黒い月の世界

中谷宇吉郎




地球創成の面影


 遠い遠い昔のこと、もちろん人間などまだ地球上に現れなかった時代、おそらく数千万年もの大昔に、太平洋の深海の底に、大きい亀裂きれつがはいった。
 その亀裂は、現在のハワイ群島の東方に始まり、それからずっと西方に伸びて、ミッドウェイ島を通り、日本の南方近くにまで達した。そしてその亀裂に沿って、海底のずっと下にある熔岩が、ところどころから噴き出してきた。
 これらは深海の底にできた火山であって、噴火の時は、ものすごい景観を呈したことであろう。ハワイの付近は、現在は約二万フィートの深海である。この二万フィートの海の底から、千数百度の熔岩が、恐ろしい勢いで噴き出してくる。大洋の水は、沸き立って、水蒸気はもうもうと天空をおおい、熔岩のしぶきが真赤にその中を彩ったことであろう。まさに天地晦冥かいめいの大景観であったにちがいない。原子爆弾の水底爆発など、これと比べては、玩具のようなものである。
 こういう海底噴火は、現地質時代でも時々発生するので、先年の明神礁みょうじんしょうの噴火などが、その良い例である。しかしこの種の海底火山は、たいていの場合、すぐ島の生成にまでは発展しない。明神礁の時もそうであったが、あのものすさまじい噴煙と水柱との蔭に、間もなく黒い岩礁が少しばかり海面から頭を出したのも束の間、やがて噴火がおさまると、この岩礁もまた間もなく水面から姿を没してしまった。
 今日のハワイ群島は、大小数十の島から成り、そのうちの比較的大きいものだけでも、八つの島がある。これらの群島は、いずれも太平洋の底にできた地殻の割れ目に沿って、噴火してきたものであるが、一気に島ができたのではない。数千万年か数百万年かの長い年代にわたって、何回もの海底噴火があり、水面下でなんべんも起伏をくり返しながら、やがて海面にその姿を現わしてきたのである。そしてたくさんあるハワイの火山の中には、現在でも、この地球創成の面影おもかげを残している火山がある。それはハワイ島にあるマウナ・ロア火山である。
 ハワイといえば、すぐホノルルと思われやすいが、ホノルルのあるのは、オアフ島であって、これは群島中第三位の大きさの島である。もっともこのオアフ島は、真珠湾のある島であって、われわれには、因縁の深いところである。
ハワイ群島の図
 群島の主な島は、オアフ島よりも東方にあって、その一番東にあるハワイ島が、とりわけ大きい島である。四国の三分の二くらいの広さで、ここにマウナ・ロアとマウナ・ケアという二つの火山がある。両方とも約一万三千七百フィートあって、ほとんど同じ高さである。ハワイに、富士山よりも一千フィート以上も高い山があるというと、ちょっと驚く人が多い。緯度は台湾の南部くらい、熱帯に属しているが、この高山の頂では冬になると、雪が降る。普通の年は、一冬に四、五回雪が降るので、その雪を調べるために、昨年の十二月から、今年の一月にかけて、約二カ月を、マウナ・ロアの山頂で暮した。そして地球創成の面影を残しているこの火山の景観を、十分味わう機会を得た。

富士山より高い火山


 マウナ・ロアは、キャプテン・クックが、南太平洋の長い航路の末、遥かに雲上にこの山頂を認めて、今日のハワイ島を発見したと伝えられている。そのクックが、土人との戦いにたおれたのは、マウナ・ロアの西裾にしすそに当る海岸である。そのすぐ近くには、日本で喜ばれるコナ珈琲コーヒーの産地、コナの部落があって、栽培はほとんど日本人の手でなされている。
 クックの伝説からは、何だか峨々ががたる高山のような感じを受けるが、ほんとうは、丸底の盆を伏せたような、だらだらの山である。遠くから望むと、なだらかな丘のような形をしていて、富士山より一千フィート以上も高いとは、どうしても考えられない。
 ハワイの火山、とくにマウナ・ロアは、世界にも類例の少ないおだやかな火山である。今でも時々噴火をするが、浅間山あさまやま阿蘇山あそさんのように、大爆発をして、噴煙が天にちゅうし、数百マイルのかなたまで灰を降らすというようなことは決してない。たいてい熔岩が噴火孔の中からじりじりと湧き出してきて、それが山腹を流下するという形を採る。時には山稜さんりょうの亀裂から、熔岩の噴流が数百フィートも吹きあがる場合もあるが、いわゆる爆発とはだいぶようすがちがっている。熔岩がガラスに似た成分をもち、内部に含まれているガスも少ないので、粘度が小さく、さらさらしているのである。したがって流下速度は非常に速く、一昨年の山裾での噴火の場合は、百ヤードを十秒以下で流れた例もある。オリムピックの選手でも逃げきれない速さである。
 こういう熔岩の流出のくりかえしでできた山であるから、なだらかな形になるのも当然である。そしてこの噴火は現在も時々起るので、過去百年間に山頂近くから十五、六回も熔岩が流れだしている。いちばん新しい大噴火は、一九五〇年に起り、これは熔岩流が海にまで達した。一昨年のプナの噴火は、山裾の畑の中から起り、人家がだいぶ熔岩流にまれたので、大騒ぎになった。
 マウナ・ロアは、こういう新しい熔岩の山であるから、中腹から上は全山熔岩で埋められ、まったく生物のいないところになっている。動物はもちろんのこと木も草もぜんぜん生えていない。一本の雑草もなく、こけも生えていないところであるから、虫一匹もここでは生きていけない。この生命のない世界は、山頂を中心として、約三十マイル四方に及んでいる。神奈川県より一まわり広い面積のところが、全部黒い熔岩の荒れ地で、ぜんぜん生命のない世界になっているのである。
 もっとも黒いといっても、全部一色の黒ではない。熔岩の種類により、また流出年代によって、褐色、黄泥、薄緑などを基調にもった各種の黒の入り雑った模様が、熔岩流によって織り出されている。この景観に一層の妖気を添えるものは、真赤な口を開いた小噴火丘である。山腹のところどころに、シンダー・コーンと呼ばれる小さい旧噴火丘がある。空中に噴出された熔岩が、急冷されて金滓シンダーになり、それが円錐コーン状に堆積したものである。円錐のまんなかには、噴火孔があって、上から見ると月の斑点のような形になっている。この噴火孔の内部だけは、多分冷却速度の関係かと思われるが、熔岩が真赤な色をしている。如何にも真赤な口をあけているという感じである。見渡す限りの景観はどうしても、われわれが住んでいる地球とは思われない。黒い月の世界というのがいちばんあたっているであろう。

黒い月の世界へ


 十二月の二日に羽田を立ち、五日にハワイ島の主都ヒロへ着いた。そして七日に約一トンの機材を、二台の大型ジープに積みこんで、マウナ・ロア登攀とうはんの途についた。ヒロから二十マイル、高度五千フィートのところに、クラニという監獄があり、これが人間の住んでいる最終地点である。クラニを出て三マイルも行くと、俄然がぜん景観が一変して、熔岩地帯にはいる。見わたす限りの黒い熔岩の原である。その第一歩で、思わず口をでたのは、「黒い月の世界」という言葉であった。
 この黒い月の世界の中に、あんがいによい道路が、ずっと続いている。熔岩を粉砕して、し固めただけの道路であるが、日本の田舎道よりはよい。ただところどころに、傾斜のかなり急なところがあるので、四輪駆動でないと無理である。
 この山の熔岩は、大別して、二種類に分けられる。一つは「パホエホエ」と呼ばれ、いま一つは「アア」という。ともに原住民カナカの言葉である。パホエホエは、表面がガラス状に光った熔岩で、水飴が流れる途中、そのまま固まったと思えばよい。たいてい表面に縄状の縞模様があって、固化する直前の熔岩の流れ方をはっきり示している。アアのほうは、黒褐色の軽石が岩塊状になったものである。岩塊の縁は、鋭くとがっていて、この上を歩くと、靴の皮が一遍にささくれだってしまう。両者とも化学成分には変化がないので、内部に含まれていたガスの差によるものと考えられている。
 パホエホエとアアとは、入り乱れて、どこまでも続いている。こういう熔岩の流れが、恐ろしい勢いで、山腹を埋めながら流下する姿を頭に描きながら、二十マイルばかり走ると、マウナ・ロア観測所が、遥かな稜線の上に、点のように見えてくる。この観測所は、昨年の夏、米国気象台の手で建てられたものである。標高は、一万一千百フィート。ここがわれわれの基地になるところである。この観測所に居住しながら、降雪の予報を待って、山頂へ出かけていき、雪の結晶の顕微鏡写真をとろうという計画なのである。
 山頂に近い一万三千四百フィートのところには、六畳間にもたりない小さい小屋があって、そこが仕事場である。しかしこれは四方の板壁と屋根とがあるだけで、木の箱といったほうがよいくらいのものである。水も暖房もベッドも何もない。とうてい人間の住めない施設であって、またそのつもりで造ったものでもない。気象自記器を置くために建てたのであるが、それもまだ実行はされていない。建ててから五年以上になるが、まだ使ったことがない建物である。
 観測所のほうは、コンクリート・ブロックのりっぱな建物で、中央の広い仕事部屋のほかに、寝室が三つと台所とがある。台所は冷蔵庫も、ガスレンジも設けてあって、申しぶんなくできている。電気は自家用発電機、暖房と炊事はプロパンガス、水は雨水を使う。ところが、こんなりっぱな施設ができたのに、今までほとんど利用されていなかったそうである。ここに寝泊りするのは、われわれが初めてという話であった。
 一行は、菅谷博士と、荘田博士と、私との三人である。案内の気象台の人が下山してからは、三十マイル四方に、植物も含めて生命のあるものは、われわれ三人切りという生活が始まったのである。

世界一空気のきれいな処


 観測所のある山稜は、今一つの高山、一万三千七百フィートのマウナ・ケアとちょうど対峙たいじした形になっていて、その間に広い鞍部あんぶ地帯がある。この鞍部地帯も人間の住んでいない土地で、ところどころにわずかな緑の痕跡が見えるだけである。なだらかな傾斜をもったこの広い上地も、見わたすかぎりの熔岩の原である。ただ距離が遠いので、凹凸はぜんぜん感ぜられず、滑らかな肌の土地のようにみえる。そしてところどころに新しく流れでた熔岩の流れが、机の上にこぼれたインキのような形に、この平原を黒く染めている。
 この鞍部地帯は、右も左も、きわめて、なだらかに、遥かなる海岸線にまでくだっている。右のほうには遠くヒロの町が見える。しかし本当にこの町が見えることは、めったになく、たいていの場合は、下層雲が海岸付近を厚くおおっている。このあたりハワイ群島の海域では、季節風は東北風であって、太平洋の水気を集めた風は、濃い下層雲となって、島の東北部を、毎日のようにおおっている。それでヒロの町は、ほとんど連日驟雨に見舞われ、世界的にいっても、著しく雨の多いところになっている。
 この下層雲は、季節風に乗って、鞍部地帯へ上ってくるが、雲の高さは、普通だいたい六千フィートくらいにきまっているので、この熔岩の原全体をおおうことはめったにない。マウナ・ケアは、いつでも、山裾にこの下層雲をいて雲上にそびえたっている。観測所も、もちろん雲の上に出ているので、ヒロの町は連日驟雨しゅううの中にあるのに、ここでは雲一つない青空である。不連続線が近くへくれば、すばらしい巻雲が見られるが、天気が落ちつくと、毎日毎日一点の雲もない澄みきった青空になる。ここは、世界中で最も空気のきれいなところということになっているので、空の色の深さは、ちょっとほかに類例がない。
 こういう場所をわざわざ選んできたのは、この空気がきれいだという点にあった。もっと端的にいえば、こういう空気のきれいなところに降る雪の形を調べにきたのである。私たちの雪の研究も、もう二十五年の年月をかけたが、今までに得られた結果は、天然に見られる各種の結晶を、人工的に低温室の中で作れるようになった、というだけのことである。それでわかったことは、結晶の形は、できる時の気温と、水蒸気の過飽和度と、この二つの要素できまるという点であった。とにかく註文に応じて、望みの結晶が、人工的にできるようになったので、一応は問題がかたづいたとして、一安心していた。
 ところがその後、電子顕微鏡を使って、雪の結晶の核を調べだしたら、いろいろ腑に落ちないことが出てきた。そしてさんざん探したあげく、どうも気温と過飽和度との外に、いま一つ隠された要素があって、それが二次的に、結晶形を支配しているらしいということになった。そしてこの隠された要素が、どうも大気中の極微なちりではないかと思われてきた。
 塵といっても、非常に小さいもので、顕微鏡ではもちろん見えず、電子顕微鏡でも、やっと見えるか見えないかという程度である。このうちのごく小さいものは、直径が一ミリの百万分の一程度であって、塵というよりも、分子の集まりといったほうがいいくらいのものである。こういう微粒子が、大気中にたくさんあることは、前から気象学のほうではわかっていたので、凝結核ぎょうけつかくと呼ばれていた。
 この凝結核がしんになって、雲ができたり雨や雪が降ったりするので、気象学のほうでは、これは重要な問題である。この方面の研究は、近年著しく進歩して、その性質が、かなりよくわかってきた。したがって大気中からこういう極微の粒子までとり除くこともできるようになった。それで凝結核をとり去った「純粋な空気」を作り、それを低温室に設置した人工雪の装置へ送って、その中で雪の結晶を作ってみた。そしたら結晶の形がまるでちがうという意外な結果が得られた。したがって、どこか世界中でいちばん空気のきれいなところを選んで、そこに降る雪の形を調べてみることが、必要になってきた。それで選ばれたのが、このマウナ・ロアの山頂である。

大空にうつる山の影


 ところできてみると、なるほどうわさどおりに、空気のきれいなところである。隣りの島、マウイには、ハレアカラという一万フィートの休火山がある。距離はこの観測所から、八十二マイルあるが、いつでもその山容が、手にとるように見える。
 雪は今までの記録では、一冬に四、五回降るはずで、そのうちの二回くらいつかまえられれば、十分に目的が果たされる。下界のワイキキの浜では、海水浴をしているのに、私たちは、この山頂で雪を待つわけである。十一月の末、かなりの降雪があって、マウナ・ケアの山頂には、その雪が白く残っている。
 ところで、十二月七日に登山して以来、連日の快晴で、空には一点の雲もない日が毎日つづいた。マウナ・ロアの山頂のほうに向かうと、褐色のアアの荒野の中に、パホエホエの黒い流れが、幾筋もうねうねと横たわっている。反対側、マウナ・ケアは、鞍部地帯を半ばおおっている下層雲の上に、赤味を帯びた紫の岩肌を見せて、高々と聳えている。その左には、雲上遥かに、一万フィートのハレアカラが、薄藍色にその姿を見せている。木も草もない、この黒い月の世界では、風のない日は、音一つ聞えない。大気は澄みきっていて、雲ひとつない青空に、太陽だけが白く輝いている。
 この人界を離れた世界では、いかにもこの世界にふさわしい現象が起る。その中でも、一番美しいのは、大空にうつる山の影である。大地にうつる山の影とか、雲にうつる山の影とかいうものならば、そう珍しくないが、ここでは、山の影が空にうつるのである。日が落ちて行くと、まず鞍部地帯からかげり始めて、その影が、次第にマウナ・ケアの山腹をはい上っていく。日はもう山稜のかなたに落ちているので、西の空だけが、茜色あかねに光っている。鞍部は濃い紫色で、深海の底のような感じに沈んで見える。そしてマウナ・ケアの山頂だけが、赤く輝いている。
 その頃になると、晴れ渡った東の空に、ふしぎな現象が起きる。地平線に近いところは、薄い橙色に染まり、それが青磁色の空にぼかしたように溶けこんでいる。その橙色が、次第にうすれていくうちに、いつの間にか、くっきりと藍色の山の影が現れてくる。これはマウナ・ロアの影であって、影の頂が、ちょうど山頂から見た水平線のところにできる。マウナ・ロアのふもとのところを通る光線は、まだ空に達しているので、少数ながら存在している凝結核によって散乱され、その一部が薄い橙色だいだいとなって返ってくるのである。考えてみれば、こういう山の影が空にうつることも、何もふしぎではないが、これはよほど大気の澄んだところでないと、現れない現象である。普通の土地では、視程が足りないので、こういう現象は見られない。
 大空にうつる山の影の物理的説明などは、どうでもよいが、人間の住んでいないところでは、夕闇の静寂のひとときの間に、こういう妖しくも美しい現象が起きているのである。この影は、麓にあたる部分から、次第にせりあがってきて、やがて東の水平線一帯が、藍色に染まり、間もなくマウナ・ロアの夜がやってくる。
 これと同じ現象は、夜明けにも見られる。順序は日没の時とちょうど逆で、西の空にできた山の影は、日がのぼるにつれて、影の頂の部分からくだってきて、やがて清浄な朝の空にかわって行く。
 この土地では、夜明けの日の出るまえと、日没後の夕闇の時期とに、いろいろな形の高層雲がよく見られる。もっとも明るいのは、いずれの場合も地平線の近くだけであるから、遠い雲すなわち地平線の近くに見える雲でないと、写真にはうつらない。しかしそういう遠い雲は、大気が非常によく澄んでいないと見えないので、普通の土地では、この研究ができない。今まで雲の研究は、ずいぶんよくなされているが、この夜明けあるいは夕闇にできる高層雲の研究は、まだほとんど手がつけられていない。写真にとれないことが、いちばんの原因である。

「変った学者」


 ところが、このマウナ・ロア観測所は、その目的には、まったくお誂えむきのところである。ほとんどいつでも下層雲の上に出ていて、しかも空気のきれいなことは、世界第一という場所である。実は雪の降らない場合のことも考えて、この雲の研究のことを、あらかじめシェファー博士と打ち合わせておいた。シェファー博士といえば、人工降雨の実験を最初に試みた人として、日本にもよく知られている学者である。現在は、ムニタルプ Munitalp 協会の研究所長をしているが、この奇妙な名前の協会は、その名のごとく、いかにも奇妙な協会である。ムニタルプというのは白金プラチナム Platinum を逆に読んだ名前であって、全米の白金で儲けた金持たちが、道楽に金を出し合ってつくった協会である。目的は、「変った学者」を一生飼い殺しにして、勝手な研究を、勝手な場所でやらせようというのである。研究題目はなんでもよいが、なるべく役にたたないことが望ましい。白金に関する研究だけはしてはならない。というのであるから、大いに変っている。アメリカという国は、ふしぎな国で、こういう酒席の座興のような話を、実際に実行している連中もあるのである。
 シェファーは、いかにも、この協会には、うってつけの男である。現在は、自分の家に、研究室を建て増して、そこで女房と二人で、ジェット気流の研究をしている。もう少し役にたたない研究をやったら、見あげたものであるが、アメリカとしては、これでも上等なほうであろう。もっとも彼のジェット気流の研究というのは、やはりいっぷう変っていて、雲の形から、ジェット気流の存在を見つけようというのである。
 ジェット気流というのは、対流圏の上層部、非常に高いところにある気流である。この気流は、比較的細い筋になっていて、非常な高速で、西から東へ流れている。日本からアメリカへいく飛行機は、この気流に乗ると、びっくりするほど早く着くのである。それでパンアメリカンをはじめ、多くの航空会社では、このジェット気流の調査をよくやっている。気象台でも、もちろんこの研究をやっているのであるが、局所的なもので、また、しじゅう位置も高度も変化しているので、その予報はなかなかむつかしい。
 それでシェファー博士は、高層雲の形から、このジェット気流の位置を見つけることができはしないかと考えついた。それでいろいろな雲の動きを、微速度映画にとって研究する仕事を四年くらい前から始めた。高く澄んだ秋空に、白い巻雲が、白絹の束をいたように、長く糸を引いている姿は、よく見られるとおりである。ああいう雲の形は、いかにも高層における速い気流の存在を示しているように思われる。この種の雲を微速度映画にとって、その動きを調べ、シェファー博士は、既にいくつかの論文を書いている。

露出六秒の撮影


 雪が降る日は、多く見つもっても、滞在期間中の三分の一か、四分の一くらいとして計画を立てた。雪を待っている間の仕事としては、この高層雲の研究が、場所柄として、一番適していそうである。それで出発前にシェファー博士に相談してみたら、大賛成である。すぐ微速度映画カメラを二台と、十六ミリの天然色フィルムを、三千フィート送ってくれた。鷹揚おうようなものである。
 この撮影は、しかしあまり楽な仕事ではない。夜明け前と、日没後の撮影であるから、絞りをうんとあけて、長い露出をする必要がある。しかもこの時期では、空の明かるさが、刻々に変化するので、それに合わせて、露出をつぎつぎと変えて行かなければならない。日の出の五十分くらい前から東の地平線の空が、少し明かるくなりかける。そのころから撮影を開始するわけであるが、周囲は真暗で、風は寒い。全天には、まだ星が残っていて、空は全くの夜の色である。ただ東の空が、青磁色に少し明かるくなっているだけである。この時期は、一・九のレンズを開放にして、六秒間というとんでもない長い露出をする。ところがまだ幾フィートも廻さないうちに、どんどん空は明かるくなる。地平線上の青磁色が橙色にかわり、次第に茜色あかねを帯びてくる。そして高層雲がある場合には、それがシルエットになって、くっきりと浮んでいる。この光の変化に歩調を合わせて、露出時間を、つぎつぎと短くしていって、二秒までに縮める。微速度は、一こま二秒を限度としているので、これからあとは、露出時間はそのままにしておいて、レンズのほうで絞っていく。一・九から始めて、刻々に絞りをかけて、三十まで絞っていくと、このほうで二百五十倍近くの光の変化に応ずることができる。露出のほうで六秒から二秒まで、三倍受けもっているので、けっきょく明かるさが、初めの七百五十倍にまで変化する間の現象が、同じ明かるさに写ることになる。
 六秒の露出をするというと、特殊のカメラが必要なので、シェファーの考案による新しいカメラと、いま一つは普通の微速度カメラと、二つを送ってきた。日出ひので後は、普通のカメラに切り換えるのである。この二つを使って、総計二千二百フィートの撮影をした。一秒二十四こまの普通廻転に換算すると、時間的には、十五万フィートの撮影に相当する。この間、刻々と露出時間または絞りをかえていくのであるから、なかなかたいへんな仕事である。幸いに同行の菅谷君は、他人ひとのできないことをするのが好きなので、一人でぜんぶ、この撮影を引き受けてくれた。
 日の出前の撮影は、六時頃から始めるが、そのころは周囲はまだ真暗で、東の地平線だけが、わずかにほの明かるくなっている。気温は零度付近で、風はたいてい十メートルくらいである。大した悪条件でもないように思われるかもしれないが、ここの気圧は平地の三分の二しかないので、酸素不足のために、寒さがひどく身にこたえる。しかもいちど始めたら、一時間の間は、寸刻も目がはなせないので、撮影が完了するころには、さすがの豪傑も、だいぶ参るようであった。もっともそれだけ苦労する甲斐かいはあるので、ここで見られる日の出前の空の色の変化と、高層雲の消長とは、ちょっと類例の少ない特殊の美しさをもっている。地平線の上がだいぶ明かるくなって、茜色を帯びてくる頃には、もう夜の色は空から消え、全天が青磁色に明かるんでくる。東の空は、この青磁から茜への境界に、紫、黄、橙と、いろいろな色が、互に溶けこんでいる。初めシルエットで出ていた高層雲も、次第に明かるさを増し、下側のほうから真赤に彩られてくる。その間に、雲の形がいろいろと変化するばかりでなく、珍しい層雲が生れてきたり、前からあった雲が、みるみる消えたりする。日の出近くになると、空の赤さは減るが、今度は雲が金色に輝きだす。遥かかなたの太平洋の上に、不連続線が現れても、その影響が敏感に、これらの高層雲にくようである。そういう時は、日中の巻雲もまことにみごとであって、澄みきった青空に、白く縦横に現れる巻雲は、絹糸を曳いたような形になったり、火焔のような恰好にもえあがったりする。ここでは、天頂近くに見られる巻雲は、かなり距離が近いので、細かい構造がよく見え、その動きも速い。したがって、微速度は、一秒二こまくらいに低める。いずれにしても、二万フィートから三万フィート近い高空の気流の動きや、夜から昼への移り変りに伴うその変化を、映画では、一時間を一分間か二分間に縮めて見られるのであるから、まことにたのしい話である。

音も動きも無い世界


 ところでこの微速度撮影のほかに、今ひとつ菅谷君が、その威力を発揮すべき場面がある。それは、観測所から山頂小屋までの悪路の征服と、山頂小屋の整備とである。この二つの基地は、高度差は二千三百フィートしかないが、距離にしては、八・九マイルある。この八・九マイルは、熔岩の岩原の上に、ブルドーザーを一度通した程度の道で、大型ジープでも、並みたいていの腕では征服できない。とくにアアを砕いた砂利道で急勾配のところが、いちばんの難所である。いわば軽石の砂利であるから、いちどスリップを始めると、いくら馬力をかけても、車輪がどんどんめりこむだけである。まあ雪道と思えば間違いない。スリップを始めると、四輪ともに最低のギアにして、思い切りアクセルを踏んで、ハンドルを左右に繰り返し切りかえる。そのうちに少し大きい岩塊をかんで、やっと登れることもある。その代りタイヤは、アアの鋭いふちで削りとられるので、惨憺さんたんたる姿になる。車が通ったあと、アアの塊からしばらく煙が出ていることが珍しくない。三十回くらい往復すると、あのいかつい大型ジープのタイヤが、全然だめになってしまうという話であった。
 最初に観測機械や居住の機具類、酸素のボンベなどを頂上へ運んだ時は、気象台の四輪トラックをたのんだ。この時は、さすがに五年間もの経験がある人たちだったので、無事たどりついた。しかし二、三日して、私たちだけが出かけたら、さっそく動きがとれなくなった。荘田君を観測所に残し、念のために、携帯用無線電話器(ウォーキー・トーキー)をもって、菅谷君と二人で出かけたが、この無電器が、すぐ役に立つことになってしまった。観測所から三マイルくらいの間が、いちばんひどいので、その間に難所が三つばかりある。一つはどうにか切り抜けたが、二つ目はもういけない。さんざん無理をしているうちに、とうとうエンジンが始動しなくなった。電池も弱ってしまったし、それに燃料ポンプも、この高度では、能力の限界を越しているらしい。見渡すかぎりは、四方とも真黒の熔岩の岩原で、いちばん近い隣家は、二十マイル下のクラニ監獄である。因果なことには、風もない快晴の日で、空には雲一つない。マウナ・ケアは相かわらず美しい山容を見せて、沈黙の世界にそびえ立っている。音もなく動きもないこの死の世界に、われわれ二人だけが取り残された恰好である。車を捨てて、歩いて帰るにしても、一万二千フィートのところでは、私の息がつづかない。菅谷君のほうは、その後観測所から山頂小屋まで、三回も歩いて往復したくらいの猛者もさであるから、あまり慌てない。しかし足手まといがあっては、まことに閉口であろう!
 とうとう無電器のご厄介になって、観測所の荘田君を呼びだすことにした。さいわい連絡がとれたので、観測所からヒロの気象台へ、無電で救援を頼んでくれた。しかしヒロからやってくるのはたいへんなので、隣家のクラニ監獄から、救援にきてくれることになった。この連絡が大騒ぎなのである。まず気象台から、ヒロの警察へ市街電話で連絡する。警察とクラニ監獄との間には、別の無電がある。この三段の連絡がうまくとれて、クラニの監獄から、たすけにきてくれる手配がついたと、ウォーキー・トーキーが伝えてきた時には、やれやれと思った。アメリカの監獄は非常に便利で、囚人の中に自動車の技術者がいたので、この時は無事に観測所へ戻ることができた。しかしこれに懲りて、この種のドライヴに経験のある運転手を頼むことにした。けっきょくキラウエアの療養所から、ヴェテランの運転手を借りて、この問題は解決した。しかしその男がくるまでにも時日がかかったし、きてからも小さい故障はのべつあるので、観測所と山頂小屋との間の輸送問題は、なかなか簡単には解決されない。そのうちにも、いつ雪がくるかもしれないので、山頂小屋の整備は急がねばならない。菅谷君は、最後に頼みとするものは脚だけだという平生の信念を活かして、とうとうこの間を歩いて往復することにした。観測所と山頂との間を、三回徒歩で往復して、すっかり整備ができあがったころに、輸送問題も解決した。大いに国威を発揚したわけである。
 道の悪さに比例して、景色もまたすさまじくなる。観測所から三マイルばかり登ると、パホエホエの世界にはいるが、ここまで登ると、周囲の景観は、さらに新しい面目に変る。人界を遠ざかるにつれて、景色がいっそうものすさまじい様相を呈してくることは、ふしぎでもあり、また当然のようにも思われる。
 観測所から頂上までのちょうど半分くらいのところに、赤噴火丘(レッド・シンダーコーン)という円錐コーンがある。これは観測所からも見えるので、黒い熔岩の原の上に、ひときわ高い頭を出し、真赤な口を開いている。前にもいったように、マウナ・ロアは、丸底の盆をふせたようななだらかな傾斜の山である。それでごく頂上近くへ行くまでは、山頂を見ることができない。目の前にある山稜の天辺が山頂のように見えるが、そこまでいくと、また先に山が続いている。いつまで行ってもそうなのである。こういう地形の山であるから、赤噴火丘などが、まことによい目印になる。
 もっともこういう噴火丘は、この間だけでも何十とあって、その小さいものはたいてい、三つとか五つとかが一組になって、一列に並んでいる。地下の熔岩が、非常な圧力でのしあがってきて、この岩の山に亀裂を生じさせる。そしてその割れ目に沿って、数カ所から熔岩のしぶきを噴出させたのであろう。天地創造の名残りをとどめているこのあたりの景観は、まことに恐ろしい眺めである。
 赤噴火丘を過ぎるころから、パホエホエの色が、きわだって美しさを増す。黒い熔岩の原ではあるが、その黒さはけっして一色ではない。熔岩流の系統によって、基調の色が、それぞれにちがう。いちばん美しいのは、青みを帯びた系統で、ごく上等の青墨を少しうすめた時のような色をしている。空気が澄み、日射が強いので、日差しの方向によっては、真珠貝の内側のように輝いてみえることもある。
 これに劣らぬ美しい熔岩は、緑系統のものである。このほうは少し黒みが強いので、直射日光の下でないと、ほんとうの色は見わけにくい。しかしこの場所で、白日の光の中では、非常に美しい色を見せている。真暗な深海の底にとどく緑の光を思わせるような色である。そのほかにも、黄泥色を基調にもった黒、褐色を帯びた黒など、いろいろな系統の熔岩の流れが、見渡すかぎりの岩原を埋めつくしている。ものすさまじい景色ではあるが、なんとなく底に親しみのある色をしている。

備前焼そのままの熔岩


 もっとも考えかたによっては、そういう感じがあっても、あまりふしぎではない。この熔岩の一片をとって、つくづくとその色に見いった時に、最初に頭に浮んだのは、古備前こびぜんの徳利の色であった。古備前の土中物どちゅうものの上品とまったく同じ色というのが、この熔岩の色の説明に、いちばん適しているであろう。色ばかりでなく、その肌ざわりも、ぜんたいの感じも、これはまったく古備前である。もっともひょっとすると、この熔岩は、古備前そのものかもしれない。あの種の陶器は、たぶん千度前後くらいの温度で焼かれるのであろうが、マウナ・ロアの熔岩は、融点の低い点が特徴で、熔岩池のけた熔岩の温度を測った多数の測定結果は、八百六十度から千百七十度の範囲内であった。それで温度は、両者ほとんど等しいと見てよい。
 備前焼の色が、何で出るかは知らないが、鉄分がおもな役割をしているのではないかと思う。マウナ・ロアの熔岩は、鉄分をたくさん含んでいて、酸化鉄として十一パーセントもある。酸化鉄には、第一と第二と両者あって、一方は黒錆くろさびであり、他は赤錆、すなわちべにがらである。熔岩が冷えてかたまる時に、冷却速度その他の条件によって、黒錆とべにがらとの比率がちがってくる。もっともたいていの場合は、黒錆のほうが多いので、パホエホエは、だいたい黒い色をしている。しかし安山岩系のものと、玄武岩系のものとでは、べにがらのパーセントが二倍近くもちがう。それで同じ黒といってもちがった色になるわけである。この熔岩には、そのほかに、マグネシウムがたくさんあり、チタンもマンガンもはいっている。それらももちろん色に微妙な変化を与えるのであろう。備前焼の色が、主として粘土中の鉄分に基くもので、微妙な色の変化は、その焼き方と、粘土中の他の微量元素とによるものであるとすれば、マウナ・ロアの熔岩の原は、地球がつくった古備前そのものということになる。この荒涼たる人外境に或る種の親密感を感じても、そうふしぎではない。もっともこれは逆かもしれない。古備前のほうが、マウナ・ロアの熔岩を小規模につくったものといったほうがよいであろう。それが土中にあって、自然の風化作用を徐々に受けたとすれば、それはまさしくパホエホエである。それで古備前の土中物などになると、人工の芸術品か、自然物か、その区別がむつかしくなる。芸術品も、そこまでいってはじめて、人の心にほんとうの安らぎを与えるのであろう。
 備前焼の話もおもしろいが、ハワイへ陶器の研究にきたわけではないから、先を急ごう。
 赤噴火丘を過ぎ、微妙な色の諧調をもったパホエホエの原を一マイルばかり行くと、右手に「月の山」が見え始め、まもなく「玉門関」にかかる。月の山は、そう高くない山稜であるが、傾斜が急なために、ひどく聳え立って見える。恐ろしい形の山で、稜線が鋸歯きょし状に深く切れこんでいて、いかにも峨々という言葉が文字どおりにあてはまるような山の形である。

生きている地球の姿


 急勾配の坂道を、ジープはあえぎながら、やっとの思いでよじ登る。登りきったところで、視界がひらけたかと思うと、突如として、この奇怪な山稜が、真黒に眼の前に現れる。人界を遠く離れたこの世界の中でも、とくにワイヤード(weird)な景色である。誰いうとなく、月の山という名前がついた。
 山頂への道は、この月の山を廻って行く恰好になっているが、ちょうどこの山稜を出はずれたところに、玉門関ぎょくもんかんがある。これは小噴火丘を切り開いたところで、真赤な熔岩の肌を見せた切岸が、両側につっ立っている。なんとなく玉門関という感じである。この噴火丘の近くには、熔岩の表面にまで達した大きい亀裂がある。幅六フィート近い深い割れ目が、岩原の中にずっと続いていて、その中は、真赤な色をしている。
 玉門関を出ると、まもなく、この世界での西域にはいる。山頂の台地にとりついたので、周囲が急に開けてくる。遥かなる台地の果には、山頂小屋が、岩盤の上に、小さい点のように望まれる。左手は、遠くヒロの町までつづく広漠たる熔岩の山腹である。パホエホエとアアとが、いろいろな色に入り乱れ、あらいタッチの多彩なゴブラン織をくりひろげている。その岩の荒野の中に、みごとな大噴火丘を先頭に、大小五つばかりの噴火丘が、一列に並んで、それぞれ真赤な口を開いて、天空にいどみかかっている。
 これらの熔岩も、噴火丘も、まだ新しいもので、多くは一八五〇年代から、一九四二年にかけて、間歇かんけつ的に噴き出したものである。熔岩も噴火丘も、出現して以来、まだせいぜい百年か、それ以内しか経っていない。それでこれは、生きている地球の姿なのである。このあたりの景観が、この黒い月の世界の中でも、とくに圧巻とすべきものであろう。
 生きている地球の姿を詳細に見るには、噴火丘の中にはいってみるのが、いちばんの早道である。噴火丘をつくっている金滓シンダーは、空中高く噴きあげられた熔岩が、急冷されて落ちてきたもので、内部はがさがさになっている。このシンダーは、あんがいに軽くて、また脆いものである。そのくせかどはガラスの破片のように鋭く、転んで手などついたら、いっぺんに怪我をしてしまう。靴は初めからあきらめるよりしかたがない。この歩きにくいシンダーの丘を登りつめて、真赤に口をあけた噴火孔の中を覗きこむには、少し勇気がいる。真赤といっても、火があるわけではなく、熔岩のなかばガラス状に固まった表面が、赤い色をしているのである。孔はずっと続いていて、奥は真暗である。まさか地球の中まで続いているわけではなかろうが、底は見えない。もっとも孔は垂直ではなく、途中から横にそれているので、井戸を覗いた感じではなく、勇気をふるえば中へおりて行くこともできる。
 こういう時には、菅谷君にかぎるので、地質用のハンマーを片手に、さっさとおりて行く。そのあとについて、おそるおそるおりてみると、足場はいろいろな出張りがあるので、そうむつかしくはない。ただ孔が横にそれて、鍾乳洞しょうにゅうどうのようになっているところへはいると、きゅうに暗くなって、大いに気味が悪い。先は真暗で、どこまでつづいているのか見当がつかない。
 しかしここまではいってみると、いろいろな珍しい現象が見られる。第一が、熔岩の鍾乳石であって、天井から乳房のような形になって、熔岩のつららがたくさん垂れている。恐ろしい圧力で、熔融している熔岩を噴き出し、その表面が少し固まった頃、内部の圧力が減ると、残りの熔岩が再び地下に吸いとられて、この孔ができる。その直後は、孔の壁はまだなかば熔けた状態にある。そしてそれが冷えきるまでには、たくさんの乳房がれさがる。これが熔岩の鍾乳石である。熔岩のしずくが垂れ落ちれば、鍾乳洞の場合のように、下に石筍せきじゅんができるはずである。そういう熔岩の石筍も、ちゃんとある。
 おもしろいのは、これらの「鍾乳石」や「石筍」の色である。パホエホエと同じ成分のはずなのに、黒色のものは、ほとんどない。黄褐色、小豆色、赤褐色、黄緑色など、いろいろな色があるが、いずれも落着いた美しい色であって、単純な絵の具の色ではない。噴火孔の壁も同様であって、遠くから見ると、真赤な口を開いたように見えるが、中にはいってよく見ると、赤を基調として、その中に千差万別の色がはいっている。噴火孔の端のところは、熔岩が雪庇せっぴのような形にき垂れているが、この部分の色の変化が、非常におもしろい。外側の大気に面した部分は、普通の黒いパホエホエである。ところが孔のほうへ垂れた端は、真赤な色をしている。黒から赤へ移る中間の部分は、黄褐色であって、これらの色は、互にぼかしあったように、連続的に変化している。これはたぶん冷却速度のちがいが、おもな原因であろう。外側の急激に冷えた表面は、おもに黒い酸化第一鉄になり、内側の火孔の熱気に面した部分は、冷却速度がおそく、酸化第二鉄たるべにがらになるのではないかと思われる。その外に四三酸化鉄、即ち磁鉄鉱の薄膜も少しはできることであろう。磁鉄鉱はまた少し別の黒さである。要するに、火山丘の熔岩の妖しい美しさは、地球というかまの中でつくられた窯変ようへんの美しさである。だいぶ欲ばって、いろいろな標本を持ち帰ったが、そのうちに「マウナ・ロア熔岩による窯変の研究」という論文を書くかもしれない。

ペレの髪の毛


 噴火丘ばかりでなく、こういう洞窟は、じつはパホエホエの岩原一面にあるのである。それはここでは熔岩洞(ラヴァ・チューブ)といわれている。パホエホエの流れが少し冷えてくると、まず外側が固化する。しかし内部の熔融した部分はどこか突破口を見つけると、そのほうへ流れだしてしまう。それで厚さ二インチか三インチの熔岩の殻だけが残って、内部は空洞チューブになる。チューブとはいうが、立って悠々と歩けるくらいのものが珍しくなく、もっと大きいものもある。ここでも、たいてい「鍾乳石」や「石筍」が見られる。この場合は、天井がところどころ割れているので、内部はそう暗くない。
 熔岩洞の中をたどっていくと、時々少し広まったところがあり、そういうところには、よく火山灰がたまっている。天井は熔岩のドームであり、下は火山灰の床である。光はほの暗く、休息には絶好の場所である。柔らかい火山灰の上に腰をおろし、足を投げだして、しばらくじっとしていると、あまりのしずけさに、どこか別の世界へ引きこまれそうな気がしてくる。
 眼が馴れてきて、よく見ると、火山灰の中に、細い銀線のように光る筋が、たくさん見える。「ペレの髪」である。ペレス・ヘアといえば、火山学の教科書には、必ず出ているくらい、非常に珍しい標本である。世界中で、マウナ・ロアとほかに一カ所、たしかヴェスヴィアスだけに見られるもので、他の火山にはほとんどない。熔岩がガスの力で激しく噴きだされる時にできる「ガラス繊維」なのである。ガラスを融かして、急激にひくと、細いガラスの繊維ができる。あれとまったく同じことが、天然に起きて、熔岩の糸がとび散ったものが、このペレの髪なのである。それで熔岩がガラスのような性質をもっていて、流動性の大きい場合でないと、このペレの髪はできない。
 ペレというのは、カナカの土人が信じている火山の女神である。地下の王国に住んでいるこの女神は、非常に嫉妬しっと深く、いちど怒ると、山は火を噴きだす。そして真赤な熔岩の流れが、山を埋め、野を埋めて、万物ばんぶつを焼きつくした揚句あげく、海に達するまでは、その怒りが解けない。熔岩流が海に達した時の、もの凄い水柱と天に冲する水蒸気の噴煙とが、この女神の最後の怒りなのである。ほの暗い熔岩の洞窟に、この女神の髪の毛が、静かに隠されているのは、いかにもその所を得ている。

待望の雪


 噴火の週期からいえば、もうそろそろ山頂近くから、新しい熔岩が流れだし、方々で噴火孔が口を開き、熔岩のしぶきを噴きあげてもよい時期である。マウナ・ロアの山裾にあるキラウエアの火山研究所では、所長イートン博士が、地震観測による噴火の予報の研究をしている。滞在中にいちどこの研究所を訪ねたが、イートン博士は、「あの観測所は、位置をうまく選定してあるので、新しい噴火が起きても、あの建物が熔岩流に呑まれることは、たぶんないでしょう」といって、すましていた。そして道路のほうは、熔岩流で断ちきられることはあるだろうがとつけ加えてくれた。
 山頂小屋は、もともと宿泊の目的で建てられたものではないので、防寒のことは、ぜんぜん考えてない。板を一枚張っただけの壁は、隙間風が通り放題である。それに一万三千フィート以上になると、酸素不足のために、寒さが平地の倍くらいもこたえる。酸素のボンベは運んであるが、仕事を始めると、なかなか落着いて酸素を吸っているひまはない。私は簡単に陥落して、とうとう一晩も泊らなかったが、菅谷君は、通計一週間ばかり泊りこんで、小屋の内部を、天井も四方の壁も、全部テックスで張りつめて、やっと住めるようにした。小型発電機の設置もすみ、戸外に顕微鏡写真装置のための蔽いもつくった。顕微鏡写真は、戸外でないと寒さが足りないからである。
 用意は万端ととのって、いつ雪がきてもだいじょうぶということになったのであるが、そのかんじんの雪が、ちっとも降ってくれない。十二月十五日と一月六日とに、ほんのわずかばかり雪が降ったが、写真が二、三枚とれた程度である。あとは毎日雲一つない青空で、これにはどうにも手のうちようがない。数年前に、驟雨しゅうう綜合研究(プロゼクト・シャワー)が、この島でおこなわれたことがある。アメリカの気象学者が主体になり、それにイギリスやドイツの学者も加わっての大計画であった。ヒロの町から、マウナ・ロアの頂上まで、ずっと雨量計を配置し、すっかり準備をととのえて待っていたのであるが、驟雨がちっともやってこない。ヒロといえば、驟雨が名物で、年じゅう降っているところである。それだからこの土地を選んだわけであるが、この時はぜんぜんといっていいほど降らなかった。とうとうあきらめて、一行が引き揚げたら、次の日から、連日降ってきたというのが、この町の語り草になっている。私たちが昔、前橋へ雷の観測に行った時にも、似たようなことがあって、この点はあらかじめ心配しておいた。
 そのために雲の微速度撮影を計画したのであるが、これは日の出前と日没後の仕事が多いので、それだけだと、昼間がまるであいてしまうことになる。それで少し欲ばるようであるが、雪の降らない日の昼間は、凝結核の研究をすることにした。これはうまくあたって、思わぬ拾い物をした結果になった。雪が本格的に降りだしたのは、一月十四日の夕方からであって、それまで四十日間、雪を待っていたわけである。この四十日の間に、凝結核の研究では、だいぶおもしろいことがいくつかわかった。その中には、スモッグの研究の手がかりを得たというような副産物もあった。このほうは、主として同行のいまひとりの勇士、荘田君の仕事である。
 凝結核というのは、前にもいったように、半径が一ミリの百万分の一程度という、恐ろしく小さい粒子である。こういう小さい粒子が、われわれの地球をとりまく大気の中では、あんがいに大きい役目をしている。第一に雲や霧ができるのは、この凝結核があるからである。気象学というのは、一面から見ると、大気中に於ける水分の変態の学問といってもよい。雲や雨がなかったら、天気予報もいらないし、台風の勢力エネルギーも生れてこない。その水分の変態の中で、いちばん重要なのは、雲の生成であるが、それには凝結核がたいせつな役割をしている。それで近年、この凝結核の研究は、どこの国でも、だいぶ盛んになってきている。

スモッグの問題


 雲の問題のほかにも、もっと身近で、緊急を要する問題がある。それは、スモッグと凝結核との関係である。この数年来、東京の街は、冬になると濃いスモッグに蔽われる日が多くなり、保健衛生の面で、重大問題になりつつある。札幌のように、家ごとにストーヴを焚いている街では、冬じゅう人々はスモッグの中で住んでいるといってよい。冬の夕方など、少し小高いところから、札幌の街を見渡すと、低くたれこめた濃い鼠色の霧の下に、街はすっかり隠されている。われわれは泥水の中に棲んでいるふなであることがよくわかり、街の中へ帰る気がしなくなる。このスモッグは、年々ひどくなるので、札幌市のほうでもたまりかねて、この冬は、市長自らヘリコプターに乗って、スモッグの観察をするというような気の入れかたである。そして煤煙ばいえん防止に大わらわである。まことに結構な話で、札幌から煤煙が駆逐くちくされたら、冬の札幌の生活は、よほど快適になることであろう。
 しかしスモッグと煤煙とは、厳密にいえば、別のもので、煤煙をなくしても、スモッグは残る。もちろん以前よりはよほど良くなることは確かであるが、スモッグ自身は、それだけではなくならない。スモッグの原因は、燃焼による凝結核の生成にあるからである。もっともそういうことがわかったのは、ごく最近のことである。従来は煙突から煙を出さないことばかりやかましく言っていたが、煤煙を防止したら、スモッグが、完全になくなるかというと、そうはいかない。スモッグのほんとうの原因は、どうも過酸化窒素にあるらしい。燃焼によって、酸素と窒素とが化合して、酸化窒素ができる。これは太陽光線中の紫外線によって、過酸化窒素にかわる。この過酸化窒素は、そのガスだけだと、茶褐色の気体である。ところでこのガスの分子、または分子の集合が、凝結核となって、スモッグをつくるらしい。従来は、オゾーンが重視されていたが、そのほかにこの過酸化窒素も、有力な犯人のようである。これが最近の研究の結果である。もしそれがほんとうとしたら、ものを燃すこと自身が、大気汚染の原因ということになる。それだと、文明の進歩とスモッグとは、切り離せないことになるであろう。ものを燃すことをやめるわけにはいかないからである。それでアメリカでも、いささかお手あげの形になっている。
 スモッグの問題では、日本はまだ恵まれているほうで、いちばんその被害を痛感しているのは、ロスアンゼルスである。そもそもスモッグという言葉は、ロスアンゼルスから生れたので、いわばスモッグの本家本元であるからしかたがない。ボルダー・ダムの建設から生れた百万キロの電力は、大部分この地へ送られてきて、千八百の大工場が建った。人口は十年間に百万人増し、都市発展の世界記録をつくった。そこまではたいへん結構な話であったが、世の中に万全ということはない。その結果として発生したものは、スモッグである。ひどい日には、通りの向い側の家がよく見えず、眼はちかちかと痛んで、真赤に充血する。ロスアンゼルスの大学の教授で、子供の健康のために、スモッグを逃げて、スタンフォード研究所へ転勤した知人もある。ところがアメリカのスモッグは、年々に猛威をたくましくするので、昨年あたりから、スタンフォードの付近まで、スモッグに悩まされるようになった。クリスマス休みに、ちょっと山を降りて、大陸へ渡り、スタンフォードを訪ねた時に、この知人は、「俺がスモッグをもってきたと皆に責められるので弱るよ」と苦笑していた。シカゴなども、この二、三年のうちに、ひどいスモッグに悩まされるようになっていた。
 物質文明の進歩と大気の汚染とは、光と影のようなもので、影だけ簡単に消すというわけにはいかない。ものを燃すことを止めるわけにはいかないからである。それでスモッグの研究には、「燃焼による凝結核の生成」という問題が基本になる。ところがそういう研究にも、マウナ・ロアのような人里離れたところ、すなわち燃焼のないところが、非常に有利である。というのは、普通の場所では、空気がすでに汚れてしまっているので、燃焼による汚染を、前からある汚染と区別して調べることがむつかしい。凝結核の数は、非常に多いので、一立方センチ、すなわち親指の先くらいの体積の空気中に、普通は数千から数万個もある。田舎の普通に空気がきれいだといわれているところでも、千個程度はあって、五百くらいだったら、例外的にきれいなところである。スモッグの起る大都市だったら、数十万個から、数百万個にも達する。そういうところでは、特定の燃焼によって、少しくらい凝結核が殖えても、その増加が、この燃焼によるものかどうか、はっきりしない場合が多い。
 ところが、マウナ・ロアの一万フィート程度以上の場所では、大気一立方センチ中の凝結核の数は、百個ないし二百個くらい、あるいはそれ以下である。百個ないし二百個が測定にかかる限度で、それ以下だと、メーターに現れない。五百万個くらいまで測れる機械であるから、百個以下は無理である。また普通の土地では、その必要もないのである。
 こういう空気のきれいなところであるから、燃焼によって新しく凝結核ができると、その影響がはっきりとわかる。快晴微風の日に、熔岩の原へ出て、凝結核を測ってみると、百個くらいである。この時風上十二フィートくらいのところで、煙草を一本吸ってもらうと、その影響がすぐ現れて、凝結核はとたんに二万個程度に殖える。火を消して一分間も待つと、またもとの百個にもどる。自動車の排気の影響だと、もっとひどくて、三十フィート先を一台の自動車が通ると、今まで二百個くらいだったのが、一挙に十万個にはねあがる。風が弱い時は、この影響がなかなかとれず、十分間くらいも経たないと、もとの値にはもどらない。普通の道路だと、十分間も待っているうちに、また次の自動車がくる。したがってこういう研究はできないわけである。飛行機の排気の影響は、もちろんもっとひどい。ヒロの飛行場で測った結果では、三百フィートも離れていても、二十万個くらいの増加を示した。要するに、人間の住んでいるところでは、この種の研究はできない。人間がひしめきあっている大都市のスモッグの研究に、人界を離れたマウナ・ロアの山頂が好適だというのは、けっして逆説ではないのである。
 場所さえ巧く選べば、核の測定自身は簡単である。この頃GEから凝結核測定器というものが売りだされているので、それをもって、ジープで、ヒロから山頂までなんべんも往復して、高度分布を測ってみた。この分布は、途中に雲があったり、雨や雪が降っていたりすると、いろいろに変る。こういう研究は、今まであまりなされていないので、ちょっと楽しみである。それに熔岩の原の中で、車をとめて、ゆっくり周囲の景色を眺めたり、写真を撮ったりする役徳もある。
 この道路は、よく車が故障を起し、その都度、ヒロの気象台のトラックが、救援に出かけねばならないので、気象台の許可がないと、登山してはいけないことになっている。徒歩ならかまわないが、頂上まで五十マイル近くあって、上に泊るところがないのであるから、徒歩では無理である。それで外国人はもちろんのこと、アメリカ人でも、登った人はめったにない。したがって、数マイルごとに車をとめて、この特異な土地のふしぎな美しさを、十分に味わうことができるのは、たいへんな特権である。
 熔岩は樹林地帯にまで達しているので、高山地方に特有な美しい灌木かんぼく地帯は、ほとんど熔岩に呑まれてしまっている。ただ高度八千フィートの付近に熔岩流をのがれたところが、一マイルばかりある。ここは代表的な高山性の灌木地帯であって、夢のように美しい地域が、恐ろしい熔岩の原の中に、島のような形になって残されている。

一晩で南極へ往復


 頂上から、ずっと凝結核を測りながら降りてくると、快晴の日には、ほとんどその数が変らない。一立方センチに百個ないし二百個という「最純」の状態が、ずっとつづいている。もっとも下界に近づくにつれて、少しずつ増してくるが、せいぜい三百ないし四百どまりである。灌木地帯にはいると、景色は一変し、急に生命の世界にはいる。この島に多いオヒエの矮樹わいじゅが、冬というのに、真紅の残り花を咲かせ、なかば枯れたように見える地表の草の中にも、黄色い花がまじっている。ここへくると、初めて小鳥の声を聞く。世界はまるで一変し、死の世界から生の世界に暗転する。しかしおもしろいことには、凝結核の数はちっとも変らない。このことは、灌木地帯だけでなく、下の樹林地帯にはいっても同様である。
 ハワイの島は、よく羊歯しだの島と呼ばれるが、ここも道の両側は、羊歯のジャングルである。その背丈も、はじめのうちは、二、三フィートに過ぎないが、高度が低くなるにつれて、だんだんと大きくなり、ついには人間の背の二倍近くにもなる。こういう羊歯のジャングルの上に、オヒエやコアなどの密林が、高く立っているのが、このあたりの樹林地帯の特徴である。晴れた日は、樹間をとおる陽光が、羊歯しだの葉の上に輝き、ところどころに野生の蘭が鮮かな色の花をのぞかせている。生命に満ちた熱帯の密林風景である。しかしここでも凝結核の数はほとんど変らない。要するに人間さえいなければ、空気はきれいなのである。
 人間界の影響が出てくるのは、普通、高度四千フィートくらいからである。それから下になると、急に凝結核の数が増し、平地に近づくにつれて、その増しかたが激しくなる。そしてヒロに通ずる海岸沿いのハイ・ウェイの近くへくると、それが数千、時には一万近い数になるのである。
 こういう高度分布を、七回ばかり測っているうちに、いろいろなことがわかってきた。不連続線が、太平洋のこの水域のかなたに現れてくると、天気は崩れ始める。するとこの付近の気団が上昇し始めるので、凝結核が山頂近くまでずっと殖えてくる。途中に層雲があると、その中では、核の数がだいぶ多い。ところが雨や雪が降りだすと、とたんにこの凝結核の数は、非常に少なくなる。雨が降って大気が洗われると、普通によくいわれるが、まさにそのとおりである。山頂から平地近くまで、ずっと雨が降っていた時に測った一例では、頂上から三千フィートのところまで、百個内外の「最純」状態がつづいていたこともあった。
 凝結核の研究はどんどん進むが、雪は依然として降らない。こういう場合に打つべき手はただ一つ、それは降るまで待つことである。こういういわば「秘境」を、ふたたび訪れる日があるかどうかわからない。できるだけゆっくりすることである。それに、ときどき珍しいお客も見える。その一人は、ワシントンの中央気象台の研究部長、ハリイ・ウェックスラー博士である。十二月三十日に、ひょっくりこのウェックスラー博士が訪ねてきた。じつはこのマウナ・ロア観測所を借りたのは、この先生から借りたわけで、いわばたいせつなお客である。三時間ばかり遊んで、さっさと下山していった。用事は別にないので、「旅行の途中、ちょっとハワイへ寄ったので、様子を見にきた」だけである。どこへ行くのかと聞いたら、「今夜の飛行機でニュー・ジーランドへ飛び、あすの便で南極へ行く」という返事であった。ニュー・ジーランドからロス海までは七時間の飛行距離であるから、なるほどきょうの午後までマウナ・ロアの山頂にいて、あすの晩は、南極で年越しができるわけである。
「大丈夫かい」と聞いたら、「もうたぶん大丈夫だろう。新聞記者を乗せ始めたから」といっていた。一昨年の十二月、初めてこのニュー・ジーランド南極間の飛行に成功し、その冬じゅう、すなわち南極の夏の間、ずっと飛んでいたが、まだ危険な点もあったので、軍人しか乗せなかった。ことし、二度目の冬も、初めはちょっと事故があったが、もうすっかり軌道に乗ったらしく、報道関係者や気象台の連中も乗せることになったそうである。「来年の冬(一九五七年の十二月)からは、誰でも乗れるだろう」という話であった。急ぎの用だったら、一晩泊りで、南極へ往復できることになったわけで、どうも驚いた話である。

ペターソン教授の深海探検


 ウェックスラー博士が帰っていって、十日ばかりしたら、スエーデンのハンス・ペターソン教授が、今度は泊まりがけでやってきた。目的は、宇宙塵うちゅうじんの研究のためである。ペターソン教授は、有名な海洋学者で、現在はスエーデンの国立海洋研究所長をしている。ノーベル賞をくれる委員の一人で、えらい学者である。目下ハワイ大学へ客員教授として六カ月きているが、ハワイへくる前に日本へ立ち寄り、一カ月ちかく滞在していた。その間に、天皇陛下にも御目にかかり、皇太子さまにも会ってきたそうである。そして天皇陛下は、じつにりっぱな人柄の方だといって、ひどくめていた。
 ペターソン教授といえば、深海の底土の研究で世界的に有名である。先年のアルバトロス号の深海探検では、太平洋や大西洋の深部から、ボーリングで土を採って、いろいろな研究をしている。従来からも深海の底土をボーリングで採ることはやっていたが、たいてい数フィートから十フィート以内の深さまでしか採れなかった。しかしアルバトロス号の場合は、二十メートルすなわち約七十フィート近い深さまでの泥土を採ることができた。太平洋の最深部、二万フィート近い深海の底から、そういう土の標本を採取できるというのは、まことに驚くべきことである。
 太平洋のような大洋の水は、非常に澄んでいて、泥の粒子などは、ほとんどない。陸地から出る泥土は大陸棚とその周辺に沈澱してしまうので、大洋の真中には届かない。それでも大洋の深海の底には、ごくわずかずつ泥が沈澱するので、その沈積速度は、千年に一ミリくらいの割合と考えられている。この計算は、海底の泥の放射能が、表面から内部にはいるに従って変化するその度合から計算される。海水の中にある微量のイオニウムが、海底の泥土の表面に沈積し、長い年月かかって、漸次ラジウムに変換する。それで年代によって放射能の強さがちがうので、逆に放射能の測定から、年代がきめられる。海底の表面に近い層では、深さによる放射能の変化に規則性があるので、この方法が適用され、それから出した値が、千年に一ミリ沈澱するという結果である。大昔からこの割合だったと仮定すると、二十メートルのボーリングで採った泥土の底の部分は、二千万年前に沈澱した土ということになる。しかしそういう仮定には何の根拠もないので、この計算には意味がない。イオニウムの半減期からみて、理想的の場合でも、四十万年以上にはさかのぼれない。二千万年でも四十万年でも、いずれにしても、御苦労様なことと思われるかもしれないが、二万フィートの深海の底、永遠の暗黒の世界の中で、千年間かかって、厚さ一ミリの泥がつもっていく。そういう姿をえがくことも、科学の一つの面である。
 ところで、この深海の泥土の中に、まことにふしぎなものがはいっている。それは小さい真黒な鉄の球である。大きさはいろいろあって、直径百分の一ミリから十分の三ミリくらいまである。いずれにしても、非常に小さい球であって、そのうち百分の五ミリ程度のものが、いちばん多い。これは表面が滑らかで、完全な球形をしている。そして磁性をもっている。
 こういう鉄の球が、深海の泥土の中にあることは、ダーウィンの世界周航の際に、すでに知られたことで、ふるい話なのである。このふしぎな鉄の球の起源については、いろいろな解釈もあるが、けっきょく流星が燃える時に、その本体たる隕石いんせきの鉄が、熔けてとび散ったものだということにおちついた。鉄工場などで、廻転砥石といしで刃物をとぐ時、赤い火花が散ることは、誰でも見ている。あれは刃物の鉄の一部が、砥石で削りとられる時に熱せられ、空中を飛んでいくうちに、酸化によってさらに高温になったもので、本体は熔融した鉄のしたたりなのである。あの火花を柔らかい紙に受けて、顕微鏡でしらべると、非常に小さいまん丸い鉄の球になっている。深海の底から得られる鉄の球は、形も表面もこれとそっくりである。

太平洋の底の宇宙塵


 流星というものは、考えてみれば、非常にふしぎなもので、文字どおりに天から石が降ってくるのである。われわれは、ふだん夜空を見ている時間が短いので、そう頻繁に流星を見ることはない。しかし流星は、非常にたくさん、地球上にいつでも降りそそいでいるのである。ふつうは夜しか見られないが、昼の間ももちろん降っている。流星の観測に、いちばん好都合なのは、夜が半年つづく極地である。南極のリツル・アメリカでの冬営中「夜」と「昼」とを通じて、流星の観測をした記録がある。その数値をもとにして、全地球表面に降ってくる流星の数を計算してみると、一日に約二千万個と推定される。
 しかしこれは目に見える流星、すなわち比較的大きいものだけについて、数えた値である。この頃は、レーダーによる流星の観測も進み、ほんとうはもっと数が多いのだろうということになっている。この方面の専門家ワトソンの計算によると、重さ一ミリグラム以上の流星は、一日に一億七千万個、〇・〇二五ミリグラムのものまでいれると、一日に八十億個くらいは地球の大気中にはいっているという。一日に地球に降りこむ流星の全量は、一トン程度と推定されている。たいへんな量である。
 この流星の大部分は、上空で燃えて、非常に小さい微塵みじん、すなわち宇宙塵になって、大気の中に分散してしまう。流星球、すなわち鉄の小球となって地表まで達するものは、ごくわずかである。陸地の上でこれを探すことは、今のところちょっと見こみがうすい。またたとえ見つかっても、砥石の火花と区別することは困難である。その点、大洋の深海の泥は、非常に便利である。鉄の火花から出るものは、現在の海洋学の常識では、大洋の真中まではこない。それに深海の底から、深さ十センチまでの泥を採れば、その中には、過去十万年間に降った流星球が、たまっているはずである。
 ペターソン教授は、深海の底土のいろいろな層について調べたら、その中にある流星球の数がちがうかもしれない。また、それから大洋ができた年代を知るのに、なんらかの手がかりが得られるかもしれない、と思いついた。それで、大西洋と太平洋との深海から、底土を採取して、流星球の数を調べてみた。これは前からわかっていたことであるが、太平洋の底の赤粘土ねんどのほうが、ほかの海のものよりも流星球を遥かに多く含んでいる。それでこの赤粘土について詳細に研究をした。底土の深さ五メートルまでについて、たくさんの層に分けて、各層の中にある流星球の数を調べたのである。それはあんがいに多いのであって、土一キロについて、はじめの一メートルまでの深さのところでは、千個ないし二千個という数が得られた。深さ一メートル以上になると、数百個ないし千個くらいに落ちる。これだけでは、今のところなんともいえないが、天文学の方面での流星の研究がさらに発達し、陸地の上での宇宙塵や流星球の研究がもっと進めば、地球の歴史を一千万年くらい前まで遡れそうだというのが、ペターソン先生の意見である。深海の底土、五メートルの深さのところまで、流星球の存在がたしかめられたので、とにかく手がかりは、これで得られたわけである。なかなか巧くは行かないかもしれないが、それにしても、太平洋の海の底で流星をつかまえる話は、ちょっとたのしい話である。
 ペターソン先生は、この問題にひどく熱心で、陸地上に於ける宇宙塵の研究に、自分で乗り出した。もう始めてからだいぶたつらしいが、この研究でいちばん困るのは、地球上にできた塵との区別が困難な点にある。じつはハワイ大学で、今度新しく地球物理学の研究所をつくる案がある。その予算を検討するために、私たちの滞在中、ワシントンのボスたちが大勢で、実地視察にヒロへやってきた。ペターソン先生も、その一行に加わっていた。その時、この山の空気の話をしたら、非常に喜んで、六十八歳の老先生が、集塵器を抱えて、自分ひとりで、山へ登ってきたのである。もちろん気象台のトラックに乗ってではあるが。その時は一泊して帰り、一月の末ちかく、私たちが下山する前日にも、また泊りがけでやってきた。若い頃イギリスへ長らく留学した由で、ウィリアム・ラムゼイ卿の御弟子である。ケルヴィン、ラサフォード、アーレニウス、オングストロームなどという科学史上の人びとから、薫陶を受けた由で、話は非常におもしろかった。最初の時、ヒロの宿屋に鳥打帽を忘れていかれたのを、荘田君が喜んでかぶっていた。この帽子をかぶっていると、ノーベル賞が貰えるとでも思ったのであろう。二度目の時、その由をことわって返したら、にこにこしてかぶって帰られた。二人の勇士の働きぶりが、たいへん気にいって、遠征(エキスペディション)にはこういう人たちでなくちゃ駄目なんだ、といっておられた。

針の天国


 もうそろそろ雪が降ってもよいころである。四十日近く待った甲斐があって、一月十三日になって、やっと降雪の予報があった。あすから降り出して、一週間近くつづくだろうという。それとばかりに菅谷君は、食糧と水とをもって、山頂小屋へ勇んで登っていった。
 待望の雪は、次の日十四日の夕方から、降り出した。天気予報がこう巧くあたるとは思わなかったので、ちょっと驚いた。降雪直前の凝結核分布を調べておくために、いったんヒロまでくだり、ヒロから山頂まで、ずっと観測しながら登ってきた。核の数は、だいぶ多くなっていて、下層雲の上へ出ても、五百個くらいはあり、頂上でも二百個はあった。地表に近い空気が、どんどん昇ってきている。夕方山頂小屋へ着いたら、ちょうどその頃から、ちらちらと雪が降りだした。おもしろいことには、雪が降りだすと、核の数はきゅうに減り、百個程度の「最純」状態になった。この現象は、その後も数回観測されたが、雪が降っている間は、大気はいつでも「最純」あるいはそれに近い状態であった。雨の場合も、たいていそうである。
 雪が降りだすと、菅谷君は、たいへんである。気温は零下二、三度のことが多く、寒さが足りないので、ガラス板を冷やしておいて、その上に結晶を受け、十秒以内くらいに写真を撮ってしまわなければならない。雪の結晶の顕微鏡写真は、気温が零下十度くらいの時なら、何もむつかしいことはない。しかし零度近い時は、照明の光だけで、みるみるうちに結晶が解けてしまう。よい結晶が見つかったら、あっという間に、写真を撮ってしまわなければならない。ちょっとでもぐずぐずしていたら、だめである。それに厄介なことには、雪が盛んに降るのは、たいてい夜である。それで徹夜仕事になることが多い。
 今度の場合も、降りだしたのが、十四日の夕方であって、菅谷君は早速その晩から徹夜である。初めのうちは、気温がまだ零度に近く、ガラス板に受けると、とたんに解けてしまうので、手のつけようがない。せっかく雪が降り出したのにと、内心少しやきもきしたが、夜になって気温がさがってくると、いろいろな雪が降りだした。予期していた針状の結晶が、盛んに降ってくる。おもしろいことには、従来単針と称していた、一本切りの針がたくさん降ってくる。針状結晶は、北海道などでも、注意していると、かなりしばしば見られるのであるが、ほとんどぜんぶ、数本の針が束になったような構造をしている。単針の写真は、今までの三千枚の写真の中に、二枚くらいしかなかった。その単針が、一面に降ってきて、一枚のガラス板に、数十本入り乱れて載っている。そのほかに、奇妙な針がいろいろ降ってくる。一つは小さい六角柱の結晶が、針の側面にたくさんくっついたもので、これも従来の蒐集の中では、珍しい種類である。これは札幌へ帰ってきてからの話であるが、低温研究所の小林君が瀰散霧函びさんきりばこの中で、人工雪の実験をしているうちに、この型の結晶を見つけた。瀰散霧函内の空気も、「最純」状態になっている。いま一つの奇妙な針というのは、柳の葉のような形をしているもので、これはまったくの新種である。そのほかに、日本などで普通に見られる雲粒付きの針もたくさん降ってくる。マウナ・ロアの山頂は針の天国である。
 北海道で、三千枚の写真を撮って、雪の結晶の一般分類をしたのは、もう遠い昔の話である。この一般分類は、天然に見られるぜんぶの結晶を、十七種に分けたものであるが、その一つに、これだけの変種(ヴェリエーション)が出てくるのでは、まったくやりきれない。雪の場合も、他のすべての自然現象と同じく、調べれば調べるほどわからなくなってくるようである。
 ところで、ここで見られる結晶が、ぜんぶ針状結晶だったら、話はまことに簡単明瞭であるが、そうはいかない。十四日の夕方から、十八日の晩までかかって、百八十枚ばかりの写真が撮れた。その現像焼付が完了して、さてその資料の分析と整理とにとりかかってみると、まるでわからないことだらけである。針状結晶の多いことはよいとして、そのほかに、六花りっか、角板、砲弾型、角柱、側面結晶など、ほとんどあらゆる型の結晶がまじっている。高度が高いので、結晶の初期状態のものももちろんたくさん降ってくる。この初期状態には、微小角柱や、微小角錐のような簡単なもののほかに、不規則で複雑な形をしたものが多く、分類は非常に困難である。
 けっきょくわかったことは、マウナ・ロアの山頂でも、あらゆる型の雪の結晶が降るということであった。ただその特徴としては、針状結晶が多いということのほかに、いま一つ目だつことがあった。それは降雪中の結晶形の変化が非常に速く、かつはっきりしているという点である。針状結晶がたくさん降っているかと思うと、急にそれが六花と初期状態との混合に変り、それが十分間もつづくと、こんどは単針ばかりが、音を立てて盛んに降ってくる。こういう著しい変化は、従来あまり観測されていなかったが、ここではそれが普通のことである。
 気温や水蒸気の量が、五分間や十分間のうちで、そうひどく変るとは考えられない。凝結核のほうは、気流が入り乱れていると、あるいはそういう急激な変化をするかもしれないが、それにしても、どうもぴったりとこない。なにか気団あるいは気塊の性質によって、結晶形がかわるというようなことがあるかもしれない。もしそうだとすると、凝結核のほかに、いま一つなにか未知の要素がかくされていることになる。たとえば、ほとんど測定にかからないくらいの微量不純物によって、結晶形が支配されるというようなことが無いといわれない。
 けっきょく自然というものは、調べれば調べるほど、わかることよりも、わからないことのほうが多く出てくるので、きりのないものである。しかし自然現象の研究は、こういう形になるのが本当だと、私には思われるので、はるばるマウナ・ロアの山頂まできただけの甲斐はあったと、上機嫌であった。

果報は寝て待て


 ところで、この遠征には、初めから一つ盲点があった。あとから考えれば、気がつかなかったのがおかしいくらいのことである。それは雪は降らなければ困るが、降り過ぎても困るという点であった。四十日間、雪が降るのを待っていたうちは、毎日雪ばかりを待っていて、降り過ぎれば、観測所と山頂小屋との交通がとまることに、気がつかなかった。雪がなくても、やっと登れるような悪路に、雪がうんと積ったら、スリップしてとうてい登れないはずである。
 はたして、降雪開始後四日目の夕方、一フィート半くらい雪が積ったら、もうジープがところどころでスリップを始めた。その都度、雪をのけたり、石ころを入れたりして、やっと切りぬける始末であった。これ以上雪が降ったら、山頂小屋の機械類は、三月末まで動かせなくなってしまう。それで慌てて、十八日の夕方、観測を中止して、大急ぎで山頂小屋の設備の撤収にかかり、真暗な中を、やっとの思いで、観測所へたどり着いた。その晩から二日間、観測所の地点では、大雨つづき、山頂では大雪になった。三フィートくらいは積ったことであろう。もうひと晩欲ばっていたら、降りられなくなったところである。
 考えてみると、妙な巡りあわせであった。四十日間雪を待っていた間は、在留邦人の人たちはもちろんのこと、新聞社の連中も、ひどく気をもんでくれて、ヒロの町へおりると、会う人ごとに、お悔みをいわれた。私たちも、内心少しやきもきして、毎日の天気予報を聞いていた。ところが後になって考えてみると、もし最初から大雪が降ったら、たいへんだったわけである。そのとたんに、山頂との交通が絶えてしまって、ぜんぜん仕事ができなかったかもしれない。塞翁さいおうが馬とは、よくいったもので、なにが仕合せだったか、なかなかわからないものである。
 四十日間も雪が降らなかったお蔭で、二千二百フィートの高層雲の微速度撮影もでき、凝結核の論文も一つできた。そしてさいごに雪が十分に降って、二百枚の写真がとれ、交通杜絶とぜつの一歩手前で、逃げ帰ることができた。雪が降らないことは、よい口実になって、お蔭で、この人界を遠く離れた世界の妖しい美しさを、十分に味わうこともできた。夜は、ベッドの中で、空飛ぶ円盤の公式報告書を集めたものを、読んで暮した。果報は寝て待てというが、まさにそのとおりである。
 十八日で観測は切りあげ、翌日は荷造り、二十日に下山、あとは方々への御礼廻りだの、税関だの、帰国手続だのをすませて、二十四日の晩には、ホノルルを立った。次の日はもう羽田であるから、世界もずいぶん狭くなったものである。
 ところが羽田へ着いたら、たいへんなニュースが待っていた。花島博士たちの人工雪の研究が、この二カ月の間に大進歩をして、ある種の不純物の蒸気が、極微量でも空気中にあると、それが、雪の結晶の形を著しく支配するということが、実験的に確かめられたのである。ほとんど測定にはかからないくらいの微量でも、結晶の形にはひどくきく。ただその量があまりにも少ないために、従来は見逃されていたのである。もっとも、ブチル・アルコールの蒸気が、雪の結晶形を支配することはわかっていたが、ついうっかりしていたわけである。マウナ・ロア山頂の夢が、現実になって、待ちうけていたのには、少し驚いた。こうつぎつぎとおもしろいことが出てきては、とても齢などとってはいられない。
 珍しいところを見たり、おもしろいことにぶつかったり、研究商売も、なかなか悪くないものである。この原稿が印刷になるころには、ひょっとすると、グリーンランドの氷冠(アイス・キャップ)七千フィートの上へ行っているかもしれない。厚さ七千フィートの氷の上では、またいろいろ珍しいことが見つかるであろう。つぎには、「白い月の世界」を書くことになるかもしれない。考えてみれば結構な話である。





底本:「中谷宇吉郎紀行集 アラスカの氷河」岩波文庫、岩波書店
   2002(平成14)年12月13日第1刷発行
   2011(平成23)年12月16日第3刷発行
底本の親本:「中谷宇吉郎集 第八巻」岩波書店
   2001(平成13)年5月7日
初出:「文藝春秋」
   1957(昭和32)年8月
※図は、「「黒い月の世界」東京創元社、1958(昭和33)年7月5日発行」からとりました。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2015年5月4日作成
2015年7月28日修正
青空文庫作成ファイル:
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