にちょっと仕事の関係で北海道の田舎の
或る村へ寄ったら、東京は大混乱だという噂が
拡っていて、まるで死地へでも乗り込むように言われた。実際に行ってみると、東京は一番平静な街であった。帰りは技術院関係の友人が一緒に北海道へ来る用事があって、技術院の証明を持って
上野へ切符を買いに行った。その人が駅から帰って来ての話では、青森で七千人
溜っているからと言って、切符を売ってくれなかったということであった。私は往復切符をもっていたので、一人で先きに立って来てみたら、青森では一人の積み残しもなく、全部船に乗れた。
流言蜚語の培養層を、
無智な百姓女や労働者のような人々の間だけに求めるのは、大変な間違いである。関東大震災の時にも、今度と同じような経験をしたことがある。あの時にも
不逞鮮人事件という不幸な流言があった。上野で焼け出された私たちの一家は、
本郷の友人の家へ逃げた。大火が
漸くおさまっても流言は絶えない。三日目かの朝、
駒込の
肴町の坂上へ出て見ると、道路は不安
気な顔付をした人で一杯である。その間を警視庁の騎馬巡査が一人、人々を左右に散らしながら、遠くの坂下から
馳け上って来た。そして坂上でちょっと馬を止めて「
唯今六郷川を挟んで
彼我交戦中であるが、
何時あの線が破れるかもしれないから、皆さんその準備を願います」と大声で怒鳴ってまた馳けて行った。もう二十年以上も前のことであるが、あの時の状景は今でもありありと思い
浮べることが出来る。
勿論全く根も葉もない流言であった。
そんな馬鹿なはずはないと思われることは、どんな確からしい筋からの話でも、流言蜚語と思って先ず間違いはない。そういう場合に「そんな馬鹿なことがあるものか」と言い切る人がないことが、一番情ないことなのである。
八月十六日の夜中に、けたたましい電話の音で
起された。「一刻を争う重大問題だそうですから、直ぐ電話にかかって下さい」と家の者が
蒼い顔をしている。聞いてみると、なるほど重大問題である。
小樽へソ
聯兵が二万上陸したから、戦時研究関係の重要書類を直ぐ焼却しろという話なのである。もうみんな非常呼集で集っているという。前日からの疲れでぐっすり寝込んだ
寐入端を起されたので、大分不機嫌である。大体あの小樽の
埠頭設備で、二万の武装兵力が上陸するのに何日かかるか、とても一日や二日で出来る話ではない。夕方まで何事もなかったのに、三時間や四時間後にもう二万の兵隊が出現しているとしたら、それはアラビヤンナイトの兵隊である。
御免を
蒙ってまた床に潜り込んでいたら、一時間ばかりしてまた電話が来て「今のはデマだったそうだから」という話で
鳧がついた。
東京でも同じような話が沢山あったそうである。終戦から二、三日目に、某区で「今夜アメリカの兵隊が来るから、米国の国旗を用意し、
御馳走を作って待っているように」という布告を回覧板で廻した所があった。某研究所長の話であるが、その研究所員の若い夫人が、回覧板を見て
慌てて、研究所の夫君のところへ馳けつけたそうである。所長がそれは
嘘だ、そんな馬鹿な話があるはずがない、一体憲兵隊へ聞き合せたかときくと、まだ聞いていませんと言う。電話をかけてきいてみると、勿論嘘である。その所長は研究員の人に「君たちは百僚有司のその有司の一人じゃないか、こういう場合には、そんな馬鹿な話があるはずがないと言下に言い切れるようにならなくてはいけない」と
訓えられたそうである。
「そんなことがあるはずがない」と言い切る人があれば、流言蜚語は決して
蔓延しない。しかしこの「はずがない」と立派に言い切るには、自分の考えというものを持つ必要がある。そしてそのことは実はかなり困難なことなのである。特にこの数年来のように、もはや議論の時期ではない唯実行あるのみというような風潮の中では、その精神は培われない。
新日本の科学の建設には、まず流言蜚語の洪水を防ぎ止める必要がある。もっともそれが出来た時は、新日本の科学は半ば以上出来上った時であるかもしれない。
(昭和二十年十月八日)