若き日の思い出

中谷宇吉郎




 私の中学時代は、大正の初めごろであって、明治時代の先生方とくらべたら、だいぶ文明開化になっていた。しかし郷里が北陸の片田舎であり、中学があった小松の町も当時はまだ小さい町であった。それで中学時代のことをいまから思い出してみると、ずいぶん旧式な教育をうけたものだという気がする。
 中学の五年間は、完全に寄宿舎生活をした。その寄宿舎生活で、いま頭に一番残っていることは食事がまずかったことである。一月の寄宿料が六円であったのだから、無理もない話である。もっとも昔の話の例として、よく米が一升何銭だったというような話がでるが、それほどの昔ではない。第一次大戦がちょうど私の中学時代にあったので、もう相当物価も上がっていた時代である。
 それに寄宿生も多ければ、まだ何とか融通もつくのであるが、全部で四十人ぐらいしかいなかった。それでも賄夫まかないふをふたりやとってその月給も、寄宿料の中から払っていたのであるから、食事が粗末になるのも当然であった。
 飯は四分六の麦飯であって、それがたんつぼのような白い陶器の器に盛り切りである。朝はみそ汁だけ、それも塩を半分入れた薄い汁である。昼も晩も、一菜だけであって、煮魚か野菜の煮込みにほとんどきまっていた。どちらか一方なのである。
 いまの栄養学の知識からいったら、ずいぶんひどいものを食べていたわけである。したがって栄養の方もよくはなかった。中学五年間ずっと体格は丙で通してきた。しかし不思議なことにはこういう食事をとりながら、運動も盛んにやり、野球の選手までつとめてきたのであるから、人間というものは案外に芯が強いものだと、われながら感心する。もっとも多分そのせいだろうと思うが、中学を出てからも、ずっとからだは弱くて、大学卒業後までも、いつも微熱がでたり、かぜがいつまでもあとをひいたりして、ひどく弱ったことが多い。
 寄宿生活で一番の楽しい時は、月に一度「洋食」がでることであった。金曜日の夕方、暗い食堂の黒板に「来週水曜日、洋食」という発表がある。さあ皆が大さわぎである。水曜が待ち遠しくてかなわない。この洋食はいつも昼食の時にでるのであるが、その時に飯も白い飯である。この月に一度の御馳走である洋食というのは、オムレツかライスカレーなのである。たいていかわりがわりにでるので、先月はカレーだったら、今月はオムレツだという工合に皆がはり切って待つわけである。当時のことを考えてみると、このごろの大都市の生活は、食生活と限らず、全般的にひどく向上したものだと、つくづく感ずることがある。

 寄宿舎だけでなく、学校の校風全体が、ひどくスパルタ的であった。腹がへるので、外出の時にそばやうどんくらいは食べたいのであるが、生徒がそういう飲食店にはいったところが見つかると、停学をくうことになっていた。停学が二度重なると退学である。うどんもそばも一杯二銭であったが、これが最大の珍味なのである。しかし停学はこわいので、よほどの時でないと冒険はできなかった。年に一回寄宿舎の記念日があって、その時は、構内に模擬店が出て、うどんを売ってくれる。この時だけ天下晴れてうどんが食えるので、たいていは十杯ぐらい食う。二十五杯という例も、そう珍しくなかった。もっとも当時の五十銭は大金だったので、経済的の理由から、そういう男はそうたくさんはいなかった。
 うどん屋へはいると停学になる学校だったから、制服なども毛織物などは全然禁止、全部小倉の詰襟ときまっていた。それに年中、麻のゲートルをつける規則になっていた。中村先生という名物の頑固な生徒監がいて、毎朝校門に立って一人一人生徒の服装検査をする。ちょっとでもハイカラなふうに見えるとひどくしかられる。制帽の型からほんの少し変った帽子だとすぐ取り上げて目の前でぴりぴりといてしまう。西南戦争で名誉の負傷をした老少尉で、乃木さんによく似ていた。眼光けいけいたるところ、老将軍の面影あり、生徒たちはひどく恐れていた。煙草をのめばもちろん停学であるが、ちょっと滑稽だったのは、そのころキャラメルが初めて売り出され、その広告に「煙草の代用になる」という文句があったので、中村先生すっかりこれを煙草と思い込み「このごろ煙草の菓子をくう生徒があるそうだが、そんなものを食ったら停学だぞ」と、全生徒を集めて厳重な訓戒をされたことがある。
 生徒は家へ帰っても、外出する時は、必ず袴をはく規則になっていた。着流しで町を歩いているところを見つかると、ひどいお目玉をくう。寄宿生はとくに厳重に監視され、袴のひももちゃんと正式に十字型に結ばねばならなかった。袴のたたみ方はお蔭でよくおぼえた。このごろは女の子でも袴のたたみ方を知らないのが、そう珍しくないが、ずいぶん急激に世の中がかわったものである。

 寄宿舎では、ひどく勉強させられた。夏は朝五時半起床、六時点呼。全寮生が廊下に並んで舎監の点呼をうける。六時から七時まで、一時間自修。七時朝食。七時四十分出校ということになっていた。この自修時間というものが難物で、夜も夕食後二時間自修させられる。自修時間中はきちんと机に向かって勉強をする。話は一切してはならない。舎監の先生がときどき見廻りにきて窓越しにじろじろ見回って行く。スリッパの音が暗い廊下の遠くの方から、だんだん近づいてくるのが何だか鬼気が迫ってくる感じであった。
 試験の時ならば格別、普段の日に、毎日毎日三時間ずつ自修をしろといわれても、教わることは中学の課程であるから、そんなに自修をする材料はない。そうかといって、自習時間中に小説や雑誌を読んだりしたら、それこそたいへんである。五年生の室長さんが目を光らせているので、とてもできない相談である。眠くはなるが、居ねむりも厳禁である。あの自習時間のつらさだけは、いまでもありありとおぼえている。
 こういうふうに無理に勉強をさせられるので成績はだんだん良くならざるを得なかった。しかし同じクラスにMという男がいて、これが非常な秀才でこの男だけはどうしても抜けなかった。Mは大学で電気学をおさめ、今では電力界の中立物ちゅうだてものぐらいにはなっている。かなり羽振りもよいが、中学時代からひどい秀才であったのだから当然である。たしか五年の二学期だったかと思うが、私が平均点を九十六点とって、今度こそMを抜いたと思ったら、先方は平均点を、九十八点とっていた。どうも驚いた男であった。
 試験で点数をとる経験は、中学時代で充分に満喫したので、高等学校へはいってからは成績を悪くする方に努力した。百人中九十番ぐらいのところにいて、前年度から落第してきた連中と前の方にすわって仲よくしていた。あの時代は教室内で成績順に並ばせたものであった。この経験も私には得がたい貴いものであったが、それができたのは、中学時代に良い成績をとった経験があったからである。経験はいろいろなことをやってみて、決して損のないものである。点取虫なども、一度はやってみてよいことである。ただし長くはやるべきものではない。

 同じクラスに、今ひとり友人がいた。現在、劇の方をやっている北村喜八君である。喜八君も秀才の仲間であったが、非常な早熟で、三年ごろから文芸に凝り出し、学校の成績などは、全然問題にしなくなった。むやみと小説ばかり読んでいて、試験勉強などは、ちっともしなかった。それでも頭が良いので、四番か五番以下に落ちることはなかった。そのうちに自分でも小説を書き出して、啄木ばりの歌もたくさん作っていた。たしか中学五年の時だったと思うが、その歌を集めて出版した。猛烈な恋愛至上主義の歌集であったが、ああいうものが、ある質実剛健一点ばりの中学から出現したのだから、まことに不思議である。前にいった中村老将軍など、どういう顔をしたか知らないが、歌集を出版したものは停学という規則はなかったとみえて、喜八君は、無事めでたく卒業することができた。いずれにしても、今の中学生からみたら、ずいぶん早熟なものであった。
 この出版が口火になったのだろうと思われるが、その後中学では、文芸熱が大いに流行した。亡くなった私の弟なども、すっかりかぶれてしまって、四、五人で同人雑誌を作るというところまで進展して行った。弟は私や喜八君とは二級下であったが、四年生ごろには、本式に印刷をした立派な同人雑誌を出していた。金は多分母親からせびり取ったものだろうと思う。この同人雑誌の中に、弟は「独創者のよろこび」という王朝ものの短篇を書いた。それを菊池寛のところへ送ったら、丁寧な返事がきたといって、弟は大いに得意になっていた。何でも芥川龍之介に見せたら、非常に感心して、こういう才能のある青年を、いなかにうずもらしておくのは惜しいといっていたというのである。もっともこれが災をなして、弟は中学を卒業すると同時に、上の学校へは行かず、東京へ出て、菊池寛のところの書生になった。たしか横光利一などと仲間になって、ごろごろしていたらしい。その後弟は早く狐が落ちて、鳥居龍蔵先生の助手になり、考古学を専攻することになったので、家族のものは、材料にされる難をまぬかれたわけである。
 弟のことは、菊池寛からは何も直接にきいていないので、芥川がひどく褒めたというのも、どの程度だったかわからなかった。しかしずっと後になって、十年以上も経ってから、芥川が「ある一人の無名作家」という随筆を書いている。これは弟のことを書いたものであって、もう一人前の考古学者になっているとは夢にも知らず「ああいう才能のある男を北陸の片いなかに埋もらせてしまったのは惜しい」という意味のことを書いた随筆であった。十年も経ってまだ芥川の頭の隅に残っていたのであるから、相当なものであったのであろう。この随筆は、芥川の全集にのっている。
 北陸の片いなかの中学生が、同人雑誌を経営して、堂々と東京の菊池寛あたりのとこへ送り出していたのであるからずいぶん早熟でもあり、また度胸もよかったものと感心する。一月一回ライスカレーなる洋食を食べて驚喜していた田舎の中学生にしては、ひどくませたことをしたものである。
 私は中学時代から理科志望だったもので、喜八君や弟たちのような作家仲間の運動には、加わらなかった。理科関係の話で一番印象に残っているのは、五年の時に、水沢の緯度観測所長の木村栄博士が学校に見え、Z項の話をされたことである。木村先生を子供のころからあずかって教育をしたという老漢学者が、漢文の先生をしておられ、その先生のきもいりで、木村博士がわざわざこの田舎の中学校まで来られたのである。Z項の発見でわが国はじめての恩賜賞をもらわれた直後のことである。
 乱暴な話であるが、生徒がわかってもわからなくてもかまわないから、Z項の話をしてくれと頼まれたのだそうである。いかにも老漢学者らしい話である。それで木村博士も仕方なく、そういう前おきをして、あの難解な緯度変化の話をされた。ところがその講演の原稿を学校の雑誌に出すからというので、私がその筆記を命ぜられた。まるでむちゃくちゃの話である。この筆記の整理にはずいぶんひどい目にあったが、どうにか胡麻化した。スパルタ式は、食い物だけでないのだから、全くおそれ入った。
 しかしうどんを食べると停学になるようなひどいスパルタ式教育を受けても、生徒はけっこう、自分の才能を生かしていくものである。あの時代の教育は、いまから考えてみれば、ずいぶんひどい詰込み教育であり、教育法などはそれこそめちゃくちゃなものであった。しかし私は往時をかえりみて、悪い教育をうけたとは思っていない。何よりも感謝していることは、教育法はまちがっていたかもしれないが、当時の先生たちは、みな誠心をもって教育にあたられたという点である。
(昭和三十年一月)





底本:「中谷宇吉郎集 第七巻」岩波書店
   2001(平成13)年4月5日第1刷発行
底本の親本:「中谷宇吉郎随筆選集 第三巻」朝日新聞社
   1966(昭和41)年10月20日
初出:「若き日の思い出」旺文社
   1956(昭和31)年1月30日
入力:kompass
校正:砂場清隆
2016年6月10日作成
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