千里眼その他

中谷宇吉郎




 もう三十五年くらい前の話であるが、千里眼の問題が、数年にわたって我が国の朝野ちょうやを大いに騒がしたことがあった。私たちも子供心にその頃は千里眼を全く信じていた。子供たちばかりでなく、親たちも信じ、学校の先生たちも信じていたようであった。
 この頃る機会に、その頃千里眼問題に直接関係された先輩の一人から、当時の関係記録を借覧することが出来た。それを読んで行くうちに、私はこの問題は一種の流行性熱病と見るのが一番至当であろうという気になった。
 ところでこういう昔の話を今頃になって持ち出すのは、この種の熱病の流行は、必ずしもその国の科学の進歩程度には依らないという気がしたからである。もしそうだとしたら今後も流行するおそれがある。特に大戦争下などにはその虞れが濃厚であるとも思われるので、予防医学的な意味で、当時の世相をかえりみておくことも無用ではなかろう。
 千里眼の最初は明治四十一年の夏、熊本の御船千鶴子みふねちずこが、密封したものの中を見るという即ち透視の能力を得たと言い出したことに始った。その後丸亀市まるがめし長尾郁子ながおいくこが同じような能力を示し、その他にも方々でそういう人が現れて来た。そのうちに念写という問題も出て来た。この方は一層不思議なもので、密封した写真乾板かんぱんに色々な字だの図形だのを、念力ねんりきで感光させるというのである。
 もしそういうことが本当ならば、それは人間の精神力の神秘を解く鍵となり、また物理学なども全くちがった面貌をとるようになるであろう。従来の科学がその大筋において間違っていなかったならば、透視や念写などということは出来ないと見るのが至当である。
 ところが問題はそれが実際に出来るという点にあった。もし実際に出来ることならば、何も問題はないので、そういう事実を説明し得るような学問を作る必要がある。しかしこういう場合に、それが実際に出来たか否かということを決定するのは、案外困難である。手品か詐欺さぎのような要素が巧妙にはいっている場合には、なかなかそれを見破ることは出来ない。
 こういう場合の事実の判定は、特に科学的な問題と関聯かんれんしている場合には、警察の力でも出来ないし、またどんな権力者の力でも不可能なことが多い。学者といっても色々な学者があるが、例えば帝国大学の教授で博士というような人が、これは事実であると判定した場合は、一般にはそれを信用するより仕方がないであろう。
 ところが千里眼の場合には、京都帝大の精神病学主任教授今村博士や、東京帝大文科の助教授福来文学博士などが、自ら実験されて、それが事実であるという報告をされたのである。それに我が国哲学界の大権威井上哲次郎いのうえてつじろう博士も信用され、そういうことはあり得るという意見を発表されたのである。
 こうなれば、もう一般の人々は、それを信用するより仕方がない。それでなくてもいつの世でも、世間は珍らしい話が好きであり、人間は神秘にあこがれる本性がある。それに新聞にとっては、これは絶好の題目である。燎原りょうげんの火の如く、千里眼が全国に拡がり、いたる処に千里眼者が出現したのも無理のない話である。
 一旦いったん千里眼が実際に可能であるという判定になれば「そんな事が出来るはずはない」という議論は、もはや意味はない。現に、科学史に残るような大科学者が「出来るはずがない」と言った発明が、その後間もなく出来たような例も沢山ある。例えばヘルツが電波を発見した時に、やがて電線なしの電話が出来ましょうと祝辞をのべた人があった。それに対してヘルツは電磁波の振動数と音波の振動数との隔絶した開きを指摘して、そんな事は出来るはずがないと答えたという話がある。しかしその後十年にしてマルコニーは、ドーバー海峡をへだてる無線通信に成功しているのである。千里眼の場合はこれとは話が量的には著しくちがうが、それでも一旦その可能性が確認された以上は、存否の議論はもはや無意味である。それで千里眼の現象に類似した他の現象を探して、それらをまとめて理論付けをする必要が出て来たわけである。
 ところが意外の方面から、有力なその後援者が出て来た。それは動物学者の側からであった。当時我が国の動物学界の権威であった丘浅次郎おかあさじろう博士と京大の石川千代松いしかわちよまつ博士とが、昆虫に透視の本能があることを提唱されたのである。それは馬尾蜂うまのおばちという長い針のような産卵管を持った蜂がある。この蜂は樹幹中に天牛かみきりむしの幼虫の体に、樹皮の上からその産卵管を刺し込む習性をもっているが、これは馬尾蜂に千里眼的な透視の本能があって、外から樹幹中の天牛の幼虫の居場所を知るのであろう。こういう本能が人類に再現しないとは言えない。それで千里眼は今まで知られなかった本能の一つであろうという説なのである。
 動物学界の権威者たちが、昆虫に千里眼の本能があるといわれる以上、進化論からいっても、人間の千里眼もいよいよ確からしくなって来る。こういう風に状勢が進んで来ると、もはや千里眼は新聞記者の好題目や茶の間での話の種だけでは済まされなくなる。そして事実千里眼はまさに我が国の朝野を風靡ふうびする勢いとなった始末である。われわれ科学者の立場から言っても、もし透視や念写の可能性が実証されたのならば、それは今までの科学を放り出しても、その分野の開拓に突進するだけの価値ある大事件である。そして遂に我が国物理学界の開拓者で前東京帝大総長なる山川健次郎やまかわけんじろう先生の出馬を見るに到ったのである。
 ところでこの問題を物理学的に見れば、次のようになるであろう。今までの物理学では、物が見えるというのは、物の方から光線が来てそれが眼に入るからで、眼から何かの線が出てそれが物に当るから見えるのではない。眼でなくて何か未知の機能で感ずるとしても、それを感じさせる作用は物から来るという考え方である。それで透視が可能なためには、白紙に書いた黒色部分即ち字から何かの作用線が出る必要がある。その作用線のうちで、既知きちのしかも今までに知り得た唯一ゆいいつのもの、即ち光はこの場合問題にならない。それで全く未知の作用線を探す必要があるが、それは全然見当がつかない。むしろ従来の考え方を完全に変えて、人間の身体の方から何かの作用線が出るとした方が説明がやさしいくらいである。念写に到っては写真乾板の銀粒子に作用を及ぼし、其処そこに感光の勢力エネルギーを残すのであるから、この後者の考え方によるより仕方がない。
 人間の身体からる種の作用線が出るという考えは、古代からあるのであって、昔の英雄や豪傑は、ほとんど皆その能力を持っていたと一般には考えられて来ている。現在でも、指先から霊力を放射して病気を治すという治療者が、白昼帝都の中で営業をなし、その信者はいわゆる有識階級の人の中にも沢山あるらしい。もっともこの話はちゃんとした学者の中にもあるので、千里眼事件よりは後のことであるが、生物体から出る放射線を発見したと言い、それを生物線と名付け、その研究論文だけでも世界中で何百と出ているのである。
 この生物線の話は後に譲るとして、生物線などの知られていなかった当時のこととて、物理学者の間ではこの千里眼は初めから批判的に見られていた。もっとあからさまに言えば、疑いの眼をもって見られていた。その方が当然なのであって、到底考え得られないことなのである。それで誰も本気でこの問題をとり上げた人はなかった。それが珍奇を喜び、何事にあれ着実真摯しんしな道を煙たがりやすい世間には、大変評判が悪かったらしい。
 現代の日本の物理実験学を建てられた中村清二なかむらせいじ博士の「理学者の見たる千里眼問題」によると、先生たちはず「迂遠うえんなる学者」と言われ、ついで事件が念写にまで発展した頃は「頑冥がんめいなる学者」とされたということである。そして最後にこの事件は、御船千鶴子の自殺、長尾郁子の急死という破局に到って暗転したのであるが、その一段落ついたところで、従来の経緯をあきらかにされた時には、「余りにしつこいではないか」という世評を受けられたそうである。
 物理学者たちの消極的反対にもかかわらず、千里眼の方は益々ますます流行を極め、「天下その真偽に惑いかん催眠術者の徒たちまちに跋扈ばっこを極め迷信を助長し暴利をむさぼり思想界をみだる」という状態にまでなったのである。あとから考えてみればまるで悪夢のような話であるが、実際にあったことである。それはまさしく流行性の熱病であった。
 この一節は、千里眼の真偽如何いかんについて厳密なる科学的裁断を下すべく、丸亀市の長尾家における山川健次郎先生の実験に万般の援助をされた藤、藤原両先生の『千里眼実験録』の序文の一節である。この書などは現在では到底手に入らぬものであろうが、この種の実験報告としては、細心精到かつ典雅を極めたものである。
 細心精到なる所以ゆえんは、初めから千里眼を否定することはせず、もしこの現象の中に幾分でも物理学的要素があった場合にはその性質を吟味すべく、二十三種の実験五十余種の材料を携行されたことにもうかがえるであろう。典雅というのはこういう場合には可笑おかしな言葉であるが、この実験の困難は実は人事的方面にあったのである。その一つはこの現象が大部分精神的なものである以上、先方が精神状態を乱すからと言われればそれまでである。それで先方の条件は十分れて実験しなければならない。その条件が実は手品または詐欺さぎの挿入し得る条件だったのであるが、それだといって実験を打ち切れば、結局水掛論みずかけろんに終り、火は益々燃え上るばかりである。今一つは、これは想像であるが、長尾夫人の御主人が、現職の判事であったことも、この事件のかげに揺曳ようえいしているある種の雰囲気を思わすのである。そういういわば人事的な瑣事さじは科学の研究の前には問題とするに足らないというのは、科学がまだ十分に身についていない人の言うことである。両先生はその点を十分考慮し、先方の条件を完全に容れて、しかもその間に詐欺的要素あるいは未知の新しい現象がはいったならば、物理的にそれが分るような実験をされたのである。
 これだけの注意を払って、先方の条件をすっかり容れられたので、初めの数回の実験は長尾夫人も機嫌よく引受けた。そして透視の実験は一回は成功し、一回は失敗に終った。ところがその成功の実験は、先方の指定した机の上で、外からのぞけばすぐ見えるようにして字を書いた場合であった。次ぎに同じ机の上でちょっと腕で隠して書いた字はもう透視出来なかったのである。念写の実験は念写すべき文字を前日に通知しておいて、当日は写真乾板を箱に入れて封をせずに提出するのである。前日に文字が通知されているので、例えばその文字を切抜きりぬいた紙型を用意し、暗室内で箱を開いて乾板上にその型を載せ、ちょっと感光させればその文字が「念写」されるはずである。そしてこの実験では念写は成功したのであるが、同時に乾板を入れた箱をだれかが開いたという証拠しょうこも両先生だけには分るように歴然と残っていたのである。
 ところが此処ここに思わぬ大事件が突発したのである。それはおよそ考え得る万般の注意を払われたにもかかわらず、肝腎かんじんの決定的実験の際に箱の中に乾板を入れ忘れられたのである。それが色々のデマの根源となり、その後の実験は拒絶されて、遂に確定的な結論は得られなかった。ただ千里眼というものが、手品あるいは詐欺的要素が十分にはいり得る条件で行われるものであるということがあきらかにされただけであった。その後長尾夫人は物理学者の実験を回避する態度をとり、そのうちに同夫人のなぞの急死によって、千里眼は結局やみから闇へ葬り去られる運命となったのである。それは如何にも千里眼らしい運命であった。
 この話は初めから一種の熱病なのであって、どの実験にも精神状態を乱さないという条件がついている。その精神状態を乱さないための条件というのは、例えば透視では封書の糊付のりづけをしたり封印を施したりすることが禁ぜられ、現場で書く時は室と机とが指定され、また持参の実験物は一旦別室の指定の場所に安置して席をはずす習慣になっているなど、聞いてみれば他愛のない話である。念写も字は先方が指定し、もし実験者の方で指定する場合には前日に通知しておく必要がある。そして乾板を入れたものは封印をせずに無人の室にしばらく安置するのである。そういう条件は本来は事件全体が一笑に附さるべき条件なのであるが、問題はそういういわば馬鹿げた話が全国の朝野を風靡したという事実にある。
 もともと念写の起りというのが、のんき極まる話なのである。初めに透視の実験で途中で開封するのではないかという懸念のために、写真乾板の上に物をせて透視してもらった。もし開封すれば後で現像してみれば感光するから分るというので、これはうまい方法である。ところが実験の結果は乾板は感光していた。そこでこれは大変だ、念力には感光作用もあるらしいということになったのだそうである。実際はもっと紆余うよ曲折はあったのであるが、結局すじはそういうことらしい。これでは話にもならない。
 こういう風に書いてみると、そういう明白な事実を解明するのに、どうしてこれだけの騒ぎになったかが、一番不思議である。そして今更のように世の中というものは複雑極まるものであるという感を深くする。しかしそれが社会というものの実相なのである。
 長老の物理学者の一人で、前北大予科主事の青葉万六あおばまんろく先生から、明治時代の日本物理学界の回顧談をきいたことがある。その時先生は、この千里眼事件について、当時の我が国が、如何に挙げてこの事件に狂奔きょうほんしたかを話され、そしていよいよとなった時に頼りになったのは、当時の理科大学の先生たちだけであったと述懐された。そういう事件は案外深刻な影響を後まで残すもので、少し大袈裟おおげさに言えば、日本の科学界の一つの危機であった。中村先生の前に引用した文の最後にも、世間の人が信ずべからざることを信じているのは、非常に悲しむべきことである。こういうことを世人が歓迎する根本は、秩序を立てたことをやっているのがまどろしく、いわゆる六カ月速成式のことを欲するからである。秩序をすて、早く結果を得ることにのみあせると、皆が間違ったことを好むようになると述べられている。しかも恐しいことは、この種の病気は或る程度以上進行すると、もはや手をつけられないことである。そして難病をその最初期のうちに治してしまった名医は、案外余り感謝されないものである。
 これで千里眼事件も一応けりがついたのであるが、まだ問題はいくらも残っているように見える。例えば今度の事件はそれとして、昆虫に千里眼があれば、不思議は同じことであり、いつまた人間にそれが再現するかもしれない。この問題も実はもっと早く解決しているのであって、要するに馬尾蜂うまのおばちに千里眼の能力はないのである。少くともあるという証拠は極めて微弱で、こういう大問題の前では、問題として提供するまでもないものなのである。それを当時直ちに精細に論じ、敢然として学界の長老に抗議した札幌の農大の一学生があった。その学生は現在の北大の理学部長小熊捍おぐままもる博士である。学界の因襲について知識の少い一般の人たちには、こういうことが如何に困難であるかは、ちょっと想像出来ないのである。こういう感謝されざる名医は外にもあったことであろう。そして万事は芽出度めでたく納ったのである。
 ところが此処ここで念のために、前に言った生物線のことをちょっとつけ加えておく必要がある。
 生物線ということを初めて言い出したのは、モスクワ大学のグールウイッチ教授である。同教授は初め玉葱たまねぎの根の細胞の有糸分裂を研究していた。その時他の玉葱の根の先端を横に置くと、その方に向いた側の細胞の分裂が盛になると言い出したのである。この時途中に硝子ガラス板を置くと作用が消えるが、水晶板を置いてもなくならない。それで硝子には吸収されるが水晶は通る線、丁度紫外線のような性質の線が、増殖中の細胞から出て、他の細胞がその線に照射されると分裂が促進されると考えたのである。
 グールウイッチはこの線をミトゲン線と名付け、細胞分裂の際にはこういう今まで全然知らなかった放射線が出ると考えた。我が国ではこの頃この線を生物線と呼ぶ人が多い。こういう不思議な放射線が実在するものなら、それは生物学界の大問題である。従って世界中で沢山の学者がこの線の研究に没頭して、一九三五年までに既に五百余りの論文が出ている。
 この生物線も誠に不思議な放射線であって、或る学者の実験では出るし、他の学者の研究では出ない。出ない方が実験が下手かも知れないし、出る方が可怪おかしいのかもしれないので、騒ぎは益々大きくなった。
 そのうちにバクテリアの増殖の場合にも出ることが分り、また酵母からも放射されるという人も出て来た。こういう風に研究が進んで来ると、化学変化もこの現象に関係があると言い出し、過酸化水素の分解が生物線で促進されるとか、酸とアルカリとの中和でも生物線と同じような放射線が出るとか、色々な実験結果が出て来た。その中にはゲールラッハのような世界的な物理学者の名も出て来た。
 半信半疑のうちに、この生物線の研究はどんどん進んで行った。そして水晶分光器で生物線の波長を測った結果も出て来るし、また生体の血液からも出るということになった。健康な子供の血液からはさかんに生物線が出る。動物にがんを植えたらその血液からは出なくなったなどという研究が沢山専門学者の手で発表された。
 これだけの研究があったら、もう生物線も確認されたといってよいのであるが、不思議なことには、この線はその性質上当然写真乾板に感光するはずなのに、その実験はいつも否定的に終っている。シューマン乾板という極紫外線きょくしがいせん用の乾板を、生物線を出しているはずの生体に数カ月露出しても、全然感光しなかったという結果も発表されている。
 写真乾板に感光しないのは、暗い所では生物線が出ないのかもしれないし、また写真に感光するには弱すぎるのかもしれない。それで光電作用を利用した計数管というどんな弱い放射線でも感ずる器械を用いて、精密な測定をした物理学者が沢山あった。その結果もまた面白いことには半信半疑なのである。これに関する一九三五年までに発表された十二の論文のうち、六人の学者はあると言い、六人の学者はうそだという結果になっている。
 その後の最近の研究のことは知らないが、決定的のことはまだ言えないようである。生物線は生物から出てもその線自身は物理現象である。ところが物理的には依然として証明されない物理現象が、これほど沢山の研究の種になっているのである。
 生物線が万一何かの間違いならば、これは世界をまたにかけた世紀の千里眼であり、また今に本当に確認される日が来たら、生物学界の大異変である。今のところは実証的にはまだ霊力治療者を喜ばせているだけであるが、この方は可能性が全然ないとは言えない。しかしこの方の学間がいくら進歩しても透視や念写が説明されようとは思われない。
 千里眼のあった明治四十二、三年頃は、日本の物理学界では既に長岡半太郎ながおかはんたろう博士が原子構造論で世界的に有名であり、化学界では鈴木梅太郎すずきうめたろう博士がヴィタミンBを発見されていた頃である。決して我が国の科学が未開の状態にあったわけではない。千里眼のような事件は、その国の科学の進歩とは無関係に生じ得るものである。それは人心の焦躁しょうそうと無意識的ではあろうが不当な欲求との集積から生れ出る流行性の熱病である。そしてその防禦ぼうぎょには、科学はそして大抵の学者もまた案外無力なものである。と言ってもそれは何も科学の価値を損ずるものでもなく、また学者の権威にさわることでもない。それは科学とは場ちがいの問題なのである。唯こういう場合に、優れた科学者の人間としての力が、その防禦に役立つことが多いということは言えるであろう。
 千里眼に類似の事件は、その後も数回あった。そして今後も起り得る問題である。特に今次大戦下のような緊迫した国情の下では、「一億の熱意のほとばしり出るところ」一つかじを採り損ねると、どんな大規模な千里眼事件が発展しないとも限らない。そしてそれは為政者いせいしゃの力でも阻止出来ない場合も起り得るということは、歴史の示す通りである。
 この種の事件が、科学技術の総力戦において、特に害毒を流す場合が多いことも十分理解されよう。しかしそういう大切な問題も、その解決乃至ないし予防は案外簡明である。それは各人が中学程度の科学を十分に把握し、そして着実真摯しんしな道を歩むのが結局一番の早道であることを忘れなければよいのである。もっとも本当はそれが一番むつかしいことなのである。
 それならばそういう困難な方法によらず、科学者が少し犠牲になって、そういう問題の芽生えがあったら、一々摘み取ればよいとも言えよう。しかし科学者の方から言えば、そういう「場ちがい」の仕事にわずらわされるほどのひまはない。第一次欧洲大戦の時に、英国の政府で、英国が世界に誇る大物理学者たちを総動員して、国防科学の素人発明を審査させたことがある。その時応募総数十万件のうちで、多少なりの価値を認められたものが三十件にすぎなかったことは、余りにも有名な話である。三十件でもないよりは良いとは言えないのであって、あの大学者たちの力の浪費を計算に入れると、これは一台の戦車を作るのに百台の飛行機をつぶすような話である。
 X線が発見されるまでは、恐らく殆んど全部の科学者は、不透明物質の内部を写真にとることは出来ないと思っていたであろう。現在の科学の知識だけで、新しい未知の現象を、実験することなしに否定することは出来ない。これが千里眼者や山師的やましてき発明家の常套じょうとうの言葉である。誠にその通りである。しかし、それは何もすべてのその種の「発見」または「発明」を、一々科学者が立会たちあい実験をするか、または再試してみる必要があるということにはならない。
 ゼームスをまつまでもなく「科学は何が存在するかということは言い得るが、何が存在しないかということは言い得ない学問である」ことくらいは、大抵の科学者は十分心得ている。山師的発明家はこの言葉を悪用してよく世人をまどわすことがある。この場合存在するという言葉の意味を吟味しておく必要がある。例えば勢力不滅の法則に牴触ていしょくするような発明は、未知のものであっても、それはやってみるまでもなく、嘘である。それが嘘であって再試の必要がないということが「存在する」ことなのである。
 もっともこういう風には言ってみるものの、実際には、一番肝腎かんじんな時に、「それはやってみなくても分っている。嘘である」と言い切れる科学者が案外少いことが心細い点なのである。そして更に悲しむべきことは、そういうことを言ってはならない場合に、平気でそれを言う科学者も相当数ありはしないかという懸念があることである。
(昭和十八年五月一日)

附記

 この千里眼の話を書いたのは、昭和十八年の春のことで、その年の四月号の『文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう』に載せてもらったものである。昭和十八年の春と言えば、大戦第三年目に入り、既にミッドウェーの敗戦、ガダルカナルの撤退てったいによって、戦況既に我に不利に傾き、要路の人たちの焦慮がそろそろ見えて来た頃である。
 そういう時期にこんな暢気のんきな話を書くということは、随分妙な話と思われるかもしれない。事実私は読まなかったが、或る雑誌批評で、この千里眼が槍玉やりだまに上り、時局をわきまえないとか何とかいう御叱おしかりを受けたそうである。しかし実のところは丁度その頃、内閣と海軍と太平洋戦とをまたにかけた世紀の大千里眼事件が起っていたので、この一文はそれを幾分でもい止めるために書いたものである。
 その世紀の大千里眼事件というのは、思い出される読者もあるであろうが、いわゆる日本的製鉄法という事件のことである。或る発明家が、砂鉄を畑の中に盛り上げ、その中にアルミニュウムの粉を加え、火をつけると、砂鉄が一遍に純鉄になるという発明をしたのである。砂鉄ならば我が国に無尽蔵にあるので、これは大発明だということになり、それに最初にひっかかったのが、海軍の某廠ぼうしょうの閣下で材料部長の地位にあった人であった。何でも江戸川の上流の某所とかで、実際にやらしてみたら、立派な鉄が出来たというのである。砂鉄とアルミニュウムと混ぜて盛り上げ、その上に土をかぶせてあなをあけ、その孔から或る薬液を注ぎ込んで火をつければ、それだけで立派に製錬が出来るので、あの厖大ぼうだい鎔鉱炉ようこうろなどを造るのは全く馬鹿気た話だ、これで今度の戦争に勝てるというえら御機嫌ごきげんだという話を、実際にその人に会って来た友人から聞いた。
 これだけ話をきけば、大体分ることで、これは立派に千里眼的要素を十分にそなえた話である。その廠の中にも技術者もあることだから、そういう人たちはどうしているのかと聞いてみると、病状は大いにかんばしくない。二、三忠言をする人があっても、「理窟などはらないのだ。要するに鉄が出来ればよいじゃないか。現に出来ているのに、学者は何をいらないことを言うのだ」と相手にされないらしい。事実その友人が、その製錬法で作ったという鉄の標本を持って来たのを見ると、立派な純鉄である。こういう物が出来るはずはないのだが、論より証拠で、出来てさえくれれば文句はない。
 しかし論より証拠というのが曲者くせもので、本当は論をくつがえし得る証拠などというものは滅多にないのである。そういうとまた、その論というのが結局現在の科学の法則のことであり、現在の科学というのが西洋で出来た学問である。「どうも日本の学者はどれもこれも欧米崇拝で困る。日本的科学をやらないで、西洋人の後ばかり追っている。そしてたまに純日本式の製鉄法などを発明する男があると、それにけちをつけ」るということになる。事実この問題に関して、そういうことが度々言われたのである。仕方なく若い真面目な技術者たちは「ああ、あの畑製錬のことか」と相手にしなくなった。そのうちにこの製錬法は一廠の問題だけではなくなり、内閣の方で国策として採り上げそうにまで発展して来た。技術者たちが卑怯ひきょうと言えば、確かにその通りであるが、実際にはこの種の熱病の蔓延まんえんは、二人や三人の人間の力で喰い止め得るものではないのである。
 この方法で全然鉄が出来なければ話は簡単なのであるが、実は出来るのである。それはアルミニュウムを使うからであって、アルミニュウムと酸化鉄とを混ぜて火をつけると、非常な高温になり、鉄になることは、昔から知られていることである。よく電車線路の鎔接などにも用いられているので、誰でも見ていることである。
 もしこの日本式製鉄法が、単にそれだけのことならば、余りに他愛ない話である。それならば全く意味がないので、鉄よりも大切なアルミニュウムを鉄の量の十倍くらいも使わねばならないので、前文の「これは一台の戦車を作るのに百台の飛行機を潰すような話」になる。ところが話がだんだん拡がってくるにつれて、今度は「アルミニュウムは初めの一回だけ使えばいいので、第二回からはその時出来たアルミの金滓を使えばいい。それでアルミニュウムは沢山はらない」という話になったらしい。そういう勢力不滅の法則に牴触ていしょくする話が、政府のどのあたりまで受入れられたかは分らないが、とにかく困ったことになったものである。
 そのうちに突如として、この事件が議会で発表されたのである。二月五日の衆議院で、東条とうじょう首相が堂々とこの新製鉄法を述べ、これで今次の大戦をまかなうべき鉄には不自由しないと演述した。議員は皆喝采かっさいした。私たちは唖然あぜんとした。ところが更に驚いたことには、それから十九日経った二月二十四日の新聞は、今度は技術院の発表として、この製鉄法の外に二つの新しい製鉄法を加えて、その三つを正式に承認し、技術院として大いに援助をして大規模製産に移すという声明が出た。商工大臣は「我が国技術界の最高権威たる技術院総裁の言明に間違いがあるはずはない」と付け加えた。その通りであって、技術院といえば我が国の科学技術の総本山たるべき所である。そこからこういう声明が出るようでは、帝大の博士が千里眼を認めた以上の問題である。
 よほど好意に解釈すれば、戦局の前途に既に暗雲がきざしていたので、国民の意気宣揚の目的で、こういう声明をしたとも一応は考えられる。しかしその当時は一般国民はまだ暢気のんきに構えていた頃で、何もそういう見え透いた拙策をとる必要もなさそうである。やはり本気で千里眼を担ぎ出したのであろう。こうなると放っては置かれない。こういう話は景気をつけるだけならよいが、必ず悪い影響があるものである。その発明家がもうける金や、その実験に使う資材くらいは多寡たかが知れているが、一番困るのはこの種の病気の蔓延まんえんである。真面目に戦時下の工業に精励していた会社へ色々な新発明の売込みが来る。それがどれも国難を救うような「大発明」ばかりである。社長や重役は勿論もちろん乗気のりきで、会社の技術者の忠言は「君たちは西洋科学だけに頼っているから駄目だ。理窟を言っている時ではない」と一蹴いっしゅうされてしまう。事実そういう実例も二、三あったのである。
 応用化学をやっている友人のH教授が、これは放っておくと大変なことになるというので、時の技術院総裁を訪ねて詳しい説明をして、その不可能な所以ゆえんを説いて来ることになった。帰って来たH教授の話では、どうもこの話には何か政治的の陰影があるらしく、承知の上でやっていることか、だまされているのかよく分らないということであった。しかし事柄は簡単明瞭めいりょうなので、よく理解はされたことと思うという話であった。
 しかし肝腎かんじんな「製鉄事業の拡張」はちっともとまらない。南洋の方で鉱業関係で莫大ばくだいな金を儲けた実業家と、某官庁の部長の人とがこれに加わって、火の手は揚るばかりである。そのうちに軍の事業として、大規模に製産することになったらしく、既製の大工場を三つ買い上げることになった。某セメント会社の工場と外二つがその候補に挙げられた。H教授の話では、その三つの工場はどれも、水運がよく電気がやすく理想的な立地条件にある工場で、こういう工場ばかりをねらうところに、案外問題解決のかぎが潜んでいるようだということであった。
 買い上げられる会社の方では、これは死活に関する大問題である。その会社の専務とかいう人に会った時に、この製鉄事件に関した文書のつづりを見せられたが、厚さ三ずんばかりもたまっていたのにはちょっと驚いた。結局その会社の方の猛運動とH教授の努力と、その他各方面からの忠言とによって、最後の場面にいたって、この日本式製鉄法は中止され、千里眼と同じ運命でやみから闇へ無事葬り去られることになった。
 すっかり問題が片付いてから、H教授に「君の千里眼も大分役に立ったよ」と褒められたので、時局をわきまえないという批評家の御叱おしかりは、十分償われたわけである。





底本:「中谷宇吉郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
   1988(昭和63)年9月16日第1刷発行
   2011(平成23)年1月6日第26刷発行
底本の親本:「春艸雑記」生活社
   1947(昭和22)年
初出:「文藝春秋」
   1943(昭和18)年5月1日
入力:門田裕志
校正:川山隆
2013年1月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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