真夏の日本海

中谷宇吉郎




 此の十年余り、海といへば太平洋岸の海しか見てゐないのであるが、時々子供の頃毎年親しんだ日本海の夏の海を思ひ返して見ると、非常に美しかつたといふ思ひ出が浮んで来る。
 日本海の沿岸には一般に砂丘がよく発達してゐる。浪打ち際から真白な砂が数丁も続いて小高い丘になり、その丘を越えたあたりから松林になつてゐるのが普通である。そしてその松林を抜けた所に初めて漁村が見えることが多い。それといふのは、冬の日を海が一つ荒れて来ると、数丁も続いた砂丘の上まで浪が押し寄せて来るので、とても海辺の近くに家などを構へてゐることは出来ないのである。
 渚に沿つてたどつて見ると、そのやうな真白な砂丘が暫く続いて軈て小さい岬につくことが多い。その岬は大抵の場合は軟質の岩からなつてゐて、冬の荒浪に段々根本を洗ひ去られて、恐ろしい断崖になつてゐる。そしてさういふ岬が半里毎位に突き出てゐる所では、その間が小さい入江になつて、真白な砂浜が弓なりに静かな青い夏の海をふちどつてゐるのに屡々出会ふのである。岬の端には大抵きまつたやうに、盆栽風な枝振りの松が孤立して立つてゐて、あとは黒く続いた松林になつてゐる。
 中学の頃夏休みになると、よくかういふ入江に近い漁村の一間を借りて、数人の友達と日本海の夏を送つたものである。此の頃のやうに入学試験の準備などに追はれる心配もなく、毎日のやうに朝飯をすますと、もう真ぐに魚刺やすと水眼鏡とを持つて海へ出かけて行くことに決つてゐた。松林を過ぎると、真白な砂浜が朝の強い日光を受けて目ばゆい許りに映えてゐて、その向ふに、海が文字通りに紺碧に輝いて見えるのである。夏の日本海の朝の色位美しい海の色は其の後見たことがない。油絵具のウルトラマリンを生のままで力強く塗つたやうな濃い色彩である。もつとも色の濃さからいへば、印度洋の航海の間には随分濃い海の色も見た筈であるが、真白な砂丘の向ふに見える真夏の日本海の色のやうな印象は残つてゐない。
 もつとも午後になると、此の色はすつかりあせて了ふのであつて、今から考へて見るも、どうもあの夏の日本海の朝の色を支配する一番大切な要素は、太陽の位置ではないかといふ気がする。もつとも海の色をきめる要素は沢山あつて、海水の中に含まれてゐる微粒の塵やうのものに支配されることが多いのであるが、朝凪のあとまだ海が比較的澄んでゐる時に、丁度太陽を背にして眺められるといふことが、朝の日本海の色を益々鮮かにするのであらう。
 間借りをしてゐる漁師の家から三丁位行くと小さい岬がある。そのあたりは一面の岩海で、岬の突端からほんの少し離れて小さい岩の島がある。その島の周りが吾々の漁場であつて、章魚とかさごと栄螺とが主な穫物であつた。毎日のやうに漁師の子供たちが大勢で追つ馳け廻してゐるにも拘らず、魚たちもそのあたりが好きと見えて、穫物はいつまでも尽きなかつた。海水浴に就いての衛生的注意などが学校でされてゐたのかも知れないが、そんなことはすつかり忘れて了つて、朝から夕方晩くまで水に浸つて居るやうなことが多かつた。吾々町の子供たちも一週間もすると、もうすつかり海に馴れて了つて、半日位夢中になつて章魚やかさごを追つてゐた。
 そのあたりは浪打ち際から一丁位沖まで、平らな岩礁があつて、深さは大体二尋から三尋位であつた。所々には背の立つやうな浅い所もあつた。岩質は何であつたか忘れて了つたが、顔を水につけながら海面にぽかりと浮いて下を覗くと、岩礁が紫がかつた薄黄色に光つて、所々に名も知れない雑多な藻がゆらいでゐた。岩には上から見ると一面に海綿のやうな穴が沢山あつた。二三度大い呼息を呼吸して、最後の息を八分位静かに呼き出したところでぐつと潜る。一尋位沈むと急に海水が冷々と身体に感ぜられるので、少し気味が悪いが思ひ切つて潜つて行く。そして底に着くと、左の手で岩の手がかりを押へて身体を水平にする。初めのうちは身体が浮いて困るのであるが、馴れて来ると割合楽に全身が海の底にぴたりと着くやうになる。さういふ姿勢で左の手で次から次と岩角をつかみながら、岩礁の上を這つて、小さい穴の一つ一つを覗いて行くのである。勿論右手には魚刺を持つてゐるので、それも漁師に教はつて金具に近い所をつかんでゐるのである。
 底に潜つて見ると、最色がまたまるで違ふ。岩の色は緑がかつた土黄つちぎ色に見え、海藻は薄茶色になる。そして多分海の表面の小さい波で強い夏の日光が屈折される為だらうが、強い金色の光の縞がゆらぐ藻の上を滑かに動いてゐる。穴を覗いて行くと、よく海胆うにが一つか二つ紺紫色の姿を見せてゐることがある。そして稀には栄螺が同居して居ることもある。あのあたりの海では大抵の場合、栄螺はきまつたやうに海胆と一緒に棲んで居るやうた気がしたが、偶然なのか、或は何かさういふ習性があるのか、いつか動物の先生にきいて見たいと思ひながらそれ切りになつてゐる。
 二つ三つ穴を覗いて行くうちに息が苦しくなるので、足で岩を蹴るやうにして浮き上つて来る。何かの調子でぼんやり浮いて来ると、僅か二尋位の所でも、海面まで出るのにひどく長い時間がかかるやうな気がすることがあつた。青みがかつた牛乳色の水面が上の方にあつて、息が苦しくなつて来ると、何だかその水面が自分の頭の上で渦を巻いてるやうな形に見えた。そんな時にあせつて手足をもがくと却つて遅くなるので、静かに身体を垂直にして居ると、すぽりと容易く頭が水面を突き抜けるやうな形に浮き上るといふことも、間もなく呑み込むことが出来た。
 穴を覗いて行くうちにかさごに出会ふことがよくあつた。少し薄暗く見える奥の方に、あの大きい頭ときよとんと前に向いた二つの大きい眼とを見ると、思はず緊張する。運よく息がまだ続く時で、最初の緊張のとたんに魚刺をふるつた場合は時々は巧く行つた。然し少し大きい魚の時など、慎重を期して一度浮び上つて息をととのへて又潜つたりすると大概は失敗した。魚を突くのは本当の気合もので、見つけてから一度落付いて静かに安全な所まで近寄つてなどといふ風に、一寸気を抜いたら大抵は逃して了ふやうだつた。こちらが余裕をつけてゐる間に、魚の方も一寸身体を動かして、待機の姿勢といふかたちになつて待つてゐる。さうなつたらとても吾々の手には負へぬのである。
 章魚はなか/\漁れなかつた。島の根本の深く刳られた岩洞の奥には沢山居るらしかつたが、其処へはとても潜り込む勇気はなかつた。深さからいつたら、大抵は奥行五尺位の簡単な洞穴だつたが、奥の方を覗いて見ると、真暗なやうな気がして、それに水の色が妙に濃く碧玉色に澄んでゐて、潜り込んだら最期身体が岩洞の天井に吸ひつけられさうな気がした。勿論さういふ岩洞は遠くから見ただけで失礼して、島の根本を半ば潜りながら周つて行く。すると稀には小さい穴の底から、藻と章魚の足とがもつれあつてゆら/\となびき出てゐるのを見付けることがある。章魚は岩や藻と殆んど同じ色をしてゐるので、馴れる迄はなか/\見付からない。小さい章魚でも生きてゐるうちはとても強いもので、特にあの沢山の足が腕にまつはりついて吸ひ付かれては耐らないので、此処と思ふ所を魚刺で突いて見る。巧く当ると章魚は慌てて足で魚刺の柄にからみついて来る。其処でぐい/\と魚刺をひねると、章魚は苦しまぎれに全部の足で柄に吸ひつく。さうなればわけなく漁れるのであるが、なか/\いつもさう巧くはいかない。途中で息が苦しくなつて浮き上つたりしてゐるうちに逃がして了ふことも勿論度々ある。
 吾々が狙ふのは章魚とか、かさご類の所謂底魚であるが、黒鯛の子だのべらだののやうに、途中を泳いでゐる連中も上手な人には突けるのださうである。黒鯛の子はいつも沢山で群をなしてゐる。底に潜つてぢつとして居ると、すぐ眼の前を敏捷な姿で後から/\と続いて通り過ぎて行く。少し丈けの高い海藻のゆれてゐる所が、連中には御気に入りの場所と見えて、藻の間を縫つて廻り灯籠のやうに、いつ迄もひら/\と廻つてゐることが多い。此の辺の土地では、釣りの餌に使ふごかいをとるのは主として此の岩礁地帯である。岸に近い背の立つ程度の浅い所で、よく漁師が鉄の楔を底の岩に打ち込んでは岩をはがしてゐるのを見ることがある。手頃な岩片がはがされて、岩の中に孔をつくつてひそんでゐたごかいが顔を出すのを、漁師は大急ぎで潜つてとるのである。一寸でも愚図/\して居たら黒鯛にとられて了ふので、岩を剥がしたら、まだ濁りの去らぬ水の中へ逆まに潜り込んで行くのである。楔を打ち込む音がすると、黒鯛は沢山集つて来てその周囲に待つてゐる。そして岩が剥がされると、すぐさつと飛び込んで来てごかいを持つて逃げて行く。漁師はいま/\しがつて追ふのであるが、黒鯛の方は平気である。かういふところを見ると、魚と漁師とは仲のいいものである。
 魚を追つかけてゐるうちに段々と沖へ出て、岩礁地帯のはづれ近く迄行くことがある。そのあたりへ行くと、岩礁は脈になつて沖へ延び出てゐるので、脈と脈との間は狭い峡谷になつて深く切れ込んでゐる。谷の底は砂地で、急に十尋位の深さになつてゐる。水はにはかに暗緑色になつて、その暗い底の砂地が妙に綺麗になだらかになつてゐるのが却つて気味が悪い。潜つてゐるうちに、少し深くなつて岩の色が変つて来たと思ふと、その隣りは恐ろしい深い谷になつてゐる。そしてその青く暗い谷底が、綺麗な砂地になつて藻さへ生えてゐないのが、何だか生物の世界でない世界の入口のやうに見える。潜りながら急にこの海の底の谷間を覗き込んだ時の神秘的な恐ろしさは、一寸外では経験出来ない感じである。そんな時に周囲を見廻して誰も居なかつたりしたら大変である。大急ぎで真剣になつて泳いで逃げ帰るのであるが、岸へ上つても心臓の鼓動はなか/\止らない。

 日本海の海岸は年々に沈んで行くと云はれてゐる。弁慶で有名な安宅の関といふのは、私たちの毎夏行つた所から数里と距つてゐない所であるが、当時の関趾は今では半里も海の沖になつてゐるといふ伝説がある。晴れた日に海がよく澄んでゐると、水底に鳥居のやうな形のものが見えるといふ話であるが、私は覗いて見たことはない。澄んだ深い海の底を覗くことは非常に恐ろしいものである。あの真蒼な暗い碧玉色の海の底に、人間の遺跡を示すやうなものが見えたら、どんなにぎよつとすることかと思ふと、とてもそんな所へ行つて見る勇気は出ない。
 さういふ伝説は日本海の沿岸到る所にあるらしいが、その外にも時々漁師の網に石器時代の住民の使つた土器がかかつて来たといふ話もある。それも一つや二つの例ではないので、日本海の沿岸の大部分の土地が年々沈降して行くといふ話は、大抵の人は信用してゐることである。この問題は地球物理学的に見て、特に日本の島嶼の成因とか、日本の地震の問題とかに関聯して大切な事柄なのであるが、本当の証拠になるやうな資料は思ひの外乏しいやうである。例へば或る海岸の地点の五十年前の写真と、同じ場所の現在の写真といふやうなものとを比較することが出来たら、所によつては案外それ位の年月の中でも、はつきりした証拠が出て来ないとも限らないと思はれるが、さういふ例も余り見たことがない。
 中学時代の海浜生活の旧い記念写真を眺めながら、色々の思ひ出に耽つて見たが、魚刺を持つて魚を追ひ廻すやうなことはもう二度とは出来さうもない。然し魚刺を小脇に岩頭に立つてゐる勇しい写真の方は、或は日本列島の構造の研究に何等かの貢献をする日が来ないとも限らないだらうと、変つた夢を描いて見るのは一寸楽しみである。何時か暇が出来たら、あの同じ土地へもう一度行つて見たいと思ふこともあるが、漁村の姿には昔の面影も残つてゐないことだらうと思はれる。





底本:「日本の名随筆56 海」作品社
   1987(昭和62)年6月25日第1刷発行
   1999(平成11)年8月25日第10刷発行
底本の親本:「続・冬の華」甲鳥書院
   1940(昭和15)年7月
入力:門田裕志
校正:川山隆
2012年12月6日作成
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