文化映画の中で特に自然科学を直接対象としたものを科学映画と呼ぶことにする。この科学映画は大別して大体二種類に分けられると思う。
その一つはいわゆる「博物もの」で、色々の動物や植物の生態をうつして見せるものであり、他の一つは「理化もの」とでもいうべきものである。
「博物もの」の中には「
もっともこの種の映画は、既に外国、特に
ところが、「理化もの」になると、話は大抵の場合大変むつかしくなる。元来、中学などでも、動物や植物の好きな学生はかなりあるが、数学とか物理や化学などの学科はとかく嫌われやすい。そういう題目をとりあげた映画を
映画で現象の説明をするとなると、どうしても線画が多くなるのは致し方ない。しかし線画の多いのは、どうもその映画全体を幼稚なものに見せる損があり、事実幼稚なものが多いのである。
それでこういう「理化もの」にも出来るだけ線画を少くするようにした方がよいのではないかと思う。もっとも線画を少くしたら、観客に分らすことが出来ないと思われるかもしれない。
しかしその心配はないのであって、本当のところは、映画だけでは、いくら線画を沢山使って説明しても、結局分らないものは分らないのである。例えば『レントゲンと生命』などで、あの変圧器、整流器、陰極線などの線画の説明は、作った人はあれで
それでどうせ分らないものならば、思い切って「分らす」ということを初めから断念してしまうのが、この種の映画の一つの進む道ではないかと思われる。例えば線画による現象自身の説明などに余り労力を使わずに、実際の実験室の光景を写して、何だか分らないが
ところでそういう種類の科学映画は、結局科学のディレッタントを作るだけで、科学普及の国策にはそわないという意見も出るかもしれない。しかしこの場合、「分る」ということが既に問題なのである。中学の物理や化学の授業では、分るということは、試験の答案が書けるという意味である。
科学映画には単に講義や読書の代用品または簡易法としてよりも、もっと広くそして重要な道があるように私には思われる。